山本やまもと周五郎しゅうごろう

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山本やまもと 周五郎しゅうごろうやまもと しゅうごろう
新刊しんかん展望てんぼう』1963ねん9がつ1にちごうより
誕生たんじょう 清水しみず さんじゅうろくしみず さとむ
(1903-06-22) 1903ねん6月22にち
日本の旗 日本にっぽん山梨やまなしけん北都留きたつるぐん初狩はつかりむら
げん大月おおつき初狩町下初狩はつかりまちしもはつかり
死没しぼつ (1967-02-14) 1967ねん2がつ14にち(63さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん横浜よこはまちゅう本牧間門ほんもくまかど51付近ふきん 旅館りょかんあいだもんえん別棟べつむね
墓地ぼち 鎌倉かまくら霊園れいえん[1]
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 横浜よこはま市立しりつ尋常じんじょう西前にしまえ小学校しょうがっこう
活動かつどう期間きかん 1926ねん - 1967ねん
ジャンル 小説しょうせつ
代表だいひょうさく樅ノ木もみのきのこった』(1954ねん - 1958ねん
あかひげ診療しんりょうたん』(1958ねん
あおべか物語ものがたり』(1960ねん
ぶしのないまち』(1962ねん
さぶ』(1963ねん
『ながいさか』(1964ねん - 1966ねん
デビューさく須磨寺すまでら附近ふきん』(1926ねん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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(やまもと しゅうごろう、1903ねん明治めいじ36ねん6月22にち - 1967ねん昭和しょうわ42ねん2がつ14にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ[2]本名ほんみょう(しみず さとむ)。質店しちみせ徒弟とてい雑誌ざっし記者きしゃなどを文壇ぶんだん登場とうじょう庶民しょみん立場たちばから武士ぶし苦衷くちゅう市井しせいじんあいかんえがいた時代じだい小説しょうせつ歴史れきし小説しょうせついた[3]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1903ねん明治めいじ36ねん6月22にち山梨やまなしけん北都留きたつるぐん初狩はつかりむらげん大月おおつき初狩町下初狩はつかりまちしもはつかり)にまれる[4]ちち清水しみずいつ太郎たろうははは「とく」(旧姓きゅうせい坂本さかもと[4]周五郎しゅうごろう長男ちょうなんおとうときよし義妹ぎまい末子まっしがある[5][4]本籍ほんせき北巨摩きたこまぐん大草おおくさむらげん韮崎にらさき大草おおくさまち)で、周五郎しゅうごろうのちみずからの出生しゅっしょう同地どうちかたっている[6]実家じっか武田たけだ遺臣いしんで、北巨摩きたこま大草おおくさむら若尾わかおげん韮崎にらさき大草町若尾おおくさまちわかお)に帰農きのうした御蔵おぐら奉行ぶぎょう清水しみず大隅おおすみまもる政秀まさひで後裔こうえいであろうとのいいつたえもある[5]

1907ねん明治めいじ40ねん)、山梨やまなしけんでは8がつ21にちからつづいた大雨おおあめにより明治めいじ40ねんだい水害すいがい発生はっせいする。だい水害すいがいでは甲府盆地こうふぼんち東部とうぶ笛吹川ふえふきがわ流域りゅういき中心ちゅうしん多大ただい被害ひがいし、ぐんないでも初狩はつかりむら壊滅かいめつてき被害ひがいけた。周五郎しゅうごろう一家いっか大月おおつきえきまえ転居てんきょしていたためなんのがれるが、だい水害すいがい祖父そふ伊三郎いさぶろう祖母そぼの「さく」、叔父おじの粂次ろう叔母おばの「せき」をうしなっている[4]だい水害すいがい一家いっか東京とうきょうきた豊島としまぐん王子おうじまち豊島としまげん東京とうきょうきた豊島としま)に転居てんきょする。

1910ねん明治めいじ43ねん)、きた豊島としまぐん王子おうじまち豊島としま豊川とよかわ小学校しょうがっこう入学にゅうがくした[7]。8がつ10日とおか荒川あらかわ氾濫はんらんして住居じゅうきょ浸水しんすいするだい被害ひがいける。同年どうねんあきから神奈川かながわけん横浜よこはま久保くぼまちげん神奈川かながわけん横浜よこはま西にし久保くぼまち)に転居てんきょ西戸部にしとべ小学校しょうがっこう転校てんこうした。翌年よくねん学区がっく編成へんせいえで横浜よこはま市立しりつ尋常じんじょう西前にしまえ小学校しょうがっこうげん横浜よこはま市立しりつ西前にしまえ小学校しょうがっこう)2ねん転学てんがくした。このころちちまゆ仲買なかがいいとなんでいた。また、輸入ゆにゅうようあさせい真田紐さなだひもり、生糸きいと仲買なかがい小口おぐち金融きんゆうぎょう小料理こりょうりてん甲子きのえね」の経営けいえい三業さんぎょう組合くみあい書記しょきなどのしょく転々てんてんとした[8]。4年生ねんせいとき担任たんにん先生せんせいから小説しょうせつになれとはげまされ、志望しぼうするようになった。以来いらい学校がっこう新聞しんぶん責任せきにんめいじられたり、6年生ねんせいときには、級友きゅうゆう作文さくぶん図画ずがあつめて回覧かいらん雑誌ざっしつくったりした。自分じぶん雑誌ざっし表紙ひょうしえがき、扉絵とびらえにはけたりした[8]

1916ねん大正たいしょう5ねん)、横浜よこはま市立しりつ尋常じんじょう西前にしまえ小学校しょうがっこう卒業そつぎょう卒業そつぎょう同時どうじ東京とうきょう木挽こびきまち丁目ちょうめげん銀座ぎんざ丁目ちょうめ)にあった質店しちみせきねや(山本やまもと周五郎しゅうごろう商店しょうてん[3]徒弟とていとしてむ。しかし、1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にち関東大震災かんとうだいしんさいによって山本やまもと周五郎しゅうごろう商店しょうてん被災ひさいし、一旦いったん解散かいさんとなる。その豊橋とよはし神戸こうべ転居てんきょ神戸こうべでは「よる神戸こうべしゃ」へ編集へんしゅう記者きしゃとして就職しゅうしょくする[7]1924ねん大正たいしょう13ねん)、ふたた上京じょうきょう帝国ていこく興信所こうしんじょげん帝国ていこくデータバンク)に入社にゅうしゃ文書ぶんしょ配属はいぞく。その帝国ていこく興信所こうしんじょ子会社こがいしゃである会員かいいん雑誌ざっし日本にっぽんたましい』(にっぽんこん[3])の編集へんしゅう記者きしゃとなる[7]

1926ねん大正たいしょう15ねん昭和しょうわ元年がんねん)、『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』4がつごう懸賞けんしょうとうじた『須磨寺すまでら附近ふきん』が掲載けいさいされ文壇ぶんだん出世しゅっせさくとなる[9]。なお、ペンネーム山本やまもと周五郎しゅうごろう」の由来ゆらいとして、『須磨寺すまでら附近ふきん』を発表はっぴょうするさい本人ほんにん住所じゅうしょ山本やまもと周五郎しゅうごろうかた清水しみずさんじゅうろく」といてあったものをて、文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうがわあやまって山本やまもと周五郎しゅうごろう作者さくしゃめいとして発表はっぴょうしたというせつがあるが[ちゅう 1]以前いぜんにも山本やまもと周五郎しゅうごろうをペンネームとして使用しようしていた形跡けいせきがありさだかではない。しかしながら雇主やといぬしであった店主てんしゅ山本やまもと周五郎しゅうごろうは、みずからも洒落しゃれときという雅号がごう文芸ぶんげい理解りかいっていた。そのため、周五郎しゅうごろう文壇ぶんだん自立じりつするまで物心ぶっしん両面りょうめんにわたり支援しえんし、正則せいそく英語えいご学校がっこうげん正則せいそく学園がくえん高等こうとう学校がっこう)、大原簿記学校おおはらぼきがっこうにも周五郎しゅうごろうかよわせている。ペンネームにはそのことにたいするふか感謝かんしゃねんめられていたとおもわれる。また「山本やまもと周五郎しゅうごろう以外いがいには、俵屋たわらやはじめはち[ちゅう 2]俵屋たわらやはじめななよこ西にし五郎ごろう清水しみずきよし清水しみずきよし、土生はぶさん佐野さのたかしよし仁木にきしげるよし平田ひらた晴人はると覆面ふくめん作家さっかふうちんいち迷、くろりん騎士きしおりばしたけなわてい酒井さかいまつはなていまいりちんさる甲野こうの信三しんぞうなどをもちいたことがられている。

文壇ぶんだんデビューしたものの順風じゅんぷうまんとはいかず、原稿げんこう掲載けいさいことわられ、山本やまもと周五郎しゅうごろう商店しょうてんからも援助えんじょしぶられるようになり、失恋しつれんもあって精神せいしんてきにも経済けいざいてきにもきゅうした。こうした時期じき1928ねん昭和しょうわ3ねんなつから翌年よくねんあきにかけての時期じき当時とうじ東京とうきょうわん北岸ほくがん漁村ぎょそんだった浦安うらやすらした。浦安うらやす時代じだいは、同地どうちをモデルにした『あおべか物語ものがたり』に結実けつじつするなど作品さくひんおおきな影響えいきょうあたえている[3]東京とうきょううつったのち1930ねん昭和しょうわ5ねん)、病気びょうき入院にゅういんした慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういんった看護かんご見習みならい土生はぶきよえ(きよ)と結婚けっこんした[3]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)、文学ぶんがく仲間なかまであった今井いまい達夫たつおすすめられ[3]東京とうきょう馬込まごめひがし転居てんきょ空想くうそう部落ぶらくしょうされた馬込まごめ文士ぶんしむら住人じゅうにんとなる。それまでは博文ひろぶみかんの『少年しょうねん少女しょうじょ たんうみ』を中心ちゅうしん少年しょうねん探偵たんていぶつ冒険ぼうけん活劇かつげきいていた周五郎しゅうごろうだったが[12]尾崎おざき士郎しろう鈴木すずき彦次郎ひこじろう両人りょうにん推輓すいばん講談社こうだんしゃの『キング』に時代じだい小説しょうせつくようになった[12]当時とうじの『キング』は発行はっこう部数ぶすう140まん雑誌ざっしかい首位しゅいにあった[ちゅう 3]。また講談社こうだんしゃには時代じだい小説しょうせつくとめていたらしく、山本やまもと周五郎しゅうごろうのペンネームだけを使つかった[14]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、講談社こうだんしゃから新進しんしん作家さっかとしてあつかわれ、同社どうしゃ発行はっこうの『婦人ふじん倶楽部くらぶ』『少年しょうねん倶楽部くらぶ』『講談こうだん倶楽部くらぶ』『少女しょうじょ倶楽部くらぶ』などのほとんどの雑誌ざっし作品さくひん掲載けいさいされるほどのれっとなった。また博文ひろぶみかん周五郎しゅうごろうの「大人おとなけ」作品さくひん掲載けいさいするようになった。

太平洋戦争たいへいようせんそうした1942ねん昭和しょうわ17ねん)、『婦人ふじん倶楽部くらぶ』でかくはん女性じょせいあつかう「日本にっぽん婦道ふどう」(6がつから12がつまでの7かい掲載けいさい)が企画きかくされた。周五郎しゅうごろうは3(「まつはな」「うめきぬ」「ちく」。まったくの創作そうさく架空かくう女性じょせいえがいている)担当たんとうし、のこりの4(いずれも実在じつざい人物じんぶつで、それなりの周知しゅうちされている人物じんぶつ)は作家さっか担当たんとうした。なお、「日本にっぽん婦道ふどう」は『主婦しゅふとも』の「日本にっぽんめいでん」(吉川よしかわ英治えいじ)にならったものだという[15]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)、だい17かい直木賞なおきしょうに『日本にっぽん婦道ふどう』がえらばれるが辞退じたい[ちゅう 4]直木賞なおきしょう史上しじょう授賞じゅしょう決定けっていとしては唯一ゆいいつ辞退じたいしゃとなった[ちゅう 5]辞退じたい理由りゆうとして[ちゅう 6]完全かんぜん仕事しごと目指めざした初版しょはん小説しょうせつ 日本にっぽん婦道ふどう出版しゅっぱんまえであったこと、改稿かいこう以前いぜんの『婦人ふじん倶楽部くらぶばん受賞じゅしょう対象たいしょうになったことなどがげられる[19]。また、『主婦しゅふとも』の「日本にっぽんめいでん」の著者ちょしゃで、選考せんこう委員いいんだった吉川よしかわ英治えいじ選評せんぴょうへの反発はんぱつ可能かのうせい指摘してきされている[20]。なお、このころ周五郎しゅうごろう年間ねんかん執筆しっぴつすうやく6わり - 7わり講談社こうだんしゃ雑誌ざっし掲載けいさいされ、その大半たいはんが『婦人ふじん倶楽部くらぶ』の「日本にっぽん婦道ふどう」であった。この執筆しっぴつ作家さっかてき飛躍ひやくつながったとかんがえられている[21]

べいぐんによる日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう激化げきかすると、周五郎しゅうごろう隣組となりぐみ班長はんちょうとして妻子さいしだけでなく住民じゅうみん防空壕ぼうくうごう避難ひなん指揮しきすることもあった[3]終戦しゅうせん直前ちょくぜん1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつつまのきよえがくなると、本棚ほんだな棺桶かんおけをつくりとむらった[3]

1948ねん昭和しょうわ23ねん)、旅館りょかんあいだもんえん」(神奈川かながわけん横浜よこはまなか本牧間門ほんもくまかど51付近ふきん)を仕事場しごとばとする[22]

1967ねん昭和しょうわ42ねん2がつ14にち710ふん[1]あいだもんえん別棟べつむね肝炎かんえん心臓しんぞう衰弱すいじゃくのため死去しきょ享年きょうねん65(まん63さい)。墓所はかしょ神奈川かながわけん鎌倉かまくら鎌倉かまくら霊園れいえん戒名かいみょうめぐみひかりいんしゅう嶽文たかふみまど居士こじ

1988ねん昭和しょうわ63ねん)、功績こうせき記念きねんし、新潮社しんちょうしゃなどにより山本やまもと周五郎しゅうごろうしょう創設そうせつされた[23]

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

  • 1903ねん明治めいじ36ねん
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)4さい
  • 1910ねん明治めいじ43ねん)7さい
    • きた豊島としまぐん王子おうじまち豊島としま豊川とよかわ小学校しょうがっこう入学にゅうがくするものの、今度こんど荒川あらかわ氾濫はんらんして住居じゅうきょ浸水しんすい被害ひがいける。同年どうねんあきから神奈川かながわけん横浜よこはま久保くぼまちげん神奈川かながわけん横浜よこはま西にし久保くぼまち)に転居てんきょ西戸部にしとべ小学校しょうがっこう転校てんこうした。
  • 1911ねん明治めいじ44ねん)8さい
    • 学区がっく編成へんせいえで横浜よこはま市立しりつ尋常じんじょう西前にしまえ小学校しょうがっこう2ねん転学てんがくした。
  • 1916ねん大正たいしょう5ねん)13さい
    • 横浜よこはま市立しりつ尋常じんじょう西前にしまえ小学校しょうがっこうげん横浜よこはま市立しりつ西前にしまえ小学校しょうがっこう卒業そつぎょう卒業そつぎょう同時どうじ東京とうきょう木挽こびきまち丁目ちょうめげん銀座ぎんざ丁目ちょうめ)にあった質店しちみせ山本やまもと周五郎しゅうごろう商店しょうてん徒弟とていとしてむ。
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん)20さい
    • 徴兵ちょうへい検査けんさけたが、視力しりょく問題もんだいとなりへいしゅ合格ごうかくまぬかれる。同年どうねん9がつ1にち関東大震災かんとうだいしんさいによって山本やまもと周五郎しゅうごろう商店しょうてん被災ひさいし、一旦いったん解散かいさんとなる。その豊橋とよはし神戸こうべ転居てんきょ神戸こうべでは「よる神戸こうべしゃ」へ編集へんしゅう記者きしゃとして就職しゅうしょくする
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん)21さい
    • ふたた上京じょうきょう帝国ていこく興信所こうしんじょげん帝国ていこくデータバンク)に入社にゅうしゃ文書ぶんしょ配属はいぞく。その帝国ていこく興信所こうしんじょ子会社こがいしゃである会員かいいん雑誌ざっし日本にっぽんたましい』の編集へんしゅう記者きしゃとなる。
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん昭和しょうわ元年がんねん)23さい
    • 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』4がつごうに『須磨寺すまでら附近ふきん』が掲載けいさいされ、これが文壇ぶんだん出世しゅっせさくとなる。
    • 10がつ20日はつか脳溢血のういっけつはは・とく死去しきょ
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん)25さい
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん)26さい
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん)27さい
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん)28さい
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん)29さい
    • 5月、『キング』に「だゝらだん兵衛ひょうえ」が掲載けいさいされる。
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん)31さい
    • 6月26にち中風ちゅうぶちちはぐれ太郎たろう死去しきょ
  • 1936ねん昭和しょうわ11ねん)33さい
    • 講談社こうだんしゃから新進しんしん作家さっかとしてあつかわれ、博文ひろぶみかん周五郎しゅうごろうの「大人おとなけ」作品さくひん掲載けいさいするようになる。
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん)39さい
    • 婦人ふじん倶楽部くらぶ』でかくはん女性じょせいあつかう「日本にっぽん婦道ふどう」が企画きかくされ、周五郎しゅうごろうも「まつはな」「うめきぬ」「ちく」の3担当たんとう
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん)40さい
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん)42さい
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん)43さい
    • 1がつ自宅じたく筋向すじむかいにんでいた吉村よしむらきんと再婚さいこん[25]横浜よこはまちゅう本牧元ほんもくもとまち237(きゅう住所じゅうしょ)に転居てんきょ。 この住所じゅうしょしん表記ひょうきでは本牧元ほんもくもとまち39-40だが、くところによると、39-41とわれている。
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん)45さい
    • はる自宅じたく本牧ほんもく三渓さんけいえんまえ)から市電しでん停車場ていしゃじょうで4つはなれたあいだもんにあった旅館りょかんあいだもんえん」(神奈川かながわけん横浜よこはまなか本牧間門ほんもくまかど51付近ふきん)を仕事場しごとばとする[26]
    • 間門まかどえんあいだもん交差点こうさてんのファミマのとなり)は2023ねん現在げんざいすで廃業はいぎょうしているが建物たてものはそのままのこっている。
  • 1959ねん昭和しょうわ34ねん)56さい
  • 1961ねん昭和しょうわ36ねん)58さい
  • 1967ねん昭和しょうわ42ねん)64さい
    • 2がつ14にちあいだもんえん別棟べつむね肝炎かんえん心臓しんぞう衰弱すいじゃくのため死去しきょ享年きょうねん65(まん63さい)。

作風さくふう[編集へんしゅう]

周五郎しゅうごろう元々もともと純文学じゅんぶんがく作家さっか目指めざしていた。しかし、デビュー劇作げきさく童話どうわ少女しょうじょ小説しょうせつ執筆しっぴつおもとし、1932ねん昭和しょうわ7ねん)に大衆たいしゅうしょくつよ講談社こうだんしゃ雑誌ざっし『キング』に「だゝらだん兵衛ひょうえ」を発表はっぴょうして以降いこう大人おとなけの大衆たいしゅう娯楽ごらく雑誌ざっし作品さくひん活動かつどう舞台ぶたいとするようになる[27]。そのため、一般いっぱんからは大衆たいしゅう小説しょうせつ作家さっかとみなされ、新進しんしん中堅ちゅうけん時代じだいには純文学じゅんぶんがく作家さっか批評ひひょうからはほとんど黙殺もくさつされた[9]。だが周五郎しゅうごろう純文学じゅんぶんがく大衆たいしゅう文芸ぶんげいとの区別くべつみとめず[28]、「面白おもしろいものは面白おもしろいし、つまらないものはつまらない」[29]という信念しんねんした最大さいだい多数たすう読者どくしゃ対象たいしょうとする小説しょうせつつづけた[ちゅう 7]

周五郎しゅうごろう研究けんきゅう竹添たけぞえ敦子あつこは、純文学じゅんぶんがくこころざしながら少年しょうねん少女しょうじょ大衆たいしゅう雑誌ざっし作品さくひん発表はっぴょうになっていることに葛藤かっとうかんじていた周五郎しゅうごろうは、35さいごろ転機てんきに「眞実しんじつ人間にんげんければ『面白おもしろさ』はいてる」(『愛妻あいさい日記にっき昭和しょうわ13ねん11月22にちづけ)と達観たっかんするようになり、それはつまきよえの存在そんざいおおきかったと分析ぶんせきしている[3]

作風さくふう時代じだい小説しょうせつとく市井しせいきる庶民しょみんながものえがいた作品さくひん本領ほんりょうしめす。また、伊達だて騒動そうどうざいもとめた『樅ノ木もみのきのこった』や、由井ゆい正雪しょうせつ主人公しゅじんこうとした『正雪しょうせつ』などの歴史れきし小説しょうせつにもすぐれた作品さくひんがある。

周五郎しゅうごろう小説しょうせつ登場とうじょうする人物じんぶつは、辛酸しんさんくし、こころざしなかばで力尽ちからつきてしまうものがすくなくないが、かれらに、きるうえでのヒントとなる、含蓄がんちくのある台詞せりふかせる、というのも周五郎しゅうごろう作風さくふうである。

そうした周五郎しゅうごろう作品さくひん特徴とくちょうを『聖書せいしょ』になぞらえたのは映画えいが監督かんとく篠田しのだ正浩まさひろ篠田しのだ周五郎しゅうごろう庶民しょみんあいかんのようなところにスポットをてたとする見方みかたたいして「それはうそです。あのひと庶民しょみんなんかしんじていないでしょう。そういうまれかたをされていることが口惜くちおしかったのではないですか」としたうえ周五郎しゅうごろう作品さくひんつうそこする「せいなるものといえる存在そんざい」を指摘してき。「むしろキリスト教きりすときょうてき人間にんげんの、このせいなるものがなかったら人間にんげん存在そんざいする理由りゆうがない、という前提ぜんてい山本やまもと周五郎しゅうごろうにはある。せいなるしんをいだいていながら、汚辱おじょくにまみれたなかで、まるでえていないものを発掘はっくつするんです。だから、観念かんねん小説しょうせつですね。どこにもリアリズムがない。もうほとんど空想くうそう小説しょうせつといってもいいぐらいでしょう。聖書せいしょのようにいているんじゃないかな、物語ものがたりをね」と独自どくじ周五郎しゅうごろうぞう披露ひろうしている[32]

またハードボイルド作家さっか生島いくしま治郎じろうは『樅ノ木もみのきのこった』はハードボイルド・タッチの作品さくひんであるとしたうえ[33]、「山本やまもと周五郎しゅうごろう自身じしん、かなり海外かいがい小説しょうせつんでいるんじゃないかな。そういうテクニックを使つかっているということですよね」「おれはかれチャンドラーんでたようながする」とこれまた独自どくじ周五郎しゅうごろうぞう披露ひろうしている[34]。さらに生島いくしま周五郎しゅうごろう作品さくひん通俗つうぞく小説しょうせつから脱皮だっぴして純文学じゅんぶんがく作品さくひん到達とうたつしたという周五郎しゅうごろう文学ぶんがくかんにもはんするような評論ひょうろんがまかりとおっていることにたいして、「どうかんがえても、山本やまもと周五郎しゅうごろう作品さくひん純文学じゅんぶんがくではありない。私見しけんによれば、上質じょうしつ娯楽ごらく小説しょうせつである」「上質じょうしつ娯楽ごらく小説しょうせつこうと努力どりょくしている作者さくしゃたいして『通俗つうぞく小説しょうせつから脱皮だっぴして』という評価ひょうかは、純文学じゅんぶんがくかぶれの半可通はんかつうさん言葉ことば錯覚さっかくして口走くちばしった世迷言よまいごとにすぎない」とだんじている[35]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 趣味しゅみは、映画えいが鑑賞かんしょう読書どくしょさけみにくこと。
  • きな作家さっかは、ストリンドベリーハウプトマントルストイサローヤン
  • きなさけは、ワイン、ウイスキー。
  • きなものは、肉類にくるい洋食ようしょくけい)、チーズ、蕎麦そば
  • いちにちに60ほんぐらい煙草たばこっていた。
  • 文壇ぶんだんとはえんうすく、交友こうゆう関係かんけいせまかった。しかし少数しょうすう友人ゆうじん編集へんしゅうしゃと、人間にんげん関係かんけいきずいた[36]
  • 担当たんとうした雑誌ざっし編集へんしゅうしゃ数多かずおおいが、そのなかでは、博文ひろぶみかん雑誌ざっし少年しょうねん少女しょうじょ たんうみ』の編集へんしゅうしゃのち名物めいぶつ編集へんしゅうちょうとしてられた井口いぐち長次ちょうじ(『桃太郎ももたろうさむらい』の山手やまて樹一郎きいちろう本名ほんみょう)、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ担当たんとう記者きしゃだった木村きむら久邇くにのりなどがられる。とく木村きむら山本やまもとぼつ生涯しょうがいにわたりおおくの評伝ひょうでん作品さくひん研究けんきゅうを20さつあまりしるし、『全集ぜんしゅう』(新潮社しんちょうしゃ)、『全集ぜんしゅう収録しゅうろく作品さくひんしゅう』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ)をみ、うずもれた作品さくひん発掘はっくつ新潮しんちょう文庫ぶんこ再刊さいかんとうおこなった。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 山本やまもと本名ほんみょうさんじゅうろく」は、明治めいじ36ねんまれであったことからている。
  • 尋常じんじょう小学校しょうがっこう学生がくせい時分じぶんのこと、国語こくご宿題しゅくだい作文さくぶんされた。その作文さくぶん山本やまもとは、級友きゅうゆうぼうとあれこれたのしくあそんだことをき、提出ていしゅつした。翌日よくじつ、それぞれの作文さくぶん教室きょうしつ掲示けいじされると、山本やまもと作文さくぶん登場とうじょうするとう本人ほんにんぼうが「山本やまもと作文さくぶんうそだ。おれ山本やまもとあそんだことなどない。」といいはなち、室内しつない騒然そうぜんとなった。級友きゅうゆうたちのまえに、なすすべもなくすくんでいると、担任たんにんがやってきた。こと次第しだいをききおよび、文章ぶんしょうかえした担任たんにんは、「さんじゅうろく周五郎しゅうごろう本名ほんみょう)。こうも見事みごとうそけるのは素晴すばらしい。おまえ将来しょうらい小説しょうせつになれ。」とったという。
  • わかころ植物しょくぶつ学者がくしゃ牧野まきの富太郎とみたろうもと取材しゅざいき、何気なにげなく「雑木林ぞうきばやし」という言葉ことば使つかったところ、「どんなはなにも、どんなにもみな名前なまえがある。雑木林ぞうきばやしというのは人間にんげんつくった勝手かって言葉ことばだ。」ととがめられた。感心かんしんした山本やまもとは、それ以降いこう植物しょくぶつ名前なまえ積極せっきょくてきおぼえるようになった。
  • 山本やまもとは、中原なかはら中也ちゅうや太宰だざいおさむたか評価ひょうかしていた。代表だいひょうさくひとつ『虚空こくう遍歴へんれき』の主人公しゅじんこうである中藤なかとうおき也は中原なかはらがモデルであるとわれている。
  • ワインきであった山本やまもとが「これまでんだ和製わせいブドーしゅのどれにもない、これぞワインだ」と絶賛ぜっさんした国産こくさんマデイラ・ワインが、まれ故郷こきょうでもある山梨やまなしけん中央ちゅうおう葡萄酒ぶどうしゅから「周五郎しゅうごろうのヴァン」として販売はんばいされている。
  • 山本やまもとはウイスキーもきであったが、このんだのはサントリーホワイトで、さい晩年ばんねんにはサントリーかくびんこのんだ。
  • 代表だいひょうさく樅ノ木もみのきのこった』執筆しっぴつ前年ぜんねんまで睡眠薬すいみんやくのアドルムを常用じょうようしていた。アドルムは坂口さかぐち安吾あんご常用じょうようしていて中毒ちゅうどくになっている。夫人ふじん心配しんぱいすると「自分じぶん大丈夫だいじょうぶだ。自分じぶん精神せいしん自分じぶん制御せいぎょできるものは、くすり中毒ちゅうどくアルコール依存いぞんしょうにはならない。ようするに、くすりやアルコールにまれてしまうような、しんよわもの中毒ちゅうどく患者かんじゃになるそうだ」とこたえた[37]
  • 山本やまもと人間にんげん心理しんり描写びょうしゃ卓越たくえつする反面はんめん人嫌ひとぎらいで人付ひとづいを極端きょくたん制限せいげんし、仕事場しごとばへの訪問ほうもんきゃくにもめったに面会めんかいしなかった。座談ざだんはうまいのに講演こうえんことわり、園遊会えんゆうかいには出席しゅっせきせず、文学ぶんがくしょうのつくものはことごとく辞退じたいした。
  • 山本やまもと生活せいかつ規則正きそくただしく、51さいから晩年ばんねんまで仕事場しごとば朝食ちょうしょく自炊じすいしていた[38]午前ごぜん3起床きしょう朝食ちょうしょくまえ行水ぎょうずいをし、後始末あとしまつ雑巾ぞうきんがけをした。午前ごぜん10まで仕事しごとをし、散歩さんぽをして午前ごぜん11昼食ちゅうしょくざるそばつゆなまたまごれた。よる原稿げんこうかず、午後ごご8就寝しゅうしんした。
  • 日本酒にほんしゅより洋酒ようしゅこのみ、晩酌ばんしゃくかさなかった。よるはかなりのりょうべたがめしはあまりべず、「ふろあがりののんびりしたからだに、めしをんでげっぷをしながらでは、創造そうぞうてき精神せいしんははたらかない」というのが持論じろんであり、「このくに広大こうだい平野へいやから、できるだけでいい、稲田いなだ追放ついほうしよう」とべ、こめきらっていた。編集へんしゅうしゃ一人ひとりは「先生せんせいくなられたら、おべいがすごくうまいんです。もうストップをかけるじんがいないとおもうと、ついしょくがすすみます」と本音ほんねったという。
  • 嵐山あらしやま光三郎こうざぶろうは「べいは、たぐいまれなる栄養食えいようしょくであり、こめ主食しゅしょくとする日本にっぽんがた食生活しょくせいかつ日本人にっぽんじん世界せかいさい長寿ちょうじゅにしたのであるけれど、このころは、それをひとすくなかった。カロリーのたかいものをべすぎた結果けっか周五郎しゅうごろうは63さいんだのである」とひょうしている。

おも作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

  • 廣野こうや落日らくじつ(1920ねん
  • 明和めいわ絵暦えごよみ(1934ねん
  • 風雲ふううん海南かいなんきゅうだい浪人ろうにん時代じだいおよ武士ぶしどう春秋しゅんじゅう」、1938ねん
  • 日本にっぽん婦道ふどう(1942ねん[ちゅう 8]
  • 新潮しんちょう(1943ねん
  • 柳橋やなぎばし物語ものがたり(1946ねん
  • ぼけ署長しょちょう(1948ねん
  • 楽天らくてんたび日記にっき(1950ねん
  • 山彦やまびこ乙女おとめ(1951ねん
  • はい(1951ねん
  • 風流ふうりゅう太平たいへい(1952ねん
  • 栄花物語えいがものがたり(1953ねん
  • せいゆき(1953-54ねん、1956ねん
  • 樅ノ木もみのきのこった(1954-58ねん
  • あかひげ診療しんりょうたん(1958ねん
  • 天地あまちしずだい(1959ねん
  • べん椿つばき(1959ねん
  • 彦左衛門ひこざえもんがいきゅうだい「ご意見いけんばんこう」、1959ねん
  • あおべか物語ものがたり (1960ねん
  • ぶしのないまち(1962ねん
  • さぶ(1963ねん
  • 虚空こくう遍歴へんれき(1963ねん
  • ながいさか(1966ねん

全集ぜんしゅう[編集へんしゅう]

  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう全集ぜんしゅうぜん13かん講談社こうだんしゃ、1963ねん - 1964ねん
  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう小説しょうせつ全集ぜんしゅうぜん33かん別巻べっかん5(新潮社しんちょうしゃ、1968ねん - 1970ねん
  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう全集ぜんしゅう収録しゅうろく作品さくひんしゅうぜん17かん実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1972ねん - 1982ねん
  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう全集ぜんしゅうぜん30かん新潮社しんちょうしゃ、1981ねん9がつ - 1984ねん2がつ
  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう長篇ちょうへん小説しょうせつ全集ぜんしゅうぜん26かん新潮社しんちょうしゃ、2013ねん6がつ - 2015ねん2がつ
  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう探偵たんてい小説しょうせつ全集ぜんしゅうぜん6かん別巻べっかん1(作品社さくひんしゃ、2007ねん - 2008ねん)、すえこくぜんおのれへん

日記にっき[編集へんしゅう]

  • あおべか日記にっき』(大和やまと書房しょぼう、1971ねん内容ないようは1928ねん8がつ12にち - 1929ねん9がつ20日はつか戦前せんぜん日記にっき、のち新潮しんちょう文庫ぶんこ光文社こうぶんしゃ知恵ちえもり文庫ぶんこ
  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう 愛妻あいさい日記にっき』(角川かどかわ春樹はるき事務所じむしょ、2013ねん内容ないようは1930ねん1がつ14にち - 1941ねん12月7にちあいだ
  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう 戦中せんちゅう日記にっき』(角川かどかわ春樹はるき事務所じむしょ、2011ねん内容ないようは1941ねん12月8にち - 1945ねん2がつ4にちあいだ、のちハルキ文庫ぶんこ太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう全文ぜんぶん一挙いっきょ収録しゅうろく[43]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

翻案ほんあん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

ほか多数たすう

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

  • こんちうま/ぶしのないまち/ながいさか/さぶ/柳橋やなぎばし物語ものがたり/うめさききぬ/つゆのひぬま/よる辛夷こぶし/あかひげ/わたくしです物語ものがたり/あおべか物語ものがたり/かあちゃん/地蔵じぞう/ひとごろし/うら木戸きどひらいている/おたふく物語ものがたり ほか(前進ぜんしん
  • ゆめごころ(名鉄めいてつ東宝とうほう提携ていけい特別とくべつ公演こうえん/名鉄めいてつホール
  • かわきりはし(1990ねん/宝塚歌劇団たからづかかげきだんつきぐみ) - 『柳橋やなぎばし物語ものがたり』『ひとでなし』が原案げんあん
  • ちいさなはながひらいた(1971ねん・1981ねん・1982ねん・1991ねん・1992ねん・2011ねん/宝塚歌劇団たからづかかげきだんはなぐみほしぐみ) - 『ちいさこべ』が原案げんあん
  • いのちあるかぎり(1978ねん/宝塚歌劇団たからづかかげきだんゆきぐみ)- 『野分のわけ』『つりにん』が原案げんあん
  • 落葉らくようのしらべ(1972ねん/宝塚歌劇団たからづかかげきだんゆきぐみ) - 『落葉らくようのとなり』が原案げんあん
  • しろあさ(1974ねん・1997ねん - 1998ねん/宝塚歌劇団たからづかかげきだんがつぐみはなぐみ) - 『さぶ』が原案げんあん
  • 沈丁花じんちょうげ細道ほそみち(1984ねん/宝塚歌劇団たからづかかげきだんがつぐみ)- 『はんじょ祝言しゅうげん』が原案げんあん
  • TRUTH(1999ねん・2005ねん/演劇えんげき集団しゅうだんキャラメルボックス)- 『しつちょう』(『日日ひにち平安へいあん』に収録しゅうろく)が原案げんあん
  • べん椿つばき(2005ねん6がつ4にち - 6月28にち/明治めいじ
  • まつさをな(2007ねん/演劇えんげき集団しゅうだんキャラメルボックス)- 『みずぐるま』(『おさん』に収録しゅうろく)が原案げんあん
  • あかひげ(2008ねん1がつ/劇団げきだん俳優座はいゆうざ
  • おたふく/ゆうれいかし演劇えんげき倶楽部くらぶ
  • さぶ(劇団げきだん俳小)
  • おたふく物語ものがたり(2016ねん9がつ/明治めいじ/主演しゅえん藤山ふじやま直美なおみ

  

オペラ[編集へんしゅう]

  • まつとおあき(2004ねん/「周五郎しゅうごろう世界せかい」/東京文化会館とうきょうぶんかかいかんしょうホール、2006ねん/NPOみんなのオペラ/江東こうとう文化ぶんかセンター、2010ねん12月4にち/大中おおなかおん作品さくひんかい/津田つだホール、脚色きゃくしょく岡村おかむらたかしせい作曲さっきょく大中おおなかおん) - 『うそアつかねえ』『ほたる放生ほうじょう』(『日日ひにち平安へいあん』に収録しゅうろく)が原案げんあん

漫画まんが[編集へんしゅう]

落語らくご[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ たとえば、池内いけうちおさむは「われるたびに山本やまもと周五郎しゅうごろうはそんなふうにこたえた」といている[10]
  2. ^ 最初さいしょからのペンネームである。また山本やまもと周五郎しゅうごろう位置いちづけである。このペンネームによる随筆ずいひつとうもある[11]
  3. ^ 『キング』は、「天皇てんのうせいナショナリズム、それも、モダニズムと立身出世りっしんしゅっせ修養しゅうよう主義しゅぎ加味かみしたあたらしいナショナリズムを思想しそうてきあるじばしらとし(中略ちゅうりゃく批判ひはんりょくとぼしい民衆みんしゅうのままにファシズムに動員どういんした先導せんどうしゃ、ファシズムへのならしをしたきわめて保守ほしゅてきなジャーナリズム」との評価ひょうかもある[13]
  4. ^ 直木なおき三十五さんじゅうごしょう辞退じたいのこと』」が『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』(昭和しょうわ18ねん9がつごう)に掲載けいさいされた。その前文ぜんぶんは、「こんど直木賞なおきしょうせられたそうではなは光栄こうえいでありますが、自分じぶんとしてはどうも頂戴ちょうだいする気持きもちになれませんので勝手かってながら辞退じたいさせてもらいました。このしょう目的もくてきにはなにもりませんけれども、もっとあたらしいひとあたらしい作品さくひんてられるのがよいのではないか、そういうがします。あたらしいとだけでは漠然ばくぜんとしすぎますが、とにかくいまの清新せいしんなものがほしいというかんじはだれにもあるとおもう。局外きょくがいしゃがこんなことをうのはおせっかいにるいするけれども、新人しんじん新風しんぷうとを紹介しょうかいするてんにこのたねしょう意味いみがあるので、もちろん在来ざいらいもそうであったとはおもいますが、今後こんごもなおそういうものがえらばれてゆくことを希望きぼうしたいとおもいます」である[16]
  5. ^ 1940ねん昭和しょうわ3ねん上半期かみはんきだい11かい芥川賞あくたがわしょう高木たかぎたく辞退じたいして、世上せじょう騒然そうぜんたる物議ぶつぎかもしている。りょう文学ぶんがくしょう史上しじょう受賞じゅしょう辞退じたいはこのめいだけである[17]
  6. ^ ぼう評論ひょうろんは、周五郎しゅうごろう辞退じたいした理由りゆうを、当時とうじ周五郎しゅうごろうの「主要しゅよう作品さくひん発表はっぴょう舞台ぶたいは、おおむね博文ひろぶみかんけい雑誌ざっしだったために、博文ひろぶみかんへの義理立ぎりだてとでもった心情しんじょうから、文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文学ぶんがくしょう遠慮えんりょしたのではないか。そういう律儀りちぎ性格せいかくがとらしめた、一見いっけん佶屈きっくつたる行動こうどう」とべているらしい(木村きむらひさなんじてん山本やまもと周五郎しゅうごろう馬込まごめ時代じだい』(福武書店ふくたけしょてん)のだい12しょう直木賞なおきしょうる」による)[18]
  7. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』の担当たんとう記者きしゃとして周五郎しゅうごろう信頼しんらいあつかった木村きむら久邇くにのりは『随筆ずいひつ 小説しょうせつ効用こうよう』(中央大学ちゅうおうだいがく出版しゅっぱん)の解題かいだい周五郎しゅうごろう文学ぶんがくかんつぎのように代弁だいべんしている。「じゅうねんほどまえ、一部いちぶ評論ひょうろんからは、〝大衆たいしゅう文学ぶんがく芸術げいじゅつ〟などと、一種いっしゅ敬遠けいえんともけとれる呼称こしょう別格べっかくあつかいにもされたが、著者ちょしゃさくひとすじによって、ぬきがた偏見へんけん所有しょゆうしゃたちをも説得せっとくしつづけてきた。著者ちょしゃにおいては文学ぶんがくには〝じゅん〟も〝不純ふじゅん〟もなく〝大衆たいしゅう〟も〝少数しょうすう〟もない。最大さいだい多数たすう庶民しょみんがわつよりよい文学ぶんがく創造そうぞう以外いがいにはないのである」[30]。ただし、周五郎しゅうごろうは『中島なかじま健蔵けんぞうう―自省じせい批判ひはん―』で「最大さいだい多数たすう読者どくしゃ[31]とはいているものの、木村きむらくように「最大さいだい多数たすう庶民しょみん」とはいていない。
  8. ^ 日本にっぽん婦道ふどう」を企画きかく命名めいめいしたのは『婦人ふじん倶楽部くらぶ編集へんしゅう。それが評判ひょうばんになって定着ていちゃくしていった[39]独立どくりつした作品さくひんあつめて単行本たんこうぼんにしたもの。『日本にっぽん婦道ふどう自体じたいにも種類しゅるいある。1943ねん昭和しょうわ18ねん講談社こうだんしゃ当時とうじだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃばんと1958ねん昭和しょうわ33ねん新潮しんちょう文庫ぶんこばんである。収録しゅうろく作品さくひんおなじでない。後者こうしゃ周五郎しゅうごろう自身じしん作品さくひん選定せんていしており、現在げんざいではこれが底本ていほんとされている。竹添たけぞえ敦子あつこは、女性じょせい主人公しゅじんこうにした周五郎しゅうごろう連作れんさく(シリーズもの)ととらえている[40]底本ていほんとされている新潮しんちょう文庫ぶんこばんには、「まつはな」「うめきぬ」「ふしちく」「不断草ふだんそう」「やぶかげ」「糸車いとぐるま」「尾花川おばながわ」「もも井戸いど」「ぼくまる」「かやかさ」「風鈴ふうりん」の11へんおさめられている[41]現在げんざい講談社こうだんしゃ新潮社しんちょうしゃどちらからも31へんすべてをおさめた完全かんぜんばん出版しゅっぱんされている。新潮しんちょう文庫ぶんこばん累計るいけい部数ぶすう100まんえる[42]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 清水しみず 1988, p. 221.
  2. ^ 山本やまもと周五郎しゅうごろう』 - コトバンク、『山本やまもと 周五郎しゅうごろう』 - コトバンク、「山本やまもと周五郎しゅうごろう」 - ジャパンナレッジ
  3. ^ a b c d e f g h i j 山本やまもと周五郎しゅうごろう日記にっきをたどる/大衆たいしゅう小説しょうせつ達人たつじん 35さい分岐ぶんきてん日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2021ねん10がつ3にち9-11めん
  4. ^ a b c d 山梨やまなし県立けんりつ文学ぶんがくかん 1998, p. 6.
  5. ^ a b 歴史れきし読本とくほん 2012, p. 298.
  6. ^ 山梨やまなし県立けんりつ文学ぶんがくかん 1998, p. 8.
  7. ^ a b c 山本やまもと周五郎しゅうごろう 兵庫ひょうごゆかりの作家さっか”. ネットミュージアム兵庫ひょうご文学ぶんがくかん. 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  8. ^ a b 歴史れきし読本とくほん 2012, p. 299.
  9. ^ a b 山本やまもと周五郎しゅうごろうとは”. コトバンク. 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  10. ^ 池内いけうちおさむ作家さっかのへその新潮社しんちょうしゃ、2011ねん5がつ、205ぺーじISBN 978-4-10-375506-7 
  11. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 161.
  12. ^ a b 竹添たけぞえ 2015, p. 99.
  13. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 101.
  14. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 100.
  15. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 108.
  16. ^ 齋藤さいとう 2013, p. 280.
  17. ^ 齋藤さいとう 2013, p. 294.
  18. ^ 齋藤さいとう 2013, p. 296.
  19. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 151-152.
  20. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 152-153.
  21. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 103.
  22. ^ 本牧ほんもく文豪ぶんごう 山本やまもと周五郎しゅうごろう タウンニュース
  23. ^ 付録ふろく 山本やまもと周五郎しゅうごろうしょう受賞じゅしょうさく候補こうほさく一覧いちらん”. 直木賞なおきしょうのすべて. 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  24. ^ 清水しみず 1988, p. 8.
  25. ^ 清水しみず 1988, p. カバー.
  26. ^ 清水しみず 1988, p. 26.
  27. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 90-100.
  28. ^ ぜんエッセイ 1980, p. 30.
  29. ^ ぜんエッセイ 1980, p. 5.
  30. ^ ぜんエッセイ 1980, p. 349.
  31. ^ ぜんエッセイ 1980, p. 22.
  32. ^ 歴史れきし読本とくほん 2012, p. 113-120.
  33. ^ 五木いつき寛之ひろゆき五木いつき寛之ひろゆき雑学ざつがく対談たいだん講談社こうだんしゃ、1975ねん11月、103ぺーじ 
  34. ^ 生島いくしま治郎じろう生島いくしま治郎じろう誘導ゆうどう訊問じんもん ねむれる意識いしき狙撃そげきせよ』双葉社ふたばしゃ、1974ねん11月、42-43ぺーじ 
  35. ^ 生島いくしま治郎じろう生島いくしま治郎じろう自選じせん傑作けっさく短篇たんぺんしゅう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1976ねん11月、308-309ぺーじ 
  36. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 102.
  37. ^ 清水しみず 1988, p. 85.
  38. ^ 清水しみず 1988, p. 122.
  39. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 53.
  40. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 1.
  41. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 14.
  42. ^ 生誕せいたん100ねん山本やまもと周五郎しゅうごろうのこった──現代げんだいじん琴線きんせんにふれる時代じだい小説しょうせつ文化ぶんか)」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2003ねん6がつ21にちづけ40ぺーじ
  43. ^ 竹添たけぞえ 2015, p. 92.
  44. ^ 大河たいがドラマ『もみ(もみ)ノのこった』”. NHKアーカイブス. 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  45. ^ 金曜きんようドラマ『あかひげ』”. NHKアーカイブス. 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  46. ^ だい1かいまつたかし三昧ざんまい盗人ぬすっとまつたかし余情よじょうゆたかに(演芸えんげいひょう日本経済新聞にほんけいざいしんぶん関西かんさいタイムライン(2019ねん11月1にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 山本やまもと周五郎しゅうごろう; 木村きむら久邇くにのり完本かんぽん山本やまもと周五郎しゅうごろうぜんエッセイ』(増補ぞうほ中央大学ちゅうおうだいがく出版しゅっぱん、1980ねん2がつ 
  • 山梨やまなし県立けんりつ文学ぶんがくかんきょくのき山本やまもと周五郎しゅうごろう世界せかい : 読者どくしゃ支持しじしょうとした作家さっか山梨やまなし県立けんりつ文学ぶんがくかん、1998ねん10がつ 
  • 歴史れきし読本とくほん編集へんしゅう山本やまもと周五郎しゅうごろうむ』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2012ねん1がつISBN 978-4-404-04138-8 
  • 齋藤さいとうまことなんじ周五郎しゅうごろうでん 虚空こくう巡礼じゅんれい白水しろみずしゃ、2013ねん6がつISBN 978-4-560-08270-6 
  • 竹添たけぞえ敦子あつこ『「日本にっぽん婦道ふどうろんそうぶんしゃ出版しゅっぱん、2015ねん10がつISBN 978-4-88164-634-2 
  • 清水しみずきん『おっと山本やまもと周五郎しゅうごろう福武書店ふくたけしょてん福武ふくたけ文庫ぶんこ〉、1988ねん5がつ10日とおかISBN 4-8288-3075-8 文化出版局ぶんかしゅっぱんきょく、1972ねん7がつ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]