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斯波氏 - Wikipedia コンテンツにスキップ

斯波しば

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斯波しば
家紋
本姓ほんせい 清和せいわはじめ河内かわうちはじめ[2]
いえ 斯波しば
種別しゅべつ 武家ぶけ
華族かぞく男爵だんしゃく
出身しゅっしん 陸奥みちのくこく斯波しばぐん[2]
おも根拠地こんきょち 尾張おわりこく
越前えちぜんこく
陸奥みちのくこく
出羽でわこく
東京とうきょう本郷ほんごう駒込こまごめあけぼのまち
著名ちょめい人物じんぶつ 斯波しば
斯波しば高経たかつね
斯波しばけん
斯波しばよししょう
斯波しばよしあつし
斯波しば義敏よしとし
斯波しばよしれん
斯波しば義寛よしひろ
斯波しばしげる
斯波しば孝四郎こうしろう
支流しりゅう分家ぶんけ 石橋いしばし
大崎おおさき
最上もがみ
高水寺こうすいじ斯波しば
大野おおの斯波しば 
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

斯波しば(しばうじ、しばし)は、武家ぶけ華族かぞくだった日本にっぽん氏族しぞく室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが一門いちもん細川ほそかわ畠山はたけやま交替こうたい管領かんりょうにんぜられる有力ゆうりょく守護しゅご大名だいみょうであった[2]越前えちぜん尾張おわり遠江とおとうみなどの守護しゅご世襲せしゅうしたが、戦国せんごく時代じだいになると越前えちぜん守護しゅごだい朝倉あさくらに、遠江とおとうみ今川いまがわうばわれ、尾張おわり織田おだようされるも戦国せんごく末期まっき織田おだ信長のぶなが放逐ほうちくされて滅亡めつぼうした[3]明治めいじになると斯波しば末裔まつえいしょうする加賀かがはん津田つだ斯波しば改姓かいせいして男爵だんしゃくじょされた[4]

足利あしかが尾張おわり[編集へんしゅう]

嫡子ちゃくしから庶子しょし[編集へんしゅう]

斯波しばは、鎌倉かまくら時代ときよ足利あしかがやすし長男ちょうなんいえ陸奥みちのくこく斯波しばぐん(しわぐん、げん岩手いわてけん盛岡もりおか一部いちぶおよび紫波しわぐん)を所領しょりょうとし、宗家そうけからかれたのにはじまる[2]いえ同母どうぼおとうとけんあらわは、室町むろまち時代ときよ九州きゅうしゅう探題たんだい世襲せしゅうする渋川しぶかわである。

いえははは、執権しっけん北条ほうじょう有力ゆうりょく一門いちもん名越なごや出身しゅっしんで、当初とうしょやすし正室せいしつであった。しかし、あに名越なごやひかりときらが嫡流ちゃくりゅう北条ほうじょうとく宗家そうけ反乱はんらんこしたためか、はは側室そくしつ退しりぞき、いえ嫡子ちゃくしから庶子しょしへとあらためられた。わって宗家そうけ北条ほうじょうむすめやすし正室せいしつとなってよりゆきもうかもうけ、これが足利あしかが嫡流ちゃくりゅう宗家そうけ継承けいしょうすることとなった。

だがもと嫡子ちゃくしであったいえは、足利あしかが一門いちもんちゅうでも宗家そうけかくゆうし、足利あしかが宗家そうけとはべつ将軍しょうぐん直接ちょくせつつかえる鎌倉かまくら殿どの御家人ごけにんとなった。また宗家そうけであるおとうとよりゆきはや死去しきょしたため、そのあと相続そうぞくした家時いえとき後見人こうけんにんとなって惣領そうりょう代行だいこうした。したがって、いえは、自立じりつできるほどの地位ちい所領しょりょうてずに宗家そうけ家人かじんになっていったほか足利あしかが庶流(仁木にき細川ほそかわなど)とは一線いっせんかくした存在そんざいであった。

この子孫しそん代々だいだい尾張おわりもり叙任じょにんされたため、足利あしかが尾張おわり[5]ばれるいえとなる[2]。このように鎌倉かまくら時代じだい斯波しば足利あしかがせいしょうする足利あしかがべつりゅうあつかいであり、斯波しばとして散見さんけんされはじめるようになるのは室町むろまち時代じだいなかばになってからである[6]

斯波しばせいしるされたものでは、『あられきおうひさし2ねん7がつ26にちじょうに「管領かんりょう斯波しば禅門ぜんもんよししょう)」とあるものの、古記こきろくではさらに時代じだいくだり、『まんすみじゅんきさき日記にっきおうなが29ねん11がつ20日はつかじょうの「斯波しばたけまもるよしあつし)」がはつである[7]。また、「斯波しば」のかたについても「斯和」[8]こころざしおう[9]などのべつ表記ひょうきから、元々もともとは"しわ"だったものがのちに"しば"に変化へんかしたとかんがえられる[10]

室町むろまち幕府ばくふ草創そうそう重鎮じゅうちん[編集へんしゅう]

後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく運動うんどう宗家そうけ足利尊氏あしかがたかうじがくみすると、足利あしかが尾張おわり当主とうしゅ高経たかつねおとうといえけんらもこれにしたがって活躍かつやくした(元弘もとひろらん)。さらにたかしたてたけし政権せいけんたもとたもとかち、あらたな武家ぶけ政権せいけん室町むろまち幕府ばくふ)を開始かいししてからも、高経たかつね兄弟きょうだい尊氏たかうじ与党よとうとしてみなみ朝方あさがたしょう新田にった義貞よしさだ越前えちぜんつなど活躍かつやくし、幕府ばくふ草創そうそう有力ゆうりょくしゃであった。

こうけい嫡男ちゃくなん家長かちょうが『太平たいへい』に「志和しわ三郎さぶろう」あるいは資料しりょうに「志和しわちょう弥三郎やさぶろう」などのあらわれるあたりが斯波しば志和しわ名乗なのるはじめで、家長かちょう所領しょりょう斯波しばぐんのある陸奥みちのくこく奥州おうしゅうそう大将たいしょうけん関東かんとう管領かんりょうとしてみなみ朝方あさがた北畠きたばたけ顕家あきいえらと対抗たいこうし、わかくして戦死せんしした。

いえけん奥州おうしゅう管領かんりょうとして下向げこうして陸奥みちのくこくをまとめげ、南朝なんちょう勢力せいりょく駆逐くちく成功せいこうする。出羽でわこくにも次子じしおくみ、奥羽おうう両国りょうこくでの子孫しそん繁栄はんえいいしずえきずいた(奥羽おううにおける斯波しばについては奥州おうしゅう斯波しば参照さんしょう)。

かんおう擾乱じょうらんこうけい足利あしかが直義ただよし支持しじし、たかし支持しじしたいえけん対立たいりつした。そのたかしったものの、引付ひきつけあたまじんにんぜられたいえけん比較ひかくして冷遇れいぐうされ、一時期いちじき足利あしかが直冬ただふゆむすんで幕府ばくふ反抗はんこうするなど、不遇ふぐう時代じだい経験けいけんしている[7]

執事しつじ管領かんりょう就任しゅうにん[編集へんしゅう]

たかし死後しご2だい将軍しょうぐん義詮よしあきら時代じだいとなり、こうけい執事しつじへの就任しゅうにんわれて復権ふっけんみちひらかれるが、執事しつじとは足利あしかが宗家そうけ家政かせい機関きかんであり、高師直こうのもろなおいたるまで宗家そうけ譜代ふだい被官ひかんであるこう代々だいだいつとめるところであった。つまり執事しつじ就任しゅうにん格下かくした従者じゅうしゃあつかいをれることともなり、宗家そうけとほぼ同格どうかくという意識いしき足利あしかが尾張おわり斯波しば)にあって、打診だしんされたこうけい三男さんなん氏頼うじより就任しゅうにんしぶっていた。結局けっきょくこうけいよんなんでわずか13さいしょう執事しつじけ、こうけいがこれを後見こうけんするかたちがとられた。

しかしこのころから、執事しつじしょくたん足利あしかが宗家そうけ家政かせい機関きかんとしてそのいえりょう従者じゅうしゃ管理かんりする立場たちばえ、幕政ばくせい参与さんよする有力ゆうりょく守護しゅご大名だいみょう座長ざちょうてき性格せいかく管領かんりょうしょくへとかたちえ、管領かんりょう実父じっぷとして高経たかつね幕府ばくふ主導しゅどうけんにぎることとなる。また、よんなんにして年少ねんしょうであったよししょうも、執事しつじ管領かんりょう地位ちい上昇じょうしょう結果けっか戦死せんしした長男ちょうなん家長かちょうわって斯波しば嫡流ちゃくりゅう位置いちのぼった[注釈ちゅうしゃく 1]

こうけいは、よししょう執事しつじ管領かんりょう)にけたほか、五男いつおしゅさむらいしょあたまじんまご義高よしたか次男じなんけい)を引付ひきつけあたまじんけて一門いちもん幕府ばくふ要職ようしょくかためる体制たいせい構築こうちくする。足利あしかが一門いちもん最高さいこう家格かかくほこ長老ちょうろうであり、元弘もとひろ挙兵きょへい以来いらい元勲げんくんであるこうけい影響えいきょうりょくおおきく、西国さいこく有力ゆうりょく大名だいみょうであった大内おおうち山名やまな幕府ばくふへの帰順きじゅんにも成功せいこうし、高経たかつね体制たいせい幕府ばくふ安定あんてい一定いってい成果せいかをあげた。しかし幕府ばくふ権威けんいたかめる政策せいさく早急そうきゅうすぎたことや、次男じなん九州きゅうしゅう探題たんだいけい九州きゅうしゅう攻略こうりゃく失敗しっぱいしたこともあって諸侯しょこうこうけいへの反感はんかんたかまり、こうけい協力きょうりょくしゃであった佐々木ささきみちほまれらの策謀さくぼうによって失脚しっきゃくした(貞治さだはるへん)。

たけまもる[編集へんしゅう]

由来ゆらい[編集へんしゅう]

平安へいあん女学院じょがくいんまえ武衛陣ぶえいじん勘解由小路かげゆこうじていあと

管領かんりょうしょう以降いこう室町むろまち幕府ばくふさん管領かんりょういえひとつとなった斯波しば嫡流ちゃくりゅうは、前述ぜんじゅつとお実際じっさいには室町むろまち時代じだいにも斯波しばせい記述きじゅつされるれいはほとんどなく、たけまもるいえばれる[2]基本きほんてきには当時とうじたけまもる屋形やかた)」や「勘解由小路かげゆこうじたけまもる)」としるされている。

たけまもるぶえいとは兵衛ひょうえ唐名とうみょうで、代々だいだい当主とうしゅ兵衛ひょうえとく(かみ=長官ちょうかん)や(すけ=次官じかん)ににんぜられた[注釈ちゅうしゃく 2]ことに由来ゆらいする。とく唐名とうみょうたけまもる大将軍だいしょうぐんといい、室町むろまち幕府ばくふでは初代しょだい将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじやそのおとうと幕府ばくふ実質じっしつてき首長しゅちょうであった足利あしかが直義ただよし、またたかし鎌倉かまくら公方くぼう基氏もとうじなど将軍しょうぐん近親きんしんしゃかぎられていたが、しょうにんじられて[注釈ちゅうしゃく 3]以降いこう斯波しば当主とうしゅひだり兵衛ひょうえとくさひょうえのかみ任官にんかんするのが慣例かんれいとなった(ひだり兵衛ひょうえとくまですすんだ可能かのうせいがある当主とうしゅしょう義重よししげよしあつし義敏よしとし義寛よしひろの5めい)。

勘解由小路かげゆこうじたけまもる[編集へんしゅう]

勘解由小路かげゆこうじ(かでのこうじ)は洛中らくちゅう小路こうじで、たけまもるがここに本邸ほんていかまえたことにより、南北なんぼくあさ合体がったいした明徳めいとくころからえいただしころまでのやく100年間ねんかん文献ぶんけんに「勘解由小路かげゆこうじ左衛門さえもんとく入道にゅうどう」(斯波しばよししょう)や「勘解由小路かげゆこうじたけまもる」(斯波しば義重よししげ斯波しばよしあつしら)などとの呼称こしょうあらわれる。ほぼ「勘解由小路かげゆこうじたけまもる」もしくは「勘解由小路かげゆこうじ◯◯入道にゅうどう」などとばれ、ぎゃくに「勘解由小路かげゆこうじきょう」や「勘解由小路かげゆこうじ」と単独たんどくばれることはほとんどい。

邸宅ていたく武衛陣ぶえいじんばれ、現在げんざいでもその一帯いったい武衛陣ぶえいじんまち京都きょうと上京かみぎょう)という地名ちめいつづいている。勘解由小路かげゆこうじてい当初とうしょ寝殿造しんでんづくり貴族きぞくてき優美ゆうびなものであったらしいが次第しだい防御ぼうぎょ機能きのうたかめられた[よう出典しゅってん]

清和せいわはじめ足利あしかがべつりゅうである足利あしかが尾張おわり斯波しばよししょう室町むろまち幕府ばくふ管領かんりょうとなり本宅ほんたく勘解由小路かげゆこうじめんしてかまえたことから勘解由小路かげゆこうじ殿でんとよばれ直系ちょっけい子孫しそん代々だいだい継承けいしょうしてその邸宅ていたく武衛陣ぶえいじん)に居住きょじゅうしたことから斯波しば宗家そうけべつ家名かめいとして定着ていちゃくした。

さん管領かんりょう筆頭ひっとう[編集へんしゅう]

こうけい死後しごしょう幕政ばくせい復帰ふっきすると、とき管領かんりょう細川ほそかわよりゆきこれ対立たいりつよりゆきこれ政策せいさく批判ひはんてきはん細川ほそかわ諸侯しょこう結集けっしゅうさせ、3だい将軍しょうぐん義満よしみつたいよりゆきこれ罷免ひめんもとめるかんれき政変せいへんこしてふたた管領かんりょうとなった。しょうは、将軍しょうぐん義満よしみつ幕府ばくふ全盛ぜんせい時代じだいささつづけ、義満よしみつ没後ぼつごも4だい将軍しょうぐん義持よしもち補佐ほさした。このあいだ朝廷ちょうていから打診だしんのあった義満よしみつたいする太上天皇だじょうてんのう追号ついごう拒否きょひしたり、屈辱くつじょくてきとの批判ひはんおおかった勘合かんごう貿易ぼうえき廃止はいし提言ていげんするなど、かんれき政変せいへん以降いこう自身じしんまで、およそ30年間ねんかんにわたって幕府ばくふ宿老しゅくろうとしておおきな影響えいきょうりょくった。またさん管領かんりょうよんしょくななとうせいができると、斯波しば畠山はたけやま細川ほそかわとともに管領かんりょう家柄いえがらとくさん管領かんりょう筆頭ひっとう家柄いえがらとしておもんじられた。

しょう義重よししげは、おうひさし6ねん1399ねん)のおうながらんにおける大内おおうち討伐とうばつこうにより尾張おわり守護しゅごしょくを、さらにのちには遠江とおとうみ守護しゅごしょくくわえられて、以後いごはこれに本領ほんりょうであった越前えちぜんわせた3かこく守護しゅご世襲せしゅうした。

勢力せいりょく後退こうたい[編集へんしゅう]

おうひさし17ねん1410ねん)、宿老しゅくろうとして長年ながねんにわたり幕府ばくふおおきな影響えいきょうりょくあたえていたよししょうぼっすると、義重よししげよしあつし管領かんりょうしょく解任かいにんされてしまう。おうなが21ねん1414ねん)にはしょうおいまんたねしゅ)が将軍しょうぐん義持よしもち不興ふきょうこうむり、加賀かが守護しゅごしょくうしなって高野山こうのやま隠退いんたいえいとおる元年がんねん1429ねん)に足利あしかが義教よしのりが6だい将軍しょうぐん就任しゅうにんするとじゅんふたた管領かんりょうとなったが、強権きょうけんてき政治せいじおこなきょう宥和ゆうわてきゆうわてき政策せいさく目指めざじゅんあいいれず、よしじゅん度々たびたび管領かんりょう辞職じしょくもうている。やがて嫡男ちゃくなんよしゆたかにも先立さきだたれ心身しんしんともに疲弊ひへいしたよしじゅんは3ねんえいとおる4ねん1432ねん)にようやく管領かんりょう辞任じにんゆるされ、よくえいとおる5ねん1433ねん)に病没びょうぼつする。

じゅん後嗣こうしとなったおとうときょうやそのよしけん相次あいついで早世そうせいし、そのあいだ勢力せいりょくばした細川ほそかわ畠山はたけやまされ、たけまもるおおきく後退こうたいしてしまう。細川ほそかわ畿内きないおさえ、畠山はたけやま畿内きない近辺きんぺんぶんこくゆうすのにたいして、たけまもるぶんこく尾張おわり越前えちぜんといった京都きょうとからとお場所ばしょ分散ぶんさんしていたうえ当主とうしゅ京都きょうと滞在たいざいしていることがおおかったため、支配しはい守護しゅごだい委任いにんせざるをえなかった。このため次第しだいぶんこく実権じっけん越前えちぜん守護しゅごだい甲斐かい朝倉あさくら尾張おわり守護しゅごだい織田おだらの重臣じゅうしんらに牛耳ぎゅうじられるようになっていった。

足利あしかが一門いちもん高家こうか[編集へんしゅう]

このあいだ、6だい将軍しょうぐん義教よしのり時代じだいえいとおる年間ねんかん)に一家いっか制度せいど整備せいびされたとされる。「一家いっか」は足利あしかが一門いちもんなかでも家格かかくたかよしりょう石橋いしばし渋川しぶかわ京都きょうと)のさんさん管領かんりょうさんしょく)と同格どうかくぐうし(一説いっせつよしりょうさんしょく優越ゆうえつするという)、かつ後世こうせいには足利あしかが将軍家しょうぐんけ断絶だんぜつさいにはその継承けいしょうけんっていたとの一種いっしゅ伝承でんしょうがささやかれた家格かかくであった。「一家いっか」のさん斯波しばは"足利あしかが惣領そうりょうの庶兄"をとする共通きょうつうてんゆうし(見方みかたえれば斯波しばにも潜在せんざいてき将軍家しょうぐんけ継承けいしょうけんがあり、実際じっさいに5だい将軍しょうぐん足利あしかが義量よしかず没後ぼつごにはそうしたうわさながされたことが『聞御』にしるされている)[11]さんのうち、石橋いしばし足利あしかが尾張おわり分家ぶんけすじ渋川しぶかわおとうとすじ同族どうぞくなので、たけまもる家格かかく一家いっか相当そうとうたかさがあり、実際じっさい室町むろまち殿どの書札しょさつれいかぎり、よしりょうはもちろんのこと堀越ほりこし公方くぼういえなどの将軍しょうぐん連枝れんしおな書札しょさつれい(「じょう如件」のしょとめ文言もんごん)を適用てきようされ、前述ぜんじゅつとおどう時代じだい史料しりょうのほとんどで「斯波しば」の名字みょうじあらわれず「たけまもる」または「勘解由小路かげゆこうじたけまもる」としるされるなど(なおよしりょうは「よしりょう」と名字みょうじ記述きじゅつされる)、戦国せんごく後期こうきいたるまで室町むろまち幕府ばくふ体制たいせいでは別格べっかくあつかいであった[12]。それにもかかわらずさんしょくめられたのは、政治せいじてき非力ひりき一家いっかことなって勢力せいりょくおおきい鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかがたけまもる将軍家しょうぐんけ継承けいしょう可能かのうせいから排除はいじょするためであったともかんがえられる[13]

また、鎌倉かまくら公方くぼう管領かんりょう畠山はたけやま細川ほそかわふく諸侯しょこう将軍しょうぐんからへんいみなあたえられる場合ばあい通常つうじょういみなしたいちたまわるのであるが、たけまもる場合ばあい一家いっか同様どうよう将軍家しょうぐんけ代々だいだいつうである「よしたまわ[14][注釈ちゅうしゃく 4]のを慣例かんれいとしており、周囲しゅういからも「将軍しょうぐん家臣かしん」ではく「将軍しょうぐん一族いちぞく[15]」とられていたとおもわれる。また外国がいこく使節しせつたけまもるをして「おうつぎじん[16]」と表現ひょうげんしており、これらをてもたけまもる一家いっか同等どうとう以上いじょうたか待遇たいぐうけていたことをしめしている。

家督かとくあらそ[編集へんしゅう]

けんぼつ一門いちもんである大野おおの斯波しばからの養子ようし義敏よしとしと、同族どうぞく渋川しぶかわ出身しゅっしんよしれんとが家督かとくめぐってあらそった(たけまもる騒動そうどう)。このあらそいや将軍家しょうぐんけ畠山はたけやま家督かとく相続そうぞく原因げんいんとなって応仁おうにん元年がんねん1467ねん)の応仁おうにんらんきる。かど西にし幕府ばくふ管領かんりょうとして西にしぐん主力しゅりょくとなった。一方いっぽうひがしぐんぞくした義敏よしとし越前えちぜんくだってそのいちえん支配しはい目指めざしたが、越前えちぜん守護しゅごだい朝倉あさくら守護しゅごしょくうばわれ、また遠江とおとうみ駿河するが守護しゅご今川いまがわ侵食しんしょくされ、尾張おわり義敏よしとし子孫しそん守護しゅごだい織田おだ推戴すいたいされて存続そんぞくするのみとなった。

なお、よしかどよししゅんは、将軍家しょうぐんけ連枝れんし(もしくは越前えちぜん在国ざいこくした斯波しば一族いちぞく)ともつたわるくらたに公方くぼう今立いまだて斯波しば)をぎ、形式けいしきてき越前えちぜん国主こくしゅとして朝倉あさくら推戴すいたいされた(朝倉あさくら滅亡めつぼうまでくらたにつづく)。

尾張おわり在国ざいこく[編集へんしゅう]

尾張おわりのみをのこすところとなったたけまもるであるが、らんにすぐさま守護しゅごだい織田おだ傀儡かいらいかいらいとなったわけではなく、斯波しば義敏よしとし義寛よしひろが9だい将軍しょうぐん足利あしかが義尚よしなおによる六角ろっかく高頼たかより征伐せいばつ織田おだ応仁おうにんらん大和やまともり伊勢いせまもるの2つに分裂ぶんれつしていた)をしたがえてさんじんしているように、たけまもる依然いぜんとして守護しゅごだい権力けんりょくたいして優越ゆうえつした存在そんざいであった。また、義寛よしひろ尾張おわり在国ざいこくつづけられた背景はいけいとして、隠居いんきょであったちち義敏よしとし京都きょうと滞在たいざいして幕府ばくふ要人ようじんとの政治せいじてき関係かんけいたもっていたために領国りょうごく経営けいえい専念せんねんできた側面そくめんがあり、義尚よしなおたけまもるはむしろ政治せいじてき影響えいきょうりょく回復かいふくさせていたとする指摘してきもある[17]たけまもる中央ちゅうおう政治せいじにおいてちからうしなったのはあかりおう政変せいへんとその直後ちょくご発生はっせいした今川いまがわ遠江とおとうみ侵攻しんこう義寛よしひろがこれまで密接みっせつ関係かんけいにあった10代将軍しょうぐん足利あしかがよしざいとの関係かんけいうしなわれて、あたらしく将軍しょうぐんとなった足利あしかが義澄よしずみとの関係かんけい十分じゅうぶん構築こうちくできなかったのが最大さいだい原因げんいんであったともかんがえられる[18]

義寛よしひろたちころにも、遠江とおとうみ奪還だっかんのための出陣しゅつじんかえすなど、尾張おわり守護しゅご実態じったいはなおもたもっていた。たちは、対立たいりつした守護しゅごだい織田おだいたるじょう大和やまともり)を合戦かっせんちとるなどして織田おだ勢力せいりょくおさえ、あるいは尾張おわり中心ちゅうしんとした戦国せんごく大名だいみょうへと成長せいちょうする可能かのうせいもあった。しかし、今川いまがわおややぶれて遠江とおとうみ奪還だっかん失敗しっぱいし、たち幼少ようしょう義統よしむね家督かとくゆずった。たち江戸えど時代じだい後期こうきごろかれた軍記物語ぐんきものがたりではだいひさし元年がんねん1521ねん)にぼっしたとされているが、いち史料しりょうじょうはそれから10ねん以上いじょうにあたる天文てんもん2ねん1533ねん)にもあつし改名かいめいしたたちいま尾張おわり守護しゅご在任ざいにんしており[19]、さらに近年きんねん研究けんきゅうではそれから48ねんえいろく12ねん1569ねん)まで健在けんざいであったとするせつ有力ゆうりょくになっている。これが事実じじつだとすれば、たちよしあつし)はそのたけまもる織田おだ大和やまともり没落ぼつらくはおろか、因縁いんねん相手あいてであった今川いまがわ崩壊ほうかい駿河するが侵攻しんこう)をもたりにしたことになる[7]

織田おだ信長のぶなが台頭たいとう[編集へんしゅう]

義統よしむね当主とうしゅになると、たけまもる急速きゅうそくおとろえ、その一方いっぽう大和やまともり重臣じゅうしん織田おだ信秀のぶひで頭角とうかくあらわし、守護しゅご守護しゅごだい勢力せいりょくをしのぐようになる。天文てんもん23ねん1554ねん)に守護しゅご義統よしむね守護しゅごだい織田おだ信友のぶともころされ、義統よしむね嫡子ちゃくしぎん織田おだ信秀のぶひであといだ信長のぶながたよってびた。信長のぶながにとって信友のぶとも大和やまともり)は本家ほんけ主君しゅくんすじだが、信長のぶなが守護しゅご殺害さつがい仇討あだうち名分めいぶん信友のぶともった。信長のぶなが織田おだ伊勢いせまもるはじめとする織田おだ一族いちぞくたお尾張おわりいちこくをほぼ平定へいていした。

信長のぶなが外交がいこうじょう配慮はいりょから、斯波しばよしぎん尾張おわり国主こくしゅ清洲きよす城主じょうしゅえて隠居いんきょするかたちをとって隣国りんごく三河みかわよしりょうとの同盟どうめい推進すいしんしたが、よしぎん吉良きら義昭よしあき[注釈ちゅうしゃく 5]会見かいけんするおり両者りょうしゃ席次せきじをめぐって対立たいりつこした。前述ぜんじゅつのようにたけまもる将軍家しょうぐんけ同格どうかく家柄いえがらほこ名門めいもんちゅう名門めいもんであった。たいするよしりょうも「御所ごせ足利あしかが将軍家しょうぐんけえれば吉良きらぐ」とつたえられ、鎌倉かまくら以来いらい足利あしかが本家ほんけ当主とうしゅ幼少ようしょうおり当主とうしゅ代行だいこうするなど、その家柄いえがら斯波しばおとることはないと主張しゅちょうした。このときの同盟どうめい不調ふちょうとなったものの、えいろく4ねん1561ねん)にぎん吉良きら義昭よしあき、それに尾張おわり国内こくないにあった将軍家しょうぐんけ一家いっか石橋いしばし結束けっそくし、駿河するが今川いまがわつうじて信長のぶなが打倒だとう画策かくさくしたものの発覚はっかくして追放ついほうされ、尾張おわり守護しゅごとしてのたけまもる滅亡めつぼうした。

安土あづち桃山ももやま時代じだい[編集へんしゅう]

その斯波しばよしぎん信長のぶなが和解わかいしてづかえ、津川つがわよしちか改名かいめいした。もとかめ2ねん1571ねん)には祖父そふたちさん回忌かいき法事ほうじいとなんでいる。またむすめ信長のぶながおとうと信包のぶかね長男ちょうなんとつがせ、織田おだ親族しんぞくちゅう貴種きしゅとしてぐうされた。信長のぶなが没後ぼつご豊臣とよとみ秀吉ひでよし御伽おとぎしゅとなり、天正てんしょう13ねん1585ねん)には公家くげなり豊臣とよとみ政権せいけんにおいてしたがえ侍従じじゅう以上いじょう官位かんいあたえられた武家ぶけのランク)がみとめられた。

こん嫡男ちゃくなん義康よしやす大蔵おおくら)も秀吉ひでよしつかえてしたがえ侍従じじゅう任官にんかんし、羽柴はしばせいたまわ羽柴はしば左衛門さえもん侍従じじゅうしょうしたが、早世そうせいしたとられる。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

こん次男じなんきん徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただつかえた。きんのうちきんりょうきん)は伊予いよ松山まつやま藩士はんしとして子孫しそんつたえ、きんひかりきんもと)とその叔父おじたつめずらしよしきん三男さんなん)は細川ほそかわつかえて豊前ぶぜん小倉こくらはんのち主家しゅかてんふうしたが肥後ひご熊本くまもとはんとなり子孫しそんつづいた。よしきん末子まっしきんおやぎょう)は大坂おおさかじん豊臣とよとみかたとしてたたか討死うちじにした。

なお『たけまもる系図けいず』にはられないが、こんとされる義忠よしただ津田つだしょうして加賀かがはんつかえ1まんせきりょうした。津田つだ代々だいだい加賀かがはん家老がろうしょくつとめ、維新いしん斯波しばせい復姓ふくせいして華族かぞく男爵だんしゃくじょされた。

こんおとうとかんがえられる毛利もうり秀頼ひでより[注釈ちゅうしゃく 6]信長のぶながつかえ、さんおとうと津川つがわよしふゆゆうこう)を名乗なのって信長のぶなが次男じなん信雄のぶおつかえたが、いずれものち改易かいえきされ、近世きんせい大名だいみょうとしてのこることはできなかった。

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

加賀かがはんで1まんせき知行ちぎょうした津田つだ当主とうしゅ津田つだ正邦まさくに明治めいじ元年がんねん(1868ねん)に津田つだから斯波しば改姓かいせいして斯波しばしげるしょうし、士族しぞくれつした。明治めいじ23ねんには旧主きゅうしゅ前田まえだ侯爵こうしゃくいえ家扶かふつとめ、明治めいじ32ねんにこれをしたのちは、明治めいじ商業しょうぎょう銀行ぎんこう監査かんさやくつとめた[4]

明治めいじ17ねん(1884ねん)に華族かぞく爵制になったさいさだめられた『叙爵じょしゃく内規ないき』のまえあんである『爵位しゃくい発行はっこう順序じゅんじょ所収しょしゅうの『華族かぞくれいあん内規ないき明治めいじ11ねん・12ねんごろ作成さくせい)や『授爵じゅしゃく規則きそく』(明治めいじ12ねん以降いこう16ねんごろ作成さくせい)ではきゅうまんせき以上いじょう陪臣ばいしん男爵だんしゃくふくまれており、斯波しば男爵だんしゃく候補こうほげられているが、最終さいしゅうてきな『叙爵じょしゃく内規ないき』ではきゅうまんせき以上いじょう陪臣ばいしん授爵じゅしゃく対象たいしょうがいとなったためこの時点じてんでは斯波しば士族しぞくのままだった[4]

明治めいじ15ねん・16ねんごろ作成さくせいおもわれる『三条さんじょう文書ぶんしょ所収しょしゅう旧藩きゅうはんいちまんせき以上いじょう家臣かしん家産かさん職業しょくぎょう貧富ひんぷ取調とりしらべしょ』は、斯波しばしげるについてきゅうろくだか1まんせき所有しょゆう財産ざいさんきむろく公債こうさい4,905えんななじゅうよん国立こくりつ銀行ぎんこう株券かぶけん60かぶ宅地たくち414つぼ7ごうはたけ1うね4職業しょくぎょう無職むしょく貧富ひんぷ景況けいきょう相応そうおうしるしている[4]

田中たなかひかりあきら関係かんけい文書ぶんしょ所収しょしゅう明治めいじ32ねん11月29にちけ「伊藤いとう博文ひろぶみ書翰しょかん」によれば、「加州かしゅう加賀かがはん)のごときはため勤王きんのう大功たいこうありともうがたそうろえども、多少たしょうもうぶんもこれありそうろえば資産しさん充分じゅうぶんこれある連中れんちゅうづけ男爵だんしゃくれっせられそうろえば度外どがい恩沢おんたくかせられざるに感激かんげきし、その効果こうか尠少せんしょうならずとさっせられこう」として伊藤いとう博文ひろぶみ宮内くない大臣だいじん田中たなかひかりあらわきゅう加賀かがはん家老がろう斯波しばしげるちょうかつれんについて華族かぞく男爵だんしゃくれっすることを推挙すいきょしているのが確認かくにんできる。田中たなかは「加賀かが藩老はんろうけん敬承けいしょうなおとく取調とりしらべもうすべくぞんまつこう」と伊藤いとう返信へんしんしているが、宮内くないしょうからは時期じき尚早しょうそう判断はんだんされたのかこのときには実現じつげんしなかった[21]

しかし『授爵じゅしゃくろく』(明治めいじさんじゅうさんねんいちねん所収しょしゅう明治めいじ33ねん5がつ5にちけのみや内省ないせい審査しんさ書類しょるいによれば、斯波しばしげるつちのえたつやくにおいていちたいしょうとして賊徒ぞくと掃討そうとうにあたった功績こうせき、および西南せいなんやく死地しちとうじて鎮圧ちんあつにあたった功績こうせき、あるいは父祖ふそ幕末ばくまつ回天かいてん大志たいしをもって王事おうじつくした功績こうせきがあることがみとめられ、斯波しばしげる男爵だんしゃくあたえるべきと結論けつろんされた。これにより同年どうねん5がつ9にち斯波しば華族かぞく男爵だんしゃくれつした[21]

斯波しばしげるあとはその息子むすこ忠三郎ちゅうざぶろうぎ、2だい男爵だんしゃくとなる。忠三郎ちゅうざぶろう東京帝大とうきょうていだい工学こうがく助教授じょきょうじゅであり、明治めいじ39ねん海底かいてい電線でんせん敷設ふせつせん設計せっけい監督かんとくにあたり、海軍かいぐんだい学校がっこう共感きょうかん兼務けんむし、工学こうがく博士はかせ学位がくい取得しゅとく大正たいしょう6ねんから貴族きぞくいん議員ぎいんにも3かい当選とうせんし、公正こうせいかい所属しょぞく東京帝大とうきょうていだい航空こうくう研究所けんきゅうじょ初代しょだい所長しょちょうにも就任しゅうにんした。その功績こうせき東京帝大とうきょうていだい名誉めいよ教授きょうじゅ称号しょうごうおくられた[22]

その息子むすこである3だい男爵だんしゃく斯波しば正夫まさおだい昭和しょうわ前期ぜんき斯波しば男爵だんしゃく住居じゅうきょ東京とうきょう本郷ほんごう駒込こまごめあけぼのまちにあった[22]

たけまもる分家ぶんけ[編集へんしゅう]

大野おおの斯波しば[編集へんしゅう]

こうけいなんしゅが、あにしょう守護しゅごこく越前えちぜんにおいて大野おおのぐんまかされた(大野おおの郡代ぐんだい)ことにはじまるいえ歴代れきだい当主とうしゅはおおむねみんしょう輔から修理しゅうり大夫たいふ任官にんかんしたため、べつ修理しゅうりみんばれることもある。たけまもる上屋うわやがたしょうされたことにたいして、大野おおの下屋形しもやかたしょうされた。

代々だいだい加賀かが守護しゅごとなれる機会きかいがあったが、2だいまんたね将軍しょうぐん義持よしもち勘気かんきこうむったために没落ぼつらくし、本家ほんけであるたけまもる越前えちぜん守護しゅご)のもとで大野おおのぐんまかされた。ただしたけまもる一族いちぞくであることから、国持くにもちしゅう家格かかくれっし、将軍しょうぐんからのへんいみなたまわ[注釈ちゅうしゃく 7]など事実じじつじょうぶんぐん守護しゅご待遇たいぐう権威けんいゆうした。じゅんぼつ若年じゃくねん当主とうしゅつづいたたけまもる家政かせい守護しゅごだい甲斐かいともふか関与かんよした。

初代しょだいしゅしょうさむらいしょあたまじんさむらいしょあたまじんにんじられるなど幕府ばくふ中枢ちゅうすう活躍かつやくし、若狭わかさ加賀かがかく守護しゅごにも補任ほにんされる有力ゆうりょく大名だいみょうであったが、しゅのちいだまんたねおうなが21ねん1414ねん)に義持よしもちいかりをって高野山こうのやま蟄居ちっきょちっきょさせられると、加賀かが守護しゅごうしなった。まんたねしゅ本家ほんけ後見人こうけんにんつとめたが、おなじく後見人こうけんにん越前えちぜん守護しゅごだい甲斐かい常治つねじ対立たいりつかさね、やがてたけまもる後嗣こうしとしてしゅ義敏よしとしはい常治つねじとの対立たいりつぎ、長禄ちょうろく合戦かっせんへと発展はってんした。大野おおの斯波しば義敏よしとしおとうとである義孝よしたか継承けいしょうし、そのえん(よしより)、義信よしのぶ(よしのぶ)とつづいた。義孝よしたかおいたけまもる当主とうしゅ義寛よしひろ義敏よしとし嫡子ちゃくし)の武将ぶしょうとして活躍かつやくしたことでられる。

また大野おおの斯波しばからはまんたねしゅ(うじたね)から奥田おくだかれ、戦国せんごくほりしょうするようになり江戸えど時代じだい越後えちご村松むらまつはんおもとなったとされる(堀家ほりいえつたえ)。またのち阿波あわ徳島とくしまはんおもとなる蜂須賀はちすかしゅせいしゅ正種まさたねとも)の後裔こうえいともいわれる。

末野すえの斯波しば[編集へんしゅう]

こうけい次男じなんけい系統けいとうとされる。『奥州おうしゅう余目あまるめ記録きろく』にしるされる越前えちぜん斯波しばよんいえうちの「末野すえの殿でん」に相当そうとうするいえかんがえられる。幕府ばくふ外様とざましゅ家格かかくれっし、のち義敏よしとしであるのべ(よしのぶ/よしなが)が継承けいしょうしたといわれる。

今立いまだて斯波しば[編集へんしゅう]

系統けいとうしょうではあるが、越前えちぜんこく今立いまだちぐんくらだにし、大野おおの斯波しばおなじく越前えちぜん国内こくないぶんぐん守護しゅごてき立場たちばにあったとされる。『奥州おうしゅう余目あまるめ記録きろく』にしるされる越前えちぜん斯波しばよんいえ筆頭ひっとうかく越前えちぜん斯波しば殿どの」に相当そうとうするいえかんがえられる。『奥州おうしゅう斯波しば系図けいず』では高水寺こうすいじ斯波しばよりさとちょうにゅう嗣したとつたわり、ひろしせいからだい永年えいねんあいだにはせい綿めん活動かつどう期間きかん長期ちょうきにわたるため、同名どうめいの2だいせつあり)の活動かつどうられる(『大滝おおたき神社じんじゃ文書ぶんしょ』・『上杉うえすぎ文書ぶんしょとう)。一説いっせつ将軍家しょうぐんけ連枝れんしつたわるくらたに公方くぼうはこの今立いまだて斯波しば同一どういつであったといわれる。

五条ごじょう斯波しば[編集へんしゅう]

系統けいとうしょう。『奥州おうしゅう余目あまるめ記録きろく』にしるされる越前えちぜん斯波しばよんいえうちの「五条ごじょう殿どの」に相当そうとうするいえかんがえられる。高水寺こうすいじ斯波しば関係かんけい史料しりょうである『稗貫ひえぬきじょう』にそのえるため、奥州おうしゅう斯波しばなんらかの関係かんけいがあったものとおもわれる。

千福せんぷく斯波しば[編集へんしゅう]

大野おおのみつる系統けいとうか。越前えちぜんこく南仲みなみなかじょうぐん千福せんぷくし、『奥州おうしゅう余目あまるめ記録きろく』にしるされる越前えちぜん斯波しばよんいえうちの「仙北せんぼく殿でん」に相当そうとうするいえかんがえられる。義敏よしとしであるひろしもと(ひろもと/とおもと)が継承けいしょうし、朝倉あさくらとの合戦かっせん討死うちじにしたといわれる。その徐々じょじょ朝倉あさくら傘下さんかはいり、天正てんしょう千福せんぷく式部しきぶ大輔だいすけどう遠江とおとうみまもる親子おやこ活動かつどうられる。

奥州おうしゅう斯波しば[編集へんしゅう]

奥州おうしゅう斯波しば奥州おうしゅうはねしゅう定着ていちゃくした斯波しばの庶流をいう。こうけいおとうと斯波しばけん系統けいとうである大崎おおさき最上もがみ黒川くろかわ天童てんどう元々もともと新田にった一門いちもん)、高経たかつね長男ちょうなん系統けいとうという高水寺こうすいじ斯波しばなどがあり、とく大崎おおさき最上もがみ両氏りょうし奥羽おうう両国りょうこく探題たんだいしょく歴任れきにんした。斯波しば足利あしかが一門いちもん筆頭ひっとう家柄いえがらほこり、勢力せいりょくおおきいことから嫡流ちゃくりゅうであるたけまもる奥州おうしゅう拠点きょてんった斯波しば一門いちもん大崎おおさき最上もがみ高水寺こうすいじ斯波しば天童てんどうなど)らも当初とうしょおおいにさかえた。

大崎おおさき[編集へんしゅう]

そもそも斯波しば名乗なのりの起源きげん陸奥むつ斯波しばぐんとされており、奥州おうしゅう斯波しばにとってはほんぬきである。南北なんぼくあさ時代じだいたてたけし2ねん1335ねん斯波しば家長かちょう南朝なんちょうがわ鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん北畠きたばたけ顕家あきいえおさえるために奥州おうしゅうそう大将たいしょうにんじられるが、足利尊氏あしかがたかうじ足利あしかが義詮よしあきら執事しつじつとめていたため下向げこうはしなかったとみられる。現地げんち勢力せいりょくである相馬そうまなどを味方みかたけたという。その奥州おうしゅうそう大将たいしょう軍事ぐんじ指揮しきけんだけでなく、けんだん沙汰さた権限けんげんかん国内こくない知行ちぎょう安堵あんど恩賞おんしょうなどの推挙すいきょけん奥州おうしゅう管領かんりょう格上かくあげされる。かんおう擾乱じょうらんにははたけ山国やまくに吉良きらさだらがにんぜられたが、斯波しばけん管領かんりょうにんぜられるとよん管領かんりょう並立へいりつ混乱こんらん平定へいていし、子孫しそんである大崎おおさきがやがて世襲せしゅうする。

奥羽おうう南北なんぼくあさ時代じだい南朝なんちょう北畠きたばたけ顕家あきいえ北畠きたばたけ顕信あきのぶらが、ぐんごとの有力ゆうりょく国人くにびと軍事ぐんじ指揮しきけんけんだんけんなどつよ権限けんげんあたえた「ぶんぐん」ともばれる独自どくじ制度せいどったため、南北なんぼくあさあらそいが終結しゅうけつしたのち非常ひじょう国人くにびとちからつよく、当初とうしょ有効ゆうこうはたらいた奥州おうしゅう管領かんりょう斯波しば支配しはいりょく次第しだいおとろえていく。斯波しば大崎おおさき地方ちほう陸奥みちのく国府こくふ付近ふきん実効じっこう支配しはいし、大崎おおさきばれるようになった。大崎おおさき権威けんい低下ていかともなって、一時いちじ奥羽おうう鎌倉かまくら管内かんない編入へんにゅうされるが、幕府ばくふ鎌倉かまくらあらそいが激化げきか奥州おうしゅう南半みなみはん鎌倉かまくら公方くぼう分家ぶんけである篠川しのかわ御所ごしょ稲村いなむら御所ごしょ設置せっちされると、幕府ばくふ鎌倉かまくら対抗たいこうするため奥州おうしゅう探題たんだいしょくつく大崎おおさき代々だいだい探題たんだい任命にんめいする。探題たんだい管領かんりょうおな権限けんげんったとおもわれるが、奥州おうしゅう南部なんぶ有力ゆうりょく国人くにびとみずからの権益けんえきまもるため将軍家しょうぐんけ直接ちょくせつ主従しゅうじゅう関係かんけいむす京都きょうと扶持ふちしゅとなり、奥州おうしゅう探題たんだい権威けんいからはなか独立どくりつしたかたちであった。すで大崎おおさきには奥州おうしゅう管領かんりょう時代じだいのように奥州おうしゅう全体ぜんたい統括とうかつする威勢いせいはなく、奥州おうしゅう北部ほくぶにおける権威けんい行使こうしするのみであった。

以後いご徐々じょじょ衰退すいたいした大崎おおさきは、足利あしかが満直みつただのち陸奥みちのく守護しゅごとして奥州おうしゅう南部なんぶ急速きゅうそく勢力せいりょく拡大かくだいする伊達だて稙宗圧力あつりょくをまともにけることとなった。大崎おおさき義直よしなお家中いえじゅう騒乱そうらん自力じりき鎮圧ちんあつできず、稙宗の支援しえんけて鎮圧ちんあつしたが、稙宗の義宣よしのぶ養子ようしとしておくまれ従属じゅうぞくした。天文てんもんらんじょうじて義宣よしのぶ排除はいじょして伊達だてへの吸収きゅうしゅう合併がっぺいまぬかれたものの、従属じゅうぞく関係かんけいからの脱却だっきゃくにはいたらなかった。大崎おおさき義隆よしたかだいには義弟ぎてい最上もがみ義光よしみつおとうと養父ようふ黒川くろかわ晴氏はるうじ支援しえんけて伊達だてまさしむね侵攻しんこう退しりぞけたが(大崎おおさき合戦かっせん)、小田原おだわら征伐せいばつさんじんしなかったため豊臣とよとみ秀吉ひでよし改易かいえきされた。大崎おおさき旧臣きゅうしん義隆よしたか復帰ふっきもとめて一揆いっき葛西かさい大崎おおさき一揆いっき)をこしたが、ついに大名だいみょう復帰ふっきかなわなかった。義隆よしたか越後えちごまたは会津あいづ不遇ふぐうげたといい、子孫しそん最上もがみ南部なんぶつかえたという。

最上もがみ[編集へんしゅう]

斯波しばけんよん管領かんりょう並立へいりつせい奥州おうしゅう管領かんりょう地位ちい確保かくほすると、1356ねん次男じなん斯波しば兼頼かねより出羽いずはこくおくみ、兼頼かねより南朝なんちょう勢力せいりょくたくみに退しりぞけながら最上もがみぐんへの勢力せいりょく扶植ふしょく成功せいこうする。出羽いずはこくにおける南朝なんちょうがわ最後さいご組織そしきてき抵抗ていこうとなった漆川うるしかわたたかには、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが氏満うじみつ大崎おおさきへいしたという。室町むろまち幕府ばくふから屋形やかたごうゆるされ最上もがみ屋形やかたしょうするようになって以降いこう最上もがみ名乗なのはねしゅう探題たんだい世襲せしゅうする。しかし、分散ぶんさん配置はいちした庶流が次第しだい独立どくりつ傾向けいこうつよめるなど一枚岩いちまいいわとはえない状況じょうきょうとなる。

1385ねん置賜おきたまぐん本拠ほんきょ長井ながいほろぼされると伊達だてせっするようになり、1514ねん伊達だて稙宗の侵攻しんこう傘下さんかまれる。このときいち傀儡かいらいされたが天文てんもんらん独立どくりつたし、えいろく6ねん1563ねん最上もがみ義守よしもり嫡男ちゃくなん義光よしみつへんいみな授与じゅよのおれい言上ごんじょうのため、きょうのぼ御所ごしょごう応対おうたいされる。最上もがみ義光よしみつ家督かとく継承けいしょう父子ふしあいだあらそいがあり、伊達だて周辺しゅうへん国人くにびとあらそいに発展はってんする(天正てんしょう最上さいじょうらん)。このあらそいでたたかいを優位ゆういすすめた義光よしみつ家臣かしんだん組織そしき成功せいこうし、村山むらやまぐん最上もがみぐん領国りょうごくひろげ、庄内しょうない地方ちほうをめぐり上杉うえすぎはげしく抗争こうそうした。その秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつさんじん最上もがみぐん村山むらやまぐん20まんせきあまり大名だいみょうとして所領しょりょう安堵あんどされ、また羽柴はしばせいはねしゅう探題たんだいしょくあたえられた。秀吉ひでよし死後しご徳川とくがわ家康いえやす接近せっきんし、関ヶ原せきがはらたたかではひがしぐんくわわったため西にしぐん上杉うえすぎ景勝かげかつから攻撃こうげきされ窮地きゅうちたされたが、関ヶ原せきがはら本戦ほんせんでの西にしぐん敗北はいぼくほうとどくと上杉うえすぎぐん撤退てったいし、庄内しょうない地方ちほう奪取だっしゅにも成功せいこう慶長けいちょう出羽いずは合戦かっせん)。このこうにより、最上さいじょう最上もがみぐん村山むらやまぐん庄内しょうない地方ちほうおよび由利ゆりぐんゆうする58まんせきだい大名だいみょうれっせられた。しかし、まご最上もがみよししゅんだいいえ騒動そうどう最上もがみ騒動そうどう)がこり、江戸えど幕府ばくふいのちにより改易かいえきとされ、出羽でわ国内こくない所領しょりょううしない、大名だいみょうとしての最上もがみ終焉しゅうえんのきっかけとなった。

よししゅんあらためて近江おうみに1まんせきあたえられたが、よししゅん死後しごよしさとし幼少ようしょうであったため5,000せきげんぜられ名目めいもくとしての大名だいみょう地位ちいうしなったが、子孫しそん交代こうたい寄合よりあいとしてつづいた。よししゅん叔父おじ御家おいえ騒動そうどう原因げんいんでもあった山野辺やまのべ義忠よしただ徳川とくがわ頼房よりふさてられ、子孫しそん水戸みとはん家老がろう山野辺やまのべとしてつづいた。また、義忠よしただ支持しじ中心ちゅうしん義光よしみつおとうと楯岡たておかこうじき細川ほそかわにおあづけのとなったが、忠直ただなおてられ、子孫しそん前述ぜんじゅつ津川つがわとともに熊本くまもとはん重臣じゅうしんとしてつづいた。

高水寺こうすいじ斯波しば[編集へんしゅう]

奥州おうしゅう斯波しばぐん高水寺こうすいじじょうげん岩手いわてけん紫波しわまち)を拠点きょてんさかえた斯波しばは、斯波しば家長かちょう直系ちょっけい子孫しそんしょうする。『つづけぐんしょ類従るいじゅう』には簡易かんい系図けいずげられているものの裏付うらづけとなる資料しりょうとぼしく、系図けいずかならずしもはっきりしていない[注釈ちゅうしゃく 8]斯波しば足利あしかが貴種きしゅであることから「斯波しば御所ごしょ」「おく斯波しば殿どの」と尊称そんしょうされ、書札しょさつれいでも大崎おおさき同格どうかくであった。えいとおる7ねん1435ねん)に発生はっせいした和賀わが大乱たいらんでは大崎おおさき職務しょくむ代行だいこうしゃとして北奥きたおく諸氏しょし指揮しきしている。

おくみなみ落穂おちぼしゅう」によれば、大崎おおさき7だい大崎おおさき教兼のりかね斯波しばかいだかはじまるとされる。南部なんぶ天文てんもん9ねん1540ねん)に岩手いわてぐん侵攻しんこうしてしずくせき現在げんざい岩手いわてけん岩手いわてぐん雫石しずくいしまち)の戸沢とざわ攻略こうりゃく角館かくのだて退去たいきょさせると、これにたい斯波しばかいだか天文てんもん14ねん1545ねん)、南部なんぶから太田おおた現在げんざい岩手いわてけん盛岡もりおかうち)、しずくせき地方ちほううばるなど積極せっきょくてき拡大かくだいせている。かいだか嫡男ちゃくなんけいかい家督かとくがせ、次男じなんかいさだしずくせきから改称かいしょうした雫石しずくいししろ現在げんざい岩手いわてぐん雫石しずくいしまち下町したまちひがし)にき、三男さんなんかいよし猪去いさりじょう現在げんざい盛岡もりおか猪去いさり)にいて、南部なんぶ反攻はんこうそなえた。斯波しば格式かくしきたかさから近隣きんりんでは本家ほんけは「斯波しば御所ごしょ」、または居館きょかん地名ちめいで「高水寺こうすいじ御所ごしょ」、しんりょう配置はいちされた庶子しょしおなじく地名ちめいから「しずくせき御所ごしょ雫石しずくいし御所ごしょ)」、「猪去いさり御所ごしょ」とばれた。また和賀わが阿曽沼あそぬま庶流鱒沢ますざわらと婚姻こんいん関係かんけい養子ようし縁組えんぐみ積極せっきょくてきおこない、おおいにった。

だがのち南部なんぶ圧力あつりょくすと、斯波しばかいしん南部なんぶ24だいはれまさし圧力あつりょくくっして、南部なんぶ一族いちぞく九戸くのへから弥五郎やごろうかんみのる)を婿むことしてれたが、かいしんかいじきかいもとかいもと)のだいになると確執かくしつして、弥五郎やごろうから改名かいめいした高田たかだやすしじつ天正てんしょう14ねん1586ねん)、南部なんぶ26だいしんじきした出奔しゅっぽんする。それにたいかいしん南部なんぶりょうはいるも南部なんぶぐん反撃はんげきにあいぎゃく侵攻しんこうされてしまい、高水寺こうすいじ斯波しば一族いちぞく雫石しずくいしひさかい猪去いさり義方ぎほうめられて本家ほんけ斯波しば御所ごしょのがれ、雫石しずくいし御所ごしょならび猪去いさり御所ごしょほろぼされる。結果けっか稗貫ひえぬきいのした両家りょうけ和睦わぼくし、斯波しば岩手いわてぐんまえ津志田つしだ中野なかの飯岡いいおか(いずれも現在げんざい盛岡もりおか市内しない)をうしなってしまう。

斯波しばかいじき家中いえじゅう統率とうそつれず、天正てんしょう16ねん1588ねん)(南部なんぶとの和睦わぼく同年どうねん天正てんしょう14ねんちゅうせつもある)、南部なんぶつかえたかんみのるいわ清水しみず義教よしのりらが内通ないつう謀反ぼうほんこす。かいじきいわ清水しみず義教よしのりあにいわ清水しみず義長よしながめいじて、おとうと居城きょじょうである岩清水いわしみずじょう現在げんざい岩手いわてけん紫波しわぐん矢巾やはばまち岩清水いわしみず)をめさせるが、この混乱こんらんじょうじて南部なんぶしんじきみずか出陣しゅつじんしてくる。かいじき領内りょうない動員どういんれいはっするもおおくの家臣かしんらはまいりじんせず、離反りはんして南部なんぶぐん投降とうこうするか屋敷やしきこもり、高水寺こうすいじじょうけつけたのはいわ清水しみず義長よしなが家老がろう細川ほそかわ長門ながとまもる稲藤いなふじ大炊おおいすけなど少数しょうすうだった。かいじき高水寺こうすいじじょう放棄ほうきして大崎おおさきのもとへ逃亡とうぼう義長よしなが高水寺こうすいじじょう戦死せんしする。かいじきはその諸国しょこく放浪ほうろうし、子孫しそん南部なんぶつかえたとも、じょうつかえたともされている。

一方いっぽうぞくぐんしょ類従るいじゅうの『奥州おうしゅう斯波しば系図けいず』では斯波しばかいだかからの人物じんぶつ記載きさいされず、家長かちょうとしてつづいており、南部なんぶあつりょくにより領地りょうちうしな滅亡めつぼうした当主とうしゅかいじきではなく斯波しばかいもり兵部ひょうぶ大輔だいすけ)となっている。また「だい萱生かよう系図けいず」では滅亡めつぼうしたのはかいもと奥州おうしゅう斯波しば系図けいずかいもりちち)とある。なおかいもと子孫しそん斯波しばよししん水戸みと徳川とくがわ家臣かしんになったものの乱心らんしん死去しきょしたとする。『岩手いわてけん』では、しょ記録きろくしょ系図けいずから、「かいもとかいただしかいもと)」のとき滅亡めつぼうし、そのかいもりまごかいこくがあったとみなしている。

かつて本家ほんけ高水寺こうすいじ御所ごしょわせてさん御所ごしょしょうされた一族いちぞく雫石しずくいし御所ごせ雫石しずくいし猪去いさり御所ごしょ猪去いさりはともに盛岡もりおかはんとしてつづいた。

斯波しば歴代れきだい[編集へんしゅう]

たけまもる足利あしかが尾張おわり[編集へんしゅう]

太字ふとじ室町むろまち幕府ばくふ管領かんりょうまたはそれにじゅんじたもの

  1. 斯波しば足利あしかが
  2. 斯波しば宗家そうけ足利あしかが宗家そうけ
    • 斯波しばはじめ(3だい
  3. 斯波しばはじめ足利あしかがはじめいえさだ
  4. 斯波しば高経たかつね足利あしかが高経たかつね
  5. 斯波しばよししょう
    • 斯波しば義重よししげ(6だい[23]
  6. 斯波しば義重よししげ義教よしのり
    • 斯波しばよしあつし(7だい[23]
    • 斯波しばよしきょう(8だい[23]
    • 斯波しばゆう斯波しば義重よししげ
  7. 斯波しばよしあつし
  8. 斯波しばよしきょう
    • 斯波しばよしけん(9だい
  9. 斯波しばよしけん
    • 斯波しば千代ちよ徳丸とくまる斯波しばよしけん早世そうせい
  10. 斯波しば義敏よしとし斯波しばしゅ[23]
  11. 斯波しばよしれん渋川しぶかわよしきょう[23]
  12. 斯波しば義寛よしひろ義良のりなが
    • 斯波しばよしたち(13だい[23]
  13. 斯波しばよしたちよし逵、よしあつし
  14. 斯波しば義統よしむね義元よしもと
  15. 斯波しばよしぎんよしきん津川つがわよしこん

大野おおの斯波しば[編集へんしゅう]

  1. 斯波しばよししゅ
  2. 斯波しばみつるしゅ
  3. 斯波しばしゅ
  4. 斯波しば義孝よしたか
    • 斯波しばよしえん(5だい
    • 斯波しば義信よしのぶ(6だい
  5. 斯波しばよしえん
  6. 斯波しば義信よしのぶ

高水寺こうすいじ斯波しば[編集へんしゅう]

家長かちょう以来いらい高水寺こうすいじ斯波しば系図けいず諸説しょせつあるため、斯波しばかいだか以降いこうしるす。

  1. 斯波しばかいだか
  2. 斯波しばけいかい
    • 斯波しばかいしん
  3. 斯波しばかいしん
    • 斯波しばけいじき
  4. 斯波しばかいじき
  5. 斯波しばかいもり
  6. 斯波しばかいこく

系譜けいふ[編集へんしゅう]

斯波しば主要しゅよう家臣かしんだん[編集へんしゅう]

たけまもる主要しゅよう家臣かしんだん[編集へんしゅう]

初期しょき斯波しば家中かちゅうにおいては、細川ほそかわ一族いちぞくといわれるかんそう鹿しかそうふといくさとも)を筆頭ひっとうとし、二宮にのみやみなもとせいふじせい二流にりゅうあり)、島田しまだ甲斐かいなどが重臣じゅうしん位置いちにあったが、中期ちゅうき以降いこう甲斐かい筆頭ひっとう執事しつじ執権しっけん)となり、いで織田おだ、そのした朝倉あさくらつづいた。斯波しば尾張おわり逼塞ひっそく織田おだ筆頭ひっとうとなり、斯波しば滅亡めつぼうまで家政かせい執権しっけんした。

大崎おおさき主要しゅよう家臣かしんだん[編集へんしゅう]

大崎おおさき#大崎おおさき傘下さんか人物じんぶつ参照さんしょう

最上もがみ主要しゅよう家臣かしんだん[編集へんしゅう]

最上もがみ#最上もがみ主要しゅよう家臣かしんだん参照さんしょう

高水寺こうすいじ斯波しば主要しゅよう家臣かしんだん[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだいのものを下記かきげる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 次男じなんけい三男さんなん氏頼うじより隠遁いんとんいんとんまれることになった[7]。もっとも、けい場合ばあいちち幕府ばくふそむいたとき幕府ばくふかたとどまったことや九州きゅうしゅう探題たんだいとしての失敗しっぱい失脚しっきゃく原因げんいんであった。
  2. ^ 元服げんぷくしたがえ治部じぶ大輔だいすけ叙任じょにんされ、家督かとく相続そうぞくしたがえよんひだり兵衛ひょうえ、さらにひだり兵衛ひょうえとくてんずるのを通例つうれいとし、最終さいしゅうてきにはさんのぼった。
  3. ^ はた自身じしんのちにさらにかくじょう官職かんしょく当時とうじられていたみぎ衛門えもんとくに遷任した(『あられき』)。
  4. ^ なお、『まんすみじゅんきさき日記にっきえいとおる5ねん11月30にちじょうは7だいよしじゅん危篤きとくによっていそ還俗げんぞくすることになった瑞鳳ずいほうきょう)のいみな選定せんてい記事きじであるが、このときした(この場合ばあい足利あしかが義教よしのりの「きょう」の)をあたえられる可能かのうせいもあったという。
  5. ^ 近年きんねん、このときよしりょう当主とうしゅ義昭よしあきではなく、あに吉良きらよしやすであったとするせつもある[20]
  6. ^ ただし「たけまもる系図けいず」では秀頼ひでよりおとうととしてあつかっておらず、かり兄弟きょうだいだったとしても相続そうぞくけんのない庶子しょしだった可能かのうせいつよい。
  7. ^ へんいみな授与じゅよかんしては、初代しょだいしゅ・5だい義孝よしたか・6だいよしえん・7だい義信よしのぶ本家ほんけであるたけまもる同様どうように、足利あしかが将軍家しょうぐんけつう(「よし」の1)をけ、2だいまんたねとそのおとうとまん・3だいしゅとそのせいしゅ)がしたけていた。
  8. ^ 斯波しばけいだかも「かいしょう」と名乗なのっているため、一説いっせつには、斯波しばかいはた以降いこうけい後裔こうえいとするものもある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 太田おおた 1934, p. 2793.
  2. ^ a b c d e f 太田おおた 1934, p. 2791.
  3. ^ 百科ひゃっか事典じてんマイペディア『足利あしかが』 - コトバンク
  4. ^ a b c d 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 350.
  5. ^ 後身こうしんである斯波しばのち尾張おわり守護しゅごとなったため誤解ごかいされやすいが、この場合ばあいの『足利あしかが尾張おわり』は「尾張おわり足利あしかが」ではく「尾張おわりもりしょうした足利あしかが」のである
  6. ^ ただゆたかいたるまで斯波しばとく同氏どうし嫡流ちゃくりゅうたけまもる)を「斯波しばせい」で記載きさいする史料しりょうほとんられず、むしろたけまもる以外いがい分家ぶんけ(『奥州おうしゅう余目あまるめ記録きろく』における「(越前えちぜん斯波しば殿どのとう)を「斯波しば」とれいられる
  7. ^ a b c d 木下きのした 2015, §. 斯波しば動向どうこう系譜けいふ.
  8. ^ かんとみ嘉吉よしきち3ねん6がつ19にちじょう
  9. ^ 文明ぶんめい12ねん6がつ18にちけんみやび書状しょじょう(『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ文明ぶんめい12ねん7がつ25にちじょううら文書ぶんしょ
  10. ^ 小泉こいずみ 2015, §. 室町むろまち斯波しばについて.
  11. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 118-119・129.
  12. ^ 小久保こくぼ嘉紀よしのり 2007, p. [ようページ番号ばんごう].
  13. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 125-131.
  14. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきえいとおる5ねん11月30にちじょうに「かれたけまもる)ニハ毎度まいどうえ字義じぎした歟。(中略ちゅうりゃくにん先例せんれいうえした云々うんぬん。」とある。
  15. ^ 薩戒おうなが32ねん11がつ20日はつかじょう今日きょう武家ぶけ管領かんりょう畠山はたけやまみぎ衛門えもん入道にゅうどう畠山はたけやま満家みついえ三男さんなん畠山はたけやまとみくびふくまたひだり兵衛ひょうえあつし斯波しばよしあつしごう勘解由小路かげゆこうじ也、入道にゅうどう殿御とのご一族いちぞくいき斯波しばよしゆたかくびふくめい字義じぎゆたか云々うんぬん禅門ぜんもんれいしょうけいきゅう也。當時とうじ諸人もろびと輙不づけ」これはじゅん嫡男ちゃくなんであるよしゆたか元服げんぷく記事きじであるが、ここではじゅんして「入道にゅうどう殿どの足利あしかが義持よしもち一族いちぞく」としている。よしゆたか同時どうじ元服げんぷくおこなったおな足利あしかが一門いちもんでありさんしょく現役げんえき管領かんりょう子息しそくである畠山はたけやまとみたいしてはそのような注釈ちゅうしゃくはない。
  16. ^ 老松おいまつどう日本にっぽんゆきろくそうのぞみちょ。「たけまもる斯波しばよしあつし)はおう日本にっぽん国王こくおう足利あしかが義持よしもち)のつぎじんなり
  17. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 146-153.
  18. ^ 谷口たにぐち 2019, p. 153.
  19. ^ 下村しもむら 2015.
  20. ^ 小林こばやし輝久てるひさ彦「天文てんもん弘治こうじ年間ねんかん三河みかわよしりょう」『安城あき歴史れきし博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きよう』12ごう、2012ねん。/所収しょしゅう:大石おおいし泰史やすしへん今川いまがわ義元よしもとえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいななかん〉、2019ねん6がつISBN 978-4-86403-325-1 2019ねん、P263-265・272-273.
  21. ^ a b 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 351.
  22. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 655.
  23. ^ a b c d e f g h 太田おおた 1934, p. 2792.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]