レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ (露 ろ : Лев Николаевич Толстой [ˈlʲef nʲɪkɐˈla(j)ɪvʲɪtɕ tɐlˈstoj] ( 音声 おんせい ファイル ) , ラテン文字 もじ 表記 ひょうき :Lev Nikolayevich Tolstoy , 1828年 ねん 9月9日 にち 〔ユリウス暦 れき 8月 がつ 28日 にち 〕 - 1910年 ねん 11月20日 にち 〔ユリウス暦 れき 11月 がつ 7日 にち 〕)は、帝政 ていせい ロシア の小説 しょうせつ 家 か 、思想家 しそうか 。
フョードル・ドストエフスキー 、イワン・ツルゲーネフ と並 なら び、19世紀 せいき ロシア文学 ぶんがく を代表 だいひょう する文豪 ぶんごう 。他 た の同姓 どうせい の人物 じんぶつ と区別 くべつ して「大 だい トルストイ」と呼 よ ぶこともあるが、単 たん にトルストイと表記 ひょうき した場合 ばあい でも、レフ・トルストイを指 さ すことが多 おお い。
英語 えいご では名 な はレオ(Leo)とされる[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
代表 だいひょう 作 さく に『戦争 せんそう と平和 へいわ 』『アンナ・カレーニナ 』『復活 ふっかつ 』など。文学 ぶんがく のみならず、政治 せいじ ・社会 しゃかい にも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。非 ひ 暴力 ぼうりょく 主義 しゅぎ 者 しゃ としても知 し られる。
20歳 さい の時 とき に撮影 さつえい された写真 しゃしん (1848年 ねん )
トゥーラ 郊外 こうがい の豊 ゆた かな自然 しぜん に恵 めぐ まれたヤースナヤ・ポリャーナ [map ] で、伯爵 はくしゃく 家 か の四 よん 男 おとこ として生 う まれる。祖先 そせん は父方 ちちかた も母方 ははかた も歴代 れきだい の皇帝 こうてい に仕 つか えた由緒 ゆいしょ ある貴族 きぞく だった。富裕 ふゆう な家庭 かてい ではあったが、1830年 ねん 、2歳 さい のとき母親 ははおや を亡 な くす[1] 。1837年 ねん 1月 がつ 、9歳 さい のときに父親 ちちおや の仕事 しごと の都合 つごう で旧 きゅう 首都 しゅと であるモスクワ [map ] へと転居 てんきょ するが、同年 どうねん 6月 がつ に父親 ちちおや をなくし、祖母 そぼ に引 ひ き取 と られたがその祖母 そぼ も翌 よく 1838年 ねん に他界 たかい 、父親 ちちおや の妹 いもうと が後見人 こうけんにん となったが彼女 かのじょ もしばらくして他界 たかい し、最終 さいしゅう 的 てき にはカザン [map ] に住 す む叔母 おば に引 ひ き取 と られ、1841年 ねん にはカザンへと転居 てんきょ した[2] 。1844年 ねん にカザン大学 だいがく 東洋 とうよう 学科 がっか に入学 にゅうがく するが、舞踏 ぶとう 会 かい などの社交 しゃこう や遊興 ゆうきょう にふけって成績 せいせき はふるわず、1845年 ねん には法学部 ほうがくぶ に転 てん 部 ぶ するもののここでも成績 せいせき は伸 の び悩 なや み、1847年 ねん にカザン大学 だいがく を中退 ちゅうたい した[3] 。このころルソー を耽読 たんどく し、その影響 えいきょう は生涯 しょうがい 続 つづ いた。
1847年 ねん 、広大 こうだい なヤースナヤ・ポリャーナを相続 そうぞく し、農地 のうち 経営 けいえい に乗 の り出 だ し、農民 のうみん の生活 せいかつ 改善 かいぜん を目指 めざ すが、すぐに挫折 ざせつ した[4] 。その後 ご 、ヤースナヤ・ポリャーナで暮 く らしたりモスクワ とペテルブルク [map ] で放蕩 ほうとう 生活 せいかつ を送 おく るが、この時期 じき は様々 さまざま な事柄 ことがら に手 て を出 だ しているもののすべてものにならなかった。その中 なか で、1850年 ねん にはじめて小説 しょうせつ の執筆 しっぴつ を始 はじ めている[5] 。1851年 ねん にコーカサス の砲兵 ほうへい 旅団 りょだん に志願 しがん して編入 へんにゅう される(コーカサス戦争 せんそう )。この時 とき の体験 たいけん は後年 こうねん 『コサック (英語 えいご 版 ばん ) 』や『ハジ・ムラート (英語 えいご 版 ばん ) 』や『コーカサスの虜 とりこ (レフ・トルストイ) (ロシア語 ご 版 ばん ) 』などに反映 はんえい された。1852年 ねん 、24歳 さい でコーカサスにて執筆 しっぴつ した『幼年 ようねん 時代 じだい (英語 えいご 版 ばん ) 』がネクラーソフ の編集 へんしゅう する雑誌 ざっし 『同 どう 時代 じだい 人 じん 』に発表 はっぴょう され、新進 しんしん 作家 さっか として注目 ちゅうもく を集 あつ める。1853年 ねん のクリミア戦争 せんそう では将校 しょうこう として従軍 じゅうぐん し、セヴァストポリ [map ] で激戦 げきせん の中 なか に身 み をおく。セヴァストポリ包囲 ほうい 戦 せん での体験 たいけん は『セヴァストポリ物語 ものがたり (英語 えいご 版 ばん ) 』(1855)などに結実 けつじつ し、のちに非 ひ 暴力 ぼうりょく 主義 しゅぎ を展開 てんかい する素地 そじ ともなった。
退役 たいえき 後 ご 、イワン・ツルゲーネフ らを擁 よう するペテルブルクの文壇 ぶんだん に温 あたた かく迎 むか えられ、教育 きょういく 問題 もんだい に関心 かんしん を持 も つと1857年 ねん にヨーロッパ視察 しさつ 旅行 りょこう を行 おこ なった[6] 。ヴァイマル [map ] を訪 おとず れた際 さい の逸話 いつわ がトーマス・マン の『ゲーテとトルストイ 』(独 どく : Goethe und Tolstoi , 1923年 ねん )に記 しる されている。パリ [map ] 滞在 たいざい 中 ちゅう には公開 こうかい 処刑 しょけい を目撃 もくげき し、衝撃 しょうげき を受 う けている[6] 。帰国 きこく 後 ご 、アレクサンドル2世 せい による1861年 ねん の農奴 のうど 解放 かいほう 令 れい に先立 さきだ って独自 どくじ の農奴 のうど 解放 かいほう を試 こころ みるが、十分 じゅうぶん には成功 せいこう しなかった[7] 。1859年 ねん には領地 りょうち に学校 がっこう を設立 せつりつ し、農民 のうみん の子弟 してい の教育 きょういく にもあたる。強制 きょうせい を排 はい し、自主 じしゅ 性 せい を重 おも んずるのが教育 きょういく 方針 ほうしん であった[8] 。
翌 よく 1860年 ねん から1861年 ねん に、教育 きょういく 問題 もんだい 解決 かいけつ のため再 ふたた び西欧 せいおう に旅立 たびだ った。この時 とき 、ヴィクトル・ユーゴー を訪問 ほうもん し、新作 しんさく 『レ・ミゼラブル 』を激賞 げきしょう している。他 ほか にもディケンズ やツルゲーネフを訪問 ほうもん した。1861年 ねん には農奴 のうど 解放 かいほう 令 れい に伴 ともな って設置 せっち された農事 のうじ 調停 ちょうてい 官 かん に任命 にんめい され、農民 のうみん と地主 じぬし との折衝 せっしょう にあたったものの、地主 じぬし 側 がわ からの反発 はんぱつ を受 う けて翌 よく 1862年 ねん に依願 いがん 退職 たいしょく する[9] 。同年 どうねん 、活動 かつどう を危険 きけん 視 し した官憲 かんけん [注釈 ちゅうしゃく 2] の妨害 ぼうがい により学校 がっこう は閉鎖 へいさ のやむなきに至 いた った[10] が、教育 きょういく への情熱 じょうねつ は生涯 しょうがい 変 か わらなかった。同年 どうねん 34歳 さい で18歳 さい の女性 じょせい ソフィア (英語 えいご 版 ばん ) と結婚 けっこん し[11] 、これ以降 いこう 地主 じぬし としてヤースナヤ・ポリャーナに居 きょ を定 さだ めることになる。夫婦 ふうふ の間 あいだ には9男 なん 3女 じょ が生 う まれた。幸福 こうふく な結婚 けっこん 生活 せいかつ の中 なか で世界 せかい 文学 ぶんがく 史上 しじょう に残 のこ る傑作 けっさく が書 か かれた。トルストイはこれらの小説 しょうせつ 作品 さくひん で、自 みずか らの生 い きた社会 しゃかい を現実 げんじつ 感 かん をもって描写 びょうしゃ するという、ギュスターヴ・クールベ によって宣言 せんげん された写実 しゃじつ 主義 しゅぎ (仏 ふつ : Réalisme )の手法 しゅほう を用 もち いている。
『コサック』(1863年 ねん )では、ロシア貴族 きぞく とコサック の娘 むすめ の恋愛 れんあい を描 えが きながら、コサックの生活 せいかつ を写実 しゃじつ 主義 しゅぎ の手法 しゅほう によって描写 びょうしゃ した。1863年 ねん 7月 がつ 18日 にち にヴァルーエフ指令 しれい が公布 こうふ されてウクライナ語 ご での言論 げんろん 活動 かつどう が禁 きん じられた為 ため 、コサック が母語 ぼご で文筆 ぶんぴつ 活動 かつどう を行 おこ なえない皮肉 ひにく な状況 じょうきょう になった。
『戦争 せんそう と平和 へいわ 』(1864-69)はナポレオン 軍 ぐん の侵入 しんにゅう に抗 こう して戦 たたか うロシアの人々 ひとびと (祖国 そこく 戦争 せんそう [注釈 ちゅうしゃく 3] )を描 えが いた歴史 れきし 小説 しょうせつ であり、500人 にん を越 こ える登場 とうじょう 人物 じんぶつ が写実 しゃじつ 主義 しゅぎ の手法 しゅほう によってみな鮮 あざ やかに描 えが き出 だ されている。『戦争 せんそう と平和 へいわ 』の主人公 しゅじんこう ピエール・ベズーホフにもトルストイ自身 じしん の思索 しさく が反映 はんえい している。『戦争 せんそう と平和 へいわ 』で、トルストイはロシアの貴族 きぞく 社会 しゃかい のパノラマを描 えが き出 だ した。
マリアの肖像 しょうぞう 画 が (I.K.マカロフ、1860)
『アンナ・カレーニナ 』(1873-77)は当時 とうじ の貴族 きぞく 社会 しゃかい を舞台 ぶたい に人妻 ひとづま アンナの不倫 ふりん を中心 ちゅうしん に描 えが く長編 ちょうへん 小説 しょうせつ であり、『戦争 せんそう と平和 へいわ 』に比 くら べより調和 ちょうわ に富 と み、構成 こうせい も緊密 きんみつ である。『アンナ・カレーニナ』では、社会 しゃかい 慣習 かんしゅう の罠 わな に陥 おちい った女性 じょせい と哲学 てつがく を好 この む富裕 ふゆう な地主 じぬし の話 はなし を並行 へいこう して描 えが くが、地主 じぬし の描写 びょうしゃ には農奴 のうど とともに農場 のうじょう で働 はたら き、その生活 せいかつ の改善 かいぜん を図 はか ったトルストイ自体 じたい の体験 たいけん が反映 はんえい している。小説 しょうせつ の主人公 しゅじんこう アンナのモデルはアレクサンドル・プーシキン の長女 ちょうじょ マリア (ロシア語 ご 版 ばん ) で、トルストイは1868年 ねん に出会 であ っている。パンジーの花 はな 飾 かざ りや真珠 しんじゅ のネックレスを描 えが いた彼女 かのじょ を描写 びょうしゃ する一節 いっせつ は、トルストイ博物館 はくぶつかん に収蔵 しゅうぞう される肖像 しょうぞう 画 が と全 まった く同 おな じである。トルストイはまた社会 しゃかい 事業 じぎょう に熱心 ねっしん であり、自 みずか らの莫大 ばくだい な財産 ざいさん を用 もち いて、貧困 ひんこん 層 そう へのさまざまな援助 えんじょ を行 おこな った。援助 えんじょ 資金 しきん を調達 ちょうたつ するために作品 さくひん を書 か いたこともある。一方 いっぽう 『戦争 せんそう と平和 へいわ 』執筆 しっぴつ 終了 しゅうりょう 後 ご 、『アンナ・カレーニナ』の執筆 しっぴつ にかかる前 まえ に、トルストイは初等 しょとう 教育 きょういく の教科書 きょうかしょ 作成 さくせい を行 おこな った。この「初等 しょとう 教科書 きょうかしょ 」は1872年 ねん に完成 かんせい したものの価格 かかく や内容 ないよう の点 てん で全 まった く売 う れず[12] 、1874年 ねん には国民 こくみん 学校 がっこう 図書 としょ として認可 にんか を受 う けた[13] ものの不評 ふひょう は変 か わらなかった。そのため同年 どうねん にトルストイは改訂 かいてい を始 はじ め、翌 よく 1875年 ねん には「新 しん 初等 しょとう 教科書 きょうかしょ 」を発行 はっこう した。この改訂 かいてい 版 ばん は価格 かかく を下 さ げたこともあり大 だい 好評 こうひょう で、ロシア革命 かくめい まで教科書 きょうかしょ として使用 しよう され続 つづ け、革命 かくめい 後 ご もその内容 ないよう の多 おお くは新 あたら しい教科書 きょうかしょ に採用 さいよう された[14] 。
1908年 ねん 5月 がつ 23日 にち 、セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー がヤースナヤ・ポリャーナで撮影 さつえい したトルストイのカラー写真 しゃしん 。
世界 せかい 的 てき 名声 めいせい を得 え たトルストイだったが、1870年代 ねんだい から徐々 じょじょ に精神 せいしん 的 てき な危機 きき が進行 しんこう しており、『アンナ・カレーニナ』を書 か き終 お えたのちの1878年 ねん 頃 ごろ から[15] 人生 じんせい の無意味 むいみ さに苦 くる しみ、自殺 じさつ を考 かんが えるようにさえなる。精神 せいしん 的 てき な彷徨 ほうこう の末 すえ 、宗教 しゅうきょう や民衆 みんしゅう の素朴 そぼく な生 い き方 かた にひかれ、山上 さんじょう の垂 たれ 訓 くん を中心 ちゅうしん として自己 じこ 完成 かんせい を目指 めざ す原始 げんし キリスト教 きりすときょう 的 てき な独自 どくじ の教義 きょうぎ を作 つく り上 あ げ[16] 、以後 いご 作家 さっか の立場 たちば を捨 す て、その教義 きょうぎ を広 ひろ める思想家 しそうか ・説教 せっきょう 者 しゃ として活動 かつどう するようになった(トルストイ運動 うんどう )。その活動 かつどう においてトルストイは、民衆 みんしゅう を圧迫 あっぱく する政府 せいふ を論文 ろんぶん などで非難 ひなん し、国家 こっか と私有 しゆう 財産 ざいさん 、搾取 さくしゅ を否定 ひてい したが、たとえ反 はん 政府 せいふ 運動 うんどう であっても暴力 ぼうりょく は認 みと めなかった。当時 とうじ 大 おお きな権威 けんい をもっていたロシア正教会 せいきょうかい も国家 こっか 権力 けんりょく と癒着 ゆちゃく してキリストの教 おし えから離 はな れているとして批判 ひはん の対象 たいしょう となった。また信条 しんじょう にもとづいて自身 じしん の生活 せいかつ を簡素 かんそ にし、農作業 のうさぎょう にも従事 じゅうじ するようになる。そのうえ印税 いんぜい や地代 じだい を拒否 きょひ しようとして、家族 かぞく と対立 たいりつ し、1884年 ねん には最初 さいしょ の家出 いえで を試 こころ みた[17] 。この危機 きき は1885年 ねん 頃 ごろ に終了 しゅうりょう する[15] 。またこの間 あいだ 、1881年 ねん にはモスクワに転居 てんきょ し、1901年 ねん まで夏期 かき はヤースナヤ・ポリャーナで、冬季 とうき はモスクワで過 す ごす生活 せいかつ を続 つづ けた[18] 。
上記 じょうき の「回心 かいしん 」後 ご は、『イワンのばか 』(1885)のような大衆 たいしゅう にも分 わ かりやすい民話 みんわ 風 ふう の作品 さくひん が書 か かれた。戯曲 ぎきょく 『闇 やみ の力 ちから (英語 えいご 版 ばん ) 』(1886)は、専制 せんせい 政治 せいじ 強化 きょうか を主導 しゅどう していたコンスタンチン・ポベドノスツェフ の圧 あつ 力 りょく によって1902年 ねん まで公的 こうてき な上演 じょうえん が禁止 きんし されていた。しかし、実際 じっさい には地下 ちか 活動 かつどう によって数 すう 回 かい 、非公式 ひこうしき の形 かたち で上演 じょうえん された。そういった圧力 あつりょく が強 つよ まる中 なか で『人生 じんせい 論 ろん 』(1887)など、道徳 どうとく に関 かん する論文 ろんぶん が多 おお くなる。小説 しょうせつ も教訓 きょうくん 的 てき な傾向 けいこう の作品 さくひん が書 か かれるようになる。『イワン・イリイチの死 し (英語 えいご 版 ばん ) 』(1886年 ねん )、『クロイツェル・ソナタ 』(1889)などがそれにあたる。『イワン・イリイチの死 し 』では、死 し を前 まえ にした自身 じしん の恐怖 きょうふ を描 えが き出 だ している。
1891年 ねん から1892年 ねん にかけてのロシア飢饉 ききん (英語 えいご 版 ばん ) では、救済 きゅうさい 運動 うんどう を展開 てんかい し、世界 せかい 各地 かくち から支援 しえん が寄 よ せられたが[19] 、政府 せいふ 側 がわ はトルストイを危険 きけん 人物 じんぶつ 視 し し[20] 、1890年代 ねんだい から政府 せいふ や教会 きょうかい の攻撃 こうげき は激 はげ しくなった[21] 。『神 かみ の国 くに は汝 なんじ らのうちにあり 』(1893)など、宗教 しゅうきょう に関 かん する論文 ろんぶん が多 おお くなる。『芸術 げいじゅつ とは何 なに か(英語 えいご 版 ばん ) 』(1898)では、自作 じさく も含 ふく めた従来 じゅうらい の芸術 げいじゅつ 作品 さくひん のほとんどが上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう のためのものだとして、その意義 いぎ を否定 ひてい した。
その中 なか でも最大 さいだい の作品 さくひん は、政府 せいふ に迫害 はくがい されていたドゥホボル教徒 きょうと の海外 かいがい 移住 いじゅう を援助 えんじょ するために発表 はっぴょう された晩年 ばんねん の作品 さくひん 『復活 ふっかつ 』(1899)であり、堕落 だらく した政府 せいふ ・社会 しゃかい ・宗教 しゅうきょう への痛烈 つうれつ な批判 ひはん の書 しょ となっている。またこの作品 さくひん の著作 ちょさく 権 けん 料 りょう によって試 こころ みは成功 せいこう し、カナダ へとドゥホボル 教徒 きょうと は移住 いじゅう した[22] 。ただ作品 さくひん の出版 しゅっぱん は政府 せいふ や教会 きょうかい の検閲 けんえつ によって妨害 ぼうがい され、国外 こくがい で出版 しゅっぱん したものを密 ひそ かにロシアに持 も ち込 こ むこともしばしばであった。『復活 ふっかつ 』はロシア正教会 せいきょうかい の教義 きょうぎ に触 ふ れ、1901年 ねん に破門 はもん の宣告 せんこく を受 う けたが[23] 、かえってトルストイ支持 しじ の声 こえ が強 つよ まることになった。社会 しゃかい 運動 うんどう 家 か として大衆 たいしゅう の支持 しじ が厚 あつ かったトルストイに対 たい するこの措置 そち は大衆 たいしゅう の反発 はんぱつ を招 まね いたが、現在 げんざい もトルストイの破門 はもん は取 と り消 け されていない[24] 。
一方 いっぽう で、存命 ぞんめい 当時 とうじ より聖人 せいじん との呼 よ び声 ごえ があったクロンシュタットのイオアン (のち列聖 れっせい される)は正教会 せいきょうかい の司祭 しさい でありながらトルストイとの交流 こうりゅう を維持 いじ しつつ、ロシア正教 せいきょう の教 おし えにトルストイを立 た ち帰 かえ らせようと努 つと めたことで知 し られる。またトルストイと交流 こうりゅう していた日本人 にっぽんじん ・瀬沼 せぬま 恪 つとむ 三郎 さぶろう は日本人 にっぽんじん 正 せい 教徒 きょうと であった。瀬沼 せぬま 恪 つとむ 三郎 さぶろう やイオアンとも会 あ っている事 こと にも見 み られる通 とお り、必 かなら ずしもトルストイと正教会 せいきょうかい の関係 かんけい は完全 かんぜん に断絶 だんぜつ したとは言 い えない面 めん もある。
作家 さっか ・思想家 しそうか としての名声 めいせい が高 たか まるにつれて、人々 ひとびと が世界中 せかいじゅう からヤースナヤ・ポリャーナを訪 おとず れるようになった[25] 。
1904年 ねん の日 にち 露 ろ 戦争 せんそう や1905年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ ロシア革命 かくめい における暴力 ぼうりょく 行為 こうい に対 たい しては非 ひ 暴力 ぼうりょく の立場 たちば から批判 ひはん し、特 とく に日本 にっぽん による大韓 たいかん 帝国 ていこく の保護 ほご 国 こく 化 か を「日本 にっぽん の政治 せいじ 家 か は朝鮮 ちょうせん を併呑 へいどん しようと躍起 やっき になり、根拠 こんきょ のないことをする狂人 きょうじん だ」と非難 ひなん した(『ヤースナヤ・ポリャーナ日記 にっき 』)。1909年 ねん と翌 よく 1910年 ねん にはガンディー と文通 ぶんつう している[26] 。
その一方 いっぽう 、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使 めしつかい にかしずかれる贅沢 ぜいたく な生活 せいかつ を恥 は じ[27] 、夫人 ふじん との長年 ながねん の不和 ふわ に悩 なや んでいた。1910年 ねん 、ついに家出 いえで を決行 けっこう するが、鉄道 てつどう で移動 いどう 中 ちゅう 悪寒 おかん を感 かん じ、家出 いえで 3日 にち 後 ご に小 しょう 駅 えき アスターポヴォ(現 げん ・レフ・トルストイ駅 えき (ロシア語 ご 版 ばん ) )[map ] で下車 げしゃ した[28] 。1週間 しゅうかん 後 ご 、11月20日 にち に駅長 えきちょう 官舎 かんしゃ にて肺炎 はいえん により死去 しきょ 。82歳 さい 没 ぼつ 。葬儀 そうぎ には1万 まん 人 にん を超 こ える参列 さんれつ 者 しゃ があった。遺体 いたい はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬 まいそう された[23] 。遺稿 いこう として中編 ちゅうへん 『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲 ぎきょく 『生 い ける屍 かばね 』(1900)などがある。
孫娘 まごむすめ とともに
妻 つま ソフィア・トルスタヤ (英語 えいご 版 ばん ) は悪妻 あくさい として知 し られ、ソクラテス の妻 つま クサンティッペ 、モーツァルト の妻 つま コンスタンツェ とともに「世界 せかい 三 さん 大 だい 悪妻 あくさい 」に数 かぞ える向 む きもある[注釈 ちゅうしゃく 4] 。
デール・カーネギー は「人 ひと を動 うご かす 」において、トルストイが臨終 りんじゅう の直前 ちょくぜん 妻 つま を近 ちか づけるなと遺言 ゆいごん したこと、また死 し の床 ゆか でソフィアが「お父 とう さんが死 し んだのは自分 じぶん のせいである」と自責 じせき の言葉 ことば を述 の べたが、それを聞 き いた子 こ どもたちは誰 だれ も反論 はんろん しなかったエピソードを紹介 しょうかい している。しかし、フェミニスト 達 いたる は、両者 りょうしゃ の対立 たいりつ は、トルストイが宗教 しゅうきょう や社会 しゃかい 活動 かつどう に傾倒 けいとう して家庭 かてい を顧 かえり みなかった一方 いっぽう (上述 じょうじゅつ のとおり、晩年 ばんねん のトルストイは印税 いんぜい や地代 じだい の受 う け取 と りを拒否 きょひ しようとしたほか、著作 ちょさく 権 けん その他 た の遺産 いさん を「ロシア国民 こくみん に移譲 いじょう する」とする遺言 ゆいごん 状 じょう を作成 さくせい しようとしていた)、ソフィアが十 じゅう 数 すう 人 にん の子 こ どもたちを養 やしな い、生活 せいかつ を守 まも るために現実 げんじつ 的 てき に生 い きざるを得 え なかったためと主張 しゅちょう している。映画 えいが 「終着駅 しゅうちゃくえき トルストイ最後 さいご の旅 たび 」では、トルストイを深 ふか く愛 あい しながらも、彼 かれ と対立 たいりつ していくソフィアの報 むく われない愛 あい が描 えが かれている。
三男 さんなん イリヤ・トルストイ (英語 えいご 版 ばん ) は、1914年 ねん に発表 はっぴょう した"英 えい : Reminiscences of Tolstoy "(後 ご に加筆 かひつ された。『父 ちち トルストイの思 おも い出 で 』-英 えい : Tolstoy, My Father; Reminiscences )で作家 さっか として一躍 いちやく 脚光 きゃっこう を浴 あ びた。1917年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく へ亡命 ぼうめい 。
四 よん 女 じょ アレクサンドラ・トルスタヤ (英語 えいご 版 ばん ) は、1929年 ねん に日本 にっぽん へ出国 しゅっこく し、18ヶ月 かげつ 過 す ごした後 のち [29] 1931年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく へ亡命 ぼうめい 。著書 ちょしょ 『お伽 とぎ の国 くに ‐日本 にっぽん ―海 うみ を渡 わた ったトルストイの娘 むすめ 』で日本 にっぽん での二 に 年間 ねんかん の滞在 たいざい 記 き を記 しる している。
玄孫 げんそん のウラジーミル・トルストイ は、ウラジーミル・プーチン の大統領 だいとうりょう 顧問 こもん になった[30] 。同 おな じく玄孫 げんそん のピョートル・トルストイ は2024年 ねん 現在 げんざい 、ロシア下院 かいん 副 ふく 議長 ぎちょう を務 つと めており、またフランス語 ふらんすご に堪能 かんのう である[31] 。
トルストイは存命 ぞんめい 中 ちゅう から人気 にんき 作家 さっか であっただけでなく、ガルシン 、チェーホフ 、コロレンコ 、ブーニン 、クプリーン に影響 えいきょう を与 あた えた。トルストイの影響 えいきょう は政治 せいじ にも及 およ んだ。ロシアでの無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ の展開 てんかい はトルストイの影響 えいきょう を大 おお きく受 う けている。ピョートル・クロポトキン 公爵 こうしゃく は、ブリタニカ百科 ひゃっか 事典 じてん の「無政府 むせいふ 主義 しゅぎ 」の項 こう で、トルストイに触 ふ れ「トルストイは自分 じぶん では無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 者 しゃ だと名乗 なの らなかったが……その立場 たちば は無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 的 てき であった」と述 の べている。
ソ連 それん 時代 じだい も共産党 きょうさんとう から公認 こうにん され、その地位 ちい は揺 ゆ るがなかった[32] 。
ウラジーミル・レーニン が愛読 あいどく 者 しゃ であったことは知 し られている。トルストイは、革命 かくめい 後 こう ソ連 それん で活動 かつどう したミハイル・ショーロホフ 、アレクセイ・トルストイ 、ボリス・パステルナーク [注釈 ちゅうしゃく 5] をはじめ多 おお くの作家 さっか に影響 えいきょう を与 あた えている。またアメリカで活躍 かつやく したウラジミール・ナボコフ はトルストイの特異 とくい な技法 ぎほう に注目 ちゅうもく しながら[注釈 ちゅうしゃく 6] 、ロシア作家 さっか 中 ちゅう で最高 さいこう の評価 ひょうか を与 あた えている。
宗教 しゅうきょう 思想 しそう について本格 ほんかく 的 てき に論 ろん じられるようになるのはペレストロイカ 以降 いこう である[35] 。また、トルストイの教科書 きょうかしょ をもとにした教科書 きょうかしょ がペレストロイカ後 ご に出版 しゅっぱん されている[14] 。
西欧 せいおう においては1880年代 ねんだい 半 なか ばには大 だい 作家 さっか としての評価 ひょうか が定着 ていちゃく した[36] 。またロマン・ロラン 、トーマス・マン らがトルストイの評伝 ひょうでん を書 か き、マルタン・デュ・ガール が1937年 ねん ノーベル賞 しょう 受賞 じゅしょう 時 じ の演説 えんぜつ でトルストイへの謝意 しゃい を述 の べるなど、その影響 えいきょう は世界 せかい 各国 かっこく に及 およ んでいる[37] 。一方 いっぽう トルストイの非 ひ 暴力 ぼうりょく 主義 しゅぎ にはロマン・ロランやガンディー らが共鳴 きょうめい し、ガンディーはインドの独立 どくりつ 運動 うんどう でそれを実践 じっせん した。
2002年 ねん にノルウェー・ブック・クラブ[38] が選定 せんてい した「世界 せかい 文学 ぶんがく 最高 さいこう の100冊 さつ 」[39] に『戦争 せんそう と平和 へいわ 』『アンナ・カレーニナ』『イワン・イリッチの死 し 』が選 えら ばれている。2007年 ねん 刊行 かんこう の『トップテン 作家 さっか が選 えら ぶ愛読 あいどく 書 しょ 』[40] においては、現代 げんだい 英 えい 米 べい 作家 さっか 125人 にん の投票 とうひょう により、世界 せかい 文学 ぶんがく 史上 しじょう ベストテン[41] の第 だい 1位 い を『アンナ・カレーニナ』が、第 だい 3位 い を『戦争 せんそう と平和 へいわ 』が獲得 かくとく した。
日本 にっぽん において、トルストイは最 もっと も尊敬 そんけい された外国 がいこく 作家 さっか の一人 ひとり であり[42] 、文学 ぶんがく 者 しゃ ・宗教 しゅうきょう 者 しゃ ・社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ など広範 こうはん な人々 ひとびと が影響 えいきょう を受 う けている。
初 はじ めて作品 さくひん が翻訳 ほんやく されたのは1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )であり、森 もり 鷗外 や幸田 こうだ 露伴 ろはん といった一流 いちりゅう 作家 さっか も重訳 じゅうやく ながら短編 たんぺん を翻訳 ほんやく した[43] 。徳富 とくとみ 蘇峰 そほう ・徳 とく 冨 とみ 蘆花 ろか らはヤースナヤ・ポリャーナで直接 ちょくせつ 面会 めんかい している。森 もり 鷗外や島崎 しまざき 藤村 とうそん も作品 さくひん に親 した しんだ[44] 。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 反対 はんたい の論文 ろんぶん 『汝 なんじ 、悔 く い改 あらた めよ(ロシア語 ご 版 ばん ) 』(1904・明治 めいじ 37)は、幸徳 こうとく 秋水 しゅうすい ・堺 さかい 利彦 としひこ らの『平民 へいみん 新聞 しんぶん 』に掲載 けいさい されて社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ を鼓舞 こぶ し、与謝野 よさの 晶子 あきこ の『君 きみ 死 し にたまふことなかれ』執筆 しっぴつ の契機 けいき となった。『平民 へいみん 新聞 しんぶん 』の関係 かんけい 者 しゃ であった木下 きのした 尚江 なおえ や中里 なかさと 介山 かいざん も、以後 いご トルストイと関 かか わっていくことになる[45] 。同 おな じころ、賀川 かがわ 豊彦 とよひこ は作品 さくひん を読 よ んで反戦 はんせん 思想 しそう を形成 けいせい しつつあった。
大正 たいしょう 期 き には、トルストイの思想 しそう が白樺 しらかんば 派 は の文学 ぶんがく 者 しゃ を中心 ちゅうしん に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼしている。武者小路 むしゃのこうじ 実篤 さねあつ の「新 あたら しき村 むら 」の運動 うんどう や有島 ありしま 武郎 たけお の農地 のうち 解放 かいほう はその例 れい である。宮沢 みやざわ 賢治 けんじ も文豪 ぶんごう に関心 かんしん を寄 よ せた作家 さっか としてあげられる[46] 。1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )に島村 しまむら 抱月 ほうげつ によって悲恋 ひれん 物語 ものがたり に脚色 きゃくしょく された『復活 ふっかつ 』は、松井 まつい 須磨子 すまこ 主演 しゅえん で上演 じょうえん され大 だい 評判 ひょうばん となる。また、最初 さいしょ の全集 ぜんしゅう も大正 たいしょう 期 き に出版 しゅっぱん されている[43] 。
トルストイはウラジーミル・マイノフ (エスペラント語 ご 版 ばん ) (1871年 ねん –1942年 ねん ?)を通 とお してルドヴィコ・ザメンホフ と親交 しんこう を結 むす び、エスペラント を知 し って熱心 ねっしん な信奉 しんぽう 者 しゃ になった。トルストイは、エスペラントについて「学習 がくしゅう を始 はじ めて二 に 時 じ 間 あいだ で読 よ み書 か きができるようになった」と評価 ひょうか している。
映像 えいぞう および肉声 にくせい が残 のこ されており、文学 ぶんがく 者 しゃ の映像 えいぞう ・音声 おんせい として最古 さいこ のものの一 ひと つである。その中 なか には死 し の3週間 しゅうかん 前 まえ のものと死後 しご の映像 えいぞう が含 ふく まれている。
波佐見 はさみ 焼 しょう のコンプラ瓶 びん を書斎 しょさい の一輪挿 いちりんざ しにしていた[47] 。
^ ロシア文学 ぶんがく 者 しゃ の小笠原 おがさわら 豊樹 とよき 訳 わけ によるウラジーミル・ナボコフ 『ナボコフのロシア文学 ぶんがく 講義 こうぎ 』(河出 かわで 文庫 ぶんこ )では、レオ(ロシア語 ご ではレフ、またはリョフ)・トルストイと表記 ひょうき されている。
^ 当時 とうじ 、皇帝 こうてい 官房 かんぼう 第 だい 三 さん 部 ぶ による取 と り締 し まりがロシア文学 ぶんがく を弾圧 だんあつ していた。フョードル・ドストエフスキー は、1849年 ねん から1854年 ねん までシベリア 流刑 りゅうけい とオムスク 収監 しゅうかん に処 しょ された。
^ レフ・トルストイの父 ちち ニコライ・イリイチ・トルストイは祖国 そこく 戦争 せんそう に従軍 じゅうぐん している。
^ チャールズ・シュルツ は『ピーナッツ (漫画 まんが ) 』で妻 つま を擁護 ようご している。 Linus van Pelt: When Leo Tolstoy was writing "War and Peace", his wife, Sonya, copied it for him seven times. And she did it by *candlelight*, *and* with a dip pen. And sometimes, she had to use a magnifying glass to make out what he had written.
Charlie Brown: Linus, I really...
Linus van Pelt: Had to do it after their child had been put to bed, and the servants had gone to their garrets, and it was quiet in the house. Just think, Charlie Brown: she wrote the book seven times with a dip pen. And you're telling me you can't even read it once?
^ パステルナークは、父親 ちちおや の画家 がか レオニード がトルストイの小説 しょうせつ の挿絵 さしえ を描 えが き、幼少 ようしょう の頃 ころ から家族 かぞく ぐるみのつきあいをしていた。レオニードはアスターポヴォ駅 えき に駆 か けつけ、トルストイの死 し に顔 がお をスケッチし、デスマスクをとったが、当時 とうじ 20歳 さい のボリスも同行 どうこう していた[33] 。
^ 「トルストイが発見 はっけん したことの一 ひと つで、不思議 ふしぎ にも従来 じゅうらい 、批評 ひひょう 家 か 達 たち が決 けっ して気 き づかなかったことがある。 -略 りゃく - 私 わたし 達 たち の時 とき の概念 がいねん と非常 ひじょう に快適 かいてき かつ正確 せいかく に一致 いっち する生活 せいかつ 描写 びょうしゃ の方法 ほうほう ということである。私 わたし の知 し る限 かぎ り、トルストイは自分 じぶん の時計 とけい を読者 どくしゃ 達 たち の無数 むすう の時計 とけい に合 あ わせた唯一 ゆいいつ の作家 さっか なのだ[34] 」
^ 「トルストイ 大地 だいち の作家 さっか 」(ユーラシア選書 せんしょ )p9 糸川 いとかわ 紘一 こういち 東洋 とうよう 書店 しょてん 2012年 ねん 6月 がつ 11日 にち 初版 しょはん 第 だい 1刷 さつ
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