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てつかぶとせん

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てつかぶとせん(てっこうせん)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけて大型おおがた安宅あたかせん鉄板てっぱんったふねおも織田おだ信長のぶながと、豊臣とよとみ秀吉ひでよし建造けんぞうめいじたてつかぶとせんられる。

織田おだ信長のぶながてつかぶとせん[編集へんしゅう]

建造けんぞう背景はいけい[編集へんしゅう]

えいろく11ねん1568ねん)、美濃みのこく尾張おわりこくおさめた戦国せんごく大名だいみょう織田おだ信長のぶながは、室町むろまち幕府ばくふ将軍家しょうぐんけ後継こうけいしゃである足利あしかが義昭よしあきようして上洛じょうらくたしたが、その三好みよしなどと対立たいりつつづけていた。また、もとかめ2ねん1571ねん以降いこう足利あしかが義昭よしあきとの関係かんけい険悪けんあくとなり、いわゆる信長のぶなが包囲ほういもうかれることとなった。

この信長のぶなが包囲ほういもう一角いっかくになったのが中国ちゅうごく地方ちほう毛利もうりおよ浄土真宗じょうどしんしゅう本山ほんざんである本願寺ほんがんじで、とく本願寺ほんがんじ石山いしやま本願寺ほんがんじ拠点きょてんとして抗戦こうせんつづけていた。信長のぶなが石山いしやま本願寺ほんがんじ包囲ほういして攻略こうりゃくしようとしたが、海上かいじょうから毛利もうり支援しえんがあったため、天正てんしょう4ねん1576ねん)これをつべく水軍すいぐんおくむが瀬戸内海せとないかいとく因島いんのしま能島のしまなどの村上むらかみ水軍すいぐん掌握しょうあくした毛利もうり敗北はいぼくきっした(だいいち木津川きづがわこうたたか)。

この敗北はいぼくけて、信長のぶなが伊勢いせ志摩しま豪族ごうぞくであり水軍すいぐんひきいた九鬼くき嘉隆よしたかめいじてつくらせたといわれるのがてつかぶとせんである。

木津きづ川口かわぐち海戦かいせんとその[編集へんしゅう]

信長のぶながこう』では、九鬼くき嘉隆よしたか建造けんぞうした6せきくろ大船おおぶねくわえて、滝川たきがわ一益かずます建造けんぞうしたしろ大船おおぶね1せきが、天正てんしょう6ねん1578ねん)6がつ20日はつか伊勢いせから出航しゅっこうして雑賀さいか淡輪たんのわ水軍すいぐんたたかい、9月30にちさかいみなと艦船かんせんしき、11月6にち木津川きづがわこう九鬼くき嘉隆よしたかの6せき海戦かいせんおこなったことが記載きさいされている[1]だい木津川きづがわこうたたか)。

どのようなふねであったか、とくにその最大さいだい特徴とくちょうである鉄板てっぱんなどによる装甲そうこうがあったのかというてんでは議論ぎろんがあるが、九鬼くき嘉隆よしたかだい木津川きづがわこうたたかいにおいてなんらかのしん造船ぞうせんもちいて毛利もうり派遣はけんした水軍すいぐんいどみ、大砲たいほうでこれをやぶったことは事実じじつである。このたたか以後いご本船ほんせんがどうなったかは不明ふめいである。天正てんしょう10ねん1582ねん)の本能寺ほんのうじへん大阪おおさかわん投錨とうびょうしたまま放棄ほうきされ、ちていったというはなし解体かいたいされてすうせきしょうはやなどにつくなおされたはなしなどがつたわる。

天正てんしょう12ねん1584ねん)6がつ九鬼くき嘉隆よしたか伊勢いせ白子しらこうらから蟹江かにえうら滝川たきがわ一益かずますへい3せんにん揚陸ようりくさせているが、同月どうげつ19にち海戦かいせんやぶれて嘉隆よしたか大船おおぶね小舟おぶねおきのがれており、このとき沈没ちんぼつしたともかんがえられる(蟹江かにえしろ合戦かっせん)。この嘉隆よしたか大船おおぶねは、「大宮おおみやまる[2]、「日本にっぽんまる[3]つたわる。

ぶんろく元年がんねん1592ねん)からのぶんろくやくでは九鬼くき水軍すいぐん安宅あたかせん数々かずかず海戦かいせん参加さんかしており、また、同役どうやくでは多数たすう船舶せんぱくうしなわれた。このとき旗艦きかんは「日本にっぽんまる」であり、もとは「おに宿やどまる」というふねであったという[4]。その九鬼くき水軍すいぐんは、慶長けいちょうやく安濃あのうじょうたたか大坂おおさかじんなどに参加さんかしている。

石山いしやま合戦かっせん転機てんきとなっただい木津川きづがわこうたたかいの主力しゅりょくかんでありながら、600せき軍船ぐんせんからなる毛利もうり水軍すいぐん勝利しょうりしたという伝説でんせつてき戦果せんか真否しんぴや、その寸法すんぽうてつによる装甲そうこう有無うむ、その最期さいごなど、様々さまざまてんなぞつつまれた存在そんざいとなっている。

てつかぶとせん要目ようもく[編集へんしゅう]

本船ほんせん存在そんざい信長のぶなが側近そっきん太田おおた牛一ごいちあらわした『信長のぶながこう』、多聞たもんいん英俊えいしゅんしるした『多聞たもんいん日記にっき』、宣教師せんきょうしオルガンチノルイス・フロイスあて報告ほうこくしょなどに記載きさいられるが、詳細しょうさいについてはつまびらかではなく、いま定説ていせつていない。あきらかなのは大砲たいほうをいくつか搭載とうさいしていたということである。

  • 寸法すんぽう
多聞たもんいん日記にっき』によるとながさ12~13あいだ(21.8m~23.6m)、はば7あいだ(12.7m)と記述きじゅつされている。
これは天正てんしょう元年がんねん1573ねん)に琵琶湖びわこ湖畔こはん佐和山さわやまにおいて、丹羽にわ長秀ながひで指揮しきのもと、寸法すんぽうながさ30あいだやく55m)はば7あいだ(12.7m)の大船おおぶね建造けんぞうされたれい(『信長のぶながこう』)が存在そんざいするため、建造けんぞう不可能ふかのうとはいえない寸法すんぽうである。反面はんめん、『多門院たもんいん日記にっき』による寸法すんぽうではこの丹羽にわ長秀ながひでによる大船おおぶねよりも大幅おおはば船長せんちょうみじかく、縦横じゅうおうひくいためにこうはしにはてきさない船型せんけいになる。これは船体せんたいはばではく、艪を操作そうさするためりょうふなばたした艪床をふくんだ最大さいだいはばすものとかんがえられる。
  • 装甲そうこう
本船ほんせん船体せんたいあつさ3mm程度ていど鉄板てっぱんおおい、村上むらかみ水軍すいぐん得意とくいとした焙烙ほうろく火矢ひやたいする装甲そうこうとしたとつたわる。
しかし、これを直接的ちょくせつてきしめしているどう時代じだい史料しりょうは『多門院たもんいん日記にっき』しかなく、その『多聞たもんいん日記にっき』も「てつふねなり。鉄砲てっぽうとおらぬ用意ようい事々ことごとじきなり」という伝聞でんぶん記述きじゅつである。だい木津川きづがわこうたたかいについて詳細しょうさい記載きさいしているオルガンチノの報告ほうこくしょでは、「王国おうこくポルトガル)のふねにもており、このようなふね日本にっぽんつくられていることはおどろきだ」とあるだけで装甲そうこう有無うむにはれておらず、『信長のぶながこう』においても装甲そうこう有無うむについては記載きさいがない。このため、てつ装甲そうこうっていたのか、というてん疑問ぎもんとなっている。
  • 乗員じょういん
多聞たもんいん日記にっき』によると、「人数にんずうせんにんほどのる」とあるが、その寸法すんぽうからこの人数にんずうせることはむずかしいとかんがえられる。一方いっぽうで『多聞たもんいん日記にっき』は伝聞でんぶんによるものであり、『信長のぶながこう』には九鬼くき嘉隆よしたかが6せき建造けんぞうしたむね記載きさいされており、5000にんとは6せき合計ごうけい人数にんずうであり、1せきたり800にんきょうであるとする意見いけんもある[5]
  • 動力どうりょく
本船ほんせん動力どうりょくについてはとく記載きさいはないが、通常つうじょう安宅あたかせんおなじく、およびおこりたおせしき木綿こわたかいによるものと推定すいていされている。。

豊臣とよとみ秀吉ひでよしてつかぶとせん[編集へんしゅう]

信長のぶながてつかぶとせんはいまだなぞつつまれているが、秀吉ひでよし文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきときてつ装甲そうこうった大型おおがたせん建造けんぞうしたことは『フロイス日本にっぽん』にぶんろく2ねん1594ねん)のこととして明確めいかく記述きじゅつされている。

名護屋なごやからジョアン・ロドゥリーゲスいち書簡しょかん送付そうふしてきたが、かれはそのなかつぎのようにべている。「関白かんぱくはこのたびの朝鮮ちょうせん征服せいふくのためにいくせき非常ひじょうおおきい船舶せんぱく建造けんぞうさせました。それらのふねは、すべて水面すいめんからうえてつおおわれ、中央ちゅうおうふねろうゆうします。相互そうごつうじる船橋ふなばしは、いずれもてつかぶせられ、みやつこ)は露出ろしゅつしていません。そしてすべはなはだしくうつくしくぬりきんされています。それはおおいに鑑賞かんしょうあたいするもので、わたし時々ときどきそれらのふねはいってみました。同署どうしょにありましたふねはかってみましたところ、ながじゅうきゅうじょうありました。すうめいのポルトガルじんたちは、それらの船舶せんぱくはいってみてきもつぶしていましたが、それらのふね弱体じゃくたいで、ふねこつかけおちい)があったために、いくせきかはけて沈没ちんぼつしてしまいました。」

てつりのふねについては『いえちゅう日記にっき』のぶんろく2ねん2がつ12にちこうにも、「つくし大舟おおぶねつゝミこうくろかねいたあたりこういちまんせきひゃくひろえまい、」とある。

そのてつかぶとせん[編集へんしゅう]

に、慶長けいちょう18ねん1613ねん)に日本にっぽん来航らいこうしたイギリス使節しせつだんジョン・セーリスは、駿府すんぷかう途上とじょう、800トンから1,000トンみの船体せんたいすべてつつつんだノアの方舟はこぶねひょうしたふね目撃もくげきしている。

また寛永かんえい12ねん1635ねん)には、徳川とくがわ秀忠ひでただ幕府ばくふ御船手おふなてあたま向井むかい忠勝ただかつ建造けんぞうさせた史上しじょう最大さいだいきゅう安宅あたかせん安宅あたかまる」では、そうおよ船体せんたいすべてに防火ぼうか防蝕ぼうしょく目的もくてきとした銅板どうばん[6]ほどこされていたこと幕府ばくふ公式こうしき記録きろく[7]から確認かくにんされている。どう板張いたばりは鉄板てっぱんるよりは費用ひようたかくつくものの、理論りろんじょう塩分えんぶんたいする耐久たいきゅうせいたかくなる。このふねは50ねんちか運用うんようされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 信長のぶながこう11かん
  2. ^ たけ家事かじ
  3. ^ 常山つねやまおさむだん』『武功ぶこう雑記ざっき
  4. ^ 志摩しま軍記ぐんき
  5. ^ 小和田こわだ哲男てつお中世ちゅうせい革命かくめいした比類ひるいなき先見せんけん独創どくそう精神せいしん」『歴史れきしぐんぞうシリーズ20 激闘げきとう織田おだ軍団ぐんだん』p.46~59 1990ねん 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ
  6. ^ 石井いしいけん冶『復元ふくげん日本にっぽん大観たいかん4 ふね』(世界文化社せかいぶんかしゃ、1988ねん10がつ1にち) ISBN: 9784418889044
  7. ^ 新井あらい白石はくせき安宅あたか御船みふね仕様しようじょう」「安宅あたか御船みふね諸色しょしき注文ちゅうもんじょうせい徳元とくもと(1711)ねん東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさん所蔵しょぞう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]