藤原ふじわら銀次ぎんじろう

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藤原ふじわら 銀次ぎんじろう
ふじわら ぎんじろう/ふじはら ぎんじろう
生年月日せいねんがっぴ 1869ねん7がつ25にち
明治めいじ2ねん6月17にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 信濃しなのこく水内みずうちぐん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1960-03-17) 1960ねん3月17にち(90さいぼつ
出身しゅっしんこう 慶應義塾けいおうぎじゅくせい卒業そつぎょう
ぜんしょく 王子製紙おうじせいし社長しゃちょう
産業さんぎょう設備せつび営団えいだん総裁そうさい
所属しょぞく政党せいとう 研究けんきゅうかい (貴族きぞくいん)
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう

日本の旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
選挙せんきょ 貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1929ねん2がつ19にち - 1946ねん4がつ1にち[1]

内閣ないかく べい内内うちうちかく
在任ざいにん期間きかん 1940ねん1がつ16にち - 1940ねん7がつ22にち

内閣ないかく 東條とうじょう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1943ねん11月17にち - 1944ねん7がつ22にち

内閣ないかく 小磯こいそ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1944ねん7がつ22にち - 1944ねん12月19にち

在任ざいにん期間きかん 1943ねん10がつ18にち - 1944ねん10がつ28にち

その職歴しょくれき
日本の旗 海軍かいぐん軍政ぐんせい顧問こもん
(1942ねん - )
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藤原ふじわら 銀次ぎんじろう(ふじわら ぎんじろう/ふじはら ぎんじろう[2]明治めいじ2ねん6月17にち1869ねん7がつ25にち〉 - 昭和しょうわ35ねん1960ねん3月17にち)は、日本にっぽん実業じつぎょう政治せいじ東京とうきょう平民へいみん[3]戦前せんぜん三井みつい財閥ざいばつ中心ちゅうしん人物じんぶつ一人ひとりで、富岡とみおか製糸せいしじょう支配人しはいにんから王子製紙おうじせいし初代しょだい社長しゃちょうつとめ「製紙せいしおう」といわれた。その貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせんされた。べい内内うちうちかく商工しょうこう大臣だいじん東條とうじょう内閣ないかく国務大臣こくむだいじん小磯こいそ内閣ないかく軍需ぐんじゅ大臣だいじん歴任れきにんした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

明治めいじ2ねん6がつ17にち(1869ねん7がつ25にち)、信濃しなのこく水内みずうちぐん平柴ひらしばむら[4]藤原ふじわら茂兵衛もへい三男さんなんとしてまれる。ちち茂兵衛もへい農業のうぎょうのかたわら、あい問屋とんやいとなむら一番いちばん財産ざいさんといわれた。

16さいとき藤原ふじわら銀次ぎんじろう医者いしゃになることを条件じょうけん上京じょうきょうしたが、医学いがくみちにはすすまず慶應義塾けいおうぎじゅくはいった。

慶應義塾けいおうぎじゅくせい卒業そつぎょう藤原ふじわら銀次ぎんじろう福澤ふくさわ諭吉ゆきちや、時事新報じじしんぽう幹部かんぶ伊藤いとう欽亮、時事新報じじしんぽう新聞しんぶん記者きしゃやなぎ荘太そうたろうから新聞しんぶん業界ぎょうかいへの就職しゅうしょくすすめられた[5]

明治めいじ23ねん2がつ藤原ふじわら銀次ぎんじろう島根しまねけん松江まつえにある「松江まつえ日報にっぽう」に入社にゅうしゃして、新聞しんぶん記者きしゃ主筆しゅひつになった[6]。そのとき松江まつえ日報にっぽう経営けいえい不振ふしんくるしみ、借金しゃっきんふくらみ解散かいさん寸前すんぜんとなっていた。そんな危機ききてき状況じょうきょう松江まつえ日報にっぽうをみて、藤原ふじわら銀次ぎんじろうみずか社長しゃちょうになることをもうた。そして、社長しゃちょうになった藤原ふじわら銀次ぎんじろう会社かいしゃ経営けいえいなおしに着手ちゃくしゅし、1人ひとり松江まつえ日報にっぽう社長しゃちょう主筆しゅひつ新聞しんぶん記者きしゃみっつをやることになった(このとき藤原ふじわら銀次ぎんじろうは24さい)。また時事新報じじしんぽう記者きしゃやなぎ荘太そうたろう新聞しんぶん経営けいえい指南しなんやくとして、藤原ふじわら銀次ぎんじろうちかくでサポートした。

松江まつえ日報にっぽう社長しゃちょうになった藤原ふじわら銀次ぎんじろうは、経営けいえいトップとして資金しきん調達ちょうたつ奔走ほんそうし、新聞しんぶん用紙ようし調達ちょうたつしたり、購読こうどくしゃやそうとして、なんとか松江まつえ日報にっぽう業績ぎょうせき改善かいぜんさせようとしたが、うまくいかなかった。結局けっきょく藤原ふじわら銀次ぎんじろうは、松江まつえ日報にっぽうめて帰京ききょうした。(その松江まつえ日報にっぽうは1904ねん廃刊はいかんになった[7]。)

1895ねん明治めいじ28ねん)、藤原ふじわら銀次ぎんじろう同郷どうきょう慶應義塾けいおうぎじゅく先輩せんぱいたる鈴木すずきうめ四郎しろうすすめられて三井みつい銀行ぎんこう入社にゅうしゃした。そのとき三井みつい銀行ぎんこう同期どうきにはのち蔵相ぞうしょうとなる池田いけだ成彬せいひんがいた。藤原ふじわら銀次ぎんじろう大津おおつ支店してん皮切かわきりに、東京とうきょう深川ふかがわ出張所しゅっちょうしょちょうとなり営業えいぎょう成績せいせきげた。

1897ねん明治めいじ30ねん)、藤原ふじわら銀次ぎんじろう三井みつい経営けいえいする富岡とみおか製糸せいしじょう支配人しはいにんとなった。支配人しはいにんとしては、工員こういん賃金ちんぎん出来高できだかばらせいにして工員こういんあいだ不満ふまん解消かいしょうつとめた。

べい内内うちうちかく商工しょうこう大臣だいじんのとき

1898ねん明治めいじ31ねん)、王子製紙おうじせいし経営けいえいじん対立たいりつからストライキこると、藤原ふじわら銀次ぎんじろう臨時りんじ支配人しはいにん就任しゅうにんした。そして、富士ふじ製紙せいしから熟練工じゅくれんこうきや古参こさん社員しゃいん重視じゅうしなどでストライキをおさめた。

1899ねん明治めいじ32ねん)、藤原ふじわら銀次ぎんじろう三井物産みついぶっさんうつ同社どうしゃ上海しゃんはい支店してん次長じちょうどう支店してんちょう木材もくざい部長ぶちょうなどをつとめた。

1911ねん明治めいじ44ねん)、藤原ふじわら銀次ぎんじろう王子製紙おうじせいし専務せんむ就任しゅうにんした。当時とうじ王子製紙おうじせいし経営けいえい不振ふしん赤字あかじつづきであった。藤原ふじわら三井物産みついぶっさん時代じだい部下ぶかであった高嶋たかしま菊次郎きくじろう足立あだちただしなどを登用とうようし、さらに社内しゃない人材じんざい発掘はっくつつとめた。欧米おうべい機械きかい製造せいぞう会社かいしゃ特別とくべつ契約けいやくむす機械きかい購入こうにゅう代替だいたいとして王子製紙おうじせいし海外かいがい研修生けんしゅうせいたいする見学けんがく視察しさつみとめさせた。また苫小牧とまこまいしん工場こうじょう建設けんせつすすめた。このときには三井みつい銀行ぎんこうから資金しきん一切いっさい調達ちょうたつせず、かみ問屋とんやたいして王子おうじ実情じつじょううったえ、手形てがた決済けっさいはやくすることで資金しきん苫小牧とまこまい工場こうじょう増設ぞうせつと60%の増資ぞうし実現じつげんした。藤原ふじわら社員しゃいん教育きょういくにもちかられ、工場こうじょう火災かさい予防よぼう推進すいしんした。

1929ねん昭和しょうわ4ねん)2がつ19にち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんみことのりまかされる[8]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)、藤原ふじわら銀次ぎんじろう王子製紙おうじせいし富士ふじ製紙せいし樺太からふと工業こうぎょうの3しゃ合併がっぺい実現じつげんさせ、資本しほんきん1おく5000まんえん日本にっぽん国内こくない市場いちば占有せんゆうりつ(シェア)8わり以上いじょう巨大きょだい製紙せいし企業きぎょう誕生たんじょうさせた。藤原ふじわらはこの新生しんせい王子製紙おうじせいし」のしん社長しゃちょう就任しゅうにんし、「製紙せいしおう」の異名いみょうるようになった。

1938ねん昭和しょうわ13ねん)、藤原ふじわら銀次ぎんじろう高嶋たかしま菊次郎きくじろう王子製紙おうじせいし社長しゃちょうしょくゆずり、みずからは会長かいちょうとなった。また、同年どうねん藤原ふじわら銀次ぎんじろう私財しざい800まんえんとうじて、人材じんざい育成いくせい目指めざして横浜よこはまに「藤原ふじわら工業こうぎょう大学だいがく」を設立せつりつした。開校かいこうしき藤原ふじわらの70さい誕生たんじょうにあたる1939ねん昭和しょうわ14ねん)6がつ17にちだった。藤原ふじわら工業こうぎょう大学だいがく理事りじちょう藤原ふじわら銀次ぎんじろう大学だいがく学長がくちょう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく学長がくちょう小泉こいずみ信三しんぞう就任しゅうにんした。

1944ねん昭和しょうわ19ねん)、藤原ふじわら大学だいがく規模きぼ拡大かくだい目指めざ小泉こいずみ信三しんぞうもうれをけて、慶應義塾けいおうぎじゅく藤原ふじわら工業こうぎょう大学だいがく合併がっぺい決定けってい[9]藤原ふじわら工業こうぎょう大学だいがく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく工学部こうがくぶとなった。

1940ねん昭和しょうわ15ねん)、米内よない光政みつまさ内閣ないかく商工しょうこう大臣だいじん就任しゅうにんする。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月26にち商工しょうこうしょうから産業さんぎょう設備せつび営団えいだん総裁そうさいへの就任しゅうにん発令はつれい[10]

1942ねん昭和しょうわ17ねん)、海軍かいぐん軍政ぐんせい顧問こもん内閣ないかく顧問こもんて、1943ねん昭和しょうわ18ねん)、東條とうじょう英機ひでき内閣ないかく国務大臣こくむだいじん就任しゅうにんする。1944ねん昭和しょうわ19ねん)、東條とうじょう内閣ないかくたお小磯こいそ國昭くにあき内閣ないかく発足ほっそくすると軍需ぐんじゅ大臣だいじんてんじる。

慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく矢上やかみキャンパスにある藤原ふじわら銅像どうぞう

1945ねん昭和しょうわ20ねん)の終戦しゅうせん東條とうじょう小磯こいそりょう内閣ないかく閣僚かくりょうつとめた経歴けいれきから米国べいこく戦略せんりゃくばくげき調査ちょうさだん事情じじょう聴取ちょうしゅおこなった[11]ほか、同年どうねん12月2にちには、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい逮捕たいほ命令めいれいした(だいさん逮捕たいほしゃ59めいちゅう1人ひとり[12]Aきゅう戦犯せんぱん容疑ようぎ巣鴨すがも拘置こうちしょ収監しゅうかんされるが、もなく起訴きそとなり出所しゅっしょしている。

その公職こうしょく追放ついほうとなり[13]、1951ねん昭和しょうわ26ねん)に追放ついほう解除かいじょ[14]されたのち戦争せんそう受刑じゅけいしゃ世話せわかい理事りじちょうとして、1956ねん昭和しょうわ31ねん)7がつ21にちづけ法務大臣ほうむだいじん牧野まきの良三りょうぞうてて巣鴨すがもプリズン処刑しょけいだい跡地あとちげんサンシャイン60わき東池袋ひがしいけぶくろ中央ちゅうおう公園こうえん)の永久えいきゅう保存ほぞん請願せいがんした。

1959ねん昭和しょうわ34ねん)、藤原ふじわら銀次ぎんじろう年齢ねんれい90さい記念きねんとして藤原ふじわら科学かがく財団ざいだん設立せつりつし、どう財団ざいだんに1おくえん寄付きふ藤原ふじわらしょうもうけた[15]

1960ねん昭和しょうわ35ねん)3がつ17にち脳軟化症のうなんかしょうにともなう合併症がっぺいしょうのため死去しきょ。90さい[15]じょせいさんじょ勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう墓所はかしょ東京とうきょう杉並すぎなみ永福えいふく築地つきじ本願寺ほんがんじ和田わだほり廟所びょうしょ

公団こうだんしば白金はっきん団地だんち

藤原ふじわら銀次ぎんじろう東京とうきょうしば白金しらかね今里いまさとまちげん東京とうきょうみなと白金台しろかねだい3丁目ちょうめ12−1)に広大こうだい邸宅ていたくかまえていたが、逝去せいきょまもなく住宅じゅうたく公団こうだん一部分いちぶぶん売却ばいきゃくされ、跡地あとちには1963ねん公団こうだんしば白金はっきん団地だんち建設けんせつされ、さらにのこりの土地とち売却ばいきゃくされ今日きょういた[16]

社会しゃかい貢献こうけん[編集へんしゅう]

戦前せんぜん財界ざいかいには日本にっぽん全国ぜんこく篤志とくしがいたが、藤原ふじわらはそのうちでももっと代表だいひょうてき人物じんぶつとして今日きょうでも大学だいがく社会しゃかい関連かんれん講義こうぎ経営けいえいしゃ団体だんたいなどのセミナーなどで紹介しょうかいされている。藤原ふじわら工業こうぎょう大学だいがく共立女子大学きょうりつじょしだいがく地方ちほう大学だいがく官立かんりつ高等こうとう工業こうぎょう学校がっこうにも多額たがく寄付きふおこなっている。森林しんりん科学かがく知見ちけんをスウェーデンからまなび、森林しんりん保護ほご植林しょくりん活動かつどう重要じゅうようせいいている。

その一方いっぽうで、生活せいかつきわめて質素しっそだったといわれている。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

藤原ふじわら[編集へんしゅう]

信濃しなのこく水内みずうちぐん平柴ひらしばむら現在げんざい長野ながの平柴ひらしば)、東京とうきょう麻布あざぶ[3]げん東京とうきょうみなと))
  • ちち茂兵衛もへい
  • つまロク[3]田村たむら哲三てつぞう叔母おば[3]
明治めいじ7ねん1874ねん)3がつせい[3] - ぼつ

著作ちょさく[編集へんしゅう]

図書としょ[編集へんしゅう]

  • 闘争とうそうてき組合くみあい協調きょうちょうてき組合くみあい藤原ふじわら銀次ぎんじろう じゅつNDLJP:1915454 
  • 共同きょうどう卸賣おろしうり組合くみあいに就て』藤原ふじわら銀次ぎんじろう、1922ねんNDLJP:  - 1922ねん大正たいしょう11ねん)9がつ21にち東京とうきょう商工しょうこう奬勵しょうれいかんける演説えんぜつ概要がいよう
  • 欧米おうべい製紙せいしかい渡部わたなべ道太郎みちたろう、1922ねん12月15にちNDLJP:970393 
  • 労働ろうどう問題もんだいおもむき博文ひろぶみかん、1923ねんNDLJP:1902844 
  • 産業さんぎょうじょうから職業しょくぎょう指導しどう藤原ふじわら銀次ぎんじろう、1926ねん1がつ17にちNDLJP:920559 
  • 勞働ろうどう組合くみあい法案ほうあん修正しゅうせい意見いけん藤原ふじわら銀次ぎんじろう じゅつ藤原ふじわら銀次ぎんじろう、1927ねん 
  • Zui-ki-tei the cottage of auspicious light. Ginjiro Fujihara. Ginjiro Fujihara. (1935). NDLJP:1901924 
  • 工業こうぎょう日本にっぽん精神せいしん』(てい18はん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1935ねんNDLJP:1233096 
  • 産業さんぎょう日本にっぽん進路しんろ今日きょう問題もんだいしゃ、1936ねん1がつ30にちNDLJP:1094283 
  • 事業じぎょうがく人間にんげんがく今日きょう問題もんだいしゃ、1937ねんNDLJP:1219964 
    • 事業じぎょうがく人間にんげんがく』(普及ふきゅうばん今日きょう問題もんだいしゃ、1938ねんNDLJP:1219963 
  • 『[金融きんゆう研究けんきゅうかい講演こうえんしゅうだい16へん金融きんゆう研究けんきゅうかい、1940ねんNDLJP:1239140 
  • 実業じつぎょうじん気持きもち実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1940ねんNDLJP:1266600 
  • せわしさんねん東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、1942ねん3がつ23にちNDLJP:1123320 
  • 下田しもだすすむ へん藤原ふじわら銀次ぎんじろう回顧かいこはちじゅうねん藤原ふじわら銀次ぎんじろう じゅつだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1949ねんNDLJP:1161195 
  • 石山いしやま賢吉けんきち へんおも人々ひとびと藤原ふじわら銀次ぎんじろう じゅつダイヤモンド社だいやもんどしゃ、1950ねんNDLJP:1161914 
  • わたし経験けいけんかんがかた高風こうふうかん、1951ねん 
    • わたし経験けいけんかんがかた ひとをつくる経営けいえいほう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1984ねん7がつISBN 4-06-158646-7  - づけ藤原ふじわら銀次ぎんじろう関係かんけい主要しゅよう文献ぶんけん一覧いちらん
  • 苦楽くらく断片だんぺん 完成かんせいへのみち藤原ふじわら銀次ぎんじろう じゅつ高風こうふうかん、1952ねんNDLJP:2935454 
  • わたし事業じぎょうかん人生じんせいかん四季しきしゃ、1952ねんNDLJP:2934744 
  • わたし処世しょせいかんよう書房しょぼう、1954ねんNDLJP:2935494 
  • 福澤ふくさわ先生せんせい言葉ことば実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1955ねんNDLJP:2935514 
  • とくひとさとしひといさむひと実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1956ねんNDLJP:2966339 
  • 寺沢てらさわ栄一えいいち仕事しごとのみちぐらしのみち』藤原ふじわら銀次ぎんじろう じゅつ実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1957ねんNDLJP:2935592 
  • わたしのおちゃ講談社こうだんしゃ、1958ねんNDLJP:2486467 
  • 商工しょうこう財務ざいむ研究けんきゅうかい へん日本にっぽん森林しんりんだい99輯、商工しょうこう財務ざいむ研究けんきゅうかい〈アルプス・シリーズ〉、1958ねん5がつ 
  • 世渡よわたきゅうじゅうねん実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1960ねんNDLJP:2988272 

共著きょうちょ[編集へんしゅう]

  • 国華こっか倶楽部くらぶ へん歐米おうべい禮節れいせつわが茶道さどう」『国華こっか倶楽部くらぶ講話こうわしゅうだい2輯、国華こっか倶楽部くらぶ、1923ねん、23-40ぺーじNDLJP:970403 
  • 労働ろうどう組合くみあい法案ほうあんに就て」『近藤こんどう記念きねん海事かいじ財団ざいだん講演こうえんだい3輯、近藤こんどう記念きねん海事かいじ財団ざいだん、1926ねん4がつ30にち、11-34ぺーじNDLJP:984089/11 
  • 労働ろうどう組合くみあい法案ほうあん管見かんけん』1926ねんNDLJP:1908366  - ごうつづり:「労働ろうどう組合くみあいほう制定せいていかんする意見いけん」(藤原ふじわら銀次ぎんじろう じゅつ昭和しょうわ4、52p)、「そと国立こくりつ法例ほうれいよりたる労働ろうどう組合くみあい法制ほうせい」(ぜんかつらすけ じゅつ昭和しょうわ5、21p)。
  • 日本にっぽん評論ひょうろんしゃ へんかみ」『社会しゃかい経済けいざい体系たいけいだい10、日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1927ねん 
  • 日本にっぽん評論ひょうろんしゃ へん製紙せいし」『現代げんだい産業さんぎょう叢書そうしょだい2かん 金融きんゆう保険ほけんへん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1929ねんNDLJP:1716722 
  • 自由じゆう経済けいざい統制とうせい経済けいざいか 経済けいざい主義しゅぎ大動脈だいどうみゃく暴露ばくろ藤原ふじわら銀次ぎんじろう町田まちだ忠治ただはる 論争ろんそうだいまれそう、1935ねんNDLJP:1033966 
  • 北岡きたおか寿ひさしいっ 共著きょうちょ退職たいしょく手当てあて積立つみたてきん法案ほうあん要綱ようこうかんする意見いけん 失業しつぎょう対策たいさく調査ちょうさかいしょう委員いいんかい席上せきじょうにおける藤原ふじわら陳述ちんじゅつについて』社会しゃかい思想しそう対策たいさく調査ちょうさかい、1936ねんNDLJP:1092665  - 社会しゃかい思想しそう対策たいさく調査ちょうさかい調査ちょうさ
  • 横浜よこはま貿易ぼうえき協会きょうかい へんもとかめ天正てんしょう時代じだい貿易ぼうえきかえりみて」『貿易ぼうえき夏季かき大学だいがく講義こうぎしゅう昭和しょうわ16年度ねんど横浜よこはま貿易ぼうえき協会きょうかい、1942ねん8がつ15にち、1-22ぺーじNDLJP:1142775/7 
  • 労資ろうし問題もんだい将来しょうらいすえひろしいむ太郎たろう藤原ふじわら銀次ぎんじろう 対談たいだんだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1952ねんNDLJP:3014746  - :「国鉄こくてつ再建さいけんいて」(藤原ふじわら銀次ぎんじろう)。
  • 藤原ふじわら銀次ぎんじろう 処世しょせい技術ぎじゅつ50カ条かじょう竜南りゅうなん書房しょぼう生活せいかつ技術ぎじゅつ叢書そうしょ〉、1957ねんNDLJP:2935593 
  • 藤原ふじわら銀次ぎんじろう とう「トップはかたる」『しんビジネスマン講座こうざだい4(エリートへの条件じょうけん)、筑摩書房ちくましょぼう、1963ねんNDLJP:3012889 
  • 岡崎おかざき省吾しょうご大沢おおさわ康雄やすお へん日本にっぽん森林しんりん」『アルプス叢林そうりんだい2かん、アルプス、1964ねん12月。 
  • 中川なかがわたかし一郎いちろう由井ゆい常彦つねひこ 編集へんしゅう解説かいせつ へん藤原ふじわら銀次ぎんじろうへん」『財界ざいかいじん思想しそう全集ぜんしゅう 経営けいえい哲学てつがく経営けいえい理念りねん 昭和しょうわへんだい2、ダイヤモンド社だいやもんどしゃ、1970ねん 
  • あいだひろし へん解説かいせつ へん藤原ふじわら銀次ぎんじろうへん」『財界ざいかいじん思想しそう全集ぜんしゅう 財界ざいかいじん労働ろうどうかんだい5、ダイヤモンド社だいやもんどしゃ、1970ねん 
  • 金融きんゆう経済けいざい研究所けんきゅうじょ へん中小ちゅうしょう工業こうぎょう金融きんゆうに就て」『金融きんゆう研究けんきゅうかい講演こうえんしゅう』 3かん藤原ふじわら銀次ぎんじろう 講述こうじゅつ東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ金融きんゆう経済けいざい研究所けんきゅうじょ叢書そうしょ 別冊べっさつ〉、1973ねん  - ふくこくばん

編著へんちょ[編集へんしゅう]

翻訳ほんやく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい5763ごう昭和しょうわ21ねん4がつ2にち
  2. ^ Ginjiro Fujiharaとの記載きさいがある。(Fujihara 1935)
  3. ^ a b c d e 人事じんじ興信録こうしんろく 7はん』(大正たいしょう14ねん)ふいちよん
  4. ^ 善光寺ぜんこうじ寺社じしゃりょう。1876ねんから安茂里あもりむら現在げんざい長野ながの平柴ひらしば
  5. ^ 藤原ふじわら銀次ぎんじろう”. www.mitsuipr.com. 2023ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  6. ^ 藤原ふじわら銀次ぎんじろう”. www.mitsuipr.com. 2023ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  7. ^ 日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとうつとめた 足立あだち ただし境港さかいみなと出身しゅっしん) | 山陰さんいん中央ちゅうおう新報しんぽうデジタル”. 日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとうつとめた 足立あだち ただし境港さかいみなと出身しゅっしん) | 山陰さんいん中央ちゅうおう新報しんぽうデジタル. 2023ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  8. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん、38ぺーじ
  9. ^ 慶応大学けいおうだいがく合併がっぺい工学部こうがくぶに『毎日新聞まいにちしんぶん昭和しょうわ19ねん10がつ24にち東京とうきょうばん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん本編ほんぺんp715 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  10. ^ 総裁そうさい藤原ふじわら銀次ぎんじろう中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう昭和しょうわ16ねん12月27にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp226)
  11. ^ べい戦略せんりゃくばくげき調査ちょうさだん近衛このえ木戸きどらを招致しょうち朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ20ねん11月22にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん本編ほんぺんp340)
  12. ^ 梨本なしもとみや平沼ひらぬま平田ひらたじゅうきゅうにん逮捕たいほ命令めいれい毎日新聞まいにちしんぶん昭和しょうわ20ねん12月4にち東京とうきょうばん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん本編ほんぺんp341)
  13. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1946ねん2がつ10日とおかいちめん
  14. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1951ねん8がつ7にちめん
  15. ^ a b 藤原ふじわら(2008)、239ぺーじ著者ちょしゃ紹介しょうかい
  16. ^ 藤原ふじわら銀次ぎんじろう理工学部りこうがくぶ」『三田みた評論ひょうろん』2010ねん3がつごう
  17. ^ 官報かんぽう号外ごうがい、「授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1928ねん11がつ10日とおか

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
東條とうじょう英機ひでき
日本の旗 軍需ぐんじゅ大臣だいじん
だい2だい:1944
次代じだい
吉田よしだしげる
先代せんだい
どう卓雄たくお
日本の旗 商工しょうこう大臣だいじん
だい20だい:1940
次代じだい
小林こばやし一三かずみ
ビジネス
先代せんだい
新設しんせつ
王子製紙おうじせいし社長しゃちょう
1920ねん - 1938ねん
次代じだい
高嶋たかしま菊次郎きくじろう
先代せんだい
三井みついとくみぎ衛門えもん三井みつい高信たかのぶ
王子製紙おうじせいし会長かいちょう
1938ねん - 1940ねん
次代じだい
井上いのうえ憲一けんいち