長谷堂はせどうじょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
長谷堂はせどうじょう
山形やまがたけん
長谷堂城主郭
長谷堂はせどう城主じょうしゅかく
別名べつめい かめじょう
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう 建造けんぞうされず
築城ちくじょうぬし 最上もがみ
築城ちくじょうねん 16世紀せいき初期しょき
おも城主じょうしゅ 最上もがみ志村しむらさか
はいじょうねん 1622ねん元和がんわ8ねん
遺構いこう 曲輪くるわ
指定してい文化財ぶんかざい 指定してい
位置いち 北緯ほくい3812ふん45.6びょう 東経とうけい14016ふん20.76びょう / 北緯ほくい38.212667 東経とうけい140.2724333 / 38.212667; 140.2724333
地図ちず
長谷堂城の位置(山形県内)
長谷堂城
長谷堂はせどうじょう
テンプレートを表示ひょうじ

長谷堂はせどうじょう(はせどうじょう)は、出羽でわこく羽前うぜんこく最上もがみぐん[1]山形やまがたけん山形やまがた長谷ながたにどう[2]にあった中世ちゅうせい日本にっぽんしろ山城やましろ)。やまかたちから「かめじょう」ともばれていた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

長谷堂はせどうじょうは、山形やまがたじょうする最上もがみにとって重要じゅうようささえじょうの1つであった。とくに、置賜おきたま地方ちほうにあった長井ながいほろぼした伊達だてとのあらそいのなか重要じゅうよう防御ぼうぎょ拠点きょてんである。1514ねんえいただし11ねん)、伊達だて稙宗とうしろとしたとの記録きろく長谷堂はせどうじょうはつである。この合戦かっせんにより、最上もがみ不利ふり条件じょうけん和議わぎむすび、伊達だて風下かざしもつこととなる。

歴史れきし沿革えんかく[編集へんしゅう]

歴史れきしじょうもっととうしろ注目ちゅうもくされたのは1600ねん慶長けいちょう5ねん)、関ヶ原せきがはらたたかとほぼどう時期じき発生はっせいした慶長けいちょう出羽いずは合戦かっせん長谷堂はせどうじょうたたかい)西にしぐん上杉うえすぎ景勝かげかつひがしぐん最上もがみ義光よしみつ侵攻しんこうしたもの)のころである。当時とうじ福島ふくしまけん会津あいづ地方ちほうおよ山形やまがたけん庄内しょうない地方ちほう置賜おきたま地方ちほうわせて150まんせきわれた上杉うえすぎぜい西にしぐんくみしており、ひがしぐんいた最上もがみやく24まんせき)を制圧せいあつするため、現在げんざい山形やまがたけん置賜おきたま地方ちほう最上もがみりょう南方なんぽう)と庄内しょうない地方ちほう最上もがみりょう西北せいほく)から、上杉うえすぎ景勝かげかつ配下はいか直江なおえけんつづけ大将たいしょうとして最上もがみりょう攻略こうりゃくはかった。そして、そのささえじょうをことごとく開城かいじょうまたは落城らくじょうさせていき、山形やまがたじょう攻略こうりゃくのための最終さいしゅうてき足場あしば確保かくほのために長谷堂はせどうじょうめた。それにたいし、最上もがみ義光よしみつ幕下まくした智将ちしょうわれた 志村しむら伊豆いずまもる光安みつやすやく1000の手勢てぜいしたがえて篭城ろうじょうしその攻撃こうげきえた。また、長谷堂はせどうじょう山裾やますそ足場あしばのぬかるみとなっており、この天然てんねん要害ようがいにとまどい前進ぜんしんできない上杉うえすぎぜいたてなやませた。この合戦かっせんにおいて上杉うえすぎぜい溝口みぞぐちひだりじょ上泉かみいずみしゅみずひとしもうしょうにするなど、損害そんがいし(しろ見上みあげる水田すいでんなかしゅみずづかがある)、せん長引ながびなか石田いしだ三成みつなりひきいる西にしぐん関ヶ原せきがはら敗北はいぼくしたことで、上杉うえすぎぜい撤退てったい余儀よぎなくされる。

戦後せんご長谷堂はせどうじょうさか光秀みつひであたえられ、光秀みつひでぼつさか光重みつしげいだ。しかし、1622ねん元和がんわ8ねん)に最上もがみ騒動そうどうにより、山形やまがたはんおも最上もがみよししゅん改易かいえきされると、幕府ばくふ周辺しゅうへんしょはん軍勢ぐんぜいさせ、かくしろりをさせた。長谷堂はせどうじょうりを担当たんとうしたのは、皮肉ひにくにも景勝けいしょうであった。長谷堂はせどうじょうおさむこうやぶ却された。なおこのときには、けんつづけすで死亡しぼうしており、景勝けいしょうおさむおおやけ翌年よくねんぼっした。

構造こうぞう[編集へんしゅう]

長谷堂はせどうじょう標高ひょうこう229mのやま頂上ちょうじょうにあり、現在げんざい集落しゅうらく水田すいでんかこまれ「城山しろやま」とばれている。このやま全体ぜんたい城址じょうし公園こうえんとなっており、山頂さんちょうからはてきはた直江なおえけんつづけ本陣ほんじんいた「かん沢山だくさん」を俯瞰ふかんできる山形やまがた城址じょうしふく山形やまがた市街しがい蔵王ざおう連峰れんぽう見渡みわたすことができる。

参考さんこう画像がぞう[編集へんしゅう]

観光かんこう[編集へんしゅう]

周囲しゅうい文化ぶんか施設しせつ観光かんこう名所めいしょ[編集へんしゅう]

  • 城山しろやま中腹ちゅうふくには最上さいじょうさんじゅうさんしょなかもっと難所なんしょとされる「最上さいじょうじゅうばん札所ふだしょ長谷堂はせどう観音かんのん」がある。
  • 城山しろやまふもと湯田ゆだ地区ちく長谷堂はせどう観音かんのんがけ本沢川もとざわがわのほとり(渡辺わたなべさんの屋敷やしきとおってく)に、くるしまずにらく浄土じょうどけることで有名ゆうめいな「ころり観音かんのん」がある。
  • 城山しろやまきた5~600メートルのあたりに「百目鬼どめき温泉おんせん」(日帰ひがえり)がある。風呂ふろびて、地元じもと野菜やさい果物くだものやすうことが出来できる。途中とちゅうには、長谷堂はせどう合戦かっせん戦死せんしした兵士へいしとむらった石仏いしぼとけぐんや、直江なおえぐんえらはた上泉かみいずみしゅみずいたんだ「しゅみずづか」などがある。
  • 城山しろやま西にし4~500メートルのところ大森山おおもりやまふもとには、大寺おおてら清源寺せいげんじ」があり、長谷堂はせどうじょう城主じょうしゅさか紀伊きいもり光秀みつひで(あきひで)の肖像しょうぞうや、最上さいじょういち怪力かいりき延沢のぶさわまんのべ中山なかやままどかどうてらからやく16kmのみちのりをかぶってはこんだ梵鐘ぼんしょうがある。
  • 城山しろやまちかくをはし国道こくどう348号線ごうせん南西なんせいやく2Kmほどった須刈田かりたという集落しゅうらく旧道きゅうどうを200mほど長谷堂はせどうかってくだったところに、古寺ふるでら滝山たきやまてら」の遺跡いせきがある。これは12世紀せいき西行さいぎょうおとずれ、「るいなきおも出羽いずはさくらかなうすくれなゐのはなのにほひは」、またおくなおひとはならぬあれやたずねをはいらんやまほととぎす」とんだてらわれている。旧道きゅうどうは「もんざか」とわれるきゅう県道けんどうである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 太閤たいこう検地けんち以前いぜん村山むらやまぐん名称めいしょう変更へんこう分割ぶんかつ併合へいごうおこなわれた。
  2. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 6 山形やまがたけん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]