(Translated by https://www.hiragana.jp/)
志村光安 - Wikipedia コンテンツにスキップ

志村しむら光安みつやす

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
志村しむら 光安みつやす
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 慶長けいちょう14ねん1609ねん)または慶長けいちょう16ねん1611ねん)?
別名べつめい 高治たかじ
官位かんい 伊豆いずまもる
主君しゅくん 最上もがみ義光よしみつ
氏族しぞく 志村しむら
父母ちちはは ちち志村しむら光清こうせい
ひかりおもんみ
テンプレートを表示ひょうじ

志村しむら 光安みつやす(しむら あきやす)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう最上もがみ家臣かしん通称つうしょう伊豆いずまもる若年じゃくねん九郎兵衛くろべえ名乗なのっていたせつもあり)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

最上さいじょう譜代ふだい家臣かしん志村しむら光清こうせいとして出羽でわこく漆山うるしやま地区ちく志村しむら誕生たんじょうしたとつたわる(生年せいねんしょう)。最上もがみ義光よしみつつかえる。

せいごうにして、口才こうさいじんくじき、いかなる強敵きょうてきかれまえにはった」という。谷地やち領主りょうしゅ白鳥しらとり長久ちょうきゅう織田おだ信長のぶながうった出羽でわうばおうとすると、主君しゅくん最上もがみ義光よしみつ出羽守でわのかみ認可にんかされるべく織田おだ信長のぶなが使者ししゃとして派遣はけんされた。この交渉こうしょうにて最上さいじょう系図けいずしめし、義光よしみつ出羽守でわのかみ叙任じょにん許可きょかさせた[1]

天正てんしょう12ねん1584ねん)の寒河江さがえ天童てんどう里見さとみとのたたかいにおいても武功ぶこうげた。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の慶長けいちょう出羽いずは合戦かっせんで、上杉うえすぎが2まんひきいて最上さいじょうりょう侵攻しんこうしてきたさい光安みつやす長谷堂はせどうじょう守備しゅび担当たんとうした。さけ延秀のぶひでつな支援しえんけ、伏兵ふくへいなどを駆使くしして直江なおえけんつづけ軍勢ぐんぜい抵抗ていこうし、しろまもりきっておおきく貢献こうけんした。狐越きつねごえ街道かいどう撤退てったいする上杉うえすぎぐん追撃ついげきせんや、上杉うえすぎぐんこころざし義秀よしひでもる東禅寺とうぜんじじょう酒田さかたじょう攻撃こうげきにもくわわり、戦後せんご亀ヶ崎かめがさきじょう改称かいしょうした東禅寺とうぜんじじょう3まんせきたまわった。また、庄内しょうないにおける寺社じしゃ復興ふっこう1608ねん羽黒山はぐろさん五重塔ごじゅうのとう修造しゅうぞうとう)にもつとめた。

慶長けいちょう8ねん1603ねん)、酒田さかたきょ大亀おおかめ上陸じょうりくし、これを主君しゅくん義光よしみつ報告ほうこくした。これを吉兆きっちょうとして東禅寺とうぜんじじょう亀ヶ崎かめがさきじょう大宝寺だいほうじじょうつるおかじょうあらためたという逸話いつわのこる。没年ぼつねん慶長けいちょう14ねん1609ねん)とも、慶長けいちょう16ねん1611ねん[2]ともされる。

光安みつやす死後しごひかりおもんみ光清こうせい)がまましいだが、元和がんわ3ねん1617ねん最上もがみ内紛ないふんで、清水しみず義親よしちかけたいちぐりだかはる殺害さつがいされた。のこされた一族いちぞくは、最上もがみ改易かいえき山形やまがたはん家老がろうとなり、その江戸えどうつり、水野みずの忠邦ただくにだいいち家老がろうなどをつとめ、明治維新めいじいしんこう江戸えど藩邸はんてい[3]とどまった。またには、最上もがみ改易かいえき東根ひがしね地方ちほう帰農きのうすると横尾よこおせい名乗なのり、代々だいだいぐんちゅう総代そうだい名主なぬしつとめた系譜けいふもあるという。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 戦国せんごくろく 志村しむら光安みつやす”. 221.10.24閲覧えつらん
  2. ^ 山形やまがたけん飽海あくみぐん遊佐ゆうさまちなが泉寺いずみでらにある石塔せきとうより。 - 最上もがみ家臣かしん余録よろく志村しむら光安みつやす (1)】最上もがみ義光よしみつ歴史れきしかん
  3. ^ げん渋谷しぶや神宮前じんぐうまえ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]