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レフ・トルストイ - Wikipedia コンテンツにスキップ

レフ・トルストイ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
レフ・トルストイ
Лев Толстой
誕生たんじょう レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ
Лев Николаевич Толстой
1828ねん9月9にち
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく ヤースナヤ・ポリャーナ
死没しぼつ 1910ねん11月20にち(1910-11-20)(82さいぼつ
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく アスターポヴォ
職業しょくぎょう 小説しょうせつ思想家しそうか
国籍こくせき ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく
代表だいひょうさく戦争せんそう平和へいわ』(1869ねん
アンナ・カレーニナ』(1877ねん
イワンの馬鹿ばか』(1885ねん
人生じんせいろん』(1889ねん
復活ふっかつ』(1899ねん
署名しょめい
ウィキポータル 文学ぶんがく
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レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ: Лев Николаевич Толстой [ˈlʲef nʲɪkɐˈla(j)ɪvʲɪtɕ tɐlˈstoj] ( 音声おんせいファイル), ラテン文字もじ表記ひょうきLev Nikolayevich Tolstoy, 1828ねん9月9にちユリウスれき8がつ28にち〕 - 1910ねん11月20にち〔ユリウスれき11がつ7にち〕)は、帝政ていせいロシア小説しょうせつ思想家しそうか

フョードル・ドストエフスキーイワン・ツルゲーネフならび、19世紀せいきロシア文学ぶんがく代表だいひょうする文豪ぶんごう同姓どうせい人物じんぶつ区別くべつして「だいトルストイ」とぶこともあるが、たんにトルストイと表記ひょうきした場合ばあいでも、レフ・トルストイをすことがおおい。

英語えいごでははレオ(Leo)とされる[注釈ちゅうしゃく 1]

代表だいひょうさくに『戦争せんそう平和へいわ』『アンナ・カレーニナ』『復活ふっかつ』など。文学ぶんがくのみならず、政治せいじ社会しゃかいにもおおきな影響えいきょうあたえた。暴力ぼうりょく主義しゅぎしゃとしてもられる。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]
20さいとき撮影さつえいされた写真しゃしん(1848ねん

トゥーラ郊外こうがいゆたかな自然しぜんめぐまれたヤースナヤ・ポリャーナ[map]で、伯爵はくしゃくよんおとことしてまれる。祖先そせん父方ちちかた母方ははかた歴代れきだい皇帝こうていつかえた由緒ゆいしょある貴族きぞくだった。富裕ふゆう家庭かていではあったが、1830ねん、2さいのとき母親ははおやくす[1]1837ねん1がつ、9さいのときに父親ちちおや仕事しごと都合つごうきゅう首都しゅとであるモスクワ[map] へと転居てんきょするが、同年どうねん6がつ父親ちちおやをなくし、祖母そぼられたがその祖母そぼよく1838ねん他界たかい父親ちちおやいもうと後見人こうけんにんとなったが彼女かのじょもしばらくして他界たかいし、最終さいしゅうてきにはカザン[map]叔母おばられ、1841ねんにはカザンへと転居てんきょした[2]1844ねんカザン大学だいがく東洋とうよう学科がっか入学にゅうがくするが、舞踏ぶとうかいなどの社交しゃこう遊興ゆうきょうにふけって成績せいせきはふるわず、1845ねんには法学部ほうがくぶてんするもののここでも成績せいせきなやみ、1847ねんにカザン大学だいがく中退ちゅうたいした[3]。このころルソー耽読たんどくし、その影響えいきょう生涯しょうがいつづいた。

1847ねん広大こうだいなヤースナヤ・ポリャーナを相続そうぞくし、農地のうち経営けいえいし、農民のうみん生活せいかつ改善かいぜん目指めざすが、すぐに挫折ざせつした[4]。その、ヤースナヤ・ポリャーナでらしたりモスクワペテルブルク[map]放蕩ほうとう生活せいかつおくるが、この時期じき様々さまざま事柄ことがらしているもののすべてものにならなかった。そのなかで、1850ねんにはじめて小説しょうせつ執筆しっぴつはじめている[5]1851ねんコーカサス砲兵ほうへい旅団りょだん志願しがんして編入へんにゅうされる(コーカサス戦争せんそう)。このとき体験たいけん後年こうねんコサック英語えいごばん』や『ハジ・ムラート英語えいごばん』や『コーカサスのとりこ (レフ・トルストイ)ロシアばん』などに反映はんえいされた。1852ねん、24さいでコーカサスにて執筆しっぴつした『幼年ようねん時代じだい英語えいごばん』がネクラーソフ編集へんしゅうする雑誌ざっしどう時代じだいじん』に発表はっぴょうされ、新進しんしん作家さっかとして注目ちゅうもくあつめる。1853ねんクリミア戦争せんそうでは将校しょうこうとして従軍じゅうぐんし、セヴァストポリ[map]激戦げきせんなかをおく。セヴァストポリ包囲ほういせんでの体験たいけんは『セヴァストポリ物語ものがたり英語えいごばん』(1855)などに結実けつじつし、のちに暴力ぼうりょく主義しゅぎ展開てんかいする素地そじともなった。

退役たいえきイワン・ツルゲーネフらをようするペテルブルクの文壇ぶんだんあたたかくむかえられ、教育きょういく問題もんだい関心かんしんつと1857ねんにヨーロッパ視察しさつ旅行りょこうおこなった[6]ヴァイマル[map]おとずれたさい逸話いつわトーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(どく: Goethe und Tolstoi, 1923ねん)にしるされている。パリ[map]滞在たいざいちゅうには公開こうかい処刑しょけい目撃もくげきし、衝撃しょうげきけている[6]帰国きこくアレクサンドル2せいによる1861ねん農奴のうど解放かいほうれい先立さきだって独自どくじ農奴のうど解放かいほうこころみるが、十分じゅうぶんには成功せいこうしなかった[7]1859ねんには領地りょうち学校がっこう設立せつりつし、農民のうみん子弟してい教育きょういくにもあたる。強制きょうせいはいし、自主じしゅせいおもんずるのが教育きょういく方針ほうしんであった[8]

よく1860ねんから1861ねんに、教育きょういく問題もんだい解決かいけつのためふたた西欧せいおう旅立たびだった。このときヴィクトル・ユーゴー訪問ほうもんし、新作しんさくレ・ミゼラブル』を激賞げきしょうしている。ほかにもディケンズやツルゲーネフを訪問ほうもんした。1861ねんには農奴のうど解放かいほうれいともなって設置せっちされた農事のうじ調停ちょうていかん任命にんめいされ、農民のうみん地主じぬしとの折衝せっしょうにあたったものの、地主じぬしがわからの反発はんぱつけてよく1862ねん依願いがん退職たいしょくする[9]同年どうねん活動かつどう危険きけんした官憲かんけん[注釈ちゅうしゃく 2]妨害ぼうがいにより学校がっこう閉鎖へいさのやむなきにいたった[10]が、教育きょういくへの情熱じょうねつ生涯しょうがいわらなかった。同年どうねん34さいで18さい女性じょせいソフィア英語えいごばん結婚けっこん[11]、これ以降いこう地主じぬしとしてヤースナヤ・ポリャーナにきょさだめることになる。夫婦ふうふあいだには9なん3じょまれた。幸福こうふく結婚けっこん生活せいかつなか世界せかい文学ぶんがく史上しじょうのこ傑作けっさくかれた。トルストイはこれらの小説しょうせつ作品さくひんで、みずからのきた社会しゃかい現実げんじつかんをもって描写びょうしゃするという、ギュスターヴ・クールベによって宣言せんげんされた写実しゃじつ主義しゅぎふつ: Réalisme)の手法しゅほうもちいている。

『コサック』(1863ねん)では、ロシア貴族きぞくコサックむすめ恋愛れんあいえがきながら、コサックの生活せいかつ写実しゃじつ主義しゅぎ手法しゅほうによって描写びょうしゃした。1863ねん7がつ18にちヴァルーエフ指令しれい公布こうふされてウクライナでの言論げんろん活動かつどうきんじられたためコサック母語ぼご文筆ぶんぴつ活動かつどうおこなえない皮肉ひにく状況じょうきょうになった。

戦争せんそう平和へいわ』(1864-69)はナポレオンぐん侵入しんにゅうこうしてたたかうロシアの人々ひとびと祖国そこく戦争せんそう[注釈ちゅうしゃく 3])をえがいた歴史れきし小説しょうせつであり、500にんえる登場とうじょう人物じんぶつ写実しゃじつ主義しゅぎ手法しゅほうによってみなあざやかにえがされている。『戦争せんそう平和へいわ』の主人公しゅじんこうピエール・ベズーホフにもトルストイ自身じしん思索しさく反映はんえいしている。『戦争せんそう平和へいわ』で、トルストイはロシアの貴族きぞく社会しゃかいのパノラマをえがした。

マリアの肖像しょうぞう(I.K.マカロフ、1860)

アンナ・カレーニナ』(1873-77)は当時とうじ貴族きぞく社会しゃかい舞台ぶたい人妻ひとづまアンナの不倫ふりん中心ちゅうしんえが長編ちょうへん小説しょうせつであり、『戦争せんそう平和へいわ』にくらべより調和ちょうわみ、構成こうせい緊密きんみつである。『アンナ・カレーニナ』では、社会しゃかい慣習かんしゅうわなおちいった女性じょせい哲学てつがくこの富裕ふゆう地主じぬしはなし並行へいこうしてえがくが、地主じぬし描写びょうしゃには農奴のうどとともに農場のうじょうはたらき、その生活せいかつ改善かいぜんはかったトルストイ自体じたい体験たいけん反映はんえいしている。小説しょうせつ主人公しゅじんこうアンナのモデルはアレクサンドル・プーシキン長女ちょうじょマリアロシアばんで、トルストイは1868ねん出会であっている。パンジーのはなかざりや真珠しんじゅのネックレスをえがいた彼女かのじょ描写びょうしゃする一節いっせつは、トルストイ博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうされる肖像しょうぞうまったおなじである。トルストイはまた社会しゃかい事業じぎょう熱心ねっしんであり、みずからの莫大ばくだい財産ざいさんもちいて、貧困ひんこんそうへのさまざまな援助えんじょおこなった。援助えんじょ資金しきん調達ちょうたつするために作品さくひんいたこともある。一方いっぽう戦争せんそう平和へいわ執筆しっぴつ終了しゅうりょう、『アンナ・カレーニナ』の執筆しっぴつにかかるまえに、トルストイは初等しょとう教育きょういく教科書きょうかしょ作成さくせいおこなった。この「初等しょとう教科書きょうかしょ」は1872ねん完成かんせいしたものの価格かかく内容ないようてんまったれず[12]、1874ねんには国民こくみん学校がっこう図書としょとして認可にんかけた[13]ものの不評ふひょうわらなかった。そのため同年どうねんにトルストイは改訂かいていはじめ、よく1875ねんには「しん初等しょとう教科書きょうかしょ」を発行はっこうした。この改訂かいていばん価格かかくげたこともありだい好評こうひょうで、ロシア革命かくめいまで教科書きょうかしょとして使用しようされつづけ、革命かくめいもその内容ないようおおくはあたらしい教科書きょうかしょ採用さいようされた[14]

1908ねん5がつ23にちセルゲイ・プロクジン=ゴルスキーがヤースナヤ・ポリャーナで撮影さつえいしたトルストイのカラー写真しゃしん

世界せかいてき名声めいせいたトルストイだったが、1870年代ねんだいから徐々じょじょ精神せいしんてき危機きき進行しんこうしており、『アンナ・カレーニナ』をえたのちの1878ねんごろから[15]人生じんせい無意味むいみさにくるしみ、自殺じさつかんがえるようにさえなる。精神せいしんてき彷徨ほうこうすえ宗教しゅうきょう民衆みんしゅう素朴そぼくかたにひかれ、山上さんじょうたれくん中心ちゅうしんとして自己じこ完成かんせい目指めざ原始げんしキリスト教きりすときょうてき独自どくじ教義きょうぎつく[16]以後いご作家さっか立場たちばて、その教義きょうぎひろめる思想家しそうか説教せっきょうしゃとして活動かつどうするようになった(トルストイ運動うんどう)。その活動かつどうにおいてトルストイは、民衆みんしゅう圧迫あっぱくする政府せいふ論文ろんぶんなどで非難ひなんし、国家こっか私有しゆう財産ざいさん搾取さくしゅ否定ひていしたが、たとえはん政府せいふ運動うんどうであっても暴力ぼうりょくみとめなかった。当時とうじおおきな権威けんいをもっていたロシア正教会せいきょうかい国家こっか権力けんりょく癒着ゆちゃくしてキリストのおしえからはなれているとして批判ひはん対象たいしょうとなった。また信条しんじょうにもとづいて自身じしん生活せいかつ簡素かんそにし、農作業のうさぎょうにも従事じゅうじするようになる。そのうえ印税いんぜい地代じだい拒否きょひしようとして、家族かぞく対立たいりつし、1884ねんには最初さいしょ家出いえでこころみた[17]。この危機ききは1885ねんごろ終了しゅうりょうする[15]。またこのあいだ、1881ねんにはモスクワに転居てんきょし、1901ねんまで夏期かきはヤースナヤ・ポリャーナで、冬季とうきはモスクワでごす生活せいかつつづけた[18]

上記じょうきの「回心かいしんは、『イワンのばか』(1885)のような大衆たいしゅうにもかりやすい民話みんわふう作品さくひんかれた。戯曲ぎきょくやみちから英語えいごばん』(1886)は、専制せんせい政治せいじ強化きょうか主導しゅどうしていたコンスタンチン・ポベドノスツェフあつりょくによって1902ねんまで公的こうてき上演じょうえん禁止きんしされていた。しかし、実際じっさいには地下ちか活動かつどうによってすうかい非公式ひこうしきかたち上演じょうえんされた。そういった圧力あつりょくつよまるなかで『人生じんせいろん』(1887)など、道徳どうとくかんする論文ろんぶんおおくなる。小説しょうせつ教訓きょうくんてき傾向けいこう作品さくひんかれるようになる。『イワン・イリイチの英語えいごばん』(1886ねん)、『クロイツェル・ソナタ』(1889)などがそれにあたる。『イワン・イリイチの』では、まえにした自身じしん恐怖きょうふえがしている。

1891ねんから1892ねんにかけてのロシア飢饉ききん英語えいごばんでは、救済きゅうさい運動うんどう展開てんかいし、世界せかい各地かくちから支援しえんせられたが[19]政府せいふがわはトルストイを危険きけん人物じんぶつ[20]、1890年代ねんだいから政府せいふ教会きょうかい攻撃こうげきはげしくなった[21]。『かみくになんじらのうちにあり』(1893)など、宗教しゅうきょうかんする論文ろんぶんおおくなる。『芸術げいじゅつとはなに英語えいごばん』(1898)では、自作じさくふくめた従来じゅうらい芸術げいじゅつ作品さくひんのほとんどが上流じょうりゅう階級かいきゅうのためのものだとして、その意義いぎ否定ひていした。

そのなかでも最大さいだい作品さくひんは、政府せいふ迫害はくがいされていたドゥホボル教徒きょうと海外かいがい移住いじゅう援助えんじょするために発表はっぴょうされた晩年ばんねん作品さくひん復活ふっかつ』(1899)であり、堕落だらくした政府せいふ社会しゃかい宗教しゅうきょうへの痛烈つうれつ批判ひはんしょとなっている。またこの作品さくひん著作ちょさくけんりょうによってこころみは成功せいこうし、カナダへとドゥホボル教徒きょうと移住いじゅうした[22]。ただ作品さくひん出版しゅっぱん政府せいふ教会きょうかい検閲けんえつによって妨害ぼうがいされ、国外こくがい出版しゅっぱんしたものをひそかにロシアにむこともしばしばであった。『復活ふっかつ』はロシア正教会せいきょうかい教義きょうぎれ、1901ねん破門はもん宣告せんこくけたが[23]、かえってトルストイ支持しじこえつよまることになった。社会しゃかい運動うんどうとして大衆たいしゅう支持しじあつかったトルストイにたいするこの措置そち大衆たいしゅう反発はんぱつまねいたが、現在げんざいもトルストイの破門はもんされていない[24]一方いっぽうで、存命ぞんめい当時とうじより聖人せいじんとのごえがあったクロンシュタットのイオアン(のち列聖れっせいされる)は正教会せいきょうかい司祭しさいでありながらトルストイとの交流こうりゅう維持いじしつつ、ロシア正教せいきょうおしえにトルストイをかえらせようとつとめたことでられる。またトルストイと交流こうりゅうしていた日本人にっぽんじん瀬沼せぬまつとむ三郎さぶろう日本人にっぽんじんせい教徒きょうとであった。瀬沼せぬまつとむ三郎さぶろうやイオアンともっていることにもられるとおり、かならずしもトルストイと正教会せいきょうかい関係かんけい完全かんぜん断絶だんぜつしたとはえないめんもある。

作家さっか思想家しそうかとしての名声めいせいたかまるにつれて、人々ひとびと世界中せかいじゅうからヤースナヤ・ポリャーナをおとずれるようになった[25]1904ねんにち戦争せんそう1905ねんだいいちロシア革命かくめいにおける暴力ぼうりょく行為こういたいしては暴力ぼうりょく立場たちばから批判ひはんし、とく日本にっぽんによる大韓たいかん帝国ていこく保護ほごこくを「日本にっぽん政治せいじ朝鮮ちょうせん併呑へいどんしようと躍起やっきになり、根拠こんきょのないことをする狂人きょうじんだ」と非難ひなんした(『ヤースナヤ・ポリャーナ日記にっき』)。1909ねんよく1910ねんにはガンディー文通ぶんつうしている[26]。 その一方いっぽう、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使めしつかいにかしずかれる贅沢ぜいたく生活せいかつ[27]夫人ふじんとの長年ながねん不和ふわなやんでいた。1910ねん、ついに家出いえで決行けっこうするが、鉄道てつどう移動いどうちゅう悪寒おかんかんじ、家出いえで3にちしょうえきアスターポヴォ(げんレフ・トルストイえきロシアばん[map]下車げしゃした[28]。1週間しゅうかん、11月20にち駅長えきちょう官舎かんしゃにて肺炎はいえんにより死去しきょ。82さいぼつ葬儀そうぎには1まんにんえる参列さんれつしゃがあった。遺体いたいはヤースナヤ・ポリャーナに埋葬まいそうされた[23]遺稿いこうとして中編ちゅうへん『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲ぎきょくけるかばね』(1900)などがある。

家族かぞく

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孫娘まごむすめとともに

つまソフィア・トルスタヤ英語えいごばん悪妻あくさいとしてられ、ソクラテスつまクサンティッペモーツァルトつまコンスタンツェとともに「世界せかいさんだい悪妻あくさい」にかぞえるきもある[注釈ちゅうしゃく 4]デール・カーネギーは「ひとうごかす」において、トルストイが臨終りんじゅう直前ちょくぜんつまちかづけるなと遺言ゆいごんしたこと、またゆかでソフィアが「おとうさんがんだのは自分じぶんのせいである」と自責じせき言葉ことばべたが、それをいたどもたちはだれ反論はんろんしなかったエピソードを紹介しょうかいしている。しかし、フェミニストいたるは、両者りょうしゃ対立たいりつは、トルストイが宗教しゅうきょう社会しゃかい活動かつどう傾倒けいとうして家庭かていかえりみなかった一方いっぽう上述じょうじゅつのとおり、晩年ばんねんのトルストイは印税いんぜい地代じだいりを拒否きょひしようとしたほか、著作ちょさくけんその遺産いさんを「ロシア国民こくみん移譲いじょうする」とする遺言ゆいごんじょう作成さくせいしようとしていた)、ソフィアがじゅうすうにんどもたちをやしない、生活せいかつまもるために現実げんじつてききざるをなかったためと主張しゅちょうしている。映画えいが終着駅しゅうちゃくえき トルストイ最後さいごたび」では、トルストイをふかあいしながらも、かれ対立たいりつしていくソフィアのむくわれないあいえがかれている。

三男さんなんイリヤ・トルストイ英語えいごばんは、1914ねん発表はっぴょうした"えい: Reminiscences of Tolstoy"(加筆かひつされた。『ちちトルストイのおも』-えい: Tolstoy, My Father; Reminiscences)で作家さっかとして一躍いちやく脚光きゃっこうびた。1917ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく亡命ぼうめい

よんじょアレクサンドラ・トルスタヤ英語えいごばんは、1929ねん日本にっぽん出国しゅっこくし、18ヶ月かげつごしたのち[29]1931ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく亡命ぼうめい著書ちょしょ『おとぎくに日本にっぽんうみわたったトルストイのむすめ』で日本にっぽんでの年間ねんかん滞在たいざいしるしている。

玄孫げんそんウラジーミル・トルストイは、ウラジーミル・プーチン大統領だいとうりょう顧問こもんになった[30]おなじく玄孫げんそんピョートル・トルストイは2024ねん現在げんざいロシア下院かいんふく議長ぎちょうつとめており、またフランス語ふらんすご堪能かんのうである[31]

影響えいきょう

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トルストイは存命ぞんめいちゅうから人気にんき作家さっかであっただけでなく、ガルシンチェーホフコロレンコブーニンクプリーン影響えいきょうあたえた。トルストイの影響えいきょう政治せいじにもおよんだ。ロシアでの政府せいふ主義しゅぎ展開てんかいはトルストイの影響えいきょうおおきくけている。ピョートル・クロポトキン公爵こうしゃくは、ブリタニカ百科ひゃっか事典じてんの「無政府むせいふ主義しゅぎ」のこうで、トルストイにれ「トルストイは自分じぶんでは政府せいふ主義しゅぎしゃだと名乗なのらなかったが……その立場たちば政府せいふ主義しゅぎてきであった」とべている。

ソ連それん時代じだい共産党きょうさんとうから公認こうにんされ、その地位ちいるがなかった[32]ウラジーミル・レーニン愛読あいどくしゃであったことはられている。トルストイは、革命かくめいこうソ連それん活動かつどうしたミハイル・ショーロホフアレクセイ・トルストイボリス・パステルナーク[注釈ちゅうしゃく 5]をはじめおおくの作家さっか影響えいきょうあたえている。またアメリカで活躍かつやくしたウラジミール・ナボコフはトルストイの特異とくい技法ぎほう注目ちゅうもくしながら[注釈ちゅうしゃく 6]、ロシア作家さっかちゅう最高さいこう評価ひょうかあたえている。

宗教しゅうきょう思想しそうについて本格ほんかくてきろんじられるようになるのはペレストロイカ以降いこうである[35]。また、トルストイの教科書きょうかしょをもとにした教科書きょうかしょがペレストロイカ出版しゅっぱんされている[14]

西欧せいおう

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西欧せいおうにおいては1880年代ねんだいなかばにはだい作家さっかとしての評価ひょうか定着ていちゃくした[36]。またロマン・ロラントーマス・マンらがトルストイの評伝ひょうでんき、マルタン・デュ・ガールが1937ねんノーベルしょう受賞じゅしょう演説えんぜつでトルストイへの謝意しゃいべるなど、その影響えいきょう世界せかい各国かっこくおよんでいる[37]一方いっぽうトルストイの暴力ぼうりょく主義しゅぎにはロマン・ロランやガンディーらが共鳴きょうめいし、ガンディーはインドの独立どくりつ運動うんどうでそれを実践じっせんした。

2002ねんにノルウェー・ブック・クラブ[38]選定せんていした「世界せかい文学ぶんがく最高さいこうの100さつ[39]に『戦争せんそう平和へいわ』『アンナ・カレーニナ』『イワン・イリッチの』がえらばれている。2007ねん刊行かんこうの『トップテン 作家さっかえら愛読あいどくしょ[40]においては、現代げんだいえいべい作家さっか125にん投票とうひょうにより、世界せかい文学ぶんがく史上しじょうベストテン[41]だい1を『アンナ・カレーニナ』が、だい3を『戦争せんそう平和へいわ』が獲得かくとくした。

日本にっぽん

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日本にっぽんにおいて、トルストイはもっと尊敬そんけいされた外国がいこく作家さっか一人ひとりであり[42]文学ぶんがくしゃ宗教しゅうきょうしゃ社会しゃかい主義しゅぎしゃなど広範こうはん人々ひとびと影響えいきょうけている。

はじめて作品さくひん翻訳ほんやくされたのは1886ねん明治めいじ19ねん)であり、もり鷗外幸田こうだ露伴ろはんといった一流いちりゅう作家さっか重訳じゅうやくながら短編たんぺん翻訳ほんやくした[43]徳富とくとみ蘇峰そほうとくとみ蘆花ろからはヤースナヤ・ポリャーナで直接ちょくせつ面会めんかいしている。もり鷗外や島崎しまざき藤村とうそん作品さくひんしたしんだ[44]にち戦争せんそう反対はんたい論文ろんぶんなんじあらためよロシアばん』(1904・明治めいじ37)は、幸徳こうとく秋水しゅうすいさかい利彦としひこらの『平民へいみん新聞しんぶん』に掲載けいさいされて社会しゃかい主義しゅぎしゃ鼓舞こぶし、与謝野よさの晶子あきこの『きみにたまふことなかれ』執筆しっぴつ契機けいきとなった。『平民へいみん新聞しんぶん』の関係かんけいしゃであった木下きのした尚江なおえ中里なかさと介山かいざんも、以後いごトルストイとかかわっていくことになる[45]おなじころ、賀川かがわ豊彦とよひこ作品さくひんんで反戦はんせん思想しそう形成けいせいしつつあった。

大正たいしょうには、トルストイの思想しそう白樺しらかんば文学ぶんがくしゃ中心ちゅうしんおおきな影響えいきょうおよぼしている。武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつの「あたらしきむら」の運動うんどう有島ありしま武郎たけお農地のうち解放かいほうはそのれいである。宮沢みやざわ賢治けんじ文豪ぶんごう関心かんしんせた作家さっかとしてあげられる[46]。1914ねん大正たいしょう3ねん)に島村しまむら抱月ほうげつによって悲恋ひれん物語ものがたり脚色きゃくしょくされた『復活ふっかつ』は、松井まつい須磨子すまこ主演しゅえん上演じょうえんされだい評判ひょうばんとなる。また、最初さいしょ全集ぜんしゅう大正たいしょう出版しゅっぱんされている[43]

逸話いつわなど

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トルストイはウラジーミル・マイノフエスペラントばん(1871ねん–1942ねん?)をとおしてルドヴィコ・ザメンホフ親交しんこうむすび、エスペラントって熱心ねっしん信奉しんぽうしゃになった。トルストイは、エスペラントについて「学習がくしゅうはじめてあいだきができるようになった」と評価ひょうかしている。

映像えいぞうおよび肉声にくせいのこされており、文学ぶんがくしゃ映像えいぞう音声おんせいとして最古さいこのもののひとつである。そのなかにはの3週間しゅうかんまえのものと死後しご映像えいぞうふくまれている。

波佐見はさみしょうコンプラびん書斎しょさい一輪挿いちりんざしにしていた[47]

主要しゅよう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ロシア文学ぶんがくしゃ小笠原おがさわら豊樹とよきわけによるウラジーミル・ナボコフ『ナボコフのロシア文学ぶんがく講義こうぎ』(河出かわで文庫ぶんこ)では、レオ(ロシアではレフ、またはリョフ)・トルストイと表記ひょうきされている。
  2. ^ 当時とうじ皇帝こうてい官房かんぼうだいさんによるまりがロシア文学ぶんがく弾圧だんあつしていた。フョードル・ドストエフスキーは、1849ねんから1854ねんまでシベリア流刑りゅうけいオムスク収監しゅうかんしょされた。
  3. ^ レフ・トルストイのちちニコライ・イリイチ・トルストイは祖国そこく戦争せんそう従軍じゅうぐんしている。
  4. ^ チャールズ・シュルツは『ピーナッツ (漫画まんが)』でつま擁護ようごしている。
    Linus van Pelt: When Leo Tolstoy was writing "War and Peace", his wife, Sonya, copied it for him seven times. And she did it by *candlelight*, *and* with a dip pen. And sometimes, she had to use a magnifying glass to make out what he had written.
    Charlie Brown: Linus, I really...
    Linus van Pelt: Had to do it after their child had been put to bed, and the servants had gone to their garrets, and it was quiet in the house. Just think, Charlie Brown: she wrote the book seven times with a dip pen. And you're telling me you can't even read it once?
  5. ^ パステルナークは、父親ちちおや画家がかレオニードがトルストイの小説しょうせつ挿絵さしええがき、幼少ようしょうころから家族かぞくぐるみのつきあいをしていた。レオニードはアスターポヴォえきけつけ、トルストイのがおをスケッチし、デスマスクをとったが、当時とうじ20さいのボリスも同行どうこうしていた[33]
  6. ^ 「トルストイが発見はっけんしたことのひとつで、不思議ふしぎにも従来じゅうらい批評ひひょうたちけっしてづかなかったことがある。 -りゃくわたしたちとき概念がいねん非常ひじょう快適かいてきかつ正確せいかく一致いっちする生活せいかつ描写びょうしゃ方法ほうほうということである。わたしかぎり、トルストイは自分じぶん時計とけい読者どくしゃたち無数むすう時計とけいわせた唯一ゆいいつ作家さっかなのだ[34]

出典しゅってん

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  1. ^ 「トルストイ 大地だいち作家さっか」(ユーラシア選書せんしょ)p9 糸川いとかわ紘一こういち 東洋とうよう書店しょてん 2012ねん6がつ11にち初版しょはんだい1さつ
  2. ^ 「トルストイ 大地だいち作家さっか」(ユーラシア選書せんしょ)p29 糸川いとかわ紘一こういち 東洋とうよう書店しょてん 2012ねん6がつ11にち初版しょはんだい1さつ
  3. ^ 「トルストイ 大地だいち作家さっか」(ユーラシア選書せんしょ)p45 糸川いとかわ紘一こういち 東洋とうよう書店しょてん 2012ねん6がつ11にち初版しょはんだい1さつ
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 糸川いとかわ紘一こういち『トルストイ 大地だいち作家さっか』、東洋とうよう書店しょてん「ユーラシア選書せんしょ」、2012ねんISBN 978-4864590587

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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