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筑摩つかまぐん

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長野ながのけん筑摩つかまぐん範囲はんい

筑摩つかまぐん(つかまぐん、ちくまぐん)は、長野ながのけん信濃しなのこく)にあったぐん

ぐんいき[編集へんしゅう]

現在げんざい下記かき区域くいきにあたるが、行政ぎょうせい区画くかくとして画定かくていされたものではない。

信濃しなの国内こくないでは伊那いなぐん広大こうだい面積めんせきゆうした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

国府こくふがあった現在げんざい松本まつもと中心ちゅうしんとした地域ちいき大宝たいほう律令りつりょうによってたばあいだひょうから筑摩ちくまぐんあらためられた。じゅうかんほん和名わみょう類聚るいじゅうしょうまき5・17)には万葉仮名まんようがなで「まめまん(つかま)」とくん記載きさいされており、延喜えんぎしきまき10)でも「つかまのこおり」となっている。古来こらい「つかま」とばれていたが、明治めいじ時代じだいに「ちくま」に変更へんこうされた(「ちくま」とれい自体じたい江戸えど時代じだいの『和漢わかんさんさい図会ずえ』にえる)。しかし、松本まつもと市内しないまちひのと筑摩ちくま神社じんじゃ市立しりつ筑摩つかま小学校しょうがっこうのように「つかま」ののこる。さとめい良田よしだたかしからしけんにしきふく山家やまや大井おおい記述きじゅつされている。

木曽きそ地域ちいき鎌倉かまくら時代じだい美濃みのこく恵那えなぐんから編入へんにゅうされた部分ぶぶんである(戦国せんごく時代じだい初期しょきとするせつもある)。また、古代こだいには麻績おみさとふく筑北盆地ぼんち虚空蔵山きょくうぞうやま以北いほく)は更級さらしなぐんぞくしていた。また平安へいあん時代じだい以降いこう安曇あずみぐん前科ぜんかきょうのうち犀川さいがわ以東いとう川手かわて地方ちほう)が編入へんにゅうされたとられる[1]ぐん位置いちしょうだが、松本まつもとさい有力ゆうりょくられる。天平てんぴょうかちたから4ねん(752ねん)には郡司ぐんじ大領だいりょうこく麻呂まろえる。

院政いんせい時代じだい荘園しょうえんとして、ささげ中村なかむらそうささげ北条ほうじょうそうはちじょういんりょう)、洗馬せばそう蓮華れんげおういんりょう)、桐原きりはらそう知行ちぎょうぬし不明ふめい)、岡田おかださと浅間あさましゃ岩清水いわしみず八幡宮はちまんぐうりょう)、会田あいだ御厨みくりや麻績おみ御厨みくりや伊勢神宮いせじんぐうりょう)、北内きたうちまき南内みなみうちまき大野おおのまきひだりりょうりょう)がえる。

式内しきないしゃ[編集へんしゅう]

延喜えんぎしきかみめいちょうしるされるぐんない式内しきないしゃ

かみめいちょう 比定ひていしゃ 集成しゅうせい
社名しゃめい かく 付記ふき 社名しゃめい 所在地しょざいち 備考びこう
筑摩つかまぐん 3
岡田おかだ神社じんじゃ ヲカタノ しょう 岡田おかだ神社じんじゃ 長野ながのけん松本まつもと岡田下岡田おかだしもおかだ
すな田神たがみしゃ イサコタノ しょう すな田神たがみしゃ 長野ながのけん松本まつもと島立しまだち 信濃しなの国三くにぞうみや
阿禮あれい神社じんじゃ アレイ
アレ
しょう 阿禮あれい神社じんじゃ 長野ながのけん塩尻しおじり塩尻しおじりまち
凡例はんれい表示ひょうじ

近世きんせい以降いこう沿革えんかく[編集へんしゅう]

所属しょぞく町村ちょうそん変遷へんせん東筑摩ひがしちくまぐん#ぐん発足ほっそくまでの沿革えんかく木曽きそぐん#ぐん発足ほっそくまでの沿革えんかくをそれぞれ参照さんしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 明科あかしなまち 上巻じょうかん」p.392, p408-409

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい へん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』 20 長野ながのけん角川書店かどかわしょてん、1990ねん7がつ1にちISBN 4040012003 
  • きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
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行政ぎょうせい変遷へんせん
- 1879ねん
次代じだい
東筑摩ひがしちくまぐん西にし筑摩つかまぐん