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ヒ72船団せんだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヒ72船団せんだん

漂流ひょうりゅうちゅう捕虜ほりょ救助きゅうじょするアメリカの潜水せんすいかんシーライオン
ヒ72船団せんだんには2せき捕虜ほりょ輸送ゆそうせんふくまれていた。
戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう
年月日ねんがっぴ1944ねん9月6にち - 9月28にち
場所ばしょシンガポール門司もじあいだ洋上ようじょう
結果けっか:アメリカの勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
かじおか定道さだみち 
細谷ほそや 
トーマス・B・オークリー・ジュニア
戦力せんりょく
輸送ゆそうせん 9
駆逐くちくかん 1, 海防かいぼうかん 7
駆潜艇くせんてい 2
潜水せんすいかん 4
航空機こうくうき 若干じゃっかん
損害そんがい
沈没ちんぼつ
輸送ゆそうせん 4
駆逐くちくかん 1, 海防かいぼうかん 2
損傷そんしょう
輸送ゆそうせん 4, 海防かいぼうかん 1

ヒ72船団せんだん(ヒ72せんだん)は、だい東亜とうあ戦争せんそう後期こうき1944ねん9月にシンガポールから門司もじ航海こうかいした日本にっぽん護送ごそう船団せんだんである。アメリカぐん潜水せんすいかん陸上りくじょう航空機こうくうきによる攻撃こうげきかえけたため、輸送ゆそうせんのほとんどが脱落だつらくし、護衛ごえいかんにもおおきな損害そんがいた。撃沈げきちんされた輸送ゆそうせんには捕虜ほりょ移送いそうちゅうふねが2せきふくまれ、捕虜ほりょ多数たすう遭難そうなんした。

背景はいけい[編集へんしゅう]

ヒ72船団せんだんは、船団せんだんしょうする高速こうそくタンカー専用せんよう建前たてまえとする護送ごそう船団せんだんひとつである。だい東亜とうあ戦争せんそう後半こうはん日本にっぽんは、占領せんりょうにあるオランダりょうひがしインドから石油せきゆ日本にっぽん本土ほんどはこぶため、シンガポール(当時とうじ日本にっぽんがわ呼称こしょう昭南しょうなん)と門司もじあいだでヒ船団せんだん運航うんこうしていた。ヒ船団せんだんは、シンガポールへの往路おうろには奇数きすう門司もじかえ復路ふくろには偶数ぐうすう船団せんだん番号ばんごうされており、ヒ72船団せんだん通算つうさん72番目ばんめ復路ふくろ36番目ばんめ)のヒ船団せんだん意味いみする[注釈ちゅうしゃく 1]

ヒ72船団せんだんは、だい損害そんがいけながらシンガポールに到着とうちゃくしたヒ71船団せんだん復航ふっこう便びんとして編成へんせいされた。もっとも、ヒ71船団せんだんから参加さんかしている輸送ゆそうせんは、シンガポールはつのタンカー2せき・その4せきのうちタンカー1せきだけだった[1]。これらの輸送ゆそうせんは、貨客船かきゃくせん勝鬨かちどきまる」(拿捕だほせん:10509そうトン)にっただい16運航うんこう指揮しきはん運航うんこう指揮しきかん細谷ほそや大佐たいさ)が統括とうかつした[2]他方たほう護衛ごえい部隊ぶたいはヒ71船団せんだんからつづだい6護衛ごえい船団せんだん司令しれい司令しれいかんかじおか定道さだみち少将しょうしょう)が指揮しきしており、旗艦きかん平戸ひらど以下いかかえ参加さんかする海防かいぼうかん3せき新規しんき加入かにゅう海防かいぼうかん1せき以上いじょうだいいち海上かいじょう護衛ごえいたい所属しょぞく)のほか、連合れんごう艦隊かんたい所属しょぞく駆逐くちくかん敷波しきなみ便宜上べんぎじょう同行どうこうして協力きょうりょくしている[1]。また、途中とちゅう南シナ海みなみしなかいうえからは、マニラ部隊ぶたい輸送ゆそうおこなったかえりのマモ03船団せんだん輸送ゆそうせん3せき駆潜艇くせんてい1せき合流ごうりゅうすることになった[注釈ちゅうしゃく 2]

ヒ72船団せんだん参加さんかする輸送ゆそうせんのうち、貨客船かきゃくせん勝鬨かちどきまるらくようまる南洋なんよう海運かいうん:9418トン)の2せき南方みなかた作戦さくせん捕虜ほりょとなったイギリスぐんオーストラリアぐん将兵しょうへいせた、いわゆるヘルシップであった。収容しゅうようされた捕虜ほりょ人数にんずうは、2せき合計ごうけいやく2300にん記録きろくされている[4][注釈ちゅうしゃく 3]当時とうじのアメリカぐんは、この2せき捕虜ほりょせられていることに気付きづいていなかった[6]

アメリカ海軍かいぐんは、通商つうしょう破壊はかい任務にんむおおくの潜水せんすいかん出撃しゅつげきさせ、ウルフパック戦術せんじゅつにより日本にっぽんシーレーンおどかしていた。1944ねん9がつ当時とうじ太平洋たいへいよう方面ほうめん活動かつどうちゅうのアメリカ潜水せんすいかんいちにち平均へいきん27せき若干じゃっかん低調ていちょうだったが[7]、ヒ72船団せんだん進路しんろには、潜水せんすいかんグロウラー艦長かんちょうのトーマス・B・オークリー・ジュニア中佐ちゅうさひきいる熟練じゅくれんしたウルフパックが哨戒しょうかいちゅうであった[1]。さらにアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんかつらりん方面ほうめんなどに航空機こうくうき配備はいびし、台湾たいわん周辺しゅうへん日本にっぽん商船しょうせんおそうようになっていた。日本にっぽんがわ船団せんだんへの潜水せんすいかん攻撃こうげきけるために、水深すいしんあさ潜水せんすいかん行動こうどうむずかしい大陸たいりく沿岸えんがん航行こうこうする戦術せんじゅつをしばしばもちいたがこの戦術せんじゅつぎゃく陸上りくじょうによる被害ひがいけやすくなる難点なんてんもあった[8]

航海こうかい経過けいか[編集へんしゅう]

シンガポールからにれりんまで[編集へんしゅう]

シンガポールに集結しゅうけつしたヒ72船団せんだんは、9月6にち梶岡かじおか少将しょうしょうそう指揮しきした出発しゅっぱつ南シナ海みなみしなかい中央ちゅうおう航路こうろ北上ほくじょうした。マモ03船団せんだん輸送ゆそうせん3せき護衛ごえいかん4せき10日とおかにマニラを出発しゅっぱつし、11にち洋上ようじょう合同ごうどうした。マモ03船団せんだん護衛ごえいかんちゅう3せきはマニラに帰還きかんしたため輸送ゆそうせん9せき護衛ごえいかん6せきとなった船団せんだんは、輸送ゆそうせんを3れつ縦隊じゅうたいならべ、その両側りょうがわ護衛ごえいかん3せきずつを配置はいちした陣形じんけいむと、速力そくりょく10.5ノットたいせん警戒けいかいこれ運動うんどう実施じっししながら進行しんこうした[9]

護衛ごえい任務にんむであったがぎゃく潜水せんすいかんグロウラーにより撃沈げきちんされた駆逐くちくかん敷波しきなみ

9月12にち日付ひづけわったころには船団せんだん潜水艦せんすいかんグロウラーに発見はっけんされていた。日本にっぽんがわてき潜水せんすいかんはっした電波でんぱ受信じゅしん警戒けいかいつよめていたが、グロウラーの接近せっきんにまではづいていなかった。さき攻撃こうげきけたのは旗艦きかん平戸ひらど」で、海南かいなんとう東方とうほう500kmの南シナ海みなみしなかい中央ちゅうおう北緯ほくい1815ふん 東経とうけい11420ふん / 北緯ほくい18.250 東経とうけい114.333 / 18.250; 114.333地点ちてん航行こうこうちゅう、グロウラーのはなった魚雷ぎょらい午前ごぜん155ふん命中めいちゅうした[6]かんはげしい水柱みずばしらつつまれて一瞬いっしゅん沈没ちんぼつしてしまい[10]梶岡かじおか少将しょうしょう戦死せんしした。旗艦きかんうしなった船団せんだん混乱こんらんおちいり、曇天どんてん視界しかい不良ふりょうもあって陣形じんけいさい構築こうちくできないまま航行こうこうするうち[11]、12にち夜明よあけごろに今度こんどはグロウラーのびだしたシーライオン攻撃こうげきけた[6]。まず、午前ごぜん527ふん海軍かいぐん徴用ちょうよう貨物かもつせん南海なんかいまる大阪おおさか商船しょうせん:8416そうトン)が魚雷ぎょらい2はつ被弾ひだん積荷つみにドラム缶どらむかんはい航空こうくうようガソリン引火いんか炎上えんじょうし、自衛じえいよう爆雷ばくらい誘爆ゆうばくこしつつ3あいだ沈没ちんぼつした[注釈ちゅうしゃく 4]南海なんかいまるかみなりの4ふんにはらくようまるにも魚雷ぎょらい命中めいちゅうし、航行こうこう不能ふのうおちいって13あいだ沈没ちんぼつした。日本にっぽん護衛ごえい部隊ぶたい反撃はんげきこころみたが、ぎゃく駆逐くちくかん敷波しきなみまでがグロウラーの雷撃らいげきにより撃沈げきちんされてしまった[6]

相次あいつ損害そんがいにヒ72船団せんだん針路しんろえることでてきあざむこうとし、海南かいなんとうさんかった[14]。しかし、グロウラーのウルフパックをることはできず、午後ごご1054ふんごろさん東方とうほう300kmにおいてパンパニト魚雷ぎょらい攻撃こうげきけた[6]指揮しきせん勝鬨かちどきまると、タンカーの瑞鳳ずいほうまる飯野海運いいのかいうん:5135そうトン)が同時どうじかみなりし、いずれも沈没ちんぼつした[10]勝鬨かちどきまる乗船じょうせん細谷ほそや大佐たいさふく多数たすう死亡しぼうしている[14]のこったふねはバラバラのまま、一部いちぶ救助きゅうじょ活動かつどうおこないつつよく13にちになんとかさんんだ。このあいだ護衛ごえい部隊ぶたいはマニラから急派きゅうはされた海防かいぼうかん3せきくわわって、さん遭難そうなん現場げんば往復おうふくしながら救助きゅうじょ活動かつどうおこなっている[15]

にれりんから門司もじまで[編集へんしゅう]

さんちかくのにれはやしこうさい編成へんせいおこなった船団せんだんは、低速ていそく1TMがた戦時せんじ標準ひょうじゅんタンカー新潮しんちょうまる分離ぶんりすることにし、2分団ぶんだん編制へんせいで16にちよる出航しゅっこうした。低速ていそくだい2ふんだんは、天候てんこう悪化あっかもあってたちまちはなされた[1]だい2ふんだんは、21にち午前ごぜん2ごろ高雄たかお西方せいほう80kmまでたどりいたもののアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん所属しょぞくB-24爆撃ばくげき夜間やかん空襲くうしゅう[6]新潮しんちょうまる被弾ひだんした。航行こうこう不能ふのうおちいった新潮しんちょうまる近在きんざいのヒ74船団せんだんから救助きゅうじょけただい21ごう海防かいぼうかん曳航えいこうされ、高雄たかおへと入港にゅうこうした。

一方いっぽう先行せんこうしただい1ふんだん無事ぶじではまなかった。だい2ふんだんよりやく1にちまえ20日はつか午前ごぜん1ごろ澎湖諸島しょとうみなみ55km付近ふきんにおいてやはりB-24爆撃ばくげき夜間やかん空襲くうしゅうつかまり、もと特設とくせつ巡洋艦じゅんようかん海軍かいぐん運送うんそうせん浅香あさかまる護国ごこくまる直撃ちょくげきだん至近しきんだんびて航行こうこう不能ふのうもと特設とくせつ水上すいじょう母艦ぼかんこうひさしまる損傷そんしょうした。護衛ごえい部隊ぶたいでも海防かいぼうかん御蔵おぐら直撃ちょくげきだん1はつ不発ふはつ)・至近しきんだん3はつけてちゅうやぶ航行こうこう不能ふのうとなっている[16]航行こうこう不能ふのうとなった輸送ゆそうせん2せきは、うま公方くぼうめん特別とくべつ根拠地こんきょちたい支援しえんけつつ、うまこうまで曳航えいこうされた。御蔵おぐらは3日間にちかん消息しょうそく不明ふめいとなって漂流ひょうりゅうつづけたのち、ようやく友軍ゆうぐん航空機こうくうき発見はっけんされて25にちうまこう曳航えいこうされている[16]

ぼろぼろとなっただい1ふんだんもとたかし態勢たいせいなおし、唯一ゆいいつ無傷むきず吉備津きびつまる高雄たかお応急おうきゅう修理しゅうりをしたこうひさまるそろえて25にち海防かいぼうかん3せき護衛ごえい出港しゅっこうした。しかし27にち今度こんどはアメリカの潜水せんすいかんプライスからおそわれ、だい10ごう海防かいぼうかんがプライスの魚雷ぎょらい攻撃こうげき撃沈げきちんされた[6]残存ざんそんせん船団せんだんいてぜんそく航行こうこううつり、よく28にち以降いこう各個かっこ門司もじすべむことができた[10]

結果けっか[編集へんしゅう]

救命胴衣きゅうめいどういけ、救命きゅうめいいかだにつかまって漂流ひょうりゅうちゅうらくようまるから脱出だっしゅつした捕虜ほりょ救助きゅうじょ作業さぎょうにあたったアメリカ潜水せんすいかんクイーンフィッシュ乗員じょういんによる撮影さつえい

ヒ72船団せんだん航海こうかいだい失敗しっぱいわり、輸送ゆそうちゅう重要じゅうよう天然てんねん資源しげんおおくは日本にっぽんとどかなかった。うみぼっした物資ぶっしだけでボーキサイト12500トン以上いじょう石油せきゆ12000トン以上いじょうなどになる。貴重きちょう艦船かんせん喪失そうしつ痛手いたでとなった。

また、捕虜ほりょ輸送ゆそうせん2せき沈没ちんぼつしたことで、正確せいかく人数にんずう不明ふめいながら相当そうとう犠牲ぎせいしゃ捕虜ほりょから結果けっかとなった。勝鬨かちどきまるでは捕虜ほりょ950にん負傷ふしょうへい船員せんいん船舶せんぱく砲兵ほうへい日本人にっぽんじん1095にんとともにっていたうち、当時とうじ日本にっぽんがわ記録きろくによると日本人にっぽんじんわせて487にんが「死亡しぼう」となっている[4][10][5]。「らくようまる」には捕虜ほりょ1317にん日本人にっぽんじん便乗びんじょうしゃ105にんとともにせられていたが、船員せんいん9にん陸軍りくぐん関係かんけいしゃ3にん戦死せんししたことはわかる一方いっぽうで、捕虜ほりょ犠牲ぎせいしゃすう不明ふめいである[4][5]。なお、つぎべるようにアメリカ潜水せんすいかんによる救助きゅうじょ活動かつどうおこなわれており、日本にっぽんがわ記録きろく死亡しぼうあつかいとなった捕虜ほりょ一部いちぶ救助きゅうじょされている。

戦闘せんとう、9月15にちになって戦闘せんとう地点ちてんもどったアメリカの潜水せんすいかんパンパニトも多数たすう捕虜ほりょ漂流ひょうりゅうしているのを発見はっけんした。パンパニトとシーライオンの2せきは、らくようまるっていたイギリスへい73にんとオーストラリアへい54にん救助きゅうじょした[6]。また、クイーンフィッシュバーブけつけ、けい32にん救助きゅうじょした。これらの救助きゅうじょ活動かつどう日本にっぽん捕虜ほりょ輸送ゆそうかんするアメリカの文献ぶんけんでしばしばげられる事例じれいとなっている[5]

捕虜ほりょ泰緬鉄道たいめんてつどう建設けんせつ生存せいぞんしゃであり、これにより泰緬鉄道たいめんてつどうにおける捕虜ほりょ使役しえき実態じったい連合れんごうこくがわ露見ろけんすることとなり、スイス公使こうしつうじて抗議こうぎ声明せいめい日本にっぽんがわとどけられた[17]

また、14にちあさには救助きゅうじょしゃ捜索そうさくちゅうだい10ごう海防かいぼうかん(海防かいぼう艦長かんちょう:一ノ瀬いちのせ志朗しろう少佐しょうさ)がらくようまる生存せいぞん捕虜ほりょごうぐんのローランド・リチャーズ軍医ぐんい大尉たいいたち157めいった4せき救命きゅうめいボートを発見はっけんかん停止ていししてかれらを救助きゅうじょしている[注釈ちゅうしゃく 5]

また、新潮しんちょうまる高雄たかお到着とうちゃく損傷そんしょうはげしかったため、1945ねん(昭和しょうわ20ねん)1がつ18にち空襲くうしゅうけて戦没せんぼつするまで同地どうちまりつづけ、浮揚ふようのち4がつ15にち高雄たかお港口こうこううみぼつ処分しょぶんとなった。

かつらりんやなぎしゅうつくられたアメリカぐん飛行場ひこうじょう大陸たいりくどおり作戦さくせん/トごう作戦さくせんにより制圧せいあつされた。

編制へんせい[編集へんしゅう]

シンガポール・にれ林間りんかん編制へんせい[編集へんしゅう]

にれりん門司もじあいだ編制へんせい[編集へんしゅう]

  • だい1ふんだん
    • 輸送ゆそうせん - 貨物かもつせん浅香あさかまる旗艦きかん)、どうこうひさまる貨客船かきゃくせん護国ごこくまる陸軍りくぐん特殊とくしゅせん吉備きび津丸つまる
    • 護衛ごえいかん[19]
      • もとたかしまで - 海防かいぼうかん御蔵おぐらだい10ごう海防かいぼうかんだい11ごう海防かいぼうかんだい18ごう海防かいぼうかんだい20ごう海防かいぼうかん[注釈ちゅうしゃく 7]
      • もとたかし以降いこう - だい10ごう海防かいぼうかんだい11ごう海防かいぼうかんだい20ごう海防かいぼうかん
  • だい2ふんだん
    • 輸送ゆそうせん - タンカー新潮しんちょうまる
    • 護衛ごえいかん - だい19ごう駆潜艇くせんてい特設とくせつ駆潜艇くせんていひらき南丸みなみまる[19]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ヒ20船団せんだんなど欠航けっこうとなった便びんがあるため、実際じっさい運航うんこうじゅん通算つうさん72番目ばんめ復路ふくろ36番目ばんめではない。
  2. ^ マモ03船団せんだん輸送ゆそうせん3せき往路おうろはヒ73船団せんだん一部いちぶとして門司もじからマニラに到着とうちゃくしたもので、うち吉備津きびつまるはヒ71船団せんだんから故障こしょう脱落だつらくしてヒ73船団せんだんまれたという経緯けいいだった[3]
  3. ^ 一部いちぶ日本にっぽん以外いがい文献ぶんけんではらくようまるだけで2000にん以上いじょう主張しゅちょうしている[5]
  4. ^ 南海なんかいまるでは乗員じょういん138にん便乗びんじょうちゅう輸送ゆそう人員じんいん525にんっていたうち、乗員じょういん13にん便乗びんじょうしゃ183にん戦死せんしした[12]。ボーキサイト6500トン・航空こうくうようガソリン4000かんひまし170トンなど搭載とうさい物資ぶっし7406トンはぜんそん[13]
  5. ^ その山形やまがたけん酒田さかた捕虜ほりょ収容しゅうようしょ終戦しゅうせんむかえ、帰国きこく産業さんぎょう、スポーツとして活躍かつやくしたリチャード軍医ぐんいは、べい潜水せんすいかん物顔ものがお猛威もういるっていた危険きけん海域かいいきで、危険きけんをもかえりみず、かん停止ていしして救助きゅうじょしてくれた日本にっぽん海防かいぼうかん艦長かんちょう家族かぞくにおれいいたいので、是非ぜひさがしてしいとPOW研究けんきゅうかい依頼いらいし、どう研究けんきゅうかい読売新聞社よみうりしんぶんしゃ依頼いらいして一ノ瀬いちのせ志朗しろう艦長かんちょう消息しょうそくさがしたが、つかることはなかった。
  6. ^ 南海なんかいまる戦闘せんとう詳報しょうほう』ではだい19ごうせん特務とくむていとなっている[9]
  7. ^ こまみや(1987ねん)では海防かいぼうかん択捉えとろふだい26ごう海防かいぼうかんがり、わりにだい20ごう海防かいぼうかんがいない[10]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d いわじゅう(2011ねん、91ぺーじ
  2. ^ 南海なんかいまる戦闘せんとう詳報しょうほう画像がぞう42まい
  3. ^ こまみや(1987ねん、225・238-239ぺーじ
  4. ^ a b c 陸軍りくぐん運輸うんゆ残務ざんむ整理せいり船舶せんぱく輸送ゆそうあいだにおける遭難そうなん部隊ぶたい資料しりょう陸軍りくぐん)』 JACAR Ref.C08050112500、画像がぞう62まい
  5. ^ a b c d いわじゅう(2011ねん、62ぺーじ
  6. ^ a b c d e f g h The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  7. ^ 大井おおい(2001ねん、428-429ぺーじ
  8. ^ 大井おおい(2001ねん、324ぺーじ
  9. ^ a b 南海なんかいまる戦闘せんとう詳報しょうほう画像がぞう44-46まい
  10. ^ a b c d e こまみや(1987ねん、247-248ぺーじ
  11. ^ 南海なんかいまる戦闘せんとう詳報しょうほう画像がぞう48まい
  12. ^ 南海なんかいまる戦闘せんとう詳報しょうほう画像がぞう51まい
  13. ^ 南海なんかいまる戦闘せんとう詳報しょうほう画像がぞう43まい
  14. ^ a b だいいち海上かいじょう護衛ごえいたい戦時せんじ日誌にっし画像がぞう12-13まい
  15. ^ だいいち海上かいじょう護衛ごえいたい戦時せんじ日誌にっし画像がぞう24・28まい
  16. ^ a b だいいち海上かいじょう護衛ごえいたい戦時せんじ日誌にっし画像がぞう7まい
  17. ^ 吉川よしかわ利治としはる泰緬鉄道たいめんてつどう同文どうぶんかん出版しゅっぱん 1994ねん p104
  18. ^ だいいち海上かいじょう護衛ごえいたい戦時せんじ日誌にっし画像がぞう23・27まい
  19. ^ a b だいいち海上かいじょう護衛ごえいたい戦時せんじ日誌にっし画像がぞう45まい

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • いわじゅう多四郎たしろう戦時せんじ輸送ゆそうせんビジュアルガイド2‐まる船隊せんたいギャラリー』だい日本にっぽん絵画かいが、2011ねん 
  • 大井おおいあつし海上かいじょう護衛ごえいせん学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ学研がっけんM文庫ぶんこ〉、2001ねん 
  • こまみやしんななろう戦時せんじ輸送ゆそう船団せんだん出版しゅっぱん協同きょうどうしゃ、1987ねん 
  • 吉川よしかわ利治としはる泰緬鉄道たいめんてつどう同文どうぶんかん出版しゅっぱん、1994ねん 
  • だいいち海上かいじょう護衛ごえいたい司令しれい昭和しょうわじゅうきゅうねんきゅうがついちにち いたり昭和しょうわじゅうきゅうねんきゅうがつさんじゅうにち だいいち海上かいじょう護衛ごえいたい戦時せんじ日誌にっし防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ図書館としょかんぞうアジア歴史れきし資料しりょうセンター(JACAR) Ref.C08030141500。 
  • 特設とくせつ運送うんそうせん 南海なんかいまる特設とくせつ運送うんそうせん南海なんかいまる戦闘せんとう詳報しょうほう昭和しょうわじゅうきゅうねんきゅうがつじゅうにちみなみささえうみけるたい潜水せんすいかんせん同上どうじょう JACAR Ref.C08030671000。