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三十三間堂 - Wikipedia コンテンツにスキップ

さんじゅうさんあいだどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
さんじゅうさんあいだどう
2022ねんさんじゅうさんあいだどう地図
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと東山ひがしやまさんじゅうさんあいだどうまわりまち657
位置いち 北緯ほくい3459ふん16.31びょう 東経とうけい13546ふん18.23びょう / 北緯ほくい34.9878639 東経とうけい135.7717306 / 34.9878639; 135.7717306 (さんじゅうさんあいだどう)座標ざひょう: 北緯ほくい3459ふん16.31びょう 東経とうけい13546ふん18.23びょう / 北緯ほくい34.9878639 東経とうけい135.7717306 / 34.9878639; 135.7717306 (さんじゅうさんあいだどう)
山号さんごう 妙法みょうほういん所属しょぞくする仏堂ぶつどうにつきやまごうはなし
院号いんごう 蓮華れんげおういん
宗派しゅうは 天台宗てんだいしゅう
寺格じかく 妙法みょうほういん飛地とびち境内けいだい
本尊ほんぞん 千手観音せんじゅかんのん国宝こくほう
創建そうけんねん ちょうひろし2ねん1165ねん
開基かいき 後白河天皇ごしらかわてんのう
正式せいしきめい 蓮華れんげおういん 本堂ほんどう
妙法みょうほういん一部いちぶ
別称べっしょう さんじゅうさんあいだどう
札所ふだしょとう 洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい17ばん
文化財ぶんかざい 本堂ほんどう木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう(1,001)、木造もくぞうじゅうはちしゅ立像りつぞうほか(国宝こくほう
築地つきじへい太閤たいこうへい)、南大門なんだいもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
公式こうしきサイト 蓮華れんげおういん さんじゅうさんあいだどう
三十三間堂の位置(京都府内)
三十三間堂
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江戸えど時代じだいさんじゅうさんあいだどう18世紀せいき後半こうはん歌川うたがわ豊春とよはる)。
江戸えど時代じだいさく絵図えずえがかれたさんじゅうさんあいだどう ひだりとなりえるのが方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん (きょう大仏だいぶつ)(「はならく一覧いちらん京都きょうと府立ふりつ京都きょうとがくれきいろどりかんデジタルアーカイブ 一部いちぶ改変かいへん)
とおちなんではじめられた「だいてき大会たいかい」。成人せいじんむかえる射手しゃしゅゆみ
本堂ほんどう南面なんめん
本堂ほんどう北面ほくめん

さんじゅうさんあいだどう(さんじゅうさんげんどう)は、京都きょうと東山ひがしやまさんじゅうさんあいだどうまわりまちにある天台宗てんだいしゅう寺院じいん本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのん建物たてもの正式せいしき名称めいしょう蓮華れんげおういん本堂ほんどう(れんげおういんほんどう)。おな京都きょうと東山ひがしやまにある妙法みょうほういん飛地とびち境内けいだいであり、同院どういん所有しょゆう管理かんりしている。もとこう白河しらかわ上皇じょうこう自身じしん離宮りきゅううち創建そうけんした仏堂ぶつどうで、蓮華れんげおういん名称めいしょう千手観音せんじゅかんのん別称べっしょう蓮華れんげおう」に由来ゆらいする。洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょうだい17ばん札所ふだしょ

歴史れきし

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このには元々もともとこう白河しらかわ上皇じょうこう1127ねん - 1192ねん)が離宮りきゅうとしててたほうじゅうてら殿どのがあった。その広大こうだいほうじゅうてら殿どのいちかくてられたのが蓮華れんげおういん本堂ほんどうとしてのさんじゅうさんあいだどうである。上皇じょうこうねむる「ほうじゅうてらりょう」はさんじゅうさんあいだどうひがしとなりにある[1]

上皇じょうこう平清盛たいらのきよもり建立こんりゅう資材しざい協力きょうりょくめいじてちょうひろし2ねん12月17にち1165ねん1がつ30にち)に完成かんせいしたという[よう出典しゅってん]創建そうけん当時とうじ五重塔ごじゅうのとうなども本格ほんかくてき寺院じいんであったが、けんちょう元年がんねん1249ねん)のけんちょう大火たいか焼失しょうしつした。ぶんひさし3ねん1266ねん)に本堂ほんどうのみが再建さいけんされている。現在げんざいさんじゅうさんあいだどう」としょうされているどうであり、当時とうじしゅりの外装がいそうで、内装ないそう極彩色ごくさいしょくかざられていたという。建築けんちく様式ようしき和様わようぞくする。

さんじゅうさんあいだどうについてつぎのような伝承でんしょうがある。こう白河しらかわ上皇じょうこう長年ながねん頭痛ずつうなやまされていた。熊野くまの参詣さんけいおりにそのむね祈願きがんすると、熊野くまの権現ごんげんから「洛陽らくよう因幡堂いなばどう薬師やくし如来にょらいいのれ」とおげがあった。そこで因幡堂いなばどう参詣さんけいすると、上皇じょうこうゆめそうあらわれ「上皇じょうこう前世ぜんせい熊野くまの蓮華れんげぼうという僧侶そうりょで、仏道ぶつどう修行しゅぎょう功徳くどくによって天皇てんのうまれわった。しかし、その蓮華れんげぼう髑髏しゃれこうべ岩田川いわたがわそこしずんでいて、そのあなからやなぎえ、ふうくと髑髏しゃれこうべうごくので上皇じょうこうあたまいたむのである」とげた。上皇じょうこう岩田川いわたがわ現在げんざい富田川とんだがわ)を調しらべさせるとおげのとおりであったので、さんじゅうさんあいだどう千手観音せんじゅかんのんなか髑髏しゃれこうべおさめ、やなぎりょう使つかったところ、上皇じょうこう頭痛ずつうなおったという。「蓮華れんげおういん」という名前なまえ前世ぜんせい蓮華れんげぼうからったものであるという。この伝承でんしょうにより「頭痛ずつうふうじのてら」として崇敬すうけいけるようになり、「頭痛ずつうやま平癒へいゆてら」と俗称ぞくしょうされた。

なお、これよりまえこう白河しらかわ上皇じょうこうちち鳥羽とば上皇じょうこう平清盛たいらのきよもりちち平忠盛たいらのただもり寄進きしんにより、かもひがし白河しらかわ聖観音しょうかんのんまつとく長寿ちょうじゅいんせんたいどうさんじゅうさんあいだどう文治ぶんじ地震じしん倒壊とうかいしたとされる)をいとなんでいる。2人ふたり上皇じょうこうがいずれもたいら棟梁とうりょう寄進きしんにより寺院じいん造営ぞうえいしていることは、たいら隆盛りゅうせい一因いちいんとして留意りゅういする必要ひつようがある。

室町むろまち時代ときよ室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりいのちにより、えいとおる5ねん1433ねん)から5ねんをかけて、本堂ほんどう仏像ぶつぞう本格ほんかくてき修復しゅうふくおこなわれている。

桃山ももやま時代じだいには、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる方広寺ほうこうじ(きょう大仏だいぶつ)造営ぞうえいにより、さんじゅうさんあいだどう後白河天皇ごしらかわてんのうほうじゅうてらりょうもその境内けいだいふくまれ、周囲しゅうい築地つきじへいげん太閤たいこうへい)などが整備せいびされた。慶長けいちょう5ねん1600ねん)には豊臣とよとみ秀頼ひでよりによって南大門なんだいもんが、よく慶長けいちょう6ねん1601ねん)には西にし大門おおもんげん東寺とうじ南大門なんだいもん)が建立こんりゅうされている。また、そのあいだ本堂ほんどう仏像ぶつぞう修復しゅうふくおこなわれている。

豊臣とよとみ滅亡めつぼう江戸えど時代じだい初期しょきには方広寺ほうこうじともどもさんじゅうさんあいだどう妙法みょうほういん管理かんりかれるようになった。現在げんざいさんじゅうさんあいだどう妙法みょうほういんさかいがい仏堂ぶつどう)となっている。

江戸えど時代じだい中期ちゅうき発生はっせいした京都きょうと史上しじょう最悪さいあく大火たいかとされる、天明てんめい8ねん1788ねん)の天明てんめい大火たいかでは、さんじゅうさんあいだどう立地りっちするらくひがし地域ちいきは、焼亡しょうぼうまぬかれた。

寛政かんせい10ねん1798ねん)の7がつ1にち旧暦きゅうれき)に隣接りんせつする方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん落雷らくらいがあり、それにより火災かさい発生はっせいし、よく2にちまでつづけ、方広寺ほうこうじ伽藍がらんである大仏殿だいぶつでん大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)・仁王門におうもん回廊かいろうがほぼすべ焼失しょうしつした。方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでんは(東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん規模きぼ上回うわまわり)当時とうじ国内こくない最大さいだい木造もくぞう建築けんちくぶつであり、火災かさいさいねつさんじゅうさんあいだどう類焼るいしょうしてもおかしくない状況じょうきょうであったが、奇跡きせきてき類焼るいしょうまぬかれた。横山よこやま華山かざんさくはならく一覧いちらん木版もくはんすり)は、大仏だいぶつ焼失しょうしつ文化ぶんか5ねん(1808ねん)に出版しゅっぱんされた京都きょうと鳥瞰図ちょうかんずであるが、巨大きょだい方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでんがあえてえがかれ(理由りゆう諸説しょせつあり 大仏だいぶつなつかしむ人々ひとびと期待きたいこたえたものか)、江戸えど時代じだいにおけるさんじゅうさんあいだどう方広寺ほうこうじ位置いち関係かんけい把握はあくしやすい[2]京都きょうとつたわる「きょうきょう大仏だいぶつつぁんは 天火てんかけてな さんじゅうさんあいだどうのこった ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべうたはこのとき火災かさいのことをうたっている[3][注釈ちゅうしゃく 1]

2017ねん平成へいせい29ねん)には、45ねんにわたった千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうぜん1,001たい修復しゅうふく完了かんりょうした。

所在地しょざいち敷地しきち建物たてもの配置はいち

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東大とうだいもんいけいずみ本堂ほんどう東側ひがしがわにある庭園ていえん

さんじゅうさんあいだどう京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま三十三間堂廻さんじゅうさんげんどうまわまち657。この敷地しきちは、きた七条通しちじょうどおり(そのきた京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん)、みなみ塩小路しおこうじどおり西にし大和大路やまとおおじどおりひがし赤十字血液せきじゅうじけつえきセンター(そのひがし東大路ひがしおおじどおり)にかこまれた南北なんぼくなが長方形ちょうほうけいである。園内えんないきた駐車ちゅうしゃじょうみなみには太閤たいこうへいがある。駐車ちゅうしゃじょうのすぐみなみ西にし入口いりくちからはいり、さらに入場にゅうじょうりょうはらって内苑ないえんれる。本堂ほんどう内苑ないえん中央ちゅうおう南北なんぼくなが建物たてもので、建物たてものないしょふつかれていて、参拝さんぱいしゃ本堂ほんどうない西にし廊下ろうかきたからみなみあるく。本堂ほんどうひがしにわは「とお」がおこなわれるところで、本堂ほんどう東側ひがしがわうつくしい庭園ていえんになっていて、手水ちょうずしゃ東大とうだいもん閉鎖へいさ)のきたみなみにそれぞれいけいずみがある。[4]

本堂ほんどう

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国宝こくほうさんじゅうさんあいだどうばれる。現在げんざいどうぶんひさし3ねん1266ねん)に再建さいけんされたもの。当初とうしょ建物たてもの平清盛たいらのきよもりこう白河しらかわ上皇じょうこうのためにちょうひろし2ねん1165ねん)に建立こんりゅうしたものだったが、けんちょう元年がんねん1249ねん)のけんちょう大火たいか焼失しょうしつした。洛中らくちゅうにある建物たてものなかではだい報恩寺ほうおんじ本堂ほんどういでふるく、洛中らくちゅう鎌倉かまくら時代ときよにまでさかのぼ建物たてものはこの2むねのみである。入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき、桁行けたゆき35あいだ梁間はりま5あいだとする。ちょう桁行けたゆきが118.2メートル、梁間はりまが16.4メートルである。のきけんしげる垂木たるき(ふたのきしげだるき)、組物くみものぐみ肘木ひじき壁面へきめんからいちす)をもちいる。はしらあいだ装置そうち正面しょうめんはすべていたとびら側面そくめんさい前方ぜんぽういちあいだのみいたとびら連子窓れんじまど背面はいめんは5かしょいたとびらもうけ、連子窓れんじまどとする。正面しょうめん中央ちゅうおうに7あいだこうはいもうける。現状げんじょうこうはい江戸えど時代じだい初期しょき慶安けいあん3ねん1650ねん)のものであるが、こう白河しらかわ上皇じょうこうによる創建そうけん当初とうしょから現状げんじょうのような形式けいしきこうはいいていたとみられる。

内部ないぶ板敷いたじきで、桁行けたゆき33あいだ梁間はりま3あいだしゃ(もや)の四方しほうに1あいだはばひさしもうけたかたちになる。しゃ内陣ないじんすなわち仏像ぶつぞう安置あんちする空間くうかんにあたる。内陣ないじん中央ちゅうおう桁行けたゆき3あいだぶん内々うちうちじんとし、本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞう安置あんちする。その左右さゆうかく桁行けたゆき15あいだぶんは10だん階段かいだんじょう長大ちょうだい仏壇ぶつだんとし、千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう1,000安置あんちする(千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう本尊ほんぞん背後はいごにもう1ある)。天井てんじょう内々うちうちじん部分ぶぶんおりぐみにゅう天井てんじょう左右さゆう部分ぶぶんじゅうにじはり蟇股かえるまた(にじゅうこうりょう かえるまた)に化粧けしょう屋根裏やねうら天井板てんじょういたらず、垂木たるきせる)とする。ひさし部分ぶぶん背面はいめんのぞく)はかくがわばしら建物たてもの外周がいしゅうはしら)からしゃばしらつなぎはり上下じょうげじゅうわたす。かくしゃばしらあいだつらぬけ(ひぬき、あたまぬき一段いちだん位置いちする水平すいへい貫通かんつうざい)でつなぐこと、つなぎはりのうち下段げだんのものがしゃばしらつらぬいて突出とっしゅつし、その部分ぶぶんだい仏様ほとけさま(よう)のはな装飾そうしょくてきり)をもうけることなどが特色とくしょくである。これらの特色とくしょく鎌倉かまくら時代じだいあらたな工法こうほうしめすものである。

現状げんじょうではどう内外ないがい彩色さいしきはみられないが、1930ねん昭和しょうわ5ねん)の修理しゅうりに、にじはり下面かめん貼付ちょうふされた装飾そうしょくきょうはずしたしたから極彩色ごくさいしょく文様もんようあらわれ、建立こんりゅう当初とうしょどう彩色さいしきおおわれていたことが判明はんめいした[5]

さんじゅうさんあいだ」の由来ゆらい構造こうぞう

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さんじゅうさんあいだどう名称めいしょうは、本堂ほんどうあいだめん記法きほうで「さんじゅうさんあいだよんめん」となることに由来ゆらいする。これは桁行けたゆきさんじゅうさんあいだ[注釈ちゅうしゃく 2]周囲しゅういよんめんいちあいだひさしひさし)をめぐらせたという意味いみである。つまりはしらあいだが33あるのは本堂ほんどう内陣ないじん母屋もやしゃ)であり、建物たてもの外部がいぶからえるはしらあいだは35ある。正面しょうめんに7あいだこうはいがあるが、この区域くいき慶安けいあん2ねん1649ねん)から慶安けいあん4ねん1651ねんごろ増築ぞうちくである。

ここでいう「あいだ」(けん)はながさの単位たんいではなく、社寺しゃじ建築けんちくはしらあいだかずあらわ建築けんちく用語ようごである。さんじゅうさんあいだどうはしらあいだ寸法すんぽう一定いっていではなく[注釈ちゅうしゃく 3]そのはしらあいだ今日きょうはしらあいだとして使つかわれる京間きょうま中京ちゅうきょうあいだ田舎いなかあいだのどれにも該当がいとうしない[6]。しばしば「さんじゅうさんあいだどうの1あいだはしらあいだ)は今日きょうの2あいだ(12しゃく)に相当そうとうするから、どう全長ぜんちょうは33×2×1.818でやく120mとなる」、と説明せつめいされることがあるが、これははしらあいだかずについても、はしらあいだながさについてもあやまりである(ただし実際じっさい外縁がいえん小口こぐちあいだながやく121mとほとんど一致いっちする)。

そもそも「33」は観音かんのん菩薩ぼさつえんのある数字すうじで、『法華経ほけきょうとう観音かんのん菩薩ぼさつが33しゅ姿すがたへんじて衆生しゅじょうすくうとかれることによる。ぞくに「さんじゅうさんあいだどうふつかずさんまんさんせんさんじゅうさんたい」というのは、本尊ほんぞんわきふついちせん一体いったいがそれぞれ33に化身けしんするからである。

また、2016ねん平成へいせい28ねん)に京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ調査ちょうさにより、地盤じばんすな粘土ねんど層状そうじょうんで構成こうせいされていることがあきらかになった。これは積層せきそうゴムが建物たてものれを吸収きゅうしゅうする「めんふるえ」のメカニズムと共通きょうつうしている。

とお

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本堂ほんどう西側にしがわ軒下のきしたながやく121m)をみなみからきた射通いとお弓術きゅうじゅつ競技きょうぎ安土あづち桃山ももやま時代じだいおこなわれはじめ、江戸えど時代じだい前期ぜんきかくはん弓術きゅうじゅついえによりさかんにおこなわれ、きょう名物めいぶつ行事ぎょうじとなった。えん北端ほくたんまとき、えん南端なんたんからのき天井てんじょうたらぬよう射抜いぬき、その本数ほんすうきそった(右上みぎうえ浮世絵うきよえ画像がぞう参照さんしょう)。はん後押あとおしでおおくの弓術きゅうじゅつ技量ぎりょうきそったことから弓術きゅうじゅつ名誉めいよとなり、一昼夜いっちゅうやでのとおすうきそう「大矢おおやすう」の記録きろく達成たっせいしゃは「天下一てんかいち」をしょうした。貞享ていきょう3ねん(1686ねん)4がつ27にち紀州きしゅうはん和佐わさはんとおだい八郎はちろう)がそうすう13,053ほんちゅうとお8,133ほん天下一てんかいちとなり、これが現在げんざいまでの最高さいこう記録きろくである。

だいてき大会たいかい

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とお伝統でんとうちなみ、現在げんざいは「楊枝ようじのお加持かじだい法要ほうよう同日どうじつ(1がつ中旬ちゅうじゅん)に、本堂ほんどう西側にしがわ射程しゃてい60mの特設とくせつ射場しゃじょうる「さんじゅうさんあいだどうだいてき全国ぜんこく大会たいかい」がおこなわれる[7]大会たいかい参加さんかしゃのうちしん成人せいじん女性じょせい振袖ふりそではかま姿すがたくだりする場面ばめんは、しばしばニュース番組ばんぐみとうげられる。一般いっぱんてきには「とお」とばれているが、60mは弓道きゅうどう競技きょうぎの「とおてき」の射程しゃていであり、のきだかによる制限せいげんもないことから、江戸えど時代じだいとおにおける風景ふうけいとはまったくことなっている。

どうない諸仏しょぶつ

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本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのんぞう湛慶たんけいさく
千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう1001のうち20ごうぞう湛慶たんけいさく
風神ふうじん雷神らいじんぞうのうち雷神らいじん

どうない中央ちゅうおう鎌倉かまくら時代じだい仏師ぶっし湛慶たんけいさく本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞう安置あんち本尊ほんぞん左右さゆうには長大ちょうだい階段かいだんじょう仏壇ぶつだんがあり、左右さゆう仏壇ぶつだんかく500たい(50たいX10だん)の千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうならぶ。千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう本尊ほんぞん背後はいごにもう1たいあり、けい1,001たいとなる。1,001たいのうちの一部いちぶぞう東京とうきょう京都きょうと奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたくされていたが、2018ねん平成へいせい30ねん)には、国宝こくほう指定してい記念きねんして、博物館はくぶつかん寄託きたくぞうどうもどり、1,001たいせいぞろいした[8]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)から20ねん計画けいかく責任せきにんしゃしんおさめ忠之ただゆきかい中心ちゅうしんぜん1,001たい修理しゅうりおこなわれた[9]1973ねん昭和しょうわ48ねん)から美術びじゅついん国宝こくほう修理しゅうりしょによってぜん1,001たい修理しゅうり開始かいしされ、45ねん2017ねん平成へいせい29ねん)12月にぜん1,001たい修理しゅうり完了かんりょうした[10]

せんたいふつ手前てまえにはじゅうはちしゅぞう28たいよこいちれつならび、内陣ないじん左右さゆうはしには風神ふうじん雷神らいじんぞう安置あんちする(ただし、じゅうはちしゅぞうのうち4たい本尊ほんぞん周囲しゅうい配置はいちされている)。2018ねん平成へいせい30ねん)7がつ以上いじょう30たい仏像ぶつぞう配置はいち変更へんこうされ、鎌倉かまくら時代じだい版画はんがなど古記こきろく研究けんきゅうもとづいて、創建そうけん当時とうじおなじとおもわれる配置はいちもどされた。内陣ないじん左右さゆうりょうはしには、拝観はいかんしゃからかってひだり南側みなみがわ)に雷神らいじんぞうみぎ北側きたがわ)に風神ふうじんぞう安置あんちされているが、2018ねん平成へいせい30ねん)7がつ以前いぜんは、1934ねん昭和しょうわ9ねんごろ修理しゅうりともな雷神らいじん風神ふうじん位置いちぎゃくであった。じゅうはちしゅぞうについては、配置はいち変更へんこうのほか、ぞうめいにも一部いちぶ変更へんこうがある[11]

  • 千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞうちゅうみこと

木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞう 木造もくぞう天蓋てんがい」として国宝こくほう指定していされている。よせ木造もくぞううるしはくたまじゅういちめんよんじゅうひじあらわ通有つうゆう千手観音せんじゅかんのんぞうである。ぞう本体ほんたいたかさは334.8センチ、台座だいざ光背こうはいふくめた全体ぜんたいたかさは7メートルをえる。台座だいざ心棒しんぼう墨書ぼくしょから、作者さくしゃ大仏だいぶつ法印ほういん湛慶たんけいしょう仏師ぶっし法眼ほうげんかんまどかおよびしょう仏師ぶっし法眼ほうげん康清やすきよであり、けんちょう3ねん1251ねん)につくはじめ、どう6ねん1254ねん)に完成かんせいしたことがわかる。湛慶たんけいのちに「生年せいねんはちじゅう」とあり、湛慶たんけいがこのとき82さいであったこと、生年せいねん逆算ぎゃくさんしてうけたまわやす3ねん1173ねん)であったことがわかる。この銘記めいき慶安けいあん4ねん1651ねん)の修理しゅうりかれたものであるが、ぞうないこしのあたりにある仕切しきばん朱書しゅしょされたみやつこぞう当初とうしょ銘記めいき現状げんじょうでは剥落はくらくおお全文ぜんぶん不明ふめい)を忠実ちゅうじつうつしたものとかんがえられている。ほんぞう保存ほぞん状態じょうたいがよく、後世こうせい補作ほさくされることのおお台座だいざ光背こうはい天蓋てんがいも、ほんぞう場合ばあい当初とうしょのものがのこっている。光背こうはいたからしょうはなぶんとおるうえに、観音かんのんさんじゅうさんおう現身うつせみあらわしたものである。さんじゅうさんおう現身うつせみとは、『法華経ほけきょう観世音菩薩かんぜおんぼさつもんひんくもので、観音かんのん衆生しゅじょう救済きゅうさいのために33しゅ姿すがたへんじてあらわれる姿すがたをいう。[12]

  • 千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう(1,001

木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう1,001」として国宝こくほう指定していされている(2018年度ねんど指定してい[13])。よせ木造もくぞうまたはわりづくりうるしはくぞうだかは166 - 167cm前後ぜんこう[注釈ちゅうしゃく 4]

千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうには1たいずつ番号ばんごうられており、どうない南端なんたん本尊ほんぞんかって左端ひだりはし)のさい上段じょうだんが1ごうぞう南端なんたんさい下段げだんが10ごうぞうどうない北端ほくたん本尊ほんぞんかってみぎはし)のさい上段じょうだんが991ごうぞう北端ほくたんさい下段げだんが1,000ごうぞう本尊ほんぞん背後はいごつ1たいが1,001ごうぞうである。昭和しょうわせん前期ぜんきには、南側みなみがわからいれどう北側きたがわける拝観はいかん順路じゅんろであったため、みなみからきたへと番号ばんごうられている[14]

1,001たいのうち、けんちょう元年がんねん1249ねん)の火災かさいさいすくされた、創建そうけん平安へいあん時代じだいぞうちょうひろしふつ)は124たい再建さいけん鎌倉かまくら時代じだい)のぞうは876たいあり、室町むろまち時代じだい追加ついかされたぞうが1たいのみ(32ごうぞう)ある。たま部分ぶぶん水晶すいしょう使用しようする)を嵌入かんにゅうするぞうは5たいのみ(78ごう、80ごう、120ごう、169ごう、459ごう)で、である[15]

平安へいあん時代じだいぞうには銘記めいきはない。鎌倉かまくら時代じだい復興ふっこうぞう2006ねん平成へいせい18ねん時点じてん、504たいについて銘記めいき確認かくにんされており、当時とうじ奈良なら仏師ぶっしけい)、京都きょうと仏師ぶっしえんいん)の主要しゅよう仏師ぶっしみやつこぞう動員どういんされている。創建そうけんぞうちょうひろしふつ)のうち、拝観はいかんしゃにつきやすいさい前列ぜんれつさい下段げだん)に安置あんちされるのは、160ごう、280ごう、300ごう、440ごう、450ごう、570ごう、670ごう、800ごう、890ごうの9たいである。湛慶たんけいさくぞうは10ごう、20ごう、30ごう、40ごう、520ごう、530ごう、540ごう、550ごう、560ごうの9たいで、いずれもどうないさい前列ぜんれつ安置あんちされている。その主要しゅよう仏師ぶっしさく以下いかのとおり[16]

けい - かんまどか(50ごうぞうなど6たい)、くだりこころよ(490ごうぞう1たいのみ) えん - りゅうまどか(500ごうぞうなど35たい)、あきらえん(6たい)、さかええん(5たい)、いきおいえん(8たいいん - いんままし(400ごうぞうなど14たい)、いんへん(7たい)、いんうけたまわ(30たい)、いんめぐみ(30たい)、いんごう(28たい)、いん(11たい

510ごうぞうには「運慶うんけい」の銘記めいきがあるが、これは後世こうせいにせめいかんがえられている。平安へいあん時代じだいぞうちょうひろしふつ)はていあさ様式ようしき作風さくふうしめす。すなわち、全体ぜんたいたいづくりで、からだあつみがあり、合掌がっしょうしたりょううでりがゆったりとし、面相めんそうまるがおがちである。一方いっぽう鎌倉かまくら時代じだい湛慶たんけい作品さくひんは、ちょうひろしふつ作風さくふうぎつつ、ころもぶんせん左右さゆう非対称ひたいしょうとして変化へんかをつけるなどの相違そういがみられる[17]

かくぞう内部ないぶにはぞうない納入のうにゅうひんがある。主要しゅよう納入のうにゅうひん千手観音せんじゅかんのん種子しゅし月輪げつりんぱいひのきざいせい)、千手観音せんじゅかんのんおよびじゅうはちしゅすりぼとけ(すりぼとけ)、千手観音せんじゅかんのん陀羅尼だらになどで、すりふつ陀羅尼だらに紙片しへん多数たすうたたみ、これにぱいえていた。阿弥陀如来あみだにょらいすりふつ願文がんもん毛髪もうはつなどの納入のうにゅうひん確認かくにんされている。昭和しょうわ修理しゅうりにこれら納入のうにゅうひん一部いちぶされたが、納入のうにゅうじょうきょう確認かくにんのみをおこなって、されなかったものもおおく、全容ぜんようしょうである。[18][19]

兵庫ひょうごけん朝光ともみつてら本尊ほんぞんである2千手観音せんじゅかんのん菩薩ぼさつ立像りつぞうのうち1さんじゅうさんあいだどう観音かんのんぞう様式ようしき一致いっちし、とうどうからうつされたものと推定すいていされている。

  • 風神ふうじん雷神らいじんぞう

木造もくぞう風神ふうじん雷神らいじんぞう2」として国宝こくほう指定していされている。鎌倉かまくら復興ふっこうさく。それぞれどうない左右さゆうはし安置あんち風袋ふうたい太鼓たいこをそれぞれった風神ふうじん雷神らいじんぞう姿すがたをユーモラスにあらわしたこれらのぞうは、俵屋たわらや宗達そうたつの『風神ふうじん雷神らいじん屏風びょうぶ』のモデルになったともいわれる。よせ木造もくぞう彩色さいしきたまぞうだか風神ふうじんが111.5センチ、雷神らいじんが100.0センチ。風神ふうじん風袋ふうたいい、みぎひざき、ひだりひざてる。手指しゅしは4ほんあしゆびは2ほんである。雷神らいじんれんい、両手りょうてにそれぞれ桴(ばち)をち、風神ふうじんとは対称たいしょうてきひだりひざき、みぎひざてる。手指しゅしは3ほんあしゆびは2ほんである。風神ふうじん雷神らいじん図像ずぞう中国ちゅうごく由来ゆらいのもので、敦煌とんこう莫高くつだい249くつ西にしたかし、6世紀せいき前半ぜんはん)には阿修羅あしゅらぞうならんで風神ふうじん雷神らいじんぞうがみえる。日本にっぽんにおける風神ふうじん雷神らいじん彫像ちょうぞうとしてはさんじゅうさんあいだどうぞう最古さいこのものである。[20]

  • じゅうはちしゅぞう

木造もくぞうじゅうはちしゅ立像りつぞう28」として国宝こくほう指定していされている。よせ木造もくぞう彩色さいしきたまぞうだか最大さいだいだい梵天ぼんてんおうが169.7センチ、最少さいしょうかみははおんな旧称きゅうしょうおんな)が153.6センチ。『一代いちだいよう』には、けんちょう元年がんねん1249ねん)の火災かさいではじゅうはちしゅぞうすくされたことになっているが、現存げんそんぞう技法ぎほう様式ようしきから鎌倉かまくら復興ふっこうさくとみなされている。じゅうはちしゅは、千手観音せんじゅかんのん眷属けんぞくであり、千手観音せんじゅかんのん信仰しんこうするもの守護しゅごするとされている。28たいなかには四天王してんのう金剛力士こんごうりきし仁王におう)のようになじみふかいものと、由来ゆらいのはっきりしないものとが混在こんざいする。『千手観音造次第法儀軌』という経典きょうてんもとづくみやつこぞうとされる。これらのぞう本来ほんらい本尊ほんぞんぞうりょうわきかこ群像ぐんぞうとして安置あんちされていたものであるが、近代きんだいになってどう西裏にしうら廊下ろうかいちれつ安置あんちされるようになり、20世紀せいきまつ現在げんざいのようにせんたいふつ前面ぜんめん配置はいちされるようになった。やせおとろえた老人ろうじん肉体にくたいをリアルに描写びょうしゃしつつ、崇高すうこうさをうしなわないばばやぶせん(ばすせん)ぞうは28たいなかでもよくられている。

じゅうはちしゅぞう配置はいちえとぞうめい変更へんこう

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じゅうはちしゅは、千手観音せんじゅかんのん眷属けんぞく28たいからなる群像ぐんぞうである。さんじゅうさんあいだどう安置あんちされる木造もくぞうじゅうはちしゅぞう28たいかくぞう名称めいしょうについては、なが年月としつきあいだ混乱こんらんしょうじ、かならずしも本来ほんらいぞうめいではないものがふくまれていた。このため、さんじゅうさんあいだどう管理かんりする妙法みょうほういんでは、2018ねん平成へいせい30ねん)、千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう1,001たい修理しゅうり完了かんりょう国宝こくほう指定していに、じゅうはちしゅぞう配置はいちえと一部いちぶぞう名称めいしょう変更へんこうおこない、学術がくじゅつてきにより正確せいかく名称めいしょう配置はいちあらためた[21]

じゅうはちしゅは、おおむねインドバラモン教ばらもんきょうかみ々に起源きげんがあり[22]とぎ梵達やく千手せんじゅけい』の(げ)や『金光かねみつあきらけい』「鬼神きじんひん」に列挙れっきょされる護法ごほうしんにのそのルーツがもとめられる。しかし、2018ねん平成へいせい30ねん)に名称めいしょう変更へんこうおこなわれる以前いぜんさんじゅうさんあいだどうじゅうはちしゅぞうぞうめい以下いか、「従来じゅうらいぞうめい」という)は、これらの経典きょうてん登場とうじょうするものとはかならずしも一致いっちせず、混乱こんらんしょうじていた。従来じゅうらいぞうめいには、「まんせんおう」、「きむ大王だいおう」、「おんな」など、『千手せんじゅけい』・『金光かねみつあきらけい』のいずれにも登場とうじょうしない、典拠てんきょ不明ふめいのものがふくまれていた。また、江戸えど時代じだい初頭しょとう慶長けいちょう年間ねんかん(1600 - 1605ねん)に仏師ぶっし康正こうせいじゅうはちしゅぞう修理しゅうりおこなっているが、そのさい康正こうせいのこした修理しゅうりめいには、従来じゅうらいぞうめいとはことなる名称めいしょうしるされているものがあった[23]

美術びじゅつ史家しか伊東いとう史朗しろうは、1997ねん刊行かんこう著書ちょしょにおいて、滋賀しが常楽寺じょうらくじ木造もくぞうじゅうはちしゅぞう京都きょうと禅林寺ぜんりんじ所蔵しょぞう千手観音せんじゅかんのんじゅうはちしゅ画像がぞう南北なんぼくあさ時代じだい)との比較ひかくとおして、さんじゅうさんあいだどうぞうただしいぞうめい復元ふくげんこころみた。彫像ちょうぞう場合ばあいは、なが年月としつきあいだかくぞう持物もちもの手先てさきなどがこうのものにわっている場合ばあいがあるが、画像がぞう場合ばあいはそのおそれがなく、ぞうめいきされた画像がぞう比較ひかくすることは、正確せいかくぞうめいるための有効ゆうこう手段しゅだんとなる。ただし、伊東いとう比較ひかくもちいた禅林寺ぜんりんじほん南北なんぼくあさ時代じだいさくで、さんじゅうさんあいだどうぞう創建そうけんからやく200ねん現存げんそんするじゅうはちしゅぞう制作せいさくからやく100ねん画像がぞうであることから、禅林寺ぜんりんじほんとの比較ひかくによってすべての問題もんだい解決かいけつするにはいたらなかった[24][25]

2018ねん平成へいせい30ねん)のぞうめい変更へんこうさいし、妙法みょうほういんでは、前述ぜんじゅつ伊東いとう研究けんきゅう成果せいかくわえ、解体かいたい修理しゅうり見出みいだされたかくぞう彩色さいしき痕跡こんせき前述ぜんじゅつ慶長けいちょう修理しゅうりめいじ細見ほそみ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう千手観音せんじゅかんのんじゅうはちしゅ画像がぞう前述ぜんじゅつ禅林寺ぜんりんじ画像がぞうよりふるい、鎌倉かまくら時代じだいさく)との比較ひかくなどをまえてぞうめい決定けっていした。それとともに、どうないにおけるかくぞう配置はいち変更へんこうされた。なかでも注目ちゅうもくされるのは四天王してんのうぞう配置はいち場所ばしょである。2018ねん以前いぜんは、本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞう周囲しゅういにはじゅうはちしゅのうちの四天王してんのうぞう4たい安置あんちされ、の24たい須弥壇しゅみだんさい前列ぜんれつよこいちれつ配置はいちされていた。2018ねん配置はいちは、本尊ほんぞん周囲しゅうい近侍きんじするのはばば籔仙、だいべん功徳くどくてんだい梵天ぼんてんおう帝釈たいしゃく天王てんのうの4たいとなり、四天王してんのう4たいは、須弥壇しゅみだんさい前列ぜんれつの、本尊ほんぞんにもっともちか位置いち左右さゆう2たいずつ配置はいちされるようになった。これは、敦煌とんこう壁画へきがなどにおける千手観音せんじゅかんのん眷属けんぞくぞう配置はいち参照さんしょうした結果けっかによるものである[26]

以下いかは、じゅうはちしゅぞうめい一覧いちらんである(2018ねんぞうめい変更へんこう以前いぜん以後いご対照たいしょうひょう[27]。(*)しるしした13たいは、2018ねんぞうめい変更へんこうされたもの。なお、の15たいについても一部いちぶ漢字かんじ表記ひょうき変更へんこうがある。

じゅうはちしゅぞうめい一覧いちらん

ぞうめいしん かた ぞうめいきゅう ぞうよう 特色とくしょく
のべ堅固けんご ならえんけんご のべ堅固けんご 上半身じょうはんしんはだかがた力士りきしがた開口かいこうし、右手みぎててのひらひらいてげ、左手ひだりてかたあたりこぶしをつくる 金剛力士こんごうりきし仁王におう)の阿形あがた相当そうとう
なん陀龍おう なんだりゅうおう なん陀竜おう 武装ぶそうぞう両手りょうてりゅうからだささえる 千手せんじゅけい』の受持うけもちしゃまも龍王りゅうおう
睺羅 まごら 睺羅迦王 をもつ異相いそう琵琶びわ)を姿すがたあらわす、頭上ずじょうへび はちしゅいち
緊那(*) きんなら かみははてん 女神めがみ両手りょうてむねあたりげ、鈸子(ばっし、シンバル楽器がっきこう)を はちしゅいち
迦楼 かるら 迦楼おう はんにんはんちょう異形いぎょう横笛よこぶえき、右足みぎあしのつまさきげてリズムを姿すがたあらわ はちしゅいち
いぬい闥婆 (*) けんだつば 緊那おう はらまえ羯鼓かっこ(かっこ、こう)をかまえ、両手りょうてたた動作どうさをする はちしゅいち
毘舎闍(*) びしゃじゃ いぬい闥婆おう 上半身じょうはんしんはだかがた右手みぎてかたあたりたから)をささち、左手ひだりてむねげる(持物もちものかけ かばねにくらう悪鬼あっき
ささえ大将たいしょう(*) さんしたいしょう まんせんおう 武装ぶそうぞう右手みぎてこしかま独鈷とっこきね)をち、左手ひだりてで戟()をささえる 金光かねみつあきらけい』にかれる夜叉やしゃしん
まんぜんしゃはち(*) まんぜんしゃはつ 毘楼勒叉てん 武装ぶそうぞう右手みぎてかた独鈷とっこきね)をち、左手ひだりて体側たいそくげる まんぜんくるまはちばばみこと夜叉やしゃしんわせたみことかく
あまばつ陀羅(*) まにばだら きむ大王だいおう 武装ぶそうぞう右手みぎてむねあたり独鈷とっこきね)をち、左手ひだりてこしにあてる はちだい夜叉やしゃ大将たいしょういち
毘沙門天びしゃもんてん びしゃもんてん 毘沙門天びしゃもんてん 武装ぶそうぞう右手みぎてで戟()をささえ、左手ひだりて宝塔ほうとう)をささげる 四天王してんのういち北方ほっぽう守護しゅご多聞天たもんてん)。
毘楼勒叉(*) びるろくしゃ 東方とうほうてん 武装ぶそうぞう右手みぎてげ、けんまたは独鈷とっこかまえ、左手ひだりてこしにあてる 四天王してんのういち南方なんぽう守護しゅご
ばばやぶせん ばすせん ばばやぶ仙人せんにん 上半身じょうはんしんはだかがた老人ろうじん右手みぎてつえ)をつき、右腕うわんうえ左腕さわんせ、経巻きょうかん)を 千手観音せんじゅかんのんわきさむらい
だいべん功徳くどくてん だいべんくどくてん だいべん功徳くどくてん からそう女神めがみ(じょしん)、両手りょうてむねあたりげる、もと右手みぎてけん左手ひだりて宝珠ほうしゅつか 千手観音せんじゅかんのんわきさむらい
だい梵天ぼんてんおう だいぼんてんおう だい梵天ぼんてんおう からそう右手みぎてむねげ(持物もちものかけ)、左手ひだりててのひらしょうつぼせる 帝釈天たいしゃくてん一対いっつい安置あんちされることがおおい。古代こだいインドのブラフマー由来ゆらい
帝釈たいしゃく天王てんのう たいしゃくてんおう 帝釈天たいしゃくてん ころもしたかぶとする、右手みぎてたからきょう)をち、左手ひだりてこしかまえる 梵天ぼんてん一対いっつい安置あんちされることがおおい。インドのインドラかみ由来ゆらい
ひさげあたまよりゆき吒王(*) だいずらたおう きよしきょてん 武装ぶそうぞうはらまえりょううで交叉こうささせ、左手ひだりて短刀たんとうのみ当初とうしょのもの)をち、右手みぎて太刀たち)を地面じめん 四天王してんのういち東方とうほう守護しゅご
毘楼はくまた びるばくしゃ 毘楼はくまたてん 武装ぶそうぞうかぶとこうむり、右手みぎてこしまえかま独鈷とっこきね)をち、左手ひだりてで戟()をささえる 四天王してんのういち西方せいほう守護しゅご
薩遮(*) さしゃまわら 醯首おう 上半身じょうはんしんはだかがた右手みぎてかたたかさでてのひらひらき、左手ひだりていただきとりいたつえ)をささえる その由来ゆらいには諸説しょせつあるなぞみことかく
きよしきょ(*) ごぶじょうご 金色きんいろ孔雀くじゃくおう 武装ぶそうぞう右手みぎて体側たいそくげ、左手ひだりてむねけん)をたてかまえる 興福寺こうふくじでははちしゅの「てん」に相当そうとう
金色きんいろ孔雀くじゃくおう(*) こんじきくじゃくおう あぶら大将たいしょう 武装ぶそうぞう顔面がんめんけ、ちゅうからべつかおあらわれる異相いそう右手みぎてけん)をち、左手ひだりてこしかまえる 孔雀くじゃく明王みょうおう騎乗きじょうする孔雀くじゃく独立どくりつしたみことかくとしたものとされる[28]かおれてなかからべつかおあらわれるという姿すがたかんしては、鳥類ちょうるいによくられる雌雄しゆうモザイクあらわしているのではないかという見解けんかいさんじゅうさんあいだどうしめしている[28]
かみははおんな(*) じんもにょ おんな ぞくがた老女ろうじょ合掌がっしょうする姿すがたあらわ 鬼子母神きしもじんられる安産あんざん子育こそだての女神めがみ
金毘羅こんぴら こんぴら 金毘羅こんぴらおう 武装ぶそうぞうかぶと(かぶと)をこうむり、両手りょうてこしあたりかまえ、右手みぎて左手ひだりてゆみ わにしん海神わたつみ
畢婆伽羅きゃら ひばから 畢婆迦羅おう 武装ぶそうぞう右手みぎてこしかまえ、左手ひだりてけんまたは独鈷とっこかまえとする その由来ゆらいには諸説しょせつあるなぞみことかく
阿修羅あしゅら あしゅら 阿修羅あしゅらおう 三面六臂さんめんろっぴ異形いぎょう はちしゅいち
ばち(*) いはつら まんぜんしゃおう 武装ぶそうぞう両手りょうてむねあたりげ、右手みぎて小槌こづち左手ひだりてへび 千手せんじゅけい』の受持うけもちしゃ守護しゅごする龍王りゅうおう
しゃば伽羅きゃら龍王りゅうおう さがらりゅうおう すな羯羅竜王りゅうおう 武装ぶそうぞう頭上ずじょうに5ひきへびがあり、右手みぎてけん左手ひだりてへび)を 興福寺こうふくじでははちしゅの「りゅう」に相当そうとう
みつ迹金剛士たけし みっしゃくこんごうし みつ迹金つよし 上半身じょうはんしんはだかがた力士りきしがた閉口へいこう右手みぎてはらたかさにてのひらひらき、左手ひだりてこしあたりこぶしをつくる 金剛力士こんごうりきし仁王におうぞううちうんがたぞう相当そうとう

境内けいだい

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南大門なんだいもん築地つきじへいひだりおく)、ともに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 本堂ほんどう国宝こくほう) - ぶんひさし3ねん1266ねん再建さいけん解説かいせつすんでじゅつ
  • 参進さんしんかく
  • 普門閣ふもんかく - 参拝さんぱい入口いりくち寺務じむしょ
  • 北門きたもん
  • きた庭園ていえん - いけいずみ回遊かいゆうしき庭園ていえん
  • 地蔵堂じぞうどう
  • 東大とうだいもん - 1961ねん昭和しょうわ36ねん建立こんりゅう
  • 回廊かいろう - 1961ねん昭和しょうわ36ねん建立こんりゅう
  • 南庭なんていえん - 池泉いけいずみ回遊かいゆうしき庭園ていえん
  • 鐘楼しゅろう - 1988ねん昭和しょうわ63ねん再建さいけん
  • 南大門なんだいもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)- 桃山ももやま時代じだい慶長けいちょう5ねん1600ねん建立こんりゅう切妻きりづまづくりほん瓦葺かわらぶきさんあいだいちはちきゃくもん境内けいだい東南とうなんがわ敷地しきちがいつ。にじはりこくめいにより豊臣とよとみ秀頼ひでより慶長けいちょう5ねん新築しんちくしたものと推測すいそくされている。かつては慶長けいちょう6ねん1601ねん)にこれも秀頼ひでよりによっててられた西にし大門おおもんもあったが、1895ねん明治めいじ28ねん)に東寺とうじ移築いちくされ南大門なんだいもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)となっている。
  • 太閤たいこうへい重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 桃山ももやま時代じだいほん瓦葺かわらぶき豊臣とよとみ秀吉ひでよし太閤たいこう)によって寄進きしんされた築地つきじへいげん境内けいだい南端なんたん区切くぎる。方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん創建そうけんされたとき蓮華れんげおういん方広寺ほうこうじ境内けいだいふくまれたため、その工事こうじともなって築造ちくぞうされた。修理しゅうりさいに「天正てんしょうじゅうろくねん‥‥だいふつ殿どのかわら」ときざんだかわら発見はっけんされている。のきまるかわらには豊臣とよとみきりもんられる。かつては西にしにも存在そんざいしたが、現在げんざいみなみへいのみのこっている。へいたかさ5.3m、ながさ92mにおよ桃山ももやま豪壮ごうそうさをしめ建造けんぞうぶつである。
  • ひさぜい稲荷いなり大明神だいみょうじん
  • 西門にしもん

文化財ぶんかざい

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本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞうのかつての安置あんちじょうきょう。この写真しゃしんではじゅうはちしゅぞう本尊ほんぞん左右さゆう安置あんちされており、現在げんざい安置あんちじょうきょうとはことなる。
千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう安置あんちじょうきょう

以下いか指定してい文化財ぶんかざい所有しょゆうしゃ妙法みょうほういん京都きょうと東山ひがしやま妙法院前側みょうほういんまえかわまち)である。

国宝こくほう

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  • 本堂ほんどう
  • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞう木造もくぞう天蓋てんがい
  • 木造もくぞう風神ふうじん雷神らいじんぞう
  • 木造もくぞうじゅうはちしゅ立像りつぞう
  • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう(1,001

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 南大門なんだいもん(1900(明治めいじ33)ねん
  • 築地つきじへい太閤たいこうへい

前後ぜんご札所ふだしょ

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洛陽らくようさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょう
16 なかはじめてら - 17 妙法みょうほういんさんじゅうさんあいだどう - 18 泉涌寺せんにゅうじ塔頭たっちゅう善能寺ぜんのうじ

交通こうつうアクセス

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  • 京都きょうと市営しえいバス(86・88206208ごう系統けいとう)「博物館はくぶつかんさんじゅうさんあいだ堂前どうまえ下車げしゃ徒歩とほすぐ。
  • 京都きょうとバス 「臨東山ひがしやま系統けいとう高野たかの橋東詰はしひがしづめき 「博物館はくぶつかんさんじゅうさんあいだ堂前どうまえ下車げしゃ徒歩とほすぐ。
  • 京都きょうとえきはちじょうこうからの京都きょうと急行きゅうこうバス(プリンセスラインバス)「東山ひがしやまななじょうバス停ばすてい利用りようできる。
  • 京阪本線けいはんほんせん 七条しちじょうえき ひがし徒歩とほ5ふん
  • 自家用車じかようしゃ50だいぶん参拝さんぱい専用せんよう駐車ちゅうしゃじょうがあり、40ふんまで無料むりょう(2014ねん時点じてん)。

その

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周辺しゅうへん情報じょうほう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 資料しりょうによっては、このわらべうたの「天火てんか(てんび)」を「兵火へいか(へいび)」とし、「たたかえさでけた」と解説かいせつしているものがあるが、そのような史実しじつはなく、あやまりである。
  2. ^ あいだめん記法きほう梁間はりま通常つうじょうあいだ前提ぜんていとするため記載きさいされないが、さんじゅうさんあいだどうさんあいだである。
  3. ^ はしらこころあいだ中央ちゅうおう一番いちばんひろく3.95m、つづいてその左右さゆうはしらあいだが3.65m、のこりの32のはしらあいだは3.30m。
  4. ^ ぞうだか久野くのけんへん図説ずせつ仏像ぶつぞう巡礼じゅんれい事典じてん』によれば165.0 - 168.5センチ、『日本にっぽん彫刻ちょうこく基礎きそ資料しりょう集成しゅうせい 鎌倉かまくら時代じだい づくりぞう銘記めいきへん そう目録もくろく』によれば163.7 - 168.5センチ

出典しゅってん

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  1. ^ 後白河天皇ごしらかわてんのう ほうじゅうてらりょう. 宮内庁くないちょう、2018ねん11月16にち閲覧えつらん
  2. ^ はならく一覧いちらんこう解像度かいぞうどばん
  3. ^ 音声おんせい資料しりょうきょう大仏だいぶつさん」わらべうた京都きょうとおにあそび)
  4. ^ 拝観はいかんのご案内あんないさんじゅうさんあいだどうおよびぜん入場にゅうじょうしゃわたされるパンフレット『国宝こくほうさんじゅうさんあいだどう』にある境内けいだい(2022ねん11月)
  5. ^ 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』69(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998)、p.7 - 259 - 7 - 260(筆者ひっしゃ平井ひらい俊行としゆき
  6. ^ 入江いりえ康平やすひら (2007). “競技きょうぎじょうとしてのどう施設しせつかんする研究けんきゅう”. 武道ぶどうがく研究けんきゅう 40 (2): 37-50. 
  7. ^ 観光かんこうスポット・サービス情報じょうほう さんじゅうさんあいだどうとお”. 京都きょうと観光かんこうナビ. 2020ねん3がつ21にち閲覧えつらん
  8. ^ 千手観音せんじゅかんのん、1,001たいが26ねんぶりせいぞろい さんじゅうさんあいだどう朝日新聞あさひしんぶんDIGITAL(2018ねん10がつ4にち)2018ねん10がつ21にち閲覧えつらん
  9. ^ 美術びじゅついんあゆんだはん世紀せいき
  10. ^ 1001たい観音かんのんさま、45ねん修理しゅうり終了しゅうりょう さんじゅうさんあいだどう 朝日新聞あさひしんぶん 2017ねん12月22にち
  11. ^ 風神ふうじん雷神らいじんぞうが80ねんぶりせきえ」産経新聞さんけいしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん8がつ1にち社会しゃかいめん)2018ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  12. ^ 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』69(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998)、p.7 - 262 - 7 - 264(筆者ひっしゃ根立ねだち研介けんすけ
  13. ^ 平成へいせい30 ねん10 がつ31にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい204ごう
  14. ^ 国宝こくほうさんじゅうさんあいだどう』、p.38
  15. ^ 国宝こくほうさんじゅうさんあいだどう』、p.33
  16. ^ 国宝こくほうさんじゅうさんあいだどう』、pp.33, 38 - 40
  17. ^ 国宝こくほうさんじゅうさんあいだどう』、pp.38 - 40
  18. ^ 日本にっぽん彫刻ちょうこく基礎きそ資料しりょう集成しゅうせい 鎌倉かまくら時代じだい づくりぞう銘記めいきへん そう目録もくろく』(参照さんしょう[1]
  19. ^ 倉田くらたぶんさくぞうない納入のうにゅうひん」『日本にっぽん美術びじゅつ』86、至文しぶんどう、1973、pp.76 - 77
  20. ^ 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』69(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998)、p.7 - 274 - 7 - 275(筆者ひっしゃ川瀬かわせゆかりあきら
  21. ^ 田中たなか、2019)、pp.177 - 180
  22. ^ ぜん入場にゅうじょうしゃわたされるパンフレット『国宝こくほうさんじゅうさんあいだどう』にある「国宝こくほう観音かんのんじゅうはちしゅぞう」(2022ねん11月)およびかくぞう説明せつめい看板かんばん
  23. ^ 田中たなか、2019)、pp.134 - 138, 174 - 176
  24. ^ 伊東いとう史朗しろうはちしゅじゅうはちしゅ」『日本にっぽん美術びじゅつ』379、至文しぶんどう、1997
  25. ^ 田中たなか、2019)、pp.174 - 180
  26. ^ 田中たなか、2019)、pp.133, 180 - 185
  27. ^ ぞうめい特色とくしょくは(田中たなか、2019)、pp.138 - 186による。ぞうようについては伊東いとう史朗しろうはちしゅじゅうはちしゅ」による。
  28. ^ a b さんじゅうさんあいだどうない解説かいせつ看板かんばんより。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえやすし塚本つかもと善隆よしたか監修かんしゅう宇佐見うさみ英治えいじ三崎みさきよしいずみちょ古寺ふるでら巡礼じゅんれい京都きょうと14 妙法みょうほういんさんじゅうさんあいだどうあわ交社、1977ねん
  • 竹村たけむら俊則としのり昭和しょうわ京都きょうと名所めいしょ図会ずえ らく東上とうじょう駸々しんしんどう、1980ねん
  • 小川おがわ光三みつぞうさんじゅうさんあいだどうふつたち : 蓮華れんげおういんさんじゅうさんあいだどう妙法みょうほういん門跡もんぜき、1997ねんNCID BA41077065https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I097615911-00 
  • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』69ごう妙法みょうほういんあおれんいん)、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998ねん
  • 梅原うめはらたけし監修かんしゅう菅原すがわらしんうみ・みうらじゅんちょ新版しんぱん古寺ふるでら巡礼じゅんれい京都きょうと18 妙法みょうほういんさんじゅうさんあいだどうあわ交社、2008ねん
  • 国宝こくほうさんじゅうさんあいだどう妙法みょうほういん門跡もんぜき発行はっこう、2014ねん改訂かいていだい7はん)(どうない頒布はんぷ冊子さっし
  • 田中たなか公明こうめい千手観音せんじゅかんのんじゅうはちしゅなぞ春秋しゅんじゅうしゃ、2019ねんISBN 9784393134283NCID BB28033834https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I029509797-00 
辞典じてんるい
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 京都きょうと地名ちめい平凡社へいぼんしゃ
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 京都きょうと角川書店かどかわしょてん
  • 国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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