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手塚てづか治虫おさむ

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てづか おさむ
手塚てづか 治虫おさむ
1951年
本名ほんみょう 手塚てづか おさむおなじ)
生誕せいたん (1928-11-03) 1928ねん11月3にち
日本の旗 日本にっぽん大阪おおさか豊能とよのぐん豊中とよなかまち
死没しぼつ (1989-02-09) 1989ねん2がつ9にち(60さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう千代田ちよだこうじまち半蔵門はんぞうもん病院びょういん[1]
職業しょくぎょう 漫画まんがアニメ監督かんとく医師いし
称号しょうごう くんさんとう瑞宝章ずいほうしょう
医学いがく博士はかせ
奈良県立医科大学ならけんりついかだいがく1961ねん
活動かつどう期間きかん 1946ねん - 1988ねん
ジャンル 少年しょうねん漫画まんが
少女しょうじょ漫画まんが
青年せいねん漫画まんが
代表だいひょうさくしん寶島たからじま
ジャングル大帝たいてい
鉄腕てつわんアトム
リボンの騎士きし
とり
どろろ
ブッダ
ブラック・ジャック
みっがとおる
アドルフに
受賞じゅしょう
サイン
公式こうしきサイト 手塚てづか治虫おさむ公式こうしきweb
手塚てづか治虫おさむ公式こうしきfacebook
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手塚てづか 治虫おさむ(てづか おさむ、1928ねん[注釈ちゅうしゃく 1]11月3にち - 1989ねん2がつ9にち)は、日本にっぽん漫画まんがアニメ監督かんとく医師いし勲等くんとうくんさんとう学位がくい医学いがく博士はかせ奈良県立医科大学ならけんりついかだいがく1961ねん)。本名ほんみょう手塚てづか おさむおなじ)。

戦後せんご日本にっぽんにおいてストーリー漫画まんが第一人者だいいちにんしゃとして、漫画まんが表現ひょうげん開拓かいたくしゃてき存在そんざいとして活躍かつやくした。兵庫ひょうごけん宝塚たからづか出身しゅっしん同市どうし名誉めいよ市民しみん[2]出生しゅっしょう大阪おおさか豊能とよのぐん豊中とよなかまち大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく医学いがくせん門部かとべ卒業そつぎょう

概要がいよう[編集へんしゅう]

大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく医学いがくせん門部かとべ在学ざいがくちゅうの1946ねん1がつ1にち4コマ漫画まんが『マアチャンの記帳きちょう』(『しょう国民こくみん新聞しんぶん連載れんさい)で漫画まんがとしてデビュー。1947ねん酒井さかいななうま原案げんあんえがろし単行本たんこうぼんしん寶島たからじま』がベストセラーとなり、大阪おおさか赤本あかほんブームをこす。1950ねんより漫画まんが雑誌ざっし登場とうじょう、『鉄腕てつわんアトム』『ジャングル大帝たいてい』『リボンの騎士きし』といったヒットさく次々つぎつぎがけた。

1963ねん自作じさくをもとに日本にっぽんはつとなる30ふんわくテレビアニメシリーズ[注釈ちゅうしゃく 2]鉄腕てつわんアトム』を制作せいさく現代げんだいにつながる日本にっぽんのテレビアニメ制作せいさく多大ただい影響えいきょうおよぼした。1970年代ねんだいには『ブラック・ジャック』『みっがとおる』『ブッダ』などのヒットさく発表はっぴょう。また晩年ばんねんにも『とり』『だまりの』『アドルフにぐ』など青年せいねん漫画まんがにおいても傑作けっさくす。デビューから1989ねん平成へいせい元年がんねん2がつ)に死去しきょするまでだい一線いっせん作品さくひん発表はっぴょうつづけ、存命ぞんめいちゅうから「マンガの神様かみさま」とひょうされた[注釈ちゅうしゃく 3]

藤子とうこ不二雄ふじお藤子とうこ・F・不二雄ふじお藤子とうこ不二雄ふじお)、石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう赤塚あかつか不二夫ふじお横山よこやま光輝みつてる水野みずの英子えいこ矢代やしろまさこ萩尾はぎお望都もとなどをはじめすうおおくの人間にんげん手塚てづか影響えいきょうけ、接触せっしょく漫画まんがこころざした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう[編集へんしゅう]

手塚てづか治虫おさむ本名ほんみょう)は1928ねん11月3にち大阪おおさか豊能とよのぐん豊中とよなかまちげん豊中とよなか本町ほんまち付近ふきんに、ちち手塚てづかつばら(てづかゆたか・1900ねん - 1986ねん5月14にち[3])とはは文子ふみこ1909ねん - 1983ねん)の長男ちょうなんとしてまれた。明治めいじぶしまれたことから「明治めいじ」にちなんで「」とづけられた[4]。3にん兄弟きょうだい長男ちょうなんであり、おとうと手塚てづかひろし1930ねん - )、いもうと宇都うと美奈子みなこ1932ねん - 2015ねん)。

1933ねんが5さいとき一家いっかは、1932ねん他界たかいした祖父そふおわりとした兵庫ひょうごけん川辺かわべぐん小浜おばまむらげん宝塚たからづか川面かわづら(かわも)の邸宅ていたくうつんだ。このころの寶塚たからづかげん宝塚たからづかは、小林こばやし一三かずみ箕面みのお有馬ありま電気でんき軌道きどう乗客じょうきゃく増加ぞうかねらって田園でんえん風景ふうけいなか開発かいはつした新興しんこう住宅じゅうたく散在さんざいして、その中心ちゅうしん宝塚たからづか少女しょうじょ歌劇かげきだんげん宝塚歌劇団たからづかかげきだん本拠地ほんきょちである宝塚たからづかだい劇場げきじょう宝塚たからづかファミリーランド前身ぜんしんである宝塚たからづかしん温泉おんせん宝塚たからづかルナパークなどの行楽こうらく施設しせつならんで、一種いっしゅ空間くうかん形作かたちづくっていた[5]宝塚たからづか人工じんこうてき近代きんだい都市とし風景ふうけい手塚てづか作品さくひん世界せかい形成けいせいおおきな影響えいきょうおよぼしたとかんがえられる[6]

ちち宝塚たからづかホテルなかつくられた宝塚たからづか倶楽部くらぶ会員かいいんであり、ときどきちちれられて宝塚たからづかホテルのレストランで食事しょくじをして、ははには宝塚たからづか少女しょうじょ歌劇かげきだんれていってもらっていた[7]。また手塚てづか隣家りんか宝塚たからづか少女しょうじょ歌劇かげきだん男役おとこやくトップスターである天津てんしん乙女おとめ本名ほんみょう鳥居とりい榮子えいこ)と雲野うんのかよ本名ほんみょう鳥居とりい華子はなこ)と池邊いけべ鶴子つるこ本名ほんみょう鳥居とりい久代ひさよ姉妹しまい鳥居とりいであり、宝塚音楽学校たからづかおんがくがっこう入学にゅうがくしたいむすめ保護ほごしゃとともにひゃく光景こうけいがよくられるなど、宝塚たからづか少女しょうじょ歌劇かげきだん女性じょせいせっする機会きかいおおかった[8]。のちに手塚てづかは、初恋はつこい相手あいて宝塚たからづか少女しょうじょ歌劇かげきだん生徒せいとだったこと、宝塚たからづか生徒せいとたいがために宝塚たからづかだい劇場げきじょうとおったこと、月丘つきおか夢路ゆめじ淡島あわしま千景ちかげのような鉄火てっかはだ女性じょせいこのみであること、月丘つきおか主演しゅえん大映だいえい映画えいが新雪しんせつ』(1942ねん)を20すうかいたことをかたっている[9]

1935ねん池田いけだ師範しはん学校がっこう附属ふぞく小学校しょうがっこうげん大阪教育大学おおさかきょういくだいがく附属ふぞく池田いけだ小学校しょうがっこう,ただし移転いてんにより当時とうじとは場所ばしょことなる)入学にゅうがくした。両親りょうしん東京とうきょう出身しゅっしんであったこともあり、近畿きんき方言ほうげんはなせずいた存在そんざいであった。しかし、おさないころからようまねでえがいていた漫画まんがすくうことになる。小学しょうがく3年生ねんせいのときに、最初さいしょ漫画まんが「ピンピンなまチャン」を完成かんせいさせると、その漫画まんが練習れんしゅう[10]小学しょうがく5年生ねんせいのころには長編ちょうへん漫画まんがささえよる」を完成かんせいどう作品さくひんは、仲間なかまないのみならず学校がっこう教師きょうしのあいだでも話題わだいになるほどであり、以後いご教師きょうしからも漫画まんがえがくことを黙認もくにんされるようになったという[11]漫画まんがえがくことで同級生どうきゅうせいたちからも一目いちもくかれ、また漫画まんが目当めあてにいじめっ手塚てづかいえおとずれるようになるなどして次第しだいにいじめはなくなった。誕生たんじょうにはいえに20にんもの友人ゆうじんあつまるほどになっていた[12][注釈ちゅうしゃく 4]友人ゆうじんいえると、紅茶こうちゃ菓子かしでもてなされ、誕生たんじょうには五目ごもく寿司ずし茶碗蒸ちゃわんむがふるまわれた[12]。この当時とうじえがいた漫画まんが一部いちぶいまでも記念きねんかん保存ほぞんされている[13]

この時期じきに、同級生どうきゅうせい石原いしはらみのるのち大阪おおさか淀屋橋よどやばし石原いしはら時計とけいてん社長しゃちょう)としたしくなり、かれ影響えいきょうけて昆虫こんちゅう科学かがく天文学てんもんがく興味きょうみをもつようになる[14]手塚てづか邸宅ていたくひろにわ昆虫こんちゅう宝庫ほうこであり[15]、また周囲しゅうい田園でんえん地帯ちたいにもむし豊富ほうふにいて、昆虫こんちゅう採集さいしゅうには最適さいてき環境かんきょうだったことから、趣味しゅみたいふかみをもたせた[16]友人ゆうじんからりた平山ひらやま修次しゅうじろう原色げんしょくせんしゅ昆蟲こんちゅう図譜ずふ』をみ、甲虫かぶとむしオサムシ存在そんざいり、それにちなんで、この時期じきからペンネームとして「手塚てづか治虫おさむ」を使つかはじめた。1950ねんごろまでは、「治虫おさむ」はそのまま「おさむ」とませていた[17]

青年せいねん[編集へんしゅう]

1941ねん大阪おおさか府立ふりつ北野中きたのなか学校がっこうげん大阪おおさか府立ふりつ北野きたの高等こうとう学校がっこう入学にゅうがく日本にっぽんささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそうっただなか軍事ぐんじいろつよまっていった時期じきであり、小学校しょうがっこう時代じだいとは一転いってんし、漫画まんがえがいているのを学校がっこう教練きょうれん教官きょうかんつかりなぐられるなどしている[18]。この時期じき仲間なかまないつくった同好どうこうかい会誌かいしなどで漫画まんが執筆しっぴつする一方いっぽうで、手塚てづかばん原色げんしょく甲蟲かぶとむし圖譜ずふ」などイラストレーションによる図鑑ずかん自作じさくするなど精力せいりょくてき活動かつどうする。

だい世界せかい大戦たいせん末期まっきの1944ねんなつにはからだよわものあつめられる強制きょうせい修練しゅうれんしょれられた。9月からは学校がっこうくかわりに軍需ぐんじゅ工場こうじょうりだされ[18]、ここで格納庫かくのうこ屋根やねにするスレートつくった[19]

1945ねん3がつ修業しゅうぎょう年限ねんげん短縮たんしゅくにより北野きたの中学ちゅうがくを4ねん卒業そつぎょう旧制きゅうせい浪速なにわ高等こうとう学校がっこうげん大阪大学おおさかだいがく)を受験じゅけんしたものの、漫画まんがばかりえがいていたため、合格ごうかくとなった[20]。6月、勤労きんろう奉仕ほうし監視かんしをしていたときに大阪大おおさかだい空襲くうしゅう遭遇そうぐう頭上ずじょう焼夷弾しょういだん投下とうかされるも九死きゅうし一生いっしょう[21]。この空襲くうしゅう手塚てづかげん体験たいけんともいうべきものとなり、のちに『かみとりで』(1974ねん)や『どついたれ』(1979ねん - 1980ねん)などの自伝じでんてき作品さくひんなかにその様子ようすえがかれている[22]。この体験たいけん以降いこう手塚てづか工場こうじょうくのをやめ、いえにこもってひたすら漫画まんがえがくようになった[23]

同年どうねん7がつ手塚てづか大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく医学いがく専門せんもん試験しけんけ、入学にゅうがく許可きょかされた[注釈ちゅうしゃく 5]医学いがく専門せんもんは、戦争せんそう長期ちょうきともない、軍医ぐんい速成そくせいのため正規せいき医学部いがくぶとはべつ臨時りんじ大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく学内がくない付設ふせつされたもので、学制がくせいうえ旧制きゅうせい医学いがく専門せんもん学校がっこうであり[注釈ちゅうしゃく 6]、したがって旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこうからの入学にゅうがく可能かのうであった[24]大阪大学おおさかだいがくきゅう大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく医学いがくせん門部かとべは1951ねん廃止はいしされている。なお後述こうじゅつとお医師いし国家こっか試験しけんについてはジャングル大帝たいてい鉄腕てつわんアトムなど連載れんさい執筆しっぴつをしながら合格ごうかくしている。

デビュー、赤本あかほん世界せかい[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん学生がくせいである手塚てづか戦時せんじちゅうえがめた長編ちょうへんなかから『幽霊ゆうれいおとこ』(『メトロポリス』の原型げんけい)という長編ちょうへん毎日新聞まいにちしんぶん学芸がくげいおくった[25]。これは音沙汰おとさたなしにわったが、その手塚てづかいえならびに、花里はなざといさという宝塚たからづかのスターがいて、そのめいにあたる女性じょせい毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ秘書ひしょ勤務きんむしており[26]、その紹介しょうかいで、子供こどもけの『しょう国民こくみん新聞しんぶん』(げん毎日まいにち小学生しょうがくせい新聞しんぶん学芸がくげい程野ほどのという人物じんぶつ[27]かれ依頼いらいけて『しょう国民こくみん新聞しんぶん』の大阪おおさかばんに4コマ漫画まんがマアチャンの記帳きちょう』を連載れんさい(1946ねん1がつ1にち - 3月31にち)、この作品さくひん手塚てづかのデビューさくとなった。この『マアチャン』はローカルながら人気にんきがあり、人形にんぎょう駄菓子だがしキャラクター使用しようされたという記録きろくのこっている[28]。『マアチャン』につづけて4がつから『京都きょうとにちにち新聞しんぶん』に4コマ漫画まんがちんねんきょうちゃん』を連載れんさいしており、これらと並行へいこうして4コマ形式けいしき連載れんさい長編ちょうへん作品さくひん『AチャンBチャン探検たんけん』『火星かせいからおとこ』『ロストワールド』(後述こうじゅつするものとは別物べつもの)なども各紙かくしえがかれているが、4コマ連載れんさいという形式けいしき限界げんかいがあり、こう2しゃはどちらも中断ちゅうだんちかいかたちでわっている[28]

本人ほんにんかたるところによれば、漫画まんがとしてのデビューは、戦時せんじの1944ねん昭和しょうわ19ねん)にえがいた大政たいせい翼賛よくさんかいの「桃太郎ももたろう」であるという[29]。しかしながら、現物げんぶつはみつかっていない。

漫画まんがとしてデビューするまえの1945ねんごろ、2代目だいめかつらはるだん地方ちほうでの自主じしゅ興行こうぎょうおこなさいのポスター提供ていきょうした[30]現物げんぶつ宝塚たからづか市立しりつ手塚てづか治虫おさむ記念きねんかん展示てんじされている)。2代目だいめはるだん宝塚たからづか清荒神きよしこうじん在住ざいじゅうということもあり、親交しんこうかさねるうち、手塚てづか漫画まんが志望しぼうという進路しんろあんじ、落語らくごになるようすすめたという。

1946ねん同人どうじん『まんがマン』の例会れいかいつうじて後見こうけんやく酒井さかいななうまい、酒井さかいから長編ちょうへんストーリー漫画まんが合作がっさくはなしちかけられる[31]。これは戦後せんごはつ豪華ごうかほん企画きかくでもあり、それまで長編ちょうへん漫画まんがえがめていた手塚てづかとしてはねがってもないはなしであった[32]。こうして大雑把おおざっぱ構成こうせい酒井さかいおこない、それをもと手塚てづか自由じゆうえがくというかたちで200ページのえがろし長編ちょうへんしん寶島たからじま』が制作せいさくされた[33]。1947ねん1がつ出版しゅっぱんされると、当時とうじとしては異例いれいベストセラーとなった。映画えいがてき構成こうせいとスピーディな物語ものがたり展開てんかいをもつ『新寶しんぽうとう』は、一般いっぱん戦後せんごストーリー漫画まんが原点げんてんとしてとらえられている[34][35]後段こうだん#新寶しんぽうとう新宝しんぽうとう)の革新かくしんせい参照さんしょう)。

ベストセラーとなった『新寶しんぽうとう』は大阪おおさか赤本あかほんブームをこし、手塚てづかはこれにってえがろし単行たんこうほんのかたちで長編ちょうへん作品さくひん発表はっぴょうできるようになった[36]手塚てづかいそがしくなり、これまでにえがめてきた長編ちょうへんをもとに、学業がくぎょうのかたわらがつに1、2さつ作品さくひんえがげなければならなくなった[37]。1947ねん発表はっぴょうされた『火星かせい博士はかせ』『怪人かいじんコロンコ博士はかせ』『キングコング』などは子供こどもけを意識いしきしたBきゅう映画えいがてき作品さくひんであったが、1948ねんの『地底ちていこく怪人かいじん』からは悲劇ひげきてき展開てんかいれるようになり、SF冒険ぼうけんなどを題材だいざい作品さくひんちゅうでさまざまなこころみがおこなわれた。同年どうねんまつえがかれた『ロストワールド』では様々さまざま立場たちば人物じんぶつから地球ちきゅう規模きぼ壮大そうだい物語ものがたりえがかれ、つづく『メトロポリス』(1949ねん)『きたるべき世界せかい』(1951ねん)とともに手塚てづか初期しょき代表だいひょうするSFさんさくをなしている[38]。1949ねん西部せいぶげき拳銃けんじゅう天使てんし』では児童じどう漫画まんがはつキスシーンえが[39]。1950ねんには文豪ぶんごうゲーテの『ファウスト』を漫画まんがしたほか、「映画えいが制作せいさく舞台裏ぶたいうらをおせします」という導入どうにゅうはじまる『ふしぎ旅行りょこう』、自身じしん漫画まんが手法しゅほう体系たいけいしてしめした漫画まんが入門にゅうもんしょ先駆せんくてき作品さくひん漫画まんが大学だいがく』などを発表はっぴょうしている。

医師いし合格ごうかく[編集へんしゅう]

漫画まんが執筆しっぴついそがしくなると大学だいがく単位たんい取得しゅとくむずかしくなり、手塚てづか医業いぎょう漫画まんがとのちはあきらめざるをなくなった。教授きょうじゅからも「医者いしゃになるよりも漫画まんがになるように」と忠告ちゅうこくされ、またはは後押あとおしもあって、手塚てづか専業せんぎょう漫画まんがとなることをめる[40]。もっとも学校がっこうめたわけではなく、1951ねん3がつ医学いがく専門せんもん卒業そつぎょう(5ねんせい、1ねん留年りゅうねん。このとし専門せんもん廃止はいしされたため最後さいご卒業生そつぎょうせいとなった)、さらに大阪大学おおさかだいがく医学部いがくぶ附属ふぞく病院びょういんで1年間ねんかんインターンつとめ、1952ねん3がつだいじゅうかい医師いし国家こっか試験しけん合格ごうかく、1953ねん9がつ18にち医籍いせき登録とうろくされている[41]

このため、のち手塚てづか自伝じでん『ぼくはマンガ』のなかで、「そこで、いまでも本業ほんぎょう医者いしゃで、副業ふくぎょう漫画まんがなのだが、だれみょうかおをして、この事実じじつみとめてくれないのである」とべている[42]

雑誌ざっし連載れんさい開始かいし[編集へんしゅう]

大泉おおいずみアニメゲートに設置せっちされている「ねりまアニメ年表ねんぴょう」のいちコマ。

手塚てづか大阪おおさか赤本あかほん漫画まんがえがくかたわら、東京とうきょうへのみもおこなっている。当初とうしょ期待きたいした講談社こうだんしゃではことわられたが、新生しんせいかくという出版しゅっぱんしゃみが成功せいこうし、ここでいくつかりをえがいたのちしん創刊そうかんされた雑誌ざっし少年しょうねん少女しょうじょ漫画まんがもの』に1950ねん4がつより『タイガー博士はかせちん旅行りょこう』を連載れんさい、これが手塚てづか最初さいしょ雑誌ざっし連載れんさい作品さくひんとなった[43]同年どうねん11がつより雑誌ざっし漫画まんが少年しょうねん』(学童がくどうしゃ)にて『ジャングル大帝たいてい』の連載れんさい開始かいし、1951ねんには『鉄腕てつわんアトム』(1952ねん - )の前身ぜんしんとなる『アトム大使たいし』を『少年しょうねん』(光文社こうぶんしゃ)に連載れんさいするなど多数たすう雑誌ざっし連載れんさいはじめ、このとしには少年しょうねん漫画まんがのほとんどで手塚てづか漫画まんが連載れんさい開始かいしされた[44]。1953ねんには『少女しょうじょクラブ』(講談社こうだんしゃ)にて『リボンの騎士きし』の連載れんさい開始かいしした。宝塚歌劇たからづかかげきやディズニーからの影響えいきょうけたこの作品さくひんは、以後いご少女しょうじょ雑誌ざっしにおける物語ものがたり漫画まんが先駆さきがけとなった[45]。1954ねんには『ジャングル大帝たいてい連載れんさい完結かんけつのちけて『漫画まんが少年しょうねん』に『とり』の連載れんさい開始かいしした。『とり』のシリーズはその休刊きゅうかんとうによりCOM、マンガ少年しょうねん野性やせい時代じだい掲載けいさいえながら長年ながねんえががれ,手塚てづかのライフワークとなった。

1953ねん

月刊げっかん雑誌ざっし連載れんさいという形態けいたいは、手塚てづかがそれまでえがろし単行本たんこうぼんおこなってきた複雑ふくざつ物語ものがたり構成こうせい見直みなおしを余儀よぎなくさせ、読者どくしゃるための魅力みりょくてきなキャラクターづくりや単純たんじゅん物語ものがたり構成こうせいなどのさくげき方法ほうほう手塚てづかかわせることになった[46]一方いっぽうえがろし単行たんこうほんほうは1952ねんの『バンビ』『つみばち』の2さつわりをげるが、わりに郵便ゆうびんほう改正かいせいによってこの時期じき雑誌ざっし付録ふろく急激きゅうげき増加ぞうかし、手塚てづか連載れんさい作品さくひん並行へいこうして付録ふろく冊子さっしのかたちでえがろし長編ちょうへん作品さくひんをいくつもがけ、このかたちで単行たんこうほん時代じだい作品さくひん続々ぞくぞくリメイクされていった[47]

私生活しせいかつめんでは、1952ねん宝塚たからづかから東京とうきょう移住いじゅうし、さらによく1953ねんに『漫画まんが少年しょうねん編集へんしゅうからの紹介しょうかい豊島としまトキワそう入居にゅうきょ[48]した。そのトキワそうには、手塚てづかつづいて寺田てらだヒロオ藤子とうこ不二雄ふじお入居にゅうきょ手塚てづか自分じぶんんでいた14ごうしつ藤子とうこ不二雄ふじお二人ふたりゆずってトキワそうから転居てんきょしたが、その石森いしもり章太郎しょうたろうのち石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう改名かいめい)、赤塚あかつか不二夫ふじおなどのち著名ちょめい漫画まんがとなるものたちが続々ぞくぞく入居にゅうきょしたトキワそう漫画まんが梁山泊りょうざんぱくとなった。この時期じき手塚てづかはトキワそう漫画まんが映画えいがをたくさんるようにとすすめており、手塚てづか自身じしんじゅうすう年間ねんかんとしに365ほんかならていたという[注釈ちゅうしゃく 7]

なお、1953ねん手塚てづか関西かんさい長者ちょうじゃ番付ばんづけ画家がかでトップとなったが、仕事場しごとば木造もくぞう2かい建築けんちくのトキワそうであったため、取材しゅざい新聞しんぶん記者きしゃあきれられたので、以後いご意識いしきして高級こうきゅうひんむようにしたとかたっている[49]

鉄腕てつわんアトム』『ぼくのそんごくう』など児童じどう漫画まんが人気にんき作品さくひん連載れんさいをする一方いっぽうで、手塚てづかは1955ねん大人おとなけの漫画まんが雑誌ざっし漫画まんが読本とくほん』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ)に『だいさん帝国ていこく崩壊ほうかい』『昆虫こんちゅう少女しょうじょ放浪ほうろう』を発表はっぴょうしており、ここでは子供こどもけのまるっこい絵柄えがらとはちがった大人おとなけのタッチをこころみている[50]。1955ねんから1958ねんにかけての手塚てづか知的ちてき興味きょうみ全面ぜんめんした作品さくひんおおしており[50]、1956ねんにSF短編たんぺんシリーズ『ライオンブックス』をはじめたほか、学習がくしゅうに『漫画まんが生物せいぶつがく』『漫画まんが天文学てんもんがく』などの学習がくしゅう漫画まんが発表はっぴょう後者こうしゃだい3かい小学館しょうがくかん漫画まんがしょう(1957ねん)の対象たいしょう作品さくひんとなった。このほかにも幼年ようねん作品さくひん物語ものがたり小説しょうせつエッセイなど漫画まんがわくえた活動かつどうをするようになっており[51]、1958ねんには東映動画とうえいどうがげん東映とうえいアニメーション)の演出えんしゅつ白川しらかわ大作たいさくからわれて同社どうしゃ嘱託しょくたくとなり劇場げきじょうよう長編ちょうへん漫画まんが映画えいが西遊せいゆう』(『ぼくのそんごくう』が原作げんさく)の原案げんあん構成こうせいけもっている[52]

劇画げきがとのたたか[編集へんしゅう]

1961ねん

1958ねんごろより、かく漫画まんが桑田くわた次郎じろう武内たけうちつなよし横山よこやま光輝みつてるなどのれっ漫画まんが多数たすう出現しゅつげんしており、この時期じき手塚てづか人気にんきめんではそのような漫画まんがたちの一人ひとりぎなくなっていた[53]。さらに手塚てづかおどかしたのは、この時期じきあたらしく台頭たいとうしてきた劇画げきが存在そんざいであった。社会しゃかいやみをストレートにえが劇画げきが人気にんき当時とうじ手塚てづかおおいになやませ、階段かいだんからころちたり、大阪おおさか劇画げきが作家さっか拠点きょてんしかけ、集会しゅうかい参加さんかしたりした[54]

当初とうしょ劇画げきが雑誌ざっしにも連載れんさいをもつなどしていたが、手塚てづかアシスタントまでが貸本かしほん劇画げきがなんじゅうさつりてくるようになると、手塚てづかノイローゼおちいり、精神せいしん鑑定かんていけたという[55]。またすでに、1957ねんには『黄金おうごんのトランク』(『西日本にしにほん新聞しんぶん連載れんさい)で劇画げきがふうのタッチをこころみるなどしており、徐々じょじょ劇画げきが方法ほうほうろん自作じさくれていくようになる[56]

1959ねん週刊しゅうかんブームをけて週刊しゅうかん漫画まんが雑誌ざっし少年しょうねんマガジン』(講談社こうだんしゃ)および『少年しょうねんサンデー』(小学館しょうがくかん)が創刊そうかんされ、それ以後いご月刊げっかん少年しょうねん次第しだい姿すがたしていくことになった。このとき、手塚てづかさそいをけて小学しょうがくかん専属せんぞく作家さっかとなった(ただし、『少年しょうねんサンデー』初代しょだい編集へんしゅうちょう豊田とよだひさしは、契約けいやくりょう200-300まんえん当時とうじ)を提示ていじして専属せんぞく契約けいやくちかけたが、ことわられたと証言しょうげんしている[57]。)が、講談社こうだんしゃからもさそいをけて困惑こんわくし、結局けっきょく少年しょうねんサンデー』創刊そうかんごうには自身じしんによる『スリル博士はかせ』を連載れんさい、『少年しょうねんマガジン』のほうには連載れんさい13回分かいぶんしたえがきだけをして石森いしもり章太郎しょうたろうに『かいすぐるハリマオ』の連載れんさいをさせている[52]同年どうねん宝塚たからづかホテルにて結婚式けっこんしきげる。

アニメーション[編集へんしゅう]

アニメーション制作せいさくいたるまで
前述ぜんじゅつのとおり、幼少ようしょうからディズニー映画えいが愛好あいこうしていた手塚てづかは、もともとアニメーションちゅう:1960年代ねんだいぐらいまでは世間せけん一般いっぱんでは漫画まんが映画えいがばれていた)につよ関心かんしんっており、アニメーションの制作せいさく念願ねんがん仕事しごとであった。とく影響えいきょうけた作品さくひんはディズニーの『バンビ』(1942ねん米国べいこく公開こうかい)だが、これは日本にっぽんでは戦後せんごの1951ねんになって公開こうかいされた(ディズニーの『白雪姫しらゆきひめ』(米国べいこく公開こうかい1937ねん)や『ピノキオ』(米国べいこく公開こうかい1940ねん)も日本にっぽんでの公開こうかい戦後せんごになってのことである)。
日本にっぽん戦時せんじちゅうはディズニーやフライシャー兄弟きょうだいなど米国べいこくのアニメーションの公開こうかい禁止きんししていたが、1942ねん昭和しょうわ17ねん)に[58]戦時せんじちゅう日本にっぽんにおいてはじめて公開こうかいされた動画どうが作品さくひんであるアジアはつ劇場げきじょうよう長編ちょうへん動画どうが作品さくひん西遊せいゆう 鉄扇てっせん公主こうしゅまき』(中国ちゅうごく、1941ねん、73ふん、モノクロ)を感動かんどうした。戦後せんごずいぶんった1980ねん中国ちゅうごくおとずれたさいには上海しゃんはい美術びじゅつ映画えいが製作所せいさくしょ監督かんとくまん籟鳴と対面たいめんたしてまご悟空ごくうとアトムが握手あくしゅするイラストを制作せいさくした[59]
プロの漫画まんがになるまえ敗戦はいせんとしである1945ねん手塚てづかは、のこった大阪おおさか松竹しょうちくにおいて海軍かいぐんしょう製作せいさく長編ちょうへん漫画まんが映画えいが桃太郎ももたろう うみかみへい』を感涙かんるいし、このとき将来しょうらいかなら自分じぶん漫画まんが映画えいがつくることを決意けついしたという[60]戦後せんごの1946ねん昭和しょうわ21ねん)に上京じょうきょうしたさいにアニメータ募集ぼしゅうがみをみて漫画まんが映画えいが製作せいさく会社かいしゃ芦田あしだ漫画まんが製作所せいさくしょ」(芦田あしだいわお)に出向でむいて採用さいよう志願しがんしたがことわられている。
漫画まんが手塚てづかにとってアニメーション制作せいさく資金しきんるための手段しゅだんだった[61]評論ひょうろん大宅おおたく壮一そういちから(華僑かきょうのように出身しゅっしん大阪おおさかはなれて東京とうきょうかせぐという意味いみ揶揄やゆとして)「ばん僑」[62]あざけひょうされるほど漫画まんがえがいてかせぎまくった。またみずからを「ディズニーぐるい」としょうした。また前述ぜんじゅつのとおり、東映動画とうえいどうがからわれて嘱託しょくたく仕事しごと長編ちょうへん劇場げきじょうアニメーション映画えいが西遊せいゆう」(1960ねん)、原案げんあん手塚てづか治虫おさむ連載れんさい漫画まんが「ぼくのそんごくう」やきた杜夫もりおとの共同きょうどう脚本きゃくほんによる「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険ぼうけん」(1962ねん))をけている。
むしプロダクション設立せつりつ
1961ねん手塚てづか自分じぶんのプロダクションである手塚てづかプロダクション動画どうが設立せつりつ当初とうしょは6にんのスタッフからはじまった[63]最初さいしょ制作せいさくした作品さくひん『ある街角まちかど物語ものがたり』はスタッフの給料きゅうりょうから制作せいさくまですべてを手塚てづかえがいた漫画まんが原稿げんこうりょうまかない、1ねんをかけて40ぶんのカラー長編ちょうへんアニメーション作品さくひんで、ブルーリボンしょう文部省もんぶしょう芸術げいじゅつさい奨励しょうれいしょうなど数々かずかずしょう受賞じゅしょうする[63]。その1962ねん動画どうがは「むしプロダクション」と改名かいめいした。むしプロダクションは最盛さいせいには400にんえたかず正社員せいしゃいんようしていたという。
鉄腕てつわんアトム
むしプロダクションへの改名かいめい日本にっぽんはつとなる30ふんわくのテレビアニメーションシリーズ(当時とうじはテレビ漫画まんがわれた)[注釈ちゅうしゃく 2]鉄腕てつわんアトム』の制作せいさくりかかった。しかし当初とうしょ総勢そうぜい10めいにもたないスタッフでは毎週まいしゅうテレビ放送ほうそうようにディズニーのような枚数まいすうようするフルアニメーション番組ばんぐみ制作せいさくすることは作業さぎょうりょうめんからまったく不可能ふかのうであり、毎週まいしゅう放送ほうそう可能かのうにするために枚数まいすう大幅おおはば削減さくげんするためのさまざまなリミテッドアニメ手法しゅほう工夫くふうしてすにいたった。毎週まいしゅう放送ほうそうのアニメーション番組ばんぐみ実現じつげんするために(すでにアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションなどでも工数こうすうらしたリミッテッド・アニメーションの制作せいさくおこなわれていたがそれらも参考さんこうにして)試行錯誤しこうさくご創意そうい工夫くふうかさねてつくしたさまざまなリミテッド・アニメの手法しゅほう様式ようしきは、その日本にっぽんのアニメーション制作せいさく全般ぜんぱんおおきな影響えいきょうあたえることになる。むしプロの鉄腕てつわんアトムは、当時とうじ日本にっぽんのテレビアニメーションを代表だいひょうする大人気だいにんき作品さくひんになった。
大泉おおいずみアニメゲートに設置せっちされている「ねりまアニメ年表ねんぴょう」のいちコマ。
ジャングル大帝たいてい
1967ねんには自身じしん漫画まんが原作げんさくである『ジャングル大帝たいてい』がだい28かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいサンマルコぎん獅子しししょう受賞じゅしょうしている。1969ねんから「アニメラマさんさく」(さくクレオパトラ』を監督かんとく)が制作せいさくされる(ちゅう:アニメラマのだいいちさくせん一夜いちや物語ものがたり」とだいさくのクレオパトラの企画きかく制作せいさくには手塚てづかつよかかわっているが、さんさくのアニメラマ「かなしみのベラドンナ」は手塚てづかむしプロダクションをしたのちつくられた作品さくひん手塚てづかまった関与かんよをしていない)。これは従来じゅうらい子供こどもけアニメ映画えいがとはぎゃく位置いちにあり、成人せいじんけにつくられた劇場げきじょうようアニメーション映画えいがであった。
また、むしプロダクションはアニメーション監督かんとくとしては杉井すぎいギサブローりんたろう山本やまもと暎一出崎でさきみつる高橋たかはし良輔りょうすけ富野とみのゆかりゆう吉川よしかわそうなど、アニメーターとしては中村なかむら和子かずこ月岡つきおか貞夫さだお川尻かわじり善昭よしあき芦田あしだ豊雄とみお安彦やすひこ良和よしかず杉野すぎの昭夫あきお荒木あらき伸吾しんご北野きたの英明ひであき村野むらのまもる金山かなやま明博あきひろなど、制作せいさくしゃとしては丸山まるやま正雄まさお鈴木すずきりょうたけ岸本きしもとよしいさお田代たしろあつし清水しみずいたるただし若尾わかお博司ひろし八田はった陽子ようこあきら田川たがわすすむ酒井さかい明雄あきお布川ふかわゆうじなどのち日本にっぽん代表だいひょうするアニメーション制作せいさくしゃとなる人材じんざいおお輩出はいしゅつした。
低額ていがくなアニメ制作せいさく功罪こうざい
たとえリミテッド・アニメの手法しゅほうもちいるにしてもテレビ放送ほうそうの30ふんわくように(最低さいていレベルで)1ほんあたり2,000まいぶん動画どうが動画どうが(アニメーター)5めい担当たんとうし、一人ひとりが1にち66まい仕上しあげる[64]という苛酷かこく労働ろうどうじょうきょうつくられることとなった。また作品さくひんを1ほんにつき55まんえん[注釈ちゅうしゃく 8] という破格はかく製作せいさくんだことが制作せいさくくびめることになった。
手塚てづかがアニメの値段ねだんやすくしてんだのは、当時とうじ普通ふつうのテレビ番組ばんぐみ制作せいさくが50まん程度ていどであったことと、やすくすればスポンサーにれられやすくなることや、他者たしゃ競争きょうそう参入さんにゅうはばめるかんがえたからであったとかたるが[65]、これはのちに手塚てづか自身じしんが「だい失敗しっぱいだった」[65]みとめたように、結果けっかてきだい誤算ごさんであった。『アトム』のだい成功せいこう他者たしゃがこの分野ぶんや次々つぎつぎ参入さんにゅう開始かいししててい予算よさんおおくの番組ばんぐみ制作せいさくされ放映ほうえいされることになったのである[66]
しかし当初とうしょ経営けいえいくるしかったむしプロも『アトム』がだいヒットすると版権はんけん(マーチャンダイジング)収入しゅうにゅう莫大ばくだい利益りえきがるようになり、また海外かいがいけて作品さくひん放映ほうえいけん派生はせい商品しょうひん展開てんかいする権利けんり販売はんばいできたことなどにより、急速きゅうそく規模きぼ拡大かくだいしてゆき(最盛さいせいには社員しゃいん総数そうすう一時いちじは400めいから最大さいだい550めい規模きぼとなり)、『アトム』はむしプロダクションを黒字くろじにさせた[67]放送ほうそうが4年間ねんかんつづいた『鉄腕てつわんアトム』は放映ほうえい開始かいしから1ねんはん手塚てづか漫画まんが原作げんさくをほぼ使つかってしまい、そのむしプロ文芸ぶんげいのスタッフが独自どくじつくったエピソードは人気にんきるための戦闘せんとうえがかれる傾向けいこうつよまり、「鉄腕てつわんアトム」から手塚てづかこのんだアニメーションらしいユーモアがうしなわれていった[68][注釈ちゅうしゃく 9]
また、手塚てづか存命ぞんめいちゅうから「アニメーターの給料きゅうりょうやすいのは手塚てづかのせいである」と雑誌ざっし非難ひなんされることがあったが、手塚てづかはこう反論はんろんしている「しかしね、ぼく個人こじん我慢がまんならんのはね、こういうこえがあるんだよ。手塚てづかがあのアトムをとき、べらぼうな安値やすねできめてしまったから、現在げんざいまでテレビアニメは制作せいさくやすくて苦労くろうするんだと。冗談じょうだんじゃないよ。」「あの時点じてんでの制作せいさくはあれが常識じょうしきなんで、あのばいもふっかけようもんなら、まちがってもスポンサーはアトムをわなかったね。そうしたら、テレビアニメ時代じだいなんて夢物語ゆめものがたりだったろうね。」「たしかよんじゅうなんまん制作せいさくで、ぼくのしはじゅうまんくらいでしたかね。ところがアトムがべらぼうにあたったんで、アニメ番組ばんぐみはあたるということで、それから半年はんとしほどあとには、アニメものがたちまちバタバタとできたんだ。その制作せいさくは、なんとひゃくまんですよ!つまりそれだけしてもモトがとれておりがくると企業きぎょうんだんだ。それからさきはごらんとおりですよ。現在げんざい制作せいさくひゃくまんえん下限かげんで、ろくななひゃくまんえんぐらいはスポンサーがしますよ」[69]
また杉井すぎいギサブローは、手塚てづか治虫おさむ独自どくじのリミテッド・アニメの手法しゅほう日本にっぽん定着ていちゃくさせなければ日本にっぽん世界一せかいいちのテレビアニメ生産せいさんこくにはなっていなかったであろうともかたっている。
アート・アニメーションへの功績こうせき
一方いっぽうで、アート・アニメーション(手塚てづか自身じしん商業しょうぎょうアニメーションに対比たいひして「実験じっけんアニメーション」とっていた)の分野ぶんやにも功績こうせきのこしている。むしプロで「ある街角まちかど物語ものがたり」(1962ねん,38ふん)、「おす」(1962ねん)、「めもりい」(1964ねん)、「人魚にんぎょ」(1964ねん)、「タバコとはい」(1965ねん)、「しずく」(1965ねん)、「展覧てんらんかい」(1966ねん、33ふん)、「創世そうせい」(1968ねん)、その手塚てづかプロで「ジャンピング」(1984ねん)、「おんぼろフィルム」(1985ねん)、「プッシュ」(1987ねん)、「むらせい」(1987ねん)、「もり伝説でんせつ」(1987ねん,29ふん20びょう)、「自画像じがぞう」(1988ねん)と長編ちょうへん短編たんぺん商業しょうぎょう作品さくひん制作せいさくした。だい1かい広島ひろしま国際こくさいアニメーションフェスティバルグランプリに『おんぼろフィルム』がえらばれている(名誉めいよ会長かいちょうポール・グリモー審査しんさ委員いいんちょうラウル・セルヴェ選考せんこう委員いいんちょうアントワネット・モゼス)。むしプロ社内しゃないには社長しゃちょうであった手塚てづか発案はつあんにより、実験じっけん作品さくひん製作せいさく資金しきんたいして20まんえん助成じょせい制度せいどまでもうけられていた(手塚てづかによると、むしプロを設立せつりつしたのは本来ほんらい実験じっけんアニメーションの制作せいさくおこなうためであったとかたっている)。

低迷ていめい復活ふっかつ[編集へんしゅう]

アニメ制作せいさくして以降いこうも、手塚てづか漫画まんが作品さくひん精力せいりょくてき発表はっぴょうしていた。むしプロの成立せいりつ時期じき漫画まんが作品さくひんもアニメと関連かんれんした企画きかくおおくなっており、アニメーションと並行へいこうして『鉄腕てつわんアトム』原作げんさくばん連載れんさいや、日本にっぽんはつのカラーテレビアニメ『ジャングル大帝たいてい』に連動れんどうしてのどう作品さくひんリメイクばん連載れんさい当初とうしょアニメ企画きかくもあった『マグマ大使たいし』の連載れんさいなどが1963ねん - 1965ねんにかけておこなわれている[70]のアニメ作品さくひん関連かんれんして『W3連載れんさい雑誌ざっしでのいざこざがこったW3事件じけんも1965ねん出来事できごとである。

1966ねん手塚てづか実験じっけん漫画まんが雑誌ざっしCOM』を創刊そうかんする。先行せんこうした白土しらつち三平さんぺい劇画げきが作品さくひんカムイでん』を看板かんばん作品さくひんとする『ガロ』に対抗たいこうしたもので[71]手塚てづかの『とり』を目玉めだまとして、石森いしもり章太郎しょうたろう永島ながしま慎二しんじなどの意欲いよくてき作品さくひん掲載けいさいされた。1967ねんには怪奇かいき漫画まんがバンパイヤ』につづいて『どろろ』を『少年しょうねんサンデー』に連載れんさい。これらは当時とうじ水木みずきしげるによってこされていた妖怪ようかいブームを意識いしきした作品さくひんであった[72][注釈ちゅうしゃく 10]。1968ねんには青年せいねんビッグコミック』(小学館しょうがくかん)、『プレイコミック』(秋田あきた書店しょてん)などが相次あいついで創刊そうかんし、青年せいねん漫画まんが本格ほんかくてきにスタートしており、手塚てづかも『ビッグコミック』に『地球ちきゅう』『』『きりひと讃歌さんか』、『プレイコミック』に『空気くうきそこ』シリーズなど青年せいねんけの作品さくひんがけている。この時期じき手塚てづか青年せいねん作品さくひん安保あんぽ闘争とうそうなどの社会しゃかいてき背景はいけいもあり、くら陰惨いんさん内容ないようのものがおおかった[73]

一方いっぽう少年しょうねんでは『ファウスト』を日本にっぽん舞台ぶたい翻案ほんあんした『百物語ひゃくものがたり』、永井豪ながいごうハレンチ学園がくえん』のヒットを[74]、「性教育せいきょういくマンガ」と銘打めいうたれた『やけっぱちのマリア』(週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン)、『アポロのうた』(週刊しゅうかん少年しょうねんキング)などを発表はっぴょうしているが、この時期じきには少年しょうねんにおいて手塚てづかはすでにふるいタイプの漫画まんがとみなされるようになっており、人気にんきおもうようにれなくなってきていた[75]。さらにアニメーションの事業じぎょう経営けいえい不振ふしんつづいており、1973ねんみずからが経営けいえいしゃとなっていたむしプロ商事しょうじ、それにつづいてむしプロダクション[注釈ちゅうしゃく 11]倒産とうさんし、手塚てづか個人こじんてき推定すいてい1おく5000まんえん借金しゃっきん背負せおうことになった[76]作家さっかとしての窮地きゅうちたされていた1968ねんから1973ねんを、手塚てづかみずから「ふゆ時代じだい」であったと回想かいそうしている[77]

1973ねんに『週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン』(秋田あきた書店しょてん)で連載れんさい開始かいしされた『ブラック・ジャック』も、もともとは少年しょうねん幼年ようねん人気にんき低迷ていめいしていた手塚てづか最期さいご看取みとってやろうという、かべむらたいさん編集へんしゅうちょう厚意こういはじまったものであった[78]。しかし、長期間ちょうきかんつづたたかいでけようとするような作品さくひんばかりであった当時とうじ少年しょうねん漫画まんがにあって、『ブラック・ジャック』の毎回まいかい形式けいしきでの連載れんさい新鮮しんせんであり、後期こうき手塚てづか代表だいひょうするヒットさくへと成長せいちょうしていくことになった[79]。さらに1974ねん、『週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン』(講談社こうだんしゃ連載れんさいの『みっがとおる』もつづき、手塚てづか本格ほんかくてき復活ふっかつげた[80]

1976ねん中断ちゅうだんされたままであった『とり』が『マンガ少年しょうねん』(朝日あさひソノラマ)の創刊そうかんによって再開さいかい。1977ねん時点じてんで、手塚てづかは『ブラック・ジャック』『みっがとおる』『ブッダ』『とり』『ユニコ』『MW』と6つの連載れんさいかかえていた。また、どう時期じき漫画まんが文庫本ぶんこぼんブームにともな手塚てづか過去かこ作品さくひん続々ぞくぞく再刊さいかんされており、さらに同年どうねん6がつからの講談社こうだんしゃ手塚てづか治虫おさむ漫画まんが全集ぜんしゅう刊行かんこうによって、手塚てづかは「漫画まんが第一人者だいいちにんしゃ」、「漫画まんが神様かみさま」という評価ひょうかたしかなものにしていった[81]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1980年代ねんだいでは、幕末ばくまつから明治維新めいじいしん時代じだい自身じしんのルーツをたどった『だまりの』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーゾルゲ事件じけんなどを題材だいざい一般いっぱん週刊しゅうかん週刊文春しゅうかんぶんしゅん連載れんさいした『アドルフにぐ』など、青年せいねん漫画まんがあらたな代表だいひょうさくがけることになる[82]。「だまりの」はだい29かい小学館しょうがくかん漫画まんがしょう、「アドルフにぐ」はだい10かい講談社こうだんしゃ漫画まんがしょう一般いっぱん部門ぶもん受賞じゅしょうした。

1985ねんNHK特集とくしゅう[注釈ちゅうしゃく 12]取材しゅざい制作せいさくおうじた時期じきでも、1にちにわずか1~2あいだ睡眠すいみん連載れんさい漫画まんがやアニメーション制作せいさくをこなしていた。「まる上手うまえがけないんだ」と身体しんたい能力のうりょくおとろえをみとめつつも、取材しゅざいじんたいし「(からだ老化ろうかえられれば)あと40ねん(100さい)はえがきますよ、ぼくは。アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ」とべ、創作そうさく活動かつどうへのつよ意欲いよくせた。

死去しきょ[編集へんしゅう]

しかし、それから3ねんの1988ねん3がつ15にちに、突然とつぜん腹部ふくぶ激痛げきつうにみまわれ、救急きゅうきゅう搬送はんそうされる。検査けんさ結果けっか進行しんこうせいのスキルス胃癌いがん[注釈ちゅうしゃく 13]判明はんめい半蔵門はんぞうもん病院びょういん入院にゅういんの4ぶんの3を切除せつじょする。5月に退院たいいんし、以前いぜんまったわらない多作たさくりをせたものの、入院にゅういんまえくら次第しだい身体しんたいほそり、時折ときおり休憩きゅうけいはさまないとえがつづけられないほど体力たいりょく低下ていかしていった。同年どうねん10がつさい入院にゅういん。11月、万全ばんぜん体調たいちょうとはいえないなかで「参加さんかしなければ国際こくさい問題もんだいです」[84]周囲しゅうい制止せいしり、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく上海しゃんはいでのアニメーションフェスティバルに出席しゅっせきするが、帰国きこく同時どうじ体調たいちょう悪化あっか。12月に再度さいど手術しゅじゅつけるが、この時点じてんではすでに末期まっき状態じょうたいであり、肝臓かんぞうにまでがんが転移てんいしていた。

よく1989ねん1がつ21にち手塚てづかプロ社長しゃちょう松谷まつやたかしせい見舞みまいにたときには、「ぼく病状びょうじょうなになんだ、きみいてきてくれ」とたのんでいたという。胃癌いがんということはせたうえ医師いしからいたことをはなすと「そうか…」と一言ひとことだけったという[85]手塚てづか病院びょういんのベッドでも、医者いしゃつま制止せいし漫画まんが連載れんさいつづけていた。

同年どうねん1がつ25にち以降いこう昏睡こんすい状態じょうたいおちいるが意識いしき回復かいふくすると「鉛筆えんぴつをくれ」とっていた。息子むすこしんは、「(このころちちは)昏睡こんすいめると鉛筆えんぴつにぎらせるがすぐに意識いしきがなくなりのかえしだった」とかたっている[86]ぎわ状態じょうたいであるにもかかわらず「たのむから仕事しごとをさせてくれ」とがろうとし、つまは「もういいんです」とかせようとするなど最後さいごまで仕事しごとへの執着心しゅうちゃくしんをなくさなかった[87][88]

1989ねん平成へいせい元年がんねん)2がつ9にち午前ごぜん1050ふん半蔵門はんぞうもん病院びょういん死去しきょ。60さいぼつ[1]手塚てづか治虫おさむった松谷まつやによると、手塚てづか治虫おさむ最期さいご言葉ことばは、「たのむから、仕事しごとをさせてくれ」。通夜つやは2がつ11にち東久留米ひがしくるめ自宅じたく[89]葬儀そうぎは3がつ2にち東京とうきょうみなと青山あおやま葬儀そうぎしょ手塚てづかプロダクションの社葬しゃそうとして[90]それぞれいとなまれた。墓所はかしょ豊島としま摠禅てら

手塚てづかにより、『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』などの作品さくひん未完みかんのままのこされた[91][92]。また、梅原うめはらたけし小説しょうせつギルガメシュ』のアニメ意欲いよくてきだったが、構想こうそうちゅうのままにわった[93]くなる3週間しゅうかんまえ(1989ねん1がつ15にち)までかれていた自身じしん日記にっきには、そのときの体調たいちょう状態じょうたい新作しんさくのアイデアなどがつらねられていた。

まわりの人間にんげんだれ手塚てづか胃癌いがんであることをつたえず、手塚てづか自身じしんつづけるということになに疑問ぎもんたなかったとされる[86]。しかし、手塚てづか病院びょういんえがいていた遺作いさくひとつ「ネオ・ファウスト」では主要しゅよう人物じんぶつ胃癌いがんにかかり、医者いしゃまわりは気遣きづかって胃癌いがんであることをつたえないが、本人ほんにん胃癌いがんであることをっていて死亡しぼうするという内容ないようえがかれている。

作風さくふう功績こうせき[編集へんしゅう]

手塚てづか影響えいきょうけたもの[編集へんしゅう]

Milt Gross
手塚てづかの「映画えいがのような」ページレイアウトは、Milt Gross初期しょきのグラフィック小説しょうせつHe Done Her Wrong影響えいきょうけた[94]
ディズニー
手塚てづか幼少ようしょうから独自どくじ漫画まんがえがいており、かわ水泡すいほう『のらくろ』、横山よこやま隆一りゅういちフクちゃん』の模写もしゃをするようになったが、7さいのころに謝花じゃはな凡太ろうによるミッキーマウス海賊版かいぞくばん単行本たんこうぼん夢中むちゅうになり、このほん模写もしゃをするようになった(手塚てづかによれば「本家ほんけのディズニーにおくってやりたいほど」そっくりのだったという)。手塚てづか絵柄えがらは、劇画げきが影響えいきょうける1955ねんごろまではディズニーの影響えいきょうつよまるっこい絵柄えがらで、「ディズニースタイル」ともばれていた。ディズニーのアニメーションに出会であったのは9さいのときで、毎年まいとし正月しょうがつ大阪おおさか朝日あさひ会館かいかんおこなわれる「漫画まんが映画えいが大会たいかい」で上演じょうえんされたものであった。ちち家庭かていよう映写機えいしゃき購入こうにゅうしたときには、上演じょうえんようフィルムのなかに『ミッキーの汽車きしゃ旅行りょこう』もあった。以来いらいディズニーのアニメーションに心酔しんすいし、1950ねんにディズニーの『白雪姫しらゆきひめ』が封切ふうぎられたときには映画えいがかんで50かいつぎの『バンビ』は80かい以上いじょうたという。
チャールズ・チャップリン
手塚てづかは「尊敬そんけいする映画えいがじん」として、チャールズ・チャップリンウォルト・ディズニーげている[95]
ひまがあるとよく映画えいがかんかけた手塚てづかは、チャップリンから多大ただい影響えいきょうけていることをみとめている。手塚てづかはチャップリン映画えいがのテーマが「う」「る」「む」のさん要素ようそしぼられていることが偉大いだいである、とかたっており、また「どうしたら後世こうせいのこ漫画まんがえがけるのでしょうか」と質問しつもんけるたびに、「とにかくチャップリンの映画えいがろ。あれにすべてがある」とこたえている[96]
フライシャー兄弟きょうだい
なお、たけぐま健太郎けんたろう手塚てづか得意とくいとした「楽屋落がくやおてきなメタ・ギャグ」「キャラクターのメタモルファーゼ」から、フライシャー兄弟きょうだいのアニメーションからも影響えいきょうけていることを指摘してきしている[97]。 
ぞく夕陽ゆうひのガンマン・地獄じごくけつ
クリント・イーストウッド主演しゅえん音楽おんがくエンニオ・モリコーネセルジオ・レオーネ監督かんとくのイタリア西部せいぶげきマカロニウエスタンいわゆる「ドルさんさく完結かんけつへんであるぞく夕陽ゆうひのガンマンほんさくバイオレンスアナーキーさ、反戦はんせん思想しそう手塚てづかの「どろろ」に影響えいきょうあたえたことでられさんさくだいいちさく荒野あらの用心棒ようじんぼうもとネタである黒澤くろさわあきら三船みふね敏郎としお用心棒ようじんぼう椿つばき三十郎さんじゅうろう、そして七人しちにんさむらいといった「残酷ざんこくリアリズム時代じだいげきにも当然とうぜんのごとく影響えいきょうけている[98]
まん籟鳴
上海しゃんはい活動かつどうしたアニメ制作せいさくしゃ松谷まつやたかしせい担当たんとう編集へんしゅうしゃでマネージャーもつとめた、のち手塚てづかプロ社長しゃちょう)は、手塚てづかもっとあい尊敬そんけいしたのはまん籟鳴であり、手塚てづかはディズニーの影響えいきょうけているとおおくのひと認識にんしきするも、実際じっさいは10代なかばに中国ちゅうごくアニメ古典こてんで、まん籟鳴監督かんとく鉄扇てっせん公主こうしゅ」であり、ディズニーよりもはや影響えいきょうふかいとべている[99]
やまいたお入院にゅういんする直前ちょくぜんの1988ねん11月に、だい1かい上海しゃんはい国際こくさいアニメフェスの審査しんさいん訪中ほうちゅうしたさいにも、80だいだったまん籟鳴と再会さいかいしている[99]没後ぼつごの1989ねん8がつ27にち日本にほんテレビ24あいだテレビ 「あい地球ちきゅうすくう」放映ほうえいされた『手塚てづか治虫おさむ物語ものがたり ぼくはまご悟空ごくう』は、病床びょうしょう手塚てづかによる草案そうあんをもとに手塚てづかプロが制作せいさくした遺作いさくで、上海しゃんはいまん籟鳴とった場面ばめん再現さいげん[100]されている。
文学ぶんがく演劇えんげき宝塚たからづか文化ぶんか
夏目なつめぼうかいは、「手塚てづか漫画まんがんだ外部がいぶせい異質いしつ文化ぶんか」として、ディズニーとともに文学ぶんがく演劇えんげき宝塚たからづか文化ぶんかげている。幼少ようしょう手塚てづかいえには新潮社しんちょうしゃの「世界せかい文学ぶんがく全集ぜんしゅう」があり、よく外国がいこく文学ぶんがくあさっていたという。のちに漫画まんがしたドストエフスキーつみばっ』やゲーテ『ファウスト』はなんじゅうかいかえしており、とくに『ファウスト』は日本にっぽん舞台ぶたいにした翻案ほんあん作品さくひん百物語ひゃくものがたり』『ネオ・ファウスト』をふくめると3にわたり手塚てづかによって漫画まんがされている。また宝塚たからづか演劇えんげきかれたことで手塚てづか演劇えんげき青年せいねんとなり、大学だいがく演劇えんげき所属しょぞくしていたほか、在学ざいがくちゅうの1950ねんごろには関西かんさい民衆みんしゅう劇場げきじょう所属しょぞくし、ドストエフスキー『つみばち』の公演こうえんにペンキやく出演しゅつえんするなどしている[101]夏目なつめ初期しょき手塚てづか作品さくひんおおげさな表情ひょうじょうやポーズ、舞台ぶたいセットのような背景はいけい宝塚たからづか演劇えんげき影響えいきょうており、また手塚てづか漫画まんが特徴とくちょうである牧歌ぼっかてき風景ふうけい未来みらいてき風景ふうけい同居どうきょを、当時とうじ宝塚たからづか人工じんこうてき風景ふうけい由来ゆらいするものとている[102]
その
子供こども時代じだいいえには「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」もそろっていたという[103]
1972ねん2がつ発生はっせいしたあさま山荘さんそう事件じけんについて、「わたしはこんな連中れんちゅうを『漫画まんが世代せだい』とんでいるが、映像えいぞうそだったわかひとたちのあいだにこんな世代せだいひろがっているのはものすごく危険きけんだ。漫画まんがとしてもえがかた反省はんせいする時期じきているとおもう」とべている[104]

しん寶島たからじま新宝しんぽうとう)の革新かくしんせい[編集へんしゅう]

手塚てづか治虫おさむ最初さいしょ作品さくひんである酒井さかいななうまとのともさくによる1946ねんの『新寶しんぽうとう』は戦後せんごストーリー漫画まんが原点げんてんとされ、ほんさくんで影響えいきょうけたり、漫画まんがこころざした読者どくしゃおおい。藤子とうこ不二雄ふじお[105]石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう[106]ちばてつや[107]望月もちづきさんおこり[108]楳図うめずかずお中沢なかざわあきらなど。劇画げきがはじめた辰巳たつみヨシヒロ[109]桜井さくらい昌一しょういち[110]佐藤さとうまさあき[111]衝撃しょうげきかたっている。

その一方いっぽうで、「手塚てづかが「新寶しんぽうとう」で映画えいがからまなんだ革命かくめいてき技法ぎほう導入どうにゅうし、これまでのマンガのスタイルを一変いっぺんさせた」といったような話題わだいんだ[112]。これは一部いちぶただしいがすべてがただしいというわけではない。智英ともひで著書ちょしょ現代げんだいマンガの全体ぜんたいぞう』(1986ねん)において、『新寶しんぽうとう』の1ページ3だんコマはむしろ平凡へいぼんなもので、構図こうずなども戦前せんぜん作品さくひんである『スピード太郎たろう』(宍戸ししどひだりぎょう)とくらべても革新かくしんてきなものとはいえないと指摘してきし、むしろ物語ものがたり展開てんかいほうに「手塚てづか天分てんぶん」がみられるとしている[35]米澤よねざわ嘉博よしひろも「1ページ3だんわり基本きほんとしており、アップやロングの使つかけもない」として同様どうよう指摘してきおこない、それよりも戦前せんぜん物語ものがたりやコミックストリップ、映画えいが少年しょうねん小説しょうせつなどの冒険ぼうけん物語ものがたり要素ようそひとつにしたところにあたらしさをている[113]。また、中野なかの晴行はるゆき著書ちょしょなぞのマンガ酒井さかいななうまでん新宝しんぽうとう伝説でんせつひかりかげ』において、もとアニメーターだった酒井さかい経歴けいれきれて、その手塚てづか作品さくひんでは「映画えいがてき表現ひょうげん」が後退こうたいしていることから、『新寶しんぽうとう』の「映画えいがてき表現ひょうげん」には酒井さかい功績こうせきおおきかったのではないか、と推測すいそくしている。一方いっぽう野口のぐち文雄ふみお中野なかのせつ批判ひはんし、『新寶しんぽうとう』の革新かくしんせいは、それまでおも登場とうじょう人物じんぶつのセリフによる説明せつめいたよっていた時間じかん状況じょうきょう進行しんこうを、セリフによらずスピーディなアクションやコマり・構図こうずによる表現ひょうげんおこなったことであるとし(これこそが「映画えいがてき手法しゅほう」)、こういった表現ひょうげんはそれ以前いぜんの『スピード太郎たろう』などにもられず、むしろそれ以降いこう酒井さかいななうま作品さくひんにも影響えいきょうあたえたとする[114]

上記じょうきのような話題わだいまれた背景はいけいには、1938ねん内務省ないむしょうから「児童じどう読物よみものせきスル指示しじ要項ようこう」がされ、児童じどう図書としょ表現ひょうげん規制きせいが10ねんちかくなされていたため、戦前せんぜん漫画まんが表現ひょうげんわすられていたこと、そのようななかで『新寶しんぽうとう』にれた衝撃しょうげき影響えいきょうを、藤子とうこ不二雄ふじおなど漫画まんがかいささえたベテラン作家さっかかたったことなどがあった[115][116]

夏目なつめぼうかいは、赤本あかほん時代じだい手塚てづか漫画まんが達成たっせいとして「コマのかた」をえたことをげている。それまでの日本にっぽん漫画まんがは、現在げんざいの4コマ漫画まんがおなじように、1ページない右側みぎがわ配置はいちされたコマをたてんでき、つぎ左側ひだりがわうつりまたたてんでいく、というかたちでまれていた。しかしこのかたではコマりの方法ほうほう大幅おおはば制限せいげんされるため、手塚てづか赤本あかほん時代じだいに、うえだんのコマをみぎからひだりんでき、つぎしただんうつりまたみぎからひだりむ、という現在げんざいかたすこしずつこころ浸透しんとうさせていった[117]。これにくわえて、初期しょき手塚てづか登場とうじょう人物じんぶつ絵柄えがらをより記号きごうし、微妙びみょうせん変化へんかもちいて人物じんぶつ造形ぞうけい表情ひょうじょうのヴァリエーションを格段かくだんやした。りゅうせんあせ擬音ぎおんなどの漫画まんがてき記号きごう従来じゅうらいくらべて格段かくだんやしており、このような表現ひょうげんはばひろさが、多数たすう人物じんぶつ複雑ふくざつ物語ものがたり漫画まんがえがくことを可能かのうにし[118]、また絵柄えがら記号きごうすすめたことは、まなばずとも記号きごう表現ひょうげんおぼえることで、だれでも漫画まんがえがくことができるという状況じょうきょうつくることにもなった[119]。また物語ものがたりというてんにおいて戦前せんぜん漫画まんが手塚てづか漫画まんが物語ものがたりへだてるものは「主人公しゅじんこう」などをはじめとする悲劇ひげきせい導入どうにゅうであり、エロティシズム作品さくひんれていったことで多様たよう物語ものがたり世界せかいえがくことを可能かのうにし、以降いこう漫画まんがかいにおける物語ものがたり多様たようさを準備じゅんびすることになった[120]

上記じょうき絵柄えがら記号きごう体系たいけい漫画まんが制作せいさく並行へいこう作業さぎょう分業ぶんぎょう容易よういとするもので、アシスタントをやといプロダクションせい導入どうにゅうすることを可能かのうにした[121]漫画まんが制作せいさくたいして(アニメーション制作せいさく類似るいじの)アシスタントせい、プロダクションせい導入どうにゅうしたのは手塚てづか最初さいしょである。手塚てづか漫画まんが制作せいさく導入どうにゅうしたものとしてはに、Gペン使用しようはやえがけるという理由りゆうによる。それまで漫画まんがではまるペン使用しよう一般いっぱんてきだった)、スクリーントーン採用さいようなどがある[122]ちゅう日本にっぽん漫画まんが制作せいさくにスクリーントーンを導入どうにゅうしたのは手塚てづか治虫おさむ最初さいしょではない)。

手塚てづか作品さくひんのテーマ[編集へんしゅう]

手塚てづかみずからの戦争せんそう体験たいけんによってもたらされた「生命せいめい尊厳そんげん」を自身じしんのテーマのひとつとしてげている[123]

手塚てづかは、自身じしんはマンガにおいて時代じだいながれにわせ転向てんこうかえ転向てんこうしゃであるとしたうえで、「ただひとつ、これだけはだんじてころされてもひるがえせない主義しゅぎがある。それは戦争せんそうはごめんだということだ。だから反戦はんせんテーマだけはえがつづけたい。」とかたっている[124]

手塚てづか子供こどもを「未来みらいじん」とび、以下いかのようにかたっている。

わたしは、くら時代じだいといわれた昭和しょうわ初期しょきのなかでも、じつめぐまれた環境かんきょうども時代じだいをすごせたとおもっています。しかしそれも、青春せいしゅんには、空襲くうしゅう窮乏きゅうぼう生活せいかつによってほとんどうしなってしまいました。ちち戦争せんそうにとられるし、勉強べんきょうはできず、はらをすかせ、大勢おおぜい友人ゆうじんうしないました。空襲くうしゅうおそわれて周囲しゅうい死体したいやまとなったとき、絶望ぜつぼうして、もう世界せかい終末しゅうまつだとおもったものです。だから戦争せんそうわった空襲くうしゅう心配しんぱいがなくなって、いっせいにまち(ひ)がパッとついたとき、わたしおもわずバンザイをし、なみだをこぼしました。これは事実じじつです。しんそこからうれしかった。平和へいわ幸福こうふく満喫まんきつし、きていてよかったとおもいました。これは、当時とうじ日本人にっぽんじんのほとんどの感慨かんがいだとおもいます。 もう二度にどと、戦争せんそうなんかこすまい、もう二度にどと、武器ぶきなんかつまい、孫子まごこ(まごこ)のだいまでこの体験たいけんつたえよう。あの、あの時代じだいびた人々ひとびとは、だれだってそういう感慨かんがいをもったものです。ことにいえ家族かぞくうしない、また戦争せんそう孤児こじになったどもたちは、とりわけそうちかったはずです。それがいつのにか風化ふうか形骸けいがいして、またもや政府せいふが、きなくさ方向ほうこうかおうとしている。どもたちのために、当然とうぜんおとながそれを阻止そししなければならないと同時どうじに、ども自身じしんがそれを拒否きょひするような人間にんげんにはぐくんでやらなければならないとおもうのです。それは結局けっきょくさきべたように、どもにきるということのよろこびと、大切たいせつさ、そして生命せいめい尊厳そんげん、これをおしえるほかないとおもうのです。人命じんめいだけでなく生命せいめいあるものすべてを戦争せんそう破壊はかい悲惨ひさんからまもるんだという信念しんねんどもにうえつける教育きょういく、そしてどもの文化ぶんかはそのうえにつものでなければならない。けっして反戦はんせんだの平和へいわだのの政治せいじてきのみのお題目だいもくでは、どもはついてこない。率先そっせんして、生命せいめい尊厳そんげんからおしえていくという姿勢しせい大事だいじなのではないでしょうか。[125]

手塚てづか作品さくひんなか天使てんし悪魔あくまめんせいや、民族みんぞくあいだ文化ぶんかあいだ対立たいりつこうそうなどをかえしテーマにしている。手塚てづか戦後せんごまもないころ、ぱらったアメリカへいにわけもわからずなぐられつよいショックをけたことがあり、これがこのテーマのげん体験たいけんになっているのだとしている[126]。もっとも、『ジャングル大帝たいてい』などにおける「分厚ぶあつくちびる攻撃こうげきてきなイメージ」といった類型るいけいてき黒人こくじんかん批判ひはんされており、手塚てづか死後しごの1990ねんには「黒人こくじん差別さべつをなくすかい」により糾弾きゅうだんけている。これ以後いご手塚てづか単行本たんこうぼんには差別さべつられる表現ひょうげんについて弁明べんめいするただしきがけられるようになった[127]

また漫画まんがえがさいに、プロアマ、さらには処女しょじょさくであろうがベテランであろうがえがしゅ絶対ぜったい遵守じゅんしゅしなければならない禁則きんそくとして、"基本きほんてき人権じんけん茶化ちゃかさないこと"をげ、どんな痛烈つうれつかつどぎつい描写びょうしゃをしてもいいが、「戦争せんそう災害さいがい犠牲ぎせいしゃをからかう」「特定とくてい職業しょくぎょう見下みくだす」「民族みんぞく国民こくみん、そして大衆たいしゅう馬鹿ばかにする」だけはしてはならない、「これをおかすような漫画まんががもしあったときは、えがしゅがわからも、読者どくしゃからも、注意ちゅういしあうようにしたいものです」とべている[128]

夏目なつめぼうかいは、手塚てづかもとめたテーマを「生命せいめい」というキーワードに見出みいだしている。夏目なつめ手塚てづか小中学生しょうちゅうがくせいのころによくたという以下いかのようなゆめ紹介しょうかいし、このゆめ生命せいめい変身へんしん不定ふていがたエロス世界せかいとのかかわりかたといった「手塚てづか作家さっか資質ししつかく」をほとんどいいきってしまっているとしている[129]

子供こどものときのぼくゆめそらゆめとかそういうのはあまりなくて、やたらにているものがどんどんわっていくような、またわるものがセクシャルでぼく興奮こうふんにつながるような……。[りゃくつねかたち一定いっていしないで、いろいろなものにわる。たとえばぼく一緒いっしょあるいている相手あいてがいるんだけど、それはなにかわからないがつねかたちわっている。ぼくたいして仕掛しかけることがつねちがう。その恐怖きょうふかん同時どうじにセックスアピールをかんじる。[りゃく本当ほんとう次元じげんてきなものですね。宇宙うちゅうじんなのかおんなどもなのかわからないが、ぼくまわりにとにかくそれがいるんです。それがつねわる。
ぼく宝塚たからづかんでいたんですが、学校がっこうかえみちにちょっとさびしいぬまがあって、そこをとおっていえかえるんです。小学生しょうがくせいとか中学生ちゅうがくせいのころそこをとおゆめをよくました。沼地ぬまちよこ得体えたいれないものがブルブルふるえながらぼくっている。それをつかまえて自分じぶんいえれてくる。すとこまるから雨戸あまどめて、ふすまをめて絶対ぜったいられないようにして、ぼく物体ぶったいかいあったところでたいていゆめがさめてしまう。そのあいだぼくがそいつをつけ、そいつがぼくのところにってきて、つかまえていえかえるまでに、なんだかわからないけどそいつがいつもわるんです。[りゃく]だからおんなにもなるし、おとこにもなるし、ものにもなる。[りゃく]つまり、つねうごいているたのしさみたいなものがある。うごいているのがきているのだという実感じっかんがあるわけです。つまり、しょっちゅう変化へんかしていることによって、変化へんかしながら進化しんかしているとか、なにかにはたらきかけようとしているとか、つまり、ひとつのアクティブなかんじをけるんです。で自分じぶんはどうかというとつねにパッシブでそれをかんじるとかれるとかいうかたちで、それをているだけなんですが、相手あいてなにかのかたち次々つぎつぎ流動りゅうどうしているんです。
「ヒゲオヤジなませい?」石上いしがみさん登志とし定本ていほん 手塚てづか治虫おさむ世界せかい所収しょしゅう東京とうきょうそうもとしゃ、2003ねん

夏目なつめによれば、1950ねんごろ手塚てづかはこのような「不定ふていがた変身へんしんをしつづける生命せいめい原型げんけい」を、描線にめて漫画まんがぜん世界せかい拡張かくちょうしたことで密度みつどたか作品さくひんんだ。しかし劇画げきが影響えいきょうなどから描線の自由じゆううしなわれると、描線では実現じつげんできなくなった生命せいめいかん理念りねんとして作品さくひんのテーマとしていき、『とり』にあらわれるようなひろし生命せいめい思想しそうえがかれることになったのだという[130]

鳴海なるみたけいた書籍しょせきえの起源きげん』(PHP新書しんしょ 2009ねん)によると「文化ぶんか日本にっぽん誕生たんじょうした理由りゆう手塚てづかによるものがおおきいとし、その理由りゆうを「ボクっむすめ」「擬人ぎじん擬人ぎじん)」「ケモノ」「ロリけいとうといったジャンルを日本にっぽん漫画まんが黎明れいめいから"意図いとてきに"漫画まんがなか多用たようしてそれがひろがったことをげている[131]

年齢ねんれい経歴けいれき血液けつえきがた[編集へんしゅう]

手塚てづか治虫おさむは、1928ねんまれでデビューは1946ねん1がつ4にちで17さいであったが、1946ねん1がつ1にちづけ少年しょうねん国民こくみん新聞しんぶんげん毎日まいにち小学生しょうがくせい新聞しんぶん)にデビューさくの「マァチャンの記帳きちょう」が紹介しょうかいされたさいには、19さいとして以下いかのように紹介しょうかいされていた。

あたらしく明日あした原文げんぶんママ)から連載れんさいする漫画まんが「マアチャンの記帳きちょう」の作者さくしゃ手塚てづか治蟲おさむ原文げんぶんママ)さんはみなさんとおなじクリクリ坊主ぼうずじゅうきゅうさいのおにいさんです。毎日まいにち大阪おおさかみかどだい医学いがく専門せんもん通学つうがくして、お医者いしゃさんになる勉強べんきょうをしていられますが、ちいさいころから漫画まんが大好だいすきで国民こくみん学校がっこう2年生ねんせいときからいろいろの漫画まんがをかいて、たのしんでいられました。あんまり上手じょうずなのでみなさんのために連載れんさいすることにしました。ほがらかなマアチャンをかわいがってげてください[132]。』

関係かんけい有無うむ不明ふめいだがこのとき手塚てづか当時とうじ日常にちじょうてき使つかわれていたかぞどしではこの記事きじ掲載けいさいされた1946ねん元日がんじつで19さいになる。に1989ねん書籍しょせき掲載けいさいされた手塚てづか石ノ森いしのもり章太郎しょうたろうとの対談たいだんでは「自分じぶんは20さいでデビューした」というからだはなしすすめ、17さいでデビューした石ノ森いしのもり叱責しっせきしている[133]晩年ばんねんにおいては生年月日せいねんがっぴ大正たいしょう15ねん(1926ねん)で定着ていちゃくしていた[134]世間せけん一般いっぱん本当ほんとう生年せいねんあきらかにされたのは死去しきょ直後ちょくごのことであり、訃報ふほうつたえる新聞しんぶんでも新聞しんぶん種類しゅるいによって生年せいねんことなるという不思議ふしぎ事態じたいきた。したしい立場たちばにあった漫画まんがでさえ本当ほんとう年齢ねんれいっておどろいたほどであった[135]

また、手塚てづか大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく医学いがく専門せんもん卒業生そつぎょうせいであり、上記じょうきのようにデビュー当時とうじ新聞しんぶんには事実じじつどおり「大阪おおさかみかどだい医学いがく専門せんもん(ママ)」と紹介しょうかいされていた。1978ねん手塚てづかいた雑誌ざっし寄稿きこうぶんでも自分じぶんのことを事実じじつどおり帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく医学いがく専門せんもん学生がくせいだったとかえっている[136][137]。しかし1980年代ねんだいには[138][139]「1944ねん旧制きゅうせいなみはな高校こうこうおつ入学にゅうがく」「1945ねん大阪大学おおさかだいがく医学部いがくぶ入学にゅうがく」と事実じじつことなった経歴けいれき紹介しょうかいされることもあった。(事実じじつどおり紹介しょうかいしている書籍しょせきもある)手塚てづか没後ぼつご小野おの耕世こうせい手塚てづか治虫おさむ』(ブロンズしんしゃ、1989ねん)によって「なみはな高校こうこう」も「大阪大学おおさかだいがく」もそもそも存在そんざいしない学校がっこうであることが指摘してきされている[24]書籍しょせきによっては手塚てづか来歴らいれき事実じじつことなった内容ないよう紹介しょうかいされるようになった理由りゆうについてはさだかではない。

一方いっぽう血液けつえきがたもプロフィールにおいてBがた紹介しょうかいされることもあったが、現在げんざいではAがたということでいている[140]。これについては手塚てづか本人ほんにん著書ちょしょで「戦争せんそうちゅう検査けんさけたさいはBがたかされていたが、1980年代ねんだいごろ精密せいみつ検査けんさけてAがたらされた」と説明せつめいしている[141]。なお、息子むすこしんもAがたである。

才能さいのう作業さぎょう手法しゅほう[編集へんしゅう]

ベタりを時折ときおり編集へんしゅうしゃなどにやらせていたのが、のアシスタント制度せいどつながった。飯沢いいざわただしがそれを面白おもしろがり、「ベタマン」という小説しょうせつにして発表はっぴょうしたが、手塚てづか批判ひはんてき漫画まんが評論ひょうろんなどから「手塚てづか一人ひとりえがいていない」という非難ひなんびるようになり、だいさんかい小学館しょうがくかん漫画まんがしょう受賞じゅしょう(1957ねん以降いこう長年ながねん漫画まんがしょうからとおざかることになった[133]

手塚てづかのアシスタントであったわたべあつしは、手塚てづか鉛筆えんぴつ下書したがきをせずにペンしていたことを証言しょうげんしている[142]。フリーハンドでかなり正確せいかくえん直線ちょくせんえがくことができ、れるタクシー飛行機ひこうきなかでもかなり正確せいかくえがいたという(つね原稿げんこうりにわれていた手塚てづかは、ものなか作品さくひん仕上しあげることもすくなくなかった)。インクは開明かいめい墨汁ぼくじゅう愛用あいようし、『マンガのえがかた』でも推薦すいせんしている[143]死去しきょ前年ぜんねんには林家はやしや久蔵きゅうぞうげんひさおうぎに「久蔵きゅうぞうさん、ぼくはね、まるえがけなくなった」とからだおとろえをかたっている。その一方いっぽう手塚てづか自分じぶん漫画まんがについて「ではなくて記号きごう」であること(漫画まんが記号きごうろん)をかえ強調きょうちょうしており、その背景はいけいには手塚てづかデッサンちからたいするがあったともいわれている[144]作品さくひんなか自身じしんりょく自虐じぎゃくてきあつかうシーンをれることもたびたびであった。

上記じょうきとおつね原稿げんこうりにわれていた。これは、自身じしん漫画まんがのネタとしてもたびたび登場とうじょうしている。理由りゆうは、きた仕事しごとをほとんどこばまなかったためである。りをまもらず、編集へんしゅうしゃたせることから一部いちぶ編集へんしゅうしゃからはペンネームをもじって「ウソちゅう」「おそむし」などとばれていたという。

漫画まんが技法ぎほうみずか開拓かいたくしていくかたわらで、劇画げきが流行りゅうこうすると自身じしん劇画げきがタッチをれ、水木みずきしげるの『ゲゲゲの鬼太郎おにたろう』が流行りゅうこうすると『どろろ』で妖怪ようかいマンガをし、『劇画げきが』が主流しゅりゅう雑誌ざっし「ガロ」に対抗たいこうして、トキワそうのメンバーである藤子とうこ不二雄ふじお石ノ森いしのもり章太郎しょうたろうといった『漫画まんが』を主流しゅりゅうにした雑誌ざっし「COM」をみずかげるなど対抗たいこうすることもおおかった。

はやにもけており、500ページ程度ていどほんを20ふん前後ぜんこう読破どくはしたという[145]喫茶店きっさてんなどでわせのまえ本屋ほんやり、みしたほんからたアイデアをかたり、「多忙たぼうなのに、先生せんせいはいつ勉強べんきょうしているのか」と編集へんしゅうしゃ不思議ふしぎがらせた(手塚てづかしん講演こうえん)。

漫画まんが製作せいさくりかかりながら、べつ雑誌ざっし編集へんしゅうしゃとまったくべつのテーマの漫画まんがのアイデアについて電話でんわはなしていたこともあるという(手塚てづかしん講演こうえん)。

手塚てづか極度きょくど激務げきむだったことでられ、睡眠すいみん時間じかんは1にちわずか4あいだ程度ていどで、それ以上いじょうねむることはほとんどなかったといわれる。全盛期ぜんせいきつき数日すうじつ程度ていどしかねむらないこともしばしばであった。手塚てづか死後しご、93さいまで健在けんざいだったライバルの水木みずきしげるはエッセイ漫画まんが睡眠すいみんのチカラ』のなかで、自分じぶんは1にち10あいだ睡眠すいみん実践じっせんすることで長生ながいきができたとかたり、反対はんたい手塚てづか徹夜てつやばかりつづけていたために早死はやじににしてしまったと指摘してきしていた。

医師いし免許めんきょ取得しゅとくしゃとして[編集へんしゅう]

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手塚てづか治虫おさむ医師いし免許めんきょしょう
コミックナタリー、2009ねん3がつ18にち

手塚てづか医師いし免許めんきょっていたが、すで大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく医学いがく専門せんもん時代じだいからプロの漫画まんがとして活動かつどうをしており、インターン時代じだい患者かんじゃていたのをのぞいては職業しょくぎょう医師いしとして活動かつどうをしたことはなく、編集へんしゅうしゃやアシスタントなどの興味きょうみ本位ほんい診察しんさつけに人間にんげんおおくをかえしていた[146]。ただし、岡部おかべふゆ手塚てづか海外かいがい体調たいちょうくずしたさいには手塚てづか診察しんさつしている。そのとき、岡部おかべ手塚てづかうことをしんじずに日本にっぽんにトンボがえりして病院びょういん検査けんさけたが、手塚てづかうとおりのただのぎであった[147]

手塚てづか医者いしゃになるのをやめて漫画まんがいちほんにした直接的ちょくせつてき理由りゆうは、手塚てづかははにあるとされる。手塚てづかは「せむしの仔馬こうま」というアニメ映画えいがることを口実こうじつにして母親ははおやして開演かいえんまでの時間じかん映画えいがかんのロビーで漫画まんがになるか医師いしになるかについて相談そうだんをした。母親ははおやはためらうことなく自分じぶんきなほうをやりなさいとこたえたので漫画まんが一本いっぽんくことを決心けっしんした[148]。ちなみにそのときの映画えいが「せむしの仔馬こうま」にはとり登場とうじょうし、これが手塚てづかの「とり」の着想ちゃくそうひとつになった。またこれは手塚てづか病室びょうしつでコンテをっていた遺作いさくひとつ「あおいブリンク」の原作げんさくでもある。

また手塚てづか医学いがくせい時代じだい授業じゅぎょうちゅうもずっと漫画まんがえがいていたために恩師おんしから「手塚てづかくんきみは、このまま医者いしゃをつづけても、ろくな医者いしゃにはなれん。かなら患者かんじゃろくにんころすだろう。なかのためにならんから医者いしゃをあきらめて漫画まんがになりたまえ」とさとされている[149]手塚てづかはインターン時代じだい患者かんじゃかおるとどうしてもカルテに似顔絵にがおええがいてしまうともかたっている。息子むすこしんによれば、手塚てづかるのがきらいでみち断念だんねんしたという。医学いがく専門せんもんからは「絶対ぜったい医師いしとしてはたらかない」という条件じょうけんきで卒業そつぎょうをさせてもらったという。

なおせんもん外科げかである。のち担当たんとう教授きょうじゅ紹介しょうかい奈良県立医科大学ならけんりついかだいがく研究生けんきゅうせいとなり、論文ろんぶんかた精子せいし細胞さいぼうにおけるまく構造こうぞう電子でんし顕微鏡けんびきょうてき研究けんきゅう」(タニシ異形いぎょう精子せいし細胞さいぼう研究けんきゅう。タニシの精子せいし研究けんきゅうつうじて人間にんげん精子せいし発生はっせいのメカニズムをかんがえるというもの)を提出ていしゅつして1961ねん医学いがく博士はかせ取得しゅとくした[150]

医師いし免許めんきょ終身しゅうしん有効ゆうこうなものであり、手塚てづかはプロの漫画まんがになったのちにも医師いし免許めんきょ昭和しょうわ28ねん9がつ18にち医籍いせき登録とうろくだい150476ごう)を保持ほじつづけていた。没後ぼつご宝塚たからづか市立しりつ手塚てづか治虫おさむ記念きねんかんで2003ねん11がつ20日はつかから開催かいさいされた企画きかくてん「『ブラック・ジャック』のDNA」に医師いし免許めんきょしょう現物げんぶつ公開こうかい陳列ちんれつされたとき、ある識者しきしゃから免許めんきょしょう当人とうにん死亡しぼう政府せいふ返納へんのうせねばならないとさだめた法令ほうれい違反いはんしている、という指摘してきがあった[151]厚生こうせい労働省ろうどうしょう協議きょうぎした結果けっか、いったん規定きていどおりに返納へんのう手続てつづきをおこなったのち同省どうしょうあらためて遺族いぞく譲渡じょうとするという特例とくれい措置そちがとられた。厚生こうせい労働省ろうどうしょう政局せいきょく医事いじ試験しけん免許めんきょしつでは「こういったれい過去かこにあまりない」としている。それにより記念きねんかん展示てんじされている免許めんきょしょうには無効むこうしめす「抹消まっしょう」のあかしるしされている[注釈ちゅうしゃく 14]

プロ野球やきゅうとのかかわり[編集へんしゅう]

手塚てづか治虫おさむプロ野球やきゅう関係かんけいふかく、とくに「アトムズ(げん東京とうきょうヤクルトスワローズ)」と「埼玉さいたま西武せいぶライオンズ」につながりがある。

現在げんざい東京とうきょうヤクルトスワローズ(セントラル・リーグ加盟かめい)は「国鉄こくてつスワローズ」という名前なまえ誕生たんじょうし、1965ねん運営うんえい団体だんたい当時とうじフジテレビ社長しゃちょう水野みずの成夫しげお意向いこうフジサンケイグループ買収ばいしゅうされ、「サンケイスワローズ」とわった。1966ねん、『鉄腕てつわんアトム』がフジサンケイグループにぞくするフジテレビの看板かんばん番組ばんぐみとなっていたことと、サンケイ新聞しんぶん鉄腕てつわんアトムを連載れんさいしていたことから、名前なまえ鉄腕てつわんアトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生たんじょうした。「サンケイアトムズ」は1969ねんに「アトムズ」にわり、経営けいえいけんヤクルト本社ほんしゃうつると「ヤクルトアトムズ」へとわった。「ヤクルトアトムズ」は現在げんざいの「ヤクルトスワローズ」の直接ちょくせつ前身ぜんしんである。

また、「埼玉さいたま西武せいぶライオンズ」(パシフィック・リーグ加盟かめい)も手塚てづかつながりがある。1978ねんクラウンライターライオンズ西武せいぶグループ買収ばいしゅうされ西武せいぶライオンズ(2008ねん埼玉さいたま西武せいぶライオンズに改名かいめい)となったさいには、『ジャングル大帝たいてい』の主人公しゅじんこうレオがマスコットに採用さいようされ、2008ねんまでユニフォーム帽子ぼうしもレオをデザインしたものが使つかわれていた(それ以降いこう時折ときおり復刻ふっこくユニフォームでの試合しあい着用ちゃくようされている)。ただし、手塚てづか球団きゅうだんつつみ義明よしあきオーナーから「大人おとなになった姿すがたのレオ」と指定していされたことから父親ちちおやの「パンジャ」がモデルであるとしている[152]。また、オリジナルキャラクターでレオのいもうとライナも1981ねんより登場とうじょうしている。

2008ねん東京とうきょうヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活ふっかつシリーズ』として、1969ねんのビジターユニフォームを復刻ふっこく手塚てづか治虫おさむ生誕せいたん80周年しゅうねん記念きねん事業じぎょうとして手塚てづかプロダクションとの協賛きょうさん)。日本生命にほんせいめいセ・パ交流こうりゅうせん西武せいぶドーム開催かいさいされた西武せいぶせんでは、しくもレオとの対決たいけつとなり、手塚てづか治虫おさむダービーと銘打めいうたれた。

また2013ねん4がつには、「読売よみうりジャイアンツ」(巨人きょじん)と「鉄腕てつわんアトム」のコラボレーション企画きかく「GIANTS×ATOM」が発表はっぴょうされた。この企画きかくでは鉄腕てつわんアトムの登場とうじょう人物じんぶつたち読売よみうり巨人軍きょじんぐんのユニフォームをたキーホルダー、うちわ、タオルハンカチなどが商品しょうひんされ東京とうきょうドームうちグッズ売店ばいてんとうりだされることになった。

なお、手塚てづか自身じしん阪神はんしんタイガースのファンであった。1950ねん年賀状ねんがじょうでは、「野球やきゅうものもかんがえていますが近頃ちかごろ阪神はんしん不振ふしんに聊(いささ)かくさっているのでがありません」と1949ねん当時とうじのユニフォーム[注釈ちゅうしゃく 15]とら素振そぶりをしているイラストにえてコメントしており[153]実際じっさい野球やきゅう主題しゅだいとする作品さくひんえがくことはなかった。ただし、年賀状ねんがじょういた1950ねん連載れんさいした『タイガー博士はかせちん旅行りょこう』は「タイガース」という野球やきゅうチームがあちこちを旅行りょこうする道中どうちゅう野球やきゅうのプレーはしない)である。1985ねん阪神はんしんがセ・リーグ優勝ゆうしょうたし日本にっぽんシリーズ同年どうねんのパ・リーグ優勝ゆうしょうチームである西武せいぶ対戦たいせんしたときは「どちらもて」とだいよわりだったという[154]

関係かんけいふか漫画まんが[編集へんしゅう]

藤子とうこ不二雄ふじお
藤子とうこ不二雄ふじお藤本ふじもとひろし安孫子あびこゆう)の二人ふたりは、手塚てづか治虫おさむの「しん寶島たからじま」に衝撃しょうげき漫画まんがこころざした。かれらは学生がくせい時代じだい手塚てづかのファンとして手塚てづかにハガキをし、その返事へんじとして「しっかりしたタッチで将来しょうらいがたのしみです」との直筆じきひつのハガキをった。そのハガキには手塚てづかのキャラクターの一緒いっしょに、文字もじれつ角度かくどえながら中心ちゅうしんちかづくようにかれており、ハガキをぐるぐるまわしながら文字もじれつむという手塚てづからしいじつ独特どくとくなものであった。このハガキが、ますますかれらの漫画まんがへのこころざし拍車はくしゃをかける。藤子とうこ不二雄ふじお当初とうしょ手塚てづかにちなみ、「手塚てづか不二雄ふじお」のペンネームで漫画まんが投稿とうこうする。しかしあまりにも露骨ろこつなため、「手塚てづかあしにもおよばない」という意味いみめ「あしづか不二雄ふじお」に変更へんこうした。
高校こうこう3ねんのときに、かつて手塚てづかが「マァチャンの記帳きちょう」を連載れんさいしていた新聞しんぶんに「いま手塚てづか先生せんせい漫画まんがっていないのでかわりにぼくたちの漫画まんがせてください(要約ようやく)」との手紙てがみえて漫画まんが天使てんしたまちゃん」を投稿とうこう。それが採用さいようされプロデビューをたす。その3かげつ二人ふたり手塚てづか実家じっかおとずれている。藤子とうこ単行たんこうほんデビューさくUTOPIA 最後さいご世界せかい大戦たいせん」は、手塚てづか紹介しょうかい出版しゅっぱんしゃ藤子とうこ執筆しっぴつ依頼いらいし、ることになった。
その上京じょうきょうした藤子とうこ不二雄ふじおは、手塚てづかんでいた「トキワそう14ごうしつ」にわりで入居にゅうきょしてらすこととなる。手塚てづかはおかねのない二人ふたりのために敷金しききん肩代かたがわり(藤子とうこは2ねん返還へんかん)と、漫画まんがえがくためのつくえのこしている。そのため、藤子とうこ不二雄ふじお初期しょき作品さくひん手塚てづかつくええがかれたものである[注釈ちゅうしゃく 16]あこがれの手塚てづかんでいた、トキワそう14ごうしつめたことについて藤本ふじもとは、「四畳半よじょうはんというものがこんなにひろいものかと感動かんどうしました[155]」とかたる。安孫子あびこ自身じしん漫画まんがでトキワそう14ごうしつ宇宙うちゅうのような壮大そうだい情景じょうけいえがいている。その、たびたび手塚てづか治虫おさむ緊急きんきゅうアシスタントとして手塚てづか仕事しごと手伝てつだっていた。
藤本ふじもとは、生涯しょうがいにわたって手塚てづかを「最大さいだい漫画まんが神様かみさま」と尊敬そんけいつづけ、自伝じでん漫画まんがかたほん手塚てづか絶賛ぜっさんしていた。安孫子あびこ同様どうよう手塚てづか尊敬そんけいし、自伝じでん漫画まんがまんがどう」では手塚てづか最大さいだいとして登場とうじょうさせ、「手塚てづか治虫おさむはふたりにとってかみであった」「いや、日本にっぽんちゅう漫画まんが少年しょうねんにとってもかみであった」と頻繁ひんぱん手塚てづかを「かみ」と表現ひょうげんした。現在げんざい手塚てづかが「漫画まんが神様かみさま」としょうされるのはかれらの影響えいきょうおおきい(それ以前いぜん漫画まんが王様おうさまといわれてもいたがドラえもんブームのさいはコロコロコミックとう藤子とうこ漫画まんが王様おうさまばれた)。藤子とうこ不二雄ふじお漫画まんが25周年しゅうねんむかえたさいには手塚てづかタッチのドラえもんとドラえもんふうのヒョウタンツギをえがいた色紙いろがみをプレゼントしている。その25周年しゅうねん記念きねんパーティーは手塚てづか仕切しきり、二人ふたり二次会にじかいまでれていっている[156]
手塚てづか藤子とうこ不二雄ふじおのスタジオに突然とつぜんひょっこり「ハハハ、たよ」ととく用事ようじもないのにふらっとあらわれることもあった[156]。また安孫子あびこ新宿しんじゅくとりんでいると、そのことをきつけた手塚てづかがやってくることもあったという。手塚てづか藤本ふじもと二人ふたりで「惑星わくせいソラリス」などの映画えいがることもあった。
手塚てづか藤子とうこほん寄稿きこうで「オバケのQ太郎たろう」のことを「おばけという概念がいねんをこれほどまでにキュートに、どもの世界せかいにひきずりおろしてえがいた作品さくひん以前いぜんにないでしょう。アメリカには幽霊ゆうれいどもを主人公しゅじんこうにしたキャスパーというれいがありますが、これよりもずっととぼけていてせいかくづけがみごとです。」「キャラクターのえがきやすさのてんでも、まず、オバQくんにかなうものはありますまい。(日本にっぽん現在げんざいのようなキャラクター漫画まんが流行りゅうこうするまえ発言はつげん)」とかたっている[157]
手塚てづか治虫おさむ漫画まんがななしょくいんこ」では藤子とうこのドラえもんが登場とうじょうするコマがある。「黄金おうごんのトランク」では主人公しゅじんこう名前なまえゆうである。「どろろ」と「バンパイヤ」には「オバケのQ太郎たろう」が登場とうじょう。「がちゃぼい一代記いちだいき」では、藤本ふじもと安孫子あびこ手塚てづかのアシスタントをする様子ようす手塚てづか自身じしんえがいている。手塚てづか治虫おさむ漫画まんが全集ぜんしゅうの「ジャングル大帝たいてい」のあとがきには藤子とうこ不二雄ふじお二人ふたりけて、アシスタントしてくれたことにたいする感謝かんしゃ言葉ことば激励げきれいかれている。藤子とうこ二人ふたり結婚式けっこんしき仲人なこうど手塚てづかつとめた。藤本ふじもとは、手塚てづかくなったときの追悼ついとうぶんで「高校生こうこうせいになっても先生せんせいのまんがをつづけ……、がついてみると自分じぶんもまんがになっていた」とかたっている[158]
手塚てづか藤本ふじもと安孫子あびこの3にんんでいた「トキワそう14ごうしつ」の天井てんじょうは、トキワそう解体かいたい手塚てづかかえっている。その理由りゆうは「室内しつないにこんろをんでごはんいたり、煮炊にたきをした。あのときけむり天井てんじょうにしみんでいるはず。大家たいかさんにたのんで天井板てんじょういた記念きねんゆずってもらいます」とのこと[159]
石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう
石ノ森いしのもりきゅう石森いしもり章太郎しょうたろう)も手塚てづか治虫おさむの「新寶しんぽうとう」に衝撃しょうげきけた[160]中学生ちゅうがくせいころ手塚てづか分厚ぶあついファンレターをしたところ、手塚てづかからさらに分厚ぶあつ封筒ふうとう返事へんじとどき、ますます手塚てづかのファンになったという[160]
石ノ森いしのもり高校こうこう在学ざいがく手塚てづか連載れんさいしていた『漫画まんが少年しょうねん』の投稿とうこうらん投稿とうこうをするようになる。手塚てづか漫画まんが少年しょうねんおくってきた石ノ森いしのもりのことを、「天才てんさいてき少年しょうねん」とめている[161]。そして「鉄腕てつわんアトム」執筆しっぴつちゅう手塚てづか依頼いらいされ、石ノ森いしのもり学業がくぎょう中断ちゅうだんして手塚てづかのアシスタントをつとめた。手塚てづかかいうごとに上手うまくなる石ノ森いしのもりしたき、仕事しごと手伝てつだってもらったとかたる。アシスタント経験けいけんちゅうは、手塚てづか激務げきむだったはずが石ノ森いしのもり映画えいがしている。そのときの様子ようす石ノ森いしのもりは「ギリギリの仕事しごとのなかで、あるよるになると編集へんしゅうしゃぬすんで、こっそりぼくを映画えいがかんれてってくれた。ぼくだって当時とうじのご多分たぶんにもれぬ映画えいが少年しょうねんである。編集へんしゅうしゃにはもうしわけないが、ちゃっかり便乗びんじょうしていた」とかたる。そして、手塚てづか編集へんしゅうしゃ紹介しょうかいしたことにより、石ノ森いしのもり漫画まんがとしてデビューすることになった。その石ノ森いしのもり手塚てづかんでいたトキワそうんだ。手塚てづか自身じしん漫画まんが石ノ森いしのもりをたびたび登場とうじょうさせている。石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう結婚式けっこんしき仲人なこうどは、遅刻ちこくするも手塚てづかつとめた。テレビ映画えいがかいすぐるハリマオ」の漫画まんがばんでは手塚てづか原作げんさく作画さくが石ノ森いしのもりともさくをした。1959ねん石ノ森いしのもり手塚てづかのアシスタントだった月岡つきおか貞夫さだおとともに、手塚てづか治虫おさむ身代みがわりとして東映動画とうえいどうが劇場げきじょうアニメ『西遊せいゆう』の制作せいさく現場げんば派遣はけんされた。のちに、この体験たいけん石ノ森いしのもり東映とうえいグループでゴレンジャースーパー戦隊せんたいシリーズとう代表だいひょうとする、特撮とくさつ作品さくひん原作げんさく担当たんとうするきっかけにつながる。
また、石ノ森いしのもり手塚てづかくなるすこまえにも対談たいだんをしており、石ノ森いしのもり手塚てづかのことを「面白おもしろおかしく事象じしょう表現ひょうげんするだけ、とおもわれていた漫画まんがというメディアで、ペーソスのみならず悲劇ひげきふか哲学てつがくてき思索しさくまでんで、ドラマをえがくというこころみは前人未到ぜんじんみとうのことだった。」とかれ業績ぎょうせき評価ひょうかしている[162]手塚てづか対談たいだん石ノ森いしのもり漫画まんが仮面かめんライダー」のことを「かえし、かえまれてもちっとも見劣みおとりしない作品さくひん」とめている[163]
石ノ森いしのもりはデビューのおかねのない19さいころ手塚てづか内緒ないしょで「とりかぜ太郎たろう」という、手塚てづか代表だいひょうさくのアイデアを使つかった作品さくひんえがいている。ほんさくられた原稿げんこうりょうは、すべてオーディオ機器きき購入こうにゅうするためにてられた。
赤塚あかつか不二夫ふじお
赤塚あかつか不二夫ふじお手塚てづか治虫おさむ漫画まんが新寶しんぽうとう」「ロストワールド」に出会であったことで、漫画まんがになることを決意けついした[164]かれが18さいとき長谷ながたに邦夫くにお石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう一緒いっしょに『墨汁ぼくじゅういちてき』をえが仲間なかまとして手塚てづかいえ訪問ほうもんした[165]。そのとき手塚てづかりにわれいそがしいにもかかわらず赤塚あかつかいたる似顔絵にがおええがいたり、ピアノを披露ひろうしたりしてかれらは感銘かんめいける。赤塚あかつか新人しんじん漫画まんがとしてデビューしたころ、手塚てづかは「赤塚あかつかクン。りっぱな漫画まんがになるには一流いちりゅう映画えいがなさい、一流いちりゅう小説しょうせつみなさい、そして一流いちりゅう音楽おんがくきなさい」と助言じょげんした。手塚てづか言葉ことばしたがい、赤塚あかつかはレコードてんき、店員てんいんに「一流いちりゅう音楽おんがくきたいんです。一流いちりゅうのレコードをください」とうが、店員てんいんなにわたしたらいいのかからずこまったという[166]。その赤塚あかつか手塚てづかんでいたトキワそうらした。手塚てづかはトキワそうのメンバーに同様どうように「マンガからマンガを勉強べんきょうするんじゃないよ。」「一流いちりゅう芝居しばいなさい、一流いちりゅうほんみなさい」などとっており、赤塚あかつかは「だからぼくたち(トキワそうメンバー)はあのころ、ほとんどしゅなんてまなかった。そのかわり、映画えいがこう、音楽おんがくこう、ジャズのコンサートにこう、小説しょうせつもう。手塚てづか先生せんせいがそうしろってったから。」「そのときはわからなかった。それでのちになってからその意味いみがわかってくる。手塚てづか先生せんせいのおっしゃってたことは、やっぱりすごくおおきいのだ。いい音楽おんがくきなさい。いい映画えいがなさい。いい芝居しばいをみなさい。本当ほんとう大事だいじおしえだったんだといまにしてあらためておもうのだ」とかたっている[167]手塚てづか赤塚あかつかをたびたび自身じしん漫画まんが登場とうじょうさせている。それと同時どうじ手塚てづか赤塚あかつかのギャグである「シェー」などっていたのか「W3」「とり」など複数ふくすう作品さくひん使つかっている。手塚てづかの「ブラック・ジャック」の『アヴィナのしま』のかいでは赤塚あかつかの「天才てんさいバカボン」のパパが登場とうじょうする。
赤塚あかつかはトキワそう時代じだい手塚てづかのアシスタントをつとめたことがある。また赤塚あかつか雑誌ざっし企画きかくで「赤塚あかつか不二ふじむし」のペンネームで、『鉄腕てつわんアトムなのだ!』という手塚てづか作品さくひんのパロディ漫画まんがえがいている[168]。そのなかにはとりやヒョウタンツギなどが登場とうじょう。その表紙ひょうしには「わたしにこのマンガをかかせた手塚てづか治虫おさむ先生せんせいにこの1へんをささげます」とかれている。
水野みずの英子えいこ
水野みずの英子えいこも、小学しょうがく3年生ねんせいとき手塚てづか治虫おさむ漫画まんが衝撃しょうげきけて漫画まんがこころざす。水野みずのは16さいころ手塚てづかいたいとつたえて東京とうきょう手塚てづか出会であった。すうねん水野みずの上京じょうきょうして手塚てづかんでいたトキワそう住人じゅうにんとなる。水野みずの女性じょせい少女しょうじょ漫画まんが草分くさわてき先駆さきがけとなった(それまでの少女しょうじょ漫画まんがはほとんどの場合ばあい男性だんせいえがいていた。)
水野みずの手塚てづかかえってつぎのようにかたっている。「わたしはじめて先生せんせい漫画まんが出会であったときのショックをどういいあらわしたらよいでしょう。そこには絢爛けんらんたるファンタスティック・ワールドがひろがっていたのです!SF・西部せいぶげき・ミステリー、おとぎばなし次々つぎつぎひろげられるらぬ魅惑みわくてき世界せかいまちちゅう本屋ほんやさんをめぐり、いちさつとも見逃みのがすまいとするのがあのころのわたし日課にっかでした。やっともとめたほんを、いえかえるのももどかしく、みながらあるいているうちに夢中むちゅうになっていえまえとおりすぎてしまったこと。おやんでもかなかったわたしがジャングル大帝たいていのラストシーンではもうなにえなくなるぐらいショックでいてしまったこと…」「わたしは、ついに自分じぶん漫画まんがえがこうと決心けっしんし、漫画まんがへのみちあゆはじめました。じゅうななさい上京じょうきょうし、とうとう本物ほんもの先生せんせいにおいできたとき感激かんげき銀座ぎんざ喫茶店きっさてんでにこやかにやさしくわたしむかえてくださった先生せんせいのまぶしさ!手塚てづか先生せんせい最初さいしょ入居にゅうきょなさったというアパートトキワそうに、当時とうじ新人しんじん実力じつりょくしゃたちといっしょにむことができたうれしさ![169]手塚てづか水野みずののことを自著じちょで「天才てんさい水野みずの英子えいこ」といている[170]
横山よこやま光輝みつてる
横山よこやま光輝みつてるも、手塚てづか治虫おさむの「メトロポリス」に感銘かんめい漫画まんがこころざす。しかし、高校こうこう卒業そつぎょう一旦いったん就職しゅうしょくした。
手塚てづかはある大阪おおさか東光とうこうどう社長しゃちょうれられたスマートな青年せいねん出会であう。社長しゃちょうはその青年せいねん神戸銀行こうべぎんこうつとめているとい、社長しゃちょうは「うちでデビューさせようとおもいますが、どうでっしゃろ?」といた。手塚てづかかれ作品さくひんみ、「れるかもれませんな」とめ、その青年せいねん漫画まんがとしてデビューすることになった。その青年せいねんこそが横山よこやま光輝みつてるである[171]横山よこやまはその手塚てづか原作げんさくとし「黄金おうごん都市とし」「ターザンの洞窟どうくつ」など作画さくがした。手塚てづか横山よこやまを「かれほど"彗星すいせいのように"という形容けいようのあてはまるおとこはいない」と絶賛ぜっさんしている[171]。「鉄人てつじん28ごう」は『少年しょうねん誌上しじょう手塚てづかの「鉄腕てつわんアトム」と人気にんき二分にぶんするだいヒットさくとなった。サンケイ新聞しんぶん記者きしゃとして、工業こうぎょう関係かんけい取材しゅざい経験けいけんのあった横山よこやまは、「最初さいしょおおきくしかできず、それからちいさくなる」とかんがえ、手塚てづか治虫おさむの『鉄腕てつわんアトム』を意識いしきして鉄人てつじん28ごう大型おおがたロボットにしたともかたっていた。プライベートでも手塚てづか横山よこやまいがあったようで、横山よこやま東京とうきょうたばかりのころには、手塚てづかがいろいろアドバイスしていた[172]横山よこやま手塚てづかのアシスタントも経験けいけんしている。
手塚てづかくなったさい横山よこやまは「いつもぼく手塚てづかさんの作品さくひん参考さんこうにしてものをかんがえてきましたから、すべての作品さくひんから影響えいきょうけています。技法ぎほうてんでいえばアングルのかたがとても上手じょうずだった。かげうしろにのばしたり、かべおおきくうつしたり。わかいころはよく食事しょくじをごちそうになったりしたものです。やさしくて、とても他人たにん使つかひとでしたよ。」とかたった[173]
手塚てづか生前せいぜん、「横山よこやまさんはいろんなジャンルの仕事しごとをされましたが、この『鉄人てつじん28ごう』と『伊賀いがかげまる』それに『三国志さんごくし』のみっつは、エポックメーキングなものでしょう。娯楽ごらくマンガの功労賞こうろうしょうがあれば、横山よこやまさんにぜひ一番いちばんにさしげるべきではないかとおもいます」と発言はつげんしている[174]
松本まつもとれい
松本まつもとれいも、小学しょうがく2・3年生ねんせいころ学級がっきゅう文庫ぶんこ手塚てづか治虫おさむえがいたほんんで漫画まんがこころざした[175]。それは手塚てづかの「新宝しんぽうとう」「キングコング」「火星かせい博士はかせ」「月世界げっせかい紳士しんし」であった。
松本まつもとは、「手塚てづかさんの漫画まんががそれまでのどんな漫画まんがよりもスピーディでかっこよかった。おそらく、当時とうじ全国ぜんこく漫画まんが少年しょうねんたちが度肝どぎもかれたのではないか」とかた[175]松本まつもと手塚てづか連載れんさいしていた『漫画まんが少年しょうねん』の投稿とうこうらん常連じょうれんになる。そして高校生こうこうせいのとき、それを手塚てづかから「テツタイコウ テツカ(手伝てつだう。手塚てづか)」の電報でんぽうる。松本まつもと最初さいしょはイタズラかとおもったが、それはイタズラではなく本当ほんとう手塚てづか緊急きんきゅうのアシスタントをもとめた電報でんぽうであった。そこで松本まつもと緊急きんきゅうアシスタントとして出向でむいて手塚てづか手伝てつだいながら、漫画まんがについて質問しつもんした。この出来事できごとは、松本まつもとがプロ漫画まんが目指めざおもいをつよめた[176]松本まつもとがプロの漫画まんがになり、上京じょうきょうしてからも手塚てづかとは親交しんこうがあり、手塚てづか一人ひとり突然とつぜん松本まつもと下宿げしゅくさきおとずれ、まどそとから「おーい松本まつもとくん。メシわせるから、てこーい。」とさそったこともあったという。
松本まつもと手塚てづかったのは、おたがいがあけっぴろげだからとかたっている[177]
手塚てづか漫画まんがばるぼら」には松本まつもとれいをモデルにした「松本まつもとうらら」という登場とうじょう人物じんぶつ登場とうじょうし、漫画まんがほん収集しゅうしゅうという設定せっていで、物語ものがたり重要じゅうよう場面ばめんかかわってくる。
また松本まつもとは、日本にっぽんはつの30ふんテレビアニメシリーズ[注釈ちゅうしゃく 2]となった「鉄腕てつわんアトム」にもえんがある。松本まつもとは「鉄腕てつわんアトムですが、じつわたし関係かんけいしているんです。試写ししゃかい前日ぜんじつ夜中よなか手塚てづかさんからわたし下宿げしゅくに『たすけてくれ!』と電話でんわがあり、『映写機えいしゃきこわれて編集へんしゅうができない』というので、わたし映写機えいしゃきってったんです。アトムだいいち後半こうはんわたし映写機えいしゃき編集へんしゅうして試写ししゃかいおこなっているんですよ[178]。」とかたっている。「わたし手塚てづかさん、それと石ノ森いしのもり章太郎しょうたろうの3にん自称じしょうアニメマニアというなか将来しょうらいはアニメ映画えいがつくろうというゆめっていて、おたがいにいろいろな機材きざい資料しりょうかしっていたんですがおにんともくなってしまって。おにんからりた機材きざいもまだっているんですが、いまでは遺品いひんになってしまいましたね。」ともかたる。
松本まつもと熱心ねっしん手塚てづか治虫おさむ作品さくひんのコレクターでもあり、手塚てづか自身じしんっていなかった初期しょき作品さくひんすべ所有しょゆうし、1さつすうひゃくまん値段ねだんけた「新宝しんぽうとう」のはつ版本はんぽんっている。2013ねんには、手塚てづか治虫おさむ発表はっぴょう原稿げんこう個人こじんてき発見はっけんしたことでニュースにもなった。
手塚てづか治虫おさむ没後ぼつごおもかえってかれた寄稿きこう[179]なかには手塚てづか治虫おさむとの遭遇そうぐうから手塚てづかさい晩年ばんねん二人ふたりがある会場かいじょう出会であったさい手塚てづか松本まつもとたいして自分じぶん胃癌いがんであるとげたという回想かいそう記述きじゅつがある。
永井豪ながいごう
永井豪ながいごうも、手塚てづか治虫おさむ影響えいきょう漫画まんがこころざしたとかた[180]。「ぼく人生じんせい手塚てづか先生せんせい作品さくひんからはじまった。」[181] ともかれ子供こどものころに手塚てづか治虫おさむ漫画まんがをよくみいつも衝撃しょうげきけていた。永井ながいはじ手塚てづか治虫おさむのアシスタントになるために手塚てづかプロダクションに出向でむいたが、あいにく手塚てづか連絡れんらくかず、わりに知人ちじん紹介しょうかいされた石ノ森いしのもり章太郎しょうたろうした仕事しごと手伝てつだうことになった[182]
永井ながい自身じしん半生はんせいかえり「わたし少年しょうねん時代じだい手塚てづか作品さくひんごす時間じかんもっとしあわせな時間じかんだった。学校がっこうでイヤなことがあったときも、手塚てづか漫画まんがわたししんをいやしてくれた。自分じぶん手塚てづか先生せんせいのように漫画まんがになりたいとかんがえたのは自然しぜんき。そしてわたし漫画まんがになった。しかし手塚てづか先生せんせいにはなれなかった・・・永井豪ながいごうになってしまった」とかた[183]。またアンソロジーコミック『ブラック・ジャックALIVE』で永井豪ながいごうがブラック・ジャックをえがいたときには、ブラック・ジャックと永井豪ながいごう自身じしん学生がくせい時代じだい手塚てづかをいっしょに登場とうじょうさせ、ブラック・ジャックが学生がくせい時代じだい手塚てづかに「おまえ漫画まんがより医者いしゃいている」と発言はつげんすると、手塚てづか治虫おさむキャラ全員ぜんいん永井豪ながいごう存在そんざいえかかった(もしも手塚てづか治虫おさむ漫画まんがになっていなかったら永井豪ながいごう漫画まんがになっていなかったという表現ひょうげん)。
永井ながいのデビューは、手塚てづかとプライベートでも親交しんこうがあった。手塚てづか永井ながいふくすうかい一緒いっしょ旅行りょこうしており、SF作家さっかクラブのメンバーと旅行りょこうしたり、サンディエゴのコミックコンベンションにかけたことがある。ロスではにんっきりで映画えいがシャイニング」をた。手塚てづか永井ながいたいして「つよしちゃん、短編たんぺんをたくさんえがきなさい。短編たんぺん大事だいじですよ」といつもアドバイスをおくっていた[184]
永井ながい結婚式けっこんしきでは手塚てづかがスピーチをおこなっている(『コミックボックス』1989ねん5がつごう当時とうじ写真しゃしん掲載けいさいされている)。
古谷ふるやさんさとし
古谷ふるやも、手塚てづか漫画まんが新宝しんぽうとう』をんで漫画まんがこころざした[185]かれはそのときの様子ようすつぎのようにかたっている「ぼくも子供こどもころ手塚てづか先生せんせいの『新宝しんぽうとう』をんで衝撃しょうげきけたひとりです。それまでの漫画まんがくらべてスピードかんがあって、ストーリーもも、いままでの日本にっぽんにない。ディズニー映画えいがのようなアメリカナイズされた文化ぶんか垣間見かいまみかんじがしました。なにひゃくかいんだかわかりませんし、『新宝しんぽうとう』をんで漫画まんがになろうとめたんです。ぼくのデビューさく『みかんのはなおか』も手塚てづか先生せんせい漫画まんがをずいぶんと参考さんこうにしています。」その古谷ふるや手塚てづかのアシスタントを経験けいけんした。手塚てづかはアシスタントに給料きゅうりょうわたさいに「かならず映画えいがるんだぞ」といながら笑顔えがおで1000えんわたしていた(そのころはレストラン定食ていしょくが50えんべられる時代じだいであり、映画えいがてもおりがくる)。古谷ふるやはいつもよろこんで映画えいがていた[186]。アシスタントちゅう徹夜てつやけで手塚てづかとホテルからてきたときに「おれは手塚てづか治虫おさむ一緒いっしょあるいているんだ」とうれしくなったという。
さいとう・たかを
さいとう・たかをも、手塚てづか治虫おさむあこがれて漫画まんが目指めざした。手塚てづか治虫おさむの「新宝しんぽうとう」をみ、「かみ映画えいがつくれる!」と興奮こうふんしたという[187]昭和しょうわ30ねんごろの学生がくせい時代じだいには漫画まんが志望しぼうしゃとして手塚てづか治虫おさむ自宅じたくたずねた。しかし、うんわる手塚てづかはすでに東京とうきょう上京じょうきょうしていたため、さいとうは手塚てづかうことはできず、手塚てづかはは二言にごんさんことはなしただけでかえることになった[188][注釈ちゅうしゃく 17]。このころのさいとうは、手塚てづかのようなまるっこい絵柄えがらであった。
その、さいとうは「手塚てづかあこがれて漫画まんが目指めざしたが、手塚てづか調ちょうまるっこいタッチのえがけず現在げんざいになった」と証言しょうげんしている。さいとうはのちに「劇画げきが」とばれる分野ぶんや開拓かいたく貢献こうけんし、手塚てづかおおきなライバルとして、かれ漫画まんが生命せいめいおおきくるがした。
さいとうが辰巳たつみヨシヒロたち工房こうぼうげ、「打倒だとうしゅづかだ!」とったときは、じつはさいとう以外いがい全員ぜんいん熱心ねっしん手塚てづかファンであったため、「おまえなに程知ほどしらずなことをっているんだ」とわれたという[189]
さいとうは、のちに手塚てづか漫画まんが過去かこからのこえ」でともさくをしており、そのときは原作げんさく手塚てづか作画さくががさいとうであった。『ビッグコミック』では、よんだい作家さっか競作きょうさくとして石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう藤子とうこ不二雄ふじお、さいとう・たかを、手塚てづか治虫おさむの4にん競作きょうさくをしている。
さいとうは手塚てづかくなったときに「いままで目標もくひょうとし、のぼっていたおおきなやま突然とつぜんなくなったようながします」とかたった[190]
辰巳たつみヨシヒロ
手塚てづかの「新宝しんぽうとう」に衝撃しょうげきけて漫画まんがこころざした[109]辰巳たつみ当時とうじかえり「手塚てづか治虫おさむというはじめてにする作者さくしゃ作品さくひんはこれまでの漫画まんが常識じょうしき根本こんぽんからくつがえ画期的かっきてき世界せかい構築こうちくしていた」、「ぼくにとって手塚てづか治虫おさむ神様かみさまにも匹敵ひってきする存在そんざいになっていた」とかたっている[191]少年しょうねん時代じだい辰巳たつみ宝塚たからづか手塚てづかいえ訪問ほうもんしたこともある[192]手塚てづか辰巳たつみやさしく自室じしつまねれ、辰巳たつみ持参じさんした4コマ漫画まんがみ「長編ちょうへんえがきませんか?これからは4コマを発表はっぴょうする場所ばしょがだんだんなくなります。ぜひ長編ちょうへんえがきなさい」と助言じょげんした。これは辰巳たつみにとっておおきな助言じょげんになる。またジャングル大帝たいていだいいち連載れんさいまえのカラーページを手塚てづかせてもらい、身震みぶるいし度肝どぎもかれたとかたっている[193]。その辰巳たつみ漫画まんがとしてデビューし、手塚てづか鉄腕てつわんアトムに影響えいきょうけた「鉄腕てつわんげんふとし」という漫画まんがえがいた。しかし、すうねん、あえて手塚てづか治虫おさむとはべつの「まんがではないまんが」を模索もさくするようになる[194]。その結果けっか辰巳たつみ劇画げきが開拓かいたくしゃになった。「劇画げきが」という辰巳たつみ考案こうあんしたものである。
辰巳たつみは『劇画げきが宣言せんげん』という内容ないよう封書ふうしょをいくつかづかにもおくった。しかし、手塚てづかはその辰巳たつみたいし、商業しょうぎょう主義しゅぎてきになっていく劇画げきが風潮ふうちょうたいして忠告ちゅうこくした[195]。また手塚てづか文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう漫画まんがしょう受賞じゅしょうしたとき、さいとう・たかを、佐藤さとうまさあきとともに辰巳たつみ授賞じゅしょうしき招待しょうたい[196]、1982ねんには辰巳たつみのフランス旅行りょこう途中とちゅうから同行どうこうしたこともあった[197]
つげ義春よしはる
小学しょうがく4年生ねんせいのころに手塚てづか治虫おさむのマンガに熱中ねっちゅうしはじめる。新刊しんかんると本屋ほんやはし日々ひびであった。まずしさのためははってもらうことはできず、3かげつに1くらいかえってくる泥棒どろぼう祖父そふちわび、っていたが、そのあいだほん売切うりきれてしまうのをあんじ、手持てもちのおもちゃをおもちゃっておかね工面くめんした。それでもはいらないときは、万引まんびきをしようと本屋ほんやまえをうろうろするほどであった。16さいのとき、一人ひとり部屋へや空想くうそうしたり、きないていられる職業しょくぎょうとして漫画まんがになることをこころざす。当時とうじ、トキワそうんでいた手塚てづか治虫おさむたずね、原稿げんこうりょうがくなどをききだし、プロになる決意けついつよめる[198]
白土しらつち三平さんぺい
貸本かしほん時代じだい白土しらつちは、手塚てづか漫画まんがえがいていた。白土しらつち初期しょき作品さくひんあらし忍者にんじゃ」では手塚てづかのスターシステムのキャラクターが登場とうじょうするなど、その影響えいきょうることができる[199]白土しらつちは、「紙芝居かみしばいをやっていたころ。いわゆるユーモアマンガで手塚てづかさんを勉強べんきょうした[200]。」という。手塚てづかもそのことに言及げんきゅうしており、「たとえば白土しらつち三平さんぺいやつげ義春よしはるのかつての作品さくひんが、円熟えんじゅくした時代じだいのものにくらべて、きわめて手塚てづかてきであるのは、おそらくはぼくの漫画まんが教科書きょうかしょとして使つかったのであった。イミテーションをのぞんでいたわけではないはずだ」とかたっている[201]白土しらつち徐々じょじょ手塚てづかてき作風さくふうめ、劇画げきが作家さっかへと転向てんこうし、手塚てづか最大さいだいのライバルとしてちはだかった。劇画げきがブームがきると、白土しらつちひきいる「ガロ」に対抗たいこうして手塚てづかは「COM」をげた。手塚てづかは「白土しらつち三平さんぺい登場とうじょうしてから、子供こども漫画まんがには重厚じゅうこうなドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求ようきゅうされるようになった」とかたっている[202]手塚てづか漫画まんが「ネオ・ファウスト」では、登場とうじょう人物じんぶつ白土しらつち漫画まんがみ、内容ないようから教訓きょうくんようとするシーンが登場とうじょうする。白土しらつち手塚てづかくなったさいに、「がついてみたら、わたしもいつかこの世界せかいめしっていたのだが、手塚てづかさんは我々われわれ偉大いだい先輩せんぱいであるとともに、おおくの日本人にっぽんじんにとってもわすれえぬひとでありつづけるだろう。ひと運命うんめいとはいえ、じつ残念ざんねんである[190]。」と発言はつげんしている。
大友おおとも克洋かつひろ
大友おおとも子供こどものころからの手塚てづかファンとかたっており、とく少年しょうねん時代じだいは「鉄腕てつわんアトム」のアニメをるため、放映ほうえい時間じかんになるとまっていえかえっていたという[203]。またマーブルチョコも、アトムのおまけのシールしさによくっていた。「ぼく手塚てづか作品さくひん最初さいしょきなのは鉄腕てつわんアトムなんだけどビッグXもきだし、高校生こうこうせいのころはとりんでいた」ともかたり、手塚てづか治虫おさむ漫画まんが全集ぜんしゅう全巻ぜんかんそろえている[204]大友おおとも克洋かつひろは、高校生こうこうせいのころにとり連載れんさいしていた手塚てづか治虫おさむ雑誌ざっし「COM」に漫画まんが投稿とうこうしている。デビュー初期しょき作品さくひん「FIRE BALL」ではてきのコンピューターの名前なまえに「アトム」を使つかっている。
また大友おおとも代表だいひょうさくAKIRA」の最終巻さいしゅうかん最後さいごのページには、ほんさく手塚てづかささげるとの一文いちぶんがある。大友おおともは、手塚てづか作品さくひん原作げんさくとする劇場げきじょうようアニメーション映画えいが『メトロポリス』で脚本きゃくほん担当たんとうしている。2005ねん監督かんとく作品さくひんスチームボーイ』のタイトルも、「鉄腕てつわんアトム」の英語えいごばんタイトル「アストロボーイ」を意識いしきしたものである。舞台ぶたい挨拶あいさつでは「スチームボーイは手塚てづかさんがやろうとしていた世界せかいかん意識いしきした」とかたった。
雑誌ざっし『ユリイカ』の大友おおとも特集とくしゅうごうで、手塚てづかは「ぼくはデッサンの基礎きそをやっていないから、こんなせられてはたまらない。いちもなく降参こうさんする」と大友おおともりょく賞賛しょうさんしている[205]
また手塚てづかは「大友おおとも克洋かつひろさんの出現しゅつげんによって、劇画げきがはトドメをさされてしまいました。すくないけれどたしかなせんによって、しろっぽい画面がめんのままで、劇画げきが以上いじょうのリアリティがせることが証明しょうめいされてしまったのです」とべ、劇画げきが衰退すいたい大友おおとも一因いちいんがあるとし、その功績こうせきたか評価ひょうかしている[206]
手塚てづか大友おおともをパーティーに招待しょうたいしたさいは「ボクはあなたのました。マンガをね、むしメガネでたけど、それでもデッサンがくるっていませんね。スゴイですよ!」と大友おおとものことを絶賛ぜっさんしている[207]大友おおともはそれにたいして「でもぼく手塚てづか先生せんせいのようなデフォルメされたはかけないんですよね」とかたると手塚てづかは「ぼくえがこうとおもえばだれでもえがけるけど、諸星もろぼし大二郎だいじろうのような星野ほしのせんのようなえがけない」ということも大友おおともらしている[208]
大友おおとも一番いちばんきな手塚てづかキャラは、屈折くっせつしてかげのあるロック・ホームかた[209]大友おおとも脚本きゃくほんがけたメトロポリスには、原作げんさくでは登場とうじょうしないロック・ホームが、重要じゅうよう役柄やくがら映画えいが全編ぜんぺん登場とうじょうする。
大友おおともが1993ねんのNHKラジオ「日曜にちよう喫茶きっさしつ 鉄腕てつわんアトムのおくもの」に出演しゅつえんしたさいに、大友おおとも作風さくふうまれたことについて以下いかのようにかたっている。「ぼく高校こうこうのころから映画えいがきで映画えいがばっかりてましたけど、手塚てづかさんがつくった漫画まんがっていうのは非常ひじょう映画えいがてき漫画まんがなんですよね、むかし漫画まんがくらべると。のらくろだったり、その、むかしふる漫画まんががありますけど、それにくらべると非常ひじょう映画えいがてきにカメラアングルをこったり、カットりみたいなのが素晴すばらしい。それをやっぱり、もう一度いちどやってみたいなっていうのが、むかしみたいなイマジネーションで漫画まんがえがいてみたり、映画えいがのカットりに非常ひじょうちかい、まあ手塚てづかさんがそうつくったからたりまえなんですけど、それはありましたね、それを自分じぶんでもやってみたくなっちゃう。」「ぼく手塚てづかさんみたいに枚数まいすうえがけないんでせんかず勝負しょうぶしている。」また手塚てづか大友おおとものことを『降参こうさんする』とったことについては「おれなんかをそんなふうっていいのかなとおもった」という。大友おおとも手塚てづかから漫画まんがのパーティーにさそわれたときのことは、「女房にょうぼう電話でんわて『手塚てづか治虫おさむから電話でんわたよ』ってわれて非常ひじょうにビックリした」とかたっている[210]
大友おおともは2014ねんのアニメビジエンスNo.3で大友おおともタッチの鉄腕てつわんアトムをえがいた。
萩尾はぎお望都もと
萩尾はぎお高校こうこう2年生ねんせいのころに手塚てづか漫画まんが新撰しんせんぐみ」に出会であい、つよ衝撃しょうげき漫画まんがこころざした。そのつよ衝撃しょうげき様子ようす彼女かのじょはこうかたる「『新撰しんせんぐみ』のクライマックスシーンは、うまでもなく花火はなびのあがる河原かわらでの決闘けっとうシーンだ。このシーンが重要じゅうようなのは、それまでおか十郎じゅうろうささはぐくんできたかれ正義せいぎなさけが、熱意ねついが、信頼しんらいが、ガラガラと崩壊ほうかいしていくさまえがかれているからだ。親友しんゆう大作たいさくじつ長州ちょうしゅうのスパイだった。てきれと土方ひじかた歳三としぞうめいじられたおか十郎じゅうろうくるしみつつあるおおきなコマがある。そのコマにはおおきなふきだしがさんよんあり、新撰しんせんぐみという集団しゅうだん利益りえき忠誠ちゅうせいと、個人こじん意志いし友情ゆうじょうとのあいだかれてゆく、まさにダブルバインドにちたおか十郎じゅうろうくるしみがめんめんとつづられているハズであった。しかしそれはわたしおもみであった。実際じっさいはセリフはぎょうしかない。"大作たいさく・・ゆるしてくれ"。このぎょうわたしにとってひゃくぎょうにもあたいした。このシーンはぐっさりとわたししんにくいこみ、いまだにその衝撃しょうげきわすれることができない[211]。」「のところ、わたしはそのショックで、じゅうななとき漫画まんがになる決心けっしんをしてしまった。」萩尾はぎおはこれをんだのち、1週間しゅうかんぐらいボーっとしたという。
その萩尾はぎお漫画まんがになり手塚てづか雑誌ざっし対談たいだんをしたこともなんかある。手塚てづか萩尾はぎお作品さくひん11にんいる!」にたいして「11にんいる!なんてのはスペース・オペラとしての傑作けっさくだとおもっているんです」と評価ひょうかしている[163]萩尾はぎお手塚てづかぜん作品さくひん所有しょゆうしているほどのだい手塚てづかファンであり、手塚てづかくなったときにはつぎのようにかたった。「わたし手塚てづか先生せんせい写真しゃしんっている。サインほんってる。直筆じきひつってる。でももうなにもいらないから手塚てづか先生せんせい長生ながいきしてほしかった。かなしい。一体いったい、どうしたらいいの。手塚てづか先生せんせい返事へんじしてください[212]。」
里中さとなか満智子まちこ
里中さとなかは、小学校しょうがっこう入学にゅうがく直後ちょくご創刊そうかんされたばかりの『なかよし』で手塚てづか作品さくひん夢中むちゅうになり、愛読あいどくしていた。しかし、彼女かのじょはそれだけではものりず、貸本かしほんかよ手塚てづか作品さくひんをむさぼるようにんでいたという[213]貸本かしほんいてないものは必死ひっしでお小遣こづかいをためてい、友人ゆうじんあにからりたりした。そのなかでも『鉄腕てつわんアトム』にとく夢中むちゅうになった。わるいことをしようとしたときにも「アトムならこんなことをしない」と自分じぶんにいいきかせた。里中さとなかは「グレたりしないできてきたのはアトムのおかげ。アトムをした手塚てづか先生せんせいのおかげ」とかたる。しかし、彼女かのじょ小学しょうがく5年生ねんせいのころに悪書あくしょ追放ついほう運動うんどうこり「鉄腕てつわんアトム」も悪書あくしょとして批判ひはんされることがあった。里中さとなかは「こんなことでは漫画まんがほろぼされてしまう!まもりたい!」とおも漫画まんが目指めざす。里中さとなかは16さいわかさで漫画まんがになった。1972ねん里中さとなかはイベントの移動いどうのため、手塚てづかにんきりで新幹線しんかんせんることとなり、大阪おおさかまでの3あいだ手塚てづか一緒いっしょかたった。そのときの様子ようす里中さとなかは「さんかけ状態じょうたい心臓しんぞうバクバクだったが、手塚てづか先生せんせいやさしかった」とかたる。そのなか手塚てづかは「今後こんごなにえがきたいか」という質問しつもんで「究極きゅうきょくのエロティシズムをえがきたい!エロティシズムって素晴すばらしいですよ!」などとかたり、当時とうじわか女性じょせいであった里中さとなかは、どうこたえしていいかわからずこまったという。しかし「いているだけでしあわせでした」ともかたる。その手塚てづかは、つまとの新婚しんこん時代じだいのことや、息子むすこのことについてなどをかたった。
南部なんぶ正太郎しょうたろう
手塚てづかが「マァチャンの記帳きちょう」などの新聞しんぶん連載れんさいはじめたころ、どう時期じき長谷川はせがわ町子まちこの「サザエさん」(『夕刊ゆうかんフクニチ』)、南部なんぶ正太郎しょうたろうの「ヤネウラ3ちゃん」(『大阪おおさか新聞しんぶん』)などの新聞しんぶん連載れんさい漫画まんがはじまっていた。手塚てづかは『大阪おおさか新聞しんぶん』をかいして南部なんぶい、もう一人ひとり武田たけだすすむくわえて「スリー・メンズ・クラブ」というグループを結成けっせい、たびたび3にん映画えいが漫画まんがについてはなうなどしていた。当時とうじ南部なんぶの『ヤネウラ3ちゃん』の人気にんき圧倒的あっとうてきで、3人組にんぐみ意味いみする「スリー・メンズ・クラブ」の「スリー」を3ちゃんの3のことだとおもひとおおかったという[214]
馬場ばばのぼる
馬場ばばのそのおだやかな人柄ひとがらもあり、手塚てづかしたしい友人ゆうじん一人ひとりとして交際こうさい手塚てづか葬儀そうぎでは加藤かとう芳郎よしおとともに、弔辞ちょうじんだ。手塚てづか作品さくひんひとつ「ななしょくいんこ」では馬場ばばのぼるの絵本えほん作品さくひん11ぴきのねこ」を馬場ばばのぼるの作品さくひんとして物語ものがたりかぎ使つかっている[注釈ちゅうしゃく 18]。また、手塚てづかはやくから馬場ばばをキャラクターとして自作じさく登場とうじょうさせており、なかには「フィルムはきている」の宍戸ししど梅軒ばいけんや「W3」の馬場ばば先生せんせいのように重要じゅうよう役柄やくがら起用きようされるケースもある。「W3」で重要じゅうよう役柄やくがら抜擢ばってきされた理由りゆう馬場ばば手塚てづかたいして「ねえ、たまにはルンペンよりいいやくにしなさいよ」とったことによる。馬場ばば自分じぶんがモデルの馬場ばば先生せんせいが「たいやきは しっぽのなかのアンコで ねうちがわかるんだぞ」という場面ばめん関心かんしんせている。手塚てづか馬場ばば九州きゅうしゅう旅行りょこうかけたおり飛行機ひこうきない手塚てづかが「鳥人ちょうじん大系たいけい」をえがいていると「よくペンがはしるなあ」と馬場ばばあきれたという[215]馬場ばば手塚てづかのことを「手塚てづかさんがあらわれて、どんどん人気にんきがっていったんですね。そうして人気にんきがるにつれ雑誌ざっし手塚てづか調ちょう氾濫はんらんするわけです。」とかたり、手塚てづか訃報ふほうさいには「うべき言葉ことばつかりません。40ねんいでした。開拓かいたくしゃ精神せいしん旺盛おうせいひとで、鉄腕てつわんアトムのアニメをテレビではじめてやったのが手塚てづかさんでした。今月こんげつの1にち手塚てづかくなったのは9にち)にお見舞みまいにきましたが、ねむっておられておはなしをすることはできませんでした。だいぶせられて、あぶないとはおもっていましたが・・・。本当ほんとう偉大いだいほうをなくしました」とかたった[216]
小島こじまいさお
手塚てづか昭和しょうわ30ねん以降いこうに「大人おとな漫画まんが」の世界せかいすすんださいに、大人おとな漫画まんがの「若手わかて作家さっかどうしとして交流こうりゅうはじまる[217]小島こじまは、手塚てづかのしらない「さけおんな世界せかい」の指南しなんやくとなり、手塚てづか銀座ぎんざよるまちさそった[217]。のちににんとも「漫画まんが集団しゅうだん」の一員いちいんとなり、交流こうりゅうふかまる[218]。また、「大人おとなおんなえがけない」漫画まんがだった手塚てづかは、小島こじま漫画まんがのグラマーな女性じょせいキャラクターをして、大人おとな女性じょせいぞうえがくようになった。また、小島こじま主導しゅどうした1963ねんの「日本にっぽん漫画まんが協会きょうかい」の設立せつりつにも、「児童じどう漫画まんが代表だいひょう」として賛成さんせいして支援しえんした[218]
やなせたかし
1960年代ねんだいから晩年ばんねんまで親交しんこうがあった。手塚てづか劇場げきじょうアニメ『せん一夜いちや物語ものがたり』(1969ねん)に当時とうじまだ大人おとな漫画まんがとして活動かつどう現在げんざいほど有名ゆうめいでなかったやなせを美術びじゅつ監督かんとくとして起用きようし、キャラクターデザインもやなせに依頼いらいしている。そのおれいとして手塚てづかはポケットマネーをして、やなせの原案げんあんによるアニメ映画えいがやさしいライオン』を制作せいさくした(大藤おおふじ信郎のぶおしょう受賞じゅしょう)。
やなせは手塚てづかのことを自著じちょアンパンマン遺書いしょ」にてつぎのようにしるしている「当時とうじ小学生しょうがくせい漫画まんががうまいというのは、手塚てづか治虫おさむのマネがいかにうまくできるかということだった。」「手塚てづか治虫おさむという名前なまえは、ぼくもふうのたよりにいてはいたが、それはまったく別世界べっせかいのできごとで、ぼくには無関係むかんけいだった。」「ある電話でんわった『もしもし、やなせさん、手塚てづか治虫おさむです』『あ、どうも』『じつはね、今度こんどむしプロで長篇ちょうへんアニメをつくることになったんですよ』『はあ、大変たいへんですね』『それで、やなせさんにキャラクターデザインをおねがいしたいんです。ひきうけていただけますか』『いいですよ』『それじゃね』だいたいこんなふう会話かいわだった。手塚てづか治虫おさむはそのころはすでに漫画まんが神様かみさまちかく、名声めいせい確立かくりつして収入しゅうにゅうぼくのXばいもあったが、ぼくとはまったく世界せかいがちがったから、ほとんど関心かんしんはなかった。」「それなのに何故なぜぼくに電話でんわしてきたのか。わけがからない。漫画まんが冗談じょうだんおおい。これは手塚てづか治虫おさむ冗談じょうだんだとおもって、すっかりわすれていた。ところがある、またむしプロから電話でんわがかかってきた。」「手塚てづか治虫おさむはもうとおくのくにってしまったが、ぼくはあらためてきたい『手塚てづかさん、なぜぼくに依頼いらいしたんですか?』」「ところがせん一夜いちや興行こうぎょうてきだいヒットするのである。そして手塚てづかさんはぼくにった『ヒットのおれいに、なにかアニメーションの短編たんぺん自由じゆうにつくってください』『え、ほんとですか』『制作せいさくはぼくのポケットマネーからします。』ということで、ぼくは、はじめてアニメーションをがけることになった。とにかく自分じぶんでつくれる作品さくひんということで、すでにラジオでやっていて、脚本きゃくほん音楽おんがくもできているやさしいライオンをえらんだ。せん一夜いちや山本やまもと暎一のやりかたていたので、大体だいたいのことはわかったし、コンテも手塚てづか治虫おさむつくえならべてえがいたので要領ようりょうはつかめていた」[219]
やなせは「せん一夜いちや物語ものがたり前後ぜんこうさかいに、子供こども作品さくひんえがいていた手塚てづか大人おとな作品さくひんつくることがえ、ぎゃく大人おとな作品さくひんえがいていたやなせが子供こども作品さくひんつくることがえたことを『運命うんめい交錯こうさく』と表現ひょうげんしている[220]
2009ねん江戸えど東京とうきょう博物館はくぶつかん開催かいさいされた「手塚てづか治虫おさむてん」では、「ぼくがまなんだのは、手塚てづか治虫おさむ人生じんせいたいする誠実せいじつさである。才能さいのう努力どりょくしても、とてもかなわないが、誠実せいじつであることはいくらかそのになれば可能かのうである。もちろんとおおよばないにしても、いくらかはちかづける。手塚てづか治虫おさむはその意味いみでぼくの人生じんせい師匠ししょうである。」というやなせのコメントが紹介しょうかいされた(やなせは手塚てづかより9さい年長ねんちょうである)。
寺田てらだヒロオ
寺田てらだ手塚てづかはトキワそう一緒いっしょらしていた。トキワそう漫画まんが続々ぞくぞくあつまってくるのは、手塚てづか藤子とうこ不二雄ふじお二人ふたりに14ごうしつゆずってからであるため、手塚てづか寺田てらだ二人ふたりんでいた期間きかんを「トキワそう前史ぜんし」とあらわしている[170]寺田てらだ手塚てづか部屋へやかいわせだった。手塚てづか寺田てらだとしが3つほどしかちがわず、手塚てづか寺田てらだを「テラさん」とんでいた。
寺田てらだ手塚てづかのことをこうかたる「いまのようにアシスタントを使つかって漫画まんがえがくというスタイルは、手塚てづか治虫おさむさんが最初さいしょでしょう。手塚てづかさんの登場とうじょう少年しょうねん漫画まんが世界せかい革命かくめいてきわりました。それまでは、どちらかとえば舞台ぶたいてきつくかただったのが、かれ以来いらい映画えいがてきなものにわってしまったんです。背景はいけいこまかくむようになったし。かなり複雑ふくざつなストーリーのものが漫画まんが世界せかいあらわれたものも手塚てづかさん以降いこうでしょう[221]。」手塚てづか自著じちょ寺田てらだのことを「寺田てらだヒロオ児童じどう漫画まんがにかける情熱じょうねつはすさまじく、高邁こうまい信念しんねんをもって作品さくひんえがき、『スポーツマン金太郎きんたろう』や『背番号せばんごう0』などの名作めいさくした。その信念しんねん終始一貫しゅうしいっかんわらなかった。ぼくの尊敬そんけいする漫画まんがのタイプのひとである」とかたっている[222]
手塚てづか劇画げきがブームのさい自身じしん劇画げきがえがくなど対抗たいこうったが、寺田てらだはそれができず児童じどう漫画まんがつらぬくも、まった面識めんしきのない劇画げきが作家さっか(さいとう・たかを)に自分じぶんえがいた原稿げんこうおくけ、「あなたはこんなぶつえがいていては駄目だめだ。漫画まんがえがくならば、こういったものえがきなさい」と、一方いっぽうてきさとしたこともあったという。寺田てらだ漫画まんがられ、寺田てらだ自宅じたくきこもりがちになる。1981ねんNHK特集とくしゅう現代げんだいマンガ立志伝りっしでん』で、トキワそうメンバーがどうそうかいひらくという内容ないよう番組ばんぐみ放送ほうそうされたが、寺田てらだなかった。そのとき、手塚てづかは「テラさんは?」とかた寺田てらだないことをると、「ああ、しい・・」と残念ざんねんがる姿すがた放映ほうえいされた。寺田てらだはその、トキワそうメンバーとはほとんどわなかったものの、1990ねん自宅じたく旧知きゅうち仲間なかまんで宴会えんかいをしたのち自室じしつきこもる生活せいかつつづけ、1992ねん死去しきょしている。
福井ふくい英一ひでかず
福井ふくい柔道じゅうどう漫画まんがイガグリくん』(『冒険ぼうけんおう』1952ねん - 1954ねん連載れんさい[223]連載れんさい絶大ぜつだい人気にんきほこっており、当時とうじ手塚てづか福井ふくい最大さいだいのライバルとみなしていた[224]。ライバルとしてだけではなく手塚てづかえがいた「38線上せんじょう怪物かいぶつ」には福井ふくい登場とうじょうし、福井ふくいえがいた『イガグリくん』には手塚てづか登場とうじょうするコマがあるなど交流こうりゅうもあった。しかし、った福井ふくい手塚てづかに「やい、この大阪おおさかじん、あんまりもうけるなよ!」とふっかけて口論こうろんとなり、手塚てづか返答へんとうに「かせぐばかりがのうじゃねえ、子供こどもだ、子供こどものことをちったァかんがえてみろ」「かねのためにえがいているしかおもえねえ、この大阪おおさかじんめ!」と罵倒ばとうしたこともある[224][注釈ちゅうしゃく 19]。1954ねんごろ、手塚てづかは『漫画まんが少年しょうねん連載れんさいの「漫画まんが教室きょうしつ」のなかで、くないストーリー漫画まんがれいとして『イガグリくん』をした作品さくひん登場とうじょうさせて福井ふくいいかりをい、福井ふくい抗議こうぎけて馬場ばばのぼるの仲裁ちゅうさい謝罪しゃざいしている[224]手塚てづか翌月よくげつの「漫画まんが教室きょうしつ」に、漫画まんが先生せんせい福井ふくい馬場ばばらしきシルエットの人物じんぶつにやりめられている様子ようすえがいて謝罪しゃざいあらわした[224]。そのしばらくのち福井ふくい過労かろう急逝きゅうせいしており、手塚てづか死去しきょほうけて、競争きょうそう相手あいてがいなくなったことに「ホッとした」という感情かんじょうおぼえ、そのことで自己じこ嫌悪けんおおちいったとしるしている[226][注釈ちゅうしゃく 20]手塚てづか直後ちょくごアシスタントしてもらっていた高校生こうこうせい時代じだい石ノ森いしのもり章太郎しょうたろうにハガキをしている。「福井ふくい英一ひでかずくなられた。いま葬儀そうぎ帰途きとだ。狭心症きょうしんしょうだった。徹夜てつやをしたんだ。わってみにたおれた。出版しゅっぱんしゃころしたようなものだ。かなしい、どうにもやりきれない気持きもちだ。おちついたら、また、のちほどくわしくらせるから…」その手紙てがみった石ノ森いしのもりは、手塚てづかかなしみが行間ぎょうかんからにじみてるようだったとかたっている[227]。その手塚てづか漫画まんが世界せかいほろぼすおとこ」でそらかぶくも福井ふくいかたちにして、自身じしん追悼ついとう気持きもちを漫画まんがなかであらわした[228]。そのくもおだやかな生前せいぜん福井ふくいかおかたちをしており、あたま上部じょうぶには天使てんしかたちをしたくもいていた。手塚てづか福井ふくいくなったことによるショックで、手塚てづか福井ふくい連載れんさいしていた「漫画まんが少年しょうねん」に『あと2ねん漫画まんがめる』とまで発表はっぴょうし、漫画まんが医者いしゃ目指めざすつもりであった[229]
水木みずきしげる
水木みずきしげるはデビュー当時とうじ漫画まんが手塚てづか治虫おさむのような作風さくふう漫画まんがしかれず、「わたしは(手塚てづか治虫おさむを)ライバルだとおもってやってきた。わかときから漫画まんがかい君臨くんりんしてきたかれたいして屈折くっせつしたおもいもあった」「手塚てづかさんがコンクリート塗装とそうおおきなみち闊歩かっぽしてきたとすれば、わたしほそがりくねったあくをつまずきながらあるいてきたようなものだ」と自著じちょ水木みずきさんの幸福こうふくろん』でかたっている。
週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン』の編集へんしゅうちょうだった内田うちだまさるによると、1965ねんから同紙どうし連載れんさい開始かいしされた水木みずき妖怪ようかい漫画まんが墓場はかば鬼太郎おにたろう」をにした手塚てづかは、その内容ないようからけたあまりの衝撃しょうげきに、自宅じたく階段かいだんからころちたという[230]。やがて「ゲゲゲの鬼太郎おにたろう」と改題かいだいされたどう作品さくひんによって「妖怪ようかいブーム」がこると、手塚てづかはこれを意識いしきして「どろろ」を発表はっぴょうしている[72]一方いっぽう水木みずき作品さくひんには棺桶かんおけ職人しょくにん主人公しゅじんこうにした短編たんぺん一番いちばんびょう[231] があるが、これは手塚てづかによく主人公しゅじんこう一番いちばんになろうとばかりしてひどう、という物語ものがたりである。また水木みずき作品さくひんもとにして、手塚てづか地元じもとである宝塚たからづかファミリーランドで「ゲゲゲの鬼太郎おにたろう」のアトラクション開催かいさいされていたことにたいし、手塚てづか難癖なんくせられても仕方しかたがない発言はつげんおこなったという[232]
水木みずき雑誌ざっしのインタビューで手塚てづかのことを直接ちょくせつ名指なざししたわけではないが、「水木みずきサン(水木みずき一人称いちにんしょう)はいつでも自分じぶんがオモチロイとおもったものだけをえがくんです。だれかにウケるものをえがこうなんてかんがえたこともない。そんなことをかんがえてえがひとさんりゅうですよ」とかたっている[233]
水木みずき長女ちょうじょ尚子しょうこちち水木みずきしげるの妖怪ようかい漫画まんがよりも、かわいいえが手塚てづかだいファンだった。水木みずき次女じじょ悦子えつこは「あね手塚てづかさんのマンガをかなりんでいたことを水木みずきにしていたようです」とはなしている。また水木みずきむすめ水木みずきたいして「おとうちゃんの漫画まんがには未来みらいがない。手塚てづか漫画まんがには未来みらいがある」とうと。水木みずきは「これが現実げんじつなんだ!おれは現実げんじつえがいているんだ!」と激怒げきどしたという。水木みずきむすめ手塚てづかからサインをもらったときは『おとうちゃんのざつなサインとちがって、丁寧ていねいえがいてくれた!』とい、水木みずきをガッカリさせている。
一方いっぽう手塚てづか息子むすこしんは、幼少ようしょうは『ゲゲゲの鬼太郎おにたろう』のファンで、父親ちちおや漫画まんがよりもこのんでおり、水木みずきむすめこう対照たいしょうであった。
のちしん制作せいさくした映画えいが妖怪ようかい天国てんごく』は水木みずき影響えいきょうけており、手塚てづか治虫おさむ水木みずきしげる両人りょうにんともゲスト出演しゅつえんしている。手塚てづかによると、この映画えいがへの出演しゅつえんしんから「水木みずき特別とくべつ出演しゅつえんしてほしいが、個人こじんてきっているか?」という相談そうだんけたところからはじまった[234]手塚てづかはこれにたいして「ああ、いろいろつきってもらってるよ」と返答へんとうした、としるしており、手塚てづか水木みずき漫画まんがとしての交友こうゆうっていたことがうかがえる。
手塚てづか漫画まんがI.L」には主人公しゅじんこうのI.Lのかおがモンスターになるシーンで水木みずき登場とうじょうする。そのとき、水木みずきはI.Lに関心かんしんせた台詞せりふかたっている。おなじく手塚てづか漫画まんがみっがとおる」の「ガイコツ・ショー」のはなしでは、テレビ局てれびきょくんだ写楽しゃらくたち場面ばめん水木みずき登場とうじょうし、みっ小僧こぞういてかたっている。であるタレントは「水木みずきセンセイのおはなしはこわかったですねー」と返答へんとう。「とり 鳳凰ほうおうへん」ではあかねまる様々さまざまものまれわったゆめ場面ばめんで、ゆめから目覚めざめたときの吉備真備きびのまきび水木みずき登場とうじょう人物じんぶつねずみおとこ」の姿すがたわっている。手塚てづか水木みずき自分じぶん漫画まんが登場とうじょうさせるとき水木みずき電話でんわ許可きょかるようにしていた。週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン1969ねん3がつ30にちごう企画きかくで、漫画まんがとそのつま集合しゅうごう写真しゃしんったときは、手塚てづか水木みずきにん仲良なかよならんで撮影さつえいしている。
上記じょうきのように「手塚てづか水木みずき不仲ふなかである」ということがかたられることもあるが、水木みずき本人ほんにん後年こうねん書籍しょせき手塚てづかとの不仲ふなか否定ひていしている[235]
諸星もろぼし大二郎だいじろう
手塚てづかしょう応募おうぼさくである「生物せいぶつ都市とし」を手塚てづか筒井つつい康隆やすたかとともに絶賛ぜっさんし、この作品さくひん満場一致まんじょういっち手塚てづかから手塚てづかしょうおくられた。諸星もろぼしおよび星野ほしのせん鼎談ていだんしたさい手塚てづかは「ぼく諸星もろぼしさんのだけはえがけない」と発言はつげんしている。手塚てづか漫画まんが「ルードウィヒ・B」では、諸星もろぼしのことをみなもと太郎たろう坂口さかぐちしょうなどとともに「天才てんさい」と評価ひょうかし、「自分じぶん大事だいじにして自分じぶん個性こせいしていくもの結局けっきょくつよいんですよ。どこでも通用つうようするんすよ。こういうのが自分じぶん個性こせいつんすよ」と主人公しゅじんこうのルードウィヒにかたらせている。
いしかわじゅん
イベントでいしかわが吾妻あづまひでお一緒いっしょ手塚てづか同席どうせきしたさい、「この2人ふたり若手わかてあいだでは神様かみさまみたいなひと」と手塚てづか紹介しょうかいされたことがある。そのとき、いしかわは「神様かみさま神様かみさまといわれるのはみょう気分きぶんであった」とかた[236]。またそのとき、手塚てづかは「いしかわはぼくの影響えいきょう全然ぜんぜんうけてないからなー」とかたり、いしかわは「(そんなことないですよ。あなたの影響えいきょうけていない漫画まんがなんていませんよ)」としんなかかたった。またいしかわは「ななしょくいんこ」ちゅうのキャラとして登場とうじょうさせたいとのことで手塚てづかから電話でんわをもらったことがある。「ななしょくいんこ」に登場とうじょうしたさいのいしかわは、吾妻あづまひでおとキスをするという役柄やくがらであった。手塚てづかはいしかわの作品さくひん憂国ゆうこく」にたいして「いしかわ憂国ゆうこくなんかおもしろいよね[236]」と発言はつげんもしている。
いしかわは手塚てづかくなったさいに「今朝けさきたら手塚てづか治虫おさむんでいた」「歴史れきしじょうひとなないとおもっていた。生死せいし超越ちょうえつした存在そんざいだとばっかりおもっていたのだ」とそのショックをかたった[237]
寺沢てらさわ武一たけいち
寺沢てらさわとく手塚てづかのファンというわけではなかったが、たまたま週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオンで連載れんさいしていた「ブラック・ジャック」ないのアシスタント募集ぼしゅう広告こうこくて、手塚てづかプロダクションに作品さくひん投稿とうこうする。そのときは手塚てづかプロダクションの採用さいよう担当たんとうしゃ判断はんだんにより採用さいようとなったが、後日ごじつ手塚てづか治虫おさむ直々じきじき寺沢てらさわたところ寺沢てらさわり、手塚てづかのアシスタントに採用さいようされた[238]。ジャンプコミックスで寺沢てらさわの『コブラだい1かんには、手塚てづかがあとがきに寄稿きこうしている。手塚てづかはそのなかで「じつは、助手じょしゅ募集ぼしゅうしたとき、どういうわけか寺沢てらさわくんはせんにこぼれてしまっていた。あとからづいたぼくは、だいあわてでかれ採用さいようしなおした。こんなすごいがかけるひとをなんで見落みおとすんだ!こうしてよんにん採用さいようしゃかれ一人ひとりくわわり、それが結果けっかてきに、かれがトップにプロのみちすすむきっかけをつくったのだった。」「かれ緻密ちみつで、丹念たんねんで、しかもうつくしかった。ことに背景はいけいえがかせると抜群ばつぐんだった。」「ジャンプにプロだいいちさくせたということは、寺沢てらさわくんにとってだい成功せいこうだとおもう。」と寺沢てらさわのことを絶賛ぜっさんしている。当時とうじ寺沢てらさわ手塚てづか専属せんぞくアシスタントをしていたにもかかわらず、一人ひとりだけ残業ざんぎょうをせず、「これから自分じぶん創作そうさく活動かつどうするんでかえります」と はやめに帰宅きたくしていたが、手塚てづか寛容かんようあつかっていた。理由りゆうは「かれはとても才能さいのうのあるだから、いちにちでもはやくアシスタントを卒業そつぎょうしてデビューしてしかった」 とのこと。寺沢てらさわは、手塚てづかとり原稿げんこうをカッターでり、構図こうずえているのをて「うわっこんなふう発想はっそうするのか!」とおどろいたという。また寺沢てらさわ手塚てづかのことを「ぼくおもいつきを先生せんせい面白おもしろがってくれた。きっとそういうあたらしいしかったんだとおもう」「とりあしとりおしえてくれたわけじゃないがすごくいい時間じかんをもらった。ぼくにとってかね換算かんさんできない貴重きちょう経験けいけんだった[239]」とかたっている。
あだちたかし
あだちは、高校こうこう在学ざいがくちゅう手塚てづか雑誌ざっし『COM』に投稿とうこうしていた。そしてCOMの新人しんじんしょうにおいて、「むし少年しょうねん」が手塚てづかによって佳作かさく2えらばれた。以後いご『COM』の読者どくしゃコーナーにしばしば登場とうじょう。あだちは手塚てづか死去しきょしたさいに『週刊しゅうかん少年しょうねんサンデー』じょうつぎのような追悼ついとうぶんせた。「くなられた2がつ9にちぼく誕生たんじょうでした。鉄腕てつわんアトムの誕生たんじょうとしまれたぼくとしては、手塚てづか先生せんせい影響えいきょうはかれません。むしプロ主催しゅさい雑誌ざっし『COM』がなかったら、漫画まんが作品さくひんめいたものもえがかなかったでしょう。しんからご冥福めいふくをおいのりいたします[240]。」
夏目なつめぼうかい
夏目なつめちいさな出版しゅっぱんしゃつとめながら、自分じぶん漫画まんがをいろんなひとおくっていた。そうすることによって仕事しごとがくるかとおもっていたが、これはかれいわ全然ぜんぜんはずれであった。しかし、手塚てづか治虫おさむから夏目なつめへと直筆ちょくひつのハガキがとどき、そのなかには「24Pのものが一番いちばん面白おもしろかったとぞんじます」とわざわざ夏目なつめ作品さくひんめるものであった。このことに夏目なつめは「しんじられない」とかた[241]。1977ねん夏目なつめ実際じっさい手塚てづか出会であったときには「ああ自費じひ出版しゅっぱんおくっていただいて。あのほんね、面白おもしろいから編集へんしゅうしゃしたらそれきりかえしてくれないんです。週刊しゅうかん朝日あさひやヤングコミックの仕事しごと拝見はいけんしてますよ」と手塚てづかわれ、夏目なつめ感銘かんめいけている。同時どうじに「こわひとだ」という感想かんそうべている。これは当時とうじ無名むめい新人しんじんであった自分じぶん作品さくひんにもチェックをれてくる手塚てづかのプロ意識いしきたいして尊敬そんけい畏怖いふをこめてそうひょうしている。
手塚てづか死去しきょさい夏目なつめつぎのようにかたっている。「くなったことをってから、あちこちの連載れんさいかたぱしから追悼ついとうぶんいた。いているうちは比較的ひかくてき冷静れいせいなのに、えてみると、みぞおちのあたりから痙攣けいれんせのぼってきてく。『うぉっうぉっうぉっおっおっ』と、まるでオットセイである。おさないころからのいろんなことが、いちどに手塚てづかさんにむかってほとばしったみたいなかたで、これをくたんびにくりかえすのである」「手塚てづかさんのってから、表層ひょうそうてきには平静へいせいだったわたし月刊げっかんコミックトム遺作いさくルードウィヒ・Bの掲載けいさい)に追悼ついとうぶんき、最後さいごに『手塚てづかさん、さようなら』としるした途端とたんいた」「手塚てづか治虫おさむさんは、わたしなどにとってきとかきらいとか、影響えいきょうけたとかけないとか、そういう表層ひょうそうてき存在そんざいではなかった。だから、作品さくひんひとつだけあげろとわれると『そんなことができるもんか!』と、どなりかえしたくなる[242]

関係かんけいふかいアニメーション監督かんとく[編集へんしゅう]

富野とみのゆかりゆう
富野とみの小学生しょうがくせいのころ、1ねん先輩せんぱい友達ともだちいえ雑誌ざっし少年しょうねん」に連載れんさいされていた「アトム大使たいし」ではじめて手塚てづか作品さくひん[243]。そして小学しょうがく5年生ねんせいの4がつから両親りょうしんに「少年しょうねん」を毎月まいつきってもらうようにおねがいした。そのときのことを富野とみのは「漫画まんが掲載けいさいされているような雑誌ざっしってはいけないというのがうちのテーゼだったんです。それをおがたおして4がつからってもらったときに偶然ぐうぜん鉄腕てつわんアトム』の連載れんさいはじまったつきだったんです。本当ほんとう衝撃しょうげきてきでした。それまではまだ・・・こんなタイトルあげてもわかひとからないかもれませんが『のらくろ』の漫画まんががつまり戦前せんぜん漫画まんががちらちらのこってるんですよ。いえなかに。そういうものをんでおちゃにごしていたという気分きぶんのところに、これがましたんで、ようするにむかし軍隊ぐんたいばなしでないまったくあたらしい漫画まんがた。ということで本当ほんとうにびっくりしたし、なによりも物語ものがたりまなければならない、つまり、だけをていたらすまないぞという物語ものがたり手塚てづか先生せんせいがおえがきになったというのが、やはり、いや、これは低俗ていぞく漫画まんがではないという断定だんてい子供こどもしんにしてくれたという意味いみではとてもすごい作品さくひんだったというふうおもっています[243]。」また、富野とみの手塚てづかの「きたるべき世界せかい」にさらにそれをえる衝撃しょうげきけたということもかたっている。富野とみのは、小学しょうがく6年生ねんせいのときには「ぼく漫画まんがはじめておんなった」と「きたるべき世界せかい」のポポーニャが覆面ふくめんはずすコマをげた。
富野とみの日本大にほんだい卒業そつぎょうの1964ねん昭和しょうわ39ねん)、手塚てづか治虫おさむ設立せつりつしたアニメ制作せいさく会社かいしゃむしプロダクションに入社にゅうしゃした。富野とみの手塚てづかから直々じきじき鉄腕てつわんアトムの演出えんしゅつ抜擢ばってきされアニメ後半こうはん演出えんしゅつおおくは富野とみのがけている。富野とみのはつ監督かんとく作品さくひん手塚てづか漫画まんが原作げんさくとした「うみのトリトン」である。富野とみの手塚てづか治虫おさむかえりこうかたっている「アニメは全部ぜんぶうごかさなくてもつたえられるということをおしえてもらった[244]。」「しゅうペースでものをつくることにすでに現場げんばれていましたが、とにかくいそがしく、演出えんしゅつろんなどを議論ぎろんをしている時間じかんはなかった」「むしプロでマンガでアニメーターの真似事まねごとをしているひと社長しゃちょうであるわけがない。はや演出えんしゅつにならないと給料きゅうりょうやすくてやってられないとおもっていたぼくに「演出えんしゅつやらない?」とってきたとき、ああやはりこのひとはマンガでありクリエイターであって社長しゃちょうではなかった、とおもった。オレの映画えいがかん手塚てづか先生せんせい映画えいがかんちがったから。手塚てづか先生せんせい映画えいがかんあまいんじゃないかとおもってた。手塚てづか先生せんせい満足まんぞくした作品さくひんはないとおもう。」「映画えいがきにつくってすむものではない。きだけでつくれるとはおもわないでください。それでもつくるなら、手塚てづか先生せんせいおなしゅはやさと学識がくしきってほしい。ぼくもその1おくぶんの1くらいになれるように頑張がんばります。」「(「ジャングル大帝たいてい」のシナリオの社内しゃない募集ぼしゅうにコンテをみしたさい)それが採用さいようされるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテをめるやつはいないのだから、ぼくのコンテだって採用さいようされる。むしプロのコンテの基準きじゅんは、マンガがはっきりしていればいいのであって、映像えいぞうてき評価ひょうか意識いしきしたものはないから、りんちゃん(=りんたろう)てきなコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって、手塚てづか先生せんせいがコンテをめないことをあげつらうつもりはない」「手塚てづか先生せんせいだって、わか連中れんちゅうえがいたコンテはなおすし、短編たんぺんアニメのコンテをきらせたら天下一品てんかいっぴんであるのだが、ストーリー・アニメのコンテは不得手ふえてでいらっしゃったというのが、ぼくの評価ひょうかである。こんなエピソードをいたからといって、TVアニメのパイオニアである事実じじつおとしめることにはならないし、マンガとして天才てんさいであることをけがすことにもならない[245]
手塚てづか富野とみの監督かんとく作品さくひん機動きどう戦士せんしガンダム』について「機動きどう戦士せんしガンダム以降いこうでは子供こどもけアニメがけにくくなった」とかたっている。
手塚てづか死去しきょしたときのことを富野とみのつぎのようにかえっている「先生せんせいくなられたといた翌朝よくあさ失礼しつれいをかえりみず先生せんせいのおたくにあがりこんで、がお拝見はいけんできなくともちかくにいたいとねがった。その行為こういいまじていない。のエキスのいちまんぶんいち真似まねすることはできないだろうけど、ここにしたがうものがいるとってほしいとおもうのは、きているものよくである[246]。」
りんたろうはやし重行しげゆき
りんたろうは1963ねん東映動画とうえいどうがから手塚てづか治虫おさむむしプロダクションに移籍いせきした。これは東映動画とうえいどうがではやりたかった演出えんしゅつができなかったためである。りんたろうは念願ねんがんがかなって「鉄腕てつわんアトム」の演出えんしゅつつとめた。かれ手塚てづかのことを「偉大いだいなマンガであり、寝食しんしょくわすれて一緒いっしょ仕事しごとをしたチーフ。おぼえているのは、動画どうがつくえならべて仕事しごとをしていたときのこと。地震じしんみたいにガタガタガタガタした。先生せんせい調子ちょうしってくると貧乏揺びんぼうゆすりをするクセがあった。あとは音楽おんがく造詣ぞうけいふかかったこと。あさからコンテをかきつつベートーベンだい5(運命うんめい交響曲こうきょうきょく)をかけていた。商業しょうぎょう主義しゅぎでアニメがどんどんおおきくなり、先生せんせい本来ほんらいやりたかったアニメとどんどんかけはなれていった。でも先生せんせいなやみながらアニメを手放てばなさなかった。プライベートなフィルムをつくってバランスをっていたんだとおもう。でも、最後さいごまでどの作品さくひんにも満足まんぞくしなかったのではないか。」とかたる。
杉井すぎいギサブロー杉井すぎい儀三郎ぎさぶろう
杉井すぎい幼少ようしょうのころより手塚てづか作品さくひんんでそだった。かれはこうかたる「手塚てづか先生せんせいの『新宝しんぽうとう』に出会であったのは7さいのとき。そのかみのザラザラした感触かんしょくおぼえている。手塚てづか先生せんせいのマンガはほかのマンガとちがって、むというより映画えいがているという印象いんしょうだった。」「ぼく手塚てづかマンガから映画えいがつくかたおそわった。」「手塚てづか先生せんせいはじめてったのは20だいはじめ。小学生しょうがくせいのころからファンでくもうえひとだったけど、冷静れいせいかんがえると先生せんせいもまだ30だい。30だい若者わかものが20だい若者わかものあつめてつくったのがむしプロだった。一番いちばんおそわったのは、エンターテインメントというのはチャレンジだということ。つねにチャレンジしていないとふるびてしまう。だからおなじことをかえしてはいけない。先生せんせいはホントにマンガがきだったんだろうか、マンガではなく映画えいがきで、映画えいがいていたんじゃないかとおもう。」
手塚てづか杉井すぎいのことを「ギッちゃん」とんでいた。
出崎でさきみつる
出崎でさき小学しょうがく4・5年生ねんせいのころより手塚てづか治虫おさむあこがれて漫画まんがえがいてそだった。そのむしプロに入社にゅうしゃする。かれつぎのようにかたる「ぼく手塚てづか治虫おさむにあこがれ、マンガ目指めざして挫折ざせつして、偶然ぐうぜんむしプロにはいることができた。先生せんせいまえにしてもこちらからアクションをこすことなんてできなくて。なにおもつくっておけばよかったと後悔こうかいしてる。一度いちど、アトムのコンテをせたとき『出崎でさきくんエンターテインメントわすれないで』とわれた。ぼくくらはなしきでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントってなにだろう、とかんがえて、今日きょうまでてしまった。マンガでもアニメでも手塚てづか作品さくひん主人公しゅじんこうはいつもなやんでる。そこにひかれたから、ぼくも『ロボットとは?』『人間にんげんとは?』とアトムをいつもなやませた。それで『エンターテインメントをわすれないで』とわれちゃったけど、はん権力けんりょくしんなか葛藤かっとうかかえている、そういう主人公しゅじんこうにあこがれ、ぼくもそういう作品さくひん目指めざしている。」
高橋たかはし良輔りょうすけ
高橋たかはし幼少ようしょうのころより手塚てづか治虫おさむあこがれてそだち1964ねんむしプロへ入社にゅうしゃした。「わたし手塚てづか先生せんせいのファンで、別世界べっせかいひとおもってた。むしプロの試験しけんでおいして「ホンモノだーっ!」っておもった。神様かみさまみたいな存在そんざいだったのが、一緒いっしょはたらいているとどんどん「ちょっと年上としうえのただのオジサン」になっていった。徹夜てつやしてつくえしたているとなに圧迫あっぱくかんがあって、たらとなり先生せんせいている。手塚てづか先生せんせいしちゃった。のちになって自分じぶんのスタジオを高田馬場たかだのばばったとき、手塚てづかプロも高田馬場たかだのばばにあったので、たまに坂道さかみちなんかでうとこえをかけていただき、ますますオジサンつよまった。くなってからは、今度こんど偉大いだいさがつよまってきた。自分じぶんきて出会であった、いちばん偉大いだいひと、というおもいをつよくしている。「アトム」ののち、30ぶんのテレビアニメがえ、手塚てづかアニメの人気にんき一時いちじがった。すると先生せんせい大人おとなけの長編ちょうへんつくってだいヒットさせた。業界ぎょうかいがまたそういう方向ほうこういつぶしていると、2あいだというわくのアニメを今度こんどはテレビでやった。開拓かいたくしゃ挑戦ちょうせんしゃだった。その遺志いしいでなにとかあたらしいものをつくっていこうと頑張がんばっている。」「こん仕事しごとしてみると、『先生せんせいきていたらどういうふうってくれるのかな』とか、先生せんせいのチェックがないということがね、あらためて『先生せんせいくなっちゃったんだなあ』と。そういう意識いしき仕方しかたですね。」
ちなみに、高橋たかはし監督かんとく作品さくひん装甲そうこう騎兵きへいボトムズ」の主人公しゅじんこうキリコは手塚てづか作品さくひん「ブラック・ジャック」の登場とうじょう人物じんぶつからられている[247]
宮崎駿みやざきはやお
宮崎みやざき手塚てづかアニメーション制作せいさくたい批判ひはんてきであった。手塚てづか訃報ふほうさいし、宮崎みやざき手塚てづか漫画まんがにおける功績こうせき敬意けいいあらわしつつも、手塚てづかのアニメ作品さくひんを、店子たなこあつめてムリやり義太夫ぎだゆうかせる落語らくご長屋ながや大家たいかおな旦那芸だんなげいであると痛烈つうれつ批判ひはんし、手塚てづかリミテッド・アニメーションフルアニメーションちがいもろくに理解りかいせず喧伝けんでんしていたことや、ロトスコープあわててんだことにれ、「アニメーションにかんしては(中略ちゅうりゃく)これまで手塚てづかさんがしゃべってきたこととか主張しゅちょうしたことというのは、みんな間違まちがいです」「アニメーションにたいしてかれがやったことはなに評価ひょうかできない」とべ、「趣味しゅみとしてみればわかるんです。お金持かねもちが趣味しゅみでやったんだとおもえば」と総括そうかつしている[248]
一方いっぽうで、手塚てづかテレビアニメ黎明れいめいに『鉄腕てつわんアトム』を安価あんか予算よさんつくったことが、日本にっぽんにおけるアニメの製作せいさくひくくなる前例ぜんれいとなってしまったけんについては、日本にっぽん経済けいざい成長せいちょうげていく過程かていでは必然ひつぜんのことであり、「がねいたのが、たまたま手塚てづかさんだっただけ」とする立場たちばっている[249]
漫画まんが作品さくひんかんしては2009ねんのインタビューにおいて、7さいのときにんだ『新宝しんぽうとう』に「がたいほどの衝撃しょうげき」をけたことをかし、「ぼくらの世代せだいが、戦後せんごあとなかで『新宝しんぽうとう』に出会であったとき衝撃しょうげきは、世代せだいには想像そうぞうできないでしょう。まったくちが世界せかいまえけるような世界せかいだったんです。その衝撃しょうげきおおきさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画まんが影響えいきょうとかでかたづけられないものだったとおもいます」とかたっている。また、そののSF3さく(『ロストワールド』『メトロポリス』『きたるべき世界せかい』)のとりこになっていたこともみとめ、「モダニズムとは、繁栄はんえい大量たいりょう消費しょうひ同時どうじに、破壊はかい発明はつめいでもある。そのことに、ひとりアジアの片隅かたすみいたのが手塚てづかさんだった」とひょうしている。当初とうしょ漫画まんが目指めざしていた宮崎みやざきがアニメーターにてんじたのは、手塚てづか亜流ありゅうえてしまうことが理由りゆうのひとつにあったという。また、手塚てづかのアニメについて、従来じゅうらい評価ひょうかわらないとしたうえで「ぼく手塚てづかさんがひどいアニメーションをつくったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打たちうちできると」とべている[250]
雑誌ざっし寄稿きこうぶんでは「じゅうはちさいぎて自分じぶんでまんがをえがかなくてはいけないとおもったときに、自分じぶんにしみこんでいる手塚てづかさんの影響えいきょうをどうやってこそぎとすか、ということが大変たいへん重荷おもにになりました。ぼくは全然ぜんぜん真似まねしたおぼえはないし実際じっさいてないんだけど、えがいたものが手塚てづかさんにているとわれました。それは非常ひじょう屈辱くつじょくかんがあったんです。模写もしゃからはいればいいとひともいるけどぼくは、それではいけないとおもんでいた。それに、手塚てづかさんにていると自分じぶんでもみとめざるをえなかったとき、箪笥たんすしにいっぱいためてあったらくがきを全部ぜんぶやしたりした。全部ぜんぶやして、さああたらしく出発しゅっぱつだとしんめて、基礎きそてき勉強べんきょうをしなくてはとスケッチやデッサンをはじめました。でもそんなに簡単かんたんけだせるはずもなくて…。」[249]かたり、そののインタビューでは「ぼくは、手塚てづかさんとはずっと格闘かくとうしてきましたから。それは『恩義おんぎ』だけれど、そんな言葉ことばかたれるほど簡単かんたんなものじゃありません」ともかたっている。
宮崎みやざき東映動画とうえいどうが入社にゅうしゃしたとしである1963ねん手塚てづか治虫おさむ原案げんあんつとめた『わんわん忠臣蔵ちゅうしんぐら』にアニメーターの一人ひとりとして参加さんかしている。1977ねんにはおなじく手塚てづか治虫おさむ原案げんあんの『草原そうげんテングリ』でレイアウトをつとめた。
手塚てづか宮崎みやざきの『ルパンさんせい カリオストロのしろ』にたいし「ぼく面白おもしろいとおもった。うちのスタッフもみな面白おもしろがってていた」と『ぱふ』のインタビューでかたっている[251]
1981ねんには手塚てづか宮崎みやざきとの合作がっさく『ロルフ』も予定よていされていた。手塚てづかアニメージュ紙面しめんじょうつぎのようにかたっている。「『ロルフ』---この有名ゆうめいなアングラ・コミックを宮崎みやざきさんが長編ちょうへんアニメにしたいという執念しゅうねんをぼくにもらされたのは、もう半年はんとしくらいまえのことです。『じゃりンチエ』のみもわった前後ぜんごのことで、どうしてもこれだけは国際こくさいてきアニメにつくげたいというゆめを、大塚おおつか康生やすおとともにかたられました。ぼくたちは、このゆめ実現じつげんざして、どんなに時間じかんがかかっても成就じょうじゅしたいとおもっています。それにはTしゃ社長しゃちょうおよび原作げんさくしゃ強力きょうりょくなご援助えんじょがなければできないことです。コケの一念いちねん実現じつげんさせたいとおもいます。宮崎みやざきさんは、きっととてつもないものすご映画えいがつくげられることでしょう」[252]。この合作がっさく実現じつげんしなかったが、ロルフの企画きかく名前なまえかたちえ『ふうたにのナウシカ』となった[253]
手塚てづかは『ふうたにのナウシカ』がだいヒットしたのをて、「すごくやしがっていた」ともとアシスタントの石坂いしざかあきら述懐じゅっかいしている[254]。また、手塚てづか晩年ばんねんアニメーターもとトキワそう住人じゅうにん鈴木すずき伸一しんいちとともに『天空てんくうしろラピュタ』をたという[255]映画えいがのち手塚てづか鈴木すずきに「面白おもしろかった?」とき、「は、はい。」とこたえた鈴木すずきたいし「そうかな?」とべ、宮崎みやざきをライバルしていたという。
宮崎みやざきは2011ねん10がつ刊行かんこうした著書ちょしょほんへのとびら―岩波いわなみ少年しょうねん文庫ぶんこかたる』で、これまでの手塚てづかへの発言はつげんについて「手塚てづかさんはいまぼくよりわかくしてくなったほうですから[注釈ちゅうしゃく 21]ぼくよりわかひとなんだ、とこのごろはおもっているんです。年寄としよりがとやかくうことではありません。」とべている[256]

その[編集へんしゅう]

トレードマークは、ベレーぼう分厚ぶあつ黒縁くろぶち眼鏡めがね人前ひとまえ帽子ぼうしはずすことは滅多めったになく、「帽子ぼうしこうむってないときはうつさないで」とわらいする様子ようす映像えいぞうのこっている[257]。しかし、まちちゅうあるくとき、仕事しごとちゅう、タクシーのなかなどはベレーぼういでいることがおおかった(これにはベレーぼういでいるとまちちゅうあるいていても手塚てづか治虫おさむであるとづかれにくい利点りてんもあったようである)。ベレーぼうは、もともと横山よこやま隆一りゅういち模倣もほうしてかぶりはじめたもので、横山よこやまはやがてベレーぼう使用しようをやめたが、手塚てづか自身じしん漫画まんがなかでも自分じぶん自身じしんをベレーぼう黒縁くろぶち眼鏡めがねはなおおきい人物じんぶつとして特徴付とくちょうづけており、生涯しょうがいこれをえることをしなかった。このベレーぼうをかぶる風習ふうしゅうはトキワそうのメンバーにもつたわり、石森いしもり章太郎しょうたろう藤子とうこ不二雄ふじお藤本ふじもとひろし)などもベレーぼうをかぶっていた。また、トキワそうのマンガのあいだでよくもちいられた「~」という敬称けいしょうはもともと手塚てづか使つかっていたもので、相手あいて年齢ねんれいにかかわらずもちいられて便利べんりということでひろまったと水野みずの英子えいこ証言しょうげんしている[258]

身長しんちょうは170センチメートルと、戦前せんぜんまれとしては大柄おおがらであった[259]視力しりょくつよ近視きんしであった。あまいものがきであったためにわるくした。とくに「チョコがなければ仕事しごとができない」というほどのチョコレートきであり、死後しご施錠せじょうされていた仕事しごとつくえなかからかじりかけのいたチョコがつかった[260]

人並ひとなはずれた仕事しごとりょうをこなしたことでられているが、けっして家庭かていないがしろにすることはなく、誕生たんじょうとクリスマスにはかなら家族かぞくでレストラン・ディナーをとる習慣しゅうかんがあり、計画けいかくてて正月しょうがつ夏休なつやすみには家族かぞく旅行りょこうかけていた[260]田中たなか圭一けいいちには「マンガとしてだけじゃなくちちとしてもかみ」とひょうされた[260]

アシスタント経験けいけんのある漫画まんが古谷ふるやさんさとしによると、手塚てづかはアルコールがあまりめず、煙草たばこ普段ふだんわなかった。バーで煙草たばこをふかしたときは上手うまめていなかったという[261]

1962ねん日本にっぽん共産党きょうさんとうへの支持しじ表明ひょうめい[262]日本にっぽん共産党きょうさんとう選挙せんきょ応援おうえんにたびたびけ、赤旗あかはたにも掲載けいさいされていた[263]一方いっぽうで、自由民主党じゆうみんしゅとう機関きかんである「月刊げっかん自由じゆう民主みんしゅ」にも、1984ねん10がつごう寄稿きこうしたことがある[264]

むすめのるみによると、生前せいぜんから「自分じぶんんだら、自分じぶん作品さくひんだれにもまれなくなるんじゃないか」という不安ふあんをずっといだき、「んでしまったら作家さっかわりなのだ」とおそれていたということで、「自分じぶんんでも、3年間ねんかんだれにもうな」とまわりにつたえていたことがあったという[265]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

叙勲じょくん推薦すいせんさい作成さくせいされた功績こうせき調書ちょうしょ(1989ねん平成へいせい元年がんねん))
同上どうじょう
同上どうじょう
同上どうじょうされた表紙ひょうし文部省もんぶしょうげんしょ
  • 1928ねん11月3にち - 大阪おおさか豊能とよのぐん豊中とよなかまちげん豊中とよなか)にまれる。※岡町おかまち相生あいおいどおりに生誕せいたんから2さいまで、して岡町おかまち曽根そねはぎてら付近ふきん)に2さいから5さいまで。
  • 1933ねん - 5さいのとき兵庫ひょうごけん川辺かわべぐん小浜おばまむらげん宝塚たからづか)の川面かわも(かわも)の高台たかだいのふもとのもと祖父そふ屋敷やしき一家いっかす。このころからははとともに宝塚歌劇たからづかかげきしたしむ。
  • 1935ねん - 池田いけだ師範しはん学校がっこう附属ふぞく小学校しょうがっこうげん大阪教育大学おおさかきょういくだいがく附属ふぞく池田いけだ小学校しょうがっこう入学にゅうがく
  • 1939ねん - 自分じぶん名前なまえおさむ」にむしけて「治虫おさむ」をペンネームとする。
  • 1941ねん - 大阪おおさか府立ふりつ北野中きたのなか学校がっこうげん大阪おおさか府立ふりつ北野きたの高等こうとう学校がっこう入学にゅうがく
  • 1945ねん3がつ - 北野きたの中学ちゅうがく卒業そつぎょう勤労きんろう動員どういんちゅう6がつ大阪大おおさかだい空襲くうしゅう遭遇そうぐう。7月、大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく医学いがく専門せんもん入学にゅうがく
  • 1946ねん1がつ4にち - プロデビューさくよんコマ漫画まんがマァチャンの記帳きちょう』(しょう國民こくみん新聞しんぶん毎日まいにち小学生しょうがくせい新聞しんぶん大阪おおさかばん)の連載れんさい開始かいし
  • 1947ねん - 酒井さかいななうまがもちかけた企画きかくによる長編ちょうへん漫画まんが単行たんこうほん赤本あかほん)『しんたからとう』が刊行かんこうされた(初版しょはん1がつ30にち、4がつ20日はつか、6月1にち、7がつ25にちはんかさねて累積るいせき40まんれたとされる)。
  • 1950ねん(22さい) - 上京じょうきょうちゅう学童がくどうしゃって加藤かとう謙一けんいち出会であい、っていた単行本たんこうぼんよう原稿げんこうせたところ連載れんさいまり「漫画まんが少年しょうねんで『ジャングル大帝たいてい』の連載れんさい開始かいし
  • 1951ねん - 1ねん留年りゅうねんし、大阪大学おおさかだいがく附属ふぞく医学いがく専門せんもん旧制きゅうせい卒業そつぎょう毎日放送まいにちほうそう開局かいきょくアナウンサー採用さいよう試験しけん合格ごうかく偶然ぐうぜんとおりかかって受験じゅけんしてみたところ合格ごうかくした、と後年こうねん同局どうきょく番組ばんぐみあどりぶランド』でかたっている。光文社こうぶんしゃ月刊げっかん少年しょうねん」に「アトム大使たいし」(当初とうしょ予定よていはアトム大陸たいりく)を連載れんさい開始かいし
  • 1952ねん - 医師いし免許めんきょ取得しゅとく。『アトム大使たいし』から路線ろせん変更へんこうした『鉄腕てつわんアトム』(連載れんさい予告よこくでは鉄人てつじんアトム)を『少年しょうねん』 につづいて連載れんさい東京とうきょう新宿しんじゅく四谷よつややく1ねんはん下宿げしゅくする(四谷よつや交差点こうさてん北西ほくせいかく。メトロ2ばん口前くちまえ)「成木なりき青物あおものてん」の2かい。のちの漫画まんが作品さくひん四谷よつやかいだん」の舞台ぶたい。『鉄腕てつわんアトム』などの執筆しっぴつ場所ばしょ)。
  • 1953ねん(25さい) - 東京とうきょう豊島としま椎名しいなまち5丁目ちょうめげん豊島としま南長崎みなみながさき3丁目ちょうめ)のトキワそう入居にゅうきょ。『リボンの騎士きし』を講談社こうだんしゃ月刊げっかん少女しょうじょクラブに連載れんさい開始かいし
  • 1954ねん - 週刊しゅうかん朝日あさひ昭和しょうわ29ねん(1954ねん)4がつ11にちごうぺーじ22-23で「られざる百万長者ひゃくまんちょうじゃ 児童じどうマンガ手塚てづか治虫おさむというおとこ」として紹介しょうかいされる。
  • 1954ねん - 10月に豊島としま雑司ぞうし並木なみきハウスに下宿げしゅく
  • 1957ねん - 東京とうきょう渋谷しぶや代々木よよぎ初台はつだい借家しゃくや
  • 1958ねん(30さい) - だい3かい小学館しょうがくかん漫画まんがしょう受賞じゅしょう(『漫画まんが生物せいぶつがく』『びいこちゃん』)。練馬ねりま東大泉ひがしおおいずみまちげん東大泉ひがしおおいずみ)の東映動画とうえいどうがから漫画まんが「ぼくのそんごくう」をもとにした劇場げきじょうよう長編ちょうへんそう天然色てんねんしょく漫画まんが映画えいが西遊せいゆう」の制作せいさくちかけられて嘱託しょくたく社員しゃいんとなる。
  • 1959ねん - 松下まつした知夫ともお(まつしたいちお)が中心ちゅうしんとなって結成けっせいした「ストーリー漫画まんが研究けんきゅうかい」に参加さんか松下まつした結婚式けっこんしき媒酌人ばいしゃくにん依頼いらい)。
  • 1959ねん - 10月に岡田おかだ悦子えつこ結婚けっこん。『週刊しゅうかん少年しょうねんサンデー創刊そうかんごうから『スリル博士はかせ』を連載れんさいする。
  • 1960ねん - 練馬ねりま谷原やはらまちげん練馬ねりま富士見台ふじみだい)にみずからデザインした自宅じたくてる。
  • 1961ねん - 奈良県立医科大学ならけんりついかだいがくから医学いがく博士はかせ学位がくい授与じゅよされる。おも東映動画とうえいどうがからいた人材じんざい中心ちゅうしんとする6めい手塚てづか治虫おさむプロダクション動画どうが設立せつりつし(12月には株式会社かぶしきがいしゃちゅうプロダクションとして登記とうき)、自宅じたくにわ一角いっかくつくった建物たてもの商用しょうようアニメーション作品さくひん「ある街角まちかど物語ものがたり」の制作せいさく開始かいし長男ちょうなんしん本名ほんみょうしん)が誕生たんじょう
  • 1963ねん(35さい) - みずか創設そうせつして社長しゃちょうつとめたむしプロダクション制作せいさく日本にっぽんはつ毎週まいしゅう30ふんわくテレビアニメシリーズ[注釈ちゅうしゃく 2]鉄腕てつわんアトム』(モノクロ作品さくひん)がフジテレビにて1がつ1にちから放送ほうそう開始かいしする(まる4年間ねんかん放送ほうそう)。「ある街角まちかど物語ものがたり」が芸術げいじゅつさい奨励しょうれいしょうだい1かい大藤おおふじ信郎のぶおしょう、ブルーリボン教育きょういく文化ぶんか映画えいがしょう受賞じゅしょう
  • 1964ねん - 長女ちょうじょるみ誕生たんじょう
  • 1965ねん - 日本にっぽんはつの1あいだわくテレビアニメ「新宝しんぽうとう」を1がつ3にち放送ほうそう(これは本来ほんらい手塚てづか治虫おさむ原作げんさく漫画まんが毎月まいつき1かい1あいだわく毎回まいかい完結かんけつ独立どくりつしたアニメ番組ばんぐみしていく構想こうそうむしプロ・ランド」のだい1さくであったが、経営けいえいてきめんから製作せいさく継続けいぞく無理むり判断はんだんされ、これいちさくだけがつくられて中止ちゅうしとなった)。日本にっぽんはつのカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝たいてい』がフジテレビで10がつ6にちから放送ほうそう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ特派とくはいん記者きしゃとしてニューヨーク世界せかい博覧はくらんかい取材しゅざいするためにわたりべいしたさい偶然ぐうぜんどう博覧はくらん会場かいじょうのペプシコーラかんまえにおいて生涯しょうがいいちだけとなったウォルト・ディズニーとの対面たいめんたす。W3事件じけんむしプロの版権はんけん部門ぶもん独立どくりつさせた会社かいしゃむしプロ商事しょうじ」を発足ほっそくする。
  • 1967ねん - むしプロ商事しょうじ月刊げっかん『COM』を刊行かんこう開始かいしし、同誌どうしに「とり」の連載れんさい開始かいし
  • 1968ねん(40さい) - むしプロ商事しょうじ制作せいさくのテレビ番組ばんぐみ「バンパイヤ」がフジテレビけい放送ほうそう開始かいし漫画まんが制作せいさくのための手塚てづかプロダクションを設立せつりつ
  • 1969ねん - 大人おとなのための劇場げきじょうよう長編ちょうへんアニメーション「せん一夜いちや物語ものがたり」を公開こうかい
  • 1970ねん - 『とり』でだい1かい講談社こうだんしゃ出版しゅっぱん文化ぶんかしょう児童じどうまんが部門ぶもん受賞じゅしょう日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかい大阪おおさか万博ばんぱく)にて「フジパンロボットかん[注釈ちゅうしゃく 22]」をプロデュース。少年画報社しょうねんがほうしゃの「週刊しゅうかん少年しょうねんキング」連載れんさいの『アポロのうた』に過度かど性的せいてき描写びょうしゃがあるとして、一部いちぶ地域ちいき青少年せいしょうねんたいする発売はつばい禁止きんしける。
  • 1971ねん - むしプロ社長しゃちょう退任たいにん。(むしプロ商事しょうじ社長しゃちょう継続けいぞく)。手塚てづかプロダクション動画どうがつくり、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作せいさくし、朝日放送あさひほうそうげん朝日放送あさひほうそうテレビTBS系列けいれつ)で放送ほうそう
  • 1972ねん -『ブッダ』を連載れんさい開始かいし
  • 1973ねん(45さい) - むしプロ商事しょうじとそれにつづいてむしプロダクションが倒産とうさんむしプロダクションの経営けいえいから退しりぞいたのちも、手塚てづか個人こじん多額たがく債務さいむ保証ほしょうおこなっていたため債権さいけんものわれるとなるが、知人ちじん葛西かさい健蔵けんぞうげんアップリカ・チルドレンズプロダクツ会長かいちょう)が後見人こうけんにんとなり、版権はんけん散逸さんいつまぬかれた。11月19にち、『週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン』にて『ブラック・ジャック』の連載れんさい開始かいし
  • 1974ねん - 練馬ねりまから杉並すぎなみ下井草しもいぐさす。
  • 1975ねん - 漫画まんが作品さくひん『ブッダ』、『動物どうぶつつれづれくさ』によりだい21かい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう漫画まんがしょう受賞じゅしょう。『ブラック・ジャック』によりだい4かい日本にっぽん漫画まんが協会きょうかいしょう特別とくべつ優秀ゆうしゅうしょう受賞じゅしょう
  • 1977ねん - 漫画まんが作品さくひんみっがとおる』、『ブラック・ジャック』によりだい1かい講談社こうだんしゃ漫画まんがしょう少年しょうねん部門ぶもん受賞じゅしょう講談社こうだんしゃ手塚てづか治虫おさむ漫画まんが全集ぜんしゅう』(当初とうしょだい1 - だい3ぜん300かん予定よてい刊行かんこう開始かいし
  • 1978ねん(50さい) - 日本にっぽんアニメーション協会きょうかい(Japan Animation Association = JAA)の初代しょだい会長かいちょうとなった。
  • 1978ねん - 日本にほんテレビけいなつの「24あいだテレビ」のなかで、日本にっぽんはつ単発たんぱつ2あいだわくのスペシャルアニメ番組ばんぐみ「100まんねん地球ちきゅうたび バンダーブック」を放送ほうそう
  • 1979ねん - 児童じどう漫画まんが開拓かいたく業績ぎょうせきにより巖谷いわや小波さざなみ文芸ぶんげいしょう受賞じゅしょう
  • 1980ねん - 東久留米ひがしくるめ転居てんきょ東宝とうほう洋画ようがけい劇場げきじょうよう長編ちょうへんアニメーション「とり2772」を公開こうかい。サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポットしょう受賞じゅしょう国際こくさい交流こうりゅう基金ききんのマンガ大使たいしとして国連こくれん本部ほんぶ米国べいこく大学だいがく現代げんだい日本にっぽんのマンガ文化ぶんかについて講演こうえん映画えいがヒポクラテスたち』に、大学だいがく病院びょういん教授きょうじゅやくでカメオ出演しゅつえんする。
  • 1983ねん(55さい) - 漫画まんが作品さくひんだまりの』によりだい29かい昭和しょうわ58年度ねんど小学館しょうがくかん漫画まんがしょう青年せいねん一般いっぱん部門ぶもん受賞じゅしょう
  • 1984ねん - 実験じっけんアニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際こくさいアニメーション映画えいがさいグランプリおよびユネスコしょう受賞じゅしょう
  • 1985ねん - 実験じっけんアニメーション『おんぼろフィルム』がだい1かい国際こくさいアニメーション映画えいがさい広島ひろしま大会たいかいグランプリ受賞じゅしょう東京とうきょう都民とみん文化ぶんか栄誉えいよあきら受章じゅしょう漫画まんが生活せいかつ40周年しゅうねん、『講談社こうだんしゃ 手塚てづか治虫おさむ漫画まんが全集ぜんしゅう』(当初とうしょ予定よていした3ぶんぜん300さつ)の完結かんけつにより、講談社こうだんしゃ漫画まんがしょう特別とくべつしょう受賞じゅしょう同年どうねん7がつにフランスで開催かいさいされた「にちふつ文化ぶんかサミット85」(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、フランス文化ぶんかしょう、コミュニケーション国際こくさい広場ひろばCICOM主催しゅさいにちふつ両国りょうこく外務省がいむしょう後援こうえん)に参加さんか
  • 1986ねん - 漫画まんが作品さくひん『アドルフにぐ』により、だい10かい講談社こうだんしゃ漫画まんがしょう一般いっぱん部門ぶもん受賞じゅしょう
  • 1987ねん - 愛知あいちけん岡崎おかざき開催かいさい地方ちほう博覧はくらんかいあおいひろし」の総合そうごうプロデューサーをつとめる。
  • 1988ねん2がつ13にち - 朝日あさひしょう受賞じゅしょう記念きねん講演こうえん東京とうきょう有楽町ゆうらくちょう朝日あさひホール)、講演こうえんだい「アニメーションとわたし」。
  • 1988ねん6がつ4にち - 高橋たかはしけん矢島やじまみのる田中たなか栄治えいじらと「日本にっぽん昆虫こんちゅう倶楽部くらぶ」を創設そうせつ初代しょだい会長かいちょう[266]
  • 1988ねん(60さい) - 戦後せんごマンガとアニメーションかいにおける創造そうぞうてき業績ぎょうせきにより朝日あさひしょう受賞じゅしょう[267]実験じっけんアニメーション「もり伝説でんせつ」で毎日まいにち映画えいがコンクール大藤おおふじしょう受賞じゅしょう。ザグレフ国際こくさいアニメーション映画えいがさいCIFEJしょう青少年せいしょうねん映画えいがしょう)を受賞じゅしょう体調たいちょう悪化あっかにより急遽きゅうきょ入院にゅういん(スキルスせい胃癌いがん判明はんめいするが本人ほんにん自身じしんにはつたえられず)。11月1にち大阪教育大学おおさかきょういくだいがく附属ふぞく池田いけだ小学校しょうがっこう生涯しょうがい最後さいご講演こうえんおこなう。
  • 1989ねん2がつ9にち - 胃癌いがんにより入院にゅういんちゅう半蔵門はんぞうもん病院びょういんにて午前ごぜん1050ふん死去しきょ(60さいぼつ)。戒名かいみょうはくげいいん殿どのさとしえんちゅうきよしだい居士こじ没後ぼつご日本にっぽん政府せいふからくんさんとう瑞宝章ずいほうしょう叙勲じょくん[268]日本にっぽんSF作家さっかクラブ主催しゅさいだい10かい日本にっぽんSF大賞たいしょう特別とくべつしょう受賞じゅしょう
  • 1990ねん - 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん回顧かいこてん権威けんいある美術館びじゅつかんで、没後ぼつご1ねんらずで回顧かいこてんひらかれた。国立こくりつ美術館びじゅつかんでの漫画まんが回顧かいこてん空前くうぜんのことであるという。同年どうねんぜん業績ぎょうせきたいしてだい19かい日本にっぽん漫画まんが協会きょうかいしょう文部もんぶ大臣だいじんしょう受賞じゅしょう
  • 1993ねん - だい4講談社こうだんしゃ手塚てづか治虫おさむ全集ぜんしゅう刊行かんこう開始かいし(その1997ねん12月にだい4刊行かんこう完了かんりょうし、全部ぜんぶで400さつ全集ぜんしゅう完結かんけつした)。
宝塚たからづか市立しりつ手塚てづか治虫おさむ記念きねんかん
  • 1994ねん - 兵庫ひょうごけん宝塚たからづかに、宝塚たからづか市立しりつ手塚てづか治虫おさむ記念きねんかんが4がつ25にち開館かいかんした。これのメモリアル公演こうえんとして宝塚歌劇団たからづかかげきだんはなぐみだい80期生きせいはつ舞台ぶたい公演こうえんとして『ブラック・ジャック 危険きけん』『とり』を上演じょうえん
  • 2002ねん - べいアイズナーしょうの「漫画まんが殿堂でんどうり。同年どうねん日本にっぽん漫画まんが協会きょうかい出版しゅっぱんしゃ5しゃ手塚てづか治虫おさむ誕生たんじょうである11月3にちを「漫画まんが」とすることを提唱ていしょう
  • 2004ねん - 漫画まんが『ブッダ』の英訳えいやくばんがアイズナーしょう最優秀さいゆうしゅう国際こくさい作品さくひん部門ぶもん受賞じゅしょう
  • 2007ねん - 2008ねん生誕せいたん80周年しゅうねんむかえることを記念きねんして、手塚てづか治虫おさむ作品さくひん読者どくしゃえらんで発行はっこうする『手塚てづか治虫おさむO(オンデマンド)マガジン』のサービスが開始かいしされる。
  • 2008ねん - 生誕せいたん80周年しゅうねん記念きねんして小学しょうがくかんから過去かこのコミックのとくそうばん純金じゅんきんせいアトムなどの商品しょうひん発売はつばい出身しゅっしん宝塚たからづかでのイベント、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくサンフランシスコでの手塚てづか治虫おさむてん広島ひろしま国際こくさいアニメーションフェスティバル、東京国際映画祭とうきょうこくさいえいがさい過去かこ自身じしんがけたアニメ作品さくひん特集とくしゅうされて上映じょうえい
  • 2009ねん - 江戸えど東京とうきょう博物館はくぶつかん特別とくべつてん手塚てづか治虫おさむてん開催かいさい
  • 2009ねん10がつ - 講談社こうだんしゃ手塚てづか治虫おさむ文庫ぶんこ全集ぜんしゅう』(ぜん200かん刊行かんこう開始かいし
  • 2011ねん4がつ28にちから6がつ30にち - 大阪大学おおさかだいがく総合そうごう学術がくじゅつ博物館はくぶつかん さむらい兼山かねやま修学しゅうがくかんで、大阪大学おおさかだいがく総合そうごう学術がくじゅつ博物館はくぶつかんだい13かい企画きかくてん阪大はんだいせい手塚てづか治虫おさむ医師いしか?マンガか?-」開催かいさい
  • 2012ねん - 世田谷せたがや文学ぶんがくかんにて「地上ちじょう最大さいだい手塚てづか治虫おさむてん開催かいさい
  • 2013ねん - 練馬ねりま区立くりつ石神井公園しゃくじいこうえんふるさと文化ぶんかかんにて特別とくべつてん鉄腕てつわんアトム放送ほうそう50周年しゅうねん記念きねん鉄腕てつわんアトムがんだ」(開催かいさい期間きかん:2013ねん1がつ19にち-3月24にち)。
  • 2013ねん - 愛知あいちけん岡崎おかざき「おかざき世界せかいども美術びじゅつ博物館はくぶつかん」で「手塚てづか治虫おさむてん」。原稿げんこう愛用あいようひんなどやく170てん展示てんじ開催かいさい期間きかん:2013ねん4がつ27にち-2013ねん7がつ15にち)。
  • 2013ねん - 東京とうきょう現代げんだい美術館びじゅつかん特別とくべつてん手塚てづか治虫おさむ×石ノ森いしのもり章太郎しょうたろう マンガのちから」(2013ねん6がつ29にち - 9月8にち)。以降いこう広島ひろしま県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん(2013ねん11月15にち - 2014ねん1がつ5にち)、大阪おおさか歴史れきし博物館はくぶつかん(2014ねん1がつ15にち - 3がつ10日とおか)、山梨やまなし県立けんりつ博物館はくぶつかん(2014ねん3がつ21にち - 5月19にち)、宮城みやぎけん美術館びじゅつかん(2014ねん5がつ31にち - 7がつ27にち)、長野ながのけん信濃しなの美術館びじゅつかん(2014ねん10がつ4にち-12月7にち予定よてい)を巡回じゅんかい
  • 2014ねん - 大学入試だいがくにゅうしセンター試験しけん二日ふつか(1がつ19にち日曜日にちようび)の日本にっぽんBの設問せつもん手塚てづかげられ、著書ちょしょ漫画まんが使つかわれた。※ちゅう学校がっこうよう教科書きょうかしょ手塚てづか治虫おさむ文章ぶんしょう掲載けいさいされたれいざい命中めいちゅうにもなんかある。
  • 2014ねん4がつ7にち - べいグーグルのWebサイト「歴史れきしアーカイブ(Google Cultural Institute)」に漫画まんがやアニメ作品さくひんでたどる手塚てづか治虫おさむ生涯しょうがい公開こうかい
  • 2014ねん5がつ16にち(?) - スペイン、バルセロナのコミックサロンで、手塚てづか治虫おさむさく人間にんげん昆虫こんちゅう」が外国がいこく作品さくひん部門ぶもん受賞じゅしょう日本にっぽん漫画まんが作品さくひんでははつ受賞じゅしょう
  • 2014ねん7がつ12にちから8がつ31にち - 滋賀しが県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかんで「手塚てづか治虫おさむてん」(2014ねん7がつ12にち-8がつ31にち開催かいさい
  • 2014ねん7がつ25にち - 漫画まんが地底ちていこく怪人かいじん』の英訳えいやくばん(The Mysterious Underground Men, by Osamu Tezuka(PictureBox))がアイズナーしょう最優秀さいゆうしゅう国際こくさいアジア作品さくひん部門ぶもん受賞じゅしょう
  • 2014ねん7がつ19にちから10がつ5にち - 湯前ゆのまえまんが美術館びじゅつかん熊本くまもとけん球磨くまぐん湯前ゆのまえまち中央ちゅうおう公民館こうみんかん那須なす良輔りょうすけ記念きねんかん))で「とり連載れんさい60周年しゅうねん記念きねん 阿蘇あそ手塚てづか治虫おさむてん(2014ねん7がつ19にち - 10月5にち開催かいさい
  • 2014ねん9がつ5にちから9がつ14にち - 横浜よこはまみなとみらいのブリリアショートショートシアターで、手塚てづか治虫おさむ実験じっけんアニメーション特集とくしゅう(2014ねん9がつ5にち - 9月14にち)。※「もり伝説でんせつ だい楽章がくしょう完成かんせい記念きねん初日しょにち手塚てづかしんのトークショウ。※2014ねん8がつ21にちだい15かい広島ひろしま国際こくさいアニメーションフェスティバルでのワールドプレミア上映じょうえいつづ一般いっぱん公開こうかい
  • 2014ねん11月3にちから11月9にち - 東京とうきょう吉祥寺きちじょうじ吉祥寺きちじょうじギャラリー・カイ(GALLERY KAI)で「手塚てづか治虫おさむ美女びじょ画展がてん開催かいさい
  • 2015ねん2がつ28にちから5がつ10日とおか - 京都きょうと国際こくさいマンガミュージアムで「医師いしたちのブラック・ジャックてん開催かいさい
  • 2015ねん12月17にちから12月23にち - 吉祥寺きちじょうじリベストギャラリーそうで「手塚てづか治虫おさむ文化ぶんかさい 〜キチムシ‘15〜」開催かいさい
  • 2016ねん7がつ30にちから8がつ21にち - 会津若松あいづわかまつ歴史れきし資料しりょうセンター「まなべこ」で特別とくべつ企画きかくてん手塚てづか治虫おさむ会津あいづ開催かいさい
  • 2016ねん9がつ10日とおかから11月13にち - さいたま市立しりつ漫画まんが会館かいかん1かい 企画きかく展示てんじしつで「手塚てづか治虫おさむとっておきの漫画まんがてん開催かいさい
  • 2018ねん1がつ25にちから3がつ11にち - フランス・アングレーム美術館びじゅつかん展覧てんらんかい「Osamu Tezuka, Manga no Kamisama」開催かいさい
  • 2018ねん7がつ13にちから9がつ2にち - 台湾たいわん台北たいぺいまこと品書しながきてんあつしみなみてんで「漫畫まんがかみ手塚てづか治虫おさむ 生誕せいたん90ねんねんてん開催かいさい。「手塚てづか治虫おさむ書店しょてん」も出店しゅってん
  • 2019ねん4がつ1にち - 宝塚たからづか市立しりつ手塚てづか治虫おさむ記念きねんかんがリニューアルオープン。
  • 2019ねん1がつTVアニメ「どろろ」が放送ほうそう開始かいし
  • 2019ねん10がつ1にち - キオクシアの「#世界せかいしん記憶きおくだい1だんとして人工じんこう知能ちのうによる手塚てづか治虫おさむ新作しんさく漫画まんが制作せいさくプロジェクト「TEZUKA2020」(テヅカニーゼロニーゼロ)が発表はっぴょう、タイトルは『ぱいどん』で2020ねん2がつおよび4がつモーニングぜん後編こうへん掲載けいさいされた[269][270]
  • 2020ねん9がつ28にち - 米国べいこく出版しゅっぱんしゃファンタグラフィックスが主催しゅさいする漫画まんがしょうハーヴェイしょう(The Harvey Awards)の運営うんえい委員いいんかいは、2020ねん9がつ28にち手塚てづか治虫おさむたいして殿堂でんどうりクリエイターとして"Harvey Awards Hall of Fame"を授与じゅよすると発表はっぴょう
  • 2021ねん3がつ24にちから4がつ5にち - 阪急はんきゅううめだ本店ほんてん 9かい 阪急はんきゅううめだギャラリーで「手塚てづか治虫おさむのクリエーション」開催かいさい

出演しゅつえん番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

  • キャスター(文化放送ぶんかほうそう
  • はばたけ!真理まりちゃん(TBSテレビ 天地あまち真理まり司会しかい主演しゅえんしたミュージカルバラエティーで、人形にんぎょうのキャラクターデザインを担当たんとうした)

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

家族かぞく[編集へんしゅう]

手塚てづか太郎たろう

祖父そふ手塚てづか太郎たろう司法官しほうかんで、1886ねん明治めいじ19ねん)に創立そうりつされた関西かんさい法律ほうりつ学校がっこうげん関西大学かんさいだいがく)の創立そうりつしゃ一人ひとりである。大阪おおさか地方裁判所ちほうさいばんしょ検事正けんじせいから名古屋なごや控訴こうそいん検事けんじちょう長崎ながさき控訴こうそ院長いんちょうなどを歴任れきにんした。祖父そふ手塚てづかりょうせんてきじゅくまなんだ蘭方らんぽうで、1858ねん安政あんせい5ねん)に江戸えど神田かんだたま種痘しゅとうしょげん東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ前身ぜんしん)を設立せつりつした人物じんぶつ一人ひとりでもある。その生涯しょうがい治虫おさむ晩年ばんねんさくだまりの』でフィクションまじえつつえがかれており、福澤ふくさわ諭吉ゆきち自伝じでんぶくおう自伝じでん』にも記録きろくのこっている。遠祖えんそ平安へいあん時代じだい武将ぶしょう手塚てづかひかりもりとされる。家系かけい[271] (なお作家さっか活動かつどうにはおおくの書籍しょせき生年せいねん大正たいしょう15ねん(1926ねん)と紹介しょうかいしていた)。

ちちつばら住友金属すみともきんぞくつとめる会社かいしゃいんであり、カメラ愛好あいこうするなどモダンな人物じんぶつであった。当時とうじ非常ひじょうめずらしかった手回てまわしの9.5mmフィルム映写えいしゃ(パテベイビー)を所有しょゆうしており、小学校しょうがっこう2年生ねんせいから中学ちゅうがくにかけて、日曜日にちようびにはいえにいながらにしてチャップリン喜劇きげき映画えいがマックス・フライシャーディズニーのアニメ映画えいがることができた[272]。そのため幼少ようしょうから漫画まんがよりもむしろアニメ監督かんとくになることを夢見ゆめみていたという[273]。なお、ちちはカメラにはまるまえ漫画まんがにもっていて、漫画まんがへの理解りかいがあり、いえにはかわ水泡すいほうの『のらくろ』シリーズや、中村なかむら書店しょてんの「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」、「ナカムラ・叢書そうしょ」など、200さつえる漫画まんがほんがあったという[274]。また、のちにちちははけていたラブレターを発見はっけんしたさい、ラブレターに漫画まんがえがかれてあるのを発見はっけんし、治虫おさむは「やっぱり自分じぶんちち息子むすこだ」とおもったという[275]つばら晩年ばんねんはファンクラブの世話人せわにんとして、手塚てづかもとおとずれるファンを接待せったいしていた。

はは文子ふみこは、服部はっとり英男ひでお陸軍りくぐん中将ちゅうじょう[276][277]陸士りくし11[276][277]りくまさる23[277]輜重しちょうへい将校しょうこう[277]最終さいしゅう補職ほしょく輜重しちょうへいかん[277]。)のむすめ[276]きびしいしつけのもとにそだち、おっとには絶対ぜったい服従ふくじゅうであったが、戦中せんちゅうおっと召集しょうしゅうされたさいは、生活せいかつ捻出ねんしゅつはたけ仕事しごとから隣組となりぐみ役員やくいんまでつとめるはたらきぶりをしめ[278]一方いっぽうで、幼少ようしょう子守こもりうたわりに絵本えほん漫画まんが登場とうじょう人物じんぶつごとに声音こわね使つかけてかせていた。ははもまた漫画まんがきであり、のちに治虫おさむ長男ちょうなんしん治虫おさむ書斎しょさいで『のらくろ』をんでいたところ、ページのすみパラパラ漫画まんが発見はっけんした。てっきり治虫おさむによるものだとおもっていたが、のちになって文子ふみこえがいたものだったと判明はんめいしたという[279]。1983ねん1がつ4にち、74さいぼつ[3]

治虫おさむ初期しょき自伝じでんなどでちちわるき、ははげるというエディプスコンプレックス丸出まるだ[注釈ちゅうしゃく 23]行動こうどうっている。ちち強権きょうけんてきはは無理むりける亭主関白ていしゅかんぱくとして、あるいは治虫おさむ自身じしんがいのある行動こうどうったと回想かいそうしているものであり、そのうちの一部いちぶはのちにエッセイなどで事実じじつじょう撤回てっかいをしている(初期しょき自伝じでんなどでちち漫画まんがってくれずおもはは漫画まんがってくれたとしていたが、後年こうねんのエッセイではむしろ父親ちちおやってくれていたとわっている)。実妹じつまい美奈子みなこ治虫おさむぼつのインタビューで、父親ちちおやについてけっして強権きょうけんてきではなく家庭かていサービスにも熱心ねっしんであったとべている[280]。このことは「ぼくの漫画まんが」にもっている。

長子ちょうしで、したには2さいおとうとひろしと4さいいもうと美奈子みなこ結婚けっこん宇都うと改姓かいせい)がいる。ひろしは「子供こどものころ昆虫こんちゅうのことがもとでああじゃね、こうじゃねとはなしていたらいのケンカになった。なぐいでね、こっちはかるつとおもっていたら兄貴あにきつよかったですよ。だから、ヨワムシとかナキムシとかってたけどあれはまるでうそですよ。」とかたっている。2009ねん2がつ9にち放送ほうそうの「BS20周年しゅうねん企画きかく 手塚てづか治虫おさむ2009」では手塚てづか同級生どうきゅうせいとともに宝塚たからづか手塚てづか治虫おさむ記念きねんかんおとずれている。美奈子みなこは「戦争せんそうはじまってあにはどこかわった。それまでは天国てんごくのような生活せいかつだったけど、戦争せんそうはじまって軍事ぐんじ教練きょうれんなどさせられてあにのプライドは傷付きずつけいた」とはなしている。美奈子みなこ手塚てづかのキャラクター・ヒョウタンツギ創作そうさくしゃでもある[281]

つま悦子えつこ旧姓きゅうせい岡田おかだ)は、つながらない親戚しんせき幼馴染おさななじみであった。結婚けっこんだいいちベビーブームかさなっていたため、結婚けっこんまえに2かいしかデートができず[282]、しかも結婚けっこん披露宴ひろうえんでは1あいだまえまでめられて原稿げんこうえが遅刻ちこくしてしまったという[283]悦子えつこ梅花ばいかだかおんなげん梅花ばいか中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう出身しゅっしんであり、この学校がっこう当時とうじ大阪おおさかのひどいほう一流いちりゅうの、つまりすごい学校がっこう」だったため、手塚てづかは「鉄火てっかはだのおもしろい」を期待きたいして悦子えつこ結婚けっこんしたが、実際じっさい結婚けっこんしてみるとそうではないことがわかったという[284]

子供こどもは3にん長男ちょうなん映像えいぞう作家さっか手塚てづかしん本名ほんみょうは「しん」、悦子えつこ夫人ふじん真実しんじつ一路いちろという言葉ことばこのんでいたので命名めいめい)。長女ちょうじょはプランニングプロデューサー・地球ちきゅう環境かんきょう運動うんどういえ手塚てづかるみ少女しょうじょ雑誌ざっし懸賞けんしょう当選とうせんしゃに「るみ」という名前なまえがあったので命名めいめい)。次女じじょ女優じょゆう手塚てづかせん以子(ちいこ・『せん一夜いちや物語ものがたり』にちなんで命名めいめい)。また、声優せいゆう松山まつやまかおるめい

つま長男ちょうなん長女ちょうじょの3にん手塚てづか治虫おさむかんするほん刊行かんこうしている。

アシスタント経験けいけんしゃ[編集へんしゅう]

日本にっぽん漫画まんが制作せいさく作業さぎょう専業せんぎょうアシスタント制度せいど(プロダクション制作せいさくシステム)を最初さいしょはじめたのは手塚てづか治虫おさむであるといわれている。 なお以下いかのリストは完全かんぜんなものではない。手塚てづか治虫おさむは、アシスタントは通例つうれい2-3ねん程度ていどひとちすることをしとかんがえていた。

トキワそう初台はつだい時代ときよ[編集へんしゅう]

アニメーション制作せいさくのスタッフ[編集へんしゅう]

以下いかのリストは完全かんぜんなものではない。なお、むしプロダクションの最盛さいせいには従業じゅうぎょういんが400にん以上いじょういたといわれる。

その手塚てづか創作そうさく活動かつどうささえた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 島方しまかたどうねんしるべねん) - 明治製菓めいじせいかて、マネージャーけん社長しゃちょうしつ部長ぶちょうとしてきゅうむしプロにまねかれる。手塚てづかプロダクション初代しょだい社長しゃちょう
  • 清野きよの正信まさのぶ - むしプロ商事しょうじ勤務きんむ文民ぶんみんしゃ移籍いせき
  • 葛西かさい健蔵けんぞう - 育児いくじ用品ようひんメーカー「アップリカ」の創業そうぎょうしゃきゅうむしプロ倒産とうさん面識めんしきはなかったが恩人おんじんした手塚てづか再建さいけん支援しえん。そのえん手塚てづかプロダクションの取締役とりしまりやくつとめた。2017ねん逝去せいきょ。『どついたれ』のモデルとされる。
  • もりはる - 手塚てづかプロの社員しゃいんとなり講談社こうだんしゃ手塚てづか治虫おさむ全集ぜんしゅう担当たんとう。のちに手塚てづかプロダクション資料しりょう室長しつちょう。2016ねん逝去せいきょ
  • 古徳ことくみのる - 晩年ばんねんのマネージャー。手塚てづか没後ぼつごはアニメ製作せいさくプロデューサーや出版しゅっぱん局長きょくちょう歴任れきにん。2020ねん逝去せいきょ
  • 清水しみず義裕よしひろ - アルバイトとして手塚てづかプロにはいり、手塚てづか指揮しきするテレビスペシャルの制作せいさく進行しんこうつとめる。その正式せいしき入社にゅうしゃ。2020ねん現在げんざい取締役とりしまりやく

手塚てづか治虫おさむえんじた俳優はいゆう[編集へんしゅう]

  • 手塚てづか治虫おさむ本人ほんにん) - ドラマ『バンパイヤ』(1968ねん10がつ - 1969ねん3がつ、フジテレビ)など、多数たすう
ドラマ
映画えいが
舞台ぶたい
ドキュメントバラエティ

掲載けいさい編集へんしゅうしゃ[編集へんしゅう]

これはまだ不完全ふかんぜんなリストである。

  • 新井あらい善久よしひさ講談社こうだんしゃ少女しょうじょクラブ」担当たんとう編集へんしゅうしゃ、『とり』)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 青木あおき和夫かずお秋田あきた書店しょてん週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン」担当たんとう編集へんしゅうしゃ
  • 阿久津あくつ信道のぶみち秋田あきた書店しょてん冒険ぼうけんおう」と「漫画まんがおう担当たんとう編集へんしゅうちょうで『冒険ぼうけんきょう時代じだい』『ぼくのそんごくう』。もと秋田あきた書店しょてん取締役とりしまりやく編集へんしゅう局長きょくちょう、2007ねん9がつ12にち死去しきょ) ※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 阿久津あくつ邦彦くにひこ秋田あきた書店しょてん少年しょうねんチャンピオン」編集へんしゅうしゃ
  • 井岡いおか秀次しゅうじ講談社こうだんしゃ週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン」)
  • 伊藤いとう嘉彦よしひこ秋田あきた書店しょてん週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン」担当たんとう編集へんしゅうしゃ(ブラックジャック4代目だいめ担当たんとう編集へんしゅうしゃ)、げん幻冬舎げんとうしゃコミックス代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
  • 内田うちだまさる講談社こうだんしゃ週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン」)※ 少年しょうねんマガジン編集へんしゅうちょうW3事件じけん参照さんしょう
  • 大浦おおうら静雄しずお潮出版社うしおしゅっぱんしゃ、7年間ねんかん『ブッダ』の連載れんさい担当たんとう
  • 大塚おおつか公平こうへい秋田あきた書店しょてん週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン」ふく編集へんしゅうちょう映画えいが評論ひょうろん
  • 大和田おおわだ俊司しゅんじ秋田あきた書店しょてん週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン」編集へんしゅうしゃ
  • 岡本おかもとさん秋田あきた書店しょてん週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン」編集へんしゅうしゃ)※『ブラック・ジャック』初代しょだい担当たんとう
  • 加藤かとう謙一けんいち学童がくどうしゃ漫画まんが少年しょうねん」)※ 戦前せんぜん小学校しょうがっこう教師きょうしから講談社こうだんしゃ転職てんしょくして「少年しょうねん倶楽部くらぶ編集へんしゅうちょうになる。敗戦はいせん公職こうしょく追放ついほうけて個人こじん学童がくどうしゃおこしていた。偶然ぐうぜんそこを訪問ほうもんした手塚てづか携行けいこうしていた赤本あかほんよう原稿げんこう掲載けいさいめた結果けっか長編ちょうへん連載れんさい漫画まんが『ジャングル大帝たいてい』となった。
  • かべむらたいさん秋田あきた書店しょてん少年しょうねんチャンピオン」)※ 『ぼくのそんごくう』(秋田あきた書店しょてん冒険ぼうけんおう」)連載れんさい編集へんしゅう部員ぶいんで、のちに『ブラックジャック』連載れんさい開始かいし少年しょうねんチャンピオンの編集へんしゅうちょう
  • 刈谷かりや政則まさのり大和やまと書房しょぼう
  • 河野こうの安廣やすひろ秋田あきた書店しょてん週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン」編集へんしゅうしゃ
  • くま藤男ふじお秋田あきた書店しょてん週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン」ふく編集へんしゅうちょう
  • 桑田くわたひろし光文社こうぶんしゃ少年しょうねん担当たんとう編集へんしゅうしゃ
  • 栗原くりはら良幸よしゆき(講談社こうだんしゃ週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン編集へんしゅうしゃみっがとおる」)
  • 小林こばやしかねあきら(かねあき)(少年画報社しょうねんがほうしゃ秋田あきた書店しょてん
  • 志波しばしげる宇(ひでたか)(小学しょうがくかん「ビッグコミック」)『地球ちきゅうむ』『きりひと賛歌さんか』※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 篠田しのだ修一しゅういちだいしゃ)※手塚てづか治虫おさむファンクラブ顧問こもんつとめた。
  • 戸田とだ利吉としきちろう少年画報社しょうねんがほうしゃ
  • 豊田とよだひさし小学しょうがくかん週刊しゅうかん少年しょうねんサンデー」の初代しょだい編集へんしゅうちょう小学しょうがくかん少年しょうねんサンデー」で『スリル博士はかせ』『0マン』『キャプテンKen』『しろいパイロット』)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 中村なかむら一彦かずひこ (小学しょうがくかん少年しょうねんサンデー」、どろろの担当たんとう手塚てづかばん)
  • 長崎ながさき尚志ひさし ※「かつて手塚てづか先生せんせい担当たんとうだったわたしは…」という文章ぶんしょうを「パイドン」の制作せいさく発表はっぴょう寄稿きこうしていることから,なにかの作品さくひん編集へんしゅう担当たんとうしたらしいが,詳細しょうさい不明ふめい
  • 牧野まきのたけあきら講談社こうだんしゃ「なかよし」初代しょだい編集へんしゅうちょう、「週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン」の初代しょだい編集へんしゅうちょう)※ 講談社こうだんしゃ少女しょうじょクラブ」担当たんとう編集へんしゅうしゃのとき手塚てづか連載れんさい依頼いらい(「リボンの騎士きし」)。
  • 松岡まつおか博治ひろじ朝日あさひソノラマ単行たんこうほん「サンコミックス」、雑誌ざっし「マンガ少年しょうねん担当たんとう編集へんしゅうしゃで、『鉄腕てつわんアトム』『とり』)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。※ もとメディアファクトリーコミック出版しゅっぱん事業じぎょうエグゼクティブプロデューサー。2023ねん死去しきょ[285]
  • 松谷まつやたかしせい(たかゆき)(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ漫画まんがサンデー」編集へんしゅうしゃ)※その1973ねんから16年間ねんかん手塚てづか治虫おさむのマネージャーをつとめ、われて1985ねん4がつから手塚てづかプロダクション代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう。※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 丸山まるやまあきら講談社こうだんしゃ少女しょうじょクラブ」担当たんとう編集へんしゅうしゃで『リボンの騎士きし』『とり』(とも少女しょうじょクラブばん))※著書ちょしょやインタビュー記事きじのほか、「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」にも寄稿きこうあり。
  • みねとう正行まさゆき実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ編集へんしゅうしゃ)- 『週刊しゅうかん漫画まんがサンデー』の初代しょだい編集へんしゅうちょう
  • 宮原みやはら照夫てるお講談社こうだんしゃ週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン」編集へんしゅうちょう(4代目だいめ)、『W3(少年しょうねんマガジンばん)』『みっがとおる』『手塚てづか治虫おさむ漫画まんが全集ぜんしゅう』)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 西村にしむら繁男しげお集英社しゅうえいしゃ週刊しゅうかん少年しょうねんジャンプ」)
  • 野口のぐちいさおむしプロ商事しょうじ編集へんしゅうしゃ
  • 橋本はしもと一郎いちろう朝日あさひソノプレスしゃ朝日あさひソノラマの編集へんしゅうもと少年画報社しょうねんがほうしゃ編集へんしゅうしゃ、「サンコミックス」創刊そうかん編集へんしゅうちょう
  • 福島ふくしま健夫たけお編集へんしゅうちょう実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ漫画まんがサンデー」の編集へんしゅうしゃ
  • 鈴木すずき敏夫としお徳間書店とくましょてん「コミックアンドコミック」「アニメージュ」の編集へんしゅう
  • 上野うえの明雄あきお小学しょうがくかん小学しょうがくいち年生ねんせい」「小学しょうがくさん年生ねんせい」の担当たんとう編集へんしゅうしゃ編集へんしゅうちょう
  • 吉倉よしくら英雄ひでお集英社しゅうえいしゃ月刊げっかん少年しょうねんジャンプ」編集へんしゅうしゃ
  • 長野ながのただし集英社しゅうえいしゃ月刊げっかん「おもしろブック」編集へんしゅういん、のちに週刊しゅうかん少年しょうねんジャンプ初代しょだい編集へんしゅうちょう
  • 黒川くろかわたくもと少年しょうねんキング編集へんしゅうちょうで『ノーマン』『鬼丸おにまる大将たいしょう』『かみとりで』『アポロのうた』を担当たんとう)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 鈴木すずき五郎ごろう小学しょうがくかん中学生ちゅうがくせいとも」で『流星りゅうせい王子おうじ』『おお!われらさんにん』)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 池田いけだ幹生みきお文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう週刊文春しゅうかんぶんしゅん」で『アドルフにぐ』)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 石井いしい文男ふみおむしプロ商事しょうじ「COM」代目だいめ編集へんしゅうちょうで『とり』(COMばん))※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 鈴木すずき俊彦としひこ小学しょうがくかん「ビッグコミック」創刊そうかん編集へんしゅうちょう地球ちきゅうむ』)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 竹尾たけおおさむ潮出版社うしおしゅっぱんしゃ希望きぼうとも」「少年しょうねんワールド」「コミックトム」の編集へんしゅうしゃ。『ブッダ』と絶筆ぜっぴつ『ルードウィヒ・B』の担当たんとう)※「神様かみさま伴走ばんそうしゃ13+2」に寄稿きこうあり。
  • 山崎やまざきくにむしプロ商事しょうじ「COM」創刊そうかん編集へんしゅうちょう(1969ねん3がつごうまで)で『とり』(COMばん))
  • 山本やまもとじゅん也(小学館しょうがくかん
  • 白井しらい勝也かつや小学館しょうがくかん
  • もとひろし小学館しょうがくかん

世界せかい手塚てづか作品さくひん紹介しょうかいした人物じんぶつ[編集へんしゅう]

フレデリック・L・ショット
手塚てづか治虫おさむ作品さくひん多数たすう翻訳ほんやくしたほか、手塚てづか治虫おさむふくめて日本にっぽん漫画まんが海外かいがい紹介しょうかいする書籍しょせき多数たすういた。日本にっぽん留学りゅうがく居住きょじゅうしていたことがあり、とり翻訳ほんやく作業さぎょう最初さいしょとして手塚てづか親交しんこう関係かんけいにあった。
2017ねん長年ながねん漫画まんがつうじた国際こくさい文化ぶんか交流こうりゅうへの功績こうせきにより2017年度ねんど国際こくさい交流こうりゅう基金ききんしょう受賞じゅしょうしゃ

日本にっぽん国外こくがい作家さっか[編集へんしゅう]

マウリシオ・デ・ソウザ
ブラジル漫画まんが
1984ねん手塚てづか国際こくさい交流こうりゅう基金ききん文化ぶんか専門せんもん派遣はけん事業じぎょうでブラジルをおとずれて以来いらい親交しんこうをもち、手塚てづかがブラジルにさいにはかならかれい、そのぎゃくもまたしかりであった。ソウザによると、手塚てづか暴力ぼうりょく作品さくひん導入どうにゅうしたことを大変たいへん後悔こうかいしていたらしく、比較的ひかくてき平和へいわてきなソウザの作風さくふうを「漫画まんがはこうあるべきだ」としょうしていた[286]。おたがいのキャラをひとつの作品さくひんクロスオーバーとして登場とうじょうさせようとの計画けいかくがあったが、手塚てづか一時いちじ断念だんねん。しかし、ブラジルでも日本にっぽん漫画まんが出版しゅっぱんされ、ソウザのキャラも日本にっぽん漫画まんがふうにアレンジされたほんされたことによって、計画けいかく再度さいど発動はつどう、そして実現じつげんするはこびとなった[287]パロディオマージュ、リメイクなどではなく、手塚てづかのキャラが公式こうしきとして他人たにん作品さくひん登場とうじょうするのは史上しじょうはつだといわれる。アマゾン保護ほごめぐるストーリーは2012ねん2がつ、3月に上下じょうげまき発行はっこうされた。
手塚てづかがわのキャラは「リボンの騎士きし」のサファイア、「ジャングル大帝たいてい」のレオ、そして「鉄腕てつわんアトム」のアトムなどである。
  • Mauricio de Sousa (2012). Turma da Monica Jovem: Tesouro Verde. Panini. ISBN 9788573518764 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 生前せいぜんは1926ねんまれと自称じしょうしていた(「現代げんだい漫画まんが6かん 手塚てづか治虫おさむしゅう」〈筑摩書房ちくましょぼう著者ちょしゃ紹介しょうかいなど)。
  2. ^ a b c d テレビアニメとしてはそれ以前いぜんに『もぐらのアバンチュール』『あたらしい動画どうが 3つのはなし』『インスタントヒストリー』『おとぎマンガカレンダー』などが放映ほうえいされている。
  3. ^ 初出しょしゅつ開高かいこうけん「マンガの神様かみさま手塚てづか治虫おさむ」(週刊しゅうかん朝日あさひ1964ねん2がつ21にちごう)。ちなみに、生前せいぜん手塚てづか著書ちょしょ『ぼくはマンガ』のように、漢字かんじ表記ひょうきの「漫画まんが」よりカタカナ表記ひょうきの「マンガ」をこのんで使つかっていた。
  4. ^ ただし、後述こうじゅつ石原いしはらみのる手塚てづかぼつのインタビューで「手塚てづかがいじめっ自宅じたくんで漫画まんが懐柔かいじゅう籠絡ろうらくした」とされるてん疑問ぎもんていしている。石原いしはらによると、同窓会どうそうかいのたびにみなで「おかしいなー」とっていたが、手塚てづか本人ほんにんうと「『すまん、すまん』とケロッとして」いたという。(池田いけだあきらあきら手塚てづか治虫おさむ完全かんぜん解体かいたい新書しんしょ集英社しゅうえいしゃ、2002ねん、p238)
  5. ^ なお、1947ねん大阪おおさか帝国ていこく大学だいがくから大阪大学おおさかだいがくへの名称めいしょう変更へんこうともない、医学いがく専門せんもん大阪大学おおさかだいがく附属ふぞく医学いがく専門せんもん改称かいしょうされた。
  6. ^ 旧制きゅうせい大学だいがく旧制きゅうせい専門せんもん学校がっこう明確めいかく区別くべつされており、旧制きゅうせい専門せんもん学校がっこう卒業生そつぎょうせいには学士がくしごう授与じゅよおこなわれなかった。
  7. ^ 徹夜てつやけであっても映画えいがかんんだという。『たりったりうつしたり』(手塚てづか治虫おさむちょ
  8. ^ ただし、アニメーション『鉄腕てつわんアトム』関係かんけいしゃへのききとりと資料しりょうさい調査ちょうさおこなった津堅つけん信之のぶゆき実際じっさいには「当初とうしょは1ほん155まんえん代理だいりてんより制作せいさくとして支払しはらわれていた」としている。津堅つけんによると、その制作せいさくりょうすこしずつげられており、「むしプロは確実かくじつ経営けいえい努力どりょく実施じっしして、かつ結果けっかている。『『アトム』を55まんえんつくったから、そののアニメ制作せいさく環境かんきょうわるくなった』という評価ひょうかがいまだにあるとすれば、短絡たんらくてきであるとわざるをない。」としている(津堅つけん信之のぶゆき『アニメ作家さっかとしての手塚てづか治虫おさむ―その軌跡きせき本質ほんしつ』NTT出版しゅっぱん、2007ねん)。
  9. ^ アニメーターの大塚おおつか康生やすおは、手塚てづか一方いっぽう理想りそうのアニメにあこがれながらも、ついにそれをげられなかった原因げんいんを、商業しょうぎょう主義しゅぎのためではなくて、手塚てづかがアニメの技術ぎじゅつについて無知むちだったからだとしている。「演技えんぎ設計せっけいやアニメートに関心かんしんではすぐれたアニメーションになるはずがなかったようにおもいます。実際じっさい手塚てづかはフル・アニメーションの基礎きそ技術ぎじゅつをディズニーなどの先達せんだつまなんだ形跡けいせきがなく、ろくにアニメーターの養成ようせいもせずに漫画まんがてきなリミテッドから出発しゅっぱつしているてんじつ不思議ふしぎです」(大塚おおつか作画さくがあせまみれ 増補ぞうほ改訂かいていばん』P95「4しょう テレビアニメーション時代じだい幕開まくあけ」)
  10. ^ なお『どろろ』作中さくちゅう妖怪ようかい水木みずき影響えいきょうけたとおもわれる点描てんびょうもちいられている(夏目なつめ、151-152p)。
  11. ^ 手塚てづか本人ほんにんは1971ねん経営けいえいしゃ退しりぞいていた。
  12. ^ 1986ねん1がつ10日とおかに『手塚てづか治虫おさむ 創作そうさく秘密ひみつ』がNHK総合そうごう放送ほうそうされた[83]
  13. ^ 当時とうじ主治医しゅじいによれば、この時点じてんですでにステージ4の段階だんかいであり、腹膜ふくまくにまでがんが転移てんいしていたという。しかし、がんであること自体じたい当時とうじ医療いりょう慣習かんしゅうにより本人ほんにんには最後さいごまで告知こくちされず、胃潰瘍いかいようげられていた。
  14. ^ 医師いしほうだいはちじょう規定きていもとづき内閣ないかく制定せいていした医師いしほう施行しこうれいだいよんじょうだいこうには「医師いし死亡しぼうし、またしっそうの宣告せんこくけたときは、戸籍こせきほう昭和しょうわじゅうねん法律ほうりつだいひゃくじゅうよんごう)による死亡しぼうまたしっそうの届出とどけで義務ぎむしゃは、さんじゅうにち以内いないに、医籍いせき登録とうろくのまつけし申請しんせいしなければならない。」とあり、またどうななじょうだいいちこうには「医師いしは、医籍いせき登録とうろくのまつけし申請しんせいするときは、住所じゅうしょ都道府県とどうふけん知事ちじ経由けいゆして、免許めんきょしょう厚生こうせい労働ろうどう大臣だいじん返納へんのうしなければならない。だいよんじょうだいこう規定きていにより医籍いせき登録とうろくのまつけし申請しんせいするものについても、同様どうようとする。」となっている。このため本来ほんらい死亡しぼうさんじゅうにち以内いない遺族いぞく医師いし免許めんきょしょう返納へんのう手続てつづきをとるべきなのであったが、記念きねん館内かんない展示てんじ保管ほかんされているために悪用あくようされるおそれがないこと、医師いし免許めんきょしょう文化財ぶんかざいとしての価値かちがあるという理由りゆうで、法令ほうれい本来ほんらい規定きていえた特例とくれい措置そちがなされた。
  15. ^ トレードマークの縦縞たてじまがなく、むね部分ぶぶんに「OSAKA」とえがかれているデザイン。
  16. ^ このつくえ安孫子あびこ生家せいかである富山とやまけん氷見ひみ光禅寺こうぜんじ保管ほかんされている。
  17. ^ べつ対談たいだんでは、このとき手塚てづかいえにいたが、母親ははおやに「留守るすです」とされたともかたっている
  18. ^ ただし、作中さくちゅう説明せつめいされるのは井上いのうえひさしが1971ねん執筆しっぴつした戯曲ぎきょくばんのストーリーである。
  19. ^ うしおそうじ伝聞でんぶんとしてほぼおな内容ないよう著書ちょしょしるしている(ただし、最後さいごの「大阪おおさかじんめ」の箇所かしょが「贅六ぜいろくめ」という関西かんさいじんへの侮蔑ぶべつになっている)[225]
  20. ^ 手塚てづかは『ぼくはマンガ』において福井ふくい死去しきょ謝罪しゃざいから「いちカ月かげつほどたって」としる一方いっぽうあやまったのは「綿めんのようなゆき」としており[224]、6がつ下旬げじゅん福井ふくい死去しきょした事実じじつとはちがっている。
  21. ^ 2011ねん時点じてん宮崎みやざきは70さい手塚てづか没年ぼつねんは60さい
  22. ^ フジパンロボットかん閉幕へいまく愛知あいち青少年せいしょうねん公園こうえんげんあい地球ちきゅうはく記念きねん公園こうえん)に移設いせつされ、2005ねんあい地球ちきゅうはくでも展示てんじされた。
  23. ^ なお、治虫おさむ作品さくひん父親ちちおや存在そんざい希薄きはくであることはしばしば指摘してきされている。(桜井さくらい、34p)

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

手塚てづか治虫おさむ自著じちょ[編集へんしゅう]

それ以外いがい[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]