浅野 財閥
概要
[グループ企業
[財閥 本社
[浅野 同族 株式会社 -大正 7年 設立 。大正 3年 設立 の浅野 合資 会社 の後身 。浅野 財閥 の他 の会社 に投資 はするが、指揮 監督 はしないので、他 財閥 の本社 とは異 なる。一 つの営利 会社 として活動 する。大正 9年 頃 の組織 は、大理石 部 (輸入 大理石 の加工 販売 )、保険 部 (浅野 財閥 関係 会社 の保険 業務 )、建設 部 (鉄筋 コンクリート会社 の前身 )、浚渫 部 (築港 埋立 の請負 工事 )、製薬 部 (浅野 カーリットの前身 )、貿易 部 (浅野 物産 の前身 )、船舶 部 (船舶 の売買 )、回漕 部 (関東 運輸 の前身 )、石炭 部 、鉱山 部 (水力 課 、鉱山 課 )、総務 部 (庶務 課 、経理 課 、企画 課 )だった[25]。昭和 4年 の組織 は、総務 部 (同系 会社 への投資 )、鉱山 部 (鉱山 関係 の研究 調査 )、石炭 部 (浅野 財閥 でない炭鉱 も含 む石炭 の取次 販売 )、保険 部 (浅野 系 に限定 せず生命 保険 ・損害 保険 の代理 業 )、浚渫 部 (築港 埋立 事業 の請負 )[26]。大正 13年 から昭和 2年 は、傘下 企業 の不振 と直営 事業 の縮小 のせいで、毎期 赤字 決算 になり、借入金 の金利 負担 が毎年 累積 した。昭和 2年 に繰越 損失 が1000万 円 近 くになり、決算 時点 の損失 は2000万 円 以上 になった。昭和 初年 は毎年 、借入金 の利子 支払 にも追 われていた[25]。昭和 14年 に、巨額 の追徴 課税 を回避 するために[27]、或 いは債務 超過 のために解散 し、昭和 19年 に改 めて株式会社 浅野 本社 が設立 された[28]。浅野 財閥 本社 は自社 ビルを持 たずに、大手町 正金 ビルと海上 ビルに賃貸 で入居 していた[29]。白石 同族 合資 会社 -浅野 総一郎 の娘 と結婚 して、日本 鋼管 を設立 した、白石 元治郎 が設立 [30]。合資 会社 紫雲 社 -浅野 良三 家 の証券 保有 会社 [31]。合資 会社 禾恵社 -穂積 重 威 (浅野 総一郎 の長女 の長男 で弁護士 )家 の証券 保有 会社 [31]。合資 会社 美 蔦 会社 -清水 幸一郎 (圭一 郎 )家 の証券 保有 会社 [31]。浅野 興業 -解散 する浅野 同族 株式会社 の臨時 の代替 会社 として昭和 13年 に設立 。室蘭 埋 築 を合併 する[32]。
証券 保有 会社
[東洋証券 -東洋 汽船 の子会社 で日本郵船 の大 株主 [33]。東洋 汽船 の借金 を整理 するため安田 銀行 と共同 で昭和 8年 に設立 [34]。関東 証券 [35] -昭和 10年 設立 、昭和 14年 に関 水 興業 に改称 、昭和 17年 に浅野 カーリット、関東 水力 電気 と合併 し、関東 電気興業 になる[36]。関東 水力 電気 の子会社 [37]。鉄鋼 証券 -鉄鋼 証券 は日本鋼管 の大 株主 だが、日本 鋼管 は鉄鋼 証券 の殆 ど全部 の株 を所有 [38]。浅野 証券 保有 株式会社 -昭和 12年 設立 。公債 社債 株式 の保有 と利用 [39]。浅野 セメントの子会社 [40]。沖電気 証券 -昭和 12年 に沖電気 が設立 。沖電気 の株式 を所有 する。昭和 19年 3月 時点 で、沖電線 、昭和 電子 工業 、東京 太田 電機 、西川 伸 銅 工業 、日本 真空 工業 、沖 電信 機 、大同 電機 、新 阪 伸 銅 所 、ミクニ工業 所 の9会社 の全 株式 を所有 した。一部 株式 所有 も加 えると全部 で32会社 の株式 を所有 した[41]。石城 証券 -昭和 13年 設立 [42]。浅野 企業 -昭和 14年 設立 、有価 証券 の保有 会社 [42]。浅野 物産 の子会社 [37]。共同 興業 -昭和 21年 8月 時点 で、沖電気 の株式 の約 7%を所有 [43]。
セメント関連
[セメントは
浅野 セメント -明治 17年 に官営 深川 セメント製造 所 の払 い下 げで設立 。明治 31年 に、浅野 総一郎 33万 5千 円 、渋沢 栄一 20万 円 、安田 善次郎 10万 円 、大川 平三郎 11万 円 、尾高 幸 五郎 5万 5000円 出資 し、合資 会社 になる。大正 2年 に株式会社 になる[46]。海軍 は浅野 セメントしか使用 しなかったので、三井物産 が小野田 セメントを売 り込 もうとしたが、セメント性能 試験 の成績 表 を示 されて品質 の差 に諦 めるしかなかった[47]。門司 工場 には保育 所 が併設 されて、職工 が働 く間 、その幼児 100人 ぐらいを預 かって世話 をした[48]。扇 の紙 に浅野 総一郎 の家紋 (Zの鏡 文字 に類似 )が社 章 (戦後 の日本 セメントやアサノコンクリートの社 章 と同一 )[49]。(日本 セメントを経 て現 :太平洋 セメント)門司 セメント -明治 21年 、浅野 総一郎 が持株 比率 38%の筆頭 株主 となって、渋沢 栄一 (渋沢 財閥 )、大倉 喜八郎 (大倉 財閥 )と共同 で設立 し、工場 建設 を開始 。明治 23年 、財界 反動 で金融 難 となり、工場 建設 を中止 し会社 は解散 。浅野 総一郎 はその代 わりに、明治 26年 に浅野 セメント門司 工場 を建設 した[50][51]。浅野 石材 工業 明治 38年 設立 。砂利 、割栗 石 、花崗岩 を、多摩川 、須賀 、四方津 、若林 、馬入 川 、相模 川 、利根川 などで採取 [52]。茨城 県 真壁 町 で花崗岩 (真壁 石 )を採掘 していた関係 で、筑波 鉄道 を設立 し筆頭 株主 になる[53]。おそらく日本 共同 石材 が改称 したもの[54]。日本 石膏 -大正 3年 に浅野 財閥 が、岩手 県 黒沢尻 の原石 から焼石膏 を製造 販売 する会社 に、出資 。原石 を浅野 セメントに供給 する[55]。浅野 総一郎 が社長 [56]。浅野 スレート -大正 4年 設立 。オーストリア企業 から特許 と製造 機械 を購入 して、日本 で最初 にスレートを製造 した会社 [57]。大正 12年 に浅野 セメントと合併 、昭和 26年 に浅野 スレート株式会社 独立 。平成 12年 に株式会社 アスクと浅野 スレート株式会社 が合併 し、株式会社 エーアンドエーマテリアルが発足 [58]。石綿 スレート -大正 10年 設立 、市価 を安定 させるための、浅野 スレートと日本 石綿 盤 製造 の共同 販売 機関 [59]。秩父 セメント -大正 12年 に根津 財閥 、大倉 財閥 、大橋 財閥 、若尾 財閥 、浅野 財閥 、大川 財閥 、諸井 恒 平 、大友 幸 助 、小倉 常吉 など大勢 で創立 。浅野 泰治 郎 が取締役 [60]。大正 13年 8月 、セメント出荷 開始 。この頃 はセメント供給 過剰 で他社 は生産 出荷 調整 協定 を結 んでいたが、秩父 セメントだけは生産 出荷 をどんどん拡大 していった。大正 15年 4月 に生産 調整 組織 に参加 するが、参加 後 1年間 は何 も制限 を受 けないという特例 を得 て、シェアを広 げる。武 甲山 石灰石 採掘 場 に隣接 する最新 設備 の工場 は、セメント原料 の石灰石 の輸送 コストが無 く、生産 コストも低 いので、安価 な製品 を販売 することができた[61]。秩父小野田 から太平洋 セメントを経 て現 :秩父 太平洋 セメント[62]。旭コンクリ ート工業 -大正 12年 、浅野 セメントが出資 し設立 。愛知 ・三重 ・岐阜 で営業 [63][64][65]。浅野 スレート販売 -大正 13年 設立 。すぐに浅野 スレートに改称 。スレートの販売 会社 [66]。昭和 26年 浅野 スレート株式会社 (製造 販売 )となり、現 :エーアンドエーマテリアル[58][67]。大阪 石綿 工業 -大正 14年 、金 剛 商会 を買収 し設立 。アスベストセメントの管 やスレートを製造 [68]。漫画 家 の手塚 治虫 が勤労 動員 で働 いていた会社 [69]。昭和 20年 浅野 セメントスレート部 に合併 される[67]。浅野 ブロック製造 -大正 14年 設立 、昭和 3年 株式会社 に。道路 舗装 の金剛 アスファルトブロックの製造 販売 [70]。日本ヒュ ーム管 -大正 14年 設立 。英国 ヒュームパイプアンドコンクリート社 の特許 によるコンクリート製品 ヒューム管 の製造 販売 [71]。日本 ヒュームコンクリートを昭和 3年 に日本 ヒュームに改名 [72]。(現 :日本 ヒューム)[73]地下 工業 -大正 14年 設立 。地下 ケーブル工事 。浅野 財閥 が900/10000株 を所有 。鉄道 省 の工事 が主 [74]。日本 スレート販売 -大正 15年 設立 。浅野 セメントスレート部 、大阪 石綿 工業 、日本 石綿 盤 製造 、朝日 スレートの合同 販売 会社 で、大正 十 年 設立 の石綿 スレート株式会社 の後身 。日本 セメント -昭和 2年 に浅野 セメントの傘下 に入 る。昭和 14年 に浅野 セメントに合併 される[75]。鉄筋 コンクリート -昭和 4年 、浅野 同族 会社 の建設 部 が独立 した会社 。学校 校舎 や橋 の鉄筋 コンクリート工事 [76]。土佐 セメント -昭和 7年 に浅野 セメントが過半数 の株 を取得 [77]。昭和 17年 浅野 セメントに合併 [24]。日東 セメント -広島 の会社 。浅野 セメントが、昭和 9年 に1万 株 を、昭和 11年 に6700株 を取得 し、完全 に支配 する[78]。昭和 17年 浅野 セメントに合併 [24]。東亜 セメント -尼崎 市 の会社 。昭和 10年 に浅野 財閥 が殆 どの株 を取得 [79]。昭和 17年 浅野 セメントに合併 [24]。中国 石膏 -昭和 11年 設立 [80]。石膏 採掘 販売 [81]。東京 セメント -昭和 3年 設立 [82]。武蔵野 鉄道 の子会社 [83]。豊国 セメント - 4/150の株 を浅野 財閥 が所有 [84]。昭和 48年 三菱 鉱業 ・三菱 セメント・豊国 セメントが合併 し三菱鉱業 セメント。平成 2年 三菱金属 と三菱鉱業 セメントが合併 し、現 :三菱 マテリアル[85]。大分 セメント - 9/221の株 を浅野 財閥 が所有 [84]。昭和 13年 小野田 セメントと合併 、現 :太平洋 セメント[86]。磐城 セメント[87] -現 :住友大阪 セメント[88]大同 洋灰 -昭和 8年 に満州 で設立 。浅野 セメント・秩父 セメント・磐城 セメント・大阪 窯業 が共同 [89]。浅野 セメントが83%の株 を持 つ[90]。満州 洋灰 (満州 セメント) -昭和 9-10年 設立 。浅野 セメント・磐城 セメント・七尾 セメントが共同 。浅野 セメントが半数 の株 を持 つ[89][91]。本 渓 湖 洋灰 -昭和 10年 に大倉 財閥 が満州 で設立 し、渋沢 財閥 ・古河 財閥 ・浅野 財閥 も参加 。総数 6万 株 だが、浅野 財閥 は1万 2千 株 を取得 [91]。浅野 軽 クリート工業 -昭和 11年 設立 、軽 クリート・パーマックス・セメント瓦 ・耐火 波 板 [81]。朝鮮 浅野 セメント -昭和 11年 設立 [92]。台湾 セメント -昭和 12年 設立 、社長 は浅野 総一郎 、セメント製造 販売 [93]。満州 浅野 スレート昭和 13年 設立 [94]。大阪 石綿 工業 と共同 [89]。日本 高 炉 セメント -昭和 16年 設立 、浅野 セメントと日本 鋼管 の共同 出資 、浅野 セメント川崎 工場 を引 き継 ぐ。昭和 24年 に第一 セメントに社名 変更 、平成 15年 に中央商事 と合併 し、現 :デイ・シイ。社 章 は、扇 の紙 に D.C[95]。日本 最高 強 コンクリート -昭和 16年 設立 、高 圧 コンクリート管 製造 販売 [81]。日本 コンクリート -浅野 セメントの子会社 [87]。
造船
[浅野 造船 所 -大正 5年 設立 。横浜 船渠 会社 と共同 設立 の予定 で横浜 造船 所 という会社 名 にしたが、結果 的 に浅野 財閥 単独 で設立 したので、浅野 造船 所 に改名 [96]。社 章 は二 重 丸 の中心 に浅野 の家紋 (Zの鏡 文字 )外側 は三 枚 の扇 の紙 にASBのアルファベット三 文字 。大正 9年 浅野 製鉄 所 を合併 、昭和 11年 鶴見 製鉄 造船 に改名 。船 の材料 を製鉄 して造船 する一体 生産 体制 となった[97]。昭和 15年 、日本鋼管 と合併 。(ユニバーサル造船 を経 て、現 :ジャパン マリンユナイテッド)[98]鶴見 木工 -大正 9年 設立 。浅野 造船 所 が造 る船 の甲板 ・マスト・ドアなど木 の部分 を製造 。造船 不 況 で鉄道 貨車 製造 や製材 [99]。
製鉄 ・金属
[東京製綱 -明治 20年 設立 のロープ製造 会社 、当初 は麻 のロープ、後 に金属 のワイヤーロープを製造 。渋沢 財閥 、大倉 財閥 、浅野 財閥 が共同 で設立 。浅野 総一郎 が取締役 になる[101][102][103]。日本鋼管 -明治 45年 設立 。白石 元治郎 (浅野 総一郎 の女婿 )と浅野 総一郎 が中心 で、渋沢 財閥 ・大倉 財閥 も加 わる[104]。社 章 はNKK。(現 :JFEホールディングス,ジャパンマリンユナイテッド)東海鋼業 -大正 5年 設立 。鋼板 ・条鋼 および軽 軌条 を製造 ・販売 [105]。(現 :株式会社 トーカイ)[106]中央 製鉄 大正 6年 に浅野 財閥 が設立 したが、不 況 で業務 停止 [107]。大島 製鋼 所 -大正 6年 に東京製綱 深川 工場 を買収 し改名 。浅野 財閥 と大倉 財閥 が対等 な持 ち株 <[108]。昭和 12年 に日 曹製鋼 に合併 される[109]現 :大平洋金属 [110]浅野 製鉄 所 -大正 7年 設立 。浅野 造船 所 に隣接 。大正 9年 に浅野 造船 所 と合併 [111]。(現 :JFEスチール)浅野 小倉 製鋼 所 -大正 7年 に東京製綱 小倉 工場 を浅野 財閥 が単独 で買収 して改名 。小倉 港 海面 埋立 も行 う[112]。第 一 次 世界 大戦 の好景気 の時 に1200万 円 で買収 したが、その一 週間 後 に休戦 になり、恐慌 が続 いたせいで、1920年 台 は全 期間 無配 になった。満州 事変 以後 に戦時 経済 で景気 が回復 したせいで、ようやく昭和 9年 に買収 金 の支払 いが終 わった。昭和 11年 末 に小倉 製鋼 に改称 [113]。昭和 28年 に住友金属工業 と合併 し住友金属工業 株式会社 小倉製鉄所 になる。(新日鐵 住金 八幡 製鐵 所 小倉 地区 を経 て現 :日本 製鉄 [114])日本 銑鉄 -東京製綱 が大正 6年 に設立 したが[115]、浅野 財閥 が買収 し、大正 14年 に浅野 小倉 製鋼 所 と合併 させる[116]。日本 鋳造 大正 9年 に浅野 造船 所 の鋳造 部 が独立 。機械 の鋳造 [117][118]。富士 製鋼 -大正 9年 に、債権 者 の安田 財閥 が競売 しようとした会社 を、浅野 総一郎 が引 き受 けて、工場 設備 を浅野 造船 所 その他 に賃貸 して立 て直 した[119]。昭和 9年 に、政府 の方針 で、釜石 鉱山 (三井 )・輪西 製鉄 (三井 )・東洋 製鉄 ・三菱 製鉄 ・九州 製鉄 ・官営 八幡 製鉄 所 と合併 して日本 製鉄 株式会社 になる[120]。(新 日本 製鉄 、新日鉄 住金 を経 て、現 :日本 製鉄 )三和 鋼材 -大正 12年 設立 、建築 用 鉄骨 ・橋梁 ・鉄塔 ・缶 類 の製作 [121]。東京 シヤリング -大正 15年 、浅野 造船 所 の子会社 として創業 。昭和 11年 、鋼材 商事 株式会社 になる。昭和 23年 、東京 シヤリング株式会社 に改名 。平成 16年 、川鉄 鋼材 工業 と合併 し、JFE鋼材 株式会社 になる[122]。浅野 機械 製作 -昭和 3年 設立 、工作 機械 その他 一般 機械 の製作 加工 修理 [123]。尼崎 製鋼 所 [105] -昭和 7年 井上 長太 夫 が東京 シヤリングを辞 して設立 、浅野 小倉 製鋼 所 に4000株 を割 り当 て、浅野 財閥 の浅野 義夫 や末 兼 要 を取締役 にし、尼崎 築港 の埋立 地 に工場 を造 る。昭和 12年 に尼崎 製鉄 を久保田 鉄工 所 と共同 で設立 。昭和 14年 に高尾 鉄工 所 買収 、昭和 15年 に大阪 琺瑯 を買収 、昭和 15年 に大阪 シヤリング設立 [124]。日本 ドロマイト工業 -昭和 8年 、日本鋼管 と吉澤 石灰 工業 (浅野 セメントの取引 先 )が共同 で設立 [125]。栃木 県 下 久慈 町 、溶鉱炉 内部 の塗料 製造 [126]。昭和 鉄鋼 -昭和 8年 設立 、兵器 製造 加工 ・暖房 用 機関 と放熱 器 ・医療 機械 器具 の製造 。冷暖房 ・厨房 ・換気 などの工事 [127]。中外 精機 -昭和 12年 設立 、内燃 機関 と工作 機械 の製作 [128]。関東 製鋼 -昭和 12年 関東 電気 製 錬 設立 、関東 水力 電気 の余剰 電力 利用 のため。昭和 13年 関東 製鋼 に改称 、富士 製鉄 の斡旋 で、昭和 39年 に大同 製鋼 と合併 [129]。現 :大同特殊鋼 [130]。関東電化工業 -昭和 13年 設立 、金属 マグネシウム・苛性 ソーダの製造 販売 [131]。末広 商会 -昭和 13年 設立 、鋼材 の販売 [127]。満州 昭和 鉄鋼 -昭和 13年 設立 、鉄 製品 機械 類 の製造 販売 、冷暖房 衛生 工事 設計 監督 請負 [127]。満州 鋼 機 -昭和 13年 設立 、切削 、旋削工具 類 製作 、部品 加工 、鋲 、蹄鉄 製作 [123]。浅野 重工業 -昭和 14年 設立 、戦車 ・人間 魚雷 ・航空機 部品 製造 [132][133]。昭和 19年 小倉 製鋼 を合併 、昭和 20年 小倉 製鋼 に改名 。昭和 28年 住友金属工業 に合併 される[134]。現 :日本 製鉄 。浜松 工場 は、小倉 製鋼 の浜松 製作所 となった後 、昭和 28年 に九州 鋼 業 と合併 して住倉工業 浜松 製作所 となり、昭和 57年 に住倉工業 として独立 した[135]。日本 鋼材 販売 -昭和 14年 設立 [121]。日本瓦斯 管 販売 日本鋼管 が製造 したガス管 の独占 販売 [126]。関東 特殊 材料 製造 -昭和 15年 設立 、特殊 金属 材料 と特殊 ゴム製品 [127]。浅野 水道 管 -浅野 物産 の子会社 [37]。十 南 鉄工 所 -浅野 物産 の子会社 [37]。兵器 ・鉱山 用 機械 ・土木 用 機械 ・内燃 機関 ・大農 機械 の製造 [127]。昭和 16年 に吸収 合併 されて東北 重工 になる。現 :東北 機械 製作所 [136]昭和鉄工 -浅野 物産 の子会社 [37]。岡野 バルブ -浅野 物産 の子会社 [37]。昭和 11年 設立 、各種 高 圧 高温 弁 製造 業 [128]。日 満 鋼管 -昭和 10年 頃 、満州 にできた日本 鋼管 の姉妹 会社 。ガス管 と鋼管 の製造 販売 [137]。鞍山 鋼材 -昭和 10年 頃 、満州 にできた会社 [138]。日本 ニッケル -昭和 11年 11月設立 、ニッケル製造 、関東 水力 電気 が三 割 の株 を所有 [139]。関東 軽金属 工業 -昭和 15年 設立 、金属 粉 製造 [123]。秋田 製鋼 [140] -軍刀 製造 [141]日本 鋼 業 [105]
商社
[浅野 物産 -大正 7年 に米国 グレース会社 と共同 で設立 したが、大正 9年 に恐慌 で大 きな赤字 を出 して[142]、グレース会社 が撤退 し浅野 財閥 が全 ての株式 を握 る。大阪 、ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、シアトルに支店 。橋本 梅太郎 が運営 。8時半 出勤 5時 退社 を全員 が厳守 し、能率 を上 げた。非常 に良好 な資産 内容 、高 い利益 率 、業務 繁盛 で浅野 財閥 随一 と称賛 された。昭和 4年 の不 況 時 にも経営 状態 は良好 。自動車 工場 と自動車 学校 も経営 [143]。貿易 、計量 器 、薬品 販売 、土木 建築 請負 、運送 業 、有価 証券 取得 、投資 [144]。大正 14年 に一 割 の配当 、その後 3 - 4割 の高率 配当 を継続 した[25]。社 章 は菱形 の中 にABC[145]。(東 通 を経 て、現 :丸紅 。土木 工事 部門 は後 に分社 化 されNIPPO)太平洋 貿易 -鈴木 紋次郎 が取締役 [146]。
爆薬
[浅野 カーリット -現 :日本 カーリット大正 9年 設立 。第 一 次 世界 大戦 勃発 で爆薬 輸入 が不可能 になった為 に、スウェーデン企業 からカーリット爆薬 の、製造 販売 権 を取得 し日本 カーリットを設立 。大正 12年 に浅野 セメントに吸収 合併 されたが、昭和 9年 に浅野 カーリットが独立 。昭和 17年 に関東 水力 電気 ・関 水 興業 と合併 し関東 電気興業 になる。昭和 20年 に関東 電気 工業 に改名 。昭和 26年 日本 カーリットに改名 [147][148]。朝鮮 カーリット -昭和 13年 設立 [149]。爆薬 カーリットや一般 火薬 類 の製造 販売 [128]。南 満 火薬 製造 -昭和 14年 設立 、火薬 類 製造 販売 [128]。関東化学 工業 -化学 工業 製品 の製造 販売 、イリジューム・白金 ・クローム・その他 鉱物 の試掘 採掘 販売 [127]。昭和 17年 に浅野 カーリットが資本 参加 し子会社 にする。後 に関東 高 圧 化学 に改称 。平成 20年 に日本 カーリットが吸収 合併 [147]。
埋立 ・築港
[門司 築港 -明治 22年 設立 。福岡 県知事 安場 保 和 が企 てた築港 事業 に、渋沢 栄一 (渋沢 財閥 )、安田 善次郎 (安田 財閥 )、大倉 喜八郎 (大倉 財閥 )、浅野 総一郎 (浅野 財閥 )が同額 づつ出資 して設立 した[151]。明治 32年 に築港 工事 完成 と同時 に、会社 は解散 した。門司 区内 の本町 ・桟橋 通 り・港町 ・西海岸 通 り一帯 はこの時 にできた[152]。東亜 港湾 工業 -明治 45年 設立 の鶴見 埋立 組合 が、大正 3年 鶴見 埋 築 株式会社 になり、さらに東京 湾 全体 の埋 め立 てを目指 して大正 9年 東京 湾 埋立 会社 に改名 し、昭和 7年 に請負 工事 の港湾 工業 を一時 分離 したが、昭和 19年 に合併 して東亜 港湾 工業 に改名 (現 :東亜建設工業 )[153]。大 東亜 共栄 圏 のどこでも仕事 をするので「東亜 」にしたと思 われる[154]。大正 2年 の鶴見 埋 築 創立 時 、株式 総数 7万 株 、浅野 財閥 2万 3千 株 、安田 財閥 1万 6千 株 、渋沢 財閥 8千 株 、徳川 家 8千 株 [155]。大正 6年 に神奈川 県 足柄上 郡 神縄 村 に落合 水力 発電 所 を建設 し鶴見 埋立 地 に電力 を供給 する[156][157]。大正 14年 12月に電気 事業 を東京電力 の東京湾 電気 株式会社 に譲渡 [158]。大正 3年 から昭和 2年 の13年間 に、民間 事業 で、横浜 市 鶴見 区 から川崎 市 の海岸 に、154万 坪 の埋立 地 を造 り出 した。その町名 に功労 者 の名前 などを賦 す許可 を得 て、浅野 町 (浅野 総一郎 )、安善 町 (安田 善次郎 )、白石 町 (白石 元治郎 )、大川 町 (大川 平三郎 )、扇町 (浅野 総一郎 の家紋 )、末広 町 (扇 は末広 がり)と命名 した[159]。社 章 は3羽 の鶴 、浅野 総一郎 ・安田 善次郎 ・渋沢 栄一 で3羽 、鶴見 から鶴 [160]。京浜 運河 会社 -大正 6年 に宇都宮 金之 丞 らが設立 した会社 。東京 横浜 間 に運河 を掘 る計画 。浅野 財閥 東京 湾 埋立 会社 の計画 と工事 区域 が重複 するので、神奈川 県 が両者 の提携 を勧告 。大正 9年 、浅野 財閥 が過半数 の株 を買収 し、浅野 総一郎 が社長 になる。ところが昭和 11年 に内務省 が京浜 運河 計画 を神奈川 県営 にすることを決定 し、浅野 財閥 の工事 申請 を却下 。既 に昭和 9年 に漁業 補償 契約 を結 んで、工事 準備 も完了 していた浅野 財閥 にとって晴天 の霹靂 だった。浅野 系 会社 の従業 員 二 百 数 十 人 がトラックや艀 で県庁 に押 しかけて、「県 に仕事 をやられては、飯 の食 い上 げだ」と騒 いだ。京浜 運河 会社 は行政 訴訟 を起 こした。その結果 、神奈川 県 が全 ての工事 を京浜 運河 会社 に発注 する事 で和解 した。昭和 12年 11月に京浜 運河 会社 は東京 湾 埋立 会社 に合併 された(合併 契約 は既 に大正 15年 に結 ばれていた)[161]。橘 樹 水道 -昭和 2年 に橘 樹 郡 鶴見 町 [162] に設立 。浅野 造船 所 が大正 7年 から自営 していた水道 を、鶴見 埋立 地 の他社 にも開放 したもの。鶴見 の山 の手 に水源 の貯水池 3箇所 を所有 [163][164]。昭和 4年 営業 開始 、水道 公営 化 政策 により、昭和 12年 に横浜 市 に買収 される[165]。室蘭 埋 築 -昭和 2年 に設立 。昭和 3年 に室蘭 市 海岸 の埋立 許可 を得 るが、不 況 で工事 延期 。昭和 11年 に本格 的 埋立 工事 を開始 。工事 完了 を急 ぐため、昭和 12年 に東京 湾 埋立 会社 に移管 。昭和 13年 に埋立 工事 完了 [166]。浅野 興業 に合併 される[167]。尼崎 築港 (尼 ヶ崎 築港 ) -昭和 4年 、浅野 財閥 と山下 汽船 が共同 で設立 。関西 の尼崎 の埋立 [168]。東京 湾 埋立 の姉妹 会社 [169]。昭和 17年 にはこの埋立 地 が、日本 有数 の工場 地帯 になった[170]。昭和 23年 に46万 坪 で埋立 を中止 [171]。社 章 は「尼 」を円形 にしたもの。小倉 築港 -昭和 6年 設立 。大正 12年 から浅野 小倉 製鋼 所 が行 っていた、北九州 の小倉 海岸 埋立 を引 き継 ぐ。小倉 市 前面 の海岸 を埋 め立 て模範 的 都市 を建設 、また運河 を浚渫 、防波堤 ・港 ・桟橋 を建設 して小倉 港 を北九州 の要港 にする工事 を行 う会社 。昭和 26年 小倉興産 に改名 [172][173][174]。港湾 工業 -昭和 7年 に東京 湾 埋立 から分離 独立 した埋立 の請負 工事 をする会社 、昭和 19年 に東京 湾 埋立 と合併 して戻 り、東亜 港湾 工業 になる。(現 :東亜建設工業 )[153]- (
大 )東京湾 土地 -昭和 13年 設立 、水面 の埋立 と不動産 の売買 ・賃貸 ・その他 の利用 [175]。
不動産
[浅野 ビルデング[176](浅野 ビルディング) -明治 38年 設立 、ビルディング業 [177]。打 狗 地所 建物 -明治 43年 設立 、打 狗 が高雄 と改名 した時 に、高雄 地所 建物 と改称 。台湾 の高雄 築港 の際 に払 い下 げられた土地 を改良 して賃貸 する[178]。基 隆 地所 建物 -台湾 の基 隆 築港 の際 に払 い下 げられた土地 を改良 して賃貸 する[179]。- 鎮海
興業 組合 [180] -大正 2年 設立 、家屋 営造 物 の所有 売買 賃貸借 [175]。 台湾 地所 建物 -大正 9年 に、高雄 地所 建物 と基 隆 地所 建物 を合併 したもの。高雄 と基 隆 の港湾 建設 で入手 した土地 の賃貸 [179]。末広 土地 [181] -昭和 9年 設立 [182]。上 毛 森林 土地 [37]青島 地所 建物 -浅野 総一郎 と白石 元治郎 が取締役 [183]。
海運
[浅野 回漕 店 -明治 19年 設立 。日本郵船 に対抗 して海運 業 同盟 会 の盟主 となるが、東洋 汽船 設立 のために、全 ての船 を売却 [185]。東洋 汽船 -明治 29年 、浅野 財閥 ・渋沢 財閥 ・安田 財閥 ・大倉 財閥 ・大川 平三郎 ・原 六郎 ・森村 市 左衛門 ・原 善 三郎 が共同 で設立 し、運営 は浅野 財閥 [186]。日本 の三 大海 運 会社 の一 つで[187]、サンフランシスコ航路 や南米 航路 を持 ち、日本 最大 の巨船 天 洋 丸 ・地 洋 丸 ・春洋 丸 (天 洋 丸 級 貨客船 )を所有 、第 一 次 世界 大戦 中 の好景気 で大 きな利益 を得 て、新 造船 13隻 を注文 したが[188]、終戦 後 の海運 不 況 で経営 難 になり、大正 15年 に航路 と船 を日本郵船 に売却 する[189][190][191]。昭和 12年 には、既 に社長 と専務 のポストが安田 財閥 のものとなり、浅野 系 ではなくなっていた[192]。日 の丸 の扇 が社 章 [193]。(戦後 は日本 油槽 船 と合併 し昭和海運 、現 :日本郵船 )浅野 回漕 部 -明治 33年 頃 、浅野 回漕 店 を再興 した会社 。大正 時代 に浅野 同族 会社 の回漕 部 になり、大正 9年 に関東 運輸 株式会社 になった[194]。日之出汽船 -大正 元年 設立 。尾城 汽船 を買収 して改名 。日本 近海 の不定期 航路 で活動 [195]。日之出 郵船 を経 て、現 :NYKバルク・プロジェクト株式会社 [196]樺太 汽船 [87] -大正 7年 に樺太 工業 の子会社 として設立 、昭和 12年 に日本 産業 汽船 と合併 して日産 汽船 になる[197]。国際 汽船 -大正 8年 設立 。川崎 造船 所 、川崎汽船 、橋本 、浅野 、山下 、内田 が合計 60隻 30万 トンの船 を提供 して外国 相互 間 の航路 で活動 [198]。昭和 18年 に大阪 商船 に合併 [199]。関東 運輸 -大正 9年 に、浅野 回漕 店 が復活 したもの。第 一 次 世界 大戦 による好景気 で大正 9年 に浅野 同族 会社 から独立 。京浜 間 の艀 船 [200]。(現 :日 の出 興業 [201])東洋 海運 -昭和 8年 、東洋証券 (東洋 汽船 の子会社 )と山下 汽船 が共同 で同額 を出資 して設立 [202]。東洋 汽船 の委託 運行 、傭船 会社 。昭和 11年 に東海 商船 に改称 [36]。現 :商船 三井 オーシャンエキスパート[203]。小倉 海運 [105] -昭和 12年 設立 、貨物 の運送 と艀 船 ・曳舟の賃貸借 、税関 貨物 取扱 人 [204]。
炭鉱 ・鉱山
[磐城 炭鉱 -明治 17年 浅野 財閥 と渋沢 財閥 が共同 で設立 [205]。浅野 財閥 が筆頭 株主 [206]。鉱区 は内郷 、小野田 、重内 、千代田 の4箇所 。最初 は牛馬 で石炭 を海岸 の小名浜 (小野 浜 )に運 び、帆船 で東京 へ運 んだが輸送 費 が嵩 み赤字 になった。明治 20年 、炭鉱 から小名浜 までレールを敷 き軌道 馬車 で運 び輸送 費 を圧縮 したが、船賃 が高 くて赤字 。そこで、浅野 総一郎 は東京 に安 く輸送 するために、磐城 鉄道 (現 :JR常磐線 )を計画 したが、日本 鉄道 会社 に計画 を譲渡 して、安 い特別 運賃 で石炭 を輸送 してもらう事 になった。明治 30年 に磐城 鉄道 が開通 すると磐城 炭鉱 は黒字 になった[207][208][209]。大正 末 まで好 業績 が続 いた[25]。大正 12年 に茨城 採炭 を合併 した。昭和 2年 に、労働 争議 で一 ヶ月 操業 停止 、さらに町田 坑内 で大 火災 発生 し死傷 者 多数 を出 し、赤字 [207]。昭和 19年 、当局 の指示 により入山 採炭 (大倉 財閥 )と合併 し常磐 炭鉱 株式会社 になる[210]。表面 は対等 合併 だが、株価 評価 では磐城 炭鉱 は入山 採炭 の半額 で不利 だった[211]。(常磐 ハワイアンセンターを経 て、現 :スパリゾートハワイアンズ・常磐興産 )[212]藤原 炭鉱 -明治 30年 設立 。浅野 総一郎 が25000円 、渋沢 栄一 と坂 市太郎 がそれぞれ12500円 を出資 。3年 後 に解散 [213]。浅野 熊沢 硫黄 山 -明治 33年 設立 。浅野 総一郎 と坪田 佐平 太 (山主 )の共同 経営 。秋田 県 鹿角 市 。明治 35年 閉山 [214]。稷 山 金鉱 -明治 33年 に韓国 政府 より採掘 権 を得 る。浅野 総一郎 と渋沢 栄一 の共同 事業 だが、失敗 に終 わる。その後 、明治 44年 に米国 資本 と共同 で株式会社 にする[215]。茨城 採炭 -明治 34年 設立 。渋沢 栄一 、浅野 総一郎 、西園寺 公 成 、佐久間 精一 、阿部 吾 市 、岡本 儀 兵衛 、坂 市太郎 が発起人 。浅野 総一郎 は監査 役 になる[216]。大正 14年 に磐城 炭鉱 と合併 [217]。石狩 石炭 -明治 39年 設立 。浅野 総一郎 が筆頭 株主 (約 20%)<[218]。新 夕張 、空知 、美唄 を採掘 [219]。(石狩 炭田 の一部 )50年間 固定 価格 で東京瓦斯 と石炭 供給 契約 結 ぶ[220]。浅野 造船 所 設立 資金 調達 の為 、大正 五 年 に三井鉱山 に譲渡 [221]。(現 :日本 コークス工業 [222])豊前 採炭 -明治 40年 に設立 。九州 の筑豊 炭田 の田川 地区 [223]。大 日本 鉱業 -大正 4年 設立 。秋田 県 の吉乃 、八 盛 、木 友 の亜鉛 炭鉱 、石炭 鉱 、金属 鉱 [224]。住友 財閥 と共同 [225]。大正 12年 、浅野 系 の出資 比率 は過半数 で、累積 赤字 208万 円 計上 した。昭和 4年 の出資 比率 は80%以上 だった[25]。昭和 7年 に住友 財閥 傘下 に入 る[36]。日 支 炭鉱 汽船 -大正 4年 設立 の日本 と中国 の合弁 会社 を、大正 6年 に浅野 財閥 と渋沢 財閥 が出資 して株式会社 にした。対 華 21ヶ条 要求 で日 中 関係 が悪化 して休止 [226]。朝鮮 鉄山 -大正 7年 に設立 。麻生 音波 所有 の鉄 鉱山 に浅野 が出資 した共同 事業 。大正 11年 に浅野 の比率 は47%、昭和 4年 に殆 ど完全 所有 になる。常 に取 るに足 りない利益 しかなかった。官営 八幡 製鉄 所 や三菱 財閥 の兼 浦 製鉄 所 に納入 [25]。赤字 のせいで減資 し、鉄 鉱区 を浅野 造船 所 に売却 、栃木 県 の日向 銅 鉱山 を浅野 同族 会社 から買収 し日向 興行 に改称 [227]。関東 燃料 -大正 9年 創立 。磐城 炭鉱 の石炭 を、常磐 線 と両毛線 の沿線 で販売 。本社 は土浦 [228]。現在 は、東京 に本社 [229]。北 樺太 鉱業 -大正 15年 設立 。日 露 協約 で得 た北 樺太 の鉱業 権 を行使 する為 。三菱 財閥 、三井 財閥 、大倉 財閥 、浅野 財閥 の共同 事業 で、浅野 の関与 は少 ない[230]。浅野 雨龍 炭鉱 -昭和 4年 設立 。留萌 港 と留萌 鉄道 でつながる炭鉱 [231]。昭和 44年 閉山 [232]。浅野 石炭 部 -昭和 6年 設立 。独立 した株式会社 [233]。浅野 石炭 銑鉄 -昭和 6年 設立 。石炭 ・コークス・その他 の燃料 ・銑鉄 ・鋼材 ・鉱油 ・油脂 ・塗料 などの売買 運送 [81]。他 の4社 と合併 して昭和 20年 に関東 銑鐵 配給 になる。現 :株式会社 エヌテック[234]。順安 砂金 [37] -昭和 7年 設立 [149]。会津 鉱業 -石膏 や金銀 銅 鉛 亜鉛 その他 の採掘 加工 販売 [235]。大正 9年 に会津 石膏 設立 、昭和 9年 に落盤 事故 があったが、浅野 セメントの協力 で復興 し傍系 会社 になる[236]。昭和 14年 に会津 鉱業 に改称 [237]。第 二 磐城 炭鉱 -昭和 9年 に、磐城 炭鉱 と三井鉱山 が共同 で設立 [238]。昭和 13年 に磐城 炭鉱 が第 二 磐城 炭鉱 を合併 する[239]。昭和鉱業 -昭和 9年 設立 。北海道 新 幌 内 の炭鉱 。日本 鋼管 の石炭 自給 用 [240]。(現 :昭和 KDE株式会社 )[241]南洋 鉄鋼 -昭和 10年 に日本鋼管 が設立 。マレ ー半島 ケランタン王国 に事業 地 [242]。芳野 浦 鉱業 [87]日向 興業 [180] -昭和 12年 に朝鮮 鉄山 が改称 した会社 。銅鉱 その他 鉱物 に関 する工業 [243]。満州 石綿 -昭和 13年 設立 。石綿 の採掘 ・加工 ・販売 [244]。- 琿春
砂金 昭和 13年 満州 に設立 [89]順安 砂金 の子会社 [37]。 神ノ山 炭鉱 -昭和 16年 設立 、石炭 の採掘 [121]。東亜 コバルト -昭和 17年 設立 、石炭 以外 の鉱物 の採掘 ・選鉱 ・売買 [121]峨朗 鉱業 -昭和 17年 設立 、石灰石 の採掘 ・販売 <[177]。華中 鉱業 -日本 鋼管 の子会社 [105]。
鉄道 ・バス・タクシー・運送 業
[青梅 電気 鉄道 (現 :JR青梅線 ) -明治 25年 設立 、浅野 総一郎 は発起人 の一人 で明治 26年 に株数 で2位 だが、同 株数 4人 。明治 40年 に浅野 セメントが1000株 で2位 の株主 、大正 6年 に持株 比率 10%台 に上昇 、大正 13年 以降 浅野 セメント持株 比率 は低下 する[246]。青梅 町 宮ノ平 の石灰 採掘 場 [247] から石灰石 と砂利 を東京 深川 の浅野 セメント工場 に運 ぶため[248][249]。明治 41年 に軌間 拡張 工事 完成 し、青梅 の材木 や多摩川 砂利 も扱 い輸送 量 が飛躍 的 に増加 したうえに、国鉄 中央東線 に貨車 が直通 して積 替 コストが消滅 したので、営業 収入 が増加 した[250]。大正 6年 に日向和田 から二俣尾 の延長線 建設 と雷電山 採掘 場 開設 を決定 [251]。大正 9年 に宮ノ平 と雷電山 の石灰石 採掘 権利 を譲 り、山代 金 を受 け取 る契約 を浅野 セメントと結 ぶが、採掘 量 が増加 して青梅 鉄道 の収益 も増加 [252]。大正 13年 以降 は、浅野 セメントの要求 に応 じて、山代 金 の値下 げを繰 り返 し、昭和 5年 には、側線 使用 量 を無料 化 、さらに、五日市 鉄道 が国鉄 に直通 し青梅 電気 鉄道 を経由 しなくなったため、昭和 5年 下期 には収益 悪化 し無配 に転落 した[253]。昭和 19年 に国有 化 された[254]。磐城 鉄道 (現 :JR常磐線 ) -日本 鉄道 50万 円 、通運 会社 50万 円 、川崎 八右衛門 50万 円 、渋沢 財閥 25万 円 、浅野 財閥 25万 円 の、合計 200万 円 出資 して、明治 30年 に磐城 鉄道 開通 。磐城 炭鉱 の石炭 を経済 的 に東京 に輸送 する為 に敷設 [255]。明治 39年 日本 鉄道 国有 化 で国鉄 になる[256]。筑波 鉄道 (初代 ) -大正 7年 設立 。真壁 町 から花崗岩 を運搬 するため。浅野 石材 工業 が筆頭 株主 [53]昭和 62年 に廃 線 [257]。線路 跡 はつくばりんりんロードというサイクリングロードになった[258]。秩父鉄道 [259] -大正 3年 から4年 に武 甲山 の石灰石 の20年間 採掘 権 を獲得 。大正 5年 に石灰石 搬出 用 に秩父 -影森 の延長線 免許 取得 。大正 6年 に浅野 セメントと石灰石 売買 契約 を結 び、秩父鉄道 は自社 の運賃 を割引 くだけでなく、国鉄 の運賃 割引 も浅野 セメントの為 に交渉 して獲得 し優遇 。大正 7年 9月 に延長線 が完成 し浅野 セメント工場 に石灰石 販売 ・輸送 を開始 。同年 12月 に採掘 権 を浅野 セメントに売却 し、秩父鉄道 は運賃 収入 のみになる[260]。この頃 に浅野 セメントが出資 するが持株 比率 は常 に低 く0.7 - 0.8%[261]。大正 12年 設立 の秩父 セメントが、地元 の武 甲山 にセメント工場 を建設 し大正 13年 8月 から秩父鉄道 でセメントを出荷 し始 めた。大正 14年 6月 時点 で、秩父鉄道 の筆頭 株主 は秩父 セメント諸井 恒 平 5580株 で、浅野 セメント浅野 泰治 郎 は1000株 で25位 の株主 で同 株数 8人 [262]。(秩父 セメントが筆頭 株主 になったのが昭和 4年 という説 もある。)[263]昭和 2-3年 に浅野 セメントの運賃 引下 げ要求 を拒否 したが、昭和 5年 に秩父 セメントには割引 運賃 を設定 した。昭和 5年 には秩父 セメントの持 ち株 比率 が8.2%に達 した[264]。南 武 鉄道 (現 :JR南武線 ) - セメント原石 を浅野 セメント川崎 工場 に運 ぶ為 と、多摩川 の砂利 を運 ぶ為 の鉄道 [265]。大正 12年 、浅野 セメントの4人 が40%の株式 を占 める[266]。社長 は大塚 栄吉 だが、事実 上 の支配 者 は浅野 総一郎 で、浅野 から4人 が重役 になる[267]。用地 買収 に手間取 り借入金 が増加 していった[268]。昭和 2年 、川崎 〜登戸 、矢向 〜川崎 河岸 が開業 し、昭和 5年 3月 、尻手 〜浜川崎 の浅野 セメント引込線 開通 し、同年 4月 、立川 で五日市 鉄道 や青梅 電気 鉄道 と繋 がり浅野 セメント川崎 工場 へ石灰石 輸送 開始 したが、借入金 利払 いが増大 し無配 転落 [269]。昭和 5年 11月から浅野 セメント川崎 工場 は操業 短縮 に入 り、石灰石 輸送 量 が減少 したので、昭和 7-9年 には、運賃 ベースで石灰石 27-33%、砂利 28-45%になった[270]。昭和 19年 国有 化 された[254]。会社 は南 武 不動産 からアサノ不動産 を経 て現 :太平洋 不動産 [271]。小倉 鉄道 -大正 12年 に浅野 傘下 に入 る。地元 の有志 が石炭 を炭鉱 から小倉 港 に輸送 するために設立 したが、融資 返済 の代 わりに、浅野 財閥 に株式 を渡 す。資本 金 452万 円 で、その内 の浅野 資本 は100万 円 [272]。浅野 総一郎 が相談役 、浅野 良三 と末 兼 要 が取締役 を務 める[273]。昭和 18年 に国有 化 [254]。現 :JR日田彦山線 [274]五日市 鉄道 -大正 13年 (1924年 )に発行 株式 の4分 の1以上 を握 り、浅野 泰治 郎 と金子 喜代太 が取締役 に就任 し、浅野 セメントが支配 する。勝 峰山 の石灰石 採掘 場 からセメント原料 の石灰石 を運 ぶため[275][276]。昭和 15年 に南 武 鉄道 に合併 [277]。(現 :JR五日市線 )鶴見 臨港 鉄道 (現 :JR鶴見線 ) -大正 13年 設立 。浅野 財閥 が50%を出資 、芝浦製作所 ・日清製粉 ・日本石油 ・スタンダード石油 ・ライジングサン石油 ・石川 島 造船 所 ・旭硝子 ・三井物産 が残 りを出資 [278]。浅野 財閥 の埋立 地区 の工場 と東海道 線 などを接続 して、流通 を円滑 にするため[279]。関係 者 の名前 が駅名 になった。鶴見小野 駅 (地元 の大 地主 小野 重行 )浅野 駅 (浅野 総一郎 )安善 駅 (安田 善次郎 )武蔵白石 駅 (白石 元治郎 )大川 駅 (大川 平三郎 )扇町 駅 (浅野 総一郎 の家紋 が扇 )[280]。昭和 18年 に国有 化 [281]。社 章 は鶴 と車輪 [282]。現 :東亜 リアルエステート三 岐鉄道 [283] -昭和 3年 設立 。(三井 財閥 の小野田 セメントや地元 の有力 者 と共同 。)藤原 岳 からセメント原料 の石灰岩 を運 ぶため[284]。昭和 12年 頃 は12万 株 の内 で浅野 の持株 が4万 株 弱 [285]。留萌 鉄道 -昭和 3年 設立 。国鉄 留萌 線 を経由 して留萌 港 と雨龍 炭田 を結 ぶため、浅野 財閥 ・明治 鉱業 ・三井鉱山 ・北海道 炭鉱 汽船 ・住友 財閥 が共同 [286]。1971年 に廃 線 [287]。武蔵野 鉄道 [288] -経営 難 の武蔵野 鉄道 がセメント原料 の石灰岩 の山 を発見 し、東京 セメントを設立 しセメント輸送 で経営 を改善 しようとしたが、供給 過剰 で市場 価格 が暴落 することを恐 れた浅野 セメントが五 年間 石灰石 購入 契約 を結 ぶ[289]。石灰岩 採掘 権 を東京 セメントに譲渡 して、一時 的 に経営 が改善 した[290]。武蔵野 鉄道 は地元 派 ・浅野 派 ・藤山 派 に分 かれていたが、経営 権 を握 っていた地元 派 が杜撰 な経営 をしていた。昭和 5年 に、浅野 派 は藤山 派 から株 を譲 り受 けて支配 権 を手 に入 れたが、経営 改善 の方策 はなく浅野 派 経営 陣 は辞任 した。昭和 6年 に堤 康次郎 が競売 された株 を落札 して大 株主 になった[291]。昭和 12年 頃 は、浅野 財閥 が22/240の株 所有 [285]。(現 :西武鉄道 )日東 運輸 商事 -昭和 8年 設立 、運送 と運送 取扱 業 、物品 売買 業 、労力 請負 業 [204]。川崎 自動車 運輸 -昭和 11年 設立 、貨物 自動車 運輸 ・自動車 修繕 [204]。川崎 合同 タクシー -昭和 12年 設立 、自動車 による旅客 運輸 [204]。奥多摩 電気 鉄道 [292] -昭和 12年 設立 、日原 から採掘 予定 の石灰石 を東京 深川 や川崎 の浅野 セメント工場 に運 ぶため。人 も資本 も青梅 電気 鉄道 は僅 かで浅野 セメントが主体 [293]。昭和 19年 、線路 開通 の日 に鉄道 は国有 化 された[294]。会社 は奥多摩 工業 に改名 して昭和 21年 に石灰石 採掘 販売 を開始 した[295]。(現 :JR青梅線 )鶴見 川崎 臨港 バス -昭和 12年 に鶴見 臨港 鉄道 が設立 。廃止 する海岸 電気 軌道 の代替 交通 手段 。昭和 13年 に川崎 乗合 自動車 を吸収 合併 し、川崎 鶴見 臨港 バスに改称 。昭和 23年 財閥 解体 により、鶴見 臨港 鉄道 の役員 は川崎 鶴見 臨港 バスの役員 を辞任 し、京浜急行電鉄 と大和自動車交通 に経営 権 が移 る。平成 18年 に京浜急行電鉄 の完全 子会社 になる[296]。錦 西 鉄道 -昭和 14年 設立 。大同 洋灰 がセメント材料 を輸送 するために満州 鉛 鉱 と共同 出資 で満州 に設立 [297]。阪神 貨物 自動車 運輸 -昭和 15年 設立 、自動車 による貨物 運輸 [204]。
銀行
[日本 昼夜 銀行 -大正 4年 、援助 要請 により浅野 総一郎 が第 五 銀行 の役員 に就任 。大正 5年 、資本 金 100万 円 に増加 し浅野 が経営 権 を握 り、白石 元治郎 が頭取 就任 、日本 昼夜 銀行 に改称 し、午前 9時 から午後 8時 の昼夜 営業 を開始 し日本 最初 の昼夜 営業 の普通 銀行 になった。(午前 8時 〜午後 10時 という説 もある[298]。)大正 6年 、資本 金 500万 円 に増加 。大正 7年 、浅野 昼夜 銀行 に改名 。大正 7年 7月 の浅野 財閥 の持株 比率 は88%。大正 9年 、1000万 円 に増資 し浅野 総一郎 が頭取 就任 。この頃 が銀行 の利益 のピーク。一 次 大戦 終戦 の影響 で不 況 になり、預金 減少 、浅野 財閥 の諸 会社 の資金 需要 が増加 し固定 化 し、銀行 の資金 枯渇 し経営 急迫 。大正 10年 、安田 善次郎 が浅野 昼夜 銀行 を引 き取 ると約束 したが、9月の調印 の前日 に暗殺 されて、白紙 に戻 る。独力 で銀行 経営 を改善 するために、同年 中 に大阪 支店 、京都 支店 、青梅 出張所 を設置 。預金 は増加 するが、貸付 金 はそれ以上 に増加 し、借入金 ・コールマネー・再 割引 手形 の合計 額 も増加 する。浅野 総一郎 は銀行 より浅野 同族 会社 の資金繰 りを優先 した。大正 11年 春 、浅野 造船 所 が職工 1600人 以上 を解雇 する際 に、銀行 や浅野 財閥 が危機 的 状況 になった。当時 安田 財閥 の実権 を握 っていた結城 豊太郎 が日銀 総裁 と協議 して経営 引受 を決 めた。8月に銀行 は安田 財閥 傘下 に入 り、浅野 系 取締役 は総 退陣 し、安田 善四郎 が頭取 に、安田 善 兵衛 が取締役 になった。ハワイの布 哇浅野 昼夜 銀行 を朝鮮 銀行 に譲渡 し、浅野 昼夜 貯蓄 銀行 を安田 貯蓄 銀行 が吸収 合併 したが、浅野 昼夜 銀行 は安田 銀行 が買収 したものの日本 昼夜 銀行 に再度 改名 しただけで、吸収 合併 しなかった。負債 のせいで買収 されたという悪 いイメージを避 けるためだった。安田 の経営 陣 は、別途 積立 金 を取 り崩 し、滞納 金 の償却 を始 めて経営 を健全 化 して行 った[299][300][301]。(安田 銀行 に合併 された後 、富士銀行 を経 て現 :みずほ銀行 )[302]日本 昼夜 貯蓄 銀行 -大正 元年 に相 陽 銀行 を買収 して設立 、大正 7年 に浅野 昼夜 貯蓄 銀行 に改名 [303][304]。大正 9年 末 に資本 金 100万 円 で、同 時期 の日本 昼夜 銀行 の1割 しかなかった[25]。経営 悪化 で大正 11年 に安田 財閥 の安田 貯蓄 銀行 に合併 される[300]。(日本 貯蓄 銀行 、協和 銀行 、協和 埼玉 銀行 、あさひ銀行 を経 て、現 :りそな銀行 )[305]
電気 ・電力
[沖電気 -沖 牙 太郎 (創立 者 )夫人 タケは浅野 総一郎 夫人 サクと叔母 姪 の関係 で、沖 牙 太郎 死 後 の明治 40年 に、沖 商会 は合資 会社 になるが、資本 金 60万 円 で沖 サイドは16,27万 円 、浅野 総一郎 が10万 円 、渋沢 栄一 が10万 円 、安田 善次郎 、善 三郎 、善之助 の三 人 合計 で15万 円 、浅野 総一郎 が相談役 に就任 、人事 権 や業務 監督 権 も握 る。大正 元年 、浅野 総一郎 が沖電気 株式会社 を設立 、取締役 会長 になる、資本 金 5万 円 。大正 6年 、沖電気 が沖 商会 を合併 、資本 金 105万 円 。その後 、沖 サイドの経営 陣 は辞 めていった[306]。資本 金 は、大正 6年 6月 200万 円 、大正 9年 250万 円 、大正 14年 500万 円 になった。一 次 大戦 後 も1-2割 の配当 が続 いた[25]。筆頭 株主 は安田 財閥 だが、実権 は浅野 財閥 が握 る。電話 交換 機 、電信 電話 機械 、蓄電池 [307]。昭和 19年 4月 に、舞鶴 海軍 工廠 長 の小沢 仙吉 が沖電気 社長 に就任 し、浅野 泰治 郎 は経営 のトップでなくなる[41]。昭和 24年 、沖電気 を解散 し、沖電気工業 を設立 して、負債 を整理 する[308]。現 :沖電気工業
武蔵 電気 (武蔵 水 電 ) -大正 2年 浅野 財閥 と渋沢 財閥 が共同 で設立 、電力 と鉄道 。大正 11年 帝国 電燈 に合併 される。その後 、東京 電燈 に合併 される[309][310]。現 :東京電力 。関東 水力 電気 -大正 8年 設立 。鬼怒 電力 と共同 [311]。大正 9年 の大 恐慌 で資金 難 になり、工事 開始 が大幅 に遅 れた[312]。昭和 4年 開業 、浅野 系 持株 比率 33%[25]。佐久 発電 所 の名称 は、財閥 創始 者 浅野 総一郎 の妻 サクに由来 する[313]。(現 :東京電力 佐久 発電 所 )庄川 水力 電気 -大正 8年 設立 。浅野 総一郎 が日本 最初 のダム式 発電 所 を計画 したが、地元 住民 の反対 運動 で政治 問題 となり資金繰 りが悪化 し、日本 電力 の子会社 になる[309][314]。大正 14年 に日本 電力 と共同 で小牧 発電 所 建設 開始 。すると、飛 州 木材 が材木 を川 に流 して運搬 する邪魔 になるとして訴訟 を起 こした。住民 を巻 き込 んで反対 運動 を行 った。昭和 5年 に、訴訟 合戦 の泥仕合 となったが、小牧 ダムと小牧 発電 所 が完成 し、昭和 6年 開業 した。昭和 7年 に、飛 州 木材 の約 400人 と庄川 水力 電力 の約 200人 が乱闘 になり、20人 以上 の負傷 者 が出 た。昭和 8年 にようやく和解 が成立 した。その間 に浅野 の持株 比率 は70%から24%に低下 した[25][315]。浅野 綜合 中学校 (現 :浅野 中学校 ・高等 学校 )が5000株 の株主 だった[285]。(現 :関西電力 小牧 ダム、小牧 発電 所 )岩崎 電線 昭和 2年 設立 、銅 線 の製造 加工 [123]。沖電線 -昭和 11年 に沖電気 の電線 製造 部門 が独立 [316]。
昭和 電子 工業 -昭和 12年 設立 、各種 光電管 、ブラウン管 、特殊 高度 真空 管 、各種 真空 管 の製作 販売 [128]。大同 電気 (大同 電機 ) -昭和 13年 設立 、電気 機械 器具 の製造 販売 [128]。東北 電気 無線 -昭和 14年 設立 、航空機 用 超 短波 小型 真空 管 の製作 販売 [128]。亜細亜 電 業 -昭和 15年 設立 、無線 電信 機 、電話 送受信 機 、弱電 関係 諸 機械 の製造 販売 [128]。沖 通信 機 -昭和 15年 、満州 に設立 [317]。電気 通信 機械 器具 や電気 時計 の販売 、電気 工事 の設計 ・請負 。沖 電信 機 -昭和 17年 設立 、昭和 18年 休業 、昭和 23年 解散 。電信 機 と部品 の製造 販売 [128]。東亜 電子 -昭和 17年 設立 、各種 電子 管 、真空 管 の製造 販売 [128]。帝国 電池 -白石 元治郎 が取締役 [87]。原 安 商会 -大正 8年 設立 [36]。電気 器具 製作 販売 ・電気 工事 の会社 [318]。浅野 泰治 郎 が取締役 [319]。上 毛 電力 [285] -大正 15年 設立 。電灯 電力 の一般 供給 と電力 の販売 [123]。
林業 ・製材
[東北 浅野 製材 -大正 8年 設立 。セメント樽 材 の製材 。浅野 セメント工場 の敷地 内 にある[320]。北 秋 木材 -大正 9年 に、浅野 財閥 と大倉 財閥 が共同 で設立 。実権 は浅野 財閥 。秋田 県 の官有 林 の木 を製材 ・販売 。関東大震災 で大 きな利益 [321]。浅野 熊沢 硫黄 山 閉山 後 に、硫黄 運搬 専用 鉄道 を秋田 杉 の運搬 に利用 し、浅野 と秋田 木材 の共同 で浅野 製材 を明治 40年 に設立 。大正 8年 に北 秋 木材 に改称 。現 :株式会社 北 秋 [322]。社 章 は浅野 セメントと似 ているが、中心 の「Z」が鏡 文字 ではない[323]。信越 木材 -大正 9年 設立 。信州 南佐久 郡 南牧 村 に製材 所 、付近 の山林 を所有 。関東大震災 の頃 は経営 状態 良好 だったが、昭和 4年 には殆 ど休業 [324]。満州 木材 加工 -昭和 15年 に北 秋 木材 が満州 で設立 、昭和 18年 に戦争 激化 で廃業 [322]。
紙
[日本 加工 紙 -大正 6年 設立 。富士 製紙 ・樺太 工業 の共同 事業 に浅野 財閥 が投資 。洋紙 製造 。浅野 泰治 郎 が監査 役 [325]。伏木 板紙 -解散 した会社 を、大正 11年 に買収 し大正 12年 再開 。ボ ール紙 の製造 [326]。東洋 紙袋 -昭和 2年 設立 、セメント袋 の製造 [327]。全 工場 が戦災 にあい、再建 の見込 みが立 たず解散 [328]。東洋 再製 袋 -昭和 7年 に東洋 紙袋 が設立 。使用 済 袋 を回収 、再製 して原料 不足 を解決 するため。現 :株式会社 ニッポー[328]
ガス・コークス
[東京瓦斯 (東京 ガス)明治 18年 に東京瓦斯 局 が払 い下 げで東京瓦斯 会社 になる。渋沢 栄一 (渋沢 財閥 )が筆頭 株主 で、浅野 総一郎 は持 ち株 数 は5位 だが、持 ち株 数 同数 が他 に4人 で、岩崎 久弥 (三菱 財閥 )や安田 善次郎 (安田 財閥 )など[329]。浅野 総一郎 は取締役 [330] だったが、大正 3年 に千代田 瓦斯 と合併 した時 に、他 の重役 と衝突 して手 を引 く[331]。神奈川 コークス -大正 11年 に浅野 財閥 が買収 し設立 。陸海 軍 工廠 や浅野 セメントに納入 。副産物 のガスは東京瓦斯 に納入 [332]。昭和 6年 に東京瓦斯 に買収 され京浜 コークスとなる[333]。現 :東京 ガスエネルギー[334]。
石油
[浅野 石油 部 -明治 26年 設立 。サミュエル商会 の関東 ・東北 地方 区域 の代理 店 となり、サミュエル商会 が自社 のタンカーで輸入 するロシアのバクー油田 産 の灯油 を購入 して販売 。横浜 の平沼 町 に石油 タンクを建設 。特約 店 に供給 するだけではなく、各 家庭 にも灯油 を販売 した。日本 国内 の石油 販売 で、スタンダード石油 会社 に対抗 した[335][336]。日本 最初 の鉄製 タンク車 [337] で石油 を輸送 した &武 上 幸之助 2010, p. 149-186。社 章 は、赤 扇 [338]。北越 石油 部 -明治 31年 設立 。サミュエル商会 の契約 満期 終了 で、日本 国内 で石油 採掘 する会社 を設立 。明治 33年 に柏崎 製油 所 が完成 。明治 35年 ロータリー式 鑿井 をする。新潟 県 では日本石油 や宝田 石油 が殆 どの油田 を抑 えていたので成功 せず、明治 35年 に宝田 石油 に合併 される[336][339]。浅野 削 井部 -明治 32年 設立 、石油 の採掘 。明治 37年 に宝田 石油 に売却 [340]。浅野 製油 所 -明治 32年 、柏崎 に建設 。従業 員 約 百 名 の大 規模 製油 所 。原油 不足 のために、明治 35年 に宝田 石油 に売却 [340]。日本 油送 -明治 32年 設立 、西山 油田 〜柏崎 パイプライン所有 の長嶺 鉄管 会社 を買収 し、鎌田 〜柏崎 パイプラインを建設 。明治 35年 に宝田 石油 に売却 [340][341]。宝 扇 商会 (宝 扇 石油 商会 ) -明治 35年 、宝田 商会 と共同 で設立 。宝田 石油 の新潟 産 石油 の販売 会社 。明治 37年 宝田 石油 に合併 される[336][342]。台湾 石油 組合 -明治 36年 に、大倉 組 (大倉 財閥 )や宝田 石油 と共同 で設立 。南北 石油 の傘下 に入 る[343]。南北 石油 -明治 38年 大倉 財閥 や宝田 石油 と共同 で設立 。台湾 ・青森 ・北海道 で採油 事業 を開始 したが失敗 。明治 39年 、米国 カリフォルニア産 原油 の輸入 契約 を締結 。増資 して、横浜 に保土ヶ谷 製油 所 を建設 し明治 41年 に完成 。明治 40年 には原油 輸入 を開始 した。これが日本 における原油 輸入 精製 の先駆 である[344]。国内 原油 生産 量 の63%相当 の原油 を輸入 した。東洋 汽船 はこの輸入 原油 運搬 のためにタンカー5隻 を発注 した[345]。これを妨害 するために日本石油 などが国産 原油 保護 ・原油 輸入 反対 を議会 に働 きかけて、明治 41年 に原油 輸入 関税 が2,2倍 -3倍 に引 き上 げられた。さらに、原油 供給 元 の米 社 が合併 され契約 無効 になり、失敗 に終 わり、明治 41年 に宝田 石油 に売却 された[339]。浅野 石油 -明治 40年 設立 [346]。台湾 鉱業 組合 [176] -明治 40年 設立 、石油 鉱業 [121]。大 日本石油 鉱業 -大正 5年 設立 。昭和 18年 に帝国石油 に合併 される[347]。現 :国際 石油 開発 帝 石 。中野 興業 系 [197]。内外 石油 -大正 10年 設立 。外国 原油 の輸入 精製 。国際 相場 の変動 と関税 により採算 合 わず、東京 湾 埋立 会社 の鶴見 埋立 地 に土地 を購入 したが製油 所 建設 を中止 [348][349]。千代田 石油 -大正 13年 設立 。外国 原油 の輸入 精製 。大正 14年 に株 の半数 を三菱 財閥 に譲渡 し、内外 石油 の土地 を借 りて製油 所 を共同 で建設 。三菱商事 が原油 供給 。経営 不振 で昭和 2年 に破産 申請 [350]。
窯業
[日本 エナメル[35](現 :タカラスタンダード) -白石 元治郎 と今泉 嘉一郎 が明治 45年 に設立 [351][352]。白石 元治郎 が取締役 社長 [146]。川崎 窯業 -昭和 5年 日本鋼管 から独立 。耐火 レンガ製造 。昭和 19年 に日本鋼管 と合併 [353]。鶴見 窯業 -昭和 9年 、浅野 造船 所 と黒崎窯業 (現 :黒崎 播磨 )が共同 で設立 。耐火 レンガ製造 [354][355]。昭和 19年 9月 に黒崎窯業 に合併 される[356]。現 :黒崎 播磨 [357]
その他
[鈴木 洋酒 店 -明治 8年 設立 。浅野 総一郎 の妻 サクの兄 の、鈴木 恒吉 か鈴木 庄五郎 が設立 した洋酒 の販売 会社 。(現 :伊藤忠食品 )[358]鈴木 紋次郎 が取締役 代表 [146][359]。札幌 麦酒 (サッポロビール) -明治 21年 に大倉 財閥 、渋沢 財閥 、鈴木 洋酒 店 と共同 で設立 [360][361]。浅野 財閥 はビ ール瓶 製造 工場 も設立 。明治 39年 に札幌 麦酒 ・日本 麦酒 ・大阪 麦酒 が合併 して大 日本 麦酒 になり、実質 的 に三井 財閥 の傍系 会社 になると、浅野 総一郎 は重役 を辞 めた[362][363]。帝国 ホテル -明治 23年 開業 、不平等 条約 改正 の為 に井上 馨 外務 大臣 が提案 して、大倉 喜八郎 (大倉 財閥 )、安田 善次郎 (安田 財閥 )、渋沢 栄一 (渋沢 財閥 )、岩崎 弥之助 (三菱 財閥 )、益田 孝 (三井 財閥 )、川崎 八右衛門 (東京 川崎 財閥 )その他 と共同 で、皆 が同額 を出資 して設立 。浅野 総一郎 は生涯 監査 役 を務 めた[364]。昭和 4年 頃 には浅野 財閥 の持 ち株 は僅 かで、大倉 財閥 が運営 [365]。浅野 良三 が取締役 [366]。東洋 物品 火災 保険 -明治 32年 設立 、浅野 総一郎 が25%を保有 する筆頭 株主 。明治 36年 に成田 火災 保険 に改称 、明治 39年 に大和 火災 保険 に改称 <[367]。横浜 倉庫 -明治 39年 設立 、横浜 の貿易 商 が作 った会社 に浅野 総一郎 が出資 して取締役 になったと思 われる[368][369]。神戸 オリエンタルホテル -外国 人 が経営 していたホテルを、東洋 汽船 が大正 5年 から6年 に買収 、東洋 汽船 の宣伝 によって世界 的 に知 られたホテルになる。大正 15年 に、東洋 汽船 の経営 難 のせいで、神戸 の資本 家 に売却 [370][371]。東洋 フィルム会社 -大正 6年 に、ベンジャミン・ブロツキーと東洋 汽船 が共同 で設立 した映画 会社 。マークは扇 の中 にT.F.K.[372]。大正 9年 に大正 活動 写真 株式会社 (大正 活 映 )に改組 、浅野 良三 が社長 。大正 10年 に松竹 キネマに売却 [373]。足利 紡績 -大正 8年 設立 、鈴木 紋次郎 が監査 役 [146]。昭和 18年 に呉羽 紡績 に合併 される<[197]。帝国 人造 肥料 -大正 8年 、白石 元治郎 と大川 平三郎 が設立 、白石 元治郎 が取締役 社長 。昭和 17年 に帝国 化工 に改称 [197][374]。(現 :テイカ)[375]山元 オブラート -大正 9年 設立 、白石 同族 の子会社 [34]。白石 元治郎 が監査 役 [374]。その息子 の白石 琢二 が経営 責任 者 [376]。- カフェー・アメリカ(カフェー・オリエントに
改称 ) -大正 9年 、浅草 雷門 に開業 、ボーイがいない女給 だけの店 にして人気 を得 た[377]。 横浜 共立 倉庫 -大正 10年 設立 [378]。浅野 良三 が監査 役 [324][366]。原 安三郎 系 [34]。- テムプル・コート・ホテル -
大正 11年 、米国 人 貿易 商 ホーンの横浜 の邸宅 を買 い取 ってホテルにした。宿泊 よりも、社交 場 や結婚式 場 としての経営 に力 を入 れたが、大正 12年 の関東大震災 で廃墟 になった[377][379]。 東洋 食料 品 商会 -大正 12年 設立 、ハム・チーズ・生 果 を輸入 し、帝国 ホテルや東京 會 舘 に納入 したが、大正 14年 に関税 が十 割 になったので閉鎖 した。米国 産 干 しブドウの輸入 は日本 最初 だった[377]。- カフェー・タイガー -
大正 13年 、銀座 に開業 、文化 人 ・政界 財界 の名士 が利用 して、有名 になった[377]。 - カフェー・ニューヨーク -
大正 15年 、銀座 に開業 した高級 ビヤホール[377]。 昭和 火災 保険 (現 :損保 ジャパン日本 興亜 ) -昭和 3年 設立 [380]。浅野 財閥 から重役 が入 る[324]。昭和 13年 に日産 火災 に合併 される[380]。- ユニオン・バー -
昭和 4年 、銀座 に開業 [377]。 東洋 商事 [35][37] -昭和 6年 設立 、海運 業 、不動産 取得 利用 投資 [34]。日本舗道 -昭和 9年 、日本石油 道路 部 と浅野 物産 道路 部 の合同 により設立 。現 :NIPPO[381]。道路 舗装 工事 の請負 [175]。京浜 昭 興 -昭和 11年 設立 、ホテルの経営 と賃貸 [382]。浅野 水道 工業 -昭和 12年 設立 、上下水道 工事 の請負 [382]。関東 組 [176] -昭和 13年 設立 、鉄鉱 石 の採掘 と運搬 [204]。浅野 保険 代理 部 -昭和 13年 に、浅野 同族 株式会社 から独立 。浅野 財閥 各社 に保険 をかける会社 [383]。社 章 は、浅野 セメント社 章 の上 に 「ASANO」下 に 「HOKEN」[384]。浅野 樹脂 工業 -昭和 14年 設立 、人造 樹脂 の製造 加工 [127]。浅野 鑿井 工業 -昭和 14年 設立 、深井 戸 鑿井 工事 の請負 [382]。- ミクニ
工業 所 -昭和 14年 設立 、合成 樹脂 の製造 加工 販売 [123]。 東京 倉庫 -浅野 物産 の子会社 [37]日本 精油 -昭和 15年 設立 、テレピン油 ピッケ製造 [127]。満州 浅野 水道 工業 -昭和 18年 設立 、土木 、上下水道 設計 施工 請負 [382]。辛 酉 商工 -電気 器具 材料 、建築 土木 請負 、鉱物 油脂 販売 [36]。
財閥 解体 後 に関係 者 が設立 した会社
[病院
[鶴見 製鉄 造船 株式会社 浅野 病院 -大正 8年 設立 。昭和 12年 に鶴見 製鉄 造船 が日本 鋼管 と合併 し、鶴見 製鉄 造船 株式会社 浅野 病院 が日本 鋼管 鶴見 病院 と改称 [387]。日本 鋼管 病院 -大正 7年 設立 の日本 鋼管 株式会社 付属 病院 を、昭和 12年 に総合 病院 にしたもの[387][388]。
学校
[浅野 綜合 中学校 (現 :浅野 中学校 ・高等 学校 ) -大正 9年 に、横浜 市 神奈川 区 に設立 。科学 に強 い人材 を浅野 財閥 の為 に養成 する学校 [389][390]。子安 海岸 埋立 の土砂 採取 場 として買収 したが、埋立 許可 が得 られずに無駄 になっていた台地 に学校 を建設 した[391]。浅野 総一郎 がよく訪 れて、ニコニコしながら生徒 たちを見 ていた。浅野 総一郎 は生徒 たちに話 をしたが、その話 がとても面白 かったと当時 の生徒 が述 べている。また、浅野 総一郎 夫人 浅野 サクも時々 訪 れた[392]。昭和 9-16年 には大磯 高麗 山 の浅野 家 別邸 で臨海 学校 を行 った[393]。浅野 総一郎 の誕生 日 である3月 10日 に高校 卒業 式 が行 われる[394][395]。混 凝 土工 法 講習 所 (現 :浅野 工学 専門 学校 ) -横浜 市 の要請 で、横浜 市 神奈川 区 の浅野 総合 中学校 の敷地 に大正 14年 設立 [396]。
脚注
[- ^
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日本 の15大 財閥 ―現代 企業 のルーツをひもとく』p.147 - ^
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浅野 工学 専門 学校 沿革
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