王子製紙おうじせいし (初代しょだい)

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王子製紙おうじせいし株式会社かぶしきがいしゃ
種類しゅるい
商法しょうほう会社かいしゃ
事業じぎょう分野ぶんや 製紙せいしぎょう
その 1949ねん昭和しょうわ24ねん)に解体かいたい
前身ぜんしん しょう会社かいしゃ
後継こうけい 苫小牧とまこまい製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃ本州ほんしゅう製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃじゅうじょう製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃ
設立せつりつ 1873ねん明治めいじ6ねん
創業そうぎょうしゃ 渋沢しぶさわ栄一えいいち
本社ほんしゃ
東京とうきょう王子おうじ
所有しょゆうしゃ 三井みつい財閥ざいばつ小野おのぐみ
近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん

王子製紙おうじせいし株式会社かぶしきがいしゃ(おうじせいし)は、かつて存在そんざいした日本にっぽん大手おおて製紙せいし会社かいしゃである。現在げんざい大手おおて製紙せいし会社かいしゃ王子おうじホールディングス王子製紙おうじせいし)と日本製紙にほんせいし前身ぜんしんにあたる。

日本にっぽん製紙せいし産業さんぎょう黎明れいめいにあたる、明治めいじ初期しょき1873ねん明治めいじ6ねん)に設立せつりつ社名しゃめい由来ゆらいである東京とうきょう王子おうじ創業そうぎょうし、国内こくない内地ないち各地かくちのみならず朝鮮ちょうせん樺太からふとへと進出しんしゅつ富士ふじ製紙せいし樺太からふと工業こうぎょうなどとの合併がっぺいかえして国内こくない市場いちば8わり以上いじょうにぎ巨大きょだい製紙せいし会社かいしゃへと発展はってんしていった。その規模きぼから「だい王子製紙おうじせいし」としょうされた。

戦後せんご財閥ざいばつ解体かいたい政策せいさくによって過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほう対象たいしょうとなり、1949ねん昭和しょうわ24ねん)に解体かいたいされた。後継こうけい会社かいしゃ苫小牧とまこまい製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃ本州ほんしゅう製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃじゅうじょう製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃの3しゃである。この3しゃはその再編さいへんにより、王子おうじホールディングスきゅう苫小牧とまこまい本州ほんしゅう)と日本製紙にほんせいしきゅうじゅうじょう)になっている。

三井みつい財閥ざいばつ出資しゅっししており、三井みつい傍系ぼうけい会社かいしゃひとつにかぞえられる。工場こうじょうぐん近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん「8.洋紙ようし国内こくない自給じきゅう目指めざ北海道ほっかいどうへと展開てんかいした製紙せいしぎょうあゆみを物語ものがた近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん」の指定していけた。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

創業そうぎょう[編集へんしゅう]

明治めいじはいってからあいだもない1873ねん明治めいじ6ねん)2がつ、「しょう会社かいしゃ」が設立せつりつされた。この会社かいしゃ初代しょだい王子製紙おうじせいし前身ぜんしんである。輸入ゆにゅうたよっていた洋紙ようし国産こくさん企図きとして、このころ官僚かんりょうから実業じつぎょう転身てんしんした渋沢しぶさわ栄一えいいち中心ちゅうしんとなって設立せつりつした。ようほうこうぞせい商社しょうしゃ1871ねん設立せつりつ工場こうじょう建設けんせついたらず)、きゅう広島ひろしまはんおも浅野あさの設立せつりつした有恒ありつねしゃ1872ねん設立せつりつ)にぐ、国内こくないで3番目ばんめ製紙せいし会社かいしゃである。設立せつりつ当初とうしょは、両替りょうがえしょう三井みついぐみ三井みつい財閥ざいばつ、45%)・小野おのぐみ (25%)・島田しまだぐみ (10%) と渋沢しぶさわ栄一えいいち (10%) らが出資しゅっししていた。

工場こうじょう用地ようち東京とうきょう王子おうじえらばれ、工場こうじょう建設けんせつすすめられた。当時とうじ洋紙ようし原料げんりょう襤褸らんる(ボロ、木綿もめん古布こふ)がいとされていたため、襤褸らんる入手にゅうしゅしやすい大都市だいとし近郊きんこう工場こうじょう用地ようちえらんだのである(大都市だいとし工場こうじょうかまえたのは明治めいじ初期しょき製紙せいし会社かいしゃはどこもおなじである)。しかし工場こうじょう竣工しゅんこう先立さきだって、有力ゆうりょく株主かぶぬし小野おのぐみ島田しまだぐみ倒産とうさんしたため資金しきん不足ふそくおちいってしまう。資金しきん不足ふそく三井みついぐみ追加ついか出資しゅっしと、渋沢しぶさわ頭取とうどりとなっていただいいち国立こくりつ銀行ぎんこうからの融資ゆうしり、会社かいしゃ設立せつりつ2ねん1875ねん明治めいじ8ねん)12月に工場こうじょう竣工しゅんこうさせた。工業こうぎょう用水ようすいには千川せんかわ上水じょうすいから分流ぶんりゅうさせた王子おうじ分水ぶんすい使つかわれた。操業そうぎょう開始かいし翌年よくねんから、政府せいふからけんじょう用紙ようし大量たいりょう発注はっちゅうがあり、この官需かんじゅ創業そうぎょうがりをささえた。官需かんじゅ減退げんたいしたのち民需みんじゅ重心じゅうしんくようになり、新聞紙しんぶんし雑誌ざっしもちいられる印刷いんさつ用紙ようし中心ちゅうしん生産せいさんすることになる。

1876ねん明治めいじ9ねん)5がつしょう会社かいしゃから「製紙せいし会社かいしゃ」へと改称かいしょうした。1893ねん明治めいじ26ねん)11月には、商法しょうほう施行しこうともなってどうほうもとづく株式会社かぶしきがいしゃ改組かいそするとともに創業そうぎょうかんして「王子製紙おうじせいし株式会社かぶしきがいしゃ」へと改称かいしょうした。

苫小牧とまこまい進出しんしゅつまで[編集へんしゅう]

当初とうしょ王子おうじ工場こうじょうでは襤褸らんるやぶぬのいでいねわらかみ原料げんりょう使用しようしていたが、欧米おうべい製紙せいしぎょう普及ふきゅうしつつあった木材もくざいパルプとく亜硫酸ありゅうさんパルプ(サルファイトパルプ、SP)の生産せいさん目指めざして森林地帯しんりんちたい静岡しずおかけん西部せいぶ1889ねん明治めいじ22ねん気田けた工場こうじょう新設しんせつする。日本にっぽん最初さいしょ本格ほんかくてきSP製造せいぞう工場こうじょうであった。

1890年代ねんだい中頃なかごろになると、主要しゅよう融資ゆうしもとからだいいち国立こくりつ銀行ぎんこうり、わって三井みつい銀行ぎんこう主要しゅよう融資ゆうしもととなった。さらに三井みつい経営けいえいけん掌握しょうあく目指めざして三井みつい銀行ぎんこう出身しゅっしん藤山ふじやま雷太らいた1896ねん明治めいじ29ねん)に専務せんむとしておくんだ(藤山ふじやま以降いこう1946ねん昭和しょうわ21ねん)まで三井みついけい経営けいえいしゃつづいている)。1898ねん明治めいじ31ねん)には渋沢しぶさわ会長かいちょう辞任じにん創業そうぎょうからの技術ぎじゅつしゃであった大川おおかわ平三郎へいさぶろう会社かいしゃった。大川おおかわとともに一部いちぶ技術ぎじゅつしゃ熟練工じゅくれんこう会社かいしゃったため人材じんざい不足ふそくとなり、操業そうぎょう混乱こんらんまねいて、後発こうはつ富士ふじ製紙せいし1887ねん明治めいじ20ねん設立せつりつ)に国内こくない洋紙ようし生産せいさんりょう首位しゅい同年どうねんわたした。

にちしん戦争せんそう新聞しんぶん用紙ようし需要じゅよう増大ぞうだい触発しょくはつされ、1899ねん明治めいじ32ねん静岡しずおかけん西部せいぶ中部ちゅうぶ工場こうじょう新設しんせつ工場こうじょうを3かしょ増強ぞうきょうした。中部ちゅうぶ工場こうじょうはSPにくわえて砕木パルプ(グランドパルプ、GP)の生産せいさん設備せつびそなえたが、工場こうじょう成績せいせき不振ふしんきわめ、市況しきょう悪化あっかともかさなって経営けいえい悪化あっかさせる要因よういんとなった。

経営けいえい再建さいけんのために、三井みついからあらたに鈴木すずきうめ四郎しろう専務せんむとしておくまれた。鈴木すずき財務ざいむ整理せいり断行だんこうし、さらに北海道ほっかいどうへの進出しんしゅつだい工場こうじょう建設けんせつ目指めざした。しん工場こうじょう用地ようちは、豊富ほうふ木材もくざい資源しげん支笏湖しこつこ水流すいりゅう水力すいりょく発電はつでんによる電力でんりょく利用りようできる苫小牧とまこまいむらげん苫小牧とまこまい)がえらばれた。苫小牧とまこまい工場こうじょう1910ねん明治めいじ43ねん)に操業そうぎょう開始かいし品質ひんしつ改善かいぜんやコスト削減さくげん実現じつげんさせた。以降いこうどう工場こうじょう王子製紙おうじせいし主力しゅりょく工場こうじょうとなっていく。操業そうぎょう開始かいし2ねんの1912ねん富士ふじ製紙せいしおさえてふたた国内こくない洋紙ようし生産せいさんりょう首位しゅいかえいた。

だいいち世界せかい大戦たいせん以降いこう拡大かくだい[編集へんしゅう]

王子製紙おうじせいし豊原とよはら工場こうじょう(1917ねん - 1945ねん

1911ねん明治めいじ44ねん)、三井みついから藤原ふじわら銀次ぎんじろう経営けいえいしゃとしてむかれる。藤原ふじわらもと合理ごうりすすめていた最中さいちゅう1914ねん大正たいしょう3ねん)にだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ洋紙ようし需要じゅようきゅう伸長しんちょうするこうきょうとなり、これにじょうじて財務ざいむ内容ないよう強化きょうかし、事業じぎょう拡大かくだいすすめた。1915ねん大正たいしょう4ねん)から16ねんにかけて国立こくりつ印刷いんさつきょくじゅうじょうぶん工場こうじょうはじめとする3工場こうじょう買収ばいしゅう樺太からふとにも進出しんしゅつした。1917ねん大正たいしょう6ねん樺太からふと工場こうじょう追加ついか1919ねん大正たいしょう8ねん)には朝鮮ちょうせんにも工場こうじょう新設しんせつして、工場こうじょうすうけい9かしょとした。

戦後せんご一転いってんしてきょうとなるが、洋紙ようし需要じゅよう伸張しんちょうつづけたため、工場こうじょうしん増設ぞうせつ他社たしゃ買収ばいしゅう合併がっぺい依然いぜんとしてつづいた。1922ねん大正たいしょう11ねん樺太からふと工場こうじょうをさらに追加ついか1924ねん大正たいしょう13ねん)から1925ねん大正たいしょう14ねん)にかけて前述ぜんじゅつ有恒ありつねしゃなどけい4しゃ買収ばいしゅうないし合併がっぺいした。一方いっぽう採算さいさんがあわなくなった気田けた中部ちゅうぶりょう工場こうじょう閉鎖へいさされたが、工場こうじょうすうけい13かしょ増大ぞうだいした。

なお、王子製紙おうじせいし以上いじょう富士ふじ製紙せいしはこの時期じき事業じぎょう拡大かくだいすすめたため、1922ねん大正たいしょう11ねん)に洋紙ようし生産せいさんりょう首位しゅいふたたわたしている。1933ねん昭和しょうわ8ねん)に王子おうじ富士ふじ製紙せいし合併がっぺいするまで、生産せいさんりょう富士ふじ製紙せいしのほうが上回うわまわつづけた。

だい王子製紙おうじせいし発足ほっそく[編集へんしゅう]

1933ねん昭和しょうわ8ねん5月18にち王子製紙おうじせいし富士ふじ製紙せいし樺太からふと工業こうぎょうの3しゃ合併がっぺいした(手続てつづきじょう王子製紙おうじせいし富士ふじ製紙せいし樺太からふと工業こうぎょう吸収きゅうしゅう合併がっぺい)。合併がっぺいにより、王子製紙おうじせいしかみ生産せいさんりょう国内こくない生産せいさんりょうの8わり以上いじょうめ、これ以降いこうその規模きぼから「だい王子製紙おうじせいし」としょうされる。工場こうじょう富士ふじ製紙せいしの14かしょ樺太からふと工業こうぎょうの6かしょをあわせて、33かしょ増大ぞうだいした。

富士ふじ製紙せいし前述ぜんじゅつとお後発こうはつながら王子製紙おうじせいし競合きょうごうした大手おおて製紙せいし会社かいしゃである。合併がっぺい前年ぜんねん1932ねん昭和しょうわ7ねん時点じてんで、生産せいさんだかベースでやく36%のシェアち、シェアやく30%の王子製紙おうじせいしいて国内こくない首位しゅい製紙せいし会社かいしゃであった。一方いっぽう樺太からふと工業こうぎょう1913ねん大正たいしょう2ねん設立せつりつで、当初とうしょ樺太からふと拠点きょてんとしていたが1926ねん内地ないち企業きぎょう合併がっぺいしていた。1932ねん時点じてんでのシェアはやく20%。両社りょうしゃ共通きょうつうてんは、かつて王子製紙おうじせいし技術ぎじゅつしゃであった大川おおかわ平三郎へいさぶろう社長しゃちょうつとめていたことである。

王子製紙おうじせいし富士ふじ製紙せいし樺太からふと工業こうぎょうの3しゃは、従来じゅうらいから競合きょうごうしつつもしばしばカルテルむすんで協調きょうちょう行動こうどうをとっていた。1920年代ねんだいまつになると市況しきょう悪化あっかで、とく富士ふじ製紙せいし樺太からふと工業こうぎょう業績ぎょうせき悪化あっかする。1929ねん昭和しょうわ4ねん)に王子製紙おうじせいし富士ふじ製紙せいし株式かぶしき買収ばいしゅうして筆頭ひっとう株主かぶぬしとなり、富士ふじ製紙せいし業績ぎょうせきなおしを支援しえんするようになる。また、1930ねんごろから樺太からふと工業こうぎょうがわから王子製紙おうじせいし合同ごうどう打診だしんしていた。市況しきょう各社かくしゃ状況じょうきょうから、これ以上いじょう消耗しょうもう回避かいひし、なおかつ従来じゅうらい以上いじょう市況しきょう統制とうせいとして3しゃ合同ごうどう構想こうそうされ、巨大きょだいトラストである「だい王子製紙おうじせいし発足ほっそくへといたったのである。

戦中せんちゅうから戦後せんご解散かいさん[編集へんしゅう]

製紙せいし各社かくしゃのおおまかな合併がっぺい

だい合同ごうどうから4ねん1937ねん昭和しょうわ12ねん)からにちちゅう戦争せんそうが、さらに4ねん1941ねん昭和しょうわ16ねん)から太平洋戦争たいへいようせんそうはじまるが、戦時せんじちゅう企業きぎょう経営けいえい戦争せんそう遂行すいこうという国策こくさく沿ったものにならざるをなかった。そのれいに、中国ちゅうごく占領せんりょうでの製紙せいし会社かいしゃ運営うんえい受託じゅたくフィリピンマレーシアインドネシアなど占領せんりょうでの工場こうじょう運営うんえいレーヨン人造じんぞう絹糸けんしようパルプの増産ぞうさん[注釈ちゅうしゃく 1]製紙せいし工場こうじょう軍需ぐんじゅ工場こうじょうへの転換てんかん、がある。軍需ぐんじゅ工場こうじょう転換てんかんされたのは内地ないちでは8かしょで、1943ねん昭和しょうわ18ねん) - 1944ねん昭和しょうわ19ねん)に休止きゅうしされ、他社たしゃ売却ばいきゃくされたり傍系ぼうけい会社かいしゃとして分離ぶんりされたりした。

太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきにはアメリカぐんによる空襲くうしゅう被害ひがいにあった。ほとんどが軽微けいび被害ひがいですんだものの、兵庫ひょうごけん神崎かんざき工場こうじょうだけはほぼ全滅ぜんめつという被害ひがいけ、戦後せんごになるまで再開さいかいできなかった。

1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ15にち敗戦はいせんにより、占領せんりょうまんしゅう朝鮮ちょうせん樺太からふとにある資産しさんのすべてを喪失そうしつした。直営ちょくえい工場こうじょうだけでみても10かしょあり、戦後せんご国内こくないのこった15工場こうじょうだけで運営うんえいすることになる。生産せいさん能力のうりょく戦前せんぜんピークの3わりんでいた。

終戦しゅうせん直後ちょくごから、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい (GHQ) の財閥ざいばつ解体かいたい政策せいさく対象たいしょうとされた。王子製紙おうじせいしは「解体かいたい該当がいとうするような企業きぎょうとはいえないのではないか」と反論はんろんしたが、解体かいたい方向ほうこうへとすすんだ。まず、1946ねん昭和しょうわ21ねん1がつ11にちに「制限せいげん会社かいしゃ」に指定していされた。これにより当時とうじ23しゃ存在そんざいした傍系ぼうけい会社かいしゃ王子製紙おうじせいししたから独立どくりつした。しばらく経営けいえいじんとGHQとの交渉こうしょうつづけられたが、最終さいしゅうてき1949ねん昭和しょうわ24ねん1がつ7にち、GHQから解体かいたい指令しれいされた。

これをけて1949ねん昭和しょうわ24ねん8がつ1にち過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほうもとづき王子製紙おうじせいし解体かいたい実行じっこうされた。後継こうけい会社かいしゃとして苫小牧とまこまい製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃ本州ほんしゅう製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃじゅうじょう製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃの3しゃ設立せつりつされ、王子製紙おうじせいし資産しさんはこの3しゃ継承けいしょうされた。王子製紙おうじせいし解散かいさんして清算せいさん会社かいしゃとなり、12ねん1961ねん昭和しょうわ36ねん11月24にち清算せいさん業務ぎょうむ終了しゅうりょうしたことにより完全かんぜん消滅しょうめつした。

洋紙ようし発祥はっしょう」の石碑せきひ

後身こうしんにあたるじゅうじょう製紙せいしげん日本製紙にほんせいし)が王子おうじ工場こうじょう跡地あとち建設けんせつしたふくあいレジャー施設しせつサンスクエア」には「洋紙ようし発祥はっしょう」とだいした石碑せきひ設置せっちされている。[1][2]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 1873ねん明治めいじ6ねん2がつ12にち - 「しょう会社かいしゃ設立せつりつ
  • 1875ねん明治めいじ8ねん12月16にち - 会社かいしゃ開業かいぎょうしき挙行きょこう
  • 1876ねん明治めいじ9ねん5月1にち - 「製紙せいし会社かいしゃ」に社名しゃめい変更へんこう
  • 1889ねん明治めいじ22ねん)12月 - 気田けた工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1893ねん明治めいじ26ねん11月8にち - 「王子製紙おうじせいし株式会社かぶしきがいしゃ」に社名しゃめい変更へんこう
  • 1899ねん明治めいじ32ねん)1がつ - 中部ちゅうぶ工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1910ねん明治めいじ43ねん)9がつ - 苫小牧とまこまい工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1915ねん大正たいしょう4ねん)7がつ - 三井みつい樺太からふとりょう工場こうじょう買収ばいしゅう大泊おおとまり工場こうじょうとする。
  • 1916ねん大正たいしょう5ねん
    • 2がつ - 帝国ていこく製紙せいし1913ねん大正たいしょう2ねん)1がつ設立せつりつ)を買収ばいしゅう大阪おおさか工場こうじょうとする。
    • 7がつ - 印刷いんさつきょくじゅうじょうぶん工場こうじょう買収ばいしゅうじゅうじょう工場こうじょうとする。
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん)1がつ - 豊原とよはら工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1919ねん大正たいしょう8ねん)8がつ - 朝鮮ちょうせんせい1918ねん大正たいしょう7ねん)12月設立せつりつ)により朝鮮ちょうせん工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん)12月 - 朝鮮ちょうせん製紙せいし合併がっぺい
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん
    • 2がつ - 野田のだ工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
    • 3月 - 気田けた工場こうじょう操業そうぎょう停止ていし
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん
    • 4がつ - 小倉おぐら製紙せいししょ合併がっぺい小倉おぐら工場こうじょうとする。
    • 6がつ - 有恒ありつねしゃ買収ばいしゅうし、亀戸かめいど工場こうじょうとする。
    • 9月 - 中部ちゅうぶ工場こうじょう操業そうぎょう停止ていし
    • 12月 - 北海ほっかい工業こうぎょう(1918ねん12月設立せつりつ)を買収ばいしゅう伏木ふしき工場こうじょうとする。
  • 1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ - 東洋とうよう製紙せいし1906ねん明治めいじ39ねん)6がつ設立せつりつ[注釈ちゅうしゃく 2])を合併がっぺい淀川よどがわ工場こうじょう岩渕いわぶち工場こうじょう吹田すいた工場こうじょう同年どうねん12がつ廃止はいし)を追加ついか
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん5月18にち - 富士ふじ製紙せいし樺太からふと工業こうぎょう合併がっぺい市場いちばの8わり以上いじょうにぎる、通称つうしょうだい王子製紙おうじせいし」が成立せいりつした。
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん)5がつ - 昭和鉱業しょうわこうぎょうより名古屋なごや明礬みょうばん工場こうじょうゆずけ、名古屋なごや化学かがく工場こうじょうとする。
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん
    • 1がつ - 王子おうじ亀戸かめいど富士ふじだい1・芝川しばかわ京都きょうとの5工場こうじょう休止きゅうし。4月には名古屋なごや工場こうじょう休止きゅうし
    • 6がつ - 日本人にっぽんじんきぬパルプ(1932ねん昭和しょうわ7ねん)4がつ設立せつりつ)を合併がっぺいじき工場こうじょうとする。
    • 9月 - 富士ふじだい2工場こうじょう千住せんじゅ工場こうじょう休止きゅうし
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつ - 江別えべつ工場こうじょう休止きゅうし
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん6月15にち - 空襲くうしゅうにより神崎かんざき工場こうじょうほぼ全滅ぜんめつ
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん1がつ11にち - 傍系ぼうけい会社かいしゃ40しゃとともに制限せいげん会社かいしゃれい適用てきよう傍系ぼうけい会社かいしゃ分離ぶんり独立どくりつへ。
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん2がつ8にち - 過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほうもとづく指定してい会社かいしゃに。
  • 1949ねん昭和しょうわ24ねん8がつ1にち - 王子製紙おうじせいし解散かいさん後継こうけい会社かいしゃである苫小牧とまこまい製紙せいし本州ほんしゅう製紙せいしじゅうじょう製紙せいしの3しゃ発足ほっそく
  • 1961ねん昭和しょうわ36ねん11月24にち - 王子製紙おうじせいし清算せいさん業務ぎょうむ終了しゅうりょう

工場こうじょう一覧いちらん[編集へんしゅう]

王子製紙おうじせいし直営ちょくえい運営うんえいしていた工場こうじょうは、以下いかけい38工場こうじょうである。ただし、すべてがどう時代じだいてき存在そんざいしていたことはない。かく工場こうじょう所在地しょざいち操業そうぎょう開始かいし年月としつき前身ぜんしん運営うんえい会社かいしゃ当初とうしょから王子製紙おうじせいし運営うんえいしていた場合ばあい空欄くうらん)をしるし、備考びこうには休止きゅうし閉鎖へいさされた場合ばあいはその年月日ねんがっぴ1949ねん昭和しょうわ24ねん)8がつ分割ぶんかつ解体かいたい後身こうしん会社かいしゃ継承けいしょうされた場合ばあいには継承けいしょうさき会社かいしゃしるした。

工場こうじょうめい 所在地しょざいち 操業そうぎょう開始かいし年月としつき 前身ぜんしん 備考びこう
王子おうじ工場こうじょう 東京とうきょうきた王子おうじ 1875ねん12月 1943ねん1がつ休止きゅうし
じゅうじょう工場こうじょう 東京とうきょうきた王子おうじ 1910ねん5がつ もと印刷いんさつきょく工場こうじょう→1916ねん7がつ王子おうじ じゅうじょう製紙せいし継承けいしょう
亀戸かめいど工場こうじょう 東京とうきょう江東こうとう亀戸かめいど 1908ねん9がつ 有恒ありつねしゃ→1924ねん6がつ王子おうじ 1943ねん1がつ休止きゅうし
千住せんじゅ工場こうじょう 東京とうきょう荒川あらかわ南千住みなみせんじゅ 1886ねん6がつ 東京とうきょう板紙いたがみ→1920ねん2がつ富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1943ねん9がつ休止きゅうし
江戸川えどがわ工場こうじょう 東京とうきょう江戸川えどがわ東篠崎ひがししのざき 1922ねん12月 富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 本州ほんしゅう製紙せいし継承けいしょう
富士ふじだいいち工場こうじょう 静岡しずおかけん富士ふじ入山瀬いりやませ 1890ねん1がつ 富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1943ねん1がつ休止きゅうし
富士ふじだい工場こうじょう 静岡しずおかけん富士宮ふじのみや小泉こいずみ 1897ねん10がつ 富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1943ねん9がつ休止きゅうし
富士ふじだい工場こうじょうぶん工場こうじょう 静岡しずおかけん富士宮ふじのみや源道寺げんどうじまち 1897ねん10がつ 富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1943ねん9がつ休止きゅうし
富士ふじだいさん工場こうじょう 静岡しずおかけん富士ふじ平垣へいがき 1908ねん4がつ 富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 本州ほんしゅう製紙せいし継承けいしょう
芝川しばかわ工場こうじょう 静岡しずおかけん富士宮ふじのみや羽鮒はぶな 1898ねん12月 四日市よっかいち製紙せいし→1920ねん2がつ富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1943ねん1がつ休止きゅうし
岩渕いわぶち工場こうじょう 静岡しずおかけん富士ふじ中之郷なかのごう 1918ねん10がつ 東洋とうよう加工かこうせい→1920ねん11月東洋とうよう製紙せいし→1925ねん4がつ王子おうじ 本州ほんしゅう製紙せいし継承けいしょう
気田けた工場こうじょう 静岡しずおかけん浜松はままつ天竜てんりゅう春野はるのまち気田けた 1889ねん12月 1923ねん12月閉鎖へいさ
中部ちゅうぶ工場こうじょう 静岡しずおかけん浜松はままつ天竜てんりゅう佐久間さくままち中部ちゅうぶ 1899ねん1がつ 1924ねん9がつ閉鎖へいさ
名古屋なごや工場こうじょう 愛知あいちけん名古屋なごやみなと船見ふなみまち 1931ねん12月 もと特種とくしゅりょう試験しけん工場こうじょう→1932ねん11月富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1943ねん4がつ休止きゅうし
名古屋なごや化学かがく工場こうじょう[注釈ちゅうしゃく 3] 愛知あいちけん名古屋なごやみなと築地つきじまち -- もと昭和鉱業しょうわこうぎょう名古屋なごや明礬みょうばん工場こうじょう→1941ねん5がつ王子おうじ 本州ほんしゅう製紙せいし継承けいしょう
中津なかつ工場こうじょう 岐阜ぎふけん中津川なかつがわ中津川なかつがわ 1908ねん5がつ 中央ちゅうおう製紙せいし→1926ねん4がつ樺太からふと→1933ねん5がつ王子おうじ 本州ほんしゅう製紙せいし継承けいしょう
伏木ふしき工場こうじょう 富山とやまけん高岡たかおか伏木ふしき 1919ねん9がつ 北海ほっかい工業こうぎょう→1924ねん12月王子おうじ じゅうじょう製紙せいし継承けいしょう
京都きょうと工場こうじょう 京都きょうと京都きょうと右京うきょう梅津大縄場うめづおおなわばまち 1876ねん1がつ 梅津うめづ製紙せいし→1924ねん6がつ富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1943ねん1がつ休止きゅうし
吹田すいた工場こうじょう 大阪おおさか吹田すいた 1921ねん 吹田すいた製紙せいし→1925ねん4がつ東洋とうよう製紙せいし→1925ねん4がつ王子おうじ 1925ねん12月閉鎖へいさ
都島みやこじま工場こうじょう 大阪おおさか大阪おおさか都島みやこじま善源寺ぜんげんじまち 1914ねん11月 帝国ていこく製紙せいし→1916ねん2がつ王子おうじ じゅうじょう製紙せいし継承けいしょう
淀川よどがわ工場こうじょう 大阪おおさか大阪おおさかきた長柄東ながらひがし 1908ねん4がつ 東洋とうよう製紙せいし→1925ねん4がつ王子おうじ 本州ほんしゅう製紙せいし継承けいしょう
神崎かんざき工場こうじょう 兵庫ひょうごけん尼崎あまがさき常光寺じょうこうじ 1894ねん12月 野田のだ製紙せいししょ→1915ねん11月富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1945ねん6がつ空襲くうしゅう全滅ぜんめつ
熊野くまの工場こうじょう 和歌山わかやまけん新宮しんぐう蓬莱ほうらい 1912ねん8がつ 熊野くまの製紙せいし→1924ねん6がつ富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 本州ほんしゅう製紙せいし継承けいしょう
小倉おぐら工場こうじょう 福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう小倉北こくらきた中島なかじま 1891ねん1がつ 小倉おぐら製紙せいししょ→1924ねん4がつ王子おうじ じゅうじょう製紙せいし継承けいしょう
はちだい工場こうじょう 熊本くまもとけん八代やしろ十条じゅうじょうまち 1924ねん9がつ 九州きゅうしゅう製紙せいし→1926ねん4がつ樺太からふと→1933ねん5がつ王子おうじ じゅうじょう製紙せいし継承けいしょう
坂本さかもと工場こうじょう 熊本くまもとけん八代やしろ坂本さかもとまち坂本さかもと 1898ねん10がつ 九州きゅうしゅう製紙せいし→1926ねん4がつ樺太からふと→1933ねん5がつ王子おうじ じゅうじょう製紙せいし継承けいしょう
苫小牧とまこまい工場こうじょう 北海道ほっかいどう苫小牧とまこまい王子おうじまち 1910ねん9がつ 苫小牧とまこまい製紙せいし継承けいしょう
江別えべつ工場こうじょう 北海道ほっかいどう江別えべつ王子おうじ 1908ねん11月 富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ 1943ねん休止きゅうし
釧路くしろ工場こうじょう 北海道ほっかいどう釧路くしろ鳥取南とっとりみなみ 1920ねん7がつ 富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ じゅうじょう製紙せいし継承けいしょう
大泊おおとまり工場こうじょう 樺太からふと大泊おおとまりぐん大泊おおとまりまち 1914ねん11月 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃ樺太からふとりょう工場こうじょう→1915ねん7がつ王子おうじ 1945ねん8がつ敗戦はいせんにより喪失そうしつ
豊原とよはら工場こうじょう 樺太からふと豊原とよはら 1917ねん1がつ26にち[3]
落合おちあい工場こうじょう 樺太からふと豊栄ほうえいぐん落合おちあいまち 1917ねん4がつ、7がつ[4] 日本にっぽん化学かがくりょう→1922ねん6がつ富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ
工場こうじょう 樺太からふともととまりぐんまち 1924ねん[5]、1927ねん1がつ 富士ふじ→1933ねん5がつ王子おうじ
真岡もおか工場こうじょう 樺太からふと真岡しんおかぐん真岡しんおかまち 1919ねん9がつ、10月[6] 樺太からふと→1933ねん5がつ王子おうじ
野田のだ工場こうじょう 樺太からふと真岡しんおかぐん野田のだまち 1919ねん[7]、1922ねん2がつ
とまりきょ工場こうじょう 樺太からふととまりぐんとまりまち 1915ねん8がつ 樺太からふと→1933ねん5がつ王子おうじ
めぐみ須取工場こうじょう 樺太からふとめぐみ須取ぐんめぐみ須取まち 1925ねん11月 樺太からふと→1933ねん5がつ王子おうじ
じき工場こうじょう 樺太からふとじきこうやつぐんじきこうやつまち 1935ねん6がつ 日本人にっぽんじんきぬパルプ→1943ねん6がつ王子おうじ
朝鮮ちょうせん工場こうじょう 朝鮮ちょうせん平安へいあん北道ほくどうしんしゅう 1919ねん8がつ 朝鮮ちょうせん製紙せいし→1921ねん12月王子おうじ

役員やくいん[編集へんしゅう]

会社かいしゃのトップの肩書かたがきは、発足ほっそくの「代表だいひょう取締とりしまり」、「専務せんむ取締役とりしまりやく」、「専務せんむ取締役とりしまりやく社長しゃちょう」、「取締役とりしまりやく社長しゃちょう」と変化へんかしている。該当がいとうする人物じんぶつ以下いかの10にんである。

  1. 代表だいひょう取締とりしまり
    1. 渋沢しぶさわ栄一えいいち:1872ねん11月就任しゅうにん、1893ねん9がつ退任たいにん
  2. 専務せんむ取締役とりしまりやく
    1. たに敬三けいぞう:1893ねん9がつ就任しゅうにん、1896ねん6がつ退任たいにん
    2. 藤山ふじやま雷太らいた:1896ねん6がつ就任しゅうにん、1902ねん4がつ退任たいにん
    3. 朝吹あさぶき英二えいじ:1902ねん4がつ就任しゅうにん同年どうねん7がつ退任たいにん
    4. 鈴木すずきうめ四郎しろう:1902ねん7がつ就任しゅうにん、1909ねん11月退任たいにん
    5. 高橋たかはし義雄よしお:1909ねん11月就任しゅうにん、1911ねん10がつ退任たいにん
    6. 藤原ふじわら銀次ぎんじろう:1911ねん10がつ就任しゅうにん、1920ねん6がつ異動いどう
  3. 専務せんむ取締役とりしまりやく社長しゃちょう
    1. 藤原ふじわら銀次ぎんじろう:1920ねん6がつ就任しゅうにん、1929ねん3がつさい異動いどう
  4. 取締役とりしまりやく社長しゃちょう
    1. 藤原ふじわら銀次ぎんじろう:1929ねん3がつ就任しゅうにん、1938ねん12月退任たいにん
    2. 高嶋たかしま菊次郎きくじろう:1938ねん12月就任しゅうにん、1942ねん12月退任たいにん
    3. 足立あだちただし:1942ねん12月就任しゅうにん、1946ねん12月退任たいにん
    4. 中島なかじまけい:1946ねん12月就任しゅうにん、1949ねん8がつ会社かいしゃ解散かいさん苫小牧とまこまい製紙せいし初代しょだい社長しゃちょう就任しゅうにん
足立あだちただし

また、「取締役とりしまりやく会長かいちょう」という役職やくしょく存在そんざいした。該当がいとうするのはけい5にんだが、以下いかとお常時じょうじ設定せっていされていたわけではない。

  1. 渋沢しぶさわ栄一えいいち:1893ねん9がつ就任しゅうにん代表だいひょう取締とりしまりから異動いどう)、1898ねん9がつ退任たいにん
  2. 朝吹あさぶき英二えいじ:1908ねん7がつ就任しゅうにん、1911ねん10がつ退任たいにん
  3. 三井みついとくみぎ衛門えもん:1911ねん10がつ就任しゅうにん、1920ねん6がつ退任たいにん
  4. 藤原ふじわら銀次ぎんじろう:1938ねん12月就任しゅうにん取締役とりしまりやく社長しゃちょうから異動いどう)、1940ねん1がつ退任たいにん
  5. 井上いのうえ憲一けんいち:1942ねん12月就任しゅうにん、1943ねん10がつ退任たいにん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ このとき設立せつりつされた傍系ぼうけい会社かいしゃに、国内こくないでは山陽さんようパルプ・東北とうほく振興しんこうパルプ(どちらもげん日本製紙にほんせいし)・日本にっぽんパルプ工業こうぎょうげん王子おうじホールディングス)、樺太からふとでは日本人にっぽんじんきぬパルプ(1943ねん6がつ王子製紙おうじせいし合併がっぺい)、まんしゅうではまんパルプ製造せいぞうがある。
  2. ^ 1920ねん大正たいしょう9ねん)11月に、東洋とうよう加工かこう製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃ1918ねん大正たいしょう7ねん)2がつ設立せつりつ)、1925ねん4がつ吹田すいた製紙せいし(1918ねん7がつ設立せつりつ)を合併がっぺいしている。
  3. ^ 製紙せいし工場こうじょうで、製紙せいし工程こうてい使用しようされる硫酸りゅうさんアルミニウム硫酸りゅうさんバンド)を生産せいさんしていた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 洋紙ようし発祥はっしょういしぶみ”. 飛鳥山あすかやま3つの博物館はくぶつかん. 2021ねん3がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいち王子製紙おうじせいし株式会社かぶしきがいしゃ” (PDF). 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん渋沢しぶさわ栄一えいいち記念きねん財団ざいだん. 2021ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ 樺太からふとちょう鉄道てつどう事務所じむしょ編集へんしゅう発行はっこう樺太からふと鉄道てつどう旅行りょこう案内あんない』(1928ねん)、48ぺーじ荒山あらやま正彦まさひこ監修かんしゅう解説かいせつ『シリーズ明治めいじ大正たいしょう旅行りょこうだいIだい13かん、519ぺーじ
  4. ^ 樺太からふと鉄道てつどう旅行りょこう案内あんない』54ぺーじに、大正たいしょう6ねん7がつ工事こうじ竣工しゅんこうとある。『シリーズ明治めいじ大正たいしょう旅行りょこうだいIだい13かん523-524ぺーじ
  5. ^ 樺太からふと鉄道てつどう旅行りょこう案内あんない』98ぺーじに、大正たいしょう13ねん富士ふじ製紙せいし株式会社かぶしきがいしゃ工場こうじょう建設けんせつ工事こうじるとある。『シリーズ明治めいじ大正たいしょう旅行りょこうだいIだい13かん600ぺーじ
  6. ^ 樺太からふと鉄道てつどう旅行りょこう案内あんない』74ぺーじに、大正たいしょう7ねん6がつ起工きこうどう8ねん10がつ運転うんてん開始かいしとある。『シリーズ明治めいじ大正たいしょう旅行りょこうだいIだい13かん564ぺーじ
  7. ^ 樺太からふと鉄道てつどう旅行りょこう案内あんない』80ぺーじに、大正たいしょう8ねん王子製紙おうじせいし工場こうじょう設立せつりつとある。『シリーズ明治めいじ大正たいしょう旅行りょこうだいIだい13かん570ぺーじ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]