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大井おおいあつし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
大井おおい あつし
1952ねん
生誕せいたん 1902ねん12月11にち
日本の旗 日本にっぽん 山形やまがたけん鶴岡つるおかげん
死没しぼつ (1994-12-27) 1994ねん12月27にち(92さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1924ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大佐たいさ
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大井おおい あつし(おおい あつし、1902ねん明治めいじ35ねん12月11にち - 1994ねん平成へいせい6ねん12月27にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海兵かいへい51うみだい34最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大佐たいさ

だい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう海上かいじょう護衛ごえいそう司令しれい参謀さんぼうつとめ、戦後せんごに『海上かいじょう護衛ごえいせん』(日本にっぽん出版しゅっぱん共同きょうどう1953ねん)を上梓じょうししたことでられる[1]

経歴けいれき

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1902ねん明治めいじ35ねん12月11にち医師いし二男じなんとして山形やまがたけん鶴岡つるおかげん)にまれる[2]荘内そうない中学校ちゅうがっこうげん山形やまがた県立けんりつ鶴岡つるおかみなみ高等こうとう学校がっこう)をて、1920ねん大正たいしょう9ねん)8がつ26にち海軍兵学校かいぐんへいがっこう入校にゅうこうし、1923ねん大正たいしょう12ねん)7がつ14にち卒業そつぎょうした(へい51)。入校にゅうこう席次せきじは11/293めい卒業そつぎょう席次せきじは9/255めいへい51同期生どうきせいにはといはしひさし利雄としお首席しゅせき)、小園こぞのやすしめい山本やまもと祐二ゆうじ実松さねまつゆずる工藤くどう俊作しゅんさくらがいる。

海軍かいぐん少尉しょうい候補こうほせいとして練習れんしゅうかん浅間あさま」に乗組のりくみ8がつ26にち近海きんかい航海こうかい出発しゅっぱつ11月6にち帰着きちゃく11月7にち練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい出発しゅっぱつ上海しゃんはいマニラシンガポールバタヴィアフリーマントルメルボルンホバートシドニーウェリントンオークランドヌーメアラバウルトラックパラオサイパン方面ほうめん巡航じゅんこう)。1924ねん大正たいしょう13ねん4がつ5にち帰着きちゃく12月1にち海軍かいぐん少尉しょうい任官にんかん

1926ねん大正たいしょう15ねん12月1にち海軍かいぐん中尉ちゅうい進級しんきゅう1928ねん昭和しょうわ3ねん4がつ1にち海軍かいぐんだい学校がっこう専攻せんこう東京とうきょう外国がいこく学校がっこう英語えいご海軍かいぐん委託いたく派遣はけん学生がくせい。12月1にち海軍かいぐん大尉たいい進級しんきゅう1930ねん昭和しょうわ5ねん3月31にち東京とうきょう外国がいこく学校がっこう英語えいご修了しゅうりょう12月18にちヴァージニア大学だいがくノースウェスタン大学だいがくへアメリカ語学ごがく学生がくせい留学りゅうがく1932ねん昭和しょうわ7ねん1がつ30にちざいアメリカ日本にっぽん大使館たいしかん海軍かいぐん武官ぶかん出張しゅっちょう6月18にち帰朝きちょう6月25にち戦艦せんかん日向ひなた分隊ぶんたいちょう。12月1にち海軍かいぐんしょう軍令ぐんれいだい3はんだい51933ねん昭和しょうわ8ねん1がつ29にち戦艦せんかん扶桑ふそう分隊ぶんたいちょう1934ねん昭和しょうわ9ねん5月14にち軍令ぐんれいだい5

1934ねん11月1にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅだい34学生がくせい日本にっぽん講話こうわ平泉ひらいずみきよしに「先生せんせい歴史れきしじょう人物じんぶつぶのに楠木くすのき正成まさしげは『正成まさしげおおやけ』とび、足利尊氏あしかがたかうじてにして宮方みやかた足利あしかがかたをつけていますが、そういうのはおかしいのではないですか」と発言はつげんした。また大井おおい教官きょうかん理屈りくついくるめるような不穏当ふおんとう発言はつげんおおいとの理由りゆう学生がくせいめんぜられそうになったが、うみ大同だいどう甲種こうしゅ学生がくせい協力きょうりょくもあって退学たいがくまぬかれたという。大井おおいうみだい戦略せんりゃく講義こうぎ不満ふまんだったが、井上いのうえ成美まさみ教官きょうかん時代じだいいた戦略せんりゃくテキストをみ「むねがスッとするような文献ぶんけんつけた」とよろこんだという。井上いのうえのことは花岡はなおか雄二ゆうじ海兵かいへい同期どうき)から「井上いのうえ艦長かんちょう貴様きさま絶対ぜったいウマがう。尊敬そんけいするかもしれんぞ」となんいていたという。11月26にち海軍かいぐん少佐しょうさ進級しんきゅう1936ねん昭和しょうわ11ねん11月11にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅを30めいちゅう3ばん成績せいせき卒業そつぎょう。12月1にちだい3艦隊かんたい司令しれい参謀さんぼう1937ねん昭和しょうわ12ねん1がつ22にちだい14戦隊せんたい先任せんにん参謀さんぼう

1937ねん3月11にち海軍かいぐん軍令ぐんれいだい1イギリス担当たんとう主務しゅむ部員ぶいんにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつたい大井おおい留学りゅうがく経験けいけんからイギリスをてきまわすのは愚策ぐさくであるという見解けんかいち、陸軍りくぐん外務省がいむしょう官僚かんりょう連絡れんらくかいひら意見いけん交換こうかんをしていた。さけせき白鳥しらとり敏夫としおかつ若手わかて官僚かんりょう白鳥はくちょうたたえるうたうたしたところ、大井おおいは「あんたらそれでも国士こくしのつもりか。白鳥しらとりさんがなにだ」とってかかり、相手あいても「なにだとこの海軍かいぐん腰抜こしぬけが」と乱闘らんとうこるような雰囲気ふんいきになったが、同席どうせきしていた吉田よしだ英三えいぞう海軍かいぐん中佐ちゅうさ大井おおいされたという。直属ちょくぞく上司じょうしもドイツ贔屓びいきであったため毎日まいにち議論ぎろんしたという。軍令ぐんれい次長じちょう古賀こがみねいち経由けいゆでそれをった海軍かいぐん大臣だいじん米内よない光政みつまさからイギリス事情じじょうきたいとばれ、大井おおい軍令ぐんれい空気くうきかたったという。

1939ねん昭和しょうわ14ねん)12月1にちだい2ささえ艦隊かんたい艦隊かんたい作戦さくせん参謀さんぼう。また、ふつしるし進駐しんちゅうさい海軍かいぐんがわりく交渉こうしょうしたが佐藤さとうけんりょう陸軍りくぐん中佐ちゅうさらは北部ほくぶふつしるし進駐しんちゅうした。

1940ねん昭和しょうわ15ねん11月30にち海軍かいぐんしょう軍務ぐんむきょく調査ちょうさ

太平洋戦争たいへいようせんそう

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人事じんじきょく

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1941ねん昭和しょうわ16ねん11月16にち海軍かいぐんしょう人事じんじきょくだい1先任せんにん局員きょくいん[3]大井おおい当時とうじ担当たんとう参謀さんぼうとして、人事じんじきょく予備よび士官しかん海防かいぼうかんやその護衛ごえい艦艇かんていちょうとしての教育きょういくおこなわなかったことで、戦争せんそうすすむにつれ護衛ごえいたい幹部かんぶ予備よび士官しかん増大ぞうだいし、ちゅう下級かきゅう予備よび将校しょうこう不足ふそく召集しょうしゅう余地よちがなくなったことにかんして「海軍かいぐん部隊ぶたい急増きゅうぞう欠陥けっかん暴露ばくろした」と反省はんせいしている[4]

また、のち実現じつげんした徴兵ちょうへい適齢てきれい低下ていか朝鮮ちょうせんじん台湾たいわんじん人員じんいん取得しゅとく発案はつあんしたのは大井おおいであった。大井おおいによれば、「陸軍りくぐんでは造船ぞうせんこう召集しょうしゅう提案ていあんしたことがあった。かかることはとんでもないことで、それよりも学徒がくと動員どういんその早期そうき断行だんこうすべきである。それは国民こくみんたいおおきな衝撃しょうげきあたえるが、衝撃しょうげきはや時機じきあたえ、ようすればから緩和かんわするほうがよい。最初さいしょおもった施策しさく施行しこうすべきである」とかんがえ、海軍かいぐんはこれを主張しゅちょうした。[よう出典しゅってん]学徒がくと動員どういん問題もんだいなどは1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつごろ海軍かいぐんから提案ていあんして閣議かくぎ検討けんとうされたが厚生こうせい大臣だいじん小泉こいずみちかし反対はんたいがあって当時とうじ実現じつげんできなかった」という[5]大井おおいらによって予備よび学生がくせい制度せいど提案ていあんされてのち実現じつげんされている[6]

1941ねん12月、太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ1943ねん昭和しょうわ18ねん3月1にちだい21特別とくべつ根拠地こんきょちたい参謀さんぼう7がつ1にち軍令ぐんれいだい1部員ぶいん[2]

海上かいじょう護衛ごえいそう司令しれい

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1943ねん11月1にち海上かいじょう護衛ごえいそう司令しれい同日どうじつづけ新設しんせつ参謀さんぼう1944ねん昭和しょうわ19ねん5月1にち海軍かいぐん大佐たいさ進級しんきゅう。1944ねん10がつ25にちけん 連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼう[3]海上かいじょう護衛ごえい一定いってい海域かいいき輸送ゆそうせん移動いどうさせる航路こうろたい戦法せんぽう採用さいようされたが、大井おおいはこれにたいし、航路こうろたい沿って終始しゅうし哨戒しょうかいしてくれる兵力へいりょくがないと効果こうかがないことから賛同さんどうしなかったという[7]

1945ねん4がつ戦艦せんかん大和やまと沖縄おきなわ特攻とっこう作戦さくせん栄光えいこうある水上すいじょう部隊ぶたい最後さいごかざるために護衛ごえい艦隊かんたい重油じゅうゆをカットするという報告ほうこく電話でんわけたさいに、「くにをあげての戦争せんそうに、水上みずかみ部隊ぶたい伝統でんとうなにだ。水上すいじょう部隊ぶたい栄光えいこうなにだ。馬鹿ばか野郎やろう[8]受話器じゅわき怒鳴どなりつけた、と回想かいそうしている[8]戦後せんご上梓じょうしした『海上かいじょう護衛ごえいせん』では「貧乏人びんぼうにん日本にっぽん)のむすめが、身分みぶん不相応ふそうおう振袖ふりそで大和やまと武蔵むさし)をったばかりに、姿すがた披露ひろうしたくて卒業そつぎょう試験しけん前日ぜんじつ帝国ていこく劇場げきじょうき、あんじょう落第らくだいしてしまった。そんな振袖ふりそでほうかったのだ(要約ようやく」というむねしるしている[9]

戦後せんご海上かいじょう護衛ごえいせん失敗しっぱい被害ひがいらそうとした海上かいじょう護衛ごえいそう司令しれい設立せつりつ効果こうかがなく、1944ねん10がつをピークにその輸送ゆそうするふねくなった[10])にかんして、大井おおいシーレーン確保かくほ通商つうしょう破壊はかい対策たいさくについて当時とうじ帝国ていこく海軍かいぐん軽視けいししたことによる戦力せんりょく不足ふそくにあったとまとめている[11]。しかし、当時とうじのアメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたい潜水せんすいかん部隊ぶたい司令しれいかんチャールズ・A・ロックウッド中将ちゅうじょうは、日本にっぽん輸送ゆそう船団せんだんによる定期ていきてき暗号あんごう通信つうしん傍受ぼうじゅすることで潜水せんすいかん作戦さくせん成功せいこうおおきな役割やくわりたしたとはなしている[12]。また、海上かいじょう護衛ごえい指導しどうした日本にっぽん幕僚ばくりょう広大こうだい太平洋たいへいよう幸運こううんこう判断はんだんだけで撃沈げきちんされているとかんがえ、通信つうしん情報じょうほうなしにそのような撃沈げきちん結果けっかすにはアメリカの資源しげんでもまかなえないほどの潜水せんすいかん必要ひつようであるという計算けいさんをしなかったことにたいして批判ひはんもある[13]

1945ねん8がつ15にち終戦しゅうせん大井おおいによれば、8がつ17にち軍令ぐんれいしば勝男かつお大佐たいさから「大井おおいくん、まだ日本にっぽんけとらん」とわれ「天皇てんのう陛下へいか詔勅しょうちょくされたではないか」といいかえすと、しばが「あいつは臆病おくびょうだったが我々われわれうえには大元帥だいげんすい陛下へいかがいるんだ」とったため、大井おおいは「ちがう。大元帥だいげんすい陛下へいか天皇陛下てんのうへいかもとだ」といいかえしたという[14]

GHQ歴史れきし嘱託しょくたくとして連合れんごうこくがわから戦犯せんぱん容疑ようぎしゃ尋問じんもんおこなう。公職こうしょく追放ついほう[15]高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう日記にっき編纂へんさん委員いいんつとめた。のち、NHKスペシャルドキュメント太平洋戦争たいへいようせんそう』に協力きょうりょくしている。1994ねん平成へいせい6ねん)12月27にち、92さいぼっした。

年譜ねんぷ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ つつみ明夫あきおうみしょうもと 防衛大学校ぼうえいだいがくこう教授きょうじゅ) (2011ねん3がつ20日はつか). “大井おおいあつし海上かいじょう護衛ごえい参考さんこうしょ”. さくらいかりままなブログ. 2023ねん4がつ8にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん4がつ8にち閲覧えつらん
  2. ^ a b はた 2005, p. 191, だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき海軍かいぐん大井おおいあつし
  3. ^ a b 外山とやま陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ海軍かいぐんへん芙蓉ふようp233
  4. ^ 戦史せんし叢書そうしょ46かん海上かいじょう護衛ごえいせんp34-37
  5. ^ 日本にっぽん海軍かいぐん航空こうくう2戦備せんび時事通信社じじつうしんしゃ1009-1010ぺーじ
  6. ^ 中山なかやま定義さだよしいち海軍かいぐん士官しかん回想かいそう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1981ねん 169ぺーじ
  7. ^ 大井おおいあつし海上かいじょう護衛ごえいせん朝日あさひソノラマ169ぺーじ
  8. ^ a b 海上かいじょう護衛ごえいせん朝日あさひソノラマ文庫ぶんこばん、345ぺーじ
  9. ^ 海上かいじょう護衛ごえいせん朝日あさひソノラマ文庫ぶんこばん、251ぺーじ
  10. ^ 戦史せんし叢書そうしょ45かん 大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(6)だいさんだん作戦さくせん後期こうきp583-584
  11. ^ 太平洋戦争たいへいようせんそう 日本にっぽん敗因はいいん〈1〉日米にちべい開戦かいせん 勝算しょうさんなし 』角川かどかわ文庫ぶんこp85-86
  12. ^ ジョン・ウィンストン『米国べいこく諜報ちょうほう文書ぶんしょウルトラin the パシフィック』光人みつひとしゃp266-267
  13. ^ ジョン・ウィンストン『米国べいこく諜報ちょうほう文書ぶんしょウルトラin the パシフィック』光人みつひとしゃp274
  14. ^ 阿川あがわ弘之ひろゆき半藤はんどう一利かずとし日本にっぽん海軍かいぐんいかりあげゲ!』PHP研究所けんきゅうじょp84-85
  15. ^ 総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさ へん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん62ぺーじNDLJP:1276156 

著作ちょさく

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  • 海上かいじょう護衛ごえいせんろくはん角川かどかわ文庫ぶんこ、2014ねんISBN 4-04-101598-7ISBN 978-4-04-101598-8
    • 初刊しょかんばん日本にっぽん出版しゅっぱん共同きょうどう株式会社かぶしきがいしゃ、1953ねん
    • 再版さいはん改題かいだい海上かいじょう護衛ごえい参謀さんぼう回想かいそうはら書房しょぼう、1975ねん
    • さんはん朝日あさひソノラマ 文庫ぶんこばん航空こうくう戦史せんしシリーズ24、『海上かいじょう護衛ごえいせん』にふくだい、1983ねん
    • よんはん朝日あさひソノラマ 新装しんそうばん戦記せんき文庫ぶんこ7、1992ねん
    • はん学研がっけんM文庫ぶんこ、2001ねんISBN 4-05-901040-5 C0121
  • 統帥とうすいみだれて 北部ほくぶふつしるし進駐しんちゅう事件じけん回想かいそう 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1984ねんISBN 4-620-30443-3 C0020
  • かたりつぐ昭和しょうわ(2) 終戦しゅうせん外交がいこう無条件むじょうけん降伏ごうぶくまでの経緯けいい 朝日新聞社あさひしんぶんしゃISBN 4-02-260609-6 C0121
  • 新見にいみ政一まさかずだい世界せかい大戦たいせん戦争せんそう指導しどう』(はら書房しょぼう、1984ねん)。序文じょぶん
  • 日本にっぽん海軍かいぐん良識りょうしき 提督ていとく 新見にいみ政一まさかず 自伝じでん追想ついそう はら書房しょぼう、1995ねん)。巻末かんまつ解説かいせつ大井おおい絶筆ぜっぴつ ISBN 4-562-02696-0 C0021
  • 宇宙うちゅう兵器へいき国際こくさい政治せいじ 自由じゆう陣営じんえい戦略せんりゃく体勢たいせい 日本にっぽん国際こくさい政治せいじ学会がっかいへん有斐閣ゆうひかく
  • 証言しょうげん記録きろく太平洋戦争たいへいようせんそう 戦争せんそう指導しどうへん 米国べいこく戦略せんりゃくばくげき調査ちょうさだんへん日本にっぽん出版しゅっぱん協同きょうどう
  • マッカーサー戦記せんきチャールズ・A・ウィロビー朝日あさひソノラマ文庫ぶんこISBN 4-257-17203-7 C0131(上巻じょうかん)。ISBN 4-257-17204-5 C0131(下巻げかん訳書やくしょ新版しんぱん
  • 終戦しゅうせん外史がいし 無条件むじょうけん降伏ごうぶくまでの経緯けいいロバート・J・ビュートー時事通信社じじつうしんしゃ新版しんぱん1971ねん訳書やくしょ)1958ねん初版しょはん
  • 啓蒙けいもうされた利己りこ機関きかんすい 昭和しょうわ28ねんだい2ごう
  • モリソンちょガダルカナルせん」をんで(機関きかんすい交) 昭和しょうわ28ねんだい4ごう
  • 公海こうかいにおける自由じゆうはどうなるのか 竹島たけしま問題もんだい承晩しょうばんライン 機関きかんすい交) 昭和しょうわ28ねんだい6かん
  • 憲法けんぽう文民ぶんみん規定きていきゅう軍人ぐんじん (1ー4) 機関きかんすい交) 昭和しょうわ30ねんだい20ー25ごう
  • ミサイル時代じだい日本にっぽん防衛ぼうえい機関きかんすい交) 昭和しょうわ33ねんだい55ごう
  • じゅうねんのわがくに防衛ぼうえいのありかた機関きかんすい交) 昭和しょうわ36ねんだい100ごう
  • 英国えいこくばんニュールック--1957ねんえい国防こくぼう白書はくしょんで」『世界せかい週報しゅうほうだい38かんだい15ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1957ねん5がつ4にち、28-35ぺーじ 
  • 日本にっぽん安全あんぜん保障ほしょう論争ろんそう機関きかんすい交) 昭和しょうわ41ねんだい159かん
  • にち関係かんけい重大じゅうだいせいろんず(機関きかんすい交) 昭和しょうわ42ねんだい166ごう
  • もっと「海洋かいよう日本にっぽん意識いしきを(機関きかんすい交)昭和しょうわ43ねんだい175ごう
  • 海軍かいぐん日本にっぽん」における海軍かいぐん体質たいしつろんについて (1ー3) (機関きかんすい交) 昭和しょうわ51ねんだい341ー343ごう
  • 終戦しゅうせんにおける海軍かいぐん役割やくわ (1.2) 機関きかんすい交) 昭和しょうわ61ねんだい388.390ごう
  • 保科ほしな善四郎ぜんしろうすえ国正くにまさゆう共著きょうちょ太平洋戦争たいへいようせんそう秘史ひし 海軍かいぐん何故なぜ開戦かいせん同意どういしたか」昭和しょうわ62ねん日本にっぽん国防こくぼう協会きょうかい
  • 兵科へいか予備よび学生がくせい制度せいど誕生たんじょう機関きかんすい交) 平成へいせい7ねんだい484ごう
  • 大井おおいあつし海軍かいぐん大尉たいいアメリカ留学りゅうがく 保科ほしなさんとわたし角川書店かどかわしょてん、2014ねん平成へいせい25ねん))。解説かいせつ阿川あがわ尚之なおゆき

GHQ歴史れきし陳述ちんじゅつろく

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  • 1945ねんける南方なんぽう地域ちいきとの海上かいじょう交通こうつういて 1947ねん昭和しょうわ22ねん)10がつ15にち
  • 陸海りくかいみんさんしゃ連合れんごう輸送ゆそう委員いいんかいかんする陳述ちんじゅつしょ 1947ねん昭和しょうわ22ねん)12がつ10日とおか
  • 1945ねん日本にっぽん本土ほんどたいするべい空軍くうぐん機雷きらい投下とうかおよ影響えいきょういて 1949ねん昭和しょうわ24ねん)10がつ15にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 戦史せんし叢書そうしょ だい93かん 大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(7) 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんしへんあさくも新聞しんぶんしゃ
  • 戦史せんし叢書そうしょ だい46かん 海上かいじょう護衛ごえいせん 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんしへんあさくも新聞しんぶんしゃ
  • 高松宮たかまつのみや日記にっき細川ほそかわ護貞もりさだ阿川あがわ弘之ひろゆき豊田とよだくまゆう共編きょうへん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃISBN 4-12-490040-6 C0320
  • 高松宮たかまつのみや海軍かいぐん阿川あがわ弘之ひろゆき中公ちゅうこう文庫ぶんこISBN 4-12-203391-8 C1195。単行たんこうばん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  • 米内よない光政みつまさ阿川あがわ弘之ひろゆき新潮社しんちょうしゃISBN 4-10-300413-4 C0093
  • 井上いのうえ成美まさみ阿川あがわ弘之ひろゆき新潮社しんちょうしゃISBN 4-10-300414-2 C0093
  • 昭和しょうわ海軍かいぐん秘史ひし対談たいだんにちはな事変じへんから太平洋戦争たいへいようせんそうへ(1) 中村なかむら菊男きくおへんばんまち書房しょぼう
  • 日本にっぽん陸海りくかいぐん制度せいど組織そしき人事じんじ日本にっぽん近代きんだい史料しりょう研究けんきゅうかいへん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい
  • はたいく編著へんちょ日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん』(だい2はん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねんISBN 4-13-030135-7 
  • ぞく海軍兵学校かいぐんへいがっこう沿革えんかく有終ゆうしゅうかいへんはら書房しょぼう
  • 海軍兵学校かいぐんへいがっこう出身しゅっしんしゃ名簿めいぼ小野崎おのざきまことへん海軍兵学校かいぐんへいがっこう出身しゅっしんしゃ名簿めいぼ作成さくせい委員いいんかい

関連かんれん項目こうもく

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