(Translated by https://www.hiragana.jp/)
安宅船 - Wikipedia コンテンツにスキップ

安宅あたかせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
肥前ひぜん名護なご屋城やしろ屏風びょうぶ』にえがかれている安宅あたかせん佐賀さが県立けんりつ博物館はくぶつかんくら

安宅あたかせん(あたけぶね)は、室町むろまち時代ときよ後期こうきから江戸えど時代じだい初期しょきにかけて日本にっぽんもちいられた軍船ぐんせん種別しゅべつである。

巨体きょたい重厚じゅうこう武装ぶそうほどこしており、戦闘せんとうにはすうじゅうにんしゅによって推進すいしんされることから小回こまわりがきき、またその巨体きょたいにはすうじゅうにんからひゃくすうじゅうにん戦闘せんとういんむことができた。室町むろまち時代じだい後期こうき以降いこう日本にっぽん水軍すいぐん艦船かんせんには、安宅あたかせんのほか、中型ちゅうがた快速かいそくせきせんせきせんをさらに軽快けいかいにしたしょうはやがあり、安宅あたかせん基本きほんてき水軍すいぐん旗艦きかんとして運用うんようされ、戦力せんりょくとしての主力しゅりょくせきせんであった。

近代きんだいかんしゅでいえば、安宅あたかせん戦艦せんかん相当そうとうし、せきせん巡洋艦じゅんようかんしょうはや駆逐くちくかんたとえられるともされるが、安宅あたかせんせきせんしょうはや用途ようととしての分担ぶんたんは、戦艦せんかん巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかんのそれとはことなるため、あくまで船体せんたいおおきさによる連想れんそうであり、比喩ひゆとしては適切てきせつではない。

名称めいしょう

[編集へんしゅう]

史料しりょうじょう安宅あたかせんあらわれるのは16世紀せいき中期ちゅうきである[1]河野こうの配下はいか、すなわち当時とうじ水軍すいぐん先進せんしん地域ちいきである瀬戸内海せとないかい西部せいぶにおいて初出しょしゅつ確認かくにんできる[よう出典しゅってん]当初とうしょは「阿武あぶ」ないし仮名書かながきで、16世紀せいきまつに「安宅あたか」となった[1]

安宅あたかせん」とばれるようになった由来ゆらいさだかではない。江戸えど時代じだいせつには「てき大筒おおづつもいとわず、やす住居じゅうきょなる」だとするものや、『孟子もうし』の「仁者じんしゃひと安宅あたか也」とか「あばまわる」という意味いみの「あたける」という言葉ことば由来ゆらいだとするものがある[1]明治めいじ以降いこうのものには紀州きしゅう安宅あたか(ただし、このみは「アタギ」)せつや、志摩しまおもねたけせつがある[2]

構造こうぞう

[編集へんしゅう]

安宅あたかせんは、あかりせんでも使つかわれた二形ふたなりせん(ふたなりぶね)や伊勢いせせん(いせぶね)などの大型おおがた和船わせん軍用ぐんよう艤装ぎそうしたもので、ちいさいものでは500石積いしつみから、おおきいもので1000石積いしつみ以上いじょう規模きぼほこった。

いずれも船首せんしゅ上面うわつらかくばった形状けいじょうをしており、矢倉やぐらばれる甲板かんぱんじょう上部じょうぶ構造こうぞうぶつ方形ほうけいはこづくりとなっているのが特徴とくちょうである。上部じょうぶ構造こうぞうぶつ船体せんたい全長ぜんちょうちかくにおよぶため、そう矢倉やぐらばれる。この形状けいじょうによって確保かくほしたひろ艦上かんじょうに、木製もくせいだてばん舷側げんそくかんくびかん前後ぜんご左右さゆう方形ほうけいって矢玉やだまから乗員じょういん保護ほごした。もともと速度そくどない大型おおがたせんであるためふねそく犠牲ぎせいにされ、だてばんあつられて重厚じゅうこう防備ぼうびとした。だてばんには狭間はざま(はざま)とばれる銃眼じゅうがんもうけられ、隙間すきまからゆみ鉄砲てっぽうによっててきせん攻撃こうげきした。移乗いじょう攻撃こうげきおこなうため、てきせんとのせっふなばたにはだてばんはずれてまえたおれ、橋渡はしわたしとできるようになっていた。だてばんかこわれたそう矢倉やぐらのさらに上部じょうぶには屋形やかたかさなり、外見がいけんじょうでも城郭じょうかく施設しせつている。とくおおきな安宅あたかせんにはそうからよんそう楼閣ろうかくがあげられていた。その構造こうぞう重厚じゅうこうさから、安宅あたかせんはしばしば海上かいじょうしろにたとえられる。

当時とうじ和船わせん共通きょうつうする船体せんたい構造こうぞうとして、板材いたざいくぎかすがいによってつないで建造けんぞうされており、西洋せいよう中国ちゅうごくふねのように骨格こっかくとしての竜骨りゅうこつはない。軽量けいりょう構造こうぞうせんであるが、どう構造こうぞうしょふねしゅ同様どうよう衝突しょうとつ座礁ざしょうとう衝撃しょうげき水密すいみつ低下ていか漏水ろうすいよわいという弱点じゃくてんもある。これは軍用ぐんようせんとしては、体当たいあたり攻撃こうげき不可能ふかのうであること意味いみし、おおきな欠点けってんとなった。また西洋せいようこうようせんちがい、国内こくないでの沿岸えんがん戦闘せんとう目的もくてきとするため、外洋がいよう能力のうりょく限定げんていてきだった。

推進すいしんにはもちいたが、戦闘せんとうにはマストたおして、だけで航行こうこうした。艪のかずすくないもので50ていほどからおおいもので150てい以上いじょうおよび、50にんから200にんくらいのしゅった。大安たいあんたくでは2人ふたりぎのだい艪をもちいる場合ばあいもあった。戦闘せんとういんしゅべつみ、やはりすうじゅうにんからすうひゃくにんにのぼる。

後期こうきはいると大型おおがたじゅう武装ぶそうがいっそうすすみ、とく火器かき使つかった戦闘せんとう対応たいおうしてだてばんうす鉄板てっぱんられることもあったとされる。武装ぶそう陸上りくじょうはこびにてきさないだい鉄砲てっぽう大砲たいほう配備はいびされ、強力きょうりょく火力かりょくかん圧倒あっとうした。

しんまついんには、安土あづち桃山ももやま時代じだい制作せいさくされた1/25のおおきさの安宅あたかせんせきせん木製もくせいひながた模型もけい)が奉納ほうのうされている[3]。これらは現在げんざい東京とうきょう文化財ぶんかざい指定していされている。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

室町むろまち時代じだい以前いぜん

[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは、古代こだいには諸手もろてせん(もろたぶね)とばれる小型こがたせん軍事ぐんじよう使つかわれていたことが記録きろくにあり、のちの安宅あたかせんなどの軍船ぐんせん起源きげんかんがえられる。中世ちゅうせい前半ぜんはんには海上かいじょう活動かつどうする軍事ぐんじ勢力せいりょく活躍かつやくするようになるが、水軍すいぐん専用せんよう建造けんぞうされた軍船ぐんせんはなく、漁船ぎょせん商船しょうせん陸戦りくせんもちいられるだてばん臨時りんじ武装ぶそうしたものを使用しようしていた。

本格ほんかくてき軍船ぐんせん登場とうじょう室町むろまち時代じだい中期ちゅうき以降いこうのことであり、戦国せんごく時代じだいはいると、戦国せんごく大名だいみょうによる水軍すいぐん組織そしきすすむのとをあわせるようにして、毛利もうり武田たけだこう北条ほうじょうなどの有力ゆうりょく大名だいみょう少数しょうすうながらも配下はいか水軍すいぐん安宅あたかばれるような大型おおがた軍船ぐんせん建造けんぞうさせるようになった。

1573ねん織田おだ信長のぶながりょう内海うちうみとなった琵琶湖びわこながさんじゅうあいだやく55m)、ひゃくていての大型おおがたせん建造けんぞうした。同年どうねん、この大船おおぶね坂本さかもとから湖北こほく高嶋たかしま出陣しゅつじんし、木戸きどじょう田中たなかしろ落城らくじょうさせている[4]

安土あづち桃山ももやま時代じだい

[編集へんしゅう]
村上むらかみ水軍すいぐん安宅あたかせん模型もけい
能島のうじま水軍すいぐん安宅あたかせん絵図えず

1578ねんには信長のぶながいのちにより、九鬼くき水軍すいぐんひきいる部将ぶしょう九鬼くき嘉隆よしたかくろ大船おおぶね6せきを、滝川たきがわ一益かずますしろ大船おおぶね1せき建造けんぞうしている[5]。その規模きぼは、そのうわさいてのこした興福寺こうふくじ僧侶そうりょ記録きろく(『多聞たもんいん日記にっき』)によればよこななあいだはばやく12.6m)、たてじゅうさんあいだながやく24m)とされるが[6]、これにたいして、『信長のぶながこう』のつてほんのうちみことけいかく文庫ぶんこ所蔵しょぞう一本いっぽん外題げだい安土あづち日記にっき』、江戸えど時代じだい写本しゃほん)では、九鬼くき嘉隆よしたか建造けんぞうしたろくそうについて、まきじゅういちに「ながじゅうはちあいだよころくあいだ」と記載きさいされていることから[7]ながじゅうさんあいだはばななあいだという寸法すんぽうは、ながじゅうはちあいだはばろくあいだ訂正ていせいする必要ひつようがあるのではないかと指摘してきされている[8]。またてつりであったという。てつりにしたのは毛利もうり水軍すいぐん装備そうびする火器かき攻撃こうげきによる類焼るいしょうふせぐためとかんがえられ、当時とうじ軍船ぐんせんとしては世界せかいてきにみてもめずらしい[9]。これが有名ゆうめい信長のぶながの「てつかぶとせん」である。さらに、この大安たいあんたくせん実見じっけんした宣教師せんきょうしグネッキ・ソルディ・オルガンティノ証言しょうげんによれば、かくふねは3もん大砲たいほう無数むすうだい鉄砲てっぽう装備そうびしていたといい、6がつ20日はつか伊勢いせから出航しゅっこうして雑賀さいかしゅう淡輪たんのわ水軍すいぐんたたかい、大阪おおさかわん回航かいこうし、9月30にちさかいみなと艦船かんせんしき、11月6にち木津川きづがわこう九鬼くき嘉隆よしたかの6せき毛利もうり村上むらかみ水軍すいぐん塩飽しわく水軍すいぐん海戦かいせんおこな勝利しょうりしている[5]だい木津川きづがわこうたたか)。

1584ねん蟹江かにえしろ合戦かっせんでは、九鬼くき嘉隆よしたか伊勢いせ白子しらこうらから蟹江かにえうら滝川たきがわ一益かずますへい3せんにん揚陸ようりくさせているが、同月どうげつ19にち海戦かいせんやぶれて嘉隆よしたか大船おおぶね小舟おぶねおきのがれている。このとき嘉隆よしたか大船おおぶねは、「大宮おおみやまる[10]、「日本にっぽんまる[11]つたわる。

1591ねんはじまる豊臣とよとみ秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき)では軍需ぐんじゅ物資ぶっし兵員へいいん輸送ゆそうし、兵站へいたん維持いじするために大量たいりょう輸送ゆそうせん西国さいこく大名だいみょうによって建造けんぞうされた。これらの輸送ゆそうよう船舶せんぱくとはべつに、緒戦しょせん朝鮮ちょうせん水軍すいぐん襲撃しゅうげき被害ひがいると日本にっぽんがわ水上すいじょう戦闘せんとうよう水軍すいぐん集中しゅうちゅう整備せいび開始かいしし、『太閤たいこう』などの記述きじゅつによれば石高こくだかじゅうまんせきにつき大船おおふな安宅あたかせんせき準備じゅんびさせたという。その結果けっか慶長けいちょうやくでは日本にっぽん水軍すいぐん活躍かつやくすることとなった。また、このやくのために九鬼くき嘉隆よしたか建造けんぞうした「おに宿やど」はながひゃくしゃくやく30m)、ひゃくていで、しゅ戦闘せんとういんをあわせて180めいむことができた巨船きょせんで、豊臣とよとみ秀吉ひでよし命名めいめいによって「日本にっぽんまる」と改名かいめいされたことでられ、安骨あんこつうら海戦かいせんではてき襲撃しゅうげき強靱きょうじん船体せんたいめ、脱出だっしゅつ成功せいこうしている(おおきさについては異説いせつあり)。また、山内やまうち一豊かずとよてた手紙てがみでは、「船長せんちょうじゅうはちあいだやく32m)、はばろくあいだやく11m)」と規定きていした軍船ぐんせん建造けんぞうめいじている。

江戸えど時代じだい

[編集へんしゅう]
徳川とくがわ幕府ばくふ御座船ござぶね安宅あたかまる』。伝統でんとうてき和船わせん構造こうぞうではなく竜骨りゅうこつ和洋折衷わようせっちゅうせんであり、典型てんけいてき安宅あたかせんではない。

1600ねん関ヶ原せきがはらたたか江戸えど時代じだい初期しょきには、日本にっぽん各地かくち次々つぎつぎきょじょう築城ちくじょうされた軍事ぐんじてき緊張きんちょう時代じだい反映はんえいして九鬼くきをはじめ西国さいこくしょ大名だいみょうによって日本にっぽんまる上回うわまわきょかん次々つぎつぎ建造けんぞうされ、安宅あたかせん発展はってんはピークをむかえた。しかし1609ねん江戸えど幕府ばくふ西国さいこく大名だいみょう水軍すいぐんりょく抑止よくしをはかって500石積いしつみよりうえ軍船ぐんせん没収ぼっしゅうしている(大船おおふな建造けんぞうきん)。

1615ねん大坂おおさかじんわり平和へいわ時代じだいおとずれると安宅あたかせん軍事ぐんじてき必要ひつようせいうすれ、速力そくりょくおそ海上かいじょうまりのやくにたない安宅あたかせんすたはじめ、かわってしょはんふねしゅぐみ水軍すいぐん)は快速かいそくせきせん大型おおがたさせて軍船ぐんせん主力しゅりょくとするようになっていった。1635ねんには武家ぶけしょ法度はっとにより全国ぜんこく大名だいみょうに500石積いしつみよりうえ軍船ぐんせん保有ほゆうきんじられている。

江戸えど幕府ばくふは500石積いしつみよりうえ軍船ぐんせん保有ほゆうきんじたのと同年どうねんに、ながさんじゅうひろやく55m)で3じゅうをあげ、200ていだい水夫すいふ400にんぐという史上しじょう最大さいだい安宅あたかせんである安宅あたかまる完成かんせいさせた。しかし、安宅あたかまる巨体きょたいのために航行こうこう困難こんなんともない、隅田川すみだがわ河口かこうにほとんど係留けいりゅうされたままかれたすえ1682ねん解体かいたいされ、和船わせん最後さいご巨船きょせんともなった。安宅あたかせん消滅しょうめつ以降いこう幕府ばくふしょはん巡行じゅんこう参勤交代さんきんこうたい使つか御座船ござぶねはじめとした、せき船主せんしゅりょく時代じだい幕末ばくまつまでつづく。そして幕末ばくまつには西洋せいようしき海軍かいぐん建設けんせつはかられ、在来ざいらいがた軍船ぐんせん時代じだいわり、安宅あたかせんふたたることはかった。

著名ちょめい安宅あたかせん

[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよ

[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c 和船わせんII』120ページ
  2. ^ 和船わせんII』120-121ページ
  3. ^ 木製もくせい軍船ぐんせんひながた
  4. ^ 信長のぶながこうまき6、岡部おかべ又右衛門またえもん建造けんぞうしたと記述きじゅつされる。
  5. ^ a b 信長のぶながこうまき11
  6. ^ 多聞たもんいん日記にっきとおりだとすれば全長ぜんちょう寸胴ずんどうぎるため、実際じっさいには30mから50mほどの規模きぼであったとかんがえられる。
  7. ^ 藤本ふじもと 1993, p. 257.
  8. ^ 藤本ふじもと 1993, p. 258.
  9. ^ てつ装甲そうこうについては、伝聞でんぶんしるした多聞たもんいん日記にっきにしか記載きさいされておらず、実見じっけんしたオルガンティノの記録きろくにはいため、疑問ぎもんするこえもある。
  10. ^ たけ家事かじ
  11. ^ 常山つねやまおさむだん』『武功ぶこう雑記ざっき

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 藤本ふじもと正行まさゆきさい検討けんとうしん史料しりょうえが信長のぶなが建造けんぞうの「てつかぶとせん」」(『歴史れきし読本とくほん』1982ねん11がつごう
  • 藤本ふじもと正行まさゆき信長のぶなが戦国せんごく軍事ぐんじがく戦術せんじゅつ織田おだ信長のぶなが実像じつぞう―』(JICC出版しゅっぱんきょく、1993ねん
  • 石井いしい謙治けんじきょ大安たいあんたくまる研究けんきゅう」(『海事かいじ研究けんきゅう』22ごう、1974ねん
  • 石井いしい謙治けんじ和船わせん II』法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく〈ものと人間にんげん文化ぶんか〉、1995ねん7がつISBN 4588207628 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]