(Translated by https://www.hiragana.jp/)
海軍兵学校 (日本) - Wikipedia コンテンツにスキップ

海軍兵学校かいぐんへいがっこう (日本にっぽん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
海軍兵学校かいぐんへいがっこう生徒せいとかん
(現在げんざい海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこう)

海軍兵学校かいぐんへいがっこう(かいぐんへいがっこう、きゅう字体じたいうみ󠄀軍兵ぐんびょう學校がっこう󠄁)は、1876ねん明治めいじ9ねん)から1945ねん昭和しょうわ20ねん)のだい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせんまで存続そんぞくした、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん将校しょうこうたる士官しかん養成ようせい目的もくてきとした教育きょういく機関きかんである。通称つうしょう略称りゃくしょうとして海兵かいへいばれる事例じれいもある。

総説そうせつ[編集へんしゅう]

概要がいよう[編集へんしゅう]

江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう講師こうしたち

戦前せんぜん江田島えたじま現在げんざい広島ひろしまけん江田島えたじま)といえば、海軍兵学校かいぐんへいがっこう意味いみした(現在げんざいは、海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこうす)。

江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう所在地しょざいち選定せんていされた理由りゆうは、

  1. 軍艦ぐんかんいかりはく出来でき入江いりえがあること。
  2. 文明ぶんめい隔絶かくぜつし、いわゆる娑婆しゃば空気くうきよごされずに教育きょういく専念せんねんできる環境かんきょうつこと。
  3. 気候きこう温暖おんだんで、安定あんていしていること。

この3てんそなえていたためである。

海軍兵学校かいぐんへいがっこうは、海軍かいぐん機関きかん学校がっこう海軍かいぐん経理けいり学校がっこうとともに海軍かいぐんさんこうばれた[1]イギリス王立おうりつ海軍兵学校かいぐんへいがっこうアメリカ合衆国がっしゅうこく海軍兵学校かいぐんへいがっこうとともに、世界せかいさんだいへい学校がっこうひとつにかぞえられた[2]ぜん78[注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2] から、総計そうけい1まん2433めい卒業生そつぎょうせいしている。

江田島えたじまとおった軍人ぐんじんは、寝食しんしょくともにした海軍兵学校かいぐんへいがっこう同期生どうきせい(クラスとばれた)をなによりも大切たいせつにした。日本にっぽん海軍かいぐんにいるかぎり、どうしても出世しゅっせしょうじ、クラスでも上官じょうかん部下ぶか上下じょうげ関係かんけいになることもあったが、職務しょくむはなれれば「貴様きさまおれ」ではなしつうじる対等たいとう立場たちばであるという不文ふぶんりつがあった。クラス同士どうし会合かいごうじゅん公務こうむとしてあつかわれた。また、同級生どうきゅうせい戦死せんしした場合ばあいは、のこされた家族かぞくのこった同級生どうきゅうせい可能かのうかぎ面倒めんどうるという暗黙あんもく了解りょうかい存在そんざいしていた[注釈ちゅうしゃく 3]。こうしたことは美風びふうとしてかたられ、戦後せんごいたるまで海軍兵学校かいぐんへいがっこう出身しゅっしんしゃきずなつよかった。

だい世界せかい大戦たいせんちゅう国内こくないしょ学校がっこう英語えいご教育きょういく敵性てきせいであるという理由りゆう廃止はいし縮小しゅくしょうされるなか、井上いのうえ成美まさみ校長こうちょうつよ信念しんねん従前じゅうぜんどお英語えいご教育きょういく継続けいぞくされ、徹底てっていした教養きょうよう教育きょういくもなされた。このことがいしずえになって、坂元さかもと正一しょういち東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ皇族こうぞく産婦人科さんふじんか担当たんとう長年ながねんつとめる)や、建築けんちく池田いけだたけくに日本にっぽん高層こうそう建築けんちくのパイオニア)、板橋いたばしきょうむね曹洞宗そうとうしゅう管長かんちょうなど、戦後せんご各界かくかいでリーダーとして活躍かつやくしていた卒業生そつぎょうせいもと生徒せいとおお[注釈ちゅうしゃく 4]

戦後せんご学制がくせい改革かいかくともない、学歴がくれきとしての「海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょう」は、そのの「海軍かいぐん生徒せいと学校がっこう卒業そつぎょう」および「陸軍りくぐん生徒せいと学校がっこう卒業そつぎょう」とともに、くに地方自治体ちほうじちたい民間みんかん企業きぎょうとうにおける学歴がくれき免許めんきょとう資格しかく区分くぶんでは短期大学たんきだいがくそつ同等どうとうあつかわれるようになった[5]

批判ひはん[編集へんしゅう]

行過いきすぎたエリート意識いしき貴族きぞく趣味しゅみ排他はいたせい機関きかん将校しょうこう特務とくむ士官しかんや、だい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう学徒がくと出身しゅっしん予備よび士官しかんたいする差別さべつ下士官かしかんへいへの露骨ろこつ差別さべつつながったとの批判ひはんもある[注釈ちゅうしゃく 5]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

海軍かいぐんへい学寮がくりょういしぶみひだりおよ海軍かいぐん軍医ぐんい学校がっこういしぶみみぎ) 国立こくりつがん研究けんきゅうセンター築地つきじキャンパス構内こうない へい学寮がくりょういしぶみ揮毫きごうしゃ齋藤さいとうみのる
だい講堂こうどう(2010年代ねんだい撮影さつえい
教育きょういく参考さんこうかん(2010年代ねんだい撮影さつえい
海軍かいぐん士官しかん 短剣たんけん
海軍兵學校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょう證書しょうしょ

1869ねん10月22にち明治めいじ2ねん9がつ18にち)、前身ぜんしん海軍かいぐんみさおねりしょ東京とうきょう築地つきじもとげいしゅう蔵屋敷くらやしきない創立そうりつ開設かいせつされた[6][7]1870ねん12月25にち明治めいじ3ねん11月4にち)、海軍かいぐんへい学寮がくりょう改称かいしょう[6]1876ねん明治めいじ9ねん)、改称かいしょうされて海軍兵学校かいぐんへいがっこう開校かいこう築地つきじ時代じだい明治天皇めいじてんのう皇居こうきょから海軍兵学校かいぐんへいがっこうまで行幸ぎょうこうしたみちが、現在げんざいみゆきどおである。

1888ねん明治めいじ21ねん)にくれ鎮守ちんじゅ近接きんせつした広島ひろしまけん安芸あきぐん江田島えたじままち現在げんざい江田島えたじま)に移転いてんした。「本校ほんこうしゃあか煉瓦れんがひとひとつつまれ軍艦ぐんかんでイギリスからはこばれた」とつたえられている。

海軍かいぐん機関きかん学校がっこう関東大震災かんとうだいしんさい校舎こうしゃ全焼ぜんしょうしたため、一時期いちじき江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう校舎こうしゃりて教育きょういくおこなわれた。海軍兵学校かいぐんへいがっこうの52から55まで、海軍かいぐん機関きかん学校がっこうの33から36までの生徒せいとおな教育きょういくけて関係かんけいふかめた。

1939ねん昭和しょうわ14ねん)より、採用さいよう生徒せいとすう(71)は1936ねん昭和しょうわ11ねん)の採用さいよう生徒せいとすう(300にん)と比較ひかくして倍増ばいぞう(600にん)した。これは1937ねん昭和しょうわ12ねん)のだい3軍備ぐんび拡張かくちょう計画けいかくにより、大型おおがた戦艦せんかん建造けんぞう航空こうくうたい倍増ばいぞうされるための要員よういん確保かくほのためであり、1941ねん昭和しょうわ16ねん)には採用さいよう生徒せいとすう(73)は900にんとなり、その採用さいよう生徒せいとすう拡大かくだい一途いっと辿たどった。

1943ねん昭和しょうわ18ねん)11月15にちには岩国いわくに分校ぶんこうが、1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ1にちには大原おおはら舞鶴まいづる分校ぶんこう1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ1にちには針尾はりお分校ぶんこうがそれぞれ開校かいこうした。

このうちの舞鶴まいづる分校ぶんこうは、制度せいど改正かいせいにより海軍かいぐん機関きかん学校がっこうへい学校がっこう統合とうごうされ、「海軍兵学校かいぐんへいがっこう舞鶴まいづる分校ぶんこう」に改称かいしょうしたものである。ただし、舞鶴まいづる分校ぶんこう教育きょういく内容ないようは「当面とうめんあいだ機関きかん学校がっこうおなじ」とされ、敗戦はいせんまでそのままであった。

針尾はりお分校ぶんこうは1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつ防府ほうふ通信つうしん学校がっこう疎開そかいして閉校へいこうとなった。1945ねん昭和しょうわ20ねん)12月1にちまでに全校ぜんこう廃校はいこうとなり、消滅しょうめつした。

江田島えたじまへい学校がっこうあとは、1956ねん昭和しょうわ31ねん以降いこう海上かいじょう自衛隊じえいたいだい1じゅつ学校がっこうおよび幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこうになっており、明治めいじ時代じだいあか煉瓦れんが校舎こうしゃや、だい講堂こうどう教育きょういく参考さんこうかんなどがのこされている。

生徒せいと採用さいよう[編集へんしゅう]

以下いか事柄ことがら時代じだいによって多少たしょう相違そういがあるが、必要ひつよう受験じゅけん資格しかくは、まず男子だんしであること(きゅう日本にっぽんぐんでは女性じょせい入隊にゅうたいは、みとめられていなかったため)と受験じゅけん年齢ねんれいは16さいから19さい年齢ねんれい制限せいげんがあり、身体しんたい条件じょうけんたすもの中学校ちゅうがっこうだいよん学年がくねん修了しゅうりょう程度ていど学力がくりょく独身どくしんしゃ犯罪はんざいれきものとされた。

銓衡せんこうにあたり、最初さいしょ身体しんたい検査けんさ運動うんどう機能きのう検査けんさ学術がくじゅつ試験しけん受験じゅけんしゃ決定けっていされ、学術がくじゅつ試験しけんは5日間にちかん連続れんぞくおこなわれた。

学術がくじゅつ試験しけん数学すうがくはじまり、英語えいご和訳わやく)と歴史れきし物理ぶつり化学かがく国語こくご漢文かんぶんふくむ)、英語えいごえい作文さくぶん文法ぶんぽう)と地理ちりじゅんおこなわれ、それぞれの学術がくじゅつ試験しけん採点さいてん結果けっか当日とうじつ発表はっぴょうされ、所定しょてい合格ごうかく点数てんすうたっしたもののみがつぎ学術がくじゅつ試験しけん受験じゅけんできるふるとし選考せんこうであった。

その面接めんせつ試験しけん最終さいしゅう合格ごうかくしゃ決定けっていされた。志願しがんしゃ増加ぞうかとも内申ないしんしょによる事前じぜん選考せんこうおこなわれるようになった。日本にっぽん海軍かいぐん人事じんじ政策せいさくではへい学校がっこう出身しゅっしんしゃ特別とくべつ事情じじょうがないかぎり、大佐たいさまで昇進しょうしんさせる方針ほうしんっており、採用さいよう生徒せいとすう海軍かいぐん軍備ぐんび政策せいさく密接みっせつ関係かんけいにあった。

海軍兵学校かいぐんへいがっこう設立せつりつ明治めいじ時代じだいから、この海軍兵学校かいぐんへいがっこう入学にゅうがくするための予備校よびこうてき学校がっこうが、全国ぜんこく存在そんざいしていた。おも予備校よびこうてき学校がっこうには、明治めいじ初期しょきから、東京とうきょうおさむだましゃがあり、明治めいじ中期ちゅうき以降いこうになると、東京とうきょう海軍かいぐん予備校よびこう[注釈ちゅうしゃく 6]神奈川かながわ湘南しょうなんちゅう横須賀よこすかちゅう逗子ずし開成かいせいちゅう兵庫ひょうごおおとりよしじゅく広島ひろしま修道しゅうどうちゅう山口やまぐちおおとり城中じょうちゅう高知こうち海南かいなん学校がっこう佐賀さが三養基みやきなかなどがられるようになった。その大正たいしょう時代じだいごろになってくると、先駆せんくてき私立しりつ予備校よびこうてき学校がっこう進学しんがく実績じっせき減少げんしょうしていった。なお、これらの予備校よびこうてき学校がっこうは、戦後せんご学制がくせい改革かいかくにより制度せいど変更へんこうされ、海上かいじょう自衛隊じえいたいとの関連かんれんはなくなった。

また、だい65昭和しょうわ9ねん4がつ入学にゅうがく)からだい69昭和しょうわ13ねん4がつ入学にゅうがく)の入学にゅうがく試験しけん倍率ばいりつは20ばいえていた[9]。このは、東京とうきょう府立ふりつナンバースクールに、湘南しょうなんちゅう横須賀よこすかちゅう横浜よこはまいちなかなどのほか仙台せんだいいちなか麻布まふちゅう神戸こうべいちなか広島ひろしまいちなかいちなか済々黌せいせいこう佐賀さがちゅう鹿児島かごしまいちなかに、外地がいち朝鮮ちょうせん竜山たつやまなか台湾たいわん台北たいぺいいちなかなどもふくめた全国ぜんこく数多すうたある中学ちゅうがく上位じょうい合格者数ごうかくしゃすうきそいあっていた[10]

海軍かいぐん主計しゅけい学生がくせい海軍かいぐん軍医ぐんい薬剤やくざい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき学生がくせい[編集へんしゅう]

海軍兵学校かいぐんへいがっこう海軍かいぐん機関きかん学校がっこうは、それぞれ海軍かいぐん兵科へいか将校しょうこう海軍かいぐん機関きかん将校しょうこうになるためにとおらねばならない学校がっこうであった[注釈ちゅうしゃく 7]

海軍かいぐん主計しゅけい学生がくせい[編集へんしゅう]

現役げんえき海軍かいぐん主計しゅけい士官しかん志望しぼうするものたいしては、時代じだいによって、

  • 海軍かいぐん兵科へいか将校しょうこう海軍かいぐん機関きかん将校しょうこう志望しぼうするもの同様どうように、海軍かいぐん経理けいり学校がっこう生徒せいと採用さいようされるみち
  • 後述こうじゅつする海軍かいぐん軍医ぐんい薬剤やくざい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき学生がくせい[注釈ちゅうしゃく 8]同様どうように、大学だいがく法学部ほうがくぶ経済学部けいざいがくぶ、または高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう旧制きゅうせい在学ざいがくちゅう海軍かいぐん主計しゅけい学生がくせい採用さいようされるみち根拠こんきょ法令ほうれい大正たいしょう13ねん1924ねんみことのりれい247ごう海軍かいぐん軍医ぐんい学生がくせい薬剤やくざい学生がくせい主計しゅけい学生がくせい造船ぞうせん学生がくせい造機ぞうき学生がくせい造兵ぞうへい学生がくせいれい[12]

のいずれかがあった。

1909ねん明治めいじ42ねん以降いこうは、(1)の「海軍かいぐん経理けいり学校がっこう生徒せいと採用さいようされるみち」が原則げんそくとなったが、(2)の「大学だいがくなどに在学ざいがくちゅう海軍かいぐん主計しゅけい学生がくせい採用さいようされるみち」も継続けいぞくしており、若干じゃっかんめい採用さいようされつづけた。

海軍かいぐん軍医ぐんい薬剤やくざい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき学生がくせい[編集へんしゅう]

海軍かいぐんぐん医科いか士官しかん海軍かいぐん薬剤やくざい士官しかん海軍かいぐん造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき士官しかん昭和しょうわ17ねん以降いこう海軍かいぐん技術ぎじゅつ士官しかん統合とうごうについては、海軍兵学校かいぐんへいがっこう海軍かいぐん機関きかん学校がっこう海軍かいぐん経理けいり学校がっこう相当そうとうする、海軍かいぐん独自どくじ各科かっか士官しかん養成ようせいする学校がっこう設置せっちされず、

  • 軍医ぐんい大学だいがく医学部いがくぶ医学いがく専門せんもん学校がっこう卒業そつぎょうしゃ
  • 薬剤やくざい大学だいがく医学部いがくぶやく学科がっか医学いがく専門せんもん学校がっこうやく学科がっか薬学やくがく専門せんもん学校がっこう卒業そつぎょうしゃ
  • 造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき昭和しょうわ17ねん以降いこう技術ぎじゅつ統合とうごう大学だいがく理学部りがくぶ工学部こうがくぶ卒業そつぎょうしゃ

を、各科かっか士官しかん任用にんようした根拠こんきょ法令ほうれい大正たいしょう13ねん1924ねんみことのりれい247ごう海軍かいぐん軍医ぐんい学生がくせい薬剤やくざい学生がくせい主計しゅけい学生がくせい造船ぞうせん学生がくせい造機ぞうき学生がくせい造兵ぞうへい学生がくせいれい[12])。

現役げんえき海軍かいぐんぐん医科いか薬剤やくざい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき士官しかん志望しぼうするものは、大学だいがくなどに入学にゅうがく海軍かいぐん軍医ぐんい薬剤やくざい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき学生がくせい[注釈ちゅうしゃく 8]採用さいよう試験しけん受験じゅけんして合格ごうかくする必要ひつようがあった[13]海軍かいぐん軍医ぐんい薬剤やくざい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき学生がくせい採用さいようされれば、大学だいがくなどに在籍ざいせきしながら海軍かいぐんせきき、士官しかんじゅんずる手当てあて昭和しょうわ10ねん 中尉ちゅうい任官にんかんしゃ月額げつがく45えん[13])の支給しきゅうがあり、卒業そつぎょうただちに高等官こうとうかんたる軍医ぐんい薬剤やくざい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき士官しかん任官にんかんした(大学だいがく旧制きゅうせい卒業そつぎょうしゃ中尉ちゅうい任官にんかん[13]専門せんもん学校がっこう旧制きゅうせい卒業そつぎょうしゃ少尉しょうい任官にんかん)。

海軍かいぐん軍医ぐんい薬剤やくざい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき学生がくせいは、海軍兵学校かいぐんへいがっこう生徒せいとより運動うんどうけい科目かもく内容ないよう緩和かんわされていた。また、一般いっぱん大学生だいがくせいちが陸軍りくぐん軍事ぐんじ教練きょうれん単位たんい必要ひつようく、このめんでも優遇ゆうぐうされていた。

生徒せいと教育きょういく[編集へんしゅう]

教育きょういく期間きかんはじめ3ねんせい1927ねん昭和しょうわ2ねん)より3ねん8かげつ1932ねん昭和しょうわ7ねん)から4ねんせいとなったが、中国ちゅうごくにおける事変じへん拡大かくだい影響えいきょうけ、1934ねん昭和しょうわ9ねん入校にゅうこうの66が3ねん9かげつ短縮たんしゅくされたのち戦線せんせん激化げきかともな1935ねん昭和しょうわ10ねん入校にゅうこうの67(3ねん3かげつ)、1936ねん昭和しょうわ11ねん入校にゅうこうの68(3ねん4かげつ)、1937ねん昭和しょうわ12ねん以降いこうの69 - 71(3ねん)、1940ねん昭和しょうわ15ねん入校にゅうこうの72(2ねん10かげつ)、1941ねん昭和しょうわ16ねん入校にゅうこうの73(2ねん4かげつ)と教育きょういく期間きかん短縮たんしゅくされていった。へい学校がっこうにおいては、最上級さいじょうきゅうせいを1ごう以下いか2ごう、3ごう、4ごうしょうした。

英国えいこくしきじゅつ重視じゅうし教育きょういくおこなわれ、卒業そつぎょう少尉しょうい候補こうほせいとして練習れんしゅう艦隊かんたい配属はいぞくされ、遠洋えんよう航海こうかいなど実地じっち訓練くんれんじゅつ講習こうしゅう任官にんかんした。当初とうしょへい学校がっこう生徒せいとのままで参加さんかしたが、1897ねん明治めいじ30ねん)より、24期生きせい少尉しょうい候補こうほせいとして航海こうかいおこなった。この練習れんしゅう航海こうかい太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんにより、1941ねん昭和しょうわ16ねん)の69期生きせい航海こうかい最後さいご終了しゅうりょうした。

へい学校がっこうでは、だい世界せかい大戦たいせんちゅう英語えいご教育きょういく継続けいぞくされた。生徒せいと募集ぼしゅうについて競合きょうごう関係かんけいにある陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう英語えいご教育きょういく廃止はいし採用さいよう試験しけん項目こうもくから除外じょがいすると、へい学校がっこう所轄しょかつする海軍かいぐんしょう教育きょういくきょくから、へい学校がっこうに「へい学校がっこうも、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう同様どうように、英語えいご採用さいよう試験しけん項目こうもくから除外じょがいするべきではないか」と非公式ひこうしき打診だしんしてきた[14]。しかし、井上いのうえ成美まさみ校長こうちょうは、「一体いったい何処どこくに海軍かいぐんに、自国じこくしかはなせないような海軍かいぐん士官しかんがいるか」、「いやしくも世界せかい相手あいてにする海軍かいぐん士官しかん英語えいごらぬでいということはありない。英語えいご今日きょう世界せかい公用こうようとして使つかわれているのはこのこのまないにかかわらずあきらかな事実じじつであり、事実じじつ素直すなお事実じじつみとめなければならぬ。外国がいこくのひとつも習得しゅうとくしようという意気いきのないものは、海軍かいぐんほうからかれらを必要ひつようとしない。わたし校長こうちょうであるかぎ英語えいご廃止はいしなどということは絶対ぜったいみとめない」と却下きゃっかし、英語えいご教育きょういく継続けいぞくともなってきた校長こうちょう排斥はいせき運動うんどうかんしても、「これらの運動うんどう従事じゅうじする人物じんぶつ主張しゅちょうするところ、おおむ浅学せんがく非才ひさいにして島国根性しまぐにこんじょうだっせず」とだんじ、へい学校がっこう英語えいご教育きょういく従来じゅうらいどおおこなった。海軍兵学校かいぐんへいがっこうないでは、従来じゅうらいどお外来がいらい使用しよう容認ようにんしていた。このことは、戦後せんご大学だいがく入学にゅうがくなおすなどしてさい出発しゅっぱつすることになった卒業生そつぎょうせいたちから相当そうとう感謝かんしゃされている[15]

しょう[編集へんしゅう]

海軍兵学校かいぐんへいがっこうおしえとして有名ゆうめいな「しょう(ごせい)」は、1932ねん昭和しょうわ7ねん)、松下まつしたはじめ校長こうちょう考案こうあんしたもので、へい学校がっこう精神せいしん代表だいひょうするものとして名高なだかい。しょ外国がいこく軍人ぐんじんをも感動かんどうさせたといい、戦後せんご英訳えいやくされて米国べいこくアナポリス海軍兵学校かいぐんへいがっこうでも採用さいようされた。現在げんざい海上かいじょう自衛隊じえいたいにも継承けいしょうされている。

生徒せいと待遇たいぐう[編集へんしゅう]

へい学校がっこう生徒せいとには、海軍かいぐん一等いっとう兵曹へいそう昭和しょうわ17ねん以降いこう海軍かいぐん上等じょうとう兵曹へいそう)と海軍かいぐんへい曹長そうちょう中間ちゅうかんともいえる階級かいきゅうあたえられていた。なつ帰省きせいには、純白じゅんぱくだいしゅ軍装ぐんそう一際ひときわえ、郷里きょうりほこりとしてまちげての歓迎かんげいかいひらかれたほど人気にんきがあった。

ただし、へい学校がっこう卒業そつぎょうして海軍かいぐん少尉しょうい候補こうほせいめいじられ[16]練習れんしゅう艦隊かんたい配属はいぞくされると、やく1ねんはん(1936ねん4がつ1にちづけ少尉しょうい任官にんかんしたへい62まで、その短縮たんしゅく[16]海軍かいぐん少尉しょうい任官にんかんするまで、「士官しかん下士官かしかんへい牛馬ぎゅうば候補こうほせい」としょうされるほど多忙たぼう生活せいかつおくり、艦内かんないでの食事しょくじ居住きょじゅうへい学校がっこう時代じだいよりランクがげられた[17]

海軍かいぐん兵科へいか将校しょうこうは、へい学校がっこう卒業そつぎょう席次せきじ基礎きそとする同期生どうきせいあいだ先任せんにん順位じゅんいハンモックナンバー)のじゅん進級しんきゅうした。

せん修学しゅうがくせい[編集へんしゅう]

1920ねん大正たいしょう9ねん)から1942ねん昭和しょうわ17ねん)のあいだへい学校がっこう教育きょういくは、上記じょうき将校しょうこう生徒せいとせん修学しゅうがくせいだい23まで存在そんざいする)の本立ほんだてであった。

せん修学しゅうがくせい制度せいどとは、優秀ゆうしゅうじゅん士官しかん海軍かいぐんへい曹長そうちょう)および海軍かいぐん一等いっとう兵曹へいそうなかから選抜せんばつして、生徒せいと教育きょういくじゅんじた教育きょういくおこな課程かていであった。この制度せいどは、うみうみけいにも設置せっちされていた。ただ、この課程かてい卒業そつぎょうしたとしても、特務とくむ士官しかんという立場たちばわりはなかった。

なお、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう士官しかん候補こうほせい少尉しょうい候補者こうほしゃ乙種おつしゅ学生がくせい)の本立ほんだてであった。

職員しょくいん[編集へんしゅう]

職員しょくいんとして、校長こうちょうふく校長こうちょう副官ふっかん教頭きょうとう教官きょうかん監事かんじちょう監事かんじ分隊ぶんたいちょう軍医ぐんいちょう主計しゅけいちょうつけなどかれた(時代じだいによりちがいがある。)。このうち、教官きょうかんは、教頭きょうとういのち学術がくじゅつ教育きょういく担任たんにんした。監事かんじ監事かんじちょういのち訓育くんいく担任たんにんした。ちなみに、へい学校がっこう文官ぶんかん教師きょうし東大とうだい出身しゅっしんしゃ上位じょうい3ばんまで、京大きょうだいは2ばんまで、広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう首席しゅせきのみとさだめられていた。

海軍かいぐん機関きかん学校がっこう[編集へんしゅう]

海軍かいぐん機関きかんぞくする士官しかん養成ようせいするために、1881ねん明治めいじ14ねん) - 1887ねん明治めいじ20ねん)と1893ねん明治めいじ26ねん) - 1945ねん昭和しょうわ20ねん)に海軍かいぐん機関きかん学校がっこうかれる。

1874ねん明治めいじ7ねん)に横須賀よこすか海軍かいぐんへい学寮がくりょう分校ぶんこうかれる。1878ねん明治めいじ11ねん海軍兵学校かいぐんへいがっこう附属ふぞく機関きかん学校がっこうとなる。1881ねん明治めいじ14ねん)に海軍かいぐん機関きかん学校がっこうとなる。1887ねん明治めいじ20ねん)に廃止はいしされる(機関きかん学校がっこうだい4期生きせい海軍兵学校かいぐんへいがっこう編入へんにゅうされ、へい学校がっこうだい16期生きせいとなる。井出いで謙治けんじ海軍かいぐん大将たいしょうがこのケースに該当がいとうする)。1893ねん明治めいじ26ねん)にさいおけされる。関東大震災かんとうだいしんさいによって校舎こうしゃ罹災りさいしたため、1923ねん大正たいしょう12ねん) - 1925ねん大正たいしょう14ねん)は江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこうないうつ同校どうこう生徒せいととも教育きょういくける。1925ねん大正たいしょう14ねん)に京都きょうと舞鶴まいづる移転いてんする。1942ねん昭和しょうわ17ねん)11月に、従来じゅうらい将校しょうこう兵科へいか機関きかんとに区分くぶんしていた将校しょうこう制度せいど改正かいせいされて機関きかん将校しょうこうが「将校しょうこう」へ統合とうごうされたことにともない、1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ廃止はいしされ、あらたに海軍兵学校かいぐんへいがっこう舞鶴まいづる分校ぶんこうとなる(へい一系いっけい)。ただし、「機関きかん学校がっこう」の名称めいしょう横須賀よこすか大楠おおくす既設きせつ海軍かいぐんこう学校がっこう改正かいせいして継承けいしょうされた。舞鶴まいづる分校ぶんこう1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月30にち廃校はいこうとなる。

機関きかんじゅつ整備せいび技術ぎじゅつ中心ちゅうしん機械きかい工学こうがく科学かがく技術ぎじゅつ(火薬かやく燃料ねんりょう調合ちょうごう技術ぎじゅつ)・設計せっけいなどメカニズムにかかわるあらゆる事象じしょう研究けんきゅう教育きょういく推進すいしんした。また、機関きかん将校しょうこうじゅつ学校がっこうであり、とうずみ技能ぎのう造船ぞうせん技術ぎじゅつ訓練くんれん下士官かしかんほどこしていたこう学校がっこう閉校へいこうしていた1914ねん大正たいしょう3ねん) - 1928ねん昭和しょうわ3ねん)のあいだは、こう学校がっこうわる組織そしきとして「練習れんしゅう」を併設へいせつした。なお従来じゅうらい機関きかん将校しょうこう育成いくせいコースは「生徒せいと」としょうした。しかし、機関きかん学校がっこう卒業そつぎょう生徒せいと昇進しょうしん最高さいこうは「中将ちゅうじょう」までで、それ以上いじょう職位しょくいへい学校がっこう出身しゅっしんしゃいた。そのため、志願しがんしゃおおくはへい学校がっこう志望しぼうするので、機関きかん学校がっこう合格ごうかくしゃへい学校がっこう入学にゅうがく試験しけんまえ入校にゅうこう手続てつづきをおこない、へい学校がっこう受験じゅけんきんじる措置そちられていた。

また、将来しょうらい将校しょうこうとなるべき生徒せいと以外いがいにも、じゅん士官しかんおよび下士官かしかんせん修学しゅうがくせいとして教育きょういくした。

海軍かいぐん経理けいり学校がっこう[編集へんしゅう]

海軍かいぐん主計しゅけいぞくする士官しかん養成ようせいするために、1882ねん - 1883ねん1889ねん - 1945ねん海軍かいぐん経理けいり学校がっこうかれる。

1882ねん明治めいじ15ねん)に海軍かいぐん主計しゅけい学舎がくしゃかれる。1886ねん明治めいじ19ねん)に海軍かいぐん主計しゅけい学校がっこうとなる。1883ねん明治めいじ16ねん)に廃止はいしされる。再開さいかいまでの期間きかんは、政府せいふ主計しゅけいかんから選抜せんばつした。1899ねん明治めいじ32ねん)に海軍かいぐん主計しゅけいかん練習れんしゅうしょとしてさいおけされる。1907ねん明治めいじ40ねん)より海軍かいぐん経理けいり学校がっこう改名かいめい1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月30にち廃校はいこうとなる。

経理けいり学校がっこうは、へい学校がっこう機関きかん学校がっこうくらべて視力しりょく制限せいげんゆるかった[18]

主計しゅけいかん任務にんむ金銭きんせん出納すいとう需品じゅひん管理かんりのみならず、酒保しゅほ運営うんえい調理ちょうりなどのけい作業さぎょうから、戦闘せんとう詳報しょうほう記録きろくや「お写真しゃしん[注釈ちゅうしゃく 9]管理かんりなど重要じゅうよう記録きろく儀式ぎしきまで幅広はばひろい。経理けいり学校がっこうでは簿記ぼきのみならず主計しゅけいかん職分しょくぶんすべてを教育きょういくした。

その[編集へんしゅう]

陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうちがって、外地がいちひと外国がいこくじん入校にゅうこう許可きょかされなかった。

戦後せんご日本にっぽん海上かいじょう自衛隊じえいたいでは名称めいしょう海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこうとしているが、外国がいこく海軍かいぐん士官しかん養成ようせい学校がっこうには、戦前せんぜん同様どうよう海軍兵学校かいぐんへいがっこうわけてることがおお[19][20]

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

校長こうちょう[編集へんしゅう]

  1. 川村かわむらじゅんよし明治めいじ3ねん10がつ27にち -
  2. ちゅう牟田むた倉之助くらのすけ明治めいじ4ねん11月3にち -
  3. 松村まつむらあつしぞう明治めいじ9ねん8がつ31にち - ※アナポリスしき教育きょういく導入どうにゅう
  4. 伊藤いとう雋吉明治めいじ10ねん2がつ20日はつか -
  5. 松村まつむらあつしぞう明治めいじ10ねん8がつ23にち -
  6. ちゅう牟田むた倉之助くらのすけ明治めいじ10ねん10がつ31にち -
  7. 伊藤いとう雋吉:明治めいじ11ねん1がつ18にち -
  8. 仁礼にれいけいはん明治めいじ11ねん4がつ5にち -
  9. 本山もとやますすむ明治めいじ13ねん12月8にち -
  10. 伊藤いとう雋吉:明治めいじ14ねん6がつ17にち -
  11. 松村まつむらあつしぞう明治めいじ15ねん10がつ12にち -
  12. 伊東いとうゆう麿まろ明治めいじ17ねん1がつ21にち -
  13. 松村まつむらあつしぞう明治めいじ18ねん12月28にち -
  14. ゆうひんまこと明治めいじ20ねん9がつ28にち -
  15. 吉島よしじまたつやすし明治めいじ22ねん4がつ17にち - ※校長こうちょう代理だいり
  16. 本山もとやますすむ 少将しょうしょう明治めいじ23ねん9がつ24にち - 明治めいじ25ねん2がつ19にち
  17. 山崎やまざきけいそく明治めいじ25ねん7がつ12にち -
  18. 坪井つぼいわたるさん明治めいじ25ねん12月12にち -
  19. 柴山しばやまはち明治めいじ26ねん12がつ20日はつか -
  20. 吉島よしじまたつやすし明治めいじ27ねん7がつ21にち -
  21. 日高ひだかたけしすすむ明治めいじ28ねん7がつ25にち -
  22. 河原かわはら要一よういち明治めいじ32ねん1がつ19にち -
  23. 東郷とうごう正路まさじ明治めいじ35ねん5がつ24にち -
  24. 富岡とみおかじょうきょう 少将しょうしょう明治めいじ36ねん12月28にち - 明治めいじ39ねん11月19にち
  25. 島村しまむら速雄はやお 少将しょうしょう明治めいじ39ねん11月19にち - 明治めいじ41ねん8がつ28にち
  26. よし松茂まつしげ太郎たろう明治めいじ41ねん8がつ28にち - 明治めいじ43ねん12月1にち
  27. 山下やました源太郎げんたろう明治めいじ43ねん12月1にち - 大正たいしょう3ねん3がつ25にち
  28. 有馬ありまりょうたちばな大正たいしょう3ねん3がつ25にち -
  29. 野間口のまぐち兼雄かねお大正たいしょう5ねん12月1にち -
  30. 鈴木すずき貫太郎かんたろう大正たいしょう7ねん12月1にち -
  31. 千坂ちさかさとし次郎じろう大正たいしょう9ねん12月1にち -
  32. 谷口たにぐちしょうしん大正たいしょう12ねん4がつ1にち -
  33. 白根しらねぐまさん大正たいしょう14ねん9がつ8にち -
  34. 鳥巣とりす玉樹たまき昭和しょうわ2ねん4がつ1にち -
  35. 永野ながの修身しゅうしん昭和しょうわ3ねん12がつ10日とおか - ※ドルトン教育きょういくほうによる「けい自発じはつ」の教育きょういく推進すいしん
  36. 大湊おおみなと直太郎なおたろう昭和しょうわ5ねん6がつ10日とおか -
  37. 松下まつしたはじめ昭和しょうわ6ねん12月1にち - ※「しょう」を発案はつあん
  38. 及川おいかわ古志こしろう昭和しょうわ8ねん10がつ3にち -
  39. 出光いでみつよろず兵衛ひょうえ昭和しょうわ10ねん11月15にち -
  40. 住山すみやま徳太郎とくたろう昭和しょうわ12ねん12月1にち -
  41. 新見にいみ政一まさかず昭和しょうわ14ねん11月15にち -
  42. くさ鹿しかにんいち昭和しょうわ16ねん4がつ4にち -
  43. 井上いのうえ成美まさみ昭和しょうわ17ねん10がつ26にち - ※兵科へいか機関きかん統合とうごう推進すいしん
  44. だい川内かわうち傳七でんしち昭和しょうわ19ねん8がつ5にち -
  45. 小松こまつ輝久てるひさ昭和しょうわ19ねん11月4にち - ※講堂こうどう失火しっか事故じこさい引責いんせき辞任じにん
  46. 栗田くりた健男たけお昭和しょうわ20ねん1がつ15にち -

おも卒業生そつぎょうせい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ卒業そつぎょうしただい74期生きせい最後さいご卒業生そつぎょうせいとなったが、終戦しゅうせんにはまだだい75期生きせいからだい78期生きせいまでが在校ざいこうしていた。海軍兵学校かいぐんへいがっこう廃校はいこうされることになると、同年どうねん10がつにはだい75期生きせいかぎって卒業そつぎょうあつかいにしている。
  2. ^ 78期生きせい針尾島はりおじま一般いっぱん科目かもくを1ねんまなび、江田島えたじま本校ほんこううつ計画けいかくだった。記録きろく針尾はりおしまわかさくら』によると、1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ3にち合格ごうかくしゃ4032にん入校にゅうこう志願しがんしゃは7まん3せんにんのぼった。敗戦はいせんまで4カ月かげつはん在籍ざいせきした。
  3. ^ このことから野坂のさかあきら小説しょうせつ火垂ほたるのはか』の設定せっていは、現実げんじつ無視むしした虚構きょこうであるとの宮崎駿みやざきはやおによる批判ひはんがある[3]。「主人公しゅじんこうらの父親ちちおや原作げんさくでは大尉たいい、アニメばんでは巡洋艦じゅんようかん艦長かんちょう大佐たいさ)、テレビドラマばんでは戦艦せんかん艦長かんちょう大佐たいさ)と設定せっていされているところ、このようなもの戦死せんしした場合ばあいにその子弟してい餓死がしするなどほぼありないはなしだから」という。
  4. ^ 1970ねん7がつ実施じっしされたへい76卒業そつぎょう3,522にん職業しょくぎょう状況じょうきょうは、水産すいさん19、鉱業こうぎょう26、建設けんせつ83、食品しょくひん42、繊維せんい62、パルプ・22、化学かがく104、石油せきゆ19、ゴム12、ガラス・土石どせき25、鉄鋼てっこう49、非鉄ひてつ金属きんぞく17、金属きんぞく製品せいひん23、機械きかい49、電気でんき機器きき74、輸送ゆそうよう機械きかい41、放送ほうそう22、精密せいみつ機械きかい11、その製造せいぞうぎょう25、商社しょうしゃ117、商店しょうてん自営じえい)91、金融きんゆう保険ほけん33、不動産ふどうさん11、陸運りくうん73、海運かいうん19、そらうん7、倉庫そうこぎょう7、電力でんりょく・ガス47、サービス12、国家こっか公務員こうむいん123、防衛庁ぼうえいちょう79、地方ちほう公務員こうむいん165、公団こうだん公社こうしゃ63、その公職こうしょく15、教職きょうしょく320、農業のうぎょう22、宗教しゅうきょう10、弁護士べんごし13、会計士かいけいし税理士ぜいりし20、建築けんちく12、弁理べんり2、司法しほう書士しょし2、映画えいが芸能げいのう7、放送ほうそう22、新聞しんぶん出版しゅっぱん著述ちょじゅつ27、広告こうこく11、医師いし219、薬剤師やくざいし2、病院びょういん事務じむちょう3、林業りんぎょう木材もくざいぎょう5、設備せつび工事こうじ7、団体だんたい46、その72、職業しょくぎょう不明ふめい939、死亡しぼう96であり、海軍兵学校かいぐんへいがっこうのかつての在校生ざいこうせい戦後せんご広範こうはん職業しょくぎょういていることがわかる[4]
  5. ^ 坂井さかい三郎さぶろう阿川あがわ弘之ひろゆきらの著作ちょさく顕著けんちょ。「Sol(どく・ゾル;へいへい学校がっこう出身しゅっしんしゃ) vs spare(えい・スペア;交換こうかん可能かのうな「消耗しょうもうひん。」 学徒がくと出身しゅっしん予備よび士官しかんのこと)」。
  6. ^ 海軍兵学校かいぐんへいがっこう海軍かいぐん機関きかん学校がっこう合格ごうかくしゃ学校がっこうべつ内訳うちわけつぎとお[8]
  7. ^ ただし、兵科へいか士官しかん絶対ぜったいすう不足ふそくした1942ねん以降いこう旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこう旧制きゅうせい専門せんもん学校がっこう卒業そつぎょう以上いじょう学歴がくれきゆうするもの海軍かいぐん予備よび学生がくせい兵科へいか士官しかんになる制度せいど導入どうにゅうされた。
  8. ^ a b 海軍かいぐん委託いたく依託いたく学生がくせい」と表記ひょうきする文献ぶんけん[11])もあるが、「海軍かいぐん軍医ぐんい薬剤やくざい主計しゅけい造船ぞうせん造兵ぞうへい造機ぞうき学生がくせい大正たいしょう13ねん1924ねんみことのりれい247ごう海軍かいぐん軍医ぐんい学生がくせい薬剤やくざい学生がくせい主計しゅけい学生がくせい造船ぞうせん学生がくせい造機ぞうき学生がくせい造兵ぞうへい学生がくせいれい[12]ただしい。
  9. ^ 御真影ごしんえい海軍かいぐんとく士官しかん陸軍りくぐん文部省もんぶしょうもちいた御真影ごしんえいというかたりもちいず、また、お写真しゃしん海軍かいぐん大元帥だいげんすい姿すがたであった。昭和しょうわ天皇てんのう海軍かいぐん訪問ほうもんにはいわゆる海軍かいぐんしき敬礼けいれい同様どうよう答礼とうれいおこなった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 徳川とくがわ 2015, 位置いちNo. 1086-1104, だい3しょう 士官しかんであるまえ紳士しんしたれ - 海軍かいぐんかげささえた機関きかん主計しゅけい
  2. ^ 徳川とくがわ 2015, 位置いちNo. 127-155, 序章じょしょう 最後さいご生徒せいと - 世界せかいさん大兵だいひょう学校がっこう
  3. ^ 稲葉いなば振一郎しんいちろう『ナウシカ解読かいどく―ユートピアの臨界りんかい』より
  4. ^ 海軍兵学校かいぐんへいがっこう76とも動静どうせい による。
  5. ^ 豊丘とよおかむら規則きそくだい5ごう昭和しょうわ49ねん6がつ19にち別表べっぴょうだい3
  6. ^ a b 法令ほうれい全書ぜんしょ
  7. ^ 安藤あんどうきく (1975-03-15), 築地つきじ地区ちく蔵屋敷くらやしき, 郷土きょうどしつだより (東京とうきょう中央ちゅうおう京橋きょうばし図書館としょかん) (だい8ごう), https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/images/upload/kyodo_008.pdf 2022ねん7がつ4にち閲覧えつらん 
  8. ^ 中村なかむら文雄ふみおぐんしょ学校がっこう入学にゅうがく資格しかく獲得かくとくをめぐる私学しがく官学かんがくとのこうそう
  9. ^ 海軍かいぐんさんこう入試にゅうし状況じょうきょう調しらべ( 昭和しょうわ 9ねん いたり 昭和しょうわ20ねん
  10. ^ 海軍兵学校かいぐんへいがっこうだい69(1938ねん4がつ入学にゅうがく)名簿めいぼ などによる
  11. ^ 手塚てづかただしおのれ新版しんぱん 軍艦ぐんかん武藏むさし上巻じょうかん太田出版おおたしゅっぱん、2015ねん、305ぺーじ 
  12. ^ a b c 官報かんぽう大正たいしょう13ねん10がつ20にちごう)』大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1924ねん、460-461ぺーじ 
  13. ^ a b c ほり元美もとみだい1しょう 大学だいがく海軍かいぐん士官しかんはるよる訪問ほうもんしゃ」『造船ぞうせん士官しかん回想かいそう上巻じょうかん朝日あさひソノラマしん戦史せんしシリーズ〉、1994ねん、11-25ぺーじ 
  14. ^ 工藤くどう 2018, p. 259
  15. ^ 阿川あがわ弘之ひろゆき井上いのうえ成美まさみ
  16. ^ a b 雨倉あめくら 2007, pp. 14–17, スノッティー
  17. ^ 雨倉あめくら 2007, pp. 20–24, 下士官かしかん へい 牛馬ぎゅうば 候補こうほせい
  18. ^ 小泉こいずみ 2009, pp. 28–31, だいいちしょう せまもん - さん
  19. ^ べい海軍兵学校かいぐんへいがっこう学生がくせい来校らいこう - 防衛大学校ぼうえいだいがくこう
  20. ^ 在日ざいにちまい海軍かいぐん司令しれい [@CNFJ] (2023ねん2がつ8にち). "アナポリスにある海軍兵学校かいぐんへいがっこうで、今年ことし卒業そつぎょうむか艦船かんせん勤務きんむ水上すいじょう戦士せんしかんとなることがまっているべい海軍かいぐん士官しかん候補こうほせいたちがはつ勤務きんむさき艦船かんせんえらぶシップ・セレクションがおこなわれました。". X(きゅうTwitter)より2023ねん2がつ18にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 雨倉あめくら孝之たかゆき帝国ていこく海軍かいぐん士官しかん入門にゅうもん光人みつひとしゃ光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ〉、2007ねん 
  • 海軍かいぐん教育きょういく本部ほんぶ へん帝国ていこく海軍かいぐん教育きょういくだい1 - 9かん別巻べっかん (はら書房しょぼう明治めいじひゃくねん叢書そうしょ、1983ねん
  • 工藤くどう美知みちひろ海軍かいぐん大将たいしょう井上いのうえ成美まさみしお書房しょぼう光人みつひとしんしゃ、2018ねんISBN 978-4-7698-1662-1 
  • 小泉こいずみ昌義まさよし『ある海軍かいぐん中佐ちゅうさ一家いっか家計かけい簿光人みつひとしゃ光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ〉、2009ねん 
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう研究けんきゅうかいへん海軍かいぐん江田島えたじま教育きょういく』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1996ねん新版しんぱん2003ねんISBN 4404024444 
  • 徳川とくがわそうすぐる江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう 究極きゅうきょく人間にんげん教育きょういく』(講談社こうだんしゃ、2006ねん
  • 徳川とくがわそうすぐる江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう 究極きゅうきょく人間にんげん教育きょういく』(Amazon KindleKADOKAWA角川かどかわ新書しんしょ〉、2015ねん 豊田とよだみのる同期どうきさくら』(光人みつひとしゃ文庫ぶんこ、1994ねんISBN 4769820518
  • 豊田とよだみのる江田島えたじま教育きょういく』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ新版しんぱん2000ねんISBN 4404004389
  • いまこそりたい江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう 世界せかい通用つうようする日本人にっぽんじんそだてたエリート教育きょういく原点げんてん
    平間ひらま洋一よういち市来いちき俊男としお雨倉あめくら孝之たかゆきほか4めい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 2009ねん
  • セシル・ブロック 『江田島えたじま-イギリスじん教師きょうし海軍兵学校かいぐんへいがっこう』(西山にしやま真雄まさおやく銀河ぎんが出版しゅっぱん、1996ねんISBN 4906436749
  • 真継まつぎ不二夫ふじお海軍兵学校かいぐんへいがっこう江田島えたじま健児けんじ記録きろく』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1970ねん
  • 江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう 別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 2008ねん
  • 写真しゃしんしゅう海軍兵学校かいぐんへいがっこう 江田島えたじま本校ほんこう 岩国いわくに分校ぶんこう 大原おおはら分校ぶんこう 舞鶴まいづる分校ぶんこう 針尾はりお分校ぶんこう』(秋元あきもと書房しょぼう 1990ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]