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井上いのうえ成美まさみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
井上いのうえいのうえ 成美まさみしげよし
Admiral Shigeyoshi Inoue
渾名あだな 三角さんかく定規じょうぎ[1]剃刀かみそり[2]最後さいご海軍かいぐん大将たいしょう[3]
生誕せいたん 1889ねん12月9にち
日本の旗 日本にっぽん宮城みやぎけん仙台せんだい
死没しぼつ (1975-12-15) 1975ねん12月15にち(86さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん横須賀よこすか
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1906ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
墓所はかしょ 多磨たま霊園れいえん
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井上いのうえ 成美まさみ(いのうえ しげよし/せいび[注釈ちゅうしゃく 1]1889ねん明治めいじ22ねん12月9にち - 1975ねん昭和しょうわ50ねん12月15にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょう帝国ていこく海軍かいぐん最後さいご大将たいしょう昇進しょうしんした二人ふたり軍人ぐんじん一人ひとり[注釈ちゅうしゃく 2][7]

生涯しょうがい

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ぜん半生はんせい

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1889ねん明治めいじ22ねん)12月9にち宮城みやぎけん仙台せんだいブドウえん経営けいえいするきゅう幕臣ばくしん井上いのうえよしみのりの11おとことしてまれる。「成美まさみ」というは『論語ろんごかおふちへん一節いっせついわく、君子くんしひとす、ひとあくさず、小人こどもはこれにはんす」に由来ゆらいし、ちちからそんな人間にんげんになるようにとなんおしえられた成美まさみはこのほこりとした[8]1902ねん明治めいじ35ねん)3がつ31にち宮城みやぎけん尋常じんじょう師範しはん学校がっこう附属ふぞく小学校しょうがっこう高等こうとう2ねん修了しゅうりょう。4月1にち宮城みやぎ県立けんりつだいいち中学校ちゅうがっこう分校ぶんこう入学にゅうがくし、分校ぶんこう廃校はいこうともな1905ねん明治めいじ38ねん)に宮城みやぎ県立けんりつだい中学校ちゅうがっこう移動いどう中学ちゅうがく4ねん終了しゅうりょう成績せいせきは「60にんちゅう1ばんゆう数学すうがくれつ漢文かんぶん運動うんどう不定ふてい[注釈ちゅうしゃく 3]嗜好しこう音楽おんがく細工ざいく」とある。だい中学校ちゅうがっこう同級生どうきゅうせい回想かいそうでは「井上いのうえくんおそろしくあたまく、数学すうがく英語えいご得意とくいだった」という[10]

1906ねん明治めいじ39ねん)10がつ31にち海軍兵学校かいぐんへいがっこう合格ごうかくともな中学ちゅうがくを5年生ねんせい中退ちゅうたいし、11月24にち海軍兵学校かいぐんへいがっこうだい37成績せいせき順位じゅんい181めいちゅう9ばん入学にゅうがく[11][注釈ちゅうしゃく 4]入校にゅうこう成績せいせきまる分隊ぶんたい所属しょぞくだい9分隊ぶんたいで、どう分隊ぶんたいさんごう生徒せいと15めいちゅうでは先任せんにんしゃであった[13]当時とうじ井上いのうえは「訓練くんれんいかめしかったが、(りゃく国家こっか自分じぶんたちへい学校がっこう生徒せいと大事だいじにしてくれる、とかんじたし、自尊心じそんしんまれてきて、(りゃく自分じぶんえらんだみち自分じぶんっていたな、という気持きもちになった」と回想かいそうしている[14]

へい学校がっこうさんごう生徒せいといち学年がくねん井上いのうえ在校ざいこうへい学校がっこう在校ざいこう期間きかんは3ねん)であった井上いのうえは、「英語えいご成績せいせきわる生徒せいと」として教官きょうかんから名指なざしされた。井上いのうえは、英語えいご抜群ばつぐん評価ひょうかされていた同期生どうきせい英語えいご勉強べんきょう方法ほうほうたずね「英語えいご小説しょうせつ"Adventures of Sherlock Holmes" でも原書げんしょでどんどんめ」と助言じょげんされ、同書どうしょれてんでみたもののたなかった。へい学校がっこう入校にゅうこうに181めいちゅう9ばん好成績こうせいせきだった井上いのうえは、ごう生徒せいと学年がくねん)に進級しんきゅうするときは16ばん席次せきじがった。しかし、ごう生徒せいとになるまでには英語えいごりょくたかめ、ごう生徒せいといち学期がっきには首席しゅせきとなった[15]

1909ねん明治めいじ42ねん)11月19にち海軍兵学校かいぐんへいがっこう成績せいせき順位じゅんい179めいちゅう2ばん卒業そつぎょうし、少尉しょうい候補こうほせいとなる。卒業そつぎょうさいし、恩賜おんし双眼鏡そうがんきょう拝受はいじゅ[16]2とう巡洋艦じゅんようかん宗谷そうや乗組のりくみだいいち実習じっしゅうはじまり練習れんしゅう艦隊かんたい近海きんかい航海こうかいへと出発しゅっぱつ[注釈ちゅうしゃく 5]し、12月29にち帰着きちゃく1910ねん明治めいじ43ねん)2がつ1にち練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい出発しゅっぱつ[注釈ちゅうしゃく 6]、7がつ3にち帰着きちゃくした。だい演習えんしゅうはじまると戦艦せんかん三笠みかさ[注釈ちゅうしゃく 7]装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん春日しゅんじつ乗組のりくみて、12月15にち海軍かいぐん少尉しょうい任官にんかん

海軍かいぐん少尉しょういへの任官にんかんに、へい37さい先任せんにんしゃ(クラスヘッド)となった[18]

1911ねん明治めいじ44ねん)1がつ18にちめぐよう戦艦せんかん鞍馬あんば乗組のりくみ鞍馬あんば同年どうねん4がつから11がつまでイギリスジョージ5せい戴冠たいかん記念きねん観艦式かんかんしきえい艦隊かんたい旗艦きかんとして参加さんかする[19]1912ねん明治めいじ45ねん)4がつ24にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう普通ふつう科学かがくせいとなり、山本やまもと五十六いそろくから兵器へいきがくおそわった。8月9にち海軍かいぐん水雷すいらい学校がっこう普通ふつう科学かがくせいとなり、在校ざいこうちゅうの12月1にち海軍かいぐん中尉ちゅうい進級しんきゅう[20]1913ねん大正たいしょう2ねん)2がつ10日とおかとう海防かいぼうかん高千穂たかちほ乗組のりくみ9月26にちめぐよう戦艦せんかん比叡ひえい乗組のりくみ1914ねん大正たいしょう2ねん)8がつ23にちだいいち世界せかい大戦たいせんともな日本にっぽんドイツ宣戦せんせん布告ふこくした。比叡ひえい青島ちんたおドイツぐん基地きち攻略こうりゃくする陸軍りくぐん部隊ぶたい間接かんせつ掩護えんごめいじられ、やく1かげつあいだ東シナ海ひがししなかい方面ほうめん警戒けいかい任務にんむたったが、戦闘せんとうしょうじなかった[21]1915ねん大正たいしょう4ねん)7がつ19にちだい17駆逐くちくたい駆逐くちくかんさくら乗組のりくみ井上いのうえ最初さいしょ最後さいご駆逐くちくかん勤務きんむとなった[22]12月13にち海軍かいぐん大尉たいいとなり戦艦せんかん扶桑ふそう分隊ぶんたいちょう1916ねん大正たいしょう5ねん)12月1にち海軍かいぐんだい学校がっこう乙種おつしゅ学生がくせいとなる。1917ねん大正たいしょう6ねん)5がつ1にち海軍かいぐんだい学校がっこう専修せんしゅう学生がくせいとなり、12月1にち卒業そつぎょう航海こうかい専門せんもんとする兵科へいか将校しょうこうとなった[23]砲艦ほうかんよどみ航海こうかいちょう[注釈ちゅうしゃく 8]1917ねん大正たいしょう6ねん)1がつ19にち、27さいはら喜久代きくよ(20さい)と結婚けっこん喜久代きくよ係累けいるいについては「親類しんるい関係かんけい」を参照さんしょう)。義姉ぎし・たま(あに井上いのうえ秀二しゅうじつま)のいもうと婿むこ大平おおひら善一ぜんいち親友しんゆう阿部あべ信行のぶゆき義妹ぎまい喜久子きくこというえんであった[25]だいいち世界せかい大戦たいせんにおいてだいいち特務とくむ艦隊かんたいぞくし、インド洋いんどよう方面ほうめんでの通商つうしょう保護ほご従事じゅうじ1918ねん大正たいしょう7ねん)5がつ帰投きとうし、同年どうねん7がつよどみ日本にっぽん占領せんりょうしたドイツりょう南洋なんよう群島ぐんとう巡航じゅんこうしてしん占領せんりょう整備せいび従事じゅうじし、やく5かげつ小笠原諸島おがさわらしょとう父島ちちじま帰投きとう[26]

1918ねん大正たいしょう7ねん)12月1にちスイス駐在ちゅうざい武官ぶかん拝命はいめいする。1919ねん大正たいしょう8ねん)2がつ8にち長女ちょうじょの靚子が誕生たんじょうした。靚子の誕生たんじょう見届みとどけた井上いのうえは、2がつ10日とおか神戸こうべこう出発しゅっぱつし4がつにスイスに着任ちゃくにんした。井上いのうえ毎日まいにち1あいだドイツじん教師きょうしについてドイツ個人こじん教授きょうじゅけて習得しゅうとくはげみ、スイス到着とうちゃくの2かげつに「独語どくご日常にちじょう会話かいわ支障ししょうない程度ていどたっした」むね海軍かいぐん次官じかん報告ほうこくした。しかしスイスじんのドイツにはなまりがあり、習得しゅうとくさまたげとなるため、井上いのうえ早期そうきにドイツにうつることをのぞんだ。1920ねん大正たいしょう9ねん)7がつ1にち平和へいわ条約じょうやく実施じっし委員いいんとなり、ベルリンえいふつ委員いいんたちとドイツぐん武装ぶそう解除かいじょ従事じゅうじ井上いのうえのドイツは、ドイツ当局とうきょくしゃとの折衝せっしょう通訳つうやくようさず、イギリス将校しょうこうのために通訳つうやくをするレベルにたっしていた[27]ざいおうちゅうフランス語ふらんすご習得しゅうとくしたいという井上いのうえ希望きぼうとおり、「平和へいわ条約じょうやく実施じっし委員いいん」をめんぜられ、1921ねん大正たいしょう10ねん)9がつ1にちからフランス駐在ちゅうざいとなり、パリフランス語ふらんすご修得しゅうとく従事じゅうじし、フランスじん教師きょうし個人こじん教授きょうじゅ毎日まいにち1あいだけた。井上いのうえのフランス駐在ちゅうざいわずか3かげつだったが、日本にっぽんへの帰国きこく海軍かいぐん次官じかん代理だいりに「仏語ふつごは、み・き・会話かいわ、いずれも支障ししょうないレベルにたっした」むね報告ほうこくしている[28]井上いのうえは「海軍かいぐん生活せいかつにおいて、独語どくごにちどくさんこく軍事ぐんじ同盟どうめいやくった程度ていどだが、仏語ふつごは、後々あとあと勤務きんむにおいて外国がいこくじんとの付合つきあいに使つか機会きかいおお大変たいへんやくった」と回想かいそうする[29]。12月1にち海軍かいぐん少佐しょうさとなる。大西洋たいせいようわたアメリカ経由けいゆで2がつ帰国きこくした。生涯しょうがい唯一ゆいいつのアメリカ訪問ほうもんだった[30]

1922ねん大正たいしょう11ねん)3がつ1にちけい巡洋艦じゅんようかん球磨くま航海こうかいちょうけん分隊ぶんたいちょうとなり、おもシベリア出兵しゅっぺいともな警備けいび行動こうどう従事じゅうじした[31]。12月1にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅだい22入校にゅうこう大尉たいい時代じだい欧州おうしゅうに3年間ねんかん駐在ちゅうざいし、甲種こうしゅ学生がくせい受験じゅけんできなかった井上いのうえは、従来じゅうらい規則きそくでは受験じゅけん資格しかくうしなところだったが、規則きそく改正かいせいにより受験じゅけんできた。井上いのうえ同僚どうりょうから「甲種こうしゅ入学にゅうがく規則きそくわったのは、貴様きさまのためだって評判ひょうばんだよ」とやかされたという。井上いのうえ甲種こうしゅ学生がくせい選考せんこう試験しけんでの筆記ひっき試験しけん成績せいせきは60ばんで、本来ほんらいなら落第らくだいだったが、海外かいがい勤務きんむながかったことを考慮こうりょして特例とくれい口頭こうとう試験しけん受験じゅけんゆるされ、口頭こうとう試験しけんでは1ばん合格ごうかくした[32]1924ねん大正たいしょう13ねん)12月1にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ学生がくせい卒業そつぎょう海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくだいいちB局員きょくいん井上いのうえ海軍かいぐん書記官しょきかん榎本えのもと重治しげはる親友しんゆうとなった[注釈ちゅうしゃく 9]

1925ねん大正たいしょう14ねん)、榎本えのもと重治しげはる海軍かいぐん書記官しょきかんに「治安ちあん維持いじほうちか成立せいりつするが、共産党きょうさんとうふうめずに自由じゆう活動かつどうさせるほうがよいとおもうが」とわれた井上いのうえ無言むごんであった。それからじゅうすうねんった戦後せんごのある横須賀よこすか長井ながい井上いのうえたくはじめてたずねてきた榎本えのもとにぎって、井上いのうえは「いまでもやまれるのは、共産党きょうさんとう治安ちあん維持いじほうさえつけたことだ。いまのように自由じゆうにしておくべきではなかったか。そうすれば戦争せんそうきなかったのではあるまいか」とかたった[37]

1925ねん大正たいしょう14ねん)12月1にち中佐ちゅうさ進級しんきゅう[38]1927ねん昭和しょうわ2ねん)10がつ1にち海軍かいぐん軍令ぐんれい出仕しゅっし11月1にちざいイタリア日本にっぽん大使館たいしかんイタリアばん海軍かいぐん駐在ちゅうざい武官ぶかんけんかんせい本部ほんぶ造船ぞうせん造兵ぞうへい監督かんとくかんけん航空こうくう本部ほんぶ造兵ぞうへい監督かんとくかん横浜よこはまこうからわたりおうローマ着任ちゃくにんした井上いのうえイタリアじんイタリアぐんについてネガティブな経験けいけんかさねた。これは、井上いのうえ軍務ぐんむ局長きょくちょう時代じだいにちどくさんこく同盟どうめい反対はんたいする理由りゆうひとつとなった[39]1929ねん昭和しょうわ4ねん)11月30にち海軍かいぐん大佐たいさとなり12がつ帰国きこくした[40]帰国きこくした井上いのうえつま喜久代きくよ肺結核はいけっかく悪化あっかして看護かんご必要ひつようであるため、海軍かいぐん人事じんじ当局とうきょく陸上りくじょう勤務きんむねが1930ねん昭和しょうわ5ねん)1がつ10日とおか海軍かいぐんだい学校がっこう教官きょうかんされた。井上いのうえ人事じんじ当局とうきょく配慮はいりょ感謝かんしゃし、空気くうき鎌倉かまくらいえりて喜久代きくよ療養りょうよう優先ゆうせんした。井上いのうえうみだい教官きょうかんとして甲種こうしゅ学生がくせいへの戦略せんりゃく教育きょういく担当たんとうした。井上いのうえ戦略せんりゃく教育きょういく理詰りづめであり「せんくん基礎きそとしないへいじゅつろん卓上たくじょう空論くうろんぎない」「精神せいしんりょくじゅつりょく技量ぎりょう)を加味かみしないじゅん数学すうがくてきな(戦略せんりゃく講義こうぎをすることは、士気しき悪影響あくえいきょうおよぼす」という批判ひはんけた[41]

軍務ぐんむきょくいち課長かちょう

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1932ねん昭和しょうわ7ねん)10がつ1にち軍令ぐんれい出仕しゅっしけん海軍かいぐんしょう出仕しゅっし軍務ぐんむきょくだいいち勤務きんむ海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょう寺島てらしまけん指名しめいにより[42]、11月1にち海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくだいいち課長かちょうされた。海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょく海軍かいぐん軍政ぐんせいようであり、井上いのうえされたいち課長かちょうは、きょく筆頭ひっとう課長かちょうであった[43]同日どうじつつま喜久代きくよ肺結核はいけっかく死去しきょした(37さいぼつ[44]

井上いのうえは、いち事件じけんにおける海軍かいぐん青年せいねん士官しかん中心ちゅうしんとする首謀しゅぼうしゃたちが世論せろんから英雄えいゆうされている風潮ふうちょう危機ききかんおぼえた。井上いのうえはこの事件じけん刺激しげきされた陸軍りくぐん青年せいねん将校しょうこうたちが「海軍かいぐんさきされた」とかんがえ、かならことこすにちがいないと予想よそうしていた[45]井上いのうえ海軍かいぐんしょうを「海軍かいぐん兵力へいりょく」でまも準備じゅんびはじめた。海軍かいぐんしょう構内こうないにある東京とうきょう海軍かいぐん無線むせん電信でんしんしょが「官衙かんが」ではなく「部隊ぶたい」であり武装ぶそうできることにづき、小銃しょうじゅう20てい配備はいびした。所長しょちょうが、井上いのうえ同期どうき武田たけだ哲郎てつろうであったのがさいわいした。さらに「軍事ぐんじ普及ふきゅうならびに宣伝せんでんよう」という名目めいもく戦車せんしゃいちだい海軍かいぐん省内しょうない常駐じょうちゅうさせた[46]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)3がつ軍令ぐんれい権限けんげん強化きょうかする「軍令ぐんれい条例じょうれいなみはぶけ事務じむ互渉規定きてい改定かいていあん」を軍令ぐんれい提起ていきしたさい試案しあん通読つうどくした井上いのうえは、このけんみずか処理しょりすることとした。海軍かいぐんしょう代表だいひょうする井上いのうえたいする軍令ぐんれいがわ代表だいひょうは、軍令ぐんれいだい課長かちょう南雲なぐも忠一ただかず大佐たいさであり、南雲なぐも井上いのうえなんも「ころすぞ」と脅迫きょうはくした[47]井上いのうえは、表書おもてがきは「井上いのうえ成美まさみ遺書いしょ / 本人ほんにんほろぼせばクラスかい幹事かんじ開封かいふうありたし」、本文ほんぶんは「どこにも借金しゃっきんはなし。むすめこうおんな高等こうとう女学校じょがっこう)だけは卒業そつぎょうさせ、出来できれば海軍かいぐん士官しかんよめがせしめたし」という遺書いしょ執務しつむつくえれていた[48]改定かいていあん決裁けっさい権限けんげんしゃ海軍かいぐん大臣だいじん)は主務しゅむ課長かちょう井上いのうえ決裁けっさいしないため成立せいりつせず、8がつはいると軍令ぐんれい自身じしん改定かいてい最終さいしゅうあんつくり、海軍かいぐん大臣だいじん大角おおすみ岑生みねお大将たいしょうきつけ、軍令ぐんれい部長ぶちょう伏見ふしみみやひろしきょうおう大角おおすみ辞職じしょくをちらつかせた[48]大角おおすみ伏見ふしみみや圧力あつりょくくっ[49]うみしょう以下いか海軍かいぐんしょう首脳しゅのう改定かいていあん同意どういした。

9月16にちあさ寺島てらしま井上いのうえ軍務ぐんむ局長きょくちょうしつび、井上いのうえ改定かいていあん同意どういするようったが井上いのうえ拒否きょひし、さらに「事態じたい紛糾ふんきゅうさせた責任せきにんをとって辞職じしょくする」むね返答へんとうし、軍服ぐんぷく背広せびろ着替きがえて鎌倉かまくらいえかえった。海軍かいぐん次官じかん藤田ふじた尚徳なおのり中将ちゅうじょう使者ししゃがそのばん井上いのうえたく訪問ほうもんして翻意ほんいうながしたが、井上いのうえ拒否きょひした[50]海軍かいぐん大臣だいじん秘書官ひしょかんまきあきら少佐しょうさは、しゅうけの9がつ18にちに、だいしゅ軍装ぐんそうむね勲章くんしょうった井上いのうえ海軍かいぐん大臣だいじんしつからたため、井上いのうえ大角おおすみ進退しんたいをうかがい、予備よびやく編入へんにゅうねがたと解釈かいしゃくした。まきわりに大臣だいじんしつはいると、大角おおすみは「そうまでおもいつめんでええとうんだが、井上いのうえだく(き)かんのだ。なんへんってもだくかんのだ。こまったな、こまったな」とあかかおをしてったという[51]軍令ぐんれい条例じょうれいしょう事務じむ互渉規定きてい大角おおすみ決裁けっさいにより改正かいせいされ、昭和しょうわ天皇てんのう裁可さいかするさいに「ひと運用うんようあやまれば、政府せいふ所管しょかんである予算よさん人事じんじに、軍令ぐんれい過度かど介入かいにゅうする懸念けねんがある。海軍かいぐん大臣だいじんとしてそれを回避かいひする所信しょしんはどうか」とうた。これはまさ井上いのうえ危惧きぐし、反対はんたいしたところだった[52]

比叡ひえい艦長かんちょう

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9がつ20日はつか井上いのうえ横須賀よこすか鎮守ちんじゅづけとなった。予備よびやく編入へんにゅう前提ぜんていとするような辞令じれいだった[51]が、伏見ふしみみやが「井上いのうえをよいポストにやってくれ」[53]口添くちぞえしたため[53]井上いのうえ予備よびやく編入へんにゅうされず、11月15にちづけ練習れんしゅう戦艦せんかん比叡ひえい艦長かんちょうされた[54]

井上いのうえは、比叡ひえい若手わかて士官しかん国粋こくすい思想しそう影響えいきょうけた会合かいごう出席しゅっせきするのをきんじた。そのうえで「軍人ぐんじんみことのりさとし」を平易へいいいた冊子さっしみことのりさとし衍義」を「比叡ひえい乗組のりくみ士官しかん全員ぜんいん配布はいふした。この「みことのりさとし衍義」はのち井上いのうえ兵学へいがく校長こうちょう着任ちゃくにんしたさいにも、教官きょうかんけん幹事かんじ参考さんこう資料しりょうとして配布はいふされた。そのさい井上いのうえみずからつけた説明せつめいぶんに「本稿ほんこう記述きじゅつ当時とうじ昭和しょうわ9ねん)は5.15事件じけんにして海軍かいぐん部内ぶない思想しそう動揺どうよう時代じだいこれ少々しょうしょう過言かごんかもれず、しか本職ほんしょく左様さようかんがえて対処たいしょせり]なりしことを念頭ねんとうきてこれむのようあり」とある。井上いのうえは「比叡ひえい」の若手わかて士官しかんたちに「軍人ぐんじん平素へいそでも刀剣とうけんびることをゆるされているのは、くにまもるというきわめて国家こっかてき職分しょくぶんになっているからである。統帥とうすいけん発動はつどうもないのに勝手かってひところせということではない」とかえさとした[55]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)、三浦みうら半島はんとう西側にしがわ横須賀よこすか反対はんたいがわ長井ながいまち相模さがみわん一望いちぼうできる海岸かいがんめんしたがけえん井上いのうえいえ完成かんせいした[注釈ちゅうしゃく 10]比叡ひえいロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくにより練習れんしゅう戦艦せんかんとなっており、横須賀よこすか鎮守ちんじゅ所属しょぞく警備けいびかんで、横須賀よこすか軍港ぐんこうざいはくしていた。比叡ひえい艦内かんない起居ききょする井上いのうえは、毎週まいしゅうまつには長井ながい新宅しんたくもどった。一人娘ひとりむすめの靚子は、東京とうきょう西大久保にしおおくぼ親戚しんせき阿部あべ信行のぶゆき陸軍りくぐん大将たいしょうたく寄宿きしゅくして、東京とうきょう女子じょし高等こうとう師範しはん学校がっこう付属ふぞく高等こうとう女学校じょがっこうげんちゃ水女子大学みずじょしだいがく附属ふぞく中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう[注釈ちゅうしゃく 11]かよっていたが、週末しゅうまつには長井ながい井上いのうえたくもどってきて、ちちむすめにん水入みずいらずの生活せいかつたのしんだ。夏休なつやすみには、靚子が女学校じょがっこう友達ともだちれてくることもあった[60][注釈ちゅうしゃく 12]

1935ねん昭和しょうわ10ねん)4がつ1にち井上いのうえ大連たいれんみなと桟橋さんばしに「計算尺けいさんじゃく操艦そうかんしているようなやりかたで」ぴったりせっふなばたさせて、大連たいれんこうみなとつとむ部長ぶちょうに「戦艦せんかん本港ほんこう横付よこづけしたのははじめてです」と操艦そうかんうで賞賛しょうさんされた。当時とうじ戦艦せんかんのような大型おおがた艦船かんせん入港にゅうこうしても、直接ちょくせつ接岸せつがんこころみると接触せっしょくかんたいおおきな破損はそんの惧れがあるため、沖合おきあいにいかりはくするのが普通ふつうだった[64]井上いのうえは、翌朝よくあさまで帰艦きかんしない予定よてい上陸じょうりくした。従兵じゅうへいちょう下士官かしかんが、そのすき艦長かんちょうしつのベッドで熟睡じゅくすいしてしまった。予定よていげて帰艦きかんした井上いのうえがこれをつけたが、だれにもわなかった。懲罰ちょうばつけずにんだ従兵じゅうへいちょう井上いのうえ恩情おんじょうながとくとした[65]

また、井上いのうえ比叡ひえい飛行ひこうちょう今川いまがわ福雄ふくお大尉たいい操縦そうじゅうする94しきすいにしばしば同乗どうじょうした。飛行ひこう出身しゅっしんでない艦長かんちょうが、搭載とうさい同乗どうじょうするのは異例いれいであった。井上いのうえしたしくせっした今川いまがわは、井上いのうえ人格じんかくみ、井上いのうえ了解りょうかいて、井上いのうえ名前なまえ成美まさみ」にあやかって息子むすこ成雄しげお(しげお)、むすめ美子よしこ(よしこ)と名付なづけ、戦後せんご度々たびたび井上いのうえたくたずねた[66]

井上いのうえによると、大尉たいいとき航海こうかいちょうつとめたよどみ常備じょうび排水はいすいりょう1,450トン)のようなちいさなフネならわないのに、フネがおおきくなるほどいやすかった。比叡ひえい艦長かんちょうときには、戦艦せんかん艦長かんちょうたるもの航海こうかいちゅう船酔ふなよいでているわけにはかず一番いちばんこまったという[67]

横須賀よこすか鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょう

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1935ねん昭和しょうわ10ねん)8がつ1にちふたた横須賀よこすか鎮守ちんじゅづけとなる。少将しょうしょう進級しんきゅう直前ちょくぜんである6ねん大佐たいさ現職げんしょくはなれるのは異例いれいだった[68][注釈ちゅうしゃく 13]。 11月15にち海軍かいぐん少将しょうしょう進級しんきゅう慣例かんれいどおりクラスヘッドとして同期どうき最初さいしょ少将しょうしょう[70])し、横須賀よこすか鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょうとなる。12月1にち米内よない光政みつまさ横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん着任ちゃくにんした。このころ井上いのうえべいない信頼しんらい以降いこうべいないした活躍かつやくすることになる[71]

海軍かいぐんしょう所在しょざいする東京とうきょう管轄かんかつし、麾下きか実戦じっせん部隊ぶたいゆうしている横須賀よこすか鎮守ちんじゅ以下いかよこ鎮)の参謀さんぼうちょうとなり、海軍かいぐんしょうを『海軍かいぐん兵力へいりょく』でまも対策たいさく十分じゅうぶん準備じゅんびできる立場たちばとなった井上いのうえは、長官ちょうかんべいない承認しょうにんていざというとき即座そくざ十分じゅうぶんな「海軍かいぐん兵力へいりょく」を東京とうきょう海軍かいぐんしょうけられるように下記かきのように準備じゅんびした。

  1. よこ所属しょぞく兵員へいいん特別とくべつ陸戦りくせんたいいち大隊だいたい編成へんせいして、2かい召集しょうしゅうし、顔合かおあわせと訓練くんれんおこなった。
  2. 万一まんいちときには海軍かいぐんしょう派遣はけんし、大臣だいじん官房かんぼうはし使づかいや連絡れんらくたらせ、または小銃しょうじゅうたせて海軍かいぐんしょう警備けいびたらせるべく、横須賀よこすか所在しょざい海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう要請ようせいして、砲術ほうじゅつ学校がっこう所属しょぞくするてのひら砲兵ほうへい20にんをいつでもよこ鎮に呼集こしゅうできるように準備じゅんびした。
  3. いかなる場合ばあいでも、特別とくべつ陸戦りくせんたいいち大隊だいたい東京とうきょう海軍かいぐんしょう急派きゅうはするため、よこ所属しょぞく警備けいびかんであるけい巡洋艦じゅんようかん那珂なか艦長かんちょう昼夜ちゅうやゆきわず、芝浦しばうら急行きゅうこうできるよう研究けんきゅうめいじた。

これらのしん目的もくてきるのは、べいない井上いのうえ先任せんにん参謀さんぼうよこ鎮トップ3めいのみだった[72]

井上いのうえよこ鎮に着任ちゃくにんすると、庁舎ちょうしゃない記者きしゃ控室ひかえしつつくってそこに参考さんこう図書としょそなえるなど、新聞しんぶん記者きしゃ便宜べんぎはかった[注釈ちゅうしゃく 14]1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつ20にちごろ出入でいりの新聞しんぶん記者きしゃから、東京とうきょう警視庁けいしちょうまえ陸軍りくぐん夜間やかん演習えんしゅうおこなったという情報じょうほう井上いのうえはいる。井上いのうえ警戒けいかい態勢たいせいはいり、2がつ26にち早朝そうちょう官舎かんしゃ就寝しゅうしんちゅう井上いのうえ副官ふっかんから電話でんわはいった。「新聞しんぶん記者きしゃから、本日ほんじつ早朝そうちょう陸軍りくぐん反乱はんらんこしたという情報じょうほうはいった」という二・二六事件ににろくじけん勃発ぼっぱつらせだった。井上いのうえは、幕僚ばくりょう全員ぜんいん鎮守ちんじゅ非常ひじょう召集しょうしゅうするようめいじて、自分じぶんただちに登庁とうちょうした[73]井上いのうえが、よこ鎮にくと、すで幕僚ばくりょうたちは全員ぜんいんそろっていた。副官ふっかんから詳細しょうさい情報じょうほういたうえで、かねて用意よういった。

  • よこ鎮砲じゅつ参謀さんぼう自動車じどうしゃで、東京とうきょう実情じつじょう実視じっし急派きゅうは
  • よこ鎮から海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう所属しょぞくてのひら砲兵ほうへい20にん海軍かいぐんしょう急派きゅうは
  • 特別とくべつ陸戦りくせんたいいち大隊だいたい用意よういけい巡洋艦じゅんようかん木曽きそ急速きゅうそく出港しゅっこう用意ようい[注釈ちゅうしゃく 15]
  • よこ鎮麾かく部隊ぶたい自衛じえい警戒けいかい

井上いのうえ事前じぜん準備じゅんびこうそうし、すべての措置そち混乱こんらんなく実施じっしされた。[74]

午前ごぜん9ちかく、長官ちょうかん官舎かんしゃべいないから「おれったほうがいいか」と電話でんわがかかってきた[注釈ちゅうしゃく 16]井上いのうえは「当面とうめんすべちましたが、やはり長官ちょうかん鎮守ちんじゅにおいでのほうがよろしいでしょう」と返答へんとうした。登庁とうちょうしたべいないは、井上いのうえ陸軍りくぐん反乱はんらん部隊ぶたい宮城みやぎ占領せんりょうしたらどうすべきかうた。井上いのうえは「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下へいか比叡ひえいよこ所属しょぞく)においでねがいましょう。その日本にっぽんこくちゅう号令ごうれいをかけなさい。陸軍りくぐんがどんなことをっても、海軍かいぐん兵力へいりょく陛下へいかをおりするのだと。とにかく(陛下へいかに)軍艦ぐんかんっていただければ、もうしめたものだ」と即答そくとうした[75]特別とくべつ陸戦りくせんたいいち大隊だいたいせた木曽きそ出港しゅっこう寸前すんぜんに、軍令ぐんれいから「った」がかかった。警備けいび派兵はへいには手続てつづきり、よこ長官ちょうかん麾下きか警備けいびかん管区かんくない行動こうどうさせるのにも、軍令ぐんれい総長そうちょう天皇てんのう命令めいれい伝達でんたつする形式けいしきまねばならないという内容ないようだった。軍令ぐんれいは「横須賀よこすか鎮守ちんじゅ特別とくべつ陸戦りくせんたい(曩<さき>に派遣はけんのものをあわよん大隊だいたい基幹きかんとす)を東京とうきょう派遣はけん海軍かいぐん関係かんけいしょ官庁かんちょう自衛じえい警戒けいかいにんじしめらる」という命令めいれいした。この時点じてんよこ鎮が用意よういしていた特別とくべつ陸戦りくせんたいいち大隊だいたいだったので、さん大隊だいたい追加ついか編成へんせいする必要ひつようしょうじた。そのため、佐藤さとうただし四郎しろう大佐たいさ指揮しきするよこ鎮特べつ陸戦りくせんたい4大隊だいたいは、その午後ごごおそくにようやく東京とうきょうかすみせき海軍かいぐんしょう(2012ねん現在げんざい農林水産省のうりんすいさんしょう本庁ほんちょうしゃ場所ばしょ)に到着とうちゃくした。井上いのうえにとっては不本意ふほんいであった[76]が、結果けっかとして特別とくべつ陸戦りくせんたい4大隊だいたい(2,000めい[77]編成へんせい派遣はけんしたことで、陸軍りくぐん反乱はんらん部隊ぶたい歩兵ほへいのみで1,500めい程度ていど)とどう規模きぼ陸戦りくせん兵力へいりょく海軍かいぐんしょう配備はいびすることができた。

戦後せんご井上いのうえろく事件じけん当時とうじ軍法ぐんぽうによると、よこ鎮の所管しょかん区域くいきである「神奈川かながわけん東京とうきょう海岸かいがん海面かいめんじょうよこ鎮麾警備けいびかん行動こうどうさせるのはよこ長官ちょうかん権限けんげん実施じっしできた。ただし、海軍かいぐんしょう警備けいびのために陸戦りくせんたい芝浦しばうら上陸じょうりくさせるのは、「陸上りくじょう」はよこ鎮の所管しょかん区域くいきではないため、よこ長官ちょうかん権限けんげんえたかもしれない。これは、よこ長官ちょうかんゆうする「警備けいび権限けんげん解釈かいしゃく、すなわち『鎮守ちんじゅれいだい2じょう鎮守ちんじゅ所管しょかん海軍かいぐん警備けいびかんすることをてのひらり」の解釈かいしゃく問題もんだいである。結果けっかとしては軍令ぐんれい干渉かんしょうくっしてしまったが、「木曽きそ」を芝浦しばうら回航かいこうするのは、軍令ぐんれいなにおうが、よこ長官ちょうかん権限けんげん出来できたのだから、ただちにやるべきだった、とやんでいる。[78]井上いのうえが、海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくいち課長かちょう時代じだいに、生命せいめいしょくして反対はんたいした「しょう事務じむ互渉規程きてい改訂かいてい」により、改訂かいていまえ海軍かいぐん大臣だいじん管轄かんかつだった「国内こくない警備けいびかんせん部隊ぶたい派遣はけん」に干渉かんしょうできるようになっていた軍令ぐんれいが、よこ鎮の素早すばやうごきにったをかけたのは、井上いのうえ軍務ぐんむきょくいち課長かちょう時代じだい危惧きぐたったことになる[78]

11月16にち軍令ぐんれい出仕しゅっしけん海軍かいぐんしょう出仕しゅっしてんじ、兵科へいか機関きかん将校しょうこう統合とうごう問題もんだい研究けんきゅう従事じゅうじ海軍かいぐん大臣だいじん永野ながの修身しゅうしん大将たいしょう特命とくめいによって、海軍かいぐん長年ながねん懸案けんあんだった「兵科へいか将校しょうこう機関きかん将校しょうこう一系いっけいへい一系いっけい)」問題もんだい解決かいけつ専念せんねんした[79]1937ねん昭和しょうわ12ねん)、井上いのうえは「兵科へいか将校しょうこう機関きかん将校しょうこう両方りょうほう勤務きんむをこなす少尉しょうい候補こうほせい育成いくせいには、現在げんざいへい学校がっこう機関きかん学校がっこう修業しゅうぎょう年限ねんげん4ねんでも不足ふそく。4ねん修業しゅうぎょう年限ねんげん維持いじするなら、一系いっけい促進そくしんすべし」という答申とうしんしょを、海軍かいぐん次官じかん山本やまもと五十六いそろく提出ていしゅつした[80][注釈ちゅうしゃく 17]

軍務ぐんむ局長きょくちょう

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1937ねん昭和しょうわ12ねん)10がつ20日はつか海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょうけん将官しょうかん会議かいぎ議員ぎいん米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじんに、山本やまもと五十六いそろく海軍かいぐん次官じかんすで就任しゅうにんしていた。海軍かいぐんしょうめの新聞しんぶん記者きしゃたちは、このさんにんを「海軍かいぐんしょう左派さはトリオ」とんだ[82]

このころささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)が本格ほんかくした時期じきであった。揚子江ようすこう流域りゅういきには、えいべいふつ権益けんえきおお存在そんざいし、それらのくにとの摩擦まさつ各所かくしょき、海軍かいぐん関係かんけいする問題もんだいすべ軍務ぐんむ局長きょくちょう井上いのうえ集中しゅうちゅうした。井上いのうえによれば「(中国ちゅうごくにおける軍事ぐんじ行動こうどうにおいては、つねにアメリカを刺激しげきしないように、おこらせないようにと苦心くしんし、)航空こうくう部隊ぶたい連中れんちゅうにはまことどくだったが、その軍事ぐんじ行動こうどう非常ひじょうきびしい制限せいげんくわえられ(ていた)」という。12月12にち海軍かいぐん艦上かんじょう爆撃ばくげきたいが、南京なんきん付近ふきん揚子江ようすこうじょう米国べいこく砲艦ほうかん誤爆ごばく沈没ちんぼつさせる「パナイごう事件じけん」が発生はっせいした。井上いのうえは、米国べいこく態度たいど硬化こうか危惧きぐし、山本やまもととも素早すばや率直そっちょくみとめ、事件じけん収拾しゅうしゅうすべく奔走ほんそうした。日本にっぽん政府せいふ当時とうじ常識じょうしきえる多額たがく賠償金ばいしょうきん220まんドル=670まんえん当時とうじ)を支払しはらい、ちゅうにち大使たいしグルーつうじてアメリカに陳謝ちんしゃする措置そちった[83]

井上いのうえは「昭和しょうわ12、13、14ねんにまたがるわたし軍務ぐんむ局長きょくちょう時代じだいの2年間ねんかんは、その時間じかん精力せいりょく大半たいはんを(にちどくさんこく同盟どうめい問題もんだいに、しかも積極せっきょくせいのある建設けんせつてき努力どりょくでなしに、ただ陸軍りくぐんぜんぐん一致いっち強力きょうりょく主張しゅちょうと、これ共鳴きょうめいする海軍かいぐん若手わかて攻勢こうせいたいする防禦ぼうぎょだけについやされたかんあり」と回想かいそうする[84]。ドイツはにちどくさん国防こくぼうども協定きょうてい軍事ぐんじ同盟どうめい強化きょうかしたいと日本にっぽん打診だしんしてきた。海軍かいぐん部内ぶないさんこく同盟どうめい肯定こうていてきものおおく、マスコミは、えいべいふつの「露骨ろこつな援蔣行為こうい」を批判ひはんし、ドイツの「躍進やくしん」ぶりをげて、はんえいべいしんどく世論せろんあおっていた。しかし、べいない山本やまもと井上いのうえさんこく同盟どうめい絶対ぜったい反対はんたい態度たいど堅持けんじした[85]井上いのうえは「海軍かいぐんで(さんこく同盟どうめいに)反対はんたいしているのは、大臣だいじん次官じかん軍務ぐんむ局長きょくちょうさんにんだけということも世間せけん周知しゅうち事実じじつになってしまった。山本やまもと次官じかん右翼うよくからねらわれているとの情報じょうほうあり、次官じかん護衛ごえいをつけ、官舎かんしゃかえじゅん色々いろいろえたり、秘書官ひしょかん心配しんぱいしてわたしに、催涙さいるいだんでもおちになってはいかがですかともうたのもこのころのことであった」と回想かいそうしている[86]

ドイツ堪能かんのう井上いのうえアドルフ・ヒトラーの『Mein Kampf』(『闘争とうそう』の原書げんしょ)をみ、そのなかで「日本人にっぽんじんは、想像そうぞうりょくのないおとった民族みんぞくだが、小器用こぎようでドイツじん手足てあしとして使つかうには便利べんりだ」という箇所かしょ訳本やくほんはぶかれていることをっていた[87]井上いのうえはその部分ぶぶん局員きょくいんたちにはなしてもだれみみをかさなかったので、訳文やくぶんガリ版がりばんってくばったがだれかいさなかったのではらてていた[87]井上いのうえ軍務ぐんむ局長きょくちょうめい海軍かいぐん省内しょうないに「ヒトラーは日本人にっぽんじん想像そうぞうりょく欠如けつじょした劣等れっとう民族みんぞく、ただしドイツの手先てさきとして使つかうなら小器用こぎよう小利口こりこうやく存在そんざいている。かれいつわらざるたいにち認識にんしきはこれであり、ナチス日本にっぽん接近せっきんしん理由りゆうもそこにあるのだから、ドイツをたのむに対等たいとう友邦ゆうほうしんじているきは三思さんしさんしょうようあり、自戒じかいのぞむ」と通達つうたつした[88]

さんこく同盟どうめい主張しゅちょうする陸軍りくぐんと、反対はんたいする海軍かいぐん交渉こうしょうすすむにつれ、論点ろんてんは「自動じどう参戦さんせん義務ぎむ条項じょうこう」にしぼられた。陸軍りくぐんはこれを是認ぜにんし、海軍かいぐん絶対ぜったい反対はんたいであった[89]さんこく同盟どうめいめぐ陸軍りくぐん海軍かいぐん対立たいりつ頂点ちょうてんたっした1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ上旬じょうじゅんには、陸軍りくぐんがクーデターをこすのではないかという見方みかたが、海軍かいぐんしょう井上いのうえらの周囲しゅういつよまってきた[90]。14にちあさには、こうじまち付近ふきん演習えんしゅうしていた陸軍りくぐん部隊ぶたいが、東京とうきょうかすみせき海軍かいぐんしょうまえまで姿すがたあらわしてった。井上いのうえは、横須賀よこすか鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょう先任せんにん参謀さんぼう砲術ほうじゅつ学校がっこう教頭きょうとう陸戦りくせん課長かちょうらを海軍かいぐんしょうんで海軍かいぐんしょう警備けいびわせをおこなった。井上いのうえ海軍かいぐんしょう建物たてもの陸戦りくせんたい兵力へいりょく防衛ぼうえいできるが、みず電気でんきられた場合ばあい対応たいおう出来できるかとかんがえ、部下ぶか軍務ぐんむきょくだいさん課長かちょう海軍かいぐんしょう構内こうない井戸いど水量すいりょう小型こがた発電はつでんなどの検討けんとう指示しじした[91]

10がつ10日とおか井上いのうえ一人娘ひとりむすめの靚子が、海軍かいぐん軍医ぐんい大尉たいい丸田まるたきちじん(よしんど)と結婚けっこんした[92]

10月18にち軍令ぐんれい出仕しゅっしてんず。

ささえ事変じへんささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう

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1939ねん昭和しょうわ14ねん)10がつ23にちささえ方面ほうめん艦隊かんたいけんだいさん艦隊かんたい参謀さんぼうちょうされ、上海しゃんはいざいはくするささえ方面ほうめん艦隊かんたい旗艦きかん出雲いずも」へ赴任ふにんした[93]。11月15にち井上いのうえ中将ちゅうじょう進級しんきゅうし、同時どうじだいさん艦隊かんたいかいたい兼任けんにんかれた[94]

艦隊かんたい司令しれい所属しょぞく軍楽隊ぐんがくたいをかけ、旗艦きかん出雲いずもないに、邪魔じゃまにならない練習れんしゅう場所ばしょ確保かくほしてやったり、国際こくさい都市とし上海しゃんはいゆえに一流いちりゅう楽団がくだん演奏えんそうかい音楽おんがく映画えいが上映じょうえいがあると、ポケットマネーで切符きっぷってぜん楽員がくいんかせたりと、物心ぶっしん双方そうほう援助えんじょをした。きんやピアノの演奏えんそうけており、音楽おんがく素養そようふか井上いのうえは、軍楽隊ぐんがくたい演奏えんそうする都度つどがついたことを楽員がくいんにアドバイスした。休日きゅうじつには日本人にっぽんじん公園こうえん野外やがい演奏えんそうおこなわせ、外国がいこくじんふく聴衆ちょうしゅうから拍手はくしゅける経験けいけんませ、軍楽隊ぐんがくたい士気しきたかめた[95]

ある会食かいしょくで、めぬさけってほろ加減かげんとなった井上いのうえは、へい学校がっこうで2クラス井上いのうえいちごう生徒せいとときさんごう生徒せいと)のだい防備ぼうびたい司令しれい板垣いたがきもり大佐たいさに「貴様きさままえだけど、貴様きさま兄貴あにき板垣いたがき征四郎せいしろう)、ありゃほんとうにいやなやつだな。東京とうきょうにいたころ、おれ軍務ぐんむ局長きょくちょう相手あいて大臣だいじんで、対等たいとう勝負しょうぶにならなかったが、今度こんどおな参謀さんぼうちょうだ。南京なんきん機会きかいがあったらはらえかねていることをうんとわせてもらうから、ついでのときそうつたえとけよ」[注釈ちゅうしゃく 18]貴様きさま陸軍りくぐんすすめばよかったな。そうすりゃ、あの兄貴あにききでいまごろ少将しょうしょうかもしれんぞ。しかったんじゃないか、おい」とからんだ。温厚おんこう板垣いたがきいやかおもしなかったが、末席まっせきいていた、ささえ方面ほうめん艦隊かんたいさい後任こうにん幕僚ばくりょう暗号あんごう担当たんとう)の市来いちきさきしゅうまる大尉たいいは、井上いのうえさんこく同盟どうめいめぐって板垣いたがき征四郎せいしろう不愉快ふゆかいおもいを多々たたさせられたのはかるが、なん責任せきにんもないおとうとにひどいことをうものだ、と板垣いたがきもり同情どうじょうした[98]

日本にっぽんぐん陸上りくじょうから攻撃こうげきできない重慶たーちん抗戦こうせんつづける蔣介せき政権せいけん崩壊ほうかいさせるため、1940ねん昭和しょうわ15ねん)5がつ1にちから9がつ5にちまでのやく4かげつあいだ、「いちいちごう作戦さくせん」(重慶たーちんばくげき)が実施じっしされた。陸海りくかいぐん航空こうくう兵力へいりょく結集けっしゅうして、四川しせんしょう方面ほうめん中国ちゅうごく空軍くうぐん撃滅げきめつし、重慶たーちんの蔣介せき政権せいけん政府せいふ機関きかん軍事ぐんじ基地きち、援蔣ルートを破壊はかいするのが目的もくてきだった。従来じゅうらいからささえ方面ほうめん艦隊かんたい隷下れいかにあっただい連合れんごう航空こうくうたいだいさん連合れんごう航空こうくうたいに、連合れんごう艦隊かんたいから増援ぞうえんされただいいち連合れんごう航空こうくうたいくわわり、かんこう方面ほうめん飛行場ひこうじょうには、りくおさむかんおさむかんばくかんせんやく300集結しゅうけつした[99]井上いのうえは6がつ4にちかんこうび、だいいち連合れんごう航空こうくうたい司令しれいかん山口やまぐち多聞たもん少将しょうしょうだい連合れんごう航空こうくうたい司令しれいかん大西おおにしたき治郎じろう少将しょうしょうをはじめとする将兵しょうへい激励げきれいした。ささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう最前線さいぜんせんるのは異例いれいで、ひゃくいちごう作戦さくせんせる井上いのうえ期待きたいおおきかったことをうかがわせる[99]ひゃくいちごう作戦さくせん開始かいし当時とうじは、重慶たーちん爆撃ばくげき可能かのう航続力こうぞくりょくきゅうろくしき陸上りくじょう攻撃こうげきを、航続力こうぞくりょくみじかきゅうろくしき艦上かんじょう戦闘せんとう護衛ごえいできず、りくおさむたい損害そんがいってえた。航続力こうぞくりょく飛躍ひやくてきながく、強力きょうりょく武装ぶそうそなえたれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうかんこうおくられ、15そろって8がつ19にちから実戦じっせん参加さんかした。9月13にちに、重慶たーちん上空じょうくうで、れいせん13が27中国ちゅうごくぐん戦闘せんとうたい捕捉ほそくし、中国ちゅうごくぐん戦闘せんとう全滅ぜんめつさせてれいせんぜん帰還きかんするだい戦果せんかげた。以後いご重慶たーちん上空じょうくう制空権せいくうけん日本にっぽんがわうつり、重慶たーちんばくげき戦果せんかおおいにがった[100]

井上いのうえささえ方面ほうめん艦隊かんたい水雷すいらいけん政策せいさく参謀さんぼう中山なかやま定義さだよし少佐しょうさのみをしたがえて[101]、8がつ6にちきゅうろくしきりくおさむ上京じょうきょう翌日よくじつ軍令ぐんれいだいいち部長ぶちょう宇垣うがきまとい少将しょうしょう海軍かいぐんしょう軍令ぐんれいじゅうすうめい会談かいだんし、ささえ方面ほうめん艦隊かんたい現状げんじょう報告ほうこく中央ちゅうおうへの要望ようぼうおこなった。中山ちゅうざんによれば、井上いのうえは「われわれは海軍かいぐん航空こうくうたいによる重慶たーちんはじめとする中国ちゅうごく奥地おくち戦略せんりゃく要点ようてん攻撃こうげき重点じゅうてんいており、その成否せいひは、当面とうめんするささえ事変じへん解決かいけつかぎ確信かくしんしている。この作戦さくせんにち戦争せんそうにおける日本海にほんかい海戦かいせん匹敵ひってきするとの認識にんしきのもとに全力ぜんりょく投球とうきゅうしている」とべ、りくおさむ増派ぞうはをはじめとする具体ぐたいてき増強ぞうきょうあん提示ていじした。中山なかやまがこれで井上いのうえ要望ようぼうわったかとおもったところ井上いのうえ一段いちだん語調ごちょうつよめて「中央ちゅうおうには、たいささえ作戦さくせん推進すいしんし、その完遂かんすいすとしながら、そのうえ第三国だいさんごくべいえい)との開戦かいせんそなえるうごきがあると仄聞そくぶんするが、まんいち事実じじつとすればもってのほかである。いまくにささえ事変じへんだけでも大変たいへん状況じょうきょうおちいっており、この泥沼どろぬまから見通みとおしがたない状況じょうきょうである。このうえ第三国だいさんごくたる大国たいこく相手あいてことかまえるがごときは論外ろんがいであるというのが、現地げんち部隊ぶたいであるささえ方面ほうめん艦隊かんたい実感じっかんである」とべた。中央ちゅうおうがわ出席しゅっせきしゃ沈黙ちんもくするのみであった。宇垣うがきの「趣旨しゅしはよくわかりました」というみじか挨拶あいさつでこの会議かいぎわったという[102]

8がつ18にちに、軍令ぐんれいから、ささえ方面ほうめん艦隊かんたい司令しれいあてに「北部ほくぶふつしるし作戦さくせん準備じゅんびのため、だいいち連合れんごう航空こうくうたいを9月5にち内地ないちげさせることに手続てつづちゅう」という無電むでん連絡れんらくがあった。ささえ方面ほうめん艦隊かんたい先任せんにん参謀さんぼうだった山本やまもと善雄よしお中佐ちゅうさ[注釈ちゅうしゃく 19]によると、「蔣介せき政権せいけん空襲くうしゅう崩壊ほうかいさせるため、ささえ方面ほうめん艦隊かんたい航空こうくう兵力へいりょくをさらに増強ぞうきょうされたい」という意見いけん具申ぐしんと「ささえ事変じへんをそのままに、第三国だいさんごくことかまえるなど言語道断ごんごどうだん」という意見いけん具申ぐしんを、ふたつとも無視むしされた井上いのうえいかりは大変たいへんなものだったという[104]井上いのうえは、ささえ方面ほうめん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん嶋田しまだ繁太郎しげたろう中将ちゅうじょう了解りょうかいて、長官ちょうかんめいで、軍令ぐんれい次長じちょう近藤こんどうしんちく中将ちゅうじょうあて再度さいど意見いけん具申ぐしんでんはっしたが、軍令ぐんれいは「さき井上いのうえささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう上京じょうきょうして意見いけん具申ぐしんをしたとき軍令ぐんれいは、趣旨しゅしはわかったとはったが、そのとおりやるとはっていない」と井上いのうえ馬鹿ばかにするような応対おうたいをした。井上いのうえは「軍令ぐんれい駄目押だめおしをしなかった自分じぶん手抜てぬかりであった、辞職じしょくする」とし、ささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼう副長ふくちょう中村なかむら俊久としひさ少将しょうしょう山本やまもと井上いのうえ説得せっとくし、ようやくおさまった[2]

井上いのうえささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょうしょくはなれる直前ちょくぜんの9がつ27にちにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつされ、北部ほくぶふつしるし進駐しんちゅうあわせ、日本にっぽんたいべいえい戦争せんそうへのみちおおきくした[105]1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつ16にちにフランスがドイツに降伏ごうぶくしたことでドイツぐん優勢ゆうせいえる状況じょうきょうについて、中山なかやま定義さだよしが、井上いのうえ感想かんそうもとめたところ井上いのうえ即座そくざに「ドイツぐんかならけるよ」とこたえた[106]

航空こうくう本部ほんぶちょう

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1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ1にちに、海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶちょうされる。戦後せんご井上いのうえは「自分じぶんささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょうのとき、航空こうくうもっと重要じゅうようだとおもい、嶋田しまだ繁太郎しげたろう司令しれい長官ちょうかんに、航空こうくう関係かんけいへの転勤てんきん希望きぼうもうていたところ、これがれられた」と希望きぼうどおりの人事じんじであったことをかたっている[107][注釈ちゅうしゃく 20]。 12月16にち丸田まるだとついだむすめの靚子が長男ちょうなん研一けんいちんだ[109]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ会議かいぎにおいて井上いのうえは「だい海軍かいぐん軍備ぐんび充実じゅうじつ計画けいかくあん」(計画けいかく)を「明治めいじ大正たいしょう時代じだいのようなアメリカの軍備ぐんび追従ついしょうした杜撰ずさん計画けいかく」と批判ひはんし「日本にっぽん独自どくじ特長とくちょうある、創意そういゆたかな軍備ぐんびつべき」と主張しゅちょうした。軍令ぐんれい部長ぶちょう高木たかぎ武雄たけお少将しょうしょうが「では、どうすればいいか」とくと井上いのうえは「海軍かいぐん空軍くうぐん」とこたえた。井上いのうえはそのいち週間しゅうかん海軍かいぐん大臣だいじん及川おいかわ古志こしろう戦艦せんかん無用むようろん海軍かいぐん空軍くうぐんいた「しん軍備ぐんび計画けいかくろん」を提出ていしゅつした[110][注釈ちゅうしゃく 21]具体ぐたいあんは「戦略せんりゃく」のこう参照さんしょう)。

当初とうしょ井上いのうえはこのような内容ないよう意見いけんしょ個人こじん意見いけんとして提出ていしゅつするつもりだった。ところが、井上いのうえが「しん軍備ぐんび計画けいかくろん」を起草きそうして航空こうくう本部ほんぶ総務そうむ部長ぶちょう山縣やまがたただしきょう少将しょうしょうせたところ山縣やまがたが「ぜひ航空こうくう本部ほんぶちょうしてください」とったため、1がつ30にちづけで、海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶちょうから海軍かいぐん大臣だいじんあて正式せいしき提出ていしゅつされた[112][注釈ちゅうしゃく 22]

井上いのうえは「本省ほんしょうつとむかんする書類しょるい外局がいきょくたるこうほん航空こうくう本部ほんぶ)にはまわってないので、(時局じきょくの)真相しんそうはなかなかわからなかった」と回想かいそうする。しかし海軍かいぐん次官じかん豊田とよだ貞次郎ていじろう中将ちゅうじょうから沢本さわもとよりゆきゆう中将ちゅうじょう交代こうたいした4がつ4にちからやく2週間しゅうかん井上いのうえ海軍かいぐん次官じかん代理だいり兼務けんむし、つとむれることができた[116]。このときに、駐米ちゅうべい大使たいし野村のむら吉三郎きちさぶろう が、悪化あっか一途いっと辿たど日米にちべい関係かんけい改善かいぜんへの必死ひっし努力どりょく結果けっか、「日米にちべい了解りょうかいあん」を東京とうきょう打電だでんしてた。これにたいし、日米にちべい開戦かいせんである海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくだい主務しゅむ局員きょくいんしば勝男かつお中佐ちゅうさは、駐米ちゅうべい海軍かいぐん武官ぶかん横山よこやま一郎いちろう大佐たいさたいし、「日米にちべい了解りょうかいあんについて、野村のむら大使たいしを『慎重しんちょう補佐ほさ』すべし」という訓電くんでん起案きあんし、軍務ぐんむ局長きょくちょうおか敬純たかずみ少将しょうしょう提示ていじした。おかは、当初とうしょ野村のむらの「日米にちべい了解りょうかいあん」にだったものの、結局けっきょくしば意見いけん同意どういした。しかし、井上いのうえは「日米にちべい了解りょうかいあん」に非常ひじょうであったため、おかからがってきた訓電くんでんあんしとせず、うみしょう及川おいかわ直談判じかだんぱんした。井上いのうえ記憶きおくでは、その土曜日どようび1941ねん昭和しょうわ16ねん)4がつ19にちおもわれる[117])で及川おいかわはもう帰宅きたくしていたので、井上いのうえ及川おいかわ私宅したくおとずれた[118]

井上いのうえは「(しば起案きあんし、おか承認しょうにんした訓電くんでんあんを)自分じぶん加筆かひつ修正しゅうせいして軍務ぐんむきょくにつきかえしますからご承知しょうちください」と及川おいかわった。井上いのうえは、加筆かひつ修正しゅうせいして、おかつうじてしば電文でんぶんかえした。井上いのうえは、自分じぶん修正しゅうせいした訓電くんでんがそのまま発電はつでんされたものとぬまでかんがえていたようである。しかし、しばが「それでは訓電くんでん意味いみをなさないので、おか軍務ぐんむ局長きょくちょう了解りょうかい発電はつでん中止ちゅうししてしまった」と戦後せんごかたっている[119]次官じかん代理だいり兼任けんにんというわずかな機会きかいとらえて、反米はんべい開戦かいせんへの空気くうきにブレーキをかけようと必死ひっしだった井上いのうえは、しん次官じかん沢本さわもとよりゆきゆう上京じょうきょうして着任ちゃくにんする前日ぜんじつ熱海あたみ一泊いっぱくするとき、及川おいかわねが熱海あたみき、へい学校がっこうの1じょうである沢本さわもと井上いのうえ次官じかん代理だいりをした2週間しゅうかん出来事できごと自分じぶんかんがえをいた[120]

7がつ28にち日本にっぽん南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうおこなったことで、ざいべいえい日本にっぽん資産しさん凍結とうけつにちえい通商つうしょう条約じょうやく廃棄はいき、アメリカのたいにち石油せきゆ禁輸きんゆなどの強力きょうりょく経済けいざい制裁せいさいがなされ、日米にちべい関係かんけい一気いっき悪化あっかした。南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうが7がつ1にち閣議かくぎよく2にち御前ごぜん会議かいぎまったのちの7がつ3にちはぶけ臨時りんじきょく部長ぶちょう会報かいほう決定けってい事項じこうらせるための会議かいぎ)で、沢本さわもと次官じかんから「南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう閣議かくぎ決定けっていした」とらされた井上いのうえは「航空こうくう戦備せんびまった出来できていない。なぜ、事前じぜん我々われわれ意見いけんかないのか」とらし、かんせい本部ほんぶちょう豊田とよだふく武中たけなかすすむ井上いのうえ同調どうちょうした。弁解べんかいする及川おいかわ沢本さわもとたいして、井上いのうえは「そんなことで大臣だいじんつとまりますか。南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう文句もんくったのは、手続てつづじょう問題もんだいではなく、事柄ことがら重大じゅうだいすぎるからだ」と、まるでいち兵卒へいそつたいするかのように怒鳴どなりつけた[121]。ここまでても井上いのうえあきらめず、『海軍かいぐん航空こうくう戦備せんび現状げんじょう』というかなり長文ちょうぶん意見いけんしょを2週間しゅうかんげ、7がつ22にちに、及川おいかわ古志こしろう沢本さわもとよりゆきゆう永野ながの修身しゅうしん近藤こんどうしんたけら、海軍かいぐんしょう軍令ぐんれい首脳しゅのう説明せつめいし、航空こうくう戦備せんびかく項目こうもく飛行機ひこうき機銃きじゅう弾薬だんやく魚雷ぎょらいなど)について、充足じゅうそくりついちじるしくおくれていることをしめし、「戦争せんそうをしてはならない」とつよ警告けいこくしたが、かれらはみみたなかった[122]

太平洋戦争たいへいようせんそうだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん

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だいいちだん作戦さくせん

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1941ねん昭和しょうわ16ねん)8がつ11にち井上いのうえだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんおやされた。同期どうき最初さいしょ艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんおや補職ほしょく)にされたが、井上いのうえはこの人事じんじを⑤計画けいかく日米にちべい開戦かいせん反対はんたいし、南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうさいしては局部きょくぶちょう会報かいほうせきうみしょう及川おいかわ怒鳴どなりつけた井上いのうえ栄転えいてんかたちからだよく海軍かいぐん中央ちゅうおうからとおざけるものと解釈かいしゃくしていたという[123]宮城みやぎでのおやしきませ、岩国いわくに海軍かいぐん航空こうくうたいから飛行ひこうていで8がつ21にちサイパンとう到着とうちゃくし、同島どうとう碇泊ていはくしていた旗艦きかん鹿島かしま着任ちゃくにんした。鹿島かしまは、ただちに司令しれい陸上りくじょう施設しせつがあるトラック諸島しょとうかった[注釈ちゅうしゃく 23]

井上いのうえはトラックの「夏島なつしま」にある長官ちょうかん官邸かんてい[125]毎朝まいあさ鹿島かしま乗艦じょうかんして午前ごぜん8軍艦ぐんかんはた掲揚けいよう艦上かんじょうむかえ、午後ごご4退すさかんして夏島なつしま長官ちょうかん官邸かんていもど日課にっかだった[126]太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえだいよん艦隊かんたい防備ぼうび区域くいきは、日本にっぽん委任いにん統治とうちりょう南洋なんよう群島ぐんとう全域ぜんいき東経とうけい130から175北緯ほくい22から赤道せきどうまでわた東西とうざい5,000キロ、南北なんぼく2,400キロの海域かいいきであった。この海域かいいきなかには、マリアナ諸島しょとう、カロリン諸島しょとう(トラック諸島しょとうふくむ)、マーシャル諸島しょとうなど、大小だいしょう1,400のしまがあった。しかし、だいよん艦隊かんたい南洋なんよう部隊ぶたい)にあたえられていた兵力へいりょくは、独立どくりつ旗艦きかん鹿島かしま練習れんしゅう巡洋艦じゅんようかんとして建造けんぞうされており、戦闘せんとうりょくはない)以下いか旧式きゅうしき天龍てんりゅうがたけいじゅん2せき天龍てんりゅう龍田たつた)からなるだいじゅうはち戦隊せんたい司令しれいかん丸茂まるも邦則くにのり少将しょうしょう)、旧式きゅうしき駆逐くちくかん主力しゅりょくとするだいろく水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかんかじおか定道さだみち少将しょうしょう旗艦きかん夕張ゆうばり)、敷設ふせつかん沖島おきのしま旗艦きかんとするだいじゅうきゅう戦隊せんたい司令しれいかん志摩しま清英きよひで少将しょうしょう)、商船しょうせん改造かいぞう特設とくせつかん旧式きゅうしきとなっていたきゅうろくしき陸上りくじょう攻撃こうげききゅうろくしき艦上かんじょう戦闘せんとうなどわずかでしかなかった[127]。またじゅうじゅん4せき青葉あおば加古かこ衣笠きぬがさたか)からだいろく戦隊せんたい司令しれいかんふじ存知ぞんち少将しょうしょう)も南洋なんよう部隊ぶたい編入へんにゅうされ、南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきかん井上いのうえ成美まさみだいよん艦隊かんたい長官ちょうかん)の麾下きかにあった。

トラック所在しょざいだいよん海軍かいぐん軍需ぐんじゅ少女しょうじょやといいん[注釈ちゅうしゃく 24]奥津おくつノブ子のぶこ当時とうじ15さい)を可愛かわいがった。太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん1942ねん昭和しょうわ17ねんなつに、邦人ほうじん婦女子ふじょし内地ないち送還そうかんされることになり、奥津おくつぶらこころざし゛るまるって内地ないちかったが、出港しゅっこう翌日よくじつにぶらこころざし゛るまるはアメリカの潜水せんすいかん雷撃らいげきによって撃沈げきちんされた。1942ねん昭和しょうわ17ねん)8がつ5にち深夜しんやであった。1せきのカッターと3せき救命きゅうめいてい救助きゅうじょした生存せいぞんしゃは、23にちもの漂流ひょうりゅうすえ日本にっぽん飛行機ひこうき発見はっけんされ、救助きゅうじょせんかってトラックにもどることが出来できたが、奥津おくつ生存せいぞんしゃなかはいっていた。生還せいかんした奥津おくつが、井上いのうえところ挨拶あいさつとき艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんたる井上いのうえが、一介いっかいやといいんぎない奥津おくつまえ正座せいざして「もうわけない」とい、深々ふかぶかあたまげ、ポケットマネーで購入こうにゅうしたまわひん当座とうざ生活せいかつ資金しきんあたえた。井上いのうえ兵学へいがく校長こうちょうてんじてトラックを奥津おくつ長官ちょうかんよう自動車じどうしゃることをゆるされ、井上いのうえきゅうななしき飛行ひこうてい横付よこづけされた桟橋さんばしまでって井上いのうえ見送みおくった。奥津おくつは、1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつ便船びんせん内地ないち帰還きかんでき、以後いご神奈川かながわけん小田原おだわらんだ。奥津おくつは、海軍兵学校かいぐんへいがっこうちょうとして広島ひろしまけん江田島えたじまにいた井上いのうえ手紙てがみ帰国きこくらせ、井上いのうえ奥津おくつ無事ぶじ内地ないち帰還きかんしたことをいわ手紙てがみし、以後いご敗戦はいせんまでの2ねんほど、井上いのうえ奥津おくつ文通ぶんつうをしていた[注釈ちゅうしゃく 25]1944ねん昭和しょうわ19ねん)、井上いのうえ海軍かいぐん次官じかんとして東京とうきょうもどると、奥津おくつ土産みやげなしって海軍かいぐんしょう井上いのうえたずねた。敗戦はいせん混乱こんらん井上いのうえ奥津おくつ音信いんしん途絶とだえたが、1949ねん昭和しょうわ24ねん)に、井上いのうえ奥津おくつ戦前せんぜん小田原おだわら住所じゅうしょ手紙てがみしてみたところ、その住所じゅうしょ戦後せんごんでいた奥津おくつから落花生らっかせい小包こづつみ井上いのうえとどき、文通ぶんつう復活ふっかつした。軍人ぐんじん恩給おんきゅう復活ふっかつ1953ねん昭和しょうわ28ねん))まで、英語えいごじゅくわずかな月謝げっしゃ以外いがい収入しゅうにゅうがなく「貧民ひんみんのような食生活しょくせいかつ」を余儀よぎなくされていた井上いのうえは、栄養えいようのある落花生らっかせいおくものおおいによろこんだ。1963ねん昭和しょうわ38ねん)6がつには、奥津おくつ長井ながい隠棲いんせいする井上いのうえたずね、21ねんぶりの再会さいかいかなった。奥津おくつは、井上いのうえからパラオ出張しゅっちょう土産みやげおくられた鼈甲べっこうのコンパクト、ぶらこころざし゛るまる沈没ちんぼつにトラックに生還せいかんしたさい井上いのうえからおくられたきぬ靴下くつした奥津おくつは、いちあしとおさずに保存ほぞんしていた。)を井上いのうえ没後ぼつご大事だいじにした[131]

1941ねん9がつうみだい図上ずじょう演習えんしゅう井上いのうえは、ラバウル攻略こうりゃくはラエ・サラモアまで進出しんしゅつすることを主張しゅちょうした。理由りゆうはラバウルを確保かくほするにはソロモン、東部とうぶニューギニアに前進ぜんしん基地きち確保かくほする必要ひつようがあるとかんがえたためである。宇垣うがきまとい中将ちゅうじょう山口やまぐち多聞たもん少将しょうしょうがそれにたいして消極しょうきょくてき意見いけんべ、攻略こうりゃく範囲はんいまらなかったが、連合れんごう艦隊かんたいはそれらを加味かみし、方面ほうめん有利ゆうり展開てんかいするならはや実行じっこうするとした[132]

井上いのうえ連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろく大将たいしょうから「作戦さくせん打合うちあわせのため参謀さんぼうちょうおよ関係かんけい幕僚ばくりょう帯同たいどうして上京じょうきょうせよ」という電報でんぽうを11月6にちり、随員ずいいんともに11月8にちにトラックを飛行ひこうてい出発しゅっぱつし、横浜よこはま航空こうくうたい到着とうちゃくして、東京とうきょうにおいて11月5にちづけの「大海たいかいれいだい1ごう」と「大海おおうみゆびだい1ごう」をった[133]。さらに、11月13にち岩国いわくに海軍かいぐん航空こうくうたいおこなわれた、連合れんごう艦隊かんたい長官ちょうかんかく艦隊かんたい長官ちょうかん参謀さんぼうちょうならびに関係かんけい幕僚ばくりょうによる「作戦さくせんわせ会議かいぎ」に出席しゅっせきした。かく艦隊かんたい司令しれいに、連合れんごう艦隊かんたい司令しれいから、「機密きみつ連合れんごう艦隊かんたい命令めいれいさくだい1ごう」が配布はいふされた。井上いのうえらは、往路おうろおなじく、横浜よこはま航空こうくうたいから飛行ひこうてい出発しゅっぱつし、11月20にちにトラックにもどった[134]

12月8にち太平洋戦争たいへいようせんそう開始かいしされた。鹿島かしまだいよん艦隊かんたい司令しれいでは、暗号あんごう電文でんぶん傍受ぼうじゅ解読かいどくして真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきだい戦果せんかった。通信つうしん参謀さんぼう飯田いいだ英雄ひでお中佐ちゅうさが、鹿島かしま長官ちょうかんしつにこの電文でんぶん持参じさんし、井上いのうえに「おめでとうございます」とったところ電文でんぶん井上いのうえは、ただ一言ひとこと「バカな」とてるようにった。「いざというときは、内閣ないかく海軍かいぐん大臣だいじんさないという伝家でんか宝刀ほうとういてでも開戦かいせん反対はんたいすべき」とかんがえていた井上いのうえにとっては、めでたいどころではなかったという[133]

開戦かいせん以降いこうだいよん艦隊かんたいだいいちだん作戦さくせんにおいて、ウェークとう攻略こうりゃく担当たんとうした。だいいちかい攻撃こうげき(12月11にち)は、だい発動はつどうてい発進はっしん手間取てまどるうちに夜明よあけとなり、陸上りくじょう砲台ほうだい残存ざんそん航空こうくう部隊ぶたい反撃はんげきにより駆逐くちくかん2せき疾風しっぷう如月きさらぎ)を喪失そうしつして失敗しっぱいした[135]事前じぜん上陸じょうりく作戦さくせん訓練くんれん不足ふそく指摘してきされる[135]真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきから帰投きとうする途中とちゅう南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい指揮しきかん南雲なぐも忠一ただかず中将ちゅうじょう/だいいち航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)から分派ぶんぱされた(じゅうじゅん2、空母くうぼ2〈あおいりゅうりゅう〉、駆逐くちくかん2)の協力きょうりょくで、同島どうとう上空じょうくう制空権せいくうけん確保かくほしてのだいかい攻撃こうげき(12月23にち)で攻略こうりゃく成功せいこうした[136]

1942ねん昭和しょうわ17ねん初頭しょとう南洋なんよう部隊ぶたいだいよん艦隊かんたい)はニューブリテンとうラバウルニューアイルランドとうカビエン攻略こうりゃくすることになり、南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい作戦さくせん協力きょうりょくした[137]作戦さくせんわせのためトラックに到着とうちゃくした機動きどう部隊ぶたい参謀さんぼうちょうくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ少将しょうしょうは、戦略せんりゃくてき重要じゅうようわりにトラックの防備ぼうび不十分ふじゅうぶんかなかったと回想かいそうしている[138]。またくさ鹿しかだいよん艦隊かんたい司令しれい訪問ほうもんすると、井上いのうえは「真珠湾しんじゅわん作戦さくせん水際みずぎわだった腕前うでまえにはひとこともない。ただあたまをさげる」とよろこんだ[139]軍令ぐんれい時代じだい井上いのうえからしかられてきたくさ鹿しか井上いのうえ印象いんしょうっていなかったが、このけん感激かんげきしている[139]南洋なんよう部隊ぶたい南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい圧倒的あっとうてき戦力せんりょくにより、ラバウルとカビエンはすぐに陥落かんらくした[140]

1942ねん1がつ30にち連合れんごう艦隊かんたいはラエ、サラモア、ツラギおよびポートモレスビーの攻略こうりゃく南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきかん井上いのうえめいじ、井上いのうえは、3月にラエ、サラモア、4がつにツラギ、ポートモレスビーを攻略こうりゃくするように計画けいかくしたが、3がつ10日とおかべい機動きどう部隊ぶたいがラエ、サラモアに来襲らいしゅうし、日本にっぽん攻略こうりゃく部隊ぶたい艦船かんせんだい損害そんがいけ、ポートモレスビー攻略こうりゃく作戦さくせんはおおむね1かげつ以上いじょう延期えんきせざるをなくなった[141]

開戦かいせんまえからだいよん艦隊かんたい編入へんにゅうされていた基地きち航空こうくう部隊ぶたいだい24航空こうくう戦隊せんたいは、1942ねん昭和しょうわ17ねん)4がつ10日とおか基地きち航空こうくう兵力へいりょく戦時せんじ編制へんせい改編かいへんはずされ、だいじゅういち航空こうくう艦隊かんたい(11こうかん)の指揮しきうつされ、だいよん艦隊かんたい戦力せんりょく減少げんしょうした。開戦かいせんしん編成へんせいされ、ラバウル・ソロモン方面ほうめん展開てんかいし、MO作戦さくせん参加さんかしただい25航空こうくう戦隊せんたいも、だいよん艦隊かんたい指揮しきであった[142]どう時期じき南洋なんよう部隊ぶたいだいよん艦隊かんたい)がかく方面ほうめん配備はいび要請ようせいしていた空母くうぼさちおおとり南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきかんだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)に編入へんにゅうされた。

だいだん作戦さくせん

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だいだん作戦さくせんにおいて、だいよん艦隊かんたい南洋なんよう部隊ぶたい)はMO作戦さくせん担当たんとうした。作戦さくせん目標もくひょうポートモレスビー海路かいろからの攻略こうりゃくであった[143]井上いのうえ旗艦きかん鹿島かしまをラバウルにすすめて指揮しきった。1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ7にち珊瑚さんごうみ海戦かいせんだい1にちに、べい機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげきさちおおとり南洋なんよう部隊ぶたい所属しょぞく)がしずんだとき心境しんきょうを、井上いのうえ海戦かいせんのちいたと推定すいていされる手記しゅきに「じつ無念むねんであった。このようなときに、東郷とうごう平八郎へいはちろう元帥げんすいであればどうなさるだろうかとかんがえた。心中しんちゅうの、『おまええらそうに4F(だいよん艦隊かんたい長官ちょうかんなどと威張いばっているが、おまえせん下手へただなあ』 とわれているような無念むねんかんじた」という趣旨しゅし記述きじゅつをしている[144]井上いのうえもとで、だいよん艦隊かんたい航海こうかい参謀さんぼうであった土肥どい一夫かずお少佐しょうさによれば、7がつ連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうとして連合れんごう艦隊かんたい司令しれい着任ちゃくにんしたさいに、だいよん艦隊かんたい司令しれいから提出ていしゅつされた珊瑚さんごうみ海戦かいせんかんする報告ほうこく書類しょるい当時とうじ電報でんぽうつづりに赤字あかじで「弱虫よわむし!」「馬鹿ばか野郎やろう」などとおおくの罵詈ばり雑言ぞうごんまれているのをたという。

海軍かいぐんしょう軍令ぐんれい連合れんごう艦隊かんたい司令しれいは、だいよん艦隊かんたい司令しれい珊瑚さんごうみ海戦かいせんでの指揮しき批判ひはんした。連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう宇垣うがきまといは、日誌にっしせんろく」の1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ8にちこうに『4F(だいよん艦隊かんたい)の作戦さくせん指導しどう全般ぜんぱんてき不適切ふてきせつであった。小型こがた空母くうぼさちおおとり」をうしなっただけで、敗戦はいせん思想しそうおちいっていたのは遺憾いかんである』むねいている。軍令ぐんれいだい一部いちぶだいいち作戦さくせん班長はんちょうであったなぎあつし中佐ちゅうさは、日誌にっしに「4Fの作戦さくせん指導しどう消極しょうきょくてきであり、軍令ぐんれい総長そうちょう永野ながの修身しゅうしん大将たいしょう不満ふまん表明ひょうめいしていた」むねいている[145]

日本にっぽんぐん南洋なんよう群島ぐんとうひがしみなみ占領せんりょうひろげると、だいよん艦隊かんたい担当たんとう戦域せんいきとなった。ウェークとう南東なんとう方面ほうめん(ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島しょとう)など。だいじゅういち航空こうくう艦隊かんたい(11こうかん司令しれい長官ちょうかん塚原つかはらよんさん中将ちゅうじょう麾下きか基地きち航空こうくうたいマーシャル諸島しょとう展開てんかいし、だいよん艦隊かんたい補給ほきゅう担当たんとうしていたものの、こずっていた[146]。ミッドウェー作戦さくせんまえ、トラックのだいよん艦隊かんたい司令しれい連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼう説明せつめいて「ミッドウェー占領せんりょう補給ほきゅうだいよん艦隊かんたい担当たんとうしていただく」とげた。だいよん艦隊かんたい先任せんにん参謀さんぼう川井かわいいわお大佐たいさが、空母くうぼ2せき基幹きかん航空こうくう戦隊せんたいけてくれなければミッドウェーへの補給ほきゅうなど出来できない、と反論はんろんしたところ、ミッドウェーへの補給ほきゅうは11こうかんおこなうことになったという。マーシャル群島ぐんとう展開てんかいし、だいよん艦隊かんたいから細々こまごま補給ほきゅうけている11こうかんが、さらに2,200キロもさきのミッドウェーへの補給ほきゅう出来できわけがなかった[147]。もともと担当たんとうしていた南洋なんよう諸島しょとう全域ぜんいきくわえて、ウェークとう方面ほうめん南東なんとう方面ほうめんだいよん艦隊かんたい担当たんとうするのは無理むりがあった。7月14にち南東なんとう方面ほうめん担当たんとうするだいはち艦隊かんたい編成へんせいされ、7がつ24にちにラバウルの陸上りくじょう長官ちょうかん三川みかわ軍一ぐんいち中将ちゅうじょうはたはたかかげ、統帥とうすい発動はつどうした[148]。ここに南洋なんよう部隊ぶたいうち南洋なんよう部隊ぶたい改称かいしょうされ、それまで南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきだっただいろく戦隊せんたいじゅうじゅん4せき)もそと南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきかん三川みかわ軍一ぐんいちだいはち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)に編入へんにゅうされた。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)7がつに、海軍かいぐん料亭りょうてい小松こまつ」の支店してんがトラックとう開業かいぎょうした。これは、井上いのうえ横須賀よこすかで「小松こまつ」を経営けいえいする山本やまもと直枝なおえ夫婦ふうふに、1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月の太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんからあいだもなく、「トラックには将兵しょうへい慰安いあん施設しせついちけんしかない。士官しかんよう施設しせつとして、小松こまつ支店してんをトラックにしてくれないか」という依頼いらいをしていたためである[149]。その戦局せんきょく悪化あっか敗戦はいせんでトラックとうの「小松こまつ」は消滅しょうめつし、看護かんご仕事しごと手伝てつだうようになった女子じょし従業じゅうぎょういんが6にん犠牲ぎせいとなった。井上いのうえは、終戦しゅうせん直後ちょくごに「小松こまつ」をたずね、案内あんないされた座敷ざしきはいらず、敷居しきいそとすわって山本やまもと直枝なおえあたまげ「もうわけありません。今度こんど戦争せんそうでは大変たいへん迷惑めいわくをおかけしたことを、日本にっぽん海軍かいぐん代表だいひょうしておわびいたします」と謝罪しゃざいした。山本やまもとは、井上いのうえいさぎよ謝罪しゃざい感銘かんめいけた[150]

陸軍りくぐん参謀さんぼうつじ政信まさのぶ中佐ちゅうさは、ラバウル方面ほうめん最前線さいぜんせん視察しさつする途中とちゅうの1942ねん昭和しょうわ17ねん)7がつ23にちに、トラック泊地はくちった[151]よるつじ海軍かいぐん専用せんよう料亭りょうていだいよん艦隊かんたい招待しょうたいけた[152]つじ井上いのうえについて「この提督ていとく武将ぶしょうというかんじがしない。上品じょうひん風貌ふうぼう洗練せんれんされた物腰ものごしである。羽織はおりはかますがたで、如才じょさいない態度たいどからはたぶんに政治せいじのようなかんじをうける」という評価ひょうかをしており[152]接待せったいにあらわれた芸者げいしゃたちて「だい一線いっせん様相ようそうとかけはなれた情緒じょうちょだった」とも回想かいそうしている[152]

1942ねん7がつ中部ちゅうぶソロモン方面ほうめん陸上りくじょう基地きち建設けんせつ検討けんとうしていた井上いのうえは、ガダルカナルとう基地きち設定せってい着手ちゃくしゅした。日本にっぽんぐん最前線さいぜんせん基地きちであったラバウルからは直線ちょくせん距離きょりで1,020キロはなれていた[153]飛行場ひこうじょう建設けんせつによるガダルカナル進出しんしゅつ失敗しっぱいわり、壊滅かいめつてき消耗しょうもうけることになる。海軍かいぐん呼応こおうして兵力へいりょく進出しんしゅつさせ、おおきな損害そんがいこうむった陸軍りくぐんは、ガダルカナルとうめぐだい悲劇ひげき根本こんぽん原因げんいんは、海軍かいぐん勝手かって飛行場ひこうじょうつくったことにあると批判ひはんしている[154][155]

5月3にち日本にっぽんぐんはツラギとう占領せんりょうよく4にち横浜よこはまそら飛行ひこうていがツラギに進出しんしゅつ[156]。ツラギとう進出しんしゅつしていた横浜よこはまそら司令しれい宮崎みやざき重敏しげとし大佐たいさから、だい25航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん山田やまだ定義さだよし少将しょうしょうに「ツラギとう対岸たいがんのガダルカナルとうに、飛行場ひこうじょう建設けんせつ適地てきちあり」という報告ほうこくがあった。5月25にち、25こうせんだい8根拠地こんきょちたい幕僚ばくりょう技術ぎじゅつしゃせたきゅうななしき飛行ひこうていによって、ガとう中心ちゅうしんとするラバウル以南いなん島々しまじま航空こうくう偵察ていさつおこなわれた。この偵察ていさつ結果けっかけて山田やまだ少将しょうしょうは6がつ1にちだいじゅういち航空こうくう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう酒巻さかまき宗孝むねたか少将しょうしょう調査ちょうさ結果けっか報告ほうこくし、「いそぎ、ガダルカナルとうへの飛行場ひこうじょう建設けんせつりかかるべし」と意見いけん具申ぐしんした。ミッドウェー海戦かいせん(6がつ5にち-7にち)ののちに、11こうかん司令しれいからの報告ほうこくけた連合れんごう艦隊かんたい司令しれいは、ラバウルからガダルカナルがとおすぎることを理由りゆう難色なんしょくしめした。その理由りゆうれいせん航続こうぞく距離きょりでは、ラバウルを基地きちとして、ガダルカナル上空じょうくう制空権せいくうけん確保かくほできず、ラバウルとガダルカナルの中間ちゅうかんにもうひとつの基地きち必要ひつようになるためであった。連合れんごう艦隊かんたい要望ようぼうもとづき、25こうせんは、ラバウルとガダルカナルのほぼ中間ちゅうかんにあるブーゲンビルとうブカとうを2にわたり調査ちょうさしたが、いずれも地勢ちせいなんがあり、ガダルカナルへの飛行場ひこうじょう造成ぞうせい以上いじょう日数にっすうようするという結論けつろんとなった。なお、25こうせんにはミッドウェー海戦かいせん日本にっぽん主力しゅりょく4空母くうぼ喪失そうしつしたことがらされておらず、この方面ほうめん制空権せいくうけん容易ようい確保かくほできるというかんがえがあった。6月19にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれいは、参謀さんぼうちょう宇垣うがきまとい中将ちゅうじょうで「ガダルカナル航空こうくう基地きち次期じき作戦さくせん関係かんけいじょうはちがつ上旬じょうじゅんまで完成かんせいようあるところ見込みこみ承知しょうちたく(たし)」と現地げんち部隊ぶたい訓電くんでんした。連合れんごう艦隊かんたい司令しれい訓電くんでんけた現地げんち部隊ぶたいの25こうせん、8および、この方面ほうめんそう指揮しきだいよん艦隊かんたい司令しれいから参謀さんぼう派遣はけんされ、再度さいどのガダルカナル上空じょうくうからの航空こうくう偵察ていさつおこなわれた。しまルンガがわ東方とうほう海岸かいがんせんから2キロはいったところ飛行場ひこうじょう建設けんせつ最適さいてき結論けつろんした。連合れんごう艦隊かんたい司令しれいは、ミッドウェー攻略こうりゃく作戦さくせんのために編成へんせいされていただい11設営せつえいたい、ニューカレドニア攻略こうりゃく作戦さくせんのために編成へんせいされていただい13設営せつえいたいの2設営せつえいたいをガダルカナル飛行場ひこうじょう建設けんせつたらせることを決意けついし、りょう設営せつえいたい本隊ほんたいせた輸送ゆそう船団せんだんは、6月29にちにトラックを出港しゅっこう、7がつ6にちにガダルカナルに上陸じょうりくした。

軍令ぐんれい作戦さくせん航空こうくう主務しゅむ参謀さんぼうさんだい辰吉たつよし中佐ちゅうさによれば、ガダルカナルに陸上りくじょう飛行場ひこうじょう適地てきちはあるが、飛行機ひこうき配備はいびするにはまだ不足ふそくしているので水上すいじょうでやろうとかんがえており、飛行場ひこうじょう造成ぞうせいかんしては軍令ぐんれいらず、現地げんち部隊ぶたいだいよん艦隊かんたい勝手かってはじめたものと証言しょうげんしている[157]。また、当時とうじ参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん課長かちょう服部はっとりたく四郎しろう大佐たいさ陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょう佐藤さとうけんりょう少将しょうしょうも「飛行場ひこうじょう建設けんせつのことはまったらなかった」といている[158]参謀さんぼう本部ほんぶ参謀さんぼうつじ政信まさのぶ陸軍りくぐん中佐ちゅうさは、7がつ28にちラバウルで海軍かいぐんがわポートモレスビー作戦さくせんについて会議かいぎしたさい、ガダルカナルとう飛行場ひこうじょう建設けんせつちゅうはなしがはじめてたと回想かいそうしている[159]。だが設営せつえいたい本隊ほんたい上陸じょうりく翌日よくじつ7がつ7にち軍令ぐんれい作戦さくせん参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせんに「FS作戦さくせん一時いちじ中止ちゅうし」を正式せいしきもうれる文書ぶんしょ提示ていじしており、その文書ぶんしょに「ガダルカナル陸上りくじょう飛行ひこう基地きち最近さいきん造成ぞうせい着手ちゃくしゅ、8がつまつ完成かんせい見込みこみ)」としるされている[160]

10月7にち井上いのうえ連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろく連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん大和やまとまねかれた。海軍かいぐん兵学へいがく校長こうちょうから、10月1にちづけだいじゅういち航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんおやされたくさ鹿しかにんいち中将ちゅうじょう井上いのうえ海兵かいへい同期どうき)が、内地ないちからラバウルへ赴任ふにんする途中とちゅうにトラックざいはくの「大和やまと」にったので、山本やまもとくさ鹿しか主賓しゅひんとする夕食ゆうしょくかいひらき、井上いのうえんだものである[161]。この夕食ゆうしょくかいで、山本やまもと井上いのうえくさ鹿しか後任こうにん兵学へいがく校長こうちょう決定けっていしており、海軍かいぐん大臣だいじん嶋田しまだ繁太郎しげたろうから相談そうだんされ、井上いのうえ兵学へいがく校長こうちょう推薦すいせんしたのは山本やまもと自身じしんだとげた。このよるくさ鹿しかもうによって井上いのうえ宿舎しゅくしゃくさ鹿しかから兵学へいがく校長こうちょうぎをけた[162]。このとき心境しんきょう井上いのうえは、「自分じぶんせん下手へたいくつかの失敗しっぱい経験けいけんし、海軍兵学校かいぐんへいがっこう校長こうちょうにさせられたときは、まったくほっとした」とかたっている[163]

海軍かいぐん兵学へいがく校長こうちょう

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1942ねん昭和しょうわ17ねん)10がつ26にち井上いのうえ海軍かいぐん兵学へいがく校長こうちょうされた[164]井上いのうえは10月31にちにトラックから内地ないち帰還きかんした[165]。11月5にち午前ごぜん10井上いのうえ宮城みやぎ参内さんだいして昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつぐんじょう奏上そうじょうし、菊花きっかもん木杯もくはいいちくみ金一封きんいっぷう下賜かしされた[166]。11月10にち広島ひろしまけん江田島えたじま海軍兵学校かいぐんへいがっこう着任ちゃくにん[166]当時とうじ心境しんきょう井上いのうえは「兵学へいがく校長こうちょうになったのはみずからの志望しぼうではなく、また、自分じぶん性格せいかくからかんがえても適任てきにんとはおもわれず、はじめはそれほどすすまなかった。しかし、着任ちゃくにんして1かげつばかりのあいだ生意気なまいきざかりとおもっていた生徒せいとたち純真じゅんしん気持きもち態度たいどたれてきて 『よし、自分じぶん生徒せいと教育きょういく一所懸命いっしょけんめいにやるぞ』 という気持きもちかわってきた」と回想かいそうする[167]井上いのうえ着任ちゃくにん当時とうじへい学校がっこう教官きょうかんたちのあいだではしたしみやすい豪放磊落ごうほうらいらく人柄ひとがらだったくさ鹿しか後任こうにんとして、せい反対はんたい人柄ひとがら井上いのうえ敬遠けいえんする空気くうきつよかった。しかし、井上いのうえ着任ちゃくにんしてからつにつれ、井上いのうえ教育きょういくについてふか理解りかい識見しきけんっていることをり、井上いのうえ職務しょくむ遂行すいこうたいする真摯しんし誠実せいじつ態度たいどしたしくせっするようになって、井上いのうえ畏敬いけい信服しんぷくするものえた[168]

空母くうぼしょうづる運用うんようちょうとして珊瑚さんごうみ海戦かいせん南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせんたたかった福地ふくち周夫ちかお中佐ちゅうさ海軍兵学校かいぐんへいがっこう教官きょうかんとして赴任ふにん[169]しょうづる塗料とりょうえがかれた『珊瑚さんごうみせんしょうづる奮戦ふんせん』という持参じさんすると井上いのうえ感動かんどうし、額縁がくぶちをつくらせて校長こうちょうしつかかげた[169]井上いのうえ海軍かいぐん次官じかん転出てんしゅつするまで『しょうづる奮戦ふんせん』を校長こうちょうしつかざっていたという[169]

校長こうちょう教頭きょうとうへい学校がっこうのナンバースリーである[170]企画きかく課長かちょう小田切おだぎり政徳まさのり中佐ちゅうさは、着任ちゃくにん直後ちょくご井上いのうえから「柔道じゅうどうじょう2むね剣道けんどうじょう2むね建設けんせつちゅうだが、4むね隣接りんせつぎており、1むね火災かさいはっすると、とうただちに延焼えんしょうするだろう。この配置はいち危険きけんだ」「そもそも、こんなだい道場どうじょうを2むねづつもてるより、剣道けんどうなどは練兵れんぺいじょうてやったほういだろう。見直みなおしは出来できないか?」というむね指摘してきけたがすで道場どうじょう基礎きそ工事こうじがほとんどわり、建築けんちく資材しざい搬入はんにゅう加工かこうはじまっている状態じょうたいであったので「この道場どうじょうは4むねとも訓育くんいくじょう絶対ぜったい必要ひつようであり、明年みょうねん1943ねん昭和しょうわ18ねん))の75入校にゅうこうあいだわせてしい、と生徒せいとたいからつよ要請ようせいされているのです」というむねこたえ、なにとか井上いのうえ了解りょうかいた。しかし、1944ねん昭和しょうわ19ねん)1がつ-3月に完成かんせいした4むねだい道場どうじょうは、同年どうねん11がつ15にちだい剣道けんどうじょう風呂場ふろばからはっした火災かさいで4むねとも全焼ぜんしょうした。小田切おだぎりは「もし、井上いのうえ校長こうちょう着任ちゃくにんがもうすこはやく、(武道ぶどうじょうの)土台どだい建設けんせつ以前いぜんであったなら、なんとかめにするか、道場どうじょういちたい剣道けんどうじょう武道ぶどうじょういちつい)だけにするか、生徒せいとたい説得せっとくしたとおもいます。いま心残こころのこりにおもえてなりません」と回想かいそうしている[171]小田切おだぎりは、だいよん航空こうくう戦隊せんたい先任せんにん参謀さんぼうから、1942ねん昭和しょうわ17ねん)7がつへい学校がっこうてんじ、戦中せんちゅうの2ねん7かげつへい学校がっこう企画きかく課長かちょうとしてごした。戦後せんご井上いのうえをそのいたるまでささつづけ、井上いのうえ死後しご井上いのうえまご丸田まるた研一けんいち交誼こうぎたもった[172]

井上いのうえ主立おもだった教官きょうかん20にんほどと会食かいしょくし、井上いのうえ退席たいせきしたのち教官きょうかんたちがなおしをはじめ、校長こうちょう官舎かんしゃ電話でんわして「校長こうちょう二次会にじかいへちょっと如何いかですか」とさそったが、井上いのうえは「そういうせきわたしない」とあっさり電話でんわった[173]校内こうない雑用ざつようがかりの「ボーイ」(国民こくみん学校がっこう卒業そつぎょう上級じょうきゅう学校がっこうすすめなかった少年しょうねんたちで、15-16さい程度ていどだった)に、なにとか教育きょういく機会きかいあたえたいとかんがえ、希望きぼうしゃつのって20にんくらいのはんを2つつく午後ごご3から5まで2あいだ授業じゅぎょうを1にちおきに実施じっしした。課目かもくは、井上いのうえ少年しょうねんたちに一番いちばん大事だいじかんがえた数学すうがく英語えいごの2科目かもくとし、講師こうしには兵科へいか予備よび学生がくせい出身しゅっしん武官ぶかん教官きょうかんてた。戦後せんごに、へい学校がっこうもと文官ぶんかん教官きょうかんは「ボーイ」たち授業じゅぎょうけているとき井上いのうえがしばしば視察しさつていたこと、終業しゅうぎょうしき成績せいせき優秀ゆうしゅうしゃあたえられるえいえい辞典じてんが、井上いのうえのポケットマネーで提供ていきょうされていたことをかたっている。そのもと文官ぶんかん教官きょうかん戦後せんご広島ひろしま大学だいがくおとずれたときにこの教育きょういくけた「ボーイ」の一人ひとりが、理科りか関係かんけい助手じょしゅつとめているのに出会であった[174]

教育きょういく一系いっけい

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1942ねん昭和しょうわ17ねん)11月1にちづけで、兵科へいか将校しょうこう機関きかん将校しょうこうが「兵科へいか将校しょうこう」に統合とうごうされて、階級かいきゅう服装ふくそうちがいがなくなり、いで、1944ねん昭和しょうわ19ねん)8がつ軍令ぐんれいうけたまわくだりれい改正かいせいされて、制度せいどじょうは、へい学校がっこう出身しゅっしんしゃ機関きかん学校がっこう出身しゅっしんしゃ指揮しきけん継承けいしょう順位じゅんいについての区別くべつもなくなり、制度せいどじょう統合とうごう完了かんりょうした。ただし、太平洋戦争たいへいようせんそうのさなかであり、(きゅう機関きかん将校しょうこうが(きゅう兵科へいか将校しょうこう配置はいちくこと、そのぎゃくのいずれも現実げんじつてきであるため、「特例とくれいとして、戦闘せんとう艦艇かんてい軍艦ぐんかん駆逐くちくかん潜水せんすいかんなど)においては、従来じゅうらいどおりに、(きゅう兵科へいか将校しょうこう指揮しきけん継承けいしょうについて優先ゆうせんする」さだめが同時どうじもうけられた[175]

着任ちゃくにんまえの11月初頭しょとう海軍かいぐんしょう出頭しゅっとうし、海軍かいぐん大臣だいじん嶋田しまだ繁太郎しげたろう挨拶あいさつした井上いのうえは、嶋田しまだに、自分じぶん兵学へいがく校長こうちょうえらんだ理由りゆうたずねた。嶋田しまだは「わたしきみが(兵学へいがく校長こうちょうに)適任てきにんだとおもっているよ。そのうえきみ昭和しょうわ12ねんやく1ねんかかって研究けんきゅうして結論けつろんした一系いっけい問題もんだい実施じっししようとおもうので、そのためにきみへい学校がっこうってもらうことにした」と返答へんとうした。井上いのうえは「わかりました。一系いっけい問題もんだいならばけました。……当局とうきょく兵学へいがく校長こうちょうを1ねんくらいで交代こうたいさせていますが、それではみじかすぎます。わたし兵学へいがく校長こうちょうにする以上いじょうは、3、4ねんくらいは兵学へいがく校長こうちょうをやらせてください」というむね嶋田しまだった。嶋田しまだが「きみはあと2ねんもすれば大将たいしょうになる。3、4ねん兵学へいがく校長こうちょうをやらせるわけにはかない」とむねこたえると、井上いのうえは「わたしはべつに大将たいしょうになどなりたいとはおもいません。そのとき[注釈ちゅうしゃく 26]がきたらわたし中将ちゅうじょうのまま予備よびやく編入へんにゅう即日そくじつ召集しょうしゅうして(つづき)兵学へいがく校長こうちょうにしてください」とった。嶋田しまだは「わたし大臣だいじんあいだ兵学へいがく校長こうちょうえない」と約束やくそくし、これで井上いのうえもようやく納得なっとくした[177]

井上いのうえ兵科へいか将校しょうこう教育きょういく機関きかん将校しょうこう教育きょういく一系いっけいするため、兵学へいがく校長こうちょう着任ちゃくにんしてただちに機関きかん学校がっこう出身しゅっしんへい学校がっこう教官きょうかん企画きかく配員はいいんし、みずか指導しどうして、一系いっけい教育きょういく実施じっし研究けんきゅうすすめた。具体ぐたいてき成果せいかとしては、へい学校がっこう従来じゅうらいからおこなわれていた兵器へいき教育きょういくなかに、機関きかん学校がっこうおしえている機構きこうがく内容ないようれられて、あたらしい課目かもく兵学へいがく」(井上いのうえ自身じしん命名めいめい)が誕生たんじょうした。かくじゅつごとに兵学へいがく教科書きょうかしょつくられて教授きょうじゅされた[178]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ1にちづけで、京都きょうと舞鶴まいづる所在しょざい海軍かいぐん機関きかん学校がっこう制度せいどじょう廃止はいしされ、海軍兵学校かいぐんへいがっこう舞鶴まいづる分校ぶんこうとしてさい出発しゅっぱつした[179]海軍兵学校かいぐんへいがっこう舞鶴まいづる分校ぶんこうについては「当分とうぶんあいだ海軍兵学校かいぐんへいがっこう舞鶴まいづる分校ぶんこうおいては、従前じゅうぜん海軍かいぐん機関きかん学校がっこう教育きょういく綱領こうりょうじゅん機関きかん工作こうさくおよ整備せいび専修せんしゅう生徒せいと教育きょういくおこなうべし」とさだめられた[注釈ちゅうしゃく 27]

また、へい学校がっこう海軍かいぐん大臣だいじんさだめた「海軍兵学校かいぐんへいがっこう教育きょういく綱領こうりょう」によって運営うんえいされており、校長こうちょう交替こうたい教育きょういく目的もくてき基本きほん方針ほうしんおおきくかわることはないはずであったが、実際じっさいには校長こうちょう裁量さいりょう余地よちみとめられており[181]井上いのうえは、へい学校がっこう着任ちゃくにんすると、ただちに校長こうちょうみずからが出席しゅっせきする「教官きょうかん研究けんきゅうかい」の開催かいさい指示しじし、1942ねん昭和しょうわ17ねん)11月28にちだい1かい実施じっしし、以後いご半年はんとしあいだに「教官きょうかん研究けんきゅうかい」で、みずからの所見しょけんしるした『教育きょういく漫語まんご』(当時とうじ教官きょうかん保存ほぞんしており、「其ノ1」から「其ノ3」まである)というプリントを使つかって「教官きょうかん教育きょういく」をおこなった。また、井上いのうえは、前線ぜんせんがえりの武官ぶかん教官きょうかん生徒せいと直接ちょくせつ実戦じっせんだんをすることはきんじたが、教官きょうかん研究けんきゅうかいで、教官きょうかんたちにたいして戦況せんきょう報告ほうこくをさせた。井上いのうえ自身じしんも、だいよん艦隊かんたい長官ちょうかんとして珊瑚さんごうみ海戦かいせん指揮しきしたときのことを「教官きょうかん研究けんきゅうかい」ではなした。井上いのうえ率直そっちょく謙虚けんきょな「珊瑚さんごうみ海戦かいせん報告ほうこく」は、教官きょうかんたちにおおきな感銘かんめいあたえた[182]

井上いのうえは、訓育くんいく担当たんとうする監事かんじ武官ぶかん教官きょうかん)に比叡ひえい艦長かんちょう時代じだい作成さくせいした「みことのりさとし衍義」を配布はいふして、監事かんじたちの思想しそう統一とういつはかった。いで、兵学へいがく校内こうない教育きょういく参考さんこうかんかかげてあったぜん海軍かいぐん大将たいしょうがく撤去てっきょした。おどろいた副官ふっかんに、井上いのうえは「生徒せいとたちの目標もくひょう東郷とうごう元帥げんすいだけで充分じゅうぶん大将たいしょうがくかかげるのは、生徒せいと出世しゅっせ主義しゅぎ示唆しさするもの」とむねこたえた。井上いのうえは「まず参考さんこうかんはいってみると、海軍かいぐん大将たいしょうがくがずらりとならんでいる。そのだい部分ぶぶんひとながあいだ海軍かいぐん奉公ほうこうしたひとたちで、その功績こうせきおおきい。しかし、なかには海軍かいぐんのためにならないことをやったひともいるし、また、さきえなくて日本にっぽんたいべい戦争せんそう突入とつにゅうさせてしまった、わたし国賊こくぞくびたいようなひともいる。こんなじんたちを生徒せいと尊敬そんけいせよ、とはわたしには到底とうていえないし、また、そんなひとたちの写真しゃしん参考さんこうかんかざっておくことは、館内かんない同居どうきょしている真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき特殊とくしゅ潜航せんこうてい戦死せんししたわか軍人ぐんじんかたにもあいまぬとおもったからである」と回想かいそうする[183]井上いのうえ着任ちゃくにんするまえから、海軍かいぐんしょう教育きょういくきょくが、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ平泉ひらいずみきよしを、へい学校がっこう度々どど派遣はけんし、教官きょうかん生徒せいと皇国こうこく史観しかんもとづく講話こうわをさせていた。井上いのうえは、平泉ひらいずみ生徒せいとへの講話こうわはいし、「教育きょういく研究けんきゅうかい」での教官きょうかんへの講話こうわ限定げんていした。また、井上いのうえ自身じしん平泉ひらいずみの「教育きょういく研究けんきゅうかい」での講話こうわき、不適切ふてきせつおもわれる内容ないようがあった場合ばあいは、講話こうわのち教官きょうかんたちに指摘してきして注意ちゅうい喚起かんきした[184]

へい学校がっこうのあるについて、へい学校がっこう卒業そつぎょう席次せきじ最終さいしゅう到達とうたつ階級かいきゅうとの関連かんれん数学すうがくてき分析ぶんせきして、教育きょういく参考さんこう資料しりょうとしてへい学校がっこう教官きょうかんたちにしめした[185]

へい学校がっこう教官きょうかんは、休日きゅうじつには担当たんとうする分隊ぶんたい生徒せいと官舎かんしゃんでつま手料理てりょうり慣習かんしゅうがあった。戦争せんそう激化げきかして物資ぶっし不足ふそくしているのに、実験じっけんてきに2つの分隊ぶんたい担当たんとうさせられた教官きょうかんがおり、2ばい生徒せいと手料理てりょうりべさせるために出費しゅっぴかさみ、かつむすめ栄養失調えいようしっちょう入院にゅういんしてしまい、家計かけいのやりくりがつかなくなった。これをった井上いのうえは、その教官きょうかんたく校長こうちょう命令めいれいこなミルクやパンなどを特別とくべつ配給はいきゅうさせてふか感謝かんしゃされた[186]

井上いのうえ兵学へいがく校長こうちょう着任ちゃくにん在校ざいこうしていたのは、71卒業そつぎょう 581めい)・72卒業そつぎょう 625めい)・73卒業そつぎょう 902めい)の3クラスだった。着任ちゃくにん直後ちょくごの11月14にちに71卒業そつぎょうし、12月1にちには74卒業そつぎょう 1,024めい)が入校にゅうこうした[187]。この時点じてんで、へい学校がっこう生徒せいとは2,500めいえた。元来がんらいへい学校がっこう施設しせつは、生徒せいと1,000めい程度ていどをゆったり収容しゅうようできるようにつくられていたが[188]生徒せいとが「適正てきせい人数にんずう」の3ばいちかくなっているため、生徒せいと収容しゅうよう物理ぶつりてき困難こんなんなだけでなく、「しま」に立地りっちするゆえに飲料いんりょうすい不足ふそくして、宇品うじなこうから、毎日まいにち飲料いんりょうすいふねはこんでいた。海軍かいぐん中央ちゅうおうでは、千葉ちばけん館山たてやま付近ふきんへのへい学校がっこう移転いてん検討けんとうしたこともあった。しかし、海軍かいぐん中央ちゅうおうへい学校がっこう当局とうきょくは、へい学校がっこう江田島えたじまめて規模きぼ拡張かくちょうすることを1941ねん昭和しょうわ16ねんちゅう決定けっていし、井上いのうえ着任ちゃくにんした1942ねん昭和しょうわ17ねん)11月には、拡張かくちょう計画けいかく一部いちぶ着工ちゃっこうずみ細部さいぶ計画けいかくだい部分ぶぶん工事こうじはこれから、という段階だんかいであった。井上いのうえ工事こうじ計画けいかく説明せつめいけると様々さまざま問題もんだいてん見出みいだし、工事こうじ計画けいかく基本きほん構想こうそうまでさかのぼって部下ぶかさい検討けんとうもとめ、さい検討けんとう結果けっかについてただちに査閲さえつしたうえ決裁けっさいし、その関係かんけいしゃすべてをまかせ、指示しじもとめられないかぎくちさなかった。井上いのうえ適切てきせつ指揮しきで、へい学校がっこう拡張かくちょう工事こうじ大幅おおはば促進そくしんされる結果けっかとなった。江田島えたじま水不足みずぶそく対策たいさくとしては、当初とうしょ計画けいかくが「江田島えたじまなか水源すいげんは1かしょだが、もう1かしょ増設ぞうせつする」という内容ないようだったのを、井上いのうえは「から水道すいどうかん海底かいてい敷設ふせつして給水きゅうすいける」方法ほうほう検討けんとう指示しじしたが、技術ぎじゅつてき時間じかんてき困難こんなん実現じつげんしなかった[189]

教育きょういく年限ねんげん短縮たんしゅく問題もんだい

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1943ねん昭和しょうわ18ねん)5がつに、同年どうねん12がつ入校にゅうこうする75採用さいようすうが3,500めいまり、そのれのため、山口やまぐちけん岩国いわくに海軍かいぐん航空こうくうたい教育きょういく施設しせつふえ改築かいちくして、11月19にちに「海軍兵学校かいぐんへいがっこう岩国いわくに分校ぶんこう」として開校かいこうさせ、75入校にゅうこうあいだわせた。76(1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ9にち入校にゅうこう[190])以降いこうれのための「海軍兵学校かいぐんへいがっこう大原おおはら分校ぶんこう」(1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ1にち開校かいこう江田島えたじま本校ほんこうちかく)、1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ入校にゅうこうの78[注釈ちゅうしゃく 28]のために長崎ながさきけん佐世保させぼ軍港ぐんこうちかくの針尾はりお海兵かいへいだん施設しせつ改築かいちくして1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ1にち開校かいこうした「海軍兵学校かいぐんへいがっこう針尾はりお分校ぶんこう」、いずれも、井上いのうえ校長こうちょう在任ざいにんちゅう建設けんせつすすめ、開校かいこうにこぎつけたものである[179]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)12月1にち、75の3,500めいは、へい学校がっこう史上しじょう空前くうぜん人数にんずうで、採用さいよう試験しけん選考せんこうれにはおおくの困難こんなんがあった。75志願しがんしゃは5まんめいたっし、全国ぜんこく各地かくち試験場しけんじょうでの身体しんたい検査けんさでまず35%をおとし、のこる65%から学術がくじゅつ試験しけんでさらに70%をおとし、採用さいよう候補者こうほしゃやく20%の9,700めい[192]しぼまれ、そのなかで、へい学校がっこう当局とうきょくしゃ選考せんこうして入校にゅうこう許可きょかした75の3,500めいは「全国ぜんこく中学校ちゅうがっこうから、身体しんたい学術がくじゅつども最優秀さいゆうしゅう若者わかもの大半たいはん江田島えたじまあつめた」ものだったが、戦争せんそう激化げきかにより、中学生ちゅうがくせい学力がくりょくは、おもに「教員きょういん応召おうしょうによる不足ふそく」と「勤労きんろう作業さぎょうによる授業じゅぎょう時間じかん減少げんしょう」によって戦前せんぜんより一般いっぱん低下ていかしており、さらに学術がくじゅつ軽視けいし風潮ふうちょうもあり、とく理数りすう学力がくりょく低下ていかはなはだしかった。井上いのうえは75入校にゅうこう直後ちょくご理数りすうについて全員ぜんいん実力じつりょく査定さていおこない、成績せいせき不良ふりょうしゃには特別とくべつ教育きょういくおこなって「落伍らくごしゃ退校たいこうしゃ)をすな」という自身じしん教育きょういく方針ほうしん実践じっせんした[193]

海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくは、75大量たいりょう採用さいよう決定けっていする一方いっぽう士官しかん搭乗とうじょういん急速きゅうそく養成ようせいさく検討けんとうしていた。軍務ぐんむきょくへい学校がっこう修業しゅうぎょう年限ねんげん短縮たんしゅくし、早期そうき飛行ひこう教育きょういく移行いこうさせようとかんがえていた。井上いのうえ兵学へいがく校長こうちょう着任ちゃくにんした直後ちょくごの1942ねん昭和しょうわ17ねん)11月14にち卒業そつぎょうした71までは3ねん修業しゅうぎょう年限ねんげん確保かくほしていたが、72については、軍務ぐんむきょくへい学校がっこう当局とうきょく協議きょうぎして、修業しゅうぎょう年限ねんげんを2かげつ短縮たんしゅくして2ねん10かげつとし、1943ねん昭和しょうわ18ねん)9がつ卒業そつぎょうさせた[194]軍務ぐんむきょくへい学校がっこうのさらなる修業しゅうぎょう年限ねんげん短縮たんしゅく検討けんとうし、73修業しゅうぎょう年限ねんげんを2ねん6かげつとして1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつに、74は2ねんとして同年どうねん11がつにそれぞれ卒業そつぎょうさせるあんを、へい学校がっこう所管しょかんする海軍かいぐんしょう教育きょういくきょく提示ていじした。だが、海軍かいぐんしょう教育きょういく局長きょくちょう井上いのうえだいよん艦隊かんたい長官ちょうかんだったとき参謀さんぼうちょうつとめた矢野やのこころざしさん少将しょうしょうであり、兵学へいがく校長こうちょう井上いのうえじか連絡れんらくりながらへい学校がっこう教育きょういく年限ねんげん短縮たんしゅく強硬きょうこう反対はんたいつづけた[195]

矢野やの井上いのうえ意見いけん反映はんえいさせて「へい学校がっこう卒業そつぎょうした兵科へいか将校しょうこうは、ただちに海軍かいぐん中堅ちゅうけん幹部かんぶとして指揮しきけん行使こうしするため、充分じゅうぶん基礎きそてき教養きょうよう必要ひつよう航空こうくう将校しょうこうであっても、航空こうくうせんもん技能ぎのうだけでなく、海軍かいぐん全般ぜんぱんについての基礎きそ知識ちしき部下ぶか指揮しき統率とうそつするための識量をへい学校がっこうまなぶべきなのはおなじ。本来ほんらい、このためには4ねん修業しゅうぎょう年限ねんげん必要ひつようだが、いまでは3ねん短縮たんしゅくされている。いかにへい学校がっこう当局とうきょく工夫くふうらしても、3ねんでも不十分ふじゅうぶんなのが現状げんじょうであるのに、さらに修業しゅうぎょう年限ねんげん短縮たんしゅくされては、粗製そせい濫造らんぞう兵科へいか将校しょうこうばかりになってしまう。中学生ちゅうがくせい学力がくりょく体力たいりょく低下ていかられることも重視じゅうしすべき。へい学校がっこうの3ねん教育きょういく年限ねんげんをこれ以上いじょう短縮たんしゅくしないことで、士官しかん搭乗とうじょういん量的りょうてき要求ようきゅうこたえられなくなったとしても、海軍かいぐん幹部かんぶ中心ちゅうしん確固かっこたらしめるためには甘受かんじゅすべきとかんがえる。[196][注釈ちゅうしゃく 29]」という意見いけんしょを1943ねん昭和しょうわ18ねん)4がつ15にち推定すいてい)に提出ていしゅつした。この矢野やの井上いのうえ直接ちょくせつ電話でんわし「明日あした、16にち午前ごぜん戦備せんびわせかいで、軍務ぐんむきょく提案ていあんどおりに73・74修業しゅうぎょう年限ねんげん短縮たんしゅく決定けっていされる見通みとおしである。わたし矢野やのひと反対はんたいしても、られそうな情勢じょうせいである」とつたえた」矢野やのからの電話でんわ連絡れんらくけた井上いのうえは、即座そくざに、みずから「これ以上いじょう年限ねんげん短縮たんしゅくされては、兵学へいがく校長こうちょうとして生徒せいと教育きょういく自信じしんてない」むね電文でんぶんみずかき、海軍かいぐん次官じかん沢本さわもとよりゆきあて発信はっしんするよう副官ふっかんめいじ、くわえて「電報でんぽうつと同時どうじ海軍かいぐんしょう副官ふっかんたいし『この校長こうちょうからの電報でんぽうは、明日あした戦備せんびわせかい開会かいかいまえかなら沢本さわもと次官じかんてもらうようはからってくれ』と電話でんわをかけること」を指示しじした[197]

矢野やの井上いのうえ努力どりょくにより、4がつ16にち戦備せんびわせかいでは軍務ぐんむきょく年限ねんげん短縮たんしゅくあん決定けっていいたらなかった[197]。その中央ちゅうおうから井上いのうえへの説得せっとくがしきりにおこなわれ、軍令ぐんれい航空こうくう本部ほんぶ中堅ちゅうけん大挙たいきょして江田島えだじましかけたこともあったが、井上いのうえ態度たいどかわらなかった[198]。しかし、1943ねん昭和しょうわ18ねん)11月のごう作戦さくせんギルバート諸島しょとうおき航空こうくうせんでの海軍かいぐん航空こうくうたい甚大じんだい被害ひがいにより、海軍かいぐん大臣だいじん嶋田しまだ繁太郎しげたろうが、73教育きょういく年限ねんげんを8かげつ短縮たんしゅくして2ねん4かげつ短縮たんしゅくして、1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ卒業そつぎょうさせるよう発令はつれいした。井上いのうえも、直属ちょくぞく上司じょうしである嶋田しまだ決定けっていにはしたがわざるをず、73たいしては、夜間やかん授業じゅぎょうまでふくむ「終末しゅうまつ教程きょうてい」を作成さくせいして、すこしでもおおくのことをまなばせた[注釈ちゅうしゃく 30]

一方いっぽうで、海軍かいぐん中央ちゅうおうでは74・75修業しゅうぎょう年限ねんげんをかねての軍務ぐんむきょくあんのように2ねん程度ていど短縮たんしゅくしようとしていた。1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ22にちの73卒業そつぎょうしきには、天皇てんのう名代なだいとして、大佐たいさ軍令ぐんれい部員ぶいんだった高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう臨席りんせきした。卒業そつぎょうしきのち高松宮たかまつのみや井上いのうえに「教育きょういく年限ねんげんをもっと短縮たんしゅくできないか」と下問かもんし、井上いのうえが「その下問かもんは、みやさまとしてでございますか。それとも軍令ぐんれい部員ぶいんとしてでございますか」と反問はんもんするとみやは「むろん後者こうしゃである」とこたえた。井上いのうえは「お言葉ことばですが、これ以上いじょうみじかくすることは御免ごめんこうむります」とこたえ、高松宮たかまつのみや生徒せいと教育きょういくについて日頃ひごろかんがえていることを説明せつめいした。井上いのうえは「みやさまは 『そうか、そうか』 とうなずいておられました。年限ねんげん短縮たんしゅく問題もんだいみやさま自身じしんのおかんがえではなく、軍令ぐんれいあたりのものみやさまたのんで、頑固がんこ井上いのうえうごかそうとしたのでしょう。そのひとたちは『前線ぜんせん士官しかん不足ふそくしてこまっているときに…』と、わたし卒業そつぎょうはやめることに反対はんたいするのをおこっていたようです。わたしわたしかに国賊こくぞくだなどというものがいたのもそのころだった」と回想かいそうする[199]

5月19にち永野ながの修身しゅうしん元帥げんすいへい学校がっこう視察しさつした。永野ながの井上いのうえに「修業しゅうぎょう年限ねんげん短縮たんしゅく」をしたが、井上いのうえは「青田あおたったってべいはとれません」とはっきりことわった[200]

このころ海軍かいぐんしょう教育きょういくきょくへい学校がっこう企画きかくとのあいだ交渉こうしょうかさねた結果けっか下記かきのような結論けつろんた。74就業しゅうぎょう期間きかんは73おなじく2ねん4かげつとし、これ以上いじょう短縮たんしゅくはしない。そのわり、74以降いこう在校ざいこうちゅうから航空こうくうはん艦船かんせんはんけ、適当てきとう時期じきから軍事ぐんじがくについての教育きょういく分離ぶんりする。航空こうくうはん生徒せいとについては、霞ヶ浦かすみがうら練習れんしゅう航空こうくうたいにおける飛行ひこう学生がくせい基礎きそ教程きょうてい一部いちぶを、生徒せいと時代じだいからげて実施じっしする。このあんは、長期ちょうきてきると、兵科へいか将校しょうこう養成ようせいじょう多少たしょうゆがみをもたらすことになるが、戦時せんじ特別とくべつ措置そちとしてむをないとし、井上いのうえも、「年限ねんげん短縮たんしゅく」にブレーキがかかったので同意どういした。しかし、軍令ぐんれいなどでは一層いっそうへい学校がっこう修業しゅうぎょう年限ねんげん短縮たんしゅくもとめる意見いけんつよかった[201]井上いのうえが、へい学校がっこう教育きょういく年限ねんげん短縮たんしゅく問題もんだい一部いちぶものから国賊こくぞくばわりされていたころ鈴木すずき貫太郎かんたろう大将たいしょうへい学校がっこうおとずれた。鈴木すずきは、井上いのうえへい学校がっこう卒業そつぎょう遠洋えんよう航海こうかい乗組のりくんだ巡洋艦じゅんようかん宗谷そうや」の艦長かんちょうだった。校長こうちょうしつ鈴木すずきが「教育きょういく成果せいかあらわれるのは20ねんさきだよ、井上いのうえくん」とうと、井上いのうえおおきくうなずいた。その二人ふたりしばらだまってかいっていた[202]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)にはいると、「戦勝せんしょう見込みこみがつくまで、へい学校がっこうじゅつ学校がっこうして、すぐに役立やくだ初級しょきゅう士官しかん養成ようせいすべし」とする意見いけんが、海軍かいぐん中央ちゅうおうはもとより、へい学校がっこう武官ぶかん教官きょうかん多数たすうからはっせられるようになっていた。へい学校がっこう武官ぶかん教官きょうかんなかには、しょくしてもへい学校がっこう教育きょういく理念りねん普通ふつうがく重視じゅうし)と修業しゅうぎょう年限ねんげんまもろうとする井上いのうえ態度たいど奇異きいかんじていたものもいた。中央ちゅうおう一部いちぶものから井上いのうえ国賊こくぞくばわりされるのもむをない時代じだいであった[203]井上いのうえは「もうそのころになると、戦争せんそう将来しょうらいがどうなるかははっきり見通みとおしがついていました。かり戦争せんそうったとしても、戦後せんご海軍かいぐんのこるのは一部いちぶものだけで、相当そうとうすう社会しゃかいはたらかなければならない。まして敗戦はいせん場合ばあいはなおさらです。生徒せいとたいし、どうしてもまとまった教育きょういくをしておくのはいま時期じきしかないとおもったのです。いまやっておかずに、卒業そつぎょう自分じぶんでやるといっても実際じっさいはできるものではない。まして戦時せんじちゅうはなおさらのことです。戦争せんそうだからいってはや卒業そつぎょうさせ、未熟みじゅくのまま前線ぜんせんして戦死せんしさせるよりも、立派りっぱ基礎きそ教育きょういくいまのうちにおこない、戦後せんご復興ふっこう役立やくだたせたいというのがわたし真意しんいでした。しかし、当時とうじ敗戦はいせん場合ばあいのことなどくちしてえるものではありませんでしたし、またうべきことでもありません」と回想かいそうする[204]

戦後せんご井上いのうえへい学校がっこうはなしとなるとかならず75言及げんきゅうした[205]。75へい学校がっこうはいって1ねん8かげつ生徒せいとのまま敗戦はいせんむかえ、戦後せんご社会しゃかいかく分野ぶんやらばった。下記かきは、井上いのうえが、75のクラスかい1971ねん昭和しょうわ46ねん)12月におくったメッセージの一部いちぶである。「諸君しょくん昭和しょうわ20ねん8がつ帝国ていこく海軍かいぐん滅亡めつぼうともに、まこと無情むじょうなかほうされて、そのから、べることから、ることまで、自分じぶんなにとかしなければならなかったひともあり、いたい近親きんしん消息しょうそくれなかったひともあったことでしょう。また、家族かぞくてきめぐまれたひとでも、大学だいがく受験じゅけんすれば1わりまでしか入学にゅうがくゆるせぬとの差別さべつあつかいや[注釈ちゅうしゃく 31]なかからひややかなられるとうくやしいったようでしたが、これらの不遇ふぐう見事みごと克服こくふくし、今日きょうでは「われここにり」とむねをたたいて、堂堂どうどう立派りっぱ社会しゃかい活動かつどうをやっており、世人せじんたか評価ひょうかけております。この2、3ねん海軍かいぐんブーム!! これを招来しょうらいしたのは諸君しょくんおしでなくてほかにだれがありますか!! おしよ、春秋しゅんじゅう諸君しょくんよ、今後こんごも、健康けんこうで、現在げんざい堂堂どうどうたる態度たいどで、社会しゃかい貢献こうけんして後進こうしんみちびき、海軍かいぐん精神せいしん後世こうせいのこしたまえ」[206]

へい学校がっこう武官ぶかん教官きょうかんで、へい75生徒せいと採用さいよう委員いいん一人ひとりであった前田まえだ一郎いちろう少佐しょうさへい57、のち中佐ちゅうさ)が、地方ちほうへい学校がっこう採用さいよう試験しけん会場かいじょうで、「あしかる障害しょうがいがあるが、現地げんちでの身体しんたい検査けんさでは合格ごうかくした。筆記ひっき試験しけん成績せいせき優秀ゆうしゅうで、前田まえだ観察かんさつでは人格じんかく優秀ゆうしゅう」な受験生じゅけんせいが、「入校にゅうこう予定よていしゃ」として江田島えたじまた。あし障害しょうがいった前田まえだ上官じょうかん生徒せいとたい監事かんじ)が「あの入校にゅうこう予定よていしゃ合格ごうかくただちにそのむねいわたせ」とった。前田まえだ自身じしんあし障害しょうがいのあるその入校にゅうこう予定よていしゃが、へい学校がっこうきびしい訓練くんれんえられないと生徒せいとたい監事かんじ判断はんだんするのは理解りかいできた。前田まえだ躊躇ちゅうちょった生徒せいとたい監事かんじは「へい学校がっこう練兵れんぺいじょうのトラックを、予定よていしゃと、あの予定よていしゃ一緒いっしょ全力ぜんりょく疾走しっそうさせるんだ。一番いちばんビリ、しかもずうっとおくれたら、自分じぶん納得なっとくするよ」と前田まえだ指示しじした。400メートル全力ぜんりょく疾走しっそう結果けっかは、生徒せいとたい監事かんじ予想よそうどおりで、前田まえだもほっとした。だが、ゴールにようやくたどりいた入校にゅうこう予定よていしゃは「教官きょうかんわたしをこのへい学校がっこうきたえてください。わたしは、あのひとたちにけない生徒せいとになってみせる自信じしんがあります」と、生徒せいとたい監事かんじ前田まえだまった予想よそうしないことをった。当惑とうわくした前田まえだを、一部始終いちぶしじゅうとおくからていた井上いのうえんだ。井上いのうえは、前田まえだに「あの生徒せいとはどんな人物じんぶつか」とき、前田まえだが「じつ立派りっぱ人物じんぶつです」とこたえると、無造作むぞうさに「海軍かいぐん生徒せいとになってから事故じこ怪我けがをしたとおもえばいい。将来しょうらい航空こうくう関係かんけい技術ぎじゅつ士官しかんけるみちもあろう」とった。井上いのうえ決断けつだんへい75一員いちいんとしてへい学校がっこう入校にゅうこうし、敗戦はいせんまでの1ねん8かげつ無事ぶじごしたこの生徒せいとは、ぼう国立こくりつ大学だいがく宇宙うちゅう航空こうくう研究所けんきゅうじょ教授きょうじゅとなっている(1982ねん昭和しょうわ57ねん現在げんざい[207]資料しりょう[208]から、この生徒せいと[1]砂川すなかわめぐみ東京とうきょう大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅであること確認かくにんされている。

海軍かいぐん次官じかん

[編集へんしゅう]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつ上旬じょうじゅん、サイパン失陥しっかんにより東條とうじょう内閣ないかく崩壊ほうかいし、小磯こいそ国昭くにあき米内よない光政みつまさりょう組閣そかく大命たいめいくだり、7がつ22にちづけ小磯こいそ内閣ないかく発足ほっそくした[204]予備よびやく大将たいしょうだったべいない特旨とくしをもって現役げんえき復帰ふっきし、ふく総理そうりかく海軍かいぐん大臣だいじん就任しゅうにんした。

7がつ28にち井上いのうえべいない要請ようせいけて、べいない宿泊しゅくはくする京都きょうとホテルをたずねた。べいない海軍かいぐん次官じかん就任しゅうにん懇請こんせいされ、なんかのやりとりの挙句あげくべいないられ、井上いのうえは「政治せいじのことはらんかおしていいのなら、やります。部内ぶない号令ごうれいすることなら、かなら立派りっぱにやります。心配しんぱいかけません」と、次官じかん就任しゅうにん受諾じゅだくした[209]井上いのうえはこのときのことを「自分じぶん貫禄かんろくけだった」と述懐じゅっかいしている。同時どうじに、べいない井上いのうえ軍令ぐんれい総長そうちょう人事じんじについて相談そうだんした。べいないは、軍令ぐんれい総長そうちょう嶋田しまだ繁太郎しげたろう大将たいしょう更迭こうてつすることはめていたが、べいないをバックアップしていた海軍かいぐん出身しゅっしん重臣じゅうしんである岡田おかだ啓介けいすけ大将たいしょうが「海軍かいぐんない信望しんぼうべいないおとらない末次すえつぐ信正のぶまさ大将たいしょうを、べいない同様どうよう特旨とくしをもって現役げんえき復帰ふっきさせ、軍令ぐんれい総長そうちょうとする」構想こうそうっていることには反対はんたいであった。井上いのうえくちから「末次すえつぐ」の一切いっさいず、及川おいかわ古志こしろう大将たいしょう総長そうちょうとすることがすんなりまった[210]

8がつ5にち井上いのうえ海軍かいぐん次官じかん任命にんめいされた[211]中将ちゅうじょう進級しんきゅう6ねん井上いのうえ次官じかん就任しゅうにんさいして「とく親任しんにんかん待遇たいぐうたまう」という辞令じれいけていた[212][213]へい学校がっこう教官きょうかんたちにたいする退任たいにん挨拶あいさつで「わたし過去かこ1ねん9かげつ兵学へいがく校長こうちょう職務しょくむおこなってきたが、離職りしょくたってだれしもがうような、大過たいかなく職務しょくむたすことができた、などとはわない。わたしのやったことがかったか、わるかったか。それは後世こうせい歴史れきしがそれを審判しんぱんするであろう」とはなした[214]次官じかん就任しゅうにんし、つとむせっする立場たちばとなった井上いのうえは、戦局せんきょく絶望ぜつぼうてきであること、それを直視ちょくしして根本こんぽんさく戦争せんそうめるさく)を実行じっこうしようとする勇気ゆうきけた海軍かいぐん中央ちゅうおう雰囲気ふんいきった[215]

8がつ16にち特攻とっこう兵器へいきふるえよう検討けんとうかいで、くさ鹿しか龍之介りゅうのすけ中将ちゅうじょうとともに生還せいかん可能かのうせいかんがえてほしいと意見いけんするが、最終さいしゅうてきにそういった措置そちられることはなかった[216]

8がつ29にち井上いのうえ大臣だいじんしつべいないに「日本にっぽん敗戦はいせんうごかしがたいので内密ないみつ終戦しゅうせん研究けんきゅう終戦しゅうせん工作こうさく)をはじめるので大臣だいじん軍令ぐんれい総長そうちょうには承知しょうちねがいたい」むね具申ぐしんし、つづけて研究けんきゅうには海軍かいぐんしょう人事じんじきょく高木たかぎそうきち少将しょうしょう[注釈ちゅうしゃく 32]てたいこと、そのため高木たかぎを「海軍かいぐんしょう出仕しゅっし次官じかんうけたまわいのち服務ふくむ」にしたいとべた。同日どうじつ井上いのうえ高木たかぎ次官じかんしつび、快諾かいだくるとかれ病気びょうき療養りょうよう[注釈ちゅうしゃく 33]という名目めいもく海軍かいぐんしょう出仕しゅっしあつかいとした[220]高木たかぎ目立めだたない執務しつむ場所ばしょとして海軍かいぐんだい学校がっこう研究けんきゅうえらばれたため、高木たかぎへの辞令じれいは「軍令ぐんれい出仕しゅっし けん 海軍かいぐんだい学校がっこう研究けんきゅう部員ぶいん」となり、職務しょくむ内容ないようは「次官じかんうけたまわいのち服務ふくむ」となり、翌年よくねんの1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつには「けん 海軍かいぐんしょう出仕しゅっし」の肩書かたがき追加ついかされた[221]

井上いのうえいのちけて、高木たかぎ海軍かいぐん部外ぶがいこころざしおなじくする要人ようじん有識者ゆうしきしゃあいだ精力せいりょくてきまわした。そのとき高木たかぎ背広せびろ姿すがたであったが、ときには海軍かいぐんいかりマークがついた公用こうようしゃって要人ようじん有識者ゆうしきしゃ私邸してい急行きゅうこうした。戦争せんそう終結しゅうけつひそかにかんがえていたかれらは「海軍かいぐん現役げんえき将官しょうかんをして正式せいしき和平わへいへのみちさぐらせはじめたこと」 のあかして、おおいに勇気ゆうきづけられた[219]高木たかぎはら田熊たぐまつよし松平まつだいら康昌やすまさつうじて、昭和しょうわ天皇てんのう側近そっきん重臣じゅうしん自分じぶんかんがえをつたえた。岡田おかだ啓介けいすけ大将たいしょうたく訪問ほうもんして報告ほうこくし、指示しじけた。細川ほそかわ護貞もりさだかいして近衛このえ文麿ふみまろもと首相しゅしょうに、さらに近衛このえつうじて高松宮たかまつのみやつうじた。現役げんえき海軍かいぐん大佐たいさである高松宮たかまつのみやには、高木たかぎ直接ちょくせつ報告ほうこくして連絡れんらくみつにしていた。高木たかぎのこのような活動かつどうにより、あまりなかくなかった岡田おかだ近衛このえ徐々じょじょ理解りかいい、共通きょうつう目的もくてきである戦争せんそう終結しゅうけつうごはじめた[222]

戦後せんご井上いのうえは、「終戦しゅうせん工作こうさくむすび、はちせんまん同胞どうほう玉砕ぎょくさいせずにのこれたのは高木たかぎ少将しょうしょうちからである。わたしはそれをめいじただけ」とつづけた。一方いっぽう高木たかぎは、井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい事務じむきょくてた1979ねん昭和しょうわ54ねん)6がつ末日まつじつづけ書簡しょかんで「井上いのうえ大将たいしょうわたし功労こうろうしゃのようにべておられますが、以前いぜんべたごとわたしはお使つか小僧こぞうぎなかったので、べいない井上いのうえりょう上司じょうしこう関係かんけい要所ようしょ浸透しんとうさせるのがわたし任務にんむでした。ただ、井上いのうえ次官じかんかくして実行じっこうしたことは、陸軍りくぐん課長かちょうきゅう直接ちょくせつ接触せっしょくしてなにとか陸軍りくぐん態度たいど緩和かんわさせようと努力どりょくしたことだけです。むろん失敗しっぱいわりました」とべている[223]戦後せんご井上いのうえは「秘密ひみつにやったんです。高木たかぎさんの職務しょくむもの訓令くんれいさない、書類しょるいのこさんぞ、だけど、[中略ちゅうりゃくおおやけ職務しょくむとして高木たかぎくんがもらったものなんですよ。[中略ちゅうりゃく高木たかぎくん酔狂すいきょうで、海軍かいぐんしょうあそんでいるからブラブラしててやったという問題もんだいじゃないんです。公務こうむなんですから、陸軍りくぐん松谷まつや荒尾あらお佐藤さとう中略ちゅうりゃく]これらは個人こじんとしてそういうかんがえをっていたというだけのことで、[中略ちゅうりゃく高木たかぎくんおなじレベルにならべてたら大変たいへん間違まちがいになりますから、そのてんひと間違まちがいなくいただきたい」と証言しょうげんした[224]井上いのうえは、同時どうじに、かりに「高木たかぎ自身じしん和平わへい賛成さんせいしなくても、その準備じゅんびをしなければならない立場たちばにあった」ことを歴史れきしにとどめるべきだとっている[225]

海軍かいぐん大臣だいじん副官ふっかん けん 秘書官ひしょかんであった岡本おかもといさお中将ちゅうじょうによると、高木たかぎはしばしば井上いのうえ次官じかんしつたずねてはなしをしていた。また、核心かくしんれるはなしについては、よる井上いのうえ大臣だいじん官邸かんてい[注釈ちゅうしゃく 34]たずねて、たとえば近衛このえ私生活しせいかつじょうはなしいたるまでのあらゆる情報じょうほうつたえていた[227]井上いのうえ高木たかぎにとってさい重要じゅうようなことは「いちにちはやせんをやめること」であり、そのためには如何いかなる犠牲ぎせいはらってもいというほど、二人ふたり決意けつい徹底てっていしていた。陸軍りくぐん重臣じゅうしんゆずれない講和こうわ条件じょうけんとしていた「国体こくたい護持ごじ」についても、二人ふたり関心かんしん次第しだいうすれていった[228]

高木たかぎほかに、井上いのうえこころざしおなじくするもの海軍かいぐんないにいた。海軍かいぐんしょう兵備へいびきょく課長かちょう浜田はまだゆうなま大佐たいさであった。浜田はまだは1944ねん昭和しょうわ19ねん)に海軍かいぐん大臣だいじん官邸かんていひらかれた戦備せんび幹部かんぶかいで、物的ぶってき国力こくりょく現状げんじょう詳細しょうさい説明せつめいし、このままでは戦争せんそう継続けいぞく不可能ふかのうであることを大臣だいじん総長そうちょうわからせようとした。説明せつめいが1時間じかん以上いじょうつづいたのち井上いのうえは「戦争せんそう終結しゅうけつ」をくちしかねまじき浜田はまだ意図いと見抜みぬいて「浜田はまだ、もうとどめろ」と制止せいしした。浜田はまだは、当直とうちょくばんごとに大臣だいじん官邸かんてい井上いのうえたずねて「戦争せんそう終結しゅうけついそいでしい」とたのんでいた。浜田はまだ井上いのうえ高木たかぎラインの活動かつどうらず、井上いのうえもそのことを浜田はまだげることは出来できなかった。戦後せんご井上いのうえ自分じぶん住所じゅうしょろくなか浜田はまだに「[先見せんけんあかりあり、だい忠臣ちゅうしん終戦しゅうせん必要ひつよう井上いのうえ次官じかん]に申出もうしでづ。[だい海軍かいぐんただ一人ひとり]ときしていた[229]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)9がつ5にち陸海りくかい技術ぎじゅつ運用うんよう委員いいんかい設置せっちされ、井上いのうえ陸軍りくぐんしょう次官じかんとともに委員いいんちょうつとめた。特殊とくしゅ奇襲きしゅう兵器へいき開発かいはつのために陸海りくかいみん科学かがく技術ぎじゅつ一体化いったいかはかられた[230]

10月25にち井上いのうえレイテおき海戦かいせん損傷そんしょうした艦船かんせん修理しゅうりかんして、石油せきゆ、ボーキサイトの還送かんそう支障ししょうがあってはならない、タンカーや貨物かもつせん建造けんぞうおくれ、その特長とくちょうある作戦さくせん必要ひつよう特攻とっこう兵器へいきなどの建造けんぞう計画けいかく影響えいきょうがあってはならないと軍務ぐんむ局長きょくちょう多田ただ武雄たけお中将ちゅうじょう運輸うんゆ本部ほんぶちょう堀江ほりえよし一郎いちろう少将しょうしょう指示しじした[231]

レイテおき海戦かいせん連合れんごう艦隊かんたい事実じじつじょう壊滅かいめつし、1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ以降いこうは、南方なんぽう石油せきゆ内地ないち輸送ゆそうするみちたれ、わずかな残存ざんそん艦艇かんていうごけなくなった。海軍かいぐん勢力せいりょくおとろえ、海軍かいぐん陸軍りくぐん戦力せんりょくバランスがくずれたことで、陸軍りくぐん主導しゅどうしたに「陸海りくかいぐん一元化いちげんか」が画策かくさくされ、3がつ10日とおかに、海軍かいぐん大臣だいじんべいない海軍かいぐん次官じかん井上いのうえ軍令ぐんれい次長じちょう小沢おざわおさむ三郎さぶろう中将ちゅうじょう井上いのうえ海兵かいへい同期どうき)らに、陸軍りくぐん対応たいおうする職階しょっかいものたちが「陸海りくかいぐん一元化いちげんか」をびかけてきた。しかし和平わへいのために活動かつどうしている井上いのうえがこれに同意どういするはずがなかった。当時とうじ井上いのうえかんがえは、いくつかの書類しょるいかれて現存げんそんしている。陸軍りくぐん海軍かいぐん吸収きゅうしゅうされて国軍こくぐん一本いっぽんするということは、「本土ほんど決戦けっせん」で徹底てってい抗戦こうせんするという陸軍りくぐん戦略せんりゃくしたがうことであり、べいない井上いのうえ到底とうていることではなく、りょうの頑とした反対はんたいにより陸海りくかい一元化いちげんか阻止そしされた[232]

井上いのうえによれば、これに先立さきだつ1944ねん昭和しょうわ19ねん)12月に海軍かいぐん大臣だいじん官邸かんていでの会食かいしょくのちに、井上いのうえにんきりになったべいない井上いのうえに「おれはくたびれた。井上いのうえ、おまえ大臣だいじんゆずる」というむねった。井上いのうえは「陛下へいか信任しんにん小磯こいそさんとともに内閣ないかくをつくったひとが、くたびれたくらいのことでめるなんていうがありますか。いま国民こくみんみな、いのちをかけてせんをしているんではないですか。すくなくともわたし絶対ぜったいけませんよ」と即答そくとうした。大臣だいじん秘書官ひしょかん岡本おかもと中佐ちゅうさによると、翌年よくねん1がつ10日とおかにも同様どうよう問答もんどうがあった。高木たかぎは、2がつ26にちに、横須賀よこすか海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう教頭きょうとうつとめていた高松宮たかまつのみや訪問ほうもんし、小磯こいそべい内内うちうちかく更迭こうてつ場合ばあい海軍かいぐん首脳しゅのう陣容じんようについて高松宮たかまつのみやからわれ、3つのあん提示ていじした。そのうち1つのあんでは、井上いのうえ大臣だいじんせられていた[233]井上いのうえ回想かいそうによると、4がつ1にち海軍かいぐんしょう人事じんじ局長きょくちょう三戸さんのへ寿ひさし少将しょうしょう日曜にちよう午後ごご大臣だいじん官邸かんてい自室じしつにいた井上いのうえ訪問ほうもんし、人事じんじ異動いどうあんしめした。そこには「大臣だいじん井上いのうえ」とあった。井上いのうえさんに「だめだ、次官じかんがやれるから大臣だいじんもやれるとうもんではない。わたし大臣だいじん不適ふてきなことは自分じぶんでよくっている。米内よないさんにそのままやってもらうんだ」とった。井上いのうえは「危機一髪ききいっぱつこれさん」と表現ひょうげんしている。

井上いのうえ中将ちゅうじょう進級しんきゅう(1939ねん昭和しょうわ14ねん)11月15にち)から5ねん経過けいかして、現役げんえき海軍かいぐん次官じかん要職ようしょくにあった。太平洋戦争たいへいようせんそうちゅうは、中将ちゅうじょう進級しんきゅうして5ねんはん経過けいかしても現役げんえきにあるもの大将たいしょう親任しんにんされる慣例かんれいであった[176]。これを反映はんえいして、1944ねん昭和しょうわ19ねん)のれごろに、べいない大将たいしょう親任しんにんはなし井上いのうえちかけた。このとき井上いのうえは「大将たいしょうにするとうのは次官じかんをやめろということですね」とべいないねんしし、「和平わへい玉砕ぎょくさいか、国家こっか運命うんめい岐路きろたされているとき何故なぜおのれ片腕かたうでともたのむものをろうとするのか」とあんべいないうったえた[234]井上いのうえは、1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ20にちづけで「大将たいしょう進級しんきゅう意見いけん」とだいして毛筆もうひつ一文いちぶんき、べいないに、正式せいしき自分じぶん大将たいしょう親任しんにん反対はんたい意志いし表明ひょうめいした。いで、2がつ3にちには「当分とうぶん海軍かいぐん大将たいしょう進級しんきゅう中止ちゅうしけん追加ついか」とだいした一文いちぶんべいない提出ていしゅつした。井上いのうえ回想かいそうによると、3がつなかば、海軍かいぐん大臣だいじん官邸かんていべいない井上いのうえにんだけになったときべいないが「4がつ1にちづけで、塚原つかはらよんさん中将ちゅうじょう井上いのうえ大将たいしょうにする」とげた。井上いのうえは「『せんやぶれて大将たいしょうあり』ですか。いま大将たいしょうにんつくらないと海軍かいぐんせんをやっていくのにこまるわけでなし、この戦局せんきょくなのに、大将たいしょうなんかできたら国民こくみんなにおもいますか。そのうえわたし人格じんかく技能ぎのう戦功せんこう、どれひとつとってかんがえても、みずか大将たいしょうなんていううつわではないとかんがえてます。べいない大将たいしょうもやはり月並つきなみのおとこだなとわらわれないように、とくとおかんがえになったらよいでしょう」と返答へんとうした。2、3にちして、べいないから井上いのうえに「塚原つかはらきみ今度こんど大将たいしょう見合みあわせだ」という言葉ことばがあり、井上いのうえは、自分じぶん進言しんげんべいないがききいれてくれたことに謝意しゃいべた[235]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ5にち小磯こいそ内閣ないかくそう辞職じしょくした。戦局せんきょく末期まっきてき様相ようそうびてきたのがその主因しゅいんであったが、井上いのうえ - 高木たかぎ工作こうさくによって、ようやく重臣じゅうしんたちが陸軍りくぐん主導しゅどう内閣ないかくはいし、和平わへい模索もさくする方向ほうこうはじめたことを意味いみし、井上いのうえ高木たかぎにとっては、和平わへい早期そうき実現じつげん好機こうきであった。ただ、べいないは、小磯こいそとも前年ぜんねんの7がつ組閣そかく大命たいめいけた経緯けいいがあるので、新内しんないかく留任りゅうにんするのは「政治せいじ道徳どうとくじょう至難しなんであるという問題もんだいがあった[236]井上いのうえは、内大臣ないだいじん木戸きど幸一こういちから、高木たかぎとおして「組閣そかく大命たいめいは、枢密院すうみついん議長ぎちょう鈴木すずき貫太郎かんたろう海軍かいぐん大将たいしょうくだ見込みこみ」とのうちほうけ、それに賛同さんどうするとともに、条件じょうけんとして「鈴木すずき大将たいしょう人物じんぶつ度胸どきょうもうぶんないが、失礼しつれいだが総理そうりとして必要ひつよう政治せいじ感覚かんかくとぼしいとおもう。それ鈴木すずき内閣ないかく出来できるとすれば、米内よない大将たいしょう是非ぜひども鈴木すずきさんの片腕かたうで相談役そうだんやくとして入閣にゅうかくしてもら必要ひつようがある。これ絶対ぜったい条件じょうけんおもう」と、木戸きど返答へんとうするように高木たかぎ指示しじした。これは、海軍かいぐんないだれにも相談そうだんせず、井上いのうえ一人ひとり独断どくだんめたことであった[237]。4月5にち鈴木すずき組閣そかく大命たいめいくだると、井上いのうえは、高木たかぎに「海軍かいぐん総意そういべいないうみしょう留任りゅうにんである」と鈴木すずきつたえるようめいじ、鈴木すずき承知しょうちさせ、その海軍かいぐん首脳しゅのう了解りょうかいけた。この「海軍かいぐん総意そうい」は、実際じっさい井上いのうえ一人ひとりかんがえだった。その米内よない自身じしんうみしょう留任りゅうにん難色なんしょくしめしたが、井上いのうえった[238]

井上いのうえは、べいないに4がつ25にちづけで「当分とうぶん大将たいしょう進級しんきゅう不可ふかとする理由りゆう」という文書ぶんしょさんたび提出ていしゅつした。しかし井上いのうえ回想かいそうによると、5月7にちか8にち井上いのうえ大臣だいじんしつばれ、べいないから「陛下へいか塚原つかはらきみ大将たいしょう親任しんにん裁可さいかになったよ」とげられた。井上いのうえは「陛下へいか裁可さいかがあったのではいたかたありません。あたりまえなら大臣だいじんのおはからいにおれいもううえぐべきでしょうが、わたしもうしません。なお次官じかんめさせていただけますでしょうね」とこたえ、べいないが「うん」とこたえて、井上いのうえ次官じかん退任たいにんまった[注釈ちゅうしゃく 35]井上いのうえは「“いくさ大将たいしょうだけはやはりでき”、こういうができましたよ」とべいないにいいのこして大臣だいじんしつ退出たいしゅつした[241]井上いのうえは、戦後せんごこののことについて「それで米内よないさんと喧嘩けんかわかれしちゃったんだ(中略ちゅうりゃく)それっきり仲直なかなおりしてません。その問題もんだいについてはね」とかたっている[242]

べいない井上いのうえが「喧嘩けんかわかれ」した経緯けいいについては、諸説しょせつがある[243]。ただし、べいない井上いのうえかんがえが、和平わへいという大筋おおすじでは一致いっちしても、具体ぐたいてき方法ほうほうについて一致いっちしていなかった可能かのうせいがある[244]井上いのうえ戦後せんご小柳こやなぎとみ中将ちゅうじょうに「べい内大臣ないだいじんは、一度いちど何処どこかでアメリカぐんいちはたきしたあと、和平わへいってってはどうかとかんがえておられたが、わたしはそれはとてものぞみないとおもっていた」とかたっている。

3がつ硫黄いおうとう攻略こうりゃくされて、べいぐん戦闘せんとうP-51が進出しんしゅつし、以後いごちょく掩機のP-51にまもられたB-29の本土ほんど空襲くうしゅう急速きゅうそく規模きぼ回数かいすうし、戦闘せんとういん犠牲ぎせい幾何級数きかきゅうすうてき増加ぞうかした。井上いのうえ毎日まいにちのように「大臣だいじんぬるい、ぬるい。いちにちはやせんをやめましょう。いちにちおくれれば、なんせんなんまん日本人にっぽんじん無駄むだにするのですよ」とべいないめ、ときには具体ぐたいてき計数けいすうまでしめして説得せっとくしていた[244]

井上いのうえは、4がつはじめに『日本にっぽんるべき方策ほうさく』とだいした、じゅうすうまい所見しょけんべいない提出ていしゅつした。この所見しょけんは、べいないの「沖縄おきなわをとられたらどうするか」という質問しつもんへの井上いのうえこたえであり、その趣旨しゅしは「独立どくりつうことだけがたもたれれば、はどんな条件じょうけんでもよいからせんをやめるべきである。べいぐん本土ほんど上陸じょうりくまえ講和こうわをしなければ、日本人にっぽんじん国民こくみんせいからかんがえると、べいぐんたい徹底的てっていてき抗戦こうせんし、ついには講和こうわする母体ぼたいまで消滅しょうめつさせてしまうであろう。それをふせぐため中立ちゅうりつこくソ連それん(スウェーデン、スイスでも)をかいしてすみやかに交渉こうしょう開始かいしすべきだ」というものであった[245]井上いのうえにとっては、もはや、国民こくみん生命せいめい以外いがいまもるべきものはなにもなかった。井上いのうえは「(1945ねん昭和しょうわ20ねん))5がつ終戦しゅうせんのチャンスはあった。もちろん、べいない井上いのうえころされるほどのことはあったろうが…」と回想かいそうする。さらに、7がつ26にちにポツダム宣言せんげんはっせられてから、8がつ15にちまで、天皇てんのうせい護持ごじをめぐって20日間にちかん終戦しゅうせん決定けってい先送さきおくりされたことについて、高木たかぎに「天皇てんのうせいみとめないといっても、終戦しゅうせんすべきであった」「そうすれば広島ひろしま長崎ながさき悲劇ひげきはなかった」とかたっている[246]近衛このえ木戸きどなどの天皇てんのう側近そっきんは、国体こくたい護持ごじ既存きそん国家こっか体制たいせい維持いじ前提ぜんていとしての休戦きゅうせんのぞんでいた。一方いっぽう上記じょうきのように、井上いのうえ一般いっぱん国民こくみんがわってのいちにちはや休戦きゅうせんのぞんでいた。

井上いのうえ海軍かいぐん大将たいしょう親任しんにんされた5月15にちづけ海軍かいぐん次官じかんめんじられ、軍事ぐんじ参議さんぎかんおやされた。その翌日よくじつから1かげつあいだ井上いのうえは40ねん間近まぢか海軍かいぐん生活せいかつはじめて長期ちょうき休暇きゅうかをとり、伊東いとうにあった海軍かいぐん将官しょうかん保養ほようしょ滞在たいざいした。その井上いのうえ東京とうきょうもどり、しばみず交社に起居ききょした。みず交社には、ささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう時代じだい井上いのうえ参謀さんぼうとしてつかえた、海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局員きょくいん中山なかやま定義さだよし中佐ちゅうさ宿泊しゅくはくしていた。中山ちゅうざん調査ちょうさ課員かいん兼務けんむしており、リアルタイムに機密きみつ情報じょうほう立場たちばにあった。井上いのうえ毎日まいにち夕食ゆうしょく中山なかやまかおわせると、中山なかやまかぎりの情報じょうほう要点ようてんたしかめ注意ちゅうい事項じこう指示しじした[247]高木たかぎあらたに次官じかんになった多田ただ武雄たけお中将ちゅうじょうを「ボンクラ次官じかん」とひょうしてたよりにせず、井上いのうえ帰京ききょうは「報告ほうこくさきが、次官じかんしつからみず交社にわっただけ」と回想かいそうするように、和平わへい工作こうさく井上いのうえ - 高木たかぎのラインで中断ちゅうだんすることなくつづけた[247]

7がつ26にち連合れんごうこくポツダム宣言せんげんはっし、これにたいして鈴木すずきが「黙殺もくさつする」とかたったことで内外ないがい混乱こんらんしょうじ、8がつ6にち広島ひろしまへの原爆げんばく投下とうか、8にちソ連それんたいにち参戦さんせん、9にち長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうか事態じたい急速きゅうそく悪化あっかして、10日とおか日本にっぽん政府せいふはようやくポツダム宣言せんげん受諾じゅだく決定けっていして午前ごぜん645ふん、スイス、スウェーデン両国りょうこくつうじてポツダム宣言せんげん受諾じゅだく無電むでんはっした。同日どうじつ午前ごぜん11に、海軍かいぐん元帥げんすい軍事ぐんじ参議さんぎかんらが米内よない光政みつまさうみしょうまねかれ、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくいたった経緯けいい説明せつめいけた。べいない秘書官ひしょかんに「居並いなら大将たいしょうれんが、いずれも残念ざんねんそうなかおつきをしていたのに、井上いのうえ大将たいしょうだけはひとりすがすがしいかおをしていた」とかたった[248]

8がつ15にち以降いこう軍令ぐんれい次長じちょう大西おおにしたき治郎じろう中将ちゅうじょう割腹かっぷく自決じけつだい航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん宇垣うがきまとい中将ちゅうじょう特攻とっこう沖縄おきなわおき海面かいめん墜落ついらく)がつづいた。8月16にちひらかれた「大将たいしょうかい」で、井上いのうえは「事態じたいくなれること其他につき、おっと責任せきにん地位ちいにあるひとが、自殺じさつするひとがあるようなるも、ほど自殺じさつすれば当人とうにん気持きもちとしては満足まんぞくなるべく、また自己じこ生涯しょうがいかざるべきも、而し此の大事だいじ重要じゅうよう人々ひとびと次々つぎつぎと此のごとくして所謂いわゆる自殺じさつ流行りゅうこうにしてかえりみぬとこと国家こっか損失そんしつなり」といましめた[249]井上いのうえは、海軍かいぐんでの最後さいご仕事しごととして、だい航空こうくう艦隊かんたいの「査閲さえつ」を、海軍かいぐん大臣だいじんべいないから9がつ10にちづけめいじられ、だい航空こうくう艦隊かんたいかく基地きちにおいて最寄もよりの航空こうくう部隊ぶたい指揮しきかんおよ関係かんけい幹部かんぶあつめて、かれらのった処置しょち復員ふくいん状況じょうきょうについて調査ちょうさし、統制とうせいある終戦しゅうせん処理しょり推進すいしんして帝国ていこく海軍かいぐん有終ゆうしゅうかざるよういた[250]

10がつ10日とおか待命たいめい、10月15にち予備よびやく編入へんにゅうされて、へい学校がっこう入校にゅうこう以来いらい39年間ねんかん海軍かいぐん生活せいかつえた。井上いのうえはこのとき55さいだった[251]敗戦はいせん進駐しんちゅうしてきたべいぐんとの折衝せっしょう部下ぶかともなっておもむき、部下ぶか英会話えいかいわりょく不十分ふじゅうぶん井上いのうえは、わきからキングズ・イングリッシュではなはじ[252]すべての要件ようけんかたづけてしまった[253]

戦後せんご

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英語えいごじゅく

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戦後せんご英語えいごじゅくをしていたころ
井上いのうえ海軍兵学校かいぐんへいがっこう校長こうちょう時代じだいから英語えいご教育きょういく廃止はいしろん退しりぞけて英語えいご教育きょういく徹底てっていするなど、教育きょういくしゃとしての見識けんしきふかかった。

海軍かいぐん消滅しょうめつしていち市民しみんとなった井上いのうえは、横須賀よこすか長井ながいいえ隠棲いんせいした[注釈ちゅうしゃく 36]長井ながいは、行政ぎょうせいじょう横須賀よこすかはいるものの、実際じっさい三浦半島みうらはんとうさい西端せいたん半農半漁はんのうはんぎょむらであり、横須賀よこすか市内しないからの交通こうつう不便ふべんな「僻村へきそん」であった[255]宮内庁くないちょう記録きろくにはないが、作家さっか阿川あがわ弘之ひろゆきによれば、戦後せんごあいだもない時期じき宮中きゅうちゅうからの使者ししゃ井上いのうえたくおとずれ、井上いのうえたくがあまりに乱雑らんざつであったため、使者ししゃはいったんり、井上いのうえ玄関げんかんこうきよめるのをって再度さいど訪問ほうもんして口上こうじょうべて、井上いのうえが「わたしのやったことが天子てんしさましんにかなった。これで死後しごおおきなかおして両親りょうしんうことが出来できる」とらしたとしている[256]

井上いのうえは1945ねん昭和しょうわ20ねん)のごろから近所きんじょ子供こどもたちに英語えいごおしえていたが[257]わずかな月謝げっしゃしか請求せいきゅうせず[258]月謝げっしゃがくについては後述こうじゅつ)、塾生じゅくせい父兄ふけいさかな野菜やさいれてくれる[258]以外いがい収入しゅうにゅうで、軍人ぐんじん恩給おんきゅう復活ふっかつ(1953ねん昭和しょうわ28ねん)8がつ)までの井上いのうえ生活せいかつ困窮こんきゅうきわめていた[259]1951ねん昭和しょうわ26ねん)12月24にちづけの、めい長兄ちょうけいしゅうむすめ)の伊藤いとう由里子ゆりこ[260]てた手紙てがみで、井上いのうえは「貧民ひんみんのような食事しょくじ」をしている窮状きゅうじょうなげいている[261]。また英語えいごじゅくひらかたわら、高校生こうこうせいフランス語ふらんすご個人こじん教授きょうじゅもしていた[262]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)のごろ長井ながい井上いのうえもと戦争せんそう未亡人みぼうじんとなった一人娘ひとりむすめの靚子が息子むすこ丸田まるた研一けんいちともせたが[254]、靚子も1948ねん昭和しょうわ23ねん)10がつ16にち肺結核はいけっかく死去しきょした(29さい[263]井上いのうえ肺結核はいけっかく悪化あっかしてたきりとなった靚子のために、たままで用便ようべんでき、風通かぜとおしがたけせい介護かいごようベッドをつくり、また、電気でんきパン焼ぱんやまんねんカレンダー・太陽熱たいようねつ湯沸ゆわかしなどの様々さまざま器械きかいを「発明はつめい」していた。長井ながい井上いのうえたくには工房こうぼうがあり、木工もっこう金属きんぞく加工かこう道具どうぐるいいちとおそろっていた。これらは、戦前せんぜん井上いのうえ海軍かいぐん将官しょうかんであったときぞろえたものであった[264]。バリカンで自分じぶんあたま坊主ぼうずあたまにするのも造作ぞうさくなかった[265]。その井上いのうえ男手おとこで一人ひとりまご研一けんいちそだてるのは無理むりで、井上いのうえ困窮こんきゅうつのったこともあり、8さい研一けんいちを靚子のとつさきである丸田まるたたくさざるをなかった[注釈ちゅうしゃく 37]海軍かいぐん将校しょうこうだったため公職こうしょく追放ついほうとなる[269]1952ねん追放ついほう解除かいじょ[270])。

敗戦はいせんから6ねん経過けいかした1951ねん昭和しょうわ26ねん)12がつ10日とおか新聞しんぶん東京とうきょうタイムズ」の1めんトップで、海軍かいぐん大将たいしょうであった井上いのうえ横須賀よこすか市外しがい僻村へきそん収入しゅうにゅうちか極貧ごくひん生活せいかつおくっている様子ようす報道ほうどうされた。井上いのうえしただいよん艦隊かんたい機関きかん参謀さんぼうだった山上さんじょうじつは、靴下くつした行商ぎょうしょうでようやく生計せいけいてていたが、その記事きじんで衝撃しょうげきけた。山上さんじょうは、戦後せんご交誼こうぎたもっていたもと参謀さんぼうちょう矢野やのこころざしさんもと中将ちゅうじょう当時とうじ東洋とうようパルプ専務せんむ取締役とりしまりやく)、もと先任せんにん参謀さんぼう川井かわいいわおもと少将しょうしょう当時とうじ東京とうきょう光学こうがく機械きかい販売はんばい子会社こがいしゃ東光とうこう物産ぶっさん」の神保町じんぼうちょうてん支配人しはいにん)に連絡れんらくった。りょうは、井上いのうえとの信頼しんらい関係かんけいもっとあつかったひとたちであり、実業じつぎょうかいへの転身てんしんなにとか成功せいこうしており、「山上やまかみくんとおり(井上いのうえさんがそんなにこまっておられるなら)、なんとかせにゃいかん。年明としあけにでも、みんな(司令しれい幕僚ばくりょうそろって一度いちど様子ようすこう」と即決そっけつした[271]井上いのうえ追放ついほう解除かいじょされた直後ちょくごの1952ねん昭和しょうわ27ねん)5がつに、矢野やの川井かわい山上さんじょうらの司令しれい幕僚ばくりょう井上いのうえたく訪問ほうもんした。長官ちょうかん時代じだい井上いのうえ端正たんせい姿すがた山上さんじょうは、井上いのうえのあまりの貧窮ひんきゅうぶりを実見じっけんしてあふれるなみださえられなかった[272]出迎でむかえた井上いのうえ海軍かいぐん軍装ぐんそう襟章えりしょう袖章そでしょうはずし、破損はそん箇所かしょつくろったものをており、栄養失調えいようしっちょう青黒あおぐろ顔色かおいろをしていた[273]もと参謀さんぼうなか東京とうきょう周辺しゅうへん学習がくしゅうじゅく月謝げっしゃ相場そうばをあらかじめ調しらべてものがおり、井上いのうえ英語えいごじゅく月謝げっしゃたずねると井上いのうえ東京とうきょう相場そうばの1/5~1/6の金額きんがくこたえた[274]

きゅう海軍かいぐん料亭りょうてい小松こまつ」は、戦後せんご横須賀よこすか健在けんざいであり、経営けいえいしゃ山本やまもと直枝なおえ長井ながい井上いのうえたくはじめて訪問ほうもんしたときに、あまりの貧窮ひんきゅうぶりに「これがくにのためにはたらいた海軍かいぐん大将たいしょう生活せいかつか」と絶句ぜっくした。井上いのうえ生活せいかつぶりをあんじて、時々ときどきものって井上いのうえたくたずねると、井上いのうえはいちいちじくなどを山本やまもとわたして「かえし」をしようとする。井上いのうえ困窮こんきゅう心底しんそこから同情どうじょうしていた山本やまもと困惑こんわくしたが、一時いちじあずかるつもりで「かえし」をり、「井上いのうえさんが(本当ほんとうに)こまったときには、品物しなものかえしすればい」と自分じぶん納得なっとくさせた[275]山本やまもとは、井上いのうえ心置こころおきなく好意こういけてもら方法ほうほうはないかとかんがえていた。1951ねん昭和しょうわ26ねんごろになって、「小松こまつ」にアメリカぐんきゃくがやってるようになったので、従業じゅうぎょういんへの英会話えいかいわ指導しどう井上いのうえたのむことにしたのである。山本やまもとは「井上いのうえさんにきなものを馳走ちそうしてさしあげようとおもい、英会話えいかいわ先生せんせいねがいたいんです」とかたっている。井上いのうえ英語えいごじゅく使つかっているものとはべつに、「小松こまつ従業じゅうぎょういん専用せんよう英語えいご教材きょうざい用意よういし、アメリカ・イギリスの国歌こっかまでおしえた。「小松こまつ」におおきなりがあるとかんがえている井上いのうえ報酬ほうしゅうもとめなかったが、英会話えいかいわおしえに「小松こまつ」に井上いのうえは、される食事しょくじよろこんでべ、「おくるまりょう」の名目めいもくされるつつみは素直すなおった。井上いのうえ山本やまもと直枝なおえ交誼こうぎは、井上いのうえくなるまでつづいた[276]

晩年ばんねん

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井上いのうえは、1953ねん昭和しょうわ28ねん)6がつ16にち胃潰瘍いかいよう大量たいりょう吐血とけつをし、市立しりつ横須賀よこすか病院びょういん長井ながいぶんいん搬送はんそうされた。井上いのうえ英語えいごじゅくは、井上いのうえ吐血とけつして緊急きんきゅう入院にゅういんした6がつ自然しぜん閉鎖へいさされ、井上いのうえ退院たいいん再開さいかいされなかった。もと生徒せいと一人ひとり保存ほぞんする英語えいごじゅくのノートの日付ひづけは、5月24にちわっている[277]

井上いのうえ社会しゃかい保険ほけん加入かにゅうしていず、所持しょじきんもなく、満足まんぞく治療ちりょうけられない状況じょうきょうだった。偶然ぐうぜんにもぶん院長いんちょう井上いのうえしたしい山本やまもと善雄よしお少将しょうしょう近親きんしんしゃで、搬送はんそうされた患者かんじゃ井上いのうえ成美まさみ」が、かつての海軍かいぐん大将たいしょうであることにづいて、ぶんいん総力そうりょくげての応急おうきゅう治療ちりょうがなされた。井上いのうえは、症状しょうじょう安定あんていした4にち市立しりつ横須賀よこすか病院びょういんほんいん搬送はんそうされた。ほんいん院長いんちょうが、機転きてんかせて、きゅう海軍かいぐん料亭りょうてい小松こまつ」に井上いのうえ状況じょうきょう通知つうちし、「小松こまつ」をかいして井上いのうえ窮境きゅうきょう海軍かいぐん関係かんけいしゃつたわり、多数たすう海軍かいぐん関係かんけいしゃ縁故えんこしゃべられた[278]市立しりつ横須賀よこすか病院びょういん定期ていきてき診療しんりょうしていた、千葉大学ちばだいがく医学部いがくぶだい外科げか教授きょうじゅ中山なかやま恒明つねあき執刀しっとうで、井上いのうえ手術しゅじゅつ成功せいこうした。治療ちりょう拠出きょしゅつ著名ちょめい外科げかである中山なかやま執刀しっとう、いずれも海軍かいぐん関係かんけいしゃ尽力じんりょくによる[279]井上いのうえ市立しりつ横須賀よこすか病院びょういん入院にゅういんちゅうの8がつ1にちに4がつから遡及そきゅうして支払しはらわれる規定きてい軍人ぐんじん恩給おんきゅう復活ふっかつした。山上さんじょう中佐ちゅうさは、井上いのうえ早期そうき軍人ぐんじん恩給おんきゅう受給じゅきゅうできるように東京とうきょう民政みんせいきょくあしはこんで係官かかりかん相談そうだんした。井上いのうえ海軍かいぐん次官じかん文官ぶんかんあつかい)を経験けいけんしたことから、文官ぶんかん恩給おんきゅう申請しんせいする資格しかくがあること、武官ぶかん恩給おんきゅう年金ねんきんがくよりおおくなるならば、文官ぶんかん恩給おんきゅう申請しんせいしたほういという示唆しさけた。山上さんじょうがそのむね井上いのうえつたえたところ井上いのうえは「海軍かいぐん士官しかんであったものとして生涯しょうがいえたい。金額きんがくかり不利ふりであっても、武官ぶかん恩給おんきゅう申請しんせいする」と返答へんとうした[280]

井上いのうえは、8がつまつ市立しりつ横須賀よこすか病院びょういん退院たいいんして長井ながい自宅じたくもどったのち軍人ぐんじん恩給おんきゅう復活ふっかつして一応いちおう生活せいかつ目処めどったためか、田原たはら富士子ふじこ同年どうねんあき再婚さいこんした[281]田原たはら富士子ふじこは、井上いのうえいた書面しょめんによると、1899ねん明治めいじ32ねん)12月に埼玉さいたまけん医師いしむすめとして出生しゅっしょう田原たはらぼう結婚けっこんするも死別しべつ花柳かりゅうりゅう日本にっぽん舞踊ぶよう名取なとり井上いのうえより10さい年下とししたで、井上いのうえ結婚けっこんしたときは53さいであった[282]。1951ねん昭和しょうわ26ねん)12月に『東京とうきょうタイムズ』に掲載けいさいされた井上いのうえについての記事きじみ、記事きじからつたわる井上いのうえ高潔こうけつ人格じんかく敬服けいふくして、貧窮ひんきゅうくるしむ井上いのうえ援助えんじょべたいとかんがえたという。東京とうきょうタイムズの記者きしゃ紹介しょうかいで、よく1952ねん昭和しょうわ27ねん)に長井ながい移住いじゅうし、井上いのうえ長兄ちょうけいしゅう別荘べっそうりてはじめ、ご馳走ちそうつくって井上いのうえとどけるなど、井上いのうえとの交際こうさいふかめてった。井上いのうえが、1953ねん昭和しょうわ28ねん)6がつ胃潰瘍いかいよう大量たいりょう吐血とけつをしたさい井上いのうえけつけた近所きんじょひとに「となりおくさんをんでください」といたかみわたした。医師いしむすめである富士子ふじこ多少たしょう医学いがく薬学やくがく知識ちしきゆうしており、吐血とけつさい応急おうきゅう処置しょち医師いしへの連絡れんらくなどを適切てきせつおこなうことが出来でき[283]富士子ふじこは、井上いのうえ市立しりつ横須賀よこすか病院びょういん入院にゅういんしている最中さいちゅうにはつねい(井上いのうえめい伊藤いとう由里子ゆりこ交代こうたいった[284])、した世話せわいとわずに献身けんしんてき世話せわをした[285]

井上いのうえ死去しきょ前年ぜんねん1974ねん昭和しょうわ49ねん)、山上さんじょう中佐ちゅうさに「富士子ふじこわたし看護かんごのために結婚けっこんしてくれたようなもので、なんらのたのしみもあたえることができず、まことどくだ。わたしまんいち場合ばあいに、富士子ふじこうえ一番いちばん心配しんぱいだった。しかし、(へい学校がっこうの)生徒せいと諸君しょくん援助えんじょ約束やくそくしてくれているのでほっとしているよ」とべており、富士子ふじこふか感謝かんしゃしていた様子ようすがうかがえる。[286]井上いのうえ死去しきょし、富士子ふじこ入院にゅういんしてとなった井上いのうえたく整理せいりしていたものが、「井上いのうえ富士子ふじこ名義めいぎ預金よきん通帳つうちょう発見はっけんした。預金よきん通帳つうちょうには、へい学校がっこう時代じだいおしである深田ふかた秀明ひであきへい73)が「管理かんりりょう」の名目めいもく晩年ばんねん井上いのうえおくった金額きんがくが、そっくり預金よきんされていたという[287][注釈ちゅうしゃく 38]

軍人ぐんじん恩給おんきゅう復活ふっかつにより、井上いのうえ生活せいかつ一応いちおう安定あんていしたが、恩給おんきゅうのみでの生活せいかつらくではなかった。この時期じき[注釈ちゅうしゃく 39]矢野やのこころざしさん中将ちゅうじょう日平ひびら産業さんぎょう[注釈ちゅうしゃく 40]社長しゃちょうつとめ、実業じつぎょうかい一定いってい地位ちいきずいていた。矢野やのは、井上いのうえ生活せいかつ心配しんぱいして、井上いのうえ一流いちりゅう会社かいしゃ顧問こもん推薦すいせんしたいと再三さいさん打診だしんしたが、井上いのうえかたくなに拒否きょひした[289]。また、戦後せんごのこの時期じきまでに井上いのうえ接触せっしょくしたきゅう部下ぶか有志ゆうしおもに、だいよん艦隊かんたい長官ちょうかん時代じだい幕僚ばくりょうと、兵学へいがく校長こうちょう時代じだい教官きょうかんおし)の協力きょうりょくによる金銭きんせん援助えんじょすらも、井上いのうえすべことわっていた[290]

井上いのうえ自身じしんは、軍人ぐんじん恩給おんきゅうのみではいずれは生活せいかつまるとかんがえ、長井ながい自宅じたく売却ばいきゃくしてもうすこ便利べんり場所ばしょちいさないえ残金ざんきん老後ろうご資金しきんてたいとかんがえていた。ところが、このころ井上いのうえたく自動車じどうしゃれない細道ほそみちあるいてかないと玄関げんかんさき辿たどけなくなっており、横須賀よこすか市街地しがいち逗子ずし方面ほうめんるのも困難こんなん、かつ別荘べっそうとしての発展はってん見込みこめず[63]井上いのうえ期待きたいする、代替だいたい住宅じゅうたく老後ろうご資金しきん確保かくほできるだけのれる見込みこみはなかった[291]1964ねん昭和しょうわ39ねん)、井上いのうえ兵学へいがく校長こうちょう時代じだいおしで、井上いのうえ心酔しんすいしており、実業じつぎょうかい成功せいこうおさめていた深田ふかた秀明ひであきが、井上いのうえを「子供こどもへい学校がっこう生徒せいと)が立派りっぱ成長せいちょうして小遣こづかいをってたずねてたのに、それをらぬおや兵学へいがく校長こうちょう)がどこにいますか」と理屈りくつ説得せっとくして、金銭きんせん援助えんじょれさせることに成功せいこうした[291]深田ふかたは、まず井上いのうえ自分じぶん会社かいしゃ顧問こもんとして顧問こもんりょう月々つきづき支払しはらい(当初とうしょは5せんえん、1968ねん昭和しょうわ43ねんごろから1まんえん[292])、いで井上いのうえたく深田ふかた会社かいしゃり、井上いのうえ夫婦ふうふに「管理かんりりょう」を月々つきづき支払しはら形式けいしきで、井上いのうえ死去しきょまで金銭きんせん援助えんじょつづけた[293]井上いのうえ深田ふかた好意こういけるわりに土地とち家屋かおく無償むしょう譲渡じょうとしたいと深田ふかたもうれ、固辞こじした深田ふかた井上いのうえ再三さいさんもうけ、井上いのうえたく深田ふかた会社かいしゃが「適正てきせい価格かかく」でった。深田ふかた複数ふくすう不動産ふどうさん井上いのうえたく時価じか評価ひょうかさせ、売買ばいばい契約けいやくしょ公正こうせい証書しょうしょとした。契約けいやく内容ないようは「井上いのうえ夫婦ふうふのいずれか一方いっぽう存命ぞんめいちゅう無償むしょう不動産ふどうさん使用しようでき、売却ばいきゃく代金だいきんくわえて、管理かんり費用ひようとして毎月まいつき一定いってい金額きんがく(5まんえん[294])を深田ふかた会社かいしゃ井上いのうえ支払しはらう」という破格はかくのものであった[注釈ちゅうしゃく 41]

1965ねん昭和しょうわ40ねん)10がつ23にちに、だいよん艦隊かんたい司令しれい幕僚ばくりょう親睦しんぼくかい珊瑚さんごかい」と、深田ふかた中心ちゅうしんとするへい学校がっこう73前後ぜんこう生徒せいと有志ゆうしにより、井上いのうえ喜寿きじゅいわかい東京とうきょう新宿しんじゅくの「たかビル」(深田ふかた会社かいしゃ本社ほんしゃビル)[注釈ちゅうしゃく 42]開催かいさいされた。戦後せんご井上いのうえ上京じょうきょうし、人前ひとまえ数少かずすくない事例じれい。このさいに、井上いのうえはイタリア駐在ちゅうざい武官ぶかん赴任ふにんするさいおなせんわせてった彫刻ちょうこくにち名子なご実三じつぞうがローマで制作せいさくし、井上いのうえ帰国きこくは、長井ながい自宅じたく玄関げんかん広間ひろまかれていた[296]だい一種いっしゅ軍装ぐんそう勲章くんしょう佩用はいようのブロンズ胸像きょうぞう持参じさんして深田ふかたたくした[297]井上いのうえ胸像きょうぞうは、深田ふかた会社かいしゃ事務じむしつかざられることがまった[298]井上いのうえ死去しきょしたのち井上いのうえ伝記でんき編集へんしゅう委員いいんかい組織そしきされ、事務じむきょくが「たかビル」の地下ちかいちかいしょう部屋へやもうけられた。井上いのうえ胸像きょうぞうは、この「井上いのうえ成美まさみ伝記でんき編集へんしゅう委員いいんかい事務じむきょくしつ」にかれていた[296][注釈ちゅうしゃく 43]

井上いのうえは、1974ねん昭和しょうわ49ねんはる風邪かぜをこじらせて横須賀よこすか市民しみん病院びょういん半年はんとし入院にゅういんした[286]井上いのうえは、発熱はつねつしたときからだふるわせて「はやくしないとわかしゃたちがどんどんんでしまう。はやくなんとかいそがねば…」とさけんだという[299]退院たいいんは、いちにち大半たいはんゆかなかすごすようになった。あたたかい部屋へやなかあるいたり、にわ散歩さんぽすることもあった。そして、1975ねん昭和しょうわ50ねん)12月15にち午後ごご5ぎに老衰ろうすい死去しきょした。86さいぼつくなったは、井上いのうえあさからゆかしていたが、夕刻ゆうこく5ちかくになって、っていた富士子ふじこぬすんでそっとがり、居間いままど敷居しきいをまたいでベランダにて、太平洋たいへいようながめていた。富士子ふじこづいたときは、ふたたまど敷居しきいをまたいで部屋へやかえところであり、ゆかもどってもなくいきったという[300]富士子ふじこいた最期さいご言葉ことばは、「うみが…、江田島えたじまへ…」だった[301]

死後しご

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生前せいぜんから葬儀そうぎ簡素かんそにしてしいというはなしおしらにしていた井上いのうえ遺志いし沿った簡素かんそ葬儀そうぎが、英語えいごじゅくもと生徒せいと住職じゅうしょくつとめる長井ながいすすむ明寺あけてらで12月17にち挙行きょこうされた。昭和しょうわ天皇てんのうから祭祀さいしりょう1まん5せんえん下賜かしされた。葬儀そうぎ委員いいんちょう海兵かいへい37クラスかい幹事かんじ中村なかむら一夫かずお少将しょうしょう[302]参列さんれつしゃは305めいおよんだ[303]高木たかぎそうきち葬儀そうぎ参列さんれつした。病身びょうしん高木たかぎ医者いしゃから安静あんせいめいじられていたが「井上いのうえさんの葬儀そうぎにはどんなことがあってもかなければまない。そのためにんだって本望ほんもうだ」と家族かぞく制止せいしって参列さんれつした。てら本堂ほんどうはいるようすすめられても固辞こじして、屋外おくがい椅子いすすわって12月の海風かいふうさらしていた高木たかぎは、肺炎はいえんこして危篤きとく状態じょうたいとなり、長期ちょうき療養りょうよう余儀よぎなくされた[304]

1976ねん昭和しょうわ51ねん)1がつ31にちに、「井上いのうえ成美まさみ追悼ついとうかい」が東京とうきょう原宿はらじゅく東郷とうごう記念きねんかんもよおされた。へい71 - 78のクラスかい世話人せわにんとなった。主催しゅさいしゃ予想よそうはるかにえる715めい参列さんれつしたため、用意よういされた椅子いすすわれたのは参列さんれつしゃの1/3にぎず、会場かいじょうそと参列さんれつしゃあふれた。戦後せんご海軍かいぐん関係かんけい集会しゅうかいでは最大さいだい人数にんずうであった。追悼ついとうかいは3あいだわたり、中村なかむら一夫かずお悼辞とうじめくくられた[305]未亡人みぼうじんとなった富士子ふじこは、井上いのうえ死後しご2かげつあまりの2がつ26にちに、長井ながい自宅じたくつうじる農道のうどう転倒てんとうし、横須賀よこすか市民しみん病院びょういん入院にゅういんした。どう病院びょういん勤務きんむする、生前せいぜん井上いのうえ主治医しゅじいへい学校がっこう時代じだいおし)が治療ちりょうしたが、富士子ふじこ心身しんしん急速きゅうそくおとろえ、認知にんちしょう悪化あっかした。富士子ふじこ老人ろうじん病院びょういん転院てんいんし、井上いのうえうように1977ねん昭和しょうわ52ねん)6がつ16にちまん76さい死去しきょした[306]

の2ヵ月かげつ発見はっけんされた井上いのうえ遺書いしょは、ひょうに『井上いのうえ成美まさみ遺書いしょ』とかれたしろ封筒ふうとうはいっていた[注釈ちゅうしゃく 45]

井上いのうえ夫妻ふさい死後しごきゅう邸宅ていたくとなるがこのいえおしえをうけた英語えいごじゅく塾生じゅくせいのひとりが夫婦ふうふで25年間ねんかんまもつづけていた。にわ手入ていれもとどき、むかしのまま保存ほぞんされていた。しかし、1999ねん平成へいせい11ねん)の横須賀よこすか市議会しぎかいで、議員ぎいん磯崎いそざき満男みつおが「家屋かおくいたみがすす一方いっぽうで、長年ながねん経過けいかしてきたいまでは屋根やねがわらのかなりの部分ぶぶん崩壊ほうかいし、室内しつないから青空あおぞら丸見まるみえ、雨水あまみず直接ちょくせつながみ、床下ゆかした全域ぜんいき満遍まんべんなく浸透しんとうし、全体ぜんたい修復しゅうふく困難こんなんなほどくさりかけ」と井上いのうえ旧宅きゅうたく状況じょうきょうべている[307]

2007ねん平成へいせい19ねん)、海軍兵学校かいぐんへいがっこう時代じだいおしつぎ世代せだい家族かぞくいで、すっかり外観がいかんよそおいもあたらしくなり、井上いのうえんでいたころ名残なごりをとどめるのは、暖炉だんろ煙突えんとつだけとなった。井上いのうえ起居ききょした部屋へやからえた荒崎あらさき海岸かいがんむかしかわっていない[308]きゅう井上いのうえていは、居間いま暖炉だんろなど一部いちぶ保存ほぞんされ、小規模しょうきぼながら「井上いのうえ成美まさみ記念きねんかん」として公開こうかいされていたが、2011ねん東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい被害ひがいにより閉館へいかんした[309]

2024ねんれい6ねん)、老朽ろうきゅうなどによりきゅう井上いのうえてい解体かいたいされることとなった。解体かいたい別荘べっそうになるとのことである[310]

人物じんぶつ

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山本やまもと善雄よしお少将しょうしょうによれば、「(井上いのうえが)面白味おもしろみがない、人間にんげんてきつめたいとひとがいるがそれはちがうとおもう。公務こうむときにはひょうない内面ないめんやさしさやあたたかさを、おんな敏感びんかんかんっている。だからあれだけ芸者げいしゃたちにしたわれるんだ」という[311]千早ちはや正隆まさたか中佐ちゅうさは「井上いのうえ日本にっぽん海軍かいぐんまれ軍政ぐんせいであり、そして教育きょういくであった」と評価ひょうかする[312]井上いのうえささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう時代じだい海軍かいぐん次官じかん時代じだい部下ぶかで、戦後せんごだい復員ふくいんしょう総務そうむきょく所属しょぞくしていた中山なかやま定義さだよし中佐ちゅうさによると、ある井上いのうえが、ボストンバッグに長井ながい名産めいさんらしいぶりのミカンをんで、中山なかやま職場しょくば慰問いもんてくれた。このさい井上いのうえは、きちんとした背広せびろて、あまり貧乏びんぼうくさくはなく、なかなか元気げんきそうであった。中山ちゅうざんは、もと大将たいしょう中将ちゅうじょうで、きゅう部下ぶか復員ふくいんかんにこのような気配きくばりをしてくれたのは井上いのうえだけだったと[313]

ギターを井上いのうえ

井上いのうえ音楽おんがくきで、きん名手めいしゅであった母親ははおやゆずりで、きんをはじめとして、ピアノギターアコーディオンヴァイオリンなどをそうきこなした。海軍かいぐん士官しかん時代じだい井上いのうえ音楽おんがくきは海軍かいぐんない有名ゆうめいで、ささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう時代じだいに、上海しゃんはいすい交社に臨時りんじ司令しれいいていたときにはよるにピアノやヴァイオリンをかなでいたり、宴席えんせき芸者げいしゃきん合奏がっそうをほぼぶっつけ本番ほんばん披露ひろうして周囲しゅういしたかせたり[314]ったエピソードがおおい。戦後せんごひらいていた英語えいごじゅくでは、ギターやアコーディオンで「がたり」をし、生徒せいと英語えいごうたうたわせた[315]。ギターやアコーディオンの個人こじん指導しどうもした[262]戦後せんご横須賀よこすか長井ながい隠棲いんせいする井上いのうえたずねた「比叡ひえい艦長かんちょう時代じだい部下ぶか今川いまがわ福雄ふくお大佐たいさへい52[316])に、「わたし海軍かいぐんはいっていなかったら、いまごろきっとおきん師匠ししょうてていただろうとおもいます」とかたった[317]

井上いのうえは、へい学校がっこう校長こうちょう時代じだい生徒せいと教官きょうかん数学すうがくてき思考しこうやしなうための「数学すうがくパズル」を考案こうあんして数学すうがく教育きょういく利用りようさせ、海軍かいぐん次官じかんになったのちひまさえあればそれをたのしんでいた。終戦しゅうせん直後ちょくごに「サン・パズル」という名前なまえアメリカ販売はんばいしようとした。日米にちべい開戦かいせん駐米ちゅうべい大使館たいしかん武官ぶかんで、アメリカに知己ちきおお横山よこやま一郎いちろう少将しょうしょうたすけをたが、この企画きかく実現じつげんしなかった[318]。「数学すうがくパズル」は、1944ねん昭和しょうわ19ねん)の、財団ざいだん法人ほうじん東京とうきょうすい交社機関きかんみず交社記事きじ」に、井上いのうえ執筆しっぴつした詳細しょうさいあそかた図解ずかい数学すうがくてき解説かいせつ掲載けいさいされた。この記事きじが、井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい編著へんちょ井上いのうえ成美まさみ井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい、1982ねん昭和しょうわ57ねん)、資料しりょうへん 221-228ぺーじ完全かんぜん収録しゅうろくされている。

今川いまがわ福雄ふくお大佐たいさが、戦後せんご英語えいごじゅくひらいていた井上いのうえに「井上いのうえさんは語学ごがく才能さいのうめぐまれているから、(新制しんせいの)中学生ちゅうがくせいに(初歩しょほの)英語えいごおしえるくらい、わけないでしょう」というむねうと、井上いのうえは「それは間違まちがっています。わたしわたしなりに努力どりょくしたのです。イタリア駐在ちゅうざい武官ぶかん赴任ふにんするさいには、いちげつ船旅ふなたびあいだにイタリア独習どくしゅうしょをひもといて現地げんち到着とうちゃくしたらなにとかカタコトでも会話かいわができるようになりたいと努力どりょくしました、ひとはこの(自分じぶんかげの)努力どりょくらずに語学ごがく天才てんさいのようにうのですが、それはあやまりです」というむねこたえた。なお、井上いのうえはイタリア駐在ちゅうざい武官ぶかん着任ちゃくにん大使館たいしかんのタイピストじょうもと小学校しょうがっこう教師きょうし)に師事しじし、毎朝まいあさ1あいだイタリア勉強べんきょうした[319]

1966ねん昭和しょうわ41ねんごろ東大とうだい経済学部けいざいがくぶ安藤あんどう良雄よしお教授きょうじゅの「(井上いのうえさんが)生涯しょうがいつうじて堅持けんじしてきたられたのはリベラリズムということになりましょうか」と質問しつもんに、井上いのうえは「いえ、その(リベラリズムの)じょうにラディカルというはいります」とこたえた[320]

さけはほとんどたしなまなかった[321]。「海軍かいぐんには無礼講ぶれいこうはない」と公言こうげんしていた[322]井上いのうえ米内よない光政みつまさだい提督ていとく貫禄かんろくがあるといって尊敬そんけいしていた[323]が、戦後せんごへい学校がっこう時代じだいおしべいないひょうして「(べいないが)酔払よっぱらって羽目はめはずすのも人間味にんげんみがあっていいではないですか」とうと、井上いのうえは「あれは醜態しゅうたいで、わたしかない」とにべもなかった[324]井上いのうえは44さい大佐たいさときつま喜久代きくよ先立さきだたれたのち女性じょせいたいしてきわめて禁欲きんよくてきだった[285]つまくしてから海軍かいぐん消滅しょうめつするまで、宴席えんせき料亭りょうていっても、高級こうきゅう士官しかんのように芸妓げいぎあそぶ(一夜いちやともにする)ことはなかったが、参謀さんぼうちょうさいいちだけ芸妓げいぎまったことがあり、名指なざしされた芸妓げいぎおどろいたほどであった。しかし、その芸妓げいぎとコンドームの使用しようめぐって問答もんどうとなり、結局けっきょくなにもせずにわった[325]昭和しょうわ40年代ねんだい晩年ばんねん井上いのうえ経済けいざいてきにバックアップしていた兵学へいがく校長こうちょう時代じだいおし深田ふかた秀明ひであきへい73)の質問しつもん井上いのうえは、「わたし先妻せんさい喜久代きくよ結核けっかくくしました。むすめわたしも、これに感染かんせんしているおそれが十分じゅうぶんありました。事実じじつむすめの靚子は戦時せんじちゅう結核けっかく発病はつびょうして夭折ようせつしました。だから、コンサンプションとばれる胸部きょうぶ疾患しっかんわたしきわめて神経質しんけいしつで、それを警戒けいかいしてずっと禁欲きんよく生活せいかつつづけてきた」とかたった[326]

戦略せんりゃく

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軍務ぐんむ局長きょくちょう井上いのうえ米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじん山本やまもと五十六いそろく海軍かいぐん次官じかん海軍かいぐんしょう要職ようしょくにいたさんにんは「海軍かいぐんしょう左派さはトリオ」とばれ、「にちどくさんこく同盟どうめい」に反対はんたいしていた[82]

井上いのうえは、さんこく同盟どうめい締結ていけつ得失とくしつつぎのようにかんがえていたという。

  • 経済けいざいてきて、さんこく同盟どうめい論外ろんがい日本にっぽん経済けいざいは、そのほとんどをべいえいけん依存いぞんしている。とく海軍かいぐんにとってさい重要じゅうよう石油せきゆ屑鉄くずてつはアメリカから購入こうにゅうしている。さんこく同盟どうめいむすべば、イギリス、さらにアメリカをてきまわし、日本にっぽん石油せきゆ屑鉄くずてつ供給きょうきゅうたれる。
  • 軍事ぐんじてきて、さんこく同盟どうめい無意味むいみ地理ちりてきとおはなれた日本にっぽんどく相互そうご援助えんじょ不可能ふかのうである。ドイツのヒトラーは『Mein Kampf』でべているように、有色ゆうしょく人種じんしゅ蔑視べっしして、ドイツ民族みんぞくによる世界せかい制覇せいは目指めざしており、いずれ破綻はたんするのはえている。
  • イタリア駐在ちゅうざい武官ぶかん時代じだい経験けいけんから、イタリアは、外見がいけん立派りっぱでもたのむにりない[327]

井上いのうえさんこく同盟どうめい強力きょうりょく反対はんたいした最大さいだい理由りゆうは、ドイツが提案ていあんしてきた条約じょうやくあん自動じどう参戦さんせん義務ぎむ条項じょうこうどくこくまたはこく戦争せんそう状態じょうたいはいった場合ばあいは、日本にっぽん自動的じどうてき戦争せんそう加担かたんする」があったためである[89]。ただし、井上いのうえにちどく防共ぼうきょう協定きょうていには肯定こうていてきであった。まんしゅう事変じへん以後いご国際こくさいてき孤立こりつ状態じょうたいからの脱出だっしゅつ共産きょうさん主義しゅぎ反対はんたい立場たちばからである[328]

井上いのうえ航空こうくうぬしへいろんもの一人ひとりであり、1940ねん昭和しょうわ15ねん)に井上いのうえ計画けいかくたいしてした「しん軍備ぐんび計画けいかく」の具体ぐたいあんつぎとお[329][330]

  1. 航空機こうくうき発達はったつした今日きょうこれからの戦争せんそうでは、主力しゅりょく艦隊かんたい主力しゅりょく艦隊かんたい決戦けっせん絶対ぜったいおこらない。
  2. 巨額きょがくかね戦艦せんかんなど建造けんぞうする必要ひつようなし。てき戦艦せんかんなど何程なにほどあろうと、充分じゅうぶん航空こうくう兵力へいりょくあればみなしずめることが出来できる。
  3. 陸上りくじょう航空こうくう基地きち絶対ぜったいしずまない航空こうくう母艦ぼかんである。航空こうくう母艦ぼかんうん動力どうりょくゆうするから使用しようじょう便利べんりではあるが、きわめて脆弱ぜいじゃくである。ゆえ海軍かいぐん航空こうくう兵力へいりょく主力しゅりょく基地きち航空こうくう兵力へいりょくであるべきである。
  4. たいアメリカせんおいては陸上りくじょう基地きち国防こくぼう兵力へいりょく主力しゅりょくであって、太平洋たいへいよう散在さんざいする島々しまじま天与てんよたから非常ひじょう大切たいせつなものである。
  5. たいアメリカせんではこれとう基地きち争奪そうだつせんかならしゅ作戦さくせんになることを断言だんげんする。換言かんげんすれば上陸じょうりく作戦さくせんならびにその防禦ぼうぎょせんしゅ作戦さくせんになる。
  6. みぎ意味いみから基地きち戦力せんりょく持続じぞくなにより大切たいせつなるゆえなにをさておいても、基地きち要塞ようさい急速きゅうそく実施じっしすべきである。
  7. したがってまた基地きち航空こうくう兵力へいりょくだいいち主義しゅぎ航空こうくう兵力へいりょく整備せいび充実じゅうじつすべきである。これため戦艦せんかん巡洋艦じゅんようかんごときは犠牲ぎせいにしてよろし。
  8. つぎ日本にっぽん生存せいぞんし、且(かつ)、せんつづけるためには、海上かいじょう交通こうつう確保かくほきわめて大切たいせつであるからこれようする兵力へいりょくだい充実じゅうじつするのようあり。
  9. 潜水せんすいかん基地きち防禦ぼうぎょにも、通商つうしょう保護ほごにも、攻撃こうげきにも使つかえるかんしゅなるゆえだいさんかんがえて充実じゅうじつすべき兵種へいしゅである。

妹尾せのおつくるふとしおとこ少尉しょういは、アメリカ海軍かいぐんだい学校がっこう機関きかんである『US Naval War College Review』1974ねん1がつごう・2がつごうに"A Chess Game with No Checkmate"とだいして「しん軍備ぐんび計画けいかくろん」を紹介しょうかいする論文ろんぶん寄稿きこう。アメリカ海軍かいぐんだい学校がっこう、アメリカかく大学だいがく歴史れきし教授きょうじゅにかなりの感銘かんめいあたえ、アメリカ海軍かいぐん大学だいがく校長こうちょうから妹尾せのお所感しょかんせられたという[331]

また、『日米にちべい戦争せんそう形態けいたい』の一節いっせつでは「日本にっぽん米国べいこくやぶり、かれ屈服くっぷくすることは不可能ふかのうなり。其理由りゆうきわめて明白めいはく簡単かんたんにして…」と説明せつめいし、そのうえで「米国べいこくは、日本国にっぽんこく全土ぜんど占領せんりょう可能かのう首都しゅと占領せんりょう可能かのう作戦さくせんぐん殲滅せんめつ可能かのうなり。また海上かいじょう封鎖ふうさによる海上かいじょう交通こうつう制圧せいあつによる物資ぶっし窮乏きゅうぼうみちび可能かのうせいだい」とべており[332]太平洋戦争たいへいようせんそうでは、戦艦せんかん同士どうし艦隊かんたい決戦けっせんおこらず、水上すいじょうかんはアメリカぐん航空機こうくうき潜水せんすいかん餌食えじきとなり、戦況せんきょう太平洋たいへいよう島々しまじま争奪そうだつせんとなり、べいぐん占領せんりょうしたしま基地きちとして日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうおこなったことから、井上いのうえ太平洋戦争たいへいようせんそう経過けいかを、1941ねん昭和しょうわ16ねん)の段階だんかいおおむ予想よそうできていた[333]奥宮おくのみや正武まさたけは、井上いのうえ構想こうそうにおける航空こうくう基地きち活用かつよう既存きそん航空こうくう基地きち総称そうしょうであり、航空こうくう基地きち建設けんせつ能力のうりょく海上かいじょう輸送ゆそう港湾こうわん設備せつびについて「井上いのうえ先見せんけんあかりをもってしても、なお予見よけんできなかった分野ぶんやがあった」とひょうしている[330]

井上いのうえ指揮しきかんする評価ひょうかはウェークとう攻略こうりゃく作戦さくせん遅滞ちたい珊瑚さんごうみ海戦かいせん徹底てってい・ガダルカナルとう進出しんしゅつ失策しっさく[143]などでつぎとおりだった。連合れんごう艦隊かんたい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろく大将たいしょうほり悌吉中将ちゅうじょう予備よびやく)にてた1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ24にちづけ書簡しょかんで「井上いのうえはあまりせんはうまくない」とき、昭和しょうわ天皇てんのう海軍かいぐん大臣だいじん嶋田しまだ繁太郎しげたろう大将たいしょうに「井上いのうえ学者がくしゃだから、せんはあまりうまくない」とったという。中澤なかざわたすく少将しょうしょうが、1942ねん昭和しょうわ17ねん)12月に、海軍かいぐんしょう人事じんじ局長きょくちょう就任しゅうにんするさいに、前任ぜんにんしゃからぎをけたさい中沢なかざわ作成さくせいしたメモがのこっており、井上いのうえたいする、嶋田しまだうみしょうひょうしるした部分ぶぶんには「(井上いのうえは)ウェーキ、コーラルうみ珊瑚さんごうみ)、戦機せんきなし。次官じかんのぞみなし。徳望とくぼうなし。こうほん航空こうくう本部ほんぶ)の実績じっせきがらず。兵学へいがく校長こうちょう、鎮(鎮守ちんじゅ長官ちょうかんか。大将たいしょうはダメ」としるされている[334]高木たかぎそうきち少将しょうしょうによると、1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ7にちに、岡田おかだ啓介けいすけ海軍かいぐん大将たいしょうが、せんぜいであるのをうれい(この時期じきは、同年どうねん2がつに、東條とうじょう英機ひでき首相しゅしょうが、陸軍りくぐん大臣だいじん参謀さんぼう総長そうちょう兼任けんにんし、嶋田しまだ繁太郎しげたろう海軍かいぐん大臣だいじん軍令ぐんれい総長そうちょう兼任けんにんして、「東條とうじょう幕府ばくふ」と批判ひはんされる状況じょうきょう)、熱海あたみ静養せいようちゅう伏見ふしみみやひろしきょうおう元帥げんすい訪問ほうもんし、「米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大将たいしょう現役げんえき復帰ふっきさせて海軍かいぐん大臣だいじんにしてはどうか。海軍かいぐんないでは、現役げんえき大将たいしょうからえらぶなら、豊田とよだふく大将たいしょう中堅ちゅうけんからえらぶなら井上いのうえ成美まさみ中将ちゅうじょうはどうかというこえたかい」とむね進言しんげんしたところ伏見ふしみみやは「井上いのうえはいかぬ。あれは学者がくしゃだ。せんには不向ふむきだ。珊瑚さんごうみ海戦かいせんとき指揮しき拙劣せつれつだった」というむねこたえた[145]奥宮おくのみや正武まさたけ太平洋戦争たいへいようせんそうだい航空こうくう戦隊せんたい参謀さんぼうとう)は「とかく、あたまのよいひとは、実戦じっせんのさいには、ねばづよさにけるれいおおかった。井上いのうえ中将ちゅうじょうもその一人ひとりであった」[143]「(べいない補佐ほさして)終戦しゅうせん工作こうさく献身けんしんしたことたか評価ひょうかすべき」とひょうしている[330]

教育きょういく思想しそう

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井上いのうえ軍事ぐんじがくよりも普通ふつうがく重視じゅうしする教育きょういく方針ほうしん堅持けんじした。この方針ほうしん武官ぶかん教官きょうかん一部いちぶからつよ反発はんぱつけ、戦局せんきょく悪化あっかそく戦力せんりょくもとめる軍令ぐんれい航空こうくう関係かんけいしゃからもつよ批判ひはんされた。井上いのうえは、1952ねん昭和しょうわ27ねん)10がつに、長井ながい自宅じたくおとずれた防衛大学校ぼうえいだいがくこう初代しょだい校長こうちょうまき智雄ともお井上いのうえ同郷どうきょう)に、その心境しんきょう井上いのうえは「わたしは(まきさんに)『ジェントルマンをつくるつもりで教育きょういくしました』とおこたえしました。つまり兵隊へいたいつくるんじゃないということです。丁稚でっち教育きょういくじゃないということです。それではそのジェントルマン教育きょういくとはなにかということになれば、いろいろえるでしょうが、いちれいってみれば、イギリスのパブリック・スクールや、オックスフォード・ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくにおける紳士しんし教育きょういくのやりかたですね。これは、それとはべつはなしですが、だいいち世界せかい大戦たいせんおり、イギリスの上流じょうりゅう階級かいきゅう人達ひとたち本当ほんとう勇敢ゆうかんたたかいましたね。ごろこくから、優遇ゆうぐうされ、特権とっけんけているのだから、いまこそはたらかねばというわけで、これは軍人ぐんじんだけじゃないですね。エリート教育きょういくけた大半たいはん人達ひとたちがそうでしたね。わたしは、いち大戦たいせんのち欧州おうしゅうすうねん生活せいかつしてみて、そのことを実感じっかんとしてかんじました。『ジェントルマンなら、戦場せんじょうっても兵隊へいたいうえってたたかえる…ということです。ジェントルマンがっているデューティとかレスポンシィビィリィティ、つまり義務ぎむかん責任せきにんかんたたかいにおいて大切たいせつなのはこれですね。そのうえ士官しかんとしてもうひと大切たいせつなものは教養きょうようです。かん操縦そうじゅう大砲たいほう射撃しゃげき上手じょうずだということも大切たいせつですが、せんじつめれば、そういう仕事しごと下士官かしかんのする役割やくわりです。そういう下士官かしかん指導しどうするためには、教養きょうよう大切たいせつで、ひろ教養きょうようがあるかないか、それが専門せんもんてき技術ぎじゅつ下士官かしかんちがったところだとわたしおもっておりました。ですから、海軍兵学校かいぐんへいがっこう軍人ぐんじん学校がっこうではありますが、わたし高等こうとう普通ふつうがく重視じゅうししました。そして、文官ぶんかん先生せんせいつとめて優遇ゆうぐうし、大事だいじにしたつもりです」とかたった[335]井上いのうえは、教官きょうかんたちに「自分じぶんがやりたいのは、ダルトン・プランのような 『生徒せいとそれぞれの天分てんぶんばさせる天才てんさい教育きょういく』 ではない。へい学校がっこう教育きょういくは 『画一かくいつ教育きょういく』 であるべき。へい学校がっこうでは、まず劣等れっとうしゃをなくし、少尉しょうい任官にんかん指揮しきけん行使こうしするのに最低さいてい限度げんど必要ひつようとされるさとしとくからだ能力のうりょくたせて卒業そつぎょうさせ、その見込みこみのないもの退校たいこうさせねばならない。へい学校がっこう教育きょういく目標もくひょうは、結果けっかとして、少尉しょうい任官にんかん指揮しきけん行使こうしする最低さいてい限度げんど能力のうりょくてないと見込みこまれる退校たいこうしゃさないよう、生徒せいとをしっかり教育きょういくすることである」というむねしめし、秀才しゅうさいはなっておけ、まず劣等れっとうしゃをなくせ、とはしてき指示しじした[336]

井上いのうえ兵学へいがく校長こうちょう在任ざいにんちゅうへい学校がっこう生徒せいと激増げきぞうしたが、それを教育きょういくする教官きょうかんとく普通ふつうがく教官きょうかん体育たいいく教官きょうかん充足じゅうそく困難こんなんで、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん制度せいどされた一般いっぱん兵科へいか予備よび士官しかん活用かつようすることとなった。あらかじめ、教官きょうかん配置はいちてきした大学生だいがくせいとうを「青田買あおたがい」して(具体ぐたいてき方法ほうほう出典しゅってん文献ぶんけん記載きさいなし)、兵科へいか予備よび学生がくせいとして採用さいようし、兵科へいか予備よび士官しかん基礎きそ教育きょういく(6かげつないし3かげつ)のうちから「教育きょういくはん」に配属はいぞくして「教官きょうかん養成ようせい教育きょういく」をほどこし、基礎きそ教育きょういく終了しゅうりょう一般いっぱん予備よび学生がくせい砲術ほうじゅつ学校がっこう通信つうしん学校がっこうなどで教育きょういくされるところを、「教育きょういくはん」の予備よび学生がくせいへい学校がっこうで「教官きょうかん実務じつむ教育きょういく」をすうげつけ、へい学校がっこう普通ふつうがく教官きょうかん体育たいいく教官きょうかんとなった[337]戦争せんそう激化げきかし、初級しょきゅう士官しかん消耗しょうもう需要じゅよう激増げきぞうすると、とく戦場せんじょうがえりの武官ぶかん教官きょうかんから「戦争せんそうわるまでの特別とくべつ措置そちとして、普通ふつうがく時間じかんおもってらし、軍事ぐんじがく訓練くんれんおもとしたものにへい学校がっこう教育きょういく転換てんかんすべし」という意見いけんたかまったが、井上いのうえは、あくまでも、従来じゅうらいどおりの「普通ふつうがく重視じゅうし」の方針ほうしんつらぬいた[338]

へい学校がっこうには、よく海軍かいぐん現役げんえき退役たいえき先輩せんぱいがやってた。井上いのうえ着任ちゃくにん以前いぜんは、その都度つど全校ぜんこう生徒せいとあつめて、先輩せんぱい講話こうわかせるれいであったが、井上いのうえはこれをめさせた。井上いのうえは「大将たいしょうだってなにをいいだすかわからない。自分じぶん方針ほうしんはんするようなことをわれては迷惑めいわく至極しごくだ。たとえば、校長こうちょう時代じだいにダルトン・プランという『天才てんさい教育きょういく』を主張しゅちょうした永野ながの修身しゅうしん元帥げんすい生徒せいとまえで『おのれの天分てんぶんばせ』などとわれたら、自分じぶんのしているひゃくにち説法せっぽうひとつになってしまう。ただでさえ、生徒せいとたちは、自分じぶんきな学科がっかだけやってきらいなものをなおざりにする傾向けいこうがあるのだから尚更なおさらである」と回想かいそうする[339]

へい学校がっこうでは、従来じゅうらい最初さいしょの1ねん全員ぜんいん英語えいごまなび、のちは、えいどくふつささえのいずれかを希望きぼうによって専修せんしゅうするシステムだったが、1941ねん昭和しょうわ16ねん)9がつからは、ぜん学年がくねんとおして英語えいごだけをまなぶシステムにかわっていた[340]太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえから、日本にっぽん社会しゃかいでは「えいべい排斥はいせき」の風潮ふうちょうつよくなっており、中学校ちゅうがっこうでは英語えいご授業じゅぎょうらしたり、廃止はいしするところおおくなっていた。それを反映はんえいして、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうでは、採用さいよう試験しけんから英語えいごのぞいた。海軍かいぐんしょう教育きょういくきょくは、非公式ひこうしきへい学校がっこうがわ意見いけんあわせてきた。それをけての、へい学校がっこう教頭きょうとう以下いか教官きょうかんあつめての会議かいぎでは、英語えいご教官きょうかん以外いがい全員ぜんいん一致いっちで「優秀ゆうしゅう中学生ちゅうがくせいが、英語えいご試験しけんきらって陸士りくしながれるのをふせぐため、海兵かいへいでも陸士りくしならって採用さいよう試験しけんから英語えいごのぞくべし」と主張しゅちょうした。教頭きょうとうが、井上いのうえに「教官きょうかん総意そういはごらんとおりですが、採用さいよう試験しけんから英語えいごのぞくべし、と教育きょういくきょく返答へんとうしてよろしいでしょうか」と決裁けっさいもとめると、井上いのうえは「へい学校がっこう将校しょうこう養成ようせいする学校がっこうだ。およそ自国じこくしかはなせない海軍かいぐん士官しかんなどは、世界中せかいじゅうどこへったって通用つうようせぬ。英語えいごきらいな秀才しゅうさい陸軍りくぐんってもかまわん。外国がいこくひとつもできないようなもの海軍かいぐん士官しかんにはらない。陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう採用さいよう試験しけん英語えいご廃止はいししたからといって、へい学校がっこう真似まねをすることはない」と即答そくとうした。井上いのうえのこの決断けつだんにより、へい学校がっこう採用さいよう試験しけん英語えいごのこされたことはもちろん、入校にゅうこう生徒せいと教育きょういくでも英語えいご廃止はいしされることはなかった。多数たすう意見いけん却下きゃっかされた教官きょうかんたちから「校長こうちょう横暴おうぼう」とのこえもあったが、「こういう問題もんだい多数決たすうけつめることではない」という井上いのうえかんがえはるがなかった[341]。このことは、戦後せんご大学だいがくはいなおすなどしてさい出発しゅっぱつすることになった卒業生そつぎょうせいたちから相当そうとう感謝かんしゃされている[342]

語学ごがくすぐれていた井上いのうえへい学校がっこう英語えいご教育きょういくについて、「英語えいご英語えいごのまま理解りかいし、使つかう(英語えいご和訳わやくし、日本語にほんご英訳えいやくするのではない)」する「直読ちょくどくちょくかい主義しゅぎ」を英語えいご教官きょうかんしめし、そのような教育きょういくをするよう工夫くふうもとめた。そのため、えいえい辞典じてん使用しよう奨励しょうれいし、そのとき在校ざいこうしていた73・74と、入校にゅうこう予定よていの75一人ひとりいちにん貸与たいよするため、総数そうすう5せんさつえいえい辞典じてん必要ひつようとなった。井上いのうえは、へい学校がっこう主計しゅけいちょうとく指示しじして、えいえい辞典じてん5せんさつ調達ちょうたつさせた。英語えいご教官きょうかんたちは、井上いのうえ方針ほうしん実現じつげんするべく「授業じゅぎょうちゅう日本語にほんご一切いっさい使つかわない」など試行しこう錯誤さくごした[343]。ただし、へい学校がっこうの「名物めいぶつ英語えいご教官きょうかん」であった、文官ぶんかん教授きょうじゅ平賀ひらが春二はるじは、井上いのうえとなえる英語えいご教育きょういく方法ほうほう理想りそうてきだが、戦時せんじちゅうへい学校がっこう実現じつげんするのは困難こんなんかんがえた。平賀ひらがは「旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこうのように英語えいご時間じかんすうおお学校がっこうでなら効果こうかがりましょう。しかし、時間じかんすう比較的ひかくてきすくないへい学校がっこうで、しかも戦局せんきょく日々ひび緊迫きんぱくたびくわえつつあるおりから、このような授業じゅぎょうはまどろっこしく、能率のうりつだとおもわれてなりませんでした。また微妙びみょう個所かしょ外国がいこく言葉ことばではままならず…」という[343]井上いのうえも、「井上いのうえしき英語えいご教授きょうじゅほう」の徹底てっていむずかしいことは理解りかいしており、授業じゅぎょう視察しさつで、自分じぶん期待きたいどおりの英語えいご教育きょういく実行じっこうされていないのをても、「井上いのうえしき」を強制きょうせいすることはなかった[343]

井上いのうえへい学校がっこうにはつまらないルールがおおすぎる、という結論けつろんたっし、生徒せいとたい企画きかく訓育くんいく学術がくじゅつ教育きょういくとも、もっとゆとりのあるやりかたあらためるよう指示しじした。その結果けっか生徒せいとたいではたいつとむ処理しょりを、生徒せいと居住きょじゅうする「生徒せいとかんないませるようあらため、ルールをらしていった。井上いのうえ改革かいかくは、生徒せいとたい監事かんじをして「校長こうちょうはみんなぶちこわしてしまう」とわせるほどであった[344]学術がくじゅつ教育きょういくについての井上いのうえかんがえ「教育きょういく改善かいぜん」(井上いのうえ前任ぜんにんかく校長こうちょうも、井上いのうえ同様どうよう印象いんしょうち、部下ぶか検討けんとう改善かいぜん指示しじしていた)の実現じつげん困難こんなんだった。井上いのうえもとめにおうじて、企画きかく検討けんとうして提出ていしゅつした答申とうしんは「かつて、永野ながの校長こうちょう時代じだい導入どうにゅうしたダルトン・プランは失敗しっぱいわった。当時とうじ修業しゅうぎょう年限ねんげんは3ねん8かげつ(その、4ねんまで延長えんちょう)あったが、現在げんざいは3ねんであり、さらに短縮たんしゅくされる趨勢すうせいである。へい学校がっこう学術がくじゅつ教育きょういくおしえるべき内容ないようえているのに、入校にゅうこうしゃ学力がくりょくは、中学校ちゅうがっこう教育きょういく水準すいじゅん低下ていかによってちる一方いっぽう生徒せいとすう増加ぞうかによって、上下じょうげ格差かくさひらいている。現在げんざいへい学校がっこう学術がくじゅつ教育きょういくは、『れつ』の生徒せいとに、十分じゅうぶん正確せいかく理解りかいさせるので手一杯ていっぱいである」という趣旨しゅしであった。井上いのうえは「生徒せいとすう非常ひじょうおおくなっていたので、リモートコントロール方式ほうしき、つまり教官きょうかんたちにわたしかんがえを充分じゅうぶん理解りかいしてもらい、教官きょうかんつうじて生徒せいとたちにわたしかんがかたつたえてもらう方式ほうしきった。わたしへい学校がっこうで、なんせんにんという生徒せいとたいしてやったのは『教官きょうかん教育きょういく』です。それしかはないとかんがえました」と回想かいそうする[345]

井上いのうえは、兵学へいがく校長こうちょう着任ちゃくにんして生徒せいと様子ようす実見じっけんした印象いんしょうを「あのころの流行りゅうこうでいうと、っているのです。っているというのは、わたし大嫌だいきらいなんです。人間にんげんあさからばんまでっていられるものではないんです。リズムがあるはずなんだ」「下士官かしかんへいならいい。ひとからめいじられて、ひと指図さしずはたらくには、ああいうのが最良さいりょう部下ぶかなんだ。しかし、士官しかんというものは、なにを、いかに、いつ、どこでどうすべきかを、自分じぶんかんがえて決定けっていせねばならない。つまり、士官しかんにとって自由じゆう裁量さいりょう一番いちばん大切たいせつなのだ。生徒せいと家畜かちくみたいな生活せいかつをさせてはいけない、そうおもいました」と回想かいそうする[14]

井上いのうえ兵学へいがく校長こうちょう着任ちゃくにんしてやく半年はんとし旧知きゅうち間柄あいだがらでもある陸軍りくぐん士官しかんがく校長こうちょう牛島うしじまみつる中将ちゅうじょうへい学校がっこう視察しさつしたさい、「井上いのうえさん、きみところ生徒せいとみな可愛かわいかおをしている。わたしところ生徒せいとはもっとにくらしいかおをしているがね」とった。これにたいして、井上いのうえは「制服せいふくいろかたちのせいでしょう」とこたえているが、「校長こうちょう横暴おうぼうわれながらもやってきたことの成果せいかている。他所よそひとおなかんじをつんだ」と、内心ないしんみずかなぐさめるところがあった[346]

親族しんぞく

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ちちよしみのり(よしのり)は1847ねんひろし4ねんまれのきゅう幕臣ばくしん数理すうりながじ、わかくして勘定かんじょう奉行ぶぎょうしょ普請ふしんかた出仕しゅっしした(普請ふしんやく30ひょう3にん扶持ふち[347])。長崎ながさき留学りゅうがくしてオランダじん建築けんちくじゅつまなんだという。明治めいじになって大蔵省おおくらしょうつとめ、宮城みやぎ県庁けんちょうてんじて一等いっとうぞくつとめた。一等いっとうぞくは、県令けんれい県知事けんちじ)、だい書記官しょきかんふく知事ちじ)にぐナンバー・スリーのしょくであり、後年こうねん出納すいとうちょう相当そうとうする重職じゅうしょくであった。よしみのり視力しりょく悪化あっかのため、1878ねん明治めいじ11ねん)12月に40さいぎたばかりの壮年そうねん宮城みやぎ県庁けんちょう一等いっとうぞくした。退職たいしょくは、仙台せんだい坊主ぼうずまち54・53(現在げんざい仙台せんだい青葉あおば国見くにみ丁目ちょうめ5-38、仙台せんだい市立しりつだいいち中学校ちゅうがっこう北側きたがわにあたる。当時とうじ仙台せんだい市街地しがいちからははずれる)にみ、ブドウえん経営けいえいした。ひろ土地とちひと使つかってブドウを栽培さいばいしたが、300えんかけて300えん収入しゅうにゅうがようやくられるような経営けいえい状態じょうたいだったとつたわる。事業じぎょう失敗しっぱいによる借財しゃくざいもあり、そのため県庁けんちょう退職たいしょく井上いのうえ家計かけいくるしく、後妻ごさいはいった井上いのうえ生母せいぼ「もと」が持参じさんきんわりに実家じっか角田つのだ石川いしかわから分与ぶんよされた相当そうとう土地とちからの年貢ねんぐまいたよ状態じょうたいだった。晩年ばんねんよしみのり嗣子しししゅう同居どうきょし、1915ねん大正たいしょう4ねん)11月17にちに68さいぼっした。[348]1950ねん昭和しょうわ25ねん)、井上いのうえ次兄じけい井上いのうえ達三たつぞう陸軍りくぐん中将ちゅうじょう死去しきょしたさい葬儀そうぎ参列さんれつしゃに、もと海軍かいぐん士官しかんわかくして予備よびやく編入へんにゅうされたものがいた。親戚しんせき一人ひとりが「あのひとはいいじんなのに海軍かいぐんはや退しりぞいて…」とったのにたいし、井上いのうえは「(海軍かいぐんはやく)めさせられたのには、それだけの理由りゆうがあったのだ」といいはなった[349]

井上いのうえ数学すうがくながじていたことはられるが、ちちよしみのりがそうであったように、井上いのうえ親族しんぞくには数学すうがくながじたものおおい。井上いのうえ長兄ちょうけい秀二しゅうじ著名ちょめい土木どぼく技術ぎじゅつしゃとなり、次兄じけい達三たつぞう陸軍りくぐん砲兵ほうへい将校しょうこう士官しかん候補こうほせいのうち数学すうがく得意とくいとするもの砲兵ほうへい工兵こうへい志望しぼうした[350])として中将ちゅうじょうのぼっている。

井上いのうえ後妻ごさいとなった富士子ふじこは、井上いのうえ入院にゅういんちゅうに「面会めんかい謝絶しゃぜつ」の医師いし指示しじ頑強がんきょうまもどおそうとして、遠方えんぽうからけつけた親戚しんせき阿部あべ信行のぶゆき[注釈ちゅうしゃく 46]山梨やまなし勝之かつゆきすすむ大将たいしょうなどの大事だいじ見舞みまいきゃくかえしたり[351]井上いのうえとの結婚けっこんに、井上いのうえ亡妻ぼうさい喜久子きくこ親戚しんせきすじである阿部あべ稲田いなだ正純まさずみ陸軍りくぐん中将ちゅうじょういえ大石おおいしけん志郎しろう海軍かいぐん大佐たいさいえらに、「今後こんご井上いのうえたくへの来訪らいほう見合みあわせていただきたい」という「縁切えんきじょう」を井上いのうえおくったり[352]井上いのうえ親戚しんせききゅう部下ぶか英語えいごじゅくおしなどの「井上いのうええんのある女性じょせい」が井上いのうえたくおとずれたとき井上いのうえ無断むだん門前払もんぜんばらいしたり、彼女かのじょたちから井上いのうえとどいた手紙てがみを、井上いのうえせずにててしまう[353]など、批判ひはんされても仕方しかたないところがあった。井上いのうえ親族しんぞくなかでも、戦後せんご井上いのうえもっとしたしかった伊藤いとう由里子ゆりこは「あのほうようするに海軍かいぐん大将たいしょう夫人ふじんにおなりになりたかったんじゃないの」と、富士子ふじこへのきつい批判ひはんらした[285]

しゅう次男じなんで、井上いのうえ本家ほんけいだ井上いのうえ秀郎ひでお(ひでお[354]1980ねん昭和しょうわ55ねん死去しきょ大学だいがく教授きょうじゅ[355])は数学すうがく教師きょうしで、戦前せんぜん成蹊高等学校せいけいこうとうがっこう勤務きんむしていた。秀郎ひでお井上いのうえ一卵性双生児いちらんせいそうせいじのように容姿ようしており、秀郎ひでおつま達子たつこによると、容姿ようしくわ性格せいかく井上いのうえていた[356]しゅう長男ちょうなん井上いのうえよしみみず(1902ねん - 1956ねん)は、日本郵船にっぽんゆうせん社員しゃいんとして5年間ねんかんロンドン駐在ちゅうざいちゅう欧文おうぶん書体しょたい活字かつじ収集しゅうしゅうし、タイポグラフィまなぶ。ざいえいちゅう印刷いんさつ雑誌ざっし』1937ねん昭和しょうわ12ねん)1がつごうに「田舎いなかくさ日本にっぽん欧文印刷おうぶんいんさつ」を発表はっぴょうし、日本にっぽん欧文印刷おうぶんいんさつのレベルのひくさを指摘してきした。帰国きこく独自どくじ印刷いんさつ工房こうぼうであるよしみみず工房こうぼう創業そうぎょうし、その著作ちょさく数多かずおお出版しゅっぱんした。どう工房こうぼう唯一ゆいいつ弟子でしである高岡たかおか重蔵しげぞうぎ、今日きょうまで存続そんぞくしている。

井上いのうえ1968ねん昭和しょうわ43ねん)に海兵かいへいクラスかい会報かいほう寄稿きこうし、中学ちゅうがく3ねんときちちばれて「家計かけいくるしいので、あに秀二しゅうじ1めい)のように高等こうとう学校がっこうにやるわけにはいかない」とわれたこと、海軍兵学校かいぐんへいがっこう志望しぼうした一番いちばん理由りゆうは「海兵かいへいすすんだ先輩せんぱい帰郷ききょうしたとき短剣たんけん姿すがたあこがれたから」だとしるしている[357]

よしみのり前妻ぜんさい三男さんなんいちじょもうけたが、いずれも明治めいじ中頃なかごろまでに夭折ようせつした[358]後妻ごさいはいった井上いのうえ生母せいぼ「もと」は、仙台せんだい藩主はんしゅ伊達だて一門いちもん首席しゅせき名家めいかで、角田つのだで2まん1せんせきりょうする角田つのだ石川いしかわだい37だい当主とうしゅ石川いしかわ義光よしみつだい10じょ1875ねん明治めいじ8ねん)に19さいで、前妻ぜんさいくしたばかりの井上いのうえよしみのりしてきゅうなんみ、1901ねん明治めいじ34ねん)12月16にちに46さいぼっした。女子じょしながら漢籍かんせきつうじており、かつきん名手めいしゅであった[359]。「もと」の音楽おんがく素養そようは、井上いのうえとその兄弟きょうだいがれた。井上いのうえきん・ピアノをはじめとする多数たすう楽器がっきそうきこなし、音楽おんがくきとして海軍かいぐんない有名ゆうめいだったのはられるが、仙台せんだいんでいるときから井上いのうえ兄弟きょうだい合奏がっそううたたのしみ、ヴァイオリンやピアノを自作じさくしてかなでいていたという[360]

井上いのうえは13にん兄弟きょうだいじゅう二男じなんいちじょ)のじゅういちなんであり、異母いぼけいあねがみな夭折ようせつしたため事実じじつじょう長男ちょうなんよんなん秀二しゅうじであった[361]へい学校がっこう採用さいよう試験しけんで、試験しけんかん家庭かてい状況じょうきょうわれて「じゅういちなんです」とこたえ、「ふざけた返事へんじをするな」としかられたという[362]井上いのうえじつ兄弟きょうだいは、すぐうえあにであるよしとおる1952ねん昭和しょうわ27ねん)1がつ2にち病没びょうぼつしたのを最後さいごに、井上いのうえ生前せいぜんすべ死去しきょしていた[363]

祖父そふ石川いしかわ義光よしみつ
角田つのだ石川いしかわだい37だい当主とうしゅ
伯父おじ田村たむらくにさかえ
陸奥みちのく一関いちのせきはんおも
伯父おじ田村たむらたかしあきら
陸奥みちのく一関いちのせき藩主はんしゅ
従兄じゅうけい田村たむら丕顕
海軍かいぐん少将しょうしょう
実兄じっけい井上いのうえ秀二しゅうじ
土木どぼく技術ぎじゅつしゃ
実兄じっけい井上いのうえ達三たつぞう
陸軍りくぐん中将ちゅうじょう夫人ふじんあらじょうたくなんじ陸軍りくぐん少将しょうしょう)・あらじょう二郎じろう海軍かいぐん中将ちゅうじょう)のいもうと
実兄じっけい井上いのうえよしとおる(よしのぶ)
陸軍りくぐん大佐たいさこう20中尉ちゅうい時代じだい非行ひこうはし聯隊れんたいちょう制裁せいさいくわえたためりくまさる受験じゅけんできなかった[364]まんねん大佐たいさわるも、豪放磊落ごうほうらいらく酒好さけずきだったよしとおるとは、成美まさみりがわず、仲違なかたがいをしていたエピソードがつたわる[365]
むすめ婿むこ丸田まるたきちじん(よしんど)
海軍かいぐん軍医ぐんい中佐ちゅうさ北海道ほっかいどう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ在学ざいがくちゅう海軍かいぐん軍医ぐんい学生がくせいとなった現役げんえきぐん医科いか士官しかん[366]じゅうじゅん鳥海とりうみ軍医ぐんいちょうとしてレイテおき海戦かいせん戦死せんし[367]ちち丸田まるた幸治こうじ 海軍かいぐん軍医ぐんい少将しょうしょう[92]
あい婿むこ阿部あべ信行のぶゆき
陸軍りくぐん大将たいしょう内閣ないかく総理そうり大臣だいじん井上いのうえつま喜久代きくよ長姉ちょうしめとる。喜久代きくよちちは、陸軍りくぐんとう主計しゅけいただし後年こうねん陸軍りくぐん主計しゅけい中佐ちゅうさ)のはらともしんじ(とものぶ)。はらは、陸軍りくぐんはや退しりぞき、金沢かなざわ陶磁器とうじき会社かいしゃ重役じゅうやくをしていた[260]
あい婿むこせき寿雄よしお
陸軍りくぐん大佐たいさこう13喜久代きくよあねめと[260]
あい婿むこ大石おおいしけんよんろう
海軍かいぐん大佐たいさへい42喜久代きくよいもうとめと[260]
親類しんるい稲田いなだ正純まさずみ
陸軍りくぐん中将ちゅうじょう阿部あべ信行のぶゆきむすめである和子わこめと[260]和子わこは、少女しょうじょ時代じだい井上いのうえ成美まさみにたいへん可愛かわいがられた。きんながじる井上いのうえは、阿部あべ信行のぶゆきいえで、かつて稲田いなだのために「ろくだん調しらべ」をいてくれた。稲田いなだ大佐たいさ参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん課長かちょうつとめていたときさんこく同盟どうめい締結ていけつかんして海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょうであった井上いのうえ直談判じかだんぱんこころみたが、相手あいてにされなかった[368]

年譜ねんぷ

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墓所はかしょ東京とうきょう府中ふちゅう多磨たま霊園れいえん所在しょざい

栄典えいてん

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位階いかい

井上いのうえ成美まさみえんじた俳優はいゆう

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著書ちょしょ

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  • おも井上いのうえ成美まさみわたし稿こう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 成美まさみ」のただしいみは「シゲヨシ」[4]。しかし「セイビ」ともばれた[5]。1981ねん英国えいこく刊行かんこうされたにちえい海軍かいぐんあいだ関係かんけい研究けんきゅうしょには「イノウエ シゲヨシ 海軍かいぐん少将しょうしょう海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょう。イノウエ セイビというかたで、よりられている…」とある[6]
  2. ^ もう一人ひとり塚原つかはらよんさん
  3. ^ 1959ねん昭和しょうわ34ねん)に井上いのうえ財団ざいだん法人ほうじんすい交会のもとめにおうじてった談話だんわなかに「わたし運動うんどう神経しんけいきわめてにぶいので、武道ぶどう体技たいぎその実技じつぎはおはなしにならないほど下手へたで、剣道けんどう柔道じゅうどう水泳すいえいどもクラスちゅうさい劣等れっとうだったと記憶きおくする」とあり、スポーツは苦手にがてであった[9]
  4. ^ 日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん』では入校にゅうこう席次せきじ8[12]
  5. ^ 大連たいれん-仁川にがわ-鎮海わん-佐世保させぼ-鹿児島かごしま-方面ほうめん巡航じゅんこう
  6. ^ マニラ-アンボイナ-パームとう-タウンズビル-ブリスベーン-シドニー-ホバート-メルボルン-フリーマントル-バタヴィア-シンガポール-香港ほんこん-うまこう-もとたかし方面ほうめん巡航じゅんこう
  7. ^ 海軍かいぐんでは練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい終了しゅうりょう、クラスヘッドは連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん乗組のりく慣例かんれいであった[17]
  8. ^ けん 分隊ぶんたいちょう」の辞令じれいていない[24]
  9. ^ 榎本えのもと井上いのうえどう学齢がくれい1890ねん明治めいじ23ねん)1がつ16にちせい東京帝大とうきょうていだい法科ほうか卒業そつぎょうした翌年よくねん1915ねん大正たいしょう4ねん)10がつ海軍かいぐん教授きょうじゅけん海軍かいぐんしょう参事官さんじかんけんうみだい教官きょうかん1924ねん大正たいしょう13ねん)12月に海軍かいぐん書記官しょきかん1938ねん昭和しょうわ13ねん)10がつには、中将ちゅうじょう相当そうとうする海軍かいぐん文官ぶんかん最高さいこう高等官こうとうかん一等いっとう」となり、国際こくさいほう権威けんいとして、次官じかんきゅう待遇たいぐうけて軍政ぐんせい参画さんかくしていた[33]井上いのうえへい37クラスヘッドとして中将ちゅうじょう進級しんきゅうしたのは1939ねん昭和しょうわ14ねん)11がつなので、井上いのうえ1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ大将たいしょう親任しんにんされるまでは、官吏かんりとしての席次せきじにおいて榎本えのもと井上いのうえよりもうえだった。榎本えのもと井上いのうえしんゆるした生涯しょうがい数少かずすくない親友しんゆうだった[34][35][36]
  10. ^ あか屋根やねで2ほん煙突えんとつ平屋ひらや洋館ようかん[56]庭先にわさきからあるいて海岸かいがんりることができた[57]。このいえ一時期いちじきんでいた井上いのうえまご丸田まるた研一けんいちによると、南側みなみがわ応接おうせつしつ食堂しょくどう寝室しんしつならび、応接間おうせつま食堂しょくどうまえがテラスになっていて、食堂しょくどう応接おうせつしつには暖炉だんろがあり、北側きたがわ台所だいどころ女中じょちゅう部屋へや(この部屋へやのみたたみき)があった。応接おうせつしつ成美せいび部屋へやで、つくえ成美せいびつくけのベッドがあった。寝室しんしつには2つのベッドがあり、靚子と研一けんいち使つかった[58]1975ねん昭和しょうわ50ねん)の井上いのうえ直後ちょくごに、井上いのうえたく中田なかた整一せいいちが「洋風ようふうの2あいだばかりのちいさないえ」と形容けいようした、つましいいえであった[59]。このいえは、もともと1932ねん昭和しょうわ7ねん)11月1にち肺結核はいけっかく死去しきょしたつま喜久代きくよ療養りょうようしょとして計画けいかくされたものである。当時とうじ肺結核はいけっかく治療ちりょうほうは「空気くうき清浄せいじょう場所ばしょで、十分じゅうぶん栄養えいようって静養せいようする」以外いがいになかった。井上いのうえがイタリアから帰国きこくして以降いこう空気くうき鎌倉かまくらいえりて喜久代きくよ療養りょうようさせていたが、さらに「空気くうきところ」をもとめた井上いのうえ長兄ちょうけい秀二しゅうじが、長井ながいまち別荘べっそうてていたのでその土地とち一部いちぶゆずけた。井上いのうえしゅう別荘べっそうまりにっては半年はんとしもかけて具体ぐたいてき計画けいかくった[60]訪問ほうもんきゃくが「うみめんしていて、ふうはさぞきついでしょう」とたずねると、井上いのうええがいて「このいえっているがけはこういうかたちで、快速かいそく軍艦ぐんかん艦橋かんきょう前面ぜんめんている。ここを補強ほきょうして強風きょうふう直接ちょくせつたらずにうえけるようにしている。三浦半島みうらはんとうのこのへんでは台風たいふう瞬間しゅんかん最大さいだい風速ふうそくなんメートル程度ていど風向かざむきはこのようにかわるので、がけ先端せんたんからベランダまでこのくらいはなして、屋根やねなんセンチひくくした」と、こまかい説明せつめいをしたという[61]
  11. ^ 伝記でんき』や『阿川あがわ』では、当時とうじ通称つうしょうの「おちゃみずだかおんな」と表記ひょうきされているが[60]井上いのうえまごである丸田まるた研一けんいち自著じちょなかで「(靚子は)東京とうきょう高等こうとう女子じょし師範しはん学校がっこうげんちゃ水女子大学みずじょしだいがく)の付属ふぞくかよっていた」としるしている[62]
  12. ^ このころ井上いのうえたくつうじるはたけなかみちは、自動車じどうしゃとおれる道幅みちはばがあり、井上いのうえたく玄関げんかんさきまで自動車じどうしゃれた戦後せんご混乱こんらんに、井上いのうえたくつうじるみちについて、近所きんじょ農民のうみんたちがはたけ境界きょうかいせんをなしくずしにひろげて道幅みちはばせばめ、1965ねん昭和しょうわ40ねんごろには自動車じどうしゃれない細道ほそみちになっており、井上いのうえたく不動産ふどうさん価値かちいちじるしくげていた[63]
  13. ^ 戦後せんご井上いのうえは、今川いまがわ福雄ふくお大佐たいさに「わたしは、少将しょうしょう昇進しょうしん新設しんせつされるだいさん航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかんされると内定ないていしていました。時局じきょく急変きゅうへんしたので、だいさん航空こうくう戦隊せんたい新設しんせつながれ、横須賀よこすか鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょうになったのです。海軍かいぐん人事じんじ予定よていどおきません」というむねかたった[69]
  14. ^ 戦後せんご井上いのうえは「新聞しんぶん記者きしゃ商売しょうばいだ。かれらのつようにかんがえてやる(適切てきせつ情報じょうほう開示かいじする)ことが必要ひつようだ。その反面はんめん利用りようもできる」とかたっている[73]
  15. ^ 那珂なかはこの九州きゅうしゅう方面ほうめん出動しゅつどうちゅうだったので、おなじくよこ所属しょぞく同型どうけいかん木曽きそわりとなった[72]
  16. ^ べいないは、早朝そうちょう副官ふっかんから事件じけん報告ほうこくけていた[75]
  17. ^ 井上いのうえ答申とうしんしょ条件じょうけんとしていたへい学校がっこう機関きかん学校がっこう修業しゅうぎょう年限ねんげん「4ねん」は、答申とうしんしょ提出ていしゅつ翌年よくねん3がつ卒業そつぎょうへい6546まで維持いじされたが、1939ねん昭和しょうわ14ねん)3がつ卒業そつぎょう予定よていだったへい6647ささえ事変じへんにより1938ねん昭和しょうわ13ねん)9がつ繰上くりがみ卒業そつぎょうして「3ねん6かげつ」となり、戦争せんそう激化げきか最終さいしゅうてきには「2ねん4かげつ」に短縮たんしゅくされた[81]
  18. ^ 井上いのうえ海軍かいぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょうとしてにちどくさんこく同盟どうめいもう反対はんたいしていたとき陸軍りくぐん大臣だいじん板垣いたがき征四郎せいしろう中将ちゅうじょうさんこく同盟どうめい推進すいしんする勢力せいりょく中心ちゅうしんだった[96]板垣いたがき征四郎せいしろうは、この時期じきには、陸相りくしょうからささえ派遣はけんぐんそう参謀さんぼうちょうてんじて南京なんきんにいた[97]
  19. ^ 山本やまもとは、うみだい甲種こうしゅ学生がくせい29井上いのうえおしえをけ、その井上いのうえ軍務ぐんむきょくいち課長かちょう山本やまもと海軍かいぐん大臣だいじん秘書官ひしょかん井上いのうえ軍務ぐんむ局長きょくちょう山本やまもと軍務ぐんむきょくだいいちA局員きょくいん井上いのうえささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう山本やまもとどう艦隊かんたい先任せんにん参謀さんぼう井上いのうえ海軍かいぐん次官じかん山本やまもと軍務ぐんむきょくいち課長かちょうと、4わたり、部下ぶかとして勤務きんむした。戦後せんご井上いのうえ胃潰瘍いかいようたおれたさい世話せわになった医師いしが、偶然ぐうぜん山本やまもと従兄じゅうけいかつ義弟ぎていであった。戦後せんごも、井上いのうえ山本やまもとはたびたび手紙てがみ品物しなものをやりりしていた[103]
  20. ^ 井上いのうえは「戦艦せんかんなんかつくったって、飛行機ひこうき進歩しんぽしたらだめだぞ、せんにならないぞというかんがえは、さんねんまえ昭和しょうわ12ねんごろからわたしあたまにあった。おおきな戦艦せんかんなんかつくるのはむだだ、と会議かいぎがあるたびにしたわけです」と回想かいそうする[108]
  21. ^ しん軍備ぐんび計画けいかくろん」は、井上いのうえ自筆じひつ(ペンき)の原本げんぽんが、防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ現存げんそんしている(1982ねん昭和しょうわ57ねん現在げんざい[111]
  22. ^ 井上いのうえ回想かいそうでは、井上いのうえは、及川おいかわうみしょう文書ぶんしょ手渡てわたしたのちで「これでいい。わたしはこれでやめます。ただしいことがひとつもとおらない海軍かいぐんはいやになったから、くびってください」とうと及川おいかわは「くびらんよ。やめさせない」とこたえたという[113]井上いのうえが「海軍かいぐんめます」とったのは、海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくいち課長かちょう時代じだいささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう時代じだいつづいてさん度目どめであった。
    井上いのうえ回想かいそうによれば「井上いのうえ破壊はかいてき議論ぎろんばかりするというこえみみにはいったからです(しょう連絡れんらく会議かいぎで、マル計画けいかく痛烈つうれつ批判ひはんしたことを[114]。)。これじゃいかんとおもったので、建白けんぱくしょ自分じぶんかんがえをまとめたのです。ただ破壊はかいてきに、こんなもの(マル計画けいかく、その日本にっぽん海軍かいぐんかんがえ)はダメだと批判ひはんしていただけではない。ずっと以前いぜんから、どういう軍備ぐんび必要ひつようかということをかんがえていたのだ、ということをしめすためにもね。それでわたしはやめますっていったんだ」「わたしはいわゆる大艦だいかんきょほう主義しゅぎ反対はんたいして、海軍かいぐん空軍くうぐん力説りきせつしたのだが、あれは航空こうくう本部ほんぶちょうのときにいったんで誤解ごかいされ、そんをしましたよ。航空こうくう本部ほんぶちょうでもってやったもんだから、我田引水がでんいんすいだとか、セクショナリズムだとか、そういうふうにとられてしまいました」[115]
  23. ^ 横須賀よこすかのような軍港ぐんこうには、鎮守ちんじゅひとし海軍かいぐん司令しれいが、艦隊かんたい司令しれいとはべつ陸上りくじょうかれていた。しかし、旗艦きかん鹿島かしま母港ぼこう役割やくわりたしていたトラックには海軍かいぐん陸上りくじょう司令しれい存在そんざいせず、鹿島かしまがその機能きのうねていた[124]
  24. ^ 大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうしたの「官吏かんり」は、「高等官こうとうかん武官ぶかん士官しかん)」とそのしたの「判任官はんにんかん武官ぶかんじゅん士官しかん下士官かしかん」のふたつにわかれた。高等官こうとうかんは、さらにうえから「おや任官にんかん武官ぶかん大将たいしょう)」「みことのり任官にんかん武官ぶかん中将ちゅうじょう少将しょうしょう)」「そう任官にんかん武官ぶかん大佐たいさ少尉しょうい)」の3つにかれた。「官吏かんり」のした身分みぶんとして、「兵卒へいそつ」や「傭人ようにん雇員こいん」があり、「臨時りんじやとい」の位置いちづけだった[128][129]
  25. ^ 戦時せんじちゅう1943ねん昭和しょうわ18ねん)・1944ねん昭和しょうわ19ねん)に、井上いのうえ奥津おくつノブ子のぶこ井上いのうえが4F長官ちょうかんとき、トラック所在しょざいだいよん海軍かいぐん軍需ぐんじゅ少女しょうじょやといいんであった)におくった手紙てがみ4つうると、現役げんえき海軍かいぐん中将ちゅうじょうたる顕官けんかんにあった井上いのうえが、奥津おくつノブ子のぶこまった対等たいとうぐうしていたことがわか[130]
  26. ^ 太平洋戦争たいへいようせんそうちゅうは、中将ちゅうじょう進級しんきゅうしてから5ねんはん経過けいかしても現役げんえきにあるもの大将たいしょう親任しんにんされるれいであった[176]1939ねん昭和しょうわ14ねん)11月15にち中将ちゅうじょう進級しんきゅうした井上いのうえは、予備よびやくにならなければ、1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ大将たいしょう親任しんにんされる計算けいさんとなる。史実しじつでは、井上いのうえ1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ15にち大将たいしょう親任しんにんされた。
  27. ^ その「当分とうぶんあいだ」がわるまえに、太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせん帝国ていこく海軍かいぐんそのものがついえてしまった[180]
  28. ^ へい78は、それまでの海兵かいへい生徒せいとが「中学ちゅうがく4ねん修了しゅうりょう以上いじょう」であったのとことなり、新設しんせつの「海軍兵学校かいぐんへいがっこう生徒せいと」として中学ちゅうがく3ねん修了しゅうりょうしゃ採用さいよう[191]1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ3にちに4,048めいが、長崎ながさきけん針尾はりお分校ぶんこう入校にゅうこうした[190]
  29. ^ 陸軍りくぐんでは、1938ねん昭和しょうわ13ねんごろ士官しかん学校がっこう修業しゅうぎょう年限ねんげんやく半減はんげんして速成そくせい教育きょういくてんじたが、これを失敗しっぱい判断はんだんし、修業しゅうぎょう年限ねんげんきゅうふくしつつある状況じょうきょう
  30. ^ このころ心境しんきょうにつき井上いのうえは「ただでさえ3ねん修業しゅうぎょうでも教育きょういく充分じゅうぶんでないのに、まことに不見識ふけんしき年限ねんげん短縮たんしゅくであった。そして、それもきゅうめてきたため、教科きょうかはすべてが尻切しりきれになる次第しだいだった。このような取扱とりあつかいをされる生徒せいとは、人間にんげんづくりのもっと大切たいせつ年頃としごろみにじられたもので、ようによっては一生いっしょうだいなしにされるわけで、わたし校長こうちょうとして看過かんかすべきではないとおもった。そして、今後こんごこれ以上いじょう修業しゅうぎょう年限ねんげん短縮たんしゅくには、しょくしても反対はんたいして生徒せいとまもろうと決心けっしんした」と回想かいそうする。
  31. ^ 戦後せんご日本にっぽん支配しはいしたGHQは、ぐんしょ学校がっこう出身しゅっしんしゃ海兵かいへい陸士りくし卒業そつぎょうしたものは、旧制きゅうせい高校こうこう卒業そつぎょうしゃ同等どうとうあつかわれ、旧制きゅうせい大学だいがく受験じゅけん資格しかくあたえられた)を、全学ぜんがく学生がくせいの1わり制限せいげんした[205]
  32. ^ 高木たかぎは、前年ぜんねんの1943ねん昭和しょうわ18ねん)のあきごろから、東條とうじょう嶋田しまだラインの戦争せんそう指導しどう疑問ぎもんいだき、海軍かいぐんない部外ぶがい同志どうしひそかに意見いけんわしていた。同志どうしかたらい、「1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつ20日はつか東條とうじょう暗殺あんさつする」具体ぐたいてき計画けいかくてて準備じゅんびをするにいたったが、実行じっこう寸前すんぜんの7がつ18にち東條とうじょう内閣ないかくそう辞職じしょくしたため未遂みすいわった[217]
  33. ^ 高木たかぎそうきち少将しょうしょうは、1944ねん昭和しょうわ19ねん)から10ねんほどまえの1932ねん昭和しょうわ7ねん)「肺尖はいせんえん」という病気びょうき転地てんち療養りょうようをしたことがあった[218]1944ねん昭和しょうわ19ねん)には肺尖はいせんえんはほぼ治癒ちゆしていたが、生来せいらい持病じびょうである「胃酸いさん過少かしょうしょう」になやまされ、つね希塩酸きえんさん小瓶こびんあるかねばならない重症じゅうしょうであった[219]高木たかぎを、海軍かいぐんしょう教育きょういく局長きょくちょう要職ようしょくから閑職かんしょく退しりぞかせても部内ぶない不審ふしんいだかせない名目めいもくとして、井上いのうえが「病気びょうき休養きゅうよう」をすのは自然しぜんだった。
  34. ^ べいないうみしょう就任しゅうにん自宅じたくんでいたので、海軍かいぐん大臣だいじん官邸かんてい状態じょうたいだった。家族かぞくがおらず、東京とうきょういえたない井上いのうえは、次官じかん就任しゅうにん受諾じゅだくしたときに、大臣だいじん官邸かんていなか使用人しようにん区画くかく了解りょうかいて、以来いらい大臣だいじん官邸かんていなかんでいた[226]
  35. ^ もともと次官じかん中将ちゅうじょうのポストである[236]井上いのうえ高木たかぎに「次官じかん退任たいにんは、大将たいしょうになったから」とかたっている。しかし、嶋田しまだ繁太郎しげたろうしたなが海軍かいぐん次官じかんつとめた沢本さわもとよりゆきゆうが、1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ1にち大将たいしょう親任しんにんされたのちも、同年どうねん7がつまで「軍事ぐんじ参議さんぎかん けん 海軍かいぐん次官じかん事務じむ取扱とりあつかい」として次官じかん職務しょくむつとめた[239]直近ちょっきんれいがあったこのため海軍かいぐん大臣だいじん秘書官ひしょかん麻生あそう孝雄たかお中佐ちゅうさ岡本おかもといさお中佐ちゅうさらは、「大将たいしょう次官じかんでなぜわるい。大将たいしょう進級しんきゅう反対はんたいするあまり、次官じかんまでやめることはないではないかとおもった」と、戦後せんご不満ふまんらしている[240]
  36. ^ 井上いのうえがいつ長井ながいしたかは不明ふめい1945ねん昭和しょうわ20ねん)10がつ15にち予備よびやく編入へんにゅう先立さきだち、8がつまつすで井上いのうえ長井ながいにいたとうかがわせる情報じょうほうもある[254]
  37. ^ 研一けんいちは、丸田まるだ縁者えんじゃたく転々てんてんとしたのちやく2ねんに、八巻はちまき信雄のぶお順子じゅんこ夫妻ふさいられて成人せいじんするまで養育よういくされ、早稲田大学わせだだいがく教育きょういく学部がくぶ卒業そつぎょうして出版しゅっぱんしゃ勤務きんむした。丸田まるたきちじんいもうとである八巻はちまき順子じゅんこはクリスチャンで、「この面倒めんどうなければならない」というつよ責任せきにんかんち、おっと説得せっとくして研一けんいちった。それをった井上いのうえは、八巻はちまき順子じゅんこ丁重ていちょう礼状れいじょうおくった[266][267][268]
  38. ^ 山本やまもと善雄よしお少将しょうしょうは、あくまでも自分じぶん想像そうぞうぎないが、として「井上いのうえさんが、ちょっとしたおくものにも返礼へんれいしなければまない性分しょうぶんなのは、ささえ方面ほうめん艦隊かんたいでおつかえした自分じぶんはよくっている。富士子ふじこさんの、入院にゅういんちゅう井上いのうえさんへの献身けんしんてき看護かんごぶりは、我々われわれあたまげておれいいたいほどであった。しかし、戦後せんご井上いのうえさんにはこれにむくいる手立てだてがなにもない。そこに軍人ぐんじん恩給おんきゅう復活ふっかつして、受給じゅきゅうしゃ井上いのうえ)がんだ場合ばあいおやまたは配偶はいぐうしゃ半額はんがく遺族いぞく扶助ふじょりょう終身しゅうしん支給しきゅうされるようになった。井上いのうえさんが、しかけ女房にょうぼう気味きみのあった富士子ふじこさんと、えて結婚けっこんられたのは、いのち恩人おんじんである富士子ふじこさんに、自分じぶん死後しごわずかながらも終身しゅうしん年金ねんきん保証ほしょうし、せめてもの 『おかえし』 をするためだったのではないか」というむねべている[288]
  39. ^ 出典しゅってんに、具体ぐたいてき時期じきかれていない。矢野やのこころざしさん中将ちゅうじょうは1966ねん昭和しょうわ41ねん)1がつに72さい死去しきょしている。1953ねん昭和しょうわ28ねん)の井上いのうえ大病たいびょうのち1964ねん昭和しょうわ39ねん)に深田ふかた秀明ひであきによる金銭きんせん支援しえんはじまるまえの、昭和しょうわ30年代ねんだいのことであろう[289]
  40. ^ 浦賀うらが船渠せんきょ関連かんれん会社かいしゃで、戦前せんぜん戦中せんちゅうはエリコン20ミリ機銃きじゅうをライセンス生産せいさんしていただい日本にっぽん兵器へいき戦後せんご機械きかいメーカーにてんじて日平ひびら産業さんぎょうとなった。合併がっぺいて、2012ねん平成へいせい24ねん現在げんざいコマツNTCとなっている。
  41. ^ この経緯けいいについて、井上いのうえ1975ねん昭和しょうわ50ねん)12月に死去しきょしたのち井上いのうえ相続そうぞくじんであるまご丸田まるた研一けんいちが、井上いのうえ直後ちょくご深田ふかたから説明せつめいされた。丸田まるた晩年ばんねん井上いのうえささえていた、兵学へいがく校長こうちょう時代じだい企画きかく課長かちょうだった小田切おだぎり正徳まさのり大佐たいさから深田ふかた説明せつめいうらづけるはなしき、井上いのうえたく押入おしいれから、深田ふかた説明せつめいどおりの内容ないよう公正こうせい証書しょうしょ発見はっけんした[295]
  42. ^ 1965ねん昭和しょうわ40ねん当時とうじの「たかビル」は、2011ねん平成へいせい23ねん現在げんざいは「ふるたかビル」と改称かいしょうしている模様もよう
  43. ^ にち名子なご実三じつぞうとその作品さくひんについて詳述しょうじゅつしている、広田ひろたはじめいちにち名子なごじつさん世界せかい昭和しょうわ初期しょき彫刻ちょうこく鬼才きさい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん2008ねん平成へいせい20ねん)、74-75ぺーじに、「井上いのうえ成美まさみぞう」が、制作せいさく経緯けいい、「 『井上いのうえ成美まさみ』 (井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい)から転載てんさい」とクレジットされた写真しゃしんとも掲載けいさいされ、「 『井上いのうえ成美まさみぞう』 であるが、謹厳きんげん実直じっちょく信念しんねん一貫いっかん眼光がんこう炯々けいけい井上いのうえ風貌ふうぼう性格せいかくをあますところなく表現ひょうげんした(にち名子なごの)初期しょき肖像しょうぞう作品さくひん優作ゆうさくである」とひょうされているが、「井上いのうえ成美まさみぞう」の所在しょざいについては記述きじゅつがない。
  44. ^ ママ。まさしくは「多磨たま」。
  45. ^ 以下いか文章ぶんしょうが、粗末そまつ便箋びんせん2まいかれていた。
    井上いのうえ成美まさみ遺言ゆいごん明治めいじじゅうねん十二月じゅうにがつきゅうにちまれ)。

    小生しょうせい葬儀そうぎ密葬みっそうこと

    雑件ざっけん

    いち)、葬儀そうぎじょうすすむ明寺あけてら長井ながいまち・・・)電話でんわ・・きょくの「・・・・」井上いのうえたくからあるいて十分じゅうぶん
    )、埋葬まいそう東京とうきょう多摩たま[注釈ちゅうしゃく 44]霊園れいえん本家ほんけ墓地ぼち埋葬まいそうのこと。このこと在中ざいちゅう野分のわけげん主人しゅじん井上いのうえ秀郎ひでお承知しょうち井上いのうえ秀郎ひでお住所じゅうしょ(・・・)
    さん)、花輪はなわ供物くもつ香典こうでんとう一切いっさい辞退じたいこと附言ふげん。おつよるそのだんとう荒井あらい長井ながいひとし一般いっぱん世間せけん習慣しゅうかんこと
  46. ^ 阿部あべ信行のぶゆきもと首相しゅしょうは、井上いのうえ市立しりつ横須賀よこすか病院びょういん退院たいいんした直後ちょくご1953ねん昭和しょうわ28ねん)9がつ7にち死去しきょ[285]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 阿川あがわ弘之ひろゆき 2002, p. 214
  2. ^ a b 伝記でんき』 263ぺーじ
  3. ^ 新名にいな丈夫たけお 2009, p. [ようページ番号ばんごう]
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参考さんこう文献ぶんけん

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井上いのうえ関係かんけい

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その

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関連かんれん項目こうもく

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ぐんしょく
先代せんだい
井沢いざわはる
横須賀よこすか鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょう
1935ねん11月15にち - 1936ねん11月16にち
次代じだい
岩村いわむら清一せいいち
先代せんだい
豊田とよだふく
海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょくなが
1937ねん10がつ20日はつか - 1939ねん10がつ18にち
次代じだい
阿部あべ勝雄かつお
先代せんだい
くさ鹿しかにんいち
ささえ方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼうちょう
1939ねん10がつ23にち - 1940ねん10がつ1にち
次代じだい
だい川内かわうち傳七でんしち
先代せんだい
豊田とよだ貞次郎ていじろう
海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶなが
1940ねん10がつ1にち - 1941ねん8がつ11にち
次代じだい
沢本さわもとよりゆきゆう
先代せんだい
高須たかす四郎しろう
だいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん
1941ねん8がつ11にち - 1942ねん10がつ26にち
次代じだい
鮫島さめしまおも
先代せんだい
くさ鹿しかにんいち
海軍兵学校かいぐんへいがっこうなが
1942ねん10がつ26にち - 1944ねん8がつ5にち
次代じだい
だい川内かわうち傳七でんしち
公職こうしょく
先代せんだい
おか敬純たかずみ
海軍かいぐん次官じかん
1944ねん8がつ5にち - 1945ねん5がつ15にち
次代じだい
多田ただ武雄たけお