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黒澤くろさわあきら

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くろさわ あきら
黒澤くろさわ あきら
黒澤 明
キネマ旬報きねまじゅんぽう』1960ねん12月増刊ぞうかんごうより
生年月日せいねんがっぴ (1910-03-23) 1910ねん3月23にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1998-09-06) 1998ねん9月6にち(88さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう荏原えばらぐん大井おおいまち[注釈ちゅうしゃく 1]
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう世田谷せたがや成城せいじょう
身長しんちょう 182 cm[1]
血液けつえきがた Bがた[2]
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん映画えいがプロデューサー編集へんしゅう技師ぎし
ジャンル 映画えいが
活動かつどう期間きかん 1943ねん - 1998ねん
配偶はいぐうしゃ 矢口やぐち陽子ようこ1945ねん - 1985ねん
著名ちょめい家族かぞく
おも作品さくひん
 
受賞じゅしょう
アカデミーしょう
外国がいこく映画えいがしょう
1975ねんデルス・ウザーラ
名誉めいよしょう
1989ねん 世界中せかいじゅう観客かんきゃく勇気ゆうきよろこびとゆたかさと娯楽ごらくを、また映画えいが製作せいさくしゃたちにも影響えいきょうあたえた功績こうせきたいして
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい
パルム・ドール
1980ねん影武者かげむしゃ
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい
きむ獅子しししょう
1951ねん羅生門らしょうもん
ぎん獅子しししょう
1954ねん七人しちにんさむらい
サン・ジョルジョしょう
1965ねんあかひげ
イタリア批評ひひょうしょう
1951ねん羅生門らしょうもん
国際こくさいカトリック映画えいが事務じむきょくしょう
1965ねんあかひげ』
1971ねんどですかでん
栄誉えいよきん獅子しししょう
1982ねん
ベルリン国際こくさい映画えいがさい
ぎんぐましょう監督かんとくしょう
1959ねんかくとりでさん悪人あくにん
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう
1959ねんかくとりでさん悪人あくにん
ベルリン政府せいふ特別とくべつしょう
1954ねんきる
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう
外国がいこく映画えいがしょう
1985ねんらん
ロサンゼルス映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう
外国がいこく映画えいがしょう
1985ねんらん
生涯しょうがい功労賞こうろうしょう
1985ねん
英国えいこくアカデミーしょう
監督かんとくしょう
1980ねん影武者かげむしゃ
外国がいこく作品さくひんしょう
1985ねんらん
セザールしょう
外国がいこく映画えいがしょう
1980ねん影武者かげむしゃ
日本にっぽんアカデミーしょう
最優秀さいゆうしゅう脚本きゃくほんしょう
2001ねんあめあがる
協会きょうかい栄誉えいよしょう
1999ねん
ブルーリボンしょう
そのしょう
ナショナル・ボード・オブ・レビューしょう
監督かんとくしょう
1951ねん羅生門らしょうもん
1985ねんらん
外国がいこく映画えいがしょう
1951ねん羅生門らしょうもん
1985ねんらん
備考びこう
文化ぶんか功労こうろうしゃ(1976ねん
文化ぶんか勲章くんしょう(1985ねん
国民こくみん栄誉えいよしょう(1998ねん
したがえさん(1998ねん
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黒澤くろさわサイン

黒澤くろさわ あきら(または黒沢くろさわ あきら、くろさわ あきら、1910ねん明治めいじ43ねん3月23にち - 1998ねん平成へいせい10ねん9月6にち)は、日本にっぽん映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん映画えいがプロデューサー位階いかいしたがえさん

だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん映画えいが代表だいひょうする監督かんとくであり、国際こくさいてきにも有名ゆうめい影響えいきょうりょくのある監督かんとく一人ひとりとみなされている[3][4]。ダイナミックな映像えいぞう表現ひょうげん劇的げきてき物語ものがたり構成こうせいヒューマニズム基調きちょうとした主題しゅだいられる[3]生涯しょうがいで30ほん監督かんとく作品さくひん発表はっぴょうしたが、そのうち16ほん俳優はいゆう三船みふね敏郎としおとコンビをんだ。

青年せいねん時代じだい画家がか志望しぼうしていたが、1936ねんP.C.L.映画えいが製作所せいさくしょ1937ねん東宝とうほう合併がっぺい)に入社にゅうしゃし、山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく助監督じょかんとく脚本きゃくほんつとめたのち、1943ねんに『姿すがた三四郎さんしろう』で監督かんとくデビューした。『いどれ天使てんし』(1948ねん)と『野良犬のらいぬ』(1949ねん)で日本にっぽん映画えいが旗手きしゅとして注目ちゅうもくされたあと、『羅生門らしょうもん』(1950ねん)でヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいきむ獅子しししょう受賞じゅしょうし、日本にっぽん映画えいが国際こくさいてき認知にんちされるきっかけをつくった。そのきる』(1952ねん)、『七人しちにんさむらい』(1954ねん)、『用心棒ようじんぼう』(1961ねん)などがたか評価ひょうかけ、海外かいがいでは黒澤くろさわ作品さくひんリメイクつくられた。1960年代ねんだい後半こうはん日本にっぽん映画えいが産業さんぎょう斜陽化しゃようかするなかハリウッド進出しんしゅつするも失敗しっぱいし、その日本にっぽん国内こくない製作せいさく資金しきん調達ちょうたつするのがむずかしくなったが、海外かいがい資本しほんで『デルス・ウザーラ』(1975ねん)、『影武者かげむしゃ』(1980ねん)、『らん』(1985ねん)、『ゆめ』(1990ねん)をつくり、国内外こくないがいおおくの映画えいがしょうけた。1985ねん映画えいがじんはつ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうし、1990ねんにはアカデミー名誉めいよしょう受賞じゅしょうした。没後ぼつごに、映画えいが監督かんとくとしてはつ国民こくみん栄誉えいよしょうおくられた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

誕生たんじょうから監督かんとくデビューまで[編集へんしゅう]

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1910ねん3月23にち東京とうきょう荏原えばらぐん大井おおいまちげん東京とうきょう品川しながわ東大井ひがしおおいさん丁目ちょうめ)のちちつとめていた荏原えばら中学校ちゅうがっこう職員しょくいん社宅しゃたくに、ちちいさむはは・シマの4なん4じょすえとしてまれた[5][6]あにあね茂代しげよ昌康まさやす忠康ただやすすで夭折ようせつ)、春代はるよたねだい百代ひゃくだい丙午ひのえうまである[7]。シマは大阪おおさか商家しょうか出身しゅっしんだった[8]いさむ秋田あきたけん仙北せんぼくぐん豊川とよかわむらげん大仙だいせん豊川とよかわ)の士族しぞくいえ出身しゅっしん[注釈ちゅうしゃく 3]で、陸軍りくぐん戸山とやま学校がっこう教官きょうかんつとめたあと、1891ねん日本にっぽん体育たいいくかい創立そうりつとともに要職ようしょくき、日本にっぽん体育たいいくかい体操たいそう学校がっこう併設へいせつ荏原えばら中学校ちゅうがっこう勤務きんむしていた[5][6][9]いさむ厳格げんかく父親ちちおやだったが、当時とうじ教育きょういくじょうこのましくないとおもわれていた映画えいが理解りかいがあり、すすんで家族かぞくれて映画えいが見物けんぶつかけた。黒澤くろさわ連続れんぞく活劇かつげきウィリアム・S・ハート主演しゅえん西部せいぶげきをよくていたという[5]

1915ねんみなみ高輪たかなわ幼稚園ようちえん入園にゅうえんし、よく1916ねんみなみ高輪たかなわ尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがくした[10]。しかし、1917ねんいさむ日本にっぽん体育たいいくかい退職たいしょくしたため、職員しょくいん社宅しゃたく退去たいきょして小石川こいしかわ西にし江戸川えどがわまちげん文京ぶんきょう水道すいどういち丁目ちょうめ)に転居てんきょし、黒田くろだ尋常じんじょう小学校しょうがっこう転入てんにゅうした[10]当時とうじ黒澤くろさわ知能ちのうてきおくれていて、むしのいじめられっだったという[11]。そんな黒澤くろさわ成長せいちょうたすけたのが担任たんにん立川たちかわきよしで、生徒せいと自由じゆう発想はっそう大事だいじにするという斬新ざんしん教育きょういく方法ほうほう黒澤くろさわ才能さいのう見出みいだした[12][11]立川たちかわ図画ずが時間じかんきな自由じゆうえがかせ、黒澤くろさわえがいた個性こせいてきすぎてみんながわらなか立川たちかわはそのをとてもめた[11]。それ以来いらい黒澤くろさわえがくことがきになり、同時どうじ学校がっこう成績せいせきび、やがて級長きゅうちょうにもなった[12]小学校しょうがっこう5ねんときには剣道けんどうならはじめ、高野たかのたすく三郎さぶろう道場どうじょうかようも三日坊主みっかぼうずわり、自信じしんしつくして放棄ほうきした[10][13]

立川たちかわとともに黒澤くろさわ成長せいちょうたすけたのが、級友きゅうゆう植草うえくさけいこれすけと4つうえあに丙午ひのえうまである。植草うえくさ黒澤くろさわよりもむしで、自分じぶん客観きゃっかんてきつめさせる存在そんざいだったという[11]丙午ひのえうま秀才しゅうさいだが気性きしょうはげしく、自滅じめつてき行動こうどう皮肉ひにくめいたところがおおかったが、軟弱なんじゃく黒澤くろさわをしごき、黒澤くろさわ自立じりつしん目覚めざめさせた[5][8]関東大震災かんとうだいしんさいとそれにともな朝鮮ちょうせんじん虐殺ぎゃくさつ事件じけんときには、丙午ひのえうま黒澤くろさわ壊滅かいめつしたまちれてき、無数むすう死骸しがいやませつけて、おそろしさを克服こくふくすることをおしえた[14]頑迷がんめい厭世えんせいかん丙午ひのえうまは、黒澤くろさわにとって反面はんめん教師きょうしてき存在そんざいとなり、人生じんせい否定ひていてきめんあるいてはならないめんをもっておしえてくれ、黒澤くろさわ作品さくひんつよ人生じんせい肯定こうてい特徴とくちょうとする作風さくふう影響えいきょうあたえた[15]。また、自伝じでん蝦蟇がまあぶら』のなかで「関東大震災かんとうだいしんさいは、わたしにとって、おそろしい体験たいけんであったが、また、貴重きちょう経験けいけんでもあった。それは、わたしに、自然しぜんちから同時どうじに、異様いよう人間にんげんしんについておしえてくれた。」とべ、当時とうじをこうかえっている。

された親類しんるいさがしに上野うえのったときちちが、ただながひげやしているからというだけで、朝鮮ちょうせんじんだろうとぼうった人達ひとたちかこまれた。わたしはドキドキして一緒いっしょだったあにた。あにはニヤニヤしている。そのとき、「馬鹿者ばかものッ!!」と、ちち大喝一声だいかついっせいした。そして、いた連中れんちゅうは、コソコソっていった。 — 黒澤くろさわあきら、『蝦蟇がまあぶら
町内ちょうないの、あるいえ井戸水いどみずを、んではいけない、とうのである。何故なぜなら、その井戸いどそとほりに、白墨はくぼくいたへん記号きごうがあるが、あれは朝鮮ちょうせんじん井戸いどどくれたという目印めじるしだとうのである。わたしあきれかえった。なにをかくそう、そのへん記号きごうというのは、わたしいた落書らくがきだったからである。わたしは、こういう大人おとなたちて、人間にんげんというものについて、くびをひねらないわけにはいかなかった。 — 黒澤くろさわあきら、『蝦蟇がまあぶら

1922ねん黒田くろだ小学校しょうがっこう首席しゅせき卒業そつぎょうし、卒業そつぎょうしきでは総代そうだいとして答辞とうじんだ[10][12]黒澤くろさわ東京とうきょう府立ふりつだいよん中学校ちゅうがっこう受験じゅけんしたが失敗しっぱいし、きょうはな中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくした[16]中学ちゅうがく時代じだい勉学べんがくよりも読書どくしょみ、ドストエフスキートルストイツルゲーネフなどのロシア文学ぶんがく熱中ねっちゅうしたほか、夏目なつめ漱石そうせき樋口ひぐち一葉かずは国木田独歩くにきだどっぽなどの日本にっぽん文学ぶんがくもたくさんみ、黒澤くろさわ人間にんげん形成けいせいおおきな影響えいきょうあたえた[12][17]黒澤くろさわ作文さくぶん才能さいのうしめすようになり、1924ねん自然しぜん描写びょうしゃした作文さくぶん蓮華れんげ舞踏ぶとう』が学友がくゆう会誌かいし掲載けいさいされると、国語こくご教育きょういくではれた小原おはらよういっ先生せんせいから「きょうはな中学ちゅうがく創立そうりつ以来いらい名文めいぶん」とめられた[16]1926ねんにも同誌どうし作文さくぶんある手紙てがみ』が掲載けいさいされた[18]中学ちゅうがく時代じだい神楽坂かぐらざかにある洋画ようが専門せんもんかん牛込うしごめかんかよってたくさんの外国がいこく映画えいがていたが、そのなかでもアベル・ガンス監督かんとくの『鉄路てつろしろ薔薇ばらフランス語ふらんすごばん』(1923ねん)は黒澤くろさわ映画えいが監督かんとくこころざすのにおおきな影響えいきょうあたえた[19][20][21]

画家がか時代じだい[編集へんしゅう]

黒澤くろさわ中学ちゅうがく在学ざいがくちゅう画家がかこころざし、小林こばやしまんわれ主宰しゅさい同舟どうしゅうしゃ洋画ようが研究所けんきゅうじょとおった[16]1927ねんきょうはな中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう[10]東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう受験じゅけん失敗しっぱいすると川端かわばた学校がっこうかよい、1928ねん油絵あぶらえ静物せいぶつ』がだい15かい二科展にかてん入選にゅうせんした[12][16]1929ねんには造形ぞうけい美術びじゅつ研究所けんきゅうじょ(のちのプロレタリア美術びじゅつ研究所けんきゅうじょ)にかよい、日本にっぽんプロレタリア美術家びじゅつか同盟どうめい参加さんかし、洋画ようが岡本おかもとからたか白土しらつち三平さんぺい実父じっぷ)にまなんだ[10][16]同年どうねん12がつだい2かいプロレタリア美術びじゅつだい展覧てんらんかいでは5つの政治せいじしょくつよ作品さくひん出品しゅっぴん[注釈ちゅうしゃく 4]1930ねんだい3かいプロレタリア美術びじゅつだい展覧てんらんかいでは『はん×ポスター』を出品しゅっぴんして官憲かんけん撤回てっかいされた[12][16][22]。そのうち政治せいじてき主張しゅちょう消化しょうかのままにすることに疑問ぎもんかんじ、えが熱意ねついうしなっていった[23]同年どうねん徴兵ちょうへい検査けんさけ、ちちおしである徴兵ちょうへい司令しれいかん好意こうい兵役へいえき免除めんじょとなり[10]終戦しゅうせんまで徴兵ちょうへいされることはなかった[8]

やがて非合法ひごうほう活動かつどうとうじ、日本にっぽん共産党きょうさんとうけい無産むさんしゃ新聞しんぶん下部かぶ組織そしき街頭がいとう連絡れんらくいんをした[22]黒澤くろさわ非合法ひごうほう活動かつどう参加さんかしたのは「日本にっぽん社会しゃかい漫然まんぜんたる不満ふまん嫌悪けんおかんじ、ただそれに反抗はんこうする[23]」ためで、みずか共産きょうさん主義しゅぎもの名乗なのったこともなければ、マルクス主義まるくすしゅぎふかまなんで実践じっせんする政治せいじてき人間にんげんになるもなかった[8][22]。やがて弾圧だんあつはげしくなり、運動うんどうとどかない窮乏きゅうぼう生活せいかつなか高熱こうねつしてたおれ、仲間なかまとの連絡れんらく途絶とだえたのをに、1932ねんはるまでに非合法ひごうほう活動かつどうからいた[10][12]。その丙午ひのえうま神楽坂かぐらざか長屋ながや居候いそうろうし、映画えいが寄席よせ熱中ねっちゅうした[12]丙午ひのえうま須田すだ貞明さだあき活動かつどう弁士べんしとなり、若手わかて新進しんしん洋画ようが説明せつめいしゃとして人気にんきあつめていたが、トーキー普及ふきゅう弁士べんし廃業はいぎょう相次あいつぎ、弁士べんしのストライキで争議そうぎ委員いいんちょうとしてたたかうも敗北はいぼくし、1933ねん7がつ伊豆いずとう温泉おんせん旅館りょかん愛人あいじん服毒ふくどく自殺じさつげた[15][16][注釈ちゅうしゃく 5]。その4ヶ月かげつには長兄ちょうけい昌康まさやす病死びょうしし、のこされた男子だんしである黒澤くろさわ跡取あととりとなった[16]1934ねん一家いっか恵比寿えびす転居てんきょ[18]黒澤くろさわ雑誌ざっし挿絵さしええがくアルバイトなどをして生計せいけいてた[15]

助監督じょかんとく時代じだい[編集へんしゅう]

助監督じょかんとく時代じだい黒澤くろさわ左端ひだりはし)。そのとなりからじゅん本多ほんだいの四郎しろう谷口たにぐちせんきち山本やまもと嘉次郎かじろう(1930年代ねんだい)。

1936ねん、どこかで就職しゅうしょくしなければならないとおもっていた黒澤くろさわは、たまたま新聞しんぶん記事きじP.C.L.映画えいが製作所せいさくしょ翌年よくねん東宝とうほう合併がっぺい)の助監督じょかんとく募集ぼしゅう応募おうぼした[15]最初さいしょ試験しけんは「日本にっぽん映画えいが根本こんぽんてき欠陥けっかん例示れいじ具体ぐたいてきにその矯正きょうせい方法ほうほうべよ」という小論文しょうろんぶんで、黒澤くろさわは「根本こんぽんてき欠陥けっかん矯正きょうせいしようがない」と回答かいとうし、それで試験しけん通過つうかして最終さいしゅう面接めんせつまでのこった[25]同社どうしゃ原則げんそくとして大学卒だいがくそつ採用さいようするつもりだったが、黒澤くろさわ文学ぶんがくたいする理解りかい才気さいき注目ちゅうもくした山本やまもと嘉次郎かじろう推薦すいせんにより、学歴がくれき旧制きゅうせい中学ちゅうがくだけながら例外れいがいとして合格ごうかくとなり、同年どうねん4がつ入社にゅうしゃした[15][26]助監督じょかんとく入社にゅうしゃ同期どうきには関川せきかわ秀雄ひでお丸山まるやま誠治せいじがいた[27]最初さいしょ仕事しごと矢倉やくら茂雄しげお監督かんとくの『処女しょじょ花園はなぞの』のサード助監督じょかんとくだったが、この作品さくひん1ほん仕事しごといやになり、退社たいしゃかんがえるも同僚どうりょう説得せっとくおもいとどまった[25][27]

そのつぎ参加さんかした『エノケンのせんまん長者ちょうじゃ』(1936ねん)から山本やまもとのサード助監督じょかんとくつとめた[10]山本やまもとぐみでの仕事しごとたのしく充実じゅうじつしたものであり、黒澤くろさわ映画えいが監督かんとくこそが自分じぶんのやりたい仕事しごとだと決心けっしんした[15]山本やまもとぐみ助監督じょかんとく仲間なかまには谷口たにぐちせんきち本多ほんだいの四郎しろうがおり、黒澤くろさわ2人ふたりいえ居候いそうろうすることもあった[25]1937ねん山本やまもとぐみ製作せいさく主任しゅにんをしていた谷口たにぐち本社ほんしゃ異動いどうになり、黒澤くろさわあらたに山本やまもとぐみ製作せいさく主任しゅにんについた[注釈ちゅうしゃく 6][28]助監督じょかんとく育成いくせいちかられる山本やまもともとで、黒澤くろさわ脚本きゃくほん執筆しっぴつからフィルム編集へんしゅうエキストラロケーション会計かいけいまでも担当たんとうし、映画えいがづくりで大切たいせつなことをまなんだ[29]面倒めんどうのよい山本やまもと自分じぶん作品さくひん犠牲ぎせいにして、黒澤くろさわたちBはん撮影さつえいしたフィルムを採用さいようし、上映じょうえいされた完成かんせい作品さくひんながらアドバイスをした[30]黒澤くろさわはそんな山本やまもとを「最良さいりょう」とあおいだ[31]

山本やまもと監督かんとくの『うま』(1941ねん)ではBはん監督かんとく編集へんしゅうつとめた。黒澤くろさわ仕事しごといそがしい山本やまもとから演出えんしゅつのほとんどをまかされ、監督かんとく昇進しょうしんへのだいとした[32]。この『うま』の東北とうほく地方ちほうでのロケーション撮影さつえいとおして、黒澤くろさわ主演しゅえん高峰たかみね秀子ひでことのあいだこい芽生めばえた[32]。しかし、『うま』が公開こうかいされたあとに2人ふたり結婚けっこんばなし新聞しんぶん沙汰ざたになると、会社かいしゃがわ将来しょうらい嘱望しょくぼうされた助監督じょかんとくとスターになりかけていた女優じょゆうこいはなってはおけず、高峰こうほう養母ようぼつよ反対はんたいしていたこともあり、山本やまもと破断はだんやくとなり、こい不実ふじつわった[33]

黒澤くろさわ助監督じょかんとく生活せいかつおくりながら、山本やまもとの「監督かんとくになるにはシナリオをけ」という助言じょげんしたが脚本きゃくほん執筆しっぴつした[29]はじめてその才能さいのうみとめられたのが『達磨寺だるまじのドイツじん』(1941ねん)で、山本やまもと推挙すいきょ映画えいが雑誌ざっし掲載けいさいされることになったが、記者きしゃった原稿げんこうをなくし、黒澤くろさわは3にちほど徹夜てつやしてもう一度いちどなおした[34]。この作品さくひんはドイツじん建築けんちくブルーノ・タウト評伝ひょうでんもとにして、タウトと寄寓きぐうさきむらひとたちとの交流こうりゅうえがき、伊丹いたみ万作まんさくに「とく視覚しかくてき鮮明せんめい印象いんしょうあたえることを注目ちゅうもくすべきである」と評価ひょうかされた[32]。『うま以降いこう実質じっしつてき助監督じょかんとく仕事しごとはしなくなり、脚本きゃくほん執筆しっぴつ集中しゅうちゅうした[18]1942ねん執筆しっぴつした『しずかなり』は情報じょうほうきょく国民こくみん映画えいが脚本きゃくほん募集ぼしゅう情報じょうほうきょくしょう受賞じゅしょうし、『ゆき』は日本にっぽん映画えいが雑誌ざっし協会きょうかい国策こくさく映画えいが脚本きゃくほん募集ぼしゅうで1入賞にゅうしょうした[32]

監督かんとくデビュー[編集へんしゅう]

1942ねん黒澤くろさわ監督かんとく処女しょじょさくに『達磨寺だるまじのドイツじん』を企画きかくするが、戦時せんじちゅうのフィルム配給はいきゅう制限せいげんにより実現じつげんしなかった[35][36]つづけて『もりせんいち』『うつくしきこよみ』『サンパギタのはな』『だいさん波止場はとば』などを企画きかくするが、これらもフィルム配給はいきゅう制限せいげんくわえ、内務省ないむしょう事前じぜん検閲けんえつ却下きゃっかされた[16][18]。『サンパギタのはな』では、誕生たんじょういわうシーンが検閲けんえつかんからべいえいてきだと批判ひはんされ、黒澤くろさわは「天皇てんのう誕生たんじょういわ天長節てんちょうせつもいけないのか」と反論はんろんするも却下きゃっかされた[35][37]つぎ山中やまなか峯太郎みねたろう原作げんさくの『てきちゅう横断おうだんさんひゃくさと』を企画きかくするが、今度こんど会社かいしゃ新人しんじん監督かんとくにはスケールがおおきすぎるとして見送みおくった[32][38]。なかなか処女しょじょさく実現じつげんしない黒澤くろさわは、生活せいかつのために脚本きゃくほんつづけた。そのなかにはふくすいおさむ監督かんとくの『青春せいしゅん気流きりゅう』(1942ねん)、山本やまもと薩夫監督かんとくの『つばさ凱歌がいか』(1942ねん)などの戦意せんい高揚こうよう映画えいがもあり、黒澤くろさわは「意欲いよくかたむけられるような仕事しごとではなかった」とべている[39]

一番いちばんうつくしく』(1944ねん)に主演しゅえんした矢口やぐち陽子ようこ

黒澤くろさわ監督かんとく処女しょじょさくは『姿すがた三四郎さんしろう』(1943ねん)となった。1942ねん9がつ黒澤くろさわ富田とみた常雄つねお同名どうめい小説しょうせつ新刊しんかんしょ広告こうこくかけると、こう告文こくぶんだけで映画えいがおもち、発売はつばいされるとすぐにもとめて一気いっきみ、プロデューサーの森田もりた信義のぶよし説得せっとくして映画えいがけん獲得かくとくさせた[40]。『姿すがたさんよんろう』は当時とうじ日本にっぽん映画えいがなか新鮮味しんせんみ面白おもしろさとをわせった映画えいがてき作品さくひんとして注目ちゅうもくされ、その視覚しかくせいやアクション描写びょうしゃ卓越たくえつした演出えんしゅつ技術ぎじゅつなどがたか評価ひょうかされた[41]1943ねん3がつ国民こくみん映画えいがしょう奨励しょうれいしょう受賞じゅしょうし、12月にはすぐれた新人しんじん監督かんとくおくられる山中やまなか貞雄さだおしょう木下きのしためぐみかいとともに受賞じゅしょうするなど[10]黒澤くろさわ新人しんじん監督かんとくとして周囲しゅうい期待きたいあつめ、東宝とうほう重役じゅうやくもり岩雄いわおは「黒澤くろさわさんの監督かんとくとしての地位ちいは、この処女しょじょさく一本いっぽん確立かくりつしたといってもいいであろう」とべている[40]

監督かんとくだい2さくの『一番いちばんうつくしく』(1944ねん)の完成かんせい黒澤くろさわ森田もりたすすめで主演しゅえん矢口やぐち陽子ようこ本名ほんみょう喜代きよ)と結婚けっこんし、1945ねん3がつごろ山本やまもと夫妻ふさい媒酌ばいしゃく明治めいじ神宮じんぐう結婚式けっこんしきげた[42][43]。このころ東京とうきょう空襲くうしゅうけており、同居どうきょしていた両親りょうしんたちはすでに秋田あきた疎開そかいしていた。黒澤くろさわんでいた恵比寿えびす空襲くうしゅうあぶないということで、おなじく家族かぞく疎開そかいしていた堀川ほりかわ弘通ひろみち祖師そしだににある実家じっか転居てんきょした。その翌日よくじつ恵比寿えびすいえ空襲くうしゅう焼失しょうしつした。それからすう年間ねんかん堀川ほりかわ生活せいかつし、堀川ほりかわ家主やぬしであるのに黒澤くろさわ居候いそうろうしているような気分きぶんになったという[43]同年どうねん黒澤くろさわ処女しょじょさく続編ぞくへんぞく姿すがた三四郎さんしろう』を完成かんせいさせ、つぎおけ狭間はざまたたかえがく『どっこい!このやり』の製作せいさく着手ちゃくしゅしたが、うま調達ちょうたつできなくて中止ちゅうしし、急遽きゅうきょのうの「安宅あたか」と歌舞伎かぶきの「勧進かんじんちょう」をもとにした『とらおとこたち』を監督かんとくした[16]。この作品さくひん終戦しゅうせんはさんで撮影さつえいされ、終戦しゅうせん直後ちょくごGHQ検閲けんえつ封建ほうけんせい助長じょちょうにより非合法ひごうほう作品さくひんとなり、1952ねんまで上映じょうえい禁止きんしにされた[44]

終戦しゅうせんから『あかひげ』まで[編集へんしゅう]

終戦しゅうせんの5年間ねんかん[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん最初さいしょ仕事しごとは、川口かわぐち松太郎まつたろう依頼いらい執筆しっぴつした戯曲ぎきょくしゃべる』で、1945ねん12月にゆう楽座らくざ新生しんせい新派しんぱにより上演じょうえんされた[16]戦後せんごはつ監督かんとくさくは『わが青春せいしゅんに悔なし』(1946ねん)であるが[注釈ちゅうしゃく 7]当時とうじ会社かいしゃ東宝とうほう争議そうぎ組合くみあい映画えいが製作せいさくつよ権限けんげんつようになり、この作品さくひん組合くみあい主導しゅどう企画きかく審議しんぎかいから楠田くすだきよし監督かんとくの『いのちあるかぎり』と内容ないよう類似るいじしているとわれ、改稿かいこう余儀よぎなくされた[16]1946ねん10月にはだい2東宝とうほう争議そうぎ発生はっせいし、ストに反対はんたいした所属しょぞくスターが「じゅうにんはたかい」をひきいて退社たいしゃし、しん東宝とうほう設立せつりつ参加さんかした。スター主義しゅぎしん東宝とうほう対抗たいこうするため、黒澤くろさわなど東宝とうほうのスタッフたちは伊豆いず旅館りょかんあつまり、組合くみあい中心ちゅうしんで5ほん監督かんとく主義しゅぎ作品さくひん企画きかくした。そのうち黒澤くろさわは『素晴すばらしき日曜日にちようび』(1947ねん)を監督かんとくし、谷口たにぐち監督かんとくの『銀嶺ぎんれい』とオムニバス映画えいがよっつのこい物語ものがたり』(どちらも1947ねんだい1初恋はつこい」の脚本きゃくほん執筆しっぴつした[46]

いどれ天使てんし』(1948ねん)のポスター。

1948ねん公開こうかいの『いどれ天使てんし』は、山本やまもと監督かんとくの『しん馬鹿ばか時代じだい』(1947ねん)で使つかわれた闇市やみいちだい規模きぼなオープンセットを活用かつようするための企画きかくとしてつくられた[16]。この作品さくひんでは『銀嶺ぎんれいて』でデビューしたばかりの三船みふね敏郎としおはじめてコンビをみ、主人公しゅじんこう結核けっかくわずらわかヤクザやく起用きようした。また、『姿すがたさんよんろう』から黒澤くろさわ作品さくひん出演しゅつえんしていた志村しむらたかしアル中あるちゅう医師いしやくはじめて主役しゅやく抜擢ばってきし、以後いご黒澤くろさわ作品さくひん主役しゅやくさんせん志村しむらとで時期じきつづいた[47]作曲さっきょく早坂はやさか文雄ふみおともはじめてコンビをんでおり、1955ねん早坂はやさかくなるまでにん私生活しせいかつでも親友しんゆう関係かんけいとなった[48]。『いどれ天使てんし』は黒澤くろさわ作品さくひんはじめての傑作けっさくされ、キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンで1えらばれ、毎日まいにち映画えいがコンクール日本にっぽん映画えいが大賞たいしょう受賞じゅしょうした[49]

同年どうねん3がつ東宝とうほう争議そうぎ映画えいが製作せいさく十分じゅうぶんにできなくなったことから、山本やまもと谷口たにぐち成瀬なるせ巳喜男みきお、プロデューサーの本木もとぎそう二郎じろう同人どうじん組織そしき映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい」を設立せつりつした[16]。その翌月よくげつだい3東宝とうほう争議そうぎ開始かいしすると、黒澤くろさわ製作せいさく現場げんばまもるため組合くみあいがわくわわり、どう協会きょうかい争議そうぎ終結しゅうけつまで開店かいてん休業きゅうぎょう状態じょうたいとなった[50]黒澤くろさわ組合くみあい立場たちば代弁だいべんする「東宝とうほう紛争ふんそう 演出えんしゅつ立場たちばから」という文章ぶんしょう発表はっぴょう[16]、8がつ東宝とうほう監督かんとくやプロデューサーによる芸術げいじゅつグループが会社かいしゃがわ批判ひはんする声明せいめいぶん署名しょめいした[10]。さらに給料きゅうりょう支払しはらいをめられた組合くみあいいん資金しきんカンパのため、『いどれ天使てんし』を劇化げきかして全国ぜんこく各地かくち巡業じゅんぎょうし、チェーホフ戯曲ぎきょく結婚けっこん申込もうしこみ』も演出えんしゅつした[16]。10月19にちだい3東宝とうほう争議そうぎ終結しゅうけつした[10]

争議そうぎ終結しゅうけつ東宝とうほうはなれ、映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい足場あしばにして他社たしゃ映画えいが製作せいさくをすることになった。最初さいしょ他社たしゃ作品さくひんは、助監督じょかんとく時代じだいから脚本きゃくほん執筆しっぴつした縁故えんこがある大映だいえいでの『しずかなる決闘けっとう』(1949ねん)で、菊田きくた一夫かずお戯曲ぎきょく堕胎だたい』を原作げんさくにしている[16]。そのつぎしん東宝とうほう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい共同きょうどう製作せいさくした『野良犬のらいぬ』(1949ねん)は、黒澤くろさわきだったジョルジュ・シムノン犯罪はんざい小説しょうせつ意識いしきした作品さくひんで、ピストルをぬすまれた新人しんじん刑事けいじ老練ろうれん刑事けいじとともに犯人はんにんうという内容ないようだが、これは実際じっさい刑事けいじはなしもとにしている[51]。この作品さくひん日本にっぽん刑事けいじ映画えいがのジャンルを決定けっていづける古典こてんとなり、芸術げいじゅつさい文部もんぶ大臣だいじんしょう受賞じゅしょうするなど好評こうひょうけた[16]

国際こくさいてき名声めいせい獲得かくとく[編集へんしゅう]

1953ねん
ひだりから志村しむらたかし黒澤くろさわ三船みふね敏郎としお(1953ねん

1950ねん黒澤くろさわ松竹しょうちくで『醜聞しゅうぶん』を監督かんとく大映だいえいからふたた映画えいが製作せいさく依頼いらいされて『羅生門らしょうもん』を監督かんとくした。この作品さくひん橋本はしもとしのぶ芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ短編たんぺん小説しょうせつやぶなか』を脚色きゃくしょくしたシナリオをもとにしており、武士ぶし殺害さつがい事件じけんをめぐり関係かんけいしゃ証言しょうげん全部ぜんぶちがい、その真相しんそうが杳としてからないという内容ないようだった。しかし、その内容ないようだけでは長編ちょうへん映画えいがとしてみじかすぎるため、黒澤くろさわおな芥川あくたがわ短編たんぺん小説しょうせつ羅生門らしょうもん』のエピソードなどをして脚本きゃくほん完成かんせいさせた[52]作品さくひんはその年度ねんど大映だいえい作品さくひんで4興行こうぎょう成績せいせきおさめたが、批評ひひょう評価ひょうかはあまりかんばしいものではなかった[16][53]。しかし、1951ねん9月にヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいきむ獅子しししょう受賞じゅしょうし、さらにだい24かいアカデミーしょう名誉めいよしょう受賞じゅしょうするなど、海外かいがい相次あいつ賞賛しょうさんけた。黒澤くろさわ映画えいがさい出品しゅっぴんされたことすららず、りのかえりにつまから連絡れんらくけたという[54]。『羅生門らしょうもん』は欧米おうべい日本にっぽん映画えいが注目ちゅうもくするきっかけとなり、日本にっぽん映画えいが海外かいがい進出しんしゅつする契機けいきにもなった。また、複数ふくすう登場とうじょう人物じんぶつ視点してんから1つの物語ものがたりえが話法わほうは、どうさく映画えいが物語ものがたり手法しゅほうひとつとなり、おおくの作品さくひんかえ使つかわれることになった[16]

そのつぎ松竹しょうちく監督かんとくした『白痴はくち』(1951ねん)は、黒澤くろさわ学生がくせい時代じだいから傾倒けいとうするフョードル・ドストエフスキー同名どうめい小説しょうせつ原作げんさくで、黒澤くろさわにとって長年ながねんゆめとなる映画えいがだったが、4あいだ25ふんおよ完成かんせい作品さくひん会社かいしゃがわ意向いこう大幅おおはば短縮たんしゅくされ[55]激怒げきどした黒澤くろさわ山本やまもとての手紙てがみに「こんなかたをするだったら、フィルムをたてってくれたらいい[56]」とうったえた。日本にっぽん批評ひひょうにはことごと酷評こくひょうされたが、ドストエフスキーの本場ほんばソ連それんではたか評価ひょうかされた[53]。これが最後さいご映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかいでの他社たしゃ作品さくひんとなり、1951ねん東宝とうほう争議そうぎ疲弊ひへいしていた製作せいさく部門ぶもん再建さいけんするため、黒澤くろさわなど映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい監督かんとく専属せんぞく契約けいやくむすんだ[57]東宝とうほう復帰ふっきだい1さくである『きる』(1952ねん)はキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンの1えらばれるなどたか評価ひょうかけ、だい4かいベルリン国際こくさい映画えいがさいではベルリン政府せいふ特別とくべつしょう受賞じゅしょうした。

黒澤くろさわつぎ本物ほんもの時代じだいげきつくろうと意気込いきごみ、橋本はしもとと『さむらいいちにち』を構想こうそうするが資料しりょう不足ふそく断念だんねんし、盗賊とうぞくからむらまもるために百姓ひゃくしょうさむらいやとうというはなしもとにして『七人しちにんさむらい』(1954ねん)の脚本きゃくほん執筆しっぴつした[57][58]撮影さつえい1953ねん5月に開始かいししたが、製作せいさく撮影さつえい日数にっすう予定よていより大幅おおはば超過ちょうかし、最終さいしゅうてき撮影さつえい日数にっすうやく11ヶ月かげつおよび、通常つうじょう作品さくひんの5ばい以上いじょうにあたる予算よさん計上けいじょうした[59]作品さくひん興行こうぎょうてきだい成功せいこうしたが、公開こうかい当時とうじ国内こくないではかならずしもこう評価ひょうかけることはなかった[59]ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい出品しゅっぴんされるとぎん獅子しししょう受賞じゅしょう[60]、その日本にっぽん国内こくないでも国外こくがいでも映画えいがうえ名作めいさくとしてたか評価ひょうかされるようになり[57]2018ねんイギリスBBC発表はっぴょうした「史上しじょう最高さいこう外国がいこく映画えいがベスト100」で1えらばれた[61]

1955ねん2がつ黒澤くろさわカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい審査しんさいん要請ようせいされるも辞退じたいした[10]。『きものの記録きろく』(1955ねん)の完成かんせい黒澤くろさわ東宝とうほうと3ほん契約けいやくのこしていたが、それらを「時代じだいげきさんさく」として企画きかくし、みずからのプロデュースで若手わかて監督かんとくつくらせようとした[注釈ちゅうしゃく 8][57][63]。1ほんの『蜘蛛くもじょう』(1957ねん)はシェイクスピアの『マクベス』の翻案ほんあんだが、大作たいさく映画えいがになるため黒澤くろさわ監督かんとくすることになった[57]結局けっきょくのこる2ほん黒澤くろさわ監督かんとくすることではなしすす[63]、2ほんゴーリキー原作げんさくの『どんぞこ』(1957ねん)を監督かんとくした。このあいだ海外かいがい合作がっさくのオムニバス映画えいが嫉妬しっと』に参加さんかするはなしがあり、のうの「鉄輪てつりん」を題材だいざいにしたエピソードを企画きかくするも製作せいさく中止ちゅうしとなった[注釈ちゅうしゃく 9][18][34]

1957ねん10月、黒澤くろさわロンドンナショナル・フィルム・シアター英語えいごばん開館かいかんしき招待しょうたいされ、はじめての海外かいがい渡航とこうおこなった[64]。10月15にち開館かいかんしきでは、映画えいが芸術げいじゅつ貢献こうけんした映画えいがじんとしてジョン・フォードルネ・クレールヴィットリオ・デ・シーカローレンス・オリヴィエとともに表彰ひょうしょうされた[64]。その翌日よくじつにはだい1かいロンドン映画えいがさい開会かいかいしき出席しゅっせきし、『蜘蛛くもじょう』がオープニング上映じょうえいされた[64]黒澤くろさわはフォードを尊敬そんけいし、かれ作品さくひんから影響えいきょうけたことを公言こうげんしていたが[21][30][65]、ロンドン滞在たいざいちゅうにフォードとはじめてい、『ギデオン』の撮影さつえい現場げんば訪問ほうもんしたり、昼食ちゅうしょくともにするなどの交友こうゆうった[66]。そのつぎパリわたり、シネマテーク・フランセーズ訪問ほうもんしたり、ジャン・ルノワール夕食ゆうしょくともにしたりしてごした[66]黒澤くろさわはこの旅行りょこうとおして映画えいが芸術げいじゅつとして認知にんちされていることをじかり、映画えいがじんとしてつよ自負じふつようになった[64]。これ以後いご黒澤くろさわ日本にっぽん政治せいじ映画えいが関心かんしんであることや、映画えいが産業さんぎょうたいする危機ききかんことあるごとに言及げんきゅうするようになった[注釈ちゅうしゃく 10]

黒澤くろさわプロダクション設立せつりつ[編集へんしゅう]

黒澤くろさわ三船みふね敏郎としお

時代じだいげきさんさくの3ほんとなる『かくとりでさん悪人あくにん』(1958ねん)は興行こうぎょうてきだいヒットし、だい9かいベルリン国際こくさい映画えいがさい監督かんとくしょう国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう受賞じゅしょうした。しかし、撮影さつえい予定よていより大幅おおはば遅延ちえんし、製作せいさく破格はかくの1おく9500まんえん計上けいじょうしたため、黒澤くろさわ作品さくひんにだけ高額こうがく製作せいさくゆるされることについて社内外しゃないがいから批判ひはん[57][68]1958ねんすえ黒澤くろさわ東宝とうほうとの契約けいやくれたが、東宝とうほう黒澤くろさわ社内しゃないかかむのは危険きけんとしつつも、記録きろくてきヒットさくはな黒澤くろさわとの関係かんけい完全かんぜんつことも得策とくさくではないとかんがえていた[57]。そこで1959ねん4がつ1にち黒澤くろさわ東宝とうほう折半せっぱん出資しゅっしして、利益りえき配分はいぶんせいによる「黒澤くろさわプロダクション」を発足ほっそくし、東宝とうほう本社ほんしゃない事務所じむしょもうけた[69]黒澤くろさわ映画えいが製作せいさく自由じゆうれたが、同時どうじ経済けいざいてき責任せきにん背負せおうことになり、興行こうぎょう収入しゅうにゅうにもくばらなければならなくなった[70]

1960ねん7がつ7にち黒澤くろさわ東京とうきょうオリンピック公式こうしき記録きろく映画えいが監督かんとく依頼いらい正式せいしき承諾しょうだくした[71]準備じゅんびけて同年どうねん開催かいさいローマオリンピック視察しさつし、その公式こうしき記録きろく映画えいがローマ・オリンピック1960』の撮影さつえいって入念にゅうねん調査ちょうさした[72]。それを参考さんこうにして5おくえんえとなる予算よさんあん組織そしき委員いいんかい提出ていしゅつしたが、2おく5000まんえん予算よさんあん提示ていじする組織そしき委員いいんかいとはいがつかず、1963ねん3月22にちに「2おく5000まんえんでは理想りそうてき作品さくひん無理むりだ」として監督かんとく辞退じたいした[73]組織そしき委員いいんかい与謝野よさのしげる事務じむ総長そうちょうつよ慰留いりゅうもあり、組織そしき委員いいんかいない記録きろく映画えいが委員いいんかい委員いいんとして残留ざんりゅうし、その与謝野よさのからオファーをけたが、11月5にち正式せいしきにオリンピック公式こうしき記録きろく映画えいがりた[74]

黒澤くろさわプロダクションのだい1さくわるやつほどよくねむ』(1960ねん)は興行こうぎょうてき失敗しっぱいしたが、そのつぎがけた娯楽ごらく時代じだいげき用心棒ようじんぼう』(1961ねん)とその続編ぞくへん椿つばき三十郎さんじゅうろう』(1962ねん)は、その年度ねんど東宝とうほう作品さくひん最高さいこう興行こうぎょう収入しゅうにゅう記録きろくする成功せいこうおさめた。前者ぜんしゃダシール・ハメット小説しょうせつ収穫しゅうかく』が着想ちゃくそうもととなり、後者こうしゃ山本やまもと周五郎しゅうごろう小説しょうせつ日日ひにち平安へいあん』を原作げんさくとしている。どちらの作品さくひんかたな斬殺ざんさつおんしぶきなどの残酷ざんこく描写びょうしゃれ、従来じゅうらい時代じだい劇映画げきえいが形式けいしきくつがえすリアルな表現ひょうげんこころみた。これが話題わだいび、その影響えいきょうけて残酷ざんこく描写びょうしゃれた時代じだいげき数多かずおおつくられたが、後年こうねん黒澤くろさわは「非常ひじょうわる影響えいきょうあたえてしまった」とべている。そのつぎ監督かんとくした『天国てんごく地獄じごく』(1963ねん)はエド・マクベイン犯罪はんざい小説しょうせつ『キングの身代金みのしろきん』が原作げんさくのサスペンス映画えいがで、その年度ねんど興行こうぎょう成績せいせきで1記録きろくした[57]

黒澤くろさわプロダクションの設立せつりつ以後いごは、作品さくひんかさねるごとに興行こうぎょう収入しゅうにゅう記録きろく更新こうしんしたが、そのぶんつくるたびに製作せいさく巨額きょがくになった。『あかひげ』(1965ねん)では製作せいさく期間きかんが2ねんおよび、予算よさん過去かこ最高さいこうの2おく6600まんえん計上けいじょうした。この作品さくひん山本やまもと周五郎しゅうごろうの『あかひげ診療しんりょうたん』が原作げんさくであるが、一部いちぶにドストエフスキーの『しいたげられたひとびと』をもとにしたエピソードを挿入そうにゅうしている[57]黒澤くろさわはこの作品さくひんを「ぼく集大成しゅうたいせい」とかた[75]テレビ放送ほうそう普及ふきゅう日本にっぽん映画えいが観客かんきゃくすう減少げんしょうするなか、スタッフたちの能力のうりょく最大限さいだいげんして、映画えいが可能かのうせい存分ぞんぶん追求ついきゅうしようとした[76]。やはりその年度ねんど最高さいこう興行こうぎょう収入しゅうにゅう記録きろくし、キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンでは1選出せんしゅつされた。しかし、これがさんせんとコンビをんだ最後さいご作品さくひんとなった。

海外かいがい進出しんしゅつから死去しきょまで[編集へんしゅう]

ハリウッド進出しんしゅつ挫折ざせつ[編集へんしゅう]

あかひげ』公開こうかい黒澤くろさわ東宝とうほうたいして巨額きょがく借金しゃっきんかかえていた[77]黒澤くろさわプロダクションは東宝とうほうとの契約けいやくで5ほん作品さくひんつくり、その配給はいきゅうで4おくえん前後ぜんこうこう収入しゅうにゅうをあげていたが、東宝とうほうわした利益りえき配分はいぶんせいだと黒澤くろさわ利益りえきげられず、芸術げいじゅつてき良心りょうしん忠実ちゅうじつ作品さくひん目指めざして時間じかん予算よさんをかけるほど、東宝とうほう搾取さくしゅされてそんをする仕組しくみになっていた[77][78]1966ねん7がつ黒澤くろさわ東宝とうほうとの専属せんぞく契約けいやく解消かいしょうして完全かんぜん独立どくりつし、黒澤くろさわプロダクションは東京とうきょうみなと東京とうきょうプリンスホテル4かい事務所じむしょかまえた[77]。このころ黒澤くろさわ日本にっぽん権威けんいてきとみなされ、それゆえ批判ひはん誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうけることが目立めだった[57]孤立こりつしんふかめた黒澤くろさわは、日本にっぽん映画えいが産業さんぎょう斜陽化しゃようかしていたこともあり、より自由じゆう立場たちばあらたな自己じこ表現ひょうげん段階だんかい挑戦ちょうせんするため、それだけの製作せいさく負担ふたんできる海外かいがい活動かつどうもとめるようになった[57][79]。すでに黒澤くろさわ欧米おうべいからいくつものオファーをけていた[77]

1966ねん6がつ黒澤くろさわアメリカエンバシー・ピクチャーズ英語えいごばん共同きょうどう製作せいさくで『暴走ぼうそう機関きかんしゃ』を監督かんとくすることを発表はっぴょうした[80]。この企画きかくライフ掲載けいさいされた、ニューヨークしゅう北部ほくぶ機関きかんしゃ暴走ぼうそうしたという実話じつわもとにしており、出演しゅつえんしゃ全員ぜんいんアメリカじんにすることが決定けっていしていた[80]。しかし、英語えいご脚本きゃくほん担当たんとうシドニー・キャロル英語えいごばん意見いけんわず、プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンとも製作せいさく方針ほうしんをめぐりちがいがしょうじた[79][80][81]たとえば、黒澤くろさわ70ミリフィルムカラー映画えいが想定そうていしていたのにたいし、アメリカがわスタンダードサイズモノクロ映画えいがつくろうとかんがえていた[81][82]黒澤くろさわは130にんものスタッフを編成へんせいし、本物ほんもの鉄道てつどう使用しようして撮影さつえいする準備じゅんびをしていたが[83]、アメリカがわとの意思いし疎通そつうき、同年どうねん11がつ黒澤くろさわから撮影さつえい延期えんき提案ていあんし、事実じじつじょう製作せいさく頓挫とんざとなった[81][83]。この企画きかく1985ねんアンドレイ・コンチャロフスキー監督かんとく映画えいがされたが、内容ないようおおきく改変かいへんされた[34]

1967ねん4がつ真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき題材だいざい戦争せんそう映画えいがトラ・トラ・トラ!』を20世紀せいきフォックス共同きょうどう製作せいさくし、黒澤くろさわ日本にっぽんがわ部分ぶぶん監督かんとくすることが発表はっぴょうされた[84]黒澤くろさわ東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ撮影さつえいはじめたが、軍人ぐんじんやく演技えんぎ経験けいけんのない財界ざいかいじん起用きようしたことや、黒澤くろさわ演出えんしゅつ方法ほうほう馴染なじめないスタッフとのあいだ軋轢あつれきしょうじたことから、スケジュールは大幅おおはばおくれた[57]黒澤くろさわ映画えいがづくりの方法ほうほうとハリウッドの映画えいがづくりの方法ほうほうはうまくわず、ついに遅延ちえん無視むしできなくなった20世紀せいきフォックスにより事実じじつじょう解任かいにん決定けっていし、1968ねん12月に表向おもてむきは健康けんこう問題もんだい理由りゆう監督かんとく降板こうばんすることが発表はっぴょうされた[57][79][85]

1969ねん6月24にち三船みふねなどが発起人ほっきにんになり「黒澤くろさわあきら映画えいがつくれのかい」が赤坂あかさかプリンスホテルひらかれ、関係かんけいスタッフや淀川よどがわ長治ながはるなど黒澤くろさわ応援おうえんするひとたちがあつまった[82]。その翌月よくげつには木下きのしためぐみかい市川いちかわこん小林こばやし正樹まさきとともに「よんかい」を結成けっせいし、日本にっぽん映画えいが斜陽化しゃようかすすなか若手わかて監督かんとくけないような映画えいがつくろうと狼煙のろしげた[86]。そのだい1さくとして4にん共同きょうどう脚本きゃくほん監督かんとくで『どら平太へいた』を企画きかくするが頓挫とんざした[34]結局けっきょく黒澤くろさわ単独たんどくで『どですかでん』(1970ねん)を監督かんとくすることになり、自宅じたく担保たんぽにして製作せいさく負担ふたんするが、興行こうぎょうてき失敗しっぱいしてさらなる借金しゃっきんかかえた[57]黒澤くろさわ以外いがいよんかい監督かんとくテレビ番組ばんぐみがけていたが、黒澤くろさわもテレビと関係かんけいつようになり、1971ねん8がつ31にち名馬めいば雄姿ゆうし紹介しょうかいする日本にほんテレビのドキュメンタリー番組ばんぐみうま』を監修かんしゅうし、同局どうきょくで『夏目なつめ漱石そうせきシリーズ』『山本やまもと周五郎しゅうごろうシリーズ』を監修かんしゅうする計画けいかくもあった[57][86]同年どうねん12がつ22にち早朝そうちょう黒澤くろさわ自宅じたく風呂場ふろばでカミソリでくび手首てくびって自殺じさつはかるが、いのち別状べつじょうはなかった[57][86]

海外かいがい資本しほんでの映画えいが製作せいさく[編集へんしゅう]

1973ねん3月14にち黒澤くろさわソ連それん映画えいが会社かいしゃモスフィルムと『デルス・ウザーラ』(1975ねん)の製作せいさく協定きょうてい調印ちょういんした。黒澤くろさわソ連それん映画えいがつくるというはなしは、自殺じさつ未遂みすいまえの1971ねん7がつ黒澤くろさわだい7かいモスクワ国際こくさい映画えいがさい出席しゅっせきしたときにちかけれ、それから本格ほんかくてき交渉こうしょうおこなわれていた[87]黒澤くろさわソ連それんがわから芸術げいじゅつてき創造そうぞう自由じゆう保証ほしょうされ、1974ねん4がつからやく1年間ねんかんにわたり撮影さつえいをしたが、シベリア過酷かこく自然しぜん条件じょうけんでの撮影さつえい困難こんなんきわめた[88]作品さくひんだい48かいアカデミーしょうソ連それん代表だいひょう作品さくひんとして外国がいこく映画えいがしょう受賞じゅしょうし、黒澤くろさわ復活ふっかつ印象いんしょうけた[88]1977ねんにはふたたソ連それんつくることを画策かくさくし、エドガー・アラン・ポー短編たんぺん小説しょうせつあか死病しびょう仮面かめん』をもとにした『くろ仮面かめん』の脚本きゃくほん執筆しっぴつしたが、映画えいが実現じつげんしなかった[注釈ちゅうしゃく 11][34]。このころ黒澤くろさわはメディアへの露出ろしゅつえ、1976ねんから1979ねんまでサントリーリザーブのテレビCMにも出演しゅつえんした[90]

1978ねん7がつ1にち黒澤くろさわイタリアダヴィッド・ディ・ドナテッロしょう外国がいこく監督かんとくしょう受賞じゅしょう[91]、その副賞ふくしょうであるファーストクラス航空こうくうけん使つかってアメリカに10日間にちかん旅行りょこうした[92]黒澤くろさわジョージ・ルーカスなどと昼食ちゅうしょくともにしたり、フランシス・フォード・コッポラ邸宅ていたくたずねるなどの交友こうゆうった[92]。アメリカ滞在たいざいちゅう黒澤くろさわはルーカスと次回じかいさく影武者かげむしゃ』(1980ねん)の資金しきん援助えんじょ相談そうだんもした[93]武田たけだ信玄しんげん影武者かげむしゃえがく『影武者かげむしゃ』は国内こくない映画えいが会社かいしゃ資金しきん交渉こうしょう難航なんこうしていたが、ルーカスのはたらきかけで20世紀せいきフォックス世界せかい配給はいきゅうけんけるわりに出資しゅっしすることがまり、ルーカスはコッポラをさそって海外かいがい配給はいきゅう共同きょうどうプロデューサーについた[93]。『影武者かげむしゃ』はオーディション無名むめい俳優はいゆう素人しろうと起用きようしたり、主演しゅえん予定よていだったかつ新太郎しんたろう降板こうばん騒動そうどうきるなど、公開こうかいまえからマスコミにぎわせた[88]当時とうじ日本にっぽん映画えいが過去かこ最高さいこうとなる27おくえん配給はいきゅう収入しゅうにゅう記録きろくし、だい33かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルム・ドール受賞じゅしょうした[88]

影武者かげむしゃ』の興行こうぎょうてきだい成功せいこうで、黒澤くろさわ次回じかいさくに『らん』(1985ねん)をつくることにした。どうさく毛利もうり元就もとなりさんほんおしにシェイクスピアの『リアおう』をわせた作品さくひんで、1976ねん初稿しょこうげていたが、資金しきん調達ちょうたつのめどがっていなかった[88]1981ねん10月に黒澤くろさわ渡米とべいし、ニューヨークおこなわれたジャパン・ソサエティー主催しゅさいの「黒澤くろさわ作品さくひん回顧かいこ上映じょうえいかい」に出席しゅっせきしたあと、『らん』の資金しきんについてルーカスとコッポラに相談そうだんした[10][94]。『らん』はフランスの映画えいが製作せいさくしゃセルジュ・シルベルマン出資しゅっし製作せいさく実現じつげんすることになったが、1983ねん3がつフラン海外かいがい流出りゅうしゅつ制限せいげんされたため製作せいさく延期えんきとなった[88]黒澤くろさわは『らん』のために招集しょうしゅうしたスタッフに仕事しごとあたえるため、急遽きゅうきょのうをテーマにしたドキュメンタリー映画えいがのう』を企画きかくし、黒澤くろさわ監修かんしゅう佐伯さえききよし監督かんとく起用きようしたが、製作せいさく高額こうがくになるため中止ちゅうしした[34]

映像えいぞう外部がいぶリンク
だい58かいアカデミーしょう
らん黒澤くろさわあきら 監督かんとくしょうノミネート
作品さくひんしょうプレゼンター:黒澤くろさわあきら、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー
(Oscars 公式こうしき

同年どうねん11がつ1にち神奈川かながわけん横浜よこはまみどり自前じまえ映画えいがスタジオである「黒澤くろさわフィルム・スタジオ」を開設かいせつ[10]同月どうげつに『らん』はヘラルド・エース参加さんか製作せいさく再開さいかいした[88]。『らん』は日本にっぽん映画えいが最大さいだい規模きぼとなる26おくえんもの製作せいさくとうじられたが、興行こうぎょう収入しゅうにゅうは16おくえんにとどまり巨額きょがく赤字あかじした[95]。それでも国内外こくないがいおおくの映画えいがしょう受賞じゅしょうし、1986ねん3月のだい58かいアカデミーしょうでは4部門ぶもんにノミネートされ、ワダ・エミ衣裳いしょうデザインしょう受賞じゅしょうした。黒澤くろさわ監督かんとくしょうにノミネートされたが、これはシドニー・ルメット黒澤くろさわをノミネートさせるためのキャンペーンをおこなった結果けっかである[96][97][注釈ちゅうしゃく 12]。また、黒澤くろさわどうしょうジョン・ヒューストンビリー・ワイルダーとともに作品さくひんしょうのプレゼンターもつとめた[96][97]

晩年ばんねん死去しきょ[編集へんしゅう]

鎌倉かまくらあんよういんにある黒澤くろさわはか

晩年ばんねん作品さくひんは、家族かぞく師弟していなど身辺しんぺんけ、自伝じでんてき要素ようそつよくなった[88]。『ゆめ』(1990ねん)は自身じしんゆめもとにしたアンソロジーてき作品さくひんで、その挿話そうわひとつには早世そうせいしたあねたいする追慕ついぼあらわれている[99]。この作品さくひんもやはり国内こくない映画えいが会社かいしゃ資金しきん調達ちょうたつができず、スティーヴン・スピルバーグはからいでワーナー・ブラザース出資しゅっし世界せかい配給はいきゅうけたほか、ルーカスのILM特殊とくしゅ合成ごうせい協力きょうりょくし、マーティン・スコセッシゴッホやく出演しゅつえんするなど、海外かいがい映画えいがじん協力きょうりょくによりつくられた[88][99]。その国内こくない資本しほんでの映画えいが製作せいさくつづき、『はちがつ狂詩曲きょうしきょく』(1991ねん)は村田むらた喜代子きよこ芥川賞あくたがわしょう作品さくひんなべなか』が原作げんさくで、『まあだだよ』(1993ねん)では内田うちだ百閒ひゃっけんをめぐる師弟していあいえがいたが、これが黒澤くろさわ最後さいご監督かんとく作品さくひんとなった[88]

1993ねん11月、山本やまもと周五郎しゅうごろうの2つの短編たんぺん小説しょうせつもとにした『うみていた』の脚本きゃくほん執筆しっぴつし、映画えいが準備じゅんびをするも資金しきん調達ちょうたつ上手うまくいかず断念だんねんした[88]。そこでおな山本やまもと原作げんさくの『あめあがる』の脚本きゃくほんりかかるが、1995ねん3がつ定宿じょうやどである京都きょうと旅館りょかん石原いしはら」で執筆しっぴつちゅう転倒てんとう骨折こっせつし、脚本きゃくほん完成かんせいすることなくわり、それ以降いこう車椅子くるまいす生活せいかついられた[34][100]。そのあいだ1996ねん日本にほんエアシステム機体きたいMD-90のデザインを担当たんとうし、1997ねんにはカルピスのために自筆じひつコンテをCGでアニメーションしたテレビCM初恋はつこい」を制作せいさくし、はじめてのCM制作せいさくデジタル表現ひょうげんんだ[10][101]同年どうねん12がつには三船みふね死去しきょしたが、よく1998ねん1がつ24にち本葬ほんそうにはリハビリのため出席しゅっせきすることができず、長男ちょうなん久雄ひさお弔辞ちょうじ代読だいどくした[102]

1998ねん9月6にち午後ごご045ふん東京とうきょう世田谷せたがや成城せいじょう自宅じたく脳卒中のうそっちゅうにより死去しきょした[100][103]。88さいぼつ。9月13にち黒澤くろさわフィルム・スタジオでおわかれのかいひらかれ、岡本おかもと喜八きはちつかさ葉子ようこ谷口たにぐちせんきち仲代なかだい達矢たつや香川かがわ京子きょうこ千秋ちあきみのる侯孝賢ほうしゃおしえんなどやく3まん5000にん参列さんれつした[104][105]。ルーカス、ルメット、スコセッシ、テオ・アンゲロプロスアッバス・キアロスタミなどからは弔電ちょうでんとどいた[104]海外かいがいでも黒澤くろさわ死去しきょはトップきゅうのニュースとして報道ほうどうされ、フランスのジャック・シラク大統領だいとうりょう追悼ついとう談話だんわ発表はっぴょうした[106]黒澤くろさわ宗教しゅうきょうだが、つま(1985ねん死去しきょ)がねむ鎌倉かまくらあんよういん納骨のうこつされ、「うつあかりいん殿どのひろしこく慈愛じあいだい居士こじ」の戒名かいみょうおくられた[10][102]したがえさんじょされた[107]

作風さくふう[編集へんしゅう]

テーマ[編集へんしゅう]

三船敏郎
志村喬
三船みふね敏郎としおひだり)と志村しむらたかしみぎ)は黒澤くろさわ作品さくひん常連じょうれん俳優はいゆうであり、『いどれ天使てんし』『野良犬のらいぬ』などでは志村しむら師匠ししょう三船みふね弟子でし相当そうとうするやくえんじた。

黒澤くろさわ作品さくひんつよ人間にんげん信頼しんらい人生じんせい肯定こうてい特徴とくちょうとし[108]現実げんじつ社会しゃかい困難こんなん状況じょうきょうまれた主人公しゅじんこうが、それを契機けいきにして人間にんげんてき再生さいせいする姿すがたえがくことがおお[57]評論ひょうろん都築つづき政昭まさあきは、黒澤くろさわ作品さくひん主人公しゅじんこうつよ正義せいぎかん犠牲ぎせいてき精神せいしん困難こんなんかうが、そのような人物じんぶつ現実げんじつかんとぼしいため、黒澤くろさわ人間にんげんのあるべき姿すがた願望がんぼうとしてえがいていると指摘してきしている[109]映画えいが批評ひひょう佐藤さとう忠男ただおは、黒澤くろさわきる意味いみ探求たんきゅうするというテーマをくりがええがいていると指摘してきしている[110]終戦しゅうせんつくられた『いどれ天使てんし』『しずかなる決闘けっとう』『野良犬のらいぬ』などでは、主人公しゅじんこうつよ正義せいぎかん使命しめいかんって社会しゃかいあくたたかい、たくましくきるさむらいてき英雄えいゆうとしてえがかれており、敗戦はいせん混沌こんとんとした社会しゃかいたいして肯定こうていてききることの意義いぎうったえている[111][110]。その作風さくふう人生じんせい意義いぎ社会しゃかいてき献身けんしん意義いぎう『きる』と『あかひげ』で頂点ちょうてんたっしたとみなされている[3][110]

黒澤くろさわ師匠ししょう弟子でし関係かんけいをテーマにあつかい、人間にんげんてき未熟みじゅく青二才あおにさいがすぐれた師匠ししょうおしえをけていち人前にんまえ成長せいちょうするという物語ものがたりえがくことがおお[17]。そのテーマは監督かんとくだい1さくの『姿すがたさんよんろう』からえがかれており、この作品さくひんでは青年せいねん柔道じゅうどうさんよんろう師匠ししょう矢野やのただし五郎ごろうおしえをけながら、心身しんしん両面りょうめん成長せいちょうしてすぐれた柔道じゅうどうになる姿すがたえがいている[17][112]。そのほかの師弟してい関係かんけいえがいたれいとして、『野良犬のらいぬ』の佐藤さとう刑事けいじ村上むらかみ刑事けいじ、『七人しちにんさむらい』の勘兵衛かんべえきくせんだい、『椿つばき三十郎さんじゅうろう』のさんじゅうろうわかさむらいたち、『あかひげ』のしんじょうほんとうげられる[113]。1950年代ねんだいまでは三船みふね敏郎としお弟子でし相当そうとうする主人公しゅじんこうえんじていたが、『椿つばき三十郎さんじゅうろう』『あかひげ』では三船みふね未熟みじゅくもの指導しどうするがわやくえんじた[57]

黒澤くろさわはその時々ときどき自身じしん関心かんしん社会しゃかい問題もんだいをテーマにげ、批判ひはんてき内容ないよう作品さくひんつくっている。たとえば、『醜聞しゅうぶん』ではイエロー・ジャーナリズム、『きる』では官僚かんりょう主義しゅぎ、『わるやつほどよくねむる』では汚職おしょく、『天国てんごく地獄じごく』では誘拐ゆうかい、『きものの記録きろく』『ゆめ』『はちがつ狂詩曲きょうしきょく』では原爆げんばくをテーマにあつかっている[57]佐藤さとうによると、黒澤くろさわ作品さくひん社会しゃかい批判ひはん姿勢しせいは、通常つうじょう社会しゃかい批判ひはん映画えいがつく映画えいが作家さっかこのむような問題もんだい犠牲ぎせいしゃ観客かんきゃく同情どうじょうあつめたり、大衆たいしゅう連帯れんたいをうながすという物語ものがたり形式けいしき極端きょくたんけており、そのわりに黒澤くろさわ作品さくひん主人公しゅじんこう大衆たいしゅうをあてにせず、個人こじんてき解決かいけつ方法ほうほうることがおおいという[114][115]。また、佐藤さとう自分じぶんだけで解決かいけつする主人公しゅじんこうえがかたについて、その独特どくとくかた普通ふつう日本人にっぽんじんには理解りかいがたいが、そこに日本人にっぽんじん大勢おおぜい順応じゅんのうてき傾向けいこう反対はんたいする黒澤くろさわ主張しゅちょうめられていると指摘してきしている[115]

脚本きゃくほん[編集へんしゅう]

監督かんとく作品さくひん基本きほんてきにすべて自分じぶんでシナリオをいているが、大抵たいてい作品さくひんには共同きょうどう執筆しっぴつしゃがいた[注釈ちゅうしゃく 13][116]黒澤くろさわ共同きょうどう執筆しっぴつをする理由りゆうとして、「ぼく一人ひとりいていると大変たいへんいちめんてきになるおそれがある[117]」とかたっている。共同きょうどう執筆しっぴつ方法ほうほうは、脚本きゃくほん全員ぜんいんおなじシーンをき、それを比較ひかくしていところだけをれて決定けってい稿こうにするというものだった[118]大映だいえい製作せいさく担当たんとう市川いちかわ久夫ひさおは、谷口たにぐちともさくの『しずかなる決闘けっとう』の共同きょうどう執筆しっぴつについて、「毎日まいにちはなし段取だんどりをあらかじめ、おなじシーンを二人ふたり別々べつべつき、わったところで対照たいしょうし、よいほう統一とういつしながらしてゆくといった方法ほうほうだった[119]」とべている。橋本はしもとしのぶ小国おぐに英雄ひでおともさくの『きる』『七人しちにんさむらい』では、黒澤くろさわ橋本はしもときそうようにおなじシーンをき、小国しょうこくがそれを取捨選択しゅしゃせんたくしてめるという役割やくわり分担ぶんたん執筆しっぴつした[75]橋本はしもとは「黒澤くろさわぐみ共同きょうどう脚本きゃくほんとは、どういちシーンを複数ふくすう人間にんげんがそれぞれの複眼ふくがん)でき、それらを編集へんしゅうし、混声こんせい合唱がっしょう質感しつかん脚本きゃくほんつくげる―それが黒澤くろさわ作品さくひん最大さいだい特質とくしつなのである[118]」とべている。

製作せいさく方法ほうほう[編集へんしゅう]

黒澤くろさわ撮影さつえいはいまえに、まず被写体ひしゃたい本当ほんとうにそれらしくつくれるかどうかを重視じゅうしした[120][121]リハーサル監督かんとく作品さくひんよりもたくさん時間じかんをかけ、俳優はいゆう役柄やくがら性格せいかくをしっかりとつかみ、演技えんぎ自然しぜんえるまで周到しゅうとう稽古けいこかさねた[120][注釈ちゅうしゃく 14]。『どんぞこ』では撮影さつえい期間きかんが1ヶ月かげつなのにたいし、リハーサルにはそれよりもながい40にちちかくもかけている[123]。また、やく雰囲気ふんいきつくらせるために、本読ほんよみの段階だんかいから俳優はいゆう衣裳いしょうけさせたり、撮影さつえい期間きかんちゅう俳優はいゆう同士どうし役名やくめいばせたり、やく家族かぞくえんじる俳優はいゆうたちを一緒いっしょまわせたりした。これが制作せいさく莫大ばくだいになる理由りゆうひとつでもあった。[120]

セットも実在じつざいかん追求ついきゅうするためリアルにつくられ、巨大きょだいなセットがまれた[124]美術びじゅつ監督かんとく村木むらき与四郎よしろうも、黒澤くろさわ作品さくひんのセットの特長とくちょうを「みんなおおきなロケセットを1つデーンとてちゃうてん」とかたっている[124]画面がめんうつらないような細部さいぶつくんでおり、『羅生門らしょうもん』ではもん屋根やねかわら4000まいのすべてに年号ねんごうられ、『あかひげ』では撮影さつえいのためにいた茶碗ちゃわん茶渋ちゃしぶがつけられ、くすりだなしのなかにまでうるしられた[121][124]。その反面はんめんかならずしも史実しじつどおりにすることにとらわれず、視覚しかくてきにどううつるかを優先ゆうせんして大胆だいたんにイメージをひろげることも多々たたあった[124][125]。『用心棒ようじんぼう』の宿場しゅくばまちシネマスコープ画面がめんわせて日本にっぽん宿場しゅくばまちにはないほどのおおきな道幅みちはばをとったり、『蜘蛛くもじょう』の城門じょうもんなども実存じつぞんする城門じょうもんより寸法すんぽうおおきくしている[125]

黒澤くろさわ撮影さつえい方法ほうほうは、複数ふくすうカメラでワンシーン・ワンショットのなが芝居しばい同時どうじ撮影さつえいするというもので、この手法しゅほうは「マルチカム撮影さつえいほう」とばれた[126]。マルチカム撮影さつえいほうは『七人しちにんさむらい』で決戦けっせん場面ばめんなどなおすことがむずかしいシーンを、すうだいのカメラでいちうつすことからはじまったもので、つぎさくの『きものの記録きろく』から本格ほんかくてき導入どうにゅうした[126][127]黒澤くろさわはこの手法しゅほう使つかうと俳優はいゆうがカメラを意識いしきしなくなり、おもいがけず生々なまなましい表情ひょうじょう姿勢しせいることができ、普通ふつう構図こうずではかんがえつかないような面白おもしろ画面がめん効果こうかられるとしている[75]撮影さつえい監督かんとく宮川みやがわ一夫かずおによると、黒澤くろさわ芝居しばいまるのをきらってこの手法しゅほう使用しようしたという[128]大抵たいていのシーンでは2、3だいのカメラを使用しようしたが、『あかひげ』では5だいのカメラを使つかって8ふんおよぶシーンをちょうまわ撮影さつえいした[126]

編集へんしゅう作業さぎょう黒澤くろさわ自身じしんおこなった。黒澤くろさわ撮影さつえい素材そざいあつめにぎないとし、それに最終さいしゅうてき生命せいめいあたえるのは編集へんしゅうであるとかんがえていたため、監督かんとく作品さくひんのように編集へんしゅう担当たんとうまかせることはせず、自分じぶん編集へんしゅう操作そうさした[129][130]。マルチカメラ撮影さつえいほう採用さいようしてからは、複数ふくすうカメラで撮影さつえいしたおなじシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いちばんいいショットをえらんでつなげるという方法ほうほう編集へんしゅうをした[129][131]複数ふくすうカメラでながいシーンを撮影さつえいすると、スタッフは映像えいぞうのイメージがつかみづらくなるため、黒澤くろさわ撮影さつえいしたシーンのラッシュフィルムが仕上しあがるとすぐに編集へんしゅうしてスタッフにせ、ロケーションにも編集へんしゅう携行けいこうした[129][132]。そのため撮影さつえい終了しゅうりょうするころには、編集へんしゅうもほとんどんでしまうことがおおかった[132]

表現ひょうげんスタイル[編集へんしゅう]

黒澤くろさわはカメラのうごきを観客かんきゃく意識いしきさせないようにした[133]。カメラを勝手かってうごかすことはなく、俳優はいゆううごくときのみカメラを移動いどうさせ、俳優はいゆうまればカメラも停止ていしさせた[127][133]。カメラが対象たいしょうぶつるのも不自然ふしぜんだとかんがえ、ズームレンズは基本きほんてき使つかわず、そのわりに望遠ぼうえんレンズ多用たようした[127]黒澤くろさわは『野良犬のらいぬ』のワンシーンではじめて望遠ぼうえんレンズを使つかい、『七人しちにんさむらい』から複数ふくすうカメラの1つに採用さいようした[134]望遠ぼうえんレンズだとかくせまくなり、被写体ひしゃたい遠近えんきんかんうしなわれてたてせまるようにえるため、迫力はくりょくある画面がめんんだ[127][135]。また、望遠ぼうえんレンズを使つかうとカメラ位置いちとおざかり、そのぶん俳優はいゆうがカメラを意識いしきしなくなり、自然しぜん表情ひょうじょうれるため、黒澤くろさわクローズアップ望遠ぼうえんレンズで撮影さつえいした[135]

黒澤くろさわ画面がめんうつるものはすべて重要じゅうようだとかんが[131][133]、1つの画面がめんひとぶつがたくさんまっているような画面がめん構図こうずこのんだ[57]。そのためパンフォーカス使用しようして、被写体ひしゃたい画面がめん手前てまえからおく立体りったいてき配置はいちし、奥行おくゆきのある「たて構図こうず」にすることがおお[126]。パンフォーカスはレンズ焦点しょうてん深度しんどふかしぼり、画面がめんない被写体ひしゃたい全部ぜんぶ焦点しょうてんわせる技法ぎほうである[126][134]黒澤くろさわは『わが青春せいしゅんに悔なし』でパンフォーカスをこころみようとしたが、敗戦はいせん直後ちょくご電力でんりょく不足ふそくあきらめており、『きる』から存分ぞんぶん活用かつようした[136]。パンフォーカスでレンズをふかしぼると光量ひかりりょうるため、大量たいりょうつよいライトを使つかわなければならず、黒澤くろさわ撮影さつえいするとスタジオが電力でんりょく不足ふそくになり、仕事しごと出来できなくなったという逸話いつわがある[134]

場面ばめん転換てんかんには「ワイプ」を使用しようした[131]。ワイプは画面がめん片側かたがわからるようにして、つぎ画面がめん表示ひょうじする技法ぎほうである。サイレント映画えいがでよく使つかわれたが[137]、1950年代ねんだいごろには映画えいがではほとんど使つかわれなくなり、アメリカではテレビシリーズ採用さいようされた[138]黒澤くろさわはワイプをフェードディゾルブなどのわりに使用しようしたが、これらの技法ぎほうまった使用しようしなかったわけではなく、フェードはやわらかな印象いんしょうあたえるときだけ使つかい、ディゾルブはかなりの時間じかん経過けいかしめすためにもちいた[138][131]。ワイプのおも使用しようれいは、『きる』で市役所しやくしょ陳情ちんじょう主婦しゅふがたらいまわしにされるシーンで、責任せきにん回避かいひする各部かくぶしょ職員しょくいん被写体ひしゃたいにしたPOVショット英語えいごばんがワイプでかさねられている。

1940年代ねんだいから1950年代ねんだい作品さくひんでは「アキシャルカット英語えいごばん」という技法ぎほう使用しようした[139]。アキシャルカットはディゾルブやトラッキングショット使用しようせずに、角度かくどえないジャンプカット焦点しょうてん距離きょり変化へんかさせる技法ぎほうで、突然とつぜん被写体ひしゃたいちかづいたりはなれたりする印象いんしょうあたえた[140]映画えいが批評ひひょうデヴィッド・ボードウェルは、黒澤くろさわはアキシャルカットを頻繁ひんぱん使用しようして、瞬間しゅんかんてき動作どうさ強調きょうちょうしたり、静止せいしした瞬間しゅんかん時間じかんばしたりしていると指摘してきしている[141]。『姿すがたさんよんろう』では村井むらいなかばすけ柔道じゅうどう試合しあいばされたシーンや、三四郎さんしろう小夜さよ階段かいだんりながら会話かいわするシーンなどで、アキシャルカットが使用しようされている[141][142]

映画えいが批評ひひょうドナルド・リチーは、黒澤くろさわ色彩しきさい表現ひょうげんはイメージの役割やくわりわせていろめ、色彩しきさいそのものに意味いみたせるというものであるとしている[131]。『どですかでん』では内容ないようそくしてセットや地面じめんあか原色げんしょくめて、奔放ほんぽういろ使用しようしている[86]。『影武者かげむしゃ以降いこうあざやかな色彩しきさい細部さいぶまでえがんだコンテ用意よういするようになり、そのコンテ自体じたい芸術げいじゅつ作品さくひんとして成立せいりつすることから、作品さくひん発表はっぴょうのたびに画集がしゅう出版しゅっぱんされた[88][143]

太陽たいよううつすショットは当時とうじとしは画期的かっきてきおおくの映画えいが関係かんけいしゃ影響えいきょうあたえた。[144]

映画えいが技術ぎじゅつ[編集へんしゅう]

黒澤くろさわカラー映画えいがには慎重しんちょう態度たいどり、『あかひげ』までぜん作品さくひんモノクロ撮影さつえいだった[131]。ただし、『天国てんごく地獄じごく後半こうはんのワンシーンでは煙突えんとつけむり着色ちゃくしょくしてパートカラーにするこころみをしている[57]黒澤くろさわはカラーにらなかった理由りゆうについて、映画えいが色彩しきさい絵画かいがてき色彩しきさいとは程遠ほどとおく、自分じぶんかんがえる色彩しきさい表現ひょうげんすることができないからだとしている[145]照明しょうめい技師ぎし石井いしい長四郎ちょうしろうもり弘充ひろみつは、黒澤くろさわ重視じゅうしするパンフォーカス撮影さつえいはカラー映画えいがではむずかしく、そのためにカラーにらなかったとしている[146]黒澤くろさわはつ全編ぜんぺんカラー映画えいがは『どですかでん』で、以後いご作品さくひんはすべてカラーで撮影さつえいした。

作品さくひん画面がめんサイズは『どんぞこ』までは、スタンダードサイズ画面がめん比率ひりつは1たい1.33)だったが、黒澤くろさわ画面がめんせますぎるスタンダードサイズに不満ふまんがあり、『かくとりでさん悪人あくにん以降いこうシネマスコープ画面がめん比率ひりつは1たい2.35)を採用さいようした[147]黒澤くろさわどうさくについて、「最初さいしょのシネスコ・サイズでおおきな画面がめんにいろいろはいるので、おもしろくておも存分ぞんぶんった[75]」とべている。『デルス・ウザーラ』でははじめて70ミリフィルム使用しようしたが、『影武者かげむしゃ以降いこう作品さくひんはすべてビスタサイズ画面がめん比率ひりつは1たい1.66)で撮影さつえいした。撮影さつえい監督かんとく斎藤さいとう孝雄たかおによると、黒澤くろさわ画面がめん全体ぜんたいめなければまないひとで、シネマスコープのひろ画面がめんめるのが大変たいへんになったことからビスタサイズに変更へんこうしたという[148]

音楽おんがく[編集へんしゅう]

早坂はやさか文雄ふみお黒澤くろさわ早坂はやさかは8ほん黒澤くろさわ映画えいが作曲さっきょく担当たんとうした。

黒澤くろさわ映画えいが音楽おんがくで、わざと映像えいぞう音楽おんがく調和ちょうわくずす「おと映像えいぞう対位法たいいほう」をこのんで使用しようした[149][150]スクリプター野上のかみ照代てるよは「映画えいが音楽おんがくざんではなく、ざんでなければならない」のが黒澤くろさわ持論じろんだったとしている[149]黒澤くろさわとコンビをんだ早坂はやさか文雄ふみおは、黒澤くろさわ映画えいが音楽おんがくたいするかんがかたは「画面がめん結合けつごうすることによって、ある連想れんそう作用さようによって、そこになにかが喚起かんきされ、その音楽おんがく自体じたいべつ意味いみ附与ふよされてくるようなものでなくてはならない[151]」ものだったとしている。対位法たいいほう使用しようするときは、音源おんげんをその画面がめん登場とうじょうする既成きせいレコードきょくラジオからながれる音楽おんがく背景はいけい歌声うたごえなどの現実げんじつおんにする場合ばあいおおかった[149]対位法たいいほう代表だいひょうてき使用しようれいは『いどれ天使てんし』と『野良犬のらいぬ』で、前者ぜんしゃでは主人公しゅじんこう闇市やみいちあるくシーンで「かっこうワルツ」をながし、後者こうしゃでは佐藤さとう刑事けいじ犯人はんにんたれるシーンで「ラ・パロマ」、村上むらかみ刑事けいじ犯人はんにん対峙たいじするシーンでクーラウの「ソナチネ」のピアノきょくながしている[151]

黒澤くろさわ映画えいが音楽おんがく作曲さっきょくまかせにせず、作曲さっきょく自分じぶんしいイメージをつたえ、それにつよくこだわった[48]普段ふだんからよく音楽おんがくいていた黒澤くろさわは、イメージをつたえるために既成きせいきょくしめし、それに音楽おんがくにするよう指示しじすることがおおかった[88][152][153]。『羅生門らしょうもん』ではラヴェルの「ボレロ」、『あかひげ』ではブラームスの「交響こうきょうきょくだい1ばん」やハイドンの「交響こうきょうきょくだい94ばん」、『らん』ではマーラーの「大地だいちうた」にきょくつくられている[153]。『あかひげ』以降いこうはラッシュ自分じぶんえらんだ名曲めいきょくけるようになり、そのきょくわせて編集へんしゅうすることもあった[48][152]。そのため注文ちゅうもんきびしい黒澤くろさわ作曲さっきょくとの軋轢あつれきおおく、『影武者かげむしゃ』では佐藤さとうまさる降板こうばんし、『らん』では武満たけみつとおるとダビングをめぐり対立たいりつすることもあった[48]

黒澤くろさわぐみ[編集へんしゅう]

蜘蛛くもじょう』のオープンセットにあつまった黒澤くろさわぐみ面々めんめん(1956ねん撮影さつえい)。ひだりからいちにんおいて矢野口やのくち文雄ふみお岸田きしだ九一郎きゅういちろう長瀬ながせさん斎藤さいとう孝雄たかお三船みふね敏郎としお千秋ちあきみのる志村しむらたかし斉藤さいとう照代てるよ村木むらき与四郎よしろう黒澤くろさわ根津ねづひろし中井なかい朝一あさいち本木もとぎそう二郎じろう

黒澤くろさわ長年ながねん東宝とうほう所属しょぞくしていたこともあり、おなじスタッフやキャストと仕事しごとをすることがおおく、かれらは「黒澤くろさわぐみ」とばれた。黒澤くろさわぐみおも人物じんぶつ参加さんか作品さくひんすう以下いかとおりである(スタッフは3ほん以上いじょう、キャストは5ほん以上いじょう参加さんかしゃのみ記述きじゅつ[154]

完璧かんぺき主義しゅぎ[編集へんしゅう]

完全かんぜん主義しゅぎという言葉ことば実際じっさいあるかどうからないけれど、モノをつく人間にんげん完全かんぜんなものを目指めざさないはずがありませんよ」と黒澤くろさわはインタビューでうように、表現ひょうげん一切いっさい妥協だきょうゆるさず、「完璧かんぺき主義しゅぎ」としょうされるエピソードがおお存在そんざいする。黒澤くろさわ映画えいがたいする数々かずかずかかわりは『完全かんぜん主義しゅぎしゃ』『天皇てんのう』という「映画えいが監督かんとく黒澤くろさわあきら」のイメージをつくげた。[155]

  • かわながれをぎゃくにしろ」「うま演技えんぎしていない」などの無茶むちゃぶりや「くもち」「あめち」をおこなって平気へいきで2、3にちつぶすこともあった。[156]
  • 「あのいえの2かい邪魔じゃまになる。」とって、それをいた助監督じょかんとくたちは、その民家みんか出向でむき、「このいえ屋根やねを…こわさせてください!」とたのんだ。そして、撮影さつえいなおすと条件じょうけんづけで、どうにか、屋根やね部分ぶぶんこわ許可きょかをもらった。[157]
  • 1957ねん製作せいさくの『蜘蛛くもじょう』で、三船みふね敏郎としおえんじる武将ぶしょう無数むすうびせられるシーンでは使用しようしたのは本物ほんもの使つかい、弓道きゅうどう有段者ゆうだんしゃすうにん至近しきん距離きょりから一斉いっせいた。
  • 1963ねん製作せいさく天国てんごく地獄じごく』では、滑走かっそうする電車でんしゃなかから鉄橋てっきょうかったとき身代金みのしろきんわたすシーンで当時とうじとしては異例いれい電車でんしゃっての撮影さつえいおこなった。ダイヤをみださぬように、通常つうじょう運行うんこう車両しゃりょうったため、鉄橋てっきょう通過つうかするチャンスはいちきりであり、失敗しっぱいゆるされない。そこで黒澤くろさわは、電車でんしゃ実物じつぶつだい模型もけいをリハーサルのためだけにつくり、なんなんもリハーサルをかさ本番ほんばんいどみNGがゆるされないいちきりの撮影さつえいのため、8だいのカメラを同時どうじまわし、なんとか無事ぶじいちかい成功せいこうした。
  • 天国てんごく地獄じごく』ではバーでのシーン。黒澤くろさわは「とにかくたくさんのきゃくくしたい」とっていたため、スタッフは500にんものエキストラを用意よういした。しかしそれを黒澤くろさわは、「すくないな…」とい、急遽きゅうきょかべかがみりにさせ、そのかがみうつみでエキストラがばい人数にんずうえるように工夫くふうして撮影さつえいした。
  • 羅生門らしょうもん』の冒頭ぼうとうのすさまじい豪雨ごううそそぐシーン。最初さいしょ撮影さつえいでは、ポンプしゃ4だい用意よういし、大量たいりょうみず放水ほうすいした。だが、肉眼にくがんるのとはちがい、カメラでうつすと、おもったほどの豪雨ごううにならなかった。そこで黒澤くろさわは、みず墨汁ぼくじゅうぜることで、あめ迫力はくりょくをました。さらに、あめねらって撮影さつえいするという、ねんにはねんれようだった。しかし、あまりに大量たいりょうみず使つかったために、この地区ちくは、一時いちじてき水不足みずぶそくになってしまった。
  • 映画えいが『デルス・ウザーラ』ではあきになると、黒澤くろさわはシベリアのうつくしい紅葉こうよう山々やまやまなか撮影さつえいしたいとかんがえていたが、撮影さつえい前日ぜんじつ季節きせつはずれのあめってしまい、紅葉こうようしたっぱがすべってしまった。その木々きぎ黒澤くろさわは、スタッフに人工じんこうあか黄色おうしょくっぱをつくらせ、広大こうだい森中もりなか木々きぎっぱをいちまいずつけさせた。
  • また『デルス』の主人公しゅじんこうが、野生やせいとらくわすというシーンでは、当初とうしょ用意よういされたとら黒澤くろさわは「このとらんでいるよ。野生やせいとらつかまえてきてくれないか?」とした。じつはそのとらは、スタッフが撮影さつえいようにサーカスからりてきたとらであり、とら表情ひょうじょうにこだわった黒澤くろさわ結局けっきょくかおのアップシーンでは野生やせいとらで、全体ぜんたいうごきが要求ようきゅうされるカットには、最初さいしょ使つかったサーカスのとら撮影さつえいおこなった。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

キネマ旬報きねまじゅんぽう』1960ねん2がつ下旬げじゅんごうより
あかひげ撮影さつえいちゅう黒澤くろさわあきら(1964ねん

サングラスは1960年代ねんだい以降いこう黒澤くろさわのトレードマークである。黒澤くろさわつよ照明しょうめい使つか撮影さつえいと、つねみずか編集へんしゅう作業さぎょうにたずさわっていたこともあってわるくしていたが、尊敬そんけいするジョン・フォードもおなじくいためており、フォードとったときかれから「大事だいじにしろ」と忠告ちゅうこくされたのがきっかけで、『用心棒ようじんぼう』からサングラスを着用ちゃくようするようになった[108][158]黒澤くろさわはフォードを真似まねてサングラスだけでなく、『椿つばき三十郎さんじゅうろう』からハンチングぼうこうむるようになった[108][158]。それまではピケぼう愛用あいようし、『デルス・ウザーラ』以後いごはキャプテンぼうこうむった[108]

青年せいねん時代じだい画家がかこころざしていた黒澤くろさわは、ポール・セザンヌフィンセント・ファン・ゴッホなど後期こうき印象派いんしょうは画家がかきだったが、富岡とみおか鉄斎てっさい前田まえだ青邨せいそんなどの日本にっぽん画家がかきだと発言はつげんしていた[22][159]前田まえだからはかぶともらい、その大事だいじにしていたが、黒澤くろさわ家計かけい逼迫ひっぱくしたとき売却ばいきゃくしたという[160]映画えいがかいはいってからはコンテはじめ映画えいがのため以外いがいえがくことはなかったが、晩年ばんねん水彩すいさいすみ仏画ぶつがえがくようになり、それらの篆刻てんこく制作せいさくにも熱中ねっちゅうした[159]。また、黒澤くろさわ自分じぶんえがいたクリスマス・カード手作てづくりし、国内外こくないがい知人ちじんおくっていた[159]野上のかみによると、黒澤くろさわ時間じかんがあればえがき、つくえうええが道具どうぐいておくと、サインペンでも絵具えのぐでも手当てあてたり次第しだい使つかって、子供こどものようにだまってえがいていたという[161]

私生活しせいかつ黒澤くろさわはグルメでられ、とくににく料理りょうりこのんだ[162]小泉こいずみ堯史によると、黒澤くろさわ晩年ばんねんになっても食欲しょくよくちず、ステーキなどを頬張ほおばっていたという[162]黒澤くろさわ食卓しょくたく代表だいひょうてき料理りょうり牛肉ぎゅうにく料理りょうり[163]黒澤くろさわけば美味おいしい牛肉ぎゅうにくべられると海外かいがい映画えいが関係かんけいしゃにまでわたっていた[164]。そのため牛肉ぎゅうにくだいだけで食費しょくひたかくつき、1ヶ月かげつ牛肉ぎゅうにくだいが100まんえん突破とっぱすることもあり、税務署ぜいむしょうたがわれるという出来事できごともあったという[165]黒澤くろさわはスタッフの食事しょくじにまでうるさく、なつには撮影さつえい現場げんばにかきごおり屋台やたい用意よういしたこともあった[166]黒澤くろさわ酒豪しゅごうとしてもられ[167]ジョニー・ウォーカーホワイトホースなどのウイスキー愛飲あいいんした[168][169]

黒澤くろさわさびしがりはなきで、ひととははなしきないような人物じんぶつだった[170]。おさけもみんなと一緒いっしょにぎやかにむのがきで、地方ちほうロケでは毎日まいにちのようによる宴会えんかいとなり、俳優はいゆうやスタッフたちと車座くるまざになり、一緒いっしょ夕食ゆうしょくをしながらむことがおおかった[108][171]いがすすむと黒澤くろさわはスタッフたちに輪唱りんしょうをさせ、黒澤くろさわ指揮しきしゃになりみんなをなんくみかにけてうたわせたという[108][172]黒澤くろさわぐみ常連じょうれん俳優はいゆうである土屋つちや嘉男よしおによると、黒澤くろさわ輪唱りんしょう上手うまくいかないとダメしをし、まるで撮影さつえいときおなじようになったとべている[173]

評価ひょうか影響えいきょう[編集へんしゅう]

批評ひひょう[編集へんしゅう]

キネマ旬報きねまじゅんぽう』1960ねん1がつ新春しんしゅん特別とくべつごうより

黒澤くろさわ助監督じょかんとく時代じだいから演出えんしゅつ脚本きゃくほん力量りきりょうみとめられ、監督かんとく処女しょじょさくでいきなりおおきな注目ちゅうもく称賛しょうさんけた数少かずすくない監督かんとくだった[41]おおくの監督かんとく作品さくひんこう評価ひょうかけており、戦後せんごキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンでは25作品さくひんが10以内いない選出せんしゅつされた[174]批評ひひょうからは視覚しかくてき演出えんしゅつりょく劇的げきてき緻密ちみつ脚本きゃくほん構成こうせい絵画かいがてき造形ぞうけいりょくなどがたか評価ひょうかされる反面はんめんつよ娯楽ごらくせい独自どくじ倫理りんりかんには賛否さんぴかれることもあった[175]1960年代ねんだい政治せいじ運動うんどうはげしい時代じだいには、わか世代せだいによりはん黒澤くろさわろんかれたが、それらのおおくは黒澤くろさわ作品さくひんにおける武士ぶしどうてきストイシズム、はん庶民しょみんてきヒロイズム、家父長制かふちょうせいてき権威けんい主義しゅぎ反発はんぱつしている[176]作品さくひん西洋せいようてきであることから日本人にっぽんじんばなれしているとなされることもあり、海外かいがいではもっと西洋せいようてき日本人にっぽんじん監督かんとくかんがえられているが[53][177]、フランスの映画えいが研究けんきゅうサッシャ・エズラッティは「かれ黒澤くろさわ)はそのインスピレーションを、そのまれたくになか同様どうように、国境こっきょうそとからもるという、非常ひじょうおおきな教養きょうようったおとこである。黒澤くろさわはその国民こくみんてき性格せいかく完全かんぜんたもちながら、日本にっぽん映画えいが世界せかいせいたせたという功績こうせきっている[178]」と評価ひょうかしている。

評論ひょうろん多田ただ道太郎みちたろうは「黒澤くろさわあきらは、おそらく日本にっぽん映画えいが史上しじょうはじめての映画えいが芸術げいじゅつなか個人こじんをもちもうとした作家さっか」とたか評価ひょうかしている[179]都築つづき映画えいが批評ひひょう岩崎いわさきあきらは、黒澤くろさわを「観念かんねんてき作家さっか」と評価ひょうかした[180][181]哲学てつがくしゃ梅原うめはらたけし黒澤くろさわあい作家さっかであるとし、「黒澤くろさわあきらは、どのような文学ぶんがくしゃよりも人間にんげんあいんでいるようだ。かれ作中さくちゅう人物じんぶつは、戦後せんごのいかなる文学ぶんがくしゃ作品さくひんより、きとしたあい行為こうい実践じっせんしゃである」とひょうしている[182]増村ますむらたもつづくり黒澤くろさわ画面がめんづくりをたか評価ひょうかし、その絵画かいがせい表現ひょうげん主義しゅぎフリッツ・ラング作画さくがりょくちかいとしている[183]一方いっぽう映画えいが批評ひひょう飯田いいだしんは、黒澤くろさわ絵画かいがせいについて「黒澤くろさわ人物じんぶつ素描そびょうするかわりに色彩しきさい駆使くしし、多彩たさい色調しきちょうのなかにモチーフを展開てんかいしてゆくタイプである。そして、そのほう清水しみずひろしのごとき水彩すいさいのタッチではなく、あくまでひとるごとき油彩ゆさいである」とひょうし、その印象いんしょうフォーヴィスム絵画かいがかさねた[179]

批判ひはん[編集へんしゅう]

一方いっぽう映画えいが製作せいさくしゃだった角川かどかわ春樹はるきのように、黒澤くろさわ信者しんじゃからアンチ黒澤くろさわ転向てんこうした人物じんぶつ存在そんざいする。角川かどかわは「いままで映画えいがのベストは『七人しちにんさむらい』と『ゴッドファーザー』だ」と公言こうげんし、少年しょうねん時代じだいから黒澤くろさわをリスペクトして、映画えいが製作せいさく夢見ゆめみていたが、映画えいが影武者かげむしゃ』のゆう楽座らくざおこなわれたワールド・プレミアにて、東宝とうほう社長しゃちょうだった松岡まつおかいさお紹介しょうかいがあったにもかかわらず、黒澤くろさわ無視むしされたうえ握手あくしゅ拒否きょひされ、その、プレミア上映じょうえい最中さいちゅうに、微醺びくん状態じょうたい黒澤くろさわジョージ・ルーカスフランシス・フォード・コッポラれて姿すがたあらわすと、自身じしんおくれてきたことを理由りゆう上映じょうえい中止ちゅうしさせ、最初さいしょからやりなおしをさせる光景こうけい幻滅げんめつし、以降いこうプロデュースする意欲いよく一切いっさいなくなったという。角川かどかわは『影武者かげむしゃ』にかんして、「わたしがプロデューサーなら20ふんる」「時代じだい考証こうしょうおろか」「合戦かっせんシーンも『七人しちにんさむらい』にくらべると迫力はくりょくがなかった」と批判ひはんし、取材しゅざい最後さいごに「なに黒澤くろさわ天皇てんのうだ(笑)」とてている[184]

映画えいが監督かんとく評価ひょうか影響えいきょう[編集へんしゅう]

ポーランドにあるイングマール・ベルイマン胸像きょうぞう黒澤くろさわはベルイマンを賞賛しょうさんし、かれの70さい誕生たんじょう手紙てがみいた[185]

国内外こくないがいおおくの映画えいが監督かんとく黒澤くろさわ影響えいきょうけ、その作品さくひん賞賛しょうさんしている。黒澤くろさわどう時期じき活躍かつやくしたイングマール・ベルイマンは、自作じさくの『処女しょじょいずみ』(1960ねん)を「黒澤くろさわ観光かんこう気分きぶんのあさましい模倣もほう」とべている[186]フェデリコ・フェリーニ黒澤くろさわ作品さくひんることは「アリオストむようなものだ」と賞賛しょうさんしている[187]サタジット・レイは『羅生門らしょうもん』のひかり使つかかた影響えいきょうけたことをあきらかにしている[188]アンドレイ・タルコフスキーきな作品さくひんの1ほんに『七人しちにんさむらい』をげている[189]ベルナルド・ベルトルッチヴェルナー・ヘルツォークも、影響えいきょうけた監督かんとく一人ひとりとして黒澤くろさわげている[190][191]

スタンリー・キューブリックのアシスタントをつとめたアンソニー・フルーウィン英語えいごばんによると、キューブリックは黒澤くろさわ偉大いだい映画えいが監督かんとく一人ひとりかんがえ、たか評価ひょうかしていたという。黒澤くろさわもキューブリックを賞賛しょうさんしており、1990年代ねんだい後半こうはんにキューブリックてにファンレターをおくったが、それに感激かんげきしたキューブリックは返信へんしん内容ないようなやみ、数ヶ月すうかげつもかけて返事へんじなおすも、そのあいだ黒澤くろさわくなってしまい、ひどく動揺どうようしたというエピソードがある[192]

1970年代ねんだい以降いこうのハリウッド映画えいが活躍かつやくしたコッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシ、ジョン・ミリアスなどは黒澤くろさわ尊敬そんけいするあおぎ、それぞれの作品さくひん黒澤くろさわからつよ影響えいきょうけている[193][194][195][196]。コッポラは「わたしたち(ルーカスとコッポラ)は黒澤くろさわ監督かんとくの"芸術げいじゅつてき息子むすこ"といっていい存在そんざい」とかたり、黒澤くろさわノーベル文学ぶんがくしょう推薦すいせんしようとしたことがある[197]。コッポラの監督かんとくさくゴッドファーザー』(1972ねん)の冒頭ぼうとう結婚式けっこんしきのシーンは、『わるやつほどよくねむる』の影響えいきょうけている[88]。スピルバーグは黒澤くろさわを「現代げんだい映画えいがかいにおけるシェイクスピア[198]」とひょうし、「映画えいが製作せいさくしゃとしてのぼくの仕事しごと多大ただい影響えいきょうあたえた。映像えいぞうはもちろんアートにおけるぼくの審美しんびは、かれ影響えいきょうけている[199]」とべている。

また、アレクサンダー・ペイン黒澤くろさわのファンで、『七人しちにんさむらい』『あかひげ』をきな映画えいがげている[200]アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは19さいときた『きる』に衝撃しょうげきけたことをかし、自身じしん作品さくひんである『BIUTIFUL ビューティフル』を製作せいさくしたさい影響えいきょうけたことをみとめ、黒澤くろさわを「映画えいがのストーリーの構成こうせいえようとした天才てんさいのうちの一人ひとり」とたか評価ひょうかした[201]ウェス・アンダーソンアニメーション映画えいがいぬとう』(2018ねん)で黒澤くろさわ影響えいきょうけていることを明言めいげんしている[202]。そのほか、サム・ペキンパー[203]アーサー・ペン[204]リドリー・スコット[205]ジョージ・ミラー[206]ジョン・ウー[207]チャン・イーモウ[208]三池みいけ崇史たかふみ[209]塚本つかもとすすむ[210]助監督じょかんとく出身しゅっしんしゃいち作品さくひんいただけの野村のむら芳太郎よしたろう加藤かとうやすし中平なかひらやすしらをふくめると膨大ぼうだい人数にんずうとなるが、初期しょき堀川ほりかわ弘通ひろみち中期ちゅうきいて最多さいた本数ほんすうでチーフをつとめた森谷もりたに司郎しろう[211]晩年ばんねん小泉こいずみ堯史[212]らが黒澤くろさわ影響えいきょうけた愛弟子まなでしとしてげられることがおおい。

リメイクとしょ作品さくひんへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

これまでに黒澤くろさわ作品さくひん国内外こくないがいなんリメイクされている。ハリウッド映画えいがでは、ジョン・スタージェス監督かんとくの『荒野あらのななにん』(1960ねん)が『七人しちにんさむらい』、マーティン・リット監督かんとくの『暴行ぼうこう』(1964ねん)が『羅生門らしょうもん』を公式こうしきにリメイクし、それぞれ舞台ぶたい西部せいぶげきうつえている[57]セルジオ・レオーネ監督かんとくマカロニ・ウエスタン荒野あらの用心棒ようじんぼう』(1964ねん)は、『用心棒ようじんぼう』を非公式ひこうしきでリメイクした作品さくひんで、黒澤くろさわ東宝とうほうとともに著作ちょさくけん侵害しんがい告訴こくそし、和解わかいおうじた製作せいさくしゃがわから日本にっぽんなどの配給はいきゅうけん世界せかい興行こうぎょう収入しゅうにゅうの15%をっている[213]内川うちかわ清一郎せいいちろう監督かんとくの『姿すがた三四郎さんしろう』(1965ねん)は、黒澤くろさわプロダクションが『姿すがたさんよんろう』『ぞく姿すがたさんよんろう』をわせてリメイクした作品さくひんで、黒澤くろさわ自身じしんがプロデューサーをつとめた[57]

スター・ウォーズシリーズ黒澤くろさわ作品さくひんから部分ぶぶんてき影響えいきょうけている。ルーカスによるシリーズ1さくスター・ウォーズ エピソード4/あらたなる希望きぼう』(1977ねん)のストーリーのアイデアは『かくとりでさん悪人あくにん』をもとにしており、黒澤くろさわ作品さくひん特徴とくちょうてきなワイプによる場面ばめん転換てんかん採用さいようしている[214]C-3POR2-D2は、『かくとりでさん悪人あくにん』の登場とうじょう人物じんぶつである百姓ひゃくしょう太平たいへい又七またしちがモデルであることをルーカス自身じしんみとめている[215]。シリーズ7さくの『スター・ウォーズ/フォースの覚醒かくせい』(2015ねん)では、J・J・エイブラムス監督かんとくがシーンの構図こうずとキャラクターの位置いちを『天国てんごく地獄じごく』を参考さんこうにしたことをあきらかにし[216]、シリーズ8さくの『スター・ウォーズ/最後さいごのジェダイ』(2017ねん)では、ライアン・ジョンソン監督かんとく脚本きゃくほんに『羅生門らしょうもん』などの影響えいきょうけたことをあきらかにしている[217]

2020ねん発売はつばいPlayStation 4ようゲームソフトGhost of Tsushima』は、黒澤くろさわ時代じだい劇映画げきえいがからつよ影響えいきょうけており、黒澤くろさわ敬意けいいめてゲーム画面がめんをモノクロで表示ひょうじし、1950年代ねんだい黒澤くろさわ作品さくひん質感しつかん再現さいげんした「Kurosawa Mode(黒澤くろさわモード)」という機能きのう搭載とうさいしている[218]どうさく開発かいはつしゃ一人ひとりであるジェイソン・コーネルは、黒澤くろさわ作品さくひん演出えんしゅつとカメラワークをおおいに参考さんこうにし、かぜ使用しようした演出えんしゅつ黒澤くろさわ作品さくひんふう効果こうかてき使つかわれていることに触発しょくはつされたとかたっている[219]

レガシー[編集へんしゅう]

没後ぼつごすうほん映像えいぞう脚本きゃくほん映画えいがされた。『あめあがる』は黒澤くろさわ助監督じょかんとくつとめた小泉こいずみ堯史脚本きゃくほん完成かんせいさせ、2000ねん映画えいが作品さくひん公開こうかいした[34]同年どうねんよんかい企画きかくした『どら平太へいた』が市川いちかわこん監督かんとく映画えいがされ、2004ねんには『うみていた』が熊井くまいあきら監督かんとく映画えいがされた[34]。また、2017ねん3がつ中国ちゅうごく映画えいが会社かいしゃであるはなよしみ兄弟きょうだい中国語ちゅうごくごばんが『くろ仮面かめん』の映画えいが発表はっぴょう[220]同年どうねん5がつには中国ちゅうごく企業きぎょうのジンカ・エンターテインメントも映像えいぞう脚本きゃくほん10ほん映画えいが発表はっぴょうしたが[221]、どちらもその進展しんてん報道ほうどうされていない。

黒澤くろさわかんしたしょう施設しせつつくられた。1986ねんサンフランシスコ国際こくさい映画えいがさいに「黒澤くろさわあきらしょう」が制定せいていされ、黒澤くろさわ自身じしんだい1かい受賞じゅしょうしゃとなり、2002ねんまで授与じゅよされた[222]。2004ねんには東京国際映画祭とうきょうこくさいえいがさいに「黒澤くろさわあきらしょう」がもうけられた。どうしょうは「日本にっぽん文化ぶんかさい創造そうぞうへの象徴しょうちょうとなり、ひろ世界せかい映画えいが文化ぶんか発展はってん貢献こうけんすること」を目的もくてき設立せつりつされ、2008ねんまで授与じゅよされた[223]2010ねんカリフォルニアしゅうアナハイム大学だいがく映画えいが学校がっこう黒澤くろさわあきらスクールオブフィルム」が開校かいこうし、美術びじゅつがく修士しゅうしごう取得しゅとくできるオンライン教育きょういくプログラムを提供ていきょうしている[224]

1998ねん佐賀さがけん伊万里いまり黒澤くろさわあきら記念きねんかん建設けんせつする計画けいかくがスタートし、1999ねん7がつ2にち伊万里いまり商業しょうぎょう施設しせつかり施設しせつとなる「黒澤くろさわあきら記念きねんかんサテライトスタジオ」が開館かいかんした[225]記念きねんかん黒澤くろさわあきら文化ぶんか振興しんこう財団ざいだん寄付きふきんつのって建設けんせつする予定よていだったが、2010ねん1がつ寄付きふきんやく3おく8000まんえん財団ざいだん決算けっさん書類しょるい流動りゅうどう資産しさん記載きさいされていないことが発覚はっかくした。翌月よくげつ黒澤くろさわあきら文化ぶんか振興しんこう財団ざいだん黒澤くろさわ久雄ひさおらは「資金しきん大半たいはんかり施設しせつ運営うんえいなどで使つかたしてしまった」と陳謝ちんしゃしたが、実際じっさい資金しきん私的してき利用りようによるもので、不正ふせい利用りようした費用ひよう全額ぜんがく久雄ひさおはらうという方向ほうこう決定けっていした[226][227]。その財団ざいだんがわ多額たがく資金しきんあつめて記念きねんかんつくることが現実げんじつてきでないとしたうえで、サテライトスタジオをほん記念きねんかんにリニューアルしたいとの意向いこうしめし、記念きねんかん建設けんせつ事実じじつじょう断念だんねんすることをめたが、2011ねん3月6にちにサテライトスタジオも閉館へいかんした[228][229]

2009ねん5月、黒澤くろさわプロダクションと龍谷大りゅうこくだいがく共同きょうどうプロジェクトで「黒澤くろさわデジタルアーカイブ」を開設かいせつし、公開こうかい創作そうさくノートやメモ、コンテ、台本だいほん撮影さつえい写真しゃしんなどの資料しりょうが、インターネットじょう一般いっぱん公開こうかいされた[230]

作品さくひん[編集へんしゅう]

監督かんとく作品さくひん[編集へんしゅう]

黒澤くろさわ自作じさくみとめた監督かんとく作品さくひんは30ほんあり[注釈ちゅうしゃく 7]、そのすべてで脚本きゃくほん執筆しっぴつした(共同きょうどう執筆しっぴつふくむ)[注釈ちゅうしゃく 13]。※しるしはプロデューサーを兼任けんにんした作品さくひん

脚本きゃくほん作品さくひん[編集へんしゅう]

特記とっきがないかぎりは『大系たいけい黒澤くろさわあきら 別巻べっかん』の「解説かいせつ黒澤くろさわあきら脚本きゃくほん」による[34]

その作品さくひん[編集へんしゅう]

特記とっきがないかぎりは『大系たいけい黒澤くろさわあきら だい4かん』と『黒澤くろさわあきら集成しゅうせい』の年表ねんぴょうによる[10][18]

映画えいが
  • うつくしきたか(1937ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • 地熱じねつ(1938ねん滝沢たきざわ英輔えいすけ監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • ふじ十郎じゅうろうこい(1938ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • 綴方つづりかた教室きょうしつ(1938ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • エノケンのびっくり人生じんせい(1938ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • エノケンのがっちり時代じだい(1939ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • 忠臣蔵ちゅうしんぐら へん(1939ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - じょ演出えんしゅつ
  • のんき横丁よこちょう(1939ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • ロッパの新婚しんこん旅行りょこう(1940ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • エノケンのざんぎり金太きんた(1940ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • まご悟空ごくう 前後ぜんこうへん(1940ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • うま(1941ねん山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく) - 製作せいさく主任しゅにん
  • じゅうまんにん遺産いさん(1963ねん三船みふね敏郎としお監督かんとく) - 編集へんしゅう協力きょうりょく ※ノンクレジット[57]
  • 野良犬のらいぬ(1973ねん森崎もりさきひがし監督かんとく) - 原作げんさく
テレビ番組ばんぐみ
テレビCM
舞台ぶたい
  • しゃべる(1945ねん新生しんせい新派しんぱ公演こうえん) - 脚本きゃくほん
  • いどれ天使てんし(1948ねん東宝とうほう従業じゅうぎょういん組合くみあい) - 演出えんしゅつ[16]
  • 結婚けっこん申込もうしこみ(1948ねん東宝とうほう従業じゅうぎょういん組合くみあい) - 演出えんしゅつ[16]
作詞さくし

受賞じゅしょう[編集へんしゅう]

フランスカンヌにある黒澤くろさわのセメントの手形てがた
メディア外部がいぶリンク
だい62かいアカデミーしょう
画像がぞう
写真しゃしんひだりから)ジョージ・ルーカス、黒澤くろさわあきら、スティーヴン・スピルバーグ
映像えいぞう
黒澤くろさわあきら アカデミー名誉めいよしょう
(Oscars 公式こうしき

黒澤くろさわ国内外こくないがい多数たすう映画えいがしょう受賞じゅしょうしており、作品さくひんアカデミーしょう世界せかいさんだい映画えいがさいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいベルリン国際こくさい映画えいがさいのすべてで受賞じゅしょう経験けいけんがある。また、1976ねん映画えいがじんとしてはじめて文化ぶんか功労こうろうしゃ顕彰けんしょうされ[10]1985ねんおなじく映画えいがじんはつとなる文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうした[88]1990ねんにはだい62かいアカデミーしょう名誉めいよしょう受賞じゅしょうした。授賞じゅしょうしきのプレゼンターはスピルバーグとルーカスがつとめ、黒澤くろさわ受賞じゅしょうスピーチで「わたしはまだ映画えいががよくかっていない」とかたったり、会場かいじょうからはわらいにつつまれた。[99]没後ぼつごの1998ねん10がつ、「数々かずかず不朽ふきゅう名作めいさくによって国民こくみんふか感動かんどうあたえるとともに、世界せかい映画えいがかがやかしい足跡あしあとのこした」功績こうせきにより、映画えいが監督かんとくはつとなる国民こくみん栄誉えいよしょうおくられた[234]2009ねんにはシェイクスピア作品さくひんえんのある、または影響えいきょうけた芸術げいじゅつ対象たいしょうとするシェイクスピア・ホール・オブ・フェームの殿堂でんどうりをたした[235]

英国えいこく映画えいが協会きょうかいサイト・アンド・サウンド英語えいごばんが10ねんごと発表はっぴょうした映画えいが監督かんとくのランキングでは、1982ねん批評ひひょう投票とうひょうで5[236]1992ねん監督かんとく投票とうひょうで3[237]2002ねん批評ひひょう投票とうひょうで6[238]監督かんとく投票とうひょうで3[239]えらばれた。また、1996ねんエンターテインメント・ウィークリー発表はっぴょうした「50にん偉大いだい映画えいが監督かんとく」リストで6[240]、2002ねんMovieMaker発表はっぴょうした「史上しじょうもっと影響えいきょうりょくのある映画えいが監督かんとく25にん」のリストで12[240]2007ねんTotal Film発表はっぴょうした「100にん偉大いだい映画えいが監督かんとく」で11[241]にランクした。

映画えいがしょう[編集へんしゅう]

以下いかひょうは、黒澤くろさわおも映画えいがしょう受賞じゅしょうとノミネートのリストである。このリストには、黒澤くろさわ個人こじん受賞じゅしょうしたしょう監督かんとくしょう脚本きゃくほんしょう生涯しょうがい功労賞こうろうしょうなど)だけではなく、黒澤くろさわ直接ちょくせつ受賞じゅしょうしたがどうかにかかわらず作品さくひん自体じたいあたえられた作品さくひんしょう外国がいこく映画えいがしょうふくまれる(プロデューサーが受賞じゅしょうしゃであるしょうも、黒澤くろさわ作品さくひん受賞じゅしょう・ノミネートとしてリストにふくめる)。

黒澤くろさわあきらおも映画えいがしょう受賞じゅしょうとノミネートの一覧いちらん
しょう とし 部門ぶもん 作品さくひんめい 結果けっか 出典しゅってん
山中やまなか貞雄さだおしょう 1943ねん - 姿すがた三四郎さんしろう 受賞じゅしょう [60]
毎日まいにち映画えいがコンクール 1947ねん 監督かんとくしょう 素晴すばらしき日曜日にちようび 受賞じゅしょう [60]
1948ねん 日本にっぽん映画えいが大賞たいしょう いどれ天使てんし 受賞じゅしょう
1952ねん 日本にっぽん映画えいが大賞たいしょう きる 受賞じゅしょう
脚本きゃくほんしょう 受賞じゅしょう
1963ねん 日本にっぽん映画えいが大賞たいしょう 天国てんごく地獄じごく 受賞じゅしょう
脚本きゃくほんしょう 受賞じゅしょう
1965ねん 日本にっぽん映画えいが大賞たいしょう あかひげ 受賞じゅしょう
1980ねん 日本にっぽん映画えいが大賞たいしょう 影武者かげむしゃ 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
1985ねん 日本にっぽん映画えいが大賞たいしょう らん 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
1998ねん 特別とくべつしょう - 受賞じゅしょう [242]
キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン 1948ねん 日本にっぽん映画えいがベスト・テン いどれ天使てんし 1 [60]
1952ねん 日本にっぽん映画えいがベスト・テン きる』 1
1965ねん 日本にっぽん映画えいがベスト・テン あかひげ』 1
日本にっぽん映画えいが監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
ブルーリボンしょう 1950ねん 脚本きゃくほんしょう 羅生門らしょうもん 受賞じゅしょう [60]
1958ねん 作品さくひんしょう かくとりでさん悪人あくにん 受賞じゅしょう
1965ねん 作品さくひんしょう あかひげ』 受賞じゅしょう
1980ねん 作品さくひんしょう 影武者かげむしゃ 受賞じゅしょう
1985ねん 作品さくひんしょう らん 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
1998ねん 特別とくべつしょう - 受賞じゅしょう [243]
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい 1951ねん きむ獅子しししょう 羅生門らしょうもん 受賞じゅしょう [60]
イタリア批評ひひょうしょう 受賞じゅしょう [244]
1954ねん ぎん獅子しししょう 七人しちにんさむらい 受賞じゅしょう [60]
1965ねん 国際こくさいカトリック映画えいが事務じむきょくしょう あかひげ』 受賞じゅしょう
サン・ジョルジョしょう 受賞じゅしょう
1982ねん 栄誉えいよきん獅子しししょう - 受賞じゅしょう [244]
ナショナル・ボード・オブ・レビューしょう 1951ねん 監督かんとくしょう 羅生門らしょうもん 受賞じゅしょう [245]
外国がいこく映画えいがしょう 受賞じゅしょう
1985ねん 監督かんとくしょう らん 受賞じゅしょう [246]
外国がいこく映画えいがしょう 受賞じゅしょう
アカデミーしょう 1951ねん 名誉めいよしょう 羅生門らしょうもん 受賞じゅしょう [247]
1971ねん 外国がいこく映画えいがしょう どですかでん ノミネート [248]
1975ねん 外国がいこく映画えいがしょう 『デルス・ウザーラ』 受賞じゅしょう [88]
1980ねん 外国がいこく映画えいがしょう 影武者かげむしゃ ノミネート [249]
1985ねん 監督かんとくしょう らん ノミネート [250]
1989ねん 名誉めいよしょう - 受賞じゅしょう
英国えいこくアカデミーしょう 1952ねん 総合そうごう作品さくひんしょう 羅生門らしょうもん ノミネート [251]
1955ねん 総合そうごう作品さくひんしょう 七人しちにんさむらい ノミネート [252]
1980ねん 作品さくひんしょう 影武者かげむしゃ ノミネート [253]
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
1986ねん 外国がいこく作品さくひんしょう らん 受賞じゅしょう
脚色きゃくしょくしょう ノミネート
全米ぜんべい監督かんとく協会きょうかいしょう 1952ねん 長編ちょうへん映画えいが監督かんとくしょう 羅生門らしょうもん ノミネート [254]
1986ねん ゴールデン・ジュピリー特別とくべつしょう - 受賞じゅしょう
1992ねん D・W・グリフィスしょう - 受賞じゅしょう
ベルリン国際こくさい映画えいがさい 1954ねん ベルリン政府せいふ特別とくべつしょう きる』 受賞じゅしょう [60]
1959ねん 監督かんとくしょう かくとりでさん悪人あくにん 受賞じゅしょう
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう 受賞じゅしょう
ゴールデングローブしょう 1963ねん 外国がいこく映画えいがしょう 天国てんごく地獄じごく ノミネート [255]
1965ねん 外国がいこく映画えいがしょう あかひげ』 ノミネート
1980ねん 外国がいこく映画えいがしょう 影武者かげむしゃ ノミネート
1985ねん 外国がいこく映画えいがしょう らん ノミネート
1990ねん 外国がいこく映画えいがしょう ゆめ ノミネート
モスクワ国際こくさい映画えいがさい 1965ねん 映画えいが労働ろうどう組合くみあいしょう あかひげ』 受賞じゅしょう [60]
1971ねん ソ連それん映画えいがじん同盟どうめいしょう 『どですかでん』 受賞じゅしょう
1975ねん 金賞きんしょう デルス・ウザーラ 受賞じゅしょう [256]
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう 受賞じゅしょう
1979ねん 名誉めいよしょう - 受賞じゅしょう [60]
フランス映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1977ねん 外国がいこく映画えいがしょう 『デルス・ウザーラ』 受賞じゅしょう [257]
ダヴィッド・ディ・ドナテッロしょう 1977ねん 外国がいこく監督かんとくしょうイタリアばん 『デルス・ウザーラ』 受賞じゅしょう [258]
1981ねん 外国がいこく監督かんとくしょう 影武者かげむしゃ 受賞じゅしょう
1986ねん 外国がいこく監督かんとくしょう らん 受賞じゅしょう
ナストロ・ダルジェントしょう 1977ねん 外国がいこく監督かんとくしょう 『デルス・ウザーラ』 受賞じゅしょう [259]
1981ねん 外国がいこく監督かんとくしょう 影武者かげむしゃ 受賞じゅしょう [260]
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい 1980ねん パルム・ドール 影武者かげむしゃ 受賞じゅしょう [88]
セザールしょう 1981ねん 外国がいこく映画えいがしょう 影武者かげむしゃ 受賞じゅしょう [261]
1986ねん 外国がいこく映画えいがしょう らん ノミネート [262]
牧野まきの省三しょうぞうしょう 1981ねん - - 受賞じゅしょう [60]
かわ喜多きたしょう 1984ねん - - 受賞じゅしょう [60]
東京国際映画祭とうきょうこくさいえいがさい 1985ねん 国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう らん 受賞じゅしょう [263]
1998ねん 特別とくべつ功労賞こうろうしょう - 受賞じゅしょう [264]
全米ぜんべい映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1985ねん 作品さくひんしょう らん 受賞じゅしょう [244]
監督かんとくしょう 2
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1985ねん 監督かんとくしょう らん 次点じてん [244]
外国がいこく映画えいがしょう 受賞じゅしょう
ロサンゼルス映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1985ねん 監督かんとくしょう らん 次点じてん [265]
外国がいこく映画えいがしょう 受賞じゅしょう
生涯しょうがい功労賞こうろうしょう - 受賞じゅしょう
ボストン映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1985ねん 作品さくひんしょう らん 受賞じゅしょう [266]
映画えいが特別とくべつ功労こうろうだいあきら 1985ねん - - 受賞じゅしょう [267]
1998ねん - - 受賞じゅしょう
ロンドン映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1986ねん 監督かんとくしょう らん 受賞じゅしょう [244]
外国がいこく映画えいがしょう 受賞じゅしょう
ボディルしょう 1986ねん アメリカ映画えいがしょう らん 受賞じゅしょう [268]
アマンダしょう英語えいごばん 1986ねん 外国がいこく映画えいがしょう らん 受賞じゅしょう [244]
BFIフェローシップしょう英語えいごばん 1986ねん - - 受賞じゅしょう [269]
サンフランシスコ国際こくさい映画えいがさい 1986ねん 黒澤くろさわあきらしょう - 受賞じゅしょう [60]
日本にっぽんアカデミーしょう 1990ねん 作品さくひんしょう ゆめ ノミネート [270]
監督かんとくしょう ノミネート
1991ねん 作品さくひんしょう はちがつ狂詩曲きょうしきょく ノミネート [271]
監督かんとくしょう ノミネート
脚本きゃくほんしょう ノミネート
1998ねん 協会きょうかい栄誉えいよしょう - 受賞じゅしょう [272]
2000ねん 脚本きゃくほんしょう あめあがる 受賞じゅしょう [273]
ゴールデン・アローしょう 1998ねん 特別とくべつしょう - 受賞じゅしょう [274]
日刊にっかんスポーツ映画えいが大賞たいしょう 1998ねん 特別とくべつしょう - 受賞じゅしょう [275]
エランドールしょう 1999ねん 特別とくべつしょう - 受賞じゅしょう
全米ぜんべい脚本きゃくほん組合くみあいしょう 2013ねん ジャン・ルノワールしょう[注釈ちゅうしゃく 15] - 受賞じゅしょう [276]

そのしょう[編集へんしゅう]

栄典えいてん称号しょうごう[編集へんしゅう]

ドキュメンタリー作品さくひん[編集へんしゅう]

  • AK ドキュメント黒澤くろさわあきらフランス語ふらんすごばん』(1985ねんクリス・マルケル) - 『らん』の撮影さつえい現場げんば記録きろくした作品さくひん[288]
  • Kurosawa: The Last Emperor』(1999ねんアレックス・コックス[190]
  • 黒澤くろさわあきらからのメッセージ うつくしい映画えいがを』(2000ねん黒澤くろさわ久雄ひさお[289]
  • Kurosawa』(2001ねん、アダム・ロウ)[290]
  • Akira Kurosawa: The Epic and the Intimate』(2010ねん[290]
  • 黒澤くろさわ そのみち英語えいごばん』(2011ねん、カトリーヌ・カドゥ) - 黒澤くろさわ影響えいきょうけた11にん監督かんとくにインタビューした作品さくひん[291]
  • 『Life work of Akira Kurosawa黒澤くろさわあきらのライフワーク』(2022ねん河村かわむら光彦みつひこ) ー 『らん』の撮影さつえい現場げんばを1年間ねんかん記録きろくした作品さくひん映倫えいりん次世代じせだいへの映画えいが推薦すいせん委員いいんかい推薦すいせん

書籍しょせき[編集へんしゅう]

著書ちょしょ対談たいだんしゅう
画集がしゅう創作そうさくノート

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ げん東京とうきょう品川しながわ東大井ひがしおおい
  2. ^ 黒澤くろさわゆうおっとは、歌手かしゅ松岡まつおかたかしである。
  3. ^ いさむ先祖せんぞ代々だいだい神職しんしょくをしていたが、戊辰戦争ぼしんせんそう官軍かんぐん味方みかたし、その功績こうせき帯刀たいとうゆるされて士族しぞくになった[5]
  4. ^ その5つの作品さくひんは『建築けんちくじょうける集会しゅうかい』(水彩すいさい)、『農民のうみん習作しゅうさく』『帝国ていこく主義しゅぎ戦争せんそう反対はんたい』『農民のうみん組合くみあいへ』(以上いじょう油絵あぶらえ)、『労働ろうどう組合くみあいへ』(ポスター)である[22]
  5. ^ 黒澤くろさわ自伝じでんによると、丙午ひのえうま須田すだ貞明さだあき)は「30さいになるまえぬ、人間にんげん30をすと醜悪しゅうあくになるばかりだ」と口癖くちぐせのようにっていたという。丙午ひのえうまアルツィバーシェフの『最後さいご一線いっせん』を「世界せかい最高さいこう文学ぶんがく」と推奨すいしょうし、主人公しゅじんこう自殺じさつへの信条しんじょう賛同さんどうしていて、黒澤くろさわはそれが文学ぶんがく青年せいねんであるあに誇張こちょうしたかんがえにぎないとおもっていたが、あに口癖くちぐせとおり27さい自殺じさつした[24]
  6. ^ 東宝とうほう助監督じょかんとくはサード、セカンド、チーフと昇進しょうしんするが、プロデューサー・システムを導入どうにゅうして製作せいさくしゃ権限けんげん強化きょうかしていたこともあり、チーフ助監督じょかんとくを「製作せいさく主任しゅにん」とんでいた。黒澤くろさわはセカンドをやらずにチーフに昇進しょうしんしている[16]
  7. ^ a b 黒澤くろさわは『わが青春せいしゅんに悔なし』の完成かんせいまえに、山本やまもと関川せきかわ秀雄ひでおとともに『明日あしたつく人々ひとびと』(1946ねん)を共同きょうどう監督かんとくしているが、黒澤くろさわはこれを「自分じぶん作品さくひんとはおもえない」として自作じさくのリストからはずしている[45]
  8. ^ 時代じだいげきさんさくは、黒澤くろさわ小國おぐに英雄ひでおきくしま隆三りゅうぞう橋本はしもとしのぶ企画きかくり、当初とうしょは『蜘蛛くもじょう』(本多ほんだいの四郎しろう監督かんとく)、『かくとりでさん悪人あくにん』(鈴木すずき英夫ひでお監督かんとく)、『かたきち』(堀川ほりかわ弘通ひろみち監督かんとく)で決定けっていしたが、『かたきち』ははなしくらいとしてげず、『用心棒ようじんぼう』に変更へんこうされた[57][62]。『かたきち』は1964ねん今井いまいただし監督かんとくで『仇討あだうち』として映画えいがされた[62]最終さいしゅうてきさんさくは『蜘蛛くもじょう』『どんぞこ』『かくとりでさん悪人あくにん』となった。
  9. ^ 嫉妬しっと』のほかのエピソードは、キャロル・リードジャン・コクトーヴィットリオ・デ・シーカロベルト・ロッセリーニ担当たんとうする予定よていだった[34]
  10. ^ 1976ねん文化ぶんか功労こうろうしゃ打診だしんされたときは「政治せいじ映画えいが関心かんしんってくれた」とめてもらうことをめ、受章じゅしょうのインタビューでは、各国かっこくとも文化ぶんか政策せいさく一環いっかんとして映画えいがちかられているが、日本にっぽん政治せいじ映画えいが関心かんしんであると主張しゅちょうした。また、日本にっぽん映画えいがかいをめぐる危機ききかんについても言及げんきゅうし、このままだとのこるのはポルノ暴力ぼうりょくものだけで、次々つぎつぎめい監督かんとくくなるなかのこったわたし日本にっぽん映画えいが荒廃こうはい責任せきにんかんじているとかたった[67]
  11. ^ 黒澤くろさわは『くろ仮面かめん』の舞踏ぶとうかいのシーンをフェデリコ・フェリーニ演出えんしゅつさせ、手塚てづか治虫おさむのアニメーションを部分ぶぶんてき使つかうこともかんがえていた[34]。1976ねん手塚てづかは「黒澤くろさわさんね。日本にっぽんではつくれなくて、ソ連それんで『デルス・ウザーラ』をつくったけれど、また今度こんどソ連それん映画えいがつくるんです。そのとき、ぼくは黒澤くろさわさんといっしょに仕事しごとすることに…。(中略ちゅうりゃく恐怖きょうふ映画えいがなんだ。エドガー・アラン・ポーの短編たんぺん映画えいがするんだ[89]」とべている。
  12. ^ 黒澤くろさわ監督かんとくしょうノミネートにけた運動うんどうおこなうと表明ひょうめいしたルメットは、『らん』がD・W・グリフィスの『イントレランス』やアベル・ガンスの『ナポレオン』となら傑作けっさくになるとしんじ、このような美意識びいしき奥深おくふかさをむすびつけることが出来できるのは黒澤くろさわだけだとかたった[98]
  13. ^ a b 自作じさくみとめている30ほんのうち、脚本きゃくほんにクレジットがないのは『わが青春せいしゅんに悔なし』と『素晴すばらしき日曜日にちようび』の2ほんだけだが、この2ほん黒澤くろさわ脚本きゃくほん参加さんかしている[34]
  14. ^ 東宝とうほう大部屋おおべや俳優はいゆうであった中島なかじま春雄はるおは、完璧かんぺき主義しゅぎしゃ黒澤くろさわ時代じだいげきでも現代げんだいげき同様どうようのリアルで自然しぜん芝居しばい追求ついきゅうしていたといい、東映とうえい時代じだいげき調ちょう大仰おおぎょう芝居しばいでは通用つうようしなかったことを証言しょうげんしている[122]
  15. ^ 外国がいこくすぐれた脚本きゃくほんおくられるしょうで、黒澤くろさわのほか橋本はしもとしのぶきくしま隆三りゅうぞう小国おぐに英雄ひでおの3にんわせて受賞じゅしょうした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]