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官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ

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官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ
東田ひがしだだか記念きねん広場ひろばてん

官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ(かんえいやはたせいてつしょ、かんえいやわたせいてつしょ、きゅう字体じたい官營かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ󠄁、The Imperial Steel Works, Japan[注釈ちゅうしゃく 1])は、1901ねん明治めいじ34ねん)の明治めいじ時代じだい操業そうぎょう開始かいしした福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう製鉄せいてつしょ1887ねん明治めいじ20ねん)に操業そうぎょう開始かいしした釜石かまいし鉱山こうざん田中たなか製鉄せいてつしょ岩手いわてけん釜石かまいし)につづき、日本にっぽん国内こくないで2番目ばんめ製鉄せいてつしょである。だい世界せかい大戦たいせんまえには日本にっぽん鉄鋼てっこう生産せいさんりょう過半かはん製造せいぞうする国内こくない随一ずいいち製鉄せいてつしょで、鋼板こうはんるい条鋼じょうこうるい兵器へいき材料ざいりょう特殊とくしゅこうなど品種ひんしゅ鋼材こうざい製造せいぞうしていた。

1934ねん昭和しょうわ9ねん)には官営かんえい製鉄せいてつしょ中心ちゅうしんとなって民間みんかん業者ぎょうしゃ合同ごうどうして日本にっぽん製鐵せいてつ発足ほっそく同社どうしゃ八幡やはた製鐵せいてつしょとなった。現在げんざい後身こうしん企業きぎょうのひとつである日本にっぽん製鉄せいてつ九州きゅうしゅう製鉄せいてつしょ八幡やはた地区ちく一部いちぶとなっている。

2007ねん構成こうせい資産しさんのいくつかが経済けいざい産業さんぎょうしょうの「近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん」に認定にんていされた。さらに2015ねんには、きゅうほん事務所じむしょ修繕しゅうぜん工場こうじょうきゅう鍛冶たんや工場こうじょう福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう)、および遠賀川おんががわ水源すいげんポンプしつ福岡ふくおかけん中間なかま)の4資産しさんが「明治めいじ日本にっぽん産業さんぎょう革命かくめい遺産いさん 製鉄せいてつ製鋼せいこう造船ぞうせん石炭せきたん産業さんぎょう」(ぜん23資産しさん)の構成こうせい資産しさんとして世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

沿革えんかく

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明治めいじ政府せいふ殖産しょくさん興業こうぎょうのスローガンのもとにちしん戦争せんそうまえから製鉄せいてつしょ国内こくない建設けんせつ要望ようぼうされていたが、だい1松方まつかた内閣ないかく1891ねん明治めいじ24ねん)のだいかい帝国ていこく議会ぎかい建設けんせつ予算よさん提出ていしゅつしたとき莫大ばくだい予算よさんがかかることから否決ひけつされていた[4][5]1895ねん明治めいじ28ねん)に製鉄せいてつ事業じぎょう調査ちょうさかい設置せっちして調査ちょうさ開始かいしし、「製鉄せいてつしょ官営かんえいとする。原料げんりょう豊富ほうふ製鉄せいてつ鉄鋼てっこう試験しけん結果けっか良好りょうこう」との結果けっか報告ほうこく、さらに調査ちょうさちゅうにちしん戦争せんそう発生はっせいし、早急そうきゅうぐん独立どくりつ必要ひつようしょうじた。実際じっさいにちしん戦争せんそう勝利しょうりした直後ちょくご1896ねん明治めいじ29ねん)の日本にっぽん国内こくないてつ需要じゅよう銑鉄せんてつろくまんせんトン、鋼材こうざいじゅうまんトンにのぼったが、国内こくない供給きょうきゅうりょう銑鉄せんてつまんろくせんトン、鋼材こうざいせんひゃくトンでほとんど海外かいがいからの輸入ゆにゅうたよっていた状態じょうたいであった。

よく1896ねん明治めいじ29ねん3月30にち製鉄せいてつしょ官制かんせい発布はっぷし、 長官ちょうかん山内やまうちつつみくも技官ぎかん大島おおしま道太郎みちたろう決定けっていした。設置せっちじょう候補こうほとして福岡ふくおかけん遠賀おんがぐん八幡やはたむらげん北九州きたきゅうしゅう八幡東やはたひがし)、くわだてまぎぐんやなぎうら広島ひろしまけん安芸あきぐんばんむらさんしょがあげられ、誘致ゆうち運動うんどう陳情ちんじょう合戦かっせんおこなわれた。実地じっち調査ちょうさ結果けっかゆたかな石炭せきたん産地さんちである筑豊ちくほう炭田たんでんから鉄道てつどう水運すいうん石炭せきたん大量たいりょう迅速じんそく調達ちょうたつできるメリットがおおきかったてんと、みなともあり軍事ぐんじ防衛ぼうえいじょう原材料げんざいりょう入手にゅうしゅ双方そうほう利便りべんせいめてとなり八幡やはたへの設置せっちまった。また調査ちょうさ委員いいんちょうつとめていた福岡ふくおかけん出身しゅっしんのう商務しょうむ次官じかん金子かねこ堅太郎けんたろうのバックアップと、背後はいご三井みつい三菱みつびし住友すみとも古河ふるかわなどの中央ちゅうおう資本しほん地元じもと財閥ざいばつ貝島かいしま麻生あそう安川やすかわなどが筑豊ちくほう炭田たんでん進出しんしゅつしていたことも八幡はちまん決定けってい要因よういんとしておおきかった[6]

1897ねん明治めいじ30ねん)2がつ6にちに「製鉄せいてつしょ福岡ふくおかけん筑前ちくぜんこく八幡やはたむらこれおけク」と公示こうじされ着工ちゃっこう1901ねん明治めいじ34ねん2がつ5にち東田ひがしだだいいちだか火入ひいれがおこなわれる[7][8]。この操業そうぎょうたってはさき国内こくないはつ成功せいこうおさめていた釜石かまいし鉱山こうざん田中たなか製鉄せいてつしょから選抜せんばつ派遣はけんされた7にん高炉こうろ作業さぎょうしゃ派遣はけんされている。同年どうねん11月18にちには東京とうきょうから多数たすう来賓らいひんむかえて作業さぎょう開始かいししきいわわれた。建設けんせつは、にちしん戦争せんそう賠償金ばいしょうきんまかなわれている。当時とうじは、たん製鐵せいてつしょんでいた。

当時とうじ日本にっぽんには近代きんだいてき製鉄せいてつ事業じぎょう必要ひつよう知識ちしき経験けいけんがないため、最新さいしん技術ぎじゅつ採用さいようするという方針ほうしん欧米おうべい事情じじょう調査ちょうさされ、その結果けっか、ドイツのオーバーハウゼンにあるグーテホフヌンクスヒュッテ (GHH) に設計せっけい依頼いらいされた。操業そうぎょうも、たか給料きゅうりょう多数たすうのドイツじん技師ぎし雇用こようしたうえ開始かいしされている。しかし、当初とうしょコークスがなく、使用しようした鉄鉱てっこうせき性質せいしつ欧州おうしゅうとはことなるため、銑鉄せんてつ生産せいさん予定よてい半分はんぶん程度ていどにとどまり、計画けいかくした操業そうぎょう成績せいせきをあげることができなかった。それにともな赤字あかじふくがり、つい1902ねん明治めいじ35ねん)7がつ操業そうぎょう停止ていしする事態じたいとなった。そこで、政府せいふ調査ちょうさ委員いいんかい設置せっちし、その検討けんとうをもとに、コークス建設けんせつし、原料げんりょう精選せいせんする方針ほうしんてられた。

八幡やはた製鉄せいてつしょ 作業さぎょう工程こうてい(1934ねん

その1904ねん明治めいじ37ねん)2がつにち戦争せんそう勃発ぼっぱつし、てつ需要じゅよう急激きゅうげきえた。政府せいふは、コークス完成かんせいけて製鐵せいてつしょ操業そうぎょう再開さいかいめ、4がつ6にちだい2火入ひいれがおこなわれたが、わずか17日間にちかん操業そうぎょう停止ていしまれた。そこで釜石かまいし鉱山こうざん田中たなか製鉄せいてつしょ顧問こもんである東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工学部こうがくぶもと教授きょうじゅ野呂のろ景義かげよし原因げんいん調査ちょうさ依頼いらいされた。ないをより高温こうおんたもつため、高炉こうろ形状けいじょうあらため、操業そうぎょう方法ほうほう改善かいぜんするという野呂のろ提案ていあんけ、高炉こうろ改造かいぞうされ、7がつ23にちだい3火入ひいれがおこなわれた。この改良かいりょう成功せいこうし、その順調じゅんちょう操業そうぎょうすすめて、おおくの銑鉄せんてつることができた。そして、翌年よくねん2がつ25にちには、以前いぜんから建設けんせつすすめられていた東田ひがしだだいだか火入ひいれがおこなわれ、銑鉄せんてつ生産せいさんりょうがほぼ2ばいになった。

戦争せんそうわると今度こんど民間みんかんからてつ需要じゅようえ、技術ぎじゅつ革新かくしん重工業じゅうこうぎょう発展はってんともな需要じゅよう増加ぞうかこたえるため、だいいち拡張かくちょう工事こうじ1906ねん - 1910ねん)、だい拡張かくちょう工事こうじ1911ねん - 1915ねん)、そしてだいいち世界せかい大戦たいせん大幅おおはばえた鉄鋼てっこう需要じゅようこたえ、だいさん拡張かくちょう工事こうじ1917ねん)、1927ねん昭和しょうわ2ねん)には年間ねんかん銑鉄せんてつ生産せいさんりょうねん100まんトン計画けいかく立案りつあんされ、うみきず製鉄せいてつしょ先駆さきがけとなったほらおかだかぐん建設けんせつ決定けってい1938ねん昭和しょうわ18ねん完成かんせい)と、次々つぎつぎ拡張かくちょうしていき、国内こくない大半たいはん需要じゅよう八幡はちまん製鐵せいてつしょまかなうようになった。

当初とうしょのう商務省しょうむしょう管轄かんかつだったが、のう商務省しょうむしょう分割ぶんかつによって1925ねん大正たいしょう14ねん)に商工しょうこうしょう工務こうむきょくげん経済けいざい産業さんぎょうしょう製造せいぞう産業さんぎょうきょく管轄かんかつとなり、それは1934ねん昭和しょうわ9ねん)の日本にっぽん製鐵せいてつ発足ほっそくまでつづいた。

だいいち世界せかい大戦たいせんきょうにより、製鉄せいてつ企業きぎょう合理ごうりすすめられ、1934ねん1がつ29にち日本にっぽん製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃほうにより、官営かんえい製鐵せいてつしょ九州製鋼きゅうしゅうせいこう輪西わにし製鐵せいてつ釜石かまいし鉱山こうざん富士ふじ製鋼せいこう三菱みつびし製鐵せいてつげん黄海こうかい製鉄せいてつ連合れんごう企業きぎょうしょ)・東洋とうよう製鐵せいてつ官民かんみん合同ごうどう日本にっぽん製鐵せいてつにちてつ)が設立せつりつされた。このとき官営かんえい製鐵せいてつしょ名称めいしょう八幡やはた製鐵せいてつしょへと変更へんこうされた。一連いちれん出来事できごと製鉄せいてつだい合同ごうどうばれ、国内こくないのシェアのほとんどをにちてつめることとなった。

八幡やはた製鐵せいてつしょ長官ちょうかん

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近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんとして

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東田ひがしだだいいちだかあと。「1901」は操業そうぎょう開始かいし1901ねんあらわ
世界せかい遺産いさんきゅうほん事務所じむしょ
遠賀川おんががわ水源すいげんポンプしつ
南河内みなみかわちきょう

近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん(The Imperial Steel Works, Japan (ID1484-022) )として認定にんていされている。

明治めいじ20年代ねんだい急増きゅうぞうした鉄鋼てっこう需要じゅようおぎなうため、1897ねん筑豊ちくほう炭田たんでん隣接りんせつ誘致ゆうち活動かつどう活発かっぱつだった八幡やはた製鉄せいてつしょ設置せっちすることが決定けっていする。ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)しゃ設計せっけい依頼いらいし、技術ぎじゅつ指導しどうけた。4ねん建設けんせつ期間きかんて、1901ねん2がつ東田ひがしだだいいちだか火入ひいれがおこなわれ稼働かどう開始かいしする。しかし、トラブルや資金しきんなんによりよく1902ねん7がつには休止きゅうし余儀よぎなくされたため、釜石かまいし田中たなか製鉄せいてつしょ日本にっぽんはつコークスによる銑鉄せんてつ生産せいさん成功せいこうさせた野呂のろ景義かげよし再建さいけんたくされる。野呂のろ高炉こうろ改良かいりょうあらたなコークス建設けんせつおこない、1904ねん7がつから本格ほんかく稼働かどう再開さいかいした。これにより、日本にっぽん高炉こうろ操業そうぎょう技術ぎじゅつ確立かくりつされ、日本にっぽん産業さんぎょう近代きんだい重工業じゅうこうぎょう)が達成たっせいされる。製鉄せいてつしょは1930年代ねんだいにかけて拡張かくちょうされ、周辺しゅうへんにもおおくの産業さんぎょう集積しゅうせきし、北九州きたきゅうしゅう工業こうぎょう地帯ちたい主要しゅよう拠点きょてんとなった。事業じぎょう所内しょないにあり秘密ひみつ保持ほじ懸念けねんがあることや老朽ろうきゅうしていることから、いずれの施設しせつ見学けんがくはできない[9][10]登録とうろく面積めんせきは1.71 ha(緩衝かんしょう地域ちいき33.81 ha)である[11]

きゅうほん事務所じむしょ

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1899ねん建設けんせつされたあか煉瓦れんがぐみせきづくり建物たてもの製鐵せいてつしょ技術ぎじゅつしゃによる設計せっけい骨組ほねぐみはクイーンポストトラスみ、煉瓦れんがみはイギリスしき一方いっぽう屋根やね和式わしき瓦葺かわらぶき。1922ねんまでほん事務所じむしょとして使用しようされたのち鉄鋼てっこう研究所けんきゅうじょとして使用しようされた。見学けんがく不可ふかだが、2015ねん4がつ眺望ちょうぼうスペースがもうけられて遠景えんけいることが可能かのうとなり、登録とうろくから個人こじん利用りようかぎ写真しゃしん撮影さつえいみとめられている[10][12][13]

修繕しゅうぜん工場こうじょう

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1900ねん建設けんせつされた鉄骨てっこつづくり建物たてもの設計せっけいおよ使用しよう鋼材こうざいはGHHしゃによる。現存げんそんする日本にっぽん国内こくない最古さいこ鉄骨てっこつ建築けんちくぶつ。3かいわた増築ぞうちくされたが、使用しようされた鋼材こうざいがドイツせいから次第しだい日本にっぽんせいへとわり、日本にっぽん製鉄せいてつ技術ぎじゅつ発展はってんする過程かていしめすものとなっている。現在げんざい新日鉄しんにってつ住金すみきん主要しゅよう協力きょうりょく会社かいしゃひとつである山九さんきゅうにより、製鉄せいてつしょ使用しようする機械きかい修繕しゅうぜん部材ぶざい製作せいさくおこなわれ、現在げんざい稼働かどうちゅう見学けんがく不可ふか[10]

きゅう鍛冶たんや工場こうじょう

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1900ねん建設けんせつされた鉄骨てっこつづくり建物たてもの設計せっけいおよ使用しよう鋼材こうざいはGHHしゃによる。製鉄せいてつしょ使用しようする鍛造たんぞうひん製造せいぞうおこなわれ、大正たいしょう時代じだい現在げんざい場所ばしょ移転いてんしてからは製品せいひん試験しけんしょとして使用しようされた。現在げんざい創業そうぎょうからの資料しりょう保管ほかんする史料しりょうしつとなっている。見学けんがく不可ふか[10]

高見たかみ倶楽部くらぶ

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1933ねん昭和しょうわ8ねん)に八幡東やはたひがし高見こうけんいち丁目ちょうめ1-1(現住所げんじゅうしょ)に建設けんせつされた迎賓館げいひんかんてき応接おうせつよう施設しせつ応接おうせつしつ会議かいぎしつ使つかわれていない撞球どうきゅうしつなどをゆうする。当時とうじ所長しょちょう奈良ならホテル辰野たつの金吾きんご設計せっけい)をモデルにするようめいじたこともあり、建物たてもの木造もくぞう平屋ひらや一部いちぶ2かいての豪華ごうかつくりで、だい世界せかい大戦たいせんのちには一部いちぶ鉄筋てっきんコンクリートづくり改造かいぞうされた[14]1949ねん昭和しょうわ24ねん)、九州きゅうしゅう地方ちほうけておこなわれた昭和しょうわ天皇てんのう戦後せんご巡幸じゅんこうでは、行在所あんざいしょ宿舎しゅくしゃ)として利用りようされた[15]

関連かんれん施設しせつ

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年表ねんぴょう

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  • 1896ねん明治めいじ29ねん3月28にち - 帝国ていこく議会ぎかいだいきゅう議会ぎかい製鉄せいてつしょ創立そうりつ決定けってい
  • 1897ねん明治めいじ30ねん2がつ6にち - 製鉄せいてつしょ八幡やはたむら設置せっちすると決定けってい
  • 1897ねん明治めいじ30ねん6月1にち - 八幡やはたむら官営かんえい製鐵せいてつしょひらけちょう
  • 1901ねん明治めいじ34ねん2がつ5にち - 東田ひがしだだいいちだか火入ひいれ。5月に製鋼せいこう工場こうじょう、6がつ中形ちゅうがた工場こうじょう小形おがた工場こうじょう(いずれも条鋼じょうこうよう圧延あつえんする工場こうじょう)・鋼板こうはん工場こうじょう、11月に軌条きじょう工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1901ねん明治めいじ34ねん11月18にち - 作業さぎょう開始かいししき挙行きょこう伏見ふしみみやさだあい親王しんのう平田東ひらたひがしすけのう商務しょうむ大臣だいじん出席しゅっせき[18]
  • 1902ねん明治めいじ35ねん)7がつ - 東田ひがしだだいいちだかてん休止きゅうし
  • 1904ねん明治めいじ37ねん)4がつ - 大形おおがた工場こうじょう大形おおがた条鋼じょうこう圧延あつえん)が操業そうぎょう開始かいし
  • 1904ねん明治めいじ37ねん4がつ6にち - 東田ひがしだだいいちだかだい火入ひいれ。17日間にちかん休止きゅうし
  • 1904ねん明治めいじ37ねん7がつ23にち - 東田ひがしだだいいちだかだいさん火入ひいれ。
  • 1905ねん明治めいじ38ねん2がつ25にち - 東田ひがしだだいだか火入ひいれ。
  • 1905ねん明治めいじ38ねん)12月 - あついた工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1906ねん明治めいじ39ねん) - だいいち拡張かくちょう工事こうじ開始かいし[19]
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)1がつ - せんざい工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1909ねん明治めいじ42ねん)10がつ - 東田ひがしだだい三高さんこう火入ひいれ。
  • 1912ねん大正たいしょう元年がんねん) - 中空なかぞらロール導入どうにゅうイリス商会しょうかいによる)。
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん) - セメント製造せいぞう開始かいしにちてつ住金すみきんだかセメント起源きげん)。
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん)4がつ - 東田ひがしだだいよんだか火入ひいれ。
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん) - 電気でんき新設しんせつ
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん9月30にち - 九州製鋼きゅうしゅうせいこう株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつ
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん11月1にち - 東洋とうよう製鐵せいてつ株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつ
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん)12月 - 東田ひがしだだいだか火入ひいれ。
  • 1919ねん大正たいしょう8ねん5月12にち - 東洋とうよう製鐵せいてつ高炉こうろ火入ひいれ(戸畑とばただいだか)。
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん)4がつ - 東田ひがしだだいろくだか火入ひいれ。
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん4がつ16にち - 官営かんえい製鉄せいてつしょ東洋とうよう製鐵せいてつ工場こうじょう借入かりいれ。
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん)10がつ - ブリキ当時とうじねつづけブリキ)の製造せいぞう開始かいし
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん)11月 - 戸畑とばた作業さぎょうしょで2高炉こうろ火入ひいれ(戸畑とばただいいちだか
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん11月7にち - 九州製鋼きゅうしゅうせいこう製鋼せいこう工場こうじょう通称つうしょう西八幡にしはちまん工場こうじょう)が操業そうぎょう開始かいし開始かいし同時どうじ官営かんえい製鉄せいてつしょ借入かりいれ。月内げつないあついた工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん)1がつ - 九州製鋼きゅうしゅうせいこう大形おおがた工場こうじょう操業そうぎょう開始かいし
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん)2がつ - 専用せんよう鉄道てつどうすみかすせんげんくろがねせん運転うんてん開始かいし
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん6月17にち - ほらおかだいいちだか火入ひいれ。
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん10月11にち - ほらおかだいだか火入ひいれ。
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん1がつ29にち - 官営かんえい製鐵せいてつしょ九州製鋼きゅうしゅうせいこうなどが合同ごうどうし、日本にっぽん製鐵せいてつにちてつ発足ほっそくにちてつ八幡やはた製鐵せいてつしょとなる。2がつ1にちより正式せいしき営業えいぎょう開始かいし

社会しゃかいへの影響えいきょう

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  • 1966ねん民事みんじ裁判さいばん事件じけん八幡やはた製鉄せいてつ事件じけん最高裁さいこうさい判決はんけつにより、企業きぎょうによる政治せいじ献金けんきん営利えいり法人ほうじん政治せいじ活動かつどうとしてみとめられるようになった。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 英語えいごめいには、“the Imperial Steel Works, Yawata, Japan”[1]や、“the Imperial Government Steel Works, Yawata, Japan”[2]などもある。“The Imperial Steel Works, Japan”は世界せかい遺産いさん認定にんてい呼称こしょう[3]
  2. ^ 官営かんえい八幡やはた製鉄せいてつしょ事件じけん同時どうじ進行しんこうで、刑事けいじ訴訟そしょうほう改正かいせい法案ほうあん起訴きそ便宜べんぎ主義しゅぎ導入どうにゅうとう)が検討けんとうされていた[21]
出典しゅってん
  1. ^ 平川ひらかわ1928.
  2. ^ とろ新五しんご日本にっぽんける銑鐵せんてつ製造せいぞう現状げんじょう進歩しんぽ」『てつはがねだい16かんだい3ごう、1930ねん、270-206ぺーじ英語えいご
  3. ^ http://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/en/site/yawata/component01.html
  4. ^ 読売新聞社よみうりしんぶんしゃ西部せいぶ本社ほんしゃ へん福岡ふくおかひゃくねんじょう,208ぺーじ,浪速なにわしゃ,1967.
  5. ^ 読売新聞社よみうりしんぶんしゃ西部せいぶ本社ほんしゃ へん福岡ふくおかひゃくねんじょう,208ぺーじ,浪速なにわしゃ,1967.
  6. ^ 読売新聞社よみうりしんぶんしゃ西部せいぶ本社ほんしゃ へん福岡ふくおかひゃくねんじょう,209ぺーじ,浪速なにわしゃ,1967.
  7. ^ 福岡ふくおかけん福岡ふくおかけんひゃくねん福岡ふくおかけん、1971ねん1がつ1にち、42-43ぺーじ 
  8. ^ たけまつ 純一じゅんいつ福岡ふくおかけん歴史れきし (けん)』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん12月1にち、281ぺーじISBN 978-4634324008 
  9. ^ 明治めいじ日本にっぽん産業さんぎょう革命かくめい遺産いさん 九州きゅうしゅう山口やまぐち関連かんれん地域ちいき」の世界せかい遺産いさんへの推薦すいせんについて (閣議かくぎ了解りょうかい」、首相しゅしょう官邸かんてい、2014ねん1がつ17にち、2015ねん5がつ5にち閲覧えつらん
  10. ^ a b c d 官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ関連かんれん施設しせつ登録とうろく推進すいしん協議きょうぎかい、2015ねん5がつ31にち閲覧えつらん
  11. ^ Multiple Locations - Sites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining”. 世界せかい遺産いさんセンター. 2015ねん7がつ12にち閲覧えつらん
  12. ^ 世界せかい遺産いさん八幡やはた製鉄せいてつしょ登録とうろくすみやかに」写真しゃしん撮影さつえい解禁かいきん”. 毎日新聞まいにちしんぶん (2015ねん7がつ4にち) 2015ねん7がつ30にち閲覧えつらん
  13. ^ 官営かんえい八幡製鐵所旧本事務所眺望スペースのご案内あんない”. 北九州きたきゅうしゅう. 2015ねん7がつ30にち閲覧えつらん
  14. ^ 高見たかみ倶楽部くらぶ”. 北九州きたきゅうしゅう風景ふうけい街道かいどう 北九州きたきゅうしゅう. 2024ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  15. ^ はら武史たけし昭和しょうわ天皇てんのう御召おめし列車れっしゃぜん記録きろく新潮社しんちょうしゃ、2016ねん9がつ30にち、101ぺーじISBN 978-4-10-320523-4 
  16. ^ http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/175
  17. ^ a b https://www.meti.go.jp/policy/local_economy/nipponsaikoh/pdf/isangun.pdf
  18. ^ 官報かんぽうだい5521ごう明治めいじ34ねん11月27にち
  19. ^ 2010, p. 208.
  20. ^ 九州きゅうしゅうだい疑獄ぎごく事件じけん:きゅうかん製鉄せいてつしょこうつとむしょ贈収賄ぞうしゅうわい」(法律ほうりつ新聞しんぶん1918ねん3がつ10日とおか - 神戸大学こうべだいがく付属ふぞく図書館としょかん
  21. ^ 法理ほうり研究けんきゅうかい講演こうえん 刑事けいじ訴訟そしょうほう改正かいせいあん要旨ようし(1 - 14)」『法律ほうりつ新聞しんぶん』1917ねん2がつ8にち神戸大学こうべだいがく経済けいざい経営けいえい研究所けんきゅうじょ 新聞しんぶん記事きじ文庫ぶんこ

関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3354ふん10びょう 東経とうけい13049ふん48びょう / 北緯ほくい33.90278 東経とうけい130.83000 / 33.90278; 130.83000