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斯波しば兼頼かねより

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斯波しば 兼頼かねより / 最上もがみ 兼頼かねより
斯波しば兼頼かねよりぞう光明寺こうみょうじくら
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき - 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 正和しょうわ5ねん1がつ15にち1316ねん2がつ9にち[1]?、もととく元年がんねん1329ねん)?[よう出典しゅってん][ちゅう 1]
死没しぼつ かんれき元年がんねん/天授てんじゅ5ねん6月8にち1379ねん7がつ21にち
改名かいめい たけづる幼名ようみょう)→兼頼かねより
別名べつめい 出羽でわ大将たいしょう最上もがみ兼頼かねより
戒名かいみょう 光明寺こうみょうじ殿どのなりさとし就公だい居士こじ
墓所はかしょ 山形やまがたけん山形やまがた七日なのかまち光明寺こうみょうじ
官位かんい したがえした修理しゅうり大夫たいふ式部しきぶすすむ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 足利あしかが義詮よしあきら義満よしみつ
氏族しぞく 河内かわうちはじめ斯波しばながれ最上もがみ
父母ちちはは ちち斯波しばけん
兄弟きょうだい 大崎おおさきただし兼頼かねより天童てんどう義宗よしむね[ちゅう 2]斯波しばもちよし西室にしむろもちよりゆき[2]斯波しばすすむよりゆき
直家なおいえ
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斯波しば 兼頼かねより(しば かねより)は、南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう最上もがみ 兼頼かねより(もがみ かねより)ともばれる。奥州おうしゅう探題たんだい斯波しばけん次男じなんで、はねしゅう探題たんだい最上もがみ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

のべもと元年がんねん1336ねん)3がつ関東かんとう執事しつじ従兄弟いとこ斯波しば家長かちょういのちにより相馬そうましたがえて行方ゆくえぐんき、北畠きたばたけ顕家あきいえはげしくあらそ[3]。このとき兼頼かねより元服げんぷくまえであり足利あしかがちくづるしょうし、重臣じゅうしん氏家うじいえみちまこと後見こうけんけている[4]のべもと2ねん1337ねん北畠きたばたけ顕家あきいえとのすぎ本城ほんじょうたたか斯波しば家長かちょうはいし、鎌倉かまくら陥落かんらくしたため足利あしかが義詮よしあきら安房あわのがれる。上杉うえすぎ憲顕のりあきなどは北畠きたばたけ顕家あきいえ西上にしがみしたのち鎌倉かまくら奪還だっかんあらわって西上にしがみするが美濃みの青野原あおのはらたたかやぶれる。同年どうねん氏家うじいえみちまことつうじて武石たけいしみちりん所領しょりょう陸奥みちのく亘理わたりぐん坂本郷さかもとごう)を安堵あんどしている[5]こよみおう2ねん1339ねん)には式部しきぶ大夫たいふとして元服げんぷくしている[6]

ちちいえけん北陸ほくりくから奥州おうしゅううつると、兼頼かねよりとも下向げこうする。のべぶん元年がんねん1356ねん)、出羽でわ地方ちほう北朝ほくちょうかたとして寒河江さがえ大江おおえ山家やまやなどの南朝なんちょうかた抵抗ていこうおさえるために、出羽でわこく按察使しょうして出羽いずはこく最上もがみぐん山形やまがたげん山形やまがたけん山形やまがた)に入部にゅうぶ[7][8]翌年よくねんには山形やまがたじょう築城ちくじょう本拠ほんきょとする[8][ちゅう 3]入部にゅうぶした兼頼かねよりはまず滝之たきのたいら瑜伽ゆがてら塔頭たっちゅううつしてたから幢寺をて、そのにもおおくの寺社じしゃ建立こんりゅうした[10]

出羽でわこく安国寺あんこくじは、てらでんによればのべぶん4ねん1359ねん)に兼頼かねよりによって建立こんりゅうされたという。大曾根おおそねそう地盤じばんとした兼頼かねよりにとって、安国寺あんこくじ建立こんりゅうした山辺やまべそう大寺おおてら山辺やまべまち)は村山むらやま盆地ぼんち最上川もがみがわえて勢力せいりょく伸長しんちょうする寒河江さがえ大江おおえ牽制けんせいする位置いちであった[11]

貞治さだはる6ねん1367ねん)に鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが基氏もとうじ死去しきょすると、出羽でわふく東国とうごく各地かくちみなみ朝方あさがた蜂起ほうきしたが[ちゅう 4]漆川うるしかわたたかにおいて、鎌倉かまくら公方くぼういだ足利あしかが氏満うじみつや、あに奥州おうしゅう探題たんだい大崎おおさきただしともみなみ朝方あさがた寒河江さがえ大江おおえ攻撃こうげき降伏ごうぶくさせた。また、近隣きんりん里見さとみおとうと義宗よしむね養子ようしおくり、一門いちもんとするなど武力ぶりょく政策せいさく婚姻こんいん養子ようし政策せいさく駆使くしし、山形やまがた斯波しば最上もがみ)の基礎きそきずいた。あにちょく奥州おうしゅう管領かんりょういえ大崎おおさきとなったほかおとうともちよしもちよりゆき[12]らも奥州おうしゅう子孫しそんのこしたとされ、足利あしかが一門いちもん名家めいかという出自しゅつじおもわせる。

おうやす6ねん1373ねんごろには、室町むろまち幕府ばくふより屋形やかたごうゆるされて最上もがみ屋形やかたしょうしたことをに、所領しょりょう最上もがみぐんちなんで苗字みょうじ最上もがみとした。

永和えいわ元年がんねん1375ねん)、嫡男ちゃくなん直家なおいえ家督かとくゆずって以降いこう城内じょうない草庵そうあんむすび、念仏三昧ねんぶつざんまい日々ひびおくったとされるが、永和えいわ3ねん1377ねん)の「室町むろまち幕府ばくふ管領かんりょう奉書ほうしょ」(円覚寺えんかくじ文書ぶんしょ)によれば、出羽でわ国内こくない円覚寺えんかくじりょうむねべつぜに徴収ちょうしゅうになっている[13]かんれき元年がんねん/天授てんじゅ5ねん(1379ねん死去しきょした。墓所はかしょ兼頼かねよりひらいたとつたわる山形やまがたけん山形やまがた七日なのかまち光明寺こうみょうじにある[14]

後裔こうえい[編集へんしゅう]

兼頼かねより最上もがみ斯波しば最上もがみ斯波しばいずるはね)の初代しょだいとされる[15]最上もがみ戦国せんごく時代じだい最上もがみ義光よしみつ出現しゅつげんによって飛躍ひやくてき領土りょうどひろげ、江戸えど時代じだい初期しょき幕府ばくふによって改易かいえきされるまで、現在げんざい山形やまがたけん内陸ないりく米沢よねざわ地方ちほうのぞく、村山むらやま地方ちほう最上もがみ地方ちほう庄内しょうない地方ちほう支配しはいした。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

周辺しゅうへん系図けいず[編集へんしゅう]

 
斯波しば高経たかつね
 
あしめいかいもり
 
むすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斯波しばけん
 
斯波しば兼頼かねより
 
最上もがみ直家なおいえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大崎おおさきただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天童てんどう義宗よしむね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
もちよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西室にしむろもちよりゆき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はたよりゆき
 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 光明寺こうみょうじ由来ゆらい」にって1316ねんまれとした場合ばあい[1]1327ねんまれのあに大崎おおさきただしよりも年長ねんちょうとなり、またちち斯波しばけんが9さいときとなってしまう。また、1336ねん相馬そうまとも北畠きたばたけ顕家あきいえたたかったさい元服げんぷくまえ兼頼かねより氏家うじいえみちまこと後見こうけんけていることなどから1316ねんまれせつには異論いろんがある[だれによって?]
  2. ^ 天童てんどう義宗よしむねは『系図けいず纂要』によれば[ようページ番号ばんごう]もちどう一人物いちじんぶつであり、『ぞくぐんしょ類従るいじゅう』によれば[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]しおまつ伊予いよもりにあたる。
  3. ^ 会津あいづ四家しかあいこうまき10(附録ふろくいえこう」)収載しゅうさいの「大崎おおさき」によればのべぶん3ねん(1358ねん)8がつ3にち山形やまがたはい[9]
  4. ^ 武蔵むさしひら一揆いっきらん宇都宮うつのみや氏綱うじつな新田にった義宗よしむね脇屋わきや義治よしはるなどが蜂起ほうき挙兵きょへいしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 光明寺こうみょうじ由来ゆらい[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  2. ^ もちよりゆき式部しきぶ大輔だいすけ西室にしむろ殿でん、『つづけぐんしょ類従るいじゅう』5じょう系図けいず)。
  3. ^ だい日本にっぽん史料しりょうのべもと元年がんねん3がつ8にちじょう(6へん3さつ185ぺーじ)、「相馬そうま文書ぶんしょ
  4. ^ だい日本にっぽん史料しりょうのべもと元年がんねん3がつ22にち2じょう(6へん3さつ242ぺーじ)、「相馬そうま岡田おかだざつ文書ぶんしょ
  5. ^ だい日本にっぽん史料しりょうたてたけし4ねん2がつ6にちじょう(6へん4さつ72ぺーじ)、「相馬そうま文書ぶんしょ」。
  6. ^ だい日本にっぽん史料しりょうのべもと元年がんねん3がつ8にちじょう(6へん3さつ185ぺーじ)、「相馬そうま文書ぶんしょ」(裏書うらがき氏家うじいえみちまこと注進ちゅうしんじょうあんこよみおう2ねん3がつ20にちづけ
  7. ^ 系図けいず纂要』まき64、清和せいわはじめ(13)最上もがみ
  8. ^ a b 光明寺こうみょうじ由来ゆらい」『寒河江さがえ上巻じょうかん、p. 508。
  9. ^ 会津あいづ四家しかあいこう 南部なんぶ根元ねもと ぜん国史こくし研究けんきゅうかい国史こくし叢書そうしょ〉、1914ねん、p. 170、NDLJP:985957。“兼頼かねよりはねしゅう最上さいじょうのべぶんさんねんはちがつさんにち下向げこう最上さいじょう山形やまがたちょく舎弟しゃてい
  10. ^ 寒河江さがえ上巻じょうかん、p. 509。
  11. ^ 寒河江さがえ上巻じょうかん、p. 511。
  12. ^ もちよりゆき式部しきぶ大輔だいすけ西室にしむろ殿でんぞくぐんしょ類従るいじゅう、5じょう系図けいず)。
  13. ^ 山形やまがたけんだい1かんはらはじめ古代こだい中世ちゅうせいへん)、1982ねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:000001571745。『寒河江さがえ上巻じょうかん、p. 509。
  14. ^ 松尾まつおつよし (2014ねん9がつ26にち). “光明こうみょう寺本てらもと遊行ゆぎょう上人しょうにん縁起えんぎ』をめぐるなぞ”. 最上もがみ義光よしみつ歴史れきしかん. 2024ねん3がつ16にち閲覧えつらん。 “光明寺こうみょうじは、最上もがみとされる斯波しば兼頼かねより(1315–1379)が隠居いんきょしてひらいた寺院じいんである。[...] 光明寺こうみょうじは、かつては城内じょうないでも本丸ほんまるないにあったが、だいじゅうななせいの其阿しゅんさん時代じだいぶんろく年中ねんじゅう(1592–96)に、本丸ほんまるないて、山形やまがた城東じょうとうもんまえ移転いてんしたという注目ちゅうもくすべきことがわかる。また、兼頼かねよりおよび代々だいだい遺骨いこつうつし、霊屋たまやてたという。”
  15. ^ 小林こばやし清治きよじ. "最上さいじょう". 改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん. コトバンクより2024ねん3がつ16にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]