(Translated by https://www.hiragana.jp/)
財閥解体 - Wikipedia コンテンツにスキップ

財閥ざいばつ解体かいたい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

財閥ざいばつ解体かいたい(ざいばつかいたい)は、国際こくさい政治せいじ方針ほうしん財閥ざいばつなどの巨大きょだい企業きぎょう解体かいたいされる現象げんしょうである。


財閥ざいばつ株券かぶけんさえをおこなアメリカぐん(1946ねん)。
株式かぶしき民主みんしゅドッジ・ライン金詰かねづまりで持続じぞくせいうしない、株式かぶしき機関きかん投資とうし事業じぎょう法人ほうじんられていった。前者ぜんしゃについては、財閥ざいばつ解体かいたいによる株式かぶしき肩代かたがわり機関きかんとして1951ねん投資とうし信託しんたく制度せいどがスタートした。後者こうしゃについては、株式かぶしき資本しほん自由じゆう根拠こんきょあたえることとなった。

日本にっぽんにおける財閥ざいばつ解体かいたい(ざいばつかいたい)は、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)が連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょう日本にっぽんおこなった、過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょ政策せいさくである。それまでほとんど実物じつぶつ取引とりひきがされていなかった企業きぎょう株式かぶしきが、当時とうじはげしい通貨つうか増発ぞうはついしずえとして個人こじん投資とうし販売はんばいされた。指定してい持株もちかぶ会社かいしゃ財閥ざいばつのものにとどまらなかった。

安田やすだあん土台どだい[編集へんしゅう]

1945ねん9月22にちアメリカ政府せいふ発表はっぴょうした「降伏ごうぶくにおける米国べいこく初期しょきたいにち方針ほうしん」は、そのだい4しょう経済けいざい」のBこうで、「日本にっぽん商業しょうぎょうおよ生産せいさんじょうだい部分ぶぶん支配しはいきたりたる産業さんぎょうじょうおよ金融きんゆうじょうだいコンビネーションの解体かいたい促進そくしん」すると規定きていしていた。アメリカなど連合れんごうこくがわには、財閥ざいばつを「日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎ制度せいどてき支援しえんした」との認識にんしきがあり、これを解体かいたいすること軍国ぐんこく主義しゅぎ根本こんぽんてき壊滅かいめつできるとかんがえていた。当初とうしょ日本にっぽん政府せいふ財閥ざいばつ解体かいたいには消極しょうきょくてきだったが、三井みつい財閥ざいばつうち三井みつい本社ほんしゃ解体かいたいろん台頭たいとうしてきたことや、安田やすだ財閥ざいばつ持株もちかぶ会社かいしゃである安田やすだたもつぜんしゃが、10月15にち自社じしゃ解散かいさん安田やすだ一族いちぞくぜんしゃおよ傘下さんか企業きぎょう役員やくいんからの辞任じにんおよ一族いちぞく保有ほゆう株式かぶしき公開こうかいする方針ほうしん決定けっていしたことから「財閥ざいばつ解体かいたいやむなし」の方向ほうこうかたむいた。

このような情勢じょうせい、GHQ経済けいざい科学かがく局長きょくちょうレイモンド・C・クレーマー(Raymond C. Kramer)は10月16にち声明せいめいはっし、財閥ざいばつ解体かいたいたっては日本にっぽんがわ自発じはつてき行動こうどう期待きたいし、GHQはそれを支援しえんするにめるが、日本にっぽんがわ積極せっきょくてきうごきがられない場合ばあいみずか実施じっしすとの姿勢しせいしめした。これをけ、政府せいふ三菱みつびし住友すみともくわえた4財閥ざいばつやGHQと財閥ざいばつ解体かいたいけての協議きょうぎすすめ、11月4にち安田やすだあん土台どだいにした財閥ざいばつ解体かいたい計画けいかくあんをGHQに提出ていしゅつした。骨子こっし以下いかよん項目こうもくである[1]

  • 持株もちかぶ会社かいしゃ所有しょゆう有価ゆうか証券しょうけんおよびあらゆる企業きぎょうたいする所有しょゆうけん管理かんり利権りけんしめ商標しょうひょうを、日本にっぽん政府せいふもうける機関きかん移管いかんする
  • 上記じょうき移管いかん財産ざいさんたいする弁済べんさいは、10年間ねんかん譲渡じょうと換価かんかきんじた登録とうろく国債こくさい支払しはら
  • 三井みつい岩崎いわさき三菱みつびし)、住友すみとも安田やすだ4いえ構成こうせいいん持株もちかぶ会社かいしゃ取締役とりしまりやく監査かんさやく産業さんぎょうかいからの追放ついほう
  • 持株もちかぶ会社かいしゃによる傘下さんか企業きぎょうたいする指令しれいけん管理かんりけん行使こうし禁止きんしする

11月6にち、GHQそう司令しれいかんダグラス・マッカーサーは、そう司令しれいかん日本にっぽん政府せいふあん修正しゅうせいし、また実施じっしさいしての監督かんとく検閲けんえつけん留保りゅうほすること条件じょうけんに、日本にっぽん政府せいふあん承認しょうにんした。これを日本にっぽん政府せいふ11月23にちみことのりれいだい657ごう会社かいしゃ解散かいさん制限せいげんとうけん」を公布こうふ大蔵おおくら大臣だいじんに(1)資本しほんきん500まんえん以上いじょう会社かいしゃおよ大蔵おおくら大臣だいじん指定していする会社かいしゃ解散かいさんまたは事業じぎょう譲渡じょうとたいする認可にんかけん、(2)三井みつい本社ほんしゃ三菱みつびし本社ほんしゃ住友すみとも本社ほんしゃ安田やすだたもつぜんしゃおよ大蔵おおくら大臣だいじん指定していする会社かいしゃ保有ほゆうする動産どうさん不動産ふどうさん有価ゆうか証券しょうけんなど財産ざいさん処分しょぶんたいする許可きょかけんあたえた。このみことのりれいをもって財閥ざいばつ解体かいたいはじまる。

持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかい発足ほっそく[編集へんしゅう]

1946ねん4がつ4にち、GHQは、持株もちかぶ会社かいしゃ有価ゆうか証券しょうけん証憑しょうひょうぎ、整理せいりたる持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかい以下いか委員いいんかい」)についての政府せいふあん承認しょうにんした。4がつ20日はつか根拠こんきょほうである「持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかいれい」が施行しこうされ、5月7にち設立せつりつ総会そうかい8がつ8にち定款ていかん認可にんか委員いいん任命にんめい委員いいんかい8がつ23にちから活動かつどう開始かいしした[2]

9月6にち内閣ないかく総理そうり大臣だいじん軍国ぐんこく主義しゅぎである三井みつい本社ほんしゃ三菱みつびし本社ほんしゃ住友すみとも本社ほんしゃ安田やすだたもつぜんしゃ富士産業ふじさんぎょうきゅう中島なかじま飛行機ひこうき)を持株もちかぶ会社かいしゃ指定していした(だい1指定してい)。これにもとづき、委員いいんかいは5しゃ解散かいさん勧告かんこくし、財閥ざいばつ解体かいたい政策せいさく実行じっこううつされた。

4だい財閥ざいばつ持株もちかぶ会社かいしゃである三井みつい本社ほんしゃとうは、「初期しょきたいにち方針ほうしん」が時点じてん内外ないがいから解体かいたい対象たいしょうとして想定そうていされていた。これにたい富士産業ふじさんぎょうは、軍用ぐんよう航空機こうくうきメーカーであり、太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきにはぜん生産せいさん施設しせつ社員しゃいんだいいち軍需ぐんじゅ工廠こうしょうとして日本にっぽん政府せいふ接収せっしゅう徴用ちょうようされていた事情じじょうもあって、連合れんごうこくからじゅん軍需ぐんじゅ産業さんぎょうとして認識にんしきされ、GHQは財閥ざいばつとはべつ同社どうしゃ解体かいたい日本にっぽん政府せいふもとめていた。

9月23にち三菱みつびし本社ほんしゃ皮切かわきりに、委員いいんかい指定してい5しゃに、委員いいんかいゆずけるべき財産ざいさん内容ないよう通知つうちし、10月8にち三井みつい本社ほんしゃ三菱みつびし本社ほんしゃ)、10月16にち住友すみとも本社ほんしゃ)、10月29にち安田やすだたもつぜんしゃ富士産業ふじさんぎょう)の3かいけてだい1かい有価ゆうか証券しょうけん譲受じょうじゅ執行しっこうした。このとき5しゃからゆずけた有価ゆうか証券しょうけん総額そうがくは15おく8684まんえんおよび、これは5しゃ保有ほゆうする有価ゆうか証券しょうけん総額そうがくやく78パーセントにおよんでいた。

並行へいこうして5しゃたいする解散かいさん勧告かんこくおこなわれ、三井みつい本社ほんしゃ三菱みつびし本社ほんしゃ安田やすだたもつぜんしゃ9月30にち解散かいさん委員いいんかい監督かんとく清算せいさんはいった。11月いわゆる会社かいしゃ証券しょうけん保有ほゆう制限せいげんれい会社かいしゃ証券しょうけん保有ほゆう制限せいげんとうせきスルみことのりれい)がされた。

株式かぶしき瞬発しゅんぱつてき民主みんしゅ[編集へんしゅう]

1945ねん11月、GHQは公債こうさい発行はっこうによって臨時りんじ支出ししゅつをまかなった。日銀にちぎんは1946ねん1がつ禁止きんしされるまで国債こくさいけつづけた。しかし軍需ぐんじゅ融資ゆうしつづけられた。1947ねん2がつから1949ねん3がつまでは復興ふっこう金融きんゆう金庫きんこさい1680おくえん発行はっこうされ、これを日銀にちぎん引受ひきうけた[3]

日銀にちぎん資金しきん創出そうしゅつしていなかったら、以下いかだい規模きぼ民主みんしゅ達成たっせいされなかったであろう[4]

証券しょうけん処理しょり調整ちょうせい協議きょうぎかい(Securities Coordinating Liquidation Committee)に販売はんばいゆだねられた株式かぶしき根拠こんきょほう多岐たきにわたった。持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかいれいによるものが76おくえんで、会社かいしゃ証券しょうけん保有ほゆう制限せいげんれいによるものが14おくえんであった。これら合計ごうけい90おくえんは、1945ねんまつ国内こくない株式かぶしき総額そうがく437おくえんやく2わりであったが、「その法人ほうじん保有ほゆう割合わりあい24.6%にほぼ符合ふごうする。閉鎖へいさ機関きかん整理せいり委員いいんかいれいによるものが14おくえんであった。売却ばいきゃく強制きょうせいされた株式かぶしきには、戦時せんじ補償ほしょう特別とくべつぜい独占どくせん禁止きんしほうなどによるものもあった。総計そうけい184おくえんであった。こうなると437おくえんやく4わりである。このうち協議きょうぎかいは141おくえん販売はんばいまかされた。売出うりだしは1947ねん6がつはじまり、1951ねん6がつ完了かんりょうした。141おくえん半分はんぶん以上いじょうが1949ねんれている。は1950ねん3がつまでの調しらべによると、従業じゅうぎょういん(38.5%)、入札にゅうさつ(23.3%)、し(27.7%)であり、56にん財閥ざいばつ家族かぞくっていた株式かぶしき2おく2300まんかぶのうち7%がやく15まんにん従業じゅうぎょういん地域ちいき住民じゅうみん分散ぶんさんされた。売却ばいきゃく代金だいきんきゅう所有しょゆうしゃ返却へんきゃくされ、その62.51%がきゅう債務さいむに、またわずか12.13%が租税そぜい公課こうか支払しはらいてられた。これでこそ帝国ていこく銀行ぎんこう三井みつい本社ほんしゃけの貸付かしつけ回収かいしゅうできた。三井みついだけでなく、財閥ざいばつけい銀行ぎんこうたい本社ほんしゃきも、時価じかしによって順調じゅんちょう回収かいしゅうされた。1945ねんまつに59.8%が三井みつい本社ほんしゃ持分もちぶんであった三井鉱山みついこうざんは、過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほうにより三井金属鉱業みついきんぞくこうぎょう分離ぶんりされて、さらに株式かぶしき売却ばいきゃく強制きょうせいされた結果けっか、1951ねんまつ筆頭ひっとう株主かぶぬし野村証券のむらしょうけん(5.3%)になった[4]

1948ねんまつ結成けっせいアメリカたいにち協議きょうぎかいが、「トップのいない企業きぎょう結合けつごうたい」を容認ようにんした。

そして、1947ねん独占どくせん禁止きんしほうだい10じょうが1949ねん骨抜ほねぬきにされた。改正かいせいまえは「金融きんゆうぎょう銀行ぎんこう信託しんたく保険ほけん無尽むじんまたは証券しょうけん以外いがい事業じぎょういとな会社かいしゃは、会社かいしゃ議決ぎけつけんかぶ取得しゅとくしてはならない」としていたものを、1949ねんには適用てきよう社債しゃさいまでひろげるわりにライバル会社かいしゃでなければ株式かぶしき社債しゃさい取得しゅとくできることになったのである[5]

個人こじん持株もちかぶ比率ひりつもっとたかかったのは1949ねんまつであって、そのドッジ・ラインにより割合わりあいはじめた。この傾向けいこうは1978ねんもなお進行しんこうちゅうであった。個人こじんから流出りゅうしゅつした株式かぶしき金融きんゆう機関きかん事業じぎょう法人ほうじんかい、きゅう財閥ざいばつ銀行ぎんこう主導しゅどうする株式かぶしき再編さいへんされた。ぎゃくコースにより財閥ざいばつ解体かいたい株式会社かぶしきがいしゃ制度せいどみとめたうえでの有償ゆうしょう株式かぶしき分散ぶんさんとなったからであった[4]

そしてシャウプ勧告かんこく法人ほうじん擬制ぎせいせつ法人ほうじんぜい個人こじん所得しょとくぜい源泉げんせん徴収ちょうしゅうてきまえりと認識にんしき課税かぜい重点じゅうてんから除外じょがいした[6]

1951ねん持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかいは『日本にっぽん財閥ざいばつとその解体かいたい』を編纂へんさんし、5ねんにわたる活動かつどう総括そうかつした。7月、委員いいんかい証券しょうけん処理しょり調整ちょうせい協議きょうぎかいとも解散かいさんした。委員いいんかい資料しりょう国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞうし、一部いちぶ国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブで閲覧えつらん可能かのうである。

法人ほうじん資本しほん主義しゅぎ形成けいせい[編集へんしゅう]

財閥ざいばつけいさい結束けっそく[編集へんしゅう]

1952ねんグリーンメーラーふじつな久二郎きゅうじろう不動産ふどうさんの35%を買占かいしめたので、三菱みつびしグループは戦後せんごはじめてさい結集けっしゅうしてぜんかぶさい高値たかねった。1953ねん8がつ独禁法どっきんほうだい10じょうだい11じょう金融きんゆうぎょういとな会社かいしゃ株式かぶしき保有ほゆう制限せいげん)、だい13じょう競争きょうそう関係かんけいにある会社かいしゃあいだでの役員やくいん兼任けんにん禁止きんし)、だい14じょう会社かいしゃ以外いがいものによる株式かぶしき保有ほゆう制限せいげん)が撤廃てっぱいされた。1954ねん7がつきゅう三菱商事みつびししょうじ130しゃだい合同ごうどう達成たっせいしたが、12月に4ばいじゃくという大幅おおはば増資ぞうし完全かんぜん復活ふっかつげた。金融きんゆう機関きかん事業じぎょう法人ほうじん垣根かきね関係かんけいなく、財閥ざいばつごとに株式かぶしきうようになり、戦前せんぜん二流にりゅう以下いか財閥ざいばつ新興しんこうコンツェルンも系列けいれつ融資ゆうしけながら株式かぶしきいに参加さんかしていった。富士銀行ふじぎんこうきゅう安田やすだけい東邦とうほうレーヨン日本精工にっぽんせいこう沖電気おきでんきなど)やきゅう浅野あさのけい日本鋼管にほんこうかん日本にっぽんセメントなど)、きゅうもりけい昭和電工しょうわでんこう)を中心ちゅうしんに、さらにきゅう日産にっさんけいのうち日産自動車にっさんじどうしゃ日産にっさん化学かがく日本油脂にほんゆしなどに接近せっきんし、系列けいれつ融資ゆうしをしながら、これらとの株式かぶしき持合もちあいをすすめた。だいいち銀行ぎんこうきゅう渋沢しぶさわけいIHI汽車きしゃ製造せいぞうをはじめ、戦前せんぜんからふかいつながりのあった古河ふるかわ財閥ざいばつ川崎かわさきけい川崎重工かわさきじゅうこうなど)、神戸製鋼こうべせいこうけい藤山ふじやまけいにも同様どうよう関係かんけいきずいた。三和銀行さんわぎんこう戦前せんぜんから密接みっせつであっただい日本にっぽん紡績ぼうせき大和やまと紡績ぼうせき帝国ていこく人絹じんけん日立造船ひたちぞうせんしん日本にっぽん汽船きせん東洋電機とうようでんき東洋とうようベアリング中山製鋼なかやませいこうダイハツ岩井いわい産業さんぎょう、などに、やはり同様どうよう関係かんけい構築こうちくした[7]

投信とうしんとのつきあい[編集へんしゅう]

1951ねん投資とうし信託しんたく再開さいかいされきゅう財閥ざいばつけい資本しほんにとって潜在せんざいてき脅威きょういとなっていたが、証券しょうけんきょうまでかぶ議決ぎけつけん代理だいり行使こうしすることはなかった。1966ねん商法しょうほう改正かいせいまでかぶ議決ぎけつけんについて統一とういつ行使こうしができなかったので、昭和しょうわ30年代ねんだい投資とうし信託しんたく契約けいやく残高ざんだかきゅう膨張ぼうちょうさせながらも、株式かぶしき発行はっこう会社かいしゃ白紙はくし委任いにんしていたのである[8]

株式かぶしき傾向けいこう昭和しょうわ30年代ねんだい停滞ていたいしていた。技術ぎじゅつ革新かくしんとしての重工業じゅうこうぎょうは、きゅう財閥ざいばつ分裂ぶんれつさせることがあった。三菱みつびし三井みついともにそれぞれの内部ないぶでニ系列けいれつのコンビナートが対立たいりつした。建設けんせつ機械きかい自動車じどうしゃへの進出しんしゅつをめぐっては三菱みつびしさん重工じゅうこうあいだ対立たいりつしょうじた。このような事業じぎょう資金しきん需要じゅよう系列けいれつ融資ゆうしでまかなうことができず、系列けいれつがい銀行ぎんこうだん協調きょうちょう融資ゆうし世界銀行せかいぎんこうべいぎんからのだい規模きぼ融資ゆうしけた。1960ねん前後ぜんこうには大量たいりょう公募こうぼ増資ぞうしおこなわれさえした。ここが投信とうしん出番でばんであり、株価かぶか上昇じょうしょう株主かぶぬし割当わりあて増資ぞうし利回りまわりをた。技術ぎじゅつ導入どうにゅう設備せつび投資とうし限界げんかいえてくると、三菱みつびしグループでは三菱みつびしさん重工じゅうこう合併がっぺい対立たいりつ解消かいしょうされた。また、海運かいうんほうにより海運かいうん会社かいしゃ合併がっぺいもあいついだ(日本郵船にっぽんゆうせん三菱みつびし海運かいうんなど)[9]

証券しょうけんきょうのち日本にっぽん共同きょうどう証券しょうけん日本にっぽん証券しょうけん保有ほゆう組合くみあい凍結とうけつかぶ放出ほうしゅつした。前者ぜんしゃ放出ほうしゅつかぶがどこにわれたかをしめ資料しりょう公表こうひょうされていない。後者こうしゃ放出ほうしゅつかぶ銘柄めいがらは、恐慌きょうこうまえ投信とうしん保有ほゆうしていた一流いちりゅう企業きぎょうかぶ集中しゅうちゅうしていた。金融きんゆう機関きかん引取ひきとぶんは、三菱みつびし7.6%、三井みつい3.4%、住友すみとも5.6%、芙蓉ふよう5.1%、三和さんわ3.0%であった。投信とうしん保有ほゆうしていた利権りけん系列けいれつされたのであった[10]

1967ねん投信とうしんほう改正かいせいで、投資とうし信託しんたく委託いたく会社かいしゃ保有ほゆうかぶ議決ぎけつけん指図さしずけん行使こうしできることになっていた[8]。したがって1970ねん前後ぜんこうは、きゅう財閥ざいばつグループと海外かいがい投資とうし信託しんたく日本にっぽんかぶあらそっていつけることになった[11]

オイルショックのスタグフレーションでグループのメインバンクが傘下さんか企業きぎょう資産しさん売却ばいきゃく場外じょうがい取引とりひきさせるようになり[12]、それが1980年代ねんだいまでつづいたので機関きかん投資とうし同士どうしどういち銘柄めいがらをキャッチボールし株価かぶかげた[13]

指定してい持株もちかぶ会社かいしゃ[編集へんしゅう]

だい1指定してい[編集へんしゅう]

1946ねん9がつ6にち指定してい。5しゃ現業げんぎょう部門ぶもん林業りんぎょう)をっていた住友すみとも本社ほんしゃ富士産業ふじさんぎょう解散かいさんおくれ、それぞれ1948ねん2がつ1950ねん5月に清算せいさんはいっている。なお、富士産業ふじさんぎょうおくれた事情じじょうとは、財閥ざいばつ先行せんこうして解体かいたい計画けいかく立案りつあんされたこと当初とうしょGHQは、保有ほゆう株式かぶしき処分しょぶん委員いいんかいではなく会社かいしゃ自身じしんおこなわせる方針ほうしんであったこと整理せいりたっては工場こうじょうごとの分割ぶんかつもとめる会社かいしゃがわと、より少数しょうすう分割ぶんかつ提案ていあんした委員いいんかいがわ対立たいりつがあったこと戦時せんじ補償ほしょう特別とくべつぜい関係かんけい特別とくべつ損失そんしつ計上けいじょうめぐって税務ぜいむ当局とうきょく訴訟そしょう提起ていきしていたことなどであった。

だい2指定してい[編集へんしゅう]

1946ねん12月7にち指定してい。4だい財閥ざいばつ規模きぼ財閥ざいばつやいわゆる新興しんこうコンツェルンなどの持株もちかぶ会社かいしゃトラストかく産業さんぎょう独占どくせん寡占かせんてき地位ちいにあった企業きぎょう対象たいしょうとした。40しゃ

だい3指定してい[編集へんしゅう]

三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう分社ぶんしゃ告知こくちする広告こうこく(『アサヒグラフ』1950ねん1がつ18にちごう

1946ねん12月28にち指定してい財閥ざいばつ傘下さんかで、かつ、その会社かいしゃ自体じたいかく産業さんぎょう独占どくせん寡占かせんてき地位ちいにあり、1・2指定してい対象たいしょうにならなかった企業きぎょう対象たいしょうとした。20しゃ

1947ねん7がつ3にち、GHQは日本にっぽん政府せいふあて覚書おぼえがきにおいて、三井物産みついぶっさん三菱商事みつびししょうじたいし、よりきびしい整理せいり措置そちるよう、以下いかしる具体ぐたいてき内容ないようしめして要求ようきゅうした。

  • 三井物産みついぶっさん三菱商事みつびししょうじ解散かいさん清算せいさんただちに開始かいしする
  • 7がつ3にち以後いご委員いいんかい許可きょかなきしょう取引とりひき資産しさん譲渡じょうと禁止きんしする
  • 過去かこ10年間ねんかん両社りょうしゃの「役員やくいん取締役とりしまりやく顧問こもんざい内外ないがい支店してん支配人しはいにんまた部長ぶちょうであったもの」は2めい以上いじょう従業じゅうぎょういんは100めい以上いじょうどういち会社かいしゃ在籍ざいせきするか、会社かいしゃ設立せつりつかかわってはならない
  • 両社りょうしゃ役員やくいんまたは従業じゅうぎょういん雇用こようしている会社かいしゃは、両社りょうしゃ過去かこ使用しようし、または現在げんざい使用しようしている事務所じむしょ使用しよう禁止きんしする
  • いかなる会社かいしゃも「三井物産みついぶっさん」「三菱商事みつびししょうじ」あるいはそれに類似るいじした商号しょうごう使用しよう禁止きんしする
  • 両社りょうしゃぜん資産しさん詳細しょうさい目録もくろく作成さくせいして、委員いいんかい提出ていしゅつしなければならない。
また現存げんそんするすべての帳簿ちょうぼ記録きろく保存ほぞんしなければならない
  • 両社りょうしゃぜん資産しさんは、公開こうかい市場いちばでの売却ばいきゃくそのほか公正こうせい方法ほうほう処分しょぶんする[17]

7がつ5にちに、大蔵省おおくらしょう経由けいゆ覚書おぼえがきった委員いいんかいは、両社りょうしゃ取引とりひき広範囲こうはんいであることから、両社りょうしゃ解体かいたいのニュースがながれた場合ばあい手形てがた不渡ふわたりや銀行ぎんこう取引とりひき停止ていしなどはげしい経済けいざいてき混乱こんらんまね危険きけんがあると判断はんだんし、大蔵省おおくらしょう日本銀行にっぽんぎんこう商工しょうこうしょう貿易ぼうえきちょう連絡れんらくりつつ、両社りょうしゃたいしては、既存きそん契約けいやくもとづく取引とりひきは(早急そうきゅうわらせること条件じょうけんに)委員いいんかい承認しょうにん継続けいぞく許可きょかし、これにかかわるつな資金しきん調達ちょうたつについても、両社りょうしゃちか帝国ていこく銀行ぎんこう三菱銀行みつびしぎんこう横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこうくわえた3ぎょう融資ゆうし要請ようせいするなどして、恐慌きょうこう防止ぼうしたった。両社りょうしゃ解体かいたいしゅう7がつ6にちほうじられたが、委員いいんかい迅速じんそく行動こうどうによって、混乱こんらん回避かいひされた。

当座とうざ危機ききった委員いいんかいは、専門せんもんセクションとして特殊とくしゅ清算せいさん設置せっちし、両社りょうしゃ清算せいさん作業さぎょう本格ほんかくさせた。基本きほんてき清算せいさん作業さぎょうは、商法しょうほうおよ企業きぎょう再建さいけん整備せいびほうもとづいておこなわれたが、債権さいけん回収かいしゅう所有しょゆう不動産ふどうさん処分しょぶん困難こんなんきわめた。そこで委員いいんかいは、あらたに会社かいしゃ設立せつりつして、これに回収かいしゅう債権さいけんがせて回収かいしゅうたらせるとともに、処分しょぶん不動産ふどうさん現物げんぶつ出資しゅっしさせ、その活用かつよう収益しゅうえきげさせて経費けいひ削減さくげんはかことにした。こうして1950ねん3月1にち三井物産みついぶっさん日東にっとう倉庫そうこ建物たてものが、4がつ1にち三菱みつびし商事しょうじ継承けいしょうする光和こうわ実業じつぎょうが、それぞれ設立せつりつされ、戦前せんぜん日本にっぽん代表だいひょうした2だい商社しょうしゃ解体かいたい事実じじつじょう完了かんりょうした。

だい4指定してい[編集へんしゅう]

1947ねん3がつ15にち指定してい電気でんき通信つうしん施設しせつ国有こくゆう政策せいさくもとづくもので、便宜べんぎてき持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかい所管しょかんとされた。2しゃ

  • 国際電気こくさいでんき通信つうしん株式会社かぶしきがいしゃ国際電信電話こくさいでんしんでんわげんKDDI新設しんせつのため。通信つうしん機器きき事業じぎょう電気興業でんきこうぎょう承継しょうけい
  • 日本電信電話にほんでんしんでんわ工事こうじ株式会社かぶしきがいしゃ日本電信電話にほんでんしんでんわ公社こうしゃ電電でんでん公社こうしゃげん日本電信電話にほんでんしんでんわ新設しんせつのため。

だい5指定してい[編集へんしゅう]

1947ねん9がつ26にち指定してい。いわゆる地方ちほう財閥ざいばつ小規模しょうきぼ財閥ざいばつ対象たいしょうとした。16しゃ

実施じっしされなかった措置そち[編集へんしゅう]

1949ねん9がつ持株もちかぶ整理せいり委員いいんかい三井みつい三菱みつびし住友すみともたいして商号しょうごう商標しょうひょう使用しようを1950ねん7がつ1にち以降いこう7年間ねんかんわた禁止きんしするむね通達つうたつしたが、実施じっしのち延期えんきされ、1952ねん講和こうわ条約じょうやく発効はっこうとも撤廃てっぱいされた[18]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 公正こうせい取引とりひき委員いいんかい独占どくせん禁止きんし政策せいさくじゅうねん』 1968ねん 12ぺーじ
  2. ^ 持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかい持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかい業務ぎょうむ報告ほうこくだいいちごう」、1946ねん12月31にちづけ / 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジカルアーカイブ、2011ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ 日本にっぽん経営けいえい研究所けんきゅうじょ東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ50ねん東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ 2002ねん 81ぺーじ
  4. ^ a b c 有沢ありさわひろ監修かんしゅう証券しょうけんひゃくねん日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ 1978ねん 194-196ぺーじ
  5. ^ 奥村おくむら57-58ぺーじ
  6. ^ 奥村おくむら54-55ぺーじ
  7. ^ 奥村おくむら61-68ぺーじ
  8. ^ a b 奥村おくむら74-75ぺーじ
  9. ^ 奥村おくむら76-81ぺーじ
  10. ^ 奥村おくむら84-89ぺーじ
  11. ^ 奥村おくむら100ぺーじ
  12. ^ 奥村おくむら112-113ぺーじ
  13. ^ 奥村おくむら126-127ぺーじ
  14. ^ 中央ちゅうおう建物たてもの株式会社かぶしきがいしゃ 会社かいしゃ概要がいよう
  15. ^ 柴垣しばがき和夫かずお三井みつい三菱みつびしひゃくねん
  16. ^ 三宅みやけはれあきら電力でんりょくコンツェルン読本とくほん』 1937ねん 436ぺーじ
  17. ^ 玉城たまきはじめ 「財閥ざいばつ発達はったつ序説じょせつ(4)「財閥ざいばつ解体かいたい」とさい編成へんせい(2)」 愛知あいち大学だいがくほうけい論集ろんしゅう だい76ごう 63ぺーじ
  18. ^ 三井みつい財閥ざいばつ解体かいたい後編こうへん”. www.mitsuipr.com. 2023ねん10がつ6にち閲覧えつらん

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

きゅう財閥ざいばつけい企業きぎょうグループ
その

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]