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大角おおすみ岑生みねお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
大角おおすみおおすみ 岑生みねおみねお
生誕せいたん 1876ねん5月1にち
日本の旗 日本にっぽん愛知あいちけん中島なかじまぐん三宅みやけむら
げん稲沢いなざわ平和へいわまち
死没しぼつ (1941-02-05) 1941ねん2がつ5にち(64さいぼつ
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく広東かんとんしょう
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1897ねん - 1941ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん
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大角おおすみ 岑生みねお(おおすみ みねお、1876ねん明治めいじ9ねん5月1にち - 1941ねん昭和しょうわ16ねん2がつ5にち)は、大正たいしょうから昭和しょうわにかけての日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん政治せいじ華族かぞく海軍かいぐん大将たいしょう男爵だんしゃく位階いかいおよび勲等くんとう軍功ぐんこうせい勲一等くんいっとうこうきゅう

愛知あいちけん出身しゅっしん本籍ほんせき高知こうちけん自邸じてい東京とうきょうしば高輪たかなわ下町したまちにあった[1]

経歴けいれき

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1876ねん明治めいじ9ねん)、愛知あいちけん中島なかじまぐん三宅みやけむらげん稲沢いなざわ平和へいわまち上三宅かみみやけ上屋敷かみやしき)で、農業のうぎょう大角おおすみ藤平ふじひら長男ちょうなんとしてまれた[2]幼名ようみょうおやいち[2]

1891ねん明治めいじ24ねん)3がつ中島なかじまぐん高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう愛知あいちいちちゅうげん愛知あいち県立けんりつ旭丘あさひがおか高等こうとう学校がっこう)よりおさむだましゃ海軍兵学校かいぐんへいがっこう入校にゅうこう

明治めいじ30ねん1897ねん24を3成績せいせき卒業そつぎょう同期どうき次席じせき山本やまもと英輔えいすけ大将たいしょう

比叡ひえい」での遠洋えんよう航海こうかいえて「厳島いつくしま」・「八島やじま」・「千代田ちよだ」・「吾妻あづま」に乗組のりくみ中尉ちゅうい進級しんきゅうしてから「天龍てんりゅう」・横須賀よこすか海兵かいへいだん・「浅間あさま」で分隊ぶんたいちょう歴任れきにんした。

明治めいじ35ねん1902ねん)1がつに「すみとお航海こうかいちょうにんじられ、にち戦争せんそうむかえた。

開戦かいせん3かげつ明治めいじ37ねん1904ねん)5がつに「松島まつしま航海こうかいちょう転任てんにんするが、その直前ちょくぜんだい3旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせんさいし、「釜山ぷさんまる」の沈船命令めいれいける。しかし出撃しゅつげきした「釜山ぷさんまる」はエンジン故障こしょうし、船団せんだんから脱落だつらくした。初志しょし貫徹かんてつさけ乗組のりくみいん説得せっとくし、大角おおすみは「釜山ぷさんまる」をかえさせ、適切てきせつ判断はんだんのち評価ひょうかされた。

松島まつしま」・「まんしゅうまる航海こうかいちょう歴任れきにんし、日本海にほんかい海戦かいせん明治めいじ38ねん1905ねん)8がつへい学校がっこう教官きょうかん翌年よくねん1がつ海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ学生がくせいてんじ、航海こうかいじゅつ指導しどうおよび研修けんしゅうはげんだが、大角おおすみ現場げんば勤務きんむ大正たいしょう2年度ねんどの、「筑波つくば副長ふくちょう、6年度ねんどの「朝日あさひ艦長かんちょう、12年度ねんどだい3戦隊せんたい司令しれいかん昭和しょうわ3年度ねんどだい2艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん合計ごうけい4年間ねんかんぎない。海軍かいぐん生活せいかつのほとんどを軍政ぐんせいかんとしてごすことになる。

明治めいじ40ねん1907ねん)12月に海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくばれ、軍政ぐんせいかん第一歩だいいっぽす。

明治めいじ42ねん1909ねん)より2年間ねんかんドイツ駐在ちゅうざいし、帰国きこくとともに中佐ちゅうさ進級しんきゅうし、東郷とうごう平八郎へいはちろう元帥げんすい副官ふっかんとなる。1ねんちか東郷とうごう側近そっきんとして修行しゅぎょうし、「筑波つくば副長ふくちょうふたた軍務ぐんむきょくもどる。

大正たいしょう3ねん1914ねん)から6ねん1917ねん)までの3年間ねんかんシーメンス事件じけん処理しょりした八代やしろ六郎ろくろうはちはち艦隊かんたい計画けいかく実行じっこううつした加藤かとう友三郎ともさぶろうりょう大臣だいじん側近そっきんとなった。

しかし加藤かとうみずか推進すいしんしたはちはち艦隊かんたい計画けいかくててワシントン軍縮ぐんしゅく条約じょうやく受諾じゅだく決意けついしたさい大角おおすみフランス大使館たいしかん武官ぶかんとして加藤かとうのもとからはなれていたため、なに加藤かとうからまなぶことはできなかった。

大正たいしょう7ねん1918ねん)から2年間ねんかん、フランスに滞在たいざいした。ジュネーヴ本部ほんぶ国際こくさい連盟れんめいもっとちかく、連盟れんめい状況じょうきょうをいちはや把握はあくできる重要じゅうようなポストである。大角おおすみパリ講和こうわ会議かいぎ随員ずいいんとして列席れっせきしており、日本にっぽん南洋なんよう諸島しょとう獲得かくとく承認しょうにんされたその現場げんばにいた。

大正たいしょう9ねん1920ねん)に少将しょうしょう進級しんきゅうし、翌年よくねん7がつ帰国きこくした。

しばらく無任所むにんしょであったが、大正たいしょう11ねん1922ねん)5がつ軍務ぐんむ局長きょくちょう、12ねん1923ねん)12月、だい3戦隊せんたい司令しれいかん、14ねん1925ねん)4がつ海軍かいぐん次官じかん昭和しょうわ3ねん1928ねん)12月、だい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんと、連合れんごう艦隊かんたい海軍かいぐんしょう重要じゅうようポストを交互こうご経験けいけんした。

次官じかん進級しんきゅう直前ちょくぜん中将ちゅうじょう進級しんきゅうしている。次官じかんとして大角おおすみ補佐ほさした大臣だいじん財部たからべあや大将たいしょうだった。大角おおすみ軍縮ぐんしゅく条約じょうやくにまったく関与かんよしていないため、条約じょうやく艦隊かんたい対立たいりつには関心かんしんがなく、次官じかん時代じだいはワシントン条約じょうやく受諾じゅだくはやむをないとする空気くうきがあったため、大角おおすみ自身じしん問題もんだいにしていなかった。

昭和しょうわ4ねん1929ねん)の定期ていき異動いどう横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん任命にんめいされ、2年間ねんかんつとめた。

このあいだ昭和しょうわ6ねん1931ねん)4がつ山本やまもと英輔えいすけ同時どうじ大将たいしょう進級しんきゅうした。

昭和しょうわ6ねん(1931ねん)12月、だい2若槻わかつき内閣ないかくそう辞職じしょくし、前任ぜんにん安保あぼきよししゅ慣例かんれいしたがって横須賀よこすか鎮守ちんじゅ長官ちょうかん大角おおすみいぬやしなえ内閣ないかく海軍かいぐん大臣だいじん指名しめいした。

艦隊かんたい条約じょうやくこうそうつづき、強硬きょうこう条約じょうやくだった軍令ぐんれい部長ぶちょう谷口たにぐちしょうしん更迭こうてつめた矢先やさきに、安保あんぽ大臣だいじん大角おおすみゆずらざるをなくなり、後任こうにん人事じんじたくした。

大角おおすみは、陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう閑院みやじん親王しんのう元帥げんすいいていることを勘案かんあんして、伏見ふしみみやひろしきょうおう大将たいしょう軍令ぐんれい部長ぶちょうした(陸軍りくぐん皇族こうぞく総長そうちょう威光いこう海軍かいぐん圧迫あっぱくする可能かのうせいふうじる意図いともあったという。昭和しょうわ7ねん(1932ねん)に伏見ふしみみや元帥げんすいとなり、東郷とうごう平八郎へいはちろう死後しご海軍かいぐんさい長老ちょうろうとなる)。これがのちみずからを窮地きゅうちむことになる。

着任ちゃくにんから半年はんとし首相しゅしょういぬやしなえあつしいち事件じけん海軍かいぐん将校しょうこう暗殺あんさつされたため、大角おおすみ引責いんせき辞任じにん余儀よぎなくされた。現役げんえき海軍かいぐん将校しょうこう徒党ととうんで首相しゅしょう暗殺あんさつしたさいうみしょうということをかんがえれば予備よびやくになってもおかしくなかったが、世論せろん暗殺あんさつはんへの同情どうじょうつよかったこともあり現役げんえきにはとどまることができた。

大角おおすみ岑生みねおひだり
1936ねんごろ大角おおすみ岑生みねお

いぬやしなえ後継こうけい首班しゅはん指名しめいされたのが海軍かいぐん重鎮じゅうちんである斎藤さいとうみのる大将たいしょうであったことといち事件じけん収拾しゅうしゅうはか必要ひつようがあったことから、大角おおすみはあえて長老ちょうろう岡田おかだ啓介けいすけ大将たいしょう後任こうにん指名しめいした

しかし、岡田おかだには定年ていねん退職たいしょく(65さい)の期限きげんせまっていた。これが計算けいさんずくなのかは不明ふめいだが、岡田おかだ定年ていねんわせて大角おおすみ昭和しょうわ8ねん1933ねん)1がつ海軍かいぐん大臣だいじん復帰ふっきした。この復帰ふっきにより、大角おおすみ後世こうせいから数々かずかず批判ひはんける決断けつだんかさねる。

まず強硬きょうこう艦隊かんたい領袖りょうしゅうであった軍令ぐんれい次長じちょう高橋たかはし三吉さんきちが、戦時せんじのみ軍令ぐんれい移譲いじょうされていた海軍かいぐんしょう権限けんげん一部いちぶ平時へいじにも軍令ぐんれいわたすよう要求ようきゅうしてきた。当然とうぜんながら官僚かんりょう気質きしつ大角おおすみは、既得きとくけん放棄ほうきするはない。

しかし、局長きょくちょう部長ぶちょう次官じかん次長じちょう激論げきろん平行へいこうせんわるものの、大臣だいじん部長ぶちょうきゅう議論ぎろんとなれば、大角おおすみ相手あいて皇族こうぞくである伏見ふしみみやである。部下ぶかたちの議論ぎろん平行へいこうせんつづき、最高さいこう責任せきにんしゃ同士どうし交渉こうしょうされた。

伏見ふしみみや威光いこうまえに、大角おおすみ艦隊かんたい軍令ぐんれいがわ)の要求ようきゅう次々つぎつぎみとめていく(伏見ふしみみやはこのけんについて「わたし在任ざいにんちゅうでなければできまい。是非ぜひやれ」と部下ぶか督励とくれいしており、皇族こうぞく威光いこうせば大角おおすみれるとんでいたようである)。

かくて、軍令ぐんれいからは将来しょうらい軍拡ぐんかく路線ろせん妨害ぼうがいするおそれのある将官しょうかん追放ついほう要求ようきゅうされた。谷口たにぐちしょうしんのほか、山梨やまなし勝之かつゆきすすむ左近さこん司政しせいさん寺島てらしまけんほり悌吉次官じかん軍務ぐんむ局長きょくちょう経験けいけんしゃ軍事ぐんじ普及ふきゅう委員いいんちょう坂野さかのつねぜんらを、大角おおすみみずからの署名しょめいつき辞令じれい追放ついほうした。これが「大角おおすみ人事じんじ」とばれる恣意しいてき条約じょうやく追放ついほう人事じんじである。

海軍かいぐんない弾圧だんあつ片棒かたぼうかつがされているころ外交がいこう問題もんだい重大じゅうだい局面きょくめんむかえていた。リットン調査ちょうさだん報告ほうこく日本にっぽん反発はんぱつし、国際こくさい連盟れんめい脱退だったいさない空気くうきがみなぎった。

枢密院すうみついん実力じつりょくしゃであった伊東いとう巳代治みよじは、大角おおすみパリ講和こうわ会議かいぎ獲得かくとくした南洋なんよう委任いにん統治とうちりょう返還へんかんしたくないと判断はんだんするものと期待きたいし、大角おおすみ脱退だったい阻止そし行動こうどうこすよううったえた。

しかし陸軍りくぐんねつかわしょう進出しんしゅつする計画けいかく察知さっちしていた大角おおすみは、海軍かいぐんだけが反対はんたいするのは政治せいじ混乱こんらんまねくのでこのましくないと反論はんろんし、激怒げきどした伊東いとう脱退だったい阻止そし行動こうどうそのものを放棄ほうきしてしまった。

また、関東軍かんとうぐん司令しれいかん本庄ほんじょうしげる陸軍りくぐん大臣だいじん荒木あらき貞夫さだおが、まんしゅう事変じへん戦功せんこうにより男爵だんしゃくじょせられたさいに、事変じへんにはなに関与かんよしていなかったにもかかわらず、事変じへん勃発ぼっぱつ海軍かいぐん大臣だいじんという理由りゆう大角おおすみ男爵だんしゃくじょせられた。海軍かいぐんないでは失笑しっしょうされ、陸軍りくぐんないでは憤慨ふんがいするもの続出ぞくしゅつした。

大角おおすみ岑生みねおはか青山あおやま霊園れいえん

確固かっこたる信念しんねんたず、指導しどうりょくけ、ただ内外ないがい波風なみかぜてぬように腐心ふしんしてきた大角おおすみつい馬脚ばきゃくあらわしたのが、二・二六事件ににろくじけん処理しょりであった。

海軍かいぐん出身しゅっしん首相しゅしょう岡田おかだ啓介けいすけ内大臣ないだいじん斎藤さいとうみのる侍従じじゅうちょう鈴木すずき貫太郎かんたろう襲撃しゅうげきされたため(斎藤さいとう死亡しぼう鈴木すずき重傷じゅうしょう岡田おかだ死亡しぼう報道ほうどうされたが無事ぶじであった)、海軍かいぐん省内しょうないでは反乱はんらんぐんとの徹底てってい抗戦こうせんろんこった。しかし大角おおすみ的確てきかく処理しょりくだせず狼狽ろうばいするばかりだった。大角おおすみ尻目しりめに、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん高橋たかはし三吉さんきち東京とうきょうわんだいいち艦隊かんたい進入しんにゅうさせ、反乱はんらんぐん占拠せんきょ拠点きょてんかんほう照準しょうじゅんわせて臨戦りんせん態勢たいせいった。

横須賀よこすか鎮守ちんじゅでも、留守るす長官ちょうかん米内よない光政みつまさわって参謀さんぼうちょう井上いのうえ成美まさみ陸戦りくせんたい編制へんせいめいじ、もどったべいない後押あとおしして東京とうきょう突入とつにゅう準備じゅんび早々そうそう完了かんりょうした。

しかし現場げんば的確てきかく迅速じんそく行動こうどうはんして、大角おおすみ命令めいれいくだせなかった。暗殺あんさつされたとおもわれた岡田おかだ生存せいぞん情報じょうほうった大角おおすみは「なにかなかったことにする」と返答へんとうし、岡田おかだ救出きゅうしゅつしようとはしなかった。

反乱はんらん鎮圧ちんあつ大角おおすみ海軍かいぐん大臣だいじん永野ながの修身しゅうしん大将たいしょうゆずり、軍事ぐんじ参議さんぎかんとなる。二・二六事件ににろくじけん荒木あらき貞夫さだお真崎まさき三郎さぶろうほか多数たすう大将たいしょう予備よびやく編入へんにゅうした陸軍りくぐんとのバランスをるために、海軍かいぐんからも3めい大将たいしょう予備よびやく編入へんにゅうすることになったが、山本やまもと英輔えいすけ中村なかむら良三りょうぞう小林こばやし躋造中村なかむら大角おおすみより3小林こばやしは2)がその対象たいしょうとなり、このとき大角おおすみ現役げんえきにとどまることができた。したがって、大角おおすみ現役げんえき大将たいしょうなかでの序列じょれつ伏見ふしみみやぐもの、皇族こうぞく以外いがいではさい古参こさんであることにはわりなかった。

昭和しょうわ15ねん1940ねんまつごろから、体調たいちょうくずした伏見ふしみみや軍令ぐんれい総長そうちょう辞職じしょくする意向いこうかためていた。序列じょれつしたがえば、次期じき総長そうちょう大角おおすみ永野ながの禅譲ぜんじょうされる。海軍かいぐん大臣だいじん連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん歴任れきにんして実績じっせきんでいる永野ながのたいし、大角おおすみ過去かこひとなされていたうえ定年ていねん間近まぢかであった。

大角おおすみ挽回ばんかいのために中国ちゅうごく視察しさつ決意けついし、大陸たいりくわたった。昭和しょうわ16ねん(1941ねん2がつ5にち[3]大角おおすみ随員ずいいん須賀すか彦次郎ひこじろう少将しょうしょう角田つのだ隆雄たかお中佐ちゅうさ白濱しらはま栄一えいいち中佐ちゅうさ立見たつみただし五郎ごろう主計しゅけい大佐たいさ松田まつだ英夫ひでお大尉たいいとうとともに広州こうしゅうから飛行機ひこうきだい日本航空にほんこうくう)でち、消息しょうそく不明ふめいとなる[4][5]。 その広東かんとんしょう西にしこう下流かりゅう西岸せいがんあげさんにて墜落ついらくした機体きたい発見はっけんされ[6]乗員じょういん全員ぜんいん死亡しぼう確認かくにんされた[7][8]

2がつ17にち大角おおすみ遺体いたい羽田はた飛行場ひこうじょう到着とうちゃくした[8][9]。 2月20にち[10]築地つきじ本願寺ほんがんじ葬儀そうぎおこなわれた[8]及川おいかわ古志こしろう海軍かいぐん大臣だいじんより報告ほうこくけた昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごうは、大角おおすみ葬儀そうぎ勅使ちょくしとして徳大寺とくだいじみのるあつし侍従じじゅう入江いりえしょうせい事務じむかん派遣はけんした[8][11]

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 男爵だんしゃく大角おおすみ岑生みねおでん
  2. ^ a b 日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん、191ぺーじ
  3. ^ じょう英一郎えいいちろう日記にっき44ぺーじ昭和しょうわ16ねん がつろくにち(木)もくはれ午後ごご南西なんせいふうややつよし/日航にっこうそよかぜごう(大角おおすみ岑生みねお大将たいしょう須賀すか少将しょうしょう角田つのだ白浜しらはま中佐ちゅうさふく官等かんとう)にち正午しょうご広東かんとんはつさん灶島へこう行衛ゆくえ不明ふめいさん灶島北方ほっぽう西にし江下えしたりゅう右岸うがんあげ山頂さんちょうげき大破たいは。」
  4. ^ #高松宮たかまつのみや日記にっき3かん200ぺーじ白浜しらはま中佐ちゅうさ大角おおすみ大将たいしょう一緒いっしょふついんへゆく途中とちゅうさん灶島、うみこうあいだにて、日航にっこう涼風すずかぜごうにて行方ゆくえ不明ふめいとなる。大角おおすみ大将たいしょう須賀すか少将しょうしょう角田つのだ中佐ちゅうさ白浜しらはま中佐ちゅうさ松田まつだ大尉たいい-いちいちよん広東かんとんはついちさん〇「いち〇、さん灶島予定よていでんありて、消息しょうそくタユ」
  5. ^ #昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくはち308ぺーじ「(昭和しょうわじゅうろくねんがつ)ななにち 金曜日きんようび(大角おおすみ岑生みねお搭乗とうじょう遭難そうなん)」
  6. ^ #高松宮たかまつのみや日記にっき3かん200ぺーじさつき蘭島らんたお(※実際じっさい遭難そうなん地点ちてん広東かんとんしょう西岸せいがん右岸うがんあげさん山腹さんぷく)に機体きたい大破たいはするを発見はっけんセリ(ろくにちいち〇)」
  7. ^ じょう英一郎えいいちろう日記にっき45ぺーじ昭和しょうわ16ねん がつきゅうにち(日)にちはれ
  8. ^ a b c d #昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくはち310ぺーじ「(昭和しょうわじゅうろくねんがつ)きゅうにち 日曜日にちようび(大角おおすみ岑生みねお死去しきょ)」
  9. ^ じょう英一郎えいいちろう日記にっき47ぺーじ昭和しょうわ16ねん がついちななにち(月)げつくもり午後ごご小雨こさめ(りゃく)大角おおずみ大将たいしょういちぎょう遺骨いこつ東京とうきょう(羽田はた)いちろく〇〇。」
  10. ^ じょう英一郎えいいちろう日記にっき48ぺーじ昭和しょうわ16ねん がつにち(木)もくくもり 当直とうちょく
  11. ^ 昭和しょうわ16ねん2がつ21にち官報かんぽうだい4236ごう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション コマ10「◎勅使ちょくし皇后こうごうみや使なみ皇太后こうたいごうみや使 海軍かいぐん大将たいしょう男爵だんしゃく大角おおすみ岑生みねお葬送そうそうづけさくじゅうにち午後ごごれいじゅうふん勅使ちょくしトシテ侍從じじゅう公爵こうしゃく徳大寺とくだいじみのるあつ皇后こうごうみや使トシテ皇后こうごうみや事務じむかん入江いりえしょうせい皇太后こうたいごうみや使トシテ皇太后こうたいごう事務じむかん西邑にしむらきよし葬儀そうぎじょう差遣さけんサレ焼香しょうこうセシメラレタリ」
  12. ^ 官報かんぽうだい5539ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん12月18にち
  13. ^ 官報かんぽうだい7028ごう叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月1にち
  14. ^ 官報かんぽうだい8552ごう叙任じょにん及辞れい」1911ねん12月21にち
  15. ^ 官報かんぽうだい1040ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん1がつ22にち
  16. ^ 官報かんぽうだい2539ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん1がつ21にち
  17. ^ 官報かんぽうだい3746ごう叙任じょにん及辞れい」1925ねん2がつ19にち
  18. ^ 官報かんぽうだい1317ごう叙任じょにん及辞れい」1931ねん5がつ23にち
  19. ^ 官報かんぽうだい1890ごう叙任じょにん及辞れい」1933ねん4がつ21にち
  20. ^ a b 官報かんぽうだい4228ごう叙任じょにん及辞れい」1941ねん2がつ12にち
  21. ^ 中野なかの文庫ぶんこ - きゅう金鵄勲章きんしくんしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん
  22. ^ 官報かんぽうだい251ごう叙任じょにん及辞れい」1913ねん6がつ2にち
  23. ^ 官報かんぽうだい1189ごう付録ふろく叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ18にち
  24. ^ 官報かんぽうだい3728ごう叙任じょにん及辞れい」1925ねん1がつ28にち
  25. ^ 官報かんぽうだい602ごう叙任じょにん及辞れい」1928ねん12月29にち
  26. ^ 官報かんぽうだい1310ごう叙任じょにん及辞れい」1931ねん5がつ15にち
  27. ^ 官報かんぽうだい2129ごう叙任じょにん及辞れい」1934ねん2がつ8にち
  28. ^ 官報かんぽうだい2696ごう叙任じょにん及辞れい」1935ねん12月27にち
  29. ^ 官報かんぽうだい201ごう叙任じょにん及辞れい」1927ねん8がつ29にち
  30. ^ 官報かんぽうだい2897ごう叙任じょにん及辞れい」1936ねん8がつ27にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 宮内庁くないちょう へん昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろく だいはち 昭和しょうわじゅうねんいたり昭和しょうわじゅうななねん東京書籍とうきょうしょせき株式会社かぶしきがいしゃ、2016ねん3がつISBN 978-4-487-74408-4 
  • じょう英一郎えいいちろう侍従じじゅう武官ぶかん じょう英一郎えいいちろう日記にっき山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ近代きんだい日本にっぽん史料しりょう選書せんしょ〉、1982ねん2がつ 
  • 高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう嶋中しまなかほう発行はっこうじん高松宮たかまつのみや日記にっき だいさんかん 昭和しょうわじゅうねんがついちにち昭和しょうわじゅうろくねん十二月じゅうにがつさんじゅういちにち中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1995ねん11月。ISBN 4-12-403393-1 
  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん

関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
安保あぼきよししゅ
岡田おかだ啓介けいすけ
海軍かいぐん大臣だいじん
だい34だい:1931ねん12月13にち - 1932ねん5がつ26にち
だい36・37だい:1933ねん1がつ9にち - 1936ねん3がつ9にち
次代じだい
岡田おかだ啓介けいすけ
永野ながの修身しゅうしん
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
大角おおすみ岑生みねお初代しょだい
1935ねん - 1941ねん
次代じだい
大角おおすみいつせい