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胆沢いさわしろ

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胆沢いさわしろ
岩手いわてけん
胆沢城跡歴史公園
胆沢いさわ城跡じょうせき歴史れきし公園こうえん
城郭じょうかく構造こうぞう 古代こだいしろしがらみ
築城ちくじょうぬし 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ
築城ちくじょうねん のべれき21ねん802ねん
はいじょうねん えいたもつ3ねん1083ねんごろ
遺構いこう 政庁せいちょうあと官衙かんがあとなど
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき胆沢いさわ城跡じょうせき
再建さいけん造物ぞうぶつ 外郭がいかくみなみもんりょうわき築地つきじへいみなみ大路おおじ
位置いち 北緯ほくい3910ふん47.02びょう 東経とうけい1418ふん6.00びょう / 北緯ほくい39.1797278 東経とうけい141.1350000 / 39.1797278; 141.1350000 (胆沢いさわしろ)座標ざひょう: 北緯ほくい3910ふん47.02びょう 東経とうけい1418ふん6.00びょう / 北緯ほくい39.1797278 東経とうけい141.1350000 / 39.1797278; 141.1350000 (胆沢いさわしろ)
地図ちず
胆沢城の位置(岩手県内)
胆沢城
胆沢いさわしろ
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東北とうほく地方ちほうおもしろしがらみ

胆沢いさわしろ(いさわじょう/いさわのき)は、陸奥みちのくこく胆沢いさわぐん現在げんざい岩手いわてけん奥州おうしゅう水沢みずさわ)にあった日本にっぽん古代こだいしろしがらみくに史跡しせき指定していされている。

坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ802ねんのべれき21ねん)にきずき、1083ねんえいたもつ3ねん)のこうさんねんやくころまでやく150ねんにわたり鎮守ちんじゅとして機能きのうした。

歴史れきし

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平安へいあん時代じだい

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文献ぶんけんじょうはつは『日本にっぽんりゃく』にあり、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ802ねんのべれき21ねん)1がつ9にち陸奥みちのくこく胆沢いさわじょうつくるために征服せいふく派遣はけんされたことをつたえる。征夷大将軍せいいたいしょうぐん田村たむら麻呂まろはこれによりみやつこ胆沢いさわじょう使兼任けんにんした。11にちには東国とうごくの10かこく、すなわち駿河するがこく甲斐かいこく相模さがみこく武蔵むさしこく上総かずさこく下総しもうさこく常陸ひたちこく信濃しなのこく上野うえのこく下野げやこく浪人ろうにん4,000にん胆沢いさわじょうはいするみことのりされた。おそらくまだ建設けんせつちゅうの4がつ15にちに、田村たむら麻呂まろ蝦夷えぞ指導しどうしゃアテルイ降伏ごうぶくほうじた。

しん征服せいふくしろとしては、翌年よくねんこれよりきた志波しばしろきずかれた。志波しわじょうほう規模きぼおおきいので、当初とうしょはさらなる征討せいとうのため志波しわじょう主要しゅよう拠点きょてんにするつもりだったと推測すいそくされている。しかしまもなく征討せいとう中止ちゅうしされ、志波しわじょうはたびたびの水害すいがいのせいで812ねんひろしじん3ねんごろちいさなとくじょう移転いてんした。これによって後方こうほうにある胆沢いさわじょうさい重要じゅうようされるようになった。

9世紀せいきはじめに鎮守ちんじゅ国府こくふがある多賀城たがじょうから胆沢いさわじょう移転いてんした。その正確せいかくとし不明ふめいだが、はやければ建設けんせつ同時どうじの802ねんおそければいったん志波しばじょうにおかれたとみて812ねんとなる。『日本にっぽん』の808ねん大同だいどう3ねん)7がつ4にちじょうから、このときすで鎮守ちんじゅ国府こくふはなれたにあったことがれるが、それが志波しば胆沢いさわかまではわからない。移転いてん胆沢いさわじょう陸奥みちのくこく北部ほくぶいま岩手いわてけんあたりを統治とうちする軍事ぐんじ行政ぎょうせい拠点きょてんとなった。

815ねんひろしじん6ねん)からは軍団ぐんだん兵士へいし400にんけん300にんけい700にん駐屯ちゅうとんすることになった。兵士へいしは60にちけんは90にち交替こうたいせいによって常時じょうじ700の兵力へいりょく維持いじした。これ以前いぜんには他国たこくから派遣はけんされた鎮兵500にん常駐じょうちゅうしていた。はじめから500にんだったか、べつ改正かいせいて500にんになったのかは不明ふめいである。

9世紀せいき後半こうはんになると、その権威けんい形骸けいがいしていった。

現代げんだい

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1922ねん大正たいしょう11ねん)10がつ12にち内務省ないむしょう告示こくじ270ごうくに史跡しせき指定していされた。

1971ねん昭和しょうわ46ねん)、岩手いわて日報にっぽうで「胆沢いさわじょう」が連載れんさいされた。古代こだいじょうしがらみである胆沢いさわしろ中心ちゅうしんにした古代こだい物語ものがたりである[1]

2002ねん平成へいせい14ねん)に造営ぞうえい1200ねん節目ふしめむかえた。また、朝廷ちょうてい抵抗ていこうしたアテルイ没後ぼつご1200ねんともかさなって、地元じもと水沢すいざわ当時とうじ)では、様々さまざまなイベントがおこなわれた(そのイベントというのもアテルイがおもであった。しかし、付加ふかてき地元じもとでの認知にんちがった)。

2005ねん平成へいせい17ねん9月3にちには、政庁せいちょうからおよそ400mはなれた伯済寺はくさいじ遺跡いせきより、墨書ぼくしょ土器どきに「政所まんどころ」の文字もじいたものがつかったと発表はっぴょうした。これにより有力ゆうりょくかんじんしろがい自分じぶんやしきない執政しっせいしていた可能かのうせいつよくなった。

2019ねんれい元年がんねん)6がつ外郭がいかくみなみもんりょうわき築地つきじへいみなみ大路おおじ一部いちぶ復元ふくげんされ、胆沢いさわ城跡じょうせき歴史れきし公園こうえんとして開園かいえんされた。

構造こうぞう

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政庁せいちょう地区ちく
政庁せいちょう前門ぜんもんまえから正殿せいでん方向ほうこうのぞむ。
政庁せいちょう地区ちく
回廊かいろうあとから東脇ひがしわき殿でんあと正殿せいでんあとのぞむ。

発掘はっくつ調査ちょうさによれば、そう面積めんせきはおよそ46まんm2で、外側そとがわからはば3-5mでふかさ1-1.5mのほりがあり、築地つきじ(ついじ)とばれるたかさ3.9mのかためた築地つきじへい内側うちがわにもまたほりをもつ、じゅうほりによる外郭がいかくせんかこまれている。

その内部ないぶには中央ちゅうおうに90m四方しほう政庁せいちょうがあり、これもまた外壁がいへきともなう。

また正門せいもん外郭がいかくみなみもん(がいかくなんもん)からきたび、政庁せいちょう前門ぜんもん政庁せいちょうみなみもんの2つのもんがある。

  • 政庁せいちょう - 儀式ぎしきおこな中心ちゅうしん施設しせつ
  • 官衙かんが(かんが) - 政庁せいちょうのそばにある役所やくしょ

所在地しょざいち

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  • 岩手いわてけん奥州おうしゅう水沢すいざわ佐倉河さくらかわきゅう蔵田くらた
  • 水沢すいざわえきよりバスきゅう国道こくどう4ごう北上ほくじょうしてやく15ふん佐倉河さくらかわ八幡やはた」で下車げしゃする。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ はちかん2003、196ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 黒板こくばん勝美かつみへんしんてい増補ぞうほ国史こくし大系たいけい普及ふきゅうばん日本にっぽんりゃく吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1979ねん
  • 黒板こくばん勝美かつみへんしんてい増補ぞうほ国史こくし大系たいけい普及ふきゅうばん日本にっぽん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1975ねん
  • 八巻はちまき孝夫たかお昭和しょうわよん年代ねんだい城郭じょうかく研究けんきゅうながれについて ()」『中世ちゅうせい城郭じょうかく研究けんきゅうだい17ごう中世ちゅうせい城郭じょうかく研究けんきゅうかい、2003ねん、174-200ぺーじISSN 0914-3203 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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