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八幡やはた空襲くうしゅう

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八幡やはた空襲くうしゅう
だい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそうなか

1944ねん6がつ15にち八幡やはた空襲くうしゅう直前ちょくぜんのB-29
とき1944ねん6月15にち - 1944ねん6月16にち
場所ばしょ福岡ふくおかけん八幡やはた現在げんざい北九州きたきゅうしゅう
衝突しょうとつした勢力せいりょく
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく 日本の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
戦力せんりょく
B-29 75 迎撃げいげき戦闘せんとう 24
対空たいくうほう
被害ひがいしゃすう
死亡しぼう搭乗とうじょういん57めい
報道ほうどう記者きしゃ1めい
損失そんしつ:B-29 7
施設しせつ損害そんがい小倉こくら造兵ぞうへいしょう
八幡やはた製鐵せいてつしょ損害そんがい軽微けいび
死傷ししょうしゃ八幡やはた市街地しがいちで270めい以上いじょう[1]

八幡やはた空襲くうしゅう(やはたくうしゅう)は、だい世界せかい大戦たいせんなか1944ねん6月16にち未明みめいアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい58爆撃ばくげきだん戦略せんりゃく爆撃ばくげきB-29おこなったはじめての日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう九州きゅうしゅう北部ほくぶ官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょだいいち目標もくひょうとしけい75のB-29が出撃しゅつげき、うち47八幡やはたなどを爆撃ばくげきした。製鐵せいてつしょ被害ひがいごくわずかだったが、ばくげき北九州きたきゅうしゅう5都市とし八幡やはた小倉おぐら戸畑とばた門司もじ若松わかまつ)におよび、270めい以上いじょう犠牲ぎせいとなった。べいぐんがわ報告ほうこくでは作戦さくせんちゅう事故じこで5のB-29が損失そんしつ、2日本にっぽん軍機ぐんきにより撃墜げきついとされた。これにたいし、日本にっぽんがわ報告ほうこくでは撃墜げきつい6うち確実かくじつ2)、撃破げきは7日本にっぽんがわ被弾ひだん1ほうじられた[2]

目標もくひょう八幡やはた製鐵せいてつしょコークスへの命中めいちゅうだんはなく[1]空襲くうしゅう自体じたい不首尾ふしゅびだったが、同日どうじつサイパンとうべい海軍かいぐん上陸じょうりくゆるしたこともあり(サイパンとうたたか)、大本営だいほんえい八幡はちまん空襲くうしゅうほう衝撃しょうげきけた[3]一方いっぽうでアメリカや中国ちゅうごくではこの空襲くうしゅう成果せいか大々的だいだいてき報道ほうどうされた[4][5]作戦さくせんちゅうB-29の収集しゅうしゅうした情報じょうほうによって日本にっぽん本土ほんど防空ぼうくう体制たいせい脆弱ぜいじゃくさがあきらかとなり、そのだい規模きぼ本土ほんど空襲くうしゅう発端ほったんともなった[# 1]

八幡やはたは、1944ねん8がつ20日はつか中国ちゅうごくから飛来ひらいしたB-29によって2度目どめ空襲くうしゅうけ、さらによく1945ねん8がつ8にちの3度目どめ空襲くうしゅう八幡はちまんだい空襲くうしゅう)ではマリアナ諸島しょとう基地きちはつのB-29が焼夷弾しょういだんばくげきおこない、罹災りさいしゃすう5まん2562にん罹災りさい戸数こすう1まん4000 死傷ししょうしゃやく2,500にん壊滅かいめつてき被害ひがいこうむった。

背景はいけい

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アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんによる最初さいしょ日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうは、1942ねん4がつ18にち空母くうぼホーネット」からはつかんした16B-25双発そうはつ中型ちゅうがた爆撃ばくげき東京とうきょうなどを爆撃ばくげきしたドーリットル空襲くうしゅうである。この空襲くうしゅうによる日本にっぽんがわ損害そんがい軽微けいびであったが、アメリカ国民こくみんあいだにはおおきな反響はんきょうこした[7]日本にっぽんぐん本土ほんど空襲くうしゅうされたことに危機ききかんおぼえ、本土ほんど基地きち防空ぼうくうよう戦闘せんとうすう増強ぞうきょうし、また太平洋たいへいよう戦域せんいきにおいて攻勢こうせいることで対応たいおうしようとしたが、それも6がつミッドウェー海戦かいせんでの敗北はいぼくにより頓挫とんざした[8]一方いっぽうのアメリカりく空軍くうぐんも、この空襲くうしゅうのちB-29が運用うんよう可能かのうとなるまでのあいだは、中国ちゅうごく内陸ないりく基地きちから日本にっぽん本土ほんどまで往復おうふくするのに十分じゅうぶん航続こうぞく距離きょりをもつ航空機こうくうきがなったため、日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうをしかけることはできなかった[9]

B-29の運用うんよう開始かいしには困難こんなんともなった。機体きたい設計せっけいは1940ねん初頭しょとうからはじまり、最初さいしょ試作しさくは1942ねん9がつ21にち完成かんせい、「スーパーフォートレス(ちょうそら要塞ようさい)」のニックネームをつこの機体きたいは、だい世界せかい大戦たいせんちゅう最大さいだいばくげきであり、当時とうじ最大さいだいばくだん搭載とうさいりょう最長さいちょう航続こうぞく距離きょり、また強力きょうりょく防御ぼうぎょ砲火ほうかほこった[10]。またあずかあつしつ機銃きじゅう砲塔ほうとう遠隔えんかく操作そうさ火器かき管制かんせい装置そうちといった当時とうじ最新さいしん技術ぎじゅつ導入どうにゅうされている。アメリカりく空軍くうぐんはつ飛行ひこう先立さきだってB-29を1,664発注はっちゅうしたが、1943ねん2がつ18にち2試作しさく墜落ついらく開発かいはつにさらにすうげつようすることとなった。一方いっぽうでこのあいだ機体きたい設計せっけいじょう問題もんだいすこしずつ改善かいぜんされた[11]。1943ねん6がつ設立せつりつされただい58爆撃ばくげきだんだい58ばくげき航空こうくうだん)はアメリカりく空軍くうぐんはつのB-29運用うんよう部隊ぶたいであったが、実際じっさい機体きたい受領じゅりょうは10がつになってからであった。B-29配備はいびおくれと機体きたいトラブルで、ばくげき航空こうくうだん訓練くんれんスケジュールにも支障ししょうをきたす有様ありさまであった。なおB-29が実戦じっせん配備はいび可能かのうとなったのは、1944ねん3がつのちに「バトル・オブ・カンザス (en」とばれる、戦闘せんとう即応そくおうしうる機体きたい生産せいさんする計画けいかくはじまってからのことである[12]

1943ねんまつ、アメリカぐん統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶは、インド基地きちおよ建設けんせつ予定よてい中国ちゅうごく大陸たいりく基地きちにB-29を配備はいびし、日本にっぽん本土ほんどおよひがしアジア方面ほうめん戦略せんりゃく爆撃ばくげきおこな計画けいかく承認しょうにんした。マッターホルン作戦さくせん命名めいめいされたこの戦略せんりゃくばくげき計画けいかく実行じっこうにあたっては、インド東部とうぶベンガル基地きちから出発しゅっぱつしたB-29が、日本にっぽんばくげきさい給油きゅうゆけられるよう、連合れんごうこくぐん貨物かもつ輸送ゆそうによって中国ちゅうごく内陸ないりく成都せいと近郊きんこうだい規模きぼ飛行場ひこうじょう建設けんせつ必要ひつようとされた[13]。1943ねん12月、作戦さくせん遂行すいこう任務にんむけただい20ばくげき集団しゅうだんはアメリカ本土ほんどから海路かいじインドへと移動いどう[14][15]、さらに1944ねん4がつにはB-29ぜん作戦さくせん行動こうどう監督かんとくするためにだい20空軍くうぐん編成へんせい前例ぜんれいのない手段しゅだんではあったが、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん司令しれいヘンリー・アーノルド大将たいしょうはこの部隊ぶたいペンタゴンから指揮しきした[16]。なおだい20ばくげき集団しゅうだん主力しゅりょくであるだい58ばくげき航空こうくうだんは、4がつカンザスしゅうからの移動いどう開始かいししたが、インドに到着とうちゃくしたのは5がつ中旬ちゅうじゅんだった[17]。この部隊ぶたいは、出発しゅっぱつにはまだ訓練くんれん途中とちゅうだったが、新設しんせつされたアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんばくげき航空こうくうだんなかではもっと経験けいけんんだ部隊ぶたいであった[18]

作戦さくせん準備じゅんび

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中国ちゅうごく

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1943ねん11月カイロ会談かいだん
ひだりから蔣介せき、ルーズベルト、チャーチル

1943ねん11月のカイロ会談かいだんにおいて、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルトイギリス首相しゅしょうウィンストン・チャーチル中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ主席しゅせき蔣介せきにマッターホーン計画けいかく提示ていじ計画けいかくへの協力きょうりょく要請ようせいした[19]。このなかでルーズベルトは蔣介せきたいして、B-29が実戦じっせん配備はいびされるはずの1944ねん3がつまつまでに成都せいと周辺しゅうへん飛行場ひこうじょう建設けんせつ完成かんせいさせるよう要請ようせいした。要請ようせいけた翌月よくげつの1943ねん12月、四川しせんしょう主席しゅせきちょうぐん成都せいと緊急きんきゅう会議かいぎをひらき、四川しせんしょう29けんけんちょう関係かんけいしゃ鼓舞こぶするとともに、以下いか飛行場ひこうじょう建設けんせつのための特殊とくしゅ工事こうじ計画けいかく概要がいようつたえた[20]

いち成都せいと近郊きんこうに4カ所かしょばくげき基地きち-新津にいつ、邛崍(きょうらい)、彭山(ほうざん)、こうかん建設けんせつする。また成都せいとほか5カ所かしょ戦闘せんとう出撃しゅつげき基地きち建設けんせつする。
工事こうじ四川しせんしょう人民じんみん夫役ぶやくによっておこなう。29けんから32まんにん徴募ちょうぼする。
さんみんこう食事しょくじは1にち一人ひとり白米はくまい1.4しょうあたえられる。32まんにんたいして5ヶ月かげつあいだ食糧しょくりょう供給きょうきゅうするためのこめひゃくあまりまんせきとそれを建設けんせつ現場げんばはこべ20まんにん夫役ぶやくかくけん負担ふたんする。
よんかくけん夫役ぶやく委員いいんかいもうけて、徴募ちょうぼ作業さぎょう用品ようひん調達ちょうたつ土地とち収用しゅうよう保障ほしょうなどの問題もんだい処理しょりする。いかなる理由りゆうであれ、工事こうじ開始かいしおくれはゆるされない。

当時とうじ中国ちゅうごく近代きんだいてき設備せつびとぼしかったため、建設けんせつ工事こうじ天秤棒てんびんぼう一輪車いちりんしゃなどを使つかい、スコップ、ツルハシだけで掘削くっさく作業さぎょうおこなうなど、建設けんせつ工事こうじはほぼ人力じんりきで、滑走かっそううたてあつのための10トンローラーも人力じんりきくなどされ、工事こうじ作業さぎょうちゅう怪我けが病気びょうきおおくの死者ししゃしている[# 2]

1944ねん4がつ飛行場ひこうじょう建設けんせつ工事こうじはほぼ完成かんせい、4がつ24にち、インドのカラグプールった2のB-29がはじめて中国ちゅうごくんだ。成都せいとこうかん飛行場ひこうじょうに2のB-29が着陸ちゃくりくすると、まだ工事こうじ最中さいちゅうであったなんまんにんもの中国ちゅうごく農民のうみん歓呼かんこをもってこれをむかえた。

べいぐん

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中国ちゅうごく大陸たいりくのB-29基地きちおよびマッターホーン作戦さくせんにおけるばくげき目標もくひょう
中国ちゅうごく大陸たいりく基地きち集積しゅうせきされた燃料ねんりょう

1944ねん5がつ、インドに進出しんしゅつしただい20ばくげき集団しゅうだんは、ケネス・ウォルフじゅんしょう[# 3]指揮しきした日本にっぽん空襲くうしゅうのため様々さまざま準備じゅんび開始かいし[23]さきかったのは中国ちゅうごく基地きちへの燃料ねんりょう備蓄びちくである。1944ねんまつまで、アメリカりく空軍くうぐん輸送ゆそう司令しれい隷下れいか輸送ゆそうだい20ばくげき集団しゅうだんのために使用しようすることはなかったので、中国ちゅうごく前進ぜんしん基地きちまでの燃料ねんりょうとう補給ほきゅうだい20ばくげき集団しゅうだん輸送ゆそうとB-29自身じしんおこな必要ひつようがあった。しかしながら、この方法ほうほう中国ちゅうごく日本にっぽん往復おうふくの1ぶん燃料ねんりょう備品びひん備蓄びちくするにはインド~中国ちゅうごくあいだを12往復おうふくする必要ひつようがあり、またハンプ[# 4] (enえての兵站へいたん行動こうどうとなることから効率こうりつわる[24][25]結果けっか作戦さくせん開始かいし十分じゅうぶん燃料ねんりょう備蓄びちくするには当初とうしょ予測よそく以上いじょう時間じかんがかかった[26]。さらにB-29の技術ぎじゅつてき問題もんだいとくライト R-3350エンジンは信頼しんらいせい改良かいりょう必要ひつようがあったため、機体きたい運用うんよう支障ししょうをきたしていた[27]

1944ねん6がつ5にちだい20ばくげき集団しゅうだんはつ空襲くうしゅうおこなっている。この98のB-29がインド基地きちから発進はっしんし、今後こんご日本にっぽんおよ東南とうなんアジアばくげき見据みすえた「ドレスリハーサル(本番ほんばんまえ最後さいご稽古けいこ)」として、タイバンコク空襲くうしゅうした(バンコク空襲くうしゅう)。あたえた損害そんがいわずかであり、5のB-29を機体きたいのトラブルからうしなったが、だい20ばくげき集団しゅうだんは、ばくげき搭乗とうじょういん有益ゆうえき戦闘せんとう経験けいけんんだことと、B-29の運用うんようかん実戦じっせんのデータがられたことから作戦さくせん成功せいこうしたと評価ひょうかした[28]

1944ねん6がつ6にち、アーノルド司令しれいは、統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶから一刻いっこくはや日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうおこなうようにとの要請ようせいがあったことをウォルフじゅんしょうつたえた。日本にっぽんぐんされ気味ぎみ中国ちゅうごくぐん苦難くなんから解放かいほうし、またサイパンのたたか支援しえんすることがマッターホーン作戦さくせん最終さいしゅう目的もくてきであった。また統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶは6がつ15にち20日はつか出撃しゅつげきするB-29のすうについてもあきらかにするようもとめた。当初とうしょ日本にっぽん本土ほんどへの空襲くうしゅうは6がつ23にち予定よていしていたが、これは100のB-29を運用うんようするのに十分じゅうぶん支援しえん物資ぶっし中国ちゅうごくないはいると予測よそくされていたころ予定よていであり、物資ぶっし備蓄びちく手間取てまどっている現状げんじょうではこの数字すうじ達成たっせいするのは困難こんなんであった。ウォルフじゅんしょうは、6月15にちであれば50のB-29が、20日はつかであれば55作戦さくせん投入とうにゅう可能かのう返信へんしんしたが、アーノルド司令しれいはこのすうではすくなすぎるとして6がつ15にちばくげきには最低さいていでも70出撃しゅつげきさせるようめいじた。この命令めいれいをうけ、だい20爆撃ばくげき集団しゅうだんのB-29と輸送ゆそうは、よりおおくの燃料ねんりょう中国ちゅうごく基地きち移動いどうさせるため、中国ちゅうごく基地きちでの戦闘せんとうによる戦闘せんとう行動こうどうらすなどして集中しゅうちゅうてき燃料ねんりょう確保かくほはかった。おなじころ地上ちじょう整備せいびいんは、B-29の機体きたい信頼しんらいせいたかめ、1でもおお運用うんよう可能かのう状態じょうたいにするために整備せいびはげんだ[29]

ばくげき目標もくひょうには、成都せいとから2600kmの距離きょりにある九州きゅうしゅう北部ほくぶ工業こうぎょう都市とし八幡やはたえらばれた[30]。これは、だい20航空こうくうぐん司令しれいが1944ねん4がつ1にちくだした、日本にっぽん鉄鋼てっこうぎょうおよびコークス製造せいぞうぎょう壊滅かいめつ戦略せんりゃくばくげきさい優先ゆうせん目的もくてきとする決断けつだんるものである[31]八幡やはた市内しない官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょは、当時とうじ日本にっぽん全体ぜんたい圧延あつえんこうの24%を生産せいさんするなど、日本にっぽん鉄鋼てっこうぎょうにおいてもっと重要じゅうよう施設しせつであり、3つのコークスがあったが、そのうちもっとおおきな東田ひがしだのコークスがB-29ばくげきだいいち目標もくひょうとなった[32]。またろうかま現在げんざい江蘇ちぁんすーしょうれんくもみなと)は重要じゅうよう工業こうぎょうみなとであったためだい2目標もくひょうとされた[33]。なお空襲くうしゅう夜間やかんおこなうこととし、燃料ねんりょう節約せつやくのためB-29かく編隊へんたいまず個々ここばくげきをすることとした[33]

日本にっぽんぐん

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「B-29はばくげきとしてヨーロッパ方面ほうめん配備はいびされ、CBI戦域せんいき (enでは輸送ゆそう手段しゅだんとしてのみ使用しようされる」といったおとり(おとり)の報道ほうどうながすなど、べいぐんによる入念にゅうねん情報じょうほう操作そうさをしたにもかかわらず、日本にっぽんぐんはB-29がインドおよび中国ちゅうごく基地きちばくげき準備じゅんびをしていたことを察知さっちしていた[34]。さらに中国ちゅうごく潜伏せんぷくしていた日本にっぽんぐん工作こうさくいんは、すべてのB-29のうごきを把握はあく報告ほうこくしていたため、かり日本にっぽんへの空襲くうしゅうがあっても本土ほんど到達とうたつ数時間すうじかんまえ察知さっち可能かのうであった[35]日本にっぽんぐん情報じょうほうは、このじゅう爆撃ばくげき兵站へいたん準備じゅんびととの次第しだい九州きゅうしゅう北部ほくぶぐん施設しせつ夜間やかん爆撃ばくげきすると推測すいそくしていた[36]。なお1944ねん4がつ26にちには、中国ちゅうごくとインドの国境こっきょう付近ふきん日本にっぽん陸軍りくぐん一式いっしき戦闘せんとうはやぶさ」2がB-29とはつ交戦こうせんてき損害そんがいあたえている[36]

1944ねん初頭しょとう、B-29による本土ほんど空爆くうばく予期よきした日本にっぽん陸軍りくぐんは、中国ちゅうごくおよ太平洋たいへいよう戦線せんせん配備はいびされた航空機こうくうき本土ほんど防衛ぼうえいのため内地ないち移転いてんさせた[37]。1944ねん6がつ八幡やはた日本にっぽん陸軍りくぐん西部せいぶぐん守備しゅびかれ[38]飛行ひこうだい4戦隊せんたいおよ飛行ひこうだい59戦隊せんたい隷下れいかだい19飛行ひこうだん編成へんせいされた。だい4戦隊せんたい山口やまぐちけん小月おづき飛行場ひこうじょう拠点きょてんとし、しきふく戦闘せんとうほふりゅう」35配備はいびされ、うち6がつ中旬ちゅうじゅん時点じてん戦闘せんとう即応そくおうできた25飛行ひこうだんなかでももっと熟練じゅくれんしたパイロットにまわされた。だい59戦隊せんたい福岡ふくおかけん芦屋あしや飛行場ひこうじょう編成へんせいされ25さんしき戦闘せんとう飛燕ひえん」を運用うんようすることとなったが、6がつ中旬ちゅうじゅん実戦じっせん稼働かどうできたのはそのうちたった7~8であった[39]。このほか八幡やはたふく九州きゅうしゅう北部ほくぶ地域ちいき対空たいくうほう防空ぼうくう気球ききゅう防備ぼうびされていた[40]。また早期そうき警戒けいかいのためレーダー基地きち監視かんしもうそなえてあった[41]

だい19飛行ひこうだん編成へんせい初期しょき目的もくてき九州きゅうしゅう北部ほくぶ工業こうぎょう施設しせつ、とくに八幡やはた製鐵せいてつしょ防衛ぼうえいすることであり、防衛ぼうえい計画けいかくじょう八幡やはた上空じょうくう戦闘せんとう集中しゅうちゅう待機たいきさせ、この空域くういきからとおくへは移動いどうしてはならないとされた。だい19飛行ひこうだんはこうした柔軟じゅうなんせいのない戦闘せんとう配置はいちには不満ふまんであったが、実際じっさい出撃しゅつげき可能かのう戦闘せんとうかぎられ、また夜間やかん戦闘せんとう支援しえんするサーチライトぐん重要じゅうようする施設しせつのある八幡はちまんおよび九州きゅうしゅう北部ほくぶにしか配備はいびされていない状況じょうきょうでは、作戦さくせん行動こうどう制限せいげんがあるのはむをないことであった[42]。なお空襲くうしゅうまえだい19飛行ひこうだん味方みかた対空たいくう高射こうしゃほうとの共同きょうどう訓練くんれん計画けいかくし、また警報けいほうへの対応たいおう夜間やかん飛行ひこう演習えんしゅうねた訓練くんれん実施じっししている[43]

空襲くうしゅう

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1944ねん6がつ13にちだい58ばくげき航空こうくうだん所属しょぞくのB-29はインドから中国ちゅうごく前進ぜんしん基地きちへの移動いどう開始かいしし、6月15にちまでに83のB-29スーパーフォートレスが成都せいと周辺しゅうへんの4つの飛行場ひこうじょう到着とうちゃくした。だが中国ちゅうごく到達とうたつすることができずにインドへかえした機体きたいすくなくとも12あり、その墜落ついらく搭乗とうじょういん全員ぜんいん死亡しぼうしたもあった。B-29は各々おのおの空襲くうしゅうように500ポンドばくだん4はつ(2ショートトン(=1,800kg)ぶん)を搭載とうさいした。このとき大将たいしょう8めいふく多数たすう参謀さんぼう将校しょうこうが、視察しさつのためとしょうして成都せいと基地きちおとずれたが、空襲くうしゅう参加さんかすることはゆるされなかった。その一方いっぽうジャーナリスト8めい報道ほうどう写真しゃしん3めいがB-29に搭乗とうじょうしている[44]。なお、当時とうじアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんには直近ちょっきん日本にっぽん工業こうぎょう地帯ちたい撮影さつえいした写真しゃしんがほとんどなく、八幡やはた空襲くうしゅうのブリーフィングで使用しようした地図ちず写真しゃしんは10ねん以上いじょうまえの、1920年代ねんだい後半こうはんから1930年代ねんだい前半ぜんはんのものであった[45]

6月15にち1616ふん、B-29は基地きちから離陸りりく開始かいしした[46]だい58ばくげき航空こうくうだんのラベーヌ・サンダースじゅんしょう[# 5]作戦さくせん指揮しきをとった[30]出撃しゅつげき75のうちR・E・ヒューズ大尉たいい指揮しきする1機体きたい番号ばんごう#42-6229)は離陸りりく直後ちょくご墜落ついらく[48]さらに4機械きかいトラブルでかえしているが、のこり70沖ノ島おきのしま経由けいゆ一路いちろ九州きゅうしゅう八幡やはた目指めざした[46]だい58ばくげき航空こうくうだんの4部隊ぶたいは、それぞれ2のB-29を先行せんこうさせ、そのうしろを飛行ひこうする航法こうほうをとった。この航法こうほうは、先行せんこう飛行ひこう目標もくひょうとなり、またそのつくりだす気流きりゅうって燃料ねんりょう節約せつやくするためであり、イギリス空軍くうぐん欧州おうしゅう戦線せんせん採用さいようしたものである[49]ばくげきたい中国ちゅうごく日本にっぽん陸軍りくぐんおよび陸軍りくぐん航空こうくうぐんによって察知さっちされた。「ばくげき九州きゅうしゅう北部ほくぶかっており真夜中まよなか現地げんち到着とうちゃくする」との報告ほうこく日本にっぽん陸軍りくぐんだい19飛行ひこうだんにもつたえられた。その済州さいしゅうとうのレーダー基地きち監視かんししょ現地げんち時間じかんの23:31から00:30にかけてばくげき捕捉ほそくした。空襲くうしゅう警報けいほうは00:24に発令はつれいされ、その3ふんには飛行ひこうだい4戦隊せんたいの24の「ほふりゅう戦闘せんとう北九州きたきゅうしゅう上空じょうくう警戒けいかいのため離陸りりくした[50][# 6]だい59戦隊せんたいは、夜間やかん作戦さくせんにおいてだい4戦隊せんたい夜間やかん戦闘せんとう共同きょうどう訓練くんれんをしておらず、運用うんようする機体きたい飛燕ひえん」には機械きかいてき問題もんだいがあり、また出撃しゅつげきすることで芦屋あしや飛行場ひこうじょう発見はっけんされ、ぎゃく攻撃こうげきすることもおそれられたため緊急きんきゅう発進はっしん見合みあわせた[52]

6月16にち0038ふん、B-29は八幡はちまん上空じょうくう到達とうたつしおよそ2あいだにもおよばくげき開始かいしした。だが市街地しがいちにはすで灯火ともしび管制かんせいかれており、さらにこのばんまち全体ぜんたいおおかくされていたため、ばくげき目標もくひょう視認しにんできたのはたったの15であった。のこり32はレーダー照準しょうじゅんばくげきおこなった。なお、八幡はちまん以外いがいでは2ろうかまこう爆撃ばくげきしており、またべつの5臨機りんき目標もくひょうへのばくげきおこなったため、この空襲くうしゅうでのばくだん総トン数そうとんすうは107トンになる[53][54]。また、最初さいしょばくだん投下とうかされたのち作戦さくせん定時ていじ連絡れんらくをワシントンのだい20司令しれいにしているが、このときアーノルド司令しれいロンドンにいた[55]ばくげきたいけた対空たいくう砲火ほうかはげしいものであったが、あまり正確せいかくではなかった。また八幡はちまん周辺しゅうへん配備はいびされていたサーチライトはほとんどやくにたなかった[46]だい4戦隊せんたい戦闘せんとうはB-29を1撃墜げきついしたが、そもそも空戦くうせんむこと自体じたい困難こんなんであり、迎撃げいげきはままならなかった[56]

空襲くうしゅう中国ちゅうごく基地きちへの帰還きかん飛行ひこうおおむ良好りょうこうであった。1がエンジン不調ふちょうのため中国ちゅうごく河南かなんしょう内郷うちごう飛行場ひこうじょう着陸ちゃくりくしたところ日本にっぽん軍機ぐんき機銃きじゅう掃射そうしゃ破壊はかいされた。帰還きかんちゅうに2墜落ついらく搭乗とうじょういん全員ぜんいん同乗どうじょうニューズウィーク記者きしゃ死亡しぼうしている[57][58]。この空襲くうしゅうでのアメリカがわそう損害そんがいはB-29を7損失そんしつ、さらに6敵対てきたい空砲くうほう損傷そんしょうし、搭乗とうじょういん57めいとジャーナリスト1めい死亡しぼうしている[59]。なお空襲くうしゅうから数日すうじつあいだ多数たすうのB-29が燃料ねんりょう不足ふそくのため中国ちゅうごくない足止あしどめを余儀よぎなくされ、ウォルフじゅんしょうだい312飛行ひこうたいから57,000リットルの燃料ねんりょうりることでようやくインドにもどることができた。この数日すうじつあいだ燃料ねんりょうがほとんど航空機こうくうき出撃しゅつげきがほぼ不可能ふかのうであり、日本にっぽんぐん報復ほうふく攻撃こうげきたいして非常ひじょう脆弱ぜいじゃく状態じょうたいであったが、日本にっぽんぐんなん攻撃こうげきもしなかった[57]

影響えいきょう

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この空襲くうしゅうによって八幡やはた製鐵せいてつしょこうむった損害そんがい皆無かいむってもよいほどであった。空襲くうしゅうから2にちった6がつ18にち、アメリカりく空軍くうぐんだい14空軍くうぐん攻撃こうげき目標もくひょう状態じょうたい確認かくにんするため航空こうくう写真しゃしん撮影さつえいしているが、これらの写真しゃしんによると製鐵せいてつしょ敷地しきちないちたばくだんはたったの1はつで、それももっともちかいコークスから1100メートルもはなれた発電はつでんしょ着弾ちゃくだんしたものであった。同様どうよう小倉おぐら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょうやほかの工業こうぎょう施設しせつおよび市街地しがいち建物たてものもほとんど空襲くうしゅうによる被害ひがいけていなかったと報告ほうこくされた。(実際じっさいには小倉おぐら造兵ぞうへいしょう周辺しゅうへん市街地しがいちばくげき死傷ししょうしゃ多数たすうている。)アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんはこうした事実じじつをありのままに報告ほうこくしたにもかかわらず、アメリカのメディアは空襲くうしゅう結果けっか誇張こちょうして報道ほうどうした[60]一方いっぽうばくげき部隊ぶたい空戦くうせんこうむった損害そんがい軽微けいびであったことと、B-29が収集しゅうしゅうしたレーダー電磁でんじ放射ほうしゃからの情報じょうほうエリント)によって日本にっぽんのレーダーと防空ぼうくうりょく無力むりょくであることがあきらかになった。これをけてアメリカりく空軍くうぐんは6がつ21にち日本にっぽん朝鮮ちょうせんのほぼ全域ぜんいき航空こうくう写真しゃしん偵察ていさつするため1のB-29を発進はっしんさせた。偵察ていさつ成功せいこうし、べいぐん日本にっぽん朝鮮ちょうせんについてよりしつたか情報じょうほう入手にゅうしゅすることができた[61]八幡やはた空襲くうしゅうおなべいぐんがサイパンとう上陸じょうりくしたとの報道ほうどうは、戦局せんきょく先行さきゆきを暗示あんじするものであった[55]

八幡やはた空襲くうしゅうにより日本にっぽん防空ぼうくう体制たいせい深刻しんこく欠陥けっかんりになった。当初とうしょだい19飛行ひこうだんは8のB-29を撃墜げきついさらに4損傷そんしょうさせたと主張しゅちょうしたが、すぐにドゥーシャン・D・イワノビッチ大尉たいい指揮しきリンバードゥーガンともういちのたった2しか撃墜げきついされていないことが判明はんめいした。75ちゅう2撃墜げきついという数字すうじは、本土ほんど空襲くうしゅうするてき迎撃げいげきした比率ひりつとしてはひくすぎるとかんがえられた。日本にっぽん本土ほんどには飛行場ひこうじょうすくなすぎ、夜間やかん戦闘せんとう対応たいおうした航空機こうくうき十分じゅうぶんには配備はいびされていないことがこの空襲くうしゅう証明しょうめいされたかたちとなった。また、迎撃げいげき使用しようされた戦闘せんとうほふりゅう」はB-29よりも速度そくどおそく、けい武装ぶそうで、さらにほとんどの機体きたいにはレーダーが装備そうびされていなかったため、B-29を撃墜げきついするには性能せいのう不足ふそくであることもあきらかになった。一方いっぽう空襲くうしゅう警報けいほう体制たいせいは、この空襲くうしゅうでは機能きのうしたとえるが、てき捕捉ほそくしたレーダーは高度こうどまでは特定とくていできなかったため、さらなる改良かいりょう必要ひつようとされた[62]

1944ねん6がつ15にちから16にちにかけての八幡やはた空襲くうしゅう皮切かわきりに、アメリカりく空軍くうぐん日本にっぽんたいする戦略せんりゃくばくげき本格ほんかくした[63]八幡やはたは8がつ20日はつか昼夜ちゅうや2かいにわたってB-29けい61によるばくげきけ、迎撃げいげきにあたっただい4戦隊せんたいはB-29をふくけい4撃墜げきついするなどしたが、戸畑とばた八幡やはた市内しないではひゃくすうじゅうめい死傷ししょうしゃした[64]

だい20爆撃ばくげき集団しゅうだんが1944ねん6がつから1945ねん3がつにかけて中国ちゅうごくおよびインド基地きちからおこなった空襲くうしゅうは49かいおよんだが、マッターホルン作戦さくせんいまだその目的もくてきたっしていなかった。他方たほうおなだい20空軍くうぐん隷下れいかだい21爆撃ばくげき集団しゅうだんは1944ねん10がつ28にちからマリアナ諸島しょとう拠点きょてんとした日本にっぽん本土ほんどばくげき作戦さくせんはじめており、こちらのほう有効ゆうこうであったため、だい20爆撃ばくげき集団しゅうだんは1945ねんはじめにマリアナ諸島しょとう移転いてんした[65][66]

慰霊いれい

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1944ねん6がつ16にち八幡やはた空襲くうしゅうでは、目標もくひょうとされた八幡やはた製鐵せいてつしょよりもむしろ市街地しがいちほう被害ひがいおおきく、ばくげきけた北九州きたきゅうしゅう5では八幡やはた69めい小倉おぐら94めい戸畑とばた53めい門司もじ34めい若松わかまつ6めいけい256めい犠牲ぎせいとなった[# 7]。なかでも小倉北こくらきた大手町おおてまち周辺しゅうへんにあった小倉おぐら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう施設しせつ直撃ちょくげきだんけ、学徒がくと動員どういんされていた10代の若者わかものなど、80めい以上いじょういのちとした。

こうした犠牲ぎせいしゃ追悼ついとうするため、空襲くうしゅうから65ねんの2009ねん4がつ5にち小倉北こくらきたなが照寺しょうじきゅう小倉おぐら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう空襲くうしゅう犠牲ぎせいしゃいしぶみ建立こんりゅうされた[68]慰霊いれい建立こんりゅう尽力じんりょくした遺族いぞくかい工藤くどうみのる代表だいひょうは、この空襲くうしゅう義弟ぎてい当時とうじ17さい)をくしており、そのとき体験たいけんについてつまともNHK戦争せんそう証言しょうげんアーカイブスうえ証言しょうげんをのこしている[69]おなじくNHK戦争せんそう証言しょうげんアーカイブスでみずからの体験たいけんかたった加藤かとうあきらは、証言しょうげん最後さいごつぎのようにめくくった[70]

やっぱり、こういう経験けいけん、こういうことがあったということを、一人ひとりでもってもらったらね、あそこでくなったひとも、自分じぶんたちは見捨みすてられて、しまいにはわすれられてしまうんじゃないだろうかという気持きもちでってしまった。それがいま、はなすことで、ああ、あそこに兵器廠へいきしょうあったとだいぶかってくれたからですね。犠牲ぎせいになられたかたもかばれるとおもうですね。

加藤かとうあきら(NHK戦争せんそう証言しょうげんアーカイブスより)

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ドーリットル空襲くうしゅう一過いっかせい奇襲きしゅう攻撃こうげきであったが、八幡やはた空襲くうしゅうはB-29の配備はいび念頭ねんとう周到しゅうとう準備じゅんびしも実行じっこうされた空襲くうしゅうであり、その1ねん2カ月かげつにわたる日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうだいいちだんであった[6]
  2. ^ 簡陽けんだけで、怪我けが病気びょうきによりすうひゃくめい死者ししゃがでた[21]
  3. ^ Kenneth B. Wolfe。もとべい陸軍りくぐん物資ぶっし調達ちょうたつ本部ほんぶちょうべい政府せいふ試作しさくすら完成かんせいしていないB-29を大量たいりょう発注はっちゅうしたことをとらえ、後日ごじつ「30おくドルのだいバクチ」だったと表現ひょうげんした[22]
  4. ^ 英語えいご:hump。「こぶ」の意味いみ。ここではヒマラヤ山脈さんみゃくのこと。
  5. ^ Laverne G. Saunders。ガダルカナルせんではB17爆撃ばくげき搭乗とうじょう航空こうくう攻撃こうげき指揮しきした。1944ねん7がつからはウォルフじゅんしょう後任こうにんとしてだい20爆撃ばくげき集団しゅうだん司令しれいかんつとめる[47]
  6. ^ かし『B29撃墜げきつい』によると、日本にっぽんがわ出動しゅつどうすうは12[51]
  7. ^ 北九州きたきゅうしゅう空襲くうしゅう記録きろくするかい調しらべ。合計ごうけい633めいという記録きろくもある[67]

参照さんしょう

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  1. ^ a b 森山もりやま(2007)、p.28
  2. ^ かし(2005)、p.51
  3. ^ 前田まえだ(2006)、p.486
  4. ^ 工藤くどう奥住おくずみ(2008)、p.29
  5. ^ 前田まえだ(2006)、p.488
  6. ^ 森山もりやま(2007)、pp.28-29
  7. ^ 工藤くどう奥住おくずみ(2008)、p.1
  8. ^ America Hits Back: The Doolittle Tokyo Raiders”. Factsheets. National Museum of the US Air Force. 2011ねん7がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ31にち閲覧えつらん
  9. ^ Correll (2009), p. 62
  10. ^ Polmar (2004), pp. 4–5
  11. ^ Cate (1953), pp. 6–8
  12. ^ Cate (1953), pp. 52–57
  13. ^ Correll (2009), pp. 62–63
  14. ^ Cate (1953), pp. 75–79
  15. ^ Tillman (2010), p. 41
  16. ^ Tillman (2010), p. 45
  17. ^ Tillman (2010), pp. 43–44
  18. ^ Cate (1953), p. 57
  19. ^ 太平洋たいへいよう(2003)、p.13
  20. ^ 前田まえだ(2006)、p.482
  21. ^ 前田まえだ(2006)、p.484
  22. ^ 太平洋たいへいよう(2003)、p.11
  23. ^ Frank (1999), p. 50
  24. ^ 工藤くどう奥住おくずみ(2008)、p.15
  25. ^ Correll (2009), p. 64
  26. ^ Cate (1953), p. 98
  27. ^ Correll (2009), p. 63
  28. ^ Cate (1953), pp. 94–98
  29. ^ Cate (1953), pp. 98–99
  30. ^ a b Jablonski (1979), p. 133
  31. ^ Cate (1953), pp. 93–94
  32. ^ 工藤くどう奥住おくずみ(2008)、p.26
  33. ^ a b Cate (1953), p. 99
  34. ^ Cate (1953), pp. 77–79
  35. ^ Tillman (2010), pp. 44–45
  36. ^ a b Sakaida & Takaki (2001), p. 6
  37. ^ Kerr (1991), p. 61
  38. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), pp. 3–5, 129
  39. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), pp. 129–130
  40. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), p. 132
  41. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), pp. 134–136
  42. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), pp. 131–132
  43. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), pp. 132, 142–143
  44. ^ Cate (1953), pp. 99–100
  45. ^ Cate (1953), p. 164
  46. ^ a b c Cate (1953), p. 100
  47. ^ 太平洋たいへいよう(2003)、p.16
  48. ^ 燃料ねんりょう弾薬だんやく爆発ばくはつ機体きたいぜんそんしたものの乗員じょういん全員ぜんいんはしって奇跡きせきてき死傷ししょうしゃなかった。
  49. ^ Tillman (2010), pp. 50–51
  50. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), pp. 144–146
  51. ^ かし(2005)、pp.51-55
  52. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), p. 147
  53. ^ Cate (1953), pp. 100–101
  54. ^ Wolf (2005), 298
  55. ^ a b Cate (1953), p. 102
  56. ^ Tillman (2010), pp. 51–52
  57. ^ a b Cate (1953), p. 101
  58. ^ Jablonski (1979), p. 134
  59. ^ Tillman (2010), p. 52
  60. ^ Cate (1953), pp. 101–103
  61. ^ Brown (1999), pp. 421–422
  62. ^ Foreign Histories Division, Headquarters, United States Army Japan (1980), pp. 147–149
  63. ^ Cate (1953), p. 3
  64. ^ 太平洋たいへいよう(2003)、pp.22-23
  65. ^ Correll (2009), p. 65
  66. ^ Cate (1953), p. 171
  67. ^ 太平洋たいへいよう(2003)、p.21
  68. ^ 大分おおいた合同ごうどう新聞しんぶん 記事きじきゅう小倉こくら陸軍りくぐん造兵ぞうへいしょう空襲くうしゅう 5にち追悼ついとう除幕じょまくしき”. Factsheets. 大分おおいた合同ごうどう新聞しんぶん. 2010ねん10がつ17にち閲覧えつらん
  69. ^ NHK. “戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス”. 2010ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  70. ^ NHK. “戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス”. 2010ねん10がつ22にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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日本語にほんご資料しりょう

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  • 工藤くどう洋三ようぞう奥住おくずみ喜重よししげ 編著へんちょ写真しゃしんかた日本にっぽん空襲くうしゅう現代げんだい史料しりょう出版しゅっぱん、2008ねんISBN 9784877851828 
  • 森山もりやま康平やすひら暗号あんごうめいは「マッターホーン」計画けいかく別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん60 日本大にほんだい空襲くうしゅう日本にっぽん列島れっとうくしたべいぐん差別さべつ爆撃ばくげき だい2しょう)』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2007ねんISBN 4404033605 
  • 前田まえだ哲男てつお戦略せんりゃくばくげき思想しそう―ゲルニカ-重慶たーちん-広島ひろしまへの軌跡きせき凱風社がいふうしゃ、2006ねんISBN 4773630094 
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう研究けんきゅうかい 編著へんちょ図説ずせつ アメリカぐん日本にっぽん焦土しょうど作戦さくせん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2003ねんISBN 4-309-76028-7 
  • かしいさむ『B29撃墜げきつい 夜戦やせんほふりゅう撃墜げきついおうかしいさむ空戦くうせん記録きろく光人みつひとしゃ NF文庫ぶんこ、2005ねんISBN 4-7698-2203-0 しお書房しょぼうまる平成へいせい9ねん(1997ねん)7がつごう~平成へいせい10ねん(1998ねん)2がつごう連載れんさい原題げんだいわたしは「B-29」26撃墜げきついした!」の文庫本ぶんこぼん。)
  • 平塚ひらつかまさきいとぐちべいぐん記録きろくした日本にっぽん空襲くうしゅうくさおもえしゃ、1995ねんISBN 4-7942-0594-5

英語えいご資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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