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渡辺 千冬(わたなべ ちふゆ、旧字体:渡邊 千冬󠄀 [注 1]、1876年(明治9年)5月1日 - 1940年(昭和15年)4月18日[1])は、明治期の政治家、実業家。書家としての号は「無劔(むけん)」。
筑摩県筑摩郡松本(現・長野県松本市)生まれ。子爵渡辺国武の養子で、実父は帝室林野局長官や宮内大臣などを歴任した伯爵渡辺千秋(国武の兄)。幼少時は慶應義塾などで学び、帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法学部)卒業。日本興業銀行を経て、日本製鋼所に入り取締役。1908年(明治41年)長野から衆議院議員に当選。1920年(大正9年)襲爵後、同年8月19日、補欠選挙で貴族院議員に選出され[2]、研究会に所属して1939年(昭和14年)8月26日まで在任[1][3]。濱口内閣、第2次若槻内閣にて司法大臣を務める。大阪毎日新聞社取締役、1939年、枢密顧問官となり、他に関東國粹会総裁となる。
書家としては隷書に優れ、将棋駒に「無劔」という書体のものがある。
子に渡辺武、渡辺慧がいる。
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
- ^ 学術誌、研究書、辞典類などにおける歴史人物としての表記は「渡辺千冬」、『職員録』など存命時代に活字印刷において正字体に統一された表記が「渡邊千冬󠄀」、本人も「渡邊千冬󠄀」と署名している。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』60頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、29頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、46頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「〔履歴書(2件)〕渡邊千冬」 アジア歴史資料センター Ref.A06050366800
- ^ 『官報』第3858号「叙任及辞令」1896年5月12日。
- ^ 『官報』第3985号「叙任及辞令」1940年4月20日。
- ^ 『官報』第779号「叙任及辞令」1929年8月3日。
- ^ 『官報』第3846号「叙任及辞令」1939年10月30日。