この項目 こうもく では、1944年 ねん 6月 がつ の空襲 くうしゅう について説明 せつめい しています。1945年 ねん 8月 がつ の空襲 くうしゅう については「八幡 はちまん 大 だい 空襲 くうしゅう 」をご覧 らん ください。
八幡 やはた 空襲 くうしゅう 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 、太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 なか 1944年 ねん 6月 がつ 15日 にち 、八幡 やはた 空襲 くうしゅう 直前 ちょくぜん のB-29衝突 しょうとつ した勢力 せいりょく
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく
大日本帝国 だいにっぽんていこく 戦力 せんりょく
B-29 75機 き
迎撃 げいげき 戦闘 せんとう 機 き 24機 き 対空 たいくう 砲 ほう 被害 ひがい 者 しゃ 数 すう
死亡 しぼう :搭乗 とうじょう 員 いん 57名 めい 、報道 ほうどう 記者 きしゃ 1名 めい 損失 そんしつ :B-29 7機 き
施設 しせつ 損害 そんがい :小倉 こくら 造兵 ぞうへい 廠 しょう (八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ の損害 そんがい は軽微 けいび )死傷 ししょう 者 しゃ :八幡 やはた 市街地 しがいち で270名 めい 以上 いじょう [1]
八幡 やはた 空襲 くうしゅう (やはたくうしゅう)は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の1944年 ねん 6月16日 にち 未明 みめい 、アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 第 だい 58爆撃 ばくげき 団 だん の戦略 せんりゃく 爆撃 ばくげき 機 き B-29 が行 おこな った初 はじ めての日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう 。九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ の官営 かんえい 八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ を第 だい 一 いち 目標 もくひょう とし計 けい 75機 き のB-29が出撃 しゅつげき 、うち47機 き が八幡 やはた 市 し などを爆撃 ばくげき した。製鐵 せいてつ 所 しょ の被害 ひがい は極 ごく 僅 わず かだったが、爆 ばく 撃 げき は北九州 きたきゅうしゅう 5都市 とし (八幡 やはた 、小倉 おぐら 、戸畑 とばた 、門司 もじ 、若松 わかまつ )におよび、270名 めい 以上 いじょう が犠牲 ぎせい となった。米 べい 軍 ぐん 側 がわ 報告 ほうこく では作戦 さくせん 中 ちゅう の事故 じこ で5機 き のB-29が損失 そんしつ 、2機 き が日本 にっぽん 軍機 ぐんき により撃墜 げきつい とされた。これに対 たい し、日本 にっぽん 側 がわ 報告 ほうこく では撃墜 げきつい 6機 き (内 うち 不 ふ 確実 かくじつ 2機 き )、撃破 げきは 7機 き 、日本 にっぽん 側 がわ 被弾 ひだん 機 き 1機 き と報 ほう じられた[2] 。
目標 もくひょう の八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ コークス炉 ろ への命中 めいちゅう 弾 だん はなく[1] 、空襲 くうしゅう 自体 じたい は不首尾 ふしゅび だったが、同日 どうじつ サイパン島 とう に米 べい 海軍 かいぐん の上陸 じょうりく を許 ゆる したこともあり(サイパン島 とう の戦 たたか い )、大本営 だいほんえい は八幡 はちまん 空襲 くうしゅう の報 ほう に衝撃 しょうげき を受 う けた[3] 。一方 いっぽう でアメリカや中国 ちゅうごく ではこの空襲 くうしゅう の成果 せいか が大々的 だいだいてき に報道 ほうどう された[4] [5] 。作戦 さくせん 中 ちゅう B-29の収集 しゅうしゅう した情報 じょうほう によって日本 にっぽん 本土 ほんど の防空 ぼうくう 体制 たいせい の脆弱 ぜいじゃく さが明 あき らかとなり、その後 ご の大 だい 規模 きぼ な本土 ほんど 空襲 くうしゅう の発端 ほったん ともなった[# 1] 。
八幡 やはた 市 し は、1944年 ねん 8月 がつ 20日 はつか に中国 ちゅうごく から飛来 ひらい したB-29によって2度目 どめ の空襲 くうしゅう を受 う け、さらに翌 よく 1945年 ねん 8月 がつ 8日 にち の3度目 どめ の空襲 くうしゅう (八幡 はちまん 大 だい 空襲 くうしゅう )ではマリアナ諸島 しょとう 基地 きち 発 はつ のB-29が焼夷弾 しょういだん 爆 ばく 撃 げき を行 おこな い、罹災 りさい 者 しゃ 数 すう 5万 まん 2562人 にん 、罹災 りさい 戸数 こすう 1万 まん 4000戸 こ 死傷 ししょう 者 しゃ は約 やく 2,500人 にん の壊滅 かいめつ 的 てき な被害 ひがい を被 こうむ った。
アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん による最初 さいしょ の日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう は、1942年 ねん 4月 がつ 18日 にち 、空母 くうぼ 「ホーネット 」から発 はつ 艦 かん した16機 き のB-25 双発 そうはつ 中型 ちゅうがた 爆撃 ばくげき 機 き が東京 とうきょう などを爆撃 ばくげき したドーリットル空襲 くうしゅう である。この空襲 くうしゅう による日本 にっぽん 側 がわ の損害 そんがい は軽微 けいび であったが、アメリカ国民 こくみん の間 あいだ には大 おお きな反響 はんきょう を呼 よ び起 お こした[7] 。日本 にっぽん 軍 ぐん は本土 ほんど が空襲 くうしゅう されたことに危機 きき 感 かん を覚 おぼ え、本土 ほんど 基地 きち の防空 ぼうくう 用 よう 戦闘 せんとう 機 き の機 き 数 すう を増強 ぞうきょう し、また太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき において攻勢 こうせい に出 で ることで対応 たいおう しようとしたが、それも6月 がつ のミッドウェー海戦 かいせん での敗北 はいぼく により頓挫 とんざ した[8] 。一方 いっぽう のアメリカ陸 りく 空軍 くうぐん も、この空襲 くうしゅう の後 のち B-29が運用 うんよう 可能 かのう となるまでの間 あいだ は、他 た に中国 ちゅうごく 内陸 ないりく 部 ぶ の基地 きち から日本 にっぽん 本土 ほんど まで往復 おうふく するのに十分 じゅうぶん な航続 こうぞく 距離 きょり をもつ航空機 こうくうき がなったため、日本 にっぽん 本土 ほんど へ空襲 くうしゅう をしかけることはできなかった[9] 。
B-29の運用 うんよう 開始 かいし には困難 こんなん が伴 ともな った。機体 きたい の設計 せっけい は1940年 ねん 初頭 しょとう から始 はじ まり、最初 さいしょ の試作 しさく 機 き は1942年 ねん 9月 がつ 21日 にち に完成 かんせい 、「スーパーフォートレス(超 ちょう 空 そら の要塞 ようさい )」のニックネームを持 も つこの機体 きたい は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 最大 さいだい の爆 ばく 撃 げき 機 き であり、当時 とうじ 最大 さいだい の爆 ばく 弾 だん 搭載 とうさい 量 りょう と最長 さいちょう の航続 こうぞく 距離 きょり 、また強力 きょうりょく な防御 ぼうぎょ 砲火 ほうか を誇 ほこ った[10] 。また与 あずか 圧 あつ 室 しつ や機銃 きじゅう 砲塔 ほうとう の遠隔 えんかく 操作 そうさ 、火器 かき 管制 かんせい 装置 そうち といった当時 とうじ の最新 さいしん 技術 ぎじゅつ が導入 どうにゅう されている。アメリカ陸 りく 空軍 くうぐん は初 はつ 飛行 ひこう に先立 さきだ ってB-29を1,664機 き 発注 はっちゅう したが、1943年 ねん 2月 がつ 18日 にち 2機 き 目 め の試作 しさく 機 き の墜落 ついらく で開発 かいはつ にさらに数 すう か月 げつ を要 よう することとなった。一方 いっぽう でこの間 あいだ に機体 きたい 設計 せっけい 上 じょう の問題 もんだい は少 すこ しずつ改善 かいぜん された[11] 。1943年 ねん 6月 がつ に設立 せつりつ された第 だい 58爆撃 ばくげき 団 だん (第 だい 58爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん )はアメリカ陸 りく 空軍 くうぐん 初 はつ のB-29運用 うんよう 部隊 ぶたい であったが、実際 じっさい の機体 きたい 受領 じゅりょう は10月 がつ になってからであった。B-29配備 はいび の遅 おく れと機体 きたい トラブルで、爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん は訓練 くんれん スケジュールにも支障 ししょう をきたす有様 ありさま であった。なおB-29が実戦 じっせん 配備 はいび 可能 かのう となったのは、1944年 ねん 3月 がつ 、後 のち に「バトル・オブ・カンザス (en ) 」と呼 よ ばれる、戦闘 せんとう に即応 そくおう しうる機体 きたい を生産 せいさん する計画 けいかく が始 はじ まってからのことである[12] 。
1943年 ねん 末 まつ 、アメリカ軍 ぐん 統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は、インド基地 きち 及 およ び建設 けんせつ 予定 よてい の中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 基地 きち にB-29を配備 はいび し、日本 にっぽん 本土 ほんど 及 およ び東 ひがし アジア方面 ほうめん へ戦略 せんりゃく 爆撃 ばくげき を行 おこな う計画 けいかく を承認 しょうにん した。マッターホルン作戦 さくせん と命名 めいめい されたこの戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき 計画 けいかく の実行 じっこう にあたっては、インド東部 とうぶ ベンガル 基地 きち から出発 しゅっぱつ したB-29が、日本 にっぽん 爆 ばく 撃 げき の際 さい に給油 きゅうゆ を受 う けられるよう、連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん の貨物 かもつ 輸送 ゆそう 機 き によって中国 ちゅうごく 内陸 ないりく 部 ぶ の成都 せいと 近郊 きんこう に大 だい 規模 きぼ な飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ が必要 ひつよう とされた[13] 。1943年 ねん 12月、作戦 さくせん 遂行 すいこう の任務 にんむ を受 う けた第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん はアメリカ本土 ほんど から海路 かいじ インドへと移動 いどう [14] [15] 、さらに1944年 ねん 4月 がつ にはB-29全 ぜん 機 き の作戦 さくせん 行動 こうどう を監督 かんとく するために第 だい 20空軍 くうぐん を編成 へんせい 、前例 ぜんれい のない手段 しゅだん ではあったが、アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい ヘンリー・アーノルド 大将 たいしょう はこの部隊 ぶたい をペンタゴン から指揮 しき した[16] 。なお第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん の主力 しゅりょく である第 だい 58爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん は、4月 がつ にカンザス州 しゅう からの移動 いどう を開始 かいし したが、インドに到着 とうちゃく したのは5月 がつ 中旬 ちゅうじゅん だった[17] 。この部隊 ぶたい は、出発 しゅっぱつ 時 じ にはまだ訓練 くんれん 途中 とちゅう だったが、新設 しんせつ されたアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん の中 なか では最 もっと も経験 けいけん を積 つ んだ部隊 ぶたい であった[18] 。
1943年 ねん 11月カイロ会談 かいだん 左 ひだり から蔣介石 せき 、ルーズベルト、チャーチル
1943年 ねん 11月のカイロ会談 かいだん において、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう フランクリン・ルーズベルト はイギリス 首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル と中華民国 ちゅうかみんこく 国民 こくみん 政府 せいふ 主席 しゅせき 蔣介石 せき にマッターホーン計画 けいかく を提示 ていじ 、計画 けいかく への協力 きょうりょく を要請 ようせい した[19] 。この中 なか でルーズベルトは蔣介石 せき に対 たい して、B-29が実戦 じっせん 配備 はいび されるはずの1944年 ねん 3月 がつ 末 まつ までに成都 せいと 周辺 しゅうへん の飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ を完成 かんせい させるよう要請 ようせい した。要請 ようせい を受 う けた翌月 よくげつ の1943年 ねん 12月、四川 しせん 省 しょう 主席 しゅせき 張 ちょう 群 ぐん は成都 せいと で緊急 きんきゅう 会議 かいぎ をひらき、四川 しせん 省 しょう 29県 けん の県 けん 長 ちょう ら関係 かんけい 者 しゃ を鼓舞 こぶ するとともに、以下 いか 飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ のための特殊 とくしゅ 工事 こうじ 計画 けいかく の概要 がいよう を伝 つた えた[20] 。
一 いち 、成都 せいと 近郊 きんこう に4カ所 かしょ の爆 ばく 撃 げき 機 き 基地 きち -新津 にいつ 、邛崍(きょうらい)、彭山(ほうざん)、広 こう 漢 かん を建設 けんせつ する。また成都 せいと ほか5カ所 かしょ に戦闘 せんとう 機 き 出撃 しゅつげき 基地 きち を建設 けんせつ する。
二 に 、工事 こうじ は四川 しせん 省 しょう 人民 じんみん の夫役 ぶやく によって行 おこな う。29県 けん から32万 まん 人 にん を徴募 ちょうぼ する。
三 さん 、民 みん 工 こう の食事 しょくじ は1日 にち 一人 ひとり 白米 はくまい 1.4升 しょう 与 あた えられる。32万 まん 人 にん に対 たい して5ヶ月 かげつ 間 あいだ 食糧 しょくりょう を供給 きょうきゅう するための米 こめ 百 ひゃく 余 あまり 万 まん 石 せき とそれを建設 けんせつ 現場 げんば に運 はこ ぶ延 の べ20万 まん 人 にん の夫役 ぶやく は各 かく 県 けん で負担 ふたん する。
四 よん 、各 かく 県 けん は夫役 ぶやく 委員 いいん 会 かい を設 もう けて、徴募 ちょうぼ 、作業 さぎょう 用品 ようひん 調達 ちょうたつ 、土地 とち 収用 しゅうよう 、保障 ほしょう などの問題 もんだい を処理 しょり する。いかなる理由 りゆう であれ、工事 こうじ 開始 かいし の遅 おく れは許 ゆる されない。
当時 とうじ 中国 ちゅうごく は近代 きんだい 的 てき な設備 せつび が乏 とぼ しかったため、建設 けんせつ 工事 こうじ は天秤棒 てんびんぼう や一輪車 いちりんしゃ などを使 つか い、スコップ、ツルハシだけで掘削 くっさく 作業 さぎょう を行 おこな うなど、建設 けんせつ 工事 こうじ はほぼ人力 じんりき で、滑走 かっそう 路 ろ 転 うたて 圧 あつ のための10トンローラーも人力 じんりき で引 ひ くなどされ、工事 こうじ 作業 さぎょう 中 ちゅう の怪我 けが や病気 びょうき で多 おお くの死者 ししゃ を出 だ している[# 2] 。
1944年 ねん 4月 がつ 、飛行場 ひこうじょう 建設 けんせつ 工事 こうじ はほぼ完成 かんせい 、4月 がつ 24日 にち 、インドのカラグプール を発 た った2機 き のB-29がはじめて中国 ちゅうごく に飛 と んだ。成都 せいと の広 こう 漢 かん 飛行場 ひこうじょう に2機 き のB-29が着陸 ちゃくりく すると、まだ工事 こうじ の最中 さいちゅう であった何 なん 万 まん 人 にん もの中国 ちゅうごく 農民 のうみん は歓呼 かんこ をもってこれを迎 むか えた。
中国 ちゅうごく 大陸 たいりく のB-29基地 きち 及 およ びマッターホーン作戦 さくせん における爆 ばく 撃 げき 目標 もくひょう
中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 基地 きち に集積 しゅうせき された燃料 ねんりょう
1944年 ねん 5月 がつ 、インドに進出 しんしゅつ した第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん は、ケネス・ウォルフ准 じゅん 将 しょう [# 3] の指揮 しき の下 した 、日本 にっぽん 空襲 くうしゅう のため様々 さまざま な準備 じゅんび を開始 かいし [23] 。真 ま っ先 さき に取 と り掛 か かったのは中国 ちゅうごく 基地 きち への燃料 ねんりょう の備蓄 びちく である。1944年 ねん 末 まつ まで、アメリカ陸 りく 空軍 くうぐん 輸送 ゆそう 司令 しれい 部 ぶ は隷下 れいか の輸送 ゆそう 機 き を第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん のために使用 しよう することはなかったので、中国 ちゅうごく 前進 ぜんしん 基地 きち までの燃料 ねんりょう 等 とう の補給 ほきゅう は第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん の輸送 ゆそう 機 き とB-29自身 じしん で行 おこな う必要 ひつよう があった。しかしながら、この方法 ほうほう で中国 ちゅうごく ~日本 にっぽん 往復 おうふく の1機 き 分 ぶん の燃料 ねんりょう と備品 びひん を備蓄 びちく するにはインド~中国 ちゅうごく 間 あいだ を12往復 おうふく する必要 ひつよう があり、またハンプ [# 4] (en ) を越 こ えての兵站 へいたん 行動 こうどう となることから効率 こうりつ が悪 わる く[24] [25] 、結果 けっか 、作戦 さくせん 開始 かいし に十分 じゅうぶん な燃料 ねんりょう を備蓄 びちく するには当初 とうしょ の予測 よそく 以上 いじょう の時間 じかん がかかった[26] 。さらにB-29の技術 ぎじゅつ 的 てき 問題 もんだい 、特 とく にライト R-3350 エンジンは信頼 しんらい 性 せい に欠 か け改良 かいりょう の必要 ひつよう があったため、機体 きたい の運用 うんよう に支障 ししょう をきたしていた[27] 。
1944年 ねん 6月 がつ 5日 にち 、第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん は初 はつ の空襲 くうしゅう を行 おこな っている。この日 ひ 98機 き のB-29がインド基地 きち から発進 はっしん し、今後 こんご の日本 にっぽん 及 およ び東南 とうなん アジア爆 ばく 撃 げき を見据 みす えた「ドレスリハーサル(本番 ほんばん 前 まえ の最後 さいご の稽古 けいこ )」として、タイ のバンコク を空襲 くうしゅう した(バンコク空襲 くうしゅう )。与 あた えた損害 そんがい は僅 わず かであり、5機 き のB-29を機体 きたい のトラブルから失 うしな ったが、第 だい 20爆 ばく 撃 げき 集団 しゅうだん は、爆 ばく 撃 げき 機 き 搭乗 とうじょう 員 いん が有益 ゆうえき な戦闘 せんとう 経験 けいけん を積 つ んだことと、B-29の運用 うんよう に関 かん し実戦 じっせん のデータが得 え られたことから作戦 さくせん は成功 せいこう したと評価 ひょうか した[28] 。
1944年 ねん 6月 がつ 6日 にち 、アーノルド司令 しれい は、統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ から一刻 いっこく も早 はや く日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう を行 おこな うようにとの要請 ようせい があったことをウォルフ准 じゅん 将 しょう に伝 つた えた。日本 にっぽん 軍 ぐん に押 お され気味 ぎみ の中国 ちゅうごく 軍 ぐん を苦難 くなん から解放 かいほう し、またサイパンの戦 たたか い を支援 しえん することがマッターホーン作戦 さくせん の最終 さいしゅう 目的 もくてき であった。また統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は6月 がつ 15日 にち と20日 はつか に出撃 しゅつげき するB-29の機 き 数 すう についても明 あき らかにするよう求 もと めた。当初 とうしょ 日本 にっぽん 本土 ほんど への空襲 くうしゅう は6月 がつ 23日 にち を予定 よてい していたが、これは100機 き のB-29を運用 うんよう するのに十分 じゅうぶん な支援 しえん 物資 ぶっし が中国 ちゅうごく 内 ない で手 て に入 はい ると予測 よそく されていた頃 ころ の予定 よてい であり、物資 ぶっし の備蓄 びちく に手間取 てまど っている現状 げんじょう ではこの数字 すうじ を達成 たっせい するのは困難 こんなん であった。ウォルフ准 じゅん 将 しょう は、6月15日 にち であれば50機 き のB-29が、20日 はつか であれば55機 き が作戦 さくせん 投入 とうにゅう 可能 かのう と返信 へんしん したが、アーノルド司令 しれい はこの機 き 数 すう では少 すく なすぎるとして6月 がつ 15日 にち の爆 ばく 撃 げき には最低 さいてい でも70機 き 出撃 しゅつげき させるよう命 めい じた。この命令 めいれい をうけ、第 だい 20爆撃 ばくげき 機 き 集団 しゅうだん のB-29と輸送 ゆそう 機 き は、より多 おお くの燃料 ねんりょう を中国 ちゅうごく 基地 きち に移動 いどう させるため、中国 ちゅうごく 基地 きち での戦闘 せんとう 機 き による戦闘 せんとう 行動 こうどう を減 へ らすなどして集中 しゅうちゅう 的 てき な燃料 ねんりょう の確保 かくほ を図 はか った。同 おな じころ地上 ちじょう 整備 せいび 員 いん は、B-29の機体 きたい の信頼 しんらい 性 せい を高 たか め、1機 き でも多 おお く運用 うんよう 可能 かのう な状態 じょうたい にするために整備 せいび に励 はげ んだ[29] 。
爆 ばく 撃 げき 目標 もくひょう には、成都 せいと から2600kmの距離 きょり にある九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ の工業 こうぎょう 都市 とし 八幡 やはた 市 し が選 えら ばれた[30] 。これは、第 だい 20航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ が1944年 ねん 4月 がつ 1日 にち に下 くだ した、日本 にっぽん の鉄鋼 てっこう 業 ぎょう 及 およ びコークス製造 せいぞう 業 ぎょう の壊滅 かいめつ を戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき の最 さい 優先 ゆうせん 目的 もくてき とする決断 けつだん に拠 よ るものである[31] 。八幡 やはた 市内 しない の官営 かんえい 八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ は、当時 とうじ 日本 にっぽん 全体 ぜんたい の圧延 あつえん 鋼 こう の24%を生産 せいさん するなど、日本 にっぽん の鉄鋼 てっこう 業 ぎょう において最 もっと も重要 じゅうよう な施設 しせつ であり、3つのコークス炉 ろ があったが、そのうち最 もっと も大 おお きな東田 ひがしだ のコークス炉 ろ がB-29爆 ばく 撃 げき の第 だい 一 いち 目標 もくひょう となった[32] 。また老 ろう 窯 かま (現在 げんざい の江蘇 ちぁんすー 省 しょう 連 れん 雲 くも 港 みなと 市 し )は重要 じゅうよう な工業 こうぎょう 港 みなと であったため第 だい 2目標 もくひょう とされた[33] 。なお空襲 くうしゅう は夜間 やかん 行 おこな うこととし、燃料 ねんりょう 節約 せつやく のためB-29各 かく 機 き は編隊 へんたい を組 く まず個々 ここ に爆 ばく 撃 げき をすることとした[33] 。
「B-29は爆 ばく 撃 げき 機 き としてヨーロッパ方面 ほうめん に配備 はいび され、CBI戦域 せんいき (en ) では輸送 ゆそう 手段 しゅだん としてのみ使用 しよう される」といった囮 おとり (おとり)の報道 ほうどう を流 なが すなど、米 べい 軍 ぐん による入念 にゅうねん な情報 じょうほう 操作 そうさ をしたにもかかわらず、日本 にっぽん 軍 ぐん はB-29がインドおよび中国 ちゅうごく の基地 きち で爆 ばく 撃 げき の準備 じゅんび をしていたことを察知 さっち していた[34] 。さらに中国 ちゅうごく に潜伏 せんぷく していた日本 にっぽん 軍 ぐん 工作 こうさく 員 いん は、すべてのB-29の動 うご きを把握 はあく し報告 ほうこく していたため、仮 かり に日本 にっぽん への空襲 くうしゅう があっても本土 ほんど 到達 とうたつ の数時間 すうじかん 前 まえ に察知 さっち が可能 かのう であった[35] 。日本 にっぽん 軍 ぐん 情報 じょうほう 部 ぶ は、この重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き は兵站 へいたん 準備 じゅんび が整 ととの い次第 しだい 九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ の軍 ぐん 施設 しせつ を夜間 やかん 爆撃 ばくげき すると推測 すいそく していた[36] 。なお1944年 ねん 4月 がつ 26日 にち には、中国 ちゅうごく とインドの国境 こっきょう 付近 ふきん で日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 「隼 はやぶさ 」2機 き がB-29と初 はつ 交戦 こうせん し敵 てき 機 き に損害 そんがい を与 あた えている[36] 。
1944年 ねん 初頭 しょとう 、B-29による本土 ほんど 空爆 くうばく を予期 よき した日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は、中国 ちゅうごく 及 およ び太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん に配備 はいび された航空機 こうくうき を本土 ほんど 防衛 ぼうえい のため内地 ないち に移転 いてん させた[37] 。1944年 ねん 6月 がつ 、八幡 やはた は日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 西部 せいぶ 軍 ぐん の守備 しゅび 下 か に置 お かれ[38] 、飛行 ひこう 第 だい 4戦隊 せんたい 及 およ び飛行 ひこう 第 だい 59戦隊 せんたい を隷下 れいか に置 お く第 だい 19飛行 ひこう 団 だん が編成 へんせい された。第 だい 4戦隊 せんたい は山口 やまぐち 県 けん 小月 おづき 飛行場 ひこうじょう を拠点 きょてん とし、二 に 式 しき 複 ふく 座 ざ 戦闘 せんとう 機 き 「屠 ほふ 龍 りゅう 」35機 き が配備 はいび され、内 うち 6月 がつ 中旬 ちゅうじゅん の時点 じてん で戦闘 せんとう に即応 そくおう できた25機 き は飛行 ひこう 団 だん の中 なか でも最 もっと も熟練 じゅくれん したパイロットにまわされた。第 だい 59戦隊 せんたい は福岡 ふくおか 県 けん 芦屋 あしや 飛行場 ひこうじょう に編成 へんせい され25機 き の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「飛燕 ひえん 」を運用 うんよう することとなったが、6月 がつ 中旬 ちゅうじゅん に実戦 じっせん で稼働 かどう できたのはそのうちたった7~8機 き であった[39] 。この他 ほか 、八幡 やはた を含 ふく む九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ 地域 ちいき は対空 たいくう 砲 ほう と防空 ぼうくう 気球 ききゅう で防備 ぼうび されていた[40] 。また早期 そうき 警戒 けいかい のためレーダー 基地 きち と監視 かんし 網 もう も備 そな えてあった[41] 。
第 だい 19飛行 ひこう 団 だん 編成 へんせい の初期 しょき 目的 もくてき は九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ の工業 こうぎょう 施設 しせつ 、とくに八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ を防衛 ぼうえい することであり、防衛 ぼうえい 計画 けいかく 上 じょう 、八幡 やはた 上空 じょうくう に戦闘 せんとう 機 き を集中 しゅうちゅう 待機 たいき させ、この空域 くういき から遠 とお くへは移動 いどう してはならないとされた。第 だい 19飛行 ひこう 団 だん はこうした柔軟 じゅうなん 性 せい のない戦闘 せんとう 配置 はいち には不満 ふまん であったが、実際 じっさい 出撃 しゅつげき 可能 かのう な戦闘 せんとう 機 き が限 かぎ られ、また夜間 やかん 戦闘 せんとう を支援 しえん するサーチライト が軍 ぐん の重要 じゅうよう 視 し する施設 しせつ のある八幡 はちまん および九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ にしか配備 はいび されていない状況 じょうきょう では、作戦 さくせん 行動 こうどう に制限 せいげん があるのは已 や むを得 え ないことであった[42] 。なお空襲 くうしゅう 前 まえ 、第 だい 19飛行 ひこう 団 だん は味方 みかた 対空 たいくう 高射 こうしゃ 砲 ほう との共同 きょうどう 訓練 くんれん を計画 けいかく し、また警報 けいほう への対応 たいおう と夜間 やかん 飛行 ひこう の演習 えんしゅう を兼 か ねた訓練 くんれん を実施 じっし している[43] 。
1944年 ねん 6月 がつ 13日 にち 、第 だい 58爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん 所属 しょぞく のB-29はインドから中国 ちゅうごく 前進 ぜんしん 基地 きち への移動 いどう を開始 かいし し、6月15日 にち までに83機 き のB-29スーパーフォートレスが成都 せいと 周辺 しゅうへん の4つの飛行場 ひこうじょう に到着 とうちゃく した。だが中国 ちゅうごく に到達 とうたつ することができずにインドへ引 ひ き返 かえ した機体 きたい が少 すく なくとも12機 き あり、その他 た 墜落 ついらく し搭乗 とうじょう 員 いん 全員 ぜんいん が死亡 しぼう した機 き もあった。B-29は各々 おのおの 空襲 くうしゅう 用 よう に500ポンド爆 ばく 弾 だん 4発 はつ (2ショートトン(=1,800kg)分 ぶん )を搭載 とうさい した。このとき大将 たいしょう 8名 めい を含 ふく む多数 たすう の参謀 さんぼう 将校 しょうこう が、視察 しさつ のためと称 しょう して成都 せいと 基地 きち を訪 おとず れたが、空襲 くうしゅう に参加 さんか することは許 ゆる されなかった。その一方 いっぽう ジャーナリスト 8名 めい と報道 ほうどう 写真 しゃしん 家 か 3名 めい がB-29に搭乗 とうじょう している[44] 。なお、当時 とうじ アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん には直近 ちょっきん の日本 にっぽん の工業 こうぎょう 地帯 ちたい を撮影 さつえい した写真 しゃしん がほとんどなく、八幡 やはた 空襲 くうしゅう のブリーフィングで使用 しよう した地図 ちず と写真 しゃしん は10年 ねん 以上 いじょう 前 まえ の、1920年代 ねんだい 後半 こうはん から1930年代 ねんだい 前半 ぜんはん のものであった[45] 。
6月15日 にち 16時 じ 16分 ふん 、B-29は基地 きち から離陸 りりく を開始 かいし した[46] 。第 だい 58爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん のラベーヌ・サンダース准 じゅん 将 しょう [# 5] が作戦 さくせん 指揮 しき をとった[30] 。出撃 しゅつげき 75機 き のうちR・E・ヒューズ大尉 たいい の指揮 しき する1機 き (機体 きたい 番号 ばんごう #42-6229)は離陸 りりく 直後 ちょくご に墜落 ついらく し[48] 、更 さら に4機 き が機械 きかい トラブルで引 ひ き返 かえ しているが、残 のこ り70機 き は沖ノ島 おきのしま を経由 けいゆ し一路 いちろ 九州 きゅうしゅう 八幡 やはた を目指 めざ した[46] 。第 だい 58爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん の4部隊 ぶたい は、それぞれ2機 き のB-29を先行 せんこう させ、その後 うし ろを飛行 ひこう する航法 こうほう をとった。この航法 こうほう は、先行 せんこう 機 き が他 た 機 き の飛行 ひこう 目標 もくひょう となり、またその作 つく りだす気流 きりゅう に乗 の って燃料 ねんりょう を節約 せつやく するためであり、イギリス空軍 くうぐん が欧州 おうしゅう 戦線 せんせん で採用 さいよう したものである[49] 。爆 ばく 撃 げき 隊 たい は中国 ちゅうごく の日本 にっぽん 陸軍 りくぐん および陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん によって察知 さっち された。「爆 ばく 撃 げき 機 き が九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ へ向 む かっており真夜中 まよなか に現地 げんち に到着 とうちゃく する」との報告 ほうこく は日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 第 だい 19飛行 ひこう 団 だん にも伝 つた えられた。その後 ご 、済州 さいしゅう 島 とう のレーダー基地 きち と監視 かんし 所 しょ は現地 げんち 時間 じかん の23:31から00:30にかけて爆 ばく 撃 げき 機 き を捕捉 ほそく した。空襲 くうしゅう 警報 けいほう は00:24に発令 はつれい され、その3分 ふん 後 ご には飛行 ひこう 第 だい 4戦隊 せんたい の24機 き の「屠 ほふ 龍 りゅう 」戦闘 せんとう 機 き が北九州 きたきゅうしゅう 上空 じょうくう 警戒 けいかい のため離陸 りりく した[50] [# 6] 。第 だい 59戦隊 せんたい は、夜間 やかん 作戦 さくせん において第 だい 4戦隊 せんたい と夜間 やかん 戦闘 せんとう の共同 きょうどう 訓練 くんれん をしておらず、運用 うんよう する機体 きたい 「飛燕 ひえん 」には機械 きかい 的 てき 問題 もんだい があり、また出撃 しゅつげき することで芦屋 あしや 飛行場 ひこうじょう を発見 はっけん され、逆 ぎゃく に攻撃 こうげき することも恐 おそ れられたため緊急 きんきゅう 発進 はっしん を見合 みあ わせた[52] 。
6月16日 にち 00時 じ 38分 ふん 、B-29は八幡 はちまん 上空 じょうくう に到達 とうたつ しおよそ2時 じ 間 あいだ にも及 およ ぶ爆 ばく 撃 げき を開始 かいし した。だが市街地 しがいち には既 すで に灯火 ともしび 管制 かんせい が敷 し かれており、さらにこの晩 ばん は街 まち 全体 ぜんたい が靄 に覆 おお い隠 かく されていたため、爆 ばく 撃 げき 目標 もくひょう を視認 しにん できたのはたったの15機 き であった。残 のこ り32機 き はレーダー照準 しょうじゅん 爆 ばく 撃 げき を行 おこな った。なお、八幡 はちまん 以外 いがい では2機 き が老 ろう 窯 かま 港 こう に爆撃 ばくげき しており、また別 べつ の5機 き は臨機 りんき 目標 もくひょう への爆 ばく 撃 げき を行 おこな ったため、この空襲 くうしゅう での爆 ばく 弾 だん 総トン数 そうとんすう は107トンになる[53] [54] 。また、最初 さいしょ の爆 ばく 弾 だん が投下 とうか された後 のち 、作戦 さくせん の定時 ていじ 連絡 れんらく をワシントンの第 だい 20司令 しれい 部 ぶ にしているが、このときアーノルド司令 しれい はロンドン にいた[55] 。爆 ばく 撃 げき 隊 たい が受 う けた対空 たいくう 砲火 ほうか は激 はげ しいものであったが、あまり正確 せいかく ではなかった。また八幡 はちまん 周辺 しゅうへん に配備 はいび されていたサーチライトはほとんど役 やく にたなかった[46] 。第 だい 4戦隊 せんたい の戦闘 せんとう 機 き はB-29を1機 き 撃墜 げきつい したが、そもそも空戦 くうせん に持 も ち込 こ むこと自体 じたい が困難 こんなん であり、迎撃 げいげき はままならなかった[56] 。
空襲 くうしゅう 後 ご の中国 ちゅうごく 基地 きち への帰還 きかん 飛行 ひこう は概 おおむ ね良好 りょうこう であった。1機 き がエンジン不調 ふちょう のため中国 ちゅうごく 河南 かなん 省 しょう の内郷 うちごう 飛行場 ひこうじょう に着陸 ちゃくりく したところ日本 にっぽん 軍機 ぐんき の機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ を受 う け破壊 はかい された。他 た 帰還 きかん 中 ちゅう に2機 き が墜落 ついらく し搭乗 とうじょう 員 いん 全員 ぜんいん と同乗 どうじょう のニューズウィーク 誌 し 記者 きしゃ が死亡 しぼう している[57] [58] 。この空襲 くうしゅう でのアメリカ側 がわ の総 そう 損害 そんがい はB-29を7機 き 損失 そんしつ 、さらに6機 き を敵対 てきたい 空砲 くうほう 火 ひ で損傷 そんしょう し、搭乗 とうじょう 員 いん 57名 めい とジャーナリスト1名 めい が死亡 しぼう している[59] 。なお空襲 くうしゅう から数日 すうじつ の間 あいだ 、多数 たすう のB-29が燃料 ねんりょう 不足 ふそく のため中国 ちゅうごく 内 ない に足止 あしど めを余儀 よぎ なくされ、ウォルフ准 じゅん 将 しょう が第 だい 312飛行 ひこう 隊 たい から57,000リットルの燃料 ねんりょう を借 か りることでようやくインドに戻 もど ることができた。この数日 すうじつ 間 あいだ は燃料 ねんりょう がほとんど無 な く航空機 こうくうき の出撃 しゅつげき がほぼ不可能 ふかのう であり、日本 にっぽん 軍 ぐん の報復 ほうふく 攻撃 こうげき に対 たい して非常 ひじょう に脆弱 ぜいじゃく な状態 じょうたい であったが、日本 にっぽん 軍 ぐん は何 なん の攻撃 こうげき もしなかった[57] 。
この空襲 くうしゅう によって八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ が被 こうむ った損害 そんがい は皆無 かいむ と言 い ってもよい程 ほど であった。空襲 くうしゅう から2日 にち 経 た った6月 がつ 18日 にち 、アメリカ陸 りく 空軍 くうぐん 第 だい 14空軍 くうぐん は攻撃 こうげき 目標 もくひょう の状態 じょうたい を確認 かくにん するため航空 こうくう 写真 しゃしん を撮影 さつえい しているが、これらの写真 しゃしん によると製鐵 せいてつ 所 しょ の敷地 しきち 内 ない に落 お ちた爆 ばく 弾 だん はたったの1発 はつ で、それももっとも近 ちか いコークス炉 ろ から1100メートルも離 はな れた発電 はつでん 所 しょ に着弾 ちゃくだん したものであった。同様 どうよう に小倉 おぐら 陸軍 りくぐん 造兵 ぞうへい 廠 しょう やほかの工業 こうぎょう 施設 しせつ および市街地 しがいち の建物 たてもの もほとんど空襲 くうしゅう による被害 ひがい を受 う けていなかったと報告 ほうこく された。(実際 じっさい には小倉 おぐら 造兵 ぞうへい 廠 しょう や周辺 しゅうへん 市街地 しがいち は爆 ばく 撃 げき を受 う け死傷 ししょう 者 しゃ が多数 たすう 出 で ている。)アメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん はこうした事実 じじつ をありのままに報告 ほうこく したにもかかわらず、アメリカのメディアは空襲 くうしゅう の結果 けっか を誇張 こちょう して報道 ほうどう した[60] 。一方 いっぽう 、爆 ばく 撃 げき 部隊 ぶたい が空戦 くうせん で被 こうむ った損害 そんがい が軽微 けいび であったことと、B-29が収集 しゅうしゅう したレーダー電磁 でんじ 放射 ほうしゃ からの情報 じょうほう (エリント )によって日本 にっぽん のレーダーと防空 ぼうくう 力 りょく が無力 むりょく であることが明 あき らかになった。これを受 う けてアメリカ陸 りく 空軍 くうぐん は6月 がつ 21日 にち 、日本 にっぽん と朝鮮 ちょうせん のほぼ全域 ぜんいき を航空 こうくう 写真 しゃしん 偵察 ていさつ するため1機 き のB-29を発進 はっしん させた。偵察 ていさつ は成功 せいこう し、米 べい 軍 ぐん は日本 にっぽん ・朝鮮 ちょうせん についてより質 しつ の高 たか い情報 じょうほう を入手 にゅうしゅ することができた[61] 。八幡 やはた 空襲 くうしゅう と同 おな じ日 び に米 べい 軍 ぐん がサイパン島 とう に上陸 じょうりく したとの報道 ほうどう は、戦局 せんきょく の先行 さきゆ きを暗示 あんじ するものであった[55] 。
八幡 やはた 空襲 くうしゅう により日本 にっぽん の防空 ぼうくう 体制 たいせい の深刻 しんこく な欠陥 けっかん が浮 う き彫 ぼ りになった。当初 とうしょ 第 だい 19飛行 ひこう 団 だん は8機 き のB-29を撃墜 げきつい し更 さら に4機 き 損傷 そんしょう させたと主張 しゅちょう したが、すぐにドゥーシャン・D・イワノビッチ大尉 たいい 指揮 しき 下 か のリンバードゥーガン ともう一 いち 機 き のたった2機 き しか撃墜 げきつい されていないことが判明 はんめい した。75機 き 中 ちゅう 2機 き 撃墜 げきつい という数字 すうじ は、本土 ほんど 空襲 くうしゅう する敵 てき 機 き を迎撃 げいげき した比率 ひりつ としては低 ひく すぎると考 かんが えられた。日本 にっぽん 本土 ほんど には飛行場 ひこうじょう が少 すく なすぎ、夜間 やかん 戦闘 せんとう に対応 たいおう した航空機 こうくうき も十分 じゅうぶん には配備 はいび されていないことがこの空襲 くうしゅう で証明 しょうめい された形 かたち となった。また、迎撃 げいげき に使用 しよう された戦闘 せんとう 機 き 「屠 ほふ 龍 りゅう 」はB-29よりも速度 そくど が遅 おそ く、軽 けい 武装 ぶそう で、さらにほとんどの機体 きたい にはレーダーが装備 そうび されていなかったため、B-29を撃墜 げきつい するには性能 せいのう 不足 ふそく であることも明 あき らかになった。一方 いっぽう 、空襲 くうしゅう 警報 けいほう 体制 たいせい は、この空襲 くうしゅう では機能 きのう したと言 い えるが、敵 てき 機 き を捕捉 ほそく したレーダーは高度 こうど までは特定 とくてい できなかったため、更 さら なる改良 かいりょう が必要 ひつよう とされた[62] 。
1944年 ねん 6月 がつ 15日 にち から16日 にち にかけての八幡 やはた 空襲 くうしゅう を皮切 かわき りに、アメリカ陸 りく 空軍 くうぐん は日本 にっぽん に対 たい する戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき を本格 ほんかく 化 か した[63] 。八幡 やはた は8月 がつ 20日 はつか 、昼夜 ちゅうや 2回 かい にわたってB-29計 けい 61機 き による爆 ばく 撃 げき を受 う け、迎撃 げいげき にあたった第 だい 4戦隊 せんたい はB-29を含 ふく む計 けい 4機 き を撃墜 げきつい するなどしたが、戸畑 とばた 、八幡 やはた 市内 しない では二 に 百 ひゃく 数 すう 十 じゅう 名 めい の死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ した[64] 。
第 だい 20爆撃 ばくげき 機 き 集団 しゅうだん が1944年 ねん 6月 がつ から1945年 ねん 3月 がつ にかけて中国 ちゅうごく およびインド基地 きち から行 おこな った空襲 くうしゅう は49回 かい に及 およ んだが、マッターホルン作戦 さくせん は未 いま だその目的 もくてき を達 たっ していなかった。他方 たほう 、同 おな じ第 だい 20空軍 くうぐん 隷下 れいか の第 だい 21爆撃 ばくげき 機 き 集団 しゅうだん は1944年 ねん 10月 がつ 28日 にち からマリアナ諸島 しょとう を拠点 きょてん とした日本 にっぽん 本土 ほんど 爆 ばく 撃 げき 作戦 さくせん を始 はじ めており、こちらの方 ほう が有効 ゆうこう であったため、第 だい 20爆撃 ばくげき 機 き 集団 しゅうだん は1945年 ねん 初 はじ めにマリアナ諸島 しょとう に移転 いてん した[65] [66] 。
1944年 ねん 6月 がつ 16日 にち の八幡 やはた 空襲 くうしゅう では、目標 もくひょう とされた八幡 やはた 製鐵 せいてつ 所 しょ よりもむしろ市街地 しがいち の方 ほう が被害 ひがい が大 おお きく、爆 ばく 撃 げき を受 う けた北九州 きたきゅうしゅう 5市 し では八幡 やはた 69名 めい 、小倉 おぐら 94名 めい 、戸畑 とばた 53名 めい 、門司 もじ 34名 めい 、若松 わかまつ 6名 めい の計 けい 256名 めい が犠牲 ぎせい となった[# 7] 。なかでも小倉北 こくらきた 区 く 大手町 おおてまち 周辺 しゅうへん にあった小倉 おぐら 陸軍 りくぐん 造兵 ぞうへい 廠 しょう は施設 しせつ に直撃 ちょくげき 弾 だん を受 う け、学徒 がくと 動員 どういん されていた10代の若者 わかもの など、80名 めい 以上 いじょう が命 いのち を落 お とした。
こうした犠牲 ぎせい 者 しゃ を追悼 ついとう するため、空襲 くうしゅう から65年 ねん 後 ご の2009年 ねん 4月 がつ 5日 にち 、小倉北 こくらきた 区 く 永 なが 照寺 しょうじ に旧 きゅう 小倉 おぐら 陸軍 りくぐん 造兵 ぞうへい 廠 しょう 空襲 くうしゅう 犠牲 ぎせい 者 しゃ 之 の 碑 いしぶみ が建立 こんりゅう された[68] 。慰霊 いれい 碑 ひ 建立 こんりゅう に尽力 じんりょく した遺族 いぞく 会 かい の工藤 くどう 實 みのる 雄 お 代表 だいひょう は、この空襲 くうしゅう で義弟 ぎてい (当時 とうじ 17歳 さい )を亡 な くしており、その時 とき の体験 たいけん について妻 つま と共 とも にNHK戦争 せんそう 証言 しょうげん アーカイブス 上 うえ に証言 しょうげん をのこしている[69] 。同 おな じくNHK戦争 せんそう 証言 しょうげん アーカイブスで自 みずか らの体験 たいけん を語 かた った加藤 かとう 昭 あきら は、証言 しょうげん の最後 さいご を次 つぎ のように締 し めくくった[70] 。
「
やっぱり、こういう経験 けいけん 、こういうことがあったということを、一人 ひとり でも知 し ってもらったらね、あそこで亡 な くなった人 ひと も、自分 じぶん たちは見捨 みす てられて、しまいには忘 わす れられてしまうんじゃないだろうかという気持 きも ちで逝 い ってしまった。それがいま、話 はな すことで、ああ、あそこに兵器廠 へいきしょう あったとだいぶ分 わ かってくれたからですね。犠牲 ぎせい になられたかたも浮 う かばれると思 おも うですね。
」
—加藤 かとう 昭 あきら (NHK戦争 せんそう 証言 しょうげん アーカイブスより)
^ ドーリットル空襲 くうしゅう は一過 いっか 性 せい の奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき であったが、八幡 やはた 空襲 くうしゅう はB-29の配備 はいび を念頭 ねんとう に周到 しゅうとう な準備 じゅんび の下 しも 実行 じっこう された空襲 くうしゅう であり、その後 ご 1年 ねん 2カ月 かげつ にわたる日本 にっぽん 本土 ほんど 空襲 くうしゅう の第 だい 一 いち 弾 だん であった[6] 。
^ 簡陽県 けん だけで、怪我 けが や病気 びょうき により数 すう 百 ひゃく 名 めい の死者 ししゃ がでた[21] 。
^ Kenneth B. Wolfe。元 もと 米 べい 陸軍 りくぐん の物資 ぶっし 調達 ちょうたつ 本部 ほんぶ 長 ちょう 。米 べい 政府 せいふ が試作 しさく 機 き すら完成 かんせい していないB-29を大量 たいりょう 発注 はっちゅう したことをとらえ、後日 ごじつ 「30億 おく ドルの大 だい バクチ」だったと表現 ひょうげん した[22] 。
^ 英語 えいご :hump。「こぶ」の意味 いみ 。ここではヒマラヤ 山脈 さんみゃく のこと。
^ Laverne G. Saunders。ガダルカナル戦 せん ではB17爆撃 ばくげき 機 き に搭乗 とうじょう し航空 こうくう 攻撃 こうげき を指揮 しき した。1944年 ねん 7月 がつ からはウォルフ准 じゅん 将 しょう の後任 こうにん として第 だい 20爆撃 ばくげき 機 き 集団 しゅうだん の司令 しれい 官 かん を務 つと める[47] 。
^ 樫 かし 出 で 『B29撃墜 げきつい 記 き 』によると、日本 にっぽん 側 がわ 出動 しゅつどう 機 き 数 すう は12機 き [51] 。
^ 「北九州 きたきゅうしゅう 空襲 くうしゅう を記録 きろく する会 かい 」調 しら べ。合計 ごうけい 633名 めい という記録 きろく もある[67] 。
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工藤 くどう 洋三 ようぞう ・奥住 おくずみ 喜重 よししげ 編著 へんちょ 『写真 しゃしん が語 かた る日本 にっぽん 空襲 くうしゅう 』現代 げんだい 史料 しりょう 出版 しゅっぱん 、2008年 ねん 。ISBN 9784877851828 。
森山 もりやま 康平 やすひら 『暗号 あんごう 名 めい は「マッターホーン」計画 けいかく (別冊 べっさつ 歴史 れきし 読本 とくほん 60 日本大 にほんだい 空襲 くうしゅう ―日本 にっぽん 列島 れっとう を焼 や き尽 つ くした米 べい 軍 ぐん の無 む 差別 さべつ 爆撃 ばくげき 第 だい 2章 しょう )』新人物往来社 しんじんぶつおうらいしゃ 、2007年 ねん 。ISBN 4404033605 。
前田 まえだ 哲男 てつお 『戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき の思想 しそう ―ゲルニカ-重慶 たーちん -広島 ひろしま への軌跡 きせき 』凱風社 がいふうしゃ 、2006年 ねん 。ISBN 4773630094 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう 研究 けんきゅう 会 かい 編著 へんちょ 『図説 ずせつ アメリカ軍 ぐん の日本 にっぽん 焦土 しょうど 作戦 さくせん 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、2003年 ねん 。ISBN 4-309-76028-7 。
樫 かし 出 で 勇 いさむ 『B29撃墜 げきつい 記 き 夜戦 やせん 「屠 ほふ 龍 りゅう 」撃墜 げきつい 王 おう 樫 かし 出 で 勇 いさむ 空戦 くうせん 記録 きろく 』光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ 、2005年 ねん 。ISBN 4-7698-2203-0 。 (潮 しお 書房 しょぼう 『丸 まる 』平成 へいせい 9年 ねん (1997年 ねん )7月 がつ 号 ごう ~平成 へいせい 10年 ねん (1998年 ねん )2月 がつ 号 ごう 連載 れんさい 原題 げんだい 「私 わたし は「B-29」26機 き 撃墜 げきつい した!」の文庫本 ぶんこぼん 。)
平塚 ひらつか 柾 まさき 緒 いとぐち 『米 べい 軍 ぐん が記録 きろく した日本 にっぽん 空襲 くうしゅう 』草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 、1995年 ねん 、ISBN 4-7942-0594-5 。
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