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東洋とうよう汽船きせん

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東洋汽船のポスター 着物の若い女が広げた扇を持っている。
東洋とうよう汽船きせんポスター 英語えいご

東洋とうよう汽船きせん(とうようきせん)は1896ねん明治めいじ29ねん)から1960ねん昭和しょうわ35ねん)まで存続そんぞくした、浅野あさの財閥ざいばつ[1]安田やすだ財閥ざいばつけい[2]日本にっぽん海運かいうん会社かいしゃである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

日本にっぽん近代きんだいからの船舶せんぱくとく客船きゃくせんかたじょうでは日本郵船にっぽんゆうせん大阪おおさか商船しょうせんげん商船しょうせん三井みつい)とならんでけてかたることが出来できないふね会社かいしゃであり[3]創業そうぎょうしゃ浅野あさの総一郎そういちろう浅野あさの財閥ざいばつ創始そうししゃ)の企業きぎょう精神せいしん[4]ゆめ[5]サンフランシスコ航路こうろ開設かいせつ日本にっぽん最初さいしょの1まんトンをえる大型おおがたせん建造けんぞうなどというかたち具現ぐげんしたが、やがて世界せかい情勢じょうせい変遷へんせんなどにより経営けいえい苦境くきょうおちいり、日本にっぽん郵船ゆうせん客船きゃくせん部門ぶもん譲渡じょうとしたのち貨物かもつせん専業せんぎょうふね会社かいしゃとなる。太平洋戦争たいへいようせんそうて、1964ねん昭和しょうわ39ねん)の海運かいうん集約しゅうやく目前もくぜんにして、そのぜん段階だんかいにおいて64ねん歴史れきしまくじた。

ファンネルマークだいだい一色いっしょくであり、いただきくろ[6]しゃは「紫色むらさきいろまる扇子せんす」だった[5]扇子せんす浅野あさの総一郎そういちろう家紋かもん由来ゆらいする。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

創業そうぎょう[編集へんしゅう]

東洋とうよう汽船きせんのルーツは、浅野あさの財閥ざいばつ創始そうししゃ浅野あさの総一郎そういちろう1886ねん明治めいじ19ねん)に設立せつりつした浅野あさの回漕かいそうてん浅野あさの廻漕かいそう[7])である[4]浅野あさの回漕かいそうてん浅野あさの総一郎そういちろう渋沢しぶさわ栄一えいいち渋沢しぶさわ喜作きさくらとともにロシアから汽船きせん「ベロナ」を購入こうにゅうして「にち出丸でまる」と命名めいめいし、石炭せきたん輸送ゆそうすることを生業せいぎょうとしていた[4][7]。やがてせんやし、日本郵船にっぽんゆうせん対抗たいこうする意味合いみあいをもって小規模しょうきぼせん会社かいしゃとともに海運かいうん同盟どうめいかい結成けっせい[7]にちしん戦争せんそう直前ちょくぜん1893ねん明治めいじ26ねんごろには、帆船はんせんなどもふくめると8まんそうトンもの船腹せんぷくゆうする規模きぼにまで発展はってん[4]にちしん戦争せんそうではなんせきかのせん日本にっぽんぐん用船ようせんとして提供ていきょうしていた[7]りしも、にちしん戦争せんそう終結しゅうけつ1896ねん明治めいじ29ねん)に航海こうかい奨励しょうれいほう造船ぞうせん奨励しょうれいほう施行しこうされる[8]日本にっぽんせん海外かいがい航路こうろ就航しゅうこうするさいや、しん造船ぞうせん建造けんぞうさい一定いってい補助ほじょきんすという、このふたつの法律ほうりつ施行しこう契機けいきとして、日本にっぽんふね会社かいしゃあい前後ぜんごして海外かいがいへとって[9]

日本郵船にっぽんゆうせん法律ほうりつ施行しこうさきんじて1893ねん明治めいじ26ねん)に、日本にっぽんふね会社かいしゃはつ本格ほんかくてき遠洋えんよう定期ていき航路こうろ[注釈ちゅうしゃく 1] としてボンベイ航路こうろ開設かいせつ[9]法律ほうりつ施行しこうにはヨーロッパ航路こうろシアトル航路こうろ豪州ごうしゅう航路こうろ相次あいついで開設かいせつした[9]大阪おおさか商船しょうせんも1896ねん日本にっぽん領土りょうどとなったばかりの台湾たいわんへの命令めいれい航路こうろ運営うんえい受命じゅめいし、会社かいしゃ規模きぼ拡大かくだい開始かいしする[10]。むろん、浅野あさのはこういったライバルせん会社かいしゃ動向どうこう関心かんしんだったわけではない。国内こくない同業どうぎょうしゃとの日本にっぽん国内こくないでの競争きょうそうにあぐらをかいて満足まんぞくするようなことはなく、1896ねんいままでのせん土佐とさ汽船きせん譲渡じょうとして浅野あさの回漕かいそうてん解散かいさんする[7]。そしておなじ1896ねん6がつ2にち[3] あるいは7がつ1にち[11]渋沢しぶさわ栄一えいいち渋沢しぶさわ財閥ざいばつ)にくわえて安田やすだ善次郎ぜんじろう安田やすだ財閥ざいばつ)、福澤ふくさわももかい大倉おおくら喜八郎きはちろう大倉おおくら財閥ざいばつ)、6代目だいめ森村もりむら左衛門さえもんらから650まんえん当時とうじ)の出資しゅっしけて東洋とうよう汽船きせん株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつする[3]

日の丸の扇をかざす男の子と女の子 遠くに汽船
東洋とうよう汽船きせんポスター 中国ちゅうごく

東洋とうよう汽船きせん設立せつりつ浅野あさの総一郎そういちろう体調たいちょうがあまりよくなかったにもかかわらず[7]、ただちに渡米とべいしてサザン・パシフィック鉄道てつどう社長しゃちょう立会たちあいのしたパシフィック・メイルしゃ英語えいごばんおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルしゃ(Oriental and Occidental)との提携ていけいもうれる[4][7]交渉こうしょう難航なんこうしたものの、ついにサンフランシスコと香港ほんこんあいだ航路こうろを、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶せんぱく6せき東洋とうよう汽船きせん船舶せんぱく3せき共同きょうどう運航うんこうするというかたち設立せつりつする[4][7]浅野あさのつぎイギリスわたり、1897ねん明治めいじ30ねん)にサー・ジェームズ・レイングしゃ(Sir James Laing & Sons Co.)とスワン・ハンターしゃ英語えいごばんでサンフランシスコ航路こうろよう船舶せんぱく3せき建造けんぞう契約けいやくける[12]。これが日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん(「日本にっぽんまる」、「香港ほんこんまる」、「亜米利加あめりかまる」)である。日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん1898ねん明治めいじ31ねん)11月から1899ねん明治めいじ32ねん)1がつにかけて相次あいついで日本にっぽん回航かいこうされ、だいいちせん日本にっぽんまる明治めいじ31ねん12月15にち香港ほんこん出帆しゅっぱんし、廈門上海しゃんはい長崎ながさき神戸こうべ横浜よこはまおよびホノルル経由けいゆし、明治めいじ32ねん1がつ14にちにサンフランシスコに到着とうちゃく、サンフランシスコ航路こうろ第一歩だいいっぽしるした[5]。もっとも、初期しょき経営けいえいノウハウ成熟せいじゅくだったこともあってパシフィック・メイルしゃ全面ぜんめん委託いたくしていたが、それがために日本人にっぽんじん船客せんきゃく不興ふきょうこともしばしばであった。いちれいとしては、アメリカ航海こうかいでの食堂しょくどうメニューが「ホームワード」とされ、日本にっぽんおよび香港ほんこん航海こうかいでのメニューが「アウトワード」とされていた[13]。また、サンフランシスコ航路こうろかかわる当時とうじ情勢じょうせいとして、ハワイ併合へいごうとそれにともな移民いみん貨物かもつ輸送ゆそう制限せいげんがホノルルとサンフランシスコあいだ航海こうかい適用てきようされたが、これらのまけ要素ようそにもかかわらず業績ぎょうせき上向うわむきに推移すいいした[5]当時とうじ、サンフランシスコ航路こうろ利用りようした船客せんきゃくなかには、まごぶん[注釈ちゅうしゃく 2]野口のぐち英世ひでよ[注釈ちゅうしゃく 3] といったかおられた。1900ねん明治めいじ33ねん)には、日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん3せき予備よびとしてイギリスから2せき中型ちゅうがた貨客船かきゃくせん、「ロヒラ」と「ロセッタ」を購入こうにゅうし、それぞれ「ろひらまる」と「ろせったまる」と命名めいめい[14]両船りょうせんともサンフランシスコ航路こうろには投入とうにゅうされなかったが[5]、「ろせったまる」は1901ねん明治めいじ34ねん)12月5にちからはじまった香港ほんこんマニラ航路こうろ就航しゅうこうした[15]にち戦争せんそうでは在籍ざいせきせんすべてがぐんちょうやといされ、日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん仮装かそう巡洋艦じゅんようかんとして、「ろひらまる」と「ろせったまる」は病院びょういんせんとして軍務ぐんむふくした[13][15]

発展はってん[編集へんしゅう]

にち戦争せんそう日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん軍務ぐんむふくしている前後ぜんご、サンフランシスコ航路こうろでは変化へんかきていた。1906ねん明治めいじ39ねん)に東洋とうよう汽船きせん提携ていけいさきひとつであるオリエンタル・アンド・オクシデンタルしゃ運航うんこう停止ていし[16]。もうひとつの提携ていけいさきであるパシフィック・メイルしゃと、後発こうはつぐみの、ジェームズ・ジェローム・ヒルひきいるグレート・ノーザン汽船きせん会社かいしゃは、ともに1まんトンをえる大型おおがたせん建造けんぞう[17]。これらの情報じょうほうをすでにつかんで大型おおがたせん建造けんぞう決議けつぎをしていた東洋とうよう汽船きせんではあったが、にち戦争せんそうすえがある程度ていどつかめるようになるまで計画けいかく実行じっこううつされなかった[18]。また、大型おおがたせん建造けんぞう決議けつぎ前後ぜんごに、パシフィック・メイルしゃ社長しゃちょう就任しゅうにんしていたエドワード・ヘンリー・ハリマンから、東洋とうよう汽船きせん足元あしもとるかのような交渉こうしょうまれる[18][19]。すなわち、「日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん程度ていど船舶せんぱくでは太刀打たちうちできないだろうから、日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせんをパシフィック・メイルしゃわたすか、パシフィック・メイルしゃせんすべてを購入こうにゅうするか」という内容ないよう交渉こうしょうである[19]

東洋とうよう汽船きせん当面とうめん現状げんじょう維持いじごした。にち戦争せんそう大勢おおぜいけっした1905ねん明治めいじ38ねん)6がつに、浅野あさの総一郎そういちろう白石しらいし元治郎もとじろう進言しんげんれて[20]三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょに12,000トンきゅう貨客船かきゃくせん建造けんぞう発注はっちゅうする[18]。これが、日本にっぽん最初さいしょの1まんトンをえる大型おおがたせん嚆矢こうしであるてんようまるきゅう貨客船かきゃくせん(「てんようまる」、「ようまる」、「春洋はるみまる」)である。てんようまるきゅう貨客船かきゃくせんは、浅野あさの総一郎そういちろうゆめ意欲いよくひとつの結晶けっしょうともうべき存在そんざいであった。それまでの石炭せきたんボイラーとレシプロしき蒸気じょうき機関きかんわり、当時とうじさい新鋭しんえい蒸気じょうきタービン重油じゅうゆきボイラーの採用さいよう[注釈ちゅうしゃく 4]当時とうじとしては高速こうそくの20ノットの速力そくりょくなど画期的かっきてき性能せいのうであり、しかもこのクラスの大型おおがたせん民間みんかんけに日本にっぽん国産こくさん建造けんぞうさせたことも、前例ぜんれいのない野心やしんてきなプロジェクトであった(しゅ機関きかんはイギリスせいのパーソンズ・タービンを輸入ゆにゅう)。この計画けいかくは、日本郵船にっぽんゆうせんから「気狂きちがい」とまでわれた[20]契約けいやくさいに「三菱みつびしだい番頭ばんがしら荘田しょうだ平五郎へいごろうは、浅野あさの計画けいかくのランクダウンを提案ていあんして再考さいこうすすめたほどであったが、浅野あさの断固だんことしてこれを退しりぞけた[18][19]てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん1908ねん明治めいじ41ねん)に「てんようまる」と「ようまる」、1911ねん明治めいじ44ねん)に「春洋はるみまる」が竣工しゅんこう[21]、そのインパクトは後年こうねんに「浅間あさままる」(日本郵船にっぽんゆうせん、16,975トン)が竣工しゅんこうしたときとはくらものにならないぐらいのものであった[19]。もっとも、あぶらきの採用さいよううらには、浅野あさの経営けいえいしていた浅野あさの商店しょうてん石油せきゆるいあつかっており、カリフォルニア原油げんゆ自前じまえ精製せいせいした重油じゅうゆ目当めあてにしていたものだったが、原油げんゆ関税かんぜいげでアテがはずれて石炭せきたん使つかわざるをなかった[22][注釈ちゅうしゃく 5]

てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん建造けんぞうあい前後ぜんごして、東洋とうよう汽船きせんでは南米なんべいなどへの移民いみんせん運航うんこう委託いたくう。移民いみんせん使用しようされたふねのうち、「かさまる」と「くすのきたもつまる」は、にち戦争せんそう結果けっか取得しゅとくしたもとロシアせんであった。1908ねん明治めいじ41ねん)4がつ28にち、「かさまる」は皇国こうこく殖民しょくみん会社かいしゃ水野みずのりゅう社長しゃちょう)の依頼いらいにより、だいいちかいブラジル移民いみん781めい神戸こうべ出港しゅっこう、6月18にちサントス到着とうちゃくしたことでられている。「くすのきたもつまる」は日本海にほんかい海戦かいせん直前ちょくぜん仮装かそう巡洋艦じゅんようかん信濃しなのまる」(日本郵船にっぽんゆうせん、6,388トン)に発見はっけんされ、のちに捕獲ほかくされた病院びょういんせんオリョール後身こうしんであるが、短期間たんきかん行動こうどうのち解体かいたいされた[23]

また、貨客船かきゃくせん以外いがいでは、浅野あさの商店しょうてん石油せきゆるいあつかっていた関係かんけいで、「石油せきゆ時代じだい到来とうらい必至ひっし予想よそう[24]」 ていたという浅野あさのタンカー運航うんこう計画けいかく[25]。イギリスから3せきのタンカーを購入こうにゅうするも、外国がいこく資本しほん会社かいしゃとの熾烈しれつ石油せきゆ販売はんばい競争きょうそうや、前述ぜんじゅつ原油げんゆ関税かんぜいげで運航うんこうはかなわず、外国がいこくふね会社かいしゃ傭船ようせんとしてさざるをなかった[26]。そのような結末けつまつまえ三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ建造けんぞうされた「紀洋のりひろまる」は、日本にっぽん建造けんぞうされた最初さいしょ本格ほんかくてきそとこうようタンカーとなるはずであったが、計画けいかく変更へんこうして外観がいかんはタンカーのままながら貨客船かきゃくせん改造かいぞうされ、タンカーにさい改造かいぞうされる1921ねん大正たいしょう10ねん)まで移民いみんせんとして運航うんこうされた[27]

東洋汽船のポスター 会社の建物と船と社長の絵
東洋とうよう汽船きせんポスター 香港ほんこん横浜よこはまのオフィス てんようまる 中央ちゅうおうに S. Asano 社長しゃちょう 

時代じだい明治めいじから大正たいしょううつり、東洋とうよう汽船きせん南米なんべい航路こうろけに「あんひろしまる」を建造けんぞうし、さらにじゅん姉妹しまいせん購入こうにゅうせんわせて5せき体制たいせい航路こうろ維持いじした[28]一方いっぽう東洋とうよう汽船きせんかおうべきサンフランシスコ航路こうろをめぐる環境かんきょうおおきくわっていった。1915ねんアメリカ船員せんいん保護ほごする船員せんいんほう英語えいごばん成立せいりつけて、東洋とうよう汽船きせん提携ていけいしていたパシフィック・メイルしゃは、突如とつじょとしてきた太平洋たいへいよう航路こうろからの撤退てったい表明ひょうめいする[29]。グレート・ノーザン汽船きせん会社かいしゃおなじく1915ねん航路こうろ閉鎖へいさ[18]わっていきかえしたのがカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうけいふね会社かいしゃであるカナダ・パシフィック・ライン英語えいごばん(CPL)であり[30]、パシフィック・メイルしゃ買収ばいしゅうしたグレース・ラインや、中国人ちゅうごくじんによるチャイナ・メイルしゃ参入さんにゅうしてくる[31]。なかでもCPLは、1912ねんに「エンプレス・オブ・ロシア英語えいごばん」(16,810トン)を投入とうにゅう[32]。これに相対そうたいする東洋とうよう汽船きせんは、航路こうろから撤退てったいしたパシフィック・メイルしゃせんだった「コレア」と「サイベリア」、「ペルシャ」を購入こうにゅうして「これやまる」、「さいべりやまる」、「なみ斯丸」とし、船隊せんたい充実じゅうじつはか[28][33]1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせんはじまると、CPLなど外国がいこくせん会社かいしゃ撤収てっしゅうしたためサンフランシスコ航路こうろ乗客じょうきゃくりつ上昇じょうしょう傾向けいこうとなり、これに南米なんべい航路こうろわせた利益りえき空前くうぜんのものとなった[34]だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつには、ドイツからの賠償ばいしょうせんである「カップ・フィニステレ」を取得しゅとくして「大洋たいようまる」とし[35]おな浅野あさの財閥ざいばつ浅野あさの造船ぞうせんしょ建造けんぞうされたストックボート購入こうにゅうして貨物かもつせん充実じゅうじつにもつとめた[28]東洋とうよう汽船きせんではさらに、2まんトンをえる大型おおがたせん建造けんぞう計画けいかくしたが、これは実現じつげんしなかった[36]

この当時とうじ東京とうきょう三田みた浅野あさの屋敷やしきがあり、かねしゃちいただしろ天守閣てんしゅかくのようなじゅん日本にっぽんふう建物たてもの紫雲しうんかくがそびえていた。浅野あさのは、東洋とうよう汽船きせん一等いっとう船室せんしつ外国がいこくじんきゃく全員ぜんいん紫雲しうんかく招待しょうたいして、浅野あさの一族いちぞくむすめ孫娘まごむすめよめなど総勢そうぜい20 - 30にんでもてなした。合計ごうけい13まんにんぐらいの外国がいこくじん招待しょうたいしたので、外国がいこくでは「浅野あさの茶会ちゃかい」として有名ゆうめいだったと浅野あさのは1931ねん著書ちょしょべている[37]

苦難くなん[編集へんしゅう]

しかし、1920年代ねんだいはいると東洋とうよう汽船きせん経営けいえいにはくらかげがつきまとうようになる。経営けいえい航路こうろすう日本郵船にっぽんゆうせん大阪おおさか商船しょうせんくらべて絶対ぜったいてきすくなく、大戦たいせんなど景気けいき後退こうたい時期じきかると途端とたん経営けいえいくるしくなった。新鋭しんえいせん投入とうにゅうもままならず、さらに有力ゆうりょく出資しゅっししゃだった安田やすだ善次郎ぜんじろう1921ねん大正たいしょう10ねん)に朝日あさひ平吾へいご暗殺あんさつされ、1924ねんにアメリカで排日はいにち移民いみんほう成立せいりつ施行しこうされ移民いみんきゃくからの収入しゅうにゅう激減げきげんして、1923ねん大正たいしょう12ねん)からは日本郵船にっぽんゆうせんとの合併がっぺいばなしがるようになった[35]。この合併がっぺいばなしは、いち関東大震災かんとうだいしんさいながれたものの、CPLが「エンプレス・オブ・カナダ」(21,517トン)など2まんトンをえる大型おおがたせん投入とうにゅう[38]ロバート・ダラー英語えいごばんとその一族いちぞくひきいるダラー・ラインがグレース・ラインなどを次々つぎつぎ買収ばいしゅうして会社かいしゃ規模きぼ拡大かくだい、「プレジデント・ハリソン」(10,509トン)など戦時せんじ標準ひょうじゅんせんがりの大型おおがたせん多数たすうそろえてきた太平洋たいへいよう航路こうろ席巻せっけんする[39]。これらのうごきにたいして、新鋭しんえいせん投入とうにゅう執念しゅうねんやす浅野あさのは、大蔵おおくら大臣だいじん井上いのうえ準之助じゅんのすけなどへ新鋭しんえいせん建造けんぞう懇願こんがんするもききいれられず[35]会社かいしゃ無配むはい状態じょうたいとなって株主かぶぬしにこれ以上いじょう負担ふたんをかけるのはこく判断はんだんした浅野あさの[11]、ついに客船きゃくせん部門ぶもん日本郵船にっぽんゆうせん譲渡じょうとすることをめた。このとき浅野あさのは、「愛児あいじうしなうよりつらい」となみだながしたという[40]

1926ねん大正たいしょう15ねん)2がつサンフランシスコ航路こうろ南米なんべい航路こうろとその使用しようせんを「だい東洋とうよう汽船きせん」として分離ぶんり[28][35]いで3がつ11にちだい東洋とうよう汽船きせん日本郵船にっぽんゆうせん合併がっぺいされ、東洋とうよう汽船きせん貨物かもつせん専業せんぎょうふね会社かいしゃとなる。また、自営じえい主義しゅぎから傭船ようせん主義しゅぎ転換てんかんし、所有しょゆうせん山下やました汽船きせん川崎汽船かわさききせんなどへすこととなった[41]。その一方いっぽうではディーゼル機関きかん使用しよう船舶せんぱく導入どうにゅう船舶せんぱく改善かいぜん助成じょせい施設しせつ活用かつようによる船隊せんたい刷新さっしんんだ[41]一連いちれん改善かいぜんさく建造けんぞうされた新鋭しんえい貨物かもつせん系列けいれつ会社かいしゃ東洋とうよう海運かいうんや、三井物産みついぶっさんなどにも傭船ようせんされ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)ごろには大型おおがた中型ちゅうがた新鋭しんえい貨物かもつせん多数たすうそろえるまでになった[42]1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月に太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつすると、東洋とうよう汽船きせん所属しょぞくせんふね会社かいしゃ同様どうよう次々つぎつぎしるしやといされ、また戦時せんじ標準ひょうじゅんせん14せきてられた[43]太平洋戦争たいへいようせんそうでは、かつて東洋とうよう汽船きせんにいた「大洋たいようまる」や「亜米利加あめりかまる」などが沈没ちんぼつしていき、自社じしゃせん壊滅かいめつてき被害ひがいこうむる。終戦しゅうせん東洋とうよう汽船きせんのこった船舶せんぱくはわずかに5せきで、うち1せき終戦しゅうせん直後ちょくごさわかみなり沈没ちんぼつし、のこる4せきのうちのいちせきである「ようまる」は航行こうこう不能ふのう状態じょうたいだった[43]さわかみなり沈没ちんぼつした1せきのぞいた船隊せんたい総トン数そうとんすうは、4せき11,413トンであった[44]

末期まっき[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん財閥ざいばつ解体かいたいおこなわれ、安田やすだ財閥ざいばつけいぞく筆頭ひっとう株主かぶぬし安田やすだ銀行ぎんこうだった東洋とうよう汽船きせんもそのなみまれる[45]。さらに、交付こうふされた政府せいふ補償ほしょうきん保険ほけん填補てんぽきんなど戦時せんじ補償ほしょう債務さいむ戦時せんじ特別とくべつぜいとしてっていかれ、企業きぎょう再建さいけん整備せいびほうによってだい会社かいしゃである東洋とうよう商船しょうせん設立せつりつし、船舶せんぱくなどを東洋とうよう商船しょうせん現物げんぶつ出資しゅっしうえ東洋とうよう汽船きせんはいったん清算せいさんされて解散かいさんすることとなった[46]東洋とうよう商船しょうせんもなく東洋とうよう汽船きせん改名かいめい[11]。そのあいだ残存ざんそん船舶せんぱく改修かいしゅう計画けいかく造船ぞうせんによる新鋭しんえいせん導入どうにゅうをおこなった[43]

その世情せじょういた1955ねん昭和しょうわ30ねんまつごろから日本にっぽん油槽ゆそうせんとの合併がっぺいばなしがり、1960ねん昭和しょうわ35ねん)3がつ31にちかぎりで日本にっぽん油槽ゆそうせん吸収きゅうしゅう合併がっぺいされ消滅しょうめつした[47]。その日本にっぽん油槽ゆそうせん海運かいうん集約しゅうやく日産にっさん汽船きせん合併がっぺいして昭和海運しょうわかいうんとなり[48]昭和海運しょうわかいうん1998ねん平成へいせい10ねん)に日本郵船にっぽんゆうせん吸収きゅうしゅう合併がっぺいされた。

所有しょゆうしていたふね[編集へんしゅう]

ひだりからふねめいトン数とんすう備考びこう基本きほんデータその出典しゅってん#松井まつい(2)pp.138-140 、#三浦みうら#戦時せんじ遭難そうなん#特設とくせつ原簿げんぼによる。また、運航うんこう委託いたくせんのぞく。

貨客船かきゃくせん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽんまる(6,163トン):1897ねん8がつ22にち竣工しゅんこう。1918ねん売却ばいきゃく
  • 香港ほんこんまる(6,159トン):1897ねん7がつ7にち竣工しゅんこう。1914ねん大阪おおさか商船しょうせん売却ばいきゃく。1935ねん解体かいたい[33]
  • 亜米利加あめりかまる(6,307トン):1897ねん9がつ24にち竣工しゅんこう。1911ねん大阪おおさか商船しょうせん売却ばいきゃく。1944ねん3がつ6にち戦没せんぼつ
  • ろひらまる(3,081トン):1880ねん進水しんすい。1900ねん購入こうにゅう。1905ねん売却ばいきゃく
  • ろせったまる(3,502トン):1880ねん進水しんすい。1901ねん購入こうにゅう。1904ねん売却ばいきゃく
  • てんようまる初代しょだい)(13,454トン):1908ねん4がつ22にち竣工しゅんこう。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1933ねん解体かいたい
  • ようまる(13,426トン):1908ねん11月21にち竣工しゅんこう。1916ねん座礁ざしょう沈没ちんぼつ
  • 春洋はるみまる(13,377トン):1911ねん8がつ15にち竣工しゅんこう。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1936ねん解体かいたい
  • なみ斯丸(4,381トン):1881ねん進水しんすい。1915ねん購入こうにゅう。1925ねん解体かいたい
  • これやまる(11,810トン):1901ねん3がつ23にち竣工しゅんこう。1916ねん購入こうにゅう。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1934ねん解体かいたい
  • さいべりやまる(11,790トン):1901ねん10がつ19にち竣工しゅんこう。1916ねん購入こうにゅう。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1935ねん解体かいたい
  • あんひろしまる(9,534トン):1913ねん6がつ3にち竣工しゅんこう。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1943ねん南洋なんよう海運かいうん移籍いせき。1945ねん1がつ8にち戦没せんぼつ
  • せいようまる(6,550トン):1913ねん進水しんすい。1916ねん購入こうにゅう。1925ねん売却ばいきゃく
  • 大洋たいようまる(14,458トン):1911ねん11月18にち竣工しゅんこう。1921ねん委託いたく。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1942ねん5がつ8にち戦没せんぼつ
  • らくようまる(9,419トン):1921ねん5がつ20日はつか竣工しゅんこう。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1943ねん南洋なんよう海運かいうん移籍いせき。1944ねん9がつ12にち戦没せんぼつヒ72船団せんだん
  • ぎんようまる(8,450トン):1921ねん8がつ14にち竣工しゅんこう。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1943ねん12月16にち戦没せんぼつ
  • ぼくひろしまる(8,604トン):1924ねん10がつ15にち竣工しゅんこう。1926ねん日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせき。1939ねん7がつ18にち事故じこ沈没ちんぼつ
  • 紀洋のりひろまる(9,287トン):1910ねん10がつ11にち竣工しゅんこう。1921ねんタンカーに改造かいぞう。1935ねん解体かいたい
  • 武洋たけひろまる(5,238トン):1907ねん進水しんすい。1908ねん購入こうにゅう。1910ねん貨客船かきゃくせん改造かいぞう。1913ねんタンカーに復旧ふっきゅう。1917ねん売却ばいきゃく

貨物かもつせん[編集へんしゅう]

  • 満州まんしゅうまる(5,248トン):1894ねん進水しんすい。1904ねん購入こうにゅう。1912ねん売却ばいきゃく
  • あさようまる(5,455トン):1920ねん5がつ15にち竣工しゅんこう。1936ねん事故じこ沈没ちんぼつ
  • こうようまる(5,471トン):1920ねん7がつ4にち竣工しゅんこう。1944ねん2がつ23にち戦没せんぼつ
  • 明洋あきひろまる(5,435トン):1920ねん9がつ14にち竣工しゅんこう。1929ねん座礁ざしょう沈没ちんぼつ
  • とくようまる(5,450トン):1920ねん11月5にち竣工しゅんこう。1921ねん事故じこ沈没ちんぼつ
  • うららようまる(5,446トン):1920ねん12月27にち竣工しゅんこう。1944ねん2がつ17にち戦没せんぼつトラックとう空襲くうしゅう
  • ともえひろしまる(5,446トン):1921ねん3がつ3にち竣工しゅんこう。1941ねん12月21にち戦没せんぼつ
  • ようまる(5,479トン):1921ねん5がつ20日はつか竣工しゅんこう。1950ねん売却ばいきゃく[43]
  • ぶくようまる(5,463トン):1921ねん6がつ7にち竣工しゅんこう。1944ねん12月7にち戦没せんぼつ
  • 旺洋まる(5,459トン):1921ねん9がつ23にち竣工しゅんこう。1944ねん10がつ20日はつか戦没せんぼつ
  • 寿ことぶきひろしまる(5,458トン):1926ねん4がつ19にち竣工しゅんこう。1944ねん2がつ17にち戦没せんぼつ
  • そうようまる(6,801トン):1931ねん1がつ16にち竣工しゅんこう。1943ねん12月7にち戦没せんぼつ
  • りょうようまる(5,974トン):1931ねん1がつ15にち竣工しゅんこう。1944ねん5がつ2にち戦没せんぼつ
  • 宇洋まる初代しょだい)(7,504トン):1933ねん10がつ3にち竣工しゅんこう。1936ねん東洋とうよう海運かいうん移籍いせき信濃川しなのがわまる)。1942ねん11月14にち戦没せんぼつ
  • にちようまる初代しょだい)(7,509トン):1934ねん3がつ31にち竣工しゅんこう。1936ねん東洋とうよう海運かいうん移籍いせき球磨川くまがわまる)。1945ねん1がつ12にち戦没せんぼつ
  • つきようまる初代しょだい)(7,509トン):1934ねん6がつ4にち竣工しゅんこう。1936ねん東洋とうよう海運かいうん移籍いせき最上川もがみがわまる)。1943ねん7がつ31にち戦没せんぼつ
  • てんようまるだい)(6,843トン):1935ねん3がつ28にち竣工しゅんこう。1942ねん3がつ10日とおか戦没せんぼつ
  • 善洋よしひろまる(6,442トン):1937ねん8がつ16にち竣工しゅんこう。1942ねん8がつ2にち戦没せんぼつ
  • けいようまる(6,442トン):1937ねん11月18にち竣工しゅんこう。1944ねん6がつ12にち戦没せんぼつ
  • 千洋ちひろまる(2,904トン):1937ねん11がつ20日はつか竣工しゅんこう。1942ねん8がつ25にち戦没せんぼつ
  • まんようまる(2,904トン):1937ねん12月24にち竣工しゅんこう。1945ねん3がつ5にち戦没せんぼつ
  • おくようまる(2,904トン):1938ねん2がつ25にち竣工しゅんこう。1944ねん1がつ1にち戦没せんぼつ
  • ふしようまる(4,147トン):1921ねん竣工しゅんこう。1940ねん購入こうにゅう。1942ねん10がつ4にち戦没せんぼつ
  • 和洋わようまる(2,727トン):1941ねん12月22にち竣工しゅんこう。1945ねん3がつ11にち戦没せんぼつ
  • あいようまる(2,746トン):1942ねん1がつ20日はつか竣工しゅんこう。1943ねん3がつ3にち戦没せんぼつビスマルクうみ海戦かいせん
  • むつみようまる(2,727トン):1942ねん2がつ19にち竣工しゅんこう。1944ねん6がつ12にち戦没せんぼつ

タンカー[編集へんしゅう]

  • 紀洋のりひろまる貨客船かきゃくせんこうへ)
  • あいようまる(4,716トン):1906ねん進水しんすい。1908ねん購入こうにゅう。1917ねん売却ばいきゃく
  • 武洋たけひろまる貨客船かきゃくせんこうへ)

戦時せんじ標準ひょうじゅんせん[編集へんしゅう]

  • 宇洋まるだい)(1Aがた)(6,376トン):1942ねん6がつ27にち竣工しゅんこう。1943ねん12月21にち戦没せんぼつ
  • にちようまるだい)(1Aがた)(6,482トン):1943ねん7がつ18にち竣工しゅんこう。1944ねん12月7にち戦没せんぼつごう作戦さくせん
  • つきようまるだい)(1Aがた)(6,441トン):1943ねん8がつ31にち竣工しゅんこう。1944ねん1がつ12にち戦没せんぼつ
  • じんようまる(1Aがた)(6,866トン)[49]:1943ねん12月27にち竣工しゅんこう。1944ねん12月7にち戦没せんぼつ
  • たまようまる(1Kがた)(5,397トン):1943ねん12月31にち竣工しゅんこう。1944ねん11月12にち戦没せんぼつ
  • 忠洋ただひろまる(1Dがた)(1,941トン):1944ねん2がつ7にち竣工しゅんこう。1944ねん3がつ30にち戦没せんぼつ(パラオだい空襲くうしゅう
  • おさむようまる(2Aがた)(6,933トン)[49]:1944ねん3がつ31にち竣工しゅんこう。1944ねん11月23にち戦没せんぼつ
  • だいいち長崎ながさきまる(2Eがた)(903トン):1944ねん3がつ竣工しゅんこう。1953ねん売却ばいきゃく
  • ひろしようまる(2Dがた)(2,220トン):1944ねん10がつ6にち竣工しゅんこう。1945ねん6がつ11にち戦没せんぼつ
  • だい長崎ながさきまる(2Eがた)(873トン):1944ねん10がつ31にち竣工しゅんこう。1945ねん9がつ17にち座礁ざしょう沈没ちんぼつ
  • けんようまる(2Dがた)(2,220トン):1944ねん11月1にち竣工しゅんこう。1945ねん3がつ1にち戦没せんぼつ戦後せんごげ。日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう[50]
  • だいなな長崎ながさきまる(2Eがた)(920トン):1944ねん11月竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう
  • だいさん長崎ながさきまる(2Eがた)(873トン):1944ねん12月14にち竣工しゅんこう。1945ねん3がつ17にち座礁ざしょう沈没ちんぼつ
  • 信洋のぶひろまる(2Aがた)(6,888トン)[49]:1945ねん7がつ6にち竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう

戦後せんご竣工しゅんこうせん[編集へんしゅう]

  • おうぎひろしまる(2,882トン):1948ねん竣工しゅんこう。1954ねん売却ばいきゃく
  • みんようまる(2,004トン):1948ねん竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう
  • 文洋ふみひろまる(4,091トン):1949ねん竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう
  • 昌洋まさひろまる(6,618トン):1951ねん竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう
  • とみようまる(6,629トン):1953ねん竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう
  • たてようまる(8,406トン):1957ねん竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう
  • のべようまる(12,281トン):1958ねん竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう
  • 旭洋きょくようまる(8,418トン):1958ねん竣工しゅんこう日本にっぽん油槽ゆそうせん継承けいしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 仁川にがわ上海しゃんはいウラジオストックへの比較的ひかくてき近距離きんきょり定期ていき航路こうろや、ハワイ豪州ごうしゅう東南とうなんアジア方面ほうめんへの不定期ふていき航路こうろ存在そんざいしていた(#三浦みうらp.70)
  2. ^ 1901ねん6がつ16にちに、「亜米利加あめりかまる」でホノルルから日本にっぽん到着とうちゃく#三浦みうらp.81)
  3. ^ 1900ねん12月、「亜米利加あめりかまる」で横浜よこはまから最低さいてい料金りょうきん乗客じょうきゃくとして渡米とべい#三浦みうらp.81)
  4. ^ 日本にっぽん最初さいしょ竣工しゅんこうした蒸気じょうきタービンせん日本にっぽん鉄道てつどうがイギリスで建造けんぞうさせた青函せいかん連絡れんらくせんもちい比羅夫丸ひらふまる」(1,480トン)であるが、てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん建造けんぞう契約けいやく締結ていけつされた時点じてんでは、日本にっぽんにおいてタービンにかんするあらゆる実績じっせき海軍かいぐん民間みんかんともわせていなかった(#三浦みうらp.95)。
  5. ^ このことあるをしていたかどうかはさだかではないが、ボイラーは「てんようまる」と「ようまる」はこんしょうかん燃料ねんりょう石炭せきたん重油じゅうゆいずれも使用しよう可能かのうなボイラー)を採用さいようしており、おくれて竣工しゅんこうした「春洋はるみまる」は石炭せきたんせんしょうだった(#三浦みうらp.104)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 森川もりかわ英正ひでまさ日本にっぽん財閥ざいばつ教育きょういくしゃ歴史れきし新書しんしょ、1986ねん、pp.81-82.
  2. ^ #証券しょうけん処分しょぶん計画けいかくせきスルけんp.10
  3. ^ a b c #松井まつい(2)p.130
  4. ^ a b c d e f #三浦みうらp.71
  5. ^ a b c d e #三浦みうらp.73
  6. ^ #山高やまたか口絵くちえ
  7. ^ a b c d e f g h #山高やまたかp.114
  8. ^ #航海こうかい奨励しょうれいほう#造船ぞうせん奨励しょうれいほう
  9. ^ a b c #三浦みうらp.70
  10. ^ #山高やまたかpp.171-172
  11. ^ a b c なつかしい日本にっぽん汽船きせん 東洋とうよう汽船きせん株式会社かぶしきがいしゃ”. 長澤ながさわ文雄ふみお. 2011ねん12月30にち閲覧えつらん
  12. ^ #三浦みうらpp.71-73
  13. ^ a b #山高やまたかp.116
  14. ^ #日本にっぽん客船きゃくせん1pp.17-18
  15. ^ a b #松井まつい(2)p.131
  16. ^ #三浦みうらp.96
  17. ^ #三浦みうらpp.93-94
  18. ^ a b c d e #三浦みうらp.95
  19. ^ a b c d #山高やまたかp.126
  20. ^ a b 井東いとうけん鋼管こうかんおう白石しらいし元治郎もとじろうきょうめいかく、1938ねん、pp.138-139.
  21. ^ #山高やまたかp.128
  22. ^ #三浦みうらp.104
  23. ^ #山高やまたかp.108
  24. ^ #松井まつい(2)p.132
  25. ^ #松井まつい(1)p.4
  26. ^ #松井まつい(1)p.5
  27. ^ #松井まつい(2)pp.132-133
  28. ^ a b c d #松井まつい(2)p.133
  29. ^ #三浦みうらpp.115-116
  30. ^ #三浦みうらp.120
  31. ^ #三浦みうらpp.116-118
  32. ^ #三浦みうらpp.121-126
  33. ^ a b #三浦みうらp.132
  34. ^ #三浦みうらp.133,135
  35. ^ a b c d #三浦みうらp.166
  36. ^ #三浦みうらp.135
  37. ^ 浅野あさの総一郎そういちろうちち抱負ほうふ浅野あさの文庫ぶんこ、1931ねん、pp.131-132.
  38. ^ #三浦みうらpp.156-159
  39. ^ #三浦みうらpp.149-151
  40. ^ 帝国ていこく興信所こうしんじょ財閥ざいばつ研究けんきゅうだい1、帝国ていこく興信所こうしんじょ、1929ねん、p.276.
  41. ^ a b #松井まつい(2)p.134
  42. ^ #松井まつい(2)pp.134-136
  43. ^ a b c d #松井まつい(2)p.135
  44. ^ #証券しょうけん処分しょぶん計画けいかくせきスルけんp.17
  45. ^ #証券しょうけん処分しょぶん計画けいかくせきスルけん
  46. ^ #証券しょうけん処分しょぶん計画けいかくせきスルけんpp.17-18
  47. ^ #松井まつい(2)p.136
  48. ^ #松井まつい(2)p.311
  49. ^ a b c なつかしい日本にっぽん汽船きせん 戦時せんじ標準ひょうじゅんがた貨物かもつせんAがた”. 長澤ながさわ文雄ふみお. 2012ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  50. ^ #木俣きまた残存ざんそんpp.259-261

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
    • Ref.A03020216000『署名しょめい原本げんぽん明治めいじじゅうきゅうねん法律ほうりつだいじゅうごう航海こうかい奨励しょうれいほう』。 
    • Ref.A03020216100『署名しょめい原本げんぽん明治めいじじゅうきゅうねん法律ほうりつだいじゅうろくごう造船ぞうせん奨励しょうれいほう』。 
    • Ref.A04030273200『証券しょうけん処分しょぶん計画けいかくせきスルけん』。 
  • 財団ざいだん法人ほうじん海上かいじょう労働ろうどう協会きょうかいへん)『復刻ふっこくばん 日本にっぽん商船しょうせんたい戦時せんじ遭難そうなん財団ざいだん法人ほうじん海上かいじょう労働ろうどう協会きょうかい/成山なりやまどう書店しょてん、2007ねん原著げんちょ1962ねん)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 日本郵船にっぽんゆうせん戦時せんじふね編纂へんさん委員いいんかい日本郵船にっぽんゆうせん戦時せんじふねじょう日本郵船にっぽんゆうせん、1971ねん 
  • 木俣きまたしげるろう写真しゃしんによる 残存ざんそん帝国ていこく艦艇かんてい図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1972ねん 
  • 山高やまたか五郎ごろう図説ずせつ まる船隊せんたい史話しわ(図説ずせつ日本にっぽん海事かいじ史話しわ叢書そうしょ4)』至誠しせいどう、1981ねん 
  • 木津きづ重俊しげとしへん)『世界せかい艦船かんせん別冊べっさつ 日本郵船にっぽんゆうせん船舶せんぱく100ねん海人あましゃ、1984ねんISBN 4-905551-19-6 
  • 野間のまひさし山田やまだ廸生『世界せかい艦船かんせん別冊べっさつ 日本にっぽん客船きゃくせん1 1868~1945海人あましゃ、1991ねんISBN 4-905551-38-2 
  • 三浦みうら昭男あきおきた太平洋たいへいよう定期ていき客船きゃくせん出版しゅっぱん協同きょうどうしゃ、1995ねんISBN 4-87970-051-7 
  • 松井まつい邦夫くにお日本にっぽん油槽ゆそうせん列伝れつでん成山なりやまどう書店しょてん、1995ねんISBN 4-425-31271-6 
  • 野間のまひさし商船しょうせんかた太平洋戦争たいへいようせんそう 商船しょうせん三井みつい戦時せんじふね野間のまひさし私家版しかばん)、2004ねん 
  • 松井まつい邦夫くにお日本にっぽん商船しょうせんふねめいこう海文堂かいぶんどう出版しゅっぱん、2006ねんISBN 4-303-12330-7 
  • はやしひろし作表さくひょう)、戦前せんぜん船舶せんぱく研究けんきゅうかい資料しりょう提供ていきょう)「特設とくせつ艦船かんせん原簿げんぼ/日本にっぽん海軍かいぐん徴用ちょうよう船舶せんぱく原簿げんぼ」『戦前せんぜん船舶せんぱくだい104ごう戦前せんぜん船舶せんぱく研究けんきゅうかい、2004ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]