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打瀬うたせせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
打瀬うたせせん藤井ふじいまる全長ぜんちょうやく15mたかやく3m(帆柱ほばしらふくむとやく12m)はばやく3mおもやく6t 知多ちた歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞう展示てんじ 昭和しょうわ30ねんごろ西尾にしお一色いっしょくまち漁港ぎょこう進水しんすいし、20ねんちか沿岸えんがん打瀬うたせもうりょうをしていたふねで、2ほんマストやズンド水押みずおしさんかいづくりなど、愛知あいちけんかた打瀬うたせせん特徴とくちょうられる。

打瀬うたせせん(うたせぶね)とは、漁業ぎょぎょうにおいて、1まいまたは複数ふくすうふう船体せんたいたい平行へいこうり、ふうちからふねよこすべらせながらあみいて魚介ぎょかいるい漁獲ぎょかくする日本にっぽん独特どくとく打瀬うたせもうりょう打瀬うたせ)に使用しようする漁船ぎょせん帆船はんせん)のことである。

概要がいよう

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打瀬うたせおこなうための漁船ぎょせん帆船はんせん)は「打瀬うたせせん」とばれ、明治めいじから昭和しょうわにかけ、各地かくち漁港ぎょこううみみずうみ日常にちじょう風景ふうけい一部いちぶとなりひろしたしまれた。ところで、江戸えど時代じだい海運かいうんになった「弁才べんさいせん(べざいせん)」は、どう時代じだい中期ちゅうきに、かじ構造こうぞう改良かいりょう操船そうせん工夫くふうによって逆風ぎゃくふう帆走はんそう能力のうりょくたかめ、とうのために必要ひつようだった乗組のりくみいんおおきくらしたうえで航行こうこう性能せいのう大幅おおはば向上こうじょうさせた[1][ちゅう 1]。「打瀬うたせせん」もこの「弁才べんさいせん」と同様どうよう逆風ぎゃくふう帆走はんそう能力のうりょくたかめ、打瀬うたせ漁法ぎょほうとともに江戸えど末期まっきから明治めいじにかけて瀬戸内海せとないかい大阪おおさかわん三河湾みかわわん伊勢湾いせわんから全国ぜんこくひろまった[2][3][4][5]

幕末ばくまつ以前いぜん打瀬うたせせんは、西洋せいよう帆船はんせん影響えいきょうく、純粋じゅんすい和船わせん一種いっしゅであり、そのそうは、帆柱ほばしら1ほんに1まいよこひろげ、船首せんしゅわたる帆柱ほばしら1ほんわたる1まいるものがおおかった。この伝統でんとうてきそうは、船尾せんび補助ほじょ追加ついかするなどの改良かいりょう[6][7][ちゅう 2][8][ちゅう 3]東京とうきょうわん中心ちゅうしん打瀬うたせもうりょう衰退すいたいするまで存続そんぞくした。これにたいし、打瀬うたせせん西洋せいようは、明治めいじ初期しょき東海とうかい伊勢湾いせわん三河湾みかわわんはじまったとされ、幕末ばくまつ以降いこう開国かいこくにより西洋せいよう帆船はんせん技術ぎじゅつ打瀬うたせせんにもれられ、帆柱ほばしらを1ほんから2ほんやし船形ふながた改良かいりょう[9][ちゅう 4]たてガフセイルひとし)を導入どうにゅうして、逆風ぎゃくふう帆走はんそう能力のうりょくがさらにたかまった。この帆柱ほばしら2ほんたて2まい西洋せいようしたそう東海とうかい地方ちほうふくめた西日本にしにほん一帯いったいひろまった。また、明治めいじ10年代ねんだい後半こうはん九州きゅうしゅうてんちぢみ容易ようい伸子しんし木綿もめんせいジャンク、スイシ)が登場とうじょうして、どう30ねんごろから全国ぜんこくひろまり、昭和しょうわ初期しょきには、2まいほん両方りょうほう伸子しんしにするそう西日本にしにほん一般いっぱんてきになった[10][11][ちゅう 5]国内こくない全体ぜんたいると、一部いちぶ地域ちいきでは、伝統でんとうてきよこそう西欧せいおうしたたてそう混在こんざいしていた[12][ちゅう 6]

このまま、大正たいしょうから昭和しょうわ戦後せんごにかけて焼玉やきだまエンジン石油せきゆ発動はつどうひとし導入どうにゅうによる機帆船きはんせんすす[13][14][15]あみ帆走はんそう出港しゅっこう帰港きこう動力どうりょく機関きかん航行こうこうすることが一般いっぱんした。そして、昭和しょうわ中期ちゅうき[ちゅう 7]には、あみきもディーゼルエンジンなどの動力どうりょく機関きかんによっておこなわれるようになり、おおきなしろふうはらませる「打瀬うたせせん」は漁港ぎょこう漁場ぎょじょうから姿すがたした。

おも構成こうせい要素ようそ

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木造もくぞう帆船はんせん
江戸えど時代じだいから昭和しょうわ中期ちゅうきまでの打瀬うたせせんは、すべて木造もくぞうであった。時代じだい経過けいかとともに、和船わせん構造こうぞう帆船はんせんから和洋折衷わようせっちゅうごういのがた帆船はんせん[16]へ、そして、動力どうりょく機関きかんんだ機帆船きはんせん発展はってんした。
かじ
弁才べんさいせんにおいて、横風おうふう逆風ぎゃくふう帆走はんそうをするさいふね横流よこながれをおさえるなどの目的もくてきで、かじ大型おおがた江戸えどすすみ、かじは、いわゆる「帆船はんせんキール」の役割やくわりっていた[17]打瀬うたせせん同様どうようになるべくかじおおきくし、横風おうふう逆風ぎゃくふう帆走はんそうのキールとして機能きのうした。浅瀬あさせでの航行こうこうさいには取付とりつ角度かくどあさくする「しき」のかじ調節ちょうせつ構造こうぞうっていた[18][ちゅう 8]機帆船きはんせんでは、大型おおがたにする必要ひつようはなくなり、航行こうこう支障ししょうすくない通常つうじょうおおきさとなった。
伝馬船てんません
大型おおがた打瀬うたせせんでは、ひと荷物にもつろしのさい使用しようする伝馬船てんません積載せきさいするものもあった。伝馬船てんませんろすさいには轆轤ろくろ(ろくろ)を使用しようした。また、石油せきゆ発動はつどうなどの動力どうりょく機関きかんけた伝馬船てんませんもあった。
轆轤ろくろ(ろくろ)
袋網ふくろあみちゅう魚介ぎょかい大量たいりょうになると、人力じんりきでは船上せんじょうげられないため木製もくせい轆轤ろくろ使用しようされた。伝馬船てんませんいかりろしのさいにも使用しようされた。
伸子しんし(しんしほ)
強風きょうふうでの打瀬うたせりょうでは、袋網ふくろあみ海底かいていからうわのぼらないよう展開てんかい調節ちょうせつする。伸子しんし木綿もめんせいジャンク、スイシ)は、よこ方向ほうこう複数ふくすうたけささえ(バテン)がはいることで伸縮しんしゅく容易よういであったため、明治めいじ10年代ねんだい後半こうはん九州きゅうしゅう高島たかしま炭鉱たんこう三池みいけ炭鉱たんこう石炭せきたん運搬船うんぱんせん装備そうびされると、逆風ぎゃくふう帆走はんそうふね横流よこながしにてきしていたため、またた打瀬うたせりょう使つかわれるようになり、昭和しょうわ初期しょきには東海とうかいふくめた西日本にしにほん一帯いったいひろまった。(一般いっぱん運搬船うんぱんせんとうでは、東京とうきょうわんふくめほぼ全国ぜんこくひろまった。)
し(やりだし)
し」(ぼう)は、船首せんしゅがわともがわぼうであり、滑車かっしゃ使つかうかむすぶなどして袋網ふくろあみとつながる引綱ひきづなける。また、補助ほじょさいささえにした。
ズンド水押みずおし(みよし)
愛知あいちけんがた打瀬うたせせん重要じゅうよう特徴とくちょうのひとつである「ズンド水押みずおし」は、舳先へさきのミヨシが水面すいめんたい垂直すいちょくちか角度かくどがり、なみ海水かいすいふね前進ぜんしん方向ほうこう垂直すいちょくつよ構造こうぞうとなっており、「かじ」と同様どうように、横風おうふう逆風ぎゃくふう帆走はんそうをするさいふね横流よこながれをおさえるための「帆船はんせんキール」の役割やくわりたしていた。他方たほう水面すいめんたいしミヨシがあさ角度かくどがる従来じゅうらい船首せんしゅかたちてんあたま(てんず)水押みずおし)をした和船わせんは「てんあたません」とばれた[9]
のめりせん
千葉ちばけん浦安うらやす使用しようされた打瀬うたせせん浦安うらやす漁船ぎょせんなかでは大型おおがたで、舳先へさきひくくなってのめっていたので、「のめりせん」ともばれた。これは、横風おうふう帆走はんそう逆風ぎゃくふう帆走はんそうするさいふうされて舳先へさき風下かざしもながされないように舳先へさきひくくしたものである[8]
焼玉やきだまエンジン
打瀬うたせせんでは、焼玉やきだまエンジン石油せきゆ発動はつどうが、終戦しゅうせんからはディーゼルエンジン動力どうりょく機関きかんとして使用しようされた。そのなか焼玉やきだまエンジンは、マグネトーなどの着火ちゃっかのための電気でんき装置そうちキャブレターなどの精密せいみつ燃料ねんりょうきり噴射ふんしゃ装置そうちもなく、簡便かんべん構造こうぞうなので安価あんかであり、保守ほしゅ簡単かんたんであった。また、適切てきせつ焼玉やきだまない燃料ねんりょう気化きかできれば、燃料ねんりょうやす低質ていしつ重油じゅうゆでもうごかすことが可能かのうであったため、打瀬うたせせんおお搭載とうさいされ使用しようされた。一方いっぽう、ディーゼルエンジンは高性能こうせいのう高価こうかであり、軍事ぐんじ利用りよう優先ゆうせんされたため、漁船ぎょせんでの利用りよう拡大かくだいは、太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせん以降いこうである。[19][ちゅう 9]

漁法ぎょほうとの摩擦まさつ

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大型おおがた袋網ふくろあみひとつだけ一条いちじょうもうの「打瀬うたせ」の漁法ぎょほうでは、複数ふくすうふう船体せんたいたい平行へいこうり、ふね風下かざしも横滑よこすべりさせながらあみく。くわしくは、ほん引綱ひきづな船首せんしゅ船尾せんびけ、できるだけはなすことによって、海中かいちゅうそでもうあみこうよこ方向ほうこうひろげつつ、人力じんりきらずに海底かいていれた大型おおがた袋網ふくろあみくことができ、大変たいへん効率こうりつてきであった。これにくわえ、船形ふながた改良かいりょうたて導入どうにゅうとうによって逆風ぎゃくふう帆走はんそう性能せいのう向上こうじょうし、漁場ぎょじょうとして利用りようできる海域かいいきおおきくひろがり、明治めいじにおいては、そのたか漁獲ぎょかくりょく画期的かっきてきっても過言かごんではなかった。これがわざわいして、漁法ぎょほうとのはげしいいさかいがえず、愛知あいちけんでは、明治めいじ3ねんから操業そうぎょう排撃はいげきなどの紛争ふんそう[20]明治めいじ25ねんには反対はんたい漁民ぎょみんによる地方ちほう行政ぎょうせい機関きかんへの乱入らんにゅう警官けいかんたいとの衝突しょうとつといった「さんしゅう打瀬うたせもう騒動そうどう」の事件じけんきた[21]。このため、この漁法ぎょほう禁止きんしめたけんもあったほどである。たとえば、明治めいじ19ねん3がつに、愛知あいちけん三重みえけん静岡しずおかけんの3けん協議きょうぎうえ打瀬うたせもうりょう禁止きんしれい布告ふこくしている。しかし、愛知あいちけんでは「3ねん猶予ゆうよ期間きかん」が「当分とうぶんあいだ」に延長えんちょうされ、最終さいしゅうてきには禁止きんしおこなわれてはいない[22]

絵葉書木更津の海岸 明治末期、木更津の浅瀬での五大力船と潮干狩りをする人
絵葉書えはがき木更津きさらづ海岸かいがん 明治めいじ末期まっき木更津きさらづ浅瀬あさせでの大力だいりきせん木更津きさらづせん)と潮干狩しおひがりをするひと打瀬うたせせんではないが伸子しんし木綿もめんせいジャンク)がよくえている。2まいたては、追風おいかぜけるために観音開かんのんびらきの状態じょうたいである。

進化しんか

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江戸えど時代じだい打瀬うたせせんは、弁才べんさいせんならい、帆柱ほばしらマスト)は1ほん船首せんしゅわたる帆柱ほばしらを1本立ほんだて、ほんよこ構造こうぞう上部じょうぶ帆桁ほげた(ヤード)をけるが、下部かぶには帆桁ほげた(ブ―ム)はけない。上部じょうぶ帆桁ほげたける「なわ」や左右さゆうえんける「両方りょうほうつな」の操作そうさほん片帆かたほ帆柱ほばしら中心ちゅうしん回転かいてんさせ、進行しんこう方向ほうこうたいななめにする)にすることで横風おうふう帆走はんそう逆風ぎゃくふう帆走はんそう可能かのうにした[23]

明治めいじ20ねんごろ、西洋せいよう帆船はんせんなら帆柱ほばしらを2ほんやし、ほんたて2まいにするそう東海とうかい三河湾みかわわんまれ、やがて昭和しょうわ前期ぜんきにかけて西日本にしにほん一帯いったいひろまった。同時どうじ船首せんしゅ船尾せんびしたすうメートルのぼうし)に三角形さんかっけい補助ほじょ2まいるなど、合計ごうけいで4まい以上いじょう形式けいしきひろまった。

強風きょうふう打瀬うたせおこなうには、袋網ふくろあみ海底かいていからがらないようもうはやさをおさえるために展開てんかい調節ちょうせつする必要ひつようがある。そこで、よこ方向ほうこう複数ふくすうたけささえ(バテン)がはいることで伸縮しんしゅく容易よういであった伸子しんし木綿もめんせいジャンク、スイシ)が、明治めいじ10年代ねんだい後半こうはん九州きゅうしゅうあらわれると、これがふね横流よこながしにもてきしていたため、明治めいじ30年代ねんだいごろから打瀬うたせりょう使つかわれるようになり、昭和しょうわ初期しょきにはほんの2まいとも5ほん前後ぜんこうたけささえがはいった伸子しんしにすることが、東海とうかいふくめた西日本にしにほん一帯いったいひろまった[24]

昭和しょうわ初期しょきから打瀬うたせせん動力どうりょくがはじまると、逆風ぎゃくふう帆走はんそうをする機会きかいすくなくなり、ほんたてである必要ひつようせいうすれていった。他方たほう依然いぜんとして強風きょうふうでのりょうでは伸縮しんしゅくする必要ひつようがあるため、現存げんそんする鹿児島かごしまけん出水しゅっすい熊本くまもとけん芦北あしきた打瀬うたせせんほんは、よこではあるがよこ方向ほうこうに5ほん前後ぜんこうたけささえがはい構造こうぞうがれている[25]

たとえば、熊本くまもとけん芦北あしきたまち計石はかりいし佐敷さしきこう打瀬うたせもうりょうのための打瀬うたせせんそうは、帆柱ほばしら4ほんで、ほんよこ方向ほうこうに5ほん前後ぜんこうたけささえがはいっている構造こうぞうよこ4まい船首せんしゅ船尾せんびしたぼうし)に三角形さんかっけい長方形ちょうほうけい補助ほじょ4まい、2番目ばんめと3番目ばんめほんあいだ補助ほじょとして四角形しかっけいなかを1まい合計ごうけいで9まいれる構造こうぞうになっている[ちゅう 10]

材質ざいしつは、江戸えど時代じだい前期ぜんきは、ほんともにむしろ一般いっぱんてきであった。どう後期こうきこうらくまつみぎ衛門えもん通称つうしょうまつみぎ衛門えもん」とばれる帆布ほぬの開発かいはつし、全国ぜんこく普及ふきゅうしたのちは、このかるくて丈夫じょうぶ木綿もめん織物おりもの仕立したてられ使用しようされることが一般いっぱんし、帆走はんそう性能せいのうおおきく向上こうじょうした。

霞ヶ浦かすみがうらの「曳船えいせんしろ大型おおがたの1まいで、上部じょうぶ孟宗竹もうそうちくせい帆桁ほげたから3ほんの「つりなわ」を海中かいちゅう袋網ふくろあみむすけ、船体せんたい風上かざかみかたむけながらあみを引ている。

現存げんそんする打瀬うたせせん

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昭和しょうわ初期しょきから太平洋戦争たいへいようせんそうだい世界せかい大戦たいせんにかけて、打瀬うたせせんへの動力どうりょく機関きかん焼玉やきだまエンジンなど)の導入どうにゅうすす[26][27][15]戦後せんごには、もうのみ帆走はんそうする方式ほうしき一般いっぱんし、逆風ぎゃくふう帆走はんそう能力のうりょく重要じゅうようされなくなった。こののちディーゼルエンジン普及ふきゅうはじまり[ちゅう 11]もうもエンジンでおこなうようになり、昭和中しょうわなかに、おおきなたてった「打瀬うたせせん」の姿すがた漁港ぎょこう漁場ぎょじょうから次第しだいえていった。

現在げんざいまでのこった鹿児島かごしまけん出水いずみのクマエビりょうの「けた打瀬うたせせん」と、熊本くまもとけん芦北あしきたまち打瀬うたせもうりょう打瀬うたせせん芦北あしきたまち漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあいの「観光かんこううたせふね」のほんは、たてラグセイルひとし)ではなく、逆風ぎゃくふう帆走はんそういていないよこ左右さゆう対称たいしょう)でよこ方向ほうこうに5ほん前後ぜんこうたけささえがはい構造こうぞうとなっている[25]

淡水たんすいみずうみでの打瀬うたせせんとしては、霞ヶ浦かすみがうらシラウオりょうワカサギりょう使用しようされた「曳船えいせん(ほびきぶね)」が、1971ねん観光かんこうせんかたち復活ふっかつしている[28]

一方いっぽう北海道ほっかいどう野付湾のつけわんでは、ホッカイエビ漁法ぎょほうとして、アマモ繁殖はんしょくきずつけないために小型こがた打瀬うたせせん現在げんざい使用しようされている。この野付湾のつけわんの「打瀬うたせぶね」は2ほん帆柱ほばしらに、3まい独特どくとくたて三角みすみかい)を使用しようしている[29][30]

打瀬うたせせん曳船えいせん展示てんじしている博物館はくぶつかんとう

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日本にっぽん財団ざいだんがそのホームページ「日本にっぽん財団ざいだん図書館としょかん」で2000年度ねんど自主じしゅ事業じぎょうとして報告ほうこく公開こうかいしている「海洋かいよう船舶せんぱく実情じつじょう調査ちょうさおよ研究けんきゅうとう[31]なかの「和船わせん調査ちょうさ研究けんきゅう報告ほうこく」(1999年度ねんど実施じっししたアンケート調査ちょうさ博物館はくぶつかん資料しりょうかんにある和船わせんかんする資料しりょう基礎きそ調査ちょうさ木造もくぞうせん建造けんぞうかか船大工ふなだいくおよ機材きざいとう調査ちょうさ)をりまとめたもの。) から打瀬うたせせん展示てんじかんするものほか以下いか列挙れっきょした。 なお、現時点げんじてん展示てんじしているかは未確認みかくにんである。

実物じつぶつ展示てんじ


模型もけい展示てんじ


図面ずめん航海こうかい用具ようぐ展示てんじ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 江戸えど時代じだい前期ぜんきまつごろから明治めいじ時代じだい初期しょきにかけて、ひしかき廻船かいせん弁才べんさいせん)によって、そのとししん綿めん初荷はつにだいさかから浦賀うらがへの到着とうちゃく順番じゅんばんきそったしん綿めんばんせん海上かいじょう輸送ゆそう競争きょうそう)があき年中ねんじゅう行事ぎょうじとしておこなわれた。(また、たる廻船かいせんでは西宮にしのみやから江戸えど新川しんかわあいだ新酒しんしゅばんせんおこなわれた。)当初とうしょは、平均へいきん30にち程度ていど航海こうかいしていたが、幕末ばくまつには5にち前後ぜんこう走破そうはするようになり、48あいだという記録きろくもある。いにしえでは、ほんわたるちゅう伝馬てんまかいとも(ともほ)、ふく(そえほ)をって競争きょうそうするひしかき廻船かいせん姿すがたえがかれている。コトバンク「しん綿めんばんせん」ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん解説かいせつ日本海事科学振興財団にほんかいじかがくしんこうざいだん日本にっぽん財団ざいだん 図書館としょかんひしかきしん綿めんばんせん川口かわぐち出帆しゅっぱん」/技術ぎじゅつ海洋かいよう工学こうがく船舶せんぱく工学こうがく兵器へいき成果せいかぶつ情報じょうほうふね科学かがくかん ものりシート/海事かいじ科学かがく知識ちしき普及ふきゅう啓蒙けいもう活動かつどう
  2. ^ 品川しながわ区立くりつ品川しながわ歴史れきしかんHPの常設じょうせつ展示てんじ解説かいせつシートNo.17「品川しながわ漁業ぎょぎょう品川しながわうら大井おおいはやしうら-」のけたせんには、おもてわたる(おもてやほう)とともわたる(ともやほう)がえがかれている。品川しながわ漁業ぎょぎょう品川しながわうら大井おおいはやしうら-」 品川しながわ区立くりつ品川しながわ歴史れきしかんHP、2016ねん3がつ (PDF)
  3. ^ 浦安うらやす使用しようされた打瀬うたせせん浦安うらやす漁船ぎょせんなかでは大型おおがたで、舳先へさきひくくなってのめっていたので、「のめりせん」ともばれた。これはふねふうながされないように舳先へさきひくくしたものであった。
  4. ^ 愛知あいちけんがた打瀬うたせせんでは、その舳先へさきに「ズンド水押みずおし」とばれた構造こうぞうたせ、横風おうふう帆走はんそう逆風ぎゃくふう帆走はんそうをするとき船首せんしゅ一種いっしゅかじとしてはたらき、船首せんしゅ風下かざしも横流よこながれするのをふせいだ。
  5. ^ 野本のもと謙作けんさく大阪大学おおさかだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)は、その遺稿いこう伸子しんし起源きげん普及ふきゅうについて」(海事かいじ研究けんきゅう だい62ごう 2005ねん)のなかで、「(伸子しんしが、くに何処どこなんごろからもちいられるようになったかについて、)明治めいじ15ねんから18ねんあいだに、長崎ながさき高島たかしま炭鉱たんこう三池みいけ炭鉱たんこう口之津くちのつ石炭せきたん運搬うんぱんするために建造けんぞうされた、2檣縦装備そうびの「模造もぞう西洋せいようがたせん(30~80GT:うん礦丸シリーズ、黒船くろふねともばれる)がルーツであろう。」と推測すいそくしている。
  6. ^ 大分おおいたけんおき豊前ぶぜんかいでは、けんからのぶし出稼でかせぎの打瀬うたせせんおおく、たて2まいよこ1まいそう打瀬うたせせんがともに操業そうぎょうしていた。(『ひゃくねん 長洲ながす小学校しょうがっこう』のP.231にたて2まいの「愛知あいちけんがた打瀬うたせせん」とよこ1まいの「紀州きしゅうがた打瀬うたせせん」のならべてえがかれている。また、『日本水産にっぽんすいさん』には豊前ぶぜんかい打瀬うたせせんだい1まいとある、)「HPかくれすわ長洲ながす歴史れきし/えびしゃ打瀬うたせせん
  7. ^ 昭和しょうわ中期ちゅうきは、終戦しゅうせん高度こうど経済けいざい成長せいちょうまでで、昭和しょうわ21ねんから昭和しょうわ45ねん。ウィキペディア(Wikipedia)「昭和しょうわ」のりゃく年表ねんぴょうより
  8. ^ みなみちくりょくのホームページ「串木野くしきの小型こがた和船わせん帆船はんせん)」と同氏どうしあらわした郷土きょうど近海きんかいりょう使つかわれた串木野くしきの小型こがた和船わせん』のなかに、鹿児島かごしまけん串木野くしきのげんいちき串木野くしきの)の一本釣いっぽんづ和船わせんの「たてかじ(たてかじ)」と「ながれかじ(ながれかじ)」についての説明せつめいがあり、かじ角度かくど調節ちょうせつ構造こうぞうと、たてかじ逆風ぎゃくふう帆走はんそうでの効果こうかながれかじ効果こうかくわしくかれている。みなみちくりょくのホームページ「串木野くしきの小型こがた和船わせん帆船はんせん)」4かじこうみなみちくりょくちょ 郷土きょうど近海きんかいりょう使つかわれた串木野くしきの小型こがた和船わせん』P.18
  9. ^ 愛媛えひめけん生涯しょうがい学習がくしゅうセンターの『愛媛えひめけん』によると、愛媛えひめけん漁船ぎょせん動力どうりょくは、昭和しょうわ31ねん時点じてんの51.0%から昭和しょうわ56ねん時点じてんの89%に上昇じょうしょうしたとのこと。また、エンジンの種類しゅるいべつでは、昭和しょうわ32ねん時点じてん電気でんき着火ちゃっか石油せきゆ発動はつどう)44.3%、ディーゼル38.6%、焼玉やきだまエンジン17.1%で、その、ディーゼル機関きかんすすみ、昭和しょうわ40ねん時点じてんで87%がディーゼルエンジンにわったとのことである。愛媛えひめけん生涯しょうがい学習がくしゅうセンター「愛媛えひめけん社会しゃかい経済けいざい2 農林のうりん水産すいさん昭和しょうわ60ねん(1985)1がつ31にち発行はっこう)2愛媛えひめ水産すいさんだいさんしょう沿岸えんがん漁業ぎょぎょう発展はってんだいいちせつ概要がいようろく漁船ぎょせん
  10. ^ しお打瀬うたせ」と「霞ケ浦かすみがうら八郎潟はちろうがた引網ひきあみりょう」では1まい、「芦北あしきた観光かんこううたせふね」では最多さいたで9まいれるようになっている。熊本くまもと観光かんこうやくサイト「くまもっと旅行りょこうしゃ。」トップ/芦北あしきた観光かんこううたせせん (午前ごぜん便びん昼食ちゅうしょくづけ)のこう
  11. ^ 愛媛えひめけん生涯しょうがい学習がくしゅうセンターの『愛媛えひめけん』によると、愛媛えひめけん漁船ぎょせん動力どうりょくは、昭和しょうわ31ねん時点じてんの51.0%から昭和しょうわ56ねん時点じてんの89%に上昇じょうしょうしたとのこと。また、エンジンの種類しゅるいべつでは、昭和しょうわ32ねん時点じてん電気でんき着火ちゃっか石油せきゆ発動はつどう)44.3%、ディーゼル38.6%、焼玉やきだまエンジン17.1%で、その、ディーゼル機関きかんすすみ、昭和しょうわ40ねん時点じてんで87%がディーゼルエンジンにわったとのことである。愛媛えひめけん生涯しょうがい学習がくしゅうセンター「データベース『えひめの記憶きおく』」データベース「えひめの記憶きおく書籍しょせき一覧いちらん愛媛えひめけん)/「愛媛えひめけん社会しゃかい経済けいざい2 農林のうりん水産すいさん昭和しょうわ60ねん(1985)1がつ31にち発行はっこう)/2愛媛えひめ水産すいさんだいさんしょう沿岸えんがん漁業ぎょぎょう発展はってんだいいちせつ概要がいようろく漁船ぎょせん

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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