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寺島てらしまけん

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寺島てらしま けん
てらしま けん
生年月日せいねんがっぴ 1882ねん9月23にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 和歌山わかやまけん西牟婁にしむろぐん田辺たなべまち[1][2]
ぼつ年月日ねんがっぴ (1972-10-30) 1972ねん10月30にち(90さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう
出身しゅっしんこう 海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょう
ぜんしょく 海軍かいぐん軍人ぐんじん
称号しょうごう 海軍かいぐん中将ちゅうじょう
したがえさん
勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
配偶はいぐうしゃ 寺島てらしま悦子えつこ
親族しんぞく 寺島てらしまりょうぎょうちち
尾本おもと知道ともみち義父ぎふ

内閣ないかく 東條とうじょう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1941ねん10月18にち - 1943ねん10月8にち

日本の旗 だい23だい 鉄道てつどう大臣だいじん逓信ていしん大臣だいじん兼任けんにん
内閣ないかく 東條とうじょう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1941ねん10がつ18にち - 1941ねん12月2にち
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寺島てらしま けん(てらしま けん[3]1882ねん明治めいじ15ねん9月23にち - 1972ねん昭和しょうわ47ねん10月30にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん政治せいじ海軍かいぐん中将ちゅうじょう予備よびやくとなったのち、東條とうじょう内閣ないかく逓信ていしん大臣だいじん鉄道てつどう大臣だいじんつとめた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

寺島てらしま[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだい武田たけだ信虎のぶとらつかえ、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう紀州きしゅう徳川とくがわ御付おつき家老がろう安藤あんどう家中いえじゅうであった[4]ちち寺島てらしまりょうぎょう和歌山わかやま県庁けんちょう勤務きんむし、寺島てらしまはそのよんなんである。つま尾本おもと知道ともみち[* 1]よんじょ悦子えつこ[2] [5]

海軍かいぐん軍人ぐんじん[編集へんしゅう]

和歌山わかやま中学ちゅうがくすすんだ寺島てらしまは、中学ちゅうがく先輩せんぱい海軍兵学校かいぐんへいがっこう在籍ざいせきしていた岡本おかもと米次郎よねじろう野村のむら吉三郎きちさぶろう生徒せいとふく姿すがたあこがれ、海軍兵学校かいぐんへいがっこうへの進学しんがくめた[6][7]志願しがんしゃ1374めい[8]ちゅう合格ごうかくしゃは200めい[9]で、中学ちゅうがくよんねん修了しゅうりょう受験じゅけんした寺島てらしま席次せきじは16ばんであった[10]寺島てらしま学年がくねんすすむとともに席次せきじげ、卒業そつぎょう席次せきじは4ばん[11]である。1903ねん明治めいじ36ねん)12月に卒業そつぎょうした海兵かいへい31期生きせい同期生どうきせいには、生涯しょうがいにわたる親友しんゆうとなった長谷川はせがわきよしらがいる[12][13][* 2]

にち戦争せんそう[編集へんしゅう]

海兵かいへい31期生きせい練習れんしゅう艦隊かんたい実務じつむ訓練くんれん開始かいしするが、対立たいりつ激化げきかによって練習れんしゅう艦隊かんたい解散かいさんとなる。にち戦争せんそうにおける寺島てらしまは、連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうふえ謙吉けんきちらが戦死せんししたさい秋山あきやま真之まさゆき補佐ほさするため一時いちじてきに「三笠みかさ乗組のりくみとなった[14]時期じきのぞき、だいいち艦隊かんたいだいいち戦隊せんたい所属しょぞくの「敷島しきしま乗組のりくみとして従軍じゅうぐんし、旅順りょじゅんこう攻撃こうげき黄海こうかい海戦かいせん日本海にほんかい海戦かいせんたたかった。「初瀬はつせ」、「八島やじま」がさわかみなりしたさいは、短艇たんてい指揮しきしゃとして生存せいぞんしゃ救出きゅうしゅつ功績こうせきがある[15]戦後せんご行賞こうしょうくんろくとうたんひかり旭日きょくじつあきら授与じゅよされている。

いち後輩こうはいほり悌吉寺島てらしまだいろくごう潜水せんすいていちょう時代じだい事故じこで、救難きゅうなん作業さぎょうにあたった一人ひとりほり悌吉中尉ちゅういであった[16]りょう軍務ぐんむ局長きょくちょうちゅうふつ武官ぶかんだい艦隊かんたい参謀さんぼうちょうぐんれきおなじくし、大角おおすみ人事じんじでともに予備よびやくとなる。寺島てらしま後任こうにんたる浦賀うらがドック社長しゃちょうでもあった[17]東條とうじょう内閣ないかくうみしょう嶋田しまだ繁太郎しげたろうは、「ほりなどが海軍かいぐん大臣だいじんとして在任ざいにんしていれば・・・」とべている[18]

潜水せんすいてい[編集へんしゅう]

鹿島かしま回航かいこういんとして31首席しゅせきえだばらひゃく合一ごういつとともに英国えいこく出張しゅっちょうし、砲術ほうじゅつつとめる。上司じょうし砲術ほうじゅつちょう山岡やまおか豊一とよかずから信頼しんらいけ、寺島てらしま山岡やまおか夫人ふじんいもうと悦子えつこ結婚けっこんすることとなる[19]日本にっぽん帰還きかん潜水せんすいてい導入どうにゅう功労こうろうしゃである井出いで謙治けんじすすめで、草創そうそう潜水せんすいていたい勤務きんむする。「だいろくごう潜水せんすいてい」のていちょうなどをつとめるが、はん潜航せんこう海水かいすい流入りゅうにゅうによる事故じこい、機関きかん兵曹へいそう機転きてん浮上ふじょう成功せいこうしている。寺島てらしま事故じこ原因げんいんとなったベンチレーターの改良かいりょうはかり、またベンチレーターのバルブに配員はいいんするなどの事故じこ防止ぼうしさくをとったが、「だいろくごう潜水せんすいてい」では後任こうにんしゃ佐久間さくまつとむていちょう時代じだい殉職じゅんしょく事故じこきた。寺島てらしま佐久間さくまいたみつつ、ベンチレーターへ配員はいいんしていなかったことなどを指摘してきしている[20]

航海こうかい専攻せんこう士官しかん海軍かいぐんだい学校がっこう[編集へんしゅう]

海軍かいぐんだい学校がっこう乙種おつしゅどう専修せんしゅう[* 3]航海こうかい専攻せんこう士官しかんとなり「対馬つしま」、「千歳ちとせ」で航海こうかいちょうを、だいさん艦隊かんたい参謀さんぼう歴任れきにんした。海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅには海兵かいへい31だいいち選抜せんばつ合格ごうかくし、長谷川はせがわ加藤かとう隆義たかよし米内よない光政みつまさらが同期どうきである[21]寺島てらしま自身じしんげんによればうみ大時代おおじだい成績せいせきすぐれていたわけではない。寺島てらしま伝記でんきはその理由りゆう教官きょうかん迎合げいごうしなかったことをげている[22][* 4]在学ざいがくちゅう少佐しょうさ進級しんきゅうし、卒業そつぎょう軍令ぐんれい参謀さんぼうされる。

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんではだい班長はんちょう佐藤さとう鉄太郎てつたろう指示しじけて軍令ぐんれい在籍ざいせきのままだいいちみなみ枝隊したい山屋やまや他人たにん司令しれいかん参謀さんぼうとして出征しゅっせいした。だいいちみなみ枝隊したいどく東洋とうよう艦隊かんたい捜索そうさくのため南洋なんよう方面ほうめん行動こうどうしたが、かいてきはしていない。いち大戦たいせんでは、寺島てらしま中学ちゅうがく同窓生どうそうせいで、海兵かいへい同期どうき首席しゅせき[10]入校にゅうこうしゃであった谷井たにい徳之助とくのすけ少佐しょうさ戦死せんししている。1916ねん大正たいしょう5ねん)2がつふつ駐在ちゅうざいめいじられ、いで武官ぶかん補佐ほさかんとなる。寺島てらしま仏語ふつご習得しゅうとくつとめつつ、ふつ海軍かいぐん潜水せんすいかん調査ちょうさ報告ほうこくおこなっている[23]日本にっぽんへの帰還きかんべい経由けいゆで、駐米ちゅうべい武官ぶかん野村のむら吉三郎きちさぶろうどう補佐ほさかん長谷川はせがわきよし再会さいかいした。帰国きこく平戸ひらど副長ふくちょうとして海上かいじょう勤務きんむにつく。副長ふくちょう艦長かんちょう補佐ほさする役割やくわりで、かん実務じつむ仕切しきる。寺島てらしま在任ざいにんの「平戸ひらど」は好成績こうせいせきおさめ、所属しょぞくするだい艦隊かんたい山屋やまや他人たにん司令しれい長官ちょうかん)から褒状ほうじょうけた[24]

皇太子こうたいし欧州おうしゅう訪問ほうもん[編集へんしゅう]

昭和しょうわ天皇てんのう皇太子こうたいし時代じだいに、欧州おうしゅう訪問ほうもんおこなっているが、その御召おめしかんとして「香取かとり」、供奉ぐぶかんには「鹿島かしま」がえらばれる。寺島てらしまはこの2かんからなる部隊ぶたいだいさん艦隊かんたい)の先任せんにん参謀さんぼう選抜せんばつされた。部隊ぶたいトップは国際こくさい経験けいけん小栗おぐり孝三郎こうざぶろう司令しれい長官ちょうかん幹部かんぶ長距離ちょうきょり航海こうかいであることを考慮こうりょして寺島てらしまのほか田口たぐち久盛ひさもり参謀さんぼうちょう、「香取かとり艦長かんちょうかん憲和のりかず航海こうかい専攻せんこう士官しかんえらばれている[25][* 5]先任せんにん参謀さんぼうたる寺島てらしま計画けいかく立案りつあんにあたり、ほぼ半年はんとしにわたったこの訪問ほうもん成功せいこううらわった。寺島てらしま海軍かいぐんだい学校がっこう教官きょうかんいちねんつとめ、1922ねん大正たいしょう11ねん)12月に大佐たいさ進級しんきゅうし、ちゅうふつ武官ぶかんされる。やく2ねん在任ざいにんちゅうヴェルサイユ平和へいわ条約じょうやく実施じっし委員いいんつとめ、北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおう事故じこ処理しょりにもたずさわった[26]

艦隊かんたい参謀さんぼうちょう[編集へんしゅう]

1924ねん大正たいしょう13ねん)12月、海軍かいぐんしょう副官ふっかんされ、やくねん在任ざいにんするが、この時期じき活動かつどうについては後述こうじゅつする。「山城やましろ艦長かんちょう1927ねん昭和しょうわ2ねん)12月に少将しょうしょう昇進しょうしんだい艦隊かんたい参謀さんぼうちょういちねん翌年よくねん12がつからいちねんだいいち艦隊かんたいけん連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうつとめる。連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう激務げきむであることから十分じゅうぶん体力たいりょくち、さらに作戦さくせん戦闘せんとう指揮しき能力のうりょくすぐれた人物じんぶつ補職ほしょくされる職位しょくいである[27]だい艦隊かんたい時代じだい吉川よしかわ安平あびら大谷おおや幸四郎こうしろう連合れんごう艦隊かんたい時代じだい谷口たにぐちしょうしんかく司令しれい長官ちょうかん補佐ほさし、角田つのださとしりょう司令しれいでも寺島てらしま部下ぶかである[28]連合れんごう艦隊かんたい時代じだいには訓練くんれんちゅうだいいち航空こうくう戦隊せんたい高橋たかはし三吉さんきち司令しれいかん)の「赤城あかぎ」(山本やまもと五十六いそろく艦長かんちょう)、「おおとりしょう」(はら五郎ごろう艦長かんちょう)に所属しょぞくする航空機こうくうきが、天候てんこう急変きゅうへんのため帰還きかんできず6めい殉職じゅんしょくする事故じこきた。寺島てらしま進退伺しんたいうかがいを提出ていしゅつしたが、谷口たにぐち長官ちょうかん却下きゃっかした[29]。なお谷口たにぐち寺島てらしま司令しれいを、当時とうじ連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん陸奥みちのく」の艦長かんちょうであった吉田よしだよしわれ批判ひはんしている。その内容ないよう参謀さんぼうちょう参謀さんぼうをもっと指導しどうしなければならないという趣旨しゅしである[30]。ただし「陸奥みちのく砲術ほうじゅつちょう寺島てらしま岩下いわした保太郎やすたろう以下いか参謀さんぼうをよく統率とうそつし、参謀さんぼうたちは寺島てらしま敬服けいふくしていたとべている[31]

海軍かいぐんしょう[編集へんしゅう]

先任せんにん副官ふっかん

寺島てらしま海軍かいぐん中央ちゅうおうでの履歴りれき軍令ぐんれい系統けいとうであったが、1924ねん大正たいしょう13ねん)12月に海軍かいぐんしょう先任せんにん副官ふっかんされる。この配置はいちうみしょう決裁けっさい書類しょるいすべてに関与かんよする軍政ぐんせいじょう重要じゅうよう配置はいちであった[32]寺島てらしま在任ざいにん国会こっかい憲法けんぽう12じょう問題もんだいとなった。花井はない卓蔵たくぞう貴族きぞくいん議員ぎいん天皇てんのう陸海りくかいぐん編成へんせい常備じょうびへいがくてい編成へんせい大権たいけん軍政ぐんせい大権たいけん) にたいする輔弼ほひつ責任せきにんしゃだれであるかを質問しつもんし、陸海りくかいぐん答弁とうべんしょ作成さくせいすることとなる。12じょう11じょう 天皇てんのう陸海りくかいぐん統帥とうすい統帥とうすい大権たいけん) とみつ関係かんけいにあり、また実際じっさい問題もんだいとして軍政ぐんせい事項じこう軍令ぐんれい事項じこうはその区分くぶん明確めいかくにすることがむずかしい場合ばあいもあった。学者がくしゃあいだでも見解けんかいかれており[33][34]海軍かいぐんうみしょうが12じょう輔弼ほひつしゃで11じょうにも責任せきにんゆうするというかんがかたであったが、陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうが11じょう輔弼ほひつしゃで12じょうにも責任せきにんゆうするという立場たちばであった[33][34][35]寺島てらしま答弁とうべんしょ起草きそう委員いいんえらばれ、陸軍りくぐん杉山すぎやまはじめ陸軍りくぐんしょう軍事ぐんじ課長かちょう)と起案きあんにあたるが、そのさい寺島てらしま財部たからべあやうみしょういのち井上いのうえりょうかおる東郷とうごう平八郎へいはちろうりょう元帥げんすい意向いこう確認かくにんしている。東郷とうごう財部たからべかいしょうの12じょう輔弼ほひつしゃうみしょうであるとのかんがえに賛成さんせいし、井上いのうえはそもそも西郷さいごう従道つぐみちうみしょう文官ぶんかんとして兵力へいりょくりょう決定けっていし、軍令ぐんれい意向いこうれられなかったことが原因げんいん軍部ぐんぶ大臣だいじん武官ぶかんへと制度せいど変更へんこうがなされたてん指摘してきし、将来しょうらいてき文官ぶんかん大臣だいじん誕生たんじょうした場合ばあい輔弼ほひつについて懸念けねんしめした[36][* 6]結局けっきょく鈴木すずき貫太郎かんたろう海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう加藤かとう寛治かんじ横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんらをまじえた協議きょうぎ、さらに陸軍りくぐんとの協議きょうぎで「憲法けんぽうだい12じょう大権たいけん憲法けんぽうじょう輔弼ほひつ責任せきにん陸海りくかいぐん大臣だいじんにあり、ただ兵力へいりょくかんしては参謀さんぼう総長そうちょうおよ軍令ぐんれい部長ぶちょう天皇てんのうを輔翼す」との答弁とうべんしょ決定けっていされた。

教育きょういく局長きょくちょう

1930ねん昭和しょうわ5ねん)6がつ教育きょういく局長きょくちょう就任しゅうにんする。この職位しょくい海軍かいぐん教育きょういく訓練くんれん責任せきにんしゃである。寺島てらしま在任ざいにんちゅうにファッショてき傾向けいこうられるようになった青年せいねん士官しかん教育きょういく改善かいぜんや、へい学校がっこうでのダルトン・プラン教育きょういくから従前じゅうぜん手法しゅほうへの復帰ふっきはかっている[37]。そのほか海軍かいぐん練習れんしゅう航空こうくうたい教育きょういく要綱ようこう制定せいていトルコ海軍かいぐんからの留学生りゅうがくせいれが実現じつげんした。

軍令ぐんれい編成へんせい改定かいてい[編集へんしゅう]

軍令ぐんれいだい課長かちょう時代じだいから軍令ぐんれい権限けんげん拡大かくだい目指めざした高橋たかはし三吉さんきち寺島てらしまにとって高橋たかはしへい学校がっこう時代じだい最上級さいじょうきゅうせいで、ともに「敷島しきしま乗組のりくみとして日本海にほんかい海戦かいせんたたかった戦友せんゆうでもあった。高橋たかはしはのちに藤田ふじた尚徳なおのりかたらい、米内よない光政みつまさ現役げんえきのこすため、みずか予備よびやく編入へんにゅうもう[38]

1932ねん昭和しょうわ7ねん)5がつ寺島てらしま教育きょういく局長きょくちょうけん軍務ぐんむ局長きょくちょうとして海軍かいぐん軍政ぐんせい中枢ちゅうすうあずかることとなった(6がつより軍務ぐんむ局長きょくちょう専任せんにん)。寺島てらしま軍務ぐんむ局長きょくちょう時代じだいいち事件じけん処理しょりおこなわれたほか軍令ぐんれいから海軍かいぐんしょうたい軍令ぐんれい条令じょうれいおよしょう互渉規定きてい改定かいていあん商議しょうぎがなされる。この商議しょうぎ唐突とうとつなものではなく、軍令ぐんれい権限けんげん拡大かくだい目指めざしたうごきは、加藤かとう友三郎ともさぶろう村上むらかみかくいちうみしょう在任ざいにんからみられる。しかし島村しまむら速雄はやお部長ぶちょう佐藤さとう鉄太郎てつたろう次長じちょう時代じだい山下やました源太郎げんたろう部長ぶちょう加藤かとう寛治かんじ次長じちょう堀内ほりうち三郎さぶろう次長じちょう時代じだい[* 7]こころみは実現じつげんしていなかった[39]。なお軍令ぐんれい権限けんげん拡大かくだい要求ようきゅうした理由りゆう軍部ぐんぶ大臣だいじん文官ぶんかん就任しゅうにんした場合ばあいへの懸念けねんがあった[40]昭和しょうわになると1930ねん昭和しょうわ5ねん)のロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎさいして統帥とうすいけん干犯かんぱん問題もんだいき、軍令ぐんれい憲法けんぽう11じょう、12じょうにつき陸軍りくぐん同様どうよう公式こうしき見解けんかいをまとめ、内閣ないかく法制ほうせいきょくの11じょう解釈かいしゃく統帥とうすいけんづけては国務大臣こくむだいじん輔弼ほひつせめにんぜず ただし・・・国務こくむかんする範囲はんいおいては 国務大臣こくむだいじんこれ参画さんかく輔弼ほひつせめにんず」にたいし、ただ以下いか削除さくじょもとめた[41]海軍かいぐんしょう反対はんたいし、日本にっぽん国家こっかとして結論けつろんせないままであった[42]海軍かいぐん軍事ぐんじ参議さんぎかん会議かいぎで、兵力へいりょくりょううみしょう軍令ぐんれい部長ぶちょうの「意見いけん一致いっちしあるべきものとす」と決議けつぎする。ロンドン会議かいぎ人事じんじめんでは東郷とうごう推薦すいせんで、軍令ぐんれいりのかんがえをっていた伏見ふしみみやひろしきょうおう軍事ぐんじ参議さんぎかん会議かいぎ[* 8]決議けつぎ海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう就任しゅうにんする[* 9]前任ぜんにん海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう谷口たにぐちしょうしんはロンドン会議かいぎ辞任じにんした加藤かとう寛治かんじ後任こうにんしゃで、退任たいにん抵抗ていこうしめしている[43]

こうして皇族こうぞくをトップとした軍令ぐんれいはまず戦時せんじ大本営だいほんえい編成へんせい戦時せんじ大本営だいほんえい勤務きんむれい改定かいてい成功せいこうする。これは参謀さんぼう本部ほんぶくらべてちいさかった軍令ぐんれい戦時せんじにおける権限けんげん拡大かくだいしたもので、松田まつだ千秋ちあき軍令ぐんれいがわ主務しゅむしゃである。しかしこの改定かいてい平時へいじには影響えいきょうせず限定げんていてきなものであった[44][45]つづ軍令ぐんれい岡田おかだ為次ためじ主務しゅむしゃとする改定かいていあん作成さくせいし、軍令ぐんれい編成へんせい強化きょうかはかった。寺島てらしま軍務ぐんむ局長きょくちょう海軍かいぐんしょうがわ抵抗ていこうしたが、高橋たかはし三吉さんきち次長じちょう岡田おかだうみしょう会談かいだん喧嘩けんかわかれにちか状態じょうたいで、岡田おかだの「たというしるし」のサインをもって海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう権限けんげん発令はつれいされた。海軍かいぐんしょう増員ぞういんされた定員ていいん配員はいいんおこなわずに抵抗ていこうつづけたが、高橋たかはし伏見ふしみみや阿武あぶきよし人事じんじ局長きょくちょうだんみ、新設しんせつ軍令ぐんれいだいよん班長はんちょう配員はいいん実施じっしされた[46]

軍令ぐんれい条例じょうれいおよしょう互渉規定きてい改定かいてい[編集へんしゅう]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ伏見ふしみみや海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう大角おおすみ岑生みねおうみしょう閑院みや参謀さんぼう総長そうちょう荒木あらき貞夫さだお陸相りくしょうよんしゃは「兵力へいりょくりょう決定けっていに就て」という文書ぶんしょ署名しょめいおこなう。この文書ぶんしょには兵力へいりょくりょうは「参謀さんぼう総長そうちょう軍令ぐんれい部長ぶちょう立案りつあんする」としるされ、加藤かとう寛治かんじから枢密すうみつ顧問こもんかん金子かねこ堅太郎けんたろうにも送付そうふされている[47]。この内容ないよう上述じょうじゅつした憲法けんぽう12じょうたいする海軍かいぐん従来じゅうらいかんがかたくつがえし、参謀さんぼう本部ほんぶ同様どうよう立場たちばつものである。同年どうねん3がつ軍令ぐんれい海軍かいぐんしょう軍令ぐんれい条令じょうれいおよしょう互渉規定きてい改定かいてい提案ていあんした。当時とうじしょう主要しゅよう幹部かんぶ以下いかのとおりで、海軍かいぐんしょう寺島てらしま井上いのうえ条約じょうやく軍令ぐんれい伏見ふしみみや高橋たかはし南雲なぐも艦隊かんたい分類ぶんるいされる[48]

海軍かいぐんしょう
軍令ぐんれい

改定かいていあん多岐たきにわたるが、重要じゅうようてん海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょうの「国防こくぼう用兵ようへいかんすることを参画さんかく親裁しんさいのちこれ海軍かいぐん大臣だいじんうつす」との規定きていを「国防こくぼう用兵ようへい計画けいかくてのひらようへいこと伝達でんたつす」に変更へんこう、また「用兵ようへい」の範囲はんいしょう互渉規定きていさだめることとし、その互渉規定きていでも海軍かいぐんしょうから軍令ぐんれい権限けんげんうつすことにあった[50]。なおこの提案ていあん軍令ぐんれい起案きあんけんすらないものである[51]改定かいていあん軍務ぐんむ局員きょくいん河野こうのせんまんしろまれ、上司じょうしだいいち課長かちょう井上いのうえ成美まさみみずか処理しょりにあたり、南雲なぐも忠一ただかずとの交渉こうしょう改定かいていあんみとめなかった[52]。この井上いのうえ態度たいど寺島てらしま藤田ふじた両人りょうにん了解りょうかいうえである[53]井上いのうえ反対はんたい理由りゆうおおきく3てんかれており、クラスかいかぎりとしてあらわした「おも」から引用いんようする。

  • いち 海軍かいぐん大臣だいじん統帥とうすい一部いちぶかんすることをてのひらり、それにかんする輔弼ほひつ憲法けんぽうじょうの)の責任せきにんっておる。これぐん特殊とくしゅせいもとづく軍部ぐんぶ大臣だいじん特有とくゆうのもので、大臣だいじん国務大臣こくむだいじんとして責任せきにんたすため当然とうぜんのものである。
  • 軍部ぐんぶ大臣だいじん掌理しょうりする統帥とうすいかんする国務こくむは、きわめてふか専門せんもん知識ちしき経験けいけんとを必要ひつようとする。したがって軍部ぐんぶ大臣だいじん是非ぜひども軍人ぐんじんでなければならない。なおわれ々はわれ々の尊敬そんけいする先輩せんぱい大臣だいじんいただいてこそ職務しょくむ張合はりあいもあるが、海軍かいぐんことなどわか道理どうりもない政党せいとうじんなどに大臣だいじんきたられて、よろこんでそのしたねるかっ!!というのは理屈りくつぬきのわれ々のつよ感情かんじょうである。軍令ぐんれい要求ようきゅうごと大臣だいじん権限けんげん大幅おおはば縮小しゅくしょうすることは、文官ぶんかん大臣だいじんろん有力ゆうりょく武器ぶきあたえることになる。
  • さん 軍令ぐんれい部長ぶちょう大臣だいじん部下ぶかではない。また憲法けんぽうじょう機関きかんでもないから、憲法けんぽうじょう責任せきにんをとることがない。(結構けっこう身分みぶんで)ほううえでの責任せきにんをとらない。そして大臣だいじん監督かんとくけんおよばないひと非常ひじょうおおきなちからたせることは、憲法けんぽう政治せいじ原則げんそくはんするし、また危険きけんである。

このだいさんこうは、井上いのうえ特有とくゆうのものではなく、海軍かいぐんない基本きほんてき存在そんざいしていたかんがかたであった[54]。6月、交渉こうしょう寺島てらしま嶋田しまだうつるが、寺島てらしま強硬きょうこう態度たいど反対はんたいし、改定かいてい項目こうもくさん同意どういしたのみで、のこぜん項目こうもく拒否きょひした[55][* 10]。なお寺島てらしまげんによれば、伏見ふしみみやたいし「制度せいど間違まちがいのない責任せきにん体制たいせいたねばならぬ」とべ、伏見ふしみみや不興ふきょうっている[56]事態じたい膠着こうちゃくし、交渉こうしょう藤田ふじた次官じかん高橋たかはし次長じちょう大角おおすみうみしょう高橋たかはし部長ぶちょう代理だいり段階だんかいうつしても解決かいけつにはいたらず、最後さいごは7がつ大角おおずみかいしょう伏見ふしみみや海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう会談かいだん基本きほんてき妥結だけつしている[57]。こうして海軍かいぐん伝統でんとうであった海軍かいぐんしょう軍令ぐんれいたいする優位ゆういくずれた。この妥結だけつたいうみしょう経験けいけんしゃ斎藤さいとうみのる首相しゅしょう海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう経験けいけんしゃ鈴木すずき貫太郎かんたろう侍従じじゅうちょう不満ふまん表明ひょうめいした[58]大角おおすみうみしょう上奏じょうそうけた昭和しょうわ天皇てんのう海軍かいぐんしょう所掌しょしょう事項じこうへの軍令ぐんれい過度かど介入かいにゅう懸念けねんし、大角おおすみからその回避かいひができるかを書類しょるい提出ていしゅつさせている[59][60][* 11]

同期生の長谷川清は寺島の離現役について「物事は全体をよく見極めることが大切であって、改革は当面の仕事に対する便宜だけで決定すべきではない。人事も同様である」と語った[61]。 同じく同期生で寺島の後任の練習艦隊司令官となった松下元は、その栄転を喜ばず「クラスの逸材寺島が急に罷免されたことについて、何だか普通でないものを感じます」と語った[62]。
同期生どうきせい長谷川はせがわきよし寺島てらしまはなれ現役げんえきについて「物事ものごと全体ぜんたいをよく見極みきわめることが大切たいせつであって、改革かいかく当面とうめん仕事しごとたいする便宜べんぎだけで決定けっていすべきではない。人事じんじ同様どうようである」とかたった[61]
おなじく同期生どうきせい寺島てらしま後任こうにん練習れんしゅう艦隊かんたい司令しれいかんとなった松下まつしたはじめは、その栄転えいてんよろこばず「クラスの逸材いつざい寺島てらしまきゅう罷免ひめんされたことについて、なんだか普通ふつうでないものをかんじます」とかたった[62]

寺島てらしまはこの妥結だけつはら田熊たぐまつよしたいし、加藤かとう寛治かんじ金子かねこ堅太郎けんたろう大角おおすみ伏見ふしみみやうごきなどの裏面りめん事情じじょうかたり、改定かいていめようとしたむねかたっている[63]。しかし寺島てらしま最後さいごまで抵抗ていこうつづけた井上いのうえ説得せっとくはかってもいる。寺島てらしま言葉ことばは「今度こんどある事情じじょうにより、この軍令ぐんれい最終さいしゅうあんにより改正かいせい実行じっこうしなければならないことになった。こんなバカな軍令ぐんれいあんによって制度せいど改正かいせいをやったという非難ひなん局長きょくちょうみずかけるから、げてこのあん同意どういしてくれないか」というものであった[64][65]井上いのうえ直属ちょくぞく上司じょうしたる寺島てらしま言葉ことばにも妥協だきょうしなかった[66][* 12]

9月、寺島てらしま練習れんしゅう艦隊かんたい司令しれいかん転出てんしゅつした。この職位しょくい海軍兵学校かいぐんへいがっこうなどを卒業そつぎょうした少尉しょうい候補こうほせい実務じつむ訓練くんれんにあたる顕職けんしょくである。しかし翌月よくげつ軍令ぐんれい出仕しゅっしめいじられ、翌年よくねん3がつ、52さい予備よびやく編入へんにゅうされた。このさい寺島てらしまは「男子だんし由来ゆらいなおきよししん 毀誉きよ褒貶ほうへんにんじんひょう 請見もうなついんかみなり 霽月せいげつ光風こうふう天地あまちきよし」という漢詩かんしのこした。寺島てらしまかんする人事じんじ満州まんしゅう事変じへんさいし、日米にちべい戦争せんそうまね危険きけん考慮こうりょして陸軍りくぐんうごきに反対はんたいした谷口たにぐちしょうしん[67][* 13]、ロンドン会議かいぎにおいて軍縮ぐんしゅく条約じょうやく賛成さんせいであった山梨やまなし勝之かつゆきすすむ左近さこん司政しせいさんほり悌吉条約じょうやく将官しょうかん予備よびやく編入へんにゅうおなうごきであり、いわゆる大角おおすみ人事じんじ一環いっかんである[68]寺島てらしまはなれ現役げんえき国会こっかいでも問題もんだいになり[69]一連いちれん人事じんじ不審ふしんいた中澤なかざわたすくは、山梨やまなし勝之かつゆきしん事情じじょういている。山梨やまなし大角おおすみうみしょうたいする伏見ふしみみや東郷とうごう平八郎へいはちろう圧力あつりょくげ、「東郷とうごうさんの晩節ばんせつのためにしむ」とかたった[70]

実業じつぎょう政治せいじ[編集へんしゅう]

このとしの11月、 山下やました亀三郎かめさぶろう[* 14]意向いこう浦賀うらがドック社長しゃちょうむかえられた。就任しゅうにんさい寺島てらしま伏見ふしみみや挨拶あいさつおこなっている。浦賀うらがドックは造船ぞうせんしゅたる業務ぎょうむとする会社かいしゃで、寺島てらしま社長しゃちょうの7年間ねんかん駆逐くちくかん青函せいかん連絡れんらくせんなど62せき建造けんぞうした[71]。また20ミリ機銃きじゅう製造せいぞうおこなうため富岡とみおか兵器へいき製作所せいさくしょ創設そうせつした。同社どうしゃだい日本にっぽん兵器へいき発展はってんし、寺島てらしま社長しゃちょう兼務けんむしている。この20ミリ機銃きじゅうれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうにも搭載とうさいされ、威力いりょく発揮はっきした。なお永野ながの修身しゅうしんうみしょうによる米内よない光政みつまさへの次期じきうみしょう就任しゅうにん打診だしんおこなってもいる[72]1941ねん昭和しょうわ16ねん)10がつ7にち東條とうじょう英機ひでき首班しゅはんとする東條とうじょう内閣ないかく成立せいりつする。東條とうじょうぜんうみしょう及川おいかわ古志こしろう逓信ていしん大臣だいじん鉄道てつどう大臣だいじん兼任けんにんする人物じんぶつ推挙すいきょもとめ、海軍かいぐん寺島てらしま推薦すいせんした[73]寺島てらしま東條とうじょう面会めんかいしたさい、避戦といわれた自分じぶん不適任ふてきにんという趣旨しゅしべたが、東條とうじょう説得せっとくけた。寺島てらしま山下やました亀三郎かめさぶろう了解りょうかいのうえで就任しゅうにん受諾じゅだくする。鉄道てつどう大臣だいじんはこのとしの12月まで、逓信ていしん大臣だいじん1943ねん昭和しょうわ18ねん)10がつまで在任ざいにんしている。逓信ていしん大臣だいじんからの離任りにん鉄道てつどうしょう逓信ていしんしょう合併がっぺいによる運輸うんゆ通信つうしんしょう発足ほっそくともなうものである[74]戦後せんご連合れんごうこくAきゅう戦犯せんぱん指名しめいにより逮捕たいほされたが起訴きそはされず、1948ねん昭和しょうわ23ねん)に釈放しゃくほうされた。このあいだ公職こうしょく追放ついほうとなり[75]1952ねん昭和しょうわ27ねん講和こうわ発効はっこうとともに追放ついほう解除かいじょとなった。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

寺島てらしまあこがれの先輩せんぱいであった野村のむら吉三郎きちさぶろう
はつ閣議かくぎのぞ寺島てらしま
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん)5がつ10日とおか - 名古屋なごや造船ぞうせん社長しゃちょう
    • 10月18にち - 逓信ていしん大臣だいじんけん鉄道てつどう大臣だいじん
    • 12月2にち - めん鉄道てつどう大臣だいじん
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん)10がつ8にち - みことのりせん貴族きぞくいん議員ぎいん[77]
    • 10がつ10日とおか - 逓信ていしん大臣だいじん辞任じにん
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつ11にち連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざいじん逮捕たいほしゃ指名しめい
    • 12月3にち - 貴族きぞくいん議員ぎいん辞任じにん[78]
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん)12月24にち - 釈放しゃくほう
  • 1951ねん昭和しょうわ26ねん)9がつ - 浦賀うらがドック顧問こもん日平ひびら産業さんぎょう相談役そうだんやく
  • 1952ねん昭和しょうわ27ねん)11月 – みず交会顧問こもん
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん)10がつ10日とおか - 日本にっぽんきょうとも連盟れんめい協力きょうりょく顧問こもん
  • 1972ねん昭和しょうわ47ねん)10がつ30にち - ぼつ 墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん

栄典えいてん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ にちしん戦争せんそう連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん松島まつしま艦長かんちょうとしてたたかった海軍かいぐん中将ちゅうじょう(『陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 海軍かいぐんへん』)。
  2. ^ りょうはおたがいの葬儀そうぎ委員いいんちょうつとめる約束やくそくわしており、長谷川はせがわぼっしたさい寺島てらしまはその約束やくそくたした。
  3. ^ 航海こうかい専攻せんこうする士官しかんよう専門せんもん課程かてい
  4. ^ この時期じきうみだいについては不明ふめいであるが、うみだい好成績こうせいせきるには教官きょうかんさからうことは不利ふりであった(吉田よしだ俊雄としお海軍かいぐん参謀さんぼう』)。うみだい首脳しゅのう機嫌きげんそこねたため席次せきじげられたものがいたことは、教官きょうかん経験けいけんしゃ高木たかぎそうきち自身じしん体験たいけんとしてきしている(『自伝じでんてき日本にっぽん海軍かいぐん始末しまつ』)。
  5. ^ 部隊ぶたい人員じんいん人選じんせん加藤かとう友三郎ともさぶろううみしょうおこなった。なお「鹿島かしま艦長かんちょう小山こやまたけし砲術ほうじゅつ出身しゅっしんしゃ、「香取かとり航海こうかいちょうゆき勝美かつみうみだい専修せんしゅう学生がくせい首席しゅせき卒業生そつぎょうせいである。参謀さんぼうには住山すみやま徳太郎とくたろう阿部あべ弘毅こうき宇垣うがきかんなんじもいた。
  6. ^ 寺島てらしま加藤かとう友三郎ともさぶろう財部たからべ軍部ぐんぶ大臣だいじん武官ぶかん適当てきとうとのかんがかた賛成さんせいであった。人事じんじけんゆうする大臣だいじん武官ぶかんでなければ、人材じんざい評価ひょうかができないとかんがえていたためである。
  7. ^ 加藤かとう寛治かんじ末次すえつぐ信正のぶまさだいいち班長はんちょう作戦さくせん部長ぶちょう)は改正かいせい実現じつげんむずかしいとべていた。加藤かとう友三郎ともさぶろううみしょう佐藤さとう次長じちょうたい在任ざいにん4かげつ転任てんにん処置しょちをとった。
  8. ^ 岡田おかだ啓介けいすけ加藤かとう寛治かんじ安保あぼきよししゅ山本やまもと英輔えいすけよんめい岡田おかだ伏見ふしみみやきずをつけないようけるということで賛成さんせいしたとかたっている。
  9. ^ 伏見ふしみみや海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう就任しゅうにん陸軍りくぐん閑院みやじん親王しんのう参謀さんぼう総長そうちょう対抗たいこうする意味いみがあるとされるが、伏見ふしみみや自身じしん否定ひていしている。なお元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもちは、皇族こうぞくをトップにえることに憂慮ゆうりょしめしていた。
  10. ^ 南雲なぐも交渉こうしょう態度たいど脅迫きょうはくつたえられるほど強硬きょうこうであったが、嶋田しまだ繁太郎しげたろう場合ばあい穏和おんわなものであった。井上いのうえ嶋田しまだについて「理屈りくつがわかった」とかたっている。
  11. ^ 金沢かなざわ正夫まさおは、この書類しょるい作成さくせいにあたった当時とうじ軍令ぐんれいだいいち班長はんちょう直属ちょくぞく部員ぶいんである。書類しょるい提出ていしゅつめいじられた大角おおすみうみしょう鈴木すずき貫太郎かんたろう侍従じじゅうちょうはない、その大角おおすみ意向いこう確認かくにんしつつ作成さくせいした。この証言しょうげんをした当時とうじうみしょう秘書官ひしょかんまきあきらは、大角おおすみ随行ずいこうしこの居合いあわせていた。なお『井上いのうえ成美まさみ』と『金沢かなざわ正夫まさおでん』では、作成さくせいした書類しょるい受領じゅりょうことなる。
  12. ^ 伏見ふしみみや井上いのうえ姿勢しせいり、ポストに配慮はいりょするよう指示しじしている。二・二六事件ににろくじけん井上いのうえ横須賀よこすか鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょう麾下きか艦船かんせん東京とうきょうわん急行きゅうこうさせようとしたが、軍令ぐんれいによってめられた。この改正かいせいによって海軍かいぐんしょうから軍令ぐんれい警備けいび派兵はへい権限けんげん委譲いじょうされていたためである。
  13. ^ 艦隊かんたい影響えいきょうけた東郷とうごう平八郎へいはちろう谷口たにぐち姿勢しせいにあきたらず、大角おおすみらをまえ谷口たにぐち面罵めんばした(『歴史れきしのなかの日本にっぽん海軍かいぐん』105ぺーじ)。だいさん近衛このえないかくうみしょうであった及川おいかわ古志こしろうは、海軍かいぐんたたかえないと明言めいげんできなかった理由りゆうにこの出来事できごとげている。
  14. ^ 山下やました加藤かとう寛治かんじ友人ゆうじん関係かんけいにあった。
  15. ^ 寺島てらしまけんでん』では6がつ15にち
出典しゅってん
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  2. ^ a b 大衆たいしゅう人事じんじろく 東京とうきょうへん』(だい13はん)「寺島てらしまけん
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  4. ^ 寺島てらしまけんでん』9ぺーじ
  5. ^ 寺島てらしまけんでん』10ぺーじ
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  7. ^ 寺島てらしまけんでん』273ぺーじ
  8. ^ 寺島てらしまけんでん』ではやく2500めい
  9. ^ 海軍兵学校かいぐんへいがっこう物語ものがたり』214ぺーじ
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  12. ^ 寺島てらしまけんでん』19ぺーじ
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  14. ^ 寺島てらしまけんでん』39ぺーじ
  15. ^ 寺島てらしまけんでん』34ぺーじ
  16. ^ 寺島てらしまけんでん』67ぺーじ
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  19. ^ 寺島てらしまけんでん』65-66ぺーじ
  20. ^ 寺島てらしまけんでん』68ぺーじ
  21. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 海軍かいぐんへん巻末かんまつ附録ふろく
  22. ^ 寺島てらしまけんでん』74ぺーじ
  23. ^ 寺島てらしまけんでん』82ぺーじ
  24. ^ 寺島てらしまけんでん』83ぺーじ
  25. ^ 寺島てらしまけんでん』85ぺーじ
  26. ^ 寺島てらしまけんでん』105ぺーじ 
  27. ^ 千早ちはや正隆まさたか日本にっぽん海軍かいぐんおご症候群しょうこうぐんうえ)』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)、134ぺーじ
  28. ^ 寺島てらしまけんでん』113-115ぺーじ
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  37. ^ 寺島てらしまけんでん』119ぺーじ
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  41. ^ 歴史れきしのなかの日本にっぽん海軍かいぐん』54-55ぺーじ
  42. ^ 歴史れきしのなかの日本にっぽん海軍かいぐん』55ぺーじ
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  44. ^ 歴史れきしのなかの日本にっぽん海軍かいぐん』61ぺーじ
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  46. ^ 歴史れきしのなかの日本にっぽん海軍かいぐん』61-63ぺーじ
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  78. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、53ぺーじ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • はたいく編著へんちょ日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん』(だい2)東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん 
  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい井上いのうえ成美まさみ』、1987ねん
  • 寺島てらしまけん伝記でんき刊行かんこうかい編集へんしゅう代表だいひょう寺崎てらさき隆治りゅうじ)『寺島てらしまけんでん』、1973ねん
  • 長谷川はせがわきよし伝記でんき刊行かんこうかい会長かいちょう寺島てらしまけん)『長谷川はせがわきよしでん』、1972ねん
  • 池田いけだきよし日本にっぽん海軍かいぐんした)』朝日あさひソノラマ、1987ねんISBN 4-257-17084-0 
  • 池田いけだきよし海軍かいぐん日本にっぽん中公新書ちゅうこうしんしょ、1987ねんISBN 4-12-100632-1 
  • 実松さねまつゆずる海軍かいぐんる』図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1982ねんISBN 4-12-100632-1 
  • 野村のむらみのる歴史れきしのなかの日本にっぽん海軍かいぐん』1980ねん 野村のむらが『寺島てらしまけんでん』に寄稿きこうした部分ぶぶんだい15しょう)と『歴史れきしなか日本にっぽん海軍かいぐん』のだい5しょうはほぼどう内容ないようである)
  • 野村のむらみのる山本やまもと五十六いそろく再考さいこう中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1996ねんISBN 4-12-202579-6 
  • 日本にっぽん近代きんだい歴史れきしりょう研究けんきゅうかいへん日本にっぽん陸海りくかいぐん制度せいど組織そしき人事じんじ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい
  • 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかいへん日本にっぽん海軍かいぐんだいきゅうかん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
村田むらたしょうぞう
日本の旗 逓信ていしん大臣だいじん
だい48だい:1941 - 1943
次代じだい
八田はった嘉明よしあき
先代せんだい
村田むらたしょうぞう
日本の旗 鉄道てつどう大臣だいじん
だい23だい:1941
次代じだい
八田はった嘉明よしあき