手塚 治虫
てづか おさむ | |
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1928![]() | |
1989![]() | |
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( | |
1946 | |
ジャンル |
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『 『ジャングル 『 『リボンの 『 『どろろ』 『ブッダ』 『ブラック・ジャック』 『 『アドルフに | |
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サイン |
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概要 [編集 ]
1963
生涯 [編集 ]
幼少 期 [編集 ]
1933
1935
この
青年 期 [編集 ]
1941
1945
デビュー、赤本 の世界 へ[編集 ]
1946
ベストセラーとなった『
医師 合格 [編集 ]
このため、
雑誌 連載 開始 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/a/ac/Nerima_Oizumi-animegate_Chronological_table_Ribon_no_kishi_1.jpg/220px-Nerima_Oizumi-animegate_Chronological_table_Ribon_no_kishi_1.jpg)
なお、1953
『
劇画 との闘 い[編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Osamu-Tezuka-1.jpg/140px-Osamu-Tezuka-1.jpg)
1958
1959
アニメーション[編集 ]
- アニメーション
制作 に至 るまで 前述 のとおり、幼少 期 からディズニー映画 を愛好 していた手塚 は、もともとアニメーション(注 :1960年代 ぐらいまでは世間 一般 では漫画 映画 と呼 ばれていた)に強 い関心 を持 っており、アニメーションの制作 は念願 の仕事 であった。特 に影響 を受 けた作品 はディズニーの『バンビ』(1942年 米国 公開 )だが、これは日本 では戦後 の1951年 になって公開 された(ディズニーの『白雪姫 』(米国 公開 1937年 )や『ピノキオ』(米国 公開 1940年 )も日本 での公開 は戦後 になってのことである)。日本 は戦時 中 はディズニーやフライシャー兄弟 など米国 のアニメーションの公開 を禁止 していたが、1942年 (昭和 17年 )に[58]戦時 中 の日本 において初 めて公開 された動画 作品 であるアジア初 の劇場 用 長編 動画 作品 『西遊 記 鉄扇 公主 の巻 』(中国 、1941年 、73分 、モノクロ)を観 て感動 した。戦後 ずいぶん経 った1980年 に中国 を訪 れた際 には上海 美術 映画 製作所 で監督 の万 籟鳴と対面 を果 たして孫 悟空 とアトムが握手 するイラストを制作 した[59]。- プロの
漫画 家 になる前 の敗戦 の年 である1945年 に手塚 は、焼 け残 った大阪 の松竹 座 において海軍 省 製作 の長編 漫画 映画 『桃太郎 海 の神 兵 』を観 て感涙 し、このとき将来 必 ず自分 の手 で漫画 映画 を作 ることを決意 したという[60]。戦後 の1946年 (昭和 21年 )に上京 した際 にアニメータ募集 の張 り紙 をみて漫画 映画 製作 会社 「芦田 漫画 製作所 」(芦田 巌 )に出向 いて採用 を志願 したが断 られている。 漫画 は手塚 にとってアニメーション制作 の資金 を得 るための手段 だった[61]。評論 家 の大宅 壮一 から(華僑 のように出身 地 の大阪 を離 れて東京 で稼 ぐという意味 の揶揄 として)「阪 僑」[62]と嘲 評 されるほど漫画 を描 いて稼 ぎまくった。また自 らを「ディズニー狂 い」と称 した。また前述 のとおり、東映動画 から請 われて嘱託 の仕事 (長編 劇場 アニメーション映画 「西遊 記 」(1960年 )、原案 は手塚 治虫 の連載 漫画 「ぼくのそんごくう」や北 杜夫 との共同 の脚本 による「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険 」(1962年 ))を受 けている。虫 プロダクション設立 - 1961
年 、手塚 は自分 のプロダクションである手塚 プロダクションに動画 部 を設立 。当初 は6人 のスタッフから始 まった[63]。最初 に制作 した作品 『ある街角 の物語 』はスタッフの給料 から制作 費 まですべてを手塚 の描 いた漫画 の原稿 料 で賄 い、1年 をかけて40分 のカラー長編 アニメーション作品 で、ブルーリボン賞 や文部省 芸術 祭 奨励 賞 など数々 の賞 を受賞 する[63]。その後 1962年 に動画 部 は「虫 プロダクション」と改名 した。虫 プロダクションは最盛 期 には400人 を超 えた数 の正社員 を擁 していたという。 鉄腕 アトム虫 プロダクションへの改名 後 、日本 初 となる30分 枠 のテレビアニメーションシリーズ(当時 はテレビ漫画 と云 われた)[注釈 2]『鉄腕 アトム』の制作 に取 りかかった。しかし当初 は総勢 10名 にも満 たないスタッフでは毎週 テレビ放送 用 にディズニーのような絵 の枚数 を要 するフルアニメーション番組 を制作 することは作業 量 の面 からまったく不可能 であり、毎週 の放送 を可能 にするために絵 の枚数 を大幅 に削減 するためのさまざまなリミテッドアニメの手法 を工夫 して編 み出 すに至 った。毎週 放送 のアニメーション番組 を実現 するために(既 にアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションなどでも工数 を減 らしたリミッテッド・アニメーションの制作 は行 われていたがそれらも参考 にして)試行錯誤 と創意 工夫 を積 み重 ねて作 り出 したさまざまなリミテッド・アニメの手法 や様式 は、その後 の日本 のアニメーション制作 全般 に大 きな影響 を与 えることになる。虫 プロの鉄腕 アトムは、当時 の日本 のテレビアニメーションを代表 する大人気 作品 になった。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/4/49/Nerima_Oizumi-animegate_Chronological_table_Jungle_Emperor_Leo_1.jpg/300px-Nerima_Oizumi-animegate_Chronological_table_Jungle_Emperor_Leo_1.jpg)
- ジャングル
大帝 - 1967
年 には自身 の漫画 が原作 である『ジャングル大帝 』が第 28回 ヴェネツィア国際 映画 祭 サンマルコ銀 獅子 賞 を受賞 している。1969年 から「アニメラマ三 部 作 」(二 作 目 『クレオパトラ』を監督 )が制作 される(注 :アニメラマの第 一 作 目 「千 夜 一夜 物語 」と第 二 作 目 のクレオパトラの企画 と制作 には手塚 は強 く関 わっているが、三 作 目 のアニメラマ「哀 しみのベラドンナ」は手塚 が虫 プロダクションを辞 した後 に作 られた作品 で手塚 は全 く関与 をしていない)。これは従来 の子供 向 けアニメ映画 とは逆 の位置 にあり、成人 向 けに作 られた劇場 用 アニメーション映画 であった。 - また、
虫 プロダクションはアニメーション監督 としては杉井 ギサブロー、りんたろう、山本 暎一、出崎 統 、高橋 良輔 、富野 由 悠 季 、吉川 惣 司 など、アニメーターとしては中村 和子 、月岡 貞夫 、川尻 善昭 、芦田 豊雄 、安彦 良和 、杉野 昭夫 、荒木 伸吾 、北野 英明 、村野 守 美 、金山 明博 など、制作 者 としては丸山 正雄 、鈴木 良 武 、岸本 吉 功 、田代 敦 巳 、清水 達 正 、若尾 博司 、八田 陽子 、明 田川 進 、酒井 明雄 、布川 ゆうじなど後 に日本 を代表 するアニメーション制作 者 となる人材 を多 く輩出 した。 低額 なアニメ制作 費 の功罪 - たとえリミテッド・アニメの
手法 を用 いるにしてもテレビ放送 の30分 枠 用 に(最低 レベルで)1本 あたり2,000枚 分 の動画 を動画 家 (アニメーター)5名 で担当 し、一人 が1日 66枚 を仕上 げる[64]という苛酷 な労働 状 況 が作 られることとなった。また作品 を1本 につき55万 円 [注釈 8] という破格 の製作 費 で売 り込 んだことが制作 部 の首 を絞 めることになった。 手塚 がアニメの値段 を安 くして売 り込 んだのは、当時 の普通 のテレビ番組 の制作 費 が50万 程度 であったことと、安 くすればスポンサーに受 け入 れられやすくなることや、他者 の競争 参入 を阻 める考 えたからであったと語 るが[65]、これはのちに手塚 自身 が「大 失敗 だった」[65]と認 めたように、結果 的 に大 誤算 であった。『アトム』の大 成功 を見 て他者 がこの分野 に次々 と参入 を開始 して低 予算 で多 くの番組 が制作 され放映 されることになったのである[66]。- しかし
当初 は経営 が苦 しかった虫 プロも『アトム』が大 ヒットすると版権 (マーチャンダイジング)収入 で莫大 な利益 が上 がるようになり、また海外 に向 けて作品 の放映 権 +派生 商品 を展開 する権利 を販売 できたことなどにより、急速 に規模 が拡大 してゆき(最盛 期 には社員 総数 が一時 は400名 から最大 550名 の規模 となり)、『アトム』は虫 プロダクションを黒字 にさせた[67]。放送 が4年間 続 いた『鉄腕 アトム』は放映 開始 から1年 半 で手塚 の漫画 原作 をほぼ使 い切 ってしまい、その後 に虫 プロ文芸 部 のスタッフが独自 に作 ったエピソードは人気 を得 るための戦闘 が描 かれる傾向 が強 まり、「鉄腕 アトム」から手塚 の好 んだアニメーションらしいユーモアが失 われていった[68][注釈 9]。 - また、
手塚 の存命 中 から「アニメーターの給料 が安 いのは手塚 のせいである」と雑誌 で非難 されることがあったが、手塚 はこう反論 している「しかしね、ぼく個人 我慢 ならんのはね、こういう声 があるんだよ。手塚 があのアトムを売 る時 、べらぼうな安値 できめてしまったから、現在 までテレビアニメは制作 費 が安 くて苦労 するんだと。冗談 じゃないよ。」「あの時点 での制作 費 はあれが常識 なんで、あの倍 もふっかけようもんなら、まちがってもスポンサーはアトムを買 わなかったね。そうしたら、テレビアニメ時代 なんて夢物語 だったろうね。」「たしか四 十 何 万 が制作 費 で、ぼくの持 ち出 しは二 十 万 くらいでしたかね。ところがアトムがべらぼうにあたったんで、アニメ番組 はあたるということで、それから半年 ほどあとには、アニメものがたちまちバタバタとできたんだ。その制作 費 は、なんと百 万 ですよ!つまりそれだけ出 してもモトがとれてお釣 りがくると企業 は踏 んだんだ。それから先 はご覧 の通 りですよ。現在 制作 費 は五 百 万 円 が下限 で、六 、七 百 万 円 ぐらいはスポンサーが出 しますよ」[69]。 - また
杉井 ギサブローは、手塚 治虫 が独自 のリミテッド・アニメの手法 を日本 に定着 させなければ日本 は世界一 のテレビアニメ生産 国 にはなっていなかったであろうとも語 っている。 - アート・アニメーションへの
功績 一方 で、アート・アニメーション(手塚 自身 は商業 アニメーションに対比 して「実験 アニメーション」と言 っていた)の分野 にも功績 を残 している。虫 プロで「ある街角 の物語 」(1962年 ,38分 )、「おす」(1962年 )、「めもりい」(1964年 )、「人魚 」(1964年 )、「タバコと灰 」(1965年 )、「しずく」(1965年 )、「展覧 会 の絵 」(1966年 、33分 )、「創世 記 」(1968年 )、その後 に手塚 プロで「ジャンピング」(1984年 )、「おんぼろフィルム」(1985年 )、「プッシュ」(1987年 )、「村 正 」(1987年 )、「森 の伝説 」(1987年 ,29分 20秒 )、「自画像 」(1988年 )と長編 、短編 の非 商業 作品 を制作 した。第 1回 広島 国際 アニメーションフェスティバルグランプリに『おんぼろフィルム』が選 ばれている(名誉 会長 ポール・グリモー、審査 委員 長 はラウル・セルヴェ、選考 委員 長 アントワネット・モゼス)。虫 プロ社内 には社長 であった手塚 の発案 により、実験 作品 の製作 資金 に対 して20万 円 の助成 制度 まで設 けられていた(手塚 によると、虫 プロを設立 したのは本来 は実験 アニメーションの制作 を行 うためであったと語 っている)。
低迷 と復活 [編集 ]
アニメ
1966
1973
1976
晩年 [編集 ]
1980
1985
死去 [編集 ]
しかし、それから3
1989
作風 と功績 [編集 ]
手塚 が影響 を受 けたもの[編集 ]
- Milt Gross
手塚 の「映画 のような」ページレイアウトは、Milt Grossの初期 のグラフィック小説 He Done Her Wrongの影響 を受 けた[94]。- ディズニー
手塚 は幼少 期 から独自 の漫画 を描 いており、田 河 水泡 『のらくろ』、横山 隆一 『フクちゃん』の模写 をするようになったが、7歳 のころに出 た謝花 凡太郎 によるミッキーマウスの海賊版 単行本 に夢中 になり、この本 の模写 をするようになった(手塚 によれば「本家 のディズニーに送 ってやりたい程 」そっくりの絵 だったという)。手塚 の絵柄 は、劇画 の影響 を受 ける1955年 ごろまではディズニーの影響 が強 い丸 っこい絵柄 で、「ディズニースタイル」とも呼 ばれていた。ディズニーのアニメーションに出会 ったのは9歳 のときで、毎年 正月 に大阪 の朝日 会館 で行 われる「漫画 映画 大会 」で上演 されたものであった。父 が家庭 用 映写機 を購入 したときには、上演 用 フィルムの中 に『ミッキーの汽車 旅行 』もあった。以来 ディズニーのアニメーションに心酔 し、1950年 にディズニーの『白雪姫 』が封切 られたときには映画 館 で50回 、次 の『バンビ』は80回 以上 観 たという。- チャールズ・チャップリン
手塚 は「尊敬 する映画 人 」として、チャールズ・チャップリンとウォルト・ディズニーを挙 げている[95]。暇 があるとよく映画 館 に出 かけた手塚 は、チャップリンから多大 な影響 を受 けていることを認 めている。手塚 はチャップリン映画 のテーマが「食 う」「寝 る」「住 む」の三 要素 に絞 られていることが偉大 である、と語 っており、また「どうしたら後世 に残 る漫画 が描 けるのでしょうか」と質問 を受 けるたびに、「とにかくチャップリンの映画 を見 ろ。あれに全 てがある」と答 えている[96]。- フライシャー
兄弟 - なお、
竹 熊 健太郎 は手塚 が得意 とした「楽屋落 ち的 なメタ・ギャグ」「キャラクターのメタモルファーゼ」から、フライシャー兄弟 のアニメーションからも影響 を受 けていることを指摘 している[97]。 続 ・夕陽 のガンマン・地獄 の決 斗 - クリント・イーストウッド
主演 で音楽 エンニオ・モリコーネ、セルジオ・レオーネ監督 のイタリア西部 劇 のマカロニウエスタンいわゆる「ドル三 部 作 」完結 編 である続 ・夕陽 のガンマン、本 作 のバイオレンスやアナーキーさ、反戦 思想 が手塚 の「どろろ」に影響 を与 えたことで知 られ三 部 作 の第 一 作 荒野 の用心棒 の元 ネタである黒澤 明 &三船 敏郎 の用心棒 と椿 三十郎 、そして七人 の侍 といった「残酷 リアリズム時代 劇 にも当然 のごとく影響 を受 けている[98] 万 籟鳴上海 で活動 したアニメ制作 者 、松谷 孝 征 (担当 編集 者 でマネージャーも務 めた、のち手塚 プロ社長 )は、手塚 が最 も愛 し尊敬 したのは万 籟鳴であり、手塚 はディズニーの影響 を受 けていると多 くの人 が認識 するも、実際 は10代半 ばに観 た中国 アニメの古典 で、万 籟鳴監督 「鉄扇 公主 」であり、ディズニーよりも早 く影響 も深 いと述 べている[99]。病 で倒 れ入院 する直前 の1988年 11月に、第 1回 上海 国際 アニメフェスの審査 員 で訪中 した際 にも、80代 だった万 籟鳴と再会 している[99]。没後 の1989年 8月 27日 に日本 テレビの24時 間 テレビ 「愛 は地球 を救 う」で放映 された『手塚 治虫 物語 ぼくは孫 悟空 』は、病床 の手塚 による草案 をもとに手塚 プロが制作 した遺作 で、上海 で万 籟鳴と会 った場面 も再現 [100]されている。文学 、演劇 、宝塚 文化 夏目 房 之 介 は、「手塚 が漫画 に持 ち込 んだ外部 性 ・異質 な文化 」として、ディズニーとともに文学 、演劇 、宝塚 文化 を挙 げている。幼少 期 の手塚 の家 には新潮社 の「世界 文学 全集 」があり、よく外国 文学 を読 み漁 っていたという。のちに漫画 化 したドストエフスキー『罪 と罰 』やゲーテ『ファウスト』は何 十 回 も読 み返 しており、特 に『ファウスト』は日本 を舞台 にした翻案 作品 『百物語 』『ネオ・ファウスト』を含 めると3度 にわたり手塚 によって漫画 化 されている。また宝塚 演劇 に惹 かれたことで手塚 は演劇 青年 となり、大学 で演劇 部 に所属 していたほか、在学 中 の1950年 ごろには関西 民衆 劇場 に所属 し、ドストエフスキー『罪 と罰 』の公演 にペンキ屋 の役 で出演 するなどしている[101]。夏目 は初期 の手塚 作品 の大 げさな表情 やポーズ、舞台 セットのような背景 に宝塚 演劇 の影響 を見 ており、また手塚 漫画 の特徴 である牧歌 的 な風景 と未来 的 な風景 の同居 を、当時 の宝塚 の人工 的 な風景 に由来 するものと見 ている[102]。- その
他 子供 時代 、家 には「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」も揃 っていたという[103]。- 1972
年 2月 に発生 したあさま山荘 事件 について、「わたしはこんな連中 を『漫画 世代 』と読 んでいるが、映像 で育 った若 い人 たちの間 にこんな世代 が広 がっているのはものすごく危険 だ。漫画 家 としても描 き方 を反省 する時期 に来 ていると思 う」と述 べている[104]。
新 寶島 (新宝 島 )の革新 性 [編集 ]
その
手塚 作品 のテーマ[編集 ]
私 は、暗 い時代 といわれた昭和 初期 のなかでも、実 に恵 まれた環境 で子 ども時代 をすごせたと思 っています。しかしそれも、青春 期 には、空襲 と窮乏 生活 によってほとんど失 ってしまいました。父 は戦争 にとられるし、勉強 はできず、腹 をすかせ、大勢 の友人 を失 いました。空襲 に襲 われて周囲 が火 と死体 の山 となったとき、絶望 して、もう世界 は終末 だと思 ったものです。だから戦争 の終 わった日 、空襲 の心配 がなくなって、いっせいに町 の灯 (ひ)がパッとついたとき、私 は思 わずバンザイをし、涙 をこぼしました。これは事実 です。心 の底 からうれしかった。平和 の幸福 を満喫 し、生 きていてよかったと思 いました。これは、当時 の日本人 のほとんどの感慨 だと思 います。 もう二度 と、戦争 なんか起 こすまい、もう二度 と、武器 なんか持 つまい、孫子 (まごこ)の代 までこの体験 を伝 えよう。あの日 、あの時代 、生 き延 びた人々 は、だれだってそういう感慨 をもったものです。ことに家 や家族 を失 い、また戦争 孤児 になった子 どもたちは、とりわけそう誓 ったはずです。それがいつの間 にか風化 し形骸 化 して、またもや政府 が、きな臭 い方向 に向 かおうとしている。子 どもたちのために、当然 おとながそれを阻止 しなければならないと同時 に、子 ども自身 がそれを拒否 するような人間 にはぐくんでやらなければならないと思 うのです。それは結局 、先 に述 べたように、子 どもに生 きるということの喜 びと、大切 さ、そして生命 の尊厳 、これを教 えるほかないと思 うのです。人命 だけでなく生命 あるものすべてを戦争 の破壊 と悲惨 から守 るんだという信念 を子 どもにうえつける教育 、そして子 どもの文化 はそのうえに成 り立 つものでなければならない。けっして反戦 だの平和 だのの政治 的 のみのお題目 では、子 どもはついてこない。率先 して、生命 の尊厳 から教 えていくという姿勢 が大事 なのではないでしょうか。[125]
また
子供 のときの僕 の夢 は空 飛 ぶ夢 とかそういうのはあまりなくて、やたらに見 ているものがどんどん変 わっていくような、また変 わるものがセクシャルで僕 の興奮 につながるような……。[略 ]常 に形 が一定 しないで、いろいろなものに変 わる。たとえば僕 と一緒 に歩 いている相手 がいるんだけど、それは何 かわからないが常 に形 が変 わっている。僕 に対 して仕掛 けることが常 に違 う。その恐怖 感 と同時 にセックスアピールを感 じる。[略 ]本当 に異 次元 的 なものですね。宇宙 人 なのか女 どもなのかわからないが、僕 の周 りにとにかくそれがいるんです。それが常 に変 わる。
僕 は宝塚 に住 んでいたんですが、学校 の帰 り道 にちょっと寂 しい沼 があって、そこを通 って家 に帰 るんです。小学生 とか中学生 のころそこを通 る夢 をよく見 ました。沼地 の横 で得体 の知 れないものがブルブルふるえながら僕 を待 っている。それをつかまえて自分 の家 へ連 れてくる。逃 げ出 すと困 るから雨戸 を閉 めて、ふすまを閉 めて絶対 に出 られないようにして、僕 と物体 が向 かいあったところでたいてい夢 がさめてしまう。その間 も僕 がそいつを見 つけ、そいつが僕 のところに寄 ってきて、つかまえて家 に帰 るまでに、何 だかわからないけどそいつがいつも変 わるんです。[略 ]だから女 にもなるし、男 にもなるし、化 け物 にもなる。[略 ]つまり、常 に動 いている楽 しさみたいなものがある。動 いているのが生 きているのだという実感 があるわけです。つまり、しょっちゅう変化 していることによって、変化 しながら進化 しているとか、何 かに働 きかけようとしているとか、つまり、一 つのアクティブな感 じを受 けるんです。で自分 はどうかというと常 にパッシブでそれを見 て感 じるとか受 け入 れるとかいう形 で、それを見 ているだけなんですが、相手 は何 かの形 で次々 に流動 しているんです。—「ヒゲオヤジ氏 の生 と性 ?」石上 三 登志 『定本 手塚 治虫 の世界 』所収 、東京 創 元 社 、2003年
年齢 と経歴 と血液 型 [編集 ]
『
新 しく明日 (原文 ママ)から連載 する漫画 「マアチャンの日 記帳 」の作者 手塚 治蟲 (原文 ママ)さんはみなさんと同 じクリクリ坊主 で十 九 歳 のお兄 さんです。毎日 、大阪 帝 大 医学 専門 部 に通学 して、お医者 さんになる勉強 をしていられますが、小 さい頃 から漫画 が大好 きで国民 学校 2年生 の時 からいろいろの漫画 をかいて、たのしんでいられました。あんまり上手 なのでみなさんのために連載 することにしました。ほがらかなマアチャンをかわいがって上 げて下 さい[132]。』
また、
才能 と作業 の手法 [編集 ]
ベタ
医師 免許 取得 者 として[編集 ]
![]() コミックナタリー、2009 |
また
なお
プロ野球 との関 わり[編集 ]
また、「
2008
また2013
なお、
関係 の深 い漫画 家 [編集 ]
![]() |
藤子 不二雄 藤子 不二雄 (藤本 弘 と安孫子 素 雄 )の二人 は、手塚 治虫 の「新 寶島 」に衝撃 を受 け漫画 家 を志 した。彼 らは学生 時代 に手塚 のファンとして手塚 にハガキを出 し、その返事 として「しっかりしたタッチで将来 がたのしみです」との直筆 のハガキを受 け取 った。そのハガキには手塚 のキャラクターの絵 と一緒 に、文字 の列 が角度 を変 えながら中心 に近 づくように書 かれており、ハガキをぐるぐる回 しながら文字 の列 を読 むという手塚 らしい実 に独特 なものであった。このハガキが、ますます彼 らの漫画 家 への志 に拍車 をかける。藤子 不二雄 は当初 、手塚 にちなみ、「手塚 不二雄 」のペンネームで漫画 を投稿 する。しかしあまりにも露骨 なため、「手塚 の足 にも及 ばない」という意味 を込 め「足 塚 不二雄 」に変更 した。高校 3年 のときに、かつて手塚 が「マァチャンの日 記帳 」を連載 していた新聞 に「今 は手塚 先生 の漫画 が載 っていないのでかわりに僕 たちの漫画 を載 せてください(要約 )」との手紙 を添 えて漫画 「天使 の玉 ちゃん」を投稿 。それが採用 されプロデビューを果 たす。その3か月 後 、二人 で手塚 の実家 を訪 れている。藤子 の単行 本 デビュー作 「UTOPIA最後 の世界 大戦 」は、手塚 の紹介 で出版 社 が藤子 に執筆 を依頼 し、世 に出 ることになった。- その
後 上京 した藤子 不二雄 は、手塚 の住 んでいた「トキワ莊 14号 室 」に入 れ替 わりで入居 して暮 らすこととなる。手塚 はお金 のない二人 のために敷金 の肩代 わり(藤子 は2年 後 に返還 )と、漫画 を描 くための机 を残 している。そのため、藤子 不二雄 の初期 作品 は手塚 の机 で描 かれたものである[注釈 16]。憧 れの手塚 が住 んでいた、トキワ莊 14号 室 に住 めたことについて藤本 は、「四畳半 というものがこんなに広 いものかと感動 しました[155]」と語 る。安孫子 も自身 の漫画 でトキワ莊 14号 室 を宇宙 のような壮大 な情景 で描 いている。その後 、たびたび手塚 治虫 の緊急 アシスタントとして手塚 の仕事 を手伝 っていた。 藤本 は、生涯 にわたって手塚 を「最大 の漫画 の神様 」と尊敬 し続 け、自伝 や漫画 の書 き方 の本 で手塚 を絶賛 していた。安孫子 も同様 に手塚 を尊敬 し、自伝 漫画 「まんが道 」では手塚 を最大 の師 として登場 させ、「手塚 治虫 はふたりにとって神 であった」「いや、日本 中 の漫画 少年 にとっても神 であった」と頻繁 に手塚 を「神 」と表現 した。現在 手塚 が「漫画 の神様 」と称 されるのは彼 らの影響 が大 きい(それ以前 は漫画 の王様 といわれてもいたがドラえもんブームの際 はコロコロコミック等 で藤子 が漫画 の王様 と呼 ばれた)。藤子 不二雄 が漫画 家 25周年 を迎 えた際 には手塚 タッチのドラえもんとドラえもん風 のヒョウタンツギを描 いた色紙 をプレゼントしている。その25周年 記念 パーティーは手塚 が仕切 り、二人 を二次会 まで連 れていっている[156]。手塚 は藤子 不二雄 のスタジオに突然 ひょっこり「ハハハ、来 たよ」と特 に用事 もないのにふらっと現 れることもあった[156]。また安孫子 が新宿 の焼 き鳥 屋 で飲 んでいると、そのことを聞 きつけた手塚 がやってくることもあったという。手塚 は藤本 と二人 で「惑星 ソラリス」などの映画 を見 ることもあった。手塚 は藤子 の本 の寄稿 で「オバケのQ太郎 」のことを「おばけという概念 をこれほどまでにキュートに、子 どもの世界 にひきずりおろして描 いた作品 は以前 にないでしょう。アメリカには幽霊 の子 どもを主人公 にしたキャスパーという例 がありますが、これよりもずっととぼけていて性 格 づけがみごとです。」「キャラクターの描 きやすさの点 でも、まず、オバQ君 にかなうものはありますまい。(日本 に現在 のようなキャラクター漫画 が流行 する前 の発言 )」と語 っている[157]。手塚 治虫 の漫画 「七 色 いんこ」では藤子 のドラえもんが登場 するコマがある。「黄金 のトランク」では主人公 の名前 が不 二 雄 である。「どろろ」と「バンパイヤ」には「オバケのQ太郎 」が登場 。「がちゃぼい一代記 」では、藤本 と安孫子 が手塚 のアシスタントをする様子 を手塚 自身 が描 いている。手塚 治虫 漫画 全集 の「ジャングル大帝 」のあとがきには藤子 不二雄 の二人 に向 けて、アシスタントしてくれたことに対 する感謝 の言葉 と激励 が書 かれている。藤子 の二人 の結婚式 の仲人 は手塚 が務 めた。藤本 は、手塚 が亡 くなったときの追悼 文 で「高校生 になっても先生 のまんがを読 み続 け……、気 がついてみると自分 もまんが家 になっていた」と語 っている[158]。手塚 、藤本 、安孫子 の3人 が住 んでいた「トキワ莊 14号 室 」の天井 は、トキワ莊 解体 時 に手塚 が持 ち帰 っている。その理由 は「室内 にこんろを持 ち込 んでご飯 を炊 いたり、煮炊 きをした。あの時 の煙 は天井 にしみ込 んでいるはず。大家 さんに頼 んで天井板 を記念 に譲 ってもらいます」とのこと[159]。石ノ森 章太郎 石ノ森 (旧 :石森 章太郎 )も手塚 治虫 の「新寶 島 」に衝撃 を受 けた[160]。中学生 の頃 、手塚 に分厚 いファンレターを出 したところ、手塚 からさらに分厚 い封筒 の返事 が届 き、ますます手塚 のファンになったという[160]。石ノ森 は高校 在学 時 、手塚 が連載 していた『漫画 少年 』の投稿 欄 に投稿 をするようになる。手塚 は漫画 少年 に送 ってきた石ノ森 のことを、「天才 的 な少年 の絵 」と褒 めている[161]。そして「鉄腕 アトム」執筆 中 の手塚 に依頼 され、石ノ森 は学業 を中断 して手塚 のアシスタントを務 めた。手塚 は回 を追 うごとに上手 くなる石ノ森 の絵 を見 て舌 を巻 き、仕事 を手伝 ってもらったと語 る。アシスタント経験 中 は、手塚 は激務 だったはずが石ノ森 を映画 に連 れ出 している。そのときの様子 を石ノ森 は「ギリギリの仕事 のなかで、ある日 、夜 になると編集 者 の目 を盗 んで、こっそりぼくを映画 館 に連 れて行 ってくれた。ぼくだって当時 のご多分 にもれぬ映画 少年 である。編集 者 には申 しわけないが、ちゃっかり便乗 していた」と語 る。そして、手塚 が編集 者 に紹介 したことにより、石ノ森 は漫画 家 としてデビューすることになった。その後 石ノ森 は手塚 が住 んでいたトキワ莊 に住 んだ。手塚 は自身 の漫画 に石ノ森 をたびたび登場 させている。石ノ森 章太郎 の結婚式 の仲人 は、遅刻 するも手塚 が務 めた。テレビ映画 「快 傑 ハリマオ」の漫画 版 では手塚 が原作 、作画 が石ノ森 で共 作 をした。1959年 、石ノ森 は手塚 のアシスタントだった月岡 貞夫 とともに、手塚 治虫 の身代 わりとして東映動画 の劇場 アニメ『西遊 記 』の制作 現場 に派遣 された。のちに、この体験 が石ノ森 が東映 グループでゴレンジャー(スーパー戦隊 シリーズ)等 を代表 とする、特撮 作品 の原作 を担当 するきっかけに繋 がる。- また、
石ノ森 は手塚 が亡 くなる少 し前 にも対談 をしており、石ノ森 は手塚 のことを「面白 おかしく事象 を表現 するだけ、と思 われていた漫画 というメディアで、ペーソスのみならず悲劇 や深 い哲学 的 な思索 まで持 ち込 んで、ドラマを描 くという試 みは前人未到 のことだった。」と彼 の業績 を評価 している[162]。手塚 は対談 で石ノ森 の漫画 「仮面 ライダー」のことを「繰 り返 し、繰 り返 し読 まれてもちっとも見劣 りしない作品 」と褒 めている[163]。 石ノ森 はデビュー後 のお金 のない19歳 の頃 、手塚 に内緒 で「火 の鳥 風 太郎 」という、手塚 の代表 作 のアイデアを使 った作品 を描 いている。本 作 で得 られた原稿 料 は、全 てオーディオ機器 を購入 するために当 てられた。赤塚 不二夫 赤塚 不二夫 も手塚 治虫 の漫画 「新寶 島 」「ロストワールド」に出会 ったことで、漫画 家 になることを決意 した[164]。彼 が18歳 の時 は長谷 邦夫 、石ノ森 章太郎 と一緒 に『墨汁 一 滴 』を描 く仲間 として手塚 の家 を訪問 した[165]。その時 、手塚 は締 め切 りに追 われ忙 しいにもかかわらず赤塚 達 の似顔絵 を描 いたり、ピアノを披露 したりして彼 らは感銘 を受 ける。赤塚 が新人 漫画 家 としてデビューしたころ、手塚 は「赤塚 クン。りっぱな漫画 家 になるには一流 の映画 を観 なさい、一流 の小説 を読 みなさい、そして一流 の音楽 を聞 きなさい」と助言 した。手塚 の言葉 に従 い、赤塚 はレコード店 に行 き、店員 に「一流 の音楽 が聞 きたいんです。一流 のレコードをください」と言 うが、店員 は何 を渡 したらいいのか分 からず困 ったという[166]。その後 、赤塚 も手塚 が住 んでいたトキワ莊 で暮 らした。手塚 はトキワ莊 のメンバーに同様 に「マンガからマンガを勉強 するんじゃないよ。」「一流 の芝居 を見 なさい、一流 の本 を読 みなさい」などと言 っており、赤塚 は「だから僕 たち(トキワ莊 メンバー)はあの頃 、ほとんど酒 なんて飲 まなかった。そのかわり、映画 を見 に行 こう、音楽 を聴 こう、ジャズのコンサートに行 こう、小説 を読 もう。手塚 先生 がそうしろって言 ったから。」「そのときはわからなかった。それで後 になってからその意味 がわかってくる。手塚 先生 のおっしゃってたことは、やっぱりすごく大 きいのだ。いい音楽 を聴 きなさい。いい映画 を見 なさい。いい芝居 をみなさい。本当 に大事 な教 えだったんだと今 にして改 めて思 うのだ」と語 っている[167]。手塚 は赤塚 をたびたび自身 の漫画 に登場 させている。それと同時 に手塚 は赤塚 のギャグである「シェー」など気 に入 っていたのか「W3」「火 の鳥 」など複数 の作品 に使 っている。手塚 の「ブラック・ジャック」の『アヴィナの島 』の回 では赤塚 の「天才 バカボン」のパパが登場 する。赤塚 はトキワ莊 時代 、手塚 のアシスタントを務 めたことがある。また赤塚 は雑誌 の企画 で「赤塚 不二 虫 」のペンネームで、『鉄腕 アトムなのだ!』という手塚 作品 のパロディ漫画 を描 いている[168]。その中 には火 の鳥 やヒョウタンツギなどが登場 。その表紙 には「わたしにこのマンガをかかせた手塚 治虫 先生 にこの1編 をささげます」と書 かれている。水野 英子 水野 英子 も、小学 3年生 の時 に手塚 治虫 の漫画 に衝撃 を受 けて漫画 家 を志 す。水野 は16歳 の頃 に手塚 に会 いたいと伝 えて東京 に行 き手塚 と出会 った。数 年 後 、水野 は上京 して手塚 が住 んでいたトキワ莊 の住人 となる。水野 は女性 少女 漫画 家 の草分 け的 先駆 けとなった(それまでの少女 漫画 はほとんどの場合 男性 が描 いていた。)水野 は手塚 を振 り返 って次 のように語 っている。「私 が初 めて先生 の漫画 に出会 ったときのショックをどうい表 したらよいでしょう。そこには絢爛 たるファンタスティック・ワールドが広 がっていたのです!SF・西部 劇 ・ミステリー、おとぎ話 …次々 と繰 り広 げられる見 も知 らぬ魅惑 的 な世界 !街 中 の本屋 さんを駆 け巡 り、一 冊 とも見逃 すまいとするのがあのころの私 の日課 でした。やっと買 い求 めた本 を、家 に持 ち帰 るのももどかしく、読 みながら歩 いているうちに夢中 になって家 の前 を通 りすぎてしまったこと。親 が死 んでも泣 かなかった私 がジャングル大帝 のラストシーンではもう何 も見 えなくなるぐらいショックで泣 いてしまったこと…」「私 は、ついに自分 も漫画 を描 こうと決心 し、漫画 家 への道 を歩 み始 めました。十 七 歳 で上京 し、とうとう本物 の先生 にお会 いできた時 の感激 !銀座 の喫茶店 でにこやかに優 しく私 を迎 えて下 さった先生 のまぶしさ!手塚 先生 が最初 に入居 なさったというアパートトキワ莊 に、当時 の新人 実力 者 たちといっしょに住 むことができた嬉 しさ![169]」手塚 は水野 のことを自著 で「天才 児 水野 英子 」と書 いている[170]。横山 光輝 横山 光輝 も、手塚 治虫 の「メトロポリス」に感銘 を受 け漫画 家 を志 す。しかし、高校 卒業 後 は一旦 就職 した。手塚 はある日 、大阪 東光 堂 の社長 に連 れられたスマートな青年 と出会 う。社長 はその青年 は神戸銀行 に勤 めていると言 い、社長 は「うちでデビューさせようと思 いますが、どうでっしゃろ?」と聞 いた。手塚 は彼 の作品 を読 み、「売 れるかも知 れませんな」と褒 め、その青年 は漫画 家 としてデビューすることになった。その青年 こそが横山 光輝 である[171]。横山 はその後 、手塚 を原作 とし「黄金 都市 」「ターザンの洞窟 」など作画 した。手塚 は横山 を「かれほど"彗星 のように"という形容 のあてはまる男 はいない」と絶賛 している[171]。「鉄人 28号 」は『少年 』誌上 で手塚 の「鉄腕 アトム」と人気 を二分 する大 ヒット作 となった。サンケイ新聞 記者 として、工業 関係 の取材 経験 のあった横山 は、「最初 は大 きくしかできず、それから小 さくなる」と考 え、手塚 治虫 の『鉄腕 アトム』を意識 して鉄人 28号 を大型 ロボットにしたとも語 っていた。プライベートでも手塚 と横山 は付 き合 いがあったようで、横山 が東京 に来 たばかりのころには、手塚 がいろいろアドバイスしていた[172]。横山 は手塚 のアシスタントも経験 している。手塚 が亡 くなった際 、横山 は「いつも僕 は手塚 さんの作品 を参考 にしてものを考 えてきましたから、すべての作品 から影響 は受 けています。技法 の点 でいえばアングルの取 り方 がとても上手 だった。影 を後 ろにのばしたり、壁 に大 きく写 したり。若 いころはよく食事 をごちそうになったりしたものです。やさしくて、とても他人 に気 を使 う人 でしたよ。」と語 った[173]。手塚 は生前 、「横山 さんはいろんなジャンルの仕事 をされましたが、この『鉄人 28号 』と『伊賀 の影 丸 』それに『三国志 』の三 つは、エポックメーキングなものでしょう。娯楽 マンガの功労賞 があれば、横山 さんにぜひ一番 にさし上 げるべきではないかと思 います」と発言 している[174]。松本 零 士 松本 零 士 も、小学 2・3年生 の頃 、学級 文庫 で手塚 治虫 の描 いた本 を読 んで漫画 家 を志 した[175]。それは手塚 の「新宝 島 」「キングコング」「火星 博士 」「月世界 紳士 」であった。松本 は、「手塚 さんの漫画 がそれまでのどんな漫画 よりもスピーディでかっこよかった。おそらく、当時 、全国 の漫画 少年 たちが度肝 を抜 かれたのではないか」と語 る[175]。松本 は手塚 が連載 していた『漫画 少年 』の投稿 欄 の常連 になる。そして高校生 のとき、それを見 た手塚 から「テツタイコウ テツカ(手伝 い請 う。手塚 )」の電報 を受 け取 る。松本 は最初 はイタズラかと思 ったが、それはイタズラではなく本当 に手塚 が緊急 のアシスタントを求 めた電報 であった。そこで松本 は緊急 アシスタントとして出向 いて手塚 を手伝 いながら、漫画 家 について根 掘 り葉 掘 り質問 した。この出来事 は、松本 がプロ漫画 家 を目指 す思 いを強 めた[176]。松本 がプロの漫画 家 になり、上京 してからも手塚 とは親交 があり、手塚 が一人 で突然 に松本 の下宿 先 を訪 れ、窓 の外 から「おーい松本 君 。メシ食 わせるから、出 てこーい。」と誘 ったこともあったという。松本 が手塚 と気 が合 ったのは、お互 いがあけっぴろげだからと語 っている[177]。手塚 の漫画 「ばるぼら」には松本 零 士 をモデルにした「松本 麗 児 」という登場 人物 が登場 し、漫画 家 で本 の収集 家 という設定 で、物語 に重要 な場面 で関 わってくる。- また
松本 は、日本 初 の30分 テレビアニメシリーズ[注釈 2]となった「鉄腕 アトム」にも縁 がある。松本 は「鉄腕 アトムですが、実 は私 も関係 しているんです。試写 会 前日 の夜中 に手塚 さんから私 の下宿 に『助 けてくれ!』と電話 があり、『映写機 が壊 れて編集 ができない』というので、私 の映写機 を持 って行 ったんです。アトム第 一 話 の後半 は私 の映写機 で編集 して試写 会 を行 っているんですよ[178]。」と語 っている。「私 と手塚 さん、それと石ノ森 章太郎 氏 の3人 は自称 アニメマニアという仲 。将来 はアニメ映画 を作 ろうという夢 を持 っていて、お互 いにいろいろな機材 や資料 を貸 合 っていたんですがお二 人 とも亡 くなってしまって。お二 人 から借 りた機材 もまだ持 っているんですが、今 では遺品 になってしまいましたね。」とも語 る。 松本 は熱心 な手塚 治虫 作品 のコレクターでもあり、手塚 自身 も持 っていなかった初期 作品 も全 て所有 し、1冊 数 百 万 の値段 を付 けた「新宝 島 」の初 版本 も持 っている。2013年 には、手塚 治虫 の未 発表 原稿 を個人 的 に発見 したことでニュースにもなった。手塚 治虫 の没後 に想 い出 を振 り返 って書 かれた寄稿 [179]の中 には手塚 治虫 との遭遇 から手塚 の最 晩年 に二人 がある会場 で出会 った際 に手塚 が松本 に対 して自分 が胃癌 であると告 げたという回想 の記述 がある。永井豪 永井豪 も、手塚 治虫 に影響 を受 け漫画 家 を志 したと語 る[180]。「僕 の人生 は手塚 先生 の作品 から始 まった。」[181] とも言 い彼 は子供 のころに手塚 治虫 の漫画 をよく読 みいつも衝撃 を受 けていた。永井 は初 め手塚 治虫 のアシスタントになるために手塚 プロダクションに出向 いたが、あいにく手塚 と連絡 が付 かず、代 わりに知人 に紹介 された石ノ森 章太郎 の下 で仕事 を手伝 うことになった[182]。永井 は自身 の半生 を振 り返 り「私 の少年 時代 、手塚 作品 と過 ごす時間 が最 も幸 せな時間 だった。学校 でイヤなことがあったときも、手塚 漫画 が私 の心 をいやしてくれた。自分 も手塚 先生 のように漫画 家 になりたいと考 えたのは自然 の成 り行 き。そして私 は漫画 家 になった。しかし手塚 先生 にはなれなかった・・・永井豪 になってしまった」と語 る[183]。またアンソロジーコミック『ブラック・ジャックALIVE』で永井豪 がブラック・ジャックを描 いたときには、ブラック・ジャックと永井豪 自身 と学生 時代 の手塚 をいっしょに登場 させ、ブラック・ジャックが学生 時代 の手塚 に「お前 は漫画 家 より医者 に向 いている」と発言 すると、手塚 治虫 キャラ全員 と永井豪 も存在 が消 えかかった(もしも手塚 治虫 が漫画 家 になっていなかったら永井豪 も漫画 家 になっていなかったという表現 )。永井 のデビュー後 は、手塚 とプライベートでも親交 があった。手塚 と永井 は複 数 回 一緒 に旅行 しており、SF作家 クラブのメンバーと旅行 したり、サンディエゴのコミックコンベンションに出 かけたことがある。ロスでは二 人 っきりで映画 「シャイニング」を見 た。手塚 は永井 に対 して「豪 ちゃん、短編 をたくさん描 きなさい。短編 は大事 ですよ」といつもアドバイスを送 っていた[184]。永井 の結婚式 では手塚 がスピーチをおこなっている(『コミックボックス』1989年 5月 号 に当時 の写真 が掲載 されている)。古谷 三 敏 古谷 も、手塚 の漫画 『新宝 島 』を読 んで漫画 家 を志 した[185]。彼 はそのときの様子 を次 のように語 っている「ぼくも子供 の頃 に手塚 先生 の『新宝 島 』を読 んで衝撃 を受 けたひとりです。それまでの漫画 と比 べてスピード感 があって、ストーリーも絵 も、今 までの日本 にない。ディズニー映画 のようなアメリカナイズされた文化 を垣間見 た感 じがしました。何 百 回 読 んだかわかりませんし、『新宝 島 』を読 んで漫画 家 になろうと決 めたんです。ぼくのデビュー作 『みかんの花 咲 く丘 』も手塚 先生 の漫画 をずいぶんと参考 にしています。」その後 、古谷 は手塚 のアシスタントを経験 した。手塚 はアシスタントに給料 を渡 す際 に「かならず映画 を観 るんだぞ」と言 いながら笑顔 で1000円 を渡 していた(その頃 はレストラン定食 が50円 で食 べられる時代 であり、映画 を見 てもお釣 りがくる)。古谷 はいつも喜 んで映画 を見 ていた[186]。アシスタント中 、徹夜 明 けで手塚 とホテルから出 てきたときに「おれは手塚 治虫 と一緒 に歩 いているんだ」と嬉 しくなったという。- さいとう・たかを
- さいとう・たかをも、
手塚 治虫 に憧 れて漫画 家 を目指 した。手塚 治虫 の「新宝 島 」を読 み、「紙 で映画 が作 れる!」と興奮 したという[187]。昭和 30年 ごろの学生 時代 には漫画 家 志望 者 として手塚 治虫 の自宅 を訪 ねた。しかし、運 が悪 く手塚 はすでに東京 に上京 していたため、さいとうは手塚 に会 うことはできず、手塚 の母 と二言 三 言 話 しただけで帰 ることになった[188][注釈 17]。このころのさいとうは、手塚 のような丸 っこい絵柄 であった。 - その
後 、さいとうは「手塚 に憧 れて漫画 家 を目指 したが、手塚 調 の丸 っこいタッチの絵 が描 けず現在 の絵 になった」と証言 している。さいとうは後 に「劇画 」と呼 ばれる分野 の開拓 に貢献 し、手塚 の大 きなライバルとして、彼 の漫画 家 生命 を大 きく揺 るがした。 - さいとうが
辰巳 ヨシヒロ達 と工房 を立 ち上 げ、「打倒 手 塚 だ!」と言 ったときは、実 はさいとう以外 は全員 熱心 な手塚 ファンであったため、「お前 なに身 の程知 らずなことを言 っているんだ」と言 われたという[189]。 - さいとうは、のちに
手塚 と漫画 「過去 からの声 」で共 作 をしており、そのときは原作 が手塚 で作画 がさいとうであった。『ビッグコミック』では、四 大 作家 競作 として石ノ森 章太郎 、藤子 不二雄 Ⓐ、さいとう・たかを、手塚 治虫 の4人 で競作 をしている。 - さいとうは
手塚 が亡 くなったときに「今 まで目標 とし、登 っていた大 きな山 が突然 なくなったような気 がします」と語 った[190]。 辰巳 ヨシヒロ手塚 の「新宝 島 」に衝撃 を受 けて漫画 家 を志 した[109]。辰巳 は当時 を振 り返 り「手塚 治虫 という初 めて目 にする作者 の作品 はこれまでの漫画 の常識 を根本 から覆 す画期的 な世界 を構築 していた」、「ぼくにとって手塚 治虫 は神様 にも匹敵 する存在 になっていた」と語 っている[191]。少年 時代 辰巳 は宝塚 の手塚 の家 を訪問 したこともある[192]。手塚 は辰巳 を優 しく自室 に招 き入 れ、辰巳 が持参 した4コマ漫画 を読 み「長編 を描 きませんか?これからは4コマを発表 する場所 がだんだんなくなります。ぜひ長編 を描 きなさい」と助言 した。これは辰巳 にとって大 きな助言 になる。またジャングル大帝 の第 一 話 連載 前 のカラーページを手塚 に見 せてもらい、身震 いし度肝 を抜 かれたと語 っている[193]。その後 、辰巳 は漫画 家 としてデビューし、手塚 の鉄腕 アトムに影響 を受 けた「鉄腕 げん太 」という漫画 も描 いた。しかし、数 年 後 、あえて手塚 治虫 とは別 の「まんがではないまんが」を模索 するようになる[194]。その結果 、辰巳 は劇画 の開拓 者 になった。「劇画 」という呼 び名 も辰巳 が考案 したものである。辰巳 は『劇画 宣言 』という内容 の封書 をいくつか書 き手 塚 にも送 った。しかし、手塚 はその後 に辰巳 に対 し、商業 主義 的 になっていく劇画 の風潮 に対 して忠告 した[195]。また手塚 が文藝春秋 漫画 賞 を受賞 したとき、さいとう・たかを、佐藤 まさあきとともに辰巳 を授賞 式 に招待 し[196]、1982年 には辰巳 のフランス旅行 に途中 から同行 したこともあった[197]。- つげ
義春 小学 4年生 のころに手塚 治虫 のマンガに熱中 しはじめる。新刊 が出 ると本屋 へ走 る日々 であった。貧 しさのため母 に買 ってもらうことはできず、3か月 に1度 くらい帰 ってくる泥棒 の義 祖父 を待 ちわび、買 っていたが、その間 に本 が売切 れてしまうのを案 じ、手持 ちのおもちゃをおもちゃ屋 に売 ってお金 を工面 した。それでも手 に入 らないときは、万引 きをしようと本屋 の前 をうろうろするほどであった。16歳 のとき、一人 で部屋 で空想 したり、好 きな絵 を書 いていられる職業 として漫画 家 になることを志 す。当時 、トキワ荘 に住 んでいた手塚 治虫 を訪 ね、原稿 料 の額 などをき出 し、プロになる決意 を強 める[198]。白土 三平 貸本 時代 の白土 は、手塚 に似 た絵 の漫画 を描 いていた。白土 の初期 作品 「嵐 の忍者 」では手塚 のスターシステムのキャラクターが登場 するなど、その影響 を見 ることができる[199]。白土 は、「紙芝居 をやっていたころ。いわゆるユーモアマンガで手塚 さんを勉強 した[200]。」という。手塚 もそのことに言及 しており、「たとえば白土 三平 氏 やつげ義春 氏 のかつての作品 が、円熟 した時代 のものにくらべて、きわめて手塚 的 であるのは、おそらくはぼくの漫画 を教科書 として使 ったのであった。イミテーションを望 んでいたわけではないはずだ」と語 っている[201]。白土 は徐々 に手塚 的 な作風 を止 め、劇画 作家 へと転向 し、手塚 の最大 のライバルとして立 ちはだかった。劇画 ブームが起 きると、白土 が率 いる「ガロ」に対抗 して手塚 は「COM」を立 ち上 げた。手塚 は「白土 三平 氏 が登場 してから、子供 漫画 には重厚 なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求 されるようになった」と語 っている[202]。手塚 の漫画 「ネオ・ファウスト」では、登場 人物 が白土 の漫画 を読 み、内容 から教訓 を得 ようとするシーンが登場 する。白土 は手塚 が亡 くなった際 に、「気 がついてみたら、私 もいつかこの世界 で飯 を食 っていたのだが、手塚 さんは我々 の偉大 な先輩 であると共 に、多 くの日本人 にとっても忘 れえぬ人 でありつづけるだろう。人 の運命 とはいえ、実 に残念 である[190]。」と発言 している。大友 克洋 大友 は子供 のころからの手塚 ファンと語 っており、特 に少年 時代 は「鉄腕 アトム」のアニメを見 るため、放映 時間 になると決 まって家 に帰 っていたという[203]。またマーブルチョコも、アトムのおまけのシール欲 しさによく買 っていた。「僕 は手塚 作品 で最初 に好 きなのは鉄腕 アトムなんだけどビッグXも好 きだし、高校生 のころは火 の鳥 を読 んでいた」とも語 り、手塚 治虫 漫画 全集 は全巻 揃 えている[204]。大友 克洋 は、高校生 のころに火 の鳥 が連載 していた手塚 治虫 の雑誌 「COM」に漫画 を投稿 している。デビュー初期 の作品 「FIRE BALL」では敵 のコンピューターの名前 に「アトム」を使 っている。- また
大友 の代表 作 「AKIRA」の最終巻 の最後 のページには、本 作 を手塚 に捧 げるとの一文 がある。大友 は、手塚 の作品 を原作 とする劇場 用 アニメーション映画 『メトロポリス』で脚本 を担当 している。2005年 の監督 作品 『スチームボーイ』のタイトルも、「鉄腕 アトム」の英語 版 タイトル「アストロボーイ」を意識 したものである。舞台 挨拶 では「スチームボーイは手塚 さんがやろうとしていた世界 観 を意識 した」と語 った。 雑誌 『ユリイカ』の大友 特集 号 で、手塚 は「僕 はデッサンの基礎 をやっていないから、こんな絵 を見 せられてはたまらない。一 も二 もなく降参 する」と大友 の画 力 を賞賛 している[205]。- また
手塚 は「大友 克洋 さんの出現 によって、劇画 はトドメをさされてしまいました。少 ないけれど確 かな線 によって、白 っぽい画面 のままで、劇画 以上 のリアリティが出 せることが証明 されてしまったのです」と述 べ、劇画 の衰退 は大友 に一因 があるとし、その功績 を高 く評価 している[206]。 手塚 が大友 をパーティーに招待 した際 は「ボクはあなたの絵 見 ました。マンガをね、虫 メガネで見 たけど、それでもデッサンが狂 っていませんね。スゴイですよ!」と大友 のことを絶賛 している[207]。大友 はそれに対 して「でも僕 は手塚 先生 のようなデフォルメされた絵 はかけないんですよね」と語 ると手塚 は「僕 は描 こうと思 えば誰 の絵 でも描 けるけど、諸星 大二郎 のような絵 と星野 之 宣 のような絵 は描 けない」ということも大友 に洩 らしている[208]。大友 が一番 好 きな手塚 キャラは、屈折 して影 のあるロック・ホームと語 り[209]、大友 が脚本 を手 がけたメトロポリスには、原作 では登場 しないロック・ホームが、重要 な役柄 で映画 全編 に登場 する。大友 が1993年 のNHKラジオ「日曜 喫茶 室 鉄腕 アトムの贈 り物 」に出演 した際 に、大友 の作風 が生 まれたことについて以下 のように語 っている。「僕 は高校 のころから映画 が好 きで映画 ばっかり見 てましたけど、手塚 さんが作 った漫画 っていうのは非常 に映画 的 な漫画 なんですよね、昔 の漫画 に比 べると。のらくろだったり、その、昔 の古 い漫画 がありますけど、それに比 べると非常 に映画 的 にカメラアングルをこったり、カット割 りみたいなのが素晴 らしい。それをやっぱり、もう一度 やってみたいなっていうのが、昔 みたいなイマジネーションで漫画 を描 いてみたり、映画 のカット割 りに非常 に近 い、まあ手塚 さんがそう作 ったから当 たり前 なんですけど、それはありましたね、それを自分 でもやってみたくなっちゃう。」「僕 は手塚 さんみたいに枚数 が描 けないんで線 の数 で勝負 している。」また手塚 が大友 のことを『降参 する』と言 ったことについては「俺 なんかをそんな風 に言 っていいのかなと思 った」という。大友 が手塚 から漫画 のパーティーに誘 われたときのことは、「女房 が電話 に出 て『手塚 治虫 から電話 が来 たよ』って言 われて非常 にビックリした」と語 っている[210]。大友 は2014年 のアニメビジエンスNo.3で大友 タッチの鉄腕 アトムを描 いた。萩尾 望都 萩尾 は高校 2年生 のころに手塚 の漫画 「新撰 組 」に出会 い、強 い衝撃 を受 け漫画 家 を志 した。その強 い衝撃 の様子 を彼女 はこう語 る「『新撰 組 』のクライマックスシーンは、言 うまでもなく花火 のあがる河原 での決闘 シーンだ。このシーンが重要 なのは、それまで丘 十郎 を支 え育 んできた彼 の正義 の情 けが、熱意 が、信頼 が、ガラガラと崩壊 していく様 が描 かれているからだ。親友 大作 は実 は長州 のスパイだった。敵 を斬 れと土方 歳三 に命 じられた丘 十郎 が苦 しみつつ歩 く大 きなコマがある。そのコマには大 きなふきだしが三 、四 個 あり、新撰 組 という集団 の利益 、忠誠 と、個人 の意志 友情 との間 に引 き裂 かれてゆく、まさにダブルバインドに落 ちた丘 十郎 の苦 しみがめんめんとつづられているハズであった。しかしそれは私 の思 い込 みであった。実際 はセリフは二 行 しかない。"大作 ・・許 してくれ"。この二 行 は私 にとって二 百 行 にも価 した。このシーンはぐっさりと私 の心 にくいこみ、いまだにその衝撃 を忘 れることができない[211]。」「実 のところ、私 はそのショックで、十 七 の時 に漫画 家 になる決心 をしてしまった。」萩尾 はこれを読 んだ後 、1週間 ぐらいボーっとしたという。- その
後 、萩尾 は漫画 家 になり手塚 と雑誌 で対談 をしたことも何 度 かある。手塚 は萩尾 の作品 「11人 いる!」に対 して「11人 いる!なんてのはスペース・オペラとしての傑作 だと思 っているんです」と評価 している[163]。萩尾 は手塚 の全 作品 を所有 しているほどの大 の手塚 ファンであり、手塚 が亡 くなったときには次 のように語 った。「私 は手塚 先生 の写真 を持 っている。サイン本 も持 ってる。直筆 の絵 も持 ってる。でももう何 もいらないから手塚 先生 に長生 きしてほしかった。悲 しい。一体 、どうしたらいいの。手塚 先生 、返事 して下 さい[212]。」 里中 満智子 里中 は、小学校 入学 直後 に創刊 されたばかりの『なかよし』で手塚 作品 に夢中 になり、愛読 していた。しかし、彼女 はそれだけでは物 足 りず、貸本 屋 に通 い詰 め手塚 作品 をむさぼるように読 んでいたという[213]。貸本 に置 いてないものは必死 でお小遣 いをためて買 い、友人 の兄 から借 りたりした。その中 でも『鉄腕 アトム』に特 に夢中 になった。悪 いことをしようとしたときにも「アトムならこんなことをしない」と自分 にい聞 かせた。里中 は「グレたりしないで生 きてきたのはアトムのおかげ。アトムを生 み出 した手塚 先生 のおかげ」と語 る。しかし、彼女 が小学 5年生 のころに悪書 追放 運動 が起 こり「鉄腕 アトム」も悪書 として批判 されることがあった。里中 は「こんなことでは漫画 が滅 ぼされてしまう!守 りたい!」と思 い漫画 家 を目指 す。里中 は16歳 の若 さで漫画 家 になった。1972年 、里中 はイベントの移動 のため、手塚 と二 人 きりで新幹線 に乗 ることとなり、大阪 までの3時 間 、手塚 と一緒 に語 り合 った。そのときの様子 を里中 は「酸 欠 状態 で心臓 バクバクだったが、手塚 先生 は優 しかった」と語 る。その中 で手塚 は「今後 何 を描 きたいか」という質問 で「究極 のエロティシズムを描 きたい!エロティシズムって素晴 らしいですよ!」などと語 り、当時 若 い女性 であった里中 は、どう受 け答 えしていいかわからず困 ったという。しかし「聞 いているだけで幸 せでした」とも語 る。その他 に手塚 は、妻 との新婚 時代 のことや、息子 のことについてなどを語 った。南部 正太郎 手塚 が「マァチャンの日 記帳 」などの新聞 連載 を始 めたころ、同 時期 に長谷川 町子 の「サザエさん」(『夕刊 フクニチ』)、南部 正太郎 の「ヤネウラ3ちゃん」(『大阪 新聞 』)などの新聞 連載 漫画 が始 まっていた。手塚 は『大阪 新聞 』を介 して南部 と知 り合 い、もう一人 武田 将 美 を加 えて「スリー・メンズ・クラブ」というグループを結成 、たびたび3人 で映画 や漫画 について話 し合 うなどしていた。当時 は南部 の『ヤネウラ3ちゃん』の人気 が圧倒的 で、3人組 を意味 する「スリー・メンズ・クラブ」の「スリー」を3ちゃんの3のことだと思 う人 も多 かったという[214]。馬場 のぼる馬場 のその穏 やかな人柄 もあり、手塚 の親 しい友人 の一人 として交際 。手塚 の葬儀 では加藤 芳郎 とともに、弔辞 を読 んだ。手塚 の作品 の一 つ「七 色 いんこ」では馬場 のぼるの絵本 作品 「11ぴきのねこ」を馬場 のぼるの作品 として物語 の鍵 に使 っている[注釈 18]。また、手塚 は早 くから馬場 をキャラクターとして自作 に登場 させており、なかには「フィルムは生 きている」の宍戸 梅軒 や「W3」の馬場 先生 のように重要 な役柄 で起用 されるケースもある。「W3」で重要 な役柄 に抜擢 された理由 は馬場 が手塚 に対 して「ねえ、たまにはルンペンよりいい役 にしなさいよ」と言 ったことによる。馬場 は自分 がモデルの馬場 先生 が「たいやきは しっぽの中 のアンコで ねうちがわかるんだぞ」という場面 に関心 を寄 せている。手塚 が馬場 と九州 へ旅行 に出 かけた折 、飛行機 内 で手塚 が「鳥人 大系 」を描 いていると「よくペンが走 るなあ」と馬場 が呆 れたという[215]。馬場 は手塚 のことを「手塚 さんが現 れて、どんどん人気 が上 がっていったんですね。そうして人気 が上 がるにつれ雑誌 に手塚 調 の絵 が氾濫 するわけです。」と語 り、手塚 の訃報 の際 には「言 うべき言葉 も見 つかりません。40年 の付 き合 いでした。開拓 者 精神 の旺盛 な人 で、鉄腕 アトムのアニメをテレビで初 めてやったのが手塚 さんでした。今月 の1日 (手塚 が亡 くなったのは9日 )にお見舞 いに行 きましたが、眠 っておられてお話 をすることはできませんでした。だいぶ痩 せられて、危 ないとは思 っていましたが・・・。本当 に偉大 な方 をなくしました」と語 った[216]。小島 功 手塚 が昭和 30年 以降 に「大人 漫画 」の世界 に進 んだ際 に、大人 漫画 家 の「若手 」作家 どうしとして交流 が始 まる[217]。小島 は、手塚 のしらない「酒 と女 の世界 」の指南 役 となり、手塚 を銀座 の夜 の街 に誘 った[217]。のちに二 人 とも「漫画 集団 」の一員 となり、交流 が深 まる[218]。また、「大人 の女 が描 けない」漫画 家 だった手塚 は、小島 漫画 のグラマーな女性 キャラクターを模 して、大人 の女性 像 を描 くようになった。また、小島 が主導 した1963年 の「日本 漫画 家 協会 」の設立 にも、「児童 漫画 家 の代表 」として賛成 して支援 した[218]。- やなせたかし
- 1960
年代 から晩年 まで親交 があった。手塚 は劇場 アニメ『千 夜 一夜 物語 』(1969年 )に当時 まだ大人 漫画 家 として活動 し現在 ほど有名 でなかったやなせを美術 監督 として起用 し、キャラクターデザインもやなせに依頼 している。そのお礼 として手塚 はポケットマネーを出 して、やなせの原案 によるアニメ映画 『やさしいライオン』を制作 した(大藤 信郎 賞 を受賞 )。 - やなせは
手塚 のことを自著 「アンパンマンの遺書 」にて次 のように記 している「当時 の小学生 で漫画 がうまいというのは、手塚 治虫 のマネがいかにうまくできるかということだった。」「手塚 治虫 という名前 は、ぼくも風 のたよりに聞 いてはいたが、それはまったく別世界 のできごとで、ぼくには無関係 だった。」「ある日 、電話 が鳴 った『もしもし、やなせさん、手塚 治虫 です』『あ、どうも』『実 はね、今度 虫 プロで長篇 アニメをつくることになったんですよ』『はあ、大変 ですね』『それで、やなせさんにキャラクターデザインをお願 いしたいんです。ひきうけていただけますか』『いいですよ』『それじゃね』だいたいこんな風 な会話 だった。手塚 治虫 はそのころはすでに漫画 の神様 に近 く、名声 も確立 して収入 は僕 のX倍 もあったが、ぼくとはまったく世界 がちがったから、ほとんど関心 はなかった。」「それなのに何故 ぼくに電話 してきたのか。わけが分 からない。漫画 家 は冗談 が多 い。これは手塚 治虫 の冗談 だと思 って、すっかり忘 れていた。ところがある日 、また虫 プロから電話 がかかってきた。」「手塚 治虫 はもう遠 くの国 へ逝 ってしまったが、ぼくは改 めて聞 きたい『手塚 さん、なぜぼくに依頼 したんですか?』」「ところが千 夜 一夜 は興行 的 に大 ヒットするのである。そして手塚 さんはぼくに言 った『ヒットのお礼 に、何 かアニメーションの短編 を自由 につくってください』『え、ほんとですか』『制作 費 はぼくのポケットマネーから出 します。』ということで、ぼくは、はじめてアニメーションを手 がけることになった。とにかく自分 でつくれる作品 ということで、すでにラジオでやっていて、脚本 も音楽 もできているやさしいライオンを選 んだ。千 夜 一夜 で山本 暎一のやり方 を見 ていたので、大体 のことは解 ったし、絵 コンテも手塚 治虫 と机 を並 べて描 いたので要領 はつかめていた」[219]。 - やなせは「
千 夜 一夜 物語 」前後 を境 に、子供 向 け作品 を描 いていた手塚 が大人 向 け作品 を作 ることが増 え、逆 に大人 向 け作品 を描 いていたやなせが子供 向 け作品 を作 ることが増 えたことを『運命 の交錯 』と表現 している[220]。 - 2009
年 に江戸 東京 博物館 で開催 された「手塚 治虫 展 」では、「ぼくが学 んだのは、手塚 治虫 の人生 に対 する誠実 さである。才能 は努力 しても、とてもかなわないが、誠実 であることはいくらかその気 になれば可能 である。もちろん遠 く及 ばないにしても、いくらかは近 づける。手塚 治虫 氏 はその意味 でぼくの人生 の師匠 である。」というやなせのコメントが紹介 された(やなせは手塚 より9歳 年長 である)。 寺田 ヒロオ寺田 と手塚 はトキワ莊 で一緒 に暮 らしていた。トキワ莊 に漫画 家 が続々 と集 まってくるのは、手塚 が藤子 不二雄 の二人 に14号 室 を譲 ってからであるため、手塚 は寺田 と二人 で住 んでいた期間 を「トキワ荘 前史 」と表 している[170]。寺田 と手塚 の部屋 は向 かい合 わせだった。手塚 と寺田 は歳 が3つほどしか違 わず、手塚 は寺田 を「テラさん」と呼 んでいた。寺田 は手塚 のことをこう語 る「今 のようにアシスタントを使 って漫画 を描 くというスタイルは、手塚 治虫 さんが最初 でしょう。手塚 さんの登場 で少年 漫画 の世界 は革命 的 に変 わりました。それまでは、どちらかと言 えば舞台 的 な作 り方 だったのが、彼 以来 、映画 的 なものに変 わってしまったんです。背景 も細 かく書 き込 むようになったし。かなり複雑 なストーリーのものが漫画 の世界 に現 れたものも手塚 さん以降 でしょう[221]。」手塚 は自著 で寺田 のことを「寺田 ヒロオ氏 は児童 漫画 にかける情熱 はすさまじく、高邁 な信念 をもって作品 を描 き、『スポーツマン金太郎 』や『背番号 0』などの名作 を出 した。その信念 は終始一貫 変 わらなかった。ぼくの尊敬 する漫画 家 のタイプの人 である」と語 っている[222]。手塚 は劇画 ブームの際 、自身 も劇画 を描 くなど対抗 し乗 り切 ったが、寺田 はそれができず児童 漫画 を貫 くも、全 く面識 のない劇画 作家 (さいとう・たかを)に自分 の描 いた原稿 を送 り付 け、「あなたはこんな物 を描 いていては駄目 だ。漫画 を描 くならば、こういった物 を描 きなさい」と、一方 的 に諭 したこともあったという。寺田 の漫画 は打 ち切 られ、寺田 は自宅 に引 きこもりがちになる。1981年 のNHK特集 『現代 マンガ家 立志伝 』で、トキワ莊 メンバーが同 莊 会 を開 くという内容 の番組 が放送 されたが、寺田 は来 なかった。そのとき、手塚 は「テラさんは?」と語 り寺田 が来 ないことを知 ると、「ああ、惜 しい・・」と残念 がる姿 が放映 された。寺田 はその後 、トキワ莊 メンバーとはほとんど会 わなかったものの、1990年 に自宅 に旧知 の仲間 を呼 んで宴会 をした後 、自室 に引 きこもる生活 を続 け、1992年 に死去 している。福井 英一 福井 の柔道 漫画 『イガグリくん』(『冒険 王 』1952年 - 1954年 連載 )[223] は連載 時 絶大 な人気 を誇 っており、当時 手塚 は福井 を最大 のライバルとみなしていた[224]。ライバルとしてだけではなく手塚 の描 いた「38度 線上 の怪物 」には福井 が登場 し、福井 が描 いた『イガグリくん』には手塚 が登場 するコマがあるなど交流 もあった。しかし、酔 った福井 が手塚 に「やい、この大阪 人 、あんまり儲 けるなよ!」とふっかけて口論 となり、手塚 の返答 に「稼 ぐばかりが能 じゃねえ、子供 だ、子供 のことをちったァ考 えてみろ」「金 のために描 いているしか思 えねえ、この大阪 人 め!」と罵倒 したこともある[224][注釈 19]。1954年 ごろ、手塚 は『漫画 少年 』連載 の「漫画 教室 」の中 で、良 くないストーリー漫画 の例 として『イガグリくん』を模 した作品 を登場 させて福井 の怒 りを買 い、福井 の抗議 を受 けて馬場 のぼるの仲裁 で謝罪 している[224]。手塚 は翌月 の「漫画 教室 」に、漫画 の先生 が福井 と馬場 らしきシルエットの人物 にやり込 められている様子 を描 いて謝罪 の意 を表 した[224]。そのしばらく後 に福井 は過労 で急逝 しており、手塚 は死去 の報 を受 けて、競争 相手 がいなくなったことに「ホッとした」という感情 を覚 え、そのことで自己 嫌悪 に陥 ったと記 している[226][注釈 20]。手塚 は直後 アシスタントしてもらっていた高校生 時代 の石ノ森 章太郎 にハガキを出 している。「福井 英一 氏 が亡 くなられた。今 、葬儀 の帰途 だ。狭心症 だった。徹夜 をしたんだ。終 わって飲 みに出 て倒 れた。出版 社 が殺 したようなものだ。悲 しい、どうにもやりきれない気持 ちだ。おちついたら、また、のちほどくわしく知 らせるから…」その手紙 を受 け取 った石ノ森 は、手塚 の悲 しみが行間 からにじみ出 てるようだったと語 っている[227]。その後 手塚 は漫画 「世界 を滅 ぼす男 」で空 に浮 かぶ雲 を福井 の形 にして、自身 の追悼 の気持 ちを漫画 の中 であらわした[228]。その雲 は穏 やかな生前 の福井 の顔 の形 をしており、頭 の上部 には天使 の輪 の形 をした雲 が付 いていた。手塚 は福井 が亡 くなったことによるショックで、手塚 と福井 が連載 していた「漫画 少年 」に『あと2年 で漫画 家 を辞 める』とまで発表 し、漫画 家 を辞 め医者 を目指 すつもりであった[229]。水木 しげる水木 しげるはデビュー当時 、漫画 は手塚 治虫 のような作風 の漫画 しか売 れず、「私 は(手塚 治虫 を)ライバルだと思 ってやってきた。若 い時 から漫画 界 に君臨 してきた彼 に対 して屈折 した思 いもあった」「手塚 さんがコンクリート塗装 の大 きな道 を闊歩 してきたとすれば、私 は細 く曲 がりくねった悪 路 をつまずきながら歩 いてきたようなものだ」と自著 『水木 さんの幸福 論 』で語 っている。- 『
週刊 少年 マガジン』の編集 長 だった内田 勝 によると、1965年 から同紙 で連載 開始 された水木 の妖怪 漫画 「墓場 の鬼太郎 」を目 にした手塚 は、その内容 から受 けたあまりの衝撃 に、自宅 で階段 から転 げ落 ちたという[230]。やがて「ゲゲゲの鬼太郎 」と改題 された同 作品 によって「妖怪 ブーム」が起 こると、手塚 はこれを意識 して「どろろ」を発表 している[72]。一方 、水木 の作品 には棺桶 職人 を主人公 にした短編 「一番 病 」[231] があるが、これは手塚 によく似 た主人公 が一番 になろうとばかりして酷 い目 に会 う、という物語 である。また水木 の作品 を元 にして、手塚 の地元 である宝塚 ファミリーランドで「ゲゲゲの鬼太郎 」のアトラクションが開催 されていたことに対 し、手塚 は難癖 と取 られても仕方 がない発言 を行 ったという[232]。 水木 は雑誌 のインタビューで手塚 のことを直接 名指 ししたわけではないが、「水木 サン(水木 の一人称 )はいつでも自分 がオモチロイと思 ったものだけを描 くんです。誰 かにウケるものを描 こうなんて考 えたこともない。そんなことを考 えて描 く人 は三 流 ですよ」と語 っている[233]。水木 の長女 の尚子 は父 ・水木 しげるの妖怪 漫画 よりも、かわいい絵 を描 く手塚 の大 ファンだった。水木 の次女 の悦子 は「姉 が手塚 さんのマンガをかなり読 んでいたことを水木 は気 にしていたようです」と話 している。また水木 の娘 が水木 に対 して「お父 ちゃんの漫画 には未来 がない。手塚 漫画 には未来 がある」と言 うと。水木 は「これが現実 なんだ!おれは現実 を描 いているんだ!」と激怒 したという。水木 の娘 が手塚 からサインを貰 ったときは『お父 ちゃんの雑 なサインと違 って、丁寧 に描 いてくれた!』と言 い、水木 をガッカリさせている。一方 、手塚 の息子 の眞 は、幼少 期 は『ゲゲゲの鬼太郎 』のファンで、父親 の漫画 よりも好 んでおり、水木 の娘 と好 対照 であった。後 に眞 が制作 した映画 『妖怪 天国 』は水木 の影響 を受 けており、手塚 治虫 ・水木 しげる両人 ともゲスト出演 している。手塚 によると、この映画 への出演 は眞 から「水木 に特別 出演 してほしいが、個人 的 に知 っているか?」という相談 を受 けたところから始 まった[234]。手塚 はこれに対 して「ああ、いろいろつき合 って貰 ってるよ」と返答 した、と記 しており、手塚 と水木 は漫画 家 としての交友 は持 っていたことがうかがえる。手塚 の漫画 「I.L」には主人公 のI.Lの顔 がモンスターになるシーンで水木 が登場 する。そのとき、水木 はI.Lに関心 を寄 せた台詞 を語 っている。同 じく手塚 の漫画 「三 つ目 がとおる」の「ガイコツ・ショー」の話 では、テレビ局 に乗 り込 んだ写楽 達 の場面 で水木 が登場 し、三 つ目 小僧 に付 いて語 っている。受 け手 であるタレントは「水木 センセイのお話 はこわかったですねー」と返答 。「火 の鳥 鳳凰 編 」では茜 丸 が様々 な生 き物 に生 まれ変 わった夢 を見 る場面 で、夢 から目覚 めたときの吉備真備 が水木 の登場 人物 「ねずみ男 」の姿 に変 わっている。手塚 は水木 を自分 の漫画 に登場 させる時 は水木 に電話 で許可 を取 るようにしていた。週刊 少年 マガジン1969年 3月 30日 号 の企画 で、漫画 家 とその妻 の集合 写真 を撮 ったときは、手塚 と水木 は二 人 仲良 く並 んで撮影 している。上記 のように「手塚 と水木 は不仲 である」ということが語 られることもあるが、水木 本人 も後年 の書籍 で手塚 との不仲 を否定 している[235]。諸星 大二郎 手塚 賞 応募 作 である「生物 都市 」を手塚 は筒井 康隆 とともに絶賛 し、この作品 は満場一致 で手塚 から手塚 賞 が送 られた。諸星 および星野 之 宣 と鼎談 した際 、手塚 は「僕 は諸星 さんの絵 だけは描 けない」と発言 している。手塚 の漫画 「ルードウィヒ・B」では、諸星 のことをみなもと太郎 や坂口 尚 などとともに「天才 」と評価 し、「自分 を大事 にして自分 の個性 を出 していく者 が結局 強 いんですよ。どこでも通用 するんすよ。こういうのが自分 の個性 で勝 つんすよ」と主人公 のルードウィヒに語 らせている。- いしかわじゅん
- イベントでいしかわが
吾妻 ひでおと一緒 に手塚 と同席 した際 、「この2人 は若手 の間 では神様 みたいな人 」と手塚 に紹介 されたことがある。そのとき、いしかわは「神様 に神様 といわれるのは妙 な気分 であった」と語 る[236]。またそのとき、手塚 は「いしかわ氏 はぼくの影響 を全然 うけてないからなー」と語 り、いしかわは「(そんなことないですよ。あなたの影響 を受 けていない漫画 家 なんていませんよ)」と心 の中 で語 った。またいしかわは「七 色 いんこ」中 のキャラとして登場 させたいとのことで手塚 から電話 をもらったことがある。「七 色 いんこ」に登場 した際 のいしかわは、吾妻 ひでおとキスをするという役柄 であった。手塚 はいしかわの作品 「憂国 」に対 して「いしかわ氏 の憂国 なんかおもしろいよね[236]」と発言 もしている。 - いしかわは
手塚 が亡 くなった際 に「今朝 起 きたら手塚 治虫 が死 んでいた」「歴史 上 の人 は死 なないと思 っていた。生死 を超越 した存在 だとばっかり思 っていたのだ」とそのショックを語 った[237]。 寺沢 武一 寺沢 は特 に手塚 のファンという訳 ではなかったが、たまたま週刊 少年 チャンピオンで連載 していた「ブラック・ジャック」内 のアシスタント募集 の広告 を見 て、手塚 プロダクションに作品 を投稿 する。そのときは手塚 プロダクションの採用 担当 者 の判断 により不 採用 となったが、後日 、手塚 治虫 が直々 に寺沢 の絵 を見 たところ寺沢 の絵 を気 に入 り、手塚 のアシスタントに採用 された[238]。ジャンプコミックスで寺沢 の『コブラ』第 1巻 には、手塚 があとがきに寄稿 している。手塚 はその中 で「じつは、助手 を募集 したとき、どういうわけか寺沢 くんは選 にこぼれてしまっていた。あとから気 づいたぼくは、大 慌 てで彼 を採用 しなおした。こんなすごい絵 がかける人 をなんで見落 とすんだ!こうして四 人 の採用 者 に彼 が一人 加 わり、それが結果 的 に、彼 がトップにプロの道 へ進 むきっかけをつくったのだった。」「彼 の絵 は緻密 で、丹念 で、しかも美 しかった。ことに背景 を描 かせると抜群 だった。」「ジャンプにプロ第 一 作 を載 せたということは、寺沢 くんにとって大 成功 だと思 う。」と寺沢 のことを絶賛 している。当時 、寺沢 は手塚 の専属 アシスタントをしていたにも拘 らず、一人 だけ残業 をせず、「これから自分 の創作 活動 するんで帰 ります」と早 めに帰宅 していたが、手塚 は寛容 に扱 っていた。理由 は「彼 はとても才能 のある子 だから、一 日 でも早 くアシスタントを卒業 してデビューして欲 しかった」 とのこと。寺沢 は、手塚 が火 の鳥 の原稿 をカッターで切 り、構図 を変 えているのを見 て「うわっこんな風 に発想 するのか!」と驚 いたという。また寺沢 は手塚 のことを「僕 の思 いつきを先生 は面白 がってくれた。きっとそういう新 しい血 が欲 しかったんだと思 う」「手 とり足 とり教 えてくれたわけじゃないがすごくいい時間 をもらった。僕 にとって金 に換算 できない貴重 な経験 だった[239]」と語 っている。- あだち
充 - あだちは、
高校 在学 中 に手塚 の雑誌 『COM』に投稿 していた。そしてCOMの新人 賞 において、「虫 と少年 」が手塚 によって佳作 2位 に選 ばれた。以後 『COM』の読者 コーナーにしばしば登場 。あだちは手塚 が死去 した際 に『週刊 少年 サンデー』上 で次 のような追悼 文 を寄 せた。「亡 くなられた2月 9日 は僕 の誕生 日 でした。鉄腕 アトムの誕生 の年 に生 まれた僕 としては、手塚 先生 の影響 は計 り知 れません。虫 プロ主催 の雑誌 『COM』がなかったら、漫画 の作品 めいたものも描 かなかったでしょう。心 からご冥福 をお祈 りいたします[240]。」 夏目 房 之 介 夏目 は小 さな出版 社 に勤 めながら、自分 の漫画 をいろんな人 に送 っていた。そうすることによって仕事 がくるかと思 っていたが、これは彼 曰 く全然 当 て外 れであった。しかし、手塚 治虫 から夏目 へと直筆 のハガキが届 き、その中 には「24Pのものが一番 面白 かったと存 じます」とわざわざ夏目 の作品 を褒 めるものであった。このことに夏目 は「信 じられない」と語 る[241]。1977年 、夏目 が実際 に手塚 と出会 ったときには「ああ自費 出版 を送 っていただいて。あの本 ね、面白 いから編集 者 に貸 したらそれきり返 してくれないんです。週刊 朝日 やヤングコミックの仕事 も拝見 してますよ」と手塚 に言 われ、夏目 は感銘 を受 けている。同時 に「怖 い人 だ」という感想 も述 べている。これは当時 、無名 の新人 であった自分 の作品 にもチェックを入 れてくる手塚 のプロ意識 に対 して尊敬 と畏怖 をこめてそう評 している。手塚 死去 の際 、夏目 は次 のように語 っている。「亡 くなったことを知 ってから、あちこちの連載 に片 っ端 から追悼 文 を書 いた。書 いているうちは比較的 冷静 なのに、書 き終 えてみると、みぞおちのあたりから痙攣 が馳 せのぼってきて泣 く。『うぉっうぉっうぉっおっおっ』と、まるでオットセイである。幼 いころからのいろんなことが、いちどに手塚 さんにむかってほとばしったみたいな泣 き方 で、これを書 くたんびにくりかえすのである」「手塚 さんの死 を知 ってから、表層 的 には平静 だった私 が月刊 コミックトム(遺作 ルードウィヒ・Bの掲載 誌 )に追悼 文 を書 き、最後 に『手塚 さん、さようなら』と記 した途端 に泣 いた」「手塚 治虫 さんは、私 などにとって好 きとか嫌 いとか、影響 を受 けたとか受 けないとか、そういう表層 的 な存在 ではなかった。だから、作品 ひとつだけあげろと言 われると『そんなことができるもんか!』と、どなりかえしたくなる[242]」
関係 の深 いアニメーション監督 [編集 ]
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富野 由 悠 季 富野 は小学生 のころ、1年 先輩 の友達 の家 で雑誌 「少年 」に連載 されていた「アトム大使 」で初 めて手塚 作品 と触 れ合 う[243]。そして小学 5年生 の4月 から両親 に「少年 」を毎月 買 ってもらうようにお願 いした。そのときのことを富野 は「漫画 が掲載 されているような雑誌 は買 ってはいけないというのがうちのテーゼだったんです。それを拝 み倒 して4月 から買 ってもらったときに偶然 『鉄腕 アトム』の連載 が始 まった月 だったんです。本当 に衝撃 的 でした。それまではまだ・・・こんなタイトルあげても若 い人 は分 からないかも知 れませんが『のらくろ』の漫画 がつまり戦前 の漫画 がちらちら残 ってるんですよ。家 の中 に。そういうものを読 んでお茶 を濁 していたという気分 のところに、これが来 ましたんで、要 するに昔 の軍隊 話 でないまったく新 しい漫画 が来 た。ということで本当 にびっくりしたし、何 よりも物語 を読 まなければならない、つまり、絵 だけを見 ていたらすまないぞという物語 を手塚 先生 がお描 きになったというのが、やはり、いや、これは低俗 な漫画 ではないという断定 を子供 心 にしてくれたという意味 ではとてもすごい作品 だったという風 に思 っています[243]。」また、富野 は手塚 の「来 るべき世界 」にさらにそれを超 える衝撃 を受 けたということも語 っている。富野 は、小学 6年生 のときには「僕 は漫画 で初 めて女 の子 を知 った」と「来 るべき世界 」のポポーニャが覆面 を外 すコマを上 げた。富野 は日本大 卒業 後 の1964年 (昭和 39年 )、手塚 治虫 が設立 したアニメ制作 会社 の虫 プロダクションに入社 した。富野 は手塚 から直々 に鉄腕 アトムの演出 に抜擢 されアニメ後半 の演出 の多 くは富野 が手 がけている。富野 の初 監督 作品 は手塚 の漫画 を原作 とした「海 のトリトン」である。富野 は手塚 治虫 を振 り返 りこう語 っている「アニメは全部 動 かさなくても伝 えられるということを教 えてもらった[244]。」「週 ペースでものを作 ることにすでに現場 は慣 れていましたが、とにかく忙 しく、演出 論 などを議論 をしている時間 はなかった」「虫 プロでマンガ家 でアニメーターの真似事 をしている人 が社長 であるわけがない。早 く演出 にならないと給料 安 くてやってられないと思 っていた僕 に「演出 やらない?」と言 ってきたとき、ああやはりこの人 はマンガ家 でありクリエイターであって社長 ではなかった、と思 った。オレの映画 観 と手塚 先生 の映画 観 が違 ったから。手塚 先生 の映画 観 は甘 いんじゃないかと思 ってた。手塚 先生 が満足 した作品 はないと思 う。」「映画 は好 きに作 ってすむものではない。好 きだけで作 れるとは思 わないで下 さい。それでも作 るなら、手塚 先生 と同 じ手 の速 さと学識 を持 ってほしい。僕 もその1億 分 の1くらいになれるように頑張 ります。」「(「ジャングル大帝 」のシナリオの社内 募集 にコンテを持 ち込 みした際 )それが採用 されるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテを読 める奴 はいないのだから、ぼくのコンテだって採用 される。虫 プロのコンテの基準 は、マンガ絵 がはっきりしていればいいのであって、映像 的 な評価 を意識 したものはないから、りんちゃん(=りんたろう)的 なコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって、手塚 先生 がコンテを読 めないことをあげつらうつもりはない」「手塚 先生 だって、若 い連中 が描 いたコンテはなおすし、短編 アニメのコンテをきらせたら天下一品 であるのだが、ストーリー・アニメのコンテは不得手 でいらっしゃったというのが、ぼくの評価 である。こんなエピソードを書 いたからといって、TVアニメのパイオニアである事実 を貶 めることにはならないし、マンガ家 として天才 であることを汚 すことにもならない[245]」手塚 は富野 の監督 作品 『機動 戦士 ガンダム』について「機動 戦士 ガンダム以降 では子供 向 けアニメが受 けにくくなった」と語 っている。手塚 が死去 したときのことを富野 は次 のように振 り返 っている「先生 が亡 くなられたと聞 いた翌朝 、失礼 をかえりみず先生 のお宅 にあがりこんで、死 に顔 を拝見 できなくとも近 くにいたいと願 った。その行為 は今 も恥 じていない。師 のエキスの一 万 分 の一 も真似 することはできないだろうけど、ここに従 うものがいると知 ってほしいと思 うのは、生 きている者 の欲 である[246]。」- りんたろう(
林 重行 ) - りんたろうは1963
年 に東映動画 から手塚 治虫 の虫 プロダクションに移籍 した。これは東映動画 ではやりたかった演出 ができなかったためである。りんたろうは念願 がかなって「鉄腕 アトム」の演出 を務 めた。彼 は手塚 のことを「偉大 なマンガ家 であり、寝食 を忘 れて一緒 に仕事 をしたチーフ。覚 えているのは、動画 机 を並 べて仕事 をしていたときのこと。地震 みたいにガタガタガタガタ揺 れ出 した。先生 は調子 に乗 ってくると貧乏揺 すりをするクセがあった。あとは音楽 に造詣 が深 かったこと。朝 からコンテをかきつつベートーベンの第 5(運命 交響曲 )をかけていた。商業 主義 でアニメがどんどん大 きくなり、先生 が本来 やりたかったアニメとどんどんかけ離 れていった。でも先生 は悩 みながらアニメを手放 さなかった。プライベートなフィルムを作 ってバランスを取 っていたんだと思 う。でも、最後 までどの作品 にも満足 しなかったのではないか。」と語 る。 杉井 ギサブロー(杉井 儀三郎 )杉井 は幼少 のころより手塚 作品 を読 んで育 った。彼 はこう語 る「手塚 先生 の『新宝 島 』に出会 ったのは7歳 のとき。その紙 のザラザラした感触 も覚 えている。手塚 先生 のマンガはほかのマンガと違 って、読 むというより映画 を見 ているという印象 だった。」「僕 は手塚 マンガから映画 の作 り方 を教 わった。」「手塚 先生 と初 めて会 ったのは20代 初 め。小学生 のころからファンで雲 の上 の人 だったけど、冷静 に考 えると先生 もまだ30代 。30代 の若者 が20代 の若者 を集 めて作 ったのが虫 プロだった。一番 教 わったのは、エンターテインメントというのはチャレンジだということ。常 にチャレンジしていないと古 びてしまう。だから同 じことを繰 り返 してはいけない。先生 はホントにマンガが好 きだったんだろうか、マンガではなく映画 が好 きで、映画 を書 いていたんじゃないかと思 う。」手塚 は杉井 のことを「ギッちゃん」と呼 んでいた。出崎 統 出崎 は小学 4・5年生 のころより手塚 治虫 に憧 れて漫画 を描 いて育 った。その後 、虫 プロに入社 する。彼 は次 のように語 る「僕 は手塚 治虫 にあこがれ、マンガ家 を目指 して挫折 して、偶然 虫 プロに入 ることができた。先生 を目 の前 にしてもこちらからアクションを起 こすことなんてできなくて。何 か思 い出 を作 っておけばよかったと後悔 してる。一度 、アトムのコンテを見 せたとき『出崎 君 、エンターテインメントを忘 れないで』と言 われた。僕 は暗 い話 が好 きでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントって何 だろう、と考 えて、今日 まで来 てしまった。マンガでもアニメでも手塚 作品 の主人公 はいつも悩 んでる。そこにひかれたから、僕 も『ロボットとは?』『人間 とは?』とアトムをいつも悩 ませた。それで『エンターテインメントを忘 れないで』と言 われちゃったけど、反 権力 で心 の中 に葛藤 を抱 えている、そういう主人公 にあこがれ、僕 もそういう作品 を目指 している。」高橋 良輔 高橋 も幼少 のころより手塚 治虫 に憧 れて育 ち1964年 に虫 プロへ入社 した。「私 も手塚 先生 のファンで、別世界 の人 と思 ってた。虫 プロの試験 でお会 いして「ホンモノだーっ!」って思 った。神様 みたいな存在 だったのが、一緒 に働 いているとどんどん「ちょっと年上 のただのオジサン」になっていった。徹夜 して机 の下 に寝 ていると何 か圧迫 感 があって、見 たら隣 で先生 が寝 ている。手塚 先生 と添 い寝 しちゃった。後 になって自分 のスタジオを高田馬場 に持 ったとき、手塚 プロも高田馬場 にあったので、たまに坂道 なんかで会 うと声 をかけていただき、ますますオジサン度 が強 まった。亡 くなってからは、今度 は偉大 さが強 まってきた。自分 が生 きて出会 った、いちばん偉大 な人 、という思 いを強 くしている。「アトム」の後 、30分 のテレビアニメが増 え、手塚 アニメの人気 が一時 下 がった。すると先生 は大人 向 けの長編 を作 って大 ヒットさせた。業界 がまたそういう方向 を食 いつぶしていると、2時 間 という枠 のアニメを今度 はテレビでやった。開拓 者 、挑戦 者 だった。その遺志 を継 いで何 とか新 しいものを作 っていこうと頑張 っている。」「今 仕事 してみると、『先生 が生 きていたらどういう風 に言 ってくれるのかな』とか、先生 のチェックがないということがね、あらためて『先生 が亡 くなっちゃったんだなあ』と。そういう意識 の仕方 ですね。」- ちなみに、
高橋 の監督 作品 「装甲 騎兵 ボトムズ」の主人公 キリコは手塚 の作品 「ブラック・ジャック」の登場 人物 から取 られている[247]。 宮崎駿 宮崎 は手塚 のアニメーション制作 に対 し批判 的 であった。手塚 の訃報 に際 し、宮崎 は手塚 の漫画 史 における功績 に敬意 を表 しつつも、手塚 のアニメ作品 を、店子 を集 めてムリやり義太夫 を聴 かせる落語 の長屋 の大家 と同 じ旦那芸 であると痛烈 に批判 し、手塚 がリミテッド・アニメーションとフルアニメーションの違 いもろくに理解 せず喧伝 していたことや、ロトスコープを慌 てて買 い込 んだことに触 れ、「アニメーションに関 しては(中略 )これまで手塚 さんが喋 ってきたこととか主張 したことというのは、みんな間違 いです」「アニメーションに対 して彼 がやったことは何 も評価 できない」と述 べ、「趣味 としてみればわかるんです。お金持 ちが趣味 でやったんだと思 えば」と総括 している[248]。一方 で、手塚 がテレビアニメ黎明 期 に『鉄腕 アトム』を安価 な予算 で作 ったことが、日本 におけるアニメの製作 費 が低 くなる前例 となってしまった件 については、日本 が経済 成長 を遂 げていく過程 では必然 のことであり、「引 き金 を引 いたのが、たまたま手塚 さんだっただけ」とする立場 を取 っている[249]。漫画 作品 に関 しては後 の2009年 のインタビューにおいて、7歳 のときに読 んだ『新宝 島 』に「言 い難 いほどの衝撃 」を受 けたことを明 かし、「僕 らの世代 が、戦後 の焼 け跡 の中 で『新宝 島 』に出会 った時 の衝撃 は、後 の世代 には想像 できないでしょう。まったく違 う世界 、目 の前 が開 けるような世界 だったんです。その衝撃 の大 きさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画 の影響 とかで片 づけられないものだったと思 います」と語 っている。また、その後 のSF3部 作 (『ロストワールド』『メトロポリス』『来 るべき世界 』)の虜 になっていたことも認 め、「モダニズムとは、繁栄 や大量 消費 と同時 に、破壊 の発明 でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅 で行 き着 いたのが手塚 さんだった」と評 している。当初 、漫画 家 を目指 していた宮崎 がアニメーターに転 じたのは、絵 が手塚 の亜流 に見 えてしまうことが理由 のひとつにあったという。また、手塚 のアニメについて、従来 の評価 は変 わらないとした上 で「僕 は手塚 さんがひどいアニメーションを作 ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打 ちできると」と述 べている[250]。雑誌 の寄稿 文 では「十 八 歳 を過 ぎて自分 でまんがを描 かなくてはいけないと思 ったときに、自分 にしみこんでいる手塚 さんの影響 をどうやってこそぎ落 とすか、ということが大変 な重荷 になりました。ぼくは全然 真似 した覚 えはないし実際 似 てないんだけど、描 いたものが手塚 さんに似 ていると言 われました。それは非常 に屈辱 感 があったんです。模写 から入 ればいいと言 う人 もいるけどぼくは、それではいけないと思 い込 んでいた。それに、手塚 さんに似 ていると自分 でも認 めざるをえなかったとき、箪笥 の引 き出 しにいっぱいためてあったらくがきを全部 燃 やしたりした。全部 燃 やして、さあ新 しく出発 だと心 に決 めて、基礎 的 な勉強 をしなくてはとスケッチやデッサンを始 めました。でもそんなに簡単 に抜 けだせるはずもなくて…。」[249]と語 り、その後 のインタビューでは「僕 は、手塚 さんとはずっと格闘 してきましたから。それは『恩義 』だけれど、そんな言葉 で語 れるほど簡単 なものじゃありません」とも語 っている。宮崎 は東映動画 に入社 した年 である1963年 に手塚 治虫 が原案 を務 めた『わんわん忠臣蔵 』にアニメーターの一人 として参加 している。1977年 には同 じく手塚 治虫 原案 の『草原 の子 テングリ』でレイアウトを務 めた。手塚 は宮崎 の『ルパン三 世 カリオストロの城 』に対 し「僕 は面白 いと思 った。うちのスタッフも皆 、面白 がって観 ていた」と『ぱふ』のインタビューで語 っている[251]。- 1981
年 には手塚 と宮崎 との合作 『ロルフ』も予定 されていた。手塚 はアニメージュの紙面 上 で次 のように語 っている。「『ロルフ』---この有名 なアングラ・コミックを宮崎 さんが長編 アニメにしたいという執念 をぼくにもらされたのは、もう半年 くらい前 のことです。『じゃりン子 チエ』の追 い込 みも終 わった前後 のことで、どうしてもこれだけは国際 的 アニメに作 り上 げたいという夢 を、大塚 康生 氏 とともに語 られました。ぼくたちは、この夢 の実現 を目 ざして、どんなに時間 がかかっても成就 したいと思 っています。それにはT社 の社長 および原作 者 の強力 なご援助 がなければできないことです。コケの一念 で実現 させたいと思 います。宮崎 さんは、きっととてつもないもの凄 い映画 に作 り上 げられることでしょう」[252]。この合作 は実現 しなかったが、ロルフの企画 は名前 と形 を変 え『風 の谷 のナウシカ』となった[253]。 手塚 は『風 の谷 のナウシカ』が大 ヒットしたのを見 て、「凄 く悔 しがっていた」と元 アシスタントの石坂 啓 が述懐 している[254]。また、手塚 は晩年 にアニメーターで元 トキワ荘 住人 の鈴木 伸一 とともに『天空 の城 ラピュタ』を観 たという[255]。映画 を観 た後 、手塚 は鈴木 に「面白 かった?」と聞 き、「は、はい。」と答 えた鈴木 に対 し「そうかな?」と述 べ、宮崎 をライバル視 していたという。宮崎 は2011年 10月 に刊行 した著書 『本 へのとびら―岩波 少年 文庫 を語 る』で、これまでの手塚 への発言 について「手塚 さんは今 の僕 より若 くして亡 くなった方 ですから[注釈 21]、僕 より若 い人 なんだ、とこのごろは思 っているんです。年寄 りがとやかく言 うことではありません。」と述 べている[256]。
その他 [編集 ]
トレードマークは、ベレー
アシスタント
1962
年表 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/Kouseki_chousho_TEZUKA_OSAMU_02.png/300px-Kouseki_chousho_TEZUKA_OSAMU_02.png)
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6a/Kouseki_chousho_TEZUKA_OSAMU_03.png/300px-Kouseki_chousho_TEZUKA_OSAMU_03.png)
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/34/Kouseki_chousho_TEZUKA_OSAMU_04.png/150px-Kouseki_chousho_TEZUKA_OSAMU_04.png)
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ac/Kouseki_chousho_TEZUKA_OSAMU_01.png/150px-Kouseki_chousho_TEZUKA_OSAMU_01.png)
- 1928
年 11月3日 -大阪 府 豊能 郡 豊中 町 (現 ・豊中 市 )に生 まれる。※岡町 相生 通 りに生誕 から2歳 まで、引 っ越 して岡町 曽根 (萩 の寺 の付近 )に2歳 から5歳 まで。 - 1933
年 - 5歳 のとき兵庫 県 川辺 郡 小浜 村 (現 ・宝塚 市 )の川面 (かわも)の高台 のふもとの元 祖父 の屋敷 に一家 で引 っ越 す。このころから母 とともに宝塚歌劇 に親 しむ。 - 1935
年 -池田 師範 学校 附属 小学校 (現 ・大阪教育大学 附属 池田 小学校 )入学 。 - 1939
年 -自分 の名前 「治 」に虫 を付 けて「治虫 」をペンネームとする。 - 1941
年 -大阪 府立 北野中 学校 (現 ・大阪 府立 北野 高等 学校 )入学 。 - 1945
年 3月 -北野 中学 を卒業 。勤労 動員 中 6月 の大阪大 空襲 に遭遇 。7月、大阪 帝国 大学 附属 医学 専門 部 に入学 。 - 1946
年 1月 4日 - プロデビュー作 の四 コマ漫画 『マァチャンの日 記帳 』(少 國民 新聞 (後 の毎日 小学生 新聞 )大阪 版 )の連載 開始 。 - 1947
年 -酒井 七 馬 がもちかけた企画 による長編 漫画 単行 本 (赤本 )『新 寳 島 』が刊行 された(初版 1月 30日 、4月 20日 、6月1日 、7月 25日 と版 を重 ねて累積 40万 部 が売 れたとされる)。 - 1950
年 (22歳 ) -上京 中 に学童 社 に立 ち寄 って加藤 謙一 と出会 い、持 っていた単行本 用 の原稿 を見 せたところ連載 が決 まり「漫画 少年 」誌 で『ジャングル大帝 』の連載 開始 。 - 1951
年 - 1年 留年 し、大阪大学 附属 医学 専門 部 (旧制 )卒業 。毎日放送 開局 時 のアナウンサー採用 試験 に合格 。偶然 通 りかかって受験 してみたところ合格 した、と後年 同局 の番組 『あどりぶランド』で語 っている。光文社 の月刊 誌 「少年 」に「アトム大使 」(当初 の予定 はアトム大陸 )を連載 開始 。 - 1952
年 -医師 免許 取得 。『アトム大使 』から路線 変更 した『鉄腕 アトム』(連載 予告 では鉄人 アトム)を『少年 』 に引 き続 いて連載 。東京 都 新宿 区 四谷 に約 1年 半 下宿 する(四谷 交差点 (北西 角 。メトロ2番 入 り口前 )「成木 屋 青物 店 」の2階 。のちの漫画 作品 「四谷 快 談 」の舞台 。『鉄腕 アトム』などの執筆 場所 )。 - 1953
年 (25歳 ) -東京 都 豊島 区 椎名 町 5丁目 (現 :豊島 区 南長崎 3丁目 )のトキワ荘 に入居 。『リボンの騎士 』を講談社 の月刊 誌 少女 クラブに連載 開始 。 - 1954
年 -週刊 朝日 の昭和 29年 (1954年 )4月 11日 号 、頁 22-23で「知 られざる二 百万長者 児童 マンガ家 ・手塚 治虫 という男 」として紹介 される。 - 1954
年 - 10月に豊島 区 雑司 が谷 の並木 ハウスに下宿 。 - 1957
年 -東京 都 渋谷 区 代々木 初台 に借家 。 - 1958
年 (30歳 ) -第 3回 小学館 漫画 賞 受賞 (『漫画 生物 学 』『びいこちゃん』)。練馬 区 東大泉 町 (現 :東大泉 )の東映動画 から漫画 「ぼくのそんごくう」を元 にした劇場 用 長編 総 天然色 漫画 映画 「西遊 記 」の制作 を持 ちかけられて嘱託 社員 となる。 - 1959
年 -松下 井 知夫 (まつしたいちお)が中心 となって結成 した「ストーリー漫画 研究 会 」に参加 (松下 に結婚式 の媒酌人 を依頼 )。 - 1959
年 - 10月に岡田 悦子 と結婚 。『週刊 少年 サンデー』創刊 号 から『スリル博士 』を連載 する。 - 1960
年 -練馬 区 谷原 町 (現 ・練馬 区 富士見台 )に自 らデザインした自宅 を建 てる。 - 1961
年 -奈良県立医科大学 から医学 博士 の学位 を授与 される。主 に東映動画 から引 き抜 いた人材 を中心 とする6名 で手塚 治虫 プロダクション動画 部 を設立 し(12月には株式会社 虫 プロダクションとして登記 )、自宅 の庭 の一角 に作 った建物 で非 商用 アニメーション作品 「ある街角 の物語 」の制作 を開始 。長男 ・眞 (本名 :真 )が誕生 。 - 1963
年 (35歳 ) -自 ら創設 して社長 も務 めた虫 プロダクション制作 の日本 初 毎週 30分 枠 のテレビアニメシリーズ[注釈 2]『鉄腕 アトム』(モノクロ作品 )がフジテレビにて1月 1日 から放送 を開始 する(丸 4年間 放送 )。「ある街角 の物語 」が芸術 祭 奨励 賞 、第 1回 大藤 信郎 賞 、ブルーリボン教育 文化 映画 賞 を受賞 。 - 1964
年 -長女 ・るみ子 が誕生 。 - 1965
年 -日本 初 の1時 間 枠 テレビアニメ「新宝 島 」を1月 3日 に放送 (これは本来 は手塚 治虫 原作 の漫画 を毎月 1回 1時 間 の枠 で毎回 完結 の独立 したアニメ番組 化 していく構想 「虫 プロ・ランド」の第 1作 目 であったが、経営 的 な面 から製作 継続 は無理 と判断 され、これ一 作 だけが作 られて中止 となった)。日本 初 のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝 』がフジテレビで10月 6日 から放送 。毎日新聞社 の特派 員 記者 としてニューヨーク世界 博覧 会 を取材 するために渡 米 した際 に偶然 に同 博覧 会場 のペプシコーラ館 前 において生涯 で一 度 だけとなったウォルト・ディズニーとの対面 を果 たす。W3事件 。虫 プロの版権 部門 を独立 させた会社 「虫 プロ商事 」を発足 する。 - 1967
年 -虫 プロ商事 は月刊 誌 『COM』を刊行 開始 し、同誌 に「火 の鳥 」の連載 を開始 。 - 1968
年 (40歳 ) -虫 プロ商事 制作 のテレビ番組 「バンパイヤ」がフジテレビ系 で放送 開始 。漫画 制作 のための手塚 プロダクションを設立 。 - 1969
年 -大人 のための劇場 用 長編 アニメーション「千 夜 一夜 物語 」を公開 。 - 1970
年 - 『火 の鳥 』で第 1回 講談社 出版 文化 賞 の児童 まんが部門 で受賞 。日本 万国博覧会 (大阪 万博 )にて「フジパンロボット館 [注釈 22]」をプロデュース。少年画報社 の「週刊 少年 キング」誌 連載 の『アポロの歌 』に過度 の性的 描写 があるとして、一部 地域 で青少年 に対 する発売 禁止 を受 ける。 - 1971
年 -虫 プロ社長 を退任 。(虫 プロ商事 の社長 は継続 )。手塚 プロダクション動画 部 を作 り、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作 し、朝日放送 (現 :朝日放送 テレビ。TBS系列 )で放送 。 - 1972
年 -『ブッダ』を連載 開始 。 - 1973
年 (45歳 ) -虫 プロ商事 とそれに続 いて虫 プロダクションが倒産 。虫 プロダクションの経営 から手 を退 いた後 も、手塚 は個人 で多額 の債務 保証 を行 っていたため債権 者 に追 われる身 となるが、知人 の葛西 健蔵 (現 ・アップリカ・チルドレンズプロダクツ会長 )が後見人 となり、版権 の散逸 は免 れた。11月19日 、『週刊 少年 チャンピオン』にて『ブラック・ジャック』の連載 開始 。 - 1974
年 -練馬 区 から杉並 区 下井草 に引 っ越 す。 - 1975
年 -漫画 作品 『ブッダ』、『動物 つれづれ草 』により第 21回 文藝春秋 漫画 賞 を受賞 。『ブラック・ジャック』により第 4回 日本 漫画 家 協会 賞 特別 優秀 賞 を受賞 。 - 1977
年 -漫画 作品 『三 つ目 がとおる』、『ブラック・ジャック』により第 1回 講談社 漫画 賞 少年 部門 受賞 。講談社 『手塚 治虫 漫画 全集 』(当初 は第 1 -第 3期 の全 300巻 を予定 )刊行 開始 。 - 1978
年 (50歳 ) -日本 アニメーション協会 (Japan Animation Association = JAA)の初代 会長 となった。 - 1978
年 -日本 テレビ系 の夏 の「24時 間 テレビ」の中 で、日本 初 の単発 2時 間 枠 のスペシャルアニメ番組 「100万 年 地球 の旅 バンダーブック」を放送 。 - 1979
年 -児童 漫画 の開拓 と業績 により巖谷 小波 文芸 賞 受賞 。 - 1980
年 -東久留米 市 へ転居 。東宝 洋画 系 で劇場 用 長編 アニメーション「火 の鳥 2772」を公開 。サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞 受賞 。国際 交流 基金 のマンガ大使 として国連 本部 、米国 の大学 で現代 日本 のマンガ文化 について講演 。映画 『ヒポクラテスたち』に、大学 病院 の教授 役 でカメオ出演 する。 - 1983
年 (55歳 ) -漫画 作品 『陽 だまりの樹 』により第 29回 (昭和 58年度 )小学館 漫画 賞 (青年 ・一般 向 け部門 )受賞 。 - 1984
年 -実験 アニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際 アニメーション映画 祭 グランプリおよびユネスコ賞 を受賞 。 - 1985
年 -実験 アニメーション『おんぼろフィルム』が第 1回 国際 アニメーション映画 祭 広島 大会 グランプリ受賞 。東京 都民 文化 栄誉 章 受章 。漫画 家 生活 40周年 、『講談社 手塚 治虫 漫画 全集 』(当初 予定 した3期 分 全 300冊 )の完結 により、講談社 漫画 賞 特別 賞 受賞 。同年 7月 にフランスで開催 された「日 仏 文化 サミット85」(朝日新聞社 、フランス文化 省 、コミュニケーション国際 広場 CICOM主催 、日 仏 両国 外務省 後援 )に参加 。 - 1986
年 -漫画 作品 『アドルフに告 ぐ』により、第 10回 講談社 漫画 賞 一般 部門 受賞 。 - 1987
年 -愛知 県 岡崎 市 で開催 の地方 博覧 会 「葵 博 」の総合 プロデューサーを務 める。 - 1988
年 2月 13日 -朝日 賞 受賞 記念 講演 (東京 ・有楽町 朝日 ホール)、講演 題 「アニメーションと私 」。 - 1988
年 6月 4日 -高橋 健 、矢島 稔 、田中 栄治 らと「日本 昆虫 倶楽部 」を創設 し初代 会長 に[266]。 - 1988
年 (60歳 ) -戦後 マンガとアニメーション界 における創造 的 な業績 により朝日 賞 受賞 [267]。実験 アニメーション「森 の伝説 」で毎日 映画 コンクール大藤 賞 受賞 。ザグレフ国際 アニメーション映画 祭 CIFEJ賞 (青少年 映画 賞 )を受賞 。体調 悪化 により急遽 入院 (スキルス性 胃癌 と判明 するが本人 自身 には伝 えられず)。11月1日 に大阪教育大学 附属 池田 小学校 で生涯 最後 の講演 を行 う。 - 1989
年 2月 9日 -胃癌 により入院 中 の半蔵門 病院 にて午前 10時 50分 に死去 (60歳 没 )。戒名 は伯 藝 院 殿 覚 圓 蟲 聖 大 居士 。没後 に日本 政府 から勲 三 等 瑞宝章 叙勲 [268]。日本 SF作家 クラブ主催 第 10回 日本 SF大賞 特別 賞 受賞 。 - 1990
年 -東京 国立 近代 美術館 で回顧 展 。権威 ある美術館 で、没後 1年 足 らずで回顧 展 が開 かれた。国立 美術館 での漫画 家 の回顧 展 は空前 のことであるという。同年 、全 業績 に対 して第 19回 日本 漫画 家 協会 賞 文部 大臣 賞 を受賞 。 - 1993
年 -第 4期 講談社 手塚 治虫 全集 の刊行 を開始 (その後 1997年 12月に第 4期 の刊行 は完了 し、全部 で400冊 の全集 が完結 した)。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/04/Tezuka_museum.jpg/220px-Tezuka_museum.jpg)
- 1994
年 -兵庫 県 宝塚 市 に、宝塚 市立 手塚 治虫 記念 館 が4月 25日 に開館 した。これのメモリアル公演 として宝塚歌劇団 花 組 が第 80期生 初 の舞台 公演 として『ブラック・ジャック危険 な賭 け』『火 の鳥 』を上演 。 - 2002
年 -米 アイズナー賞 の「漫画 家 の殿堂 」入 り。同年 に日本 漫画 家 協会 と出版 社 5社 は手塚 治虫 の誕生 日 である11月3日 を「漫画 の日 」とすることを提唱 。 - 2004
年 -漫画 『ブッダ』の英訳 版 がアイズナー賞 の最優秀 国際 作品 部門 を受賞 。 - 2007
年 - 2008年 に生誕 80周年 を迎 えることを記念 して、手塚 治虫 作品 を読者 の手 で選 んで発行 する『手塚 治虫 O(オンデマンド)マガジン』のサービスが開始 される。 - 2008
年 -生誕 80周年 を記念 して小学 館 から過去 のコミックの特 装 版 、純金 製 アトムなどの商品 の発売 、出身 地 宝塚 でのイベント、アメリカ合衆国 サンフランシスコでの手塚 治虫 展 、広島 国際 アニメーションフェスティバル、東京国際映画祭 で過去 に自身 が手 がけたアニメ作品 が特集 されて上映 。 - 2009
年 -江戸 東京 博物館 で特別 展 「手塚 治虫 展 」開催 。 - 2009
年 10月 -講談社 『手塚 治虫 文庫 全集 』(全 200巻 )刊行 開始 。 - 2011
年 4月 28日 から6月 30日 -大阪大学 総合 学術 博物館 侍 兼山 修学 館 で、大阪大学 総合 学術 博物館 第 13回 企画 展 「阪大 生 ・手塚 治虫 -医師 か?マンガ家 か?-」開催 - 2012
年 -世田谷 文学 館 にて「地上 最大 の手塚 治虫 展 」開催 。 - 2013
年 -練馬 区立 石神井公園 ふるさと文化 館 にて特別 展 「鉄腕 アトム放送 50周年 記念 -鉄腕 アトムが飛 んだ日 」(開催 期間 :2013年 1月 19日 -3月24日 )。 - 2013
年 -愛知 県 岡崎 市 「おかざき世界 子 ども美術 博物館 」で「手塚 治虫 展 」。原稿 や愛用 品 など約 170点 を展示 (開催 期間 :2013年 4月 27日 -2013年 7月 15日 )。 - 2013
年 -東京 都 現代 美術館 で特別 展 「手塚 治虫 ×石ノ森 章太郎 マンガのちから」(2013年 6月 29日 - 9月8日 )。以降 、広島 県立 歴史 博物館 (2013年 11月15日 - 2014年 1月 5日 )、大阪 歴史 博物館 (2014年 1月 15日 - 3月 10日 )、山梨 県立 博物館 (2014年 3月 21日 - 5月19日 )、宮城 県 美術館 (2014年 5月 31日 - 7月 27日 )、長野 県 信濃 美術館 (2014年 10月 4日 -12月7日 ・予定 )を巡回 。 - 2014
年 -大学入試 センター試験 二日 目 (1月 19日 、日曜日 )の日本 史 Bの設問 に手塚 が取 り上 げられ、著書 や漫画 が使 われた。※注 :学校 用 教科書 に手塚 治虫 の文章 が掲載 された例 は在 命中 にも何 度 かある。 - 2014
年 4月 7日 -米 グーグルのWebサイト「歴史 アーカイブ(Google Cultural Institute)」に漫画 やアニメ作品 でたどる手塚 治虫 の生涯 が公開 。 - 2014
年 5月 16日 (?) - スペイン、バルセロナのコミックサロンで、手塚 治虫 作 「人間 昆虫 記 」が外国 作品 部門 で受賞 ※日本 漫画 作品 では初 の受賞 。 - 2014
年 7月 12日 から8月 31日 -滋賀 県立 近代 美術館 で「手塚 治虫 展 」(2014年 7月 12日 -8月 31日 )開催 。 - 2014
年 7月 25日 -漫画 『地底 国 の怪人 』の英訳 版 (The Mysterious Underground Men, by Osamu Tezuka(PictureBox))がアイズナー賞 の最優秀 国際 アジア作品 部門 を受賞 。 - 2014
年 7月 19日 から10月 5日 -湯前 まんが美術館 (熊本 県 球磨 郡 湯前 町 中央 公民館 (那須 良輔 記念 館 ))で「火 の鳥 連載 60周年 記念 阿蘇 と手塚 治虫 」展 (2014年 7月 19日 - 10月5日 )開催 。 - 2014
年 9月 5日 から9月 14日 -横浜 みなとみらいのブリリアショートショートシアターで、手塚 治虫 の実験 アニメーション特集 (2014年 9月 5日 - 9月14日 )。※「森 の伝説 第 二 楽章 」完成 記念 。初日 に手塚 眞 のトークショウ。※2014年 8月 21日 に第 15回 広島 国際 アニメーションフェスティバルでのワールドプレミア上映 に続 く一般 向 け公開 。 - 2014
年 11月3日 から11月9日 -東京 ・吉祥寺 の吉祥寺 ギャラリー・カイ(GALLERY KAI)で「手塚 治虫 の美女 画展 」開催 。 - 2015
年 2月 28日 から5月 10日 -京都 国際 マンガミュージアムで「医師 たちのブラック・ジャック展 」開催 。 - 2015
年 12月17日 から12月23日 -吉祥寺 リベストギャラリー創 で「手塚 治虫 文化 祭 〜キチムシ‘15〜」開催 。 - 2016
年 7月 30日 から8月 21日 -会津若松 市 歴史 資料 センター「まなべこ」で特別 企画 展 「手塚 治虫 と会津 」開催 。 - 2016
年 9月 10日 から11月13日 - さいたま市立 漫画 会館 1階 企画 展示 室 で「手塚 治虫 とっておきの漫画 」展 開催 。 - 2018
年 1月 25日 から3月 11日 - フランス・アングレーム美術館 で展覧 会 「Osamu Tezuka, Manga no Kamisama」開催 。 - 2018
年 7月 13日 から9月 2日 -台湾 台北 市 の誠 品書 店 敦 南 店 で「漫畫 之 神 -手塚 治虫 生誕 90年 紀 念 展 」開催 。「手塚 治虫 書店 」も出店 。 - 2019
年 4月 1日 -宝塚 市立 手塚 治虫 記念 館 がリニューアルオープン。 - 2019
年 1月 TVアニメ「どろろ」が放送 開始 - 2019
年 10月 1日 - キオクシアの「#世界 新 記憶 」第 1弾 として人工 知能 による手塚 治虫 新作 漫画 制作 プロジェクト「TEZUKA2020」(テヅカニーゼロニーゼロ)が発表 、タイトルは『ぱいどん』で2020年 2月 及 び4月 にモーニングで前 後編 が掲載 された[269][270]。 - 2020
年 9月 28日 -米国 の出版 社 ファンタグラフィックスが主催 する漫画 の賞 ハーヴェイ賞 (The Harvey Awards)の運営 委員 会 は、2020年 9月 28日 に手塚 治虫 に対 して殿堂 入 りクリエイターとして"Harvey Awards Hall of Fame"を授与 すると発表 。 - 2021
年 3月 24日 から4月 5日 -阪急 うめだ本店 9階 阪急 うめだギャラリーで「手塚 治虫 のクリエーション」開催 。
出演 番組 [編集 ]
- キャスター(
文化放送 ) - はばたけ!
真理 ちゃん(TBSテレビ天地 真理 が司会 ・主演 したミュージカルバラエティーで、人形 のキャラクターデザインを担当 した)
関連 人物 [編集 ]
家族 [編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bc/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E5%A4%AA%E9%83%8E.jpg/150px-%E6%89%8B%E5%A1%9A%E5%A4%AA%E9%83%8E.jpg)
アシスタント経験 者 [編集 ]
笹川 ひろし -竜 の子 プロダクションの創業 メンバーの一人 で、アニメ演出 家 である。手塚 治虫 の専属 アシスタント第 一 号 。古谷 三 敏 月岡 貞夫 - しのだひでお
久松 文雄 高須 れいじ小室 孝太郎 (本名 は小室 保孝 )北野 英明 三浦 みつる寺沢 武一 成田 アキラ小谷 憲一 岩田 廉太郎 池原 しげと石坂 啓 高見 まこ喜 国 雅彦 - わたべ
淳 吉住 純 大和田 夏希 - みやぞえ
郁雄 石川 球 太 井上 智 光山 勝治 馬場 秀夫 林 ひさお井上 大助 井上 英 沖 - きりえれいこ
大野 豊 堀田 あきお高井 研一郎 宮腰 義勝 (塚本 光治 、本名 は宮腰 )鈴木 光明 村野 守 美 - はらだ
蘭 (原田 千代子 ) 浜口 渉 -虫 プロ時代 のアシスタントの後 に手塚 プロの資料 室長 阿部 高明 上野 義幸 - きよみずあや
小杉 あきら- すみちあき
坪田 文太 杜 町 かなえ七瀬 カイ成田 マキホ平田 昭吾 平松 修 広井 てつお- やまだ
三平 福元 一義 斉藤 あきら- はっとりかずお
甲斐 謙二 福永 ヒロ伴 俊男 - あべこうじ
星城 朗 二 (田中 英二 )谷川 一彦 島崎 朝子 野村 正 (1982年 手塚 プロ入社 )山下 雄平 出雲 公 三 山本 広志 木本 佳子 安藤 正巳
トキワ荘 ・初台 時代 [編集 ]
安孫子 素 雄 (藤子 不二雄 Ⓐ) - 「漫画 少年 」連載 の『ジャングル大帝 』の最終 回 等 をアシスト藤本 弘 (藤子 ・F・不二雄 ) - トキワ荘 メンバーと共 に雑誌 未 掲載 の「ぼくのそんごくう」をアシスト石森 章太郎 (石ノ森 章太郎 ) -高校 時代 に光文社 「少年 」連載 の『鉄腕 アトム』「電光 人間 の巻 」など複数 をアシスト赤塚 不二夫 -石森 とともに「少女 クラブ」掲載 の『火 の鳥 (ギリシャ編 )』をアシスト(ペン入 れ)横山 光輝 - 「少年 」連載 の『鉄腕 アトム』をアシスト桑田 二郎 - 「少年 」連載 の『鉄腕 アトム』をアシスト永島 慎二 - 『丹下 左 膳 』をアシスト松本 零 士 - 『複眼 魔 人 』をアシスト
アニメーション制作 のスタッフ[編集 ]
中村 和子 (穴見 和子 ) -虫 プロ立 ち上 げ時 から多 くの商業 ・実験 作品 にアニメーターとして杉井 儀三郎 坂本 雄作 紺野 修司 杉山 卓 -演出 、チーフディレクター北野 英明 勝井 千賀雄 出崎 統 -虫 プロ出崎 哲 山本 暎一 -動画 、演出 、監督 林 重行 (りんたろう)坂口 尚 - アニメ関係 で手塚 治虫 の片腕 として活躍 伊藤 叡 (虫 プロでフィルム編集 )西崎 義 展 (虫 プロ商事 に在籍 していたことがある。また『海 のトリトン』『ワンサくん』のプロデューサー)富野 由 悠 季 (『鉄腕 アトム』で多数 の脚本 と演出 。また『海 のトリトン』の監督 )宮本 貞雄 赤堀 幹治 八田 陽子 -彩色 (杉山 卓 の実妹 とあるので。おそらく虫 プロ時代 は杉山 陽子 [要 出典 ])石郷岡 豪 柴山 達雄 高橋 良輔 安東 穂 夫 五味 明 永島 慎二 平田 敏夫 杉野 昭夫 川尻 善昭 正延 宏 三 瀬山 義文 瀬谷 新二 -手塚 プロのアニメーター・作画 監督 石井 元明 山本 繁 片岡 忠三 渡辺 恒 光 永 樹 凡人 香西 隆男 宇田 八郎 青木 茂 岡 迫 亘弘 田中 英二 -作画 ・原画 大島 やすいち河井 竜 古川 雅士 尾形 治 敏 小林 準 治 -後期 の実験 アニメの作画 を担当 豊田 有恒 (虫 プロ文芸 部 )石津 嵐 (虫 プロ文芸 部 )。磐 紀一郎 と同 一人物 下崎 闊(本名 :下関 闊(しもぜきひろし)、別名 :下崎 潤 、真佐美 ジュン、正 佐美 ジュン)雪 室 俊一 -脚本 鈴木 伸一 - テレビシリーズや劇場 作品 など星 新一 -文芸 部 辻 真先 (桂 真 佐 喜 名義 で多 くのアニメ作品 に脚本 家 として参加 )- やなせたかし -
虫 プロ「千 夜 一夜 物語 」の美術 担当 、自 絵本 作品 の劇場 アニメ化 版 「やさしいライオン」の製作 。 高井 達雄 -作曲 家 (ある街角 の物語 、虫 プロ鉄腕 アトム)冨田 勲 -作曲 家 (東映動画 『シンドバットの冒険 』、虫 プロ『新宝 島 』、虫 プロ『ジャングル大帝 』、『リボンの騎士 』、『どろろ』、『千 夜 一夜 物語 』、『クレオパトラ』、『展覧 会 の絵 』など)宇野 誠一郎 -作曲 家 (『W3』、『悟空 の大 冒険 』、『不思議 なメルモ』(オリジナル版 )、虫 プロ『アンデルセン物語 』)大野 雄二 -作曲 家 (『バンダーブック』、『海底 超 特急 マリン・エクスプレス』、『フウムーン』、『プライム・ローズ』)大野 松雄 - 『虫 プロアトム』の音響 効果 、音楽 監督 鈴木 清司 -手塚 プロ作品 の選曲 、音楽 監督 倉橋 静男 -手塚 プロ作品 の音響 効果 田代 敦 巳 -音響 ディレクター明 田川 進 -音響 ディレクター谷川 一彦 -作画 吉村 昌輝 横山 菁児 -虫 プロのアニメ「リボンの騎士 」などの画 の動 きに合 わせるオーケストラの演奏 の指揮 者 (音楽 団 :フールサウンズ)。
その他 、手塚 の創作 活動 を支 えた人物 [編集 ]
島方 道 年 (導 年 ) -明治製菓 を経 て、マネージャー兼 社長 室 部長 として旧 虫 プロに招 かれる。手塚 プロダクション初代 社長 。清野 正信 -虫 プロ商事 勤務 を経 て文民 社 に移籍 。葛西 健蔵 -育児 用品 メーカー「アップリカ」の創業 者 。旧 虫 プロ倒産 時 に面識 はなかったが恩人 と慕 う手塚 の再建 を支援 。その縁 で手塚 プロダクションの取締役 も務 めた。2017年 逝去 。『どついたれ』のモデルとされる。森 晴 路 -手塚 プロの社員 となり講談社 の手塚 治虫 全集 を担当 。のちに手塚 プロダクション資料 室長 。2016年 逝去 。古徳 稔 -晩年 のマネージャー。手塚 の没後 はアニメ製作 プロデューサーや出版 局長 を歴任 。2020年 逝去 。清水 義裕 - アルバイトとして手塚 プロに入 り、手塚 が指揮 するテレビスペシャルの制作 進行 を務 める。その後 正式 に入社 。2020年 現在 取締役 。
手塚 治虫 を演 じた俳優 [編集 ]
手塚 治虫 (本人 ) - ドラマ『バンパイヤ』(1968年 10月 - 1969年 3月 、フジテレビ)など、多数 。
- ドラマ
江守 徹 -銀河 テレビ小説 『まんが道 』『まんが道 青春 編 』(1987年 11月 - 12月・1988年 7月 - 8月 、NHK総合 )手塚 眞 - NHKスペシャル 『いのち わが父 ・手塚 治虫 』(1989年 4月 16日 、NHK総合 )古谷 一行 ・工藤 彰吾 -水曜 グランドロマン 『手塚 治虫 物語 いとしき生命 のために』(1990年 2月 7日 、日本 テレビ系列 )※DVD(東映 ビデオ、カラー、本編 90分 、品番 :DSTD03488)発売 。吉澤 拓 真 -土曜 ドラマ『天空 に夢 輝 き手塚 治虫 の夏休 み』(1995年 8月 19日 、NHK総合 )※DVD発売 。奥田 瑛二 -テレビ東京 開局 35周年 記念 番組 『永遠 のアトム・手塚 治虫 物語 』(1999年 4月 15日 )久野 雅弘 ・立澤 真明 -正月 特別 ドラマ『愛 と青春 の宝塚 』(2002年 1月 3日 ・4日 、フジテレビ)藤原 竜也 - フジテレビ開局 50周年 特別 企画 『わが家 の歴史 』(2010年 4月 9日 - 11日 、3夜 連続 スペシャルドラマ、脚本 :三谷幸喜 )※BD-BOX(2010年 10月 20日 )発売 。太田 光 (爆笑 問題 )『ドキュメンタリードラマ手塚 治虫 ×石ノ森 章太郎 』(2013年 7月 6日 ・13日 、NHK BSプレミアム)草 彅剛 - 『神様 のベレー帽 〜手塚 治虫 のブラック・ジャック創作 秘話 〜』(2013年 9月 24日 、フジテレビ)※DVD/BD発売 。岡田 斗 司 夫 - 『アオイホノオ』(2014年 、テレビ東京 ) ※カメオ出演 - バカリズム - 24
時 間 テレビドラマスペシャル『ヒーローを作 った男 石ノ森 章太郎 物語 』(2018年 8月 25日 、日本 テレビ系列 )
映画
北村 想 - 『トキワ荘 の青春 』(1996年 、カルチュア・パブリッシャーズ)※DVD(2009年 10月 28日 、品番 VPBT-15461)発売 。
舞台
中井 貴一 - 『陽 だまりの樹 』(1992年 、1995年 、1998年 )田中 れいな - 『リボーン〜命 のオーディション〜』(2011年 )
- ドキュメントバラエティ
春風 亭 昇 太 - 『超 大型 歴史 アカデミー100人 の偉人 ・天才 編 』(2007年 1月 5日 、日本 テレビ系列 )上地 雄輔 -未来 創造 堂 『シアター創造 堂 日本 漫画 加藤 謙一 』(2007年 1月 26日 、日本 テレビ系列 )
掲載 誌 の編集 者 [編集 ]
これはまだ
新井 善久 (講談社 「少女 クラブ」担当 編集 者 、『火 の鳥 』)※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。青木 和夫 (秋田 書店 「週刊 少年 チャンピオン」担当 編集 者 )阿久津 信道 (秋田 書店 「冒険 王 」と「漫画 王 」担当 編集 長 で『冒険 狂 時代 』『ぼくのそんごくう』。元 秋田 書店 取締役 編集 局長 、2007年 9月 12日 死去 ) ※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。阿久津 邦彦 (秋田 書店 「少年 チャンピオン」編集 者 )井岡 秀次 (講談社 「週刊 少年 マガジン」)伊藤 嘉彦 (秋田 書店 「週刊 少年 チャンピオン」担当 編集 者 (ブラックジャック4代目 担当 編集 者 )、現 ・幻冬舎 コミックス代表 取締役 社長 )内田 勝 (講談社 「週刊 少年 マガジン」)※少年 マガジン編集 長 。W3事件 参照 。大浦 静雄 (潮出版社 、7年間 『ブッダ』の連載 を担当 )大塚 公平 (秋田 書店 「週刊 少年 チャンピオン」副 編集 長 、映画 評論 家 )大和田 俊司 (秋田 書店 「週刊 少年 チャンピオン」編集 者 )岡本 三 司 (秋田 書店 「週刊 少年 チャンピオン」編集 者 )※『ブラック・ジャック』初代 担当 加藤 謙一 (学童 社 「漫画 少年 」)※戦前 に小学校 教師 から講談社 に転職 して「少年 倶楽部 」編集 長 になる。敗戦 で公職 追放 を受 けて個人 で学童 社 を興 していた。偶然 そこを訪問 した手塚 が携行 していた赤本 用 原稿 を見 て掲載 を決 めた結果 が長編 連載 漫画 『ジャングル大帝 』となった。壁 村 耐 三 (秋田 書店 「少年 チャンピオン」)※ 『ぼくのそんごくう』(秋田 書店 「冒険 王 」)連載 時 の編集 部員 で、のちに『ブラックジャック』連載 開始 時 の少年 チャンピオンの編集 長 。刈谷 政則 (大和 書房 )河野 安廣 (秋田 書店 「週刊 少年 チャンピオン」編集 者 )熊 藤男 (秋田 書店 「週刊 少年 チャンピオン」副 編集 長 )桑田 裕 (光文社 「少年 」担当 編集 者 )栗原 良幸 (講談社 週刊 少年 マガジン編集 者 「三 つ目 がとおる」)小林 鉦 明 (かねあき)(少年画報社 、秋田 書店 )志波 秀 宇(ひでたか)(小学 館 「ビッグコミック」)『地球 を呑 む』『きりひと賛歌 』※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。篠田 修一 (大 都 社 )※手塚 治虫 ファンクラブ顧問 も務 めた。戸田 利吉 郎 (少年画報社 )豊田 亀 市 (小学 館 「週刊 少年 サンデー」の初代 編集 長 、小学 館 「少年 サンデー」で『スリル博士 』『0マン』『キャプテンKen』『白 いパイロット』)※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。中村 一彦 (小学 館 「少年 サンデー」、どろろの担当 手塚 番 )長崎 尚志 ※「かつて手塚 先生 の担当 だったわたしは…」という文章 を「パイドン」の制作 発表 で寄稿 していることから,何 かの作品 編集 を担当 したらしいが,詳細 は不明 。牧野 武 朗 (講談社 「なかよし」初代 編集 長 、「週刊 少年 マガジン」の初代 編集 長 )※講談社 「少女 クラブ」担当 編集 者 のとき手塚 に連載 を依頼 (「リボンの騎士 」)。松岡 博治 (朝日 ソノラマ単行 本 「サンコミックス」、雑誌 「マンガ少年 」担当 編集 者 で、『鉄腕 アトム』『火 の鳥 』)※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。※元 メディアファクトリーコミック出版 事業 部 エグゼクティブプロデューサー。2023年 死去 [285]。松谷 孝 征 (たかゆき)(実業之日本社 「漫画 サンデー」編集 者 )※その後 1973年 から16年間 手塚 治虫 のマネージャーを務 め、請 われて1985年 4月 から手塚 プロダクション代表 取締役 社長 。※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。丸山 昭 (講談社 「少女 クラブ」担当 編集 者 で『リボンの騎士 』『火 の鳥 』(共 に少女 クラブ版 ))※著書 やインタビュー記事 のほか、「神様 の伴走 者 13+2」にも寄稿 あり。峯 島 正行 (実業之日本社 の編集 者 )- 『週刊 漫画 サンデー』の初代 編集 長 宮原 照夫 (講談社 「週刊 少年 マガジン」編集 長 (4代目 )、『W3(少年 マガジン版 )』『三 つ目 がとおる』『手塚 治虫 漫画 全集 』)※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。西村 繁男 (集英社 「週刊 少年 ジャンプ」)野口 勲 (虫 プロ商事 の編集 者 )橋本 一郎 (朝日 ソノプレス社 、朝日 ソノラマの編集 部 、元 少年画報社 編集 者 、「サンコミックス」創刊 編集 長 )福島 健夫 (編集 長 、実業之日本社 「漫画 サンデー」の編集 者 )鈴木 敏夫 (徳間書店 「コミックアンドコミック」「アニメージュ」の編集 )上野 明雄 (小学 館 「小学 一 年生 」「小学 三 年生 」の担当 編集 者 を経 て編集 長 )吉倉 英雄 (集英社 「月刊 少年 ジャンプ」編集 者 )長野 規 (集英社 の月刊 「おもしろブック」編集 員 、のちに週刊 少年 ジャンプ初代 編集 長 )黒川 拓 二 (元 少年 キング編集 長 で『ノーマン』『鬼丸 大将 』『紙 の砦 』『アポロの歌 』を担当 )※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。鈴木 五郎 (小学 館 「中学生 の友 」で『流星 王子 』『おお!われら三 人 』)※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。池田 幹生 (文藝春秋 「週刊文春 」で『アドルフに告 ぐ』)※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。石井 文男 (虫 プロ商事 「COM」二 代目 編集 長 で『火 の鳥 』(COM版 ))※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。鈴木 俊彦 (小学 館 「ビッグコミック」創刊 時 の編集 長 『地球 を呑 む』)※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。竹尾 修 (潮出版社 「希望 の友 」「少年 ワールド」「コミックトム」の編集 者 。『ブッダ』と絶筆 『ルードウィヒ・B』の担当 )※「神様 の伴走 者 13+2」に寄稿 あり。山崎 邦 保 (虫 プロ商事 「COM」創刊 編集 長 (1969年 3月 号 まで)で『火 の鳥 』(COM版 ))山本 順 也(小学館 )白井 勝也 (小学館 )御 木 基 宏 (小学館 )
世界 に手塚 作品 を紹介 した人物 [編集 ]
- フレデリック・L・ショット
手塚 治虫 の作品 を多数 翻訳 したほか、手塚 治虫 を含 めて日本 の漫画 を海外 に紹介 する書籍 を多数 書 いた。日本 に留学 で居住 していたことがあり、火 の鳥 の翻訳 作業 を最初 として手塚 と親交 関係 にあった。- 2017
年 に長年 の漫画 を通 じた国際 文化 交流 への功績 により2017年度 国際 交流 基金 賞 受賞 者 。
日本 国外 の作家 [編集 ]
- マウリシオ・デ・ソウザ
- ブラジルの
漫画 家 。 - 1984
年 に手塚 が国際 交流 基金 の文化 専門 家 派遣 事業 でブラジルを訪 れて以来 親交 をもち、手塚 がブラジルに行 く際 には必 ず彼 と会 い、その逆 もまた然 りであった。ソウザによると、手塚 は暴力 を作品 に導入 したことを大変 後悔 していたらしく、比較的 平和 的 なソウザの作風 を「漫画 はこうあるべきだ」と称 していた[286]。お互 いのキャラを一 つの作品 にクロスオーバーとして登場 させようとの計画 があったが、手塚 の死 で一時 断念 。しかし、ブラジルでも日本 の漫画 が出版 され、ソウザのキャラも日本 の漫画 風 にアレンジされた本 も出 されたことによって、計画 が再度 発動 、そして実現 する運 びとなった[287]。パロディやオマージュ、リメイクなどではなく、手塚 のキャラが公式 として他人 の作品 に登場 するのは史上 初 だといわれる。アマゾンの保護 を巡 るストーリーは2012年 2月 、3月に上下 巻 で発行 された。 手塚 側 のキャラは「リボンの騎士 」のサファイア、「ジャングル大帝 」のレオ、そして「鉄腕 アトム」のアトムなどである。- Mauricio de Sousa (2012). Turma da Monica Jovem: Tesouro Verde. Panini. ISBN 9788573518764
関連 項目 [編集 ]
手塚 プロダクション手塚 治虫 の作品 一覧 宝塚 市立 手塚 治虫 記念 館 手塚 賞 手塚 治虫 文化 賞 - Earth Dreaming〜ガラスの
地球 を救 え! - osamu moet moso
手塚 (小惑星 ) -手塚 治虫 に因 んで命名 された。月刊 手塚 治虫 マガジン -鉄腕 アトム誕生 年 記念 で2003年 5月 号 ~2005年 4月 号 まで刊行 された。(全 24号 )手塚 光 盛 -木曾 義仲 の家臣 、信濃 国 諏訪 手塚 城主 。光 盛 の後裔 を自称 している者 に、手塚 良 仙 や手塚 治虫 を始 めとした手塚 家 の一族 がいる[288]。手塚 良 運 -手塚 良 庵 の従兄弟 で、墓 が曹洞宗 興国 山 "清凉寺 "(茨城 県 石岡 市 )にある(黒沢 哲哉 「虫 ん坊 」2014年 2月 号 のコラム虫 さんぽより)。山吹 御前 -手塚 光 盛 の兄 ・盛 澄 の娘 であるという説 がある。詳細 は当該 項目 参照 。- Google Cultural Institute 「Osamu Tezuka」(
米 グーグル歴史 アーカイブ「手塚 治虫 」)[289]。
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^
生前 は1926年 生 まれと自称 していた(「現代 漫画 6巻 手塚 治虫 集 」〈筑摩書房 〉著者 紹介 など)。 - ^ a b c d テレビアニメとしてはそれ
以前 に『もぐらのアバンチュール』『新 しい動画 3つのはなし』『インスタントヒストリー』『おとぎマンガカレンダー』などが放映 されている。 - ^
初出 は開高 健 「マンガの神様 ・手塚 治虫 」(週刊 朝日 1964年 2月 21日 号 )。ちなみに、生前 の手塚 は著書 『ぼくはマンガ家 』のように、漢字 表記 の「漫画 」よりカタカナ表記 の「マンガ」を好 んで使 っていた。 - ^ ただし、
後述 の石原 実 は手塚 没 後 のインタビューで「手塚 がいじめっ子 を自宅 に呼 んで漫画 で懐柔 ・籠絡 した」とされる点 に疑問 を呈 している。石原 によると、同窓会 のたびに皆 で「おかしいなー」と言 っていたが、手塚 本人 に言 うと「『すまん、すまん』とケロッとして」いたという。(池田 啓 晶 他 『手塚 治虫 完全 解体 新書 』集英社 、2002年 、p238) - ^ なお、1947
年 の大阪 帝国 大学 から大阪大学 への名称 変更 に伴 い、医学 専門 部 も大阪大学 附属 医学 専門 部 と改称 された。 - ^
旧制 大学 と旧制 専門 学校 は明確 に区別 されており、旧制 専門 学校 卒業生 には学士 号 の授与 も行 われなかった。 - ^
徹夜 明 けであっても映画 館 に駆 け込 んだという。『観 たり撮 ったり映 したり』(手塚 治虫 著 ) - ^ ただし、アニメーション『
鉄腕 アトム』関係 者 へのき取 りと資料 の再 調査 を行 った津堅 信之 は実際 には「当初 は1本 155万 円 が代理 店 より制作 費 として支払 われていた」としている。津堅 によると、その後 も制作 料 は少 しずつ引 き上 げられており、「虫 プロは確実 に経営 努力 を実施 して、かつ結果 を得 ている。『『アトム』を55万 円 で作 ったから、その後 のアニメ制作 環境 が悪 くなった』という評価 がいまだにあるとすれば、短絡 的 であると言 わざるを得 ない。」としている(津堅 信之 『アニメ作家 としての手塚 治虫 ―その軌跡 と本質 』NTT出版 、2007年 )。 - ^ アニメーターの
大塚 康生 は、手塚 が一方 で理想 のアニメに憧 れながらも、遂 にそれを成 し遂 げられなかった原因 を、商業 主義 のためではなくて、手塚 がアニメの技術 について無知 だったからだとしている。「演技 設計 やアニメートに無 関心 では優 れたアニメーションになるはずがなかったように思 います。実際 、手塚 氏 はフル・アニメーションの基礎 技術 をディズニーなどの先達 に学 んだ形跡 がなく、ろくにアニメーターの養成 もせずに漫画 的 なリミテッドから出発 している点 も実 に不思議 です」(大塚 『作画 汗 まみれ増補 改訂 版 』P95「4章 テレビアニメーション時代 の幕開 け」) - ^ なお『どろろ』
作中 の妖怪 は水木 の影響 を受 けたと思 われる点描 が用 いられている(夏目 、151-152p)。 - ^
手塚 本人 は1971年 に経営 者 を退 いていた。 - ^ 1986
年 1月 10日 に『手塚 治虫 創作 の秘密 』がNHK総合 で放送 された[83]。 - ^
当時 の主治医 によれば、この時点 ですでにステージ4の段階 であり、腹膜 にまでがんが転移 していたという。しかし、癌 であること自体 は当時 の医療 慣習 により本人 には最後 まで告知 されず、胃潰瘍 と告 げられていた。 - ^
医師 法 第 八 条 の規定 に基 づき内閣 が制定 した医師 法 施行 令 の第 四 条 第 二 項 には「医師 が死亡 し、又 は失 そうの宣告 を受 けたときは、戸籍 法 (昭和 二 十 二 年 法律 第 二 百 二 十 四 号 )による死亡 又 は失 そうの届出 義務 者 は、三 十 日 以内 に、医籍 の登録 のまつ消 を申請 しなければならない。」とあり、また同 七 条 第 一 項 には「医師 は、医籍 の登録 のまつ消 を申請 するときは、住所 地 の都道府県 知事 を経由 して、免許 証 を厚生 労働 大臣 に返納 しなければならない。第 四 条 第 二 項 の規定 により医籍 の登録 のまつ消 を申請 する者 についても、同様 とする。」となっている。このため本来 は死亡 後 三 十 日 以内 に遺族 が医師 の免許 証 の返納 手続 きをとるべきなのであったが、記念 館内 に展示 保管 されているために悪用 されるおそれがないこと、医師 免許 証 に文化財 としての価値 があるという理由 で、法令 の本来 の規定 を超 えた特例 の措置 がなされた。 - ^ トレードマークの
縦縞 がなく、胸 の部分 に「OSAKA」と描 かれているデザイン。 - ^ この
机 は安孫子 の生家 である富山 県 氷見 市 の光禅寺 に保管 されている。 - ^
別 の対談 では、このとき手塚 は家 にいたが、母親 に「留守 です」と帰 されたとも語 っている - ^ ただし、
作中 で説明 されるのは井上 ひさしが1971年 に執筆 した戯曲 版 のストーリーである。 - ^ うしおそうじは
伝聞 としてほぼ同 じ内容 を著書 に記 している(ただし、最後 の「大阪 人 め」の箇所 が「贅六 め」という関西 人 への侮蔑 語 になっている)[225]。 - ^
手塚 は『ぼくはマンガ家 』において福井 の死去 が謝罪 から「一 カ月 ほどたって」と記 す一方 、謝 ったのは「綿 のような雪 の降 る日 」としており[224]、6月 下旬 に福井 が死去 した事実 とは食 い違 っている。 - ^ 2011
年 時点 で宮崎 は70歳 、手塚 の没年 は60歳 。 - ^ フジパンロボット
館 は閉幕 後 に愛知 青少年 公園 (現 ・愛 ・地球 博 記念 公園 )に移設 され、2005年 に愛 ・地球 博 でも展示 された。 - ^ なお、
治虫 の作品 に父親 の存在 が希薄 であることはしばしば指摘 されている。(桜井 、34p)
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手塚 眞 ブログ-:SUWA及 び Tezka Macoto' 6D -手塚 眞 ブログ-:DALI参照 。 - ^ [1]
参考 文献 [編集 ]
手塚 治虫 の自著 [編集 ]
手塚 治虫 『観 たり撮 ったり映 したり』キネマ旬報社 、1987年 。手塚 治虫 『ぼくのマンガ人生 』岩波 新書 、1997年 5月 20日 。手塚 治虫 『ぼくはマンガ家 』毎日新聞社 、1999年 2月 25日 。ISBN 978-4820543466。手塚 治虫 『ぼくはマンガ家 』毎日 ワンズ、2009年 2月 25日 。ISBN 978-4-901622-37-0。
それ以外 [編集 ]
石津 嵐 『秘密 の手塚 治虫 』太陽 企画 出版 、1980年 3月 。北 杜夫 『マンボウぱじゃま対談 :男性 かいぼう編 』集英社 、1978年 。呉 智英 『現代 マンガの全体 像 』情報 センター出版 局 、1986年 。桜井 哲夫 『手塚 治虫 -時代 と切 り結 ぶ表現 者 』講談社 現代新書 、1990年 6月 。ISBN 978-4-06-149004-8。桜井 哲夫 『廃墟 の残響 -戦後 漫画 の原 像 』NTT出版 、2015年 。竹内 オサム『手塚 治虫 -アーチストになるな-』ミネル ヴァ書房 〈ミネルヴァ日本 評伝 選 〉、2008年 8月 。ISBN 978-4623052516辰巳 ヨシヒロ『劇画 暮 らし』本 の雑誌社 、2010年 10月 。ISBN 978-4860112103。手塚 プロダクション『手塚 治虫 とキャラクターの世界 』三栄書房 、2013年 6月 。ISBN 978-4779618376。豊田 亀 市 著 「神様 独占 を志 した男 」、佐藤 敏章 編 『神様 の伴走 者 手塚 番 13+2』小学館 、2010年 9月 。ISBN 978-4093881494。夏目 房 之 介 『手塚 治虫 の冒険 戦後 マンガの神 々』筑摩書房 、1995年 。ISBN 978-4-480-81380-0。秦 郁 彦編著 『日本 陸海 軍 総合 事典 』(第 二 版 )東京大学 出版 会 、2005年 。山本 暎一『虫 プロ興亡 記 安 仁明 太 の青春 』新潮社 、1989年 4月 。ISBN 978-4-10-3733010。米澤 嘉博 『手塚 治虫 マンガ論 』河出書房新社 、2007年 7月 。ISBN 978-4-309-26959-7。
外部 リンク[編集 ]
手塚 プロダクション手塚 治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL公式 ウェブサイト手塚 治虫 (tezukaosamu.net) - Facebook宝塚 市立 手塚 治虫 記念 館 (開館 1994年 4月 25日 )- Google
歴史 アーカイブ手塚 治虫 - 「
倉田 わたるのミクロコスモス」“手塚 治虫 漫画 全集 ”解説 総 目録 手塚 治虫 のすべて手塚 治虫 - NHK人物 録 手塚 治虫 - メディア芸術 データベース手塚 治虫 アニメワールド - ニコニコチャンネル黒沢 哲哉 :「手塚 治虫 、アニメにかけた情熱 のルーツを綴 る!!」(虫 ん坊 、コラム「手塚 マンガあの日 あの時 」第 24回 )虫 マップ ー手塚 治虫 ゆかりの地 を訪 ねてー- 『
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手塚 治虫 』 - コトバンク