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大木たいぼくとおよし

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大木たいぼくとおよし
おおき えんきち
生年月日せいねんがっぴ 明治めいじ4ねん8がつ5にち1871ねん9月19にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 佐賀さがけん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1926-02-14) 1926ねん2がつ14にち(54さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう
(げん東京とうきょう)
所属しょぞく政党せいとう 研究けんきゅうかい立憲りっけん政友せいゆうかい
称号しょうごう 勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
したがえ
だいいちかい国勢調査こくせいちょうさ記念きねんあきら
配偶はいぐうしゃ 伊達だて幸子さちこ
子女しじょ 婿養子むこようし大木たいぼくぶく
親族しんぞく ちち大木おおき喬任たかとう(枢密院すうみついん議長ぎちょう)
義父ぎふ伊達だてそうあつし(貴族きぞくいん議員ぎいん)

内閣ないかく 加藤かとう友三郎ともさぶろう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1922ねん6月12にち - 1923ねん9月2にち

日本の旗 だい23だい 司法しほう大臣だいじん
内閣ないかく 原内はらうちかく
高橋たかはし内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1920ねん5月15にち - 1922ねん6がつ12にち

在任ざいにん期間きかん 1908ねん2がつ28にち - 1911ねん7がつ9にち
1918ねん7がつ10日とおか - 1926ねん2がつ16にち[1]
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大木たいぼく とおよし(おおき えんきち、きゅう仮名遣かなづかいゑんきち、明治めいじ4ねん8がつ5にち1871ねん9月19にち)- 大正たいしょう15ねん1926ねん2がつ14にち)は、明治めいじ時代じだい中頃なかごろから大正たいしょう時代じだいにかけて活躍かつやくした日本にっぽん政治せいじ大東だいとう文化ぶんか協会きょうかい初代しょだい会頭かいとう帝国ていこく公道こうどうかいだい2だい会長かいちょうだい日本にっぽん国粋こくすいかい総裁そうさいごう天籟てんらいがある。佐賀さがけん出身しゅっしん勤皇きんのう志士しし一人ひとり明治維新めいじいしんこうしん政府せいふ要職ようしょく歴任れきにんした大木おおき喬任たかとう嫡男ちゃくなんちちおなじくべんったが、江戸えどでありベランメエ口調くちょうであった[2]

来歴らいれき [編集へんしゅう]

明治めいじ32ねん(1899ねん)の伯爵はくしゃく襲爵しゅうしゃく明治めいじ41ねん(1908ねん)に貴族きぞくいん議員ぎいん伯爵はくしゃく互選ごせんとなり政界せいかいり。研究けんきゅうかいぞくしていたが、はやくから立憲りっけん政友せいゆうかいむすんでおり、立憲りっけん政友せいゆうかい与党よとう原内はらうちかく高橋たかはし内閣ないかく司法しほう大臣だいじん政友せいゆうかい閣外かくがい協力きょうりょく与党よとうとなったつぎ加藤かとう友三郎ともさぶろう内閣ないかくでも鉄道てつどう大臣だいじんつとめた。

大正たいしょう5ねん(1916ねん東京とうきょう工科こうか学校がっこう顧問こもん就任しゅうにん仁義じんぎあつ国粋こくすい主義しゅぎしゃとして人望じんぼうあつめ、大東だいとう文化ぶんか協会きょうかい帝国ていこく公道こうどうかい設立せつりつふか関与かんよし、大東だいとう文化ぶんか協会きょうかい初代しょだい会頭かいとうとなる。

大正たいしょう8ねん1919ねん薨去こうきょした板垣いたがき退助たいすけあとぎ、帝国ていこく公道こうどうかいだい2だい会長かいちょう就任しゅうにん。また同年どうねんだい日本にっぽん国粋こくすいかい総裁そうさいとなる。晩年ばんねん政友せいゆうかい政友せいゆうほんとう合同ごうどう問題もんだいせいほん合同ごうどう)の仲介ちゅうかいにあたった。

大正たいしょう15ねん1926ねん)1がつ動脈どうみゃく硬化こうかしょう持病じびょう悪化あっかし、大分おおいたけん別府べっぷ温泉おんせん静養せいよう帰京ききょうのためった京都きょうとうち俵屋たわらや旅館りょかん病状びょうじょう悪化あっかして急逝きゅうせい[3]墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

家族かぞく[編集へんしゅう]

夫人ふじん仙台せんだいはん知事ちじつとめた伊達だて分家ぶんけ男爵だんしゃく伊達だてそうあつし長女ちょうじょ幸子こうじで、一人娘ひとりむすめ伸子しんし婿養子むこようし大木たいぼくぶく日本工業大学にほんこうぎょうだいがく創立そうりつしゃ)は男爵だんしゃく徳川とくがわあつし次男じなんで、徳川とくがわ慶喜よしのぶまごふつ文学ぶんがくしゃ東京学芸大学とうきょうがくげいだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ日本工業大学にほんこうぎょうだいがくもと理事りじおよび名誉めいよ教授きょうじゅ大木おおきよしはじめぶく長男ちょうなん

あね大木おおき豊子とよこ明治めいじ40ねん(1907ねん)7がつ5にち初代しょだい神野かみの金之助きんのすけ結婚けっこんしている。[6]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい4043ごう大正たいしょう15ねん2がつ18にち
  2. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、519ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  3. ^ もと司法しほうしょう貴族きぞくいん議員ぎいん急死きゅうし中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう大正たいしょう15ねん2がつ16にち夕刊ゆうかん(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp33 大正たいしょうニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  4. ^ a b 官報かんぽうだい4040ごう叙任じょにん及辞れい」1926ねん2がつ15にち
  5. ^ 官報かんぽうだい2858ごう付録ふろく辞令じれい大正たいしょう11ねん2がつ14にち
  6. ^ 神野かみの三郎さぶろうでん. 中部ちゅうぶ瓦斯がす. (1965ねん) 

参考さんこう文献ぶんけん [編集へんしゅう]

  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい 上巻じょうかんかすみ会館かいかん、1996ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
元田もとだはじめ
日本の旗 鉄道てつどう大臣だいじん
加藤かとう友三郎ともさぶろう内閣ないかく:1922ねん - 1923ねん
次代じだい
山之内やまのうち一次かずつぐ
先代せんだい
はらたかし
日本の旗 司法しほう大臣だいじん
原内はらうちかく高橋たかはし内閣ないかく:1920ねん - 1922ねん
次代じだい
岡野おかの敬次郎けいじろう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
大木おおき喬任たかとう
伯爵はくしゃく
大木たいぼく喬任たかとうだい2だい
1899ねん - 1926ねん
次代じだい
大木たいぼくぶく