ごう誠之助せいのすけ

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ごう誠之助せいのすけ
ごう誠之助せいのすけ晩年ばんねん

ごう 誠之助せいのすけ(ごう せいのすけ、1865ねん2がつ3にち元治もとはる2ねん1がつ8にち) - 1942ねん昭和しょうわ17ねん1がつ19にち)は、日本にっぽん実業じつぎょう日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとう日本にっぽん経済けいざい聯盟れんめいかい会長かいちょう東京とうきょう電燈でんとう会長かいちょう東京とうきょう株式かぶしき取引とりひきしょ理事りじちょうなどを歴任れきにん貴族きぞくいん男爵だんしゃく議員ぎいん

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

慶応けいおう元年がんねんがつにち岐阜ぎふけん黒野くろのむらまれる。生母せいぼふさ、大坂おおさか町奉行まちぶぎょう家老がろうしょくであったちちじゅんみやつこ夫人ふじん養育よういくされる。慶応けいおうねん父母ちちははともなわれ江戸えどくだる。ちちじゅんづくり御家人ごけにんかぶう。[1]

もと2ねん(1865ねん)1がつ8にち大蔵おおくら官僚かんりょうごうじゅんづくり次男じなんとして美濃みのこく岐阜ぎふげん岐阜ぎふけん岐阜ぎふ)で出生しゅっしょう

平河ひらかわ小学校しょうがっこうげん千代田ちよだ区立くりつこうじまち小学校しょうがっこう卒業そつぎょう[2]官立かんりつ東京とうきょう英語えいご学校がっこう(のちいちだか)、さらにせき振八しんぱち塾長じゅくちょうであった浜町はまちょう河岸かわぎし共立きょうりつ学舎がくしゃかよい、明治めいじ10ねん(1877ねん)から12ねん(79ねん)まで県立けんりつ仙台せんだい中学ちゅうがく(1886ねん廃止はいし)にてまなぶ。帰京ききょうした明治めいじ13ねん(1880ねん)には中島なかじまこうこうじゅくがよいととも家庭かてい教師きょうし英語えいご漢学かんがくまなぶ。明治めいじ14ねん(1881ねん同志社どうししゃえい学校がっこうはいるも行商ぎょうしょうをする同級生どうきゅうせいらに影響えいきょうされこのとしかぎりでやめ、明治めいじ15ねん(1882ねん)の私塾しじゅくがよいなどをて、明治めいじ16ねん1883ねんきゅう東京大学とうきょうだいがく(のち帝国ていこく大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく選科せんか入学にゅうがく明治めいじ17ねん1884ねん2がつ)、大山おおやまいわお欧州おうしゅう使節しせつだんおなせん日本にっぽん出航しゅっこうし、松平まつだいらやすしそう岩佐いわさしんらとともにドイツ帝国ていこく留学りゅうがくし、ハイデルベルク大学だいがくで7年間ねんかんわたってヘーゲルジョン・スチュアート・ミルなどを研究けんきゅうし、哲学てつがく博士はかせごう授与じゅよされる。明治めいじ24ねん1891ねん)12月に帰朝きちょうし、のう商務省しょうむしょう嘱託しょくたく勤務きんむする。

明治めいじ28ねん1895ねん)に日本運送にほんうんそう社長しゃちょうとなり会社かいしゃ再建さいけんたった。その財界ざいかいでの職務しょくむ専念せんねん日本にっぽんメリヤス、日本鋼管にほんこうかん入山にゅうざん採炭さいたん王子製紙おうじせいし社長しゃちょう取締役とりしまりやく歴任れきにんし、かく会社かいしゃ再建さいけんおこない、とく王子製紙おうじせいしは、新聞しんぶんけのかみ国産こくさん成功せいこうさせた。明治めいじ43ねん1910ねん日本にっぽん醤油じょうゆ醸造じょうぞう再建さいけんは、失敗しっぱいしたが、明治めいじ44ねん1911ねん東京とうきょう株式かぶしき取引とりひきしょげん東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ理事りじちょう就任しゅうにんした。同年どうねん7がつ10日とおか貴族きぞくいん議員ぎいん[3]になりぼつまで在任ざいにん[3]大正たいしょう2ねん1913ねん東京とうきょう商業しょうぎょう会議かいぎしょ特別とくべつ議員ぎいん大正たいしょう6ねん1917ねん日本にっぽん工業こうぎょう倶楽部くらぶ設立せつりつ参加さんか専務せんむ理事りじいた。大正たいしょう11ねん1922ねん)に日本にっぽん経済けいざい聯盟れんめいかいげん日本にっぽん経済けいざい団体だんたい連合れんごうかい常務じょうむ理事りじ昭和しょうわ5ねん1930ねん)には日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとう就任しゅうにんだいいち世界せかい大戦たいせんから昭和しょうわ戦前せんぜんにかけ財界ざいかい君臨くんりんした。このあいだ手腕しゅわん見込みこまれ、東京とうきょう電燈でんとう再建さいけんや、内閣ないかく参議さんぎ大蔵省おおくらしょう顧問こもんにもいた。

昭和しょうわ9ねん1934ねん)3がつ日本団体生命保険にほんだんたいせいめいほけん会社かいしゃ創立そうりつ初代しょだい取締役とりしまりやく会長かいちょうとなった[4]。このとしさと世話せわやくとなり、主宰しゅさいしていた若手わかて財界ざいかいじん勉強べんきょうかいであった「ばん町会ちょうかい」が帝人ていじん事件じけんまれ、ばんまちかい会員かいいん検挙けんきょ時事新報じじしんぽうが「ふで諫」としてばん町会ちょうかい攻撃こうげきはじめる[5]さとにもうたがいのけられるようになり、さとはやむなく同年どうねん5がつ15にちつがえ町会ちょうかい解散かいさん決定けっていした[6]結局けっきょく帝人ていじん事件じけん斎藤さいとうみのる内閣ないかくたお政治せいじ陰謀いんぼうで、のち検挙けんきょしゃ全員ぜんいん無罪むざいとなった。墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(1イ7-10,11)

親族しんぞく[編集へんしゅう]

ちちじゅんみやつこ大蔵おおくら官僚かんりょうで、退官たいかん貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせんおとうと昌作しょうさくかぞえ2さい三菱みつびし財閥ざいばつ創始そうししゃ岩崎いわさき弥太郎やたろう養子ようしになり、ゆたかわたる改名かいめいあに誠之助せいのすけおなじくじつ業界ぎょうかい活躍かつやくした。もと岩崎いわさきまさる商事しょうじ社長しゃちょう岩崎いわさき勝太郎かつたろう誠之助せいのすけおい岩崎いわさきゆたかわたる長男ちょうなん)で、随筆ずいひつ宮内庁くないちょう侍従じじゅうちょうつとめた入江いりえしょうせい誠之助せいのすけ義理ぎりおい岩崎いわさきゆたかわたるむすめ婿むこ)にあたる。なお誠之助せいのすけ生涯しょうがい独身どくしんで、末弟ばっていさくつよしじゅんづくりきゅうなん)を養嗣子ようししとしたが、さくつよし肥前ひぜんこく平戸ひらどはんだい12だい藩主はんしゅ松浦まつうらかい三男さんなん山城やましろこくよどみはん12代目だいめ藩主はんしゅ稲葉いなば正邦まさくに養嗣子ようししとなった稲葉いなばただしなわさんじょ英子えいこ結婚けっこんした。松浦まつうらかいよんなん出羽でわこく秋田あきたはんあるじ佐竹さたけ分家ぶんけ佐竹さたけ東家あずまや養嗣子ようししとなった佐竹さたけよしじゅんさんじょ操子みさこ弥太郎やたろう嫡孫ちゃくそん三菱地所みつびしじしょ取締役とりしまりやくつとめた岩崎いわさき彦弥ふとし三菱みつびし3代目だいめ総帥そうすい岩崎いわさき久弥ひさや長男ちょうなん)にとついだため、さと三菱みつびし創業そうぎょうしゃ一族いちぞく岩崎いわさきじゅう姻戚いんせき関係かんけいにあり、岩崎いわさき彦弥ふとしつまごう誠之助せいのすけおよ岩崎いわさきゆたかわたるおとうとつま従姉妹いとこ同士どうしということになる。またあね幸子こうじ東京とうきょう川崎かわさき財閥ざいばつの2代目だいめ当主とうしゅ2代目だいめ川崎かわさき八右衛門はちえもん東京とうきょう川崎かわさき財閥ざいばつ創業そうぎょうしゃ初代しょだい川崎かわさき八右衛門はちえもん三男さんなん)にとついでおり、東京とうきょう川崎かわさき財閥ざいばつの3代目だいめ当主とうしゅ川崎かわさき守之もりゆきすけ(2代目だいめ八右衛門はちえもん長男ちょうなん)は誠之助せいのすけおいにあたる。なお、東洋大学とうようだいがくおよび岡山大学おかやまだいがく教授きょうじゅ考古こうこ学者がくしゃ和島わしま誠一せいいち誠之助せいのすけ庶子しょしとされる[7]

ばん町会ちょうかい[編集へんしゅう]

ごう誠之助せいのすけ中心ちゅうしんとして、財界ざいかい斡旋あっせん調停ちょうていなどで活躍かつやくした若手わかて実業じつぎょうのグループ[8]もと部下ぶか岩倉いわくらこう河合かわい良成よしなり後藤ごとう圀彦により設立せつりつされた[9][10]東京とうきょうばんまちさと邸宅ていたく毎月まいつき1かい会食かいしょくしたところからばんまちかいばれ、1923ねんころから1934ねんころまでつづいた[8]設立せつりつしゃくわえてメンバーとされる人物じんぶつは、永野ながのまもる河合かわい良成よしなり長崎ながさき英造えいぞう正力しょうりき松太郎まつたろう小林こばやしなか中島なかじま久万吉くまきち中野なかの金次郎きんじろう(のちに日通にっつう社長しゃちょう)、伊藤いとう忠兵衛ちゅうべえ金子かねこ喜代太きよた(のちに浅野あさのセメント社長しゃちょう)、春田はるたしげる躬(にちちゅう合弁ごうべん中日ちゅうにち実業じつぎょう専務せんむ取締役とりしまりやく)、渋沢しぶさわ正雄まさお渋沢しぶさわ栄一えいいち三男さんなん)、松岡まつおかじゅんきち松岡まつおか修造しゅうぞうむすめ婿むこ)ら[8][11]河合かわい良成よしなり小林こばやしちゅう長崎ながさき英造えいぞう関係かんけいがなかったと後年こうねん著書ちょしょべている[12])。1933ねんかいのメンバーらが帝人ていじんかぶ10まんかぶ入手にゅうしゅしたことにたいし、1934ねん武藤むとう山治やまじもと鐘紡かねぼう社長しゃちょう経営けいえいの『時事新報じじしんぽう』が「ばんまちかいあばく」とだいした糾弾きゅうだん記事きじ連載れんさいし、政治せいじ財界ざいかいじん癒着ゆちゃくによる不正ふせいであると攻撃こうげきした[8][13]連載れんさいちゅう武藤むとう暴漢ぼうかん射殺しゃさつされたことからばんまちかい疑惑ぎわく拡大かくだいし、また、帝人ていじん事件じけんからんでメンバーが検挙けんきょされたことからかい名前なまえひろられるようになった[8]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

系譜けいふ[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
ごう誠之助せいのすけ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ごうさくつよし
 
 
さと濬一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ごうじゅんづくり
 
 
 
 
稲葉いなばただしなわ
 
英子えいこ
 
 
ごうまこと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ごう健太郎けんたろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千葉ちば忠二ちゅうじ
 
恭子きょうこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐竹さたけよしじゅん
 
操子みさこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさきゆたかわたる
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさきひろしわたる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさき弥太郎やたろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさき久弥ひさや
 
 
岩崎いわさき彦弥ふとし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぜい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岩崎いわさき隆弥たかや
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
保科ほしなただしえき
 
 
寧子やすこ
 
 
岩崎いわさきひさしわたる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 男爵だんしゃくごう誠之助せいのすけくんでん財団ざいだん法人ほうじんきょう男爵だんしゃく記念きねんかい、1943ねん、1ぺーじ 
  2. ^ 男爵だんしゃくごう誠之助せいのすけくんでん』(さと男爵だんしゃく記念きねんかいへん、1943ねん昭和しょうわ18ねん)、「男爵だんしゃく年譜ねんぷ」)より明治めいじ3ねん(1870ねん)に平河ひらかわ小学校しょうがっこう入学にゅうがく、『こうじまち小學校しょうがっこうひゃくねん』(こうじまち小学校しょうがっこう創立そうりつひゃくねん記念きねんかいへん、1974ねん昭和しょうわ49ねん)、巻頭かんとうグラビア)よりたき廉太郎れんたろう邦枝くにえ完二かんじ巖谷いわや小波さざなみらととも卒業生そつぎょうせい代表だいひょうとして掲載けいさいされている。
  3. ^ a b 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん、20ぺーじ、51ぺーじ
  4. ^ 創立そうりつ総会そうかいひらく、会長かいちょうごう誠之助せいのすけ大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ9ねん3がつ10日とおか夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp566 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  5. ^ ばんまちかいあばく」が政治せいじ問題もんだいに『時事新報じじしんぽう昭和しょうわ9ねん1がつ22にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp412)
  6. ^ ばんまちかいついに解散かいさん中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう昭和しょうわ9ねん5がつ16にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp412)
  7. ^ 『アルカ通信つうしん』No.173 (PDF) 考古学こうこがく研究所けんきゅうじょ株式会社かぶしきがいしゃアルカ 2018ねん平成へいせい30ねん)2がつ1日刊にっかん p.1
  8. ^ a b c d e ばん町会ちょうかい ばんちょうかいコトバンク
  9. ^ 河合かわい良成よしなり帝人ていじん事件じけん 30ねん証言しょうげん』p26-32
  10. ^ 波多野はたのまさる正力しょうりき支援しえん思惑おもわく」『日米にちべい野球やきゅう?メジャーをいかけた70ねんPHP新書しんしょ
  11. ^ 伏魔殿ふくまでん由来ゆらい 『「ばんまちかい」をあばく. 帝国ていこく人絹じんけんまき』(時事新報じじしんぽうしゃ, 1934)
  12. ^ 中島なかじま久万吉くまきち帝人ていじん事件じけん : 財界ざいかいじんから精神せいしんてき指導しどうしゃ村山むらやまもと一橋大学ひとつばしだいがく、2015-02-27
  13. ^ へい凶器きょうきなり』 (21) 15ねん戦争せんそう新聞しんぶんメディア -1926-1935-前坂まえさか俊之としゆきアーカイブス
  14. ^ 官報かんぽうだい5159ごう叙任じょにん及辞れい」1900ねん9がつ11にち
  15. ^ 官報かんぽうだい4289ごう、「叙任じょにん及辞れい」1926ねん12月09にち
  16. ^ 官報かんぽうだい3440ごう叙任じょにん及辞れい」1924ねん2がつ14にち
  17. ^ 官報かんぽうだい3533ごう、「叙任じょにん及辞れい」1924ねん06がつ04にち
  18. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • さと男爵だんしゃく記念きねんかいへん男爵だんしゃく ごう誠之助せいのすけくんでん』1943ねん発行はっこう復刻ふっこく大空おおぞらしゃ、1988ねん
  • 舟橋ふなばし聖一せいいち「とりかえばや秘文ひもん」(どう小説しょうせつ実名じつめい登場とうじょう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]


日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
ごうじゅんづくり
男爵だんしゃく
ごうじゅんみやつこだい2だい
1910ねん - 1942ねん
次代じだい
ごうさくつよし
その役職やくしょく
先代せんだい
藤田ふじた謙一けんいち
日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとう
1930ねん - 1936ねん
次代じだい
結城ゆうき豊太郎ほうたろう
先代せんだい
若尾わかおあきらはち
東京とうきょう電燈でんとう社長しゃちょう
1930ねん - 1933ねん
次代じだい
小林こばやし一三かずみ