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日本にっぽん製鐵せいてつ

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日本にっぽん製鐵せいてつ株式かぶしきかい
ラテン文字もじめい
Japan Iron & Steel Co., Ltd.
もと種類しゅるい
株式会社かぶしきがいしゃ
業種ぎょうしゅ 鉄鋼てっこう
事業じぎょう分野ぶんや 本邦ほんぽうにおける製鉄せいてつ事業じぎょう確立かくりつ[1]
その 財閥ざいばつ解体かいたい対象たいしょうとなる
前身ぜんしん 官営かんえい八幡やはた製鉄せいてつしょなど
後継こうけい 八幡やはた製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃ富士ふじ製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃにちてつ汽船きせん株式会社かぶしきがいしゃ播磨はりま耐火たいか煉瓦れんが株式会社かぶしきがいしゃ分割ぶんかつ
設立せつりつ 1934ねん昭和しょうわ9ねん
解散かいさん 1950ねん昭和しょうわ25ねん
所有しょゆうしゃ 日本にっぽん政府せいふ過半数かはんすう出資しゅっし[1]
Footnotes / references
日本にっぽん製鉄せいてつ株式会社かぶしきがいしゃほう昭和しょうわ8ねん4がつ6にち公布こうふ法律ほうりつだい47ごう)を根拠こんきょとする

日本にっぽん製鐵せいてつ株式会社かぶしきがいしゃ(にほんせいてつ、登記とうきじょう商号しょうごう日本にっぽん製鐵せいてつ株式かぶしきかい英語えいご: Japan Iron & Steel Co., Ltd.[2])は、かつて存在そんざいした日本にっぽん鉄鋼てっこうメーカーである。現在げんざい日本にっぽん製鉄せいてつ(にっぽんせいてつ、きゅう新日鐵しんにってつ住金すみきん)の前身ぜんしんのひとつ。略称りゃくしょうは「にちてつ」(にちてつ、にってつ)。

官営かんえい八幡やはた製鉄せいてつしょ中心ちゅうしんとする官営かんえい民営みんえい製鉄せいてつ事業じぎょうしゃ合同ごうどう1934ねん昭和しょうわ9ねん)に設立せつりつ法律ほうりつ規定きていされた半官半民はんかんはんみん国策こくさく会社かいしゃであった。太平洋戦争たいへいようせんそう1950ねん昭和しょうわ25ねん)に財閥ざいばつ解体かいたい一環いっかん解体かいたいされ消滅しょうめつした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ福岡ふくおかけん)を中心ちゅうしんに、輪西わにし製鐵せいてつ北海道ほっかいどう)・釜石かまいし鉱山こうざん岩手いわてけん)・三菱みつびし製鐵せいてつ朝鮮ちょうせん)・九州製鋼きゅうしゅうせいこう福岡ふくおかけん)・富士ふじ製鋼せいこう神奈川かながわけん)の1しょ5しゃが1934ねん昭和しょうわ9ねん)に合同ごうどうして設立せつりつされた鉄鋼てっこうメーカーである。のちに東洋とうよう製鐵せいてつ大阪おおさか製鐵せいてつの2しゃくわわり、1しょ7しゃ合同ごうどうとなった。会社かいしゃ設立せつりつ前年ぜんねん1933ねん昭和しょうわ8ねん)に制定せいていされた法律ほうりつ日本にっぽん製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃほう」(にちてつほう)で経営けいえい規定きていされ、大蔵省おおくらしょう株式かぶしき過半数かはんすう設立せつりつは82.2%、解散かいさんは57.0%)を保有ほゆうしていた[1]当時とうじ日本にっぽん国内こくないでは最大さいだい鉄鋼てっこうメーカーであり、日本にっぽん鉄鋼てっこうぎょう代表だいひょうする存在そんざいであった。

経済けいざいてき軍事ぐんじてきめんから重要じゅうようされた鉄鋼てっこう低廉ていれんかつ豊富ほうふ供給きょうきゅうし、鉄鋼てっこう輸入ゆにゅう防止ぼうしするという使命しめいもと設立せつりつされ、にちちゅう戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう背景はいけいとして拡大かくだいつづけた。戦後せんご戦時せんじちゅう荒廃こうはいした設備せつび復旧ふっきゅうにあたったが、その途上とじょうの1950ねん昭和しょうわ25ねん)4がつ財閥ざいばつ解体かいたい目的もくてきとする過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほう適用てきようけ、4しゃ分割ぶんかつされて日本にっぽん製鐵せいてつ解散かいさんした。後継こうけいの4しゃ八幡やはた製鐵せいてつ富士ふじ製鐵せいてつにちてつ汽船きせんげんNSユナイテッド海運かいうん)・播磨はりま耐火たいか煉瓦れんがげん黒崎くろさき播磨はりま)で、そのうち鉄鋼てっこうメーカーの八幡やはた製鐵せいてつ富士ふじ製鐵せいてつ1970ねん昭和しょうわ45ねん)に合併がっぺいし、しん日本にっぽん製鐵せいてつ新日鉄しんにってつ)となった。そして2012ねん平成へいせい24ねん)10がつ1にち住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう合併がっぺいし、新日鐵しんにってつ住金すみきん発足ほっそくした。なお、新日鐵しんにってつ住金すみきんは2019ねん現在げんざいの「日本にっぽん製鉄せいてつ」に社名しゃめい変更へんこうした。

事業じぎょう中核ちゅうかく鉄鋼てっこう事業じぎょうのほか、副産物ふくさんぶつ利用りようする化学かがく事業じぎょう自社じしゃ製品せいひん原材料げんざいりょう輸送ゆそうする海運かいうんぎょうセメント製鉄せいてつしょ利用りようする耐火たいか煉瓦れんが製造せいぞうする窯業ようぎょう鉱山こうざん開発かいはつする鉱業こうぎょうなどをがけた。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

だいいちじょう 日本にっぽん製鉄せいてつ株式会社かぶしきがいしゃ本邦ほんぽうにおける製鉄せいてつ事業じぎょう確立かくりつはかため政府せいふほか製鉄せいてつ事業じぎょうしゃ製鉄せいてつ事業じぎょう基礎きそとしてこれ設立せつりつするものとす
だいじょう 政府せいふ日本にっぽん製鉄せいてつ株式会社かぶしきがいしゃ株式かぶしき総数そうすうぶんいちちょうゆるすう株式かぶしき所有しょゆうすることをよう

日本にっぽん製鉄せいてつ株式会社かぶしきがいしゃほう昭和しょうわ8ねん4がつ6にち公布こうふ法律ほうりつだい47ごう[1]

にちてつ発足ほっそく経緯けいい[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん日本にっぽんは、自国じこく鉄鋼てっこうぎょうとうとした。鉄鋼てっこう経済けいざいてき軍事ぐんじまとにも重要じゅうよう物資ぶっしであり、ある程度ていど自給じきゅうのぞましいとされたためである。その一環いっかんとして1880ねん明治めいじ13ねん)、近代きんだい製鉄せいてつぎょう発祥はっしょう釜石かまいし官営かんえい製鉄せいてつしょ釜石かまいし製鐵せいてつしょ)を建設けんせつするが、このこころみは失敗しっぱいする。この失敗しっぱいまえ、にちしん戦争せんそう1901ねん明治めいじ34ねん)、やはり官営かんえい八幡やはた製鉄せいてつしょ建設けんせつされる。八幡やはた製鉄せいてつしょ操業そうぎょう釜石かまいしとは 対照たいしょうてき成功せいこうし、にち戦争せんそうやその経済けいざい成長せいちょう大正たいしょう時代じだいだいいち世界せかい大戦たいせん背景はいけいに、拡張かくちょうつづけていった。一方いっぽう民間みんかん鉄鋼てっこうぎょう大戦たいせん影響えいきょうによる鋼材こうざい輸入ゆにゅう減少げんしょうで、大戦たいせん急速きゅうそく発展はってんした。

かんみん製鉄せいてつ業者ぎょうしゃ合同ごうどう(=「製鉄せいてつ合同ごうどう」)すべき、という議論ぎろん大戦たいせんから財界ざいかい中心ちゅうしん本格ほんかくてきになされるようになり、大戦たいせん終結しゅうけつにはより進展しんてんした。大戦たいせん終結しゅうけつふたた鋼材こうざい輸入ゆにゅう増加ぞうかし、大戦たいせん勃興ぼっこうした基盤きばんよわ中小ちゅうしょう民間みんかん業者ぎょうしゃおおくが過当かとう競争きょうそうにより没落ぼつらくしたためである。比較的ひかくてき経営けいえい基盤きばん強固きょうこであった釜石かまいし鉱山こうざんでさえも、政府せいふ補助ほじょきん利益りえき上回うわまわ状態じょうたいであった。政界せいかいがわにも製鉄せいてつ合同ごうどうけたうごきがあり、1925ねん大正たいしょう14ねん)には高橋たかはし是清これきよのう商務しょうむ大臣だいじん加藤かとう高明こうめい内閣ないかく)が委員いいんちょうつとめた製鉄せいてつこう調査ちょうさかいから「八幡やはた製鉄せいてつしょ中心ちゅうしんとする官民かんみん合同ごうどう会社かいしゃげ、統制とうせい協調きょうちょうによって競争きょうそう排除はいじょし、輸入ゆにゅう鋼材こうざいについては関税かんぜいして規制きせいし、日本にっぽん鉄鋼てっこうぎょう安定あんていてき発展はってんはかるべき」とする答申とうしんされた。昭和しょうわ恐慌きょうこう背景はいけいにした産業さんぎょう全体ぜんたい不振ふしん解決かいけつするために組織そしきされた臨時りんじ産業さんぎょう審議しんぎかい1930ねん昭和しょうわ5ねん)の答申とうしんでは、製鉄せいてつ合同ごうどう計画けいかくがより具体ぐたいし、1931ねん昭和しょうわ6ねん)ごろを目標もくひょうとする合同ごうどう会社かいしゃ設立せつりつ計画けいかくされた。しかし、濱口はまぐち内閣ないかく緊縮きんしゅく財政ざいせい政策せいさくにより資金しきん調達ちょうたつ目処めどかず、この計画けいかく一旦いったんえとなった。

1932ねん昭和しょうわ7ねん)に齋藤さいとう内閣ないかく発足ほっそくし、高橋たかはし是清これきよ大蔵おおくら大臣だいじん留任りゅうにん中島なかじま久万吉くまきち商工しょうこう大臣だいじん就任しゅうにんすると、製鉄せいてつ合同ごうどう計画けいかくはより具体ぐたいし、1933ねん昭和しょうわ8ねん)4がつ製鉄せいてつ合同ごうどう基礎きそとなる「日本にっぽん製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃほう」(にちてつほう)が施行しこうされるにいたった。にちてつほう成立せいりつさいして商工しょうこうしょうより製鉄せいてつ合同ごうどう主旨しゅし発表はっぴょうされているが、それによれば製鉄せいてつ合同ごうどう目的もくてき民間みんかん業者ぎょうしゃ統合とうごう統制とうせいするだけではなく、官営かんえいゆえに様々さまざま規制きせい弾力だんりょくてき運営うんえいができないでいる官営かんえい製鉄せいてつしょ民営みんえい株式会社かぶしきがいしゃ)する、という側面そくめんっている。

にちてつほう制定せいてい以降いこう合同ごうどうする事業じぎょうしゃ資産しさん評価ひょうか作業さぎょうすすめられた。当初とうしょ製鉄せいてつ合同ごうどう計画けいかくでは、民間みんかん主要しゅよう銑鉄せんてつ鋼材こうざいメーカーのすべてを統合とうごうする予定よていであった。政府せいふ製鉄せいてつ合同ごうどう打診だしんしたのは、銑鉄せんてつメーカー(高炉こうろ保有ほゆうする鉄鋼てっこう業者ぎょうしゃ)の輪西わにし製鐵せいてつ釜石かまいし鉱山こうざん東洋とうよう製鐵せいてつ三菱みつびし製鐵せいてつ浅野あさの造船ぞうせんしょ[ちゅう 1]と、鋼材こうざいメーカーの九州製鋼きゅうしゅうせいこう富士ふじ製鋼せいこう大阪おおさか製鐵せいてつ東海鋼業とうかいこうぎょう日本鋼管にほんこうかん浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ[ちゅう 2]合計ごうけい11しゃであったが、打診だしんおこなわれるまえにすでに川崎かわさき造船ぞうせんしょ[ちゅう 3]神戸製鋼所こうべせいこうしょ合同ごうどうへの不参加ふさんか表明ひょうめいしていた。打診だしんたいし、浅野あさの財閥ざいばつけいの3しゃ日本鋼管にほんこうかん浅野あさの造船ぞうせんしょ浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ)は資産しさん評価ひょうか不満ふまんがあるとして参加さんか保留ほりゅう[3]東海鋼業とうかいこうぎょう参加さんか意思いしがあったが株主かぶぬし反対はんたいにより参加さんかせずにわった。その結果けっか製鉄せいてつ合同ごうどうは11しゃから4しゃのぞいた7しゃ実現じつげんすることとなる。その、1936ねん昭和しょうわ11ねん)まで、政府せいふ浅野あさの財閥ざいばつに、溶鉱炉ようこうろ新設しんせつ許可きょかしなかった[4]

にちてつ発足ほっそく創業そうぎょう時代じだい[編集へんしゅう]

鉄鋼てっこう生産せいさんだか推移すいい
(1934ねん〜1936ねん
年次ねんじ
暦年れきねん
銑鉄せんてつ はがねかたまり 普通ふつうこう
圧延あつえん
鋼材こうざい
1934ねん 186 201 143
1935ねん 200 237 160
1936ねん 203 273 181
単位たんいまんトン

1934ねん昭和しょうわ9ねん1がつ29にち会社かいしゃ創立そうりつ総会そうかいひらかれ、1しょ八幡やはた製鐵せいてつしょ)5しゃ輪西わにし製鐵せいてつ釜石かまいし鉱山こうざん三菱みつびし製鐵せいてつ九州製鋼きゅうしゅうせいこう富士ふじ製鋼せいこう)の統合とうごうにより日本にっぽん製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃにちてつ)が発足ほっそくした。会社かいしゃ設立せつりつ方式ほうしき現物げんぶつ出資しゅっしで、政府せいふ八幡やはた製鐵せいてつしょ付属ふぞく炭鉱たんこう二瀬ふたせ炭鉱たんこう)および5しゃ製鉄せいてつ事業じぎょうかんする資産しさん継承けいしょうされた。社長しゃちょうけん会長かいちょうには官僚かんりょう出身しゅっしん中井なかい励作就任しゅうにんした。31にちには設立せつりつ登記とうき完了かんりょう2がつ1にちより、八幡やはた製鐵せいてつしょ輪西わにし製鐵せいてつしょ釜石かまいし製鐵せいてつしょけん二浦ふたうら製鐵せいてつしょ富士ふじ製鋼せいこうしょ二瀬ふたせ鉱業こうぎょうしょの6作業さぎょうしょをもって、にちてつ営業えいぎょう開始かいしした。1934ねん3月31にち、さらに東洋とうよう製鐵せいてつ資産しさん現物げんぶつ出資しゅっしくわわり、八幡やはた製鐵せいてつしょ戸畑とばた作業さぎょうしょにちてつ工場こうじょうとして発足ほっそくした。2ねん1936ねん昭和しょうわ11ねん)にはにちてつ大阪おおさか製鐵せいてつより資産しさん買収ばいしゅうし、大阪おおさか製鐵せいてつしょ発足ほっそくさせ、1しょ7しゃ合同ごうどう完成かんせいした。東洋とうよう製鐵せいてつ大阪おおさか製鐵せいてつ参加さんかおくれたのは株式かぶしき上場じょうじょうしていたためと、大阪おおさか製鉄せいてつについては株主かぶぬし反対はんたいもあったためである。

会社かいしゃ設立せつりつまえきた満州まんしゅう事変じへん以降いこう日本にっぽん景気けいき好転こうてんしており、産業さんぎょう資材しざい軍需ぐんじゅ資材しざいとなる鉄鋼てっこう需要じゅよう増加ぞうか傾向けいこうにあったため、にちてつ発足ほっそく直後ちょくごから生産せいさん規模きぼ拡張かくちょうもとめられた。創業そうぎょう時代じだいにおいては、以下いかのような拡張かくちょう計画けいかく実行じっこうされている。

だい1拡張かくちょう計画けいかく
1934ねん10がつより着手ちゃくしゅされた。対象たいしょう八幡はちまん釜石かまいしけんうらかく製鐵せいてつしょ富士ふじ製鋼せいこうしょで、設備せつび拡充かくじゅうおこなわれた。主要しゅよう工事こうじに、八幡やはた製鐵せいてつしょの1000トンだか新設しんせつがある。新設しんせつされた日産にっさん1000トンの大型おおがただかは、日本にっぽん国内こくないでははじめてとなるもので、世界せかい水準すいじゅんにもおとらない設備せつびであった。また、八幡やはた製鐵せいてつしょでは高級こうきゅう鋼板こうはん珪素けいそ鋼板こうはん生産せいさん体制たいせいととのえられ、富士ふじ製鋼せいこうしょではおびこう設備せつび建設けんせつされた。いずれもそれまでおおくを輸入ゆにゅうたよっていた品種ひんしゅである。
拡張かくちょう工事こうじ1937ねん昭和しょうわ12ねん)にほぼ完成かんせいし、生産せいさん能力のうりょく銑鉄せんてつ35まんトン・製鋼せいこう53まんトン・鋼材こうざい19まんトンそれぞれ増加ぞうかした。
だい2拡張かくちょう計画けいかく
1935ねん昭和しょうわ10ねん)10がつより着手ちゃくしゅされた。対象たいしょう八幡はちまん輪西わにし釜石かまいしけんうらかく製鐵せいてつしょである。八幡やはたでは1000トンだかが1追加ついかされたほか、その製鉄せいてつしょでも設備せつび拡張かくちょう実施じっしされた。とくに、釜石かまいし製鐵せいてつしょでは本格ほんかくてきずくこう一貫いっかん設備せつび整備せいびされた。
拡張かくちょう工事こうじ1939ねん昭和しょうわ14ねん)にほぼ完成かんせい。1936ねん買収ばいしゅうした大阪おおさか製鐵せいてつわせ、生産せいさん能力のうりょく銑鉄せんてつ85まんトン・製鋼せいこう68まんトン・鋼材こうざい19まん5せんトンそれぞれ増加ぞうかした。

にちちゅう戦争せんそう時代じだい[編集へんしゅう]

鉄鋼てっこう生産せいさんだか推移すいい
(1937ねん〜1940ねん
年次ねんじ
暦年れきねん
銑鉄せんてつ はがねかたまり 普通ふつうこう
圧延あつえん
鋼材こうざい
特殊とくしゅこう
圧延あつえん
鋼材こうざい
1937ねん 216 289 201  
1938ねん 230 305 218  
1939ねん 270 306 222  
1940ねん 283 310 216 0.4
単位たんいまんトン

にちてつ発足ほっそくの3ねん1937ねん昭和しょうわ12ねん)、にちちゅう戦争せんそうはじまった。戦争せんそうではおおくの軍需ぐんじゅ物資ぶっし必要ひつようであったが、対外たいがい関係かんけい悪化あっかから輸入ゆにゅうたよらず物資ぶっし国内こくない自給じきゅうすることをもとめられた。にちてつ鉄鋼てっこう需要じゅようぞうおうじ、さらなる拡張かくちょう計画けいかく実施じっししていった。

だい3拡張かくちょう計画けいかく
1936ねん着手ちゃくしゅおも工事こうじに、八幡やはた製鐵せいてつしょにおけるおびこうブリキ一貫いっかん製造せいぞうラインの新設しんせつ(1940ねん完成かんせい)、輪西わにし製鐵せいてつしょずくこう一貫いっかん設備せつび仲町なかまち工場こうじょう)の建設けんせつ(1939ねん操業そうぎょう開始かいし)がある。
だい4拡張かくちょう計画けいかく
1937ねん着手ちゃくしゅ広畑ひろはた製鐵せいてつしょ建設けんせつされた(1939ねん操業そうぎょう開始かいし)。
だい3だい4拡張かくちょう計画けいかくによって、にちてつ年間ねんかん能力のうりょくは、銑鉄せんてつ140まんトン・製鋼せいこう100まんトン・鋼材こうざい106まんトンそれぞれ増加ぞうかした。
だい5拡張かくちょう計画けいかく
1937ねん策定さくていにちてつ最後さいご拡張かくちょう計画けいかくとなった。朝鮮ちょうせんきよし製鐵せいてつしょ新設しんせつされた(1942ねん操業そうぎょう開始かいし)のみで、製鉄せいてつしょ拡張かくちょう戦争せんそう拡大かくだいともな資材しざい入手にゅうしゅ困難こんなんにより計画けいかくまれなかった。
だい5拡張かくちょう計画けいかくによって、43まんトンの銑鉄せんてつ生産せいさん能力のうりょくくわわった。

生産せいさん拡張かくちょう並行へいこうして、鉄鉱てっこうせき石炭せきたんなど原料げんりょう確保かくほねらった原料げんりょう部門ぶもんへの投資とうし積極せっきょくてきおこなわれた。そのなかもっとおおきなものは日鉄鉱業にってつこうぎょう設立せつりつである。製鉄せいてつ合同ごうどうによりにちてつ継承けいしょうされた二瀬ふたせ炭鉱たんこうと、釜石かまいし鉱山こうざんなどのきゅう会社かいしゃのこった鉄山てつざん炭鉱たんこう統合とうごうして1939ねん昭和しょうわ14ねん)に設立せつりつされ、にちてつ全額ぜんがく出資しゅっしする子会社こがいしゃであった。にちてつ資源しげん会社かいしゃという位置いちづけであり、以降いこう資源しげんかんする施策しさく同社どうしゃ中心ちゅうしんとしておこなわれていくことになる。

外地がいち占領せんりょうでの資源しげん確保かくほもこの時期じきさかんになっている。にちちゅう戦争せんそう拡大かくだいにより日本にっぽんぐん1938ねん昭和しょうわ13ねん)にだい鉄山てつざん占領せんりょうすると、どう鉱山こうざん経営けいえいまかされることになった。だい鉄山てつざんにちてつとの関係かんけいふかく、官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ創業そうぎょう時代じだいから鉄鉱てっこうせき輸入ゆにゅうしていた鉱山こうざんである。その中国ちゅうごく占領せんりょうでは華中かちゅう鉄鉱てっこうなどの会社かいしゃ設立せつりつされ、鉱山こうざん経営けいえいにあたっている。また、きよし製鐵せいてつしょへの鉄鉱てっこうせき石炭せきたん供給きょうきゅう目的もくてきとして朝鮮ちょうせん茂山しげやま鉄鉱てっこう開発かいはつ茂山しげやま鉱山こうざん経営けいえい)、満州まんしゅうこくみつやま炭砿たんこうみつやま炭鉱たんこう経営けいえい)が設立せつりつされた。

経営けいえいしゃについてると、1937ねん6がつ平生ひらお三郎さぶろうが2代目だいめ会長かいちょう就任しゅうにん。1939ねん6がつには初代しょだい社長しゃちょう中井なかい励作が引退いんたい中松なかまつしんきょうが2代目だいめ社長しゃちょう就任しゅうにんするが、1940ねん昭和しょうわ15ねん)には会長かいちょうせい廃止はいしして会長かいちょう社長しゃちょうとう経営けいえい統一とういつし、平生ひらおさんろうが3代目だいめ社長しゃちょう就任しゅうにんした。

太平洋戦争たいへいようせんそう時代じだい[編集へんしゅう]

鉄鋼てっこう生産せいさんだか推移すいい
(1941ねん〜1945ねん
年次ねんじ
暦年れきねん
銑鉄せんてつ はがねかたまり 普通ふつうこう
圧延あつえん
鋼材こうざい
特殊とくしゅこう
圧延あつえん
鋼材こうざい
1941ねん 344 318 215 0.6
1942ねん 337 342 231 0.8
1943ねん 356 375 246 4.3
1944ねん 309 330 213 12.6
1945ねん 102 106 61 7.2
単位たんいまんトン

1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく鉄鉱てっこうせきなら重要じゅうよう鋼材こうざい原材料げんざいりょうである屑鉄くずてつたいにち禁輸きんゆ措置そちおこなった。アメリカさん屑鉄くずてつ国内こくない消費しょうひりょうだい部分ぶぶんめていただけに、原材料げんざいりょう外国がいこく依存いぞんからの脱却だっきゃく急務きゅうむとなった。1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月に太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんすると、その要請ようせい一段いちだんすことになる。開戦かいせんおながつにちてつの4代目だいめ社長しゃちょう海軍かいぐん出身しゅっしん豊田とよだ貞次郎ていじろう就任しゅうにん以降いこう1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ渡辺わたなべ義介ぎすけ社長しゃちょう就任しゅうにんするまでの戦時せんじちゅう期間きかん豊田とよだ指揮しきった。

開戦かいせん初期しょきは、鉄鉱てっこうせき屑鉄くずてつ不足ふそく資材しざい不足ふそくなどの悪条件あくじょうけんでありながらも増産ぞうさんへの努力どりょくつづけられた。広畑ひろはた製鐵せいてつしょ輪西わにし製鐵せいてつしょしん設備せつび軌道きどうり、きよし製鐵せいてつしょ火入ひいれがおこなわれるなどにちちゅう戦争せんそう着手ちゃくしゅされた拡張かくちょう計画けいかく完成かんせいするのがこの時期じきになり、1943ねん昭和しょうわ18ねん)まで生産せいさんりょうばすことができた。また、軍部ぐんぶ要請ようせいこたえて弾丸だんがんはがね防弾ぼうだんはがね航空機こうくうきよう鋼材こうざいなどの軍需ぐんじゅ特殊とくしゅこう増産ぞうさんした。

1942ねん昭和しょうわ17ねん以降いこう戦局せんきょく後退こうたいすると、原材料げんざいりょう輸送ゆそうなん解消かいしょうするため原材料げんざいりょう所在地しょざいち中国ちゅうごく占領せんりょう)で鉄鋼てっこう増産ぞうさんする計画けいかくてられた。それにもとづいて北京ぺきん郊外こうがい既存きそん製鉄せいてつしょもとに1942ねん12月にはきたささえ製鉄せいてつ設立せつりつされ、国内こくない製鉄せいてつしょから設備せつび移設いせつして拡大かくだいさせた。

その戦局せんきょく悪化あっか一途いっとをたどり、海外かいがいからの原材料げんざいりょう輸送ゆそう困難こんなんとなったためにしつわる国内こくない資源しげんたよらざるをなくなり、1944ねん昭和しょうわ19ねん以降いこう生産せいさんりょう減少げんしょうしていく。同年どうねん6がつにははじめて工場こうじょう空襲くうしゅうがあり、これも生産せいさんりょう減少げんしょう一因いちいんとなった。空襲くうしゅう徐々じょじょ激化げきかし、よく1945ねん昭和しょうわ20ねん)にかけて八幡やはた大阪おおさか製鐵せいてつしょ富士ふじ製鋼せいこうしょ被災ひさいした。1945ねん7がつには輪西わにし釜石かまいし製鐵せいてつしょねらったかんほう射撃しゃげきがあり、とく釜石かまいし製鐵せいてつしょ再起さいき不能ふのうわれるほどの被害ひがいけた。また、中国ちゅうごく製鉄せいてつしょ強化きょうかする方針ほうしんてられ、設備せつび移設いせつのために大阪おおさか製鐵せいてつしょ解体かいたいされた。

1945ねん7がつ日本鋼管にほんこうかん高炉こうろとしてから、にちてつ高炉こうろ操業そうぎょうつづける唯一ゆいいつ企業きぎょうであったが、生産せいさん活動かつどうづまっていた。そのような状況じょうきょうなか終戦しゅうせんむかえることになる。

戦後せんご復興ふっこう[編集へんしゅう]

鉄鋼てっこう生産せいさんだか推移すいい
(1946ねん〜1949ねん
年次ねんじ
暦年れきねん
銑鉄せんてつ はがねかたまり 普通ふつうこう
圧延あつえん
鋼材こうざい
特殊とくしゅこう
圧延あつえん
鋼材こうざい
1946ねん 14 14 11 0.3
1947ねん 25 30 14 0.4
1948ねん 57 62 30 0.3
1949ねん 104 121 63 0.2
単位たんいまんトン

1945ねん8がつ日本にっぽん降伏ごうぶくにより太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつした。その結果けっかてつ外地がいち占領せんりょうにおける事業じぎょう喪失そうしつし、戦災せんさい原材料げんざいりょう不足ふそくにより疲弊ひへいした内地ないち事業じぎょうのみがのこった。終戦しゅうせんしたものの、原料げんりょう事情じじょうのさらなる悪化あっか原材料げんざいりょう輸入ゆにゅう禁止きんしされ、国内こくない資源しげん供給きょうきゅうもほぼ停止ていししていた)のために高炉こうろ操業そうぎょう継続けいぞく困難こんなんで、終戦しゅうせん8稼動かどうしていた高炉こうろよく1946ねん昭和しょうわ21ねん)には八幡はちまん輪西わにし製鉄せいてつしょけい5がかろうじて操業そうぎょう継続けいぞくするまでにんだ。1946年度ねんど生産せいさんりょうにちてつ発足ほっそくの1わりたない。

にちてつ戦後せんご課題かだいは、凋落ちょうらくした生産せいさん復興ふっこうGHQ占領せんりょう政策せいさくへの対応たいおうであった。1946ねん5がつ釜石かまいし鉱山こうざん出身しゅっしん三鬼みきたかし社長しゃちょう就任しゅうにん戦後せんご復興ふっこう三鬼みきによってすすめられることになる。

戦後せんご原材料げんざいりょう不足ふそく深刻しんこくであった。てつげん不足ふそく鉄鉱てっこうせきのストックと屑鉄くずてつ戦災せんさいくず兵器へいきくず)によりある程度ていどまかなえたが、石炭せきたん炭鉱たんこう操業そうぎょう状態じょうたい悪化あっか欠乏けつぼうしていた。すくない石炭せきたん効率こうりつ運用うんようするため、1946ねん9がつより輪西わにし製鉄せいてつしょ高炉こうろ停止ていしされ、八幡やはた製鉄せいてつしょでの集中しゅうちゅう生産せいさん実施じっしされた。政府せいふ政策せいさく傾斜けいしゃ生産せいさん方式ほうしき)も、石炭せきたん割当わりあ増加ぞうかによって鉄鋼てっこう増産ぞうさんつながった。しかしこれらの対策たいさくよりも効果こうかがあったのが1947ねん昭和しょうわ22ねん後半こうはん以降いこう石炭せきたん鉄鉱てっこうせき輸入ゆにゅう再開さいかいで、原材料げんざいりょうなん解決かいけつしたため高炉こうろ相次あいついで復活ふっかつし、生産せいさんりょうは1948年度ねんど・49年度ねんどともに前年度ぜんねんどよりも倍増ばいぞうした。1950ねん昭和しょうわ25ねん)3がつには広畑ひろはた製鉄せいてつしょ高炉こうろさい稼動かどうし、八幡やはた輪西わにし釜石かまいし広畑ひろはたぜん製鉄せいてつしょ高炉こうろ稼動かどう実現じつげんした。

復興ふっこう障壁しょうへきとなったのが戦争せんそう賠償ばいしょう問題もんだいにちてつ解体かいたい問題もんだいである。終戦しゅうせん直後ちょくご戦災せんさい壊滅かいめつした釜石かまいし製鉄せいてつしょのぞく4工場こうじょう賠償ばいしょう工場こうじょう指定していされており、設備せつび過半かはん賠償ばいしょうてられ撤去てっきょされる可能かのうせいがあった。しかし、GHQの賠償ばいしょう方針ほうしん徐々じょじょ好転こうてん主力しゅりょく工場こうじょう設備せつび撤去てっきょされる可能かのうせいひくくなり、最終さいしゅうてき設備せつび撤去てっきょされることはなかった。だが、もう一方いっぽうてつ解体かいたい問題もんだいは、にちてつ解体かいたいみちびくことになる。

にちてつ解体かいたい[編集へんしゅう]

GHQの占領せんりょう開始かいし当初とうしょからの方針ほうしんである財閥ざいばつ解体かいたいは、三菱みつびしなどのよんだい財閥ざいばつだけでなくだい企業きぎょうにも対象たいしょうおよんだ。にちてつはその規模きぼゆえに、はやくから解体かいたい対象たいしょうとされた。

まず1946ねん3がつにちてつは「制限せいげん会社かいしゃ」に指定していされた。これは財閥ざいばつ解体かいたい方針ほうしん沿って、営業えいぎょう譲渡じょうと解散かいさん財産ざいさん処分しょぶんなどを制限せいげんし、金融きんゆう株式かぶしき関連かんれん事項じこう大蔵おおくら大臣だいじん許認可きょにんかせいとして、終戦しゅうせん当時とうじ状態じょうたい維持いじさせることをねらいとしている。つぎ段階だんかいとして同年どうねん12がつ今度こんど持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかいによって「持株もちかぶ会社かいしゃ」として指定していされ、制限せいげん会社かいしゃよりも高度こうど業務ぎょうむかん制限せいげんをうけることとなった。持株もちかぶ会社かいしゃ指定していによって保有ほゆうしていた関係かんけい会社かいしゃ49しゃ株式かぶしきは1947ねん3がつ同年どうねん9がつの2にわたって持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかいわたされ、にちてつ日鉄鉱業にってつこうぎょう日本にっぽん特殊とくしゅ鋼管こうかん日本にっぽんピッチコークスなどの関係かんけい会社かいしゃとの株式かぶしき関係かんけいれた。

1947ねん3がつには、経営けいえいじんたいしGHQからにちてつ分割ぶんかつせよとの指示しじくだされた。さらに、同年どうねん12がつ過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほうしゅうはいほう)が成立せいりつすると、どうほうによりにちてつ過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅうしている企業きぎょうとして指定していされた。これにたい経営けいえいしゃがわ分割ぶんかつすると運営うんえい効率こうりつとなるとして反対はんたいし、GHQとのあいだ分割ぶんかつ中止ちゅうしけた折衝せっしょうつづけたが、GHQがわ意志いしかたく、1948ねん10がつに「にちてつ日本にっぽん鉄鋼てっこうぎょうにおいて競争きょうそう制限せいげんしている」といった事実じじつにより過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう該当がいとうすると認定にんていされ、解体かいたい指令しれいされた。経営けいえいじんはそれでもなお解体かいたい回避かいひけた折衝せっしょうつづけたが、12月にはGHQより決定けってい指令しれいされ、にちてつ解体かいたい決定けっていした。

にちてつ解体かいたい決定けっていすると、それに対応たいおうするてつ再建さいけん整備せいび計画けいかく審議しんぎ開始かいしされた。広畑ひろはた製鉄せいてつしょ帰属きぞくをめぐる問題もんだいなどのしょ問題もんだいがあったが、解体かいたい決定けっていの1ねん1949ねん昭和しょうわ24ねん)12月、にちてつ再建さいけん整備せいび計画けいかく認可にんかされ、それに沿ってだい会社かいしゃ設立せつりつ準備じゅんびすすめられた。そして1950ねん昭和しょうわ25ねん4がつ1にち、この再建さいけん計画けいかく沿って八幡やはた製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃ富士ふじ製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃにちてつ汽船きせん株式会社かぶしきがいしゃ播磨はりま耐火たいか煉瓦れんが株式会社かぶしきがいしゃの4つのだい会社かいしゃ設立せつりつされた。八幡やはた製鐵せいてつ富士ふじ製鐵せいてつ鉄鋼てっこうメーカーで、前者ぜんしゃ八幡はちまん製鉄せいてつしょを、後者こうしゃ輪西わにし釜石かまいし広畑ひろはたかく製鉄せいてつしょ富士ふじ製鋼せいこうしょ継承けいしょうした。にちてつ海運かいうん部門ぶもんにちてつ汽船きせんに、赤穂あこう高砂たかさごりょうざい工場こうじょう播磨はりま耐火たいか煉瓦れんが継承けいしょうされた。

にちてつだい会社かいしゃ設立せつりつ同時どうじ解散かいさんして清算せいさん業務ぎょうむ開始かいしし、清算せいさん会社かいしゃとなった。1950ねん8がつにはにちてつほう廃止はいしほう成立せいりつし、対象たいしょううしなったてつほう廃止はいしされた。懸案けんあんだった戦争せんそう賠償ばいしょう問題もんだいも、サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうにより1952ねん昭和しょうわ27ねん)4がつ指定してい解除かいじょされた。清算せいさん業務ぎょうむ1957ねん昭和しょうわ32ねん)11月に事実じじつじょう終了しゅうりょうし、にちてつ完全かんぜん消滅しょうめつした[ちゅう 4]

にちてつだい会社かいしゃのその[編集へんしゅう]

だい会社かいしゃ八幡やはた製鐵せいてつ富士ふじ製鐵せいてつは、1970ねん昭和しょうわ45ねん)に合併がっぺいして巨大きょだい鉄鋼てっこうメーカー・しん日本にっぽん製鐵せいてつ株式会社かぶしきがいしゃ新日鉄しんにってつ)となった。新日鉄しんにってつは2012ねん平成へいせい24ねん)には住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう吸収きゅうしゅう合併がっぺいして新日鐵しんにってつ住金すみきん株式会社かぶしきがいしゃとなったが、2019ねん平成へいせい31ねん)4がつ日本にっぽん製鉄せいてつ株式会社かぶしきがいしゃ(にっぽんせいてつかぶしきかいしゃ)に改称かいしょう[5]かたこそちがえど源流げんりゅうの「にちてつ」の名称めいしょう復活ふっかつさせることになる。

播磨はりま耐火たいか煉瓦れんがはハリマセラミックに改称かいしょうのち2000ねん平成へいせい12ねん)ににちてつ関係かんけいがあった黒崎窯業くろさきょうぎょう合併がっぺいし、黒崎くろさき播磨はりまとなった。にちてつ汽船きせん新和海運しんわかいうん改称かいしょうのち2010ねん平成へいせい22ねん)にNSユナイテッド海運かいうん改称かいしょう。この黒崎くろさき播磨はりま・NSユナイテッド海運かいうんや、にちてつ時代じだい資本しほん関係かんけいれた日鉄鉱業にってつこうぎょう現在げんざいでは新日鉄しんにってつ資本しほん関係かんけい復活ふっかつしている。

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん
    • 1がつ29にち - 日本国にっぽんこく政府せいふ輪西わにし製鉄せいてつ釜石かまいし鉱山こうざん三菱みつびし製鉄せいてつ富士ふじ製鋼せいこう現物げんぶつ出資しゅっしにより、日本にっぽん製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃにちてつ)を設立せつりつ
    • 1がつ31にち - 設立せつりつ登記とうき完了かんりょう資本しほんきん3おく4594まんえん
    • 2がつ1にち - 八幡やはた輪西わにし釜石かまいしけんうらかく製鉄せいてつしょ富士ふじ製鋼せいこうしょ二瀬ふたせ鉱業こうぎょうしょをもって営業えいぎょう開始かいし
    • 3月31にち - 東洋とうよう製鉄せいてつ現物げんぶつ出資しゅっしにより、八幡やはた製鉄せいてつしょ戸畑とばた作業さぎょうしょ発足ほっそく
    • 5月2にち - 東洋とうよう製鉄せいてつ現物げんぶつ出資しゅっしによる増資ぞうし登記とうき完了かんりょう資本しほんきんは3おく5982まん1せんえんに。
  • 1935ねん昭和しょうわ10ねん
  • 1936ねん昭和しょうわ11ねん
    • 5月1にち - 大阪おおさか製鉄せいてつ事業じぎょう買収ばいしゅうし、大阪おおさか製鉄せいてつしょ発足ほっそく
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん
    • 2がつ15にち - 八幡やはた製鉄せいてつしょにおいて、日本にっぽんはつとなる日産にっさん1000トンの大型おおがただか火入ひいれ。
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん
    • 3月3にち - 黒崎窯業くろさきょうぎょうげん黒崎くろさき播磨はりま)と共同きょうどうで、日本にっぽんざい製造せいぞうてつざい製造せいぞう)を設立せつりつ
    • 5月30にち - 5おくえん増資ぞうし12月27にち登記とうき完了かんりょう)。
    • 12月15にち - だい鉄山てつざん中国ちゅうごく)を管理かんりするだい鉱業こうぎょうしょ新設しんせつ
  • 1939ねん昭和しょうわ14ねん
    • 5月4にち - きよし製鉄せいてつしょ発足ほっそく
    • 5月5にち - 広畑ひろはた製鉄せいてつしょ発足ほっそく10月15にち操業そうぎょう開始かいし)。
    • 5がつ20日はつか - 二瀬ふたせ鉱業こうぎょうしょ現物げんぶつ出資しゅっしし、日鉄鉱業にってつこうぎょう設立せつりつ
    • 12月15にち - 輪西わにし製鉄せいてつしょ仲町なかまち地区ちく操業そうぎょう開始かいし
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん
    • 3月 - 8おくえん増資ぞうし9月12にち登記とうき完了かんりょう)。
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん
    • 5月25にち - きよし製鉄せいてつしょ操業そうぎょう開始かいし
    • 12月27にち - きたささえ製鉄せいてつ設立せつりつ
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん
    • 11月30にち - にちてつざい製造せいぞう合併がっぺい
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん
    • 3月 - 設備せつび移転いてんのため、大阪おおさか製鉄せいてつしょ解体かいたい
    • 8がつ9にち - かんほう射撃しゃげきにより釜石かまいし製鉄せいてつしょ被災ひさい高炉こうろ停止ていし
    • 8がつ15にち - 日本にっぽん敗戦はいせんにより、けんうらきよし製鉄せいてつしょなどの外地がいち占領せんりょう資産しさん喪失そうしつ
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん
    • 1がつ7にち - 広畑ひろはた製鉄せいてつしょのすべての高炉こうろ停止ていし
    • 3月14にち - 「制限せいげん会社かいしゃ」に指定していされる。
    • 9月2にち - 輪西わにし製鉄せいてつしょのすべての高炉こうろ停止ていし
    • 12月7にち - 「持株もちかぶ会社かいしゃ」に指定していされる。
  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん
    • 3月18にち - 輪西わにし製鉄せいてつしょ高炉こうろさい稼動かどう
    • 3月19にち - 日鉄鉱業にってつこうぎょう日本にっぽん特殊とくしゅ鋼管こうかんなどの株式かぶしき持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかい引渡ひきわたし。
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん
    • 5月15にち - 釜石かまいし製鉄せいてつしょ高炉こうろさい稼動かどう
    • 12月16にち - 持株もちかぶ会社かいしゃ整理せいり委員いいんかいにちてつ解体かいたい決定けってい
  • 1949ねん昭和しょうわ24ねん
    • 4がつ - 大阪おおさか製鉄せいてつしょ分離ぶんりし、だいてつ工業こうぎょう現在げんざい大阪おおさか製鐵せいてつ前身ぜんしん)を設立せつりつ
  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん
    • 3月28にち - 広畑ひろはた製鉄せいてつしょ高炉こうろさい稼動かどう
    • 4がつ1にち - にちてつ解散かいさん八幡やはた製鐵せいてつ富士ふじ製鐵せいてつにちてつ汽船きせん播磨はりま耐火たいか煉瓦れんがの4しゃにちてつ資産しさん継承けいしょうして発足ほっそく
    • 8がつ5にち - にちてつほう廃止はいしほう公布こうふにより、にちてつほう廃止はいし
  • 1957ねん昭和しょうわ32ねん
    • 11月26にち - 清算せいさん業務ぎょうむ終了しゅうりょう

事業じぎょう[編集へんしゅう]

鉄鋼てっこうぎょう[編集へんしゅう]

にちてつのメインの事業じぎょうは、鉄鉱てっこうせき屑鉄くずてつから鋼材こうざいつく鉄鋼てっこうぎょうである。製鉄せいてつ合同ごうどういだ6工場こうじょうと、にちてつ発足ほっそく建設けんせつした2工場こうじょうけい8工場こうじょう鉄鋼てっこうぎょう拠点きょてんとして使用しようしていた。工場こうじょう名称めいしょう所在地しょざいち製鉄せいてつ合同ごうどうまえ保有ほゆうしゃおも設備せつび高炉こうろ平炉へいろ電気でんき)は以下いかのとおりである。

上記じょうきのうち、にちてつ解体かいたいともなって八幡はちまん製鉄せいてつしょ八幡はちまん製鐵せいてつに、輪西わにし釜石かまいし広畑ひろはた製鉄せいてつしょ富士ふじ製鐵せいてつ継承けいしょうされ、両社りょうしゃ合併がっぺいにより現在げんざいはいずれも新日鉄しんにってつ製鉄せいてつしょである(輪西わにし製鉄せいてつしょ室蘭製鉄所むろらんせいてつしょ改称かいしょうしている)。富士ふじ製鋼せいこうしょ富士ふじ製鐵せいてつ継承けいしょうされ、川崎かわさき製鋼せいこうしょ改称かいしょうしたのち新日鉄しんにってつ継承けいしょうされたが、子会社こがいしゃ移管いかんされてつ建材けんざい工業こうぎょうげんにちてつ建材けんざい川崎かわさき製鋼せいこうしょとなり、2001ねん平成へいせい13ねん)に閉鎖へいさされた。

のこりの3工場こうじょうにちてつ解体かいたい以前いぜん消滅しょうめつしている。大阪おおさか製鉄せいてつしょは1945ねん3がつ解体かいたいにちてつ解体かいたい直前ちょくぜんだいてつ工業こうぎょう譲渡ゆずりわたされ、同社どうしゃにより再建さいけんされて現在げんざい大阪おおさか製鐵せいてつおん加島かしま工場こうじょうである。朝鮮ちょうせんけんうらきよし製鉄せいてつしょ日本にっぽん敗戦はいせんにより喪失そうしつし、現在げんざいでは北朝鮮きたちょうせん製鉄せいてつしょとして操業そうぎょうしているとされる。

製品せいひん工場こうじょうによってことなるが、にちてつ条鋼じょうこうかたちこうせんざいなど)や鋼板こうはんうす鋼板こうはんあつ鋼板こうはんおびこうなど)の鋼材こうざいや、鉄鋼てっこう業者ぎょうしゃ販売はんばいする銑鉄せんてつはがねかたまり銑鉄せんてつ製鋼せいこうしたもの)・はがねへんはがねかたまり圧延あつえんしたもの)を製品せいひんとして製造せいぞうしていた。中核ちゅうかく八幡やはた製鉄せいてつしょ工場こうじょうよりも多種たしゅ多様たよう製品せいひん製造せいぞうでき、軌条きじょうブリキケイ素けいそ鋼板こうはんなどの特殊とくしゅ製品せいひん八幡やはたでしか製造せいぞうしていない。

化学かがく工業こうぎょう[編集へんしゅう]

にちてつ化学かがく工業こうぎょう部門ぶもんは、コークスコークス乾留かんりゅうするさいコールタールなどの副産物ふくさんぶつ利用りようして化成かせいひん製造せいぞうする石炭せきたん化学かがくである。コークスは高炉こうろ操業そうぎょう必要ひつようなものなので、それに付属ふぞくする化学かがく事業じぎょう高炉こうろのある6工場こうじょう実施じっしされていた。

製品せいひんベンゼントルエンクレゾールナフタレンピッチクレオソート硫酸りゅうさんアンモニウムなどである。

窯業ようぎょう[編集へんしゅう]

にちてつがけた窯業ようぎょうは、耐火たいか煉瓦れんがセメント製造せいぞうである。

耐火たいか煉瓦れんがざいとして使用しようするもので、にちてつ発足ほっそく八幡はちまん釜石かまいしけんうらの3製鉄せいてつしょ製造せいぞうしていた。1944ねん昭和しょうわ19ねん)12月には子会社こがいしゃてつざい製造せいぞう合併がっぺい同社どうしゃ運営うんえいしていた工場こうじょう移管いかんし、輪西わにし製鉄せいてつ所内しょない煉瓦れんが工場こうじょうを、広畑ひろはた製鉄せいてつしょ付属ふぞくする高砂たかさご赤穂あこうりょう煉瓦れんが工場こうじょういた。これらの6つの煉瓦れんが工場こうじょうのうち、高砂たかさご赤穂あこう煉瓦れんが工場こうじょうにちてつ解体かいたいともなって播磨はりま耐火たいか煉瓦れんが継承けいしょうされている。

セメントは高炉こうろセメントばれるものを製造せいぞうしていた。高炉こうろセメントは、通常つうじょうのセメントに高炉こうろから鉱滓こうさいぜて製造せいぞうされる。八幡やはた製鉄せいてつしょロータリーキルン設置せっちして製造せいぞうされた。

海運かいうんぎょう[編集へんしゅう]

にちてつ海運かいうんぎょうは、おも自社じしゃ原材料げんざいりょう製品せいひん輸送ゆそうするためのものであった。

にちてつ海運かいうんぎょうは、官営かんえい製鉄せいてつしょ保有ほゆうしていた蒸気じょうきせん3せき発足ほっそくした。にちちゅう戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうには鉄鋼てっこう増産ぞうさん影響えいきょう自社じしゃせん需要じゅようたかまったために1939ねんから1943ねんにかけて蒸気じょうきせんすう12せき購入こうにゅう。1943ねんから1945ねんにかけては戦時せんじ標準ひょうじゅんせん58せきてをけ、機帆船きはんせん62せき購入こうにゅうし、だい船主せんしゅひとつとなった。しかし、戦局せんきょく悪化あっかともなって1943ねんにはにちてつはじめて撃沈げきちんされる船舶せんぱく以降いこう船舶せんぱく喪失そうしつつづけて終戦しゅうせんには汽船きせん28せき(そのうち戦時せんじ標準ひょうじゅんせんは27せきで、在来ざいらいせんは1せきのみ)、機帆船きはんせん42せき減少げんしょうしていた。

戦後せんごは1せき建造けんぞうしたのみで、にちてつ解体かいたいともなって大型おおがた汽船きせん23せきにちてつ汽船きせん継承けいしょうされた。

鉱業こうぎょう[編集へんしゅう]

にちてつ鉱業こうぎょうは、石炭せきたん産出さんしゅつする二瀬ふたせ炭鉱たんこう福岡ふくおかけん)などを官営かんえい製鉄せいてつしょからいで開始かいしされた。二瀬ふたせ炭鉱たんこうやその周囲しゅうい炭鉱たんこう経営けいえいする二瀬ふたせ鉱業こうぎょうしょにちてつ発足ほっそく当初とうしょから設置せっちされた。しかし、これらの鉱山こうざんは1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ日鉄鉱業にってつこうぎょう現物げんぶつ出資しゅっしされ、にちてつはなれた。

日鉄鉱業にってつこうぎょう設立せつりつ以降いこう同社どうしゃ資源しげん開発かいはつ中心ちゅうしんとなったが、一部いちぶ中国ちゅうごく占領せんりょう鉱山こうざんにちてつ直営ちょくえいとなった。1939ねん9がつには日本にっぽんぐん占領せんりょうしただい鉄山てつざん経営けいえいするだい鉱業こうぎょうしょ発足ほっそくする。だい鉄山てつざんほかにも中国ちゅうごくにはにちてつ直営ちょくえい鉱山こうざんがあったが、1942ねん昭和しょうわ17ねん)7がつ日鉄鉱業にってつこうぎょう移管いかんしている。にちてつによるだい鉄山てつざん開発かいはつは、戦局せんきょく悪化あっかする1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつまでつづいた。

役員やくいん[編集へんしゅう]

社長しゃちょう[編集へんしゅう]

歴代れきだい社長しゃちょうは6にん。6代目だいめ社長しゃちょう三鬼みき八幡はちまん製鐵せいてつ初代しょだい社長しゃちょう就任しゅうにん、5代目だいめ社長しゃちょう渡辺わたなべは2代目だいめ八幡やはた製鐵せいてつ社長しゃちょう就任しゅうにんしている。

  1. 中井なかい励作 - 1934ねん1がつ就任しゅうにん製鉄せいてつしょ長官ちょうかんより異動いどう)、1939ねん6がつ退任たいにんもとのう商務しょうむ次官じかん
  2. 中松なかまつしんきょう - 1939ねん6がつ就任しゅうにん常務じょうむ取締役とりしまりやくより昇格しょうかく)、1940ねん12月退任たいにんもと特許とっきょきょく長官ちょうかん
  3. 平生ひらお三郎さぶろう - 1940ねん12月就任しゅうにん会長かいちょうより異動いどう)、1941ねん12月退任たいにん貴族きぞくいん議員ぎいんもと文部もんぶ大臣だいじん
  4. 豊田とよだ貞次郎ていじろう - 1941ねん12月就任しゅうにん、1945ねん4がつ退任たいにん海軍かいぐん出身しゅっしんもと外務がいむ大臣だいじん
  5. 渡辺わたなべ義介ぎすけ - 1945ねん5がつ就任しゅうにん、1946ねん3がつ退任たいにん官営かんえい製鉄せいてつしょ出身しゅっしん
  6. 三鬼みきたかし - 1946ねん5がつ就任しゅうにん、1950ねん4がつ退任たいにんにちてつ解散かいさん)。釜石かまいし鉱山こうざん出身しゅっしん

会長かいちょう[編集へんしゅう]

歴代れきだい会長かいちょう2人ふたり会長かいちょうせい会社かいしゃ設立せつりつからあったが、1940ねん12月の体制たいせい改革かいかく廃止はいしされた。

  1. 中井なかい励作 - 1934ねん1がつ就任しゅうにん社長しゃちょう兼任けんにん)、1937ねん6がつ退任たいにん兼任けんにん解除かいじょ)。
  2. 平生ひらお三郎さぶろう - 1937ねん6がつ就任しゅうにん、1940ねん12月社長しゃちょう異動いどう

その役員やくいん[編集へんしゅう]

社長しゃちょう会長かいちょうではないおも役員やくいん常務じょうむ取締役とりしまりやく取締役とりしまりやくなど)をげる。

関係かんけい会社かいしゃ[編集へんしゅう]

にちてつ投資とうししていた関係かんけい会社かいしゃには、鉄鋼てっこう業者ぎょうしゃやその関連かんれん製品せいひんメーカー、原材料げんざいりょう関連かんれん会社かいしゃ輸送ゆそう関連かんれん会社かいしゃなどがある。そのうちのおも会社かいしゃ以下いかのとおりである。いずれも、戦後せんご財閥ざいばつ解体かいたいで、にちてつ解体かいたいまでに株式かぶしき手放てばなしている。

日鉄鉱業にってつこうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ
にちてつ保有ほゆう鉱山こうざん現物げんぶつ出資しゅっしして1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ20日はつか設立せつりつ製鉄せいてつ合同ごうどう参加さんかした釜石かまいし鉱山こうざんきゅう輪西わにし製鉄せいてつ鉱山こうざん統合とうごうした。にちてつ全額ぜんがく出資しゅっしであり、製品せいひん鉱石こうせき石炭せきたんなど)の大半たいはんにちてつへと供給きょうきゅうされた。石灰石せっかいせき中心ちゅうしんとする鉱業こうぎょう業者ぎょうしゃとして現存げんそん
茂山しげやま鉄鉱てっこう開発かいはつ株式会社かぶしきがいしゃ
1939ねん12月6にち設立せつりつ三菱みつびし鉱業こうぎょうが50%、にちてつが25%、日鉄鉱業にってつこうぎょうが25%を出資しゅっし茂山しげやま鉄山てつざん朝鮮ちょうせん)を三菱みつびし鉱業こうぎょうから継承けいしょうし、きよし製鉄せいてつしょ産出さんしゅつする鉄鉱てっこうせき供給きょうきゅうした。
みつやま炭砿たんこう株式会社かぶしきがいしゃ
1941ねん昭和しょうわ16ねん)7がつ10日とおか設立せつりつにちてつ日鉄鉱業にってつこうぎょう満州まんしゅう炭砿たんこうとその親会社おやがいしゃ満州まんしゅう重工業じゅうこうぎょう開発かいはつ出資しゅっし満州まんしゅうこくみつやま炭田たんでん開発かいはつし、石炭せきたんしん製鉄せいてつしょなどへ供給きょうきゅうした。
きたささえ製鉄せいてつ株式会社かぶしきがいしゃ
北京ぺきんいし景山かげやま製鉄せいてつしょいし景山かげやま製鉄せいてつしょ)を運営うんえいいし景山かげやま製鉄せいてつしょにちちゅう戦争せんそうちゅう日本にっぽんぐん接収せっしゅうしたのちの1938ねん昭和しょうわ13ねん)11月に、にちてつ技術ぎじゅつ協力きょうりょくにより操業そうぎょう開始かいしした。1940ねん昭和しょうわ15ねん)11月29にちにはきたささえ開発かいはつにちてつ共同きょうどういし景山かげやま製鉄せいてつ鉱業こうぎょう組合くみあい設立せつりつされ、製鉄せいてつしょ運営うんえいどう組合くみあい移管いかんされる。きたささえ製鉄せいてつずくこう一貫いっかん設備せつび建設けんせついし景山かげやま製鉄せいてつしょ拡張かくちょう)を目的もくてきに、1942ねん昭和しょうわ17ねん)12月27にちきたささえ開発かいはつにちてつ共同きょうどう設立せつりつされ、製鉄せいてつしょ継承けいしょうした。その高炉こうろ・コークス平炉へいろ圧延あつえん設備せつびなどのずくこう一貫いっかん設備せつび建設けんせつされるが、一部いちぶ建設けんせつわった段階だんかい終戦しゅうせんむかえた。
にちてつざい製造せいぞう株式会社かぶしきがいしゃ
1938ねん昭和しょうわ38ねん)3がつ3にち黒崎窯業くろさきょうぎょうげん黒崎くろさき播磨はりま)との共同きょうどう出資しゅっし日本にっぽんざい製造せいぞう株式会社かぶしきがいしゃとして設立せつりつ黒崎窯業くろさきょうぎょう高砂たかさご工場こうじょう室蘭むろらん工場こうじょうを1938ねん6がつ買収ばいしゅうし、耐火たいか煉瓦れんが製造せいぞう開始かいしした。1940ねん12月には赤穂あこう工場こうじょう建設けんせつ。1942ねん10がつにちてつ黒崎窯業くろさきょうぎょう株式かぶしき肩代かたがわりし、12月にはにちてつざい製造せいぞう社名しゃめい変更へんこうした。1944ねん昭和しょうわ19ねん)11月30にちにちてつ合併がっぺいされ、室蘭むろらん工場こうじょう輪西わにし製鉄せいてつしょ所属しょぞく煉瓦れんが工場こうじょう赤穂あこう高砂たかさご工場こうじょう広畑ひろはた製鉄せいてつしょ所属しょぞく煉瓦れんが工場こうじょうとされた。
日本にっぽん特殊とくしゅ鋼管こうかん株式会社かぶしきがいしゃ
にちてつ製造せいぞうしていなかった鋼管こうかん製造せいぞう。1942ねん3がつ資本しほん参加さんかかんざい同社どうしゃ供給きょうきゅうしていた。八幡やはた鋼管こうかんで、八幡やはた製鐵せいてつ合併がっぺいされたため現存げんそんしない。
日本にっぽんピッチコークス工業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ
1941ねん9がつ資本しほん参加さんかピッチコークスメーカーで、同社どうしゃ原料げんりょう供給きょうきゅうしていた。戦後せんごにちてつ化学かがく工業こうぎょう社名しゃめい変更へんこう新日鐵しんにってつ化学かがく前身ぜんしん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 鶴見つるみ製鉄せいてつ造船ぞうせんで、1940ねん昭和しょうわ15ねん)に日本にっぽん鋼管こうかん合併がっぺいJFEスチール前身ぜんしんひとつ。
  2. ^ 小倉こくら製鋼せいこう。1953ねん昭和しょうわ28ねん)に住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう合併がっぺい同社どうしゃ小倉製鉄所こくらせいてつしょ前身ぜんしんにあたる。
  3. ^ 現在げんざい川崎重工業かわさきじゅうこうぎょう鉄鋼てっこう部門ぶもんはのちの川崎製鉄かわさきせいてつで、これもJFEスチールの前身ぜんしんひとつ。
  4. ^ ただし法的ほうてきには清算せいさんゆいりょうしておらず、1963ねん昭和しょうわ38ねん)11がつ以降いこう停止ていしされた状態じょうたいとなっている(『くに貸借たいしゃく対照たいしょうひょう試案しあん平成へいせい14年度ねんどばん財政ざいせい事情じじょう説明せつめい手法しゅほうかんする勉強べんきょうかい、p13ちゅう6)が、現在げんざい企業きぎょう再建さいけん整備せいびほうもとづく「特別とくべつ経理けいり会社かいしゃ」として特殊とくしゅ管財かんざいじん選任せんにんされている(平成へいせい22ねん5がつ17にち財務ざいむ大臣だいじん公告こうこく)。また、日本にっぽん政府せいふは、2010ねん平成へいせい22ねん)3がつ31にち現在げんざいにちてつ株式かぶしき保有ほゆうしていることになっている(『財政ざいせい金融きんゆう統計とうけい月報げっぽうだい706ごう国有こくゆう財産ざいさん特集とくしゅう」1.総括そうかつ統計とうけい-13.政府せいふ出資しゅっし法人ほうじん一覧いちらん)が、2001ねん平成へいせい13ねん)に強制きょうせい評価ひょうかげんがなされている(『平成へいせい21年度ねんど こく財務ざいむ書類しょるい』2.一般いっぱん会計かいけい財務ざいむ書類しょるい p34)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 大蔵省おおくらしょう財務ざいむ総合そうごう政策せいさく研究所けんきゅうじょ財政ざいせいしつ日本にっぽん製鉄せいてつ株式会社かぶしきがいしゃほう国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブ。ひら15財務ざいむ00826100https://www.digital.archives.go.jp/item/1277047 
  2. ^ Announcement of Death(Mr. Eishiro Saito,Honorary Chairman of the Japan Federation of Economic Organi” (英語えいご). 新日鐵しんにってつ住金すみきん (2002ねん4がつ25にち). 2018ねん10がつ31にち閲覧えつらん
  3. ^ 森川もりかわ英正ひでまさ日本にっぽん財閥ざいばつ教育きょういくしゃ歴史れきし新書しんしょ、1986ねん、p.214. ISBN 4-315-40248-6
  4. ^ 西野にしのにゅうあいいち浅野あさの渋沢しぶさわ大川おおかわ古川ふるかわコンツェルン読本とくほん春秋しゅんじゅうしゃ、1937ねん、p.78.
  5. ^ 新日鐵しんにってつ住金すみきん株式会社かぶしきがいしゃ (2018ねん5がつ16にち). “当社とうしゃおよ連結れんけつ子会社こがいしゃ商号しょうごう変更へんこうならびに当社とうしゃ定款ていかん一部いちぶ変更へんこうかんするおらせ”. 2018ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん製鐵せいてつ株式會社かぶしきがいしゃ』、日本にっぽん製鉄せいてつ株式会社かぶしきがいしゃ編集へんしゅう委員いいんかい、1959ねん