井上 いのうえ 成美 まさみ (いのうえ しげよし/せいび[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 、1889年 ねん 〈明治 めいじ 22年 ねん 〉12月9日 にち - 1975年 ねん 〈昭和 しょうわ 50年 ねん 〉12月15日 にち )は、日本 にっぽん の海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん 。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は海軍 かいぐん 大将 たいしょう 。帝国 ていこく 海軍 かいぐん で最後 さいご に大将 たいしょう に昇進 しょうしん した二人 ふたり の軍人 ぐんじん の一人 ひとり [ 注釈 ちゅうしゃく 2] [ 7] 。
1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )12月9日 にち 、宮城 みやぎ 県 けん 仙台 せんだい 市 し でブドウ 園 えん を経営 けいえい する旧 きゅう 幕臣 ばくしん ・井上 いのうえ 嘉 よしみ 矩 のり の11男 おとこ として生 う まれる。「成美 まさみ 」という名 な は『論語 ろんご 』顔 かお 淵 ふち 篇 へん の一節 いっせつ 「子 こ 曰 いわ く、君子 くんし は人 ひと の美 び を成 な す、人 ひと の悪 あく を成 な さず、小人 こども はこれに反 はん す」に由来 ゆらい し、父 ちち からそんな人間 にんげん になるようにと何 なん 度 ど も教 おし えられた成美 まさみ はこの名 な を誇 ほこ りとした[ 8] 。1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )3月 がつ 31日 にち 、宮城 みやぎ 県 けん 尋常 じんじょう 師範 しはん 学校 がっこう 附属 ふぞく 小学校 しょうがっこう 高等 こうとう 科 か 2年 ねん 修了 しゅうりょう 。4月1日 にち 、宮城 みやぎ 県立 けんりつ 第 だい 一 いち 中学校 ちゅうがっこう の分校 ぶんこう に入学 にゅうがく し、分校 ぶんこう の廃校 はいこう に伴 ともな い1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )に宮城 みやぎ 県立 けんりつ 第 だい 二 に 中学校 ちゅうがっこう に移動 いどう 。中学 ちゅうがく 4年 ねん 終了 しゅうりょう 時 じ の成績 せいせき は「60人 にん 中 ちゅう 1番 ばん 、優 ゆう 科 か :数学 すうがく 、劣 れつ 科 か :漢文 かんぶん 、運動 うんどう :不定 ふてい [ 注釈 ちゅうしゃく 3] 、嗜好 しこう :音楽 おんがく と細工 ざいく 」とある。第 だい 二 に 中学校 ちゅうがっこう の同級生 どうきゅうせい の回想 かいそう では「井上 いのうえ 君 くん は恐 おそ ろしく頭 あたま が良 よ く、数学 すうがく と英語 えいご が得意 とくい だった」という[ 10] 。
1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )10月 がつ 31日 にち 、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 合格 ごうかく に伴 ともな い中学 ちゅうがく を5年生 ねんせい で中退 ちゅうたい し、11月24日 にち に海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 第 だい 37期 き に成績 せいせき 順位 じゅんい 181名 めい 中 ちゅう 9番 ばん で入学 にゅうがく [ 11] [ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。入校 にゅうこう 時 じ の成績 せいせき で決 き まる分隊 ぶんたい の所属 しょぞく は第 だい 9分隊 ぶんたい で、同 どう 分隊 ぶんたい 三 さん 号 ごう 生徒 せいと 15名 めい 中 ちゅう では先任 せんにん 者 しゃ であった[ 13] 。当時 とうじ を井上 いのうえ は「訓練 くんれん は厳 いかめ しかったが、(略 りゃく )国家 こっか が自分 じぶん たち兵 へい 学校 がっこう 生徒 せいと を大事 だいじ にしてくれる、と感 かん じたし、自尊心 じそんしん も生 う まれてきて、(略 りゃく )自分 じぶん の選 えら んだ道 みち は自分 じぶん に合 あ っていたな、という気持 きもち になった」と回想 かいそう している[ 14] 。
兵 へい 学校 がっこう の三 さん 号 ごう 生徒 せいと (一 いち 学年 がくねん 、井上 いのうえ 在校 ざいこう 時 じ の兵 へい 学校 がっこう の在校 ざいこう 期間 きかん は3年 ねん )であった井上 いのうえ は、「英語 えいご の成績 せいせき の悪 わる い生徒 せいと 」として教官 きょうかん から名指 なざ しされた。井上 いのうえ は、英語 えいご が抜群 ばつぐん と評価 ひょうか されていた同期生 どうきせい に英語 えいご の勉強 べんきょう 方法 ほうほう を尋 たず ね「英語 えいご の小説 しょうせつ 、"Adventures of Sherlock Holmes" でも原書 げんしょ でどんどん読 よ め」と助言 じょげん され、同書 どうしょ を手 て に入 い れて読 よ んでみたものの歯 は が立 た たなかった。兵 へい 学校 がっこう 入校 にゅうこう 時 じ に181名 めい 中 ちゅう 9番 ばん の好成績 こうせいせき だった井上 いのうえ は、二 に 号 ごう 生徒 せいと (二 に 学年 がくねん )に進級 しんきゅう する時 とき は16番 ばん に席次 せきじ が下 さ がった。しかし、二 に 号 ごう 生徒 せいと になるまでには英語 えいご 力 りょく を高 たか め、二 に 号 ごう 生徒 せいと の一 いち 学期 がっき には首席 しゅせき となった[ 15] 。
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )11月19日 にち 、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう を成績 せいせき 順位 じゅんい 179名 めい 中 ちゅう 2番 ばん で卒業 そつぎょう し、少尉 しょうい 候補 こうほ 生 せい となる。卒業 そつぎょう に際 さい し、恩賜 おんし の双眼鏡 そうがんきょう を拝受 はいじゅ [ 16] 。2等 とう 巡洋艦 じゅんようかん 宗谷 そうや 乗組 のりくみ 。第 だい 一 いち 期 き 実習 じっしゅう が始 はじ まり練習 れんしゅう 艦隊 かんたい 近海 きんかい 航海 こうかい へと出発 しゅっぱつ [ 注釈 ちゅうしゃく 5] し、12月29日 にち 帰着 きちゃく 。1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )2月 がつ 1日 にち 、練習 れんしゅう 艦隊 かんたい 遠洋 えんよう 航海 こうかい に出発 しゅっぱつ し[ 注釈 ちゅうしゃく 6] 、7月 がつ 3日 にち 帰着 きちゃく した。第 だい 二 に 期 き 演習 えんしゅう が始 はじ まると戦艦 せんかん 三笠 みかさ [ 注釈 ちゅうしゃく 7] 、装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん 春日 しゅんじつ 乗組 のりくみ を経 へ て、12月15日 にち に 海軍 かいぐん 少尉 しょうい に任官 にんかん 。
海軍 かいぐん 少尉 しょうい への任官 にんかん 時 じ に、兵 へい 37期 き の最 さい 先任 せんにん 者 しゃ (クラスヘッド)となった[ 18] 。
1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )1月 がつ 18日 にち 巡 めぐ 洋 よう 戦艦 せんかん 鞍馬 あんば 乗組 のりくみ 。鞍馬 あんば は同年 どうねん 4月 がつ から11月 がつ までイギリス のジョージ5世 せい 戴冠 たいかん 記念 きねん 観艦式 かんかんしき に遣 や 英 えい 艦隊 かんたい の旗艦 きかん として参加 さんか する[ 19] 。1912年 ねん (明治 めいじ 45年 ねん )4月 がつ 24日 にち 、海軍 かいぐん 砲術 ほうじゅつ 学校 がっこう 普通 ふつう 科学 かがく 生 せい となり、山本 やまもと 五十六 いそろく から兵器 へいき 学 がく を教 おそ わった。8月9日 にち 、海軍 かいぐん 水雷 すいらい 学校 がっこう 普通 ふつう 科学 かがく 生 せい となり、在校 ざいこう 中 ちゅう の12月1日 にち に海軍 かいぐん 中尉 ちゅうい 進級 しんきゅう [ 20] 。1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )2月 がつ 10日 とおか 二 に 等 とう 海防 かいぼう 艦 かん 高千穂 たかちほ 乗組 のりくみ 。9月26日 にち 巡 めぐ 洋 よう 戦艦 せんかん 比叡 ひえい 乗組 のりくみ 。1914年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )8月 がつ 23日 にち 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に伴 ともな い日本 にっぽん はドイツ に宣戦 せんせん 布告 ふこく した。比叡 ひえい は青島 ちんたお のドイツ軍 ぐん 基地 きち を攻略 こうりゃく する陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい の間接 かんせつ 掩護 えんご を命 めい じられ、約 やく 1か月 げつ 間 あいだ 、東シナ海 ひがししなかい 方面 ほうめん で警戒 けいかい 任務 にんむ に当 あ たったが、戦闘 せんとう は生 しょう じなかった[ 21] 。1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )7月 がつ 19日 にち 、第 だい 17駆逐 くちく 隊 たい 附 ふ 。駆逐 くちく 艦 かん 桜 さくら 乗組 のりくみ 。井上 いのうえ の最初 さいしょ で最後 さいご の駆逐 くちく 艦 かん 勤務 きんむ となった[ 22] 。12月13日 にち 、海軍 かいぐん 大尉 たいい となり戦艦 せんかん 扶桑 ふそう 分隊 ぶんたい 長 ちょう 。1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )12月1日 にち 海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 乙種 おつしゅ 学生 がくせい となる。1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )5月 がつ 1日 にち 、海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 専修 せんしゅう 学生 がくせい となり、12月1日 にち に卒業 そつぎょう し航海 こうかい 科 か を専門 せんもん とする兵科 へいか 将校 しょうこう となった[ 23] 。砲艦 ほうかん 淀 よどみ 航海 こうかい 長 ちょう [ 注釈 ちゅうしゃく 8] 。
1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )1月 がつ 19日 にち 、27歳 さい で原 はら 喜久代 きくよ (20歳 さい )と結婚 けっこん (喜久代 きくよ の係累 けいるい については「親類 しんるい 関係 かんけい 」を参照 さんしょう )。義姉 ぎし ・たま(兄 あに ・井上 いのうえ 秀二 しゅうじ の妻 つま )の妹 いもうと 婿 むこ ・大平 おおひら 善一 ぜんいち の親友 しんゆう ・阿部 あべ 信行 のぶゆき の義妹 ぎまい が喜久子 きくこ という縁 えん であった[ 25] 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん において第 だい 一 いち 特務 とくむ 艦隊 かんたい に属 ぞく し、インド洋 いんどよう 方面 ほうめん での通商 つうしょう 保護 ほご に従事 じゅうじ 。1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )5月 がつ 、呉 ご に帰投 きとう し、同年 どうねん 7月 がつ に淀 よどみ は日本 にっぽん が占領 せんりょう したドイツ領 りょう 南洋 なんよう 群島 ぐんとう を巡航 じゅんこう して新 しん 占領 せんりょう 地 ち の整備 せいび に従事 じゅうじ し、約 やく 5か月 げつ 後 ご に小笠原諸島 おがさわらしょとう ・父島 ちちじま に帰投 きとう [ 26] 。
1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )12月1日 にち 、スイス の駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん を拝命 はいめい する。1919年 ねん (大正 たいしょう 8年 ねん )2月 がつ 8日 にち に長女 ちょうじょ の靚子が誕生 たんじょう した。靚子の誕生 たんじょう を見届 みとど けた井上 いのうえ は、2月 がつ 10日 とおか に神戸 こうべ 港 こう を出発 しゅっぱつ し4月 がつ にスイスに着任 ちゃくにん した。井上 いのうえ は毎日 まいにち 1時 じ 間 あいだ 、ドイツ人 じん 教師 きょうし についてドイツ語 ご の個人 こじん 教授 きょうじゅ を受 う けて習得 しゅうとく に励 はげ み、スイス到着 とうちゃく の2か月 げつ 後 ご に「独語 どくご の日常 にちじょう 会話 かいわ は支障 ししょう ない程度 ていど に達 たっ した」旨 むね を海軍 かいぐん 次官 じかん に報告 ほうこく した。しかしスイス人 じん のドイツ語 ご には訛 なま りがあり、習得 しゅうとく の妨 さまた げとなるため、井上 いのうえ は早期 そうき にドイツに移 うつ ることを望 のぞ んだ。1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )7月 がつ 1日 にち 、平和 へいわ 条約 じょうやく 実施 じっし 委員 いいん となり、ベルリン で英 えい 仏 ふつ 伊 い の委員 いいん たちとドイツ軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ に従事 じゅうじ 。井上 いのうえ のドイツ語 ご は、ドイツ当局 とうきょく 者 しゃ との折衝 せっしょう 時 じ に通訳 つうやく を要 よう さず、イギリス将校 しょうこう のために通訳 つうやく をするレベルに達 たっ していた[ 27] 。在 ざい 欧 おう 中 ちゅう にフランス語 ふらんすご も習得 しゅうとく したいという井上 いのうえ の希望 きぼう が通 とお り、「平和 へいわ 条約 じょうやく 実施 じっし 委員 いいん 」を免 めん ぜられ、1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )9月 がつ 1日 にち からフランス 駐在 ちゅうざい となり、パリ でフランス語 ふらんすご 修得 しゅうとく に従事 じゅうじ し、フランス人 じん 教師 きょうし の個人 こじん 教授 きょうじゅ を毎日 まいにち 1時 じ 間 あいだ 受 う けた。井上 いのうえ のフランス駐在 ちゅうざい は僅 わず か3か月 げつ だったが、日本 にっぽん への帰国 きこく 後 ご 、海軍 かいぐん 次官 じかん 代理 だいり に「仏語 ふつご は、読 よ み・書 か き・会話 かいわ 、いずれも支障 ししょう ないレベルに達 たっ した」旨 むね を報告 ほうこく している[ 28] 。井上 いのうえ は「海軍 かいぐん 生活 せいかつ において、独語 どくご は日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 軍事 ぐんじ 同盟 どうめい に役 やく に立 た った程度 ていど だが、仏語 ふつご は、後々 あとあと の勤務 きんむ において外国 がいこく 人 じん との付合 つきあ いに使 つか う機会 きかい が多 おお く大変 たいへん 役 やく に立 た った」と回想 かいそう する[ 29] 。12月1日 にち 、海軍 かいぐん 少佐 しょうさ となる。大西洋 たいせいよう を渡 わた りアメリカ 経由 けいゆ で2月 がつ に帰国 きこく した。生涯 しょうがい で唯一 ゆいいつ のアメリカ訪問 ほうもん だった[ 30] 。
1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )3月 がつ 1日 にち 、軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 球磨 くま 航海 こうかい 長 ちょう 兼 けん 分隊 ぶんたい 長 ちょう となり、主 おも にシベリア出兵 しゅっぺい に伴 ともな う警備 けいび 行動 こうどう に従事 じゅうじ した[ 31] 。12月1日 にち 、海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 甲種 こうしゅ 第 だい 22期 き 入校 にゅうこう 。大尉 たいい 時代 じだい に欧州 おうしゅう に3年間 ねんかん 駐在 ちゅうざい し、甲種 こうしゅ 学生 がくせい を受験 じゅけん できなかった井上 いのうえ は、従来 じゅうらい の規則 きそく では受験 じゅけん 資格 しかく を失 うしな う所 ところ だったが、規則 きそく 改正 かいせい により受験 じゅけん できた。井上 いのうえ は同僚 どうりょう から「甲種 こうしゅ 入学 にゅうがく の規則 きそく が変 か わったのは、貴様 きさま のためだって言 い う評判 ひょうばん だよ」と冷 ひ やかされたという。井上 いのうえ の甲種 こうしゅ 学生 がくせい 選考 せんこう 試験 しけん での筆記 ひっき 試験 しけん 成績 せいせき は60番 ばん で、本来 ほんらい なら落第 らくだい だったが、海外 かいがい 勤務 きんむ が長 なが かったことを考慮 こうりょ して特例 とくれい で口頭 こうとう 試験 しけん の受験 じゅけん を許 ゆる され、口頭 こうとう 試験 しけん では1番 ばん で合格 ごうかく した[ 32] 。1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )12月1日 にち 、海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 甲種 こうしゅ 学生 がくせい 卒業 そつぎょう 、海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 一 いち 課 か B局員 きょくいん 。井上 いのうえ は海軍 かいぐん 書記官 しょきかん ・榎本 えのもと 重治 しげはる と親友 しんゆう となった[ 注釈 ちゅうしゃく 9] 。
1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )、榎本 えのもと 重治 しげはる 海軍 かいぐん 書記官 しょきかん に「治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう が近 ちか く成立 せいりつ するが、共産党 きょうさんとう を封 ふう じ込 こ めずに自由 じゆう に活動 かつどう させる方 ほう がよいと思 おも うが」と問 と われた井上 いのうえ は無言 むごん であった。それから二 に 十 じゅう 数 すう 年 ねん が経 た った戦後 せんご のある日 ひ 、横須賀 よこすか 市 し 長井 ながい の井上 いのうえ 宅 たく を初 はじ めて訪 たず ねてきた榎本 えのもと の手 て を握 にぎ って、井上 いのうえ は「今 いま でも悔 く やまれるのは、共産党 きょうさんとう を治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう で押 お さえつけたことだ。いまのように自由 じゆう にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争 せんそう が起 お きなかったのではあるまいか」と語 かた った[ 37] 。
1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )12月1日 にち 、中佐 ちゅうさ に進級 しんきゅう [ 38] 。1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )10月 がつ 1日 にち 、海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部 ぶ 出仕 しゅっし 。11月1日 にち 、在 ざい イタリア日本 にっぽん 大使館 たいしかん (イタリア語 ご 版 ばん ) 附 ふ 海軍 かいぐん 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん 兼 けん 艦 かん 政 せい 本部 ほんぶ 造船 ぞうせん 造兵 ぞうへい 監督 かんとく 官 かん 兼 けん 航空 こうくう 本部 ほんぶ 造兵 ぞうへい 監督 かんとく 官 かん 。横浜 よこはま 港 こう から渡 わたり 欧 おう 。ローマ に着任 ちゃくにん した井上 いのうえ はイタリア人 じん やイタリア軍 ぐん についてネガティブな経験 けいけん を重 かさ ねた。これは、井上 いのうえ が軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 時代 じだい に日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい に反対 はんたい する理由 りゆう の一 ひと つとなった[ 39] 。1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )11月30日 にち 、海軍 かいぐん 大佐 たいさ となり12月 がつ に帰国 きこく した[ 40] 。帰国 きこく した井上 いのうえ は妻 つま ・喜久代 きくよ の肺結核 はいけっかく が悪化 あっか して看護 かんご が必要 ひつよう であるため、海軍 かいぐん 人事 じんじ 当局 とうきょく に陸上 りくじょう 勤務 きんむ を願 ねが い出 で て1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )1月 がつ 10日 とおか 、海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 教官 きょうかん に補 ほ された。井上 いのうえ は人事 じんじ 当局 とうきょく の配慮 はいりょ に感謝 かんしゃ し、空気 くうき の良 よ い鎌倉 かまくら に家 いえ を借 か りて喜久代 きくよ の療養 りょうよう を優先 ゆうせん した。井上 いのうえ は海 うみ 大 だい 教官 きょうかん として甲種 こうしゅ 学生 がくせい への戦略 せんりゃく 教育 きょういく を担当 たんとう した。井上 いのうえ の戦略 せんりゃく 教育 きょういく は理詰 りづ めであり「戦 せん 訓 くん を基礎 きそ としない兵 へい 術 じゅつ 論 ろん は卓上 たくじょう の空論 くうろん に過 す ぎない」「精神 せいしん 力 りょく や術 じゅつ 力 りょく (技量 ぎりょう )を加味 かみ しない純 じゅん 数学 すうがく 的 てき な(戦略 せんりゃく )講義 こうぎ をすることは、士気 しき に悪影響 あくえいきょう を及 およ ぼす」という批判 ひはん も受 う けた[ 41] 。
1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )10月 がつ 1日 にち 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 出仕 しゅっし 兼 けん 海軍 かいぐん 省 しょう 出仕 しゅっし 、軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 一 いち 課 か 勤務 きんむ 。海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう ・寺島 てらしま 健 けん の指名 しめい により[ 42] 、11月1日 にち に海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 一 いち 課長 かちょう に補 ほ された。海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく は海軍 かいぐん 軍政 ぐんせい の要 よう であり、井上 いのうえ が補 ほ された一 いち 課長 かちょう は、局 きょく の筆頭 ひっとう 課長 かちょう であった[ 43] 。同日 どうじつ に妻 つま の喜久代 きくよ が肺結核 はいけっかく で死去 しきょ した(37歳 さい 没 ぼつ )[ 44] 。
井上 いのうえ は、五 ご ・一 いち 五 ご 事件 じけん における海軍 かいぐん 青年 せいねん 士官 しかん を中心 ちゅうしん とする首謀 しゅぼう 者 しゃ たちが世論 せろん から英雄 えいゆう 視 し されている風潮 ふうちょう に危機 きき 感 かん を覚 おぼ えた。井上 いのうえ はこの事件 じけん に刺激 しげき された陸軍 りくぐん の青年 せいねん 将校 しょうこう たちが「海軍 かいぐん に先 さき を越 こ された」と考 かんが え、必 かなら ず事 こと を起 お こすに違 ちが いないと予想 よそう していた[ 45] 。井上 いのうえ は海軍 かいぐん 省 しょう を「海軍 かいぐん の兵力 へいりょく 」で守 まも る準備 じゅんび を始 はじ めた。海軍 かいぐん 省 しょう の構内 こうない にある東京 とうきょう 海軍 かいぐん 無線 むせん 電信 でんしん 所 しょ が「官衙 かんが 」ではなく「部隊 ぶたい 」であり武装 ぶそう できることに気 き づき、小銃 しょうじゅう 20挺 てい を配備 はいび した。所長 しょちょう が、井上 いのうえ と同期 どうき の武田 たけだ 哲郎 てつろう であったのが幸 さいわ いした。さらに「軍事 ぐんじ 普及 ふきゅう 並 なら びに宣伝 せんでん 用 よう 」という名目 めいもく で戦車 せんしゃ 一 いち 台 だい を海軍 かいぐん 省内 しょうない に常駐 じょうちゅう させた[ 46] 。
1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )3月 がつ 、軍令 ぐんれい 部 ぶ の権限 けんげん を強化 きょうか する「軍令 ぐんれい 部 ぶ 条例 じょうれい 並 なみ に省 はぶけ 部 ぶ 事務 じむ 互渉規定 きてい 改定 かいてい 案 あん 」を軍令 ぐんれい 部 ぶ が提起 ていき した際 さい 、試案 しあん を通読 つうどく した井上 いのうえ は、この件 けん を自 みずか ら処理 しょり することとした。海軍 かいぐん 省 しょう を代表 だいひょう する井上 いのうえ に対 たい する軍令 ぐんれい 部 ぶ 側 がわ の代表 だいひょう は、軍令 ぐんれい 部 ぶ 第 だい 二 に 課長 かちょう の南雲 なぐも 忠一 ただかず 大佐 たいさ であり、南雲 なぐも は井上 いのうえ を何 なん 度 ど も「殺 ころ すぞ」と脅迫 きょうはく した[ 47] 。井上 いのうえ は、表書 おもてがき は「井上 いのうえ 成美 まさみ 遺書 いしょ / 本人 ほんにん 死 し 亡 ほろぼ せばクラス会 かい 幹事 かんじ 開封 かいふう ありたし」、本文 ほんぶん は「どこにも借金 しゃっきん はなし。娘 むすめ は高 こう 女 おんな (高等 こうとう 女学校 じょがっこう )だけは卒業 そつぎょう させ、出来 でき れば海軍 かいぐん 士官 しかん に嫁 よめ がせしめたし」という遺書 いしょ を執務 しつむ 机 つくえ に入 い れていた[ 48] 。改定 かいてい 案 あん (決裁 けっさい 権限 けんげん 者 しゃ 海軍 かいぐん 大臣 だいじん )は主務 しゅむ 課長 かちょう の井上 いのうえ が決裁 けっさい しないため成立 せいりつ せず、8月 がつ に入 はい ると軍令 ぐんれい 部 ぶ は自身 じしん で改定 かいてい 最終 さいしゅう 案 あん を作 つく り、海軍 かいぐん 大臣 だいじん ・大角 おおすみ 岑生 みねお 大将 たいしょう に突 つ きつけ、軍令 ぐんれい 部長 ぶちょう ・伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう は大角 おおすみ に辞職 じしょく をちらつかせた[ 48] 。大角 おおすみ は伏見 ふしみ 宮 みや の圧力 あつりょく に屈 くっ し[ 49] 、海 うみ 相 しょう 以下 いか の海軍 かいぐん 省 しょう 首脳 しゅのう 部 ぶ が改定 かいてい 案 あん に同意 どうい した。
9月16日 にち 朝 あさ 、寺島 てらしま が井上 いのうえ を軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 室 しつ に呼 よ び、井上 いのうえ に改定 かいてい 案 あん へ同意 どうい するよう言 い ったが井上 いのうえ は拒否 きょひ し、さらに「事態 じたい を紛糾 ふんきゅう させた責任 せきにん をとって辞職 じしょく する」旨 むね 返答 へんとう し、軍服 ぐんぷく を背広 せびろ に着替 きが えて鎌倉 かまくら の家 いえ に帰 かえ った。海軍 かいぐん 次官 じかん ・藤田 ふじた 尚徳 なおのり 中将 ちゅうじょう の使者 ししゃ がその晩 ばん に井上 いのうえ 宅 たく を訪問 ほうもん して翻意 ほんい を促 うなが したが、井上 いのうえ は拒否 きょひ した[ 50] 。海軍 かいぐん 大臣 だいじん 秘書官 ひしょかん ・矢 や 牧 まき 章 あきら 少佐 しょうさ は、週 しゅう 明 あ けの9月 がつ 18日 にち に、第 だい 二 に 種 しゅ 軍装 ぐんそう の胸 むね に勲章 くんしょう を吊 つ った井上 いのうえ が海軍 かいぐん 大臣 だいじん 室 しつ から出 で て来 き たため、井上 いのうえ が大角 おおすみ に進退 しんたい をうかがい、予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう を願 ねが い出 で たと解釈 かいしゃく した。矢 や 牧 まき が入 い れ替 か わりに大臣 だいじん 室 しつ に入 はい ると、大角 おおすみ は「そうまで思 おも いつめんでええと言 い うんだが、井上 いのうえ が諾 だく (き)かんのだ。何 なん 遍 へん 言 い っても諾 だく かんのだ。困 こま ったな、困 こま ったな」と赤 あか い顔 かお をして言 い ったという[ 51] 。軍令 ぐんれい 部 ぶ 条例 じょうれい と省 しょう 部 ぶ 事務 じむ 互渉規定 きてい が大角 おおすみ の決裁 けっさい により改正 かいせい され、昭和 しょうわ 天皇 てんのう は裁可 さいか する際 さい に「一 ひと つ運用 うんよう を誤 あやま れば、政府 せいふ の所管 しょかん である予算 よさん や人事 じんじ に、軍令 ぐんれい 部 ぶ が過度 かど に介入 かいにゅう する懸念 けねん がある。海軍 かいぐん 大臣 だいじん としてそれを回避 かいひ する所信 しょしん はどうか」と問 と うた。これは正 まさ に井上 いのうえ が危惧 きぐ し、反対 はんたい した所 ところ だった[ 52] 。
9月 がつ 20日 はつか 、井上 いのうえ は横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 付 づけ となった。予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう を前提 ぜんてい とするような辞令 じれい だった[ 51] が、伏見 ふしみ 宮 みや が「井上 いのうえ をよいポストにやってくれ」[ 53] と口添 くちぞ えしたため[ 53] 、井上 いのうえ は予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう されず、11月15日 にち 付 づけ で練習 れんしゅう 戦艦 せんかん 「比叡 ひえい 」艦長 かんちょう に補 ほ された[ 54] 。
井上 いのうえ は、比叡 ひえい の若手 わかて 士官 しかん が国粋 こくすい 思想 しそう の影響 えいきょう を受 う けた会合 かいごう に出席 しゅっせき するのを禁 きん じた。その上 うえ で「軍人 ぐんじん 勅 みことのり 諭 さとし 」を平易 へいい に説 と いた冊子 さっし 「勅 みことのり 諭 さとし 衍義」を「比叡 ひえい 」乗組 のりくみ の士官 しかん 全員 ぜんいん に配布 はいふ した。この「勅 みことのり 諭 さとし 衍義」は後 のち に井上 いのうえ が兵学 へいがく 校長 こうちょう に着任 ちゃくにん した際 さい にも、教官 きょうかん 兼 けん 幹事 かんじ に参考 さんこう 資料 しりょう として配布 はいふ された。その際 さい に井上 いのうえ が自 みずか らつけた説明 せつめい 文 ぶん に「本稿 ほんこう 記述 きじゅつ の当時 とうじ (昭和 しょうわ 9年 ねん )は5.15事件 じけん 後 ご にして海軍 かいぐん 部内 ぶない 思想 しそう 動揺 どうよう 時代 じだい [之 これ は少々 しょうしょう 過言 かごん かも知 し れず、然 しか し本職 ほんしょく は左様 さよう 考 かんが えて対処 たいしょ せり]なりしことを念頭 ねんとう に置 お きて之 これ を読 よ むの要 よう あり」とある。井上 いのうえ は「比叡 ひえい 」の若手 わかて 士官 しかん たちに「軍人 ぐんじん が平素 へいそ でも刀剣 とうけん を帯 お びることを許 ゆる されているのは、国 くに を守 まも るという極 きわ めて国家 こっか 的 てき な職分 しょくぶん を担 にな っているからである。統帥 とうすい 権 けん の発動 はつどう もないのに勝手 かって に人 ひと を殺 ころ せということではない」と繰 く り返 かえ し諭 さと した[ 55] 。
1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )、三浦 みうら 半島 はんとう の西側 にしがわ 、横須賀 よこすか 市 し の反対 はんたい 側 がわ の長井 ながい 町 まち の相模 さがみ 湾 わん が一望 いちぼう できる海岸 かいがん に面 めん した崖 がけ 縁 えん に井上 いのうえ の家 いえ が完成 かんせい した[ 注釈 ちゅうしゃく 10] 。
比叡 ひえい はロンドン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく により練習 れんしゅう 戦艦 せんかん となっており、横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 所属 しょぞく の警備 けいび 艦 かん で、横須賀 よこすか 軍港 ぐんこう に在 ざい 泊 はく していた。比叡 ひえい 艦内 かんない に起居 ききょ する井上 いのうえ は、毎週 まいしゅう 末 まつ には長井 ながい の新宅 しんたく に戻 もど った。一人娘 ひとりむすめ の靚子は、東京 とうきょう ・西大久保 にしおおくぼ の親戚 しんせき の阿部 あべ 信行 のぶゆき 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 宅 たく に寄宿 きしゅく して、東京 とうきょう 女子 じょし 高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう 付属 ふぞく 高等 こうとう 女学校 じょがっこう (現 げん ・お茶 ちゃ の水女子大学 みずじょしだいがく 附属 ふぞく 中学校 ちゅうがっこう ・高等 こうとう 学校 がっこう )[ 注釈 ちゅうしゃく 11] に通 かよ っていたが、週末 しゅうまつ には長井 ながい の井上 いのうえ 宅 たく に戻 もど ってきて、父 ちち 娘 むすめ 二 に 人 にん で水入 みずい らずの生活 せいかつ を楽 たの しんだ。夏休 なつやす みには、靚子が女学校 じょがっこう の友達 ともだち を連 つ れてくることもあった[ 60] [ 注釈 ちゅうしゃく 12] 。
1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )4月 がつ 1日 にち 、井上 いのうえ は大連 たいれん 港 みなと の桟橋 さんばし に「計算尺 けいさんじゃく が操艦 そうかん しているようなやり方 かた で」ぴったり接 せっ 舷 ふなばた させて、大連 たいれん 港 こう 港 みなと 務 つとむ 部長 ぶちょう に「戦艦 せんかん が本港 ほんこう に横付 よこづ けしたのは初 はじ めてです」と操艦 そうかん の腕 うで を賞賛 しょうさん された。当時 とうじ 、戦艦 せんかん のような大型 おおがた 艦船 かんせん は入港 にゅうこう しても、直接 ちょくせつ 接岸 せつがん を試 こころ みると接触 せっしょく 時 じ に艦 かん 体 たい に大 おお きな破損 はそん の惧れがあるため、沖合 おきあ いに錨 いかり 泊 はく するのが普通 ふつう だった[ 64] 。井上 いのうえ は、翌朝 よくあさ まで帰艦 きかん しない予定 よてい で上陸 じょうりく した。従兵 じゅうへい 長 ちょう の下士官 かしかん が、その隙 すき に艦長 かんちょう 室 しつ のベッドで熟睡 じゅくすい してしまった。予定 よてい を切 き り上 あ げて帰艦 きかん した井上 いのうえ がこれを見 み つけたが、誰 だれ にも言 い わなかった。懲罰 ちょうばつ を受 う けずに済 す んだ従兵 じゅうへい 長 ちょう は井上 いのうえ の恩情 おんじょう を長 なが く徳 とく とした[ 65] 。
また、井上 いのうえ は比叡 ひえい 飛行 ひこう 長 ちょう 今川 いまがわ 福雄 ふくお 大尉 たいい の操縦 そうじゅう する94式 しき 水 すい 偵 にしばしば同乗 どうじょう した。飛行 ひこう 科 か 出身 しゅっしん でない艦長 かんちょう が、搭載 とうさい 機 き に同乗 どうじょう するのは異例 いれい であった。井上 いのうえ と親 した しく接 せっ した今川 いまがわ は、井上 いのうえ の人格 じんかく に惚 ほ れ込 こ み、井上 いのうえ の了解 りょうかい を得 え て、井上 いのうえ の名前 なまえ 「成美 まさみ 」にあやかって息子 むすこ を成雄 しげお (しげお)、娘 むすめ を美子 よしこ (よしこ)と名付 なづ け、戦後 せんご も度々 たびたび 井上 いのうえ 宅 たく を訪 たず ねた[ 66] 。
井上 いのうえ によると、大尉 たいい の時 とき に航海 こうかい 長 ちょう を務 つと めた淀 よどみ (常備 じょうび 排水 はいすい 量 りょう 1,450トン)のような小 ちい さなフネなら酔 よ わないのに、フネが大 おお きくなるほど酔 よ いやすかった。比叡 ひえい 艦長 かんちょう の時 とき には、戦艦 せんかん の艦長 かんちょう たる者 もの が航海 こうかい 中 ちゅう に船酔 ふなよ いで寝 ね ている訳 わけ には行 い かず一番 いちばん 困 こま ったという[ 67] 。
1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )8月 がつ 1日 にち 、再 ふたた び横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 付 づけ となる。少将 しょうしょう 進級 しんきゅう 直前 ちょくぜん である6年 ねん 目 め の大佐 たいさ が現職 げんしょく を離 はな れるのは異例 いれい だった[ 68] [ 注釈 ちゅうしゃく 13] 。
11月15日 にち 、海軍 かいぐん 少将 しょうしょう に進級 しんきゅう (慣例 かんれい 通 どお りクラスヘッドとして同期 どうき で最初 さいしょ の少将 しょうしょう [ 70] )し、横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 参謀 さんぼう 長 ちょう となる。12月1日 にち 、米内 よない 光政 みつまさ が横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 司令 しれい 長官 ちょうかん に着任 ちゃくにん した。この頃 ころ に井上 いのうえ は米 べい 内 ない の信頼 しんらい を得 え て以降 いこう 、米 べい 内 ない の下 した で活躍 かつやく することになる[ 71] 。
海軍 かいぐん 省 しょう が所在 しょざい する東京 とうきょう 府 ふ を管轄 かんかつ し、麾下 きか に実戦 じっせん 部隊 ぶたい を有 ゆう している横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ (以下 いか 、横 よこ 鎮)の参謀 さんぼう 長 ちょう となり、海軍 かいぐん 省 しょう を『海軍 かいぐん の兵力 へいりょく 』で守 まも る対策 たいさく を十分 じゅうぶん に準備 じゅんび できる立場 たちば となった井上 いのうえ は、長官 ちょうかん ・米 べい 内 ない の承認 しょうにん を得 え ていざという時 とき 、即座 そくざ に十分 じゅうぶん な「海軍 かいぐん の兵力 へいりょく 」を東京 とうきょう の海軍 かいぐん 省 しょう に差 さ し向 む けられるように下記 かき のように準備 じゅんび した。
横 よこ 鎮所属 しょぞく の兵員 へいいん で特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 一 いち 個 こ 大隊 だいたい を編成 へんせい して、2回 かい 召集 しょうしゅう し、顔合 かおあ わせと訓練 くんれん を行 おこな った。
万一 まんいち の時 とき には海軍 かいぐん 省 しょう に派遣 はけん し、大臣 だいじん 官房 かんぼう の走 はし り使 づか いや連絡 れんらく に当 あ たらせ、または小銃 しょうじゅう を持 も たせて海軍 かいぐん 省 しょう の警備 けいび に当 あ たらせるべく、横須賀 よこすか 所在 しょざい の海軍 かいぐん 砲術 ほうじゅつ 学校 がっこう に要請 ようせい して、砲術 ほうじゅつ 学校 がっこう に所属 しょぞく する掌 てのひら 砲兵 ほうへい 20人 にん をいつでも横 よこ 鎮に呼集 こしゅう できるように準備 じゅんび した。
いかなる場合 ばあい でも、特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 一 いち 個 こ 大隊 だいたい を東京 とうきょう の海軍 かいぐん 省 しょう に急派 きゅうは するため、横 よこ 鎮所属 しょぞく の警備 けいび 艦 かん である軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 那珂 なか 艦長 かんちょう に昼夜 ちゅうや 雨 う 雪 ゆき を問 と わず、芝浦 しばうら に急行 きゅうこう できるよう研究 けんきゅう を命 めい じた。
これらの真 しん の目的 もくてき を知 し るのは、米 べい 内 ない ・井上 いのうえ ・先任 せんにん 参謀 さんぼう の横 よこ 鎮トップ3名 めい のみだった[ 72] 。
井上 いのうえ は横 よこ 鎮に着任 ちゃくにん すると、庁舎 ちょうしゃ 内 ない に記者 きしゃ 控室 ひかえしつ を作 つく ってそこに参考 さんこう 図書 としょ を備 そな えるなど、新聞 しんぶん 記者 きしゃ に便宜 べんぎ を図 はか った[ 注釈 ちゅうしゃく 14] 。
1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )2月 がつ 20日 にち 頃 ごろ 、出入 でい りの新聞 しんぶん 記者 きしゃ から、東京 とうきょう の警視庁 けいしちょう の前 まえ で陸軍 りくぐん が夜間 やかん 演習 えんしゅう を行 おこな ったという情報 じょうほう が井上 いのうえ に入 はい る。井上 いのうえ は警戒 けいかい 態勢 たいせい に入 はい り、2月 がつ 26日 にち 早朝 そうちょう 、官舎 かんしゃ で就寝 しゅうしん 中 ちゅう の井上 いのうえ に副官 ふっかん から電話 でんわ が入 はい った。「新聞 しんぶん 記者 きしゃ から、本日 ほんじつ 早朝 そうちょう に陸軍 りくぐん が反乱 はんらん を起 お こしたという情報 じょうほう が入 はい った」という二・二六事件 ににろくじけん 勃発 ぼっぱつ の知 し らせだった。井上 いのうえ は、幕僚 ばくりょう 全員 ぜんいん を鎮守 ちんじゅ 府 ふ に非常 ひじょう 召集 しょうしゅう するよう命 めい じて、自分 じぶん も直 ただ ちに登庁 とうちょう した[ 73] 。井上 いのうえ が、横 よこ 鎮に着 つ くと、既 すで に幕僚 ばくりょう たちは全員 ぜんいん 揃 そろ っていた。副官 ふっかん から詳細 しょうさい な情報 じょうほう を聴 き いた上 うえ で、かねて用意 ようい の手 て を打 う った。
横 よこ 鎮砲術 じゅつ 参謀 さんぼう を自動車 じどうしゃ で、東京 とうきょう へ実情 じつじょう 実視 じっし に急派 きゅうは 。
横 よこ 鎮から海軍 かいぐん 砲術 ほうじゅつ 学校 がっこう 所属 しょぞく の掌 てのひら 砲兵 ほうへい 20人 にん を海軍 かいぐん 省 しょう に急派 きゅうは 。
特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 一 いち 個 こ 大隊 だいたい 用意 ようい 。軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 木曽 きそ 急速 きゅうそく 出港 しゅっこう 用意 ようい [ 注釈 ちゅうしゃく 15] 。
横 よこ 鎮麾下 か 各 かく 部隊 ぶたい は自衛 じえい 警戒 けいかい 。
井上 いのうえ の事前 じぜん 準備 じゅんび が功 こう を奏 そう し、全 すべ ての措置 そち は混乱 こんらん なく実施 じっし された。[ 74] 。
午前 ごぜん 9時 じ 近 ちか く、長官 ちょうかん 官舎 かんしゃ の米 べい 内 ない から「俺 おれ も出 で て行 い った方 ほう がいいか」と電話 でんわ がかかってきた[ 注釈 ちゅうしゃく 16] 。
井上 いのうえ は「当面 とうめん の手 て は全 すべ て打 う ちましたが、やはり長官 ちょうかん が鎮守 ちんじゅ 府 ふ においでの方 ほう がよろしいでしょう」と返答 へんとう した。登庁 とうちょう した米 べい 内 ない は、井上 いのうえ に陸軍 りくぐん 反乱 はんらん 部隊 ぶたい が宮城 みやぎ を占領 せんりょう したらどうすべきか問 と うた。井上 いのうえ は「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下 へいか を比叡 ひえい (横 よこ 鎮所属 しょぞく )においで願 ねが いましょう。その後 ご 、日本 にっぽん 国 こく 中 ちゅう に号令 ごうれい をかけなさい。陸軍 りくぐん がどんなことを言 い っても、海軍 かいぐん 兵力 へいりょく で陛下 へいか をお守 も りするのだと。とにかく(陛下 へいか に)軍艦 ぐんかん に乗 の って頂 いただ ければ、もうしめたものだ」と即答 そくとう した[ 75] 。特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 一 いち 個 こ 大隊 だいたい を乗 の せた木曽 きそ の出港 しゅっこう 寸前 すんぜん に、軍令 ぐんれい 部 ぶ から「待 ま った」がかかった。警備 けいび 派兵 はへい には手続 てつづき が要 い り、横 よこ 鎮長官 ちょうかん が麾下 きか の警備 けいび 艦 かん に管区 かんく 内 ない を行動 こうどう させるのにも、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう が天皇 てんのう の命令 めいれい を伝達 でんたつ する形式 けいしき を踏 ふ まねばならないという内容 ないよう だった。軍令 ぐんれい 部 ぶ は「横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい (曩<さき>に派遣 はけん のものを合 あわ せ四 よん (個 こ )大隊 だいたい を基幹 きかん とす)を東京 とうきょう に派遣 はけん し海軍 かいぐん 関係 かんけい 諸 しょ 官庁 かんちょう の自衛 じえい 警戒 けいかい に任 にん じしめらる」という命令 めいれい を出 だ した。この時点 じてん で横 よこ 鎮が用意 ようい していた特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい は一 いち 個 こ 大隊 だいたい だったので、三 さん 個 こ 大隊 だいたい を追加 ついか 編成 へんせい する必要 ひつよう が生 しょう じた。そのため、佐藤 さとう 正 ただし 四郎 しろう 大佐 たいさ が指揮 しき する横 よこ 鎮特別 べつ 陸戦 りくせん 隊 たい 4個 こ 大隊 だいたい は、その日 ひ の午後 ごご 遅 おそ くにようやく東京 とうきょう ・霞 かすみ が関 せき の海軍 かいぐん 省 しょう (2012年 ねん 現在 げんざい の農林水産省 のうりんすいさんしょう 本庁 ほんちょう 舎 しゃ の場所 ばしょ )に到着 とうちゃく した。井上 いのうえ にとっては不本意 ふほんい であった[ 76] が、結果 けっか として特別 とくべつ 陸戦 りくせん 隊 たい 4個 こ 大隊 だいたい (2,000余 よ 名 めい )[ 77] を編成 へんせい ・派遣 はけん したことで、陸軍 りくぐん 反乱 はんらん 部隊 ぶたい (歩兵 ほへい のみで1,500名 めい 程度 ていど )と同 どう 規模 きぼ の陸戦 りくせん 兵力 へいりょく を海軍 かいぐん 省 しょう に配備 はいび することができた。
戦後 せんご 、井上 いのうえ は二 に ・二 に 六 ろく 事件 じけん 当時 とうじ の軍法 ぐんぽう によると、横 よこ 鎮の所管 しょかん 区域 くいき である「神奈川 かながわ 県 けん ・東京 とうきょう 府 ふ の海岸 かいがん 海面 かいめん 」上 じょう で横 よこ 鎮麾下 か の警備 けいび 艦 かん を行動 こうどう させるのは横 よこ 鎮長官 ちょうかん の権限 けんげん で実施 じっし できた。ただし、海軍 かいぐん 省 しょう 警備 けいび のために陸戦 りくせん 隊 たい を芝浦 しばうら に上陸 じょうりく させるのは、「陸上 りくじょう 」は横 よこ 鎮の所管 しょかん 区域 くいき ではないため、横 よこ 鎮長官 ちょうかん の権限 けんげん を越 こ えたかもしれない。これは、横 よこ 鎮長官 ちょうかん の有 ゆう する「警備 けいび 」権限 けんげん の解釈 かいしゃく 、すなわち『鎮守 ちんじゅ 府 ふ 令 れい 』第 だい 2条 じょう 「鎮守 ちんじゅ 府 ふ は所管 しょかん 海軍 かいぐん 区 く の警備 けいび に関 かん することを掌 てのひら り」の解釈 かいしゃく の問題 もんだい である。結果 けっか としては軍令 ぐんれい 部 ぶ の干渉 かんしょう に屈 くっ してしまったが、「木曽 きそ 」を芝浦 しばうら に回航 かいこう するのは、軍令 ぐんれい 部 ぶ が何 なに を言 い おうが、横 よこ 鎮長官 ちょうかん の権限 けんげん で出来 でき たのだから、直 ただ ちにやるべきだった、と悔 く やんでいる。[ 78] 井上 いのうえ が、海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 一 いち 課長 かちょう 時代 じだい に、生命 せいめい と職 しょく を賭 と して反対 はんたい した「省 しょう 部 ぶ 事務 じむ 互渉規程 きてい の改訂 かいてい 」により、改訂 かいてい 前 まえ は海軍 かいぐん 大臣 だいじん の管轄 かんかつ だった「国内 こくない 警備 けいび 艦 かん 戦 せん 部隊 ぶたい の派遣 はけん 」に干渉 かんしょう できるようになっていた軍令 ぐんれい 部 ぶ が、横 よこ 鎮の素早 すばや い動 うご きに待 ま ったをかけたのは、井上 いのうえ の軍務 ぐんむ 局 きょく 一 いち 課長 かちょう 時代 じだい の危惧 きぐ が当 あ たったことになる[ 78] 。
11月16日 にち 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 出仕 しゅっし 兼 けん 海軍 かいぐん 省 しょう 出仕 しゅっし に転 てん じ、兵科 へいか 機関 きかん 科 か 将校 しょうこう 統合 とうごう 問題 もんだい 研究 けんきゅう 従事 じゅうじ 。海軍 かいぐん 大臣 だいじん ・永野 ながの 修身 しゅうしん 大将 たいしょう の特命 とくめい によって、海軍 かいぐん の長年 ながねん の懸案 けんあん だった「兵科 へいか 将校 しょうこう と機関 きかん 将校 しょうこう の一系 いっけい 化 か (兵 へい 機 き 一系 いっけい 化 か )」問題 もんだい の解決 かいけつ に専念 せんねん した[ 79] 。1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )、井上 いのうえ は「兵科 へいか 将校 しょうこう と機関 きかん 科 か 将校 しょうこう の両方 りょうほう の勤務 きんむ をこなす少尉 しょうい 候補 こうほ 生 せい の育成 いくせい には、現在 げんざい の兵 へい 学校 がっこう ・機関 きかん 学校 がっこう の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん 4年 ねん でも不足 ふそく 。4年 ねん の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を維持 いじ するなら、一系 いっけい 化 か を促進 そくしん すべし」という答申 とうしん 書 しょ を、海軍 かいぐん 次官 じかん ・山本 やまもと 五十六 いそろく に提出 ていしゅつ した[ 80] [ 注釈 ちゅうしゃく 17] 。
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )10月 がつ 20日 はつか 、海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 兼 けん 将官 しょうかん 会議 かいぎ 議員 ぎいん 。米内 よない 光政 みつまさ が海軍 かいぐん 大臣 だいじん に、山本 やまもと 五十六 いそろく が海軍 かいぐん 次官 じかん に既 すで に就任 しゅうにん していた。海軍 かいぐん 省 しょう 詰 づ めの新聞 しんぶん 記者 きしゃ たちは、この三 さん 人 にん を「海軍 かいぐん 省 しょう の左派 さは トリオ」と呼 よ んだ[ 82] 。
この頃 ころ 、支 ささえ 那 な 事変 じへん (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう )が本格 ほんかく 化 か した時期 じき であった。揚子江 ようすこう 流域 りゅういき には、英 えい ・米 べい ・仏 ふつ の権益 けんえき が多 おお く存在 そんざい し、それらの国 くに との摩擦 まさつ が各所 かくしょ で起 お き、海軍 かいぐん に関係 かんけい する問題 もんだい は全 すべ て軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう の井上 いのうえ へ集中 しゅうちゅう した。井上 いのうえ によれば「(中国 ちゅうごく における軍事 ぐんじ 行動 こうどう においては、常 つね にアメリカを刺激 しげき しないように、怒 おこ らせないようにと苦心 くしん し、)航空 こうくう 部隊 ぶたい の連中 れんちゅう には誠 まこと に気 き の毒 どく だったが、その軍事 ぐんじ 行動 こうどう に非常 ひじょう に厳 きび しい制限 せいげん が加 くわ えられ(ていた)」という。12月12日 にち 、海軍 かいぐん の艦上 かんじょう 爆撃 ばくげき 機 き 隊 たい が、南京 なんきん 付近 ふきん の揚子江 ようすこう 上 じょう で米国 べいこく 砲艦 ほうかん を誤爆 ごばく ・沈没 ちんぼつ させる「パナイ号 ごう 事件 じけん 」が発生 はっせい した。井上 いのうえ は、米国 べいこく の態度 たいど 硬化 こうか を危惧 きぐ し、山本 やまもと と共 とも に素早 すばや く率直 そっちょく に非 ひ を認 みと め、事件 じけん を収拾 しゅうしゅう すべく奔走 ほんそう した。日本 にっぽん 政府 せいふ は当時 とうじ の常識 じょうしき を越 こ える多額 たがく の賠償金 ばいしょうきん 220万 まん ドル=670万 まん 円 えん (当時 とうじ )を支払 しはら い、駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし グルー を通 つう じてアメリカに陳謝 ちんしゃ する措置 そち を取 と った[ 83] 。
井上 いのうえ は「昭和 しょうわ 12、13、14年 ねん にまたがる私 わたし の軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 時代 じだい の2年間 ねんかん は、その時間 じかん と精力 せいりょく の大半 たいはん を(日 にち 独 どく 伊 い )三 さん 国 こく 同盟 どうめい 問題 もんだい に、しかも積極 せっきょく 性 せい のある建設 けんせつ 的 てき な努力 どりょく でなしに、唯 ただ 陸軍 りくぐん の全 ぜん 軍 ぐん 一致 いっち の強力 きょうりょく な主張 しゅちょう と、之 これ に共鳴 きょうめい する海軍 かいぐん 若手 わかて の攻勢 こうせい に対 たい する防禦 ぼうぎょ だけに費 つい やされた感 かん あり」と回想 かいそう する[ 84] 。ドイツは日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国防 こくぼう 共 ども 協定 きょうてい を軍事 ぐんじ 同盟 どうめい に強化 きょうか したいと日本 にっぽん に打診 だしん してきた。海軍 かいぐん 部内 ぶない も三 さん 国 こく 同盟 どうめい に肯定 こうてい 的 てき な者 もの は多 おお く、マスコミは、英 えい ・米 べい ・仏 ふつ の「露骨 ろこつ な援蔣行為 こうい 」を批判 ひはん し、ドイツの「躍進 やくしん 」ぶりを持 も ち上 あ げて、反 はん 英 えい 米 べい ・親 しん 独 どく の世論 せろん を煽 あお っていた。しかし、米 べい 内 ない ・山本 やまもと ・井上 いのうえ は三 さん 国 こく 同盟 どうめい に絶対 ぜったい 反対 はんたい の態度 たいど を堅持 けんじ した[ 85] 。井上 いのうえ は「海軍 かいぐん で(三 さん 国 こく 同盟 どうめい に)反対 はんたい しているのは、大臣 だいじん 、次官 じかん と軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう の三 さん 人 にん だけということも世間 せけん 周知 しゅうち の事実 じじつ になってしまった。山本 やまもと 次官 じかん が右翼 うよく からねらわれているとの情報 じょうほう あり、次官 じかん に護衛 ごえい をつけ、官舎 かんしゃ へ帰 かえ る途 と 順 じゅん を色々 いろいろ 変 か えたり、秘書官 ひしょかん が心配 しんぱい して私 わたし に、催涙 さいるい 弾 だん でもお持 も ちになってはいかがですかと申 もう し出 で たのもこのころのことであった」と回想 かいそう している[ 86] 。
ドイツ語 ご に堪能 かんのう な井上 いのうえ はアドルフ・ヒトラー の『Mein Kampf』(『我 わ が闘争 とうそう 』の原書 げんしょ )を読 よ み、その中 なか で「日本人 にっぽんじん は、想像 そうぞう 力 りょく のない劣 おと った民族 みんぞく だが、小器用 こぎよう でドイツ人 じん が手足 てあし として使 つか うには便利 べんり だ」という箇所 かしょ が訳本 やくほん で省 はぶ かれていることを知 し っていた[ 87] 。井上 いのうえ はその部分 ぶぶん を局員 きょくいん たちに話 はな しても誰 だれ も耳 みみ をかさなかったので、訳文 やくぶん をガリ版 がりばん に刷 す って配 くば ったが誰 だれ も意 い に介 かい さなかったので腹 はら を立 た てていた[ 87] 。井上 いのうえ は軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 名 めい で海軍 かいぐん 省内 しょうない に「ヒトラーは日本人 にっぽんじん を想像 そうぞう 力 りょく の欠如 けつじょ した劣等 れっとう 民族 みんぞく 、ただしドイツの手先 てさき として使 つか うなら小器用 こぎよう ・小利口 こりこう で役 やく に立 た つ存在 そんざい と見 み ている。彼 かれ の偽 いつわ らざる対 たい 日 にち 認識 にんしき はこれであり、ナチス の日本 にっぽん 接近 せっきん の真 しん の理由 りゆう もそこにあるのだから、ドイツを頼 たの むに足 た る対等 たいとう の友邦 ゆうほう と信 しん じている向 む きは三思 さんし 三 さん 省 しょう の要 よう あり、自戒 じかい を望 のぞ む」と通達 つうたつ した[ 88] 。
三 さん 国 こく 同盟 どうめい を主張 しゅちょう する陸軍 りくぐん と、反対 はんたい する海軍 かいぐん の交渉 こうしょう が進 すす むにつれ、論点 ろんてん は「自動 じどう 参戦 さんせん 義務 ぎむ 条項 じょうこう 」に絞 しぼ られた。陸軍 りくぐん はこれを是認 ぜにん し、海軍 かいぐん は絶対 ぜったい 反対 はんたい であった[ 89] 。三 さん 国 こく 同盟 どうめい を巡 めぐ る陸軍 りくぐん と海軍 かいぐん の対立 たいりつ が頂点 ちょうてん に達 たっ した1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )8月 がつ 上旬 じょうじゅん には、陸軍 りくぐん がクーデターを起 お こすのではないかという見方 みかた が、海軍 かいぐん 省 しょう の井上 いのうえ らの周囲 しゅうい で強 つよ まってきた[ 90] 。14日 にち の朝 あさ には、麹 こうじ 町 まち 付近 ふきん で演習 えんしゅう していた陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい が、東京 とうきょう ・霞 かすみ が関 せき の海軍 かいぐん 省 しょう の前 まえ まで姿 すがた を現 あらわ して去 さ った。井上 いのうえ は、横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ の参謀 さんぼう 長 ちょう 、先任 せんにん 参謀 さんぼう 、砲術 ほうじゅつ 学校 がっこう の教頭 きょうとう と陸戦 りくせん 課長 かちょう らを海軍 かいぐん 省 しょう に呼 よ んで海軍 かいぐん 省 しょう 警備 けいび の打 う ち合 あ わせを行 おこな った。井上 いのうえ は海軍 かいぐん 省 しょう の建物 たてもの は陸戦 りくせん 隊 たい の兵力 へいりょく で防衛 ぼうえい できるが、水 みず と電気 でんき を切 き られた場合 ばあい に対応 たいおう 出来 でき るかと考 かんが え、部下 ぶか の軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 三 さん 課長 かちょう に海軍 かいぐん 省 しょう 構内 こうない 井戸 いど の水量 すいりょう 、小型 こがた 発電 はつでん 機 き などの検討 けんとう を指示 しじ した[ 91] 。
10月 がつ 10日 とおか 、井上 いのうえ の一人娘 ひとりむすめ の靚子が、海軍 かいぐん 軍医 ぐんい 大尉 たいい の丸田 まるた 吉 きち 人 じん (よしんど)と結婚 けっこん した[ 92] 。
10月18日 にち 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 出仕 しゅっし へ転 てん ず。
支 ささえ 那 な 事変 じへん 、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう [ 編集 へんしゅう ]
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )10月 がつ 23日 にち に支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 兼 けん 第 だい 三 さん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう に補 ほ され、上海 しゃんはい に在 ざい 泊 はく する支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 旗艦 きかん 「出雲 いずも 」へ赴任 ふにん した[ 93] 。11月15日 にち 、井上 いのうえ は中将 ちゅうじょう に進級 しんきゅう し、同時 どうじ に第 だい 三 さん 艦隊 かんたい の解 かい 隊 たい で兼任 けんにん は解 と かれた[ 94] 。
艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ 所属 しょぞく の軍楽隊 ぐんがくたい に目 め をかけ、旗艦 きかん 「出雲 いずも 」内 ない に、他 た の邪魔 じゃま にならない練習 れんしゅう 場所 ばしょ を確保 かくほ してやったり、国際 こくさい 都市 とし の上海 しゃんはい ゆえに一流 いちりゅう の楽団 がくだん の演奏 えんそう 会 かい や音楽 おんがく 映画 えいが の上映 じょうえい があると、ポケットマネーで切符 きっぷ を買 か って全 ぜん 楽員 がくいん を行 い かせたりと、物心 ぶっしん 双方 そうほう で援助 えんじょ をした。琴 きん やピアノの演奏 えんそう に長 た けており、音楽 おんがく の素養 そよう が深 ふか い井上 いのうえ は、軍楽隊 ぐんがくたい が演奏 えんそう する都度 つど 、気 き がついたことを楽員 がくいん にアドバイスした。休日 きゅうじつ には日本人 にっぽんじん 公園 こうえん で野外 やがい 演奏 えんそう を行 おこな わせ、外国 がいこく 人 じん を含 ふく む聴衆 ちょうしゅう から拍手 はくしゅ を受 う ける経験 けいけん を積 つ ませ、軍楽隊 ぐんがくたい の士気 しき を高 たか めた[ 95] 。
ある会食 かいしょく で、飲 の めぬ酒 さけ を付 つ き合 あ ってほろ酔 よ い加減 かげん となった井上 いのうえ は、兵 へい 学校 がっこう で2クラス下 か (井上 いのうえ が一 いち 号 ごう 生徒 せいと の時 とき 、三 さん 号 ごう 生徒 せいと )の第 だい 五 ご 防備 ぼうび 隊 たい 司令 しれい の板垣 いたがき 盛 もり 大佐 たいさ に「貴様 きさま の前 まえ だけど、貴様 きさま の兄貴 あにき (板垣 いたがき 征四郎 せいしろう )、ありゃほんとうにいやな奴 やつ だな。東京 とうきょう にいたころ、俺 おれ は軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 相手 あいて は大臣 だいじん で、対等 たいとう の勝負 しょうぶ にならなかったが、今度 こんど は同 おな じ参謀 さんぼう 長 ちょう だ。南京 なんきん へ行 い く機会 きかい があったら腹 はら に据 す えかねていることをうんと言 い わせてもらうから、ついでの時 とき そう伝 つた えとけよ」[ 注釈 ちゅうしゃく 18] 「貴様 きさま も陸軍 りくぐん へ進 すす めばよかったな。そうすりゃ、あの兄貴 あにき の引 び きで今 いま ごろ少将 しょうしょう かもしれんぞ。惜 お しかったんじゃないか、おい」と絡 から んだ。温厚 おんこう な板垣 いたがき は嫌 いや な顔 かお もしなかったが、末席 まっせき で聞 き いていた、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい の最 さい 後任 こうにん 幕僚 ばくりょう (暗号 あんごう 担当 たんとう )の市来 いちき 崎 さき 秀 しゅう 丸 まる 大尉 たいい は、井上 いのうえ が三 さん 国 こく 同盟 どうめい を巡 めぐ って板垣 いたがき 征四郎 せいしろう に不愉快 ふゆかい な思 おも いを多々 たた させられたのは分 わ かるが、何 なん の責任 せきにん もない弟 おとうと にひどいことを言 い うものだ、と板垣 いたがき 盛 もり に同情 どうじょう した[ 98] 。
日本 にっぽん 軍 ぐん が陸上 りくじょう から攻撃 こうげき できない重慶 たーちん で抗戦 こうせん を続 つづ ける蔣介石 せき 政権 せいけん を崩壊 ほうかい させるため、1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )5月 がつ 1日 にち から9月 がつ 5日 にち までの約 やく 4か月 げつ 間 あいだ 、「一 いち 〇一 いち 号 ごう 作戦 さくせん 」(重慶 たーちん 爆 ばく 撃 げき )が実施 じっし された。陸海 りくかい 軍 ぐん の航空 こうくう 兵力 へいりょく を結集 けっしゅう して、四川 しせん 省 しょう 方面 ほうめん の中国 ちゅうごく 空軍 くうぐん を撃滅 げきめつ し、重慶 たーちん の蔣介石 せき 政権 せいけん の政府 せいふ 機関 きかん 、軍事 ぐんじ 基地 きち 、援蔣ルートを破壊 はかい するのが目的 もくてき だった。従来 じゅうらい から支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい の隷下 れいか にあった第 だい 二 に 連合 れんごう 航空 こうくう 隊 たい 、第 だい 三 さん 連合 れんごう 航空 こうくう 隊 たい に、連合 れんごう 艦隊 かんたい から増援 ぞうえん された第 だい 一 いち 連合 れんごう 航空 こうくう 隊 たい が加 くわ わり、漢 かん 口 こう 方面 ほうめん の飛行場 ひこうじょう には、陸 りく 攻 おさむ ・艦 かん 攻 おさむ ・艦 かん 爆 ばく ・艦 かん 戦 せん 、約 やく 300機 き が集結 しゅうけつ した[ 99] 。井上 いのうえ は6月 がつ 4日 にち に漢 かん 口 こう へ飛 と び、第 だい 一 いち 連合 れんごう 航空 こうくう 隊 たい 司令 しれい 官 かん の山口 やまぐち 多聞 たもん 少将 しょうしょう 、第 だい 二 に 連合 れんごう 航空 こうくう 隊 たい 司令 しれい 官 かん の大西 おおにし 瀧 たき 治郎 じろう 少将 しょうしょう をはじめとする将兵 しょうへい を激励 げきれい した。支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう が最前線 さいぜんせん に出 で るのは異例 いれい で、百 ひゃく 一 いち 号 ごう 作戦 さくせん に寄 よ せる井上 いのうえ の期待 きたい が大 おお きかったことをうかがわせる[ 99] 。百 ひゃく 一 いち 号 ごう 作戦 さくせん の開始 かいし 当時 とうじ は、重慶 たーちん を爆撃 ばくげき 可能 かのう な航続力 こうぞくりょく を持 も つ九 きゅう 六 ろく 式 しき 陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き を、航続力 こうぞくりょく の短 みじか い九 きゅう 六 ろく 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き が護衛 ごえい できず、陸 りく 攻 おさむ 隊 たい の損害 そんがい が日 ひ を追 お って増 ふ えた。航続力 こうぞくりょく が飛躍 ひやく 的 てき に長 なが く、強力 きょうりょく な武装 ぶそう を備 そな えた零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き が漢 かん 口 こう に送 おく られ、15機 き が揃 そろ って8月 がつ 19日 にち から実戦 じっせん に参加 さんか した。9月13日 にち に、重慶 たーちん 上空 じょうくう で、零 れい 戦 せん 13機 き が27機 き の中国 ちゅうごく 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き 隊 たい を捕捉 ほそく し、中国 ちゅうごく 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き を全滅 ぜんめつ させて零 れい 戦 せん は全 ぜん 機 き が帰還 きかん する大 だい 戦果 せんか を挙 あ げた。以後 いご 、重慶 たーちん 上空 じょうくう の制空権 せいくうけん は日本 にっぽん 側 がわ に移 うつ り、重慶 たーちん 爆 ばく 撃 げき の戦果 せんか は大 おお いに上 あ がった[ 100] 。
井上 いのうえ は支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 水雷 すいらい 兼 けん 政策 せいさく 参謀 さんぼう ・中山 なかやま 定義 さだよし 少佐 しょうさ のみを従 したが えて[ 101] 、8月 がつ 6日 にち に九 きゅう 六 ろく 式 しき 陸 りく 攻 おさむ で上京 じょうきょう し翌日 よくじつ 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 第 だい 一 いち 部長 ぶちょう の宇垣 うがき 纏 まとい 少将 しょうしょう ら海軍 かいぐん 省 しょう ・軍令 ぐんれい 部 ぶ の十 じゅう 数 すう 名 めい と会談 かいだん し、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい の現状 げんじょう 報告 ほうこく と中央 ちゅうおう への要望 ようぼう を行 おこな った。中山 ちゅうざん によれば、井上 いのうえ は「われわれは海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい による重慶 たーちん を初 はじ めとする中国 ちゅうごく 奥地 おくち 戦略 せんりゃく 要点 ようてん の攻撃 こうげき に重点 じゅうてん を置 お いており、その成否 せいひ は、当面 とうめん する支 ささえ 那 な 事変 じへん 解決 かいけつ の鍵 かぎ と確信 かくしん している。この作戦 さくせん は日 にち 露 ろ 戦争 せんそう における日本海 にほんかい 海戦 かいせん に匹敵 ひってき するとの認識 にんしき のもとに全力 ぜんりょく 投球 とうきゅう している」と述 の べ、陸 りく 攻 おさむ の増派 ぞうは をはじめとする具体 ぐたい 的 てき な増強 ぞうきょう 案 あん を提示 ていじ した。中山 なかやま がこれで井上 いのうえ の要望 ようぼう は終 お わったかと思 おも った所 ところ 、井上 いのうえ は一段 いちだん と語調 ごちょう を強 つよ めて「中央 ちゅうおう には、対 たい 支 ささえ 作戦 さくせん を推進 すいしん し、その完遂 かんすい を期 き すとしながら、その上 うえ に第三国 だいさんごく (米 べい ・英 えい )との開戦 かいせん に備 そな える動 うご きがあると仄聞 そくぶん するが、万 まん 一 いち 事実 じじつ とすれば以 もっ ての外 ほか である。今 いま や我 わ が国 くに は支 ささえ 那 な 事変 じへん だけでも大変 たいへん な状況 じょうきょう に陥 おちい っており、この泥沼 どろぬま から抜 ぬ け出 だ す見通 みとお しが立 た たない状況 じょうきょう である。この上 うえ 、第三国 だいさんごく たる大国 たいこく を相手 あいて に事 こと を構 かま えるが如 ごと きは論外 ろんがい であるというのが、現地 げんち 部隊 ぶたい である支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい の実感 じっかん である」と述 の べた。中央 ちゅうおう 側 がわ の出席 しゅっせき 者 しゃ は沈黙 ちんもく するのみであった。宇垣 うがき の「御 ご 趣旨 しゅし はよくわかりました」という短 みじか い挨拶 あいさつ でこの会議 かいぎ は終 お わったという[ 102] 。
8月 がつ 18日 にち に、軍令 ぐんれい 部 ぶ から、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ 宛 あて に「北部 ほくぶ 仏 ふつ 印 しるし 作戦 さくせん 準備 じゅんび のため、第 だい 一 いち 連合 れんごう 航空 こうくう 隊 たい を9月5日 にち に内地 ないち に引 ひ き揚 あ げさせることに手続 てつづ き中 ちゅう 」という無電 むでん 連絡 れんらく があった。支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 先任 せんにん 参謀 さんぼう だった山本 やまもと 善雄 よしお 中佐 ちゅうさ [ 注釈 ちゅうしゃく 19] によると、「蔣介石 せき 政権 せいけん を空襲 くうしゅう で崩壊 ほうかい させるため、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい の航空 こうくう 兵力 へいりょく をさらに増強 ぞうきょう されたい」という意見 いけん 具申 ぐしん と「支 ささえ 那 な 事変 じへん をそのままに、第三国 だいさんごく と事 こと を構 かま えるなど言語道断 ごんごどうだん 」という意見 いけん 具申 ぐしん を、二 ふた つとも無視 むし された井上 いのうえ の怒 いか りは大変 たいへん なものだったという[ 104] 。井上 いのうえ は、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん の嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう 中将 ちゅうじょう の了解 りょうかい を得 え て、長官 ちょうかん 名 めい で、軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう の近藤 こんどう 信 しん 竹 ちく 中将 ちゅうじょう 宛 あて に再度 さいど の意見 いけん 具申 ぐしん 電 でん を発 はっ したが、軍令 ぐんれい 部 ぶ は「先 さき に井上 いのうえ 支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう が上京 じょうきょう して意見 いけん 具申 ぐしん をした時 とき 、軍令 ぐんれい 部 ぶ は、御 ご 趣旨 しゅし はわかったとは言 い ったが、その通 とお りやるとは言 い っていない」と井上 いのうえ を馬鹿 ばか にするような応対 おうたい をした。井上 いのうえ は「軍令 ぐんれい 部 ぶ に駄目押 だめお しをしなかった自分 じぶん の手抜 てぬ かりであった、辞職 じしょく する」と言 い い出 だ し、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 副長 ふくちょう の中村 なかむら 俊久 としひさ 少将 しょうしょう と山本 やまもと が井上 いのうえ を説得 せっとく し、ようやく収 おさ まった[ 2] 。
井上 いのうえ が支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう の職 しょく を離 はな れる直前 ちょくぜん の9月 がつ 27日 にち 、日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい が締結 ていけつ され、北部 ほくぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう と合 あわ せ、日本 にっぽん は対 たい 米 べい 英 えい 戦争 せんそう への道 みち を大 おお きく踏 ふ み出 だ した[ 105] 。1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )6月 がつ 16日 にち にフランスがドイツに降伏 ごうぶく したことでドイツ軍 ぐん が優勢 ゆうせい と見 み える状況 じょうきょう について、中山 なかやま 定義 さだよし が、井上 いのうえ に感想 かんそう を求 もと めた所 ところ 、井上 いのうえ は即座 そくざ に「ドイツ軍 ぐん は必 かなら ず負 ま けるよ」と答 こた えた[ 106] 。
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )10月 がつ 1日 にち に、海軍 かいぐん 航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう に補 ほ される。戦後 せんご の井上 いのうえ は「自分 じぶん は支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう のとき、航空 こうくう が最 もっと も重要 じゅうよう だと思 おも い、嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう 司令 しれい 長官 ちょうかん に、航空 こうくう 関係 かんけい への転勤 てんきん 希望 きぼう を申 もう し出 で ていたところ、これが容 い れられた」と希望 きぼう 通 どお りの人事 じんじ であったことを語 かた っている[ 107] [ 注釈 ちゅうしゃく 20] 。
12月16日 にち 、丸田 まるだ 家 か に嫁 とつ いだ娘 むすめ の靚子が長男 ちょうなん の研一 けんいち を産 う んだ[ 109] 。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )1月 がつ の会議 かいぎ において井上 いのうえ は「第 だい 五 ご 次 じ 海軍 かいぐん 軍備 ぐんび 充実 じゅうじつ 計画 けいかく 案 あん 」(⑤計画 けいかく )を「明治 めいじ ・大正 たいしょう 時代 じだい のようなアメリカの軍備 ぐんび に追従 ついしょう した杜撰 ずさん な計画 けいかく 」と批判 ひはん し「日本 にっぽん 独自 どくじ の特長 とくちょう ある、創意 そうい 豊 ゆた かな軍備 ぐんび を持 も つべき」と主張 しゅちょう した。軍令 ぐんれい 部 ぶ 二 に 部長 ぶちょう ・高木 たかぎ 武雄 たけお 少将 しょうしょう が「では、どうすればいいか」と聞 き くと井上 いのうえ は「海軍 かいぐん の空軍 くうぐん 化 か 」と答 こた えた。井上 いのうえ はその後 ご 一 いち 週間 しゅうかん で海軍 かいぐん 大臣 だいじん ・及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう に戦艦 せんかん 無用 むよう 論 ろん と海軍 かいぐん の空軍 くうぐん 化 か を説 と いた「新 しん 軍備 ぐんび 計画 けいかく 論 ろん 」を提出 ていしゅつ した[ 110] [ 注釈 ちゅうしゃく 21] (具体 ぐたい 案 あん は「戦略 せんりゃく 」の項 こう を参照 さんしょう )。
当初 とうしょ 、井上 いのうえ はこのような内容 ないよう の意見 いけん 書 しょ を個人 こじん の意見 いけん として提出 ていしゅつ するつもりだった。ところが、井上 いのうえ が「新 しん 軍備 ぐんび 計画 けいかく 論 ろん 」を起草 きそう して航空 こうくう 本部 ほんぶ 総務 そうむ 部長 ぶちょう の山縣 やまがた 正 ただし 郷 きょう 少将 しょうしょう に見 み せた所 ところ 、山縣 やまがた が「ぜひ航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう の名 な で出 だ して下 くだ さい」と言 い ったため、1月 がつ 30日 にち 付 づけ で、海軍 かいぐん 航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう から海軍 かいぐん 大臣 だいじん 宛 あて に正式 せいしき に提出 ていしゅつ された[ 112] [ 注釈 ちゅうしゃく 22] 。
井上 いのうえ は「本省 ほんしょう の機 き 務 つとむ に関 かん する書類 しょるい は外局 がいきょく たる航 こう 本 ほん (航空 こうくう 本部 ほんぶ )には回 まわ って来 こ ないので、(時局 じきょく の)真相 しんそう はなかなか分 わか らなかった」と回想 かいそう する。しかし海軍 かいぐん 次官 じかん が豊田 とよだ 貞次郎 ていじろう 中将 ちゅうじょう から沢本 さわもと 頼 よりゆき 雄 ゆう 中将 ちゅうじょう に交代 こうたい した4月 がつ 4日 にち から約 やく 2週間 しゅうかん 、井上 いのうえ は海軍 かいぐん 次官 じかん 代理 だいり を兼務 けんむ し、機 き 務 つとむ に触 ふ れることができた[ 116] 。この時 とき に、駐米 ちゅうべい 大使 たいし ・野村 のむら 吉三郎 きちさぶろう が、悪化 あっか の一途 いっと を辿 たど る日米 にちべい 関係 かんけい の改善 かいぜん への必死 ひっし の努力 どりょく の結果 けっか 、「日米 にちべい 了解 りょうかい 案 あん 」を東京 とうきょう へ打電 だでん して来 き た。これに対 たい し、日米 にちべい 開戦 かいせん 派 は である海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 二 に 課 か 主務 しゅむ 局員 きょくいん の柴 しば 勝男 かつお 中佐 ちゅうさ は、駐米 ちゅうべい 海軍 かいぐん 武官 ぶかん の横山 よこやま 一郎 いちろう 大佐 たいさ に対 たい し、「日米 にちべい 了解 りょうかい 案 あん について、野村 のむら 大使 たいし を『慎重 しんちょう に補佐 ほさ 』すべし」という訓電 くんでん を起案 きあん し、軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう の岡 おか 敬純 たかずみ 少将 しょうしょう に提示 ていじ した。岡 おか は、当初 とうしょ は野村 のむら の「日米 にちべい 了解 りょうかい 案 あん 」に乗 の り気 き だったものの、結局 けっきょく は柴 しば の意見 いけん に同意 どうい した。しかし、井上 いのうえ は「日米 にちべい 了解 りょうかい 案 あん 」に非常 ひじょう に乗 の り気 き であったため、岡 おか から上 あ がってきた訓電 くんでん 案 あん を良 い しとせず、海 うみ 相 しょう ・及川 おいかわ に直談判 じかだんぱん した。井上 いのうえ の記憶 きおく では、その日 ひ は土曜日 どようび (1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )4月 がつ 19日 にち と思 おも われる[ 117] )で及川 おいかわ はもう帰宅 きたく していたので、井上 いのうえ は及川 おいかわ の私宅 したく を訪 おとず れた[ 118] 。
井上 いのうえ は「(柴 しば が起案 きあん し、岡 おか が承認 しょうにん した訓電 くんでん 案 あん を)自分 じぶん が加筆 かひつ 修正 しゅうせい して軍務 ぐんむ 局 きょく につき返 かえ しますからご承知 しょうち 下 くだ さい」と及川 おいかわ に言 い った。井上 いのうえ は、加筆 かひつ 修正 しゅうせい して、岡 おか を通 つう じて柴 しば に電文 でんぶん を返 かえ した。井上 いのうえ は、自分 じぶん が修正 しゅうせい した訓電 くんでん がそのまま発電 はつでん されたものと死 し ぬまで考 かんが えていたようである。しかし、柴 しば が「それでは訓電 くんでん の意味 いみ をなさないので、岡 おか 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう の了解 りょうかい を得 え て発電 はつでん を中止 ちゅうし してしまった」と戦後 せんご に語 かた っている[ 119] 。次官 じかん 代理 だいり 兼任 けんにん というわずかな機会 きかい を捉 とら えて、反米 はんべい ・開戦 かいせん への空気 くうき にブレーキをかけようと必死 ひっし だった井上 いのうえ は、新 しん 次官 じかん の沢本 さわもと 頼 よりゆき 雄 ゆう が上京 じょうきょう して着任 ちゃくにん する前日 ぜんじつ に熱海 あたみ に一泊 いっぱく すると聞 き き、及川 おいかわ に願 ねが い出 で て熱海 あたみ に行 い き、兵 へい 学校 がっこう の1期 き 上 じょう である沢本 さわもと に井上 いのうえ が次官 じかん 代理 だいり をした2週間 しゅうかん の出来事 できごと と自分 じぶん の考 かんが えを説 と いた[ 120] 。
7月 がつ 28日 にち 、日本 にっぽん が南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう を行 おこな ったことで、在 ざい 米 べい 英 えい の日本 にっぽん 資産 しさん 凍結 とうけつ 、日 にち 英 えい 通商 つうしょう 条約 じょうやく 廃棄 はいき 、アメリカの対 たい 日 にち 石油 せきゆ 禁輸 きんゆ などの強力 きょうりょく な経済 けいざい 制裁 せいさい がなされ、日米 にちべい 関係 かんけい は一気 いっき に悪化 あっか した。南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう が7月 がつ 1日 にち の閣議 かくぎ ・翌 よく 2日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ で決 き まった後 のち の7月 がつ 3日 にち に省 はぶけ 部 ぶ 臨時 りんじ 局 きょく 部長 ぶちょう 会報 かいほう (決定 けってい 事項 じこう を知 し らせるための会議 かいぎ )で、沢本 さわもと 次官 じかん から「南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう が閣議 かくぎ で決定 けってい した」と知 し らされた井上 いのうえ は「航空 こうくう 戦備 せんび は全 まった く出来 でき ていない。なぜ、事前 じぜん に我々 われわれ の意見 いけん を聞 き かないのか」と非 ひ を鳴 な らし、艦 かん 政 せい 本部 ほんぶ 長 ちょう の豊田 とよだ 副 ふく 武中 たけなか 将 すすむ も井上 いのうえ に同調 どうちょう した。弁解 べんかい する及川 おいかわ や沢本 さわもと に対 たい して、井上 いのうえ は「そんなことで大臣 だいじん が務 つと まりますか。南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう に文句 もんく を言 い ったのは、手続 てつづ き上 じょう の問題 もんだい ではなく、事柄 ことがら が重大 じゅうだい すぎるからだ」と、まるで一 いち 兵卒 へいそつ に対 たい するかのように怒鳴 どな りつけた[ 121] 。ここまで来 き ても井上 いのうえ は諦 あきら めず、『海軍 かいぐん 航空 こうくう 戦備 せんび の現状 げんじょう 』というかなり長文 ちょうぶん の意見 いけん 書 しょ を2週間 しゅうかん で書 か き上 あ げ、7月 がつ 22日 にち に、及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう 、沢本 さわもと 頼 よりゆき 雄 ゆう 、永野 ながの 修身 しゅうしん 、近藤 こんどう 信 しん 竹 たけ ら、海軍 かいぐん 省 しょう ・軍令 ぐんれい 部 ぶ の首脳 しゅのう に説明 せつめい し、航空 こうくう 戦備 せんび の各 かく 項目 こうもく (飛行機 ひこうき 、機銃 きじゅう 、弾薬 だんやく 、魚雷 ぎょらい など)について、充足 じゅうそく 率 りつ が著 いちじる しく立 た ち遅 おく れていることを示 しめ し、「戦争 せんそう をしてはならない」と強 つよ く警告 けいこく したが、彼 かれ らは聞 き く耳 みみ を持 も たなかった[ 122] 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう 、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )8月 がつ 11日 にち 、井上 いのうえ は第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に親 おや 補 ほ された。同期 どうき で最初 さいしょ に艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん (親 おや 補職 ほしょく )に補 ほ されたが、井上 いのうえ はこの人事 じんじ を⑤計画 けいかく や日米 にちべい 開戦 かいせん に反対 はんたい し、南部 なんぶ 仏 ふつ 印 しるし 進駐 しんちゅう に際 さい しては局部 きょくぶ 長 ちょう 会報 かいほう の席 せき で海 うみ 相 しょう の及川 おいかわ を怒鳴 どな りつけた井上 いのうえ を栄転 えいてん と言 い う形 かたち で体 からだ よく海軍 かいぐん 中央 ちゅうおう から遠 とお ざけるものと解釈 かいしゃく していたという[ 123] 。宮城 みやぎ での親 おや 補 ほ 式 しき を済 す ませ、岩国 いわくに 海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい から飛行 ひこう 艇 てい で8月 がつ 21日 にち にサイパン島 とう に到着 とうちゃく し、同島 どうとう に碇泊 ていはく していた旗艦 きかん 鹿島 かしま に着任 ちゃくにん した。鹿島 かしま は、直 ただ ちに司令 しれい 部 ぶ の陸上 りくじょう 施設 しせつ があるトラック諸島 しょとう に向 む かった[ 注釈 ちゅうしゃく 23] 。
井上 いのうえ はトラックの「夏島 なつしま 」にある長官 ちょうかん 官邸 かんてい に住 す み[ 125] 、毎朝 まいあさ 、鹿島 かしま に乗艦 じょうかん して午前 ごぜん 8時 じ の軍艦 ぐんかん 旗 はた 掲揚 けいよう を艦上 かんじょう で迎 むか え、午後 ごご 4時 じ に退 すさ 艦 かん して夏島 なつしま の長官 ちょうかん 官邸 かんてい に戻 もど る日課 にっか だった[ 126] 。太平洋戦争 たいへいようせんそう の開戦 かいせん 前 まえ 、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい の防備 ぼうび 区域 くいき は、日本 にっぽん の委任 いにん 統治 とうち 領 りょう の南洋 なんよう 群島 ぐんとう 全域 ぜんいき 、東経 とうけい 130度 ど から175度 ど 、北緯 ほくい 22度 ど から赤道 せきどう まで渡 わた る東西 とうざい 5,000キロ、南北 なんぼく 2,400キロの海域 かいいき であった。この海域 かいいき の中 なか には、マリアナ諸島 しょとう 、カロリン諸島 しょとう (トラック諸島 しょとう を含 ふく む)、マーシャル諸島 しょとう など、大小 だいしょう 1,400の島 しま があった。しかし、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい (南洋 なんよう 部隊 ぶたい )に与 あた えられていた兵力 へいりょく は、独立 どくりつ 旗艦 きかん の鹿島 かしま (練習 れんしゅう 巡洋艦 じゅんようかん として建造 けんぞう されており、戦闘 せんとう 力 りょく はない)以下 いか 、旧式 きゅうしき の天龍 てんりゅう 型 がた 軽 けい 巡 じゅん 2隻 せき (天龍 てんりゅう 、龍田 たつた )からなる第 だい 十 じゅう 八 はち 戦隊 せんたい (司令 しれい 官 かん 丸茂 まるも 邦則 くにのり 少将 しょうしょう )、旧式 きゅうしき 駆逐 くちく 艦 かん を主力 しゅりょく とする第 だい 六 ろく 水雷 すいらい 戦隊 せんたい (司令 しれい 官 かん 梶 かじ 岡 おか 定道 さだみち 少将 しょうしょう 、旗艦 きかん 夕張 ゆうばり )、敷設 ふせつ 艦 かん 沖島 おきのしま を旗艦 きかん とする第 だい 十 じゅう 九 きゅう 戦隊 せんたい (司令 しれい 官 かん 志摩 しま 清英 きよひで 少将 しょうしょう )、商船 しょうせん 改造 かいぞう の特設 とくせつ 艦 かん 、旧式 きゅうしき となっていた九 きゅう 六 ろく 式 しき 陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き 、九 きゅう 六 ろく 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き など僅 わず かでしかなかった[ 127] 。また重 じゅう 巡 じゅん 4隻 せき (青葉 あおば 、加古 かこ 、衣笠 きぬがさ 、古 こ 鷹 たか )から成 な る第 だい 六 ろく 戦隊 せんたい (司令 しれい 官 かん 五 ご 藤 ふじ 存知 ぞんち 少将 しょうしょう )も南洋 なんよう 部隊 ぶたい に編入 へんにゅう され、南洋 なんよう 部隊 ぶたい (指揮 しき 官 かん は井上 いのうえ 成美 まさみ 第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 長官 ちょうかん )の麾下 きか にあった。
トラック所在 しょざい の第 だい 四 よん 海軍 かいぐん 軍需 ぐんじゅ 部 ぶ の少女 しょうじょ 傭 やとい 員 いん [ 注釈 ちゅうしゃく 24] 奥津 おくつ ノブ子 のぶこ (当時 とうじ 15歳 さい )を可愛 かわい がった。太平洋戦争 たいへいようせんそう 開戦 かいせん 後 ご の1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )夏 なつ に、邦人 ほうじん 婦女子 ふじょし が内地 ないち へ送還 そうかん されることになり、奥津 おくつ もぶら志 こころざし ゛る丸 まる に乗 の って内地 ないち へ向 む かったが、出港 しゅっこう 翌日 よくじつ にぶら志 こころざし ゛る丸 まる はアメリカの潜水 せんすい 艦 かん の雷撃 らいげき によって撃沈 げきちん された。1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )8月 がつ 5日 にち の深夜 しんや であった。1隻 せき のカッターと3隻 せき の救命 きゅうめい 艇 てい が救助 きゅうじょ した生存 せいぞん 者 しゃ は、23日 にち もの漂流 ひょうりゅう の末 すえ 、日本 にっぽん の飛行機 ひこうき に発見 はっけん され、救助 きゅうじょ 船 せん が向 む かってトラックに戻 もど ることが出来 でき たが、奥津 おくつ は生存 せいぞん 者 しゃ の中 なか に入 はい っていた。生還 せいかん した奥津 おくつ が、井上 いのうえ の所 ところ に挨拶 あいさつ に来 き た時 とき 、艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん たる井上 いのうえ が、一介 いっかい の傭 やとい 員 いん に過 す ぎない奥津 おくつ の前 まえ で正座 せいざ して「申 もう し訳 わけ ない」と言 い い、深々 ふかぶか と頭 あたま を下 さ げ、ポケットマネーで購入 こうにゅう した身 み の回 まわ り品 ひん や当座 とうざ の生活 せいかつ 資金 しきん を与 あた えた。井上 いのうえ が兵学 へいがく 校長 こうちょう に転 てん じてトラックを去 さ る日 ひ 、奥津 おくつ は長官 ちょうかん 用 よう 自動車 じどうしゃ に乗 の ることを許 ゆる され、井上 いのうえ が乗 の る九 きゅう 七 なな 式 しき 飛行 ひこう 艇 てい が横付 よこづ けされた桟橋 さんばし まで行 い って井上 いのうえ を見送 みおく った。奥津 おくつ は、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )3月 がつ に便船 びんせん を得 え て内地 ないち に帰還 きかん でき、以後 いご は神奈川 かながわ 県 けん の小田原 おだわら に住 す んだ。奥津 おくつ は、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 長 ちょう として広島 ひろしま 県 けん 江田島 えたじま にいた井上 いのうえ に手紙 てがみ で帰国 きこく を知 し らせ、井上 いのうえ は奥津 おくつ が無事 ぶじ に内地 ないち に帰還 きかん したことを祝 いわ う手紙 てがみ を出 だ し、以後 いご 、敗戦 はいせん までの2年 ねん ほど、井上 いのうえ は奥津 おくつ と文通 ぶんつう をしていた[ 注釈 ちゅうしゃく 25] 。1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )、井上 いのうえ が海軍 かいぐん 次官 じかん として東京 とうきょう に戻 もど ると、奥津 おくつ は土産 みやげ の梨 なし を持 も って海軍 かいぐん 省 しょう に井上 いのうえ を訪 たず ねた。敗戦 はいせん の混乱 こんらん で井上 いのうえ と奥津 おくつ の音信 いんしん は途絶 とだ えたが、1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )に、井上 いのうえ が奥津 おくつ の戦前 せんぜん の小田原 おだわら の住所 じゅうしょ に手紙 てがみ を出 だ してみた所 ところ 、その住所 じゅうしょ に戦後 せんご も住 す んでいた奥津 おくつ から落花生 らっかせい の小包 こづつみ が井上 いのうえ に届 とど き、文通 ぶんつう が復活 ふっかつ した。軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう の復活 ふっかつ (1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん ))まで、英語 えいご 塾 じゅく の僅 わず かな月謝 げっしゃ 以外 いがい の収入 しゅうにゅう がなく「貧民 ひんみん のような食生活 しょくせいかつ 」を余儀 よぎ なくされていた井上 いのうえ は、栄養 えいよう のある落花生 らっかせい の贈 おく り物 もの を大 おお いに喜 よろこ んだ。1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )6月 がつ には、奥津 おくつ が長井 ながい に隠棲 いんせい する井上 いのうえ を訪 たず ね、21年 ねん ぶりの再会 さいかい が叶 かな った。奥津 おくつ は、井上 いのうえ からパラオ出張 しゅっちょう の土産 みやげ に贈 おく られた鼈甲 べっこう のコンパクト、ぶら志 こころざし ゛る丸 まる 沈没 ちんぼつ 後 ご にトラックに生還 せいかん した際 さい に井上 いのうえ から贈 おく られた絹 きぬ の靴下 くつした (奥津 おくつ は、一 いち 度 ど も足 あし を通 とお さずに保存 ほぞん していた。)を井上 いのうえ の没後 ぼつご も大事 だいじ にした[ 131] 。
1941年 ねん 9月 がつ 、海 うみ 大 だい 図上 ずじょう 演習 えんしゅう で井上 いのうえ は、ラバウル攻略 こうりゃく 後 ご はラエ・サラモアまで進出 しんしゅつ することを主張 しゅちょう した。理由 りゆう はラバウルを確保 かくほ するにはソロモン、東部 とうぶ ニューギニアに前進 ぜんしん 基地 きち を確保 かくほ する必要 ひつよう があると考 かんが えたためである。宇垣 うがき 纏 まとい 中将 ちゅうじょう 、山口 やまぐち 多聞 たもん 少将 しょうしょう がそれに対 たい して消極 しょうきょく 的 てき な意見 いけん を述 の べ、攻略 こうりゃく 範囲 はんい は決 き まらなかったが、連合 れんごう 艦隊 かんたい はそれらを加味 かみ し、他 た 方面 ほうめん が有利 ゆうり に展開 てんかい するなら早 はや く実行 じっこう するとした[ 132] 。
井上 いのうえ は連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん の山本 やまもと 五十六 いそろく 大将 たいしょう から「作戦 さくせん 打合 うちあ わせのため参謀 さんぼう 長 ちょう 及 およ び関係 かんけい 幕僚 ばくりょう を帯同 たいどう して上京 じょうきょう せよ」という電報 でんぽう を11月6日 にち に受 う け取 と り、随員 ずいいん と共 とも に11月8日 にち にトラックを飛行 ひこう 艇 てい で出発 しゅっぱつ し、横浜 よこはま 航空 こうくう 隊 たい に到着 とうちゃく して、東京 とうきょう において11月5日 にち 付 づけ の「大海 たいかい 令 れい 第 だい 1号 ごう 」と「大海 おおうみ 指 ゆび 第 だい 1号 ごう 」を受 う け取 と った[ 133] 。さらに、11月13日 にち に岩国 いわくに 海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい で行 おこな われた、連合 れんごう 艦隊 かんたい 長官 ちょうかん 、各 かく 艦隊 かんたい 長官 ちょうかん ・参謀 さんぼう 長 ちょう 並 なら びに関係 かんけい 幕僚 ばくりょう による「作戦 さくせん 打 う ち合 あ わせ会議 かいぎ 」に出席 しゅっせき した。各 かく 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ に、連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ から、「機密 きみつ 連合 れんごう 艦隊 かんたい 命令 めいれい 作 さく 第 だい 1号 ごう 」が配布 はいふ された。井上 いのうえ らは、往路 おうろ と同 おな じく、横浜 よこはま 航空 こうくう 隊 たい から飛行 ひこう 艇 てい で出発 しゅっぱつ し、11月20日 にち にトラックに戻 もど った[ 134] 。
12月8日 にち に太平洋戦争 たいへいようせんそう が開始 かいし された。鹿島 かしま の第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ では、暗号 あんごう 電文 でんぶん を傍受 ぼうじゅ ・解読 かいどく して真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の大 だい 戦果 せんか を知 し った。通信 つうしん 参謀 さんぼう の飯田 いいだ 英雄 ひでお 中佐 ちゅうさ が、鹿島 かしま の長官 ちょうかん 室 しつ にこの電文 でんぶん を持参 じさん し、井上 いのうえ に「おめでとうございます」と言 い った所 ところ 、電文 でんぶん を見 み た井上 いのうえ は、ただ一言 ひとこと 「バカな」と吐 は き捨 す てるように言 い った。「いざという時 とき は、内閣 ないかく に海軍 かいぐん 大臣 だいじん を出 だ さないという伝家 でんか の宝刀 ほうとう を抜 ぬ いてでも開戦 かいせん に反対 はんたい すべき」と考 かんが えていた井上 いのうえ にとっては、めでたいどころではなかったという[ 133] 。
開戦 かいせん 以降 いこう 、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい は第 だい 一 いち 段 だん 作戦 さくせん において、ウェーク島 とう 攻略 こうりゃく を担当 たんとう した。第 だい 一 いち 回 かい の攻撃 こうげき (12月11日 にち )は、大 だい 発動 はつどう 艇 てい の発進 はっしん に手間取 てまど るうちに夜明 よあ けとなり、陸上 りくじょう 砲台 ほうだい と残存 ざんそん 航空 こうくう 部隊 ぶたい の反撃 はんげき により駆逐 くちく 艦 かん 2隻 せき (疾風 しっぷう 、如月 きさらぎ )を喪失 そうしつ して失敗 しっぱい した[ 135] 。事前 じぜん の上陸 じょうりく 作戦 さくせん 訓練 くんれん 不足 ふそく が指摘 してき される[ 135] 。
真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき から帰投 きとう する途中 とちゅう の南雲 なぐも 機動 きどう 部隊 ぶたい (指揮 しき 官 かん 南雲 なぐも 忠一 ただかず 中将 ちゅうじょう /第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん )から分派 ぶんぱ された(重 じゅう 巡 じゅん 2、空母 くうぼ 2〈蒼 あおい 龍 りゅう 、飛 ひ 龍 りゅう 〉、駆逐 くちく 艦 かん 2)の協力 きょうりょく で、同島 どうとう 上空 じょうくう の制空権 せいくうけん を確保 かくほ しての第 だい 二 に 回 かい の攻撃 こうげき (12月23日 にち )で攻略 こうりゃく に成功 せいこう した。
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )初頭 しょとう 、南洋 なんよう 部隊 ぶたい (第 だい 四 よん 艦隊 かんたい )はニューブリテン島 とう のラバウル とニューアイルランド島 とう のカビエン を攻略 こうりゃく することになり、南雲 なぐも 機動 きどう 部隊 ぶたい が作戦 さくせん に協力 きょうりょく した。作戦 さくせん 打 う ち合 あ わせのためトラックに到着 とうちゃく した機動 きどう 部隊 ぶたい 参謀 さんぼう 長 ちょう 草 くさ 鹿 しか 龍之介 りゅうのすけ 少将 しょうしょう は、戦略 せんりゃく 的 てき に重要 じゅうよう な割 わり にトラックの防備 ぼうび は不十分 ふじゅうぶん で落 お ち着 つ かなかったと回想 かいそう している。また草 くさ 鹿 しか が第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ を訪問 ほうもん すると、井上 いのうえ は「真珠湾 しんじゅわん 作戦 さくせん の水際 みずぎわ だった腕前 うでまえ にはひと言 こと もない。ただ頭 あたま をさげる」と喜 よろこ んだ。軍令 ぐんれい 部 ぶ 時代 じだい に井上 いのうえ から叱 しか られてきた草 くさ 鹿 しか は井上 いのうえ に良 よ い印象 いんしょう を持 も っていなかったが、この件 けん で感激 かんげき している。南洋 なんよう 部隊 ぶたい と南雲 なぐも 機動 きどう 部隊 ぶたい の圧倒的 あっとうてき 戦力 せんりょく により、ラバウルとカビエンはすぐに陥落 かんらく した。
1942年 ねん 1月 がつ 30日 にち 、連合 れんごう 艦隊 かんたい はラエ、サラモア、ツラギ及 およ びポートモレスビーの攻略 こうりゃく を南洋 なんよう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん の井上 いのうえ に命 めい じ、井上 いのうえ は、3月にラエ、サラモア、4月 がつ にツラギ、ポートモレスビーを攻略 こうりゃく するように計画 けいかく したが、3月 がつ 10日 とおか に米 べい 機動 きどう 部隊 ぶたい がラエ、サラモアに来襲 らいしゅう し、日本 にっぽん の攻略 こうりゃく 部隊 ぶたい は艦船 かんせん に大 だい 損害 そんがい を受 う け、ポートモレスビー攻略 こうりゃく 作戦 さくせん はおおむね1か月 げつ 以上 いじょう 延期 えんき せざるを得 え なくなった[ 141] 。
開戦 かいせん 前 まえ から第 だい 四 よん 艦隊 かんたい に編入 へんにゅう されていた基地 きち 航空 こうくう 部隊 ぶたい の第 だい 24航空 こうくう 戦隊 せんたい は、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )4月 がつ 10日 とおか の基地 きち 航空 こうくう 兵力 へいりょく 戦時 せんじ 編制 へんせい の改編 かいへん で外 はず され、第 だい 十 じゅう 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい (11航 こう 艦 かん )の指揮 しき 下 か に移 うつ され、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい の戦力 せんりょく は減少 げんしょう した。開戦 かいせん 後 ご に新 しん 編成 へんせい され、ラバウル・ソロモン方面 ほうめん に展開 てんかい し、MO作戦 さくせん に参加 さんか した第 だい 25航空 こうくう 戦隊 せんたい も、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい の指揮 しき 下 か であった[ 142] 。同 どう 時期 じき 、南洋 なんよう 部隊 ぶたい (第 だい 四 よん 艦隊 かんたい )が各 かく 方面 ほうめん に配備 はいび を要請 ようせい していた空母 くうぼ 祥 さち 鳳 おおとり が南洋 なんよう 部隊 ぶたい (指揮 しき 官 かん 第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん )に編入 へんにゅう された。
第 だい 二 に 段 だん 作戦 さくせん において、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい (南洋 なんよう 部隊 ぶたい )はMO作戦 さくせん を担当 たんとう した。作戦 さくせん 目標 もくひょう はポートモレスビー の海路 かいろ からの攻略 こうりゃく であった[ 143] 。井上 いのうえ は旗艦 きかん 鹿島 かしま をラバウルに進 すす めて指揮 しき を執 と った。1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )5月 がつ 7日 にち 、珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん の第 だい 1日 にち に、米 べい 機動 きどう 部隊 ぶたい の攻撃 こうげき で祥 さち 鳳 おおとり (南洋 なんよう 部隊 ぶたい 所属 しょぞく )が沈 しず んだ時 とき の心境 しんきょう を、井上 いのうえ は海戦 かいせん の後 のち に書 か いたと推定 すいてい される手記 しゅき に「実 じつ に無念 むねん であった。このような時 とき に、東郷 とうごう 平八郎 へいはちろう 元帥 げんすい であればどうなさるだろうかと考 かんが えた。心中 しんちゅうの 、『お前 まえ は偉 えら そうに4F(第 だい 四 よん 艦隊 かんたい )長官 ちょうかん などと威張 いば っているが、お前 まえ は戦 せん が下手 へた だなあ』 と言 い われているような無念 むねん を感 かん じた」という趣旨 しゅし の記述 きじゅつ をしている[ 144] 。井上 いのうえ の下 もと で、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 航海 こうかい 参謀 さんぼう であった土肥 どい 一夫 かずお 少佐 しょうさ によれば、7月 がつ に連合 れんごう 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう として連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ に着任 ちゃくにん した際 さい に、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ から提出 ていしゅつ された珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん に関 かん する報告 ほうこく 書類 しょるい 、当時 とうじ の電報 でんぽう 綴 つづ りに赤字 あかじ で「弱虫 よわむし !」「馬鹿 ばか 野郎 やろう 」などと多 おお くの罵詈 ばり 雑言 ぞうごん が書 か き込 こ まれているのを見 み たという。
海軍 かいぐん 省 しょう ・軍令 ぐんれい 部 ぶ や連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ は、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ の珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん での指揮 しき を批判 ひはん した。連合 れんごう 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう の宇垣 うがき 纏 まとい は、日誌 にっし 「戦 せん 藻 も 録 ろく 」の1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )5月 がつ 8日 にち の項 こう に『4F(第 だい 四 よん 艦隊 かんたい )の作戦 さくせん 指導 しどう は全般 ぜんぱん 的 てき に不適切 ふてきせつ であった。小型 こがた 空母 くうぼ 「祥 さち 鳳 おおとり 」を失 うしな っただけで、敗戦 はいせん 思想 しそう に陥 おちい っていたのは遺憾 いかん である』旨 むね を書 か いている。軍令 ぐんれい 部 ぶ 第 だい 一部 いちぶ 第 だい 一 いち 課 か 作戦 さくせん 班長 はんちょう であった佐 さ 薙 なぎ 毅 あつし 中佐 ちゅうさ は、日誌 にっし に「4Fの作戦 さくせん 指導 しどう は消極 しょうきょく 的 てき であり、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう の永野 ながの 修身 しゅうしん 大将 たいしょう は不満 ふまん の意 い を表明 ひょうめい していた」旨 むね を書 か いている[ 145] 。
日本 にっぽん 軍 ぐん が南洋 なんよう 群島 ぐんとう の東 ひがし と南 みなみ に占領 せんりょう 地 ち を広 ひろ げると、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい の担当 たんとう 戦域 せんいき となった。ウェーク島 とう 、南東 なんとう 方面 ほうめん (ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島 しょとう )など。第 だい 十 じゅう 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい (11航 こう 艦 かん 。司令 しれい 長官 ちょうかん は塚原 つかはら 二 に 四 よん 三 さん 中将 ちゅうじょう )麾下 きか の基地 きち 航空 こうくう 隊 たい がマーシャル諸島 しょとう に展開 てんかい し、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい が補給 ほきゅう を担当 たんとう していたものの、手 て こずっていた[ 146] 。ミッドウェー作戦 さくせん の前 まえ 、トラックの第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ に連合 れんごう 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう が説明 せつめい に来 き て「ミッドウェー占領 せんりょう 後 ご の補給 ほきゅう は第 だい 四 よん 艦隊 かんたい に担当 たんとう して頂 いただ く」と告 つ げた。第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 先任 せんにん 参謀 さんぼう の川井 かわい 巌 いわお 大佐 たいさ が、空母 くうぼ 2隻 せき 基幹 きかん の航空 こうくう 戦隊 せんたい を附 つ けてくれなければミッドウェーへの補給 ほきゅう など出来 でき ない、と反論 はんろん した所 ところ 、ミッドウェーへの補給 ほきゅう は11航 こう 艦 かん が行 おこな うことになったという。マーシャル群島 ぐんとう に展開 てんかい し、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい から細々 こまごま と補給 ほきゅう を受 う けている11航 こう 艦 かん が、さらに2,200キロも先 さき のミッドウェーへの補給 ほきゅう を出来 でき る訳 わけ がなかった[ 147] 。もともと担当 たんとう していた南洋 なんよう 諸島 しょとう 全域 ぜんいき に加 くわ えて、ウェーク島 とう 方面 ほうめん 、南東 なんとう 方面 ほうめん を第 だい 四 よん 艦隊 かんたい が担当 たんとう するのは無理 むり があった。7月14日 にち に南東 なんとう 方面 ほうめん を担当 たんとう する第 だい 八 はち 艦隊 かんたい が編成 へんせい され、7月 がつ 24日 にち にラバウルの陸上 りくじょう に長官 ちょうかん の三川 みかわ 軍一 ぐんいち 中将 ちゅうじょう が将 はた 旗 はた を掲 かか げ、統帥 とうすい を発動 はつどう した[ 148] 。ここに南洋 なんよう 部隊 ぶたい は内 うち 南洋 なんよう 部隊 ぶたい と改称 かいしょう され、それまで南洋 なんよう 部隊 ぶたい 指揮 しき 下 か だった第 だい 六 ろく 戦隊 せんたい (重 じゅう 巡 じゅん 4隻 せき )も外 そと 南洋 なんよう 部隊 ぶたい (指揮 しき 官 かん 三川 みかわ 軍一 ぐんいち 第 だい 八 はち 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん )に編入 へんにゅう された。
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )7月 がつ に、海軍 かいぐん 料亭 りょうてい 「小松 こまつ 」の支店 してん がトラック島 とう に開業 かいぎょう した。これは、井上 いのうえ が横須賀 よこすか で「小松 こまつ 」を経営 けいえい する山本 やまもと 直枝 なおえ 夫婦 ふうふ に、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月の太平洋戦争 たいへいようせんそう 開戦 かいせん から間 あいだ もなく、「トラックには将兵 しょうへい の慰安 いあん 施設 しせつ が一 いち 軒 けん しかない。士官 しかん 用 よう の施設 しせつ として、小松 こまつ の支店 してん をトラックに出 だ してくれないか」という依頼 いらい をしていたためである[ 149] 。その後 ご の戦局 せんきょく の悪化 あっか 、敗戦 はいせん でトラック島 とう の「小松 こまつ 」は消滅 しょうめつ し、看護 かんご 婦 ふ の仕事 しごと を手伝 てつだ うようになった女子 じょし 従業 じゅうぎょう 員 いん が6人 にん 犠牲 ぎせい となった。井上 いのうえ は、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご に「小松 こまつ 」を訪 たず ね、案内 あんない された座敷 ざしき に入 はい らず、敷居 しきい の外 そと に座 すわ って山本 やまもと 直枝 なおえ に頭 あたま を下 さ げ「申 もう し訳 わけ ありません。今度 こんど の戦争 せんそう では大変 たいへん な御 ご 迷惑 めいわく をおかけしたことを、日本 にっぽん 海軍 かいぐん を代表 だいひょう しておわびいたします」と謝罪 しゃざい した。山本 やまもと は、井上 いのうえ の潔 いさぎよ い謝罪 しゃざい に感銘 かんめい を受 う けた[ 150] 。
陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 辻 つじ 政信 まさのぶ 中佐 ちゅうさ は、ラバウル 方面 ほうめん の最前線 さいぜんせん を視察 しさつ する途中 とちゅう の1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )7月 がつ 23日 にち に、トラック泊地 はくち に立 た ち寄 よ った[ 151] 。夜 よる 、辻 つじ は海軍 かいぐん 専用 せんよう の料亭 りょうてい で第 だい 四 よん 艦隊 かんたい の招待 しょうたい を受 う けた[ 152] 。辻 つじ は井上 いのうえ について「この提督 ていとく は武将 ぶしょう という感 かん じがしない。上品 じょうひん な風貌 ふうぼう に洗練 せんれん された物腰 ものごし である。絽 ろ の羽織 はおり 袴 はかま すがたで、如才 じょさい ない態度 たいど からはたぶんに政治 せいじ 家 か のような感 かん じをうける」という評価 ひょうか をしており[ 152] 、接待 せったい にあらわれた芸者 げいしゃ 達 たち を見 み て「第 だい 一線 いっせん の様相 ようそう とかけはなれた情緒 じょうちょ だった」とも回想 かいそう している[ 152] 。
1942年 ねん 7月 がつ 、中部 ちゅうぶ ソロモン方面 ほうめん に陸上 りくじょう 機 き の基地 きち 建設 けんせつ を検討 けんとう していた井上 いのうえ は、ガダルカナル島 とう の基地 きち 設定 せってい に着手 ちゃくしゅ した。日本 にっぽん 軍 ぐん の最前線 さいぜんせん 基地 きち であったラバウル からは直線 ちょくせん 距離 きょり で1,020キロ離 はな れていた[ 153] 。飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ によるガダルカナル進出 しんしゅつ は失敗 しっぱい に終 お わり、壊滅 かいめつ 的 てき な消耗 しょうもう を受 う けることになる。海軍 かいぐん に呼応 こおう して兵力 へいりょく を進出 しんしゅつ させ、大 おお きな損害 そんがい を被 こうむ った陸軍 りくぐん は、ガダルカナル島 とう を巡 めぐ る大 だい 悲劇 ひげき の根本 こんぽん 原因 げんいん は、海軍 かいぐん が勝手 かって に飛行場 ひこうじょう を作 つく ったことにあると批判 ひはん している[ 154] [ 155] 。
5月3日 にち 、日本 にっぽん 軍 ぐん はツラギ島 とう を占領 せんりょう 。翌 よく 4日 にち 、横浜 よこはま 空 そら の飛行 ひこう 艇 てい がツラギに進出 しんしゅつ [ 156] 。ツラギ島 とう に進出 しんしゅつ していた横浜 よこはま 空 そら 司令 しれい の宮崎 みやざき 重敏 しげとし 大佐 たいさ から、第 だい 25航空 こうくう 戦隊 せんたい 司令 しれい 官 かん の山田 やまだ 定義 さだよし 少将 しょうしょう に「ツラギ島 とう 対岸 たいがん のガダルカナル島 とう に、飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ の適地 てきち あり」という報告 ほうこく があった。5月25日 にち 、25航 こう 戦 せん と第 だい 8根拠地 こんきょち 隊 たい の幕僚 ばくりょう ・技術 ぎじゅつ 者 しゃ を乗 の せた九 きゅう 七 なな 式 しき 飛行 ひこう 艇 てい によって、ガ島 とう を中心 ちゅうしん とするラバウル以南 いなん の島々 しまじま の航空 こうくう 偵察 ていさつ が行 おこな われた。この偵察 ていさつ 結果 けっか を受 う けて山田 やまだ 少将 しょうしょう は6月 がつ 1日 にち に第 だい 十 じゅう 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい の参謀 さんぼう 長 ちょう ・酒巻 さかまき 宗孝 むねたか 少将 しょうしょう に調査 ちょうさ 結果 けっか を報告 ほうこく し、「急 いそ ぎ、ガダルカナル島 とう への飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ に取 と りかかるべし」と意見 いけん 具申 ぐしん した。ミッドウェー海戦 かいせん (6月 がつ 5日 にち -7日 にち )の後 のち に、11航 こう 艦 かん 司令 しれい 部 ぶ からの報告 ほうこく を受 う けた連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ は、ラバウルからガダルカナルが遠 とお すぎることを理由 りゆう に難色 なんしょく を示 しめ した。その理由 りゆう は零 れい 戦 せん の航続 こうぞく 距離 きょり では、ラバウルを基地 きち として、ガダルカナル上空 じょうくう の制空権 せいくうけん を確保 かくほ できず、ラバウルとガダルカナルの中間 ちゅうかん にもう一 ひと つの基地 きち が必要 ひつよう になるためであった。連合 れんごう 艦隊 かんたい の要望 ようぼう に基 もと づき、25航 こう 戦 せん は、ラバウルとガダルカナルのほぼ中間 ちゅうかん にあるブーゲンビル島 とう ・ブカ島 とう を2度 ど にわたり調査 ちょうさ したが、いずれも地勢 ちせい に難 なん があり、ガダルカナルへの飛行場 ひこうじょう 造成 ぞうせい 以上 いじょう に日数 にっすう を要 よう するという結論 けつろん となった。なお、25航 こう 戦 せん にはミッドウェー海戦 かいせん で日本 にっぽん が主力 しゅりょく 4空母 くうぼ を喪失 そうしつ したことが知 し らされておらず、この方面 ほうめん の制空権 せいくうけん は容易 ようい に確保 かくほ できるという考 かんが えがあった。6月19日 にち 、連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ は、参謀 さんぼう 長 ちょう の宇垣 うがき 纏 まとい 中将 ちゅうじょう の名 な で「ガダルカナル航空 こうくう 基地 きち は次期 じき 作戦 さくせん の関係 かんけい 上 じょう 、八 はち 月 がつ 上旬 じょうじゅん 迄 まで に完成 かんせい の要 よう ある所 ところ 見込 みこみ 承知 しょうち し度 たく (たし)」と現地 げんち 部隊 ぶたい に訓電 くんでん した。連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ の訓電 くんでん を受 う けた現地 げんち 部隊 ぶたい の25航 こう 戦 せん 、8根 ね 、及 およ び、この方面 ほうめん の総 そう 指揮 しき を執 と る第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ から参謀 さんぼう が派遣 はけん され、再度 さいど のガダルカナル上空 じょうくう からの航空 こうくう 偵察 ていさつ が行 おこな われた。島 しま のルンガ川 がわ 東方 とうほう 、海岸 かいがん 線 せん から2キロ入 はい った所 ところ が飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ に最適 さいてき と結論 けつろん した。連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ は、ミッドウェー攻略 こうりゃく 作戦 さくせん のために編成 へんせい されていた第 だい 11設営 せつえい 隊 たい 、ニューカレドニア攻略 こうりゃく 作戦 さくせん のために編成 へんせい されていた第 だい 13設営 せつえい 隊 たい の2個 こ 設営 せつえい 隊 たい をガダルカナル飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ に当 あ たらせることを決意 けつい し、両 りょう 設営 せつえい 隊 たい の本隊 ほんたい を乗 の せた輸送 ゆそう 船団 せんだん は、6月29日 にち にトラックを出港 しゅっこう 、7月 がつ 6日 にち にガダルカナルに上陸 じょうりく した。
軍令 ぐんれい 部 ぶ 作戦 さくせん 課 か 航空 こうくう 主務 しゅむ 参謀 さんぼう 三 さん 代 だい 辰吉 たつよし 中佐 ちゅうさ によれば、ガダルカナルに陸上 りくじょう 飛行場 ひこうじょう の適地 てきち はあるが、飛行機 ひこうき を配備 はいび するにはまだ不足 ふそく しているので水上 すいじょう 機 き でやろうと考 かんが えており、飛行場 ひこうじょう の造成 ぞうせい に関 かん しては軍令 ぐんれい 部 ぶ は知 し らず、現地 げんち 部隊 ぶたい の第 だい 四 よん 艦隊 かんたい が勝手 かって に始 はじ めたものと証言 しょうげん している[ 157] 。また、当時 とうじ の参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 作戦 さくせん 課長 かちょう の服部 はっとり 卓 たく 四郎 しろう 大佐 たいさ 、陸軍 りくぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう の佐藤 さとう 賢 けん 了 りょう 少将 しょうしょう も「飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ のことは全 まった く知 し らなかった」と書 か いている[ 158] 。参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 参謀 さんぼう 辻 つじ 政信 まさのぶ 陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ は、7月 がつ 28日 にち ラバウルで海軍 かいぐん 側 がわ とポートモレスビー作戦 さくせん について会議 かいぎ した際 さい 、ガダルカナル島 とう 飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ 中 ちゅう の話 はなし がはじめて出 で たと回想 かいそう している[ 159] 。だが設営 せつえい 隊 たい 本隊 ほんたい 上陸 じょうりく の翌日 よくじつ 7月 がつ 7日 にち 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 作戦 さくせん 課 か は参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 作戦 さくせん 課 か に「FS作戦 さくせん の一時 いちじ 中止 ちゅうし 」を正式 せいしき に申 もう し入 い れる文書 ぶんしょ を提示 ていじ しており、その文書 ぶんしょ に「ガダルカナル陸上 りくじょう 飛行 ひこう 基地 きち (最近 さいきん 造成 ぞうせい に着手 ちゃくしゅ 、8月 がつ 末 まつ 完成 かんせい の見込 みこみ )」と記 しる されている[ 160] 。
10月7日 にち 、井上 いのうえ は連合 れんごう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん ・山本 やまもと 五十六 いそろく に連合 れんごう 艦隊 かんたい 旗艦 きかん 大和 やまと へ招 まね かれた。海軍 かいぐん 兵学 へいがく 校長 こうちょう から、10月1日 にち 付 づけ で第 だい 十 じゅう 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん に親 おや 補 ほ された草 くさ 鹿 しか 任 にん 一 いち 中将 ちゅうじょう (井上 いのうえ と海兵 かいへい 同期 どうき )が、内地 ないち からラバウルへ赴任 ふにん する途中 とちゅう にトラック在 ざい 泊 はく の「大和 やまと 」に立 た ち寄 よ ったので、山本 やまもと が草 くさ 鹿 しか を主賓 しゅひん とする夕食 ゆうしょく 会 かい を開 ひら き、井上 いのうえ も呼 よ んだものである[ 161] 。この夕食 ゆうしょく 会 かい で、山本 やまもと は井上 いのうえ が草 くさ 鹿 しか の後任 こうにん の兵学 へいがく 校長 こうちょう に決定 けってい しており、海軍 かいぐん 大臣 だいじん の嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう から相談 そうだん され、井上 いのうえ を兵学 へいがく 校長 こうちょう に推薦 すいせん したのは山本 やまもと 自身 じしん だと告 つ げた。この夜 よる 、草 くさ 鹿 しか の申 もう し出 で によって井上 いのうえ は宿舎 しゅくしゃ で草 くさ 鹿 しか から兵学 へいがく 校長 こうちょう の引 ひ き継 つ ぎを受 う けた[ 162] 。この時 とき の心境 しんきょう を井上 いのうえ は、「自分 じぶん は戦 せん が下手 へた で幾 いく つかの失敗 しっぱい を経験 けいけん し、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう の校長 こうちょう にさせられた時 とき は、全 まった くほっとした」と語 かた っている[ 163] 。
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )10月 がつ 26日 にち 、井上 いのうえ は海軍 かいぐん 兵学 へいがく 校長 こうちょう に補 ほ された[ 164] 。井上 いのうえ は10月31日 にち にトラックから内地 ないち へ帰還 きかん した[ 165] 。11月5日 にち 午前 ごぜん 10時 じ 、井上 いのうえ は宮城 みやぎ に参内 さんだい して昭和 しょうわ 天皇 てんのう に拝謁 はいえつ 、軍 ぐん 状 じょう を奏上 そうじょう し、菊花 きっか 紋 もん 附 ふ 木杯 もくはい 一 いち 組 くみ と金一封 きんいっぷう を下賜 かし された[ 166] 。11月10日 にち 、広島 ひろしま 県 けん ・江田島 えたじま の海軍兵学校 かいぐんへいがっこう に着任 ちゃくにん [ 166] 。当時 とうじ の心境 しんきょう を井上 いのうえ は「兵学 へいがく 校長 こうちょう になったのは自 みずか らの志望 しぼう ではなく、また、自分 じぶん の性格 せいかく から考 かんが えても適任 てきにん とは思 おも われず、初 はじ めはそれほど気 き が進 すす まなかった。しかし、着任 ちゃくにん して1か月 げつ ばかりの間 あいだ に生意気 なまいき 盛 ざか りと思 おも っていた生徒 せいと 達 たち の純真 じゅんしん な気持 きもち や態度 たいど に打 う たれてきて 『よし、自分 じぶん は生徒 せいと 教育 きょういく を一所懸命 いっしょけんめい にやるぞ』 という気持 きもち に変 かわ ってきた」と回想 かいそう する[ 167] 。井上 いのうえ の着任 ちゃくにん 当時 とうじ 、兵 へい 学校 がっこう の教官 きょうかん たちの間 あいだ では親 した しみやすい豪放磊落 ごうほうらいらく な人柄 ひとがら だった草 くさ 鹿 しか の後任 こうにん として、正 せい 反対 はんたい の人柄 ひとがら の井上 いのうえ を敬遠 けいえん する空気 くうき が強 つよ かった。しかし、井上 いのうえ が着任 ちゃくにん してから日 ひ が経 た つにつれ、井上 いのうえ が教育 きょういく について深 ふか い理解 りかい と識見 しきけん を持 も っていることを知 し り、井上 いのうえ の職務 しょくむ 遂行 すいこう に対 たい する真摯 しんし で誠実 せいじつ な態度 たいど に親 した しく接 せっ するようになって、井上 いのうえ を畏敬 いけい し信服 しんぷく する者 もの も増 ふ えた[ 168] 。
空母 くうぼ 翔 しょう 鶴 づる 運用 うんよう 長 ちょう として珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん や南太平洋 みなみたいへいよう 海戦 かいせん を戦 たたか った福地 ふくち 周夫 ちかお 中佐 ちゅうさ が海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 教官 きょうかん として赴任 ふにん し[ 169] 、翔 しょう 鶴 づる の塗料 とりょう で描 えが かれた『珊瑚 さんご 海 うみ 々戦 せん 翔 しょう 鶴 づる 奮戦 ふんせん 図 ず 』という絵 え を持参 じさん すると井上 いのうえ は感動 かんどう し、額縁 がくぶち をつくらせて校長 こうちょう 室 しつ に掲 かか げた[ 169] 。井上 いのうえ は海軍 かいぐん 次官 じかん に転出 てんしゅつ するまで『翔 しょう 鶴 づる 奮戦 ふんせん 図 ず 』を校長 こうちょう 室 しつ に飾 かざ っていたという[ 169] 。
校長 こうちょう ・教頭 きょうとう に次 つ ぐ兵 へい 学校 がっこう のナンバースリーである[ 170] 企画 きかく 課長 かちょう の小田切 おだぎり 政徳 まさのり 中佐 ちゅうさ は、着任 ちゃくにん 直後 ちょくご の井上 いのうえ から「柔道 じゅうどう 場 じょう 2棟 むね ・剣道 けんどう 場 じょう 2棟 むね を建設 けんせつ 中 ちゅう だが、4棟 むね が隣接 りんせつ し過 す ぎており、1棟 むね が火災 かさい を発 はっ すると、他 た 棟 とう に直 ただ ちに延焼 えんしょう するだろう。この配置 はいち は危険 きけん だ」「そもそも、こんな大 だい 道場 どうじょう を2棟 むね づつも建 た てるより、剣道 けんどう などは練兵 れんぺい 場 じょう に出 で てやった方 ほう が良 よ いだろう。見直 みなお しは出来 でき ないか?」という旨 むね の指摘 してき を受 う けたが既 すで に道場 どうじょう の基礎 きそ 工事 こうじ がほとんど終 お わり、建築 けんちく 資材 しざい の搬入 はんにゅう と加工 かこう が始 はじ まっている状態 じょうたい であったので「この道場 どうじょう は4棟 むね とも訓育 くんいく 上 じょう 絶対 ぜったい 必要 ひつよう であり、明年 みょうねん (1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん ))の75期 き の入校 にゅうこう に間 あいだ に合 あ わせて欲 ほ しい、と生徒 せいと 隊 たい から強 つよ く要請 ようせい されているのです」という旨 むね を答 こた え、何 なに とか井上 いのうえ の了解 りょうかい を得 え た。しかし、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )1月 がつ -3月に完成 かんせい した4棟 むね の大 だい 道場 どうじょう は、同年 どうねん 11月 がつ 15日 にち に第 だい 二 に 剣道 けんどう 場 じょう の風呂場 ふろば から発 はっ した火災 かさい で4棟 むね とも全焼 ぜんしょう した。小田切 おだぎり は「もし、井上 いのうえ 校長 こうちょう の着任 ちゃくにん がもう少 すこ し早 はや く、(武道 ぶどう 場 じょう の)土台 どだい 建設 けんせつ 以前 いぜん であったなら、なんとか取 と り止 や めにするか、道場 どうじょう 一 いち 対 たい (剣道 けんどう 場 じょう ・武道 ぶどう 場 じょう 一 いち 対 つい )だけにするか、生徒 せいと 隊 たい を説得 せっとく したと思 おも います。今 いま も心残 こころのこ りに思 おも えてなりません」と回想 かいそう している[ 171] 。小田切 おだぎり は、第 だい 四 よん 航空 こうくう 戦隊 せんたい の先任 せんにん 参謀 さんぼう から、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )7月 がつ に兵 へい 学校 がっこう に転 てん じ、戦中 せんちゅう の2年 ねん 7か月 げつ を兵 へい 学校 がっこう 企画 きかく 課長 かちょう として過 す ごした。戦後 せんご の井上 いのうえ をその死 し に至 いた るまで支 ささ え続 つづ け、井上 いのうえ の死後 しご も井上 いのうえ の孫 まご の丸田 まるた 研一 けんいち と交誼 こうぎ を保 たも った[ 172] 。
井上 いのうえ は主立 おもだ った教官 きょうかん 20人 にん ほどと会食 かいしょく し、井上 いのうえ が退席 たいせき した後 のち に教官 きょうかん たちが飲 の み直 なお しを始 はじ め、校長 こうちょう 官舎 かんしゃ に電話 でんわ して「校長 こうちょう も二次会 にじかい へちょっと如何 いか ですか」と誘 さそ ったが、井上 いのうえ は「そういう席 せき へ私 わたし は出 で ない」とあっさり電話 でんわ を切 き った[ 173] 。校内 こうない の雑用 ざつよう 係 がかり の「ボーイ」(国民 こくみん 学校 がっこう を卒業 そつぎょう 後 ご に上級 じょうきゅう 学校 がっこう に進 すす めなかった少年 しょうねん たちで、15-16歳 さい 程度 ていど だった)に、何 なに とか教育 きょういく の機会 きかい を与 あた えたいと考 かんが え、希望 きぼう 者 しゃ を募 つの って20人 にん くらいの班 はん を2つ作 つく り午後 ごご 3時 じ から5時 じ まで2時 じ 間 あいだ の授業 じゅぎょう を1日 にち おきに実施 じっし した。課目 かもく は、井上 いのうえ が少年 しょうねん たちに一番 いちばん 大事 だいじ と考 かんが えた数学 すうがく と英語 えいご の2科目 かもく とし、講師 こうし には兵科 へいか 予備 よび 学生 がくせい 出身 しゅっしん の武官 ぶかん 教官 きょうかん を充 あ てた。戦後 せんご に、兵 へい 学校 がっこう の元 もと ・文官 ぶんかん 教官 きょうかん は「ボーイ」達 たち が授業 じゅぎょう を受 う けている時 とき に井上 いのうえ がしばしば視察 しさつ に来 き ていたこと、終業 しゅうぎょう 式 しき で成績 せいせき 優秀 ゆうしゅう 者 しゃ に与 あた えられる英 えい 英 えい 辞典 じてん が、井上 いのうえ のポケットマネーで提供 ていきょう されていたことを語 かた っている。その元 もと ・文官 ぶんかん 教官 きょうかん は戦後 せんご に広島 ひろしま 大学 だいがく を訪 おとず れた時 とき にこの教育 きょういく を受 う けた「ボーイ」の一人 ひとり が、理科 りか 関係 かんけい の助手 じょしゅ を務 つと めているのに出会 であ った[ 174] 。
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )11月1日 にち 付 づけ で、兵科 へいか 将校 しょうこう ・機関 きかん 科 か 将校 しょうこう が「兵科 へいか 将校 しょうこう 」に統合 とうごう されて、階級 かいきゅう や服装 ふくそう の違 ちが いがなくなり、次 つ いで、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )8月 がつ に軍令 ぐんれい 承 うけたまわ 行 くだり 令 れい も改正 かいせい されて、制度 せいど 上 じょう は、兵 へい 学校 がっこう 出身 しゅっしん 者 しゃ と機関 きかん 学校 がっこう 出身 しゅっしん 者 しゃ の指揮 しき 権 けん 継承 けいしょう 順位 じゅんい についての区別 くべつ もなくなり、制度 せいど 上 じょう の統合 とうごう は完了 かんりょう した。ただし、太平洋戦争 たいへいようせんそう のさなかであり、(旧 きゅう )機関 きかん 科 か 将校 しょうこう が(旧 きゅう )兵科 へいか 将校 しょうこう の配置 はいち に就 つ くこと、その逆 ぎゃく のいずれも非 ひ 現実 げんじつ 的 てき であるため、「特例 とくれい として、戦闘 せんとう 艦艇 かんてい (軍艦 ぐんかん 、駆逐 くちく 艦 かん 、潜水 せんすい 艦 かん など)においては、従来 じゅうらい 通 どお りに、(旧 きゅう )兵科 へいか 将校 しょうこう が指揮 しき 権 けん 継承 けいしょう について優先 ゆうせん する」定 さだ めが同時 どうじ に設 もう けられた[ 175] 。
着任 ちゃくにん 前 まえ の11月初頭 しょとう 、海軍 かいぐん 省 しょう に出頭 しゅっとう し、海軍 かいぐん 大臣 だいじん ・嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう に挨拶 あいさつ した井上 いのうえ は、嶋田 しまだ に、自分 じぶん を兵学 へいがく 校長 こうちょう に選 えら んだ理由 りゆう を尋 たず ねた。嶋田 しまだ は「私 わたし は君 きみ が(兵学 へいがく 校長 こうちょう に)適任 てきにん だと思 おも っているよ。その上 うえ 、君 きみ が昭和 しょうわ 12年 ねん に約 やく 1年 ねん かかって研究 けんきゅう して結論 けつろん を出 だ した一系 いっけい 問題 もんだい を実施 じっし しようと思 おも うので、そのために君 きみ に兵 へい 学校 がっこう に行 い ってもらうことにした」と返答 へんとう した。井上 いのうえ は「解 わか りました。一系 いっけい 問題 もんだい ならば引 ひ き受 う けました。……当局 とうきょく は兵学 へいがく 校長 こうちょう を1年 ねん くらいで交代 こうたい させていますが、それでは短 みじか すぎます。私 わたし を兵学 へいがく 校長 こうちょう にする以上 いじょう は、3、4年 ねん くらいは兵学 へいがく 校長 こうちょう をやらせて下 くだ さい」という旨 むね を嶋田 しまだ に言 い った。嶋田 しまだ が「君 きみ はあと2年 ねん もすれば大将 たいしょう になる。3、4年 ねん も兵学 へいがく 校長 こうちょう をやらせる訳 わけ には行 い かない」と言 い う旨 むね を答 こた えると、井上 いのうえ は「私 わたし はべつに大将 たいしょう になどなりたいとは思 おも いません。その時 とき [ 注釈 ちゅうしゃく 26] がきたら私 わたし を中将 ちゅうじょう のまま予備 よび 役 やく に編入 へんにゅう 、即日 そくじつ 召集 しょうしゅう して(引 ひ き続 つづ き)兵学 へいがく 校長 こうちょう にして下 くだ さい」と言 い った。嶋田 しまだ は「私 わたし が大臣 だいじん の間 あいだ は兵学 へいがく 校長 こうちょう を替 か えない」と約束 やくそく し、これで井上 いのうえ もようやく納得 なっとく した[ 177] 。
井上 いのうえ は兵科 へいか 将校 しょうこう の教育 きょういく と機関 きかん 科 か 将校 しょうこう の教育 きょういく を一系 いっけい 化 か するため、兵学 へいがく 校長 こうちょう に着任 ちゃくにん して直 ただ ちに機関 きかん 学校 がっこう 出身 しゅっしん の兵 へい 学校 がっこう 教官 きょうかん を企画 きかく 課 か に配員 はいいん し、自 みずか ら指導 しどう して、一系 いっけい 化 か 教育 きょういく の実施 じっし 研究 けんきゅう を進 すす めた。具体 ぐたい 的 てき な成果 せいか としては、兵 へい 学校 がっこう で従来 じゅうらい から行 おこ なわれていた兵器 へいき 教育 きょういく の中 なか に、機関 きかん 学校 がっこう で教 おし えている機構 きこう 学 がく の内容 ないよう が取 と り入 い れられて、新 あたら しい課目 かもく 「理 り 兵学 へいがく 」(井上 いのうえ 自身 じしん の命名 めいめい )が誕生 たんじょう した。各 かく 術 じゅつ 科 か ごとに理 り 兵学 へいがく 教科書 きょうかしょ が作 つく られて教授 きょうじゅ された[ 178] 。
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )10月 がつ 1日 にち 付 づけ で、京都 きょうと 府 ふ 舞鶴 まいづる 所在 しょざい の海軍 かいぐん 機関 きかん 学校 がっこう が制度 せいど 上 じょう 廃止 はいし され、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 舞鶴 まいづる 分校 ぶんこう として再 さい 出発 しゅっぱつ した[ 179] 。海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 舞鶴 まいづる 分校 ぶんこう については「当分 とうぶん の間 あいだ 、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 舞鶴 まいづる 分校 ぶんこう に於 おい ては、従前 じゅうぜん の海軍 かいぐん 機関 きかん 学校 がっこう の教育 きょういく 綱領 こうりょう に準 じゅん じ機関 きかん 、工作 こうさく 、及 およ び整備 せいび 専修 せんしゅう 生徒 せいと の教育 きょういく を行 おこ なうべし」と定 さだ められた[ 注釈 ちゅうしゃく 27] 。
また、兵 へい 学校 がっこう は海軍 かいぐん 大臣 だいじん の定 さだ めた「海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 教育 きょういく 綱領 こうりょう 」によって運営 うんえい されており、校長 こうちょう の交替 こうたい で教育 きょういく 目的 もくてき や基本 きほん 方針 ほうしん が大 おお きく変 かわ ることはない筈 はず であったが、実際 じっさい には校長 こうちょう の裁量 さいりょう の余地 よち が認 みと められており[ 181] 、井上 いのうえ は、兵 へい 学校 がっこう に着任 ちゃくにん すると、直 ただ ちに校長 こうちょう 自 みずか らが出席 しゅっせき する「教官 きょうかん 研究 けんきゅう 会 かい 」の開催 かいさい を指示 しじ し、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )11月28日 にち に第 だい 1回 かい を実施 じっし し、以後 いご 、半年 はんとし の間 あいだ に「教官 きょうかん 研究 けんきゅう 会 かい 」で、自 みずか らの所見 しょけん を記 しる した『教育 きょういく 漫語 まんご 』(当時 とうじ の教官 きょうかん が保存 ほぞん しており、「其ノ1」から「其ノ3」まである)というプリントを使 つか って「教官 きょうかん 教育 きょういく 」を行 おこな った。また、井上 いのうえ は、前線 ぜんせん 帰 がえ りの武官 ぶかん 教官 きょうかん が生徒 せいと に直接 ちょくせつ に実戦 じっせん 談 だん をすることは禁 きん じたが、教官 きょうかん 研究 けんきゅう 会 かい で、教官 きょうかん たちに対 たい して戦況 せんきょう 報告 ほうこく をさせた。井上 いのうえ 自身 じしん も、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 長官 ちょうかん として珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん を指揮 しき した時 とき のことを「教官 きょうかん 研究 けんきゅう 会 かい 」で話 はな した。井上 いのうえ の率直 そっちょく で謙虚 けんきょ な「珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん 報告 ほうこく 」は、教官 きょうかん たちに大 おお きな感銘 かんめい を与 あた えた[ 182] 。
井上 いのうえ は、訓育 くんいく を担当 たんとう する監事 かんじ (武官 ぶかん 教官 きょうかん )に比叡 ひえい 艦長 かんちょう 時代 じだい に作成 さくせい した「勅 みことのり 諭 さとし 衍義」を配布 はいふ して、監事 かんじ たちの思想 しそう 統一 とういつ を図 はか った。次 つ いで、兵学 へいがく 校内 こうない の教育 きょういく 参考 さんこう 館 かん に掲 かか げてあった全 ぜん 海軍 かいぐん 大将 たいしょう の額 がく を撤去 てっきょ した。驚 おどろ いた副官 ふっかん に、井上 いのうえ は「生徒 せいと たちの目標 もくひょう は東郷 とうごう 元帥 げんすい だけで充分 じゅうぶん 。他 た の大将 たいしょう の額 がく を掲 かか げるのは、生徒 せいと に出世 しゅっせ 主義 しゅぎ を示唆 しさ するもの」と言 い う旨 むね を答 こた えた。井上 いのうえ は「まず参考 さんこう 館 かん に入 はい ってみると、海軍 かいぐん 大将 たいしょう の額 がく がずらりと並 なら んでいる。その大 だい 部分 ぶぶん の人 ひと は長 なが い間 あいだ 海軍 かいぐん に御 ご 奉公 ほうこう した人 ひと たちで、その功績 こうせき は大 おお きい。しかし、中 なか には海軍 かいぐん のためにならないことをやった人 ひと もいるし、また、先 さき が見 み えなくて日本 にっぽん を対 たい 米 べい 戦争 せんそう に突入 とつにゅう させてしまった、私 わたし が国賊 こくぞく と呼 よ びたいような人 ひと もいる。こんな人 じん たちを生徒 せいと に尊敬 そんけい せよ、とは私 わたし には到底 とうてい 言 い えないし、また、そんな人 ひと たちの写真 しゃしん を参考 さんこう 館 かん に飾 かざ っておくことは、館内 かんない に同居 どうきょ している真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき の特殊 とくしゅ 潜航 せんこう 艇 てい で戦死 せんし した若 わか い軍人 ぐんじん 方 かた にも相 あい 済 す まぬと思 おも ったからである」と回想 かいそう する[ 183] 。井上 いのうえ が着任 ちゃくにん する前 まえ から、海軍 かいぐん 省 しょう 教育 きょういく 局 きょく が、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 教授 きょうじゅ ・平泉 ひらいずみ 澄 きよし を、兵 へい 学校 がっこう に度々 どど 派遣 はけん し、教官 きょうかん や生徒 せいと に皇国 こうこく 史観 しかん に基 もと づく講話 こうわ をさせていた。井上 いのうえ は、平泉 ひらいずみ の生徒 せいと への講話 こうわ を廃 はい し、「教育 きょういく 研究 けんきゅう 会 かい 」での教官 きょうかん への講話 こうわ に限定 げんてい した。また、井上 いのうえ 自身 じしん も平泉 ひらいずみ の「教育 きょういく 研究 けんきゅう 会 かい 」での講話 こうわ を聞 き き、不適切 ふてきせつ と思 おも われる内容 ないよう があった場合 ばあい は、講話 こうわ の後 のち で教官 きょうかん たちに指摘 してき して注意 ちゅうい 喚起 かんき した[ 184] 。
兵 へい 学校 がっこう のある期 き について、兵 へい 学校 がっこう 卒業 そつぎょう 席次 せきじ と最終 さいしゅう 到達 とうたつ 階級 かいきゅう との関連 かんれん を数学 すうがく 的 てき に分析 ぶんせき して、教育 きょういく 参考 さんこう 資料 しりょう として兵 へい 学校 がっこう 教官 きょうかん たちに示 しめ した[ 185] 。
兵 へい 学校 がっこう 教官 きょうかん は、休日 きゅうじつ には担当 たんとう する分隊 ぶんたい の生徒 せいと を官舎 かんしゃ に呼 よ んで妻 つま の手料理 てりょうり を振 ふ る舞 ま う慣習 かんしゅう があった。戦争 せんそう が激化 げきか して物資 ぶっし が不足 ふそく しているのに、実験 じっけん 的 てき に2つの分隊 ぶんたい を担当 たんとう させられた教官 きょうかん がおり、2倍 ばい の生徒 せいと に手料理 てりょうり を食 た べさせるために出費 しゅっぴ が嵩 かさ み、かつ娘 むすめ が栄養失調 えいようしっちょう で入院 にゅういん してしまい、家計 かけい のやりくりがつかなくなった。これを知 し った井上 いのうえ は、その教官 きょうかん 宅 たく に校長 こうちょう 命令 めいれい で粉 こな ミルクやパンなどを特別 とくべつ 配給 はいきゅう させて深 ふか く感謝 かんしゃ された[ 186] 。
井上 いのうえ の兵学 へいがく 校長 こうちょう 着任 ちゃくにん 時 じ に在校 ざいこう していたのは、71期 き (卒業 そつぎょう 時 じ 581名 めい )・72期 き (卒業 そつぎょう 時 じ 625名 めい )・73期 き (卒業 そつぎょう 時 じ 902名 めい )の3クラスだった。着任 ちゃくにん 直後 ちょくご の11月14日 にち に71期 き が卒業 そつぎょう し、12月1日 にち には74期 き (卒業 そつぎょう 時 じ 1,024名 めい )が入校 にゅうこう した[ 187] 。この時点 じてん で、兵 へい 学校 がっこう 生徒 せいと は2,500名 めい を超 こ えた。元来 がんらい 、兵 へい 学校 がっこう の施設 しせつ は、生徒 せいと 1,000名 めい 程度 ていど をゆったり収容 しゅうよう できるように作 つく られていたが[ 188] 、生徒 せいと が「適正 てきせい 人数 にんずう 」の3倍 ばい 近 ちか くなっているため、生徒 せいと の収容 しゅうよう が物理 ぶつり 的 てき に困難 こんなん なだけでなく、「島 しま 」に立地 りっち するゆえに飲料 いんりょう 水 すい が不足 ふそく して、宇品 うじな 港 こう から、毎日 まいにち 、飲料 いんりょう 水 すい を船 ふね で運 はこ んでいた。海軍 かいぐん 中央 ちゅうおう では、千葉 ちば 県 けん の館山 たてやま 付近 ふきん への兵 へい 学校 がっこう 移転 いてん を検討 けんとう したこともあった。しかし、海軍 かいぐん 中央 ちゅうおう と兵 へい 学校 がっこう 当局 とうきょく は、兵 へい 学校 がっこう を江田島 えたじま に止 と めて規模 きぼ を拡張 かくちょう することを1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )中 ちゅう に決定 けってい し、井上 いのうえ が着任 ちゃくにん した1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )11月には、拡張 かくちょう 計画 けいかく の一部 いちぶ は着工 ちゃっこう 済 ずみ 、細部 さいぶ の計画 けいかく や大 だい 部分 ぶぶん の工事 こうじ はこれから、という段階 だんかい であった。井上 いのうえ は工事 こうじ 計画 けいかく の説明 せつめい を受 う けると様々 さまざま な問題 もんだい 点 てん を見出 みいだ し、工事 こうじ 計画 けいかく の基本 きほん 構想 こうそう まで遡 さかのぼ って部下 ぶか に再 さい 検討 けんとう を求 もと め、再 さい 検討 けんとう の結果 けっか について直 ただ ちに査閲 さえつ した上 うえ で決裁 けっさい し、その後 ご は関係 かんけい 者 しゃ に全 すべ てを任 まか せ、指示 しじ を求 もと められない限 かぎ り口 くち を出 だ さなかった。井上 いのうえ の適切 てきせつ な指揮 しき で、兵 へい 学校 がっこう の拡張 かくちょう 工事 こうじ は大幅 おおはば に促進 そくしん される結果 けっか となった。江田島 えたじま の水不足 みずぶそく 対策 たいさく としては、当初 とうしょ 計画 けいかく が「江田島 えたじま の中 なか に水源 すいげん 地 ち は1か所 しょ だが、もう1か所 しょ 増設 ぞうせつ する」という内容 ないよう だったのを、井上 いのうえ は「呉 ご から水道 すいどう 管 かん を海底 かいてい に敷設 ふせつ して給水 きゅうすい を受 う ける」方法 ほうほう の検討 けんとう を指示 しじ したが、技術 ぎじゅつ 的 てき ・時間 じかん 的 てき に困難 こんなん で実現 じつげん しなかった[ 189] 。
教育 きょういく 年限 ねんげん 短縮 たんしゅく 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )5月 がつ に、同年 どうねん 12月 がつ に入校 にゅうこう する75期 き の採用 さいよう 数 すう が3,500名 めい と決 き まり、その受 う け入 い れのため、山口 やまぐち 県 けん ・岩国 いわくに 海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい に教育 きょういく 施設 しせつ を増 ふえ 改築 かいちく して、11月19日 にち に「海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 岩国 いわくに 分校 ぶんこう 」として開校 かいこう させ、75期 き の入校 にゅうこう に間 あいだ に合 あ わせた。76期 き (1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )10月 がつ 9日 にち 入校 にゅうこう [ 190] )以降 いこう の受 う け入 い れのための「海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 大原 おおはら 分校 ぶんこう 」(1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )10月 がつ 1日 にち 開校 かいこう 、江田島 えたじま 本校 ほんこう 近 ちか く)、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )4月 がつ 入校 にゅうこう の78期 き [ 注釈 ちゅうしゃく 28] のために長崎 ながさき 県 けん ・佐世保 させぼ 軍港 ぐんこう 近 ちか くの針尾 はりお 海兵 かいへい 団 だん の施設 しせつ を改築 かいちく して1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )3月 がつ 1日 にち に開校 かいこう した「海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 針尾 はりお 分校 ぶんこう 」、いずれも、井上 いのうえ が校長 こうちょう 在任 ざいにん 中 ちゅう に建設 けんせつ を進 すす め、開校 かいこう にこぎつけたものである[ 179] 。
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )12月1日 にち 、75期 き の3,500名 めい は、兵 へい 学校 がっこう 史上 しじょう 空前 くうぜん の人数 にんずう で、採用 さいよう 試験 しけん 、選考 せんこう 、受 う け入 い れには多 おお くの困難 こんなん があった。75期 き の志願 しがん 者 しゃ は5万 まん 名 めい に達 たっ し、全国 ぜんこく 各地 かくち の試験場 しけんじょう での身体 しんたい 検査 けんさ でまず35%を落 おと し、残 のこ る65%から学術 がくじゅつ 試験 しけん でさらに70%を落 おと し、採用 さいよう 候補者 こうほしゃ は約 やく 20%の9,700余 よ 名 めい [ 192] に絞 しぼ り込 こ まれ、その中 なか で、兵 へい 学校 がっこう 当局 とうきょく 者 しゃ が選考 せんこう して入校 にゅうこう を許可 きょか した75期 き の3,500名 めい は「全国 ぜんこく の中学校 ちゅうがっこう から、身体 しんたい ・学術 がくじゅつ 共 ども に最優秀 さいゆうしゅう の若者 わかもの の大半 たいはん を江田島 えたじま に集 あつ めた」ものだったが、戦争 せんそう の激化 げきか により、中学生 ちゅうがくせい の学力 がくりょく は、主 おも に「教員 きょういん の応召 おうしょう による不足 ふそく 」と「勤労 きんろう 作業 さぎょう による授業 じゅぎょう 時間 じかん の減少 げんしょう 」によって戦前 せんぜん より一般 いっぱん に低下 ていか しており、さらに学術 がくじゅつ 軽視 けいし の風潮 ふうちょう もあり、特 とく に理数 りすう 科 か の学力 がくりょく 低下 ていか が甚 はなは だしかった。井上 いのうえ は75期 き の入校 にゅうこう 直後 ちょくご に理数 りすう 科 か について全員 ぜんいん の実力 じつりょく 査定 さてい を行 おこな い、成績 せいせき 不良 ふりょう 者 しゃ には特別 とくべつ 教育 きょういく を行 おこな って「落伍 らくご 者 しゃ (退校 たいこう 者 しゃ )を出 だ すな」という自身 じしん の教育 きょういく 方針 ほうしん を実践 じっせん した[ 193] 。
海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく は、75期 き の大量 たいりょう 採用 さいよう を決定 けってい する一方 いっぽう で士官 しかん 搭乗 とうじょう 員 いん の急速 きゅうそく 養成 ようせい 策 さく を検討 けんとう していた。軍務 ぐんむ 局 きょく は兵 へい 学校 がっこう の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を短縮 たんしゅく し、早期 そうき に飛行 ひこう 教育 きょういく に移行 いこう させようと考 かんが えていた。井上 いのうえ が兵学 へいがく 校長 こうちょう に着任 ちゃくにん した直後 ちょくご の1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )11月14日 にち に卒業 そつぎょう した71期 き までは3年 ねん の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を確保 かくほ していたが、72期 き については、軍務 ぐんむ 局 きょく と兵 へい 学校 がっこう 当局 とうきょく が協議 きょうぎ して、修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を2か月 げつ 短縮 たんしゅく して2年 ねん 10か月 げつ とし、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )9月 がつ に卒業 そつぎょう させた[ 194] 。軍務 ぐんむ 局 きょく は兵 へい 学校 がっこう のさらなる修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん 短縮 たんしゅく を検討 けんとう し、73期 き は修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を2年 ねん 6か月 げつ として1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )6月 がつ に、74期 き は2年 ねん として同年 どうねん 11月 がつ にそれぞれ卒業 そつぎょう させる案 あん を、兵 へい 学校 がっこう を所管 しょかん する海軍 かいぐん 省 しょう 教育 きょういく 局 きょく に提示 ていじ した。だが、海軍 かいぐん 省 しょう 教育 きょういく 局長 きょくちょう は井上 いのうえ が第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 長官 ちょうかん だった時 とき に参謀 さんぼう 長 ちょう を務 つと めた矢野 やの 志 こころざし 加 か 三 さん 少将 しょうしょう であり、兵学 へいがく 校長 こうちょう の井上 いのうえ と直 じか に連絡 れんらく を取 と りながら兵 へい 学校 がっこう の教育 きょういく 年限 ねんげん 短縮 たんしゅく に強硬 きょうこう に反対 はんたい し続 つづ けた[ 195] 。
矢野 やの は井上 いのうえ の意見 いけん を反映 はんえい させて「兵 へい 学校 がっこう を卒業 そつぎょう した兵科 へいか 将校 しょうこう は、直 ただ ちに海軍 かいぐん 中堅 ちゅうけん 幹部 かんぶ として指揮 しき 権 けん を行使 こうし するため、充分 じゅうぶん な基礎 きそ 的 てき 教養 きょうよう が必要 ひつよう 。航空 こうくう 将校 しょうこう であっても、航空 こうくう 専 せん 門 もん の技能 ぎのう だけでなく、海軍 かいぐん 全般 ぜんぱん についての基礎 きそ 知識 ちしき 、部下 ぶか を指揮 しき 統率 とうそつ するための識量を兵 へい 学校 がっこう で学 まな ぶべきなのは同 おな じ。本来 ほんらい 、このためには4年 ねん の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん が必要 ひつよう だが、今 いま では3年 ねん に短縮 たんしゅく されている。いかに兵 へい 学校 がっこう 当局 とうきょく が工夫 くふう を凝 こ らしても、3年 ねん でも不十分 ふじゅうぶん なのが現状 げんじょう であるのに、さらに修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を短縮 たんしゅく されては、粗製 そせい 濫造 らんぞう の兵科 へいか 将校 しょうこう ばかりになってしまう。中学生 ちゅうがくせい の学力 がくりょく ・体力 たいりょく の低下 ていか が見 み られることも重視 じゅうし すべき。兵 へい 学校 がっこう の3年 ねん の教育 きょういく 年限 ねんげん をこれ以上 いじょう 短縮 たんしゅく しないことで、士官 しかん 搭乗 とうじょう 員 いん の量的 りょうてき 要求 ようきゅう に応 こた えられなくなったとしても、海軍 かいぐん 幹部 かんぶ の中心 ちゅうしん を確固 かっこ たらしめるためには甘受 かんじゅ すべきと考 かんが える。[ 196] [ 注釈 ちゅうしゃく 29] 」という意見 いけん 書 しょ を1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )4月 がつ 15日 にち (推定 すいてい )に提出 ていしゅつ した。この日 ひ 、矢野 やの は井上 いのうえ に直接 ちょくせつ 電話 でんわ し「明日 あした 、16日 にち 午前 ごぜん の戦備 せんび 打 う ち合 あ わせ会 かい で、軍務 ぐんむ 局 きょく の提案 ていあん 通 どお りに73期 き ・74期 き の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん 短縮 たんしゅく が決定 けってい される見通 みとお しである。私 わたし (矢野 やの )独 ひと り反対 はんたい しても、押 お し切 き られそうな情勢 じょうせい である」と伝 つた えた」矢野 やの からの電話 でんわ 連絡 れんらく を受 う けた井上 いのうえ は、即座 そくざ に、自 みずか ら「これ以上 いじょう に年限 ねんげん を短縮 たんしゅく されては、兵学 へいがく 校長 こうちょう として生徒 せいと 教育 きょういく に自信 じしん が持 も てない」旨 むね の電文 でんぶん を自 みずか ら書 か き、海軍 かいぐん 次官 じかん の沢本 さわもと 頼 よりゆき 雄 お 宛 あて に発信 はっしん するよう副官 ふっかん に命 めい じ、加 くわ えて「電報 でんぽう を打 う つと同時 どうじ に海軍 かいぐん 省 しょう 副官 ふっかん に対 たい し『この校長 こうちょう からの電報 でんぽう は、明日 あした の戦備 せんび 打 う ち合 あ わせ会 かい の開会 かいかい 前 まえ に必 かなら ず沢本 さわもと 次官 じかん に見 み てもらうよう取 と り計 はか らってくれ』と電話 でんわ をかけること」を指示 しじ した[ 197] 。
矢野 やの と井上 いのうえ の努力 どりょく により、4月 がつ 16日 にち の戦備 せんび 打 う ち合 あ わせ会 かい では軍務 ぐんむ 局 きょく の年限 ねんげん 短縮 たんしゅく 案 あん は決定 けってい に至 いた らなかった[ 197] 。その後 ご 、中央 ちゅうおう から井上 いのうえ への説得 せっとく がしきりに行 おこな われ、軍令 ぐんれい 部 ぶ や航空 こうくう 本部 ほんぶ の中堅 ちゅうけん が大挙 たいきょ して江田島 えだじま に押 お しかけたこともあったが、井上 いのうえ の態度 たいど は変 かわ らなかった[ 198] 。しかし、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )11月のろ号 ごう 作戦 さくせん やギルバート諸島 しょとう 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん での海軍 かいぐん 航空 こうくう 隊 たい の甚大 じんだい な被害 ひがい により、海軍 かいぐん 大臣 だいじん ・嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう が、73期 き の教育 きょういく 年限 ねんげん を8か月 げつ 短縮 たんしゅく して2年 ねん 4か月 げつ に短縮 たんしゅく して、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )3月 がつ に卒業 そつぎょう させるよう発令 はつれい した。井上 いのうえ も、直属 ちょくぞく 上司 じょうし である嶋田 しまだ の決定 けってい には従 したが わざるを得 え ず、73期 き に対 たい しては、夜間 やかん 授業 じゅぎょう まで含 ふく む「終末 しゅうまつ 教程 きょうてい 」を作成 さくせい して、少 すこ しでも多 おお くのことを学 まな ばせた[ 注釈 ちゅうしゃく 30] 。
一方 いっぽう で、海軍 かいぐん 中央 ちゅうおう では74期 き ・75期 き の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん をかねての軍務 ぐんむ 局 きょく 案 あん のように2年 ねん 程度 ていど に短縮 たんしゅく しようとしていた。1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )3月 がつ 22日 にち の73期 き の卒業 そつぎょう 式 しき には、天皇 てんのう の名代 なだい として、大佐 たいさ で軍令 ぐんれい 部員 ぶいん だった高松宮 たかまつのみや 宣仁 のぶひと 親王 しんのう が臨席 りんせき した。卒業 そつぎょう 式 しき の後 のち 、高松宮 たかまつのみや は井上 いのうえ に「教育 きょういく 年限 ねんげん をもっと短縮 たんしゅく できないか」と下問 かもん し、井上 いのうえ が「その御 ご 下問 かもん は、宮 みや 様 さま としてでございますか。それとも軍令 ぐんれい 部員 ぶいん としてでございますか」と反問 はんもん すると宮 みや は「むろん後者 こうしゃ である」と答 こた えた。井上 いのうえ は「お言葉 ことば ですが、これ以上 いじょう 短 みじか くすることは御免 ごめん こうむります」と答 こた え、高松宮 たかまつのみや に生徒 せいと 教育 きょういく について日頃 ひごろ 考 かんが えていることを説明 せつめい した。井上 いのうえ は「宮 みや 様 さま は 『そうか、そうか』 とうなずいておられました。年限 ねんげん 短縮 たんしゅく の問題 もんだい は宮 みや 様 さま ご自身 じしん のお考 かんが えではなく、軍令 ぐんれい 部 ぶ あたりの者 もの が宮 みや 様 さま に頼 たの んで、頑固 がんこ な井上 いのうえ を動 うご かそうとしたのでしょう。その人 ひと たちは『前線 ぜんせん で士官 しかん が不足 ふそく して困 こま っているときに…』と、私 わたし が卒業 そつぎょう を早 はや めることに反対 はんたい するのを怒 おこ っていたようです。私 わたし を私 わたし かに国賊 こくぞく だなどという者 もの がいたのもその頃 ころ だった」と回想 かいそう する[ 199] 。
5月19日 にち 、永野 ながの 修身 しゅうしん 元帥 げんすい が兵 へい 学校 がっこう を視察 しさつ した。永野 ながの は井上 いのうえ に「修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん 短縮 たんしゅく 」を切 き り出 だ したが、井上 いのうえ は「青田 あおた を刈 か ったって米 べい はとれません」とはっきり断 ことわ った[ 200] 。
この頃 ころ 、海軍 かいぐん 省 しょう 教育 きょういく 局 きょく と兵 へい 学校 がっこう 企画 きかく 課 か との間 あいだ で交渉 こうしょう を重 かさ ねた結果 けっか 、下記 かき のような結論 けつろん が出 で た。74期 き の就業 しゅうぎょう 期間 きかん は73期 き と同 おな じく2年 ねん 4か月 げつ とし、これ以上 いじょう の短縮 たんしゅく はしない。その代 か わり、74期 き 以降 いこう は在校 ざいこう 中 ちゅう から航空 こうくう 班 はん と艦船 かんせん 班 はん に分 わ け、適当 てきとう な時期 じき から軍事 ぐんじ 学 がく についての教育 きょういく を分離 ぶんり する。航空 こうくう 班 はん の生徒 せいと については、霞ヶ浦 かすみがうら 練習 れんしゅう 航空 こうくう 隊 たい における飛行 ひこう 学生 がくせい 基礎 きそ 教程 きょうてい の一部 いちぶ を、生徒 せいと 時代 じだい から繰 く り上 あ げて実施 じっし する。この案 あん は、長期 ちょうき 的 てき に見 み ると、兵科 へいか 将校 しょうこう の養成 ようせい 上 じょう 、多少 たしょう の歪 ゆが みをもたらすことになるが、戦時 せんじ 下 か の特別 とくべつ 措置 そち として止 や むを得 え ないとし、井上 いのうえ も、「年限 ねんげん 短縮 たんしゅく 」にブレーキがかかったので同意 どうい した。しかし、軍令 ぐんれい 部 ぶ などでは一層 いっそう の兵 へい 学校 がっこう の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん 短縮 たんしゅく を求 もと める意見 いけん が強 つよ かった[ 201] 。井上 いのうえ が、兵 へい 学校 がっこう の教育 きょういく 年限 ねんげん 短縮 たんしゅく 問題 もんだい で一部 いちぶ の者 もの から国賊 こくぞく 呼 よ ばわりされていた頃 ころ 、鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 大将 たいしょう が兵 へい 学校 がっこう を訪 おとず れた。鈴木 すずき は、井上 いのうえ が兵 へい 学校 がっこう 卒業 そつぎょう 後 ご の遠洋 えんよう 航海 こうかい で乗組 のりく んだ巡洋艦 じゅんようかん 「宗谷 そうや 」の艦長 かんちょう だった。校長 こうちょう 室 しつ で鈴木 すずき が「教育 きょういく の成果 せいか が現 あらわ れるのは20年 ねん さきだよ、井上 いのうえ 君 くん 」と言 い うと、井上 いのうえ は大 おお きく頷 うなず いた。その後 ご 、二人 ふたり は暫 しばら く黙 だま って向 む かい合 あ っていた[ 202] 。
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )に入 はい ると、「戦勝 せんしょう の見込 みこ みがつくまで、兵 へい 学校 がっこう を術 じゅつ 科 か 学校 がっこう 化 か して、すぐに役立 やくだ つ初級 しょきゅう 士官 しかん を養成 ようせい すべし」とする意見 いけん が、海軍 かいぐん 中央 ちゅうおう はもとより、兵 へい 学校 がっこう 武官 ぶかん 教官 きょうかん の多数 たすう から発 はっ せられるようになっていた。兵 へい 学校 がっこう 武官 ぶかん 教官 きょうかん の中 なか には、職 しょく を賭 と しても兵 へい 学校 がっこう の教育 きょういく 理念 りねん (普通 ふつう 学 がく 重視 じゅうし )と修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を守 まも ろうとする井上 いのうえ の態度 たいど を奇異 きい に感 かん じていた者 もの もいた。中央 ちゅうおう の一部 いちぶ の者 もの から井上 いのうえ が国賊 こくぞく 呼 よ ばわりされるのも止 や むを得 え ない時代 じだい であった[ 203] 。井上 いのうえ は「もうその頃 ころ になると、戦争 せんそう の将来 しょうらい がどうなるかははっきり見通 みとお しがついていました。仮 かり に戦争 せんそう に勝 か ったとしても、戦後 せんご 海軍 かいぐん に残 のこ るのは一部 いちぶ の者 もの だけで、相当 そうとう 数 すう は社会 しゃかい に出 で て働 はたら かなければならない。まして敗戦 はいせん の場合 ばあい はなおさらです。生徒 せいと に対 たい し、どうしてもまとまった教育 きょういく をしておくのは今 いま の時期 じき しかないと思 おも ったのです。今 いま やっておかずに、卒業 そつぎょう 後 ご に自分 じぶん でやるといっても実際 じっさい はできるものではない。まして戦時 せんじ 中 ちゅう はなおさらのことです。戦争 せんそう だからいって早 はや く卒業 そつぎょう させ、未熟 みじゅく のまま前線 ぜんせん に出 だ して戦死 せんし させるよりも、立派 りっぱ に基礎 きそ 教育 きょういく を今 いま のうちに行 おこ ない、戦後 せんご の復興 ふっこう に役立 やくだ たせたいというのが私 わたし の真意 しんい でした。しかし、当時 とうじ 敗戦 はいせん の場合 ばあい のことなど口 くち に出 だ して言 い えるものではありませんでしたし、また言 い うべきことでもありません」と回想 かいそう する[ 204] 。
戦後 せんご 、井上 いのうえ は兵 へい 学校 がっこう の話 はなし となると必 かなら ず75期 き に言及 げんきゅう した[ 205] 。75期 き は兵 へい 学校 がっこう に入 はい って1年 ねん 8か月 げつ で生徒 せいと のまま敗戦 はいせん を迎 むか え、戦後 せんご 社会 しゃかい の各 かく 分野 ぶんや に散 ち らばった。下記 かき は、井上 いのうえ が、75期 き のクラス会 かい に1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )12月に送 おく ったメッセージの一部 いちぶ である。「諸君 しょくん は昭和 しょうわ 20年 ねん 8月 がつ 、帝国 ていこく 海軍 かいぐん の滅亡 めつぼう と共 とも に、誠 まこと に無情 むじょう な世 よ の中 なか に放 ほう り出 だ されて、その日 ひ から、食 た べることから、寝 ね ることまで、自分 じぶん で何 なに とかしなければならなかった人 ひと もあり、会 あ いたい近親 きんしん の消息 しょうそく も知 し れなかった人 ひと もあったことでしょう。また、家族 かぞく 的 てき に恵 めぐ まれた人 ひと でも、大学 だいがく を受験 じゅけん すれば1割 わり までしか入学 にゅうがく を許 ゆる せぬとの差別 さべつ 扱 あつか いや[ 注釈 ちゅうしゃく 31] 、世 よ の中 なか から冷 ひや やかな目 め で見 み られる等 とう 、悔 くや しい目 め に遭 あ った様 よう でしたが、これらの不遇 ふぐう を見事 みごと に克服 こくふく し、今日 きょう では「吾 われ ここに在 あ り」と胸 むね をたたいて、堂堂 どうどう と立派 りっぱ な社会 しゃかい 活動 かつどう をやっており、世人 せじん の高 たか い評価 ひょうか を受 う けております。この2、3年 ねん の海軍 かいぐん ブーム!! これを招来 しょうらい したのは諸君 しょくん !吾 わ が教 おし え子 ご でなくてほかに誰 だれ がありますか!! 吾 わ が教 おし え子 ご よ、春秋 しゅんじゅう に富 と む諸君 しょくん よ、今後 こんご も、健康 けんこう で、現在 げんざい の堂堂 どうどう たる態度 たいど で、社会 しゃかい に貢献 こうけん して世 よ の後進 こうしん を導 みちび き、海軍 かいぐん 精神 せいしん を後世 こうせい に残 のこ したまえ」[ 206] 。
兵 へい 学校 がっこう の武官 ぶかん 教官 きょうかん で、兵 へい 75期 き 生徒 せいと 採用 さいよう 委員 いいん の一人 ひとり であった前田 まえだ 一郎 いちろう 少佐 しょうさ (兵 へい 57期 き 、のち中佐 ちゅうさ )が、地方 ちほう の兵 へい 学校 がっこう 採用 さいよう 試験 しけん 会場 かいじょう で、「脚 あし に軽 かる い障害 しょうがい があるが、現地 げんち での身体 しんたい 検査 けんさ では合格 ごうかく した。筆記 ひっき 試験 しけん の成績 せいせき は優秀 ゆうしゅう で、前田 まえだ の観察 かんさつ では人格 じんかく も優秀 ゆうしゅう 」な受験生 じゅけんせい が、「入校 にゅうこう 予定 よてい 者 しゃ 」として江田島 えたじま に来 き た。脚 あし の障害 しょうがい を見 み て取 と った前田 まえだ の上官 じょうかん (生徒 せいと 隊 たい 監事 かんじ )が「あの入校 にゅうこう 予定 よてい 者 しゃ は不 ふ 合格 ごうかく 。直 ただ ちにその旨 むね い渡 いわた せ」と言 い った。前田 まえだ 自身 じしん 、脚 あし に障害 しょうがい のあるその入校 にゅうこう 予定 よてい 者 しゃ が、兵 へい 学校 がっこう の厳 きび しい訓練 くんれん に耐 た えられないと生徒 せいと 隊 たい 監事 かんじ が判断 はんだん するのは理解 りかい できた。前田 まえだ の躊躇 ちゅうちょ を見 み て取 と った生徒 せいと 隊 たい 監事 かんじ は「兵 へい 学校 がっこう 練兵 れんぺい 場 じょう のトラックを、他 た の予定 よてい 者 しゃ と、あの予定 よてい 者 しゃ と一緒 いっしょ に全力 ぜんりょく 疾走 しっそう させるんだ。一番 いちばん ビリ、しかもずうっと遅 おく れたら、自分 じぶん で納得 なっとく するよ」と前田 まえだ に指示 しじ した。400メートル全力 ぜんりょく 疾走 しっそう の結果 けっか は、生徒 せいと 隊 たい 監事 かんじ の予想 よそう 通 どお りで、前田 まえだ もほっとした。だが、ゴールにようやくたどり着 つ いた入校 にゅうこう 予定 よてい 者 しゃ は「教官 きょうかん 、私 わたし をこの兵 へい 学校 がっこう で鍛 きた えて下 くだ さい。私 わたし は、あの人 ひと たちに負 ま けない生徒 せいと になってみせる自信 じしん があります」と、生徒 せいと 隊 たい 監事 かんじ と前田 まえだ が全 まった く予想 よそう しないことを言 い った。当惑 とうわく した前田 まえだ を、一部始終 いちぶしじゅう を遠 とお くから見 み ていた井上 いのうえ が呼 よ んだ。井上 いのうえ は、前田 まえだ に「あの生徒 せいと はどんな人物 じんぶつ か」と聞 き き、前田 まえだ が「実 じつ に立派 りっぱ な人物 じんぶつ です」と答 こた えると、無造作 むぞうさ に「海軍 かいぐん 生徒 せいと になってから事故 じこ で怪我 けが をしたと思 おも えばいい。将来 しょうらい は航空 こうくう 関係 かんけい の技術 ぎじゅつ 士官 しかん に向 む ける道 みち もあろう」と言 い った。井上 いのうえ の決断 けつだん で兵 へい 75期 き の一員 いちいん として兵 へい 学校 がっこう に入校 にゅうこう し、敗戦 はいせん までの1年 ねん 8か月 げつ を無事 ぶじ に過 す ごしたこの生徒 せいと は、某 ぼう 国立 こくりつ 大学 だいがく で宇宙 うちゅう 航空 こうくう 研究所 けんきゅうじょ の教授 きょうじゅ となっている(1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )現在 げんざい )[ 207] 。後 ご の資料 しりょう [ 208] から、この生徒 せいと [1] は砂川 すなかわ 恵 めぐみ 東京 とうきょう 大学 だいがく 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ である事 こと が確認 かくにん されている。
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )7月 がつ 上旬 じょうじゅん 、サイパン失陥 しっかん により東條 とうじょう 内閣 ないかく は崩壊 ほうかい し、小磯 こいそ 国昭 くにあき ・米内 よない 光政 みつまさ の両 りょう 名 な に組閣 そかく の大命 たいめい が下 くだ り、7月 がつ 22日 にち 付 づけ で小磯 こいそ 内閣 ないかく が発足 ほっそく した[ 204] 。予備 よび 役 やく の大将 たいしょう だった米 べい 内 ない は特旨 とくし をもって現役 げんえき に復帰 ふっき し、副 ふく 総理 そうり 格 かく で海軍 かいぐん 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した。
7月 がつ 28日 にち 、井上 いのうえ は米 べい 内 ない の要請 ようせい を受 う けて、米 べい 内 ない が宿泊 しゅくはく する京都 きょうと の都 と ホテルを訪 たず ねた。米 べい 内 ない に海軍 かいぐん 次官 じかん 就任 しゅうにん を懇請 こんせい され、何 なん 度 ど かのやりとりの挙句 あげく 米 べい 内 ない に押 お し切 き られ、井上 いのうえ は「政治 せいじ のことは知 し らん顔 かお していいのなら、やります。部内 ぶない に号令 ごうれい することなら、必 かなら ず立派 りっぱ にやります。御 ご 心配 しんぱい かけません」と、次官 じかん 就任 しゅうにん を受諾 じゅだく した[ 209] 。井上 いのうえ はこの時 とき のことを「自分 じぶん の貫禄 かんろく 負 ま けだった」と述懐 じゅっかい している。同時 どうじ に、米 べい 内 ない と井上 いのうえ は軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう の人事 じんじ について相談 そうだん した。米 べい 内 ない は、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう の嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう 大将 たいしょう を更迭 こうてつ することは決 き めていたが、米 べい 内 ない をバックアップしていた海軍 かいぐん 出身 しゅっしん の重臣 じゅうしん である岡田 おかだ 啓介 けいすけ 大将 たいしょう が「海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない の信望 しんぼう が米 べい 内 ない に劣 おと らない末次 すえつぐ 信正 のぶまさ 大将 たいしょう を、米 べい 内 ない 同様 どうよう に特旨 とくし をもって現役 げんえき 復帰 ふっき させ、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう とする」構想 こうそう を持 も っていることには反対 はんたい であった。井上 いのうえ の口 くち から「末次 すえつぐ 」の名 な は一切 いっさい 出 で ず、及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう 大将 たいしょう を総長 そうちょう とすることがすんなり決 き まった[ 210] 。
8月 がつ 5日 にち 、井上 いのうえ は海軍 かいぐん 次官 じかん に任命 にんめい された[ 211] 。中将 ちゅうじょう 進級 しんきゅう 6年 ねん 目 め の井上 いのうえ は次官 じかん 就任 しゅうにん に際 さい して「特 とく に親任 しんにん 官 かん の待遇 たいぐう を賜 たま う」という辞令 じれい を受 う けていた[ 212] [ 213] 。兵 へい 学校 がっこう 教官 きょうかん たちに対 たい する退任 たいにん 挨拶 あいさつ で「私 わたし は過去 かこ 1年 ねん 9か月 げつ 、兵学 へいがく 校長 こうちょう の職務 しょくむ を行 おこな ってきたが、離職 りしょく に当 あ たって誰 だれ しもが言 い うような、大過 たいか なく職務 しょくむ を果 は たすことができた、などとは言 い わない。私 わたし のやったことが良 よ かったか、悪 わる かったか。それは後世 こうせい の歴史 れきし がそれを審判 しんぱん するであろう」と話 はな した[ 214] 。次官 じかん に就任 しゅうにん し、機 き 務 つとむ に接 せっ する立場 たちば となった井上 いのうえ は、戦局 せんきょく が絶望 ぜつぼう 的 てき であること、それを直視 ちょくし して根本 こんぽん 策 さく (戦争 せんそう を止 と める策 さく )を実行 じっこう しようとする勇気 ゆうき に欠 か けた海軍 かいぐん 中央 ちゅうおう の雰囲気 ふんいき を知 し った[ 215] 。
8月 がつ 16日 にち の特攻 とっこう 兵器 へいき 震 ふるえ 洋 よう の検討 けんとう 会 かい で、草 くさ 鹿 しか 龍之介 りゅうのすけ 中将 ちゅうじょう とともに生還 せいかん の可能 かのう 性 せい も考 かんが えてほしいと意見 いけん するが、最終 さいしゅう 的 てき にそういった措置 そち が採 と られることはなかった[ 216] 。
8月 がつ 29日 にち 、井上 いのうえ は大臣 だいじん 室 しつ で米 べい 内 ない に「日本 にっぽん の敗戦 はいせん は動 うご かしがたいので内密 ないみつ に終戦 しゅうせん の研究 けんきゅう (終戦 しゅうせん 工作 こうさく )を始 はじ めるので大臣 だいじん と軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう には承知 しょうち 願 ねが いたい」旨 むね を具申 ぐしん し、続 つづ けて研究 けんきゅう には海軍 かいぐん 省 しょう 人事 じんじ 局 きょく の高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち 少将 しょうしょう [ 注釈 ちゅうしゃく 32] を充 あ てたいこと、その為 ため に高木 たかぎ を「海軍 かいぐん 省 しょう 出仕 しゅっし 、次官 じかん 承 うけたまわ 命 いのち 服務 ふくむ 」にしたいと述 の べた。同日 どうじつ 、井上 いのうえ は高木 たかぎ を次官 じかん 室 しつ に呼 よ び、快諾 かいだく を得 え ると彼 かれ を病気 びょうき 療養 りょうよう [ 注釈 ちゅうしゃく 33] という名目 めいもく で海軍 かいぐん 省 しょう 出仕 しゅっし 扱 あつか いとした[ 220] 。
高木 たかぎ の目立 めだ たない執務 しつむ 場所 ばしょ として海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 研究 けんきゅう 部 ぶ が選 えら ばれたため、高木 たかぎ への辞令 じれい は「軍令 ぐんれい 部 ぶ 出仕 しゅっし 兼 けん 海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 研究 けんきゅう 部 ぶ 部員 ぶいん 」となり、職務 しょくむ 内容 ないよう は「次官 じかん 承 うけたまわ 命 いのち 服務 ふくむ 」となり、翌年 よくねん の1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )3月 がつ には「兼 けん 海軍 かいぐん 省 しょう 出仕 しゅっし 」の肩書 かたがき が追加 ついか された[ 221] 。
井上 いのうえ の命 いのち を受 う けて、高木 たかぎ は海軍 かいぐん 部外 ぶがい の志 こころざし を同 おな じくする要人 ようじん や有識者 ゆうしきしゃ の間 あいだ を精力 せいりょく 的 てき に回 まわ り出 だ した。その時 とき の高木 たかぎ は背広 せびろ 姿 すがた であったが、時 とき には海軍 かいぐん の錨 いかり マークがついた公用 こうよう 車 しゃ に乗 の って要人 ようじん や有識者 ゆうしきしゃ の私邸 してい へ急行 きゅうこう した。戦争 せんそう 終結 しゅうけつ を密 ひそ かに考 かんが えていた彼 かれ らは「海軍 かいぐん が現役 げんえき 将官 しょうかん をして正式 せいしき に和平 わへい への道 みち を探 さぐ らせ始 はじ めたこと」 の証 あかし を見 み て、大 おお いに勇気 ゆうき づけられた[ 219] 。高木 たかぎ は原 はら 田熊 たぐま 雄 つよし や松平 まつだいら 康昌 やすまさ を通 つう じて、昭和 しょうわ 天皇 てんのう の側近 そっきん や重臣 じゅうしん に自分 じぶん の考 かんが えを伝 つた えた。岡田 おかだ 啓介 けいすけ 大将 たいしょう 宅 たく を訪問 ほうもん して報告 ほうこく し、指示 しじ を受 う けた。細川 ほそかわ 護貞 もりさだ を介 かい して近衛 このえ 文麿 ふみまろ 元 もと 首相 しゅしょう に、さらに近衛 このえ を通 つう じて高松宮 たかまつのみや に意 い を通 つう じた。現役 げんえき の海軍 かいぐん 大佐 たいさ である高松宮 たかまつのみや には、高木 たかぎ は直接 ちょくせつ に報告 ほうこく して連絡 れんらく を密 みつ にしていた。高木 たかぎ のこのような活動 かつどう により、あまり仲 なか の良 よ くなかった岡田 おかだ と近衛 このえ が徐々 じょじょ に理解 りかい し合 あ い、共通 きょうつう の目的 もくてき である戦争 せんそう 終結 しゅうけつ に動 うご き始 はじ めた[ 222] 。
戦後 せんご の井上 いのうえ は、「終戦 しゅうせん 工作 こうさく が実 み を結 むす び、八 はち 千 せん 万 まん 同胞 どうほう が玉砕 ぎょくさい せずに残 のこ れたのは高木 たかぎ 少将 しょうしょう の力 ちから である。私 わたし はそれを命 めい じただけ」と言 い い続 つづ けた。一方 いっぽう 、高木 たかぎ は、井上 いのうえ 成美 まさみ 伝記 でんき 刊行 かんこう 会 かい 事務 じむ 局 きょく に宛 あ てた1979年 ねん (昭和 しょうわ 54年 ねん )6月 がつ 末日 まつじつ 付 づけ の書簡 しょかん で「井上 いのうえ 大将 たいしょう は私 わたし が功労 こうろう 者 しゃ のように述 の べておられますが、以前 いぜん 述 の べた如 ごと く私 わたし はお使 つか い小僧 こぞう に過 す ぎなかったので、米 べい 内 ない 、井上 いのうえ 両 りょう 上司 じょうし の考 こう を関係 かんけい 要所 ようしょ に浸透 しんとう させるのが私 わたし の任務 にんむ でした。ただ、井上 いのうえ 次官 じかん に隠 かく して実行 じっこう したことは、陸軍 りくぐん の課長 かちょう 級 きゅう と直接 ちょくせつ 接触 せっしょく して何 なに とか陸軍 りくぐん の態度 たいど を緩和 かんわ させようと努力 どりょく したことだけです。むろん失敗 しっぱい に終 お わりました」と述 の べている[ 223] 。戦後 せんご 井上 いのうえ は「秘密 ひみつ にやったんです。高木 たかぎ さんの職務 しょくむ は書 か き物 もの で訓令 くんれい は出 だ さない、書類 しょるい は残 のこ さんぞ、だけど、[中略 ちゅうりゃく ]公 おおやけ の職務 しょくむ として高木 たかぎ 君 くん がもらったものなんですよ。[中略 ちゅうりゃく ]高木 たかぎ 君 くん が酔狂 すいきょう で、海軍 かいぐん 省 しょう で遊 あそ んでいるからブラブラしててやったという問題 もんだい じゃないんです。公務 こうむ なんですから、陸軍 りくぐん の松谷 まつや 、荒尾 あらお 、佐藤 さとう [中略 ちゅうりゃく ]これらは個人 こじん としてそういう考 かんが えを持 も っていたというだけのことで、[中略 ちゅうりゃく ]高木 たかぎ 君 くん を同 おな じレベルに並 なら べて見 み たら大変 たいへん な間違 まちが いになりますから、その点 てん を一 ひと つ間違 まちが いなく見 み て頂 いただ きたい」と証言 しょうげん した[ 224] 。井上 いのうえ は、同時 どうじ に、仮 かり に「高木 たかぎ 自身 じしん が和平 わへい に賛成 さんせい しなくても、その準備 じゅんび をしなければならない立場 たちば にあった」ことを歴史 れきし にとどめるべきだと言 い っている[ 225] 。
海軍 かいぐん 大臣 だいじん 副官 ふっかん 兼 けん 秘書官 ひしょかん であった岡本 おかもと 功 いさお 中将 ちゅうじょう によると、高木 たかぎ はしばしば井上 いのうえ を次官 じかん 室 しつ に訪 たず ねて話 はなし をしていた。また、核心 かくしん に触 ふ れる話 はなし については、夜 よる に井上 いのうえ が住 す む大臣 だいじん 官邸 かんてい [ 注釈 ちゅうしゃく 34] を訪 たず ねて、例 たと えば近衛 このえ の私生活 しせいかつ 上 じょう の話 はなし に至 いた るまでのあらゆる情報 じょうほう を伝 つた えていた[ 227] 。井上 いのうえ や高木 たかぎ にとって最 さい 重要 じゅうよう なことは「一 いち 日 にち も早 はや く戦 せん をやめること」であり、そのためには如何 いか なる犠牲 ぎせい を払 はら っても良 よ いというほど、二人 ふたり の決意 けつい は徹底 てってい していた。陸軍 りくぐん や重臣 じゅうしん が譲 ゆず れない講和 こうわ 条件 じょうけん としていた「国体 こくたい 護持 ごじ 」についても、二人 ふたり の関心 かんしん は次第 しだい に薄 うす れていった[ 228] 。
高木 たかぎ の他 ほか に、井上 いのうえ と志 こころざし を同 おな じくする者 もの が海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない にいた。海軍 かいぐん 省 しょう 兵備 へいび 局 きょく 二 に 課長 かちょう の浜田 はまだ 祐 ゆう 生 なま 大佐 たいさ であった。浜田 はまだ は1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )に海軍 かいぐん 大臣 だいじん 官邸 かんてい で開 ひら かれた戦備 せんび 幹部 かんぶ 会 かい で、物的 ぶってき 国力 こくりょく の現状 げんじょう を詳細 しょうさい に説明 せつめい し、このままでは戦争 せんそう 継続 けいぞく が不可能 ふかのう であることを大臣 だいじん ・総長 そうちょう に分 わか らせようとした。説明 せつめい が1時間 じかん 以上 いじょう も続 つづ いた後 のち 、井上 いのうえ は「戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 」を口 くち に出 だ しかねまじき浜田 はまだ の意図 いと を見抜 みぬ いて「浜田 はまだ 、もう止 とど めろ」と制止 せいし した。浜田 はまだ は、当直 とうちょく の晩 ばん ごとに大臣 だいじん 官邸 かんてい に井上 いのうえ を訪 たず ねて「戦争 せんそう 終結 しゅうけつ へ急 いそ いで欲 ほ しい」と頼 たの んでいた。浜田 はまだ は井上 いのうえ -高木 たかぎ ラインの活動 かつどう を知 し らず、井上 いのうえ もそのことを浜田 はまだ に告 つ げることは出来 でき なかった。戦後 せんご 、井上 いのうえ は自分 じぶん の住所 じゅうしょ 録 ろく の中 なか の浜田 はまだ の名 な に「[先見 せんけん の明 あかり あり、大 だい 忠臣 ちゅうしん ]終戦 しゅうせん の必要 ひつよう を井上 いのうえ [次官 じかん ]に申出 もうしで づ。[大 だい 海軍 かいぐん で只 ただ 一人 ひとり ]と添 そ え書 が きしていた[ 229] 。
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )9月 がつ 5日 にち 、陸海 りくかい 技術 ぎじゅつ 運用 うんよう 委員 いいん 会 かい が設置 せっち され、井上 いのうえ は陸軍 りくぐん 省 しょう 次官 じかん とともに委員 いいん 長 ちょう を務 つと めた。特殊 とくしゅ 奇襲 きしゅう 兵器 へいき 開発 かいはつ のために陸海 りくかい 民 みん の科学 かがく 技術 ぎじゅつ の一体化 いったいか が図 はか られた[ 230] 。
10月25日 にち 、井上 いのうえ はレイテ沖 おき 海戦 かいせん で損傷 そんしょう した艦船 かんせん の修理 しゅうり に関 かん して、石油 せきゆ 、ボーキサイトの還送 かんそう に支障 ししょう があってはならない、タンカーや貨物 かもつ 船 せん の建造 けんぞう が遅 おく れ、その後 ご の特長 とくちょう ある作戦 さくせん に必要 ひつよう な特攻 とっこう 兵器 へいき などの建造 けんぞう 計画 けいかく に影響 えいきょう があってはならないと軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう ・多田 ただ 武雄 たけお 中将 ちゅうじょう 、運輸 うんゆ 本部 ほんぶ 長 ちょう ・堀江 ほりえ 義 よし 一郎 いちろう 少将 しょうしょう に指示 しじ した[ 231] 。
レイテ沖 おき 海戦 かいせん で連合 れんごう 艦隊 かんたい が事実 じじつ 上 じょう 壊滅 かいめつ し、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )2月 がつ 以降 いこう は、南方 なんぽう の石油 せきゆ を内地 ないち へ輸送 ゆそう する道 みち が絶 た たれ、僅 わず かな残存 ざんそん 艦艇 かんてい も動 うご けなくなった。海軍 かいぐん の勢力 せいりょく が衰 おとろ え、海軍 かいぐん ・陸軍 りくぐん の戦力 せんりょく バランスが崩 くず れたことで、陸軍 りくぐん の主導 しゅどう の下 した に「陸海 りくかい 軍 ぐん 一元化 いちげんか 」が画策 かくさく され、3月 がつ 10日 とおか に、海軍 かいぐん 大臣 だいじん の米 べい 内 ない 、海軍 かいぐん 次官 じかん の井上 いのうえ 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう の小沢 おざわ 治 おさむ 三郎 さぶろう 中将 ちゅうじょう (井上 いのうえ と海兵 かいへい 同期 どうき )らに、陸軍 りくぐん の対応 たいおう する職階 しょっかい の者 もの たちが「陸海 りくかい 軍 ぐん 一元化 いちげんか 」を呼 よ びかけてきた。しかし和平 わへい のために活動 かつどう している井上 いのうえ がこれに同意 どうい するはずがなかった。当時 とうじ の井上 いのうえ の考 かんが えは、いくつかの書類 しょるい に書 か かれて現存 げんそん している。陸軍 りくぐん に海軍 かいぐん が吸収 きゅうしゅう されて国軍 こくぐん が一本 いっぽん 化 か するということは、「本土 ほんど 決戦 けっせん 」で徹底 てってい 抗戦 こうせん するという陸軍 りくぐん の戦略 せんりゃく に従 したが うことであり、米 べい 内 ない ・井上 いのうえ の到底 とうてい 容 い れ得 え ることではなく、両 りょう 名 な の頑とした反対 はんたい により陸海 りくかい 一元化 いちげんか は阻止 そし された[ 232] 。
井上 いのうえ によれば、これに先立 さきだ つ1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )12月に海軍 かいぐん 大臣 だいじん 官邸 かんてい での会食 かいしょく の後 のち に、井上 いのうえ と二 に 人 にん きりになった米 べい 内 ない が井上 いのうえ に「俺 おれ はくたびれた。井上 いのうえ 、お前 まえ に大臣 だいじん を譲 ゆず る」という旨 むね を言 い った。井上 いのうえ は「陛下 へいか の御 ご 信任 しんにん で小磯 こいそ さんとともに内閣 ないかく をつくった人 ひと が、くたびれたくらいのことで辞 や めるなんていう手 て がありますか。今 いま は国民 こくみん みな、命 いのち をかけて戦 せん をしているんではないですか。少 すく なくとも私 わたし は絶対 ぜったい 引 ひ き受 う けませんよ」と即答 そくとう した。大臣 だいじん 秘書官 ひしょかん の岡本 おかもと 中佐 ちゅうさ によると、翌年 よくねん 1月 がつ 10日 とおか にも同様 どうよう の問答 もんどう があった。高木 たかぎ は、2月 がつ 26日 にち に、横須賀 よこすか の海軍 かいぐん 砲術 ほうじゅつ 学校 がっこう 教頭 きょうとう を務 つと めていた高松宮 たかまつのみや を訪問 ほうもん し、小磯 こいそ ・米 べい 内内 うちうち 閣 かく 更迭 こうてつ の場合 ばあい の海軍 かいぐん 首脳 しゅのう 陣容 じんよう について高松宮 たかまつのみや から問 と われ、3つの案 あん を提示 ていじ した。そのうち1つの案 あん では、井上 いのうえ が大臣 だいじん に擬 ぎ せられていた[ 233] 。
井上 いのうえ の回想 かいそう によると、4月 がつ 1日 にち に海軍 かいぐん 省 しょう 人事 じんじ 局長 きょくちょう の三戸 さんのへ 寿 ひさし 少将 しょうしょう が日曜 にちよう の午後 ごご で大臣 だいじん 官邸 かんてい の自室 じしつ にいた井上 いのうえ を訪問 ほうもん し、人事 じんじ 異動 いどう の案 あん を示 しめ した。そこには「大臣 だいじん :井上 いのうえ 」とあった。井上 いのうえ は三 さん 戸 こ に「だめだ、次官 じかん がやれるから大臣 だいじん もやれると言 い うもんではない。私 わたし は大臣 だいじん 不適 ふてき なことは自分 じぶん でよく知 し っている。米内 よない さんにそのままやって貰 もら うんだ」と言 い った。井上 いのうえ は「危機一髪 ききいっぱつ 、之 これ で三 さん 度 ど 」と表現 ひょうげん している。
井上 いのうえ は中将 ちゅうじょう 進級 しんきゅう (1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )11月15日 にち )から5年 ねん を経過 けいか して、現役 げんえき で海軍 かいぐん 次官 じかん の要職 ようしょく にあった。太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう は、中将 ちゅうじょう に進級 しんきゅう して5年 ねん 半 はん 経過 けいか しても現役 げんえき にある者 もの は大将 たいしょう に親任 しんにん される慣例 かんれい であった[ 176] 。これを反映 はんえい して、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )の暮 く れごろに、米 べい 内 ない が大将 たいしょう 親任 しんにん の話 はなし を井上 いのうえ に持 も ちかけた。この時 とき 井上 いのうえ は「大将 たいしょう にすると言 い うのは次官 じかん をやめろということですね」と米 べい 内 ない に念 ねん 押 お しし、「和平 わへい か玉砕 ぎょくさい か、国家 こっか が運命 うんめい の岐路 きろ に立 た たされている時 とき 、何故 なぜ 、己 おのれ の片腕 かたうで とも頼 たの むものを切 き ろうとするのか」と暗 あん に米 べい 内 ない に訴 うった えた[ 234] 。井上 いのうえ は、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )1月 がつ 20日 にち 付 づけ で「大将 たいしょう 進級 しんきゅう に就 つ き意見 いけん 」と題 だい して毛筆 もうひつ で一文 いちぶん を書 か き、米 べい 内 ない に、正式 せいしき に自分 じぶん の大将 たいしょう 親任 しんにん 反対 はんたい の意志 いし を表明 ひょうめい した。次 つ いで、2月 がつ 3日 にち には「当分 とうぶん 海軍 かいぐん 大将 たいしょう に進級 しんきゅう 中止 ちゅうし の件 けん 追加 ついか 」と題 だい した一文 いちぶん を米 べい 内 ない に提出 ていしゅつ した。井上 いのうえ の回想 かいそう によると、3月 がつ 半 なか ば、海軍 かいぐん 大臣 だいじん 官邸 かんてい で米 べい 内 ない と井上 いのうえ が二 に 人 にん だけになった時 とき 、米 べい 内 ない が「4月 がつ 1日 にち 付 づけ で、塚原 つかはら 二 に 四 よん 三 さん 中将 ちゅうじょう と井上 いのうえ を大将 たいしょう にする」と告 つ げた。井上 いのうえ は「『戦 せん 敗 やぶ れて大将 たいしょう あり』ですか。今 いま 、大将 たいしょう を二 に 人 にん つくらないと海軍 かいぐん が戦 せん をやっていくのに困 こま るわけでなし、この戦局 せんきょく なのに、大将 たいしょう なんかできたら国民 こくみん は何 なに と思 おも いますか。その上 うえ 私 わたし は人格 じんかく 、技能 ぎのう 、戦功 せんこう 、どれ一 ひと つとって考 かんが えても、自 みずか ら大将 たいしょう なんていう器 うつわ ではないと考 かんが えてます。米 べい 内 ない 大将 たいしょう もやはり月並 つきな みの男 おとこ だなと笑 わら われないように、篤 とく とお考 かんが えになったらよいでしょう」と返答 へんとう した。2、3日 にち して、米 べい 内 ない から井上 いのうえ に「塚原 つかはら も君 きみ も今度 こんど は大将 たいしょう 見合 みあ わせだ」という言葉 ことば があり、井上 いのうえ は、自分 じぶん の進言 しんげん を米 べい 内 ない がき入 きい れてくれたことに謝意 しゃい を述 の べた[ 235] 。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )4月 がつ 5日 にち 、小磯 こいそ 内閣 ないかく が総 そう 辞職 じしょく した。戦局 せんきょく が末期 まっき 的 てき 様相 ようそう を帯 お びてきたのがその主因 しゅいん であったが、井上 いのうえ - 高木 たかぎ の工作 こうさく によって、ようやく重臣 じゅうしん たちが陸軍 りくぐん 主導 しゅどう の内閣 ないかく を排 はい し、和平 わへい を模索 もさく する方向 ほうこう を取 と り始 はじ めたことを意味 いみ し、井上 いのうえ や高木 たかぎ にとっては、和平 わへい 早期 そうき 実現 じつげん の好機 こうき であった。ただ、米 べい 内 ない は、小磯 こいそ と共 とも に前年 ぜんねん の7月 がつ に組閣 そかく の大命 たいめい を受 う けた経緯 けいい があるので、新内 しんない 閣 かく に留任 りゅうにん するのは「政治 せいじ 道徳 どうとく 」上 じょう 至難 しなん であるという問題 もんだい があった[ 236] 。井上 いのうえ は、内大臣 ないだいじん の木戸 きど 幸一 こういち から、高木 たかぎ を通 とお して「組閣 そかく の大命 たいめい は、枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう の鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 海軍 かいぐん 大将 たいしょう に下 くだ る見込 みこ み」との内 うち 報 ほう を受 う け、それに賛同 さんどう すると共 とも に、条件 じょうけん として「鈴木 すずき 大将 たいしょう は人物 じんぶつ も度胸 どきょう も申 もう し分 ぶん ないが、失礼 しつれい だが総理 そうり として必要 ひつよう な政治 せいじ 感覚 かんかく に乏 とぼ しいと思 おも う。それ故 こ 鈴木 すずき 内閣 ないかく が出来 でき るとすれば、米内 よない 大将 たいしょう は是非 ぜひ 共 ども 鈴木 すずき さんの片腕 かたうで 、相談役 そうだんやく として入閣 にゅうかく して貰 もら う必要 ひつよう がある。之 これ は絶対 ぜったい 条件 じょうけん と思 おも う」と、木戸 きど に返答 へんとう するように高木 たかぎ に指示 しじ した。これは、海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない の誰 だれ にも相談 そうだん せず、井上 いのうえ 一人 ひとり が独断 どくだん で決 き めたことであった[ 237] 。4月5日 にち に鈴木 すずき に組閣 そかく の大命 たいめい が下 くだ ると、井上 いのうえ は、高木 たかぎ に「海軍 かいぐん の総意 そうい は米 べい 内 ない の海 うみ 相 しょう 留任 りゅうにん である」と鈴木 すずき に伝 つた えるよう命 めい じ、鈴木 すずき に承知 しょうち させ、その後 ご で海軍 かいぐん 首脳 しゅのう の了解 りょうかい を取 と り付 つ けた。この「海軍 かいぐん の総意 そうい 」は、実際 じっさい は井上 いのうえ 一人 ひとり の考 かんが えだった。その後 ご 、米内 よない 自身 じしん が海 うみ 相 しょう 留任 りゅうにん に難色 なんしょく を示 しめ したが、井上 いのうえ が押 お し切 き った[ 238] 。
井上 いのうえ は、米 べい 内 ない に4月 がつ 25日 にち 付 づけ で「当分 とうぶん 大将 たいしょう 進級 しんきゅう を不可 ふか とする理由 りゆう 」という文書 ぶんしょ を三 さん たび提出 ていしゅつ した。しかし井上 いのうえ の回想 かいそう によると、5月7日 にち か8日 にち に井上 いのうえ は大臣 だいじん 室 しつ に呼 よ ばれ、米 べい 内 ない から「陛下 へいか が塚原 つかはら と君 きみ の大将 たいしょう 親任 しんにん を御 ご 裁可 さいか になったよ」と告 つ げられた。井上 いのうえ は「陛下 へいか の御 ご 裁可 さいか があったのでは致 いた し方 かた ありません。あたりまえなら大臣 だいじん のお取 と り計 はか らいにお礼 れい を申 もう し上 うえ ぐべきでしょうが、私 わたし は申 もう しません。なお次官 じかん は罷 や めさせて頂 いただ けますでしょうね」と答 こた え、米 べい 内 ない が「うん」と答 こた えて、井上 いのうえ の次官 じかん 退任 たいにん が決 き まった[ 注釈 ちゅうしゃく 35] 。
井上 いのうえ は「“負 ま け戦 いくさ 、大将 たいしょう だけはやはりでき”、こういう句 く ができましたよ」と米 べい 内 ない にい残 いのこ して大臣 だいじん 室 しつ を退出 たいしゅつ した[ 241] 。井上 いのうえ は、戦後 せんご この日 ひ のことについて「それで米内 よない さんと喧嘩 けんか 別 わか れしちゃったんだ(中略 ちゅうりゃく )それっきり仲直 なかなお りしてません。その問題 もんだい についてはね」と語 かた っている[ 242] 。
米 べい 内 ない と井上 いのうえ が「喧嘩 けんか 別 わか れ」した経緯 けいい については、諸説 しょせつ がある[ 243] 。ただし、米 べい 内 ない と井上 いのうえ の考 かんが えが、和平 わへい という大筋 おおすじ では一致 いっち しても、具体 ぐたい 的 てき な方法 ほうほう について一致 いっち していなかった可能 かのう 性 せい がある[ 244] 。井上 いのうえ は戦後 せんご に小柳 こやなぎ 冨 とみ 次 じ 中将 ちゅうじょう に「米 べい 内大臣 ないだいじん は、一度 いちど 何処 どこ かでアメリカ軍 ぐん を一 いち 叩 はた きしたあと、和平 わへい に持 も って行 い ってはどうかと考 かんが えておられたが、私 わたし はそれはとても望 のぞ みないと思 おも っていた」と語 かた っている。
3月 がつ に硫黄 いおう 島 とう が攻略 こうりゃく されて、米 べい 軍 ぐん の戦闘 せんとう 機 き P-51が進出 しんしゅつ し、以後 いご 、直 ちょく 掩機のP-51に守 まも られたB-29の本土 ほんど 空襲 くうしゅう は急速 きゅうそく に規模 きぼ と回数 かいすう を増 ま し、非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん の犠牲 ぎせい が幾何級数 きかきゅうすう 的 てき に増加 ぞうか した。井上 いのうえ は毎日 まいにち のように「大臣 だいじん 、手 て ぬるい、手 て ぬるい。一 いち 日 にち も早 はや く戦 せん をやめましょう。一 いち 日 にち 遅 おく れれば、何 なん 千 せん 何 なん 万 まん の日本人 にっぽんじん が無駄 むだ 死 し にするのですよ」と米 べい 内 ない を責 せ め、ときには具体 ぐたい 的 てき な計数 けいすう まで示 しめ して説得 せっとく していた[ 244] 。
井上 いのうえ は、4月 がつ 初 はじ めに『日本 にっぽん の執 と るべき方策 ほうさく 』と題 だい した、十 じゅう 数 すう 枚 まい の所見 しょけん を米 べい 内 ない に提出 ていしゅつ した。この所見 しょけん は、米 べい 内 ない の「沖縄 おきなわ をとられたらどうするか」という質問 しつもん への井上 いのうえ の答 こたえ であり、その趣旨 しゅし は「独立 どくりつ と言 い うことだけが保 たも たれれば、他 た はどんな条件 じょうけん でもよいから戦 せん をやめるべきである。米 べい 軍 ぐん の本土 ほんど 上陸 じょうりく 前 まえ に講和 こうわ をしなければ、日本人 にっぽんじん の国民 こくみん 性 せい から考 かんが えると、米 べい 軍 ぐん に対 たい し徹底的 てっていてき に抗戦 こうせん し、遂 つい には講和 こうわ する母体 ぼたい まで消滅 しょうめつ させてしまうであろう。それを防 ふせ ぐため中立 ちゅうりつ 国 こく 、ソ連 それん (スウェーデン、スイスでも可 か )を介 かい して速 すみ やかに交渉 こうしょう を開始 かいし すべきだ」というものであった[ 245] 。井上 いのうえ にとっては、もはや、国民 こくみん の生命 せいめい 以外 いがい 守 まも るべきものは何 なに もなかった。井上 いのうえ は「(1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん ))5月 がつ に終戦 しゅうせん のチャンスはあった。もちろん、米 べい 内 ない 、井上 いのうえ が殺 ころ されるほどのことはあったろうが…」と回想 かいそう する。さらに、7月 がつ 26日 にち にポツダム宣言 せんげん が発 はっ せられてから、8月 がつ 15日 にち まで、天皇 てんのう 制 せい 護持 ごじ をめぐって20日間 にちかん も終戦 しゅうせん の決定 けってい が先送 さきおく りされたことについて、高木 たかぎ に「天皇 てんのう 制 せい は認 みと めないといっても、終戦 しゅうせん すべきであった」「そうすれば広島 ひろしま 、長崎 ながさき の悲劇 ひげき はなかった」と語 かた っている[ 246] 。近衛 このえ ・木戸 きど などの天皇 てんのう 側近 そっきん は、国体 こくたい 護持 ごじ や既存 きそん の国家 こっか 体制 たいせい 維持 いじ を前提 ぜんてい としての休戦 きゅうせん を望 のぞ んでいた。一方 いっぽう 、上記 じょうき のように、井上 いのうえ は一般 いっぱん 国民 こくみん の側 がわ に立 た っての一 いち 日 にち も早 はや い休戦 きゅうせん を望 のぞ んでいた。
井上 いのうえ は海軍 かいぐん 大将 たいしょう に親任 しんにん された5月15日 にち 付 づけ で海軍 かいぐん 次官 じかん を免 めん じられ、軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん に親 おや 補 ほ された。その翌日 よくじつ から1か月 げつ 間 あいだ 、井上 いのうえ は40年 ねん 間近 まぢか い海軍 かいぐん 生活 せいかつ で初 はじ めて長期 ちょうき 休暇 きゅうか をとり、伊東 いとう にあった海軍 かいぐん 将官 しょうかん 保養 ほよう 所 しょ に滞在 たいざい した。その後 ご 、井上 いのうえ は東京 とうきょう に戻 もど り、芝 しば の水 みず 交社に起居 ききょ した。水 みず 交社には、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう 時代 じだい の井上 いのうえ に参謀 さんぼう として仕 つか えた、海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局員 きょくいん の中山 なかやま 定義 さだよし 中佐 ちゅうさ が宿泊 しゅくはく していた。中山 ちゅうざん は調査 ちょうさ 課員 かいん を兼務 けんむ しており、リアルタイムに機密 きみつ 情報 じょうほう を知 し り得 え る立場 たちば にあった。井上 いのうえ が毎日 まいにち の夕食 ゆうしょく 時 じ に中山 なかやま と顔 かお を合 あ わせると、中山 なかやま が知 し る限 かぎ りの情報 じょうほう を聞 き き要点 ようてん を確 たし かめ注意 ちゅうい 事項 じこう を指示 しじ した[ 247] 。高木 たかぎ は新 あら たに次官 じかん になった多田 ただ 武雄 たけお 中将 ちゅうじょう を「ボンクラ次官 じかん 」と評 ひょう して頼 たよ りにせず、井上 いのうえ の帰京 ききょう 後 ご は「報告 ほうこく 先 さき が、次官 じかん 室 しつ から水 みず 交社に代 か わっただけ」と回想 かいそう するように、和平 わへい 工作 こうさく を井上 いのうえ - 高木 たかぎ のラインで中断 ちゅうだん することなく続 つづ けた[ 247] 。
7月 がつ 26日 にち に連合 れんごう 国 こく がポツダム宣言 せんげん を発 はっ し、これに対 たい して鈴木 すずき が「黙殺 もくさつ する」と語 かた ったことで内外 ないがい に混乱 こんらん が生 しょう じ、8月 がつ 6日 にち の広島 ひろしま への原爆 げんばく 投下 とうか 、8日 にち のソ連 それん の対 たい 日 にち 参戦 さんせん 、9日 にち の長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか と事態 じたい が急速 きゅうそく に悪化 あっか して、10日 とおか に日本 にっぽん 政府 せいふ はようやくポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく を決定 けってい して午前 ごぜん 6時 じ 45分 ふん 、スイス、スウェーデン両国 りょうこく を通 つう じてポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく の無電 むでん を発 はっ した。同日 どうじつ 午前 ごぜん 11時 じ に、海軍 かいぐん の元帥 げんすい ・軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん らが米内 よない 光政 みつまさ 海 うみ 相 しょう に招 まね かれ、ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく に至 いた った経緯 けいい の説明 せつめい を受 う けた。米 べい 内 ない は秘書官 ひしょかん に「居並 いなら ぶ大将 たいしょう 連 れん が、いずれも残念 ざんねん そうな顔 かお つきをしていたのに、井上 いのうえ 大将 たいしょう だけはひとりすがすがしい顔 かお をしていた」と語 かた った[ 248] 。
8月 がつ 15日 にち 以降 いこう 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう の大西 おおにし 瀧 たき 治郎 じろう 中将 ちゅうじょう の割腹 かっぷく 自決 じけつ 、第 だい 五 ご 航空 こうくう 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん の宇垣 うがき 纏 まとい 中将 ちゅうじょう の特攻 とっこう (沖縄 おきなわ 沖 おき で海面 かいめん に墜落 ついらく )が続 つづ いた。8月16日 にち に開 ひら かれた「大将 たいしょう 会 かい 」で、井上 いのうえ は「事態 じたい が斯 か くなれること其他につき、夫 おっと 々責任 せきにん の地位 ちい にある人 ひと が、自殺 じさつ する人 ひと がある様 よう なるも、成 な る程 ほど 自殺 じさつ すれば当人 とうにん の気持 きもち としては満足 まんぞく なるべく、又 また 自己 じこ の生涯 しょうがい を飾 かざ るべきも、而し此の大事 だいじ な重要 じゅうよう な人々 ひとびと が次々 つぎつぎ と此の如 ごと くして所謂 いわゆる 自殺 じさつ 流行 りゅうこう にして後 ご を顧 かえり みぬと云 い う事 こと は国家 こっか の損失 そんしつ なり」と戒 いまし めた[ 249] 。井上 いのうえ は、海軍 かいぐん での最後 さいご の仕事 しごと として、第 だい 五 ご 航空 こうくう 艦隊 かんたい の「査閲 さえつ 」を、海軍 かいぐん 大臣 だいじん の米 べい 内 ない から9月 がつ 10日 にち 付 づけ で命 めい じられ、第 だい 五 ご 航空 こうくう 艦隊 かんたい の各 かく 基地 きち において最寄 もよ りの航空 こうくう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん 及 およ び関係 かんけい 幹部 かんぶ を集 あつ めて、彼 かれ らの執 と った処置 しょち と復員 ふくいん の状況 じょうきょう について調査 ちょうさ し、統制 とうせい ある終戦 しゅうせん 処理 しょり を推進 すいしん して帝国 ていこく 海軍 かいぐん 有終 ゆうしゅう の美 び を飾 かざ るよう説 と いた[ 250] 。
10月 がつ 10日 とおか に待命 たいめい 、10月15日 にち に予備 よび 役 やく に編入 へんにゅう されて、兵 へい 学校 がっこう 入校 にゅうこう 以来 いらい 39年間 ねんかん の海軍 かいぐん 生活 せいかつ を終 お えた。井上 いのうえ はこの時 とき 55歳 さい だった[ 251] 。敗戦 はいせん 後 ご に進駐 しんちゅう してきた米 べい 軍 ぐん との折衝 せっしょう に部下 ぶか を伴 ともな って赴 おもむ き、部下 ぶか の英会話 えいかいわ 力 りょく が不十分 ふじゅうぶん と見 み た井上 いのうえ は、脇 わき からキングズ・イングリッシュで話 はな し始 はじ め[ 252] 、全 すべ ての要件 ようけん を片 かた づけてしまった[ 253] 。
戦後 せんご 英語 えいご 塾 じゅく をしていた頃 ころ 井上 いのうえ は海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 校長 こうちょう 時代 じだい から英語 えいご 教育 きょういく 廃止 はいし 論 ろん を退 しりぞ けて英語 えいご 教育 きょういく を徹底 てってい するなど、教育 きょういく 者 しゃ としての見識 けんしき も深 ふか かった。
海軍 かいぐん が消滅 しょうめつ して一 いち 市民 しみん となった井上 いのうえ は、横須賀 よこすか 市 し 長井 ながい の家 いえ に隠棲 いんせい した[ 注釈 ちゅうしゃく 36] 。
長井 ながい は、行政 ぎょうせい 上 じょう は横須賀 よこすか 市 し に入 はい るものの、実際 じっさい は三浦半島 みうらはんとう 最 さい 西端 せいたん の半農半漁 はんのうはんぎょ の村 むら であり、横須賀 よこすか 市内 しない からの交通 こうつう も不便 ふべん な「僻村 へきそん 」であった[ 255] 。
宮内庁 くないちょう の記録 きろく にはないが、作家 さっか の阿川 あがわ 弘之 ひろゆき によれば、戦後 せんご 間 あいだ もない時期 じき に宮中 きゅうちゅう からの使者 ししゃ が井上 いのうえ 宅 たく を訪 おとず れ、井上 いのうえ 宅 たく があまりに乱雑 らんざつ であったため、使者 ししゃ はいったん立 た ち去 さ り、井上 いのうえ が玄関 げんかん 口 こう を掃 は き清 きよ めるのを待 ま って再度 さいど 訪問 ほうもん して口上 こうじょう を述 の べて、井上 いのうえ が「私 わたし のやったことが天子 てんし 様 さま の御 ご 心 しん にかなった。これで死後 しご 、大 おお きな顔 かお して両親 りょうしん に会 あ うことが出来 でき る」と漏 も らしたとしている[ 256] 。
井上 いのうえ は1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )の暮 く れ頃 ごろ から近所 きんじょ の子供 こども たちに英語 えいご を教 おし えていたが[ 257] 、僅 わず かな月謝 げっしゃ しか請求 せいきゅう せず[ 258] (月謝 げっしゃ の額 がく については後述 こうじゅつ )、他 た は塾生 じゅくせい の父兄 ふけい が魚 さかな や野菜 やさい を差 さ し入 い れてくれる[ 258] 以外 いがい は無 む 収入 しゅうにゅう で、軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう の復活 ふっかつ (1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )8月 がつ )までの井上 いのうえ の生活 せいかつ は困窮 こんきゅう を極 きわ めていた[ 259] 。1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )12月24日 にち 付 づけ の、姪 めい (長兄 ちょうけい ・秀 しゅう 二 に の娘 むすめ )の伊藤 いとう 由里子 ゆりこ [ 260] に宛 あ てた手紙 てがみ で、井上 いのうえ は「貧民 ひんみん のような食事 しょくじ 」をしている窮状 きゅうじょう を嘆 なげ いている[ 261] 。また英語 えいご 塾 じゅく を開 ひら く傍 かたわ ら、高校生 こうこうせい にフランス語 ふらんすご の個人 こじん 教授 きょうじゅ もしていた[ 262] 。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )の暮 く れ頃 ごろ 、長井 ながい の井上 いのうえ の元 もと に戦争 せんそう 未亡人 みぼうじん となった一人娘 ひとりむすめ の靚子が息子 むすこ の丸田 まるた 研一 けんいち と共 とも に身 み を寄 よ せたが[ 254] 、靚子も1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )10月 がつ 16日 にち に肺結核 はいけっかく で死去 しきょ した(29歳 さい )[ 263] 。井上 いのうえ は肺結核 はいけっかく が悪化 あっか して寝 ね たきりとなった靚子のために、寝 ね たままで用便 ようべん でき、風通 かぜとお しが良 よ い竹 たけ 製 せい の介護 かいご 用 よう ベッドを作 つく り、また、電気 でんき パン焼 ぱんや き器 き ・万 まん 年 ねん カレンダー・太陽熱 たいようねつ 湯沸 ゆわ かし器 き などの様々 さまざま な器械 きかい を「発明 はつめい 」していた。長井 ながい の井上 いのうえ 宅 たく には工房 こうぼう があり、木工 もっこう ・金属 きんぞく 加工 かこう の道具 どうぐ 類 るい が一 いち 通 とお り揃 そろ っていた。これらは、戦前 せんぜん 、井上 いのうえ が海軍 かいぐん 将官 しょうかん であった時 とき に買 か い揃 ぞろ えたものであった[ 264] 。バリカンで自分 じぶん の頭 あたま を坊主 ぼうず 頭 あたま にするのも造作 ぞうさく なかった[ 265] 。その後 ご 、井上 いのうえ が男手 おとこで 一人 ひとり で孫 まご の研一 けんいち を育 そだ てるのは無理 むり で、井上 いのうえ の困窮 こんきゅう が募 つの ったこともあり、8歳 さい の研一 けんいち を靚子の嫁 とつ ぎ先 さき である丸田 まるた 家 か に託 たく さざるを得 え なかった[ 注釈 ちゅうしゃく 37] 。海軍 かいぐん 将校 しょうこう だったため公職 こうしょく 追放 ついほう となる[ 269] (1952年 ねん 追放 ついほう 解除 かいじょ [ 270] )。
敗戦 はいせん から6年 ねん が経過 けいか した1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )12月 がつ 10日 とおか 、新聞 しんぶん 「東京 とうきょう タイムズ 」の1面 めん トップで、海軍 かいぐん 大将 たいしょう であった井上 いのうえ が横須賀 よこすか 市外 しがい の僻村 へきそん で無 む 収入 しゅうにゅう に近 ちか い極貧 ごくひん 生活 せいかつ を送 おく っている様子 ようす が報道 ほうどう された。井上 いのうえ の下 した で第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 機関 きかん 参謀 さんぼう だった山上 さんじょう 実 じつ は、靴下 くつした の行商 ぎょうしょう でようやく生計 せいけい を立 た てていたが、その記事 きじ を読 よ んで衝撃 しょうげき を受 う けた。山上 さんじょう は、戦後 せんご も交誼 こうぎ を保 たも っていた元 もと 参謀 さんぼう 長 ちょう の矢野 やの 志 こころざし 加 か 三 さん (元 もと 中将 ちゅうじょう 、当時 とうじ 東洋 とうよう パルプ専務 せんむ 取締役 とりしまりやく )、元 もと 先任 せんにん 参謀 さんぼう の川井 かわい 巌 いわお (元 もと 少将 しょうしょう 。当時 とうじ 東京 とうきょう 光学 こうがく 機械 きかい の販売 はんばい 子会社 こがいしゃ 「東光 とうこう 物産 ぶっさん 」の神保町 じんぼうちょう 店 てん 支配人 しはいにん )に連絡 れんらく を取 と った。両 りょう 名 な は、井上 いのうえ との信頼 しんらい 関係 かんけい が最 もっと も厚 あつ かった人 ひと たちであり、実業 じつぎょう 界 かい への転身 てんしん に何 なに とか成功 せいこう しており、「山上 やまかみ 君 くん の言 い う通 とお り(井上 いのうえ さんがそんなに困 こま っておられるなら)、何 なん とかせにゃいかん。年明 としあ けにでも、みんな(司令 しれい 部 ぶ 幕僚 ばくりょう )揃 そろ って一度 いちど 様子 ようす を見 み に行 い こう」と即決 そっけつ した[ 271] 。井上 いのうえ が追放 ついほう 解除 かいじょ された直後 ちょくご の1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )5月 がつ に、矢野 やの 、川井 かわい 、山上 さんじょう らの司令 しれい 部 ぶ 幕僚 ばくりょう が井上 いのうえ 宅 たく を訪問 ほうもん した。長官 ちょうかん 時代 じだい の井上 いのうえ の端正 たんせい な姿 すがた を知 し る山上 さんじょう は、井上 いのうえ のあまりの貧窮 ひんきゅう ぶりを実見 じっけん して溢 あふ れる涙 なみだ を押 お さえられなかった[ 272] 。出迎 でむか えた井上 いのうえ は海軍 かいぐん 軍装 ぐんそう の襟章 えりしょう と袖章 そでしょう を外 はず し、破損 はそん 箇所 かしょ を繕 つくろ ったものを着 き ており、栄養失調 えいようしっちょう で青黒 あおぐろ い顔色 かおいろ をしていた[ 273] 。元 もと 参謀 さんぼう の中 なか に東京 とうきょう 周辺 しゅうへん の学習 がくしゅう 塾 じゅく の月謝 げっしゃ の相場 そうば をあらかじめ調 しら べて来 き た者 もの がおり、井上 いのうえ に英語 えいご 塾 じゅく の月謝 げっしゃ を尋 たず ねると井上 いのうえ は東京 とうきょう の相場 そうば の1/5~1/6の金額 きんがく を答 こた えた[ 274] 。
旧 きゅう 海軍 かいぐん 料亭 りょうてい 「小松 こまつ 」は、戦後 せんご も横須賀 よこすか に健在 けんざい であり、経営 けいえい 者 しゃ の山本 やまもと 直枝 なおえ は長井 ながい の井上 いのうえ 宅 たく を初 はじ めて訪問 ほうもん した時 とき に、あまりの貧窮 ひんきゅう ぶりに「これが国 くに のために働 はたら いた海軍 かいぐん 大将 たいしょう の生活 せいかつ か」と絶句 ぜっく した。井上 いのうえ の生活 せいかつ ぶりを案 あん じて、時々 ときどき 食 た べ物 もの を持 も って井上 いのうえ 宅 たく を訪 たず ねると、井上 いのうえ はいちいち掛 か け軸 じく などを山本 やまもと に渡 わた して「返 かえ し」をしようとする。井上 いのうえ の困窮 こんきゅう に心底 しんそこ から同情 どうじょう していた山本 やまもと は困惑 こんわく したが、一時 いちじ 預 あず かるつもりで「返 かえ し」を受 う け取 と り、「井上 いのうえ さんが(本当 ほんとう に)困 こま った時 とき には、品物 しなもの を返 かえ しすれば良 よ い」と自分 じぶん を納得 なっとく させた[ 275] 。山本 やまもと は、井上 いのうえ に心置 こころお きなく好意 こうい を受 う けて貰 もら う方法 ほうほう はないかと考 かんが えていた。1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )頃 ごろ になって、「小松 こまつ 」にアメリカ軍 ぐん の客 きゃく がやって来 く るようになったので、従業 じゅうぎょう 員 いん への英会話 えいかいわ の指導 しどう を井上 いのうえ に頼 たの むことにしたのである。山本 やまもと は「井上 いのうえ さんに好 す きなものを馳走 ちそう してさしあげようと思 おも い、英会話 えいかいわ の先生 せんせい を願 ねが いたいんです」と語 かた っている。井上 いのうえ は英語 えいご 塾 じゅく で使 つか っているものとは別 べつ に、「小松 こまつ 」従業 じゅうぎょう 員 いん 専用 せんよう の英語 えいご 教材 きょうざい を用意 ようい し、アメリカ・イギリスの国歌 こっか まで教 おし えた。「小松 こまつ 」に大 おお きな借 か りがあると考 かんが えている井上 いのうえ は報酬 ほうしゅう を求 もと めなかったが、英会話 えいかいわ を教 おし えに「小松 こまつ 」に来 く る井上 いのうえ は、出 だ される食事 しょくじ は喜 よろこ んで食 た べ、「お車 くるま 料 りょう 」の名目 めいもく で出 だ される包 つつ みは素直 すなお に受 う け取 と った。井上 いのうえ と山本 やまもと 直枝 なおえ の交誼 こうぎ は、井上 いのうえ が亡 な くなるまで続 つづ いた[ 276] 。
井上 いのうえ は、1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )6月 がつ 16日 にち に胃潰瘍 いかいよう で大量 たいりょう の吐血 とけつ をし、市立 しりつ 横須賀 よこすか 病院 びょういん 長井 ながい 分 ぶん 院 いん に搬送 はんそう された。井上 いのうえ の英語 えいご 塾 じゅく は、井上 いのうえ が吐血 とけつ して緊急 きんきゅう 入院 にゅういん した6月 がつ に自然 しぜん 閉鎖 へいさ され、井上 いのうえ の退院 たいいん 後 ご も再開 さいかい されなかった。元 もと 生徒 せいと の一人 ひとり が保存 ほぞん する英語 えいご 塾 じゅく のノートの日付 ひづけ は、5月24日 にち で終 お わっている[ 277] 。
井上 いのうえ は社会 しゃかい 保険 ほけん に加入 かにゅう していず、所持 しょじ 金 きん もなく、満足 まんぞく な治療 ちりょう を受 う けられない状況 じょうきょう だった。偶然 ぐうぜん にも分 ぶん 院長 いんちょう が井上 いのうえ と親 した しい山本 やまもと 善雄 よしお 少将 しょうしょう の近親 きんしん 者 しゃ で、搬送 はんそう された患者 かんじゃ 「井上 いのうえ 成美 まさみ 」が、かつての海軍 かいぐん 大将 たいしょう であることに気 き づいて、分 ぶん 院 いん の総力 そうりょく を挙 あ げての応急 おうきゅう 治療 ちりょう がなされた。井上 いのうえ は、症状 しょうじょう が安定 あんてい した4日 にち 後 ご に市立 しりつ 横須賀 よこすか 病院 びょういん の本 ほん 院 いん へ搬送 はんそう された。本 ほん 院 いん の院長 いんちょう が、機転 きてん を利 き かせて、旧 きゅう 海軍 かいぐん 料亭 りょうてい 「小松 こまつ 」に井上 いのうえ の状況 じょうきょう を通知 つうち し、「小松 こまつ 」を介 かい して井上 いのうえ の窮境 きゅうきょう が海軍 かいぐん 関係 かんけい 者 しゃ に伝 つた わり、多数 たすう の海軍 かいぐん 関係 かんけい 者 しゃ ・縁故 えんこ 者 しゃ の手 て が差 さ し伸 の べられた[ 278] 。市立 しりつ 横須賀 よこすか 病院 びょういん で定期 ていき 的 てき に診療 しんりょう していた、千葉大学 ちばだいがく 医学部 いがくぶ 第 だい 二 に 外科 げか 教授 きょうじゅ ・中山 なかやま 恒明 つねあき の執刀 しっとう で、井上 いのうえ の手術 しゅじゅつ は成功 せいこう した。治療 ちりょう 費 ひ の拠出 きょしゅつ 、著名 ちょめい な外科 げか 医 い である中山 なかやま の執刀 しっとう 、いずれも海軍 かいぐん 関係 かんけい 者 しゃ の尽力 じんりょく による[ 279] 。井上 いのうえ が市立 しりつ 横須賀 よこすか 病院 びょういん に入院 にゅういん 中 ちゅう の8月 がつ 1日 にち に4月 がつ から遡及 そきゅう して支払 しはら われる規定 きてい で軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう が復活 ふっかつ した。山上 さんじょう 中佐 ちゅうさ は、井上 いのうえ が早期 そうき に軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう を受給 じゅきゅう できるように東京 とうきょう 都 と 民政 みんせい 局 きょく へ脚 あし を運 はこ んで係官 かかりかん と相談 そうだん した。井上 いのうえ が海軍 かいぐん 次官 じかん (文官 ぶんかん 扱 あつか い)を経験 けいけん したことから、文官 ぶんかん 恩給 おんきゅう を申請 しんせい する資格 しかく があること、武官 ぶかん 恩給 おんきゅう の年金 ねんきん 額 がく より多 おお くなるならば、文官 ぶんかん 恩給 おんきゅう を申請 しんせい した方 ほう が良 よ いという示唆 しさ を受 う けた。山上 さんじょう がその旨 むね を井上 いのうえ に伝 つた えた所 ところ 、井上 いのうえ は「海軍 かいぐん 士官 しかん であった者 もの として生涯 しょうがい を終 お えたい。金額 きんがく が仮 かり に不利 ふり であっても、武官 ぶかん の恩給 おんきゅう を申請 しんせい する」と返答 へんとう した[ 280] 。
井上 いのうえ は、8月 がつ 末 まつ に市立 しりつ 横須賀 よこすか 病院 びょういん を退院 たいいん して長井 ながい の自宅 じたく に戻 もど った後 のち 、軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう が復活 ふっかつ して一応 いちおう の生活 せいかつ の目処 めど が立 た ったためか、田原 たはら 富士子 ふじこ と同年 どうねん の秋 あき に再婚 さいこん した[ 281] 。田原 たはら 富士子 ふじこ は、井上 いのうえ の書 か いた書面 しょめん によると、1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )12月に埼玉 さいたま 県 けん で医師 いし の娘 むすめ として出生 しゅっしょう 、田原 たはら 某 ぼう と結婚 けっこん するも死別 しべつ 、花柳 かりゅう 流 りゅう 日本 にっぽん 舞踊 ぶよう の名取 なとり 、井上 いのうえ より10歳 さい 年下 としした で、井上 いのうえ と結婚 けっこん した時 とき は53歳 さい であった[ 282] 。1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )12月に『東京 とうきょう タイムズ』に掲載 けいさい された井上 いのうえ についての記事 きじ を読 よ み、記事 きじ から伝 つた わる井上 いのうえ の高潔 こうけつ な人格 じんかく に敬服 けいふく して、貧窮 ひんきゅう に苦 くる しむ井上 いのうえ に援助 えんじょ の手 て を差 さ し伸 の べたいと考 かんが えたという。東京 とうきょう タイムズの記者 きしゃ の紹介 しょうかい で、翌 よく 1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )に長井 ながい に移住 いじゅう し、井上 いのうえ の長兄 ちょうけい の秀 しゅう 二 に の別荘 べっそう を借 か りて住 す み始 はじ め、ご馳走 ちそう を作 つく って井上 いのうえ に届 とど けるなど、井上 いのうえ との交際 こうさい を深 ふか めて行 い った。井上 いのうえ が、1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )6月 がつ に胃潰瘍 いかいよう で大量 たいりょう の吐血 とけつ をした際 さい 、井上 いのうえ は駆 か けつけた近所 きんじょ の人 ひと に「隣 となり の奥 おく さんを呼 よ んで来 き て下 くだ さい」と書 か いた紙 かみ を渡 わた した。医師 いし の娘 むすめ である富士子 ふじこ は多少 たしょう の医学 いがく ・薬学 やくがく の知識 ちしき を有 ゆう しており、吐血 とけつ の際 さい の応急 おうきゅう 処置 しょち 、医師 いし への連絡 れんらく などを適切 てきせつ に行 おこな うことが出来 でき た[ 283] 。富士子 ふじこ は、井上 いのうえ が市立 しりつ 横須賀 よこすか 病院 びょういん に入院 にゅういん している最中 さいちゅう には常 つね に付 つ き添 そ い(井上 いのうえ の姪 めい の伊藤 いとう 由里子 ゆりこ と交代 こうたい で付 つ き添 そ った[ 284] )、下 した の世話 せわ も厭 いと わずに献身 けんしん 的 てき に世話 せわ をした[ 285] 。
井上 いのうえ は死去 しきょ の前年 ぜんねん の1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )、山上 さんじょう 中佐 ちゅうさ に「富士子 ふじこ は私 わたし の看護 かんご のために結婚 けっこん してくれたようなもので、何 なん らの楽 たの しみも与 あた えることができず、誠 まこと に気 き の毒 どく だ。私 わたし の万 まん 一 いち の場合 ばあい に、富士子 ふじこ の身 み の上 うえ が一番 いちばん 心配 しんぱい だった。しかし、(兵 へい 学校 がっこう の)生徒 せいと 諸君 しょくん が援助 えんじょ を約束 やくそく してくれているのでほっとしているよ」と述 の べており、富士子 ふじこ に深 ふか く感謝 かんしゃ していた様子 ようす がうかがえる。[ 286] 井上 いのうえ が死去 しきょ し、富士子 ふじこ が入院 にゅういん して空 あ き家 や となった井上 いのうえ 宅 たく を整理 せいり していた者 もの が、「井上 いのうえ 富士子 ふじこ 」名義 めいぎ の預金 よきん 通帳 つうちょう を発見 はっけん した。預金 よきん 通帳 つうちょう には、兵 へい 学校 がっこう 時代 じだい の教 おし え子 ご である深田 ふかた 秀明 ひであき (兵 へい 73期 き )が「管理 かんり 料 りょう 」の名目 めいもく で晩年 ばんねん の井上 いのうえ に送 おく った金額 きんがく が、そっくり預金 よきん されていたという[ 287] [ 注釈 ちゅうしゃく 38] 。
軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう の復活 ふっかつ により、井上 いのうえ の生活 せいかつ は一応 いちおう 安定 あんてい したが、恩給 おんきゅう のみでの生活 せいかつ は楽 らく ではなかった。この時期 じき [ 注釈 ちゅうしゃく 39] 、矢野 やの 志 こころざし 加 か 三 さん 中将 ちゅうじょう は日平 ひびら 産業 さんぎょう [ 注釈 ちゅうしゃく 40] の社長 しゃちょう を務 つと め、実業 じつぎょう 界 かい で一定 いってい の地位 ちい を築 きず いていた。矢野 やの は、井上 いのうえ の生活 せいかつ を心配 しんぱい して、井上 いのうえ を一流 いちりゅう 会社 かいしゃ の顧問 こもん に推薦 すいせん したいと再三 さいさん 打診 だしん したが、井上 いのうえ は頑 かたく なに拒否 きょひ した[ 289] 。また、戦後 せんご のこの時期 じき までに井上 いのうえ と接触 せっしょく した旧 きゅう 部下 ぶか 有志 ゆうし (主 おも に、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 長官 ちょうかん 時代 じだい の幕僚 ばくりょう と、兵学 へいがく 校長 こうちょう 時代 じだい の教官 きょうかん ・教 おし え子 ご )の協力 きょうりょく による金銭 きんせん 援助 えんじょ すらも、井上 いのうえ は全 すべ て断 ことわ っていた[ 290] 。
井上 いのうえ 自身 じしん は、軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう のみではいずれは生活 せいかつ が行 い き詰 づ まると考 かんが え、長井 ながい の自宅 じたく を売却 ばいきゃく してもう少 すこ し便利 べんり な場所 ばしょ に小 ちい さな家 いえ を建 た て残金 ざんきん を老後 ろうご 資金 しきん に充 あ てたいと考 かんが えていた。ところが、この頃 ころ の井上 いのうえ 宅 たく は自動車 じどうしゃ の入 い れない細道 ほそみち を歩 ある いて行 い かないと玄関 げんかん 先 さき に辿 たど り着 つ けなくなっており、横須賀 よこすか 市 し の市街地 しがいち や逗子 ずし 方面 ほうめん へ出 で るのも困難 こんなん 、かつ別荘 べっそう 地 ち としての発展 はってん も見込 みこ めず[ 63] 、井上 いのうえ の期待 きたい する、代替 だいたい の住宅 じゅうたく と老後 ろうご 資金 しきん を確保 かくほ できるだけの値 ね で売 う れる見込 みこみ はなかった[ 291] 。1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )、井上 いのうえ の兵学 へいがく 校長 こうちょう 時代 じだい の教 おし え子 ご で、井上 いのうえ に心酔 しんすい しており、実業 じつぎょう 界 かい で成功 せいこう を収 おさ めていた深田 ふかた 秀明 ひであき が、井上 いのうえ を「子供 こども (兵 へい 学校 がっこう 生徒 せいと )が立派 りっぱ に成長 せいちょう して小遣 こづか いを持 も って訪 たず ねて来 き たのに、それを受 う け取 と らぬ親 おや (兵学 へいがく 校長 こうちょう )がどこにいますか」と言 い う理屈 りくつ で説得 せっとく して、金銭 きんせん 援助 えんじょ を受 う け入 い れさせることに成功 せいこう した[ 291] 。深田 ふかた は、まず井上 いのうえ を自分 じぶん の会社 かいしゃ の顧問 こもん として顧問 こもん 料 りょう を月々 つきづき 支払 しはら い(当初 とうしょ は5千 せん 円 えん 、1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )頃 ごろ から1万 まん 円 えん [ 292] )、次 つ いで井上 いのうえ 宅 たく を深田 ふかた の会社 かいしゃ が買 か い取 と り、井上 いのうえ 夫婦 ふうふ に「管理 かんり 料 りょう 」を月々 つきづき 支払 しはら う形式 けいしき で、井上 いのうえ の死去 しきょ まで金銭 きんせん 援助 えんじょ を続 つづ けた[ 293] 。井上 いのうえ は深田 ふかた の好意 こうい を受 う ける代 か わりに土地 とち 家屋 かおく を無償 むしょう で譲渡 じょうと したいと深田 ふかた に申 もう し入 い れ、固辞 こじ した深田 ふかた が井上 いのうえ の再三 さいさん の申 もう し出 で に負 ま け、井上 いのうえ 宅 たく を深田 ふかた の会社 かいしゃ が「適正 てきせい な価格 かかく 」で買 か い取 と った。深田 ふかた は複数 ふくすう の不動産 ふどうさん 屋 や に井上 いのうえ 宅 たく の時価 じか を評価 ひょうか させ、売買 ばいばい 契約 けいやく 書 しょ を公正 こうせい 証書 しょうしょ とした。契約 けいやく 内容 ないよう は「井上 いのうえ 夫婦 ふうふ のいずれか一方 いっぽう が存命 ぞんめい 中 ちゅう は無償 むしょう で不動産 ふどうさん を使用 しよう でき、売却 ばいきゃく 代金 だいきん に加 くわ えて、管理 かんり 費用 ひよう として毎月 まいつき 一定 いってい の金額 きんがく (5万 まん 円 えん [ 294] )を深田 ふかた の会社 かいしゃ が井上 いのうえ に支払 しはら う」という破格 はかく のものであった[ 注釈 ちゅうしゃく 41] 。
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )10月 がつ 23日 にち に、第 だい 四 よん 艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ 幕僚 ばくりょう の親睦 しんぼく 会 かい 「珊瑚 さんご 会 かい 」と、深田 ふかた を中心 ちゅうしん とする兵 へい 学校 がっこう 73期 き 前後 ぜんこう の生徒 せいと 有志 ゆうし により、井上 いのうえ の喜寿 きじゅ を祝 いわ う会 かい が東京 とうきょう ・新宿 しんじゅく の「古 こ 鷹 たか ビル」(深田 ふかた の会社 かいしゃ の本社 ほんしゃ ビル)[ 注釈 ちゅうしゃく 42] で開催 かいさい された。戦後 せんご の井上 いのうえ が上京 じょうきょう し、人前 ひとまえ に出 で た数少 かずすく ない事例 じれい 。この際 さい に、井上 いのうえ はイタリア駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん に赴任 ふにん する際 さい に同 おな じ船 せん に乗 の り合 あ わせて知 し り合 あ った彫刻 ちょうこく 家 か ・日 にち 名子 なご 実三 じつぞう がローマで制作 せいさく し、井上 いのうえ の帰国 きこく 後 ご は、長井 ながい の自宅 じたく 玄関 げんかん 広間 ひろま に置 お かれていた[ 296] 、第 だい 一種 いっしゅ 軍装 ぐんそう ・勲章 くんしょう 佩用 はいよう のブロンズ胸像 きょうぞう を持参 じさん して深田 ふかた に託 たく した[ 297] 。井上 いのうえ の胸像 きょうぞう は、深田 ふかた の会社 かいしゃ の事務 じむ 室 しつ に飾 かざ られることが決 き まった[ 298] 。井上 いのうえ が死去 しきょ した後 のち 、井上 いのうえ の伝記 でんき の編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい が組織 そしき され、事務 じむ 局 きょく が「古 こ 鷹 たか ビル」の地下 ちか 一 いち 階 かい の小 しょう 部屋 へや に設 もう けられた。井上 いのうえ の胸像 きょうぞう は、この「井上 いのうえ 成美 まさみ 伝記 でんき 編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい 事務 じむ 局 きょく 室 しつ 」に置 お かれていた[ 296] [ 注釈 ちゅうしゃく 43] 。
井上 いのうえ は、1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )春 はる に風邪 かぜ をこじらせて横須賀 よこすか 市民 しみん 病院 びょういん に半年 はんとし 入院 にゅういん した[ 286] 。井上 いのうえ は、発熱 はつねつ した時 とき に体 からだ を震 ふる わせて「早 はや くしないと若 わか い者 しゃ たちがどんどん死 し んでしまう。早 はや くなんとか急 いそ がねば…」と叫 さけ んだという[ 299] 。退院 たいいん 後 ご は、一 いち 日 にち の大半 たいはん を床 ゆか の中 なか で過 すご すようになった。暖 あたた かい日 ひ に部屋 へや の中 なか を歩 ある いたり、庭 にわ を散歩 さんぽ することもあった。そして、1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )12月15日 にち 午後 ごご 5時 じ 過 す ぎに老衰 ろうすい で死去 しきょ した。86歳 さい 没 ぼつ 。亡 な くなった日 ひ は、井上 いのうえ は朝 あさ から床 ゆか に伏 ふ していたが、夕刻 ゆうこく 5時 じ 近 ちか くになって、付 つ き添 そ っていた富士子 ふじこ の目 め を盗 ぬす んでそっと起 お き上 あ がり、居間 いま の窓 まど の敷居 しきい をまたいでベランダに出 で て、太平洋 たいへいよう を眺 なが めていた。富士子 ふじこ が気 き づいた時 とき は、再 ふたた び窓 まど の敷居 しきい をまたいで部屋 へや に帰 かえ る所 ところ であり、床 ゆか に戻 もど って間 ま もなく息 いき を引 ひ き取 と ったという[ 300] 。富士子 ふじこ が聞 き いた最期 さいご の言葉 ことば は、「海 うみ が…、江田島 えたじま へ…」だった[ 301] 。
生前 せいぜん から葬儀 そうぎ は簡素 かんそ にして欲 ほ しいという話 はなし を教 おし え子 ご らにしていた井上 いのうえ の遺志 いし に沿 そ った簡素 かんそ な葬儀 そうぎ が、英語 えいご 塾 じゅく の元 もと 生徒 せいと が住職 じゅうしょく を務 つと める長井 ながい の勧 すすむ 明寺 あけてら で12月17日 にち に挙行 きょこう された。昭和 しょうわ 天皇 てんのう から祭祀 さいし 料 りょう 1万 まん 5千 せん 円 えん が下賜 かし された。葬儀 そうぎ 委員 いいん 長 ちょう は海兵 かいへい 37期 き クラス会 かい 幹事 かんじ の中村 なかむら 一夫 かずお 少将 しょうしょう [ 302] 、参列 さんれつ 者 しゃ は305名 めい に及 およ んだ[ 303] 。高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち も葬儀 そうぎ に参列 さんれつ した。病身 びょうしん の高木 たかぎ は医者 いしゃ から安静 あんせい を命 めい じられていたが「井上 いのうえ さんの葬儀 そうぎ にはどんなことがあっても行 い かなければ気 き が済 す まない。そのために死 し んだって本望 ほんもう だ」と家族 かぞく の制止 せいし を振 ふ り切 き って参列 さんれつ した。寺 てら の本堂 ほんどう に入 はい るよう勧 すす められても固辞 こじ して、屋外 おくがい の椅子 いす に座 すわ って12月の海風 かいふう に身 み を曝 さら していた高木 たかぎ は、肺炎 はいえん を起 お こして危篤 きとく 状態 じょうたい となり、長期 ちょうき 療養 りょうよう を余儀 よぎ なくされた[ 304] 。
1976年 ねん (昭和 しょうわ 51年 ねん )1月 がつ 31日 にち に、「井上 いのうえ 成美 まさみ 追悼 ついとう 会 かい 」が東京 とうきょう ・原宿 はらじゅく の東郷 とうごう 記念 きねん 館 かん で催 もよお された。兵 へい 71期 き - 78期 き のクラス会 かい が世話人 せわにん となった。主催 しゅさい 者 しゃ の予想 よそう を遥 はる かに超 こ える715名 めい が参列 さんれつ したため、用意 ようい された椅子 いす に座 すわ れたのは参列 さんれつ 者 しゃ の1/3に過 す ぎず、会場 かいじょう の外 そと に参列 さんれつ 者 しゃ が溢 あふ れた。戦後 せんご の海軍 かいぐん 関係 かんけい の集会 しゅうかい では最大 さいだい の人数 にんずう であった。追悼 ついとう 会 かい は3時 じ 間 あいだ に渡 わた り、中村 なかむら 一夫 かずお の悼辞 とうじ で締 し めくくられた[ 305] 。未亡人 みぼうじん となった富士子 ふじこ は、井上 いのうえ の死後 しご 2か月 げつ 余 あま りの2月 がつ 26日 にち に、長井 ながい の自宅 じたく に通 つう じる農道 のうどう で転倒 てんとう し、横須賀 よこすか 市民 しみん 病院 びょういん に入院 にゅういん した。同 どう 病院 びょういん に勤務 きんむ する、生前 せいぜん の井上 いのうえ の主治医 しゅじい (兵 へい 学校 がっこう 時代 じだい の教 おし え子 ご )が治療 ちりょう したが、富士子 ふじこ の心身 しんしん は急速 きゅうそく に衰 おとろ え、認知 にんち 症 しょう が悪化 あっか した。富士子 ふじこ は老人 ろうじん 病院 びょういん に転院 てんいん し、井上 いのうえ を追 お うように1977年 ねん (昭和 しょうわ 52年 ねん )6月 がつ 16日 にち に満 まん 76歳 さい で死去 しきょ した[ 306] 。
死 し の2ヵ月 かげつ 後 ご に発見 はっけん された井上 いのうえ の遺書 いしょ は、表 ひょう に『井上 いのうえ 成美 まさみ 遺書 いしょ 』と書 か かれた白 しろ い封筒 ふうとう に入 はい っていた[ 注釈 ちゅうしゃく 45] 。
井上 いのうえ 夫妻 ふさい の死後 しご 、旧 きゅう 邸宅 ていたく は空 あ き家 や となるがこの家 いえ で教 おし えをうけた英語 えいご 塾 じゅく の塾生 じゅくせい のひとりが夫婦 ふうふ で25年間 ねんかん 、空 あ き家 や を守 まも り続 つづ けていた。庭 にわ の手入 てい れも行 い き届 とど き、昔 むかし のまま保存 ほぞん されていた。しかし、1999年 ねん (平成 へいせい 11年 ねん )の横須賀 よこすか 市議会 しぎかい で、議員 ぎいん の磯崎 いそざき 満男 みつお が「家屋 かおく の傷 いた みが進 すす む一方 いっぽう で、長年 ながねん 経過 けいか してきた今 いま では屋根 やね がわらのかなりの部分 ぶぶん が崩壊 ほうかい し、室内 しつない から青空 あおぞら が丸見 まるみ え、雨水 あまみず が直接 ちょくせつ 流 なが れ込 こ み、床下 ゆかした 全域 ぜんいき に満遍 まんべん なく浸透 しんとう し、全体 ぜんたい が修復 しゅうふく 困難 こんなん なほど腐 くさ りかけ」と井上 いのうえ 旧宅 きゅうたく の状況 じょうきょう を述 の べている[ 307] 。
2007年 ねん (平成 へいせい 19年 ねん )、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 時代 じだい の教 おし え子 ご の次 つぎ の世代 せだい の家族 かぞく が引 ひ き継 つ いで、すっかり外観 がいかん の装 よそお いも新 あたら しくなり、井上 いのうえ が住 す んでいた頃 ころ の名残 なごり をとどめるのは、暖炉 だんろ の煙突 えんとつ だけとなった。井上 いのうえ が起居 ききょ した部屋 へや から見 み えた荒崎 あらさき 海岸 かいがん は昔 むかし と変 かわ っていない[ 308] 。旧 きゅう 井上 いのうえ 邸 てい は、居間 いま の暖炉 だんろ など一部 いちぶ が保存 ほぞん され、小規模 しょうきぼ ながら「井上 いのうえ 成美 まさみ 記念 きねん 館 かん 」として公開 こうかい されていたが、2011年 ねん の東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい の被害 ひがい により閉館 へいかん した[ 309] 。
2024年 ねん (令 れい 和 わ 6年 ねん )、老朽 ろうきゅう 化 か などにより旧 きゅう 井上 いのうえ 邸 てい は解体 かいたい されることとなった。解体 かいたい 後 ご は別荘 べっそう 地 ち になるとのことである[ 310] 。
山本 やまもと 善雄 よしお 少将 しょうしょう によれば、「(井上 いのうえ が)面白味 おもしろみ がない、人間 にんげん 的 てき に冷 つめ たいと言 い う人 ひと がいるがそれは違 ちが うと思 おも う。公務 こうむ の時 とき には表 ひょう に出 で ない内面 ないめん の優 やさ しさや温 あたた かさを、女 おんな が敏感 びんかん に感 かん じ取 と っている。だからあれだけ芸者 げいしゃ たちに慕 した われるんだ」という[ 311] 。千早 ちはや 正隆 まさたか 中佐 ちゅうさ は「井上 いのうえ は日本 にっぽん 海軍 かいぐん で稀 まれ に見 み る軍政 ぐんせい 家 か であり、そして教育 きょういく 家 か であった」と評価 ひょうか する[ 312] 。井上 いのうえ の支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう 時代 じだい ・海軍 かいぐん 次官 じかん 時代 じだい の部下 ぶか で、戦後 せんご 第 だい 二 に 復員 ふくいん 省 しょう 総務 そうむ 局 きょく に所属 しょぞく していた中山 なかやま 定義 さだよし 中佐 ちゅうさ によると、ある日 ひ 井上 いのうえ が、ボストンバッグに長井 ながい 名産 めいさん らしい小 こ ぶりのミカンを詰 つ め込 こ んで、中山 なかやま の職場 しょくば に慰問 いもん に来 き てくれた。この際 さい の井上 いのうえ は、きちんとした背広 せびろ を着 き て、あまり貧乏 びんぼう くさくはなく、なかなか元気 げんき そうであった。中山 ちゅうざん は、元 もと の大将 たいしょう ・中将 ちゅうじょう で、旧 きゅう 部下 ぶか の復員 ふくいん 官 かん にこのような気配 きくば りをしてくれたのは井上 いのうえ だけだったと言 い う[ 313] 。
ギターを弾 ひ く井上 いのうえ
井上 いのうえ は音楽 おんがく が好 す きで、琴 きん の名手 めいしゅ であった母親 ははおや 譲 ゆず りで、琴 きん をはじめとして、ピアノ ・ギター ・アコーディオン ・ヴァイオリン などを奏 そう きこなした。海軍 かいぐん 士官 しかん 時代 じだい 、井上 いのうえ の音楽 おんがく 好 す きは海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない で有名 ゆうめい で、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう 時代 じだい に、上海 しゃんはい 水 すい 交社に臨時 りんじ に司令 しれい 部 ぶ を置 お いていた時 とき には夜 よる にピアノやヴァイオリンを奏 かなで いたり、宴席 えんせき で芸者 げいしゃ と琴 きん の合奏 がっそう をほぼぶっつけ本番 ほんばん で披露 ひろう して周囲 しゅうい の舌 した を巻 ま かせたり[ 314] と言 い ったエピソードが多 おお い。戦後 せんご に開 ひら いていた英語 えいご 塾 じゅく では、ギターやアコーディオンで「弾 ひ き語 がた り」をし、生徒 せいと に英語 えいご の歌 うた を歌 うた わせた[ 315] 。ギターやアコーディオンの個人 こじん 指導 しどう もした[ 262] 。戦後 せんご 、横須賀 よこすか 市 し 長井 ながい に隠棲 いんせい する井上 いのうえ を訪 たず ねた「比叡 ひえい 」艦長 かんちょう 時代 じだい の部下 ぶか の今川 いまがわ 福雄 ふくお 大佐 たいさ (兵 へい 52期 き [ 316] )に、「私 わたし は海軍 かいぐん に入 はい っていなかったら、今 いま ごろきっとお琴 きん の師匠 ししょう で身 み を立 た てていただろうと思 おも います」と語 かた った[ 317] 。
井上 いのうえ は、兵 へい 学校 がっこう 校長 こうちょう 時代 じだい に生徒 せいと や教官 きょうかん の数学 すうがく 的 てき 思考 しこう を養 やしな うための「数学 すうがく パズル」を考案 こうあん して数学 すうがく 教育 きょういく に利用 りよう させ、海軍 かいぐん 次官 じかん になった後 のち も暇 ひま さえあればそれを楽 たの しんでいた。終戦 しゅうせん 直後 ちょくご に「サン・パズル」という名前 なまえ でアメリカ に販売 はんばい しようとした。日米 にちべい 開戦 かいせん 時 じ の駐米 ちゅうべい 大使館 たいしかん 附 ふ 武官 ぶかん で、アメリカに知己 ちき の多 おお い横山 よこやま 一郎 いちろう 少将 しょうしょう の助 たす けを得 え たが、この企画 きかく は実現 じつげん しなかった[ 318] 。「数学 すうがく パズル」は、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )の、財団 ざいだん 法人 ほうじん 東京 とうきょう 水 すい 交社機関 きかん 誌 し 「水 みず 交社記事 きじ 」に、井上 いのうえ が執筆 しっぴつ した詳細 しょうさい な遊 あそ び方 かた 、図解 ずかい 、数学 すうがく 的 てき な解説 かいせつ が掲載 けいさい された。この記事 きじ が、井上 いのうえ 成美 まさみ 伝記 でんき 刊行 かんこう 会 かい 編著 へんちょ 『井上 いのうえ 成美 まさみ 』井上 いのうえ 成美 まさみ 伝記 でんき 刊行 かんこう 会 かい 、1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )、資料 しりょう 編 へん 221-228頁 ぺーじ に完全 かんぜん 収録 しゅうろく されている。
今川 いまがわ 福雄 ふくお 大佐 たいさ が、戦後 せんご に英語 えいご 塾 じゅく を開 ひら いていた井上 いのうえ に「井上 いのうえ さんは語学 ごがく の才能 さいのう に恵 めぐ まれているから、(新制 しんせい の)中学生 ちゅうがくせい に(初歩 しょほ の)英語 えいご を教 おし えるくらい、わけないでしょう」という旨 むね を言 い うと、井上 いのうえ は「それは間違 まちが っています。私 わたし は私 わたし なりに努力 どりょく したのです。イタリア駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん に赴任 ふにん する際 さい には、一 いち か月 げつ の船旅 ふなたび の間 あいだ にイタリア語 ご の独習 どくしゅう 書 しょ をひもといて現地 げんち に到着 とうちゃく したら何 なに とかカタコトでも会話 かいわ ができるようになりたいと努力 どりょく しました、人 ひと はこの(自分 じぶん の陰 かげ の)努力 どりょく を知 し らずに語学 ごがく の天才 てんさい のように言 い うのですが、それは誤 あやま りです」という旨 むね を答 こた えた。なお、井上 いのうえ はイタリア駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん に着任 ちゃくにん 後 ご 、大使館 たいしかん のタイピスト嬢 じょう (元 もと 小学校 しょうがっこう 教師 きょうし )に師事 しじ し、毎朝 まいあさ 1時 じ 間 あいだ イタリア語 ご を勉強 べんきょう した[ 319] 。
1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )頃 ごろ 東大 とうだい 経済学部 けいざいがくぶ の安藤 あんどう 良雄 よしお 教授 きょうじゅ の「(井上 いのうえ さんが)生涯 しょうがい を通 つう じて堅持 けんじ して来 きた られたのはリベラリズム ということになりましょうか」と質問 しつもん に、井上 いのうえ は「いえ、その(リベラリズムの)上 じょう にラディカルという字 じ が入 はい ります」と答 こた えた[ 320] 。
酒 さけ はほとんど嗜 たしな まなかった[ 321] 。「海軍 かいぐん には無礼講 ぶれいこう はない」と公言 こうげん していた[ 322] 。井上 いのうえ は米内 よない 光政 みつまさ を大 だい 提督 ていとく の貫禄 かんろく があるといって尊敬 そんけい していた[ 323] が、戦後 せんご に兵 へい 学校 がっこう 時代 じだい の教 おし え子 ご が米 べい 内 ない を評 ひょう して「(米 べい 内 ない が)酔払 よっぱら って羽目 はめ を外 はず すのも人間味 にんげんみ があっていいではないですか」と言 い うと、井上 いのうえ は「あれは醜態 しゅうたい で、私 わたし は好 す かない」とにべもなかった[ 324] 。井上 いのうえ は44歳 さい で大佐 たいさ の時 とき に妻 つま の喜久代 きくよ に先立 さきだ たれた後 のち 、女性 じょせい に対 たい して極 きわ めて禁欲 きんよく 的 てき だった[ 285] 。妻 つま を亡 な くしてから海軍 かいぐん が消滅 しょうめつ するまで、宴席 えんせき で料亭 りょうてい に行 い っても、他 た の高級 こうきゅう 士官 しかん のように芸妓 げいぎ と遊 あそ ぶ(一夜 いちや を共 とも にする)事 こと はなかったが、参謀 さんぼう 長 ちょう の際 さい に一 いち 度 ど だけ芸妓 げいぎ と泊 と まったことがあり、名指 なざ しされた芸妓 げいぎ が驚 おどろ いた程 ほど であった。しかし、その芸妓 げいぎ とコンドームの使用 しよう を巡 めぐ って押 お し問答 もんどう となり、結局 けっきょく 何 なに もせずに終 お わった[ 325] 。昭和 しょうわ 40年代 ねんだい 、晩年 ばんねん の井上 いのうえ を経済 けいざい 的 てき にバックアップしていた兵学 へいがく 校長 こうちょう 時代 じだい の教 おし え子 ご の深田 ふかた 秀明 ひであき (兵 へい 73期 き )の質問 しつもん に井上 いのうえ は、「私 わたし は先妻 せんさい の喜久代 きくよ を結核 けっかく で亡 な くしました。娘 むすめ も私 わたし も、これに感染 かんせん している恐 おそ れが十分 じゅうぶん ありました。事実 じじつ 、娘 むすめ の靚子は戦時 せんじ 中 ちゅう に結核 けっかく を発病 はつびょう して夭折 ようせつ しました。だから、コンサンプションと呼 よ ばれる胸部 きょうぶ 疾患 しっかん に私 わたし は極 きわ めて神経質 しんけいしつ で、それを警戒 けいかい してずっと禁欲 きんよく 生活 せいかつ を続 つづ けてきた」と語 かた った[ 326] 。
軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう の井上 いのうえ と米内 よない 光政 みつまさ 海軍 かいぐん 大臣 だいじん 、山本 やまもと 五十六 いそろく 海軍 かいぐん 次官 じかん の海軍 かいぐん 省 しょう の要職 ようしょく にいた三 さん 人 にん は「海軍 かいぐん 省 しょう の左派 さは トリオ 」と呼 よ ばれ、「日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい 」に反対 はんたい していた[ 82] 。
井上 いのうえ は、三 さん 国 こく 同盟 どうめい 締結 ていけつ の得失 とくしつ を次 つぎ のように考 かんが えていたという。
経済 けいざい 的 てき に見 み て、三 さん 国 こく 同盟 どうめい は論外 ろんがい 。日本 にっぽん 経済 けいざい は、そのほとんどを米 べい 英 えい 圏 けん に依存 いぞん している。特 とく に海軍 かいぐん にとって最 さい 重要 じゅうよう の石油 せきゆ と屑鉄 くずてつ はアメリカから購入 こうにゅう している。三 さん 国 こく 同盟 どうめい を結 むす べば、イギリス、さらにアメリカを敵 てき に回 まわ し、日本 にっぽん は石油 せきゆ と屑鉄 くずてつ の供給 きょうきゅう を絶 た たれる。
軍事 ぐんじ 的 てき に見 み て、三 さん 国 こく 同盟 どうめい は無意味 むいみ 。地理 ちり 的 てき に遠 とお く離 はな れた日本 にっぽん と独 どく ・伊 い は相互 そうご 援助 えんじょ が不可能 ふかのう である。ドイツのヒトラーは『Mein Kampf 』で述 の べているように、有色 ゆうしょく 人種 じんしゅ を蔑視 べっし して、ドイツ民族 みんぞく による世界 せかい 制覇 せいは を目指 めざ しており、いずれ破綻 はたん するのは目 め に見 み えている。
イタリア駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん 時代 じだい の経験 けいけん から、イタリアは、外見 がいけん は立派 りっぱ でも頼 たの むに足 た りない[ 327] 。
井上 いのうえ が三 さん 国 こく 同盟 どうめい に強力 きょうりょく に反対 はんたい した最大 さいだい の理由 りゆう は、ドイツが提案 ていあん してきた条約 じょうやく 案 あん に自動 じどう 参戦 さんせん 義務 ぎむ 条項 じょうこう 「独 どく 国 こく または伊 い 国 こく が戦争 せんそう 状態 じょうたい に入 はい った場合 ばあい は、日本 にっぽん は自動的 じどうてき に戦争 せんそう に加担 かたん する」があったためである[ 89] 。ただし、井上 いのうえ は日 にち 独 どく 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい には肯定 こうてい 的 てき であった。満 まん 洲 しゅう 事変 じへん 以後 いご の国際 こくさい 的 てき 孤立 こりつ 状態 じょうたい からの脱出 だっしゅつ と共産 きょうさん 主義 しゅぎ に反対 はんたい の立場 たちば からである[ 328] 。
井上 いのうえ は航空 こうくう 主 ぬし 兵 へい 論 ろん 者 もの の一人 ひとり であり、1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )に井上 いのうえ が⑤計画 けいかく に対 たい して出 だ した「新 しん 軍備 ぐんび 計画 けいかく 」の具体 ぐたい 案 あん は次 つぎ の通 とお り[ 329] [ 330] 。
航空機 こうくうき の発達 はったつ した今日 きょう 、之 これ からの戦争 せんそう では、主力 しゅりょく 艦隊 かんたい と主力 しゅりょく 艦隊 かんたい の決戦 けっせん は絶対 ぜったい に起 おこ らない。
巨額 きょがく の金 かね を食 く う戦艦 せんかん など建造 けんぞう する必要 ひつよう なし。敵 てき の戦艦 せんかん など何程 なにほど あろうと、我 が に充分 じゅうぶん な航空 こうくう 兵力 へいりょく あれば皆 みな 沈 しず めることが出来 でき る。
陸上 りくじょう 航空 こうくう 基地 きち は絶対 ぜったい に沈 しず まない航空 こうくう 母艦 ぼかん である。航空 こうくう 母艦 ぼかん は運 うん 動力 どうりょく を有 ゆう するから使用 しよう 上 じょう 便利 べんり ではあるが、極 きわ めて脆弱 ぜいじゃく である。故 ゆえ に海軍 かいぐん 航空 こうくう 兵力 へいりょく の主力 しゅりょく は基地 きち 航空 こうくう 兵力 へいりょく であるべきである。
対 たい アメリカ戦 せん に於 おい ては陸上 りくじょう 基地 きち は国防 こくぼう 兵力 へいりょく の主力 しゅりょく であって、太平洋 たいへいよう に散在 さんざい する島々 しまじま は天与 てんよ の宝 たから で非常 ひじょう に大切 たいせつ なものである。
対 たい アメリカ戦 せん では之 これ 等 とう の基地 きち 争奪 そうだつ 戦 せん が必 かなら ず主 しゅ 作戦 さくせん になることを断言 だんげん する。換言 かんげん すれば上陸 じょうりく 作戦 さくせん 並 なら びにその防禦 ぼうぎょ 戦 せん が主 しゅ 作戦 さくせん になる。
右 みぎ の意味 いみ から基地 きち の戦力 せんりょく の持続 じぞく が何 なに より大切 たいせつ なる故 ゆえ 、何 なに をさておいても、基地 きち の要塞 ようさい 化 か を急速 きゅうそく に実施 じっし すべきである。
従 したが って又 また 基地 きち 航空 こうくう 兵力 へいりょく 第 だい 一 いち 主義 しゅぎ で航空 こうくう 兵力 へいりょく を整備 せいび 充実 じゅうじつ すべきである。之 これ が為 ため 戦艦 せんかん 、巡洋艦 じゅんようかん の如 ごと きは犠牲 ぎせい にしてよろし。
次 つぎ に日本 にっぽん が生存 せいぞん し、且(かつ)、戦 せん を続 つづ ける為 ため には、海上 かいじょう 交通 こうつう の確保 かくほ は極 きわ めて大切 たいせつ であるから之 これ に要 よう する兵力 へいりょく は第 だい 二 に に充実 じゅうじつ するの要 よう あり。
潜水 せんすい 艦 かん は基地 きち 防禦 ぼうぎょ にも、通商 つうしょう 保護 ほご にも、攻撃 こうげき にも使 つか える艦 かん 種 しゅ なる故 ゆえ 、第 だい 三 さん 位 い に考 かんが えて充実 じゅうじつ すべき兵種 へいしゅ である。
妹尾 せのお 作 つくる 太 ふとし 男 おとこ 少尉 しょうい は、アメリカ海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう の機関 きかん 誌 し である『US Naval War College Review』1974年 ねん 1月 がつ 号 ごう ・2月 がつ 号 ごう に"A Chess Game with No Checkmate"と題 だい して「新 しん 軍備 ぐんび 計画 けいかく 論 ろん 」を紹介 しょうかい する論文 ろんぶん を寄稿 きこう 。アメリカ海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 、アメリカ各 かく 大学 だいがく の歴史 れきし 教授 きょうじゅ にかなりの感銘 かんめい を与 あた え、アメリカ海軍 かいぐん 大学 だいがく 校長 こうちょう から妹尾 せのお に所感 しょかん が寄 よ せられたという[ 331] 。
また、『日米 にちべい 戦争 せんそう の形態 けいたい 』の一節 いっせつ では「日本 にっぽん が米国 べいこく を破 やぶ り、彼 かれ を屈服 くっぷく することは不可能 ふかのう なり。其理由 りゆう は極 きわ めて明白 めいはく 簡単 かんたん にして…」と説明 せつめい し、その上 うえ で「米国 べいこく は、日本国 にっぽんこく 全土 ぜんど の占領 せんりょう も可能 かのう 。首都 しゅと の占領 せんりょう も可能 かのう 。作戦 さくせん 軍 ぐん の殲滅 せんめつ も可能 かのう なり。又 また 、海上 かいじょう 封鎖 ふうさ による海上 かいじょう 交通 こうつう 制圧 せいあつ による物資 ぶっし 窮乏 きゅうぼう に導 みちび き得 え る可能 かのう 性 せい 大 だい 」と述 の べており[ 332] 、太平洋戦争 たいへいようせんそう では、戦艦 せんかん 同士 どうし の艦隊 かんたい 決戦 けっせん は起 おこ らず、水上 すいじょう 艦 かん はアメリカ軍 ぐん 航空機 こうくうき や潜水 せんすい 艦 かん の餌食 えじき となり、戦況 せんきょう は太平洋 たいへいよう の島々 しまじま の争奪 そうだつ 戦 せん となり、米 べい 軍 ぐん は占領 せんりょう した島 しま を基地 きち として日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう を行 おこな ったことから、井上 いのうえ は太平洋戦争 たいへいようせんそう の経過 けいか を、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )の段階 だんかい で概 おおむ ね予想 よそう できていた[ 333] 。奥宮 おくのみや 正武 まさたけ は、井上 いのうえ 構想 こうそう における航空 こうくう 基地 きち 活用 かつよう は既存 きそん 航空 こうくう 基地 きち の総称 そうしょう であり、航空 こうくう 基地 きち 建設 けんせつ 能力 のうりょく ・海上 かいじょう 輸送 ゆそう と港湾 こうわん 設備 せつび について「井上 いのうえ の先見 せんけん の明 あかり をもってしても、なお予見 よけん できなかった分野 ぶんや があった」と評 ひょう している[ 330] 。
井上 いのうえ の指揮 しき に関 かん する評価 ひょうか はウェーク島 とう 攻略 こうりゃく 作戦 さくせん の遅滞 ちたい ・珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん の不 ふ 徹底 てってい ・ガダルカナル島 とう 進出 しんしゅつ 時 じ の失策 しっさく [ 143] などで次 つぎ の通 とお りだった。連合 れんごう 艦隊 かんたい 長官 ちょうかん ・山本 やまもと 五十六 いそろく 大将 たいしょう は堀 ほり 悌吉中将 ちゅうじょう (予備 よび 役 やく )に宛 あ てた1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )5月 がつ 24日 にち 付 づけ の書簡 しょかん で「井上 いのうえ はあまり戦 せん はうまくない」と書 か き、昭和 しょうわ 天皇 てんのう も海軍 かいぐん 大臣 だいじん 嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう 大将 たいしょう に「井上 いのうえ は学者 がくしゃ だから、戦 せん はあまりうまくない」と言 い ったという。中澤 なかざわ 佑 たすく 少将 しょうしょう が、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )12月に、海軍 かいぐん 省 しょう 人事 じんじ 局長 きょくちょう に就任 しゅうにん する際 さい に、前任 ぜんにん 者 しゃ から引 ひ き継 つ ぎを受 う けた際 さい に中沢 なかざわ が作成 さくせい したメモが残 のこ っており、井上 いのうえ に対 たい する、嶋田 しまだ 海 うみ 相 しょう の評 ひょう を記 しる した部分 ぶぶん には「(井上 いのうえ は)ウェーキ、コーラル海 うみ (珊瑚 さんご 海 うみ )、戦機 せんき 見 み る目 め なし。次官 じかん の望 のぞ みなし。徳望 とくぼう なし。航 こう 本 ほん (航空 こうくう 本部 ほんぶ )の実績 じっせき 上 あ がらず。兵学 へいがく 校長 こうちょう 、鎮(鎮守 ちんじゅ 府 ふ )長官 ちょうかん か。大将 たいしょう はダメ」と記 しる されている[ 334] 。
高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち 少将 しょうしょう によると、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )3月 がつ 7日 にち に、岡田 おかだ 啓介 けいすけ 海軍 かいぐん 大将 たいしょう が、戦 せん 勢 ぜい が日 ひ に日 ひ に非 ひ であるのを憂 うれ い(この時期 じき は、同年 どうねん 2月 がつ に、東條 とうじょう 英機 ひでき 首相 しゅしょう が、陸軍 りくぐん 大臣 だいじん と参謀 さんぼう 総長 そうちょう を兼任 けんにん し、嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう 海軍 かいぐん 大臣 だいじん が軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう を兼任 けんにん して、「東條 とうじょう 幕府 ばくふ 」と批判 ひはん される状況 じょうきょう )、熱海 あたみ で静養 せいよう 中 ちゅう の伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう 元帥 げんすい を訪問 ほうもん し、「米内 よない 光政 みつまさ 海軍 かいぐん 大将 たいしょう を現役 げんえき 復帰 ふっき させて海軍 かいぐん 大臣 だいじん にしてはどうか。海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない では、現役 げんえき 大将 たいしょう から選 えら ぶなら、豊田 とよだ 副 ふく 武 ぶ 大将 たいしょう 、中堅 ちゅうけん から選 えら ぶなら井上 いのうえ 成美 まさみ 中将 ちゅうじょう はどうかという声 こえ が高 たか い」と言 い う旨 むね を進言 しんげん した所 ところ 、伏見 ふしみ 宮 みや は「井上 いのうえ はいかぬ。あれは学者 がくしゃ だ。戦 せん には不向 ふむ きだ。珊瑚 さんご 海 うみ 海戦 かいせん の時 とき の指揮 しき は拙劣 せつれつ だった」という旨 むね を答 こた えた[ 145] 。
奥宮 おくのみや 正武 まさたけ (太平洋戦争 たいへいようせんそう 時 じ 、第 だい 二 に 航空 こうくう 戦隊 せんたい 参謀 さんぼう 等 とう )は「とかく、頭 あたま のよい人 ひと は、実戦 じっせん のさいには、粘 ねば り強 づよ さに欠 か ける例 れい が多 おお かった。井上 いのうえ 中将 ちゅうじょう もその一人 ひとり であった」[ 143] 「(米 べい 内 ない を補佐 ほさ して)終戦 しゅうせん 工作 こうさく に献身 けんしん した事 こと は高 たか く評価 ひょうか すべき」と評 ひょう している[ 330] 。
井上 いのうえ は軍事 ぐんじ 学 がく よりも普通 ふつう 学 がく を重視 じゅうし する教育 きょういく 方針 ほうしん を堅持 けんじ した。この方針 ほうしん は武官 ぶかん 教官 きょうかん の一部 いちぶ から強 つよ い反発 はんぱつ を受 う け、戦局 せんきょく の悪化 あっか で即 そく 戦力 せんりょく を求 もと める軍令 ぐんれい 部 ぶ や航空 こうくう 関係 かんけい 者 しゃ からも強 つよ く批判 ひはん された。井上 いのうえ は、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )10月 がつ に、長井 ながい の自宅 じたく を訪 おとず れた防衛大学校 ぼうえいだいがくこう 初代 しょだい 校長 こうちょう の槇 まき 智雄 ともお (井上 いのうえ と同郷 どうきょう )に、その心境 しんきょう を井上 いのうえ は「私 わたし は(槇 まき さんに)『ジェントルマンを作 つく るつもりで教育 きょういく しました』とお答 こた えしました。つまり兵隊 へいたい を作 つく るんじゃないということです。丁稚 でっち 教育 きょういく じゃないということです。それではそのジェントルマン教育 きょういく とは何 なに かということになれば、いろいろ言 い えるでしょうが、一 いち 例 れい を言 い ってみれば、イギリスのパブリック・スクールや、オックスフォード・ケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく における紳士 しんし 教育 きょういく のやり方 かた ですね。これは、それとは別 べつ の話 はなし ですが、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の折 おり 、イギリスの上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の人達 ひとたち が本当 ほんとう に勇敢 ゆうかん に戦 たたか いましたね。日 ひ ごろ国 こく から、優遇 ゆうぐう され、特権 とっけん を受 う けているのだから、今 いま こそ働 はたら かねばというわけで、これは軍人 ぐんじん だけじゃないですね。エリート教育 きょういく を受 う けた大半 たいはん の人達 ひとたち がそうでしたね。私 わたし は、一 いち 次 じ 大戦 たいせん の後 のち 、欧州 おうしゅう で数 すう 年 ねん 生活 せいかつ してみて、そのことを実感 じっかん として感 かん じました。『ジェントルマンなら、戦場 せんじょう に行 い っても兵隊 へいたい の上 うえ に立 た って戦 たたか える…ということです。ジェントルマンが持 も っているデューティとかレスポンシィビィリィティ、つまり義務 ぎむ 感 かん や責任 せきにん 感 かん …戦 たたか いにおいて大切 たいせつ なのはこれですね。その上 うえ 、士官 しかん としてもう一 ひと つ大切 たいせつ なものは教養 きょうよう です。艦 かん の操縦 そうじゅう や大砲 たいほう の射撃 しゃげき が上手 じょうず だということも大切 たいせつ ですが、せんじつめれば、そういう仕事 しごと は下士官 かしかん のする役割 やくわり です。そういう下士官 かしかん を指導 しどう するためには、教養 きょうよう が大切 たいせつ で、広 ひろ い教養 きょうよう があるかないか、それが専門 せんもん 的 てき な技術 ぎじゅつ を持 も つ下士官 かしかん と違 ちが ったところだと私 わたし は思 おも っておりました。ですから、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう は軍人 ぐんじん の学校 がっこう ではありますが、私 わたし は高等 こうとう 普通 ふつう 学 がく を重視 じゅうし しました。そして、文官 ぶんかん の先生 せんせい を努 つと めて優遇 ゆうぐう し、大事 だいじ にしたつもりです」と語 かた った[ 335] 。井上 いのうえ は、教官 きょうかん たちに「自分 じぶん がやりたいのは、ダルトン・プランのような 『生徒 せいと それぞれの天分 てんぶん を伸 の ばさせる天才 てんさい 教育 きょういく 』 ではない。兵 へい 学校 がっこう の教育 きょういく は 『画一 かくいつ 教育 きょういく 』 であるべき。兵 へい 学校 がっこう では、まず劣等 れっとう 者 しゃ をなくし、少尉 しょうい 任官 にんかん 後 ご に指揮 しき 権 けん を行使 こうし するのに最低 さいてい 限度 げんど 必要 ひつよう とされる智 さとし ・徳 とく ・体 からだ の能力 のうりょく を持 も たせて卒業 そつぎょう させ、その見込 みこ みのない者 もの は退校 たいこう させねばならない。兵 へい 学校 がっこう 教育 きょういく の目標 もくひょう は、結果 けっか として、少尉 しょうい 任官 にんかん に指揮 しき 権 けん を行使 こうし する最低 さいてい 限度 げんど 能力 のうりょく を持 も てないと見込 みこ まれる退校 たいこう 者 しゃ を出 だ さないよう、生徒 せいと をしっかり教育 きょういく することである」という旨 むね を示 しめ し、秀才 しゅうさい は放 はな っておけ、まず劣等 れっとう 者 しゃ をなくせ、と端 はし 的 てき に指示 しじ した[ 336] 。
井上 いのうえ が兵学 へいがく 校長 こうちょう 在任 ざいにん 中 ちゅう に兵 へい 学校 がっこう 生徒 せいと は激増 げきぞう したが、それを教育 きょういく する教官 きょうかん 、特 とく に普通 ふつう 学 がく 教官 きょうかん ・体育 たいいく 教官 きょうかん の充足 じゅうそく が困難 こんなん で、太平洋戦争 たいへいようせんそう 開戦 かいせん 後 ご に制度 せいど 化 か された一般 いっぱん 兵科 へいか 予備 よび 士官 しかん を活用 かつよう することとなった。予 あらかじ め、教官 きょうかん 配置 はいち に適 てき した大学生 だいがくせい 等 とう を「青田買 あおたが い」して(具体 ぐたい 的 てき な方法 ほうほう は出典 しゅってん 文献 ぶんけん に記載 きさい なし)、兵科 へいか 予備 よび 学生 がくせい として採用 さいよう し、兵科 へいか 予備 よび 士官 しかん の基礎 きそ 教育 きょういく (6か月 げつ ないし3か月 げつ )のうちから「教育 きょういく 班 はん 」に配属 はいぞく して「教官 きょうかん 養成 ようせい 教育 きょういく 」を施 ほどこ し、基礎 きそ 教育 きょういく 終了 しゅうりょう 後 ご 、一般 いっぱん の予備 よび 学生 がくせい が砲術 ほうじゅつ 学校 がっこう や通信 つうしん 学校 がっこう などで教育 きょういく される所 ところ を、「教育 きょういく 班 はん 」の予備 よび 学生 がくせい は兵 へい 学校 がっこう で「教官 きょうかん 実務 じつむ 教育 きょういく 」を数 すう か月 げつ 受 う け、兵 へい 学校 がっこう の普通 ふつう 学 がく 教官 きょうかん ・体育 たいいく 教官 きょうかん となった[ 337] 。戦争 せんそう が激化 げきか し、初級 しょきゅう 士官 しかん の消耗 しょうもう と需要 じゅよう が激増 げきぞう すると、特 とく に戦場 せんじょう 帰 がえ りの武官 ぶかん 教官 きょうかん から「戦争 せんそう が終 お わるまでの特別 とくべつ 措置 そち として、普通 ふつう 学 がく の時間 じかん を思 おも い切 き って減 へ らし、軍事 ぐんじ 学 がく ・訓練 くんれん を主 おも としたものに兵 へい 学校 がっこう 教育 きょういく を転換 てんかん すべし」という意見 いけん が高 たか まったが、井上 いのうえ は、あくまでも、従来 じゅうらい 通 どお りの「普通 ふつう 学 がく 重視 じゅうし 」の方針 ほうしん を貫 つらぬ いた[ 338] 。
兵 へい 学校 がっこう には、よく海軍 かいぐん の現役 げんえき ・退役 たいえき の先輩 せんぱい がやって来 き た。井上 いのうえ の着任 ちゃくにん 以前 いぜん は、その都度 つど 、全校 ぜんこう 生徒 せいと を集 あつ めて、先輩 せんぱい の講話 こうわ を聞 き かせる例 れい であったが、井上 いのうえ はこれを止 と めさせた。井上 いのうえ は「大将 たいしょう だって何 なに をい出 いだ すか分 わか らない。自分 じぶん の方針 ほうしん に反 はん するようなことを言 い われては迷惑 めいわく 至極 しごく だ。例 たと えば、校長 こうちょう 時代 じだい にダルトン・プランという『天才 てんさい 教育 きょういく 』を主張 しゅちょう した永野 ながの 修身 しゅうしん 元帥 げんすい が生徒 せいと の前 まえ で『おのれの天分 てんぶん を伸 の ばせ』などと言 い われたら、自分 じぶん のしている百 ひゃく 日 にち の説法 せっぽう も屁 へ 一 ひと つになってしまう。ただでさえ、生徒 せいと たちは、自分 じぶん の好 す きな学科 がっか だけやって嫌 きら いなものをなおざりにする傾向 けいこう があるのだから尚更 なおさら である」と回想 かいそう する[ 339] 。
兵 へい 学校 がっこう では、従来 じゅうらい 、最初 さいしょ の1年 ねん は全員 ぜんいん が英語 えいご を学 まな び、後 のち は、英 えい ・独 どく ・仏 ふつ ・支 ささえ 那 な ・露 ろ のいずれかを希望 きぼう によって専修 せんしゅう するシステムだったが、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )9月 がつ からは、全 ぜん 学年 がくねん を通 とお して英語 えいご だけを学 まな ぶシステムに変 かわ っていた[ 340] 。太平洋戦争 たいへいようせんそう 開戦 かいせん の前 まえ から、日本 にっぽん 社会 しゃかい では「英 えい 米 べい 排斥 はいせき 」の風潮 ふうちょう が強 つよ くなっており、中学校 ちゅうがっこう では英語 えいご の授業 じゅぎょう を減 へ らしたり、廃止 はいし する所 ところ が多 おお くなっていた。それを反映 はんえい して、陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう では、採用 さいよう 試験 しけん から英語 えいご を除 のぞ いた。海軍 かいぐん 省 しょう 教育 きょういく 局 きょく は、非公式 ひこうしき に兵 へい 学校 がっこう 側 がわ の意見 いけん を問 と い合 あわ せてきた。それを受 う けての、兵 へい 学校 がっこう の教頭 きょうとう 以下 いか の教官 きょうかん を集 あつ めての会議 かいぎ では、英語 えいご 科 か の教官 きょうかん 以外 いがい が全員 ぜんいん 一致 いっち で「優秀 ゆうしゅう な中学生 ちゅうがくせい が、英語 えいご の試験 しけん を嫌 きら って陸士 りくし に流 なが れるのを防 ふせ ぐため、海兵 かいへい でも陸士 りくし に倣 なら って採用 さいよう 試験 しけん から英語 えいご を除 のぞ くべし」と主張 しゅちょう した。教頭 きょうとう が、井上 いのうえ に「教官 きょうかん の総意 そうい はご覧 らん の通 とお りですが、採用 さいよう 試験 しけん から英語 えいご を除 のぞ くべし、と教育 きょういく 局 きょく に返答 へんとう してよろしいでしょうか」と決裁 けっさい を求 もと めると、井上 いのうえ は「兵 へい 学校 がっこう は将校 しょうこう を養成 ようせい する学校 がっこう だ。およそ自国 じこく 語 ご しか話 はな せない海軍 かいぐん 士官 しかん などは、世界中 せかいじゅう どこへ行 い ったって通用 つうよう せぬ。英語 えいご の嫌 きら いな秀才 しゅうさい は陸軍 りくぐん に行 い ってもかまわん。外国 がいこく 語 ご 一 ひと つもできないような者 もの は海軍 かいぐん 士官 しかん には要 い らない。陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう が採用 さいよう 試験 しけん に英語 えいご を廃止 はいし したからといって、兵 へい 学校 がっこう が真似 まね をすることはない」と即答 そくとう した。井上 いのうえ のこの決断 けつだん により、兵 へい 学校 がっこう の採用 さいよう 試験 しけん に英語 えいご が残 のこ されたことはもちろん、入校 にゅうこう 後 ご の生徒 せいと 教育 きょういく でも英語 えいご が廃止 はいし されることはなかった。多数 たすう 意見 いけん を却下 きゃっか された教官 きょうかん たちから「校長 こうちょう 横暴 おうぼう 」との声 こえ もあったが、「こういう問題 もんだい は多数決 たすうけつ で決 き めることではない」という井上 いのうえ の考 かんが えは揺 ゆ るがなかった[ 341] 。このことは、戦後 せんご 、大学 だいがく に入 はい り直 なお すなどして再 さい 出発 しゅっぱつ することになった卒業生 そつぎょうせい 達 たち から相当 そうとう 感謝 かんしゃ されている[ 342] 。
語学 ごがく に優 すぐ れていた井上 いのうえ は兵 へい 学校 がっこう の英語 えいご 教育 きょういく について、「英語 えいご を英語 えいご のまま理解 りかい し、使 つか う(英語 えいご を和訳 わやく し、日本語 にほんご を英訳 えいやく するのではない)」する「直読 ちょくどく 直 ちょく 解 かい 主義 しゅぎ 」を英語 えいご 教官 きょうかん に示 しめ し、そのような教育 きょういく をするよう工夫 くふう を求 もと めた。そのため、英 えい 英 えい 辞典 じてん の使用 しよう を奨励 しょうれい し、その時 とき に在校 ざいこう していた73期 き ・74期 き と、入校 にゅうこう 予定 よてい の75期 き の一人 ひとり 一 いち 人 にん に貸与 たいよ するため、総数 そうすう 5千 せん 冊 さつ の英 えい 英 えい 辞典 じてん が必要 ひつよう となった。井上 いのうえ は、兵 へい 学校 がっこう 主計 しゅけい 長 ちょう に特 とく に指示 しじ して、英 えい 英 えい 辞典 じてん 5千 せん 冊 さつ を調達 ちょうたつ させた。英語 えいご 教官 きょうかん たちは、井上 いのうえ の方針 ほうしん を実現 じつげん するべく「授業 じゅぎょう 中 ちゅう に日本語 にほんご を一切 いっさい 使 つか わない」など試行 しこう 錯誤 さくご した[ 343] 。ただし、兵 へい 学校 がっこう の「名物 めいぶつ 英語 えいご 教官 きょうかん 」であった、文官 ぶんかん 教授 きょうじゅ の平賀 ひらが 春二 はるじ は、井上 いのうえ の唱 とな える英語 えいご 教育 きょういく 方法 ほうほう は理想 りそう 的 てき だが、戦時 せんじ 中 ちゅう の兵 へい 学校 がっこう で実現 じつげん するのは困難 こんなん と考 かんが えた。平賀 ひらが は「旧制 きゅうせい 高等 こうとう 学校 がっこう のように英語 えいご の時間 じかん 数 すう の多 おお い学校 がっこう でなら効果 こうか も上 あ がりましょう。しかし、時間 じかん 数 すう の比較的 ひかくてき 少 すく ない兵 へい 学校 がっこう で、しかも戦局 せんきょく 日々 ひび に緊迫 きんぱく の度 たび を加 くわ えつつある折 おり から、このような授業 じゅぎょう はまどろっこしく、且 か つ非 ひ 能率 のうりつ だと思 おも われてなりませんでした。また微妙 びみょう な個所 かしょ は外国 がいこく の言葉 ことば ではままならず…」という[ 343] 。井上 いのうえ も、「井上 いのうえ 式 しき 英語 えいご 教授 きょうじゅ 法 ほう 」の徹底 てってい が難 むずか しいことは理解 りかい しており、授業 じゅぎょう 視察 しさつ で、自分 じぶん の期待 きたい 通 どお りの英語 えいご 教育 きょういく が実行 じっこう されていないのを見 み ても、「井上 いのうえ 式 しき 」を強制 きょうせい することはなかった[ 343] 。
井上 いのうえ は兵 へい 学校 がっこう にはつまらないルールが多 おお すぎる、という結論 けつろん に達 たっ し、生徒 せいと 隊 たい と企画 きかく 課 か に訓育 くんいく ・学術 がくじゅつ 教育 きょういく とも、もっとゆとりのあるやり方 かた に改 あらた めるよう指示 しじ した。その結果 けっか 、生徒 せいと 隊 たい では隊 たい 務 つとむ 処理 しょり を、生徒 せいと が居住 きょじゅう する「生徒 せいと 館 かん 」内 ない で済 す ませるよう改 あらた め、ルールを減 へ らしていった。井上 いのうえ の改革 かいかく は、生徒 せいと 隊 たい 監事 かんじ をして「校長 こうちょう はみんなぶちこわしてしまう」と言 い わせるほどであった[ 344] 。学術 がくじゅつ 教育 きょういく についての井上 いのうえ の考 かんが え「詰 つ め込 こ み教育 きょういく の改善 かいぜん 」(井上 いのうえ の前任 ぜんにん の各 かく 校長 こうちょう も、井上 いのうえ 同様 どうよう の印象 いんしょう を持 も ち、部下 ぶか に検討 けんとう ・改善 かいぜん を指示 しじ していた)の実現 じつげん は困難 こんなん だった。井上 いのうえ の求 もと めに応 おう じて、企画 きかく 課 か が検討 けんとう して提出 ていしゅつ した答申 とうしん は「かつて、永野 ながの 校長 こうちょう 時代 じだい に導入 どうにゅう したダルトン・プランは失敗 しっぱい に終 お わった。当時 とうじ の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん は3年 ねん 8か月 げつ (その後 ご 、4年 ねん まで延長 えんちょう )あったが、現在 げんざい は3年 ねん であり、さらに短縮 たんしゅく される趨勢 すうせい である。兵 へい 学校 がっこう の学術 がくじゅつ 教育 きょういく で教 おし えるべき内容 ないよう が増 ふ えているのに、入校 にゅうこう 者 しゃ の学力 がくりょく は、中学校 ちゅうがっこう の教育 きょういく 水準 すいじゅん の低下 ていか によって落 お ちる一方 いっぽう 。生徒 せいと 数 すう の増加 ぞうか によって、上下 じょうげ の格差 かくさ が開 ひら いている。現在 げんざい の兵 へい 学校 がっこう の学術 がくじゅつ 教育 きょういく は、『劣 れつ 』の生徒 せいと に、十分 じゅうぶん 正確 せいかく に理解 りかい させるので手一杯 ていっぱい である」という趣旨 しゅし であった。井上 いのうえ は「生徒 せいと 数 すう が非常 ひじょう に多 おお くなっていたので、リモートコントロール方式 ほうしき 、つまり教官 きょうかん たちに私 わたし の考 かんが えを充分 じゅうぶん 理解 りかい してもらい、教官 きょうかん を通 つう じて生徒 せいと たちに私 わたし の考 かんが え方 かた を伝 つた えてもらう方式 ほうしき を採 と った。私 わたし が兵 へい 学校 がっこう で、何 なん 千 せん 人 にん という生徒 せいと に対 たい してやったのは『教官 きょうかん 教育 きょういく 』です。それしか手 て はないと考 かんが えました」と回想 かいそう する[ 345] 。
井上 いのうえ は、兵学 へいがく 校長 こうちょう に着任 ちゃくにん して生徒 せいと の様子 ようす を実見 じっけん した印象 いんしょう を「あのころの流行 りゅうこう 語 ご でいうと、張 は り切 き っているのです。張 は り切 き っているというのは、私 わたし 、大嫌 だいきら いなんです。人間 にんげん 、朝 あさ から晩 ばん まで張 は り切 き っていられるものではないんです。リズムがあるはずなんだ」「下士官 かしかん 、兵 へい ならいい。人 ひと から命 めい じられて、人 ひと の指図 さしず で働 はたら くには、ああいうのが最良 さいりょう の部下 ぶか なんだ。しかし、士官 しかん というものは、何 なに を、いかに、いつ、どこでどうすべきかを、自分 じぶん で考 かんが えて決定 けってい せねばならない。つまり、士官 しかん にとって自由 じゆう 裁量 さいりょう が一番 いちばん 大切 たいせつ なのだ。生徒 せいと に家畜 かちく みたいな生活 せいかつ をさせてはいけない、そう思 おも いました」と回想 かいそう する[ 14] 。
井上 いのうえ が兵学 へいがく 校長 こうちょう に着任 ちゃくにん して約 やく 半年 はんとし 後 ご 、旧知 きゅうち の間柄 あいだがら でもある陸軍 りくぐん 士官 しかん 学 がく 校長 こうちょう の牛島 うしじま 満 みつる 中将 ちゅうじょう が兵 へい 学校 がっこう を視察 しさつ した際 さい 、「井上 いのうえ さん、君 きみ の所 ところ の生徒 せいと は皆 みな 可愛 かわい い顔 かお をしている。私 わたし の所 ところ の生徒 せいと はもっと憎 にく らしい顔 かお をしているがね」と言 い った。これに対 たい して、井上 いのうえ は「制服 せいふく の色 いろ や形 かたち のせいでしょう」と答 こた えているが、「校長 こうちょう 横暴 おうぼう と言 い われながらもやってきたことの成果 せいか が出 で ている。他所 よそ の人 ひと も同 おな じ感 かん じを持 も つんだ」と、内心 ないしん 自 みずか ら慰 なぐさ めるところがあった[ 346] 。
父 ちち の嘉 よしみ 矩 のり (よしのり)は1847年 ねん (弘 ひろし 化 か 4年 ねん )生 う まれの旧 きゅう 幕臣 ばくしん で数理 すうり に長 なが じ、若 わか くして御 ご 勘定 かんじょう 奉行 ぶぎょう 所 しょ 普請 ふしん 方 かた に出仕 しゅっし した(普請 ふしん 役 やく 30俵 ひょう 3人 にん 扶持 ふち [ 347] )。長崎 ながさき に留学 りゅうがく してオランダ人 じん に建築 けんちく 術 じゅつ を学 まな んだという。明治 めいじ になって大蔵省 おおくらしょう に勤 つと め、宮城 みやぎ 県庁 けんちょう に転 てん じて一等 いっとう 属 ぞく を務 つと めた。一等 いっとう 属 ぞく は、県令 けんれい (県知事 けんちじ )、大 だい 書記官 しょきかん (副 ふく 知事 ちじ )に次 つ ぐナンバー・スリーの職 しょく であり、後年 こうねん の出納 すいとう 長 ちょう に相当 そうとう する重職 じゅうしょく であった。嘉 よしみ 矩 のり は視力 しりょく 悪化 あっか のため、1878年 ねん (明治 めいじ 11年 ねん )12月に40歳 さい を過 す ぎたばかりの壮年 そうねん で宮城 みやぎ 県庁 けんちょう 一等 いっとう 属 ぞく を辞 じ した。退職 たいしょく 後 ご は、仙台 せんだい 市 し 坊主 ぼうず 町 まち 54・53(現在 げんざい の仙台 せんだい 市 し 青葉 あおば 区 く 国見 くにみ 二 に 丁目 ちょうめ 5-38、仙台 せんだい 市立 しりつ 第 だい 一 いち 中学校 ちゅうがっこう の北側 きたがわ にあたる。当時 とうじ の仙台 せんだい の市街地 しがいち からは外 はず れる)に住 す み、ブドウ園 えん を経営 けいえい した。広 ひろ い土地 とち で人 ひと を使 つか ってブドウを栽培 さいばい したが、300円 えん かけて300円 えん の収入 しゅうにゅう がようやく得 え られるような経営 けいえい 状態 じょうたい だったと伝 つた わる。他 た の事業 じぎょう の失敗 しっぱい による借財 しゃくざい もあり、そのため県庁 けんちょう 退職 たいしょく 後 ご の井上 いのうえ 家 か の家計 かけい は苦 くる しく、後妻 ごさい に入 はい った井上 いのうえ の生母 せいぼ 「もと」が持参 じさん 金 きん 代 か わりに実家 じっか の角田 つのだ 石川 いしかわ 家 か から分与 ぶんよ された相当 そうとう な土地 とち からの年貢 ねんぐ 米 まい に頼 たよ る状態 じょうたい だった。晩年 ばんねん の嘉 よしみ 矩 のり は嗣子 しし の秀 しゅう 二 に と同居 どうきょ し、1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )11月17日 にち に68歳 さい で没 ぼっ した。[ 348] 1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )、井上 いのうえ の次兄 じけい ・井上 いのうえ 達三 たつぞう 陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう が死去 しきょ した際 さい 、葬儀 そうぎ の参列 さんれつ 者 しゃ に、元 もと 海軍 かいぐん 士官 しかん で若 わか くして予備 よび 役 やく に編入 へんにゅう された者 もの がいた。親戚 しんせき の一人 ひとり が「あの人 ひと はいい人 じん なのに海軍 かいぐん を早 はや く退 しりぞ いて…」と言 い ったのに対 たい し、井上 いのうえ は「(海軍 かいぐん を早 はや く)辞 や めさせられたのには、それだけの理由 りゆう があったのだ」とい放 いはな った[ 349] 。
井上 いのうえ が数学 すうがく に長 なが じていたことは知 し られるが、父 ちち の嘉 よしみ 矩 のり がそうであったように、井上 いのうえ の親族 しんぞく には数学 すうがく に長 なが じた者 もの が多 おお い。井上 いのうえ の長兄 ちょうけい の秀二 しゅうじ は著名 ちょめい な土木 どぼく 技術 ぎじゅつ 者 しゃ となり、次兄 じけい の達三 たつぞう は陸軍 りくぐん 砲兵 ほうへい 将校 しょうこう (士官 しかん 候補 こうほ 生 せい のうち数学 すうがく を得意 とくい とする者 もの が砲兵 ほうへい 科 か ・工兵 こうへい 科 か を志望 しぼう した[ 350] )として中将 ちゅうじょう に昇 のぼ っている。
井上 いのうえ の後妻 ごさい となった富士子 ふじこ は、井上 いのうえ の入院 にゅういん 中 ちゅう に「面会 めんかい 謝絶 しゃぜつ 」の医師 いし の指示 しじ を頑強 がんきょう に守 まも り通 どお そうとして、遠方 えんぽう から駆 か けつけた親戚 しんせき の阿部 あべ 信行 のぶゆき [ 注釈 ちゅうしゃく 46] 、山梨 やまなし 勝之 かつゆき 進 すすむ 大将 たいしょう などの大事 だいじ な見舞 みまい 客 きゃく を追 お い返 かえ したり[ 351] 、井上 いのうえ との結婚 けっこん 後 ご に、井上 いのうえ の亡妻 ぼうさい の喜久子 きくこ の親戚 しんせき 筋 すじ である阿部 あべ 家 か 、稲田 いなだ 正純 まさずみ 陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう の家 いえ 、大石 おおいし 堅 けん 志郎 しろう 海軍 かいぐん 大佐 たいさ の家 いえ らに、「今後 こんご 、井上 いのうえ 宅 たく への来訪 らいほう は見合 みあ わせて頂 いただ きたい」という「縁切 えんき り状 じょう 」を井上 いのうえ の名 な で送 おく ったり[ 352] 、井上 いのうえ の親戚 しんせき 、旧 きゅう 部下 ぶか 、英語 えいご 塾 じゅく の教 おし え子 ご などの「井上 いのうえ と縁 えん のある女性 じょせい 」が井上 いのうえ 宅 たく を訪 おとず れた時 とき に井上 いのうえ に無断 むだん で門前払 もんぜんばら いしたり、彼女 かのじょ たちから井上 いのうえ に届 とど いた手紙 てがみ を、井上 いのうえ に見 み せずに捨 す ててしまう[ 353] など、批判 ひはん されても仕方 しかた ない所 ところ があった。井上 いのうえ の親族 しんぞく の中 なか でも、戦後 せんご の井上 いのうえ と最 もっと も親 した しかった伊藤 いとう 由里子 ゆりこ は「あの方 ほう 、要 よう するに海軍 かいぐん 大将 たいしょう 夫人 ふじん におなりになりたかったんじゃないの」と、富士子 ふじこ へのきつい批判 ひはん を洩 も らした[ 285] 。
秀 しゅう 二 に の次男 じなん で、井上 いのうえ 本家 ほんけ を継 つ いだ井上 いのうえ 秀郎 ひでお (ひでお[ 354] 。1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん )死去 しきょ 。大学 だいがく 教授 きょうじゅ [ 355] )は数学 すうがく 教師 きょうし で、戦前 せんぜん は成蹊高等学校 せいけいこうとうがっこう に勤務 きんむ していた。秀郎 ひでお は井上 いのうえ と一卵性双生児 いちらんせいそうせいじ のように容姿 ようし が似 に ており、秀郎 ひでお の妻 つま の達子 たつこ によると、容姿 ようし に加 くわ え性格 せいかく も井上 いのうえ と良 よ く似 に ていた[ 356] 。秀 しゅう 二 に の長男 ちょうなん 井上 いのうえ 嘉 よしみ 瑞 みず (1902年 ねん - 1956年 ねん )は、日本郵船 にっぽんゆうせん の社員 しゃいん として5年間 ねんかん ロンドン に駐在 ちゅうざい 中 ちゅう 、欧文 おうぶん 書体 しょたい の活字 かつじ を収集 しゅうしゅう し、タイポグラフィ を学 まな ぶ。在 ざい 英 えい 中 ちゅう 『印刷 いんさつ 雑誌 ざっし 』1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )1月 がつ 号 ごう に「田舎 いなか 臭 くさ い日本 にっぽん の欧文印刷 おうぶんいんさつ 」を発表 はっぴょう し、日本 にっぽん の欧文印刷 おうぶんいんさつ のレベルの低 ひく さを指摘 してき した。帰国 きこく 後 ご 、独自 どくじ の印刷 いんさつ 工房 こうぼう である嘉 よしみ 瑞 みず 工房 こうぼう を創業 そうぎょう し、その著作 ちょさく を数多 かずおお く出版 しゅっぱん した。同 どう 工房 こうぼう は唯一 ゆいいつ の弟子 でし である高岡 たかおか 重蔵 しげぞう が継 つ ぎ、今日 きょう まで存続 そんぞく している。
井上 いのうえ は1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )に海兵 かいへい クラス会 かい の会報 かいほう に寄稿 きこう し、中学 ちゅうがく 3年 ねん の時 とき に父 ちち に呼 よ ばれて「家計 かけい が苦 くる しいので、兄 あに (秀二 しゅうじ と他 た 1名 めい )のように高等 こうとう 学校 がっこう にやる訳 わけ にはいかない」と言 い われたこと、海軍兵学校 かいぐんへいがっこう を志望 しぼう した一番 いちばん の理由 りゆう は「海兵 かいへい に進 すす んだ先輩 せんぱい が帰郷 ききょう した時 とき の短剣 たんけん 姿 すがた に憧 あこが れたから」だと記 しる している[ 357] 。
嘉 よしみ 矩 のり は前妻 ぜんさい と三男 さんなん 一 いち 女 じょ を儲 もう けたが、いずれも明治 めいじ 中頃 なかごろ までに夭折 ようせつ した[ 358] 。後妻 ごさい に入 はい った井上 いのうえ の生母 せいぼ 「もと」は、仙台 せんだい 藩主 はんしゅ 伊達 だて 家 か の一門 いちもん 首席 しゅせき の名家 めいか で、角田 つのだ で2万 まん 1千 せん 石 せき を領 りょう する角田 つのだ 石川 いしかわ 家 か 第 だい 37代 だい 当主 とうしゅ 石川 いしかわ 義光 よしみつ の第 だい 10女 じょ 。1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )に19歳 さい で、前妻 ぜんさい を亡 な くしたばかりの井上 いのうえ 嘉 よしみ 矩 のり に嫁 か して九 きゅう 男 なん を産 う み、1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )12月16日 にち に46歳 さい で没 ぼっ した。女子 じょし ながら漢籍 かんせき に通 つう じており、かつ琴 きん の名手 めいしゅ であった[ 359] 。「もと」の音楽 おんがく の素養 そよう は、井上 いのうえ とその兄弟 きょうだい に受 う け継 つ がれた。井上 いのうえ が琴 きん ・ピアノをはじめとする多数 たすう の楽器 がっき を奏 そう きこなし、音楽 おんがく 好 す きとして海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない で有名 ゆうめい だったのは知 し られるが、仙台 せんだい に住 す んでいる時 とき から井上 いのうえ 兄弟 きょうだい は合奏 がっそう や歌 うた を楽 たの しみ、ヴァイオリンやピアノを自作 じさく して奏 かなで いていたという[ 360] 。
井上 いのうえ は13人 にん 兄弟 きょうだい (十 じゅう 二男 じなん 一 いち 女 じょ )の十 じゅう 一 いち 男 なん であり、異母 いぼ 兄 けい 姉 あね がみな夭折 ようせつ したため事実 じじつ 上 じょう の長男 ちょうなん は四 よん 男 なん の秀二 しゅうじ であった[ 361] 。兵 へい 学校 がっこう の採用 さいよう 試験 しけん で、試験 しけん 官 かん に家庭 かてい 状況 じょうきょう を問 と われて「十 じゅう 一 いち 男 なん です」と答 こた え、「ふざけた返事 へんじ をするな」と叱 しか られたという[ 362] 。井上 いのうえ の実 じつ 兄弟 きょうだい は、すぐ上 うえ の兄 あに である美 よし 暢 とおる が1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )1月 がつ 2日 にち に病没 びょうぼつ したのを最後 さいご に、井上 いのうえ の生前 せいぜん に全 すべ て死去 しきょ していた[ 363] 。
祖父 そふ :石川 いしかわ 義光 よしみつ
角田 つのだ 石川 いしかわ 家 か 第 だい 37代 だい 当主 とうしゅ 。
伯父 おじ :田村 たむら 邦 くに 栄 さかえ
陸奥 みちのく 一関 いちのせき 藩 はん 主 おも 。
伯父 おじ :田村 たむら 崇 たかし 顕 あきら
陸奥 みちのく 一関 いちのせき 藩主 はんしゅ 。
従兄 じゅうけい :田村 たむら 丕顕
海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 。
実兄 じっけい :井上 いのうえ 秀二 しゅうじ
土木 どぼく 技術 ぎじゅつ 者 しゃ 。
実兄 じっけい :井上 いのうえ 達三 たつぞう
陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう 。夫人 ふじん は荒 あら 城 じょう 卓 たく 爾 なんじ (陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう )・荒 あら 城 じょう 二郎 じろう (海軍 かいぐん 中将 ちゅうじょう )の妹 いもうと 。
実兄 じっけい :井上 いのうえ 美 よし 暢 とおる (よしのぶ)
陸軍 りくぐん 大佐 たいさ 、士 し 候 こう 20期 き 。中尉 ちゅうい 時代 じだい に非行 ひこう に走 はし る聯隊 れんたい 長 ちょう に制裁 せいさい を加 くわ えたため陸 りく 大 まさる を受験 じゅけん できなかった[ 364] 。万 まん 年 ねん 大佐 たいさ に終 お わるも、豪放磊落 ごうほうらいらく で酒好 さけず きだった美 よし 暢 とおる とは、成美 まさみ は反 そ りが合 あ わず、仲違 なかたが いをしていたエピソードが伝 つた わる[ 365] 。
娘 むすめ 婿 むこ :丸田 まるた 吉 きち 人 じん (よしんど)
海軍 かいぐん 軍医 ぐんい 中佐 ちゅうさ 、北海道 ほっかいどう 帝国 ていこく 大学 だいがく 医学部 いがくぶ 在学 ざいがく 中 ちゅう に海軍 かいぐん 軍医 ぐんい 学生 がくせい となった現役 げんえき 軍 ぐん 医科 いか 士官 しかん [ 366] 。重 じゅう 巡 じゅん 「鳥海 とりうみ 」軍医 ぐんい 長 ちょう としてレイテ沖 おき 海戦 かいせん で戦死 せんし [ 367] 。父 ちち は丸田 まるた 幸治 こうじ 海軍 かいぐん 軍医 ぐんい 少将 しょうしょう [ 92] 。
相 あい 婿 むこ :阿部 あべ 信行 のぶゆき
陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 。井上 いのうえ の妻 つま ・喜久代 きくよ の長姉 ちょうし を娶 めと る。喜久代 きくよ の父 ちち は、陸軍 りくぐん 二 に 等 とう 主計 しゅけい 正 ただし (後年 こうねん の陸軍 りくぐん 主計 しゅけい 中佐 ちゅうさ )の原 はら 知 とも 信 しんじ (とものぶ)。原 はら は、陸軍 りくぐん を早 はや く退 しりぞ き、金沢 かなざわ 市 し で陶磁器 とうじき 会社 かいしゃ の重役 じゅうやく をしていた[ 260] 。
相 あい 婿 むこ :関 せき 寿雄 よしお
陸軍 りくぐん 大佐 たいさ 、士 し 候 こう 13期 き 。喜久代 きくよ の次 じ 姉 あね を娶 めと る[ 260] 。
相 あい 婿 むこ :大石 おおいし 堅 けん 四 よん 郎 ろう
海軍 かいぐん 大佐 たいさ 、兵 へい 42期 き 。喜久代 きくよ の妹 いもうと を娶 めと る[ 260] 。
親類 しんるい :稲田 いなだ 正純 まさずみ
陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう 。阿部 あべ 信行 のぶゆき の娘 むすめ である和子 わこ を娶 めと る[ 260] 。和子 わこ は、少女 しょうじょ 時代 じだい に井上 いのうえ 成美 まさみ にたいへん可愛 かわい がられた。琴 きん に長 なが じる井上 いのうえ は、阿部 あべ 信行 のぶゆき の家 いえ で、かつて稲田 いなだ のために「六 ろく 段 だん の調 しらべ 」を弾 ひ いてくれた。稲田 いなだ は大佐 たいさ で参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 作戦 さくせん 課長 かちょう を務 つと めていた時 とき 、三 さん 国 こく 同盟 どうめい 締結 ていけつ に関 かん して海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう であった井上 いのうえ に直談判 じかだんぱん を試 こころ みたが、相手 あいて にされなかった[ 368] 。
墓所 はかしょ は東京 とうきょう 都 と 府中 ふちゅう 市 し 多磨 たま 霊園 れいえん 所在 しょざい 。
位階 いかい
『思 おも い出 で の記 き 』井上 いのうえ 成美 まさみ 私 わたし 稿 こう
^ 「成美 まさみ 」の正 ただ しい読 よ みは「シゲヨシ」[ 4] 。しかし「セイビ」とも呼 よ ばれた[ 5] 。1981年 ねん に英国 えいこく で刊行 かんこう された日 にち 英 えい 海軍 かいぐん 間 あいだ 関係 かんけい の研究 けんきゅう 書 しょ には「イノウエ シゲヨシ 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 、海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 。イノウエ セイビという呼 よ び方 かた で、より知 し られている…」とある[ 6] 。
^ もう一人 ひとり は塚原 つかはら 二 に 四 よん 三 さん 。
^ 1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )に井上 いのうえ が財団 ざいだん 法人 ほうじん 水 すい 交会の求 もと めに応 おう じて行 い った談話 だんわ の中 なか に「私 わたし は運動 うんどう 神経 しんけい が極 きわ めて鈍 にぶ いので、武道 ぶどう 体技 たいぎ その他 た の実技 じつぎ はお話 はなし にならないほど下手 へた で、剣道 けんどう 、柔道 じゅうどう 、水泳 すいえい 共 ども クラス中 ちゅう 最 さい 劣等 れっとう だったと記憶 きおく する」とあり、スポーツは苦手 にがて であった[ 9] 。
^ 『日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん 総合 そうごう 事典 じてん 』では入校 にゅうこう 席次 せきじ 8位 い [ 12]
^ 大連 たいれん -仁川 にがわ -鎮海湾 わん -佐世保 させぼ -鹿児島 かごしま -津 つ 方面 ほうめん 巡航 じゅんこう
^ マニラ -アンボイナ -パーム島 とう -タウンズビル -ブリスベーン -シドニー -ホバート -メルボルン -フリーマントル -バタヴィア -シンガポール -香港 ほんこん -馬 うま 公 こう -基 もと 隆 たかし 方面 ほうめん 巡航 じゅんこう
^ 海軍 かいぐん では練習 れんしゅう 艦隊 かんたい 遠洋 えんよう 航海 こうかい の終了 しゅうりょう 後 ご 、クラスヘッドは連合 れんごう 艦隊 かんたい 旗艦 きかん に乗組 のりく む慣例 かんれい であった[ 17] 。
^ 「兼 けん 分隊 ぶんたい 長 ちょう 」の辞令 じれい は出 で ていない[ 24] 。
^ 榎本 えのもと は井上 いのうえ と同 どう 学齢 がくれい の1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )1月 がつ 16日 にち 生 せい 、東京帝大 とうきょうていだい 法科 ほうか を卒業 そつぎょう した翌年 よくねん の1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )10月 がつ に海軍 かいぐん 教授 きょうじゅ 兼 けん 海軍 かいぐん 省 しょう 参事官 さんじかん 兼 けん 海 うみ 大 だい 教官 きょうかん 、1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )12月に海軍 かいぐん 書記官 しょきかん 、1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )10月 がつ には、中将 ちゅうじょう に相当 そうとう する海軍 かいぐん 文官 ぶんかん の最高 さいこう 位 い 「高等官 こうとうかん 一等 いっとう 」となり、国際 こくさい 法 ほう の権威 けんい として、次官 じかん 級 きゅう の待遇 たいぐう を受 う けて軍政 ぐんせい に参画 さんかく していた[ 33] 。井上 いのうえ が兵 へい 37期 き クラスヘッドとして中将 ちゅうじょう に進級 しんきゅう したのは1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )11月 がつ なので、井上 いのうえ が1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )5月 がつ に大将 たいしょう に親任 しんにん されるまでは、官吏 かんり としての席次 せきじ において榎本 えのもと が井上 いのうえ よりも上 うえ だった。榎本 えのもと は井上 いのうえ が心 しん を許 ゆる した生涯 しょうがい で数少 かずすく ない親友 しんゆう だった[ 34] [ 35] [ 36] 。
^ 赤 あか 屋根 やね で2本 ほん 煙突 えんとつ の平屋 ひらや の洋館 ようかん で[ 56] 、庭先 にわさき から歩 ある いて海岸 かいがん に降 お りることができた[ 57] 。この家 いえ に一時期 いちじき 住 す んでいた井上 いのうえ の孫 まご の丸田 まるた 研一 けんいち によると、南側 みなみがわ に応接 おうせつ 室 しつ ・食堂 しょくどう ・寝室 しんしつ が並 なら び、応接間 おうせつま と食堂 しょくどう の前 まえ がテラスになっていて、食堂 しょくどう と応接 おうせつ 室 しつ には暖炉 だんろ があり、北側 きたがわ に台所 だいどころ と女中 じょちゅう 部屋 へや (この部屋 へや のみ畳 たたみ 敷 じ き)があった。応接 おうせつ 室 しつ が成美 せいび の部屋 へや で、机 つくえ と成美 せいび が寝 ね る造 つく り付 づ けのベッドがあった。寝室 しんしつ には2つのベッドがあり、靚子と研一 けんいち が使 つか った[ 58] 。1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )の井上 いのうえ の死 し の直後 ちょくご に、井上 いのうえ 宅 たく を見 み た中田 なかた 整一 せいいち が「洋風 ようふう の2間 あいだ ばかりの小 ちい さな家 いえ 」と形容 けいよう した、つましい家 いえ であった[ 59] 。この家 いえ は、もともと1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )11月1日 にち に肺結核 はいけっかく で死去 しきょ した妻 つま の喜久代 きくよ の療養 りょうよう 所 しょ として計画 けいかく されたものである。当時 とうじ 、肺結核 はいけっかく の治療 ちりょう 法 ほう は「空気 くうき の清浄 せいじょう な場所 ばしょ で、十分 じゅうぶん な栄養 えいよう を取 と って静養 せいよう する」以外 いがい になかった。井上 いのうえ がイタリアから帰国 きこく して以降 いこう 、空気 くうき の良 よ い鎌倉 かまくら に家 いえ を借 か りて喜久代 きくよ を療養 りょうよう させていたが、さらに「空気 くうき の良 よ い所 ところ 」を求 もと めた井上 いのうえ は長兄 ちょうけい の秀二 しゅうじ が、長井 ながい 町 まち に別荘 べっそう を建 た てていたのでその土地 とち の一部 いちぶ を譲 ゆず り受 う けた。井上 いのうえ は秀 しゅう 二 に の別荘 べっそう に泊 と まりに行 い っては半年 はんとし もかけて具体 ぐたい 的 てき な計画 けいかく を練 ね った[ 60] 。訪問 ほうもん 客 きゃく が「海 うみ に面 めん していて、風 ふう の日 ひ はさぞきついでしょう」と尋 たず ねると、井上 いのうえ は図 ず を描 えが いて「この家 いえ の建 た っている崖 がけ はこういう形 かたち で、快速 かいそく 軍艦 ぐんかん の艦橋 かんきょう 前面 ぜんめん に似 に ている。ここを補強 ほきょう して強風 きょうふう が直接 ちょくせつ 当 あ たらずに上 うえ へ吹 ふ き抜 ぬ けるようにしている。三浦半島 みうらはんとう のこの辺 へん では台風 たいふう 時 じ の瞬間 しゅんかん 最大 さいだい 風速 ふうそく が何 なん メートル程度 ていど 、風向 かざむ きはこのように変 かわ るので、崖 がけ の先端 せんたん からベランダまでこのくらい離 はな して、屋根 やね を何 なん センチ低 ひく くした」と、細 こま かい説明 せつめい をしたという[ 61] 。
^ 『伝記 でんき 』や『阿川 あがわ 』では、当時 とうじ の通称 つうしょう の「お茶 ちゃ の水 みず 高 だか 女 おんな 」と表記 ひょうき されているが[ 60] 、井上 いのうえ の孫 まご である丸田 まるた 研一 けんいち は自著 じちょ の中 なか で「(靚子は)東京 とうきょう 高等 こうとう 女子 じょし 師範 しはん 学校 がっこう (現 げん お茶 ちゃ の水女子大学 みずじょしだいがく )の付属 ふぞく に通 かよ っていた」と記 しる している[ 62] 。
^ この頃 ころ 、井上 いのうえ 宅 たく に通 つう じる畑 はたけ の中 なか の道 みち は、自動車 じどうしゃ が通 とお れる道幅 みちはば があり、井上 いのうえ 宅 たく の玄関 げんかん 先 さき まで自動車 じどうしゃ が入 い れた戦後 せんご の混乱 こんらん 時 じ に、井上 いのうえ 宅 たく に通 つう じる道 みち について、近所 きんじょ の農民 のうみん たちが畑 はたけ の境界 きょうかい 線 せん をなし崩 くず しに広 ひろ げて道幅 みちはば を狭 せば め、1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )頃 ごろ には自動車 じどうしゃ が入 い れない細道 ほそみち になっており、井上 いのうえ 宅 たく の不動産 ふどうさん 価値 かち を著 いちじる しく下 さ げていた[ 63] 。
^ 戦後 せんご の井上 いのうえ は、今川 いまがわ 福雄 ふくお 大佐 たいさ に「私 わたし は、少将 しょうしょう 昇進 しょうしん 後 ご は新設 しんせつ される第 だい 三 さん 航空 こうくう 戦隊 せんたい の司令 しれい 官 かん に補 ほ されると内定 ないてい していました。時局 じきょく が急変 きゅうへん したので、第 だい 三 さん 航空 こうくう 戦隊 せんたい の新設 しんせつ が流 なが れ、横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 参謀 さんぼう 長 ちょう になったのです。海軍 かいぐん の人事 じんじ は予定 よてい 通 どお り行 い きません」という旨 むね を語 かた った[ 69] 。
^ 戦後 せんご の井上 いのうえ は「新聞 しんぶん 記者 きしゃ も商売 しょうばい だ。彼 かれ らの成 な り立 た つように考 かんが えてやる(適切 てきせつ に情報 じょうほう を開示 かいじ する)ことが必要 ひつよう だ。その反面 はんめん 、利用 りよう もできる」と語 かた っている[ 73] 。
^ 那珂 なか はこの日 ひ は九州 きゅうしゅう 方面 ほうめん に出動 しゅつどう 中 ちゅう だったので、同 おな じく横 よこ 鎮所属 しょぞく で同型 どうけい 艦 かん の木曽 きそ が代 か わりとなった[ 72] 。
^ 米 べい 内 ない は、早朝 そうちょう に副官 ふっかん から事件 じけん の報告 ほうこく を受 う けていた[ 75] 。
^ 井上 いのうえ が答申 とうしん 書 しょ の条件 じょうけん としていた兵 へい 学校 がっこう ・機関 きかん 学校 がっこう の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん 「4年 ねん 」は、答申 とうしん 書 しょ 提出 ていしゅつ の翌年 よくねん 3月 がつ 卒業 そつぎょう の兵 へい 65期 き ・機 き 46期 き まで維持 いじ されたが、1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )3月 がつ 卒業 そつぎょう 予定 よてい だった兵 へい 66期 き ・機 き 47期 き は支 ささえ 那 な 事変 じへん により1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )9月 がつ に繰上 くりがみ 卒業 そつぎょう して「3年 ねん 6か月 げつ 」となり、戦争 せんそう の激化 げきか で最終 さいしゅう 的 てき には「2年 ねん 4か月 げつ 」に短縮 たんしゅく された[ 81] 。
^ 井上 いのうえ が海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう として日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい に猛 もう 反対 はんたい していた時 とき 、陸軍 りくぐん 大臣 だいじん の板垣 いたがき 征四郎 せいしろう 中将 ちゅうじょう は三 さん 国 こく 同盟 どうめい を推進 すいしん する勢力 せいりょく の中心 ちゅうしん だった[ 96] 。板垣 いたがき 征四郎 せいしろう は、この時期 じき には、陸相 りくしょう から支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん 総 そう 参謀 さんぼう 長 ちょう に転 てん じて南京 なんきん にいた[ 97] 。
^ 山本 やまもと は、海 うみ 大 だい 甲種 こうしゅ 学生 がくせい 29期 き で井上 いのうえ の教 おし えを受 う け、その後 ご 、井上 いのうえ が軍務 ぐんむ 局 きょく 一 いち 課長 かちょう で山本 やまもと が海軍 かいぐん 大臣 だいじん 秘書官 ひしょかん 、井上 いのうえ が軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう で山本 やまもと が軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 一 いち 課 か A局員 きょくいん 、井上 いのうえ が支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう で山本 やまもと が同 どう 艦隊 かんたい 先任 せんにん 参謀 さんぼう 、井上 いのうえ が海軍 かいぐん 次官 じかん で山本 やまもと が軍務 ぐんむ 局 きょく 一 いち 課長 かちょう と、4度 ど に渡 わた り、部下 ぶか として勤務 きんむ した。戦後 せんご に井上 いのうえ が胃潰瘍 いかいよう で倒 たお れた際 さい に世話 せわ になった医師 いし が、偶然 ぐうぜん に山本 やまもと の従兄 じゅうけい かつ義弟 ぎてい であった。戦後 せんご も、井上 いのうえ と山本 やまもと はたびたび手紙 てがみ や品物 しなもの をやり取 と りしていた[ 103] 。
^ 井上 いのうえ は「戦艦 せんかん なんか造 つく ったって、飛行機 ひこうき が進歩 しんぽ したらだめだぞ、戦 せん にならないぞという考 かんが えは、二 に 、三 さん 年 ねん 前 まえ の昭和 しょうわ 12年 ねん 頃 ごろ から私 わたし の頭 あたま にあった。大 おお きな戦艦 せんかん なんか造 つく るのはむだだ、と会議 かいぎ があるたびに出 だ したわけです」と回想 かいそう する[ 108] 。
^ 「新 しん 軍備 ぐんび 計画 けいかく 論 ろん 」は、井上 いのうえ 自筆 じひつ (ペン書 が き)の原本 げんぽん が、防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ に現存 げんそん している(1982年 ねん (昭和 しょうわ 57年 ねん )現在 げんざい )[ 111] 。
^ 井上 いのうえ の回想 かいそう では、井上 いのうえ は、及川 おいかわ 海 うみ 相 しょう に文書 ぶんしょ を手渡 てわた した後 のち で「これでいい。私 わたし はこれでやめます。正 ただ しいことが一 ひと つも通 とお らない海軍 かいぐん はいやになったから、馘 くび を切 き って下 くだ さい」と言 い うと及川 おいかわ は「馘 くび は切 き らんよ。やめさせない」と答 こた えたという[ 113] 。井上 いのうえ が「海軍 かいぐん を辞 や めます」と言 い ったのは、海軍 かいぐん 省 しょう 軍務 ぐんむ 局 きょく 一 いち 課長 かちょう 時代 じだい 、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 参謀 さんぼう 長 ちょう 時代 じだい に続 つづ いて三 さん 度目 どめ であった。
井上 いのうえ の回想 かいそう によれば「井上 いのうえ は破壊 はかい 的 てき な議論 ぎろん ばかりするという声 こえ が耳 みみ にはいったからです(省 しょう 部 ぶ 連絡 れんらく 会議 かいぎ で、マル五 ご 計画 けいかく を痛烈 つうれつ に批判 ひはん したことを指 さ す[ 114] 。)。これじゃいかんと思 おも ったので、建白 けんぱく 書 しょ に自分 じぶん の考 かんが えをまとめたのです。ただ破壊 はかい 的 てき に、こんなもの(マル五 ご 計画 けいかく 、その他 た の日本 にっぽん 海軍 かいぐん の考 かんが え)はダメだと批判 ひはん していただけではない。ずっと以前 いぜん から、どういう軍備 ぐんび が必要 ひつよう かということを考 かんが えていたのだ、ということを示 しめ すためにもね。それで私 わたし はやめますっていったんだ」「私 わたし はいわゆる大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ に反対 はんたい して、海軍 かいぐん の空軍 くうぐん 化 か を力説 りきせつ したのだが、あれは航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう のときにいったんで誤解 ごかい され、損 そん をしましたよ。航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう でもってやったもんだから、我田引水 がでんいんすい だとか、セクショナリズムだとか、そういうふうにとられてしまいました」[ 115] 。
^ 横須賀 よこすか 、呉 ご のような軍港 ぐんこう 地 ち には、鎮守 ちんじゅ 府 ふ 等 ひとし の海軍 かいぐん の司令 しれい 部 ぶ が、艦隊 かんたい 司令 しれい 部 ぶ とは別 べつ に陸上 りくじょう に置 お かれていた。しかし、旗艦 きかん 鹿島 かしま の母港 ぼこう の役割 やくわり を果 は たしていたトラックには海軍 かいぐん の陸上 りくじょう 司令 しれい 部 ぶ は存在 そんざい せず、鹿島 かしま がその機能 きのう を兼 か ねていた[ 124] 。
^ 大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう 下 した の「官吏 かんり 」は、「高等官 こうとうかん (武官 ぶかん は士官 しかん )」とその下 した の「判任官 はんにんかん (武官 ぶかん は准 じゅん 士官 しかん ・下士官 かしかん 」の二 ふた つに分 わか れた。高等官 こうとうかん は、さらに上 うえ から「親 おや 任官 にんかん (武官 ぶかん は大将 たいしょう )」「勅 みことのり 任官 にんかん (武官 ぶかん は中将 ちゅうじょう ・少将 しょうしょう )」「奏 そう 任官 にんかん (武官 ぶかん は大佐 たいさ ~少尉 しょうい )」の3つに分 わ かれた。「官吏 かんり 」の下 した の身分 みぶん として、「兵卒 へいそつ 」や「傭人 ようにん ・雇員 こいん 」があり、「臨時 りんじ 雇 やと い」の位置 いち づけだった[ 128] [ 129] 。
^ 戦時 せんじ 中 ちゅう の1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )・1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )に、井上 いのうえ が奥津 おくつ ノブ子 のぶこ (井上 いのうえ が4F長官 ちょうかん の時 とき 、トラック所在 しょざい の第 だい 四 よん 海軍 かいぐん 軍需 ぐんじゅ 部 ぶ の少女 しょうじょ 傭 やとい 員 いん であった)に送 おく った手紙 てがみ 4通 つう を見 み ると、現役 げんえき の海軍 かいぐん 中将 ちゅうじょう たる顕官 けんかん にあった井上 いのうえ が、奥津 おくつ ノブ子 のぶこ を全 まった く対等 たいとう に遇 ぐう していたことが分 わか る[ 130] 。
^ 太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう は、中将 ちゅうじょう に進級 しんきゅう してから5年 ねん 半 はん 経過 けいか しても現役 げんえき にある者 もの は大将 たいしょう に親任 しんにん される例 れい であった[ 176] 。1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )11月15日 にち に 中将 ちゅうじょう に進級 しんきゅう した井上 いのうえ は、予備 よび 役 やく にならなければ、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )5月 がつ に大将 たいしょう に親任 しんにん される計算 けいさん となる。史実 しじつ では、井上 いのうえ は1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )5月 がつ 15日 にち に大将 たいしょう に親任 しんにん された。
^ その「当分 とうぶん の間 あいだ 」が終 お わる前 まえ に、太平洋戦争 たいへいようせんそう の敗戦 はいせん で帝国 ていこく 海軍 かいぐん そのものが潰 つい えてしまった[ 180] 。
^ 兵 へい 78期 き は、それまでの海兵 かいへい 生徒 せいと が「中学 ちゅうがく 4年 ねん 修了 しゅうりょう 以上 いじょう 」であったのと異 こと なり、新設 しんせつ の「海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 予 よ 科 か 生徒 せいと 」として中学 ちゅうがく 3年 ねん 修了 しゅうりょう 者 しゃ を採用 さいよう し[ 191] 、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )4月 がつ 3日 にち に4,048名 めい が、長崎 ながさき 県 けん の針尾 はりお 分校 ぶんこう に入校 にゅうこう した[ 190] 。
^ 陸軍 りくぐん では、1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )頃 ごろ に士官 しかん 学校 がっこう 修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を約 やく 半減 はんげん して速成 そくせい 教育 きょういく に転 てん じたが、これを失敗 しっぱい と判断 はんだん し、修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん を旧 きゅう に復 ふく しつつある状況 じょうきょう 。
^ この頃 ころ の心境 しんきょう につき井上 いのうえ は「ただでさえ3年 ねん 修業 しゅうぎょう でも教育 きょういく は充分 じゅうぶん でないのに、まことに不見識 ふけんしき な年限 ねんげん 短縮 たんしゅく であった。そして、それも急 きゅう に決 き めてきたため、教科 きょうか はすべてが尻切 しりき れになる次第 しだい だった。このような取扱 とりあつか いをされる生徒 せいと は、人間 にんげん づくりの最 もっと も大切 たいせつ な年頃 としごろ を踏 ふ みにじられたもので、見 み ようによっては一生 いっしょう を台 だい なしにされるわけで、私 わたし は校長 こうちょう として看過 かんか すべきではないと思 おも った。そして、今後 こんご これ以上 いじょう の修業 しゅうぎょう 年限 ねんげん の短縮 たんしゅく には、職 しょく を賭 と しても反対 はんたい して生徒 せいと を守 まも ろうと決心 けっしん した」と回想 かいそう する。
^ 戦後 せんご 日本 にっぽん を支配 しはい したGHQ は、軍 ぐん の諸 しょ 学校 がっこう 出身 しゅっしん 者 しゃ (海兵 かいへい や陸士 りくし を卒業 そつぎょう した者 もの は、旧制 きゅうせい 高校 こうこう 卒業 そつぎょう 者 しゃ と同等 どうとう に扱 あつか われ、旧制 きゅうせい 大学 だいがく 受験 じゅけん 資格 しかく が与 あた えられた)を、全学 ぜんがく 学生 がくせい の1割 わり に制限 せいげん した[ 205] 。
^ 高木 たかぎ は、前年 ぜんねん の1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )の秋 あき 頃 ごろ から、東條 とうじょう ・嶋田 しまだ ラインの戦争 せんそう 指導 しどう に疑問 ぎもん を抱 いだ き、海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない ・部外 ぶがい の同志 どうし と密 ひそ かに意見 いけん を交 か わしていた。同志 どうし と語 かた らい、「1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )7月 がつ 20日 はつか に東條 とうじょう を暗殺 あんさつ する」具体 ぐたい 的 てき 計画 けいかく を立 た てて準備 じゅんび をするに至 いた ったが、実行 じっこう 寸前 すんぜん の7月 がつ 18日 にち に東條 とうじょう 内閣 ないかく が総 そう 辞職 じしょく したため未遂 みすい に終 お わった[ 217] 。
^ 高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち 少将 しょうしょう は、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )から10年 ねん ほど前 まえ の1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )「肺尖 はいせん 炎 えん 」という病気 びょうき で転地 てんち 療養 りょうよう をしたことがあった[ 218] 。1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )には肺尖 はいせん 炎 えん はほぼ治癒 ちゆ していたが、生来 せいらい の持病 じびょう である「胃酸 いさん 過少 かしょう 症 しょう 」に悩 なや まされ、常 つね に希塩酸 きえんさん の小瓶 こびん を持 も ち歩 ある かねばならない重症 じゅうしょう であった[ 219] 。高木 たかぎ を、海軍 かいぐん 省 しょう 教育 きょういく 局長 きょくちょう の要職 ようしょく から閑職 かんしょく に退 しりぞ かせても部内 ぶない に不審 ふしん を抱 いだ かせない名目 めいもく として、井上 いのうえ が「病気 びょうき 休養 きゅうよう 」を持 も ち出 だ すのは自然 しぜん だった。
^ 米 べい 内 ない が海 うみ 相 しょう 就任 しゅうにん 後 ご も自宅 じたく に住 す んでいたので、海軍 かいぐん 大臣 だいじん 官邸 かんてい は空 あ き家 や の状態 じょうたい だった。家族 かぞく がおらず、東京 とうきょう に家 いえ を持 も たない井上 いのうえ は、次官 じかん 就任 しゅうにん を受諾 じゅだく した時 とき に、大臣 だいじん 官邸 かんてい の中 なか の使用人 しようにん 区画 くかく に住 す む了解 りょうかい を得 え て、以来 いらい 、大臣 だいじん 官邸 かんてい の中 なか に住 す んでいた[ 226] 。
^ もともと次官 じかん は中将 ちゅうじょう のポストである[ 236] 。井上 いのうえ は高木 たかぎ に「次官 じかん 退任 たいにん は、大将 たいしょう になったから」と語 かた っている。しかし、嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう の下 した で長 なが く海軍 かいぐん 次官 じかん を務 つと めた沢本 さわもと 頼 よりゆき 雄 ゆう が、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )3月 がつ 1日 にち に大将 たいしょう に親任 しんにん された後 のち も、同年 どうねん 7月 がつ まで「軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん 兼 けん 海軍 かいぐん 次官 じかん 事務 じむ 取扱 とりあつかい 」として次官 じかん の職務 しょくむ を務 つと めた[ 239] 直近 ちょっきん の例 れい があったこのため海軍 かいぐん 大臣 だいじん 秘書官 ひしょかん の麻生 あそう 孝雄 たかお 中佐 ちゅうさ 、岡本 おかもと 功 いさお 中佐 ちゅうさ らは、「大将 たいしょう 次官 じかん でなぜ悪 わる い。大将 たいしょう 進級 しんきゅう に反対 はんたい する余 あま り、次官 じかん までやめることはないではないかと思 おも った」と、戦後 せんご 不満 ふまん を漏 も らしている[ 240] 。
^ 井上 いのうえ がいつ長井 ながい に引 ひ っ越 こ したかは不明 ふめい 。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )10月 がつ 15日 にち の予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう に先立 さきだ ち、8月 がつ 末 まつ に既 すで に井上 いのうえ が長井 ながい にいたとうかがわせる情報 じょうほう もある[ 254] 。
^ 研一 けんいち は、丸田 まるだ 家 か の縁者 えんじゃ 宅 たく を転々 てんてん とした後 のち 、約 やく 2年 ねん 後 ご に、八巻 はちまき 信雄 のぶお ・順子 じゅんこ 夫妻 ふさい に引 ひ き取 と られて成人 せいじん するまで養育 よういく され、早稲田大学 わせだだいがく 教育 きょういく 学部 がくぶ を卒業 そつぎょう して出版 しゅっぱん 社 しゃ に勤務 きんむ した。丸田 まるた 吉 きち 人 じん の妹 いもうと である八巻 はちまき 順子 じゅんこ はクリスチャンで、「この子 こ の面倒 めんどう を見 み なければならない」という強 つよ い責任 せきにん 感 かん を持 も ち、夫 おっと を説得 せっとく して研一 けんいち を引 ひ き取 と った。それを知 し った井上 いのうえ は、八巻 はちまき 順子 じゅんこ に丁重 ていちょう な礼状 れいじょう を送 おく った[ 266] [ 267] [ 268] 。
^ 山本 やまもと 善雄 よしお 少将 しょうしょう は、あくまでも自分 じぶん の想像 そうぞう に過 す ぎないが、として「井上 いのうえ さんが、ちょっとした贈 おく り物 もの にも返礼 へんれい しなければ気 き が済 す まない性分 しょうぶん なのは、支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい でお仕 つか えした自分 じぶん はよく知 し っている。富士子 ふじこ さんの、入院 にゅういん 中 ちゅう の井上 いのうえ さんへの献身 けんしん 的 てき な看護 かんご ぶりは、我々 われわれ が頭 あたま を下 さ げてお礼 れい を言 い いたい程 ほど であった。しかし、戦後 せんご の井上 いのうえ さんにはこれに報 むく いる手立 てだ てが何 なに もない。そこに軍人 ぐんじん 恩給 おんきゅう が復活 ふっかつ して、受給 じゅきゅう 者 しゃ (井上 いのうえ )が死 し んだ場合 ばあい 、親 おや または配偶 はいぐう 者 しゃ は半額 はんがく の遺族 いぞく 扶助 ふじょ 料 りょう が終身 しゅうしん 支給 しきゅう されるようになった。井上 いのうえ さんが、押 お しかけ女房 にょうぼう の気味 きみ のあった富士子 ふじこ さんと、敢 あ えて結婚 けっこん に踏 ふ み切 き られたのは、命 いのち の恩人 おんじん である富士子 ふじこ さんに、自分 じぶん の死後 しご 、僅 わず かながらも終身 しゅうしん の年金 ねんきん を保証 ほしょう し、せめてもの 『お返 かえ し』 をするためだったのではないか」という旨 むね を述 の べている[ 288] 。
^ 出典 しゅってん に、具体 ぐたい 的 てき な時期 じき は書 か かれていない。矢野 やの 志 こころざし 加 か 三 さん 中将 ちゅうじょう は1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )1月 がつ に72歳 さい で死去 しきょ している。1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )の井上 いのうえ の大病 たいびょう の後 のち 、1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )に深田 ふかた 秀明 ひであき による金銭 きんせん 支援 しえん が始 はじ まる前 まえ の、昭和 しょうわ 30年代 ねんだい のことであろう[ 289] 。
^ 浦賀 うらが 船渠 せんきょ の関連 かんれん 会社 かいしゃ で、戦前 せんぜん ・戦中 せんちゅう はエリコン20ミリ機銃 きじゅう をライセンス生産 せいさん していた大 だい 日本 にっぽん 兵器 へいき が戦後 せんご に機械 きかい メーカーに転 てん じて日平 ひびら 産業 さんぎょう となった。合併 がっぺい を経 へ て、2012年 ねん (平成 へいせい 24年 ねん )現在 げんざい はコマツNTC となっている。
^ この経緯 けいい について、井上 いのうえ が1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )12月に死去 しきょ した後 のち 、井上 いのうえ の相続 そうぞく 人 じん である孫 まご の丸田 まるた 研一 けんいち が、井上 いのうえ の死 し の直後 ちょくご に深田 ふかた から説明 せつめい された。丸田 まるた は晩年 ばんねん の井上 いのうえ を支 ささ えていた、兵学 へいがく 校長 こうちょう 時代 じだい の企画 きかく 課長 かちょう だった小田切 おだぎり 正徳 まさのり 大佐 たいさ から深田 ふかた の説明 せつめい を裏 うら づける話 はなし を聞 き き、井上 いのうえ 宅 たく の押入 おしい れから、深田 ふかた の説明 せつめい 通 どお りの内容 ないよう の公正 こうせい 証書 しょうしょ を発見 はっけん した[ 295] 。
^ 1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )当時 とうじ の「古 こ 鷹 たか ビル」は、2011年 ねん (平成 へいせい 23年 ねん )現在 げんざい は「ふるたかビル」と改称 かいしょう している模様 もよう 。
^ 日 にち 名子 なご 実三 じつぞう とその作品 さくひん について詳述 しょうじゅつ している、広田 ひろた 肇 はじめ 一 いち 『日 にち 名子 なご 実 じつ 三 さん の世界 せかい -昭和 しょうわ 初期 しょき 彫刻 ちょうこく の鬼才 きさい 』 思文閣出版 しぶんかくしゅっぱん 、2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )、74-75頁 ぺーじ に、「井上 いのうえ 成美 まさみ 像 ぞう 」が、制作 せいさく の経緯 けいい 、「 『井上 いのうえ 成美 まさみ 』 (井上 いのうえ 成美 まさみ 伝記 でんき 刊行 かんこう 会 かい )から転載 てんさい 」とクレジットされた写真 しゃしん と共 とも に掲載 けいさい され、「 『井上 いのうえ 成美 まさみ 像 ぞう 』 であるが、謹厳 きんげん 実直 じっちょく 、信念 しんねん 一貫 いっかん 、眼光 がんこう 炯々 けいけい 、井上 いのうえ の風貌 ふうぼう と性格 せいかく をあますところなく表現 ひょうげん した(日 にち 名子 なご の)初期 しょき 肖像 しょうぞう 作品 さくひん の優作 ゆうさく である」と評 ひょう されているが、「井上 いのうえ 成美 まさみ 像 ぞう 」の所在 しょざい については記述 きじゅつ がない。
^ ママ。正 まさ しくは「多磨 たま 」。
^
以下 いか の文章 ぶんしょう が、粗末 そまつ な便箋 びんせん 2枚 まい に書 か かれていた。
井上 いのうえ 成美 まさみ 遺言 ゆいごん (
明治 めいじ 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 九 きゅう 日 にち 生 う まれ)。
小生 しょうせい の葬儀 そうぎ は密葬 みっそう の事 こと 。
雑件 ざっけん
(一 いち )、葬儀 そうぎ 場 じょう は勧 すすむ 明寺 あけてら (長井 ながい 町 まち ・・・)電話 でんわ ・・局 きょく の「・・・・」井上 いのうえ 宅 たく から歩 ある いて十分 じゅうぶん 。
(二 に )、埋葬 まいそう 。東京 とうきょう 多摩 たま [ 注釈 ちゅうしゃく 44] 霊園 れいえん の本家 ほんけ 墓地 ぼち に埋葬 まいそう のこと。この事 こと は在中 ざいちゅう 野分 のわけ 家 か の現 げん 主人 しゅじん 井上 いのうえ 秀郎 ひでお 承知 しょうち 。井上 いのうえ 秀郎 ひでお 住所 じゅうしょ (・・・)
(三 さん )、花輪 はなわ 、供物 くもつ 、香典 こうでん 等 とう は一切 いっさい お辞退 じたい の事 こと 。附言 ふげん 。おつ夜 よる その他 た の段 だん 等 とう は荒井 あらい 、長井 ながい 等 ひとし 一般 いっぱん 世間 せけん の習慣 しゅうかん に依 よ る事 こと 。
^ 阿部 あべ 信行 のぶゆき 元 もと 首相 しゅしょう は、井上 いのうえ が市立 しりつ 横須賀 よこすか 病院 びょういん を退院 たいいん した直後 ちょくご の1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )9月 がつ 7日 にち に死去 しきょ [ 285] 。
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