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細川ほそかわまもるなり

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細川ほそかわまもるなり

細川ほそかわ まもるなり(ほそかわ もりしげ、1868ねん9月18にち慶応けいおう4ねん8がつ3にち[1])- 1914ねん大正たいしょう3ねん8がつ26にち[1][2])は、明治めいじから大正たいしょう初期しょき華族かぞく侯爵こうしゃく)。熊本くまもとはん最後さいご藩主はんしゅ細川ほそかわまもるひさ長男ちょうなん庶子しょし)。貴族きぞくいん議員ぎいん東亜とうあ同文どうぶんかいふく会長かいちょう中国人ちゅうごくじん留学生りゅうがくせい支援しえんするなどにちはな親善しんぜん尽力じんりょくした[3]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

1885ねん明治めいじ18ねんイギリスフランス留学りゅうがくする[2]。1893ねん明治めいじ26ねん)9がつ20日はつかちちまもるひさ死去しきょにより家督かとく相続そうぞくし、侯爵こうしゃく襲爵しゅうしゃくして貴族きぞくいん侯爵こうしゃく議員ぎいん就任しゅうにんした[1][2][4][5]叔父おじ長岡ながおかまもる子爵ししゃく影響えいきょうけて東亜とうあ問題もんだい関心かんしんち、東亜とうあどう文書ぶんしょいん東京とうきょうこうの2代目だいめ院長いんちょうとなり、同校どうこう関連かんれん旧制きゅうせい目白めじろ中学校ちゅうがっこう校長こうちょうにも就任しゅうにん[3]東亜とうあ同文どうぶんかいふく会長かいちょうとして中国ちゅうごく各地かくち巡遊じゅんゆうした[3]。1911ねん明治めいじ44ねん)には、済生会さいせいかい評議ひょうぎいんつとめた。

家族かぞく[編集へんしゅう]

ちち細川ほそかわまもるひさ養子ようし末弟ばってい細川ほそかわ護立もりたつ異母弟いぼてい長岡ながおかまもるぜん細川ほそかわまもるあきらがいる(護立もりたつ異母弟いぼてい)。つま戸田とだども長女ちょうじょ孝子こうし(こうこ)。むすめ英子えいこおっと子爵ししゃく長岡ながおかまもるこう長岡ながおかまもるで、従弟じゅうていにあたる)がいる。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい 下巻げかん』476-477ぺーじ
  2. ^ a b c 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』22ぺーじ
  3. ^ a b c 細川ほそかわ まもるなりみ)ホソカワ モリナリ コトバンク
  4. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、5ぺーじ
  5. ^ 官報かんぽうだい3701ごう明治めいじ26ねん9がつ21にち
  6. ^ 官報かんぽうだい4198ごう叙任じょにん及辞れい」1897ねん7がつ1にち
  7. ^ 官報かんぽうだい4343ごう叙任じょにん及辞れい」1897ねん12月21にち
  8. ^ 官報かんぽうだい5842ごう叙任じょにん及辞れい」1902ねん12月22にち
  9. ^ 官報かんぽうだい7272ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん9がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい 下巻げかんかすみ会館かいかん、1996ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
細川ほそかわまもるひさ
侯爵こうしゃく
肥後ひご細川ほそかわだい2だい
1893ねん - 1914ねん
次代じだい
細川ほそかわ護立もりたつ