(Translated by https://www.hiragana.jp/)
楯無 - Wikipedia コンテンツにスキップ

だて

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

だて(たてなし)とは、源義光みなもとのよしみつ伝来でんらいよろいとされる源氏げんじはちりょうひとつ。とく甲斐かいこく武田たけだつたわるだいよろい名高なだかい。

源氏げんじ重代じゅうだいよろい

[編集へんしゅう]
菅田すげたたかし神社じんじゃ

皇室こうしつ公家くげにおいては家門かもん表徴ひょうちょうするたから直系ちょっけい子孫しそん相伝そうでんする慣習かんしゅうおこなわれていたが、平安へいあん時代じだい後期こうき以降いこう武家ぶけにおいても総領そうりょう嫡流ちゃくりゅうではよろいはたなどいえ表徴ひょうちょうとされる武具ぶぐ相伝そうでんする習慣しゅうかんまれる。清和せいわはじめ嫡流ちゃくりゅう代々だいだいつたえられたよろいひとつがだてである。

もと物語ものがたり』や『平治へいじ物語ものがたり』にそのられ、平治へいじ元年がんねん1160ねん平治へいじらんさい源義朝みなもとのよしともくろおどしだてけてたたかったのち美濃みの敗走はいそうちゅう大雪おおゆきによりすすむことが困難こんなんになったことから、かるくするためにゆきなかてたとされている。

江戸えど時代じだい一説いっせつによると、それを石和いさわ五郎ごろう武田たけだ信光のぶみつ)がひろって甲斐かい武田たけだかえったというが、平治へいじらん当時とうじ信光のぶみつ幼児ようじであり、この伝承でんしょうには疑問ぎもんたれる。いえしん三郎さぶろう義光よしみつ以来いらい相伝そうでんされてきたという武田たけだ伝承でんしょうとも矛盾むじゅんする。また、『平治へいじ物語ものがたり』のだてくろいと描写びょうしゃされているが、菅田すげたたかし神社じんじゃ現存げんそんする武田たけだ伝来でんらいだてしょうさくら韋黄かえしであり、あさ着用ちゃくようだて武田たけだ伝来でんらいだてべつものかんがえられる。

これにたいして、南北なんぼくあさ時代じだい以降いこう武田たけだ惣領そうりょう甲斐かい武田たけだではなく安芸あき武田たけだであるとする黒田くろだ基樹もとき[1]せつ黒田くろだせつ批判ひはんしつつも甲斐かい鎌倉かまくら傘下さんかはいったことで、室町むろまち幕府ばくふ傘下さんか惣領そうりょうである安芸あき武田たけだ鎌倉かまくら傘下さんか惣領そうりょうである甲斐かい武田たけだ分立ぶんりつしたとする西川にしかわ広平ひろへい[2]せつがある。その安芸あき武田たけだにも義光よしみつ相伝そうでんよろいつたえられていたとされる。天文てんもん10ねん1541ねん)に大内おおうち義隆よしたか重臣じゅうしんとう隆房たかふさ安芸あき武田たけだ没落ぼつらくさせたさい接収せっしゅうした重宝ちょうほうなか義光よしみつ相伝そうでんよろいがあったという。義隆よしたか厳島いつくしま神社じんじゃ神職しんしょくたなもり房顕ふさあきせてよろい寄進きしんもうれ、房顕ふさあき同年どうねん5がつ18にちにこれを受領じゅりょうして平重盛たいらのしげもりよろいれいにならって宝物ほうもつおさめたとする記録きろくがある(『房顕ふさあき覚書おぼえがき天文てんもんじゅうねんじょう)。厳島いつくしま神社じんじゃ現在げんざい所蔵しょぞうする国宝こくほうくろ韋威胴丸どうまるがそのよろいとされている[3]

武田たけだだて

[編集へんしゅう]

だてよろい伝承でんしょう記録きろく

[編集へんしゅう]

だてよろい甲斐かいはじめ始祖しそしん三郎さぶろう義光よしみつ以来いらい甲斐かいはじめ惣領そうりょう武田たけだ家宝かほうとして相伝そうでんされた「だて」のごうよろいで、はたみはたばれる義光よしみつからいだ日章旗にっしょうきたいになっている。はた甲州こうしゅう塩山しおやま上萩原かみはぎわらくも峰寺みねでら所蔵しょぞうされている。

戦国せんごく時代じだいには、戦国せんごく大名だいみょうとなった武田たけだ家中いえじゅう神格しんかくされ、御旗おはただてたいして「御旗おはただて照覧しょうらんあれ」とちか出陣しゅつじんしたという。武田たけだ信玄しんげんだてよろい鬼門きもん鎮護ちんごのため甲府こうふから北東ほくとうにあたる山梨やまなしぐん於曽きょう甲州こうしゅう塩山しおやま上於曽かみおぞ)の菅田すげたたかし神社じんじゃ宝殿ほうでんおさめ、武田たけだ一族いちぞくである於曽管理かんり必要ひつようおうじてされたという。

天正てんしょう10ねん1582ねん)、武田たけだ滅亡めつぼうさいして武田たけだ勝頼かつより家臣かしん田辺たなべ左衛門尉さえもんのじょうによりむかいたけしてら杉下すぎしためられたという。その甲斐かいりょうした徳川とくがわ家康いえやすにより回収かいしゅうされふたた菅田すげたたかし神社じんじゃもどされ、江戸えど時代じだいには盗難とうなん破損はそんし、寛政かんせい10ねん1798ねん)には補修ほしゅう文政ぶんせい10ねん1827ねん)に補修ほしゅうおこなわれたという。昭和しょうわ27ねん1952ねん11月22にちに「しょうさくら韋威よろい かぶとだい袖付そでつけ」(こざくらがわおどしよろい かぶと、おおそでつき)として美術びじゅつ工芸こうげいひん区分くぶん国宝こくほう指定していされた。

だてよろいかんする文献ぶんけん資料しりょうもっとふるいのが甲府こうふ太田おおたまちきゅういちじょう小山こやま)の時宗じしゅう寺院じいんであるいちはちすてらつたわる『いちはちすてら過去かこちょう[4]で、鎌倉かまくら時代ときよ当主とうしゅ武田たけだ信光のぶみつ阿弥あみごうしるした箇所かしょには、「武田たけだ系図けいず」を典拠てんきょ信光のぶみつほうだてよろい相伝そうでんしたことがしるされている。

武田たけだ鎌倉かまくら時代じだいしんじ時流じりゅう武田たけだ安芸あきこく守護しゅごしょく継承けいしょうし、甲斐かいでは一族いちぞく甲斐かい一条いちじょう足跡あしあとのこし、南北なんぼくあさ時代じだいしんじ時流じりゅう武田たけだふたた甲斐がい土着どちゃく甲斐がい守護しゅごしょく継承けいしょうしている。『いちはちすてら過去かこちょう編纂へんさんさいしてもちいられた「武田たけだ系図けいず」は、現存げんそんする『一統いっとう系図けいず』の前身ぜんしんとなる系譜けいふ資料しりょうであったとかんがえられているが[5]、『一統いっとう系図けいず』ではだてよろい信光のぶみつ以後いご甲斐かい一条いちじょうしん時流じりゅう武田たけだ相伝そうでんされたことがしるされており、家督かとく継承けいしょうさいして嫡子ちゃくし相伝そうでんされる伝承でんしょうしんじ時流じりゅう武田たけだ甲斐かい支配しはい正当せいとうさせるために成立せいりつしたとかんがえられている[6]

また、戦国せんごく時代じだいえいろく9ねん1566ねん)に長野ながのけん上田うえだ生島いくしま足島あしじま神社じんじゃ奉納ほうのうされた信玄しんげんへの忠誠ちゅうせいちか起請文きしょうもんには親族しんぞくしゅ武田たけだしんれんをはじめだてよろいについて記載きさいされているものがふくまれており、戦国せんごくだいには武田たけだ家臣かしんだんあいだだてよろい神格しんかくされていたことが確認かくにんされている[7]

戦国せんごくではだてよろいについてしるされている文書ぶんしょ記録きろくられず、近世きんせいには『きのえようぐんかん』をはじめとする軍学ぐんがくしょ地誌ちしるいだてよろいかんする記録きろくられる。『ぐんかん』では武田たけだ信虎のぶとら自身じしんうま所望しょもうする嫡男ちゃくなんかちせんだいたいして「義広よしひろ太刀たち」「ひだり文字もじかたなわきゆび」「じゅうななだいまでのはただて」の相続そうぞく約束やくそくする逸話いつわしるされ、だてについては「しん三郎さぶろう具足ぐそく」であると説明せつめいされている[8]

また、『ぐんかん』にれば勝頼かつせ天正てんしょう3ねん1575ねん)には長篠ながしのたたかにおいて武田たけだかた織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやす連合れんごうぐん敗北はいぼくしたさいに、武田たけだ家臣かしんだんのなかで撤退てったいろん主張しゅちょうされるなか、抗戦こうせん主張しゅちょうする武田たけだ勝頼かつよりだてよろいたいして誓約せいやくおこない、反対はんたいしていた家臣かしんらもそれにしたがったという逸話いつわしるされ、武田たけだ当主とうしゅはただてたいして誓約せいやくしたことは改変かいへんできないものであったという作法さほういており、『ぐんかん』が成立せいりつした17世紀せいき初頭しょとうにはこれらの伝承でんしょう成立せいりつしていたとかんがえられている。

さらに、『ぐんかん』に付随ふずいして成立せいりつした『きのえようぐんかん末書まっしょ』『信玄しんげん全集ぜんしゅう末書まっしょ』などでもだてよろい着用ちゃくようした武田たけだしんあきら合戦かっせんにおいてとおさなかった霊験れいけんあらたかなよろいであったという逸話いつわしるしている。勝頼かつせ跡継あとつぎの信勝のぶかつ元服げんぷくよろいしき)をませていなかったことから、いそいで陣中じんちゅうにあっただてせ、そのあと父子ふし自刃じじんしたという悲話ひわのこっている。

江戸えど時代じだいだて

[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい中期ちゅうき地誌ちしるいでは、萩原はぎはらもとかつ甲斐かい名勝めいしょうこころざし』では菅田すげたたかし神社じんじゃ社殿しゃでんないだてよろいまつられているとしるし、これを源頼義みなもとのよりよし後冷泉天皇ごれいぜいてんのうから下賜かしされた武田たけだ累代るいだいたからとしており、これは近世きんせい文献ぶんけんだてよろい菅田すげたたかし神社じんじゃ伝来でんらいしていることをしるしたはつであるとかんがえられている[9]

文化ぶんか11ねん1814ねん)に成立せいりつした松平まつだいらじょうのうへん甲斐かいこくこころざし』はだてよろいかんする多様たよう伝承でんしょうしるしている。『くにこころざし』によればだてよろい源頼義みなもとのよりよしぜんきゅうねんやくさいして拝領はいりょうしたもので、しん三郎さぶろう義光よしみつから武田たけだ伝来でんらい軍神ぐんしんとして崇拝すうはいされたという(まき109)。また、戦国せんごくには鬼門きもんふうじのため菅田すげたたかし神社じんじゃおさめられ、於曽により管理かんりされたことをしるし、武田たけだ滅亡めつぼうさいよろいめられたむかいたけしてら大杉おおすぎしたは、かつでしん三郎さぶろう義光よしみつだてよろいめ、武田たけだ信重のぶしげ出奔しゅっぽんさいしてよろいめたという伝承でんしょうしるしており(まき75「むかいたけしてら」)、だてよろい埋納まいのうしたという伝承でんしょう近世きんせい文献ぶんけんにおいて確認かくにんされる。

また、『くにこころざし』では武田たけだ滅亡めつぼうさいして、滅亡めつぼうである田野でんやから勝頼かつせ着用ちゃくようよろい回収かいしゅうして菅田すげたたかし神社じんじゃおさめてだてよろいしょうされたとしるし、江戸えど時代じだいもとぶん年間ねんかんには青木あおき昆陽こんよう文蔵ぶぞう)が甲州こうしゅう調査ちょうさしたさいよろいひつ見聞けんぶんし、これを契機けいき存在そんざいられ、観覧かんらんしゃ増加ぞうか盗難とうなんされ破損はそんする事件じけん発生はっせいしたという(まき109)。

くにこころざし』によればこの事故じこけて幕臣ばくしんである清水しみずりょう平三郎へいさぶろう)、中村なかむらともつよしはち太夫たゆう)により修復しゅうふく企図きとされ、寛政かんせい3ねん(1791ねん)からよく寛政かんせい4ねんには江戸えど甲冑かっちゅうあかりめずらしそうまさしそうたえ親子おやこによる修復しゅうふくおこなわれたという[10]。『くにこころざし』には菅田すげたたかし神社じんじゃ神職しんしょく土屋つちやすすむりょう左衛門さえもん)からの伝聞でんぶん情報じょうほうしるした榊原さかきばら香山かやまによる修復しゅうふく記録きろく収録しゅうろくしており、修復しゅうふくちゅうには香山かやま自身じしんよろい実見じっけんしている。

松平まつだいら定信さだのぶ

どう記録きろくではだてよろい破損はそんじょうきょう修復しゅうふくいた経緯けいいしるされており、おなじく『くにこころざし』に収録しゅうろくされている菅田すげたたかし神社じんじゃ神職しんしょく日記にっきによれば、だてよろい寛政かんせい3ねん12月4にち江戸えど到着とうちゃくし、寺社じしゃ奉行ぶぎょうによる内覧ないらん、12月18にちには将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりによる上覧じょうらんたという。また、陸奥みちのくこく白河しらかわはんおも幕府ばくふ老中ろうじゅうつとめた松平まつだいら定信さだのぶは、全国ぜんこく各地かくち書画しょが器物きぶつ武具ぶぐなどを模写もしゃした『だかじゅうしゅ』を編集へんしゅうし、とおる文化ぶんか初年しょねん刊行かんこうされている[11]。『あつまりいにしえじゅうしゅ』ではだてよろいかんしても記述きじゅつされており、寛政かんせい4ねん1792ねん時点じてんでの破損はそんしていた状態じょうたいだてよろい図解ずかいしるしている。だてよろい同年どうねん修復しゅうふくされ将軍しょうぐん上覧じょうらんあおいでいるが、定信さだのぶだてよろい複製ふくせい作成さくせいし、寛政かんせい7ねん1795ねん)に現在げんざい福島ふくしまけん白河しらかわ鹿島かしま神社じんじゃ奉納ほうのうしている[12]

名勝めいしょうこころざし』『くにこころざし』などの記載きさいから18世紀せいきだいには菅田すげたたかし神社じんじゃ伝来でんらいしょうさくら韋威よろいよろい武田たけだ相伝そうでんされただてよろいであるとする認識にんしき定着ていちゃくしていたことが確認かくにんされるが、だてよろい所蔵しょぞうする菅田すげたたかし神社じんじゃ府中ふちゅう八幡やはた神社じんじゃげん八幡やはた神社じんじゃ)での交代こうたい祈祷きとう義務ぎむづけられた勤番きんばんしゃであったが、寛政かんせい3ねん将軍しょうぐん家斉いえなりだてよろい上覧じょうらんしたさいには天正てんしょう11ねん徳川とくがわ家康いえやすよろい上覧じょうらんしたという由緒ゆいしょ紹介しょうかいしており、文化ぶんか14ねん(1814ねん)には将軍しょうぐん朱印しゅいんじょう勤番きんばんやく免除めんじょされており、だてよろいかんする伝承でんしょう成立せいりつ菅田すげたたかし神社じんじゃ自立じりつ連動れんどうしていることが指摘してきされる(ちゅう3西川にしかわ論文ろんぶん西田にしだかほる「だてよろいをめぐる伝承でんしょう実体じったい」『口頭こうとう伝承でんしょう文字もじ文化ぶんか』(2009、おもえぶんかく)、菅田すげたたかし神社じんじゃ勤番きんばんやく体制たいせいから自立じりつした課程かていについては西田にしだかほる「近世きんせい後期こうきにおける社家しゃけ活動かつどう言説げんせつ-甲州こうしゅうこくちゅう菅田すげたたかし神社じんじゃ文書ぶんしょ素材そざいとして-『史学しがく雑誌ざっし』(1997)。

形態けいたい

[編集へんしゅう]

だてよろい明治めいじ以来いらい一般いっぱん公開こうかいされることがなく、美術びじゅつにおいては江戸えど時代じだい再生さいせいひんともひょうされていたが、近年きんねんには山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかんにおけるレプリカ作成さくせいのため詳細しょうさい調査ちょうさおこなわれ、山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん甲府こうふ武田たけだ神社じんじゃ宝物ほうもつかん複製ふくせいひん展示てんじされている。

平安へいあん時代じだい後期こうき製作せいさくかぶとばち金具かなぐなどだいよろい鉄製てつせい部分ぶぶんさい利用りようされ、鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうき仕立したてられた鎌倉かまくら様式ようしきよろいで、南北なんぼくあさ時代じだいから戦国せんごく時代じだいにかけて補修ほしゅうほどこされている。また、伝承でんしょうられる埋納まいのうされた形跡けいせきみとめられていない。

しょうさくら韋威」とは、あいさくら花弁はなびらあらわしたしょうさくら文様もんようしょうさつを韋おどすことを意味いみするが、実際じっさいにはさらにキハダがえしをほどこした「しょうさくら韋黄かえしよろい」であると指摘してきされる。韋威の大半たいはん江戸えど時代じだい補修ほしゅうのものであるが、わずかに当初とうしょのものがのこり、平安へいあん鎌倉かまくら時代じだいだいよろい様式ようしき基本きほん補修ほしゅうおこなわれたかく時代じだい様式ようしきのこしている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 黒田くろだ基樹もとき鎌倉かまくら武田たけだ」(初出しょしゅつ:『地方ちほう研究けんきゅう』211ごう(1988ねん)/所収しょしゅう:木下きのしたさとし へん『シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅう だいよんかん 若狭わかさ武田たけだ』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2016ねんISBN 978-4-86403-192-9
  2. ^ 西川にしかわ広平ひろへい南北なんぼくあさ 安芸あき甲斐かい武田たけだ成立せいりつ過程かていについて」(初出しょしゅつ:中央大学ちゅうおうだいがく文学部ぶんがくぶ紀要きよう史学しがく65(2020ねん)/所収しょしゅう:西川にしかわ広平ひろへい へん『シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいさんかん 甲斐かいはじめ一族いちぞく』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2021ねんISBN 978-4-86403-398-5
  3. ^ 前述ぜんじゅつ西川にしかわ論文ろんぶん、2021ねん、P292.
  4. ^ 山梨やまなしけん』(以下いかけん』)資料しりょうへん6中世ちゅうせい3じょう県内けんない記録きろく所載しょさい
  5. ^ 西川にしかわ広平ひろへい武田たけだ系図けいず成立せいりつ峰岸みねぎし純夫すみお入間田いりまだ宣夫のりお白根しらねやすしだいへん中世ちゅうせい武家ぶけ系図けいず史料しりょうろん』(下巻げかん、2007ねん高志こうし書院しょいん)、『一統いっとう系図けいず』は『けん資料しりょうへん3けんがい記録きろくに、その武田たけだ系図けいずは『けん』6中世ちゅうせい3じょう県内けんない記録きろく所載しょさい
  6. ^ 西川にしかわ広平ひろへいだてよろい伝承でんしょうをめぐって」『しょうさくら韋威よろい かぶとだい袖付そでつけ 復元ふくげん調査ちょうさ報告ほうこくしょ -だてよろいなぞさぐる-』(山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん調査ちょうさ研究けんきゅう報告ほうこく1、2007ねん
  7. ^ 生島いくしま足島あしじま神社じんじゃ起請文きしょうもんしんじかどのほか長坂ながさかあきらこく浅利あさりしんたね両角もろずみあきらもり鮎沢あゆざわとらもりの5めい。『けん資料しりょうへん5中世ちゅうせい2じょうけんがい文書ぶんしょ所載しょさい
  8. ^ ぐんかんしなさんはたについては「八幡やはた太郎たろうはた」と説明せつめいされている
  9. ^ まき菅田すげたたかし神社じんじゃ」、西川にしかわちゅう3論文ろんぶんによる
  10. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』によれば、清水しみずりょう(1740 - 1794)は武具ぶぐかんする著作ちょさくのこしている人物じんぶつで、中村なかむらともつよし(1747 - 1843)は安永やすなが年間ねんかん甲斐かいこく河川かせん普請ふしんたずさわり、文化ぶんか年間ねんかんには市川いちかわ代官だいかんつとめている
  11. ^ 高澤たかさわ憲治けんじ松平まつだいら定信さだのぶ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2012ねん)、p.208
  12. ^ 高澤たかさわ憲治けんじ松平まつだいら定信さだのぶ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2012ねん)、p.209

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • しょうさくら韋威よろい かぶとだい袖付そでつけ 復元ふくげん調査ちょうさ報告ほうこくしょ -だてよろいなぞさぐる-』(山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん調査ちょうさ研究けんきゅう報告ほうこく1、2007ねん
    • 西川にしかわ広平ひろへいだてよろい伝承でんしょうをめぐって」
  • 西田にしだかほる「だてよろいをめぐる伝承でんしょう実体じったい」『口頭こうとう伝承でんしょう文字もじ文化ぶんか』(2009、おもえぶんかく