九鬼くきまもるたかし

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九鬼くき まもるたかし
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 天正てんしょう元年がんねん1573ねん
死没しぼつ 寛永かんえい9ねん9月15にち1632ねん10月28にち
改名かいめい 孫次まごじろうともたかし光隆みつたかまもりたかし
戒名かいみょう まつたけしいん殿どのぜん長州ちょうしゅう大守たいしゅ心月しんげつ善光ぜんこう大居おおい常安寺じょうあんじ長興寺ちょうこうじ
まつたけしいん殿どの心月しんげつ善光ぜんこう大居おおい心月しんげついん
墓所はかしょ 常安寺じょうあんじ三重みえけん鳥羽とっぱ鳥羽とば
心月しんげついん兵庫ひょうごけん三田みた西山にしやま
長興寺ちょうこうじ愛知あいちけん田原たはら大久保おおくぼまち
官位かんい したがえした長門ながともり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ家光いえみつ
はん 志摩しま鳥羽とばはんあるじ
氏族しぞく 九鬼くき
父母ちちはは 九鬼くき嘉隆よしたかたちばな宗忠むねただいもうと法輪ほうりんいん
兄弟きょうだい なりたかし甲賀こうがひだりしつ豊田とよだ五郎右衛門ごろうえもんしつとくたかしまもりたかししゅ殿しんがりすけ五郎ごろうなな五郎八ごろうはち渡辺わたなべ数馬かずましつ五郎ごろう九郎くろうゆうけい)、青山あおやま豊前ぶぜんしつ長兵衛ちょうべえ五郎ごろう兵衛ひょうえ
養子ようし堀内ほりうちぜん正室せいしつ
つま 正室せいしつたちばな宗忠むねただむすめてんおきないん
側室そくしつ西山にしやまみんむすめ隆生たかおいん朝倉あさくらけいむすめ
戸田とだ忠能ただやす正室せいしつひさしあきらいん松平まつだいら勝隆かつたか正室せいしつ芳樹よしきいん於若水野みずの勝俊かつとし正室せいしつ長生ちょうせいいん)、九鬼くき吉政よしまさしつ自照じしょういん(慈照いん?)、九鬼くきすうじゅうむろひかりいん常光じょうこういん?)、良隆よしたか越賀こしが隆春たかはるむろかがみさとしいんさだたかしりゅう隆重たかしげ久隆ひさたか
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九鬼くき まもるたかし(くき もりたか、きゅう字体じたい九鬼くきまもるたかし)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう大名だいみょう志摩しま鳥羽とばはん初代しょだい藩主はんしゅ九鬼くき12だい当主とうしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

天正てんしょう元年がんねん1573ねん)、九鬼くき嘉隆よしたか次男じなんとしてまれる。ははたちばな宗忠むねただいもうと

慶長けいちょう2ねん1597ねん)、ちち嘉隆よしたかから家督かとくぐ。慶長けいちょう5ねん1600ねん)には徳川とくがわ家康いえやす会津あいづ征伐せいばつ従軍じゅうぐんし、石田いしだ三成みつなり挙兵きょへいにより関ヶ原せきがはらたたか勃発ぼっぱつすると急遽きゅうきょ国許くにもともどった。ところが、ちち嘉隆よしたか鳥羽とっぱじょうにて西にしぐんかたくみしており、戦後せんごまもりたかし徳川とくがわ家康いえやすちち助命じょめい嘆願たんがんし、みとめられると嘉隆よしたか使者ししゃ派遣はけんした。ところが、それよりまえ九鬼くきすえあんじた豊田とよだ五郎右衛門ごろうえもん独断どくだん嘉隆よしたか切腹せっぷくするよううながし、これをけて嘉隆よしたか自害じがい嘉隆よしたか首級しゅきゅう家康いえやす首実検くびじっけんのために伏見ふしみじょうおくられる途中とちゅう伊勢いせ明星みょうじょうにおいて、まもりたかし派遣はけんした急使きゅうし確認かくにんされる。これをったまもりたかし激怒げきどし、五郎右衛門ごろうえもんのこ斬首ざんしゅのうえ晒首さらしくびにした。まもりたかしは、ちち帰依きえふかかったたま龍山たつやま大福寺だいふくじ改築かいちく[1]にゅう仏式ぶっしきさいしてたま龍山たつやま大福寺だいふくじひがし照山てるやま常安寺じょうあんじあらためた[1][2]。また寺領じりょう100せき境内けいだいがい灯籠とうろうあぶらりょう20せきてら寄進きしんした[2]

鳥羽とばはん初代しょだい藩主はんしゅとして5まん6000せきりょうした。九鬼くき水軍すいぐんひきいて大坂おおさかじんたたかい、江戸城えどじょう築城ちくじょう木材もくざい石材せきざい海上かいじょう輸送ゆそうして江戸えど幕府ばくふ協力きょうりょくした[3]。その病弱びょうじゃくであった長男ちょうなん良隆よしたか廃嫡はいちゃくし、仏門ぶつもんはいっていた五男いつお久隆ひさたか還俗げんぞくさせて後継こうけいしゃにしようとするが、三男さんなんりゅうはこれに反対はんたいした。寛永かんえい9ねん1632ねん)にまもりたかし死去しきょすると、たちまちのうち家督かとくあらそいがこり、はんない久隆くりゅうたかし二分にぶんされた。幕府ばくふ命令めいれいによってまもりたかし遺言ゆいごんどおりおとうと久隆くりゅうあといだが、2まんせきけずられたうえ摂津せっつ三田みたうつりふうされることとなった。一方いっぽうあにりゅうには家光いえみついのちにより丹波たんばあらたに2まんせきあたえられ、丹波たんば綾部あやべはんとなった。りょうともにうみからはなれており、これにより九鬼くき水軍すいぐんりょくうしなわれた。なお、幕末ばくまつのころには、九鬼くき隆義たかよし九鬼くき隆一りゅういちにみられるようにりょうはん同士どうし養子ようし縁組えんぐみがあるなど、はんしたしい関係かんけいうかがわれる[4]

墓所はかしょ[編集へんしゅう]

江戸えど病死びょうししたのち遺体いたい菩提寺ぼだいじである鳥羽とばひがし照山てるやま常安寺じょうあんじほうむられた。

家督かとくあらそいによって、寛永かんえい10ねん3月5にち1633ねん4がつ13にち)に久隆くりゅう摂津せっつこく三田みたはんへ、りゅう丹波たんばこく綾部あやべはんてんふうとなると、まもりたかし遺言ゆいごんによってりゅう常安寺じょうあんじでの供養くようおこなった。

これにたいし、久隆ひさたかうつりふうさきにある梅林寺ばいりんじまもりたかし戒名かいみょうちなんでてんおぎなさん心月しんげついんあらため、これを菩提寺ぼだいじとし、まもりたかし五輪ごりんとう建立こんりゅうした(山号さんごう清涼せいりょうやまあらためたのは寛文ひろふみ5ねん1665ねん)のことである)。

さらに、田原たはらはんだい2だい藩主はんしゅである戸田とだ忠能ただやすまもりたかしむすめひさあきらいん)を正室せいしつとした関係かんけいから、戸田とだ菩提寺ぼだいじである雲龍うんりゅうさん長興寺ちょうこうじにもはか建立こんりゅうされた。なお、これは中世ちゅうせい板碑いたび系譜けいふをひく供養くようとうともかんがえられる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 鳥羽とっぱへんさんしつ(1991), 332.
  2. ^ a b 鳥羽とっぱへんさんしつ(1991), 333.
  3. ^ 西垣にしがき松島まつしま(1974), 118-119.
  4. ^ 岡倉おかくら天心てんしん松本まつもと清張せいちょう河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ (2012/11/3)p34

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

登場とうじょうする小説しょうせつ[編集へんしゅう]