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最上もがみ義光よしみつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
最上もがみ 義光よしみつ
最上もがみ義光よしみつおおやけ肖像しょうぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 天文てんもん15ねん1がつ1にち1546ねん2がつ1にち
死没しぼつ 慶長けいちょう19ねん1がつ18にち1614ねん2がつ26にち
改名かいめい 白寿はくじゅ幼名ようみょう)→義光よしみつ
別名べつめい 源五郎げんごろう二郎じろう太郎たろう通称つうしょう
出羽でわ侍従じじゅう受領じゅりょうめい
そのこうにれ小僧こぞうまる谷地やち小僧こぞうまる出羽でわ殿どのさけさま
戒名かいみょう 光禅寺こうぜんじ殿どのだま山道さんどうしろだい居士こじ
墓所はかしょ 山形やまがたけん山形やまがた鉄砲てっぽうまち光禅寺こうぜんじ
官位かんい したがえ右京大夫うきょうのだいぶしたがえよん侍従じじゅうしたがえよんじょうひだり近衛このえ少将しょうしょう出羽守でわのかみおくせいよん
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふはねしゅう探題たんだい江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 足利あしかが義輝よしてる義栄よしひで義昭よしあき豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ
はん 出羽でわこく山形やまがたはん藩主はんしゅ
氏族しぞく みなもとせい斯波しばながれ最上もがみ
父母ちちはは ちち最上もがみ義守よしもりはは小野おの少将しょうしょう永浦ながうら大崎おおさきせつあり)
兄弟きょうだい 義光よしみつ中野なかのよしとき?、長瀞ながとろよし楯岡たておかこうただしひめ伊達だてまさしそうはは
つま 正室せいしつしゃくたええい大崎おおさき義直よしなおむすめ
継室けいしつ清水しみずよしむすめ
側室そくしつ天童てんどう御前ごぜん天童てんどうよりゆきさだむすめ)、
義康よしやすいえおや清水しみず義親よしちか山野辺やまのべ義忠よしただ上野山うえのやま義直よしなお大山おおやま光隆みつたかたけひめ氏家うじいえひかりしつ)、松尾まつおひめ延沢のぶさわこうあきらしつ)、こまひめ豊臣とよとみ秀次しゅうじ側室そくしつ)、禧久ひめ東根ひがしねおやよろししつ
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最上もがみ 義光よしみつ(もがみ よしあき)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての出羽でわこく大名だいみょう最上もがみだい11だい当主とうしゅ出羽でわ山形やまがたはん初代しょだい藩主はんしゅ

みなみはねしゅう勢力せいりょくひろげ、縁戚えんせきである伊達だてあきらむねせいむねあらそう。関ヶ原せきがはらたたかにおいてひがしぐんにつき、慶長けいちょう出羽いずは合戦かっせんにて上杉うえすぎ直江なおえけんつづけ退しりぞけ、57まんせき版図はんときずいた(『徳川とくがわ実紀みき』)[1]

生涯しょうがい

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家督かとく相続そうぞくまで

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天文てんもん15ねん1546ねん)1がつ1にちだい10代当主とうしゅ最上もがみ義守よしもりはは小野おの少将しょうしょうむすめとのあいだ長男ちょうなんとしてまれる[ちゅう 1]幼名ようみょう白寿はくじゅまる[3]

えいろく3ねん1560ねん)、15さい元服げんぷくした[2]将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるよりへんいみなたまわり、義光よしみつ名乗なのった[2]

同年どうねん3がつには、寒河江さがえしろめにて初陣ういじんかざっている[ちゅう 2]。しかしこの寒河江さがえめは失敗しっぱいわり、天文てんもんらんにおいて伊達だてからの独立どくりつせい回復かいふくして以降いこうすすめられてきた義守よしもり領土りょうど拡張かくちょうさくはここにいたって頓挫とんざした。えいろく6ねん1563ねん)、義守よしもり義光よしみつ父子ふし上洛じょうらくして将軍しょうぐん義輝よしてる拝謁はいえつ[ちゅう 3][ちゅう 4]、このとき義守よしもり義光よしみつ父子ふし幕府ばくふより御所ごしょごうぐうされている(『げんつぎきょう』)[4]えいろく7ねん1564ねん)には義光よしみついもうとひめ(のちのはるいん)が伊達だてあきらむねとつぎ、えいろく10ねん1567ねん)には長男ちょうなん梵天ぼんてんまる伊達だてまさしむね)をむが、この婚姻こんいん後々あとあとまで両家りょうけおおきな影響えいきょうあたえることとなる。

もとかめ元年がんねん1570ねんごろ[ちゅう 5]義守よしもり義光よしみつあいだいさかいがしょうじる。5月、病床びょうしょうにあった重臣じゅうしん氏家うじいえじょうただし仲裁ちゅうさい父子ふし和解わかいする[6]よくもとかめ2ねん1571ねん)8がつ義守よしもり出家しゅっけして「さかえりん」とごうし、義光よしみつ家督かとく相続そうぞくした[6]

しかし、天正てんしょう2ねん1574ねん)1がつ両者りょうしゃあいだふたた険悪けんあくになると、伊達だてからの独立どくりつ傾向けいこうつよめていた義光よしみつおさえるべく、伊達だてあきらむね岳父がくふ義守よしもり救援きゅうえん名目めいもく最上さいじょう領内りょうない出兵しゅっぺいする。天童てんどうよりゆきさだ白鳥しらとり長久ちょうきゅう蔵増くらぞうよりゆきしん延沢のぶさわまんのべらがてるむね同調どうちょうするなど四面楚歌しめんそか状況じょうきょうであったが、義光よしみつはこれらの攻勢こうせいたくみに退しりぞけた。9月10にちには義光よしみつ有利ゆうりのうちに和議わぎ成立せいりつし、最上もがみ伊達だてからの完全かんぜん独立どくりつ成功せいこうした。以後いご義守よしもり義光よしみつ父子ふし和解わかいし、ふたたあらそうことはなかった。

従来じゅうらい義守よしもり義光よしみつ廃嫡はいちゃくして次男じなんよしときこうがせようとしたことが両者りょうしゃ不和ふわ原因げんいんとされてきたが、一級いっきゅう史料しりょうにはまったられないため、今日きょうではこのせつ存在そんざいふくめて後世こうせい創作そうさくなされている(詳細しょうさい天正てんしょう最上さいじょうらん参照さんしょう)。

出羽でわ統一とういつ

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家督かとく相続そうぞくめぐ一連いちれんこうそう義光よしみつ勝利しょうりわったのちも、最上もがみ庶流の天童てんどうよりゆきさだ東根ひがしねよりゆきけい上山うえやま満兼みつかねなどは依然いぜんとして義光よしみつしたがわず、谷地やちじょうおも白鳥しらとり長久ちょうきゅうは、中央ちゅうおう実力じつりょくしゃ織田おだ信長のぶなが出羽守でわのかみへの推任をねがるなど[ちゅう 6]、この時点じてんではまだ最上さいじょういちぐん[ちゅう 7]支配しはいすらもおぼつかない状態じょうたいであった。そのため義光よしみつはまず家中いえじゅう法度はっと整備せいびなど足場あしばがためにつとめ、しかるのちはねしゅう探題たんだい最上もがみ勢威せいい回復かいふくさせるためのせんした。

なお、このころまでに正室せいしつ大崎おおさきより盟約めいやくむすび、天正てんしょう3ねん1575ねん)に嫡男ちゃくなん義康よしやす誕生たんじょうしている。

天正てんしょう5ねん1577ねん)、天童てんどうよりゆきさだ盟主めいしゅとする最上さいじょうはちだてたたかうも決着けっちゃくせず、和睦わぼくしてよりゆきさだむすめ天童てんどう御前ごぜん)を義光よしみつ側室そくしつむかえた。

天正てんしょう6ねん1578ねん)、上山うえやま満兼みつかね伊達だてあきらむね支援しえんけて最上さいじょうりょう侵攻しんこうした。義光よしみつねばづよ防衛ぼうえいにつとめおさむしろせんから野戦やせんみ、連合れんごうぐん手痛ていた打撃だげきあたえた。足立あしだてるむねじんに、あに危機ききさっしたいもうとよしひめかごりつけ、両者りょうしゃ説得せっとくして和議わぎむすばせた(柏木山かしわぎやまたたかい)[ちゅう 8]天正てんしょう8ねん1580ねん)、義光よしみつ満兼みつかね重臣じゅうしん里見さとみみん内応ないおうすれば上山うえやまりょうあたえるとさそいをかけ、これにったみん満兼みつかね殺害さつがいして義光よしみつり、上山うえやましろ手中しゅちゅうおさめた。

天正てんしょう9ねん1581ねん)から村山むらやまぐんにもへいすすめ、まずは天童てんどう姻戚いんせきである小国しょうこくじょうおも細川ほそかわただしもとまんばらたたかやぶ小国しょうこくじょう攻略こうりゃくなつには小野寺おのでら重臣じゅうしんさけのべじょうおもさけ延秀のぶひでつな調しらべりゃくする。

天正てんしょう10ねん1582ねん)、天童てんどう御前ごぜん三男さんなん義親よしちかんでもなく死亡しぼうしたため、天童てんどうとの和睦わぼく白紙はくしもどった。

天正てんしょう11ねん1583ねん)、庄内しょうない大宝寺だいほうじよし最上さいじょうめを計画けいかくしたが、義光よしみつ事前じぜん大宝寺だいほうじ家臣かしん東禅寺とうぜんじ義長よしながらを内応ないおうさせており、義長よしなが謀反むほんこしぎゃくよし急襲きゅうしゅうした。不意ふいかれたよし自刃じじんした。

天正てんしょう12ねん1584ねん)、義光よしみつ白鳥はくちょう長久ちょうきゅうむすめ嫡男ちゃくなん義康よしやすしつむかえることで懐柔かいじゅうしようとしたがおうじなかったため、やまい危篤きとくおちいったといつわって長久ちょうきゅう山形やまがたじょうおびしてみずか斬殺ざんさつすると、ただちに谷地やちじょう攻略こうりゃくした。つづいて寒河江さがえしろおも寒河江さがえ高基たかもとめて自害じがいさせ、寒河江さがえほろぼした。また、ちちよりゆきさだあといだ天童てんどうよりゆききよしめるも、最上さいじょうはちだて一人ひとり延沢のぶさわまんのべ奮戦ふんせん最上さいじょうぐん敗退はいたいする。そこで義光よしみつは、まんのべ嫡男ちゃくなん又五郎またごろう次女じじょ松尾まつおひめとつがせて、まんのべくと、さらに東根ひがしねよりゆきけい家老がろう里見さとみ源右衛門げんえもん内応ないおうさせてひがし根城ねじろ攻略こうりゃくする。められたよりゆききよし国分こくぶ盛重もりしげたよってびた。こうして天童てんどう盟主めいしゅとする最上さいじょうはちだて崩壊ほうかいし、義光よしみつ最上もがみぐん全域ぜんいき支配しはいおさめた。

天正てんしょう14ねん1586ねん)、小野寺おのでら義道よしみち有屋ありやとうげたたかう。緒戦しょせん敗北はいぼくするも、嫡男ちゃくなん義康よしやす楯岡たておかまんしげるらが反撃はんげきし、小野寺おのでらぜい撃退げきたいすることに成功せいこうした。

天正てんしょう15ねん1587ねん)、大宝寺だいほうじよしおとうと義興よしおき上杉うえすぎ景勝かげかつ接近せっきんはかっているという情報じょうほうった義光よしみつは、素早すばや義興よしおき攻撃こうげきして自刃じじんさせ、義興よしおき養子ようし義勝よしかつ上杉うえすぎ家臣かしん本庄ほんじょうしげるちょう)は越後えちごのがれた。

天正てんしょう16ねん1588ねん)2がつ伊達だてまさしむねが1まん軍勢ぐんぜい義兄ぎけい大崎おおさき義隆よしたか攻撃こうげきすると(大崎おおさき合戦かっせん)、義光よしみつ援軍えんぐん5,000を派遣はけんして義隆よしたかとも伊達だてぐんやぶったが、義光よしみついもうとよしひめはるいん)がりょうぐんあいだ自分じぶんったかごかせて停戦ていせん懇願こんがんしたため、両者りょうしゃ和議わぎむすんで撤退てったいした[ちゅう 9]うるう5がつ豊臣とよとみ秀吉ひでよしによりはねしゅう探題たんだい任命にんめいされる[8]。8月、最上さいじょうぜいうごけないと判断はんだんした越後えちご上杉うえすぎ景勝かげかつ家臣かしん本庄ほんじょうしげるちょう大宝寺だいほうじ義勝よしかつ父子ふし庄内しょうない侵攻しんこうめいじた。景勝けいしょうけたしげるちょうひきいる上杉うえすぎぐんじゅうさとばらたたか最上さいじょうぐんやぶり、庄内しょうない地方ちほう上杉うえすぎ影響えいきょうにあった大宝寺たいほうじ奪還だっかんされた。その上杉うえすぎぐんとのたたかいはつづいたが、上杉うえすぎ重臣じゅうしん直江なおえけんつづけ石田いしだ三成みつなり経由けいゆ秀吉ひでよし接近せっきん義光よしみつ以前いぜんから懇意こんいであった徳川とくがわ家康いえやすつうじて交渉こうしょうにあたるも、秀吉ひでよし裁定さいていにより庄内しょうない地方ちほう上杉うえすぎりょうとして公認こうにんされた。

天正てんしょう17ねん1589ねん)5がつ徳川とくがわ家康いえやす片倉かたくら景綱かげつな書状しょじょうおくり、伊達だてまさしむね最上もがみ義光よしみつ友誼ゆうぎあつくするよう要請ようせいしている[9]義光よしみつすり上原うえはらたたか援軍えんぐんおくったという[10]

豊臣とよとみ政権せいけん

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天正てんしょう18ねん1590ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつさんじんし、宇都うと宮城みやぎにて夫人ふじん秀吉ひでよし拝謁はいえつ本領ほんりょう24まんせき[11]安堵あんどけた[ちゅう 10]。このとき義光よしみつ直前ちょくぜんぼっしたちち義守よしもり葬儀そうぎのためおい伊達だてまさしむねよりさらに遅参ちさんしているが、事前じぜん家康いえやす交渉こうしょうしていた成果せいかもあり、とがめはなかった[ちゅう 11]。また奥州おうしゅう仕置しおきさい発生はっせいした仙北せんぼく一揆いっきじょうじて小野寺おのでらりょう出兵しゅっぺいし、雄勝おがつぐん上浦かみうらぐん一部いちぶ)をけずった。

なお小田原おだわらさんじんまえいもうとよしひめ利用りようせいむね毒殺どくさつ目論もくろんでいたとされることがあるが、このせつただしいかは諸説しょせつある(ひめ参照さんしょう)。

天正てんしょう19ねん1591ねん正月しょうがつ京都きょうと上洛じょうらく[12]したがえよん侍従じじゅう補任ほにんされた[13]同年どうねん家康いえやす九戸くのへ政実まさみらん征伐せいばつさいに、次男じなんいえおやしょ大名だいみょう先駆さきがけて徳川とくがわ小姓こしょうとして出仕しゅっしさせた。この討伐とうばつ同行どうこうしていた豊臣とよとみ秀次しゅうじ山形やまがたじょうったさいさんじょこまひめ美貌びぼうをつけ、義光よしみつ側室そくしつすよう執拗しつようせまった(山形やまがたじょう秀次しゅうじらず、美貌びぼううわさいてせまったというせつもある)。義光よしみつことわったが、度重たびかさなる要求ようきゅうくっ渋々しぶしぶむすめすこととなった。こまひめ成長せいちょうってしいというのが、かれのせめてもの抵抗ていこうであった。また、三男さんなん義親よしちか秀吉ひでよしつかえさせ、最上さいじょう安泰あんたいをはかった。

天正てんしょう20ねん1592ねん)、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいそなえて肥前ひぜん名護屋なごや滞陣たいじんするも、渡海とかいはせずにんだ。名護屋なごやざい陣中じんちゅう国許くにもと家臣かしん伊良子いらこ信濃しなのまもるたいして「いのちのうちニ、いまいちともかみのつちをふみさるたくこう、みつをいちはいのみたくこう」という主旨しゅし書状しょじょうおくって本音ほんね吐露とろしており[14]戦況せんきょうきびしくなるなかで、望郷ぼうきょうしんつよくなっていることをしめ記述きじゅつがなされている[14]同年どうねんより山形やまがたじょう改築かいちくはじめた。このころ、秀吉ひでよしから羽柴はしば名字みょうじあたえられる[15]

ぶんろく3ねん1594ねん)、小野寺おのでら義道よしみち忠臣ちゅうしん八柏やがしわどうためにせ書状しょじょうおくる。この計略けいりゃくにはまった義道よしみちみちため成敗せいばいした。その義道よしみち義光よしみつ相手あいて連敗れんぱいし、関ヶ原せきがはらたたか慶長けいちょう出羽いずは合戦かっせん)では西にしぐん味方みかたし、戦後せんご改易かいえきされた。

ぶんろく4ねん1595ねん)、秀次しゅうじ謀叛ぼうほんうたがいで高野山こうのやま軟禁なんきんされ、切腹せっぷくしたさい秀次しゅうじ事件じけん)、むすめこまひめ連座れんざしてきょう三条さんじょう河原かわら処刑しょけいされた。15さいだった[16]一説いっせつでは、こまひめ実質じっしつてきには秀次しゅうじ側室そくしつでさえなかったという。義光よしみつ家康いえやすしもあって必死ひっし助命じょめい嘆願たんがんをしたがわなかった。義光よしみつ夫妻ふさい悲嘆ひたんはげしく、悲報ひほういた義光よしみつ数日すうじつあいだ食事しょくじることもままならず、こまひめ生母せいぼ大崎おおさきはまもなくこまひめのちうように死亡しぼうしている。前田まえだ利家としいえ上杉うえすぎ景勝かげかつら28めいとともに連名れんめい起請文きしょうもんすが[17]うたがいはれず、せいむねらととも秀次しゅうじへの加担かたんうたがわれ謹慎きんしん処分しょぶんける。このときちち無事ぶじ息子むすこ義康よしやすいえおや祈願きがんしていることからも、相当そうとうめられた義光よしみつ立場たちばわかる。この処分しょぶんもなくけたが、義光よしみつ秀吉ひでよしたいする憎悪ぞうお決定的けっていてきなものとなった。これ以降いこう慶長けいちょう伏見ふしみ地震じしん直後ちょくご秀吉ひでよしではなく家康いえやす護衛ごえいけつける、秀吉ひでよしからちゃまねかれた家康いえやす自発じはつてき護衛ごえいするひとし義光よしみつにとって恩義おんぎのある徳川とくがわかたへの傾斜けいしゃをますますつよめていく。

慶長けいちょう3ねん1598ねん)、会津あいづ若松わかまつしろおも蒲生がもう秀行ひでゆき家臣かしんだんあらそいをさえられずにてんふうされると(蒲生がもう騒動そうどう)、会津あいづには上杉うえすぎ景勝かげかつ奥羽おううしょ大名だいみょうかん関東かんとう徳川とくがわ家康いえやす牽制けんせいのためにおくまれた。景勝けいしょうとは庄内しょうない地方ちほうめぐはげしくあらそってきた経緯けいいがあり、また上杉うえすぎりょう最上さいじょうりょうによって会津あいづ庄内しょうない佐渡さど分断ぶんだんされることになり、両者りょうしゃ衝突しょうとつけられない状態じょうたいとなった。同年どうねん8がつ秀吉ひでよし死去しきょすると、豊臣とよとみ政権せいけん大老たいろう奉行ぶぎょうによる集団しゅうだん体制たいせい政務せいむおこなうが、翌年よくねんには大老たいろう筆頭ひっとう前田まえだ利家としいえ死去しきょする。奉行ぶぎょう石田いしだ三成みつなり蟄居ちっきょし、徳川とくがわ家康いえやす大阪城おおさかじょう西にしまる政務せいむおこなう。

慶長けいちょう出羽いずは合戦かっせん

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長谷堂はせどう合戦かっせん屏風びょうぶ」より。直江なおえけんつづけ追撃ついげきする義光よしみつ

慶長けいちょう5ねん1600ねん)、家康いえやす会津あいづ景勝けいしょう軍備ぐんび増強ぞうきょうしていることを詰問きつもんする。上杉うえすぎ重臣じゅうしん直江なおえけんつづけはこれにたいして絶縁ぜつえんじょうともいえる『直江なおえじょう』で返答へんとうした。これをけた家康いえやすは6がつ会津あいづ征伐せいばつ開始かいしした。義光よしみつ奥羽おううしょしょうひがしぐん徳川とくがわかた)に味方みかたし、米沢よねざわじょう攻撃こうげきのため最上さいじょう領内りょうない集結しゅうけつしていった。しかし、家康いえやす会津あいづ征伐せいばつおもむ最中さいちゅうに、上杉うえすぎ昵懇じっこんであった石田いしだ三成みつなりらが、はん家康いえやす名目めいもくにして上方かみがた挙兵きょへいした。家康いえやすはこれをると会津あいづ攻撃こうげき中止ちゅうしし、義光よしみつせいむね結城ゆうき秀康ひでやすらに景勝けいしょう牽制けんせいめい上方かみがたかえした。

これをけ、奥羽おううしょしょう最上さいじょう領内りょうないからはじめ、なかでも領内りょうない一揆いっき発生はっせいした南部なんぶ利直としなおは、いそかえした。一方いっぽうせいむね孤立こりつ警戒けいかい上杉うえすぎぜい講和こうわむすぶ。義光よしみつひがしぐんにつく決意けついかためていたが、上杉うえすぎりょうせっしている家臣かしんだんはこれに反対はんたいし、義光よしみつ圧倒的あっとうてき不利ふりさとり、嫡子ちゃくし義康よしやす人質ひとじちすことを条件じょうけん上杉うえすぎぜい講和こうわをはかった。しかし、義光よしみつひがしぐんかた秋田あきた実季みきむす上杉うえすぎりょうめる形跡けいせき上杉うえすぎがわられたため講和こうわ成立せいりつしなかった。こうして最上さいじょう完全かんぜん孤立こりつした状態じょうたいで、上杉うえすぎ対峙たいじすることとなった。

景勝けいしょう直江なおえけんつづけに2まん~2まん4せんあまり軍勢ぐんぜいあづけ、最上もがみりょう侵攻しんこう開始かいしした。これに対抗たいこうする最上さいじょうぐんは7,000あまり実際じっさい小野寺おのでら義道よしみち牽制けんせいするため庄内しょうない出兵しゅっぺいしていたため、さらにすくなく3,000あまり)でしかなかったが、上杉うえすぎぐんたいして義光よしみつは2,000ていもの鉄砲てっぽう駆使くしして抗戦こうせんした。

長谷堂はせどうじょうたたか

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わずか350めい最上さいじょうへい駐屯ちゅうとんする畑谷はたやしろ守将しゅしょう江口えぐち光清こうせいは、兵力へいりょく集中しゅうちゅうのため撤退てったいするようにという義光よしみつ命令めいれい無視むし籠城ろうじょうした。光清みつきよ器量きりょうしんだけんつづけは「降伏ごうぶくすれば名誉めいよある処置しょちをとる」と勧告かんこくしたが、光清こうせいはこれを拒否きょひ抗戦こうせんした。光清みつきよ父子ふしひきいられた守兵しゅへいはよくちこたえ、上杉うえすぎぐんに1,000めいちか死傷ししょうしゃ損害そんがいあたえるも、衆寡しゅうかてきせずまもなく全滅ぜんめつ畑谷はたやじょう陥落かんらくした。つづいて上杉うえすぎぐん山形やまがたじょうようである長谷堂はせどうじょう攻撃こうげきするが、守将しゅしょう志村しむら光安みつやすひきいる1,000めい上杉うえすぎぜい相手あいてによくしろまもり、さけ延秀のぶひでつならの奮戦ふんせんもあっててきしょう上泉かみいずみやすしつなるなどおおくの戦果せんかげた。ほかにも上山かみのやまじょう里見さとみみん湯沢ゆざわしろ楯岡たておかまんしげ最上さいじょうぜい守将しゅしょう善戦ぜんせんし、上杉うえすぎぜい小野寺おのでらぜい相手あいてしろまもいた。

義光よしみつ嫡子ちゃくし義康よしやす派遣はけんし、おいせいむね援軍えんぐん要請ようせいした。このころせいむねは、南部なんぶ利直としなお最上さいじょうりょう援軍えんぐんとしてかったことをると、和賀わがただしおや煽動せんどう一揆いっきこさせ領土りょうど拡大かくだいねらっていた(岩崎いわさき一揆いっき)。せいむね留守るす政景まさかげひきいるやく3,000の援軍えんぐん派遣はけんしたが、最上さいじょうりょう戦局せんきょく見守みまもるにとどまった。一説いっせつによれば、せいむね重臣じゅうしん片倉かたくら景綱かげつなから「山形やまがたじょう落城らくじょうするまで傍観ぼうかんし、疲弊ひへいした上杉うえすぎぜいち、漁夫ぎょふるべし」との献策けんさくけていたが、ははよしひめ山形やまがた城内じょうのうちにいることを考慮こうりょしそのさく却下きゃっかしたといわれている。

9月29にち上杉うえすぎぐん関ヶ原せきがはらたたかいの敗報はいほういて長谷堂はせどうじょう包囲ほういき、米沢よねざわしろ退却たいきゃくした。西にしぐん敗戦はいせんほういた義光よしみつは、家臣かしんほりうん制止せいしに「大将たいしょう退却たいきゃくしてどうやっててきふせぐのか!」と反論はんろんし、先頭せんとうって上杉うえすぎぜいいすがった。しかし、てき一斉いっせい射撃しゃげきおそわれ、ほりうん戦死せんしし、義光よしみつ自身じしんかぶと被弾ひだんしてしまう。結局けっきょく最上さいじょうぐんはあといちのところでけんつづけがしてしまった。けんつづけ退しりぞさい見事みごとさには、てきである義光よしみつ賞賛しょうさんしまなかったという。

上杉うえすぎぐん退却たいきゃくすると最上さいじょうぜいおくれた上杉うえすぎぜい素早すばや追撃ついげきし、谷地やちじょう西村山にしむらやまぐん河北かほくまち)にこも尾浦おうらじょうあるじした秀久ひでひさくだした。上杉うえすぎ和平わへい交渉こうしょうけてうごいているあいだに、した秀久ひでひさ先手せんてとして庄内しょうない地方ちほう進攻しんこう短期間たんきかんのうちにじゅうさとばらたたかいでうしなった旧領きゅうりょう奪還だっかん成功せいこうした。

義光よしみつ上杉うえすぎぐん撃退げきたいしたこうにより、った庄内しょうない地方ちほうなどの領有りょうゆうみとめられ、上杉うえすぎりょうである置賜おきたまぐんのぞ現在げんざい山形やまがたけん全土ぜんど由利ゆりぐん佐竹さたけとの領土りょうど交換こうかんにより、当初とうしょ所有しょゆうしていた雄勝おがつぐん平鹿ひらかぐんえた)けい57まんせきりょうし、出羽いずは山形やまがたはん初代しょだい藩主はんしゅとなった。また、戦前せんぜん交渉こうしょう失敗しっぱい秋田あきた勢力せいりょく増大ぞうだいすることをおそれた戸沢とざわ厭戦えんせんてき態度たいどから、戦後せんご義光よしみつ秋田あきた実季みきひがしぐん裏切うらぎったとする讒訴ざんそ家康いえやすがわべ、これが実季みき常陸ひたちこくうつりふうさせる要因よういんひとつともなった。

江戸えど時代じだい

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江戸えど幕府ばくふ成立せいりつ以降いこう義光よしみつ領内りょうない復興ふっこう尽力じんりょくした。自国じこくみんたいして非常ひじょう寛容かんようであり、義光よしみつ存命ぞんめいちゅう一揆いっきもほとんどきなかったとわれる。かれ統治とうちにおける善政ぜんせいはのちに「最上さいじょう源五郎げんごろうやく(年貢ねんぐ以外いがい税金ぜいきん)をばかけぬ」とうたわれた[ちゅう 12]

居城きょじょうである山形やまがたじょう改築かいちくし、国内こくない有数ゆうすうひろさの平城ひらじろ拡張かくちょうするとともに、城下町じょうかまち整備せいびりかかった。まず、商人あきんどまち整備せいびするため、山形やまがた城下じょうかにおいては地子じしぜに年貢ねんぐ免除めんじょし、間口まぐち4あいだはんから5あいだ奥行おくゆき30あいだ基本きほんとした125つぼから150つぼ土地とちあたえるとともに、はねしゅう街道かいどう笹谷ささや街道かいどう沿いに定期ていきもうけた。さらに上杉うえすぎからうばかえした日本海にほんかいよう酒田港さかたこう最大限さいだいげん活用かつようすべく、庄内しょうないから山形やまがたつうじる2ほん街道かいどう改修かいしゅう拡幅かくふくするとともに、最上川もがみがわさん難所なんしょ開削かいさくして水運すいうん安全あんぜんせいたかめ、領内りょうない流通りゅうつうさかんにしてはん財政ざいせいおおいにうるおした。また職人しょくにんまちは「御免ごめんまち」としてしょやく免除めんじょされ、職人しょくにんなかには家臣かしんなみ待遇たいぐうけたものた。当時とうじまちすうは31、町屋敷まちやしきは 2,319けん人口じんこう19,796にん。これに家臣かしんだんくわえると人口じんこうは3まんにんえた。

農政のうせいめんでは、治水ちすい工事こうじ積極せっきょくてき推進すいしんし、北楯きただて利長としなが新関にいぜきひさただしらにめい北楯大堰きただておおぜき因幡いなばせきなどの疏水そすい開削かいさくして用水ようすい問題もんだい解決かいけつし、庄内平野しょうないへいや開発かいはつすすめ、農業のうぎょう生産せいさんりょく向上こうじょうさせた。

大宝寺だいほうじじょう改築かいちくしてつるおかじょう改称かいしょうし、みずからの隠居いんきょしょとした。義光よしみつ嫡男ちゃくなん義康よしやす関係かんけい当初とうしょ良好りょうこうであったが、家臣かしん讒言ざんげんによっていつのにか険悪けんあくなものとなっていた。このことは、いえおや家督かとくがせたい幕府ばくふや、それを利用りようせんとした家臣かしん思惑おもわくからんでいたとわれている。そんななか慶長けいちょう8ねん1603ねん1602ねん1611ねんせつもあり)、義康よしやす何者なにもの[ちゅう 13]によって暗殺あんさつされた。この事件じけんについてはいま詳細しょうさい不明ふめいであり、義光よしみつ意向いこうによるものとされることもあるが、家臣かしんたちの単独たんどく犯行はんこうせつもありはっきりしない(最上もがみ義康よしやす参照さんしょう)。

家康いえやすは、義光よしみつ近侍きんじさせていた次男じなんいえおやをことのほかっており、義康よしやす廃嫡はいちゃく家康いえやす意向いこうけてとのことだともわれている。この事件じけんは、義光よしみつ最上もがみ安泰あんたいはかったおもいが結果けっかとして裏目うらめてしまったものといえる。すで義康よしやす最上もがみ次期じき当主とうしゅとして家臣かしんへんいみなあたえるほど権限けんげんゆうしており、家中かちゅう動揺どうようさせた[18]義康よしやす最上さいじょう改易かいえき遠因えんいんになったことは指摘してきされることではあるが、改易かいえきにはいえおや夭折ようせつ家臣かしん強訴ごうそといった要素ようそおおきいとの意見いけんもある。城主じょうしゅたちの連合れんごうからなる最上さいじょう家臣かしんだん一枚岩いちまいいわではなく、義光よしみつちからもってしても統制とうせいがとれていなかっためん指摘してきされている。義光よしみつおこなった義康よしやす供養くようは、こまひめのものとおなじく手厚てあついものであった。

慶長けいちょう10ねん1605ねん)、次男じなんいえおや侍従じじゅう補任ほにんされる[19]

晩年ばんねん

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霞城かじょう公園こうえんにある『最上もがみ義光よしみつこれぞう』。

慶長けいちょう16ねん1611ねん)3がつしたがえよんじょうひだり近衛このえ少将しょうしょう[20]出羽守でわのかみ叙位じょい任官にんかんする。その駿府すんぷじょう新築しんちくいわいのために駿府すんぷ上府かみこうしたが、このころからやまいがちになる。翌年よくねんほり普請ふしん激励げきれいするぶんには、体調たいちょうければ現場げんばきたいという趣旨しゅしくやしがっている[21]

慶長けいちょう18ねん1613ねん)、体調たいちょう一層いっそう悪化あっかしたとおもわれ、正月しょうがつ拝賀はいが使者ししゃおもむいている。同年どうねん4がつ義光よしみつ病躯びょうくきずるようにして江戸えどのぼ将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ謁見えっけん、さらにその駿府すんぷかうが神奈川かながわから使者ししゃしたようである。9月、ふたた駿府すんぷ家康いえやすに謁して最上さいじょう今後こんごたくし、家康いえやすからくすりなどを下賜かしされた。また、「天下てんか呑分のはい」を拝領はいりょうした。その江戸城えどじょう秀忠ひでただ拝謁はいえつし、いえおや江戸えど在勤ざいきんしているあいだくにやくさんぶんいち免除めんじょされた(『徳川とくがわ実紀みき』)。

けて慶長けいちょう19ねん1614ねん)1がつ18にちこく山形やまがたじょう帰還きかんしてまもなく病死びょうしした。享年きょうねん69。葬儀そうぎ当日とうじつ寒河江さがえ肥前ひぜんもり寒河江さがえ十兵衛じゅうべえ長岡ながおか但馬たじままもる山家やまや河内かわうちまもるの4にん家臣かしん殉死じゅんしした。義光よしみつ墓所はかしょ山形やまがた鉄砲てっぽうまち光禅寺こうぜんじにある。光禅寺こうぜんじ創建そうけん当初とうしょ現在げんざいななにちまちったが、鳥居とりいてんふうさい鳥居とりい菩提所ぼだいしょ長源寺ちょうげんじあらためられ、光禅寺こうぜんじ旧臣きゅうしんらのによって現在地げんざいち移転いてんされた。

義光よしみつ最上さいじょう

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義光よしみつ死後しごいだいえおや元和がんわ3ねん1617ねん)に急死きゅうしした。いえおやよししゅん義光よしみつまご)がこういだが、後継こうけいしゃをめぐって内紛ないふん発生はっせい幕府ばくふ仲介ちゅうかいでも解決かいけつしなかったため、家中いえじゅう不届ふとどきであるとして、義光よしみつからわずか9ねんもと8ねん1622ねん)に改易かいえきされた(最上もがみ騒動そうどう)。よししゅん近江おうみ大森おおもりはん1まんせきあたえられたが早世そうせいし、いだよしさとし幼少ようしょうのためさらに5,000せきらされ、以後いご最上さいじょう養子ようしむかえながら交代こうたい寄合よりあいとして明治維新めいじいしんむかえた。最上さいじょう直系ちょっけい末裔まつえい現在げんざい関西かんさい地方ちほう在住ざいじゅうである。

また、義光よしみつよんなん山野辺やまのべ義忠よしただ家系かけい水戸みとはん家老がろうとして明治維新めいじいしんむかえている。テレビ時代じだいげき水戸黄門みとこうもん』に登場とうじょうする国家老くにがろう山野辺やまのべ兵庫ひょうごは、義忠よしただけんであり、義光よしみつまごにあたる。

大正たいしょう13ねん1924ねん)2がつ11にちみや内省ないせいよりせいよん追贈ついぞうされた。昭和しょうわ52ねん1977ねん)、霞城かじょう公園こうえんないに「最上もがみ義光よしみつおおやけ勇戦ゆうせんぞう」がつくられ、平成へいせい元年がんねん1989ねん)12月1にち最上さいじょう史料しりょう展示てんじ義光よしみつ顕彰けんしょうする施設しせつとして、山形やまがたによって最上もがみ義光よしみつ歴史れきしかん建設けんせつされた。

人物じんぶつ逸話いつわ

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  • 義光よしみつは「よしあき」と[22]かれ実妹じつまいはるいんてた書状しょじょうにおいて、みずからの平仮名ひらがなで「よしあき」といている[22]
  • はやくから集団しゅうだん戦術せんじゅつ火器かき着目ちゃくもくしており、酒田港さかたこう経由けいゆ上方かみがたより大量たいりょう銃器じゅうき火薬かやく入手にゅうしゅし、またさかいから鉄砲てっぽう鍛冶たんや招聘しょうへいしていた。天正てんしょう2ねん1574ねん)の伊達だて上山かみのやまぜいとの戦闘せんとうや、寒河江さがえしろ攻略こうりゃくにおいては集団しゅうだん射撃しゃげきてきやぶっている。長谷堂はせどうじょうたたかいでも、上杉うえすぎぜい最上さいじょうぜい射撃しゃげきくるしめられた。
  • 白鳥しらとり長久ちょうきゅうむすめ日吉ひよしひめ)を嫡男ちゃくなん義康よしやすつまむかえるためとして、蔵増くらぞう天童てんどう)から谷地やち河北かほくまち)へいたる「こうり(むかさりみち」を蔵増くらぞうおやけい大膳だいぜんあきら)にめいじてつくらせる一方いっぽう、その縁談えんだん破談はだんとなり白鳥はくちょう長久ちょうきゅう山形やまがたじょうさそ暗殺あんさつすると、こうどう一気いっきのぼ谷地やちじょう落城らくじょうさせた[23]
  • 伊達だてあきらむねとついだ実妹じつまいはるいんとは殊更ことさら関係かんけいふかく、後世こうせいのこ文通ぶんつう多数たすうある。とく大崎おおさき合戦かっせん慶長けいちょう出羽いずは合戦かっせんにおいてははるいん実家じっかである最上さいじょうおもんばかって伊達だてとのなかつようにうごいた書状しょじょう複数ふくすう存在そんざいする。たいして、そのおいである伊達だてまさしむねとはいちまわ世代せだいにあたる人物じんぶつでありながら因縁いんねんふかく、縁戚えんせきとしての文通ぶんつうすくなくないながら敵対てきたいしゃとして挑発ちょうはつてきなやりりも複数ふくすうられ、そう無事ぶじれいのちとくせいむね第三者だいさんしゃ義光よしみつひょうするときなどは皮肉ひにくめいた物言ものいいの書状しょじょうおおい。
  • 晩年ばんねん体調たいちょうくずすまでは右筆ゆうひつをほとんど使つかわず、自筆じひつ書状しょじょうしるしていた。
  • 義光よしみつには当時とうじえがかれた肖像しょうぞうつたわっていない。ひろ流布るふしている烏帽子えぼし姿すがた肖像しょうぞうは、近世きんせい以降いこうえがかれたものと推察すいさつされる。

体格たいかく

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  • 長身ちょうしんで180センチ以上いじょうだったとされる[24]松尾まつおつよし山形大学やまがただいがく名誉めいよ教授きょうじゅも「奥羽おううえいけい軍記ぐんきまきじゅう記述きじゅつろくしゃくあまりとあることを確認かくにんしている[24]義光よしみつたたかいで使用しようした指揮棒しきぼうかたな2ほんぶんおもみがあったという逸話いつわがある[24]
  • ちからつよ武勇ぶゆうにもすぐれていた。えいろく4ねん(1561ねん・16さい)ごろには7、8にんがかりでうごかした大石おおいし一人ひとり易々いいころがしたという。同年どうねんちちきょうをしてこう温泉おんせんげん蔵王温泉ざおうおんせん)へ湯治とうじったさい鹿しかりのあとねむりについていたところ、盗賊とうぞくすうじゅうにんおそわれた。義光よしみつ先頭せんとうって防戦ぼうせん2人ふたり重傷じゅうしょうわせ1にんって刺殺しさつ、そのさいかお複数ふくすうきずけたという。武勇ぶゆうしょうしてちち名刀めいとうささきりつて貞宗さだむね?)をさづけ、義光よしみつはこれをると感動かんどうして言葉ことばもなくなみだしていたという(『はね軍記ぐんき』・『奥羽おううえいけい軍記ぐんき』に記述きじゅつあり)。蔵王温泉ざおうおんせんには、家臣かしんちからくらべをしてただ一人ひとりげたという「義光よしみつおおやけ力石りきいし」がのこされている。

文化ぶんかじん

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  • 義光よしみつは『伊勢物語いせものがたりとう古典こてん文学ぶんがくしたしみ、家臣かしんにも文学ぶんがく熱心ねっしん奨励しょうれいした。とくに『源氏物語げんじものがたり』にかんしては、上洛じょうらくちゅうおもね講義こうぎけて切紙きりかみ免状めんじょう)を授与じゅよされた。また、絵巻物えまきもの屏風びょうぶ陶器とうきひとし美術びじゅつひん蒐集しゅうしゅうし(家臣かしん武久たけひさ昌勝まさかつ若狭わかさ酒井さかい仕官しかんするまで所有しょゆうしていたものとつたわる『ばん大納言だいなごん絵詞えことば』も生前せいぜん蒐集しゅうしゅうしていた可能かのうせいがある)、おもね山本やまもとそうたすくらを領内りょうない招聘しょうへいして[ちゅう 14]山形やまがた城下じょうか桃山ももやま文化ぶんか移入いにゅうした。この光明寺こうみょうじには、ぶんろく3ねん(1594ねん)7がつ7にち義光よしみつ狩野かの絵師えし狩野かのそうしげる狩野かのひさしとくおとうと)にえがかせてに寄進きしんした、「遊行ゆぎょう上人しょうにん絵巻えまき」(ぜん10かん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)がのこっている[25]
  • 義光よしみつのこした連歌れんがかず現存げんそん33かん・248にのぼり、これはどう時代じだい諸侯しょこうなかでは細川ほそかわ幽斎ゆうさいおおさである。同席どうせきしゃ里村さとむら紹巴じょうはをはじめとする錚々たるかおぶれであり、こう陽成ようぜい天皇てんのうから発句ほっくたまわったこともあった。天正てんしょう20ねん(1592ねん)2がつには、きょう連歌れんがたちのもとめにおうじて江口えぐち光清こうせい発句ほっくとどけさせている。また、連歌れんが研究けんきゅうしょ連歌れんが新式しんしきちゅういちかん執筆しっぴつしており、どう時代じだい連歌れんが主要しゅよう作家さっかとされる。代表だいひょうさくに「うめきて におがいなる 四方しほうもなし」などがある。和歌わか手紙てがみ文体ぶんたい書体しょたいひいでている。
  • 最上さいじょう代々だいだい宗教しゅうきょう保護ほごんでおり、義光よしみつもまた信仰しんこうしんがあつかった。愛用あいよう指揮棒しきぼうに「清和せいわ天皇てんのう末葉まつよう山形やまがた出羽守でわのかみ有髪うはつそう義光よしみつ」とこくしていたことからもそのことがよくわかる。天正てんしょう7ねん1579ねん)8がつ義光よしみつ重病じゅうびょうかかっていたらしく湯殿山ゆどのさん祈願きがんおこなっている。義光よしみつ領土りょうど拡大かくだい藩政はんせい確立かくりつともない、寺社じしゃ建立こんりゅう保護ほごおこなった。最上もがみさんせんしょうてら立石寺りっしゃくじ羽黒山はぐろさん慈恩寺じおんじ義光よしみつさん常念寺じょうねんじ嫡子ちゃくし義康よしやす菩提寺ぼだいじ)などは義光よしみつ時代じだい創建そうけんまたは再建さいけんされたてらである。山形やまがたいち伽藍がらんせんしょうてらは、非業ひごうげた愛娘まなむすめこまひめつま供養くようするためのものだといわれ、山形やまがた城内じょうのうちからこまひめ居室きょしつ移築いちくされた。境内けいだいには義光よしみつ参拝さんぱいするときにうまつないだという伝説でんせつのある「こまつなぎのさくら」がのこされている。
  • 日本にっぽんさんだい植木うえきひとつとされる山形やまがたの「薬師くすしさい植木うえき」は、義光よしみつ大火たいかうしなわれたみどりもどそうと住民じゅうみんびかけたのがはじまりとされている。
  • 山形やまがたじょうにある義光よしみつぞううまほんあし大変たいへんめずらしいかたちをしている。この造型ぞうけい寄贈きぞうしゃである鈴木すずき傳六でんろくでんろく創業そうぎょうしゃ)たっての意向いこうであり、大変たいへんなんたか技術ぎじゅつもちいているとのことである。

どう時代じだいおよ後世こうせい評価ひょうか

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義光よしみつについて、軍記ぐんきぶつにおいてであるが、以下いかのような評価ひょうか存在そんざいし、英雄えいゆうされていたことがかる。

  • 義光よしみつおおやけ智仁ともひといさみ三徳さんとくね、そのほまたかし。近隣きんりんしたがえひつかずといふことなし」(『最上もがみ義光よしみつ物語ものがたり』)
  • 「およそじゅうぐんうち秋田あきたじょうかい所領しょりょうよりほかは、みな此のひと進退しんたいまかせけるは、義光よしみつ智勇ちゆうより超越ちょうえつしたるゆえなり。」(『会津あいづ四家しかあいこう』)
  • 武勇ぶゆうひとにすぐれ、就中なかんづく慈悲じひふかくしてしょふかろうはり、たとえばおやをあはれむさまにこそなしきゅうへ。」(『会津あいづ四家しかあいこう』)
  • 「其ノせいひろしやわらニシテ無道むどうほうヒズ、しかいさむニシテよこしまナラズ。まことくん々タレバ、しん々タリトカヤ。」(『奥羽おううえいけい軍記ぐんき』)

また、「はねしゅうきつね」、「奥羽おうう驍将ぎょうしょう」、「とらしょう」(官位かんい近衛このえ少将しょうしょうかんめいである「とら賁郎しょう」からとった)としょうされることがある。

系譜けいふ

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兄弟きょうだい姉妹しまい

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  • 正室せいしつ大崎おおさき(? - 1595)としよひめ大崎おおさき義隆よしたかいもうと秀次しゅうじ事件じけん義光よしみつとともに聚楽第じゅらくだい監禁かんきんされ1595ねん8がつ16にち急死きゅうし肖像しょうぞうせんしょうてらのこされている。墓所はかしょ寒河江さがえ不動山ふどうやま正覚寺しょうかくじ
  • 側室そくしつ天童てんどう(? - 1582)天童てんどうよりゆきさだむすめ天童てんどうとの和睦わぼく条件じょうけんとしてとつぐ。三男さんなん義親よしちか出産しゅっさん直後ちょくごの1582ねん10がつ12にち死去しきょ
  • 継室けいしつ清水しみず(1577 - 1638)清水しみず城主じょうしゅ清水しみずよしむすめ大崎おおさき夫人ふじん死後しご、20さい義光よしみつとつぐ。文才ぶんさいひいでていたという。義光よしみつ死後しご落飾らくしょく浄土真宗じょうどしんしゅう光明寺こうみょうじ開基かいき寺領じりょう54せき御朱印ごしゅいんたまわった
  • 最上もがみ義康よしやすはは大崎おおさき、1575 - 1603)廃嫡はいちゃく何者なにものかによって暗殺あんさつされる
  • 最上さいじょうおやはは大崎おおさき?、1582 - 1617)山形やまがたはんだい藩主はんしゅ三男さんなんせつあり
  • 清水しみず義親よしちかはは天童てんどう、1582 - 1614)清水しみず城主じょうしゅ豊臣とよとみかたつうじたうたがいをかけられあにいえおやめられ自刃じじん二男じなんせつあり
  • 山野辺やまのべ義忠よしただはは大石田おおいしだまち深堀ふかほり郷士ごうしむすめという伝承でんしょうあり[26]、1588 - 1664)山野辺やまのべ城主じょうしゅ最上さいじょう改易かいえき水戸みとはん家老がろうとなる。義光よしみつ男子だんし唯一ゆいいつ天寿てんじゅまっとうした
  • 上野山うえのやま義直よしなおははしょう、1594 - 1622)上山うえやま城主じょうしゅ最上さいじょう改易かいえきあづさき切腹せっぷく
  • 大山おおやま光隆みつたかははしょう、1602 - 1625)最上さいじょう改易かいえきあづさき切腹せっぷく
  • 松尾まつおひめはは大崎おおさき、1578 - 1606ごろ延沢のぶさわこうあきらしつ
  • こまひめはは大崎おおさき、1581 - 1595)別名べつめいまんほう豊臣とよとみ秀次しゅうじ側室そくしつ秀次しゅうじ連座れんざ処刑しょけいされる
  • たけひめはは大崎おおさきなま没年ぼつねんしょう氏家うじいえひかりしつ長女ちょうじょせつあり
  • 禧久ひめははしょう、?- 1664)里見さとみおやよろししつ

家臣かしん

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江戸えど初期しょきおもじょうすすむ配置はいち

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義光よしみつ領内りょうない各地かくち大身たいしん城主じょうしゅ多数たすう配置はいちした。「最上もがみ家伝かでん覚書おぼえがき」によれば、まんせき以上いじょう家臣かしんが16にん千石せんごく以上いじょうが63にんひゃくせき以上いじょうが850にんいたという。家臣かしん知行ちぎょう合計ごうけいすると66まんせきあまりにもなる。最上もがみ急速きゅうそく勢力せいりょく拡大かくだいしたため集権しゅうけんいついておらず、結果けっかてきには最上もがみ改易かいえき一因いちいんとなった。

最上もがみ一門いちもん
家臣かしんだん

へんいみなあたえた人物じんぶつ

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(*「ひかり」の義光よしみつみにわせて「あき」とむのが正確せいかくだが、一部いちぶ人物じんぶつでは「みつ」とませることもある。)

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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漫画まんが

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テレビドラマ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 山形やまがた』では、ははしょうとしている[2]
  2. ^ 山形やまがた』は、これについてちち義守よしもり誤伝ごでん可能かのうせい記述きじゅつしている[2]
  3. ^ 道中どうちゅう安全あんぜん武運ぶうん長久ちょうきゅういのって義光よしみつはは刺繍ししゅうした「文殊もんじゅ菩薩ぼさつ獅像」が現存げんそんする。
  4. ^ はは小野おの少将しょうしょう永浦ながうら)ははやくとも慶長けいちょう8ねん1603ねん晩春ばんしゅんごろまで生存せいぞんしていたことが、地元じもと最上さいじょう千手堂せんじゅどう観音かんのん奉納ほうのうされた詠歌えいかがく存在そんざいから推測すいそくできる。詠歌えいかはなていまや手折たおらん千手堂せんじゅどう にわ千草ちぐさもさかりなるらん」。
  5. ^ 粟野あわの敏之としゆき伊達だてはれはじめてるむね対立たいりつかんしてぼうとし5がつ日付ひづけ同家どうけ重臣じゅうしん牧野まきのひさなかてたさかえりん最上もがみ義守よしもり)の書状しょじょう内容ないようから伊達だて父子ふし内紛ないふん最上さいじょう父子ふし内紛ないふんよりのち出来事できごとであるとし、また牧野ぼくやもとかめ元年がんねん3がつ失脚しっきゃくして伊達だて追放ついほうされていることから、義光よしみつ家督かとく継承けいしょうもとかめ元年がんねんよりもまえであるとしている。伊達だてはるむね隠居いんきょえいろく7ねん(1564ねんくれから翌年よくねんはるとされているため、粟野あわの義光よしみつ元服げんぷくしてからあいだもないえいろく4ねん(1561ねん)からよく5ねん(1562ねん)に義守よしもり義光よしみつ対立たいりつおよび氏家うじいえの諫言による当主とうしゅ交代こうたいおこなわれたと推定すいていする[5]
  6. ^ 山形やまがた新聞しんぶん平成へいせい6ねん3がつ4にち朝刊ちょうかん記事きじによれば、天正てんしょう5ねん(1577ねん)に義光よしみつもまた信長のぶなが謁見えっけんし「最上もがみ出羽守でわのかみ」ににんじられたという文書ぶんしょ発見はっけんされたという。
  7. ^ 太閤たいこう検地けんち以前いぜんは、最上もがみぐん村山むらやまぐん現在げんざい名称めいしょうぎゃくであった詳細しょうさい最上もがみぐん村山むらやまぐんこう参照さんしょう)。
  8. ^ このたたかいは後世こうせい創作そうさくともされる。
  9. ^ 義光よしみつひめたいする書状しょじょうで「しょ大名だいみょう手前てまえ和睦わぼく屈辱くつじょくであることこのうえない」(天正てんしょう16ねん7がつ8にちづけ)とべながら、べつ書状しょじょうには「よしひめ活躍かつやく豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすつたわっている(そう無事ぶじ違反いはんになるのでこれ以上いじょうたたかえない)」(天正てんしょう17ねん2がつ12にちづけ)ともべ、せいしゅうとの和議わぎのぞましいところであった[7]
  10. ^ 山形やまがた』は13まんせき知行ちぎょうあて行状ぎょうじょうあたえられたとしるしている。
  11. ^ 小田原おだわらさんじんまえ義光よしみつ秋田あきた実季みきてた書状しょじょうには「遅参ちさん御朱印ごしゅいんじょうみとめられている」とある。
  12. ^ 最上さいじょう改易かいえき庄内しょうないはんしゅとして入部にゅうぶした酒井さかい忠勝ただかつは、みちでこのうたつづき「~。いま殿様とのさま雑魚ざこ、かじかにもやくかける」とうたっていた盲人もうじんしろせ、「おまえ正直しょうじきやつだ。だが源五郎げんごろう(最上もがみ義光よしみつ)は100まんせき(実際じっさいは57まんせき)で知行ちぎょうは10まんせきぎない。だからやく必要ひつようなのだ」とさとし、褒美ほうびあたえていえかえしたとわれる。
  13. ^ 重臣じゅうしん里見さとみみん家臣かしん義光よしみつ陪臣ばいしんはら八右衛門はちえもんとするせつがある一方いっぽう最上さいじょう家臣かしん藤田ふじた丹波たんば覚書おぼえがきなか主命しゅうめいけて義康よしやすったとする記録きろくのこしている。
  14. ^ おもね慶長けいちょう8ねん(1603ねん)、光明寺こうみょうじ住職じゅうしょくとしてまねかれた。かれ領内りょうないいたると義光よしみつみずかむかえ、さらには場所ばしょこまるほど扶持ふちまいとどじょうおもね感激かんげきさせた。

出典しゅってん

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  1. ^ 伊豆田いずた忠悦ちゅうえつ山形やまがたはん」(藤野ふじのたもつ木村きむらいしずえ村上むらかみただし編集へんしゅうはんふみだい事典じてん だい1かん 北海道ほっかいどう東北とうほくへん』 雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん、1988ねん
  2. ^ a b c d 山形やまがたへんさん委員いいんかい山形やまがた編集へんしゅう委員いいんかい 1987, p. 5.
  3. ^ 伊藤いとう 2016, p. 30.
  4. ^ 伊藤いとうきよしろう山口やまぐち博之ひろゆき中世ちゅうせい出羽いずは領主りょうしゅしろかん 奥羽おうう研究けんきゅう叢書そうしょ2』(高志こうし書院しょいん、2002ねん)p.97-98
  5. ^ 粟野あわの敏之としゆき戦国せんごく大名だいみょう最上もがみ成立せいりつ過程かてい-もとかめ天正てんしょう初期しょき内訌ないこうをめぐって-」(初出しょしゅつ:(『史学しがく論集ろんしゅう』10ごう、1980ねん)/所収しょしゅう:竹井たけい英文ひでふみ へん『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいろくかん 最上もがみ義光よしみつ』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねんISBN 978-4-86403-257-5))、P57-58(2017ねん
  6. ^ a b 山形やまがたへんさん委員いいんかい山形やまがた編集へんしゅう委員いいんかい 1987, p. 8.
  7. ^ 遠藤えんどうゆり戦国せんごく奥羽おううにおけるはるいんのはたらき-戦国せんごく時代じだい平和へいわ維持いじ女性じょせい-」(『日本にっぽん研究けんきゅう』486ごう、2003ねん)(のちに改題かいだい所収しょしゅう:「奥羽おうう戦争せんそう伊達だてまさしむねはは」(遠藤えんどうゆり戦国せんごく時代じだいみなみ奥羽おうう社会しゃかい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2016ねんISBN 978-4-642-02930-8))
  8. ^ うるう5がつ11にちづけ中山なかやまひかり直書じきしょじょう、『横手よこて 史料しりょうへん 古代こだい中世ちゅうせい』p.434。
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参考さんこう文献ぶんけん

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書籍しょせき

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  • 山形やまがた
    • 上巻じょうかんはらはじめ古代こだい中世ちゅうせいへん)1973ねん
    • 山形やまがたへんさん委員いいんかい山形やまがた編集へんしゅう委員いいんかい へん山形やまがたちゅうまき近世きんせいへん》、山形やまがた、1971ねん3がつ31にち 
      • 山形やまがたへんさん委員いいんかい山形やまがた編集へんしゅう委員いいんかい へん山形やまがた 通史つうしへんちゅうまき復刻ふっこくばん)、臨川りんせん書店しょてん、1987ねん1がつ15にちNDLJP:9571777 (よう登録とうろく)
    • 史料しりょうへん1(最上もがみ関係かんけい史料しりょう)1973ねん
  • 昭和しょうわ山形やまがたけん
    • だいかん近世きんせい編上あみあげ)1985ねん
  • 伊藤いとうきよしろう山口やまぐち博之ひろゆき中世ちゅうせい出羽いずは領主りょうしゅしろかん 奥羽おうう研究けんきゅう叢書そうしょ2』(高志こうし書院しょいん、2002ねん
  • 伊藤いとうきよしろう最上もがみ義光よしみつ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2016ねん 
  • 誉田ほんだけいおん奥羽おうう驍将ぎょうしょう 最上もがみ義光よしみつ』(人物じんぶつ往来おうらいしゃ、1967ねん
  • 佐藤さとう清志きよし最上もがみ義光よしみつ 戦国せんごく驍将ぎょうしょう』(庄内しょうない農村のうそん工業こうぎょう農業のうぎょう協同きょうどう組合くみあい連合れんごうかい、1996ねん
  • 高橋たかはし富雄とみお評伝ひょうでん最上もがみ義光よしみつ』(山形新聞社やまがたしんぶんしゃ、1989ねん
  • 鈴木すずき和吉かずよし山形やまがた合戦かっせん』(1990ねん
  • 木村きむら重道しげみち最上もがみ義光よしみつ面影おもかげう』(みちのく書房しょぼう、1997ねん
  • 片桐かたぎり繁雄しげおほか『最上もがみ義光よしみつ合戦かっせん』(ヨークベニマル、1998ねん
  • 片桐かたぎり繁雄しげおきたてん巨星きょせい最上もがみ義光よしみつ』(最上もがみ義光よしみつ歴史れきしかん、2002ねん
  • 七宮ななみや涬三陸奥みちのく出羽でわ 斯波しば最上もがみ一族いちぞく』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2005ねん
  • 横山よこやま昭男あきお山形やまがたはん』(現代書館げんだいしょかん、2007ねん
  • 川崎かわさきひろしりょう全集ぜんしゅうぜん4かん川崎かわさきひろしりょう全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1963ねん-1964ねん
  • 山本やまもとまさる小和田こわだ哲男てつおへん戦国せんごく大名だいみょう家臣かしんだん事典じてん 東国とうごくへん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1981ねん
  • 片桐かたぎり繁雄しげお最上もがみ義光よしみつ合戦かっせん 研究けんきゅう最前線さいぜんせん」(『歴史れきし読本とくほん』2007ねん8がつごう
  • 片桐かたぎり繁雄しげお最上もがみ義光よしみつ風景ふうけい
  • 最上もがみ義光よしみつ歴史れきしかんだより』
  • 寒河江さがえ教育きょういく委員いいんかい 『ふるさと寒河江さがえ歴史れきし』(2009ねん
  • 竹井たけい英文ひでふみ へん『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいろくかん 最上もがみ義光よしみつ』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねんISBN 978-4-86403-257-5

史料しりょう

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外部がいぶリンク

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