細川ほそかわ藤孝ふじたか

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細川ほそかわ 藤孝ふじたか / 長岡ながおか 幽斎ゆうさい
絹本けんぽん着色ちゃくしょく細川ほそかわ幽斎ゆうさいぞう』(天授てんじゅあん所蔵しょぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天文てんもん3ねん4がつ12にち1534ねん6月3にち[1]
死没しぼつ 慶長けいちょう15ねん8がつ20日はつか1610ねん10月6にち[2]
改名かいめい さんふち万吉まんきち細川ほそかわくませんだい幼名ようみょう[3]藤孝ふじたか長岡ながおか藤孝ふじたか幽斎ゆうさいげんむねごう
別名べつめい 与一よいちろう通称つうしょう
戒名かいみょう たいかちいん殿どのぜん兵部ひょうぶとおるそうげんむね幽斎ゆうさいだい居士こじ
墓所はかしょ 熊本くまもとけん熊本くまもと立田たつた自然しぜん公園こうえんたいかち寺跡てらあと
京都きょうと京都きょうと南禅寺なんぜんじ
京都きょうと京都きょうと大徳寺だいとくじだかきりいん
官位かんい したがえ兵部ひょうぶ大輔だいすけしたがえよん侍従じじゅう大蔵おおくらきょう法印ほういんおくせい
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 足利あしかが義輝よしてる義昭よしあき織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやす
氏族しぞく さんふち異説いせつあり) → 細川ほそかわ細川ほそかわ刑部おさかべ佐々木ささきはじめ大原おおはらからのにゅう名字みょうじ長岡ながおか
父母ちちはは ちちさんふちはれいんははさとしけいいん清原きよはらせんけんむすめ
養父ようふ細川ほそかわはれひろ
兄弟きょうだい 宮川みやがわさんふちふじすぐる佐々木ささきえつちゅうもりしつたまはじめ紹琮、うめしるしもと冲、長岡ながおか好重よしえ土御門つちみかどひさおさむしつ
つま 沼田ぬまた麝香じゃこうひかり寿ことぶきいん
忠興ただおきさんとききょうもと也(一色いっしきよしじょうしつ)、幸隆ゆきたかせん孝之たかゆき加賀かがぐり
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細川ほそかわ 藤孝ふじたか(ほそかわ ふじたか) / 長岡ながおか 藤孝ふじたか(ながおか ふじたか) / 長岡ながおか 幽斎ゆうさい(ながおか ゆうさい) / は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう戦国せんごく大名だいみょう歌人かじん幼名ようみょうくませんだい(くまちよ)。元服げんぷくして藤孝ふじたか名乗なのりその長岡ながおか改姓かいせい雅号がごう幽斎ゆうさい法名ほうみょうげんむねという。なお幽斎ゆうさいは1573ねん長岡ながおか改姓かいせい[4]、1582ねん幽斎ゆうさい名乗なのり、細川ほそかわせいふくしたのは幽斎ゆうさい忠興ただこうだいである[5]

はじ室町むろまち幕府ばくふ13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるつかえ、その死後しご織田おだ信長のぶなが協力きょうりょくて15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき擁立ようりつ尽力じんりょくした。のち義昭よしあき信長のぶなが敵対てきたいして京都きょうとわれると、信長のぶながしたがって名字みょうじ長岡ながおかあらため、勝竜寺しょうりゅうじじょうあるじ丹後たんごこく宮津みやづ11まんせき大名だいみょうとなった。本能寺ほんのうじへんのち信長のぶながじゅんじて剃髪ていはつして家督かとく忠興ただおきゆずったが、その豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすつかえて重用じゅうようされ、近世きんせい大名だいみょう肥後ひご細川ほそかわいしずえとなった。また、じょうりゅう歌道かどう伝承でんしょうしゃ三条西さんじょうにし実枝みえから古今ここん伝授でんじゅけ、近世きんせい歌学かがく大成たいせいさせた当代とうだい一流いちりゅう文化ぶんかじんでもあった。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幕臣ばくしん時代じだい[編集へんしゅう]

天文てんもん3ねん1534ねん)4がつ12にち[6]さんふちはれいん次男じなんとして京都きょうと東山ひがしやまにて誕生たんじょう[6]。のちに、はれいんともに12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる近臣きんしんであった細川ほそかわはれひろ[ちゅう 1]養子ようしとなる(#系譜けいふ)。天文てんもん15ねん1546ねん)、13だい将軍しょうぐんよしふじ義輝よしてる)のへんいみなけ、与一よいちろう藤孝ふじたか名乗なの[7]幕臣ばくしんとして義輝よしてるつかえ、天文てんもん21ねん1552ねん)にしたがえ兵部ひょうぶ大輔だいすけ叙任じょにんされる[8]

えいろく8ねん1565ねん)に義輝よしてる三好みよしさんにんしゅたれ(えいろくへん)、そのおとうといちじょう院覚いんかくけいのち還俗げんぞくして足利あしかが義昭よしあき)が興福寺こうふくじ幽閉ゆうへいされると、あにさんふちふじすぐるはじ一色いっしょくふじちょう和田わだ惟政これまさ仁木にき義政よしまさ米田よねだもとむせいらと協力きょうりょくしてこれを救出きゅうしゅつし、近江おうみこく六角ろっかく義賢よしかた若狭わかさこく武田たけだ義統よしむね越前えちぜんこく朝倉あさくら義景よしかげらをたよって義昭よしあき擁立ようりつ奔走ほんそうした。当時とうじ貧窮ひんきゅうして灯籠とうろうあぶらにさえ事欠ことかくほどで、仕方しかたなく社殿しゃでんからあぶら頂戴ちょうだいすることもあるほどだったという。

その明智あけち光秀みつひでつうじて尾張おわりこく織田おだ信長のぶなが助力じょりょくもとめることとなる。えいろく11ねん1568ねん)9がつ信長のぶなが義昭よしあきほうじて入京にゅうきょうし、藤孝ふじたかもこれにしたがった。義昭よしあき征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられたのち(つまり10がつ18にち[9]より)藤孝ふじたかは9月29にち[10]いわ成友しげともどおりから奪還だっかんした山城やましろこく勝竜寺しょうりゅうじじょうあたえられ[11](げんつぎきょう)、天正てんしょう9ねん1581ねん)3がつ24にちまで統治とうちした[12]、その翌日よくじつには猪子いのこ兵助へいすけ点検てんけんのために入城にゅうじょうしている[13]

信長のぶなが家臣かしん時代じだい[編集へんしゅう]

義昭よしあき信長のぶなが対立たいりつ表面ひょうめんすると、もとかめ4ねん1573ねん)3がつ軍勢ぐんぜいひきいて上洛じょうらくした信長のぶなが出迎でむかえて恭順きょうじゅん姿勢しせいしめした。義昭よしあき信長のぶながぎゃくしんいだふしがあることをひそかに藤孝ふじたかから信長のぶながつたえられていたことが信長のぶなが手紙てがみからわかっている。義昭よしあき追放ついほうされたのちの10がつ10日とおか桂川かつらがわ西にしいちしょく支配しはいけんゆるされのを名字みょうじあらためて長岡ながおか藤孝ふじたか名乗なのった[4]

8がつには池田いけだ勝正かつまささんふちふじえいともいわ成友しげともどおり山城やましろよどみじょうたたかい(だいよどみ古城こじょうたたか)でほろぼすこうげ、以後いご信長のぶなが武将ぶしょうとして畿内きない各地かくち転戦てんせん高屋たかやじょうたたか越前えちぜん一向いっこう一揆いっき征伐せいばつ石山いしやま合戦かっせん紀州きしゅう征伐せいばつのほか、山陰さんいん方面ほうめんぐんそう大将たいしょう明智あけち光秀みつひで与力よりきとしても活躍かつやくした(黒井くろいじょうたたか)。天正てんしょう5ねん1577ねん)、信長のぶなが反旗はんきひるがえした松永まつなが久秀ひさひでこめ大和やまと信貴しぎ山城やましろ光秀みつひでともとした(信貴山しぎさんじょうたたか)。

天正てんしょう6ねん1578ねん)、信長のぶながこもめによって嫡男ちゃくなん忠興ただおき光秀みつひでむすめたま(ガラシャ)の婚儀こんぎがなる。光秀みつひで与力よりきとして天正てんしょう8ねん1580ねん)には長岡ながおか単独たんどく丹後たんごこく進攻しんこうするが、同国どうこく守護しゅご一色いっしき反撃はんげきされ失敗しっぱいのち光秀みつひで加勢かせいによってようやく丹後たんご南部なんぶ平定へいていし、信長のぶながから丹後たんご南半みなみはんこく加佐かさぐん与謝よさぐん)の領有りょうゆうみとめられて宮津みやづしろ居城きょじょうとした(北半きたはんこくである中郡なかぐん竹野たかのぐん熊野くまのぐんきゅう丹後たんご守護しゅごである一色いっしきみつるしんじよしじょう領有りょうゆう信長のぶながからみとめられた)。甲州こうしゅう征伐せいばつには一色いっしょくまんしんとも出陣しゅつじん

同年どうねん正月しょうがつ12にちづけ信長のぶながから藤孝ふじたかてのくろしるしじょうにて、尾張おわりこく知多半島ちたはんとうれたくじらにく信長のぶなが朝廷ちょうてい献上けんじょうしたうえで、家臣かしんである藤孝ふじたかにもすそけするむねべている[14]

本能寺ほんのうじへん以後いご[編集へんしゅう]

天正てんしょう10ねん1582ねん)に本能寺ほんのうじへんこると、藤孝ふじたか上役うわやくであり、親戚しんせきでもあった光秀みつひで再三さいさん要請ようせいことわり、剃髪ていはつして雅号がごう幽斎ゆうさいげんむね(ゆうさいげんし)とし、田辺たなべじょう隠居いんきょ忠興ただこう家督かとくゆずった。おなじく光秀みつひで関係かんけいふか筒井つつい順慶じゅんけい参戦さんせんことわり、軍事ぐんじりょくてき劣勢れっせいおちいった光秀みつひで山崎やまざきたたかはいした。『 老人ろうじん雑話ざつわ』には「明智あけち(光秀みつひで)、はじめ(は)細川ほそかわ幽斎ゆうさいしんなり」とあり、両者りょうしゃ出自しゅつじ上下じょうげ関係かんけい歴然れきぜんとしていることから、幽斎ゆうさいには光秀みつひで支配しはいはいることをいさぎよしとしないところがあったとするせつがある[15]

その羽柴はしば秀吉ひでよし豊臣とよとみ秀吉ひでよし)に重用じゅうようされ、天正てんしょう14ねん1586ねん)に在京ざいきょうりょうとして山城西やましろにしおかに3000せきあたえられた。天正てんしょう13ねん1585ねん)の紀州きしゅう征伐せいばつ天正てんしょう15ねん1587ねん)の九州きゅうしゅう平定へいていにも武将ぶしょうとして参加さんかした。また、梅北うめきた一揆いっきさいには上使じょうしとして薩摩さつまこくおもむき、島津しまつくら入地いりじ改革かいかくおこなっている(薩摩さつま仕置しおき)。このこうにより、ぶんろく4ねん1595ねん)には大隅おおすみこくに3000せき加増かぞうされた(のち越前えちぜん国府こくふちゅううつりふう)。

幽斎ゆうさい千利休せんのりきゅうしょく応其おうごらととも秀吉ひでよし側近そっきん文化ぶんかじんとしてちょうぐうされた。忠興ただこうさんとき)も茶道さどう造詣ぞうけいふかく、利休りきゅう高弟こうてい一人ひとりとなる。一方いっぽう徳川とくがわ家康いえやすとも親交しんこうがあり、慶長けいちょう3ねん1598ねん)に秀吉ひでよし死去しきょすると家康いえやす接近せっきんした。

幽斎ゆうさいこもった丹後たんご田辺たなべじょう舞鶴まいづるじょう

慶長けいちょう5ねん1600ねん)6がつ忠興ただこう家康いえやす会津あいづ征伐せいばつ丹後たんごから細川ほそかわ軍勢ぐんぜいきつれて参加さんかしたため、幽斎ゆうさい三男さんなん細川ほそかわ幸隆ゆきたかともに500にたない手勢てぜい丹後たんご田辺たなべしろまもる。7月、石田いしだ三成みつなりらが家康いえやす討伐とうばつへいげ、大坂おおさかにあった忠興ただおき夫人ふじんガラシャは包囲ほういされた屋敷やしきはなって自害じがいした。田辺たなべじょう小野木おのぎ重勝しげかつ前田まえだ茂勝しげかつらがひきいる1まん5000にん大軍たいぐん包囲ほういされたが、幽斎ゆうさい指揮しきする籠城ろうじょうぜい抵抗ていこうはげしく、攻囲こういぐんなかには幽斎ゆうさい歌道かどう弟子でしおお戦闘せんとう意欲いよくとぼしかったこともあり、長期ちょうきせんとなった(田辺たなべじょうたたか)。

幽斎ゆうさい弟子でし一人ひとりだったはちじょうみや智仁ともひと親王しんのうは7がつと8がつの2にわたって講和こうわはたらきかけたが、幽斎ゆうさいはこれを謝絶しゃぜつして籠城ろうじょうせん継続けいぞく使者ししゃつうじて『古今ここんしゅう証明しょうめいじょう』をはちじょうみやおくり、『源氏げんじしょう』と『じゅういちだい和歌集わかしゅう』を朝廷ちょうてい献上けんじょうした。ついにはちじょうみやあにこう陽成ようぜい天皇てんのう奏請そうせいしたことにより三条西さんじょうにしみのるじょう中院なかのいん通勝みちかつ烏丸からすま光広みつひろ勅使ちょくしとして田辺たなべじょうくだされ、関ヶ原せきがはらたたかの2にちまえの9がつ12にち勅命ちょくめいによる講和こうわむすばれた。幽斎ゆうさいは2ヶ月かげつおよ籠城ろうじょうせんえて9がつ18にちしろわたし、てきしょうである前田まえだ茂勝しげかつ丹波たんばひさし山城やましろはいった。幽斎ゆうさい抵抗ていこうとおして家康いえやす統治とうちけん代行だいこう正当せいとうせいが、朝廷ちょうていをはじめとしてかく方面ほうめん周知しゅうちされることとなったてん石田いしだ三成みつなりにとっておおきな痛手いたでとなった[16]

忠興ただおき関ヶ原せきがはらたたかいにおいて前線ぜんせん石田いしだ三成みつなりぐんたたかい、戦後せんご豊前ぶぜんこく小倉こくらはん39まん9000せきだいふうた。こののち長岡ながおか細川ほそかわふくし、以後いご長岡ながおかせい細川ほそかわ別姓べっせいとして一門いちもん重臣じゅうしんさづけられた。その幽斎ゆうさい京都きょうと吉田よしだ悠々自適ゆうゆうじてき晩年ばんねんおくったといわれている。慶長けいちょう15ねん1610ねん)8がつ20日はつか京都きょうと三条さんじょう車屋くるまやまち自邸じてい死去しきょ享年きょうねん77。 

死後しご[編集へんしゅう]

幽斎ゆうさい所領しょりょう6000せきやそのほかの資産しさん死後しご整理せいりされ、次男じなんきょうもと下野げやこく茂木もきはん1まん石立いしたてはんしとして、あるいは慶長けいちょう9ねん1604ねん)に忠興ただこうから廃嫡はいちゃくされた幽斎ゆうさいまご長岡ながおかきゅう細川ほそかわただしたかし)への細川ほそかわからの京都きょうと隠居いんきょりょう(3000せき)として、がれた。

墓所はかしょ[編集へんしゅう]

京都きょうと左京さきょう南禅寺福地なんぜんじふくちまちみず竜山たつやま太平たへい興国こうこく南禅寺なんぜんじ塔頭たっちゅう寺院じいんである天授てんじゅあんはかがある。そのに、まご忠興ただこう忠利ただとし以降いこう子孫しそん肥後ひご熊本くまもとはん54まんせき藩主はんしゅとなったことから、熊本くまもと立田たったさんふもと建立こんりゅうされた細川ほそかわ菩提寺ぼだいじたいかちてらげん立田たつた自然しぜん公園こうえん)にも廟所びょうしょ造営ぞうえいされた。

また、幽斎ゆうさい菩提所ぼだいしょとして忠興ただおきにより大徳寺だいとくじ山内やまうち建立こんりゅうされた塔頭たっちゅうこうきりいんである。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい後期こうき編修へんしゅうされた『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』によれば、幽斎ゆうさいちちさんふちはれいん和泉いずみはん国守くにもりまもる細川ほそかわもとつねおとうと[20]ははさとしけいいん儒学じゅがくしゃ国学こくがくしゃ清原きよはらせんけんむすめ)である。同書どうしょしょうとおる年間ねんかん成立せいりつした『細川ほそかわあきら』などは、さとしけいいん将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるをみごもったままはれいんとついで幽斎ゆうさいんだとしるしており[21]事実じじつならば足利あしかが義輝よしてる義昭よしあきの庶兄にあたる。

とおる5ねん1720ねん)からのべとおる3ねん1746ねん)のあいだ成立せいりつした『御家おいえ』や文化ぶんか9ねん1812ねん)10がつ成立せいりつした『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』は、幽斎ゆうさいは7さい伯父おじ細川ほそかわもとつね養子ようしになったとする[20]。ただし、熊本くまもとはんあるじ加藤かとうから細川ほそかわへと改易かいえきとなった寛永かんえい9ねん1632ねん以降いこう編纂へんさんされた『細川ほそかわ伝記でんき』や寛永かんえい18〜20ねん1641ねん1643ねん)にかけて編纂へんさんされた『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』、とおる2ねん1717ねん)に編纂へんさんされた『細川ほそかわぜん』、とおる4ねん1719ねん)に編纂へんさんされた『家伝かでん』では、細川ほそかわもとゆう養子ようしとなったとされている[20]時代じだいくだるにつれて養父やぶもとゆうからもとつねへと変更へんこうされているのは、もとゆうあかりおう9ねん1500ねん)に戦死せんししており、肥後ひご細川ほそかわがわ年代ねんだいわないことにづいたためである。また、もとつね実子じっしとされる細川ほそかわはれさだ養父ようふせつもあった[22]。この細川ほそかわはれさだ天文てんもん19ねん1550ねん)までは存在そんざい記録きろくされているため、(はれさだもとつね実子じっしならば)その生存せいぞんちゅうもとつねがはたして幽斎ゆうさい養子ようしむかえたかという疑問ぎもんしょうじるためである。

いずれにしろ幽斎ゆうさいさんふちから和泉いずみ守護しゅご細川ほそかわ養子ようしはいったとながあいだかんがえられていたが、そうではなく淡路あわじ守護しゅご細川ほそかわにつながる系統けいとういだとかんがえるせつ近年きんねん有力ゆうりょくになっている。『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん編纂へんさんさい息子むすこ細川ほそかわ忠興ただおき幕府ばくふ提出ていしゅつした文書ぶんしょには、「幽斎ゆうさいハ、細川ほそかわ伊豆いずトヤラン、細川ほそかわ刑部おさかべしょうトヤランニヤシナハレ、御供ごくうしゅやめなりこう」とある。この「細川ほそかわ刑部おさかべしょう輔」については、従来じゅうらい細川ほそかわ系図けいず』の記載きさいによって細川ほそかわもとつね理解りかいされていた[23]が、さんふちはれいんつかえていた将軍しょうぐん義晴よしはる近臣きんしん御供ごくうしゅ)に刑部おさかべしょう輔をしょうする細川ほそかわはれひろがおり、そのちち細川ほそかわ高久たかひさ伊豆いずまもるしょうしている事実じじつから、かれらが幽斎ゆうさい養父ようふやしなえ祖父そふだったとするせつである[24]。また、『えいろくろくねんしょ役人やくにん』にも御供ごくうしゅしるされている藤孝ふじたか外様とざましゅ家格かかくである和泉いずみ守護しゅごいだとすることの不自然ふしぜんさを指摘してきする見解けんかい[25]もあり、近年きんねん有力ゆうりょくされている。伊豆いずまもる高久たかくちち細川ほそかわまさしまこと近江おうみはじめ佐々木ささき一族いちぞく大原おおはら出身しゅっしんであり、8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさせいまこと近臣きんしんくわえるために足利あしかが一門いちもん細川ほそかわ名字みょうじ名乗なのらせるべく淡路あわじ守護しゅご細川ほそかわ養子ようしとなるようめいじたという。この指摘してきによるならば、幽斎ゆうさい養子ようしとなってまましいだのは、和泉いずみ守護しゅごとは系統けいとうことなる淡路あわじ守護しゅご支流しりゅうということになる。

なお、幽斎ゆうさい実父じっぷさんふちはれいんについても細川ほそかわもとつねおとうととするせつ疑問ぎもんして、播磨はりまこく下向げこうしていた幕臣ばくしんさんふち孫三郎まごさぶろう現在げんざい系譜けいふには記載きさいされていないが、当時とうじ文書ぶんしょから天文てんもん年間ねんかんさんふち当主とうしゅであった可能かのうせいたかい)のおとうとであったとするせつ[26]もある。この指摘してき事実じじつならば、幽斎ゆうさい実方じつかたにおいても和泉いずみ守護しゅご細川ほそかわにはつながらない可能かのうせいがある。

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 佐々木ささきはじめながれ大原おおはら出身しゅっしん。ルーツは足利あしかが義政よしまさ寵臣ちょうしんであった大原おおはら庶子しょし寿文としふみぼう元服げんぷく細川ほそかわせいたまわ治部じぶしょう輔政まこと名乗なのったのがはじまりである。せいまこと元服げんぷく同時どうじ細川ほそかわ淡路あわじまもるぎ、部屋へやしゅとなっている。せいまことはれひろちちである伊豆いずまもる高久たかく足利あしかが義晴よしはる内談ないだんしゅとなり、義晴よしはる改名かいめいまえ名前なまえである「義高よしたか」からいちたまわっている。
  2. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかには武田たけだ宮内みやうちしょう信重のぶしげしつとあるが、『福井ふくいけん』では若狭わかさ武田たけだ武田たけだもとひかりで、武田たけだしんゆたかおとうと武田たけだしんだか宮川みやがわ殿どの宮内みやうちしょう輔)しつとしている[28]。また、木下きのしたさとし武田たけだもとひかりである宮川みやがわ殿どの実名じつめいを「しんだか」とするのは後世こうせい作成さくせいされた信憑しんぴょうせいひく系譜けいふによるもので、宮川みやがわ殿どの実名じつめい信重のぶしげただしいとしている[29]
  3. ^ 詳細しょうさい不明ふめいだが、越中えっちゅうもり高島たかしま代々だいだい当主とうしゅ名乗なのりである。高島たかしま高島たかしまななとう湖西こさい地方ちほう佐々木ささきけい領主りょうしゅなな)の惣領そうりょう。ただし高島たかしましま)は奉公ほうこうしゅなどをつとめた庶流しょうし、室町むろまち幕府ばくふ外様とざましゅ嫡流ちゃくりゅう佐々木ささきえつちゅうもり代々だいだい名乗なのっていることから、この嫡流ちゃくりゅう佐々木ささきえつちゅうこしあたるともいう[30]近江おうみこく清水しみず山城やましろおも

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて』 2000, p. 13, べいはら正義まさよし戦国せんごくいちのインテリ大名だいみょう 細川ほそかわ幽斎ゆうさい」.
  2. ^ 細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて』 2000, p. 26, べいはら正義まさよし戦国せんごくいちのインテリ大名だいみょう 細川ほそかわ幽斎ゆうさい」.
  3. ^ 鹿しかえんろく
  4. ^ a b 谷口たにぐち 2010, p. 409.
  5. ^ 谷口たにぐち 2010, p. 404.
  6. ^ a b 細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて』 2000, p. 13, べいはら正義まさよし戦国せんごくいちのインテリ大名だいみょう細川ほそかわ幽斎ゆうさい」.
  7. ^ 細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて』 2000, p. 14, べいはら正義まさよし細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて」.
  8. ^ 細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて』 2000, p. 15, べいはら正義まさよし細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて」.
  9. ^ 奥野おくの 1996, p. 140.
  10. ^ 今谷いまたに 2007, p. 265.
  11. ^ 谷口たにぐち 2010, p. 407.
  12. ^ 谷口たにぐち 2010, p. 412.
  13. ^ 谷口たにぐち 2010, p. 73.
  14. ^ 盛本もりもと 2008, pp. 179–180.
  15. ^ 細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこうのすべて』 2000, p. 95, 宮本みやもと義己よしみ細川ほそかわ幽斎ゆうさい忠興ただこう本能寺ほんのうじへん」.
  16. ^ 宮本みやもと義己よしみ石田いしだ三成みつなり」『別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん』33かん23ごう、2008ねん 
  17. ^ 『戴恩』ほか。
  18. ^ 長岡ながおか天満宮てんまんぐう三思さんし一言ひとこと】つれづれに長岡ながおか天満宮てんまんぐう”. 百瀬ももせちどりのかえでひゃくけい. もと京都きょうと西山短期大学にしやまたんきだいがく非常勤ひじょうきん講師こうし 百瀬ももせちどり. 2020ねん8がつ9にち閲覧えつらん
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  20. ^ a b c 土田つちた 1982, pp. 2–3.
  21. ^ 土田つちた 1982, pp. 10–11.
  22. ^ 岡田おかだ謙一けんいち ちょ細川ほそかわきよしもとはれはじめ和泉いずみ守護しゅご細川ほそかわもとつね父子ふしについて」、小山こやまやすしけん へん戦国せんごく畿内きない政治せいじ社会しゃかい構造こうぞう和泉いずみ書院しょいん、2006ねん 
  23. ^ 土田つちた 1982, p. 9.
  24. ^ 山田やまだ康弘やすひろ細川ほそかわ幽斎ゆうさい養父ようふについて」『日本にっぽん歴史れきし』730ごう、2009ねん 
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
細川ほそかわ丹後たんご細川ほそかわ
1573ねん - 1582ねん
次代じだい
細川ほそかわ忠興ただおき