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豊田とよだ貞次郎ていじろう

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豊田とよだ 貞次郎ていじろう
とよだ ていじろう
生年月日せいねんがっぴ 1885ねん8がつ7にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 和歌山わかやまけん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1961-11-21) 1961ねん11月21にち(76さいぼつ
出身しゅっしんこう 海軍かいぐんだい学校がっこう
オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく
称号しょうごう 海軍かいぐん大将たいしょう
したがえ
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう

内閣ないかく だい2近衛このえないかく
在任ざいにん期間きかん 1941ねん4がつ4にち - 1941ねん7がつ18にち

内閣ないかく だい3近衛このえないかく
在任ざいにん期間きかん 1941ねん7がつ18にち - 1941ねん10月18にち

内閣ないかく だい3近衛このえないかく
在任ざいにん期間きかん 1941ねん7がつ18にち - 1941ねん10月18にち

内閣ないかく 鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1945ねん4がつ7にち - 1945ねん4がつ11にち

内閣ないかく 鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1945ねん4がつ7にち - 1945ねん8がつ17にち
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豊田とよだ 貞次郎ていじろう(とよだ ていじろう、1885ねん明治めいじ18ねん8がつ7にち[1] - 1961ねん昭和しょうわ36ねん11月21にち[1])は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん政治せいじ実業じつぎょう最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょうしたがえ勲一等くんいっとう

和歌山わかやまけん出身しゅっしん紀伊田辺きいたなべはん豊田とよだ信太郎しんたろう次男じなん[1]海兵かいへい33首席しゅせきうみだい甲種こうしゅ17首席しゅせき

生涯しょうがい

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海軍かいぐん軍人ぐんじん時代じだい

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旧制きゅうせい天王寺てんのうじ中学校ちゅうがっこうより東京とうきょう外語がいご学校がっこう英語えいご海軍兵学校かいぐんへいがっこう入校にゅうこうだい33首席しゅせき卒業そつぎょう同期どうき卒業そつぎょう順位じゅんいだい26豊田とよだふく大将たいしょうがいるが、大分おおいたけん出身しゅっしんふくとはへい学校がっこう入学にゅうがくまで面識めんしきがなかった他人たにん同士どうしである。苦労人くろうにんふく天才てんさいはだ貞次郎ていじろうはタイプこそせい反対はんたいだが、将官しょうかん昇進しょうしんするころは「りょう豊田とよだ」とばれ、将来しょうらい嘱望しょくぼうされた。にち戦争せんそうわったばかりの1905ねん明治めいじ38ねん)11月にだい33卒業そつぎょうし、東南とうなんアジア方面ほうめん遠洋えんよう航海こうかいた。少尉しょうい中尉ちゅうい時代じだいは「香取かとり」「弥生やよい」「千歳ちとせ」に乗艦じょうかん砲術ほうじゅつ水雷すいらい学校がっこう普通ふつうをはさんで「敷島しきしま」「薩摩さつま」の乗組のりくみとしてうでみがいた。

1910ねん明治めいじ43ねん大尉たいい昇進しょうしん同時どうじ海軍かいぐんだい学校がっこう乙種おつしゅ学生がくせい砲術ほうじゅつ学校がっこう高等こうとうけい1ねんまなび、いずれも優等ゆうとう卒業そつぎょう翌年よくねんイギリス駐在ちゅうざいめいじられる。着任ちゃくにんした豊田とよだオックスフォおっくすふぉド大学どだいがく留学りゅうがくし、1914ねん大正たいしょう3ねん)に帰国きこく命令めいれいるまで2ねんはんにわたって勉学べんがくはげんだ。

帰国きこくは「比叡ひえい分隊ぶんたいちょうだい4戦隊せんたい参謀さんぼうにんじられた。だいいち世界せかい大戦たいせん末期まっきドイツ制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせん宣言せんげんして輸送ゆそう船団せんだん無差別むさべつ攻撃こうげきしたため、イギリスは日本にっぽん輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえいたい派遣はけん依頼いらいした。豊田とよだ在籍ざいせきするだい4戦隊せんたい1917ねん大正たいしょう6ねん)4がつだい3特務とくむ艦隊かんたい主力しゅりょくとしてシドニー派遣はけんされ、オーストラリアニュージーランドあいだ船団せんだん護衛ごえいにない、豊田とよだ参謀さんぼう留任りゅうにんしてシドニーで指揮しきった。この派遣はけん直前ちょくぜん少佐しょうさ昇進しょうしんしている。

1917ねん大正たいしょう6ねん)12月、安全あんぜん確保かくほされたオーストラリアからだい3特務とくむ艦隊かんたい撤退てったいし、帰国きこくした豊田とよだ海軍かいぐんだい学校がっこうさい入学にゅうがくし、甲種こうしゅ学生がくせいとして2年間ねんかんまなんだ。このとき中学ちゅうがく卒業そつぎょう以来いらい獲得かくとくしてきた首席しゅせき卒業そつぎょうり、自他じたどもみとめるエリートとなった。

卒業そつぎょう海軍かいぐんしょう中枢ちゅうすうたる軍務ぐんむ局員きょくいんにんじられ、1920ねん大正たいしょう9ねん)から1923ねん大正たいしょう12ねん)まで3年間ねんかんつとめ、完全かんぜん幹部かんぶ養成ようせいコースにった。このあいだ中佐ちゅうさ昇進しょうしんしている。

きむつよし副長ふくちょう半年はんとしつとめたのち、1923ねん大正たいしょう12ねん)、海外かいがい大使館たいしかん武官ぶかんでは首位しゅいされるイギリス大使館たいしかん武官ぶかんにんじられ、ロンドンかった。ロンドン生活せいかつは4年間ねんかんおよび、大佐たいさ昇進しょうしんしている。しかも帰国きこく命令めいれいず、国際こくさい連盟れんめい開催かいさいされているジュネーブ海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎ随員ずいいん横滑よこすべりしたため、帰国きこくしたのは1927ねん昭和しょうわ2ねんまつである。このように海外かいがい生活せいかつ非常ひじょうながいことから、海外かいがい事情じじょう抜群ばつぐんくわしかったが、国内こくない事情じじょうにはうとく、軍縮ぐんしゅく会議かいぎ随員ずいいんたちとはりがわないことがおおかった。

帰国きこく、「阿武隈あぶくま」「山城やましろ」の艦長かんちょう歴任れきにんし、ふたたロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎ随員ずいいんとしてわたりすぐるした。全権ぜんけん財部たからべあや発言はつげんけんつよく、豊田とよだ自身じしん条約じょうやく可否かひたいする主義しゅぎ主張しゅちょうもなかったため、豊田とよだ口出くちだしする余地よちはなかった。条約じょうやく成立せいりつして帰国きこくすると少将しょうしょう昇進しょうしんし、横須賀よこすか鎮守ちんじゅ参謀さんぼうちょう1931ねん昭和しょうわ6ねん)に軍務ぐんむ局長きょくちょうにんじられた。

ところが就任しゅうにんから半年はんとしで、豊田とよだ軍務ぐんむ局長きょくちょう更迭こうてつされる。その経緯けいいしめ資料しりょうのこされていないが、軍令ぐんれい部長ぶちょう就任しゅうにんしたばかりの伏見ふしみみやひろしきょうおう大将たいしょうたいして失言しつげんしたためではないかと推測すいそくされている。「大臣だいじんになりたい」が口癖くちぐせのエリートが、はじめて挫折ざせつ経験けいけんした。だい学校がっこう時代じだい以来いらい、ろくに軍事ぐんじ学習がくしゅうをしていない豊田とよだたいしてあてがわれたのは、専門せんもんとしていた砲術ほうじゅつとはまったく関係かんけいのない航空こうくう本部ほんぶであった。1932ねん昭和しょうわ7ねん)11月の定期ていき異動いどう豊田とよだこう工廠こうしょうちょうにんじられた。だれもがもはや豊田とよだ命脈めいみゃくきたものとおもっていた。

しかし、豊田とよだはその地位ちい不満ふまんっていたものの、捲土重来けんどじゅうらい機会きかいうかがうとともに、みずからの将来しょうらいあらたな展望てんぼうつようになっていた。こう工廠こうしょう先発せんぱつ造船ぞうせん工場こうじょうとはことなり、航空機こうくうき整備せいび主力しゅりょくとする特殊とくしゅ軍需ぐんじゅ工場こうじょうであった。航空機こうくうきへの理解りかい徐々じょじょたかまりつつあったが、整備せいび必要ひつよう工具こうぐ部品ぶひん満足まんぞく調達ちょうたつできないきびしい環境かんきょうにあった。現場げんばたたおとされた豊田とよだは、現場げんば窮状きゅうじょうはだかんり、工業こうぎょう生産せいさんりょく向上こうじょう必要ひつようであることをみとめた。のちに政治せいじ経営けいえいしゃとして一貫いっかんして鉄鋼てっこうぎょう振興しんこうつとめる豊田とよだ原点げんてんとなる。

1934ねん昭和しょうわ9ねん)5がつかんせい本部ほんぶ総務そうむ部長ぶちょう1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつ工廠こうしょうちょう1938ねん昭和しょうわ13ねん)11月に航空こうくう本部ほんぶちょう1939ねん昭和しょうわ14ねんなつに3ヶ月かげつあいだかんせい本部ほんぶちょう兼任けんにん)と、12年度ねんど佐世保させぼ鎮守ちんじゅ長官ちょうかんのぞくと軍事ぐんじ技術ぎじゅつ最前線さいぜんせんでの勤務きんむつづいた。豊田とよだ佐世保させぼ鎮守ちんじゅ長官ちょうかん時代じだい山本やまもと五十六いそろく海軍かいぐん次官じかんから次期じき次官じかん候補こうほとしてげられた。豊田とよだ山本やまもとに「わたししん補職ほしょく佐世保させぼ鎮守ちんじゅ長官ちょうかん)にあるからといって、(おや補職ほしょくではなく宮中きゅうちゅうでは格下かくしたにあたる)次官じかんにならぬということはない」という趣旨しゅし返書へんしょおくり、山本やまもと鼻白はなじろませた。このとき人事じんじでは山本やまもと慰留いりゅうされたために豊田とよだ次官じかん就任しゅうにん白紙はくしとなったが、次官じかんもっとちかいポストである航空こうくう本部ほんぶちょうかんせい本部ほんぶちょうまで復帰ふっきすることができた。

1940ねん昭和しょうわ15ねん)9がつ豊田とよだ雌伏しふく時間じかんわった。海軍かいぐん大臣だいじん吉田よしだよしわれ病気びょうき辞職じしょくし、次官じかん住山すみやま徳太郎とくたろう退しりぞいたため、豊田とよだ念願ねんがん次官じかんまわってきた。最大さいだい懸案けんあん事項じこうであったにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつけ、海軍かいぐん大臣だいじん及川おいかわ古志こしろういて活動かつどうした。豊田とよだ自身じしんさんこく同盟どうめいこのましくないと認識にんしきしていたが、外務省がいむしょう帝国ていこく議会ぎかい陸軍りくぐん賛成さんせいしている状況じょうきょう海軍かいぐん孤立こりつすることを警戒けいかいしていた。同盟どうめい成立せいりつ首相しゅしょう近衛このえ文麿ふみまろに「海軍かいぐん全体ぜんたいとしては反対はんたいだが、国内こくない調和ちょうわ優先ゆうせんして政治せいじてきにやむなく賛成さんせいした。たいべいえいせん有利ゆうりになるかどうかはべつ問題もんだいである」とあんたいべい交渉こうしょう責任せきにん外務省がいむしょう政府せいふ責任せきにんであることをげた。まさかその外務がいむ大臣だいじん椅子いす自身じしんすわることになるとは、当時とうじ豊田とよだ夢想むそうだにもしなかった。

次官じかん在任ざいにんちゅうは、次官じかんしつ歴代れきだい次官じかん肖像しょうぞう名札なふだ陳列ちんれつし、みずからのもその末尾まつびれんらねさせたが、井上いのうえ成美まさみはこれを「さながらナチスだいれつごとし」と皮肉ひにくあきれている。また及川おいかわいてみずからのもとで政務せいむかんする案件あんけん決裁けっさいしてしまうこともおおく、こうしたぎた自己じこ顕示けんじよくは「豊田とよだ大臣だいじん及川おいかわ次官じかん」という陰口かげぐちとなってかえってくることになった。念願ねんがん次官じかんだっただけに、そのしょくへの執着しゅうちゃくもまた人一倍ひといちばいつよく、内閣ないかく改造かいぞう沙汰ざたされるようになりはじめると、今度こんどはあからさまな留任りゅうにん工作こうさくおこなった。しかし改造かいぞう当日とうじつ副官ふっかんらのまえで「大臣だいじんわるが、おれわらないから」と豪語ごうごした直後ちょくご次官じかん更迭こうてつほう面目めんぼく丸潰まるつぶれとなってしまった。おなごろ山本やまもと五十六いそろくがそろそろ潮時しおどき連合れんごう艦隊かんたい長官ちょうかんめたいむね及川おいかわ大臣だいじんたいして表明ひょうめい、「後任こうにんには古賀こがみねいち嶋田しまだ繁太郎しげたろう若返わかがえりをはかるなら豊田とよだふく豊田とよだ貞次郎ていじろうす」とおくっている。もちろんまえ二人ふたり本命ほんめいで、二人ふたりはどうせがるだろうからとした諧謔かいぎゃくである。

予備よびやく編入へんにゅう

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このとし商工しょうこうしょうでは財界ざいかい出身しゅっしん資本しほん主義しゅぎみずか体現たいげんするような大臣だいじん小林こばやし一三かずみと、同省どうしょうきのしん官僚かんりょう統制とうせい経済けいざい国家こっかひゃくねんけいとして標榜ひょうぼうする次官じかんきし信介しんすけ対立たいりつしていた。きしはやがて企画きかくいん事件じけん発生はっせいするとその責任せきにんをとって次官じかんしたが、その軍部ぐんぶ結託けったくして小林こばやし一矢いっしむくいることに奔走ほんそうとしけ、きしどう事件じけん関連かんれんして大臣だいじんにも軍事ぐんじ機密きみつ漏洩ろうえい責任せきにんがあると公言こうげんするにいたって、小林こばやしもまた大臣だいじんめざるをなくなった。近衛このえはこの小林こばやし後任こうにん豊田とよだした。しかし現役げんえき海軍かいぐん中将ちゅうじょうである豊田とよだがつとめることのできる閣僚かくりょうは、海軍かいぐん軍政ぐんせいつかさど海軍かいぐん大臣だいじんのみである。豊田とよだ熟慮じゅくりょうえで、ここは海軍かいぐん現役げんえき退しりぞいて商工しょうこう大臣だいじんけようと決断けつだんした。しかしころんでもただではきないのが豊田とよだである。4月4にち登庁とうちょうした豊田とよだみずからの大将たいしょう進級しんきゅう条件じょうけん次官じかん依願いがん退職たいしょくするという前代未聞ぜんだいみもん辞表じひょう及川おいかわ提出ていしゅつ周囲しゅうい唖然あぜんとさせた。及川おいかわはこの辞表じひょう受理じゅりせず、豊田とよだ大将たいしょう進級しんきゅうさせたうえ即日そくじつ予備よびやく編入へんにゅうして決着けっちゃくたが、この政界せいかい転向てんこうには、普段ふだんひと陰口かげぐちなどたたかない古賀こがみねいちをして「豊田とよださんは出世しゅっせのために海軍かいぐんだいにしたんだ」とわしめるほど、省内しょうないだれをも落胆らくたんさせるような転出てんしゅつだった。しかしとう豊田とよだにとっても「ついなつかしくてようもないのに海軍かいぐんしょうまえてしまうことも多々たたあった」と後任こうにん次官じかん沢本さわもとよりゆきゆう吐露とろするほど、不本意ふほんい後味あとあじわる幕切まくぎれだった。

しかしかくない暴走ぼうそうする外務がいむ大臣だいじん松岡まつおか洋右ようすけごうやした近衛このえは、松岡まつおか大臣だいじん辞任じにんればぎゃくかくない不一致ふいっち内閣ないかくたおれると判断はんだん機先きせんせいしてぜん閣僚かくりょうから辞表じひょうけると急遽きゅうきょ参内さんだいしていったん内閣ないかくそう辞職じしょくし、そのあらためて組閣そかく大命たいめいけて今度こんど松岡まつおかきのだい3近衛このえないかく組織そしきした。近衛このえはこの松岡まつおか後任こうにん外務がいむ大臣だいじんに、わずか3かげつまえ商工しょうこう大臣だいじん就任しゅうにんしたばかりの豊田とよだ横滑よこすべりさせるという。かつてさんこく同盟どうめい締結ていけつかんする責任せきにんをなすりけた外務省がいむしょう所轄しょかつ大臣だいじんとなることにはさすがにけて豊田とよだ再三さいさんこれを固辞こじしたが、海軍かいぐん先輩せんぱいであり同郷どうきょうでもある駐米ちゅうべい大使たいし野村のむら吉三郎きちさぶろうとの連携れんけいがうまくいくことを期待きたいした近衛このえられた。これ以後いご豊田とよだ東京とうきょうにあって、ワシントンで日米にちべい交渉こうしょうつづける野村のむら来栖くるすりょう大使たいしささえた。豊田とよだ近衛このえ訪米ほうべい、ないしハワイを訪問ほうもんしてアメリカ大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルト直接ちょくせつ会談かいだんおこなうという秘策ひさくをもって交渉こうしょうすすめたが、そうした外交がいこう交渉こうしょうかたわらで開戦かいせん準備じゅんび同時どうじすすめる日本にっぽん姿勢しせい警戒けいかいしたアメリカは、次第しだい外交がいこう交渉こうしょうそのものがじつ開戦かいせん準備じゅんび一環いっかんとしてのそら芝居しばいなのではないかという疑念ぎねんつのらせていく。結局けっきょくこくあいだ主張しゅちょう平行へいこうせんえがくのみで進展しんてんがなく、これに近衛このえ嫌気いやけして結局けっきょく内閣ないかくほうすこととなった。外務がいむ大臣だいじん在任ざいにんやく3かげつ辞職じしょくした。

そのあいだもなく豊田とよだ日本にっぽん製鐵せいてつ社長しゃちょう招聘しょうへいされた。海軍かいぐん時代じだいから関心かんしんがあった鉄鋼てっこう増産ぞうさん現場げんばにようやくつことができた。製鉄せいてつ労働ろうどうしゃ不足ふそくのために1941ねん昭和しょうわ16ねん下半期しもはんきから1942ねん昭和しょうわ17ねん上半期かみはんきにかけて鉄鋼てっこう生産せいさん減少げんしょうしており、克服こくふくのために鉄鋼てっこう統制とうせいかい結成けっせいされ、豊田とよだ会長かいちょう就任しゅうにんした。小学校しょうがっこう卒業生そつぎょうせい朝鮮ちょうせんじん労働ろうどうしゃ就労しゅうろう強化きょうかさく、または離職りしょく防止ぼうしさく福利ふくり厚生こうせい充実じゅうじつ推進すいしんした。これにより労働ろうどうりょく確保かくほには成功せいこうしたものの、やがて戦局せんきょく悪化あっかによって原料げんりょう確保かくほ困難こんなんになり、鉄鋼てっこう生産せいさんりょく減少げんしょう一途いっとをたどる。

しばらく政治せいじからはなれていたが、1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつ東條とうじょう内閣ないかくより内閣ないかく顧問こもんとして招聘しょうへいされた。軍需ぐんじゅ物資ぶっし陸海りくかいぐん配分はいぶん比率ひりつ陸海りくかいぐんはげしく対立たいりつしており、打開だかいさくもとめられたものの、豊田とよだ思惑おもわくどおりにはすすまなかった。豊田とよだふたた閣僚かくりょうとなるのは鈴木すずき内閣ないかくときで、軍需ぐんじゅ大臣だいじん運輸うんゆ通信つうしん大臣だいじん兼摂けんせつしたが、もはや生産せいさん基盤きばん破壊はかいくされており、豊田とよだはなかった。

鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく最後さいご御前ごぜん会議かいぎでのエピソード

昭和しょうわ20ねん1945ねん8がつ14にち午前ごぜん8鈴木すずき貫太郎かんたろう首相しゅしょう奏請そうせいというかたちで、その午前ごぜん10から、急遽きゅうきょ最後さいご御前ごぜん会議かいぎ開催かいさいされることまった[2]当時とうじ真夏まなつであり、宮中きゅうちゅう参内さんだいとう特別とくべつ行事ぎょうじでもないかぎり、閣僚かくりょうなかには軽装けいそうものもいた。 その豊田とよだ貞次郎ていじろう軍需ぐんじゅしょう開襟かいきんシャツで、ネクタイ着用ちゃくようしていなかった。急遽きゅうきょ御前ごぜん会議かいぎまり、豊田とよださかんに「こまった、こまった」とった[2]。 すると、るにかねた首相しゅしょう官邸かんていのある職員しょくいんが、あまり上等じょうとうではないネクタイを一本いっぽん見付みつけてた。豊田とよだ開襟かいきんシャツのえり無理矢理むりやりすぼめてネクタイをめようとしたが、なかなか上手うまくいかなかったので、岡田おかだ忠彦ただひこ厚相こうしょうがネクタイをむすぶのを手伝てつだった[2]。 その光景こうけいていた迫水さこみず久常ひさつね内閣ないかく書記官しょきかんちょうは、微笑ほほえましくおもったという。そして、大臣だいじんたち一般いっぱん国民こくみんおなじようにくに苦難くなんめ、からだで体験たいけんしているのだというおもいが迫水さこみずあたまなかをかすめたという[2]

戦後せんご

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戦後せんご、1945ねん10がつ5にち貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせんされ[3]、1946ねん昭和しょうわ21ねん)3がつ8にちまで在任ざいにん[4]同年どうねん8がつ公職こうしょく追放ついほうとなり、1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ解除かいじょとなった[5]1958ねん昭和しょうわ33ねん)、ブラジル鉄鋼てっこう開発かいはつ合弁ごうべん企業きぎょう日本にっぽんウジミナス会長かいちょう就任しゅうにんし、鉄鋼てっこうんだのち半生はんせい最後さいごかざった。1961ねん昭和しょうわ36ねん11月21にち腎臓じんぞうがん死去しきょ享年きょうねん76。墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(1イ4-22)。

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

親族しんぞく

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん、233ぺーじ
  2. ^ a b c d 迫水さこみず久常ひさつねちょ大日本帝国だいにっぽんていこく最後さいごよんげつ』 2015ねん7がつ20日はつか 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃかん ISBN 978-4-309-41387-7
  3. ^ 官報かんぽうだい5624ごう昭和しょうわ20ねん10がつ9にち
  4. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん、54ぺーじ
  5. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん』1952ねん3がつ10日とおか夕刊ゆうかん1めん
  6. ^ 官報かんぽうだい7084ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん2がつ13にち
  7. ^ 官報かんぽうだい2539ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん1がつ21にち
  8. ^ 官報かんぽうだい3747ごう叙任じょにん及辞れい」1925ねん2がつ20日はつか
  9. ^ 官報かんぽうだい949ごう叙任じょにん及辞れい」1930ねん3がつ1にち
  10. ^ 官報かんぽうだい3293ごう叙任じょにん及辞れい」1937ねん12月22にち
  11. ^ 官報かんぽうだい4310ごう叙任じょにん及辞れい」1941ねん5がつ23にち
  12. ^ 官報かんぽう』1941ねん5がつ12にち 敍任じょにん及辭れい
  13. ^ 官報かんぽう』1942ねん2がつ12にち 敍任じょにん及辭れい
  14. ^ 赤堀あかほりてつきちがいじゅう四名外国勲章記章受領佩用のけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113504500 
  15. ^ ユキコ・アーウィン『フランクリンの果実かじつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう, 1988, p47

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
吉田よしだしげる
日本の旗 軍需ぐんじゅ大臣だいじん
だい4だい:1945ねん4がつ7にち - どう8がつ17にち
次代じだい
中島なかじま知久平ちくへい
先代せんだい
前田まえだ米蔵よねぞう
日本の旗 運輸うんゆ通信つうしん大臣だいじん
だい4だい:1945ねん4がつ7にち - どう4がつ11にち
次代じだい
しょう日山ひやま直登なおと
先代せんだい
松岡まつおか洋右ようすけ
日本の旗 外務がいむ大臣だいじん
だい64だい:1941ねん7がつ18にち - 1941ねん10がつ18にち
次代じだい
東郷とうごう茂徳しげのり
先代せんだい
秋田あきたきよし
日本の旗 ひらけつとむ大臣だいじん
だい20だい:1941ねん7がつ18にち - 1941ねん10がつ18にち
次代じだい
東郷とうごう茂徳しげのり
先代せんだい
河田かわたれつ
臨時りんじ代理だいり
日本の旗 商工しょうこう大臣だいじん
だい22だい:1941ねん4がつ4にち - どう7がつ18にち
次代じだい
左近さこん司政しせいさん
ビジネス
先代せんだい
平生ひらお三郎さぶろう
日本にっぽん製鐵せいてつ社長しゃちょう
だい4だい:1941ねん12月24にち - 1945ねん4がつ7にち
次代じだい
渡辺わたなべ義介ぎすけ