(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ニコラ・ヴァプツァロフ海軍兵学校 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ニコラ・ヴァプツァロフ海軍兵学校かいぐんへいがっこう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Nikola Vaptsarov
海軍かいぐん士官しかん学校がっこう
モットー Filii maris sumus
モットー (英語えいご) われらはうみども
設立せつりつねん 1881
Commander (Rector) 提督ていとく Boyan Mednikarov(教授きょうじゅDSc
所在地しょざいち  ブルガリア
ヴァルナ
Badge
公式こうしきサイト www.naval-acad.bg
テンプレートを表示ひょうじ

ニコラ・ヴァプツァロフ海軍兵学校かいぐんへいがっこうブルガリア: Висше Военноморско Училище "Никола Йонков Вапцаров", ВВМУ英語えいご: Nikola Vaptsarov Naval Academy, NVNA)は、ブルガリア海軍兵学校かいぐんへいがっこう海事かいじ教育きょういく機関きかん大学だいがく

ブルガリア共和きょうわこくもっとふる技術ぎじゅつ教育きょういく機関きかんであり、その歴史れきし成果せいかにより、海軍かいぐん教育きょういく商船しょうせん教育きょういく双方そうほうにおいて国内こくないもっと権威けんいある海事かいじ教育きょういく機関きかんである。ブルガリア公国こうこく戦争せんそうしょうの1881ねん1がつ16にち指令しれいだい7じょうしたがってルセに「海事かいじ学校がっこう(Морско училище)」としてかれ、同月どうげつ9にち設立せつりつ発表はっぴょうされた。

同校どうこう創設そうせつしゃでありブルガリア海軍かいぐん艦隊かんたい提督ていとくであったアレクサンダー・エゴロビッチ・コンケヴィッチ中尉ちゅういかんする[1]

VVMUヴァルナ。
ブルガリア海軍かいぐんはつ司令しれいかんであり、海事かいじ学校がっこう創設そうせつしゃである中尉ちゅうい司令しれいかんアレクサンダー・コンケビッチ

歴史れきし[編集へんしゅう]

黎明れいめい(1881ねん - 1919ねん[編集へんしゅう]

海事かいじ学校がっこうは、ブルガリア公国こうこく海軍かいぐんのために機械きかいこう機関きかん助手じょしゅ訓練くんれんする任務にんむになった。1883ねん以降いこう公式こうしき文書ぶんしょではこの学校がっこうを「機械きかい学校がっこう」、「技術ぎじゅつ学校がっこう」、「機械きかい学級がっきゅう」とんでいたが、その役目やくめわらず艦隊かんたい海軍かいぐん技術ぎじゅつ専門せんもん育成いくせいつづけた。1885ねんには、学校がっこう卒業生そつぎょうせいセルビア・ブルガリア戦争せんそう英語えいごばんたたかい、そのうち2人ふたりかれらの功績こうせきたたえるしょう授与じゅよされた。Georgi Zhivkov 教育きょういく大臣だいじん教育きょういく改革かいかく影響えいきょうけて19世紀せいき後半こうはんブルガリア教育きょういく機関きかん発展はってんにない、この過程かてい海事かいじ教育きょういくおおくの側面そくめん影響えいきょうあたえた。その結果けっか、1892ねん学校がっこうさい編成へんせいされ、水夫すいふ普通ふつう船員せんいん砲兵ほうへい機関きかん助手じょしゅ機械きかいこう仲間なかま訓練くんれんした「海軍兵学校かいぐんへいがっこう」に改名かいめいされた。また、おなねん海軍かいぐん形成けいせいおおきな影響えいきょうのあったアルマ・マータとして最初さいしょ卒業そつぎょう証書しょうしょ授与じゅよされた。

海事かいじ学校がっこうはつ司令しれいかんだい2中尉ちゅういDip(Eng)Pavel Alexeevich Mashnin(1848ねん、Sevastopol - 1900ねん、Port Arthur)

1893ねん参謀さんぼう将校しょうこう訓練くんれんのための海軍かいぐん科学かがくはつ臨時りんじコースがルセ開催かいさいされた。1881ねん海事かいじ学校がっこう海軍かいぐん士官しかん学校がっこうはじまりであるだけでなく、現代げんだいのほとんどの大学だいがく工学部こうがくぶ学部がくぶ原型げんけいにもなった。特筆とくひつすべきことは、1893ねん臨時りんじ士官しかんコースは、現代げんだい航海こうかい学部がくぶ、ならびに海軍かいぐん戦術せんじゅつ航海こうかい部隊ぶたい艦隊かんたい港湾こうわん部隊ぶたいなどの部局ぶきょく原型げんけいになったということである。事実じじつ この「臨時りんじコース」の組織そしきづくりは、このくにでナビゲーションの専門せんもん訓練くんれんする教育きょういく構造こうぞうの、歴史れきしてき発展はってんはじまりをあらわしていた。[2]

コースでは、海軍かいぐん資格しかく取得しゅとくするためにやってきたソフィアのミリタリースクールの卒業生そつぎょうせい、ならびになんらかの理由りゆう海外かいがい海軍かいぐん学校がっこう入学にゅうがくすることができなかったブルガリアじん卒業生そつぎょうせい訓練くんれんした。臨時りんじ士官しかんコースの参加さんかしゃたちはそれらに合格ごうかくし、試験しけんけると、海軍かいぐん士官しかん資格しかく授与じゅよされた。

20世紀せいきわりになると、ふく将校しょうこう海事かいじ学校がっこうあらたないちすことになる。1900ねんにはTodor Solarov中尉ちゅういがトップとなり、機関きかんVarnaうつされ「艦隊かんたい工科こうか学校がっこう」へと改名かいめいされた。Todor Solarov中尉ちゅういは、卒業生そつぎょうせいのより徹底的てっていてき訓練くんれん必要ひつようせいもとめ、その結果けっか、1904ねん国会こっかいめによってこくに最初さいしょ技術ぎじゅつ中等ちゅうとう学校がっこうとなり、訓練くんれん期間きかんは6ねん延長えんちょうされた。1906ねん学校がっこう最初さいしょ入学にゅうがく証明しょうめいしょ発行はっこうした。1910ねんには、帝国ていこく艦隊かんたい工科こうか学校がっこうのために特別とくべつ設計せっけいされたはじめての校舎こうしゃが、ヴァルナ建設けんせつされた。

1892ねん、Hadzhipanteleev卒業そつぎょう証書しょうしょ海事かいじ学校がっこうもっとふる卒業そつぎょう証書しょうしょとして後世こうせいのこされている。
1913ねん - 1916ねん 帝国ていこく艦隊かんたい工科こうか学校がっこう建物たてもの

ルセのこった部隊ぶたいは「Miner and Stoker School機関きかん助手じょしゅ訓練くんれんけた坑夫こうふ学校がっこう)」と改名かいめいされ、実技じつぎ訓練くんれんふくむ4年間ねんかん訓練くんれん期間きかんと、最初さいしょの2年間ねんかん訓練くんれんでは学生がくせいたちは強制きょうせいてき軍事ぐんじサービスをすることとしてみとめられた。この学校がっこうは1909ねん一時いちじ閉鎖へいさされたが、1912ねん艦隊かんたい技術ぎじゅつ専門せんもん必要ひつようせいたかまったため、海兵かいへいたい特別とくべつ学校がっこうという名称めいしょうのもとで再開さいかいされた。これは、ヴァルナにあらたに結成けっせいされた「訓練くんれん部隊ぶたいばれる構造こうぞう従属じゅうぞくしたものである(のちに「海事かいじ訓練くんれん部隊ぶたい」に改名かいめい)。この学校がっこうは1912ねん設立せつりつされた。1913ねんかれらは34めい士官しかん候補こうほせいはつのクラスをれた。もともと、海事かいじ特別とくべつ学校がっこうは3つのユニット:鉱業こうぎょう電気でんき工学こうがく機関きかん助手じょしゅ操縦そうじゅうしゃから構成こうせいされていた。そこにだいいち世界せかい大戦たいせんなか潜水せんすい無線むせん電信でんしん結成けっせいされ、円滑えんかつ機能きのうしました。学校がっこうでの訓練くんれん期間きかんは4年間ねんかんだった。これらは、現在げんざい大学院だいがくいん研究けんきゅうおよびNikola Vaptsarov海軍かいぐん士官しかん学校がっこうないProfessional Sergeant(軍曹ぐんそう) College原型げんけいなすことができる。

1912ねんまでに、訓練くんれん部隊ぶたい特別とくべつ学校がっこうだけでなく帝国ていこく艦隊かんたい工学部こうがくぶふくめた。国家こっか統一とういつ戦争せんそう(1912ねん - 1918ねん)では、訓練くんれん部隊ぶたい卒業生そつぎょうせい地雷じらい敷設ふせつおよび地雷じらい撤去てっきょ作戦さくせんオスマン帝国ていこく巡洋艦じゅんようかんハミディエにたいする攻撃こうげき[3] バルチクカヴァルナおよびカリアクラでのバルチク協定きょうていでアサルト作戦さくせん参加さんかした。かれらはあたらしい海軍かいぐん装備そうび水上みずかみ飛行機ひこうき最初さいしょのブルガリアではつ潜水せんすいかん操縦そうじゅう方法ほうほう取得しゅとくしていることをほこりにしていた。そしてまたこれはフランス語ふらんすご、それからドイツ研究けんきゅう導入どうにゅうされた期間きかんであり、その結果けっか帝国ていこく艦隊かんたい工学科こうがっか卒業生そつぎょうせい何人なんにんかは海軍かいぐん士官しかんになるためにえらばれ、リボルノ (イタリア- 1914ねん)や、のちにMarineschuleMürwik (ドイツ - 1916 - 1918ねん)の海軍かいぐん大学だいがくでの訓練くんれんおくられた[4]

工学部こうがくぶにも変化へんかがあった。1917ねんには海軍かいぐんアルマメーター卒業生そつぎょうせい選抜せんばつグループのための短期たんき訓練くんれんコースののちはつ士官しかんクラスが卒業そつぎょうした。1918ねんには、1922ねんまでのこっていた現在げんざいのシーガーデンの現在げんざい水族館すいぞくかん建物たてものけた。国家こっか統一とういつ戦争せんそう海事かいじ教育きょういくシステムはべつさい編成へんせいけた。訓練くんれん部隊ぶたい現在げんざい海事かいじ訓練くんれん部隊ぶたい」とばれ、ニコラ・バプサロフ海軍かいぐん士官しかん学校がっこうもっと近代きんだいてき学部がくぶ学科がっかおよび大学だいがく起源きげんとするすべての教育きょういく機関きかんになうことになった。

海事かいじ訓練くんれん部隊ぶたい(1912ねん~1948ねん)と1927ねん~1931ねんごろのその下位かい組織そしき

現在げんざい名前なまえ確立かくりつ[編集へんしゅう]

1919ねんから1920ねんあいだ士官しかん養成ようせい課程かてい順調じゅんちょう継続けいぞくされ、1920ねん6がつ1にち閣僚かくりょう評議ひょうぎかいれいだい6じょうもとづく最初さいしょ卒業生そつぎょうせいには、より高度こうど特殊とくしゅ海軍かいぐん教育きょういく修了しゅうりょうしょう発行はっこうされた。サンクトペテルブルク海上かいじょう軍団ぐんだんのフルカリキュラム高等こうとう教育きょういく卒業そつぎょう証書しょうしょ先行せんこうコースの参加さんかしゃ発行はっこうされた。あとでこの構造こうぞうのカリキュラムは大幅おおはば改良かいりょうされた。1925ねんと1928ねんに、蓄積ちくせきされた経験けいけんもとづいて、2つの造船ぞうせんしょコースが形成けいせいされた。長年ながねん理論りろんてきおよび実践じっせんてき訓練くんれんのち修了しゅうりょうした高等こうとう専門せんもん海軍かいぐん教育きょういく卒業そつぎょう証書しょうしょ発行はっこうされ、そのうちの何人なんにんかは海上かいじょう警察けいさつサービス(ブルガリア海軍かいぐんヌイイ=シュル=セーヌした存在そんざいしたさい公式こうしき称号しょうごう)の著名ちょめいなメンバーになり、ブルガリアの商業しょうぎょう海運かいうん会社かいしゃ(Navigation Maritime Bulgare LTDの前身ぜんしん)の「マスターマリナー」になった。

1921ねんはる、ヌイイ=シュル=セーヌの平和へいわ条約じょうやく条項じょうこうもとづき、帝国ていこく海軍かいぐん解散かいさんされた。しかしその1ねんまえから、工学部こうがくぶはもはや戦争せんそうしょう従属じゅうぞくしていなかったので、海洋かいよう工学部こうがくぶ改名かいめいされ継続けいぞくされた。訓練くんれん実際じっさいてき部分ぶぶんは、兵器へいき船上せんじょう電気でんき工学こうがく教室きょうしつない電話でんわ交換こうかん所内しょない無線むせん送信そうしん室内しつない発電はつでん所内しょない鉄道てつどう基地きちおよび作業場さぎょうばない駆逐くちく艦船かんせんじょうボジュリシュテペルニク鉱山こうざんないおおくの場所ばしょおこなわれた。学校がっこうのち鉄道てつどう通信つうしんおよび港湾こうわんしょう従属じゅうぞくし、卒業生そつぎょうせいはすべての高等こうとう専門せんもん学校がっこう勉強べんきょうつづけることができた。

実際じっさいには、だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ直後ちょくご海上かいじょう特殊とくしゅ学校がっこう一部いちぶである操縦そうじゅう学科がっか(unit)が分離ぶんりされ、1934ねん4がつ1にちまで存在そんざいしていた漁業ぎょぎょう学科がっかわった。

1929ねん海洋かいよう工学科こうがっか学校がっこう地位ちい特別とくべつほうさだめられ「海事かいじ学校がっこう」と改名かいめいされた。その2ねん商船しょうせん設立せつりつされ、商船しょうせん監視かんしかん訓練くんれんけた。海事かいじ警察けいさつたい士官しかんは、ヴァルナの海事かいじスクールで部分ぶぶんてき訓練くんれんされ、最終さいしゅうてきにはソフィアのミリタリースクールを卒業そつぎょうした。のちに1923ねん高等こうとう教育きょういく機関きかんとなったソフィアの大学だいがくは、士官しかん大学だいがく教育きょういくける必要ひつようがあるかぎり、およびヌイイ=シュル=セーヌ・ブルガリア条約じょうやく条件じょうけんもとで、1つの軍事ぐんじ大学だいがくのみをつことをみとめられた。

1930ねんに、海事かいじ特別とくべつ学校がっこうさい編成へんせいされ、3つのあたらしいユニット:電気でんき工学こうがく機械きかいおよびモーターが創設そうせつされた。かれらのプログラム(すなわち、カリキュラム)は補完ほかんされ改善かいぜんされた。のち海事かいじ特別とくべつ学校がっこう改名かいめいされた技術ぎじゅつしゃ学校がっこう鉱夫こうふ機関きかん助手じょしゅ学校がっこうは、海軍かいぐん新興しんこうブルガリアの産業さんぎょうかいのニーズにわせてすうひゃくにんゆう資格しかくスペシャリストを訓練くんれんしただけではなく、このくにはつ教育きょういく機関きかんだった。かれらは中級ちゅうきゅう技術ぎじゅつレベル国家こっか公務員こうむいん根幹こんかんとなった。

1934ねんに、海洋かいよう工学こうがく学校がっこうソゾポルまちちかくのせいシリルとうすで閉鎖へいさされた漁師りょうし学校がっこう建物たてものうつされた。1940ねん学校がっこうヴァルナのStefan Karadzha Streetのおおきく印象いんしょうてき建物たてものもどりました。同年どうねん、その卒業生そつぎょうせいたちはブルガリア王国おうこく国境こっきょうにあるみなみドブルジャ帰還きかんちゅうにバルチクでの襲撃しゅうげき作戦さくせん参加さんかした。

1942ねん王立おうりつれいで、海事かいじ学校がっこうせんもん高等こうとう海洋かいよう学校がっこう地位ちいと「帝国ていこく海軍かいぐん学校がっこう」のけた。1943ねん海軍かいぐん部隊ぶたい予備よび砲兵ほうへい学校がっこう(ヴァルナ)に開設かいせつされ、海軍かいぐん予備よびたい将校しょうこう養成ようせいのために帝国ていこく海軍かいぐん学校がっこう設立せつりつされた。

1945ねんから1946ねんまでのあいだ、この学校がっこうは「海上かいじょう保安ほあんへの海軍かいぐん人民じんみん学校がっこう」とばれ、1946ねんから1949ねんまでは「人民じんみん海軍かいぐん学校がっこう」とばれていた。1949ねんに、海軍かいぐん学校がっこうはそのオーナーで1926ねん卒業生そつぎょうせいNikola Vaptsarov の名前なまえ採用さいようし「N.Y.Vaptsarov人民じんみん海軍かいぐん学校がっこう」とばれるようになった。

現在げんざい日々ひび活動かつどう[編集へんしゅう]

1953ねん、チェコとアルバニアからの士官しかん候補こうほせいむかえ、1994ねんまでに4大陸たいりく11カ国かこくから141にん外国がいこくじん海軍兵学校かいぐんへいがっこうより卒業そつぎょう証書しょうしょった。

1986ねんごろ学校がっこうのオーナーの記念きねんまえにいる外国がいこく士官しかん候補こうほせい
だい9かいセッションとなる1977ねんに、工業こうぎょう卒業そつぎょうしたAtanas Totchkovにおくられた「海軍かいぐん青少年せいしょうねんのための技術ぎじゅつてきおよび科学かがく創造そうぞうてき活動かつどう(ブルガリアではТНТФМ)」におけるこう励賞

1954ねん学校がっこう現在げんざい建物たてもの(Vasil Drumev どおり73番地ばんち)に移転いてん。1956ねん国民こくみん議会ぎかい大統領だいとうりょうれいで、それは高等こうとう工学こうがく海事かいじ学校がっこう地位ちいけ、「ニコラ・ヴァプツァロフ人民じんみん高等こうとう海軍かいぐん学校がっこう」に改名かいめいされた。1960ねん国連こくれんへの国際こくさい海事かいじ機関きかん(IMO)認定にんていける。

1968ねんに、キャンパスない本館ほんかんにフロアが追加ついかされた。1991ねん以降いこう学校がっこうあたらしい名前なまえは「Nikola Vaptsarov Naval Academy」である。2000ねんには、海軍かいぐん士官しかん学校がっこうがIMOのホワイトリストに登録とうろくされ、STCW 78/95に準拠じゅんきょした海事かいじ教育きょういくおよび訓練くんれん承認しょうにんされた教育きょういく提供ていきょうしゃとなった。2001ねんに、閣僚かくりょう評議ひょうぎかいへの査定さてい認定にんていのための国家こっか機関きかん決定けっていで、それは高等こうとう教育きょういくかんするあたらしい法律ほうりつしたがって、大学だいがくとして完全かんぜん認定にんていけました。2000ねんには、ロイズの登録とうろくから[5]、そして2004ねんにはISO 9001-2000でISO 9002.4品質ひんしつ証明しょうめいしょけました。2007ねん9がつ防衛ぼうえい大臣だいじん要請ようせいにより、そしてブルガリア共和きょうわこく教育きょういく科学かがく大臣だいじん命令めいれいにより、ヴァルナのNikola Vaptsarov海軍かいぐん士官しかん学校がっこうへの専門せんもん専門せんもんしょく大学だいがく設立せつりつされた。

今日きょうでは、海兵かいへい世界せかいてきみとめられた基準きじゅんしたがってブルガリア海軍かいぐん商船しょうせん士官しかん将校しょうこう訓練くんれんつづけてる。ブルガリア海軍かいぐん将校しょうこうは、海上かいじょう任務にんむそなえ、NATO密接みっせつ協力きょうりょくし、おおくの演習えんしゅう参加さんかしている。にちべいえいふつどくノルウェーギリシャイスラエルトルコフィリピンなどの外資がいしけい企業きぎょうでは、卒業そつぎょうした商船しょうせん士官しかん船長せんちょう機関きかん技師ぎしとしてはたらいている。

2004ねん以来いらい国際こくさい海事かいじ大学だいがく連合れんごう(International Association of Maritime Universities、IAMU) [1]加盟かめいこうである。海洋かいよう教育きょういく訓練くんれん(MET)戦略せんりゃく策定さくてい支援しえん欧州おうしゅう地域ちいき代表だいひょう、IAMU委員いいんかい会議かいぎ主催しゅさいなど、同校どうこうはIAMUの発展はってん積極せっきょくてき役割やくわりたしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Kozhukharov, Asen N. (2012). “Portretyt na kapitan-lejtenant Aleksandyr Konkevich” (Bulgarian). Historical Future (1–2): 232–237. 
  2. ^ Kozhukharov, Asen N. (2009). “Za nachaloto na vissheto voennomorsko obrazovanie v Bylgarija” (Bulgarian). Voennoistoricheski sbornik (2–3): 1423. 
  3. ^ Kozhukharov, Asen N. (2008). “Za kakvo svidetelstva lichniiat arhiv na edin zabraven vyzpitanik na Morsko uchilishte?” (Bulgarian). Godishnik na Voennomorskiia muzej-Varna (6): 85–94. 
  4. ^ Kozhukharov, Asen N. (2011). “Za bylgarite-vyzpitanitsi na italianskoto voennomorsko uchilishte v Livorno” (Bulgarian). Strategies for Policy in Science and Education 2: 164–81. 
  5. ^ Kolev, Kiril (2001). 120 years of Naval Academy – chronicles of an age-long tradition. Varna, Bulgaria: NVNA – Varna