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ぜんきゅうねんやく

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ぜんきゅうねんやくぜんきゅうねん合戦かっせん
戦争せんそう
年月日ねんがっぴながうけたまわ6ねん1051ねんユリウスれき)) - 康平こうへい5ねん1062ねん
場所ばしょ陸奥みちのくこくおくろくぐん
結果けっか朝廷ちょうてい清原きよはらがわ勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
朝廷ちょうてい
清原きよはら
安倍あべ
指導しどうしゃ指揮しきかん
藤原ふじわらのぼりつとむ
平繁ひらしげしげる
源頼義みなもとのよりよし
清原武則きよはらのたけのり
安倍頼時あべのよりとき
安倍貞任あべのさだとう
安倍宗任あべのむねとう
藤原ふじわらけいきよし
戦力せんりょく
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ぜんきゅうねんやく

ぜんきゅうねんやく(ぜんくねんのえき)は、平安へいあん時代じだい後期こうき陸奥みちのくこく東北とうほく地方ちほう)でこったたたかい。

名称めいしょう変遷へんせん[編集へんしゅう]

この戦争せんそうは、源頼義みなもとのよりよし奥州おうしゅう赴任ふにん1051ねん)から安倍あべ滅亡めつぼう1062ねん)までにようした年数ねんすうから、元々もともとは「奥州おうしゅうじゅうねん合戦かっせん」とばれており、『古事ふるごとだん』・『かんしょう』・『古今ここん著聞ちょぶんしゅう』などにはその名称めいしょうしるされている。ところが、『もと物語ものがたり』・『源平げんぺい盛衰せいすい』・『太平たいへい』などでは「ぜんきゅうねんやく」の名称めいしょうしるされており、それが一般いっぱんして現在げんざいいたる。これは源頼義みなもとのよりよし本格ほんかく介入かいにゅうしたとし基準きじゅんとして戦乱せんらんを9年間ねんかん計算けいさんしたというせつや、「奥州おうしゅうじゅうねん合戦かっせん」が「こうさんねんやく1083ねん-1087ねん)とわせた名称めいしょう」と誤解ごかいされ、12ねんから3ねんき、前段ぜんだんについて「ぜんきゅうねんやく」とぶようになったなどのせつがある。また戦乱せんらんを13年間ねんかんとしている書物しょもつもあり、年数ねんすう計算けいさんについては諸説しょせつある。さらに、「やく」の表現ひょうげんには「ぶんながやく」・「弘安ひろやすやく」(もと同様どうようはなえびす思想しそう影響えいきょう多分たぶんられ、安倍あべ支配しはいした東北とうほく畿内きないから異国いこくされ、安倍あべ自体じたいも「東夷あずまえびす」として蛮族ばんぞくされていたことを物語ものがたる。しかし後世こうせい成立せいりつした『平家ひらか物語ものがたり』などでは、安倍あべ同情どうじょうてき記述きじゅつられる。また、今日きょうでは「ぜんきゅうねん合戦かっせん」という表記ひょうきがなされることもある。

たたかいの経緯けいい[編集へんしゅう]

開戦かいせんまで[編集へんしゅう]

陸奥みちのくこく土着どちゃくで、有力ゆうりょく豪族ごうぞく安倍あべ[注釈ちゅうしゃく 1]は、陸奥みちのくこくおくろくぐん岩手いわてけん北上川きたかみがわ流域りゅういき)にしがらみ城砦じょうさい)をきずき、はん独立どくりつてき勢力せいりょく形成けいせいしていた[注釈ちゅうしゃく 2]

おにきりたたか[編集へんしゅう]

陸奥みちのくはなし』によると、11世紀せいきなかば、安倍あべ朝廷ちょうていへのみつぎ租をおこた状態じょうたいになり、さらには陸奥みちのく国府こくふ管轄かんかつ地域ちいきである衣川きぬがわ以南いなん進出しんしゅつしたため[よう検証けんしょう]ながうけたまわ6ねん1051ねん)、陸奥むつまもる藤原ふじわらのぼりつとむすうせんへいして安倍あべ懲罰ちょうばつこころみ、玉造たまつくりぐんおにきり(おにきりべ)で戦闘せんとう勃発ぼっぱつした。このおにきりたたかいでは秋田あきたじょうかい平繁ひらしげしげる国司こくしぐん加勢かせいしたが、安倍あべ勝利しょうりし、やぶれたのぼりつとむ更迭こうてつされ、河内かわうちはじめ源頼義みなもとのよりよし後任こうにん陸奥みちのくもりとなった。

ながうけたまわ7ねん1052ねん)、後冷泉天皇ごれいぜいてんのう祖母そぼ上東門院じょうとうもんいん藤原ふじわら道長みちなが息女そくじょ中宮なかみや藤原ふじわら彰子あきこ)の病気びょうき快癒かいゆ祈願きがんのために大赦たいしゃおこない、安倍あべ朝廷ちょうていさからったつみゆるされることとなった。安倍あべよりゆきりょう陸奥みちのくおもむいた頼義よりちか饗応きょうおうし、頼義よりちか同音どうおんであることを遠慮えんりょしてみずかめいたよときあらためた。またてん元年がんねん1053ねん)には頼義よりちか鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんとなった。

阿久あくとしがわ事件じけん[編集へんしゅう]

頼義よりちか陸奥みちのくもりとしての任期にんきわるてん4ねん1056ねん)2がつ頼義よりちか胆沢いさわしろ鎮守ちんじゅ)から多賀城たがじょう国府こくふ)にもどるために阿久あくとしがわ河畔かはん野営やえいしていると、ひそかに頼義よりちかもと密使みっして、「(頼義よりちか配下はいか在庁ざいちょうかんじん藤原ふじわら光貞みつさだげんさだ野営やえいしていたところ、夜討ようちにあって人馬じんば損害そんがいた。」との情報じょうほうつたえられた。

さらに光貞みつさだは「以前いぜん安倍貞任あべのさだとうよりゆき嫡子ちゃくし)が自分じぶんいもうと結婚けっこんしたいともうたが、自分じぶん安倍あべのような賤しい一族いちぞくにはいもうとはやれないとことわった。だから今回こんかいのことはさだにん仕返しかえしにちがいない。」と頼義よりちかこたえた。そこでおこった頼義よりちかさだにん出頭しゅっとうめいじたが、よりゆきさだにん出頭しゅっとう拒否きょひし、安倍あべ朝廷ちょうていたたかいが再開さいかいされることとなった。また、よりゆき女婿じょせいながら国府こくふぞくしていた平永ひらなが陣中じんちゅうできらびやかなぎんかぶとけているのはてきぐんへの通牒つうちょうであるとの讒言ざんげんをうけ、これをしんじた頼義よりちかえい衡を殺害さつがいした。えい衡と同様どうよう立場たちばであった藤原ふじわらけいきよしるい自分じぶんおよぶとかんがえ、にせ情報じょうほうはっ頼義よりちかぐん多賀城たがじょうかうあいだ安倍あべぐん帰属きぞくした。

阿久あくとしがわ事件じけんは、頼義よりちかによるはかりごと略説りゃくせつほか藤原ふじわらせつさだ光貞みつさだげんさだちち)などはん安倍あべ在庁ざいちょうかんじんによるはかりごと略説りゃくせつがある。

よりゆき戦死せんし[編集へんしゅう]

てん5ねん1057ねん)5がつ頼義よりちか一進一退いっしんいったい戦況せんきょう打開だかいのために、安倍あべ挟撃きょうげきさくこうじ、配下はいか気仙けせん郡司ぐんじきむため使者ししゃとして、安倍あべとみただし津軽つがる俘囚ふしゅう調しらべりゃくし、味方みかたれることに成功せいこうした。これにあわてたよりゆきは、7がつとみちゅうらをおもいとどまらせようとみずか津軽つがるかうが、とみちゅう伏兵ふくへい攻撃こうげきけ、深手ふかでって本営ほんえい衣川きぬがわ目前もくぜん鳥海とりうみしがらみ胆沢いさわぐん金ケ崎かねがさきまち)にて死去しきょした。よりゆきあといだのはさだにんであった。

黄海こうかいたたか[編集へんしゅう]

頼義よりちか同年どうねん9がつ朝廷ちょうていよりゆき戦死せんし報告ほうこくするも、論功行賞ろんこうこうしょうけることができなかった。11月、頼義よりちかふたた陸奥みちのく国府こくふ現在げんざい宮城みやぎけん多賀城たがじょう)から出撃しゅつげきした。このとき頼義よりちか兵力へいりょく最大さいだい見積みつもっても国衙こくがへい2,000めい程度ていどと、傘下さんか武士ぶし500めいほどであったと推測すいそくされている。

安倍あべぐん河崎かわさきしがらみ現在げんざい一関いちのせき川崎かわさきむらいき)に4000めいほどの兵力へいりょくあつめ、黄海こうかい(きのみ、現在げんざい一関いちのせき藤沢ふじさわまち黄海こうかい)で国府こくふぐん激突げきとつした。冬期とうき遠征えんせい疲弊ひへいし、補給ほきゅう物資ぶっしとぼしかったうえ兵力へいりょくでもおとっていた国府こくふぐん安倍あべぐん大勝たいしょう国府こくふぐん佐伯さえきけいはん藤原ふじわらけいらが戦死せんしし、頼義よりちか自身じしん長男ちょうなんふくななでからくも戦線せんせん離脱りだつした。

清原きよはら参戦さんせん[編集へんしゅう]

頼義よりちか自軍じぐん勢力せいりょく回復かいふくあいだ康平こうへい2ねん1059ねん)ごろには安倍あべ衣川きぬがわみなみ勢力せいりょくばし、朝廷ちょうてい赤札あかふだ徴税ちょうぜいではなくけいきよししろさつ税金ぜいきんちょうするほどでありそのいきおいはおとろえなかった。とくに、国衙こくがへいおにきり黄海こうかい敗戦はいせん補充ほじゅうおもうにまかせなかった。そのため、頼義よりちか関東かんとう東海とうかい畿内きない武士ぶしはたらきかけをおこな麾下きか兵力へいりょく増強ぞうきょうつとめた。

康平こうへい5ねん1062ねんはる任期にんきれた頼義よりちか後任こうにん陸奥みちのくもりとして高階たかしなけいおも着任ちゃくにんしたが、郡司ぐんじらは頼義よりちかしたがい、けいじゅうにはしたがわなかったため、けいじゅう帰洛きらくして解任かいにんされ、ふたた頼義よりちか陸奥みちのくもりにんぜられた。

苦戦くせんいられていた頼義よりちか中立ちゅうりつたもっていた出羽でわこく仙北せんぼく秋田あきたけん)の俘囚ふしゅう豪族ごうぞく清原きよはら族長ぞくちょう清原きよはらひかりよりゆきに「ちん贈物おくりもの」をつづ参戦さんせん依頼いらいしたとも、朝廷ちょうてい命令めいれいだてさんじんすることをつよ要請ようせいしたともいわれる。いずれにせよ、これをききいれたひかりよりゆきが7がつおとうと武則たけのりそう大将たいしょうとして軍勢ぐんぜい派遣はけんした。

このとき頼義よりちか清原きよはら連合れんごうぐん陣立じんだては以下いかとおり。

  • だいいちじん武則たけのりである荒川あらかわ太郎たろうたけさだひきいるそう大将軍だいしょうぐん
  • だいじん武則たけのりおい秋田あきたぐん男鹿おがげん男鹿おが)(山本やまもとぐんとうげん大仙だいせん強首こわくびとのせつもある)の豪族ごうぞくこころざし万太郎まんたろうたちばなさだよりゆきひきいるぐん
  • だいさんじん武則たけのりおいむすめ婿むこである山本やまもとぐん荒川あらかわげん大仙だいせん協和きょうわ)の豪族ごうぞく荒川あらかわ太郎たろう吉彦よしひこしゅうたけしひきいるぐん
  • だいよんじんさだよりゆきおとうとしんほう次郎じろうたちばなよりゆきさだひきいるぐん
  • だいじん将軍しょうぐん頼義よりちかひきいるぐん陸奥みちのくかんじんひきいるぐんそう大将たいしょう武則たけのりひきいるぐん
  • だいろくじん吉彦よしひこしゅうおとうとといわれる斑目まだらめ四郎吉しろうきちこうたけただしひきいるぐん
  • だいななじん雄勝おがつぐん貝沢かいざわげん羽後うごまち)の豪族ごうぞく貝沢かいざわ三郎さぶろう清原きよはら武道たけみちひきいるぐん

朝廷ちょうていがわ兵力へいりょくはおよそ10,000にん推定すいていされ、うち源頼義みなもとのよりよしひきいるぐんは3,000にんほどであった。

厨川くりやがわ落城らくじょう[編集へんしゅう]

清原きよはら参戦さんせんによって形勢けいせい一気いっき朝廷ちょうていがわ有利ゆうりとなった。緒戦しょせん小松こまつしがらみたたかいから朝廷ちょうていぐん優勢ゆうせいであった。同年どうねん9がつ17にち安倍あべ拠点きょてんである厨川くりやがわしがらみ岩手いわてけん盛岡もりおか天昌寺てんしょうじまち)、おうなしがらみ盛岡もりおか安倍館あべたてまち)が陥落かんらく厨川くりやがわたたかい)。さだにん深手ふかでらえられ巨体きょたいだてせられ頼義よりちか面前めんぜんされたが、頼義よりちか一瞥いちべつしただけでいきった。そのくび丸太まるたてつくぎけられさらされた。けいきよし苦痛くつう長引ながびかせるためがたなのこきで斬首ざんしゅとされた。こうして安倍あべ滅亡めつぼう戦役せんえき終結しゅうけつした。

清原きよはら参戦さんせん、わずか1ヶ月かげつ安倍あべ滅亡めつぼうしたてんについては、ある時点じてん安倍あべ清原きよはらあいだ密約みつやく成立せいりつし、きよし衡の助命じょめいえの早期そうき終戦しゅうせん合意ごういされていたのではないかとの見方みかたもある[3]

戦後せんご処理しょり[編集へんしゅう]

康平こうへい5ねん12月17にち1063ねん1がつ19にち頼義よりちか騒乱そうらん鎮定ちんてい上奏じょうそう康平こうへい6ねん2がつ25にち(1063ねん3がつ27にち)の除目じもくにて頼義よりちかは「よん上臈じょうろう」とばれる受領じゅりょう最高峰さいこうほうであったせいよん伊予いよもりとなった。これは朝廷ちょうてい頼義よりちかたいして最大さいだいきゅう功績こうせきみとめたこととなる。さだにんおとうとそうつとむらは伊予いよこくのちに筑前ちくぜんこく宗像むなかたながされた。このことは『平家ひらか物語ものがたり』にも記述きじゅつえる。武則たけのりはこの戦功せんこうにより朝廷ちょうていよりしたがえじょう加階かかい武則たけのりもとからしたがえであったため)のうえ鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん補任ほにんされておくろくぐんあたえられ、清原きよはら奥羽おうう覇者はしゃとなった。けいきよしつまであったよりゆき息女そくじょ有加ゆかいち乃末陪)はおっとあにてきとしてたたかった武貞たけさだ再嫁さいかし、けいきよし遺児いじ藤原清衡ふじわらのきよひら共々ともども清原きよはらられた。

ただし、頼義よりちかもとめていたろうしたがえ10めいあまりにたいする恩賞おんしょうされず、これに不満ふまんいた頼義よりちか以後いごも2ねんにわたってには赴任ふにんせず、京都きょうとにて朝廷ちょうてい交渉こうしょうつづけることになった[4]

文献ぶんけんまえきゅうねんやく[編集へんしゅう]

陸奥みちのくはなし』は数々かずかず挿話そうわまじえてほん合戦かっせん様子ようすしるしているが、テクストによる異同いどうおおく、その内容ないよう検討けんとうするには史料しりょう批判ひはん必要ひつようである。また既存きそん漢籍かんせきからうつされたとおぼしき部分ぶぶん散見さんけんされる。なお、ほんやく性格せいかくについて、『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうだい31かんだい11「陸奥みちのくこく安倍頼時あべのよりときえびすこくきてむなしくかえること」とうまえ、蝦夷えぞ反乱はんらん同調どうちょうしようとしたとの嫌疑けんぎ頼義よりちかからけたことにともなうものとの蝦夷えぞがわった見解けんかい近年きんねんされている。

みなもと神話しんわ原点げんてんとしてのぜんきゅうねんやく[編集へんしゅう]

ぜんきゅうねんやく」における頼義よりちか戦勝せんしょうは、河内かわうちはじめ武門ぶもんいえなかでも最高さいこう格式かくしきいえである根拠こんきょとして、中世ちゅうせい以降いこうかえ参照さんしょうされるようになった。実際じっさい頼義よりちか家系かけいからはのちみなもと頼朝よりとも鎌倉かまくら幕府ばくふひらいただけでなく、室町むろまち幕府ばくふひらいた足利尊氏あしかがたかうじ河内かわうちはじめであった。かれらが武門ぶもん棟梁とうりょう象徴しょうちょうとして征夷大将軍せいいたいしょうぐん名乗なのった背景はいけいには、頼義よりちか蝦夷えぞ征討せいとうしたかたちとなったこの戦役せんえきがある[5]頼朝よりとも源義経みなもとのよしつねおよび奥州おうしゅう藤原ふじわら征討せいとうさいし、自身じしんが「ぜんきゅうねんやく」を意識いしきし、平泉ひらいずみ滅亡めつぼうもさらに北上ほくじょうして、父祖ふそ戦勝せんしょう厨川くりやがわ厨川くりやがわしがらみ)」へおもむき、同地どうちおこなったてつくぎ故事こじ再現さいげんしたとしるされている。また、後世こうせいぜんきゅうねんやく聖地せいちともえる「斯波しばぐん」を領有りょうゆうした足利あしかが分家ぶんけ斯波しば名乗なのり、室町むろまち幕府ばくふさん管領かんりょういえ筆頭ひっとうかくとなった。なお、江戸えど幕府ばくふひらいた徳川とくがわ家康いえやす河内かわうちはじめ新田にった傍流ぼうりゅうであるとくかわ自称じしょうした。

宇治うじ拾遺しゅうい物語ものがたり』の「白河しらかわいんおそはれきゅうごと」には、武芸ぶげい人智じんちえたものであったとしるされている。

その[編集へんしゅう]

  • ぜんきゅうねんやく源氏げんじぐん従軍じゅうぐんしていた長谷川はせがわ五郎ごろう兵衛ひょうえじつよしなる武将ぶしょうあしまき温泉おんせんちか小谷おたに(おや)という負傷ふしょうして、そのかくれて土着どちゃくした。ぜんきゅうねんやくからやく100ねんうけたまわ年間ねんかん長谷川はせがわ子孫しそん黒川くろかわげん会津若松あいづわかまつ)で飴屋あめやげん長谷川はせがわ五郎ごろう兵衛ひょうえ)を創業そうぎょうしたとつたわっている[6]
  • 盛岡もりおか町名ちょうめいに「ぜんきゅうねん」があるが、昭和しょうわ初期しょき住民じゅうみんによって命名めいめいされた、比較的ひかくてきあたらしい地名ちめいである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 蝦夷えぞのうち朝廷ちょうてい帰服きふくした陸奥みちのく俘囚ふしゅうちょうであったとの見方みかたつよい。また王朝おうちょう国家こっか時代じだい朝廷ちょうていがわやとわれた傭兵ようへい隊長たいちょうであるへい(つわもの)だったのではないかとのせつや、東北とうほく地方ちほう獣皮じゅうひ砂金さきん大和やまと朝廷ちょうてい提供ていきょうする交易こうえき仲介ちゅうかいしゃ役割やくわりがあったとのせつもある。『陸奥みちのくはなし』の記述きじゅつによれば、ながうけたまわころ(1046ねん-1052ねん陸奥みちのくくにおくろくぐんつかさ安倍あべよりゆきりょうというものがあり、祖父そふ安倍あべ忠頼ただよりころから「東夷あずまえびす酋長しゅうちょう」として権勢けんせいるいしょ村落そんらく服従ふくじゅうさせ、国司こくしをもおそれぬほどであった、とある。ただし、「東夷あずまえびす酋長しゅうちょう」のはなしは『陸奥みちのくはなし』でもひろられたぐんしょ類従るいじゅうほんにはしるされているものの、それよりもふる形態けいたいとみられるみことけいかく文庫本ぶんこぼんには忠頼ただよりはなく、ただよりゆきりょうが「酋長しゅうちょう」を自称じしょうしたとしかしるされていない。これにたいして戸川とがわてんは『はんこくちょうもと9ねん(1036ねん)12月22にちじょう陸奥むつ権守ごんもり任命にんめいされた「安倍あべ忠好ただよし」をよりゆきりょうちちとされる安倍あべ忠良ただよしどう一人物いちじんぶつであるとし、忠良ただよし忠好ただよし父子ふしから陸奥みちのく下向げこうしてそのまま京都きょうとかえらずにおくろくぐん土着どちゃくして現地げんち蝦夷えぞしたがえたとする「中央ちゅうおう貴族きぞく出身しゅっしんせつとなえている[1][2]
  2. ^ このころ多賀たが国府こくふ在庁ざいちょうかんじん伊具いぐ亘理わたり地方ちほう豪族ごうぞくでもある平永ひらなが伊具いぐ十郎じゅうろう)・藤原ふじわらけいきよし亘理わたりけん大夫たいふ)も安倍あべよりゆきりょうおんなめとりその勢力せいりょくくわわった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 戸川とがわてんぜんきゅうねん合戦かっせん安倍あべ」(初出しょしゅつ:じゅう世紀せいき研究けんきゅうかい へん中世ちゅうせい成立せいりつ政治せいじ文化ぶんか』(東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1999ねん)/所収しょしゅう:戸川とがわ平安へいあん時代じだい政治せいじ秩序ちつじょ』(どうなりしゃ、2018ねん))
  2. ^ 戸川とがわてん安倍あべ鳥海とりうみしがらみ」(初出しょしゅつ:『国際こくさい開発かいはつがく研究けんきゅう』16かん2ごう拓殖大学たくしょくだいがく国際こくさい開発かいはつ研究所けんきゅうじょ、2017ねん)/所収しょしゅう:戸川とがわ平安へいあん時代じだい政治せいじ秩序ちつじょ』(どうなりしゃ、2018ねん))
  3. ^ 大矢おおやくにせん黄金おうごん平泉ひらいずみ 栄枯盛衰えいこせいすいものがたり」『芸術げいじゅつ新潮しんちょう』2011ねん10がつごう、31ページ
  4. ^ 古澤ふるさわ直人なおと謀叛ぼうほんかかわる勲功くんこうしょう」『中世ちゅうせい初期しょきの〈謀叛ぼうほん〉と平治へいじらん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねんISBN 978-4-642-02953-7 P49-52.
  5. ^ せき、2006ねん、78-81ページ
  6. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん2009ねん11月4にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]