この項目 こうもく では、映画 えいが 監督 かんとく について説明 せつめい しています。同姓 どうせい 同名 どうめい の歌手 かしゅ については「ロス・プリモス 」をご覧 らん ください。
黒澤 くろさわ のサイン
黒澤 くろさわ 明 あきら (または黒沢 くろさわ 明 あきら 、くろさわ あきら、1910年 ねん 〈明治 めいじ 43年 ねん 〉3月23日 にち - 1998年 ねん 〈平成 へいせい 10年 ねん 〉9月6日 にち )は、日本 にっぽん の映画 えいが 監督 かんとく ・脚本 きゃくほん 家 か ・映画 えいが プロデューサー 。位階 いかい は従 したがえ 三 さん 位 い 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の日本 にっぽん 映画 えいが を代表 だいひょう する監督 かんとく であり、国際 こくさい 的 てき にも有名 ゆうめい で影響 えいきょう 力 りょく のある監督 かんとく の一人 ひとり とみなされている[3] [4] 。ダイナミックな映像 えいぞう 表現 ひょうげん 、劇的 げきてき な物語 ものがたり 構成 こうせい 、ヒューマニズム を基調 きちょう とした主題 しゅだい で知 し られる[3] 。生涯 しょうがい で30本 ほん の監督 かんとく 作品 さくひん を発表 はっぴょう したが、そのうち16本 ほん で俳優 はいゆう の三船 みふね 敏郎 としお とコンビを組 く んだ。
青年 せいねん 時代 じだい は画家 がか を志望 しぼう していたが、1936年 ねん にP.C.L.映画 えいが 製作所 せいさくしょ (1937年 ねん に東宝 とうほう に合併 がっぺい )に入社 にゅうしゃ し、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく の助監督 じょかんとく や脚本 きゃくほん 家 か を務 つと めたのち、1943年 ねん に『姿 すがた 三四郎 さんしろう 』で監督 かんとく デビューした。『醉 よ いどれ天使 てんし 』(1948年 ねん )と『野良犬 のらいぬ 』(1949年 ねん )で日本 にっぽん 映画 えいが の旗手 きしゅ として注目 ちゅうもく されたあと、『羅生門 らしょうもん 』(1950年 ねん )でヴェネツィア国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい 金 きむ 獅子 しし 賞 しょう を受賞 じゅしょう し、日本 にっぽん 映画 えいが が国際 こくさい 的 てき に認知 にんち されるきっかけを作 つく った。その後 ご 『生 い きる 』(1952年 ねん )、『七人 しちにん の侍 さむらい 』(1954年 ねん )、『用心棒 ようじんぼう 』(1961年 ねん )などが高 たか い評価 ひょうか を受 う け、海外 かいがい では黒澤 くろさわ 作品 さくひん のリメイク が作 つく られた。1960年代 ねんだい 後半 こうはん に日本 にっぽん 映画 えいが 産業 さんぎょう が斜陽化 しゃようか する中 なか 、ハリウッド に進出 しんしゅつ するも失敗 しっぱい し、その後 ご は日本 にっぽん 国内 こくない で製作 せいさく 資金 しきん を調達 ちょうたつ するのが難 むずか しくなったが、海外 かいがい 資本 しほん で『デルス・ウザーラ 』(1975年 ねん )、『影武者 かげむしゃ 』(1980年 ねん )、『乱 らん 』(1985年 ねん )、『夢 ゆめ 』(1990年 ねん )を作 つく り、国内外 こくないがい で多 おお くの映画 えいが 賞 しょう を受 う けた。1985年 ねん に映画 えいが 人 じん 初 はつ の文化 ぶんか 勲章 くんしょう を受章 じゅしょう し、1990年 ねん にはアカデミー名誉 めいよ 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。没後 ぼつご に、映画 えいが 監督 かんとく として初 はつ の国民 こくみん 栄誉 えいよ 賞 しょう が贈 おく られた。
誕生 たんじょう から監督 かんとく デビューまで[ 編集 へんしゅう ]
1910年 ねん 3月23日 にち 、東京 とうきょう 府 ふ 荏原 えばら 郡 ぐん の大井 おおい 町 まち (現 げん :東京 とうきょう 都 と 品川 しながわ 区 く 東大井 ひがしおおい 三 さん 丁目 ちょうめ )の父 ちち が勤 つと めていた荏原 えばら 中学校 ちゅうがっこう の職員 しょくいん 社宅 しゃたく に、父 ちち ・勇 いさむ と母 はは ・シマの4男 なん 4女 じょ の末 すえ っ子 こ として生 う まれた。兄 あに 姉 あね は茂代 しげよ 、昌康 まさやす 、忠康 ただやす (既 すで に夭折 ようせつ )、春代 はるよ 、種 たね 代 だい 、百代 ひゃくだい 、丙午 ひのえうま である。シマは大阪 おおさか の商家 しょうか の出身 しゅっしん だった。勇 いさむ は秋田 あきた 県 けん 仙北 せんぼく 郡 ぐん 豊川 とよかわ 村 むら (現 げん ・大仙 だいせん 市 し 豊川 とよかわ )の士族 しぞく の家 いえ の出身 しゅっしん [注釈 ちゅうしゃく 3] で、陸軍 りくぐん 戸山 とやま 学校 がっこう の教官 きょうかん を務 つと めたあと、1891年 ねん の日本 にっぽん 体育 たいいく 会 かい の創立 そうりつ とともに要職 ようしょく に就 つ き、日本 にっぽん 体育 たいいく 会 かい 体操 たいそう 学校 がっこう と併設 へいせつ の荏原 えばら 中学校 ちゅうがっこう に勤務 きんむ していた。勇 いさむ は厳格 げんかく な父親 ちちおや だったが、当時 とうじ は教育 きょういく 上 じょう 好 この ましくないと思 おも われていた映画 えいが に理解 りかい があり、進 すす んで家族 かぞく を連 つ れて映画 えいが 見物 けんぶつ に出 で かけた。黒澤 くろさわ は連続 れんぞく 活劇 かつげき やウィリアム・S・ハート 主演 しゅえん の西部 せいぶ 劇 げき をよく観 み ていたという。
1915年 ねん に南 みなみ 高輪 たかなわ 幼稚園 ようちえん に入園 にゅうえん し、翌 よく 1916年 ねん に南 みなみ 高輪 たかなわ 尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう に入学 にゅうがく した[10] 。しかし、1917年 ねん に勇 いさむ が日本 にっぽん 体育 たいいく 会 かい を退職 たいしょく したため、職員 しょくいん 社宅 しゃたく を退去 たいきょ して小石川 こいしかわ 区 く 西 にし 江戸川 えどがわ 町 まち (現 げん ・文京 ぶんきょう 区 く 水道 すいどう 一 いち 丁目 ちょうめ )に転居 てんきょ し、黒田 くろだ 尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう に転入 てんにゅう した[10] 。当時 とうじ の黒澤 くろさわ は知能 ちのう 的 てき に遅 おく れていて、泣 な き虫 むし のいじめられっ子 こ だったという。そんな黒澤 くろさわ の成長 せいちょう を助 たす けたのが担任 たんにん の立川 たちかわ 精 きよし 治 ち で、生徒 せいと の自由 じゆう な発想 はっそう を大事 だいじ にするという斬新 ざんしん な教育 きょういく 方法 ほうほう で黒澤 くろさわ の才能 さいのう を見出 みいだ した。立川 たちかわ は図画 ずが の時間 じかん で好 す きな絵 え を自由 じゆう に描 えが かせ、黒澤 くろさわ が描 えが いた絵 え が個性 こせい 的 てき すぎてみんなが笑 わら う中 なか 、立川 たちかわ はその絵 え をとても褒 ほ めた。それ以来 いらい 、黒澤 くろさわ は絵 え を描 えが くことが好 す きになり、同時 どうじ に学校 がっこう の成績 せいせき も伸 の び、やがて級長 きゅうちょう にもなった。小学校 しょうがっこう 5年 ねん の時 とき には剣道 けんどう を習 なら い始 はじ め、高野 たかの 佐 たすく 三郎 さぶろう の道場 どうじょう に通 かよ うも三日坊主 みっかぼうず で終 お わり、自信 じしん も失 しつ くして放棄 ほうき した[10] 。
立川 たちかわ とともに黒澤 くろさわ の成長 せいちょう を助 たす けたのが、級友 きゅうゆう の植草 うえくさ 圭 けい 之 これ 助 すけ と4つ上 うえ の兄 あに の丙午 ひのえうま である。植草 うえくさ は黒澤 くろさわ よりも泣 な き虫 むし で、自分 じぶん を客観 きゃっかん 的 てき に見 み つめさせる存在 そんざい だったという。丙午 ひのえうま は秀才 しゅうさい だが気性 きしょう が激 はげ しく、自滅 じめつ 的 てき な行動 こうどう や皮肉 ひにく めいたところが多 おお かったが、軟弱 なんじゃく な黒澤 くろさわ をしごき、黒澤 くろさわ の自立 じりつ 心 しん を目覚 めざ めさせた。関東大震災 かんとうだいしんさい とそれに伴 ともな う朝鮮 ちょうせん 人 じん 虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん の時 とき には、丙午 ひのえうま は黒澤 くろさわ を壊滅 かいめつ した街 まち に連 つ れて行 い き、無数 むすう の死骸 しがい の山 やま を見 み せつけて、恐 おそ ろしさを克服 こくふく することを教 おし えた。頑迷 がんめい な厭世 えんせい 観 かん を持 も つ丙午 ひのえうま は、黒澤 くろさわ にとって反面 はんめん 教師 きょうし 的 てき な存在 そんざい となり、人生 じんせい の否定 ひてい 的 てき な面 めん や歩 ある いてはならない面 めん を身 み をもって教 おし えてくれ、黒澤 くろさわ 作品 さくひん の強 つよ い人生 じんせい 肯定 こうてい を特徴 とくちょう とする作風 さくふう に影響 えいきょう を与 あた えた。また、自伝 じでん 『蝦蟇 がま の油 あぶら 』のなかで「関東大震災 かんとうだいしんさい は、私 わたし にとって、恐 おそ ろしい体験 たいけん であったが、また、貴重 きちょう な経験 けいけん でもあった。それは、私 わたし に、自然 しぜん の力 ちから と同時 どうじ に、異様 いよう な人間 にんげん の心 しん について教 おし えてくれた。」と述 の べ、当時 とうじ をこう振 ふ り返 かえ っている。
焼 や け出 だ された親類 しんるい を捜 さが しに上野 うえの へ行 い った時 とき 、父 ちち が、ただ長 なが い髭 ひげ を生 は やしているからというだけで、朝鮮 ちょうせん 人 じん だろうと棒 ぼう を持 も った人達 ひとたち に取 と り囲 かこ まれた。私 わたし はドキドキして一緒 いっしょ だった兄 あに を見 み た。兄 あに はニヤニヤしている。その時 とき 、「馬鹿者 ばかもの ッ!!」と、父 ちち が大喝一声 だいかついっせい した。そして、取 と り巻 ま いた連中 れんちゅう は、コソコソ散 ち っていった。 — 黒澤 くろさわ 明 あきら 、『蝦蟇 がま の油 あぶら 』
町内 ちょうない の、ある家 いえ の井戸水 いどみず を、飲 の んではいけない、と云 い うのである。何故 なぜ なら、その井戸 いど の外 そと の堀 ほり に、白墨 はくぼく で書 か いた変 へん な記号 きごう があるが、あれは朝鮮 ちょうせん 人 じん が井戸 いど へ毒 どく を入 い れたという目印 めじるし だと云 い うのである。私 わたし は惘 あき れかえった。何 なに をかくそう、その変 へん な記号 きごう というのは、私 わたし が書 か いた落書 らくが きだったからである。私 わたし は、こういう大人 おとな 達 たち を見 み て、人間 にんげん というものについて、首 くび をひねらないわけにはいかなかった。 — 黒澤 くろさわ 明 あきら 、『蝦蟇 がま の油 あぶら 』
1922年 ねん 、黒田 くろだ 小学校 しょうがっこう を首席 しゅせき で卒業 そつぎょう し、卒業 そつぎょう 式 しき では総代 そうだい として答辞 とうじ を読 よ んだ[10] 。黒澤 くろさわ は東京 とうきょう 府立 ふりつ 第 だい 四 よん 中学校 ちゅうがっこう を受験 じゅけん したが失敗 しっぱい し、京 きょう 華 はな 中学校 ちゅうがっこう に入学 にゅうがく した[16] 。中学 ちゅうがく 時代 じだい は勉学 べんがく よりも読書 どくしょ に打 う ち込 こ み、ドストエフスキー 、トルストイ 、ツルゲーネフ などのロシア文学 ぶんがく に熱中 ねっちゅう したほか、夏目 なつめ 漱石 そうせき 、樋口 ひぐち 一葉 かずは 、国木田独歩 くにきだどっぽ などの日本 にっぽん 文学 ぶんがく もたくさん読 よ み、黒澤 くろさわ の人間 にんげん 形成 けいせい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。黒澤 くろさわ は作文 さくぶん で才能 さいのう を示 しめ すようになり、1924年 ねん に自然 しぜん を描写 びょうしゃ した作文 さくぶん 『蓮華 れんげ の舞踏 ぶとう 』が学友 がくゆう 会誌 かいし に掲載 けいさい されると、国語 こくご 教育 きょういく では名 な の知 し れた小原 おはら 要 よう 逸 いっ 先生 せんせい から「京 きょう 華 はな 中学 ちゅうがく 創立 そうりつ 以来 いらい の名文 めいぶん 」と褒 ほ められた[16] 。1926年 ねん にも同誌 どうし に作文 さくぶん 『或 ある る手紙 てがみ 』が掲載 けいさい された[18] 。中学 ちゅうがく 時代 じだい は神楽坂 かぐらざか にある洋画 ようが 専門 せんもん 館 かん の牛込 うしごめ 館 かん に通 かよ ってたくさんの外国 がいこく 映画 えいが を見 み ていたが、その中 なか でもアベル・ガンス 監督 かんとく の『鉄路 てつろ の白 しろ 薔薇 ばら (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 』(1923年 ねん )は黒澤 くろさわ が映画 えいが 監督 かんとく を志 こころざ すのに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた[20] 。
黒澤 くろさわ は中学 ちゅうがく 在学 ざいがく 中 ちゅう に画家 がか を志 こころざ し、小林 こばやし 萬 まん 吾 われ 主宰 しゅさい の同舟 どうしゅう 舎 しゃ 洋画 ようが 研究所 けんきゅうじょ に通 とお った[16] 。1927年 ねん に京 きょう 華 はな 中学校 ちゅうがっこう を卒業 そつぎょう し[10] 、東京 とうきょう 美術 びじゅつ 学校 がっこう の受験 じゅけん に失敗 しっぱい すると川端 かわばた 画 が 学校 がっこう に通 かよ い、1928年 ねん に油絵 あぶらえ 『静物 せいぶつ 』が第 だい 15回 かい 二科展 にかてん に入選 にゅうせん した[16] 。1929年 ねん には造形 ぞうけい 美術 びじゅつ 研究所 けんきゅうじょ (のちのプロレタリア美術 びじゅつ 研究所 けんきゅうじょ )に通 かよ い、日本 にっぽん プロレタリア美術家 びじゅつか 同盟 どうめい に参加 さんか し、洋画 ようが 家 か の岡本 おかもと 唐 から 貴 たか (白土 しらつち 三平 さんぺい の実父 じっぷ )に絵 え を学 まな んだ[10] [16] 。同年 どうねん 12月 がつ の第 だい 2回 かい プロレタリア美術 びじゅつ 大 だい 展覧 てんらん 会 かい では5つの政治 せいじ 色 しょく の強 つよ い作品 さくひん を出品 しゅっぴん し[注釈 ちゅうしゃく 4] 、1930年 ねん の第 だい 3回 かい プロレタリア美術 びじゅつ 大 だい 展覧 てんらん 会 かい では『反 はん ×ポスター』を出品 しゅっぴん して官憲 かんけん に撤回 てっかい された[16] 。そのうち政治 せいじ 的 てき 主張 しゅちょう を未 み 消化 しょうか のまま絵 え にすることに疑問 ぎもん を感 かん じ、絵 え を描 えが く熱意 ねつい を失 うしな っていった。同年 どうねん に徴兵 ちょうへい 検査 けんさ を受 う け、父 ちち の教 おし え子 ご である徴兵 ちょうへい 司令 しれい 官 かん の好意 こうい で兵役 へいえき 免除 めんじょ となり[10] 、終戦 しゅうせん まで徴兵 ちょうへい されることはなかった。
やがて非合法 ひごうほう 活動 かつどう に身 み を投 とう じ、日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 系 けい の無産 むさん 者 しゃ 新聞 しんぶん の下部 かぶ 組織 そしき で街頭 がいとう 連絡 れんらく 員 いん をした。黒澤 くろさわ が非合法 ひごうほう 活動 かつどう に参加 さんか したのは「日本 にっぽん の社会 しゃかい に漫然 まんぜん たる不満 ふまん と嫌悪 けんお を感 かん じ、ただそれに反抗 はんこう する」ためで、自 みずか ら共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 もの を名乗 なの ったこともなければ、マルクス主義 まるくすしゅぎ を深 ふか く学 まな んで実践 じっせん する政治 せいじ 的 てき 人間 にんげん になる気 き もなかった。やがて弾圧 だんあつ が激 はげ しくなり、運動 うんどう 費 ひ も届 とど かない窮乏 きゅうぼう 生活 せいかつ の中 なか で高熱 こうねつ を出 だ して倒 たお れ、仲間 なかま との連絡 れんらく が途絶 とだ えたのを機 き に、1932年 ねん 春 はる までに非合法 ひごうほう 活動 かつどう から身 み を引 ひ いた[10] 。その後 ご は丙午 ひのえうま が住 す む神楽坂 かぐらざか の長屋 ながや に居候 いそうろう し、映画 えいが や寄席 よせ に熱中 ねっちゅう した。丙午 ひのえうま は須田 すだ 貞明 さだあき の名 な で活動 かつどう 弁士 べんし となり、若手 わかて 新進 しんしん の洋画 ようが 説明 せつめい 者 しゃ として人気 にんき を集 あつ めていたが、トーキー の普及 ふきゅう で弁士 べんし の廃業 はいぎょう が相次 あいつ ぎ、弁士 べんし のストライキで争議 そうぎ 委員 いいん 長 ちょう として闘 たたか うも敗北 はいぼく し、1933年 ねん 7月 がつ に伊豆 いず 湯 ゆ ヶ島 とう 温泉 おんせん の旅館 りょかん で愛人 あいじん と服毒 ふくどく 自殺 じさつ を遂 と げた[16] [注釈 ちゅうしゃく 5] 。その4ヶ月 かげつ 後 ご には長兄 ちょうけい の昌康 まさやす も病死 びょうし し、残 のこ された男子 だんし である黒澤 くろさわ が跡取 あとと りとなった[16] 。1934年 ねん に一家 いっか は恵比寿 えびす に転居 てんきょ し[18] 、黒澤 くろさわ は雑誌 ざっし の挿絵 さしえ を描 えが くアルバイトなどをして生計 せいけい を立 た てた。
助監督 じょかんとく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
助監督 じょかんとく 時代 じだい の黒澤 くろさわ (左端 ひだりはし )。その隣 となり から順 じゅん に本多 ほんだ 猪 いの 四郎 しろう 、谷口 たにぐち 千 せん 吉 きち 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう (1930年代 ねんだい )。
1936年 ねん 、どこかで就職 しゅうしょく しなければならないと思 おも っていた黒澤 くろさわ は、たまたま新聞 しんぶん 記事 きじ で見 み たP.C.L.映画 えいが 製作所 せいさくしょ (翌年 よくねん に東宝 とうほう に合併 がっぺい )の助監督 じょかんとく 募集 ぼしゅう に応募 おうぼ した。最初 さいしょ の試験 しけん は「日本 にっぽん 映画 えいが の根本 こんぽん 的 てき 欠陥 けっかん を例示 れいじ し具体 ぐたい 的 てき にその矯正 きょうせい 方法 ほうほう を述 の べよ」という小論文 しょうろんぶん で、黒澤 くろさわ は「根本 こんぽん 的 てき 欠陥 けっかん は矯正 きょうせい しようがない」と回答 かいとう し、それで試験 しけん を通過 つうか して最終 さいしゅう 面接 めんせつ まで残 のこ った。同社 どうしゃ は原則 げんそく として大学卒 だいがくそつ を採用 さいよう するつもりだったが、黒澤 くろさわ の絵 え や文学 ぶんがく に対 たい する理解 りかい と才気 さいき に注目 ちゅうもく した山本 やまもと 嘉次郎 かじろう の推薦 すいせん により、学歴 がくれき は旧制 きゅうせい 中学 ちゅうがく だけながら例外 れいがい として合格 ごうかく となり、同年 どうねん 4月 がつ に入社 にゅうしゃ した。助監督 じょかんとく 入社 にゅうしゃ の同期 どうき には関川 せきかわ 秀雄 ひでお と丸山 まるやま 誠治 せいじ がいた。最初 さいしょ の仕事 しごと は矢倉 やくら 茂雄 しげお 監督 かんとく の『処女 しょじょ 花園 はなぞの 』のサード助監督 じょかんとく だったが、この作品 さくひん 1本 ほん で仕事 しごと が嫌 いや になり、退社 たいしゃ を考 かんが えるも同僚 どうりょう の説得 せっとく で思 おも いとどまった。
その次 つぎ に参加 さんか した『エノケンの千 せん 万 まん 長者 ちょうじゃ 』(1936年 ねん )から山本 やまもと のサード助監督 じょかんとく を務 つと めた[10] 。山本 やまもと 組 ぐみ での仕事 しごと は楽 たの しく充実 じゅうじつ したものであり、黒澤 くろさわ は映画 えいが 監督 かんとく こそが自分 じぶん のやりたい仕事 しごと だと決心 けっしん した。山本 やまもと 組 ぐみ の助監督 じょかんとく 仲間 なかま には谷口 たにぐち 千 せん 吉 きち と本多 ほんだ 猪 いの 四郎 しろう がおり、黒澤 くろさわ は2人 ふたり の家 いえ に居候 いそうろう することもあった。1937年 ねん に山本 やまもと 組 ぐみ の製作 せいさく 主任 しゅにん をしていた谷口 たにぐち が本社 ほんしゃ 異動 いどう になり、黒澤 くろさわ が新 あら たに山本 やまもと 組 ぐみ の製作 せいさく 主任 しゅにん についた[注釈 ちゅうしゃく 6] 。助監督 じょかんとく 育成 いくせい に力 ちから を入 い れる山本 やまもと の下 もと で、黒澤 くろさわ は脚本 きゃくほん 執筆 しっぴつ からフィルム編集 へんしゅう 、エキストラ 、ロケーション の会計 かいけい までも担当 たんとう し、映画 えいが 作 づく りで大切 たいせつ なことを学 まな んだ。面倒 めんどう 見 み のよい山本 やまもと は自分 じぶん の作品 さくひん を犠牲 ぎせい にして、黒澤 くろさわ たちB班 はん が撮影 さつえい したフィルムを採用 さいよう し、上映 じょうえい された完成 かんせい 作品 さくひん を見 み ながらアドバイスをした[30] 。黒澤 くろさわ はそんな山本 やまもと を「最良 さいりょう の師 し 」と仰 あお いだ。
山本 やまもと 監督 かんとく の『馬 うま 』(1941年 ねん )ではB班 はん 監督 かんとく と編集 へんしゅう を務 つと めた。黒澤 くろさわ は他 た の仕事 しごと で忙 いそが しい山本 やまもと から演出 えんしゅつ のほとんどを任 まか され、監督 かんとく 昇進 しょうしん への踏 ふ み台 だい とした。この『馬 うま 』の東北 とうほく 地方 ちほう でのロケーション撮影 さつえい を通 とお して、黒澤 くろさわ は主演 しゅえん の高峰 たかみね 秀子 ひでこ との間 あいだ に恋 こい が芽生 めば えた。しかし、『馬 うま 』が公開 こうかい されたあとに2人 ふたり の結婚 けっこん 話 ばなし が新聞 しんぶん 沙汰 ざた になると、会社 かいしゃ 側 がわ は将来 しょうらい を嘱望 しょくぼう された助監督 じょかんとく とスターになりかけていた女優 じょゆう の恋 こい を放 はな ってはおけず、高峰 こうほう の養母 ようぼ が強 つよ く反対 はんたい していたこともあり、山本 やまもと が破断 はだん 役 やく となり、恋 こい は不実 ふじつ に終 お わった[33] 。
黒澤 くろさわ は助監督 じょかんとく 生活 せいかつ を送 おく りながら、山本 やまもと の「監督 かんとく になるにはシナリオを書 か け」という助言 じょげん に従 したが い脚本 きゃくほん を執筆 しっぴつ した。初 はじ めてその才能 さいのう が認 みと められたのが『達磨寺 だるまじ のドイツ人 じん 』(1941年 ねん )で、山本 やまもと の推挙 すいきょ で映画 えいが 雑誌 ざっし に掲載 けいさい されることになったが、記者 きしゃ が受 う け取 と った原稿 げんこう をなくし、黒澤 くろさわ は3日 にち ほど徹夜 てつや してもう一度 いちど 書 か き直 なお した[34] 。この作品 さくひん はドイツ人 じん 建築 けんちく 家 か ブルーノ・タウト の評伝 ひょうでん を元 もと にして、タウトと寄寓 きぐう 先 さき の村 むら の人 ひと たちとの交流 こうりゅう を描 えが き、伊丹 いたみ 万作 まんさく に「特 とく に視覚 しかく 的 てき に鮮明 せんめい の印象 いんしょう を与 あた えることを注目 ちゅうもく すべきである」と評価 ひょうか された。『馬 うま 』以降 いこう は実質 じっしつ 的 てき に助監督 じょかんとく の仕事 しごと はしなくなり、脚本 きゃくほん 執筆 しっぴつ に集中 しゅうちゅう した[18] 。1942年 ねん に執筆 しっぴつ した『静 しず かなり』は情報 じょうほう 局 きょく 国民 こくみん 映画 えいが 脚本 きゃくほん 募集 ぼしゅう で情報 じょうほう 局 きょく 賞 しょう を受賞 じゅしょう し、『雪 ゆき 』は日本 にっぽん 映画 えいが 雑誌 ざっし 協会 きょうかい の国策 こくさく 映画 えいが 脚本 きゃくほん 募集 ぼしゅう で1位 い に入賞 にゅうしょう した。
1942年 ねん 、黒澤 くろさわ は監督 かんとく 処女 しょじょ 作 さく に『達磨寺 だるまじ のドイツ人 じん 』を企画 きかく するが、戦時 せんじ 中 ちゅう のフィルム配給 はいきゅう 制限 せいげん により実現 じつげん しなかった。続 つづ けて『森 もり の千 せん 一 いち 夜 や 』『美 うつく しき暦 こよみ 』『サンパギタの花 はな 』『第 だい 三 さん 波止場 はとば 』などを企画 きかく するが、これらもフィルム配給 はいきゅう 制限 せいげん に加 くわ え、内務省 ないむしょう の事前 じぜん 検閲 けんえつ で却下 きゃっか された[16] [18] 。『サンパギタの花 はな 』では、誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ うシーンが検閲 けんえつ 官 かん から米 べい 英 えい 的 てき だと批判 ひはん され、黒澤 くろさわ は「天皇 てんのう の誕生 たんじょう 日 び を祝 いわ う天長節 てんちょうせつ もいけないのか」と反論 はんろん するも却下 きゃっか された。次 つぎ に山中 やまなか 峯太郎 みねたろう 原作 げんさく の『敵 てき 中 ちゅう 横断 おうだん 三 さん 百 ひゃく 里 さと 』を企画 きかく するが、今度 こんど は会社 かいしゃ が新人 しんじん 監督 かんとく にはスケールが大 おお きすぎるとして見送 みおく った。なかなか処女 しょじょ 作 さく が実現 じつげん しない黒澤 くろさわ は、生活 せいかつ のために脚本 きゃくほん を書 か き続 つづ けた。その中 なか には伏 ふく 水 すい 修 おさむ 監督 かんとく の『青春 せいしゅん の気流 きりゅう 』(1942年 ねん )、山本 やまもと 薩夫監督 かんとく の『翼 つばさ の凱歌 がいか 』(1942年 ねん )などの戦意 せんい 高揚 こうよう 映画 えいが もあり、黒澤 くろさわ は「意欲 いよく を傾 かたむ けられるような仕事 しごと ではなかった」と述 の べている。
『一番 いちばん 美 うつく しく 』(1944年 ねん )に主演 しゅえん した矢口 やぐち 陽子 ようこ 。
黒澤 くろさわ の監督 かんとく 処女 しょじょ 作 さく は『姿 すがた 三四郎 さんしろう 』(1943年 ねん )となった。1942年 ねん 9月 がつ 、黒澤 くろさわ は富田 とみた 常雄 つねお の同名 どうめい 小説 しょうせつ の新刊 しんかん 書 しょ 広告 こうこく を見 み かけると、広 こう 告文 こくぶん だけで映画 えいが 化 か を思 おも い立 た ち、発売 はつばい されるとすぐに買 か い求 もと めて一気 いっき に読 よ み、プロデューサーの森田 もりた 信義 のぶよし を説得 せっとく して映画 えいが 化 か 権 けん を獲得 かくとく させた。『姿 すがた 三 さん 四 よん 郎 ろう 』は当時 とうじ の日本 にっぽん 映画 えいが の中 なか で新鮮味 しんせんみ と面白 おもしろ さとを合 あ わせ持 も った映画 えいが 的 てき な作品 さくひん として注目 ちゅうもく され、その視覚 しかく 性 せい やアクション描写 びょうしゃ 、卓越 たくえつ した演出 えんしゅつ 技術 ぎじゅつ などが高 たか く評価 ひょうか された[41] 。1943年 ねん 3月 がつ に国民 こくみん 映画 えいが 賞 しょう 奨励 しょうれい 賞 しょう を受賞 じゅしょう し、12月には優 すぐ れた新人 しんじん 監督 かんとく に贈 おく られる山中 やまなか 貞雄 さだお 賞 しょう を木下 きのした 惠 めぐみ 介 かい とともに受賞 じゅしょう するなど[10] 、黒澤 くろさわ は新人 しんじん 監督 かんとく として周囲 しゅうい の期待 きたい を集 あつ め、東宝 とうほう 重役 じゅうやく の森 もり 岩雄 いわお は「黒澤 くろさわ さんの監督 かんとく としての地位 ちい は、この処女 しょじょ 作 さく 一本 いっぽん で確立 かくりつ したといってもいいであろう」と述 の べている。
監督 かんとく 第 だい 2作 さく の『一番 いちばん 美 うつく しく 』(1944年 ねん )の完成 かんせい 後 ご 、黒澤 くろさわ は森田 もりた の勧 すす めで主演 しゅえん の矢口 やぐち 陽子 ようこ (本名 ほんみょう は喜代 きよ )と結婚 けっこん し、1945年 ねん 3月 がつ 頃 ごろ に山本 やまもと 夫妻 ふさい の媒酌 ばいしゃく で明治 めいじ 神宮 じんぐう で結婚式 けっこんしき を挙 あ げた。この頃 ころ の東京 とうきょう は空襲 くうしゅう を受 う けており、同居 どうきょ していた両親 りょうしん たちはすでに秋田 あきた に疎開 そかい していた。黒澤 くろさわ が住 す んでいた恵比寿 えびす も空襲 くうしゅう で危 あぶ ないということで、同 おな じく家族 かぞく が疎開 そかい していた堀川 ほりかわ 弘通 ひろみち の祖師 そし ヶ谷 だに にある実家 じっか に転居 てんきょ した。その翌日 よくじつ に恵比寿 えびす の家 いえ は空襲 くうしゅう で焼失 しょうしつ した。それから数 すう 年間 ねんかん は堀川 ほりかわ 家 か で生活 せいかつ し、堀川 ほりかわ は家主 やぬし であるのに黒澤 くろさわ 家 か に居候 いそうろう しているような気分 きぶん になったという。同年 どうねん に黒澤 くろさわ は処女 しょじょ 作 さく の続編 ぞくへん 『續 ぞく 姿 すがた 三四郎 さんしろう 』を完成 かんせい させ、次 つぎ に桶 おけ 狭間 はざま の戦 たたか い を描 えが く『どっこい!この槍 やり 』の製作 せいさく に着手 ちゃくしゅ したが、馬 うま が調達 ちょうたつ できなくて中止 ちゅうし し、急遽 きゅうきょ 能 のう の「安宅 あたか 」と歌舞伎 かぶき の「勧進 かんじん 帳 ちょう 」を元 もと にした『虎 とら の尾 お を踏 ふ む男 おとこ たち 』を監督 かんとく した[16] 。この作品 さくひん は終戦 しゅうせん を挟 はさ んで撮影 さつえい され、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご にGHQ の検閲 けんえつ で封建 ほうけん 制 せい 助長 じょちょう により非合法 ひごうほう 作品 さくひん となり、1952年 ねん まで上映 じょうえい 禁止 きんし にされた。
終戦 しゅうせん 後 ご から『赤 あか ひげ』まで[ 編集 へんしゅう ]
終戦 しゅうせん 後 ご の5年間 ねんかん [ 編集 へんしゅう ]
終戦 しゅうせん 後 ご の最初 さいしょ の仕事 しごと は、川口 かわぐち 松太郎 まつたろう の依頼 いらい で執筆 しっぴつ した戯曲 ぎきょく 『喋 しゃべ る』で、1945年 ねん 12月に有 ゆう 楽座 らくざ で新生 しんせい 新派 しんぱ により上演 じょうえん された[16] 。戦後 せんご の初 はつ 監督 かんとく 作 さく は『わが青春 せいしゅん に悔なし 』(1946年 ねん )であるが[注釈 ちゅうしゃく 7] 、当時 とうじ の会社 かいしゃ は東宝 とうほう 争議 そうぎ で組合 くみあい が映画 えいが 製作 せいさく に強 つよ い権限 けんげん を持 も つようになり、この作品 さくひん も組合 くみあい 主導 しゅどう の企画 きかく 審議 しんぎ 会 かい から楠田 くすだ 清 きよし 監督 かんとく の『命 いのち ある限 かぎ り』と内容 ないよう が類似 るいじ していると言 い われ、改稿 かいこう を余儀 よぎ なくされた[16] 。1946年 ねん 10月には第 だい 2次 じ 東宝 とうほう 争議 そうぎ が発生 はっせい し、ストに反対 はんたい した所属 しょぞく スターが「十 じゅう 人 にん の旗 はた の会 かい 」を率 ひき いて退社 たいしゃ し、新 しん 東宝 とうほう の設立 せつりつ に参加 さんか した。スター主義 しゅぎ の新 しん 東宝 とうほう に対抗 たいこう するため、黒澤 くろさわ など東宝 とうほう のスタッフたちは伊豆 いず の旅館 りょかん に集 あつ まり、組合 くみあい 中心 ちゅうしん で5本 ほん の監督 かんとく 主義 しゅぎ 作品 さくひん を企画 きかく した。そのうち黒澤 くろさわ は『素晴 すば らしき日曜日 にちようび 』(1947年 ねん )を監督 かんとく し、谷口 たにぐち 監督 かんとく の『銀嶺 ぎんれい の果 は て 』とオムニバス映画 えいが 『四 よっ つの恋 こい の物語 ものがたり 』(どちらも1947年 ねん )第 だい 1話 わ 「初恋 はつこい 」の脚本 きゃくほん を執筆 しっぴつ した。
『醉 よ いどれ天使 てんし 』(1948年 ねん )のポスター。
1948年 ねん 公開 こうかい の『醉 よ いどれ天使 てんし 』は、山本 やまもと 監督 かんとく の『新 しん 馬鹿 ばか 時代 じだい 』(1947年 ねん )で使 つか われた闇市 やみいち の大 だい 規模 きぼ なオープンセットを活用 かつよう するための企画 きかく として作 つく られた[16] 。この作品 さくひん では『銀嶺 ぎんれい の果 は て』でデビューしたばかりの三船 みふね 敏郎 としお と初 はじ めてコンビを組 く み、主人公 しゅじんこう の結核 けっかく を患 わずら う若 わか いヤクザ 役 やく に起用 きよう した。また、『姿 すがた 三 さん 四 よん 郎 ろう 』から黒澤 くろさわ 作品 さくひん に出演 しゅつえん していた志村 しむら 喬 たかし をアル中 あるちゅう 医師 いし 役 やく で初 はじ めて主役 しゅやく に抜擢 ばってき し、以後 いご は黒澤 くろさわ 作品 さくひん の主役 しゅやく を三 さん 船 せん と志村 しむら とで分 わ け合 あ う時期 じき が続 つづ いた。作曲 さっきょく 家 か の早坂 はやさか 文雄 ふみお とも初 はじ めてコンビを組 く んでおり、1955年 ねん に早坂 はやさか が亡 な くなるまで二 に 人 にん は私生活 しせいかつ でも親友 しんゆう 関係 かんけい となった。『醉 よ いどれ天使 てんし 』は黒澤 くろさわ 作品 さくひん で初 はじ めての傑作 けっさく と目 め され、キネマ旬報 きねまじゅんぽう ベスト・テン で1位 い に選 えら ばれ、毎日 まいにち 映画 えいが コンクール で日本 にっぽん 映画 えいが 大賞 たいしょう を受賞 じゅしょう した。
同年 どうねん 3月 がつ 、東宝 とうほう 争議 そうぎ で映画 えいが 製作 せいさく が十分 じゅうぶん にできなくなったことから、山本 やまもと 、谷口 たにぐち 、成瀬 なるせ 巳喜男 みきお 、プロデューサーの本木 もとぎ 荘 そう 二郎 じろう と同人 どうじん 組織 そしき 「映画 えいが 芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい 」を設立 せつりつ した[16] 。その翌月 よくげつ に第 だい 3次 じ 東宝 とうほう 争議 そうぎ が開始 かいし すると、黒澤 くろさわ は製作 せいさく 現場 げんば を守 まも るため組合 くみあい 側 がわ に加 くわ わり、同 どう 協会 きょうかい は争議 そうぎ 終結 しゅうけつ まで開店 かいてん 休業 きゅうぎょう 状態 じょうたい となった。黒澤 くろさわ は組合 くみあい の立場 たちば を代弁 だいべん する「東宝 とうほう の紛争 ふんそう 演出 えんしゅつ 家 か の立場 たちば から」という文章 ぶんしょう を発表 はっぴょう し[16] 、8月 がつ に東宝 とうほう の監督 かんとく やプロデューサーによる芸術 げいじゅつ 家 か グループが会社 かいしゃ 側 がわ を批判 ひはん する声明 せいめい 文 ぶん に署名 しょめい した[10] 。さらに給料 きゅうりょう 支払 しはら いを止 と められた組合 くみあい 員 いん の資金 しきん カンパ のため、『醉 よ いどれ天使 てんし 』を劇化 げきか して全国 ぜんこく 各地 かくち を巡業 じゅんぎょう し、チェーホフ の戯曲 ぎきょく 『結婚 けっこん の申込 もうしこ み』も演出 えんしゅつ した[16] 。10月19日 にち に第 だい 3次 じ 東宝 とうほう 争議 そうぎ は終結 しゅうけつ した[10] 。
争議 そうぎ 終結 しゅうけつ 後 ご は東宝 とうほう を離 はな れ、映画 えいが 芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい を足場 あしば にして他社 たしゃ で映画 えいが 製作 せいさく をすることになった。最初 さいしょ の他社 たしゃ 作品 さくひん は、助監督 じょかんとく 時代 じだい から脚本 きゃくほん を執筆 しっぴつ した縁故 えんこ がある大映 だいえい での『静 しず かなる決闘 けっとう 』(1949年 ねん )で、菊田 きくた 一夫 かずお の戯曲 ぎきょく 『堕胎 だたい 医 い 』を原作 げんさく にしている[16] 。その次 つぎ に新 しん 東宝 とうほう と映画 えいが 芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい が共同 きょうどう 製作 せいさく した『野良犬 のらいぬ 』(1949年 ねん )は、黒澤 くろさわ が好 す きだったジョルジュ・シムノン の犯罪 はんざい 小説 しょうせつ を意識 いしき した作品 さくひん で、ピストルを盗 ぬす まれた新人 しんじん 刑事 けいじ が老練 ろうれん 刑事 けいじ とともに犯人 はんにん を追 お うという内容 ないよう だが、これは実際 じっさい の刑事 けいじ の話 はなし を元 もと にしている。この作品 さくひん は日本 にっぽん で刑事 けいじ 映画 えいが のジャンルを決定 けってい づける古典 こてん となり、芸術 げいじゅつ 祭 さい 文部 もんぶ 大臣 だいじん 賞 しょう を受賞 じゅしょう するなど好評 こうひょう を受 う けた[16] 。
国際 こくさい 的 てき 名声 めいせい の獲得 かくとく [ 編集 へんしゅう ]
1953年 ねん
左 ひだり から志村 しむら 喬 たかし 、黒澤 くろさわ 、三船 みふね 敏郎 としお (1953年 ねん )
1950年 ねん 、黒澤 くろさわ は松竹 しょうちく で『醜聞 しゅうぶん 』を監督 かんとく 後 ご 、大映 だいえい から再 ふたた び映画 えいが 製作 せいさく を依頼 いらい されて『羅生門 らしょうもん 』を監督 かんとく した。この作品 さくひん は橋本 はしもと 忍 しのぶ が芥川 あくたがわ 龍之介 りゅうのすけ の短編 たんぺん 小説 しょうせつ 『藪 やぶ の中 なか 』を脚色 きゃくしょく したシナリオを元 もと にしており、武士 ぶし の殺害 さつがい 事件 じけん をめぐり関係 かんけい 者 しゃ の証言 しょうげん が全部 ぜんぶ 食 く い違 ちが い、その真相 しんそう が杳として分 わ からないという内容 ないよう だった。しかし、その内容 ないよう だけでは長編 ちょうへん 映画 えいが として短 みじか すぎるため、黒澤 くろさわ が同 おな じ芥川 あくたがわ の短編 たんぺん 小説 しょうせつ 『羅生門 らしょうもん 』のエピソードなどを付 つ け足 た して脚本 きゃくほん を完成 かんせい させた。作品 さくひん はその年度 ねんど の大映 だいえい 作品 さくひん で4位 い の興行 こうぎょう 成績 せいせき を収 おさ めたが、批評 ひひょう 家 か の評価 ひょうか はあまり芳 かんば しいものではなかった[16] [53] 。しかし、1951年 ねん 9月にヴェネツィア国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい で金 きむ 獅子 しし 賞 しょう を受賞 じゅしょう し、さらに第 だい 24回 かい アカデミー賞 しょう で名誉 めいよ 賞 しょう を受賞 じゅしょう するなど、海外 かいがい で相次 あいつ ぐ賞賛 しょうさん を受 う けた。黒澤 くろさわ は映画 えいが 祭 さい に出品 しゅっぴん されたことすら知 し らず、釣 つ りの帰 かえ りに妻 つま から連絡 れんらく を受 う けたという。『羅生門 らしょうもん 』は欧米 おうべい が日本 にっぽん 映画 えいが に注目 ちゅうもく するきっかけとなり、日本 にっぽん 映画 えいが が海外 かいがい 進出 しんしゅつ する契機 けいき にもなった。また、複数 ふくすう の登場 とうじょう 人物 じんぶつ の視点 してん から1つの物語 ものがたり を描 えが く話法 わほう は、同 どう 作 さく で映画 えいが の物語 ものがたり 手法 しゅほう の一 ひと つとなり、多 おお くの作品 さくひん で繰 く り返 かえ し使 つか われることになった[16] 。
その次 つぎ に松竹 しょうちく で監督 かんとく した『白痴 はくち 』(1951年 ねん )は、黒澤 くろさわ が学生 がくせい 時代 じだい から傾倒 けいとう するフョードル・ドストエフスキー の同名 どうめい 小説 しょうせつ が原作 げんさく で、黒澤 くろさわ にとって長年 ながねん の夢 ゆめ となる映画 えいが 化 か だったが、4時 じ 間 あいだ 25分 ふん に及 およ ぶ完成 かんせい 作品 さくひん は会社 かいしゃ 側 がわ の意向 いこう で大幅 おおはば 短縮 たんしゅく され、激怒 げきど した黒澤 くろさわ は山本 やまもと 宛 あ ての手紙 てがみ に「こんな切 き り方 かた をする位 い だったら、フィルムを縦 たて に切 き ってくれたらいい」と訴 うった えた。日本 にっぽん の批評 ひひょう 家 か には悉 ことごと く酷評 こくひょう されたが、ドストエフスキーの本場 ほんば のソ連 それん では高 たか く評価 ひょうか された[53] 。これが最後 さいご の映画 えいが 芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい での他社 たしゃ 作品 さくひん となり、1951年 ねん に東宝 とうほう は争議 そうぎ で疲弊 ひへい していた製作 せいさく 部門 ぶもん を再建 さいけん するため、黒澤 くろさわ など映画 えいが 芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい の監督 かんとく と専属 せんぞく 契約 けいやく を結 むす んだ[57] 。東宝 とうほう 復帰 ふっき 第 だい 1作 さく である『生 い きる 』(1952年 ねん )はキネマ旬報 きねまじゅんぽう ベスト・テンの1位 い に選 えら ばれるなど高 たか い評価 ひょうか を受 う け、第 だい 4回 かい ベルリン国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい ではベルリン市 し 政府 せいふ 特別 とくべつ 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。
黒澤 くろさわ は次 つぎ に本物 ほんもの の時代 じだい 劇 げき を作 つく ろうと意気込 いきご み、橋本 はしもと と『侍 さむらい の一 いち 日 にち 』を構想 こうそう するが資料 しりょう 不足 ふそく で断念 だんねん し、盗賊 とうぞく から村 むら を守 まも るために百姓 ひゃくしょう が侍 さむらい を雇 やと うという話 はなし を元 もと にして『七人 しちにん の侍 さむらい 』(1954年 ねん )の脚本 きゃくほん を執筆 しっぴつ した[57] 。撮影 さつえい は1953年 ねん 5月に開始 かいし したが、製作 せいさく 費 ひ と撮影 さつえい 日数 にっすう は予定 よてい より大幅 おおはば 超過 ちょうか し、最終 さいしゅう 的 てき に撮影 さつえい 日数 にっすう は約 やく 11ヶ月 かげつ に及 およ び、通常 つうじょう 作品 さくひん の5倍 ばい 以上 いじょう にあたる予算 よさん を計上 けいじょう した。作品 さくひん は興行 こうぎょう 的 てき に大 だい 成功 せいこう したが、公開 こうかい 当時 とうじ の国内 こくない では必 かなら ずしも高 こう 評価 ひょうか を受 う けることはなかった。ヴェネツィア国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい に出品 しゅっぴん されると銀 ぎん 獅子 しし 賞 しょう を受賞 じゅしょう し[60] 、その後 ご は日本 にっぽん 国内 こくない でも国外 こくがい でも映画 えいが 史 し 上 うえ の名作 めいさく として高 たか く評価 ひょうか されるようになり[57] 、2018年 ねん にイギリス のBBC が発表 はっぴょう した「史上 しじょう 最高 さいこう の外国 がいこく 語 ご 映画 えいが ベスト100」で1位 い に選 えら ばれた[61] 。
1955年 ねん 2月 がつ 、黒澤 くろさわ はカンヌ国際映画祭 かんぬこくさいえいがさい の審査 しんさ 員 いん に要請 ようせい されるも辞退 じたい した[10] 。『生 い きものの記録 きろく 』(1955年 ねん )の完成 かんせい 後 ご 、黒澤 くろさわ は東宝 とうほう と3本 ほん の契約 けいやく を残 のこ していたが、それらを「時代 じだい 劇 げき 三 さん 部 ぶ 作 さく 」として企画 きかく し、自 みずか らのプロデュースで若手 わかて 監督 かんとく に作 つく らせようとした[注釈 ちゅうしゃく 8] [57] [63] 。1本 ほん 目 め の『蜘蛛 くも 巣 す 城 じょう 』(1957年 ねん )はシェイクスピア の『マクベス 』の翻案 ほんあん だが、大作 たいさく 映画 えいが になるため黒澤 くろさわ が監督 かんとく することになった[57] 。結局 けっきょく 、残 のこ る2本 ほん も黒澤 くろさわ が監督 かんとく することで話 はなし が進 すす み[63] 、2本 ほん 目 め にゴーリキー 原作 げんさく の『どん底 ぞこ 』(1957年 ねん )を監督 かんとく した。この間 あいだ に海外 かいがい 合作 がっさく のオムニバス映画 えいが 『嫉妬 しっと 』に参加 さんか する話 はなし があり、能 のう の「鉄輪 てつりん 」を題材 だいざい にしたエピソードを企画 きかく するも製作 せいさく 中止 ちゅうし となった[注釈 ちゅうしゃく 9] [18] [34] 。
1957年 ねん 10月、黒澤 くろさわ はロンドン のナショナル・フィルム・シアター (英語 えいご 版 ばん ) の開館 かいかん 式 しき に招待 しょうたい され、初 はじ めての海外 かいがい 渡航 とこう を行 おこな った。10月15日 にち の開館 かいかん 式 しき では、映画 えいが 芸術 げいじゅつ に貢献 こうけん した映画 えいが 人 じん としてジョン・フォード 、ルネ・クレール 、ヴィットリオ・デ・シーカ 、ローレンス・オリヴィエ とともに表彰 ひょうしょう された。その翌日 よくじつ には第 だい 1回 かい ロンドン映画 えいが 祭 さい の開会 かいかい 式 しき に出席 しゅっせき し、『蜘蛛 くも 巣 す 城 じょう 』がオープニング上映 じょうえい された。黒澤 くろさわ はフォードを尊敬 そんけい し、彼 かれ の作品 さくひん から影響 えいきょう を受 う けたことを公言 こうげん していたが[30] [65] 、ロンドン滞在 たいざい 中 ちゅう にフォードと初 はじ めて会 あ い、『ギデオン 』の撮影 さつえい 現場 げんば を訪問 ほうもん したり、昼食 ちゅうしょく を共 とも にするなどの交友 こうゆう を持 も った[66] 。その次 つぎ にパリ に渡 わた り、シネマテーク・フランセーズ を訪問 ほうもん したり、ジャン・ルノワール と夕食 ゆうしょく を共 とも にしたりして過 す ごした[66] 。黒澤 くろさわ はこの旅行 りょこう を通 とお して映画 えいが が芸術 げいじゅつ として認知 にんち されていることを直 じか に知 し り、映画 えいが 人 じん として強 つよ い自負 じふ を持 も つようになった。これ以後 いご 、黒澤 くろさわ は日本 にっぽん の政治 せいじ が映画 えいが に無 む 関心 かんしん であることや、映画 えいが 産業 さんぎょう に対 たい する危機 きき 感 かん を事 こと あるごとに言及 げんきゅう するようになった[注釈 ちゅうしゃく 10] 。
黒澤 くろさわ プロダクション設立 せつりつ [ 編集 へんしゅう ]
黒澤 くろさわ と三船 みふね 敏郎 としお
時代 じだい 劇 げき 三 さん 部 ぶ 作 さく の3本 ほん 目 め となる『隠 かく し砦 とりで の三 さん 悪人 あくにん 』(1958年 ねん )は興行 こうぎょう 的 てき に大 だい ヒットし、第 だい 9回 かい ベルリン国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい で監督 かんとく 賞 しょう と国際 こくさい 映画 えいが 批評 ひひょう 家 か 連盟 れんめい 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。しかし、撮影 さつえい は予定 よてい より大幅 おおはば 遅延 ちえん し、製作 せいさく 費 ひ も破格 はかく の1億 おく 9500万 まん 円 えん を計上 けいじょう したため、黒澤 くろさわ 作品 さくひん にだけ高額 こうがく な製作 せいさく 費 ひ が許 ゆる されることについて社内外 しゃないがい から批判 ひはん が出 で た[57] [68] 。1958年 ねん 末 すえ に黒澤 くろさわ は東宝 とうほう との契約 けいやく が切 き れたが、東宝 とうほう は黒澤 くろさわ を社内 しゃない に抱 かか え込 こ むのは危険 きけん としつつも、記録 きろく 的 てき ヒット作 さく を放 はな つ黒澤 くろさわ との関係 かんけい を完全 かんぜん に絶 た つことも得策 とくさく ではないと考 かんが えていた[57] 。そこで1959年 ねん 4月 がつ 1日 にち に黒澤 くろさわ と東宝 とうほう が折半 せっぱん 出資 しゅっし して、利益 りえき 配分 はいぶん 制 せい による「黒澤 くろさわ プロダクション」を発足 ほっそく し、東宝 とうほう 本社 ほんしゃ 内 ない に事務所 じむしょ を設 もう けた[69] 。黒澤 くろさわ は映画 えいが 製作 せいさく の自由 じゆう を手 て に入 い れたが、同時 どうじ に経済 けいざい 的 てき 責任 せきにん を背負 せお うことになり、興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう にも気 き を配 くば らなければならなくなった。
1960年 ねん 7月 がつ 7日 にち 、黒澤 くろさわ は東京 とうきょう オリンピック の公式 こうしき 記録 きろく 映画 えいが の監督 かんとく 依頼 いらい を正式 せいしき に承諾 しょうだく した[71] 。準備 じゅんび に向 む けて同年 どうねん 開催 かいさい のローマオリンピック を視察 しさつ し、その公式 こうしき 記録 きろく 映画 えいが 『ローマ・オリンピック1960 』の撮影 さつえい に立 た ち会 あ って入念 にゅうねん に調査 ちょうさ した[72] 。それを参考 さんこう にして5億 おく 円 えん 超 こ えとなる予算 よさん 案 あん を組織 そしき 委員 いいん 会 かい に提出 ていしゅつ したが、2億 おく 5000万 まん 円 えん の予算 よさん 案 あん を提示 ていじ する組織 そしき 委員 いいん 会 かい とは折 お り合 あ いがつかず、1963年 ねん 3月22日 にち に「2億 おく 5000万 まん 円 えん では理想 りそう 的 てき な作品 さくひん は無理 むり だ」として監督 かんとく を辞退 じたい した[73] 。組織 そしき 委員 いいん 会 かい の与謝野 よさの 秀 しげる 事務 じむ 総長 そうちょう の強 つよ い慰留 いりゅう もあり、組織 そしき 委員 いいん 会 かい 内 ない の記録 きろく 映画 えいが 委員 いいん 会 かい の委員 いいん として残留 ざんりゅう し、その後 ご も与謝野 よさの からオファーを受 う けたが、11月5日 にち に正式 せいしき にオリンピック公式 こうしき 記録 きろく 映画 えいが を降 お りた[74] 。
黒澤 くろさわ プロダクションの第 だい 1作 さく 『悪 わる い奴 やつ ほどよく眠 ねむ る 』(1960年 ねん )は興行 こうぎょう 的 てき に失敗 しっぱい したが、その次 つぎ に手 て がけた娯楽 ごらく 時代 じだい 劇 げき 『用心棒 ようじんぼう 』(1961年 ねん )とその続編 ぞくへん 『椿 つばき 三十郎 さんじゅうろう 』(1962年 ねん )は、その年度 ねんど の東宝 とうほう 作品 さくひん で最高 さいこう の興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう を記録 きろく する成功 せいこう を収 おさ めた。前者 ぜんしゃ はダシール・ハメット の小説 しょうせつ 『血 ち の収穫 しゅうかく 』が着想 ちゃくそう の元 もと となり、後者 こうしゃ は山本 やまもと 周五郎 しゅうごろう の小説 しょうせつ 『日日 ひにち 平安 へいあん 』を原作 げんさく としている。どちらの作品 さくひん も刀 かたな の斬殺 ざんさつ 音 おん や血 ち しぶきなどの残酷 ざんこく 描写 びょうしゃ を取 と り入 い れ、従来 じゅうらい の時代 じだい 劇映画 げきえいが の形式 けいしき を覆 くつがえ すリアルな表現 ひょうげん を試 こころ みた。これが話題 わだい を呼 よ び、その影響 えいきょう を受 う けて残酷 ざんこく 描写 びょうしゃ を入 い れた時代 じだい 劇 げき が数多 かずおお く作 つく られたが、後年 こうねん に黒澤 くろさわ は「非常 ひじょう に悪 わる い影響 えいきょう を与 あた えてしまった」と述 の べている。その次 つぎ に監督 かんとく した『天国 てんごく と地獄 じごく 』(1963年 ねん )はエド・マクベイン の犯罪 はんざい 小説 しょうせつ 『キングの身代金 みのしろきん 』が原作 げんさく のサスペンス映画 えいが で、その年度 ねんど の興行 こうぎょう 成績 せいせき で1位 い を記録 きろく した[57] 。
黒澤 くろさわ プロダクションの設立 せつりつ 以後 いご は、作品 さくひん を重 かさ ねるごとに興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう 記録 きろく を更新 こうしん したが、その分 ぶん 作 つく るたびに製作 せいさく 費 ひ も巨額 きょがく になった。『赤 あか ひげ 』(1965年 ねん )では製作 せいさく 期間 きかん が2年 ねん に及 およ び、予算 よさん は過去 かこ 最高 さいこう の2億 おく 6600万 まん 円 えん を計上 けいじょう した。この作品 さくひん は山本 やまもと 周五郎 しゅうごろう の『赤 あか ひげ診療 しんりょう 譚 たん 』が原作 げんさく であるが、一部 いちぶ にドストエフスキーの『虐 しいた げられた人 ひと びと 』を元 もと にしたエピソードを挿入 そうにゅう している[57] 。黒澤 くろさわ はこの作品 さくひん を「僕 ぼく の集大成 しゅうたいせい 」と語 かた り[75] 、テレビ放送 ほうそう の普及 ふきゅう で日本 にっぽん 映画 えいが の観客 かんきゃく 数 すう が減少 げんしょう する中 なか 、スタッフたちの能力 のうりょく を最大限 さいだいげん に引 ひ き出 だ して、映画 えいが の可能 かのう 性 せい を存分 ぞんぶん に追求 ついきゅう しようとした。やはりその年度 ねんど で最高 さいこう の興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう を記録 きろく し、キネマ旬報 きねまじゅんぽう ベスト・テンでは1位 い に選出 せんしゅつ された。しかし、これが三 さん 船 せん とコンビを組 く んだ最後 さいご の作品 さくひん となった。
海外 かいがい 進出 しんしゅつ から死去 しきょ まで[ 編集 へんしゅう ]
ハリウッド進出 しんしゅつ と挫折 ざせつ [ 編集 へんしゅう ]
『赤 あか ひげ』公開 こうかい 後 ご 、黒澤 くろさわ は東宝 とうほう に対 たい して巨額 きょがく の借金 しゃっきん を抱 かか えていた。黒澤 くろさわ プロダクションは東宝 とうほう との契約 けいやく で5本 ほん の作品 さくひん を作 つく り、その配給 はいきゅう で4億 おく 円 えん 前後 ぜんこう の高 こう 収入 しゅうにゅう をあげていたが、東宝 とうほう と交 か わした利益 りえき 配分 はいぶん 制 せい だと黒澤 くろさわ は利益 りえき を上 あ げられず、芸術 げいじゅつ 的 てき 良心 りょうしん に忠実 ちゅうじつ な作品 さくひん を目指 めざ して時間 じかん と予算 よさん をかけるほど、東宝 とうほう に搾取 さくしゅ されて損 そん をする仕組 しく みになっていた[78] 。1966年 ねん 7月 がつ に黒澤 くろさわ は東宝 とうほう との専属 せんぞく 契約 けいやく を解消 かいしょう して完全 かんぜん 独立 どくりつ し、黒澤 くろさわ プロダクションは東京 とうきょう 都 と 港 みなと 区 く の東京 とうきょう プリンスホテル 4階 かい に事務所 じむしょ を構 かま えた。この頃 ころ の黒澤 くろさわ は日本 にっぽん で権威 けんい 的 てき とみなされ、それ故 ゆえ の批判 ひはん や誹謗 ひぼう 中傷 ちゅうしょう を受 う けることが目立 めだ った[57] 。孤立 こりつ 心 しん を深 ふか めた黒澤 くろさわ は、日本 にっぽん 映画 えいが 産業 さんぎょう が斜陽化 しゃようか していたこともあり、より自由 じゆう な立場 たちば で新 あら たな自己 じこ 表現 ひょうげん の段階 だんかい に挑戦 ちょうせん するため、それだけの製作 せいさく 費 ひ が負担 ふたん できる海外 かいがい に活動 かつどう の場 ば を求 もと めるようになった[57] 。すでに黒澤 くろさわ は欧米 おうべい からいくつものオファーを受 う けていた。
1966年 ねん 6月 がつ 、黒澤 くろさわ はアメリカ のエンバシー・ピクチャーズ (英語 えいご 版 ばん ) と共同 きょうどう 製作 せいさく で『暴走 ぼうそう 機関 きかん 車 しゃ 』を監督 かんとく することを発表 はっぴょう した。この企画 きかく はライフ 誌 し に掲載 けいさい された、ニューヨーク州 しゅう 北部 ほくぶ で機関 きかん 車 しゃ が暴走 ぼうそう したという実話 じつわ を元 もと にしており、出演 しゅつえん 者 しゃ は全員 ぜんいん アメリカ人 じん にすることが決定 けってい していた。しかし、英語 えいご 脚本 きゃくほん 担当 たんとう のシドニー・キャロル (英語 えいご 版 ばん ) と意見 いけん が合 あ わず、プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーン とも製作 せいさく 方針 ほうしん をめぐり食 く い違 ちが いが生 しょう じた。例 たと えば、黒澤 くろさわ は70ミリフィルム のカラー映画 えいが を想定 そうてい していたのに対 たい し、アメリカ側 がわ はスタンダードサイズ のモノクロ映画 えいが で作 つく ろうと考 かんが えていた。黒澤 くろさわ は130人 にん ものスタッフを編成 へんせい し、本物 ほんもの の鉄道 てつどう を使用 しよう して撮影 さつえい する準備 じゅんび をしていたが、アメリカ側 がわ との意思 いし 疎通 そつう に欠 か き、同年 どうねん 11月 がつ に黒澤 くろさわ から撮影 さつえい 延期 えんき を提案 ていあん し、事実 じじつ 上 じょう の製作 せいさく 頓挫 とんざ となった。この企画 きかく は1985年 ねん にアンドレイ・コンチャロフスキー 監督 かんとく で映画 えいが 化 か されたが、内容 ないよう は大 おお きく改変 かいへん された[34] 。
1967年 ねん 4月 がつ 、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき が題材 だいざい の戦争 せんそう 映画 えいが 『トラ・トラ・トラ! 』を20世紀 せいき フォックス と共同 きょうどう 製作 せいさく し、黒澤 くろさわ が日本 にっぽん 側 がわ 部分 ぶぶん を監督 かんとく することが発表 はっぴょう された。黒澤 くろさわ は東映 とうえい 京都 きょうと 撮影 さつえい 所 しょ で撮影 さつえい を始 はじ めたが、軍人 ぐんじん 役 やく に演技 えんぎ 経験 けいけん のない財界 ざいかい 人 じん を起用 きよう したことや、黒澤 くろさわ の演出 えんしゅつ 方法 ほうほう に馴染 なじ めないスタッフとの間 あいだ に軋轢 あつれき が生 しょう じたことから、スケジュールは大幅 おおはば に遅 おく れた[57] 。黒澤 くろさわ の映画 えいが 作 づく りの方法 ほうほう とハリウッドの映画 えいが 作 づく りの方法 ほうほう はうまく合 あ わず、ついに遅延 ちえん を無視 むし できなくなった20世紀 せいき フォックスにより事実 じじつ 上 じょう の解任 かいにん が決定 けってい し、1968年 ねん 12月に表向 おもてむ きは健康 けんこう 問題 もんだい を理由 りゆう に監督 かんとく を降板 こうばん することが発表 はっぴょう された[57] 。
1969年 ねん 6月24日 にち 、三船 みふね などが発起人 ほっきにん になり「黒澤 くろさわ 明 あきら よ映画 えいが を作 つく れの会 かい 」が赤坂 あかさか プリンスホテル で開 ひら かれ、関係 かんけい スタッフや淀川 よどがわ 長治 ながはる など黒澤 くろさわ を応援 おうえん する人 ひと たちが集 あつ まった。その翌月 よくげつ には木下 きのした 惠 めぐみ 介 かい 、市川 いちかわ 崑 こん 、小林 こばやし 正樹 まさき とともに「四 よん 騎 き の会 かい 」を結成 けっせい し、日本 にっぽん 映画 えいが の斜陽化 しゃようか が進 すす む中 なか 、若手 わかて 監督 かんとく に負 ま けないような映画 えいが を作 つく ろうと狼煙 のろし を上 あ げた。その第 だい 1作 さく として4人 にん の共同 きょうどう 脚本 きゃくほん ・監督 かんとく で『どら平太 へいた 』を企画 きかく するが頓挫 とんざ した[34] 。結局 けっきょく 、黒澤 くろさわ が単独 たんどく で『どですかでん 』(1970年 ねん )を監督 かんとく することになり、自宅 じたく を担保 たんぽ にして製作 せいさく 費 ひ を負担 ふたん するが、興行 こうぎょう 的 てき に失敗 しっぱい してさらなる借金 しゃっきん を抱 かか えた[57] 。黒澤 くろさわ 以外 いがい の四 よん 騎 き の会 かい の監督 かんとく はテレビ番組 ばんぐみ を手 て がけていたが、黒澤 くろさわ もテレビと関係 かんけい を持 も つようになり、1971年 ねん 8月 がつ 31日 にち に名馬 めいば の雄姿 ゆうし を紹介 しょうかい する日本 にほん テレビ のドキュメンタリー番組 ばんぐみ 『馬 うま の詩 し 』を監修 かんしゅう し、同局 どうきょく で『夏目 なつめ 漱石 そうせき シリーズ』『山本 やまもと 周五郎 しゅうごろう シリーズ』を監修 かんしゅう する計画 けいかく もあった[57] 。同年 どうねん 12月 がつ 22日 にち 早朝 そうちょう 、黒澤 くろさわ は自宅 じたく 風呂場 ふろば でカミソリで首 くび と手首 てくび を切 き って自殺 じさつ を図 はか るが、命 いのち に別状 べつじょう はなかった[57] 。
海外 かいがい 資本 しほん での映画 えいが 製作 せいさく [ 編集 へんしゅう ]
1973年 ねん 3月14日 にち 、黒澤 くろさわ はソ連 それん の映画 えいが 会社 かいしゃ モスフィルム と『デルス・ウザーラ 』(1975年 ねん )の製作 せいさく 協定 きょうてい に調印 ちょういん した。黒澤 くろさわ がソ連 それん で映画 えいが を作 つく るという話 はなし は、自殺 じさつ 未遂 みすい 前 まえ の1971年 ねん 7月 がつ 、黒澤 くろさわ が第 だい 7回 かい モスクワ国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい に出席 しゅっせき したときに持 も ちかけれ、それから本格 ほんかく 的 てき な交渉 こうしょう が行 おこな われていた。黒澤 くろさわ はソ連 それん 側 がわ から芸術 げいじゅつ 的 てき 創造 そうぞう の自由 じゆう を保証 ほしょう され、1974年 ねん 4月 がつ から約 やく 1年間 ねんかん にわたり撮影 さつえい をしたが、シベリア の過酷 かこく な自然 しぜん 条件 じょうけん での撮影 さつえい は困難 こんなん を極 きわ めた[88] 。作品 さくひん は第 だい 48回 かい アカデミー賞 しょう でソ連 それん 代表 だいひょう 作品 さくひん として外国 がいこく 語 ご 映画 えいが 賞 しょう を受賞 じゅしょう し、黒澤 くろさわ の復活 ふっかつ を印象 いんしょう 付 つ けた[88] 。1977年 ねん には再 ふたた びソ連 それん で作 つく ることを画策 かくさく し、エドガー・アラン・ポー の短編 たんぺん 小説 しょうせつ 『赤 あか 死病 しびょう の仮面 かめん 』を元 もと にした『黒 くろ き死 し の仮面 かめん 』の脚本 きゃくほん を執筆 しっぴつ したが、映画 えいが 化 か は実現 じつげん しなかった[注釈 ちゅうしゃく 11] [34] 。この頃 ころ の黒澤 くろさわ はメディアへの露出 ろしゅつ が増 ふ え、1976年 ねん から1979年 ねん までサントリーリザーブ のテレビCMにも出演 しゅつえん した。
1978年 ねん 7月 がつ 1日 にち 、黒澤 くろさわ はイタリア のダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 しょう で外国 がいこく 監督 かんとく 賞 しょう を受賞 じゅしょう し[91] 、その副賞 ふくしょう であるファーストクラス の航空 こうくう 券 けん を使 つか ってアメリカに10日間 にちかん 旅行 りょこう した[92] 。黒澤 くろさわ はジョージ・ルーカス などと昼食 ちゅうしょく を共 とも にしたり、フランシス・フォード・コッポラ の邸宅 ていたく を訪 たず ねるなどの交友 こうゆう を持 も った[92] 。アメリカ滞在 たいざい 中 ちゅう 、黒澤 くろさわ はルーカスと次回 じかい 作 さく 『影武者 かげむしゃ 』(1980年 ねん )の資金 しきん 援助 えんじょ の相談 そうだん もした。武田 たけだ 信玄 しんげん の影武者 かげむしゃ を描 えが く『影武者 かげむしゃ 』は国内 こくない の映画 えいが 会社 かいしゃ と資金 しきん 交渉 こうしょう が難航 なんこう していたが、ルーカスの働 はたら きかけで20世紀 せいき フォックス が世界 せかい 配給 はいきゅう 権 けん を引 ひ き受 う ける代 か わりに出資 しゅっし することが決 き まり、ルーカスはコッポラを誘 さそ って海外 かいがい 配給 はいきゅう の共同 きょうどう プロデューサーについた。『影武者 かげむしゃ 』はオーディション で無名 むめい 俳優 はいゆう や素人 しろうと を起用 きよう したり、主演 しゅえん 予定 よてい だった勝 かつ 新太郎 しんたろう の降板 こうばん 騒動 そうどう が起 お きるなど、公開 こうかい 前 まえ からマスコミ を賑 にぎ わせた[88] 。当時 とうじ の日本 にっぽん 映画 えいが で過去 かこ 最高 さいこう となる27億 おく 円 えん の配給 はいきゅう 収入 しゅうにゅう を記録 きろく し、第 だい 33回 かい カンヌ国際映画祭 かんぬこくさいえいがさい でパルム・ドール を受賞 じゅしょう した[88] 。
『影武者 かげむしゃ 』の興行 こうぎょう 的 てき 大 だい 成功 せいこう で、黒澤 くろさわ は次回 じかい 作 さく に『乱 らん 』(1985年 ねん )を作 つく ることにした。同 どう 作 さく は毛利 もうり 元就 もとなり の三 さん 本 ほん の矢 や の教 おし え にシェイクスピアの『リア王 おう 』を組 く み合 あ わせた作品 さくひん で、1976年 ねん に初稿 しょこう を書 か き上 あ げていたが、資金 しきん 調達 ちょうたつ のめどが立 た っていなかった[88] 。1981年 ねん 10月に黒澤 くろさわ は渡米 とべい し、ニューヨーク で行 おこな われたジャパン・ソサエティー 主催 しゅさい の「黒澤 くろさわ 作品 さくひん 回顧 かいこ 上映 じょうえい 会 かい 」に出席 しゅっせき したあと、『乱 らん 』の資金 しきん についてルーカスとコッポラに相談 そうだん した[10] 。『乱 らん 』はフランスの映画 えいが 製作 せいさく 者 しゃ セルジュ・シルベルマン の出資 しゅっし で製作 せいさく が実現 じつげん することになったが、1983年 ねん 3月 がつ にフラン の海外 かいがい 流出 りゅうしゅつ が制限 せいげん されたため製作 せいさく 延期 えんき となった[88] 。黒澤 くろさわ は『乱 らん 』のために招集 しょうしゅう したスタッフに仕事 しごと を与 あた えるため、急遽 きゅうきょ 能 のう をテーマにしたドキュメンタリー映画 えいが 『能 のう の美 び 』を企画 きかく し、黒澤 くろさわ 監修 かんしゅう で佐伯 さえき 清 きよし を監督 かんとく に起用 きよう したが、製作 せいさく 費 ひ が高額 こうがく になるため中止 ちゅうし した[34] 。
同年 どうねん 11月 がつ 1日 にち 、神奈川 かながわ 県 けん 横浜 よこはま 市 し 緑 みどり 区 く に自前 じまえ の映画 えいが スタジオである「黒澤 くろさわ フィルム・スタジオ」を開設 かいせつ し[10] 、同月 どうげつ に『乱 らん 』はヘラルド・エース の参加 さんか で製作 せいさく 再開 さいかい した[88] 。『乱 らん 』は日本 にっぽん 映画 えいが で最大 さいだい 規模 きぼ となる26億 おく 円 えん もの製作 せいさく 費 ひ が投 とう じられたが、興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう は16億 おく 円 えん にとどまり巨額 きょがく の赤字 あかじ を出 だ した[95] 。それでも国内外 こくないがい で多 おお くの映画 えいが 賞 しょう を受賞 じゅしょう し、1986年 ねん 3月の第 だい 58回 かい アカデミー賞 しょう では4部門 ぶもん にノミネートされ、ワダ・エミ が衣裳 いしょう デザイン賞 しょう を受賞 じゅしょう した。黒澤 くろさわ も監督 かんとく 賞 しょう にノミネートされたが、これはシドニー・ルメット が黒澤 くろさわ をノミネートさせるためのキャンペーンを行 おこな った結果 けっか である[97] [注釈 ちゅうしゃく 12] 。また、黒澤 くろさわ は同 どう 賞 しょう でジョン・ヒューストン やビリー・ワイルダー とともに作品 さくひん 賞 しょう のプレゼンターも務 つと めた[97] 。
鎌倉 かまくら 市 し の安 あん 養 よう 院 いん にある黒澤 くろさわ の墓 はか 。
晩年 ばんねん 期 き の作品 さくひん は、家族 かぞく や師弟 してい など身辺 しんぺん に目 め を向 む け、自伝 じでん 的 てき な要素 ようそ が強 つよ くなった[88] 。『夢 ゆめ 』(1990年 ねん )は自身 じしん が見 み た夢 ゆめ を元 もと にしたアンソロジー 的 てき 作品 さくひん で、その挿話 そうわ の一 ひと つには早世 そうせい した姉 あね に対 たい する追慕 ついぼ が現 あらわ れている。この作品 さくひん もやはり国内 こくない の映画 えいが 会社 かいしゃ で資金 しきん 調達 ちょうたつ ができず、スティーヴン・スピルバーグ の計 はか らいでワーナー・ブラザース が出資 しゅっし と世界 せかい 配給 はいきゅう を引 ひ き受 う けたほか、ルーカスのILM が特殊 とくしゅ 合成 ごうせい に協力 きょうりょく し、マーティン・スコセッシ がゴッホ 役 やく で出演 しゅつえん するなど、海外 かいがい の映画 えいが 人 じん の協力 きょうりょく により作 つく られた[88] 。その後 ご は国内 こくない 資本 しほん での映画 えいが 製作 せいさく が続 つづ き、『八 はち 月 がつ の狂詩曲 きょうしきょく 』(1991年 ねん )は村田 むらた 喜代子 きよこ の芥川賞 あくたがわしょう 作品 さくひん 『鍋 なべ の中 なか 』が原作 げんさく で、『まあだだよ 』(1993年 ねん )では内田 うちだ 百閒 ひゃっけん をめぐる師弟 してい 愛 あい を描 えが いたが、これが黒澤 くろさわ の最後 さいご の監督 かんとく 作品 さくひん となった[88] 。
1993年 ねん 11月、山本 やまもと 周五郎 しゅうごろう の2つの短編 たんぺん 小説 しょうせつ を元 もと にした『海 うみ は見 み ていた 』の脚本 きゃくほん を執筆 しっぴつ し、映画 えいが 化 か 準備 じゅんび をするも資金 しきん 調達 ちょうたつ が上手 うま くいかず断念 だんねん した[88] 。そこで同 おな じ山本 やまもと 原作 げんさく の『雨 あめ あがる 』の脚本 きゃくほん に取 と りかかるが、1995年 ねん 3月 がつ に定宿 じょうやど である京都 きょうと の旅館 りょかん 「石原 いしはら 」で執筆 しっぴつ 中 ちゅう に転倒 てんとう 骨折 こっせつ し、脚本 きゃくほん は完成 かんせい することなく終 お わり、それ以降 いこう は車椅子 くるまいす 生活 せいかつ を強 し いられた[34] 。その間 あいだ の1996年 ねん に日本 にほん エアシステム の機体 きたい MD-90 のデザインを担当 たんとう し、1997年 ねん にはカルピス のために自筆 じひつ の絵 え コンテをCG でアニメーション化 か したテレビCM 「初恋 はつこい 」を制作 せいさく し、初 はじ めてのCM制作 せいさく でデジタル 表現 ひょうげん に取 と り組 く んだ[10] [101] 。同年 どうねん 12月 がつ には三船 みふね が死去 しきょ したが、翌 よく 1998年 ねん 1月 がつ 24日 にち の本葬 ほんそう にはリハビリのため出席 しゅっせき することができず、長男 ちょうなん の久雄 ひさお が弔辞 ちょうじ を代読 だいどく した。
1998年 ねん 9月6日 にち 午後 ごご 0時 じ 45分 ふん 、東京 とうきょう 都 と 世田谷 せたがや 区 く 成城 せいじょう の自宅 じたく で脳卒中 のうそっちゅう により死去 しきょ した[103] 。88歳 さい 没 ぼつ 。9月13日 にち に黒澤 くろさわ フィルム・スタジオでお別 わか れの会 かい が開 ひら かれ、岡本 おかもと 喜八 きはち 、司 つかさ 葉子 ようこ 、谷口 たにぐち 千 せん 吉 きち 、仲代 なかだい 達矢 たつや 、香川 かがわ 京子 きょうこ 、千秋 ちあき 実 みのる 、侯孝賢 ほうしゃおしえん など約 やく 3万 まん 5000人 にん が参列 さんれつ した[104] [105] 。ルーカス、ルメット、スコセッシ、テオ・アンゲロプロス 、アッバス・キアロスタミ などからは弔電 ちょうでん が届 とど いた[104] 。海外 かいがい でも黒澤 くろさわ の死去 しきょ はトップ級 きゅう のニュースとして報道 ほうどう され、フランスのジャック・シラク 大統領 だいとうりょう も追悼 ついとう 談話 だんわ を発表 はっぴょう した[106] 。黒澤 くろさわ は無 む 宗教 しゅうきょう だが、妻 つま (1985年 ねん に死去 しきょ )が眠 ねむ る鎌倉 かまくら 市 し の安 あん 養 よう 院 いん に納骨 のうこつ され、「映 うつ 明 あかり 院 いん 殿 どの 紘 ひろし 国 こく 慈愛 じあい 大 だい 居士 こじ 」の戒名 かいみょう が送 おく られた[10] 。従 したがえ 三 さん 位 い に叙 じょ された[107] 。
黒澤 くろさわ 作品 さくひん は強 つよ い人間 にんげん 信頼 しんらい と人生 じんせい 肯定 こうてい を特徴 とくちょう とし、現実 げんじつ 社会 しゃかい で困難 こんなん な状況 じょうきょう に追 お い込 こ まれた主人公 しゅじんこう が、それを契機 けいき にして人間 にんげん 的 てき に再生 さいせい する姿 すがた を描 えが くことが多 おお い[57] 。評論 ひょうろん 家 か の都築 つづき 政昭 まさあき は、黒澤 くろさわ 作品 さくひん の主人公 しゅじんこう は強 つよ い正義 せいぎ 感 かん と犠牲 ぎせい 的 てき な精神 せいしん で困難 こんなん に立 た ち向 む かうが、そのような人物 じんぶつ は現実 げんじつ 感 かん に乏 とぼ しいため、黒澤 くろさわ は人間 にんげん のあるべき姿 すがた を願望 がんぼう として描 えが いていると指摘 してき している[109] 。映画 えいが 批評 ひひょう 家 か の佐藤 さとう 忠男 ただお は、黒澤 くろさわ は生 い きる意味 いみ を探求 たんきゅう するというテーマをくり返 がえ し描 えが いていると指摘 してき している。終戦 しゅうせん 後 ご に作 つく られた『醉 よ いどれ天使 てんし 』『静 しず かなる決闘 けっとう 』『野良犬 のらいぬ 』などでは、主人公 しゅじんこう は強 つよ い正義 せいぎ 感 かん や使命 しめい 感 かん を持 も って社会 しゃかい 悪 あく と闘 たたか い、逞 たくま しく生 い きる侍 さむらい 的 てき な英雄 えいゆう として描 えが かれており、敗戦 はいせん 後 ご の混沌 こんとん とした社会 しゃかい に対 たい して肯定 こうてい 的 てき に生 い きることの意義 いぎ を訴 うった えている。その作風 さくふう は人生 じんせい の意義 いぎ 、社会 しゃかい 的 てき 献身 けんしん の意義 いぎ を問 と う『生 い きる』と『赤 あか ひげ』で頂点 ちょうてん に達 たっ したとみなされている[3] 。
黒澤 くろさわ は師匠 ししょう と弟子 でし の関係 かんけい をテーマに扱 あつか い、人間 にんげん 的 てき に未熟 みじゅく な青二才 あおにさい がすぐれた師匠 ししょう の教 おし えを受 う けて一 いち 人前 にんまえ に成長 せいちょう するという物語 ものがたり を描 えが くことが多 おお い。そのテーマは監督 かんとく 第 だい 1作 さく の『姿 すがた 三 さん 四 よん 郎 ろう 』から描 えが かれており、この作品 さくひん では青年 せいねん 柔道 じゅうどう 家 か の三 さん 四 よん 郎 ろう が師匠 ししょう の矢野 やの 正 ただし 五郎 ごろう の教 おし えを受 う けながら、心身 しんしん 両面 りょうめん で成長 せいちょう してすぐれた柔道 じゅうどう 家 か になる姿 すがた を描 えが いている。そのほかの師弟 してい 関係 かんけい を描 えが いた例 れい として、『野良犬 のらいぬ 』の佐藤 さとう 刑事 けいじ と村上 むらかみ 刑事 けいじ 、『七人 しちにん の侍 さむらい 』の勘兵衛 かんべえ と菊 きく 千 せん 代 だい 、『椿 つばき 三十郎 さんじゅうろう 』の三 さん 十 じゅう 郎 ろう と若 わか 侍 さむらい たち、『赤 あか ひげ』の新 しん 出 で 去 ざ 定 じょう と保 ほ 本 ほん 登 とう が挙 あ げられる[113] 。1950年代 ねんだい までは三船 みふね 敏郎 としお が弟子 でし に相当 そうとう する主人公 しゅじんこう を演 えん じていたが、『椿 つばき 三十郎 さんじゅうろう 』『赤 あか ひげ』では三船 みふね は未熟 みじゅく な者 もの を指導 しどう する側 がわ の役 やく を演 えん じた[57] 。
黒澤 くろさわ はその時々 ときどき で自身 じしん が関心 かんしん を持 も つ社会 しゃかい 問題 もんだい をテーマに採 と り上 あ げ、批判 ひはん 的 てき 内容 ないよう の作品 さくひん を作 つく っている。例 たと えば、『醜聞 しゅうぶん 』ではイエロー・ジャーナリズム 、『生 い きる』では官僚 かんりょう 主義 しゅぎ 、『悪 わる い奴 やつ ほどよく眠 ねむ る』では汚職 おしょく 、『天国 てんごく と地獄 じごく 』では誘拐 ゆうかい 、『生 い きものの記録 きろく 』『夢 ゆめ 』『八 はち 月 がつ の狂詩曲 きょうしきょく 』では原爆 げんばく をテーマに扱 あつか っている[57] 。佐藤 さとう によると、黒澤 くろさわ 作品 さくひん の社会 しゃかい 批判 ひはん の姿勢 しせい は、通常 つうじょう の社会 しゃかい 批判 ひはん 映画 えいが を作 つく る映画 えいが 作家 さっか が好 この むような問題 もんだい の犠牲 ぎせい 者 しゃ に観客 かんきゃく の同情 どうじょう を集 あつ めたり、大衆 たいしゅう に連帯 れんたい をうながすという物語 ものがたり の形式 けいしき を極端 きょくたん に避 さ けており、その代 か わりに黒澤 くろさわ 作品 さくひん の主人公 しゅじんこう は大衆 たいしゅう をあてにせず、個人 こじん 的 てき な解決 かいけつ 方法 ほうほう を取 と ることが多 おお いという[115] 。また、佐藤 さとう は自分 じぶん だけで解決 かいけつ する主人公 しゅじんこう の描 えが き方 かた について、その独特 どくとく な生 い き方 かた は普通 ふつう の日本人 にっぽんじん には理解 りかい し難 がた いが、そこに日本人 にっぽんじん の大勢 おおぜい 順応 じゅんのう 的 てき 傾向 けいこう に反対 はんたい する黒澤 くろさわ の主張 しゅちょう が込 こ められていると指摘 してき している[115] 。
監督 かんとく 作品 さくひん は基本 きほん 的 てき にすべて自分 じぶん でシナリオを書 か いているが、大抵 たいてい の作品 さくひん には共同 きょうどう 執筆 しっぴつ 者 しゃ がいた[注釈 ちゅうしゃく 13] 。黒澤 くろさわ は共同 きょうどう 執筆 しっぴつ をする理由 りゆう として、「僕 ぼく 一人 ひとり で書 か いていると大変 たいへん 一 いち 面 めん 的 てき になるおそれがある[117] 」と語 かた っている。共同 きょうどう 執筆 しっぴつ の方法 ほうほう は、脚本 きゃくほん 家 か 全員 ぜんいん で同 おな じシーンを書 か き、それを比較 ひかく して良 よ いところだけを取 と り入 い れて決定 けってい 稿 こう にするというものだった。大映 だいえい 製作 せいさく 担当 たんとう の市川 いちかわ 久夫 ひさお は、谷口 たにぐち と共 とも 作 さく の『静 しず かなる決闘 けっとう 』の共同 きょうどう 執筆 しっぴつ について、「毎日 まいにち 、話 はなし の段取 だんど りを予 あらかじ め決 き め、同 おな じシーンを二人 ふたり が別々 べつべつ に書 か き、終 お わったところで対照 たいしょう し、よい方 ほう に統一 とういつ しながら書 が き足 た してゆくといった方法 ほうほう だった[119] 」と述 の べている。橋本 はしもと 忍 しのぶ と小国 おぐに 英雄 ひでお と共 とも 作 さく の『生 い きる』『七人 しちにん の侍 さむらい 』では、黒澤 くろさわ と橋本 はしもと が競 きそ うように同 おな じシーンを書 か き、小国 しょうこく がそれを取捨選択 しゅしゃせんたく して決 き めるという役割 やくわり 分担 ぶんたん で執筆 しっぴつ した[75] 。橋本 はしもと は「黒澤 くろさわ 組 ぐみ の共同 きょうどう 脚本 きゃくほん とは、同 どう 一 いち シーンを複数 ふくすう の人間 にんげん がそれぞれの眼 め (複眼 ふくがん )で書 か き、それらを編集 へんしゅう し、混声 こんせい 合唱 がっしょう の質感 しつかん の脚本 きゃくほん を作 つく り上 あ げる―それが黒澤 くろさわ 作品 さくひん の最大 さいだい の特質 とくしつ なのである」と述 の べている。
黒澤 くろさわ は撮影 さつえい に入 はい る前 まえ に、まず被写体 ひしゃたい を本当 ほんとう にそれらしく作 つく れるかどうかを重視 じゅうし した。リハーサル は他 た 監督 かんとく の作品 さくひん よりもたくさん時間 じかん をかけ、俳優 はいゆう が役柄 やくがら や性格 せいかく をしっかりと掴 つか み、演技 えんぎ が自然 しぜん に見 み えるまで周到 しゅうとう に稽古 けいこ を重 かさ ねた[注釈 ちゅうしゃく 14] 。『どん底 ぞこ 』では撮影 さつえい 期間 きかん が1ヶ月 かげつ なのに対 たい し、リハーサルにはそれよりも長 なが い40日 にち 近 ちか くもかけている[123] 。また、役 やく の雰囲気 ふんいき を作 つく らせるために、本読 ほんよ みの段階 だんかい から俳優 はいゆう に衣裳 いしょう を着 つ けさせたり、撮影 さつえい 期間 きかん 中 ちゅう も俳優 はいゆう 同士 どうし を役名 やくめい で呼 よ ばせたり、役 やく で家族 かぞく を演 えん じる俳優 はいゆう たちを一緒 いっしょ に住 す まわせたりした。これが制作 せいさく 費 ひ の莫大 ばくだい になる理由 りゆう の一 ひと つでもあった。。
セットも実在 じつざい 感 かん を追求 ついきゅう するためリアルに作 つく られ、巨大 きょだい なセットが組 く まれた。美術 びじゅつ 監督 かんとく の村木 むらき 与四郎 よしろう も、黒澤 くろさわ 作品 さくひん のセットの特長 とくちょう を「みんな大 おお きなロケセットを1つデーンと建 た てちゃう点 てん 」と語 かた っている。画面 がめん に写 うつ らないような細部 さいぶ も作 つく り込 こ んでおり、『羅生門 らしょうもん 』では門 もん の屋根 やね 瓦 かわら 4000枚 まい のすべてに年号 ねんごう が彫 ほ られ、『赤 あか ひげ』では撮影 さつえい のために焼 や いた茶碗 ちゃわん に茶渋 ちゃしぶ がつけられ、薬 くすり 棚 だな の引 ひ き出 だ しの中 なか にまで漆 うるし が塗 ぬ られた。その反面 はんめん 、必 かなら ずしも史実 しじつ 通 どお りにすることにとらわれず、視覚 しかく 的 てき にどう写 うつ るかを優先 ゆうせん して大胆 だいたん にイメージを広 ひろ げることも多々 たた あった[125] 。『用心棒 ようじんぼう 』の宿場 しゅくば 町 まち はシネマスコープ の画面 がめん に合 あ わせて日本 にっぽん の宿場 しゅくば 町 まち にはないほどの大 おお きな道幅 みちはば をとったり、『蜘蛛 くも 巣 す 城 じょう 』の城門 じょうもん なども実存 じつぞん する城門 じょうもん より寸法 すんぽう を大 おお きくしている[125] 。
黒澤 くろさわ の撮影 さつえい 方法 ほうほう は、複数 ふくすう のカメラ でワンシーン・ワンショットの長 なが い芝居 しばい を同時 どうじ 撮影 さつえい するというもので、この手法 しゅほう は「マルチカム撮影 さつえい 法 ほう 」と呼 よ ばれた。マルチカム撮影 さつえい 法 ほう は『七人 しちにん の侍 さむらい 』で決戦 けっせん 場面 ばめん など撮 と り直 なお すことが難 むずか しいシーンを、数 すう 台 だい のカメラで一 いち 度 ど に写 うつ すことから始 はじ まったもので、次 つぎ 作 さく の『生 い きものの記録 きろく 』から本格 ほんかく 的 てき に導入 どうにゅう した。黒澤 くろさわ はこの手法 しゅほう を使 つか うと俳優 はいゆう がカメラを意識 いしき しなくなり、思 おも いがけず生々 なまなま しい表情 ひょうじょう や姿勢 しせい を撮 と ることができ、普通 ふつう の構図 こうず では考 かんが えつかないような面白 おもしろ い画面 がめん 効果 こうか が得 え られるとしている[75] 。撮影 さつえい 監督 かんとく の宮川 みやがわ 一夫 かずお によると、黒澤 くろさわ は芝居 しばい が止 と まるのを嫌 きら ってこの手法 しゅほう を使用 しよう したという[128] 。大抵 たいてい のシーンでは2、3台 だい のカメラを使用 しよう したが、『赤 あか ひげ』では5台 だい のカメラを使 つか って8分 ふん に及 およ ぶシーンを長 ちょう 回 まわ し で撮影 さつえい した。
編集 へんしゅう 作業 さぎょう は黒澤 くろさわ 自身 じしん が行 おこな った。黒澤 くろさわ は撮影 さつえい を素材 そざい 集 あつ めに過 す ぎないとし、それに最終 さいしゅう 的 てき な生命 せいめい を与 あた えるのは編集 へんしゅう であると考 かんが えていたため、他 た 監督 かんとく の作品 さくひん のように編集 へんしゅう 担当 たんとう に任 まか せることはせず、自分 じぶん で編集 へんしゅう 機 き を操作 そうさ した。マルチカメラ撮影 さつえい 法 ほう を採用 さいよう してからは、複数 ふくすう カメラで撮影 さつえい した同 おな じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番 いちばん いいショットを選 えら んで繋 つな げるという方法 ほうほう で編集 へんしゅう をした。複数 ふくすう カメラで長 なが いシーンを撮影 さつえい すると、スタッフは映像 えいぞう のイメージがつかみづらくなるため、黒澤 くろさわ は撮影 さつえい したシーンのラッシュフィルムが仕上 しあ がるとすぐに編集 へんしゅう してスタッフに見 み せ、ロケーションにも編集 へんしゅう 機 き を携行 けいこう した[132] 。そのため撮影 さつえい が終了 しゅうりょう する頃 ころ には、編集 へんしゅう もほとんど済 す んでしまうことが多 おお かった[132] 。
黒澤 くろさわ はカメラの動 うご きを観客 かんきゃく に意識 いしき させないようにした[133] 。カメラを勝手 かって に動 うご かすことはなく、俳優 はいゆう が動 うご くときのみカメラを移動 いどう させ、俳優 はいゆう が止 と まればカメラも停止 ていし させた[133] 。カメラが対象 たいしょう 物 ぶつ に寄 よ るのも不自然 ふしぜん だと考 かんが え、ズームレンズは基本 きほん 的 てき に使 つか わず、その代 か わりに望遠 ぼうえん レンズ を多用 たよう した。黒澤 くろさわ は『野良犬 のらいぬ 』のワンシーンで初 はじ めて望遠 ぼうえん レンズを使 つか い、『七人 しちにん の侍 さむらい 』から複数 ふくすう カメラの1つに採用 さいよう した。望遠 ぼうえん レンズだと画 が 角 かく が狭 せま くなり、被写体 ひしゃたい の遠近 えんきん 感 かん が失 うしな われて縦 たて に迫 せま るように見 み えるため、迫力 はくりょく ある画面 がめん を生 う んだ。また、望遠 ぼうえん レンズを使 つか うとカメラ位置 いち が遠 とお ざかり、その分 ぶん 俳優 はいゆう がカメラを意識 いしき しなくなり、自然 しぜん な表情 ひょうじょう が撮 と れるため、黒澤 くろさわ はクローズアップ も望遠 ぼうえん レンズで撮影 さつえい した。
黒澤 くろさわ は画面 がめん に写 うつ るものはすべて重要 じゅうよう だと考 かんが え[133] 、1つの画面 がめん に人 ひと や物 ぶつ がたくさん詰 つ まっているような画面 がめん 構図 こうず を好 この んだ[57] 。そのためパンフォーカス を使用 しよう して、被写体 ひしゃたい を画面 がめん の手前 てまえ から奥 おく に立体 りったい 的 てき に配置 はいち し、奥行 おくゆ きのある「縦 たて の構図 こうず 」にすることが多 おお い。パンフォーカスはレンズ の焦点 しょうてん 深度 しんど を深 ふか く絞 しぼ り、画面 がめん 内 ない の被写体 ひしゃたい 全部 ぜんぶ に焦点 しょうてん を合 あ わせる技法 ぎほう である。黒澤 くろさわ は『わが青春 せいしゅん に悔なし』でパンフォーカスを試 こころ みようとしたが、敗戦 はいせん 直後 ちょくご の電力 でんりょく 不足 ふそく で諦 あきら めており、『生 い きる』から存分 ぞんぶん に活用 かつよう した。パンフォーカスでレンズを深 ふか く絞 しぼ ると光量 ひかりりょう が減 へ るため、大量 たいりょう の強 つよ いライトを使 つか わなければならず、黒澤 くろさわ が撮影 さつえい するとスタジオが電力 でんりょく 不足 ふそく になり、他 た の仕事 しごと が出来 でき なくなったという逸話 いつわ がある。
場面 ばめん 転換 てんかん には「ワイプ 」を使用 しよう した。ワイプは画面 がめん を片側 かたがわ から拭 ふ き取 と るように消 け して、次 つぎ の画面 がめん を表示 ひょうじ する技法 ぎほう である。サイレント映画 えいが でよく使 つか われたが[137] 、1950年代 ねんだい 頃 ごろ には映画 えいが ではほとんど使 つか われなくなり、アメリカではテレビシリーズ で採用 さいよう された。黒澤 くろさわ はワイプをフェード やディゾルブ などの代 か わりに使用 しよう したが、これらの技法 ぎほう を全 まった く使用 しよう しなかった訳 わけ ではなく、フェードは柔 やわ らかな印象 いんしょう を与 あた えるときだけ使 つか い、ディゾルブはかなりの時間 じかん 経過 けいか を示 しめ すために用 もち いた。ワイプの主 おも な使用 しよう 例 れい は、『生 い きる』で市役所 しやくしょ に陳情 ちんじょう に来 き た主婦 しゅふ がたらい回 まわ しにされるシーンで、責任 せきにん 回避 かいひ する各部 かくぶ 署 しょ の職員 しょくいん を被写体 ひしゃたい にしたPOVショット (英語 えいご 版 ばん ) がワイプで重 かさ ねられている。
1940年代 ねんだい から1950年代 ねんだい の作品 さくひん では「アキシャルカット (英語 えいご 版 ばん ) 」という技法 ぎほう を使用 しよう した[139] 。アキシャルカットはディゾルブやトラッキングショット を使用 しよう せずに、角度 かくど を変 か えないジャンプカット で焦点 しょうてん 距離 きょり を変化 へんか させる技法 ぎほう で、突然 とつぜん 被写体 ひしゃたい が近 ちか づいたり離 はな れたりする印象 いんしょう を与 あた えた[140] 。映画 えいが 批評 ひひょう 家 か のデヴィッド・ボードウェル は、黒澤 くろさわ はアキシャルカットを頻繁 ひんぱん に使用 しよう して、瞬間 しゅんかん 的 てき な動作 どうさ を強調 きょうちょう したり、静止 せいし した瞬間 しゅんかん の時間 じかん を延 の ばしたりしていると指摘 してき している[141] 。『姿 すがた 三 さん 四 よん 郎 ろう 』では村井 むらい 半 なかば 助 すけ が柔道 じゅうどう の試合 しあい で投 な げ飛 と ばされたシーンや、三四郎 さんしろう と小夜 さよ が階段 かいだん を下 お りながら会話 かいわ するシーンなどで、アキシャルカットが使用 しよう されている[141] [142] 。
映画 えいが 批評 ひひょう 家 か のドナルド・リチー は、黒澤 くろさわ の色彩 しきさい 表現 ひょうげん はイメージの役割 やくわり に合 あ わせて色 いろ を決 き め、色彩 しきさい そのものに意味 いみ を持 も たせるというものであるとしている。『どですかでん』では内容 ないよう に即 そく してセットや地面 じめん を赤 あか や黄 き の原色 げんしょく で染 そ めて、奔放 ほんぽう に色 いろ を使用 しよう している。『影武者 かげむしゃ 』以降 いこう は鮮 あざ やかな色彩 しきさい で細部 さいぶ まで描 えが き込 こ んだ絵 え コンテ を用意 ようい するようになり、その絵 え コンテ自体 じたい が芸術 げいじゅつ 作品 さくひん として成立 せいりつ することから、作品 さくひん 発表 はっぴょう のたびに画集 がしゅう が出版 しゅっぱん された[88] 。
太陽 たいよう を映 うつ すショットは当時 とうじ としは画期的 かっきてき で多 おお くの映画 えいが 関係 かんけい 者 しゃ に影響 えいきょう を与 あた えた。[144]
黒澤 くろさわ はカラー映画 えいが には慎重 しんちょう な態度 たいど を取 と り、『赤 あか ひげ』まで全 ぜん 作品 さくひん はモノクロ 撮影 さつえい だった。ただし、『天国 てんごく と地獄 じごく 』後半 こうはん のワンシーンでは煙突 えんとつ の煙 けむり に着色 ちゃくしょく してパートカラーにする試 こころ みをしている[57] 。黒澤 くろさわ はカラーに踏 ふ み切 き らなかった理由 りゆう について、映画 えいが の色彩 しきさい が絵画 かいが 的 てき な色彩 しきさい とは程遠 ほどとお く、自分 じぶん の考 かんが える色彩 しきさい を表現 ひょうげん することができないからだとしている[145] 。照明 しょうめい 技師 ぎし の石井 いしい 長四郎 ちょうしろう と森 もり 弘充 ひろみつ は、黒澤 くろさわ が重視 じゅうし するパンフォーカス撮影 さつえい はカラー映画 えいが では難 むずか しく、そのためにカラーに踏 ふ み切 き らなかったとしている[146] 。黒澤 くろさわ 初 はつ の全編 ぜんぺん カラー映画 えいが は『どですかでん』で、以後 いご の作品 さくひん はすべてカラーで撮影 さつえい した。
作品 さくひん の画面 がめん サイズ は『どん底 ぞこ 』までは、スタンダードサイズ (画面 がめん 比率 ひりつ は1対 たい 1.33)だったが、黒澤 くろさわ は画面 がめん が狭 せま すぎるスタンダードサイズに不満 ふまん があり、『隠 かく し砦 とりで の三 さん 悪人 あくにん 』以降 いこう はシネマスコープ (画面 がめん 比率 ひりつ は1対 たい 2.35)を採用 さいよう した。黒澤 くろさわ は同 どう 作 さく について、「最初 さいしょ のシネスコ・サイズで大 おお きな画面 がめん にいろいろ入 はい るので、おもしろくて思 おも う存分 ぞんぶん 撮 と った[75] 」と述 の べている。『デルス・ウザーラ』では初 はじ めて70ミリフィルム を使用 しよう したが、『影武者 かげむしゃ 』以降 いこう の作品 さくひん はすべてビスタサイズ (画面 がめん 比率 ひりつ は1対 たい 1.66)で撮影 さつえい した。撮影 さつえい 監督 かんとく の斎藤 さいとう 孝雄 たかお によると、黒澤 くろさわ は画面 がめん 全体 ぜんたい を埋 う めなければ気 き が済 す まない人 ひと で、シネマスコープの広 ひろ い画面 がめん を埋 う めるのが大変 たいへん になったことからビスタサイズに変更 へんこう したという[148] 。
早坂 はやさか 文雄 ふみお と黒澤 くろさわ 。早坂 はやさか は8本 ほん の黒澤 くろさわ の映画 えいが で作曲 さっきょく を担当 たんとう した。
黒澤 くろさわ は映画 えいが 音楽 おんがく で、わざと映像 えいぞう と音楽 おんがく の調和 ちょうわ を崩 くず す「音 おと と映像 えいぞう の対位法 たいいほう 」を好 この んで使用 しよう した[150] 。スクリプター の野上 のかみ 照代 てるよ は「映画 えいが 音楽 おんがく は足 た し算 ざん ではなく、掛 か け算 ざん でなければならない」のが黒澤 くろさわ の持論 じろん だったとしている。黒澤 くろさわ とコンビを組 く んだ早坂 はやさか 文雄 ふみお は、黒澤 くろさわ の映画 えいが 音楽 おんがく に対 たい する考 かんが え方 かた は「画面 がめん と結合 けつごう することによって、ある連想 れんそう 作用 さよう によって、そこになにかが喚起 かんき され、その音楽 おんがく 自体 じたい に別 べつ な意味 いみ が附与 ふよ されてくるようなものでなくてはならない[151] 」ものだったとしている。対位法 たいいほう を使用 しよう する時 とき は、音源 おんげん をその画面 がめん に登場 とうじょう する既成 きせい のレコード 曲 きょく やラジオ から流 なが れる音楽 おんがく 、背景 はいけい の歌声 うたごえ などの現実 げんじつ 音 おん にする場合 ばあい が多 おお かった。対位法 たいいほう の代表 だいひょう 的 てき な使用 しよう 例 れい は『醉 よ いどれ天使 てんし 』と『野良犬 のらいぬ 』で、前者 ぜんしゃ では主人公 しゅじんこう が闇市 やみいち を歩 ある くシーンで「かっこうワルツ 」を流 なが し、後者 こうしゃ では佐藤 さとう 刑事 けいじ が犯人 はんにん に撃 う たれるシーンで「ラ・パロマ 」、村上 むらかみ 刑事 けいじ が犯人 はんにん と対峙 たいじ するシーンでクーラウ の「ソナチネ」のピアノ曲 きょく を流 なが している[151] 。
黒澤 くろさわ は映画 えいが 音楽 おんがく を作曲 さっきょく 家 か 任 まか せにせず、作曲 さっきょく 家 か に自分 じぶん の欲 ほ しいイメージを伝 つた え、それに強 つよ くこだわった。普段 ふだん からよく音楽 おんがく を聞 き いていた黒澤 くろさわ は、イメージを伝 つた えるために既成 きせい 曲 きょく を示 しめ し、それに似 に た音楽 おんがく にするよう指示 しじ することが多 おお かった[88] 。『羅生門 らしょうもん 』ではラヴェル の「ボレロ 」、『赤 あか ひげ』ではブラームス の「交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん 」やハイドン の「交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 94番 ばん 」、『乱 らん 』ではマーラー の「大地 だいち の歌 うた 」に似 に た曲 きょく が作 つく られている。『赤 あか ひげ』以降 いこう はラッシュ時 じ に自分 じぶん が選 えら んだ名曲 めいきょく を付 つ けるようになり、その曲 きょく に合 あ わせて編集 へんしゅう することもあった。そのため注文 ちゅうもん の厳 きび しい黒澤 くろさわ と作曲 さっきょく 家 か との軋轢 あつれき も多 おお く、『影武者 かげむしゃ 』では佐藤 さとう 勝 まさる が降板 こうばん し、『乱 らん 』では武満 たけみつ 徹 とおる とダビングをめぐり対立 たいりつ することもあった。
『蜘蛛 くも 巣 す 城 じょう 』のオープンセットに集 あつ まった黒澤 くろさわ 組 ぐみ の面々 めんめん (1956年 ねん 撮影 さつえい )。左 ひだり から一 いち 人 にん おいて矢野口 やのくち 文雄 ふみお 、岸田 きしだ 九一郎 きゅういちろう 、野 の 長瀬 ながせ 三 さん 摩 ま 地 ち 、斎藤 さいとう 孝雄 たかお 、三船 みふね 敏郎 としお 、千秋 ちあき 実 みのる 、志村 しむら 喬 たかし 、斉藤 さいとう 照代 てるよ 、村木 むらき 与四郎 よしろう 、黒澤 くろさわ 、根津 ねづ 博 ひろし 、中井 なかい 朝一 あさいち 、本木 もとぎ 荘 そう 二郎 じろう 。
黒澤 くろさわ は長年 ながねん 東宝 とうほう に所属 しょぞく していたこともあり、同 おな じスタッフやキャストと仕事 しごと をすることが多 おお く、彼 かれ らは「黒澤 くろさわ 組 ぐみ 」と呼 よ ばれた。黒澤 くろさわ 組 ぐみ の主 おも な人物 じんぶつ と参加 さんか 作品 さくひん 数 すう は以下 いか の通 とお りである(スタッフは3本 ほん 以上 いじょう 、キャストは5本 ほん 以上 いじょう の参加 さんか 者 しゃ のみ記述 きじゅつ )[154] 。
「完全 かんぜん 主義 しゅぎ という言葉 ことば が実際 じっさい あるかどうか知 し らないけれど、モノを作 つく る人間 にんげん が完全 かんぜん なものを目指 めざ さないはずがありませんよ」と黒澤 くろさわ はインタビューで言 い うように、表現 ひょうげん に一切 いっさい の妥協 だきょう を許 ゆる さず、「完璧 かんぺき 主義 しゅぎ 」と称 しょう されるエピソードが多 おお く存在 そんざい する。黒澤 くろさわ の映画 えいが に対 たい する数々 かずかず の拘 かかわ りは『完全 かんぜん 主義 しゅぎ 者 しゃ 』『天皇 てんのう 』という「映画 えいが 監督 かんとく ・黒澤 くろさわ 明 あきら 」のイメージを作 つく り上 あ げた。[155]
「川 かわ の流 なが れを逆 ぎゃく にしろ」「馬 うま が演技 えんぎ していない」などの無茶 むちゃ ぶりや「雲 くも 待 ま ち」「雨 あめ 待 ま ち」を行 おこな って平気 へいき で2、3日 にち 潰 つぶ すこともあった。[156]
「あの家 いえ の2階 かい が邪魔 じゃま になる。」と言 い って、それを聞 き いた助監督 じょかんとく たちは、その民家 みんか に出向 でむ き、「この家 いえ の屋根 やね を…取 と り壊 こわ させてください!」と頼 たの んだ。そして、撮影 さつえい 後 ご に建 た て直 なお すと言 い う条件 じょうけん 付 づけ で、どうにか、屋根 やね 部分 ぶぶん を取 と り壊 こわ す許可 きょか をもらった。[157]
1957年 ねん 製作 せいさく の『蜘蛛 くも 巣 す 城 じょう 』で、三船 みふね 敏郎 としお 演 えん じる武将 ぶしょう に無数 むすう の矢 や が浴 あ びせられるシーンでは使用 しよう したのは本物 ほんもの の矢 や を使 つか い、弓道 きゅうどう の有段者 ゆうだんしゃ 数 すう 人 にん が至近 しきん 距離 きょり から一斉 いっせい に矢 や を射 い た。
1963年 ねん 製作 せいさく 『天国 てんごく と地獄 じごく 』では、滑走 かっそう する電車 でんしゃ の中 なか から鉄橋 てっきょう に差 さ し掛 か かった時 とき に身代金 みのしろきん を投 な げ渡 わた すシーンで当時 とうじ としては異例 いれい の電車 でんしゃ を貸 か し切 き っての撮影 さつえい を行 おこな った。ダイヤを乱 みだ さぬように、通常 つうじょう の運行 うんこう 車両 しゃりょう を貸 か し切 き ったため、鉄橋 てっきょう を通過 つうか するチャンスは一 いち 度 ど きりであり、失敗 しっぱい は許 ゆる されない。そこで黒澤 くろさわ は、電車 でんしゃ の実物 じつぶつ 大 だい の模型 もけい をリハーサルのためだけに造 つく り、何 なん 度 ど も何 なん 度 ど もリハーサルを重 かさ ね本番 ほんばん に挑 いど みNGが許 ゆる されない一 いち 度 ど きりの撮影 さつえい のため、8台 だい のカメラを同時 どうじ に回 まわ し、なんとか無事 ぶじ 一 いち 回 かい で成功 せいこう した。
『天国 てんごく と地獄 じごく 』ではバーでのシーン。黒澤 くろさわ は「とにかくたくさんの客 きゃく で埋 う め尽 つ くしたい」と言 い っていたため、スタッフは500人 にん ものエキストラを用意 ようい した。しかしそれを見 み た黒澤 くろさわ は、「少 すく ないな…」と言 い い、急遽 きゅうきょ 、壁 かべ を鏡 かがみ 貼 ば りにさせ、その鏡 かがみ の映 うつ り込 こ みでエキストラが倍 ばい の人数 にんずう に見 み えるように工夫 くふう して撮影 さつえい した。
『羅生門 らしょうもん 』の冒頭 ぼうとう のすさまじい豪雨 ごうう が降 ふ り注 そそ ぐシーン。最初 さいしょ の撮影 さつえい では、ポンプ車 しゃ 4台 だい を用意 ようい し、大量 たいりょう の水 みず を放水 ほうすい した。だが、肉眼 にくがん で見 み るのとは違 ちが い、カメラで映 うつ すと、思 おも ったほどの豪雨 ごうう にならなかった。そこで黒澤 くろさわ は、水 みず に墨汁 ぼくじゅう を混 ま ぜることで、雨 あめ の迫力 はくりょく をました。さらに、雨 あめ の日 ひ を狙 ねら って撮影 さつえい するという、念 ねん には念 ねん の入 い れようだった。しかし、あまりに大量 たいりょう の水 みず を使 つか ったために、この地区 ちく は、一時 いちじ 的 てき に水不足 みずぶそく になってしまった。
映画 えいが 『デルス・ウザーラ』では秋 あき になると、黒澤 くろさわ はシベリアの美 うつく しい紅葉 こうよう の山々 やまやま の中 なか で撮影 さつえい したいと考 かんが えていたが、撮影 さつえい の前日 ぜんじつ 、季節 きせつ はずれの雨 あめ が降 ふ ってしまい、紅葉 こうよう した葉 は っぱが全 すべ て散 ち ってしまった。その木々 きぎ を見 み て黒澤 くろさわ は、スタッフに人工 じんこう の赤 あか や黄色 おうしょく の葉 は っぱを作 つく らせ、広大 こうだい な森中 もりなか の木々 きぎ に葉 は っぱを一 いち 枚 まい ずつ貼 は り付 づ けさせた。
また『デルス』の主人公 しゅじんこう が、野生 やせい の虎 とら に出 で くわすというシーンでは、当初 とうしょ 用意 ようい された虎 とら を見 み た黒澤 くろさわ は「この虎 とら は目 め が死 し んでいるよ。野生 やせい の虎 とら を捕 つか まえてきてくれないか?」と言 い い出 だ した。実 じつ はその虎 とら は、スタッフが撮影 さつえい 用 よう にサーカスから借 か りてきた虎 とら であり、虎 とら の表情 ひょうじょう にこだわった黒澤 くろさわ は結局 けっきょく 、目 め や顔 かお のアップシーンでは野生 やせい の虎 とら で、全体 ぜんたい の動 うご きが要求 ようきゅう されるカットには、最初 さいしょ に使 つか ったサーカスの虎 とら で撮影 さつえい を行 おこな った。
『キネマ旬報 きねまじゅんぽう 』1960年 ねん 2月 がつ 下旬 げじゅん 号 ごう より
『赤 あか ひげ 』撮影 さつえい 中 ちゅう の黒澤 くろさわ 明 あきら (1964年 ねん )
サングラス は1960年代 ねんだい 以降 いこう の黒澤 くろさわ のトレードマークである。黒澤 くろさわ は強 つよ い照明 しょうめい を使 つか う撮影 さつえい と、常 つね に自 みずか ら編集 へんしゅう 作業 さぎょう にたずさわっていたこともあって眼 め を悪 わる くしていたが、尊敬 そんけい するジョン・フォードも同 おな じく眼 め を傷 いた めており、フォードと会 あ った時 とき に彼 かれ から「眼 め を大事 だいじ にしろ」と忠告 ちゅうこく されたのがきっかけで、『用心棒 ようじんぼう 』からサングラスを着用 ちゃくよう するようになった。黒澤 くろさわ はフォードを真似 まね てサングラスだけでなく、『椿 つばき 三十郎 さんじゅうろう 』からハンチング帽 ぼう も被 こうむ るようになった。それまではピケ帽 ぼう を愛用 あいよう し、『デルス・ウザーラ』以後 いご はキャプテン帽 ぼう を被 こうむ った。
青年 せいねん 時代 じだい に画家 がか を志 こころざ していた黒澤 くろさわ は、ポール・セザンヌ やフィンセント・ファン・ゴッホ など後期 こうき 印象派 いんしょうは の画家 がか が好 す きだったが、富岡 とみおか 鉄斎 てっさい や前田 まえだ 青邨 せいそん などの日本 にっぽん 画家 がか も好 す きだと発言 はつげん していた。前田 まえだ からは兜 かぶと の絵 え を貰 もら い、その絵 え を大事 だいじ にしていたが、黒澤 くろさわ 家 か の家計 かけい が逼迫 ひっぱく した時 とき に売却 ばいきゃく したという。映画 えいが 界 かい に入 はい ってからは絵 え コンテはじめ映画 えいが のため以外 いがい で絵 え を描 えが くことはなかったが、晩年 ばんねん は水彩 すいさい や墨 すみ で仏画 ぶつが を描 えが くようになり、それらの絵 え に押 お す篆刻 てんこく の制作 せいさく にも熱中 ねっちゅう した。また、黒澤 くろさわ は自分 じぶん で絵 え を描 えが いたクリスマス・カード を手作 てづく りし、国内外 こくないがい の知人 ちじん に送 おく っていた。野上 のかみ によると、黒澤 くろさわ は時間 じかん があれば絵 え を描 えが き、机 つくえ の上 うえ に絵 え を描 えが く道具 どうぐ を置 お いておくと、サインペンでも絵具 えのぐ でも手当 てあて たり次第 しだい 使 つか って、子供 こども のように黙 だま って絵 え を描 えが いていたという。
私生活 しせいかつ の黒澤 くろさわ はグルメで知 し られ、とくに肉 にく 料理 りょうり を好 この んだ[162] 。小泉 こいずみ 堯史によると、黒澤 くろさわ は晩年 ばんねん になっても食欲 しょくよく は落 お ちず、ステーキ などを頬張 ほおば っていたという[162] 。黒澤 くろさわ 家 か の食卓 しょくたく の代表 だいひょう 的 てき な料理 りょうり は牛肉 ぎゅうにく 料理 りょうり で、黒澤 くろさわ 家 か に行 い けば美味 おい しい牛肉 ぎゅうにく が食 た べられると海外 かいがい の映画 えいが 関係 かんけい 者 しゃ にまで知 し れ渡 わた っていた。そのため牛肉 ぎゅうにく 代 だい だけで食費 しょくひ が高 たか くつき、1ヶ月 かげつ の牛肉 ぎゅうにく 代 だい が100万 まん 円 えん を突破 とっぱ することもあり、税務署 ぜいむしょ に疑 うたが われるという出来事 できごと もあったという。黒澤 くろさわ はスタッフの食事 しょくじ にまでうるさく、夏 なつ には撮影 さつえい 現場 げんば にかき氷 ごおり の屋台 やたい を用意 ようい したこともあった。黒澤 くろさわ は酒豪 しゅごう としても知 し られ、ジョニー・ウォーカー やホワイトホース などのウイスキー を愛飲 あいいん した[168] [169] 。
黒澤 くろさわ は寂 さび しがり屋 や の話 はな し好 す きで、気 き の合 あ う人 ひと とは話 はなし が尽 つ きないような人物 じんぶつ だった。お酒 さけ もみんなと一緒 いっしょ に賑 にぎ やかに飲 の むのが好 す きで、地方 ちほう ロケでは毎日 まいにち のように夜 よる は宴会 えんかい となり、俳優 はいゆう やスタッフたちと車座 くるまざ になり、一緒 いっしょ に夕食 ゆうしょく をしながら飲 の むことが多 おお かった[171] 。酔 よ いが進 すす むと黒澤 くろさわ はスタッフたちに輪唱 りんしょう をさせ、黒澤 くろさわ が指揮 しき 者 しゃ になりみんなを何 なん 組 くみ かに分 わ けて歌 うた わせたという。黒澤 くろさわ 組 ぐみ の常連 じょうれん 俳優 はいゆう である土屋 つちや 嘉男 よしお によると、黒澤 くろさわ は輪唱 りんしょう が上手 うま くいかないとダメ出 だ しをし、まるで撮影 さつえい の時 とき と同 おな じようになったと述 の べている。
評価 ひょうか ・影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
『キネマ旬報 きねまじゅんぽう 』1960年 ねん 1月 がつ 新春 しんしゅん 特別 とくべつ 号 ごう より
黒澤 くろさわ は助監督 じょかんとく 時代 じだい から演出 えんしゅつ や脚本 きゃくほん の力量 りきりょう が認 みと められ、監督 かんとく 処女 しょじょ 作 さく でいきなり大 おお きな注目 ちゅうもく と称賛 しょうさん を受 う けた数少 かずすく ない監督 かんとく だった[41] 。多 おお くの監督 かんとく 作品 さくひん が高 こう 評価 ひょうか を受 う けており、戦後 せんご のキネマ旬報 きねまじゅんぽう ベスト・テン では25作品 さくひん が10位 い 以内 いない に選出 せんしゅつ された[174] 。批評 ひひょう 家 か からは視覚 しかく 的 てき 演出 えんしゅつ 力 りょく 、劇的 げきてき で緻密 ちみつ な脚本 きゃくほん 構成 こうせい 、絵画 かいが 的 てき 造形 ぞうけい 力 りょく などが高 たか く評価 ひょうか される反面 はんめん 、強 つよ い娯楽 ごらく 性 せい や独自 どくじ の倫理 りんり 観 かん には賛否 さんぴ が分 わ かれることもあった[175] 。1960年代 ねんだい の政治 せいじ 運動 うんどう の激 はげ しい時代 じだい には、若 わか い世代 せだい により反 はん 黒澤 くろさわ 論 ろん も書 か かれたが、それらの多 おお くは黒澤 くろさわ 作品 さくひん における武士 ぶし 道 どう 的 てき ストイシズム、反 はん 庶民 しょみん 的 てき ヒロイズム、家父長制 かふちょうせい 的 てき 権威 けんい 主義 しゅぎ に反発 はんぱつ している[176] 。作品 さくひん が西洋 せいよう 的 てき であることから日本人 にっぽんじん 離 ばな れしていると見 み なされることもあり、海外 かいがい では最 もっと も西洋 せいよう 的 てき な日本人 にっぽんじん 監督 かんとく と考 かんが えられているが[53] 、フランスの映画 えいが 研究 けんきゅう 家 か サッシャ・エズラッティは「彼 かれ (黒澤 くろさわ )はそのインスピレーションを、その生 う まれた国 くに の土 ど の中 なか と同様 どうよう に、国境 こっきょう の外 そと からも得 え るという、非常 ひじょう に大 おお きな教養 きょうよう を持 も った男 おとこ である。黒澤 くろさわ はその国民 こくみん 的 てき な性格 せいかく を完全 かんぜん に保 たも ちながら、日本 にっぽん 映画 えいが に世界 せかい 性 せい を持 も たせたという功績 こうせき を持 も っている」と評価 ひょうか している。
評論 ひょうろん 家 か の多田 ただ 道太郎 みちたろう は「黒澤 くろさわ 明 あきら は、おそらく日本 にっぽん 映画 えいが 史上 しじょう 初 はじ めての映画 えいが 芸術 げいじゅつ の中 なか に個人 こじん をもち込 こ もうとした作家 さっか 」と高 たか く評価 ひょうか している[179] 。都築 つづき や映画 えいが 批評 ひひょう 家 か の岩崎 いわさき 昶 あきら は、黒澤 くろさわ を「観念 かんねん 的 てき 作家 さっか 」と評価 ひょうか した[181] 。哲学 てつがく 者 しゃ の梅原 うめはら 猛 たけし は黒澤 くろさわ を愛 あい の作家 さっか であるとし、「黒澤 くろさわ 明 あきら は、どのような文学 ぶんがく 者 しゃ よりも人間 にんげん 愛 あい に富 と んでいるようだ。彼 かれ の作中 さくちゅう 人物 じんぶつ は、戦後 せんご のいかなる文学 ぶんがく 者 しゃ の作品 さくひん より、生 い き生 い きとした愛 あい の行為 こうい の実践 じっせん 者 しゃ である」と評 ひょう している。増村 ますむら 保 たもつ 造 づくり は黒澤 くろさわ の画面 がめん 作 づく りを高 たか く評価 ひょうか し、その絵画 かいが 性 せい は表現 ひょうげん 主義 しゅぎ のフリッツ・ラング の作画 さくが 力 りょく に近 ちか いとしている[183] 。一方 いっぽう 、映画 えいが 批評 ひひょう 家 か の飯田 いいだ 心 しん 美 び は、黒澤 くろさわ の絵画 かいが 性 せい について「黒澤 くろさわ は人物 じんぶつ を素描 そびょう するかわりに色彩 しきさい を駆使 くし し、多彩 たさい な色調 しきちょう のなかにモチーフを展開 てんかい してゆくタイプである。そして、その画 が 法 ほう も清水 しみず 宏 ひろし のごとき水彩 すいさい のタッチではなく、あくまで人 ひと の目 め を射 い るごとき油彩 ゆさい である」と評 ひょう し、その印象 いんしょう をフォーヴィスム の絵画 かいが と重 かさ ねた[179] 。
一方 いっぽう で映画 えいが 製作 せいさく 者 しゃ だった角川 かどかわ 春樹 はるき のように、黒澤 くろさわ 信者 しんじゃ からアンチ黒澤 くろさわ に転向 てんこう した人物 じんぶつ も存在 そんざい する。角川 かどかわ は「今 いま まで観 み た映画 えいが のベストは『七人 しちにん の侍 さむらい 』と『ゴッドファーザー 』だ」と公言 こうげん し、少年 しょうねん 時代 じだい から黒澤 くろさわ をリスペクトして、映画 えいが 製作 せいさく を夢見 ゆめみ ていたが、映画 えいが 『影武者 かげむしゃ 』の有 ゆう 楽座 らくざ で行 おこな われたワールド・プレミアにて、東宝 とうほう の社長 しゃちょう だった松岡 まつおか 功 いさお の紹介 しょうかい があったにも関 かか わらず、黒澤 くろさわ に無視 むし された上 うえ に握手 あくしゅ も拒否 きょひ され、その後 ご 、プレミア上映 じょうえい の最中 さいちゅう に、微醺 びくん 状態 じょうたい の黒澤 くろさわ がジョージ・ルーカス とフランシス・フォード・コッポラ を引 ひ き連 つ れて姿 すがた を現 あらわ すと、自身 じしん が遅 おく れてきたことを理由 りゆう に上映 じょうえい を中止 ちゅうし させ、最初 さいしょ からやり直 なお しをさせる光景 こうけい を見 み て幻滅 げんめつ し、以降 いこう プロデュースする意欲 いよく は一切 いっさい なくなったという。角川 かどかわ は『影武者 かげむしゃ 』に関 かん して、「私 わたし がプロデューサーなら20分 ふん 切 き る」「時代 じだい 考証 こうしょう も疎 おろ か」「合戦 かっせん シーンも『七人 しちにん の侍 さむらい 』に比 くら べると迫力 はくりょく がなかった」と批判 ひはん し、取材 しゅざい の最後 さいご に「何 なに が黒澤 くろさわ 天皇 てんのう だ(笑)」と吐 は き捨 す てている[184] 。
映画 えいが 監督 かんとく の評価 ひょうか と影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
ポーランド にあるイングマール・ベルイマン の胸像 きょうぞう 。黒澤 くろさわ はベルイマンを賞賛 しょうさん し、彼 かれ の70歳 さい の誕生 たんじょう 日 び に手紙 てがみ を書 か いた[185] 。
国内外 こくないがい の多 おお くの映画 えいが 監督 かんとく が黒澤 くろさわ の影響 えいきょう を受 う け、その作品 さくひん を賞賛 しょうさん している。黒澤 くろさわ と同 どう 時期 じき に活躍 かつやく したイングマール・ベルイマン は、自作 じさく の『処女 しょじょ の泉 いずみ 』(1960年 ねん )を「黒澤 くろさわ の観光 かんこう 気分 きぶん のあさましい模倣 もほう 」と述 の べている[186] 。フェデリコ・フェリーニ は黒澤 くろさわ 作品 さくひん を見 み ることは「アリオスト を読 よ むようなものだ」と賞賛 しょうさん している[187] 。サタジット・レイ は『羅生門 らしょうもん 』の光 ひかり の使 つか い方 かた に影響 えいきょう を受 う けたことを明 あき らかにしている[188] 。アンドレイ・タルコフスキー は好 す きな作品 さくひん の1本 ほん に『七人 しちにん の侍 さむらい 』を挙 あ げている[189] 。ベルナルド・ベルトルッチ とヴェルナー・ヘルツォーク も、影響 えいきょう を受 う けた監督 かんとく の一人 ひとり として黒澤 くろさわ の名 な を挙 あ げている[190] [191] 。
スタンリー・キューブリック のアシスタントを務 つと めたアンソニー・フルーウィン (英語 えいご 版 ばん ) によると、キューブリックは黒澤 くろさわ を偉大 いだい な映画 えいが 監督 かんとく の一人 ひとり と考 かんが え、高 たか く評価 ひょうか していたという。黒澤 くろさわ もキューブリックを賞賛 しょうさん しており、1990年代 ねんだい 後半 こうはん にキューブリック宛 あ てにファンレターを送 おく ったが、それに感激 かんげき したキューブリックは返信 へんしん の内容 ないよう に悩 なや み、数ヶ月 すうかげつ もかけて返事 へんじ を書 か き直 なお すも、その間 あいだ に黒澤 くろさわ が亡 な くなってしまい、ひどく動揺 どうよう したというエピソードがある[192] 。
1970年代 ねんだい 以降 いこう のハリウッド映画 えいが で活躍 かつやく したコッポラ、ルーカス、スピルバーグ、スコセッシ、ジョン・ミリアス などは黒澤 くろさわ を尊敬 そんけい する師 し と仰 あお ぎ、それぞれの作品 さくひん も黒澤 くろさわ から強 つよ い影響 えいきょう を受 う けている[195] [196] 。コッポラは「私 わたし たち(ルーカスとコッポラ)は黒澤 くろさわ 監督 かんとく の"芸術 げいじゅつ 的 てき な息子 むすこ "といっていい存在 そんざい 」と語 かた り、黒澤 くろさわ をノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう に推薦 すいせん しようとしたことがある[197] 。コッポラの監督 かんとく 作 さく 『ゴッドファーザー 』(1972年 ねん )の冒頭 ぼうとう の結婚式 けっこんしき のシーンは、『悪 わる い奴 やつ ほどよく眠 ねむ る』の影響 えいきょう を受 う けている[88] 。スピルバーグは黒澤 くろさわ を「現代 げんだい の映画 えいが 界 かい におけるシェイクスピア [198] 」と評 ひょう し、「映画 えいが 製作 せいさく 者 しゃ としてのぼくの仕事 しごと に多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えた。映像 えいぞう はもちろんアートにおけるぼくの審美 しんび 眼 め は、彼 かれ の影響 えいきょう を受 う けている[199] 」と述 の べている。
また、アレクサンダー・ペイン は黒澤 くろさわ のファンで、『七人 しちにん の侍 さむらい 』『赤 あか ひげ』を好 す きな映画 えいが に挙 あ げている[200] 。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ は19歳 さい の時 とき に見 み た『生 い きる』に衝撃 しょうげき を受 う けたことを明 あ かし、自身 じしん の作品 さくひん である『BIUTIFUL ビューティフル 』を製作 せいさく した際 さい に影響 えいきょう を受 う けたことを認 みと め、黒澤 くろさわ を「映画 えいが のストーリーの構成 こうせい を変 か えようとした天才 てんさい のうちの一人 ひとり 」と高 たか く評価 ひょうか した[201] 。ウェス・アンダーソン はアニメーション映画 えいが 『犬 いぬ ヶ島 とう 』(2018年 ねん )で黒澤 くろさわ の影響 えいきょう を受 う けていることを明言 めいげん している[202] 。そのほか、サム・ペキンパー [203] 、アーサー・ペン [204] 、リドリー・スコット [205] 、ジョージ・ミラー [206] 、ジョン・ウー [207] 、チャン・イーモウ [208] 、三池 みいけ 崇史 たかふみ [209] 、塚本 つかもと 晋 すすむ 也[210] 、助監督 じょかんとく 出身 しゅっしん 者 しゃ は一 いち 作品 さくひん に就 つ いただけの野村 のむら 芳太郎 よしたろう 、加藤 かとう 泰 やすし 、中平 なかひら 康 やすし らを含 ふく めると膨大 ぼうだい な人数 にんずう となるが、初期 しょき の堀川 ほりかわ 弘通 ひろみち 、中期 ちゅうき に就 つ いて最多 さいた の本数 ほんすう でチーフをつとめた森谷 もりたに 司郎 しろう [211] 、晩年 ばんねん 期 き の小泉 こいずみ 堯史[212] らが黒澤 くろさわ の影響 えいきょう を受 う けた愛弟子 まなでし として名 な を挙 あ げられることが多 おお い。
リメイクと諸 しょ 作品 さくひん への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
これまでに黒澤 くろさわ 作品 さくひん は国内外 こくないがい で何 なん 度 ど もリメイク されている。ハリウッド映画 えいが では、ジョン・スタージェス 監督 かんとく の『荒野 あらの の七 なな 人 にん 』(1960年 ねん )が『七人 しちにん の侍 さむらい 』、マーティン・リット 監督 かんとく の『暴行 ぼうこう 』(1964年 ねん )が『羅生門 らしょうもん 』を公式 こうしき にリメイクし、それぞれ舞台 ぶたい を西部 せいぶ 劇 げき に移 うつ し替 か えている[57] 。セルジオ・レオーネ 監督 かんとく のマカロニ・ウエスタン 『荒野 あらの の用心棒 ようじんぼう 』(1964年 ねん )は、『用心棒 ようじんぼう 』を非公式 ひこうしき でリメイクした作品 さくひん で、黒澤 くろさわ は東宝 とうほう とともに著作 ちょさく 権 けん 侵害 しんがい で告訴 こくそ し、和解 わかい に応 おう じた製作 せいさく 者 しゃ 側 がわ から日本 にっぽん などの配給 はいきゅう 権 けん と世界 せかい 興行 こうぎょう 収入 しゅうにゅう の15%を受 う け取 と っている[213] 。内川 うちかわ 清一郎 せいいちろう 監督 かんとく の『姿 すがた 三四郎 さんしろう 』(1965年 ねん )は、黒澤 くろさわ プロダクションが『姿 すがた 三 さん 四 よん 郎 ろう 』『續 ぞく 姿 すがた 三 さん 四 よん 郎 ろう 』を合 あ わせてリメイクした作品 さくひん で、黒澤 くろさわ 自身 じしん がプロデューサーを務 つと めた[57] 。
スター・ウォーズシリーズ は黒澤 くろさわ 作品 さくひん から部分 ぶぶん 的 てき な影響 えいきょう を受 う けている。ルーカスによるシリーズ1作 さく 目 め 『スター・ウォーズ エピソード4/新 あら たなる希望 きぼう 』(1977年 ねん )のストーリーのアイデアは『隠 かく し砦 とりで の三 さん 悪人 あくにん 』を元 もと にしており、黒澤 くろさわ 作品 さくひん で特徴 とくちょう 的 てき なワイプによる場面 ばめん 転換 てんかん も採用 さいよう している[214] 。C-3PO とR2-D2 は、『隠 かく し砦 とりで の三 さん 悪人 あくにん 』の登場 とうじょう 人物 じんぶつ である百姓 ひゃくしょう の太平 たいへい と又七 またしち がモデルであることをルーカス自身 じしん が認 みと めている。シリーズ7作 さく 目 め の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒 かくせい 』(2015年 ねん )では、J・J・エイブラムス 監督 かんとく がシーンの構図 こうず とキャラクターの立 た ち位置 いち を『天国 てんごく と地獄 じごく 』を参考 さんこう にしたことを明 あき らかにし[216] 、シリーズ8作 さく 目 め の『スター・ウォーズ/最後 さいご のジェダイ 』(2017年 ねん )では、ライアン・ジョンソン 監督 かんとく が脚本 きゃくほん に『羅生門 らしょうもん 』などの影響 えいきょう を受 う けたことを明 あき らかにしている[217] 。
2020年 ねん 発売 はつばい のPlayStation 4 用 よう ゲームソフト 『Ghost of Tsushima 』は、黒澤 くろさわ の時代 じだい 劇映画 げきえいが から強 つよ い影響 えいきょう を受 う けており、黒澤 くろさわ に敬意 けいい を込 こ めてゲーム画面 がめん をモノクロで表示 ひょうじ し、1950年代 ねんだい の黒澤 くろさわ 作品 さくひん の質感 しつかん を再現 さいげん した「Kurosawa Mode(黒澤 くろさわ モード)」という機能 きのう を搭載 とうさい している[218] 。同 どう 作 さく の開発 かいはつ 者 しゃ の一人 ひとり であるジェイソン・コーネルは、黒澤 くろさわ 作品 さくひん の演出 えんしゅつ とカメラワークを大 おお いに参考 さんこう にし、風 かぜ を使用 しよう した演出 えんしゅつ も黒澤 くろさわ 作品 さくひん で風 ふう が効果 こうか 的 てき に使 つか われていることに触発 しょくはつ されたと語 かた っている[219] 。
没後 ぼつご 、数 すう 本 ほん の未 み 映像 えいぞう 化 か 脚本 きゃくほん が映画 えいが 化 か された。『雨 あめ あがる』は黒澤 くろさわ の助監督 じょかんとく を務 つと めた小泉 こいずみ 堯史 が脚本 きゃくほん を完成 かんせい させ、2000年 ねん に映画 えいが 化 か 作品 さくひん を公開 こうかい した[34] 。同年 どうねん に四 よん 騎 き の会 かい で企画 きかく した『どら平太 へいた 』が市川 いちかわ 崑 こん 監督 かんとく で映画 えいが 化 か され、2004年 ねん には『海 うみ は見 み ていた』が熊井 くまい 啓 あきら 監督 かんとく で映画 えいが 化 か された[34] 。また、2017年 ねん 3月 がつ に中国 ちゅうごく の映画 えいが 会社 かいしゃ である華 はな 誼 よしみ 兄弟 きょうだい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) が『黒 くろ き死 し の仮面 かめん 』の映画 えいが 化 か を発表 はっぴょう し[220] 、同年 どうねん 5月 がつ には中国 ちゅうごく 企業 きぎょう のジンカ・エンターテインメントも未 み 映像 えいぞう 化 か 脚本 きゃくほん 10本 ほん の映画 えいが 化 か を発表 はっぴょう したが[221] 、どちらもその後 ご の進展 しんてん は報道 ほうどう されていない。
黒澤 くろさわ の名 な を冠 かん した賞 しょう や施設 しせつ も作 つく られた。1986年 ねん にサンフランシスコ国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい に「黒澤 くろさわ 明 あきら 賞 しょう 」が制定 せいてい され、黒澤 くろさわ 自身 じしん が第 だい 1回 かい 受賞 じゅしょう 者 しゃ となり、2002年 ねん まで授与 じゅよ された[222] 。2004年 ねん には東京国際映画祭 とうきょうこくさいえいがさい に「黒澤 くろさわ 明 あきら 賞 しょう 」が設 もう けられた。同 どう 賞 しょう は「日本 にっぽん 文化 ぶんか の再 さい 創造 そうぞう への象徴 しょうちょう となり、広 ひろ く世界 せかい の映画 えいが 文化 ぶんか の発展 はってん に貢献 こうけん すること」を目的 もくてき に設立 せつりつ され、2008年 ねん まで授与 じゅよ された[223] 。2010年 ねん 、カリフォルニア州 しゅう のアナハイム大学 だいがく に映画 えいが 学校 がっこう 「黒澤 くろさわ 明 あきら スクールオブフィルム 」が開校 かいこう し、美術 びじゅつ 学 がく 修士 しゅうし 号 ごう が取得 しゅとく できるオンライン教育 きょういく プログラムを提供 ていきょう している[224] 。
1998年 ねん に佐賀 さが 県 けん 伊万里 いまり 市 し で黒澤 くろさわ 明 あきら 記念 きねん 館 かん を建設 けんせつ する計画 けいかく がスタートし、1999年 ねん 7月 がつ 2日 にち に伊万里 いまり 市 し の商業 しょうぎょう 施設 しせつ に仮 かり 施設 しせつ となる「黒澤 くろさわ 明 あきら 記念 きねん 館 かん サテライトスタジオ」が開館 かいかん した[225] 。記念 きねん 館 かん は黒澤 くろさわ 明 あきら 文化 ぶんか 振興 しんこう 財団 ざいだん が寄付 きふ 金 きん を募 つの って建設 けんせつ する予定 よてい だったが、2010年 ねん 1月 がつ に寄付 きふ 金 きん の約 やく 3億 おく 8000万 まん 円 えん が財団 ざいだん の決算 けっさん 書類 しょるい の流動 りゅうどう 資産 しさん に記載 きさい されていないことが発覚 はっかく した。翌月 よくげつ 、黒澤 くろさわ 明 あきら 文化 ぶんか 振興 しんこう 財団 ざいだん の黒澤 くろさわ 久雄 ひさお らは「資金 しきん の大半 たいはん は仮 かり 施設 しせつ の運営 うんえい などで使 つか い果 は たしてしまった」と陳謝 ちんしゃ したが、実際 じっさい は資金 しきん の私的 してき 利用 りよう によるもので、不正 ふせい 利用 りよう した費用 ひよう 全額 ぜんがく は久雄 ひさお が払 はら うという方向 ほうこう で決定 けってい した[226] [227] 。その後 ご 、財団 ざいだん 側 がわ が多額 たがく の資金 しきん を集 あつ めて記念 きねん 館 かん を作 つく ることが現実 げんじつ 的 てき でないとした上 うえ で、サテライトスタジオを本 ほん 記念 きねん 館 かん にリニューアルしたいとの意向 いこう を示 しめ し、記念 きねん 館 かん 建設 けんせつ を事実 じじつ 上 じょう 断念 だんねん することを決 き めたが、2011年 ねん 3月6日 にち にサテライトスタジオも閉館 へいかん した[228] [229] 。
2009年 ねん 5月、黒澤 くろさわ プロダクションと龍谷大 りゅうこくだい 学 がく の共同 きょうどう プロジェクトで「黒澤 くろさわ デジタルアーカイブ」を開設 かいせつ し、未 み 公開 こうかい の創作 そうさく ノートやメモ、絵 え コンテ、台本 だいほん 、撮影 さつえい 時 じ の写真 しゃしん などの資料 しりょう が、インターネット上 じょう で一般 いっぱん 公開 こうかい された[230] 。
黒澤 くろさわ が自作 じさく と認 みと めた監督 かんとく 作品 さくひん は30本 ほん あり[注釈 ちゅうしゃく 7] 、そのすべてで脚本 きゃくほん を執筆 しっぴつ した(共同 きょうどう 執筆 しっぴつ を含 ふく む)[注釈 ちゅうしゃく 13] 。※印 しるし はプロデューサーを兼任 けんにん した作品 さくひん 。
脚本 きゃくほん 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
特記 とっき がない限 かぎ りは『大系 たいけい 黒澤 くろさわ 明 あきら 別巻 べっかん 』の「解説 かいせつ ・黒澤 くろさわ 明 あきら の脚本 きゃくほん 」による[34] 。
特記 とっき がない限 かぎ りは『大系 たいけい 黒澤 くろさわ 明 あきら 第 だい 4巻 かん 』と『黒澤 くろさわ 明 あきら 集成 しゅうせい 』の年表 ねんぴょう による[10] [18] 。
映画 えいが
美 うつく しき鷹 たか (1937年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
地熱 じねつ (1938年 ねん 、滝沢 たきざわ 英輔 えいすけ 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
藤 ふじ 十郎 じゅうろう の恋 こい (1938年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
綴方 つづりかた 教室 きょうしつ (1938年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
エノケンのびっくり人生 じんせい (1938年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
エノケンのがっちり時代 じだい (1939年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
忠臣蔵 ちゅうしんぐら 後 ご 篇 へん (1939年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 助 じょ 演出 えんしゅつ
のんき横丁 よこちょう (1939年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
ロッパの新婚 しんこん 旅行 りょこう (1940年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
エノケンのざんぎり金太 きんた (1940年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
孫 まご 悟空 ごくう 前後 ぜんこう 篇 へん (1940年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
馬 うま (1941年 ねん 、山本 やまもと 嘉次郎 かじろう 監督 かんとく ) - 製作 せいさく 主任 しゅにん
五 ご 十 じゅう 万 まん 人 にん の遺産 いさん (1963年 ねん 、三船 みふね 敏郎 としお 監督 かんとく ) - 編集 へんしゅう 協力 きょうりょく ※ノンクレジット[57]
野良犬 のらいぬ (1973年 ねん 、森崎 もりさき 東 ひがし 監督 かんとく ) - 原作 げんさく
テレビ番組 ばんぐみ
馬 うま の詩 し (1971年 ねん 、日本 にほん テレビ ) - 監修 かんしゅう ※ドキュメンタリー
テレビCM
舞台 ぶたい
喋 しゃべ る(1945年 ねん 、新生 しんせい 新派 しんぱ 公演 こうえん ) - 脚本 きゃくほん
酔 よ いどれ天使 てんし (1948年 ねん 、東宝 とうほう 従業 じゅうぎょう 員 いん 組合 くみあい ) - 演出 えんしゅつ [16]
結婚 けっこん の申込 もうしこ み(1948年 ねん 、東宝 とうほう 従業 じゅうぎょう 員 いん 組合 くみあい ) - 演出 えんしゅつ [16]
作詞 さくし
フランス のカンヌ にある黒澤 くろさわ のセメントの手形 てがた 。
黒澤 くろさわ は国内外 こくないがい で多数 たすう の映画 えいが 賞 しょう を受賞 じゅしょう しており、作品 さくひん はアカデミー賞 しょう 、世界 せかい 三 さん 大 だい 映画 えいが 祭 さい のカンヌ国際映画祭 かんぬこくさいえいがさい 、ヴェネツィア国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい 、ベルリン国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい のすべてで受賞 じゅしょう 経験 けいけん がある。また、1976年 ねん に映画 えいが 人 じん として初 はじ めて文化 ぶんか 功労 こうろう 者 しゃ に顕彰 けんしょう され[10] 、1985年 ねん に同 おな じく映画 えいが 人 じん 初 はつ となる文化 ぶんか 勲章 くんしょう を受章 じゅしょう した[88] 。1990年 ねん には第 だい 62回 かい アカデミー賞 しょう で名誉 めいよ 賞 しょう を受賞 じゅしょう した。授賞 じゅしょう 式 しき のプレゼンターはスピルバーグとルーカスが務 つと め、黒澤 くろさわ は受賞 じゅしょう スピーチで「私 わたし はまだ映画 えいが がよく分 わ かっていない 」と語 かた ったり、会場 かいじょう からは笑 わら いに包 つつ まれた。。没後 ぼつご の1998年 ねん 10月 がつ 、「数々 かずかず の不朽 ふきゅう の名作 めいさく によって国民 こくみん に深 ふか い感動 かんどう を与 あた えるとともに、世界 せかい の映画 えいが 史 し に輝 かがや かしい足跡 あしあと を残 のこ した」功績 こうせき により、映画 えいが 監督 かんとく 初 はつ となる国民 こくみん 栄誉 えいよ 賞 しょう が贈 おく られた[234] 。2009年 ねん にはシェイクスピア作品 さくひん に縁 えん のある、または影響 えいきょう を受 う けた芸術 げいじゅつ 家 か を対象 たいしょう とするシェイクスピア・ホール・オブ・フェームの殿堂 でんどう 入 い りを果 は たした[235] 。
英国 えいこく 映画 えいが 協会 きょうかい のサイト・アンド・サウンド (英語 えいご 版 ばん ) 誌 し が10年 ねん 毎 ごと に発表 はっぴょう した映画 えいが 監督 かんとく のランキングでは、1982年 ねん に批評 ひひょう 家 か 投票 とうひょう で5位 い [236] 、1992年 ねん に監督 かんとく 投票 とうひょう で3位 い [237] 、2002年 ねん に批評 ひひょう 家 か 投票 とうひょう で6位 い [238] 、監督 かんとく 投票 とうひょう で3位 い [239] に選 えら ばれた。また、1996年 ねん にエンターテインメント・ウィークリー 誌 し が発表 はっぴょう した「50人 にん の偉大 いだい な映画 えいが 監督 かんとく 」リストで6位 い [240] 、2002年 ねん にMovieMaker 誌 し が発表 はっぴょう した「史上 しじょう 最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく のある映画 えいが 監督 かんとく 25人 にん 」のリストで12位 い [240] 、2007年 ねん にTotal Film 誌 し が発表 はっぴょう した「100人 にん の偉大 いだい な映画 えいが 監督 かんとく 」で11位 い [241] にランクした。
以下 いか の表 ひょう は、黒澤 くろさわ の主 おも な映画 えいが 賞 しょう の受賞 じゅしょう とノミネートのリストである。このリストには、黒澤 くろさわ 個人 こじん が受賞 じゅしょう した賞 しょう (監督 かんとく 賞 しょう 、脚本 きゃくほん 賞 しょう 、生涯 しょうがい 功労賞 こうろうしょう など)だけではなく、黒澤 くろさわ が直接 ちょくせつ 受賞 じゅしょう したがどうかにかかわらず作品 さくひん 自体 じたい に与 あた えられた作品 さくひん 賞 しょう や外国 がいこく 語 ご 映画 えいが 賞 しょう も含 ふく まれる(プロデューサーが受賞 じゅしょう 者 しゃ である賞 しょう も、黒澤 くろさわ 作品 さくひん の受賞 じゅしょう ・ノミネートとしてリストに含 ふく める)。
栄典 えいてん ・称号 しょうごう [ 編集 へんしゅう ]
ドキュメンタリー作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
『AK ドキュメント黒澤 くろさわ 明 あきら (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 』(1985年 ねん 、クリス・マルケル ) - 『乱 らん 』の撮影 さつえい 現場 げんば を記録 きろく した作品 さくひん [288]
『Kurosawa: The Last Emperor 』(1999年 ねん 、アレックス・コックス )[190]
『黒澤 くろさわ 明 あきら からのメッセージ 美 うつく しい映画 えいが を』(2000年 ねん 、黒澤 くろさわ 久雄 ひさお )[289]
『Kurosawa 』(2001年 ねん 、アダム・ロウ)[290]
『Akira Kurosawa: The Epic and the Intimate 』(2010年 ねん )[290]
『黒澤 くろさわ その道 みち (英語 えいご 版 ばん ) 』(2011年 ねん 、カトリーヌ・カドゥ) - 黒澤 くろさわ に影響 えいきょう を受 う けた11人 にん の監督 かんとく にインタビューした作品 さくひん [291]
『Life work of Akira Kurosawa黒澤 くろさわ 明 あきら のライフワーク』(2022年 ねん 、河村 かわむら 光彦 みつひこ ) ー 『乱 らん 』の撮影 さつえい 現場 げんば を1年間 ねんかん 記録 きろく した作品 さくひん (映倫 えいりん 「次世代 じせだい への映画 えいが 推薦 すいせん 委員 いいん 会 かい 」推薦 すいせん )
著書 ちょしょ ・対談 たいだん 集 しゅう
画集 がしゅう 、創作 そうさく ノート
^ 現 げん :東京 とうきょう 都 と 品川 しながわ 区 く 東大井 ひがしおおい
^ 黒澤 くろさわ 優 ゆう の夫 おっと は、歌手 かしゅ の松岡 まつおか 充 たかし である。
^ 勇 いさむ の先祖 せんぞ は代々 だいだい 神職 しんしょく をしていたが、戊辰戦争 ぼしんせんそう で官軍 かんぐん に味方 みかた し、その功績 こうせき で帯刀 たいとう を許 ゆる されて士族 しぞく になった。
^ その5つの作品 さくひん は『建築 けんちく 場 じょう に於 お ける集会 しゅうかい 』(水彩 すいさい 画 が )、『農民 のうみん 習作 しゅうさく 』『帝国 ていこく 主義 しゅぎ 戦争 せんそう 反対 はんたい 』『農民 のうみん 組合 くみあい へ』(以上 いじょう 油絵 あぶらえ )、『労働 ろうどう 組合 くみあい へ』(ポスター)である。
^ 黒澤 くろさわ の自伝 じでん によると、丙午 ひのえうま (須田 すだ 貞明 さだあき )は「30歳 さい になる前 まえ に死 し ぬ、人間 にんげん 30を越 こ すと醜悪 しゅうあく になるばかりだ」と口癖 くちぐせ のように言 い っていたという。丙午 ひのえうま はアルツィバーシェフ の『最後 さいご の一線 いっせん 』を「世界 せかい 最高 さいこう の文学 ぶんがく 」と推奨 すいしょう し、主人公 しゅじんこう の自殺 じさつ への信条 しんじょう に賛同 さんどう していて、黒澤 くろさわ はそれが文学 ぶんがく 青年 せいねん である兄 あに の誇張 こちょう した考 かんが えに過 す ぎないと思 おも っていたが、兄 あに の口癖 くちぐせ の通 とお り27歳 さい で自殺 じさつ した。
^ 東宝 とうほう の助監督 じょかんとく はサード、セカンド、チーフと昇進 しょうしん するが、プロデューサー・システムを導入 どうにゅう して製作 せいさく 者 しゃ の権限 けんげん を強化 きょうか していたこともあり、チーフ助監督 じょかんとく を「製作 せいさく 主任 しゅにん 」と呼 よ んでいた。黒澤 くろさわ はセカンドをやらずにチーフに昇進 しょうしん している[16] 。
^ a b 黒澤 くろさわ は『わが青春 せいしゅん に悔なし』の完成 かんせい 前 まえ に、山本 やまもと と関川 せきかわ 秀雄 ひでお とともに『明日 あした を創 つく る人々 ひとびと 』(1946年 ねん )を共同 きょうどう 監督 かんとく しているが、黒澤 くろさわ はこれを「自分 じぶん の作品 さくひん とは思 おも えない」として自作 じさく のリストから外 はず している。
^ 時代 じだい 劇 げき 三 さん 部 ぶ 作 さく は、黒澤 くろさわ が小國 おぐに 英雄 ひでお 、菊 きく 島 しま 隆三 りゅうぞう 、橋本 はしもと 忍 しのぶ と企画 きかく を練 ね り、当初 とうしょ は『蜘蛛 くも 巣 す 城 じょう 』(本多 ほんだ 猪 いの 四郎 しろう 監督 かんとく )、『隠 かく し砦 とりで の三 さん 悪人 あくにん 』(鈴木 すずき 英夫 ひでお 監督 かんとく )、『仇 かたき 討 う ち』(堀川 ほりかわ 弘通 ひろみち 監督 かんとく )で決定 けってい したが、『仇 かたき 討 う ち』は話 はなし が暗 くら いとして取 と り上 あ げず、『用心棒 ようじんぼう 』に変更 へんこう された[57] [62] 。『仇 かたき 討 う ち』は1964年 ねん に今井 いまい 正 ただし 監督 かんとく で『仇討 あだうち 』として映画 えいが 化 か された[62] 。最終 さいしゅう 的 てき に三 さん 部 ぶ 作 さく は『蜘蛛 くも 巣 す 城 じょう 』『どん底 ぞこ 』『隠 かく し砦 とりで の三 さん 悪人 あくにん 』となった。
^ 『嫉妬 しっと 』の他 ほか のエピソードは、キャロル・リード 、ジャン・コクトー 、ヴィットリオ・デ・シーカ 、ロベルト・ロッセリーニ が担当 たんとう する予定 よてい だった[34] 。
^ 1976年 ねん に文化 ぶんか 功労 こうろう 者 しゃ に打診 だしん されたときは「政治 せいじ が映画 えいが に関心 かんしん を持 も ってくれた」と受 う け止 と めてもらうことを決 き め、受章 じゅしょう 時 じ のインタビューでは、各国 かっこく とも文化 ぶんか 政策 せいさく の一環 いっかん として映画 えいが に力 ちから を入 い れているが、日本 にっぽん の政治 せいじ は映画 えいが に無 む 関心 かんしん であると主張 しゅちょう した。また、日本 にっぽん 映画 えいが 界 かい をめぐる危機 きき 感 かん についても言及 げんきゅう し、このままだと残 のこ るのはポルノ と暴力 ぼうりょく ものだけで、次々 つぎつぎ と名 めい 監督 かんとく が無 な くなる中 なか 、残 のこ った私 わたし は日本 にっぽん 映画 えいが の荒廃 こうはい に責任 せきにん を感 かん じていると語 かた った[67] 。
^ 黒澤 くろさわ は『黒 くろ き死 し の仮面 かめん 』の舞踏 ぶとう 会 かい のシーンをフェデリコ・フェリーニ に演出 えんしゅつ させ、手塚 てづか 治虫 おさむ のアニメーションを部分 ぶぶん 的 てき に使 つか うことも考 かんが えていた[34] 。1976年 ねん に手塚 てづか は「黒澤 くろさわ さんね。日本 にっぽん では作 つく れなくて、ソ連 それん で『デルス・ウザーラ』を作 つく ったけれど、また今度 こんど 、ソ連 それん で映画 えいが を作 つく るんです。そのとき、ぼくは黒澤 くろさわ さんといっしょに仕事 しごと することに…。(中略 ちゅうりゃく )恐怖 きょうふ 映画 えいが なんだ。エドガー・アラン・ポーの短編 たんぺん を映画 えいが 化 か するんだ[89] 」と述 の べている。
^ 黒澤 くろさわ の監督 かんとく 賞 しょう ノミネートに向 む けた運動 うんどう を行 おこな うと表明 ひょうめい したルメットは、『乱 らん 』がD・W・グリフィス の『イントレランス 』やアベル・ガンス の『ナポレオン 』と並 なら ぶ傑作 けっさく になると信 しん じ、このような美意識 びいしき と奥深 おくふか さを結 むす びつけることが出来 でき るのは黒澤 くろさわ だけだと語 かた った[98] 。
^ a b 自作 じさく と認 みと めている30本 ほん のうち、脚本 きゃくほん にクレジットがないのは『わが青春 せいしゅん に悔なし』と『素晴 すば らしき日曜日 にちようび 』の2本 ほん だけだが、この2本 ほん も黒澤 くろさわ が脚本 きゃくほん に参加 さんか している[34] 。
^ 東宝 とうほう の大部屋 おおべや 俳優 はいゆう であった中島 なかじま 春雄 はるお は、完璧 かんぺき 主義 しゅぎ 者 しゃ の黒澤 くろさわ は時代 じだい 劇 げき でも現代 げんだい 劇 げき と同様 どうよう のリアルで自然 しぜん な芝居 しばい を追求 ついきゅう していたといい、東映 とうえい 時代 じだい 劇 げき 調 ちょう の大仰 おおぎょう な芝居 しばい では通用 つうよう しなかったことを証言 しょうげん している[122] 。
^ 外国 がいこく の優 すぐ れた脚本 きゃくほん 家 か に贈 おく られる賞 しょう で、黒澤 くろさわ のほか橋本 はしもと 忍 しのぶ 、菊 きく 島 しま 隆三 りゅうぞう 、小国 おぐに 英雄 ひでお の3人 にん も合 あ わせて受賞 じゅしょう した。
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1956–1980 1981–2000 2001–2020
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