ドゥホボール派 は (またはドゥホボル、ドゥホボールィ、ドゥホボールツィ、聖霊 せいれい 否定 ひてい 派 は とも、ロシア語 ご : духоборы , ラテン文字 もじ 化 か : Doukhobor)とはロシア ・ウクライナ に起源 きげん を持 も つキリスト教 きりすときょう の教派 きょうは 。神秘 しんぴ 主義 しゅぎ ・絶対 ぜったい 的 てき 平和 へいわ 主義 しゅぎ ・無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ の傾向 けいこう が強 つよ く、共同 きょうどう 農業 のうぎょう 生活 せいかつ を送 おく ってきた。18世紀 せいき またはそれ以前 いぜん に農民 のうみん の間 あいだ から現 あらわ れたとされる。1785年 ねん もしくは1786年 ねん 、ロシア正教会 せいきょうかい のエカテリノスラフ主教 しゅきょう アンブロシウスが「聖霊 せいれい と戦 たたか う者 もの 」という意味 いみ を込 こ めて彼 かれ らにドゥホボールツィと名付 なづ けたため「聖霊 せいれい 否定 ひてい 派 は 」と呼 よ ばれることがある。だが、ドゥホボール派 は は聖霊 せいれい を肯定 こうてい しているため、これは不当 ふとう な呼称 こしょう である。後 のち に彼 かれ らは「聖霊 せいれい とともに戦 たたか う者 もの 」という意味 いみ を込 こ めてこの呼称 こしょう を取 と り入 い れ、さらに短縮 たんしゅく してドゥホボールと名乗 なの るようになった。
世俗 せぞく 的 てき 権威 けんい を否定 ひてい し兵役 へいえき 忌避 きひ などを実行 じっこう したのみならず、既成 きせい の宗教 しゅうきょう 的 てき 権威 けんい であるロシア正教 せいきょう の組織 そしき や奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや 、さらには聖書 せいしょ の神聖 しんせい 性 せい やイエス の神性 しんせい までも否定 ひてい する。人間 にんげん の内 うち に神 かみ が宿 やど るという性善説 せいぜんせつ から原罪 げんざい も否定 ひてい する。 これらによりロシア帝国 ていこく では弾圧 だんあつ を受 う け、多 おお くの信徒 しんと が19世紀 せいき 末 まつ にカナダ へ亡命 ぼうめい した。カナダでは同化 どうか の是非 ぜひ をめぐり幾 いく つかの派閥 はばつ に分裂 ぶんれつ したが、現在 げんざい でも子孫 しそん 数 すう 万 まん 人 にん がおり、数 すう 千 せん 人 にん が信仰 しんこう を守 まも っている。ドゥホボール派 は は、モロカン派 は と並 なら んで、代表 だいひょう 的 てき な合理 ごうり 主義 しゅぎ 的 てき セクトとされる[1] 。
また、鞭 むち 身 み 派 は 、スコプツィ 、モロカン派 は 等 とう の諸 しょ 教派 きょうは とともに、霊的 れいてき キリスト教 きりすときょう に分類 ぶんるい される。
ドゥホボール派 は は正教 せいきょう 古 こ 儀式 ぎしき 派 は と混同 こんどう されることがあるが、彼 かれ らは正教 せいきょう を自称 じしょう せず、正教 せいきょう の古 ふる い儀式 ぎしき を守 まも ることもないため、古 こ 儀式 ぎしき 派 は には含 ふく まれない。主流 しゅりゅう 派 は ロシア正教会 せいきょうかい から「分離 ぶんり 派 は (ラスコーリニキ)」と蔑称 べっしょう されることがある点 てん は古 こ 儀式 ぎしき 派 は と同 おな じである。
ドゥホボール派 は の信仰 しんこう は、18世紀 せいき 初 はじ めにウクライナ・南 みなみ ロシアで始 はじ まったとされている。すべての人 ひと の内 うち に神 かみ が宿 やど るという信仰 しんこう から、聖職 せいしょく も奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや も不要 ふよう と考 かんが えた。知 し られている最初 さいしょ の指導 しどう 者 しゃ はシルアン・コレスニコフ[2] で、西欧 せいおう の神秘 しんぴ 主義 しゅぎ の影響 えいきょう も受 う け、1755-75年 ねん 頃 ごろ ウクライナで活動 かつどう した。18世紀 せいき 末 まつ 頃 ごろ に「聖霊 せいれい に手向 てむ かう者 もの 」という非難 ひなん の意味 いみ でドゥホボールツィ(ru:духоборцы )と呼 よ ばれるようになったが、19世紀 せいき になると「聖霊 せいれい とともに 戦 たたか う者 もの 」という意味 いみ を込 こ めてドゥホボールィ(ru:духоборы )と自称 じしょう するようになった。
また平和 へいわ 主義 しゅぎ に基 もと づき軍隊 ぐんたい や兵役 へいえき を拒否 きょひ し、このため政府 せいふ から圧迫 あっぱく を受 う けた。1799年 ねん にはドゥホボール派 は 信徒 しんと 90人 にん をフィンランド へ追放 ついほう したとの記録 きろく がある。
1802年 ねん 、皇帝 こうてい アレクサンドル1世 せい はドゥホボール派 は やプロイセン 由来 ゆらい のメノナイト など宗教 しゅうきょう 的 てき 少数 しょうすう 者 しゃ たちに南 みなみ ウクライナのモロクナヤ川 がわ (「乳 ちち の流 なが れる地 ち 」という意味 いみ )地域 ちいき への移住 いじゅう を奨 すす めた。これには黒海 こっかい 岸 きし ステップを開発 かいはつ するとともにロシアを「異端 いたん 」から守 まも る意図 いと があった。
ゴレロフカ(ru:Гореловка )、グルジアのドゥホボール派 は の中心 ちゅうしん 地 ち 。1893年 ねん
ゴレロフカのドゥホボール派 は の総合 そうごう 宗教 しゅうきょう 施設 しせつ の中心 ちゅうしん 建築 けんちく である孤児 こじ 院 いん 。1847年 ねん 建設 けんせつ 。
次 つぎ のニコライ1世 せい の時代 じだい には、ドゥホボール派 は に兵役 へいえき を課 か し集会 しゅうかい を禁 きん じ正教 せいきょう へ改宗 かいしゅう させる命令 めいれい が出 だ された(1826年 ねん )。1830年 ねん には彼 かれ らに、兵役 へいえき 可能 かのう な男 おとこ は軍務 ぐんむ に就 つ かせてザカフカジエ へ派遣 はけん し、それ以外 いがい の人々 ひとびと もザカフカジエへ移住 いじゅう させる命令 めいれい が出 だ された[3] 。これにより1841年 ねん から1845年 ねん にかけて約 やく 5千 せん 人 にん のドゥホボール派 は 信徒 しんと がグルジア へ移住 いじゅう させられたとされる。以後 いご さらに多 おお くのドゥホボール派 は 信徒 しんと が強制 きょうせい 的 てき または自 みずか らの意思 いし でグルジアや現在 げんざい のアゼルバイジャン へ移住 いじゅう した。ロシアが露 ろ 土 ど 戦争 せんそう でトルコ からカルス(現 げん トルコ領 りょう カルス県 けん )を得 え る(1878年 ねん )と、一部 いちぶ のドゥホボール派 は 信徒 しんと はここに移住 いじゅう した。
ドゥホボール派 は の指導 しどう 者 しゃ イラリオン・カルムィコフは1841年 ねん にウクライナからザカフカジエへ移住 いじゅう してまもなく世 よ を去 さ ったが、息子 むすこ ピョートルが後 こう を継 つ いだ。彼 かれ が1864年 ねん 世 よ を去 さ ると、その妻 つま ルケリヤ・ヴァシーリエヴナ・グバノヴァが後 こう を継 つ いだ。彼女 かのじょ らはドゥホボール派 は 社会 しゃかい に君臨 くんりん し、州 しゅう 当局 とうきょく も彼女 かのじょ とドゥホボール派 は を重視 じゅうし したため「女王 じょおう 」ともいわれた。彼女 かのじょ の死 し (1886年 ねん )の頃 ころ にはザカフカスのドゥホボール派 は 人口 じんこう は2万 まん 人 にん に達 たっ した。またこの頃 ころ には彼 かれ らは菜食 さいしょく 主義 しゅぎ 者 もの となり、彼 かれ らの教 おし えに近 ちか いといわれたレフ・トルストイ の思想 しそう にも親近 しんきん 感 かん を抱 いだ くようになった。
ルケリヤの死後 しご 、後継 こうけい 者 しゃ をめぐりドゥホボール派 は 社会 しゃかい は分裂 ぶんれつ した。多数 たすう 派 は は彼女 かのじょ の指名 しめい したピョートル・ヴァシーリエヴィチ(P・V)・ヴェリギンを支持 しじ したが、少数 しょうすう 派 は はルケリヤの兄弟 きょうだい ミハイル・グバノフと長老 ちょうろう アレクセイ・ズプコフを支持 しじ した。ところが少数 しょうすう 派 は は長老 ちょうろう や州 しゅう 当局 とうきょく の支持 しじ を取 と り付 つ けていた。1887年 ねん 1月 がつ 、多数 たすう 派 は による指導 しどう 者 しゃ 選出 せんしゅつ の場 ば に警察 けいさつ が踏 ふ み込 こ み、ヴェリギンを逮捕 たいほ した。彼 かれ と支持 しじ 者 しゃ たちはその後 ご 16年間 ねんかん ロシアにより流刑 りゅうけい にされたが、多数 たすう 派 は は彼 かれ を指導 しどう 者 しゃ として仰 あお ぎ続 つづ けた。政府 せいふ はドゥホボール派 は に法律 ほうりつ 遵守 じゅんしゅ と忠誠 ちゅうせい を強制 きょうせい し、さらにザカフカジエにも兵役 へいえき を実施 じっし した。少数 しょうすう 派 は は政府 せいふ の方針 ほうしん に従 したが ったが、多数 たすう 派 は の中 なか には伝統 でんとう の非 ひ 暴力 ぼうりょく 主義 しゅぎ を棄 す てて抵抗 ていこう する動 うご きも出 で た。
このような中 なか で1895年 ねん 、ドゥホボール派 は 信徒 しんと たちは暴発 ぼうはつ を防 ふせ ぐために自分 じぶん 達 たち の武器 ぶき をすべて破壊 はかい することにしたが、武器 ぶき を集 あつ めたところで政府 せいふ の指示 しじ を受 う けたコサック に襲 おそ われた。コサックはさらに多数 たすう 派 は の村 むら 々を襲 おそ い、4千 せん 人 にん 以上 いじょう が住 じゅう 家 か を失 うしな い、多 おお くの人々 ひとびと が餓死 がし するに至 いた った。
レフ・ラゴリオ (1827—1905)、『バトゥミ 港 みなと 』(1881)。1898年 ねん 及 およ び1899年 ねん にドゥホボール派 は はここから大西洋 たいせいよう 経由 けいゆ でカナダへ送 おく り出 だ された。
ロシア帝国 ていこく 政府 せいふ はドゥホボール派 は の懐柔 かいじゅう がうまくいかず、国際 こくさい 的 てき 批判 ひはん も高 たか まったことから、1897年 ねん 、彼 かれ らを自主 じしゅ 的 てき 移住 いじゅう の形 かたち で国外 こくがい 追放 ついほう することにした。移住 いじゅう 費用 ひよう は自己 じこ 負担 ふたん とし、受刑 じゅけい 中 ちゅう の指導 しどう 者 しゃ たちも減刑 げんけい して移住 いじゅう させることにした。
一部 いちぶ の人々 ひとびと はまずキプロス へ移住 いじゅう したが、気候 きこう が合 あ わず断念 だんねん した。その他 た の人々 ひとびと は、カナダ政府 せいふ が歓迎 かんげい したこともあり、カナダへの移住 いじゅう を決 き めた。1899年 ねん に第 だい 一 いち 陣 じん 約 やく 6千 せん 人 にん がカナダに移住 いじゅう し、政府 せいふ が提供 ていきょう した現在 げんざい のマニトバ州 しゅう とサスカチュワン州 しゅう に入植 にゅうしょく した。さらに他 た の人々 ひとびと も続 つづ き、7,400人 にん 、ドゥホボール派 は 信徒 しんと の約 やく 三 さん 分 ぶん の一 いち がカナダへ移住 いじゅう し、流刑 りゅうけい にされていた人々 ひとびと も合流 ごうりゅう した。 渡航 とこう 費用 ひよう は、彼 かれ らに共感 きょうかん したクエーカー やトルストイ主義 しゅぎ 者 もの 、またトルストイ自身 じしん (『復活 ふっかつ 』などの印税 いんぜい )により捻出 ねんしゅつ された。トルストイは友人 ゆうじん たちからも資金 しきん を集 あつ め移住 いじゅう のための基金 ききん を設立 せつりつ した。無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 者 しゃ クロポトキン らも彼 かれ らを援助 えんじょ した。
鍬 くわ を引 ひ くドゥホボール派 は の女性 じょせい たち。カナダ、マニトバ州 しゅう 、1899年 ねん 。
カナダ、サスカチュアン州 しゅう アラン村 むら en:Arran, Saskatchewan 北東 ほくとう 部 ぶ のヴォスネセニア(昇天 しょうてん )村 むら 、旧 きゅう 世界 せかい にそのモデルを持 も つ典型 てんけい 的 てき なone-street village。おそらく1900-1912の間 あいだ に撮影 さつえい 。
カナダ政府 せいふ の制度 せいど は自作農 じさくのう 個人 こじん に農地 のうち を提供 ていきょう することを基本 きほん としていたが、ドゥホボール派 は にはメノナイトなどと同様 どうよう に村 むら 単位 たんい で生活 せいかつ することが認 みと められた。さらに兵役 へいえき 免除 めんじょ も認 みと められた。ドゥホボール派 は の入植 にゅうしょく 地 ち として現在 げんざい のサスカチュワン州 しゅう に、人口 じんこう 1,000人 にん ないし3,500人 にん からなる4箇所 かしょ が造 つく られた。村 むら はロシア式 しき に造 つく られ、ロシア語 ご で元 もと と同 おな じ名 めい 、または新 あら たに宗教 しゅうきょう 的 てき な名 な がつけられた。
しかし当地 とうち の冬 ふゆ はザカフカジエと比 くら べものにならないほど寒 さむ かったため、農業 のうぎょう を断念 だんねん し鉄道 てつどう 建設 けんせつ などの仕事 しごと に就 つ く人 ひと も出 で てきた。1902年 ねん に移住 いじゅう し再 ふたた び指導 しどう 者 しゃ となったP・V・ヴェリギンは、土地 とち の私有 しゆう 化 か を防 ふせ ぐため、土地 とち をコミュニティの名 な で登録 とうろく しようとしたが、カナダ政府 せいふ は個人 こじん 名 めい で土地 とち を登録 とうろく させることにした。多 おお くのドゥホボール派 は 信徒 しんと はこれを拒否 きょひ したため、1907年 ねん には三 さん 分 ぶん の一 いち 以上 いじょう の土地 とち が公有 こうゆう に戻 もど ることとなった。その後 ご さらに問題 もんだい となったのは「ドゥホボール派 は はカナダ国民 こくみん すなわち大 だい 英 えい 帝国 ていこく 臣民 しんみん として忠誠 ちゅうせい を誓 ちか わねばならない」という内相 ないしょう の方針 ほうしん である。これによりドゥホボール派 は は次 つぎ の3派 は に分裂 ぶんれつ した。
個人 こじん 所有 しょゆう 派 は はカナダ社会 しゃかい に容易 ようい に同化 どうか し、土地 とち 登録 とうろく して大 だい 部分 ぶぶん がサスカチュワンに残 のこ った。後 ご (1939年 ねん )にはP・V・ヴェリギンの曾孫 そうそん ジョン・J・ヴェリギンの権威 けんい を否定 ひてい した。
1903年 ねん の自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は による裸体 らたい 抗議 こうぎ の写真 しゃしん 。
P・V・ヴェリギンは非 ひ ドゥホボール派 は や個人 こじん 所有 しょゆう 派 は の影響 えいきょう を除 のぞ くため、ブリティッシュコロンビア州 しゅう に移 うつ ることを決 き め、1908年 ねん から2地域 ちいき の農地 のうち 購入 こうにゅう を開始 かいし した。1912年 ねん にかけてここに約 やく 8千 せん 人 にん が移動 いどう し集団 しゅうだん 生活 せいかつ を始 はじ めた。ここは気候 きこう 条件 じょうけん も良 よ く、果樹 かじゅ 生産 せいさん 地 ち として成功 せいこう した。彼 かれ らの元 もと の居住 きょじゅう 地 ち は1918年 ねん には廃止 はいし された。
自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は Sons of Freedomは当局 とうきょく に抗議 こうぎ するため「物質 ぶっしつ 主義 しゅぎ 反対 はんたい 」を掲 かか げて全裸 ぜんら で行進 こうしん し放火 ほうか を行 おこな った。これに対 たい し当局 とうきょく は土地 とち を差 さ し押 お さえ、義務 ぎむ 教育 きょういく を実施 じっし した。これ以後 いご 1970年代 ねんだい まで、カナダ連邦 れんぽう 政府 せいふ や王立 おうりつ カナダ騎馬 きば 警察 けいさつ との対立 たいりつ が続 つづ くことになる。
P・V・ヴェリギンは1924年 ねん のカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 爆破 ばくは 事件 じけん で殺 ころ された。背後 はいご 関係 かんけい は今 いま も不明 ふめい である。
P・V・ヴェリギンの息子 むすこ ピョートル・ペトロヴィチ(P・P)・ヴェリギンはソ連 それん にいたが、1928年 ねん にカナダへ移 うつ り、コミュニティ派 は 指導 しどう 者 しゃ として父 ちち の後 のち を継 つ いだ。彼 かれ は多数 たすう 派 は ドゥホボール派 は とカナダ社会 しゃかい との関係 かんけい 改善 かいぜん に努力 どりょく した。彼 かれ の方針 ほうしん は自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は からは裏切 うらぎ りと見 み られ支持 しじ を失 うしな っていった。自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は はコミュニティ派 は の建物 たてもの に放火 ほうか し、さらに裸体 らたい 行進 こうしん を行 おこな ったため、政府 せいふ は1932年 ねん に公然 こうぜん 裸体 らたい 罪 ざい を設 もう け、これにより300人 にん 以上 いじょう の自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は 男女 だんじょ を逮捕 たいほ した。
1947-48年 ねん 、王立 おうりつ 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい はブリティッシュコロンビア州 しゅう の放火 ほうか ・爆破 ばくは 事件 じけん を調査 ちょうさ し、特 とく に子供 こども への公 おおやけ 教育 きょういく を通 つう じてドゥホボール派 は をカナダ社会 しゃかい に同化 どうか させることが必要 ひつよう であるとした。また州 しゅう 政府 せいふ は自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は 幹部 かんぶ との対話 たいわ を中止 ちゅうし した。さらに1952年 ねん にブリティッシュコロンビア州 しゅう 首相 しゅしょう となったW.A.C.ベネットはドゥホボール派 は 問題 もんだい に対 たい して厳 きび しい姿勢 しせい をとり、1953年 ねん には150人 にん の自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は の子供 こども が強制 きょうせい 的 てき に寄宿 きしゅく 学校 がっこう に入 い れられた。後 のち にこの子供 こども たちが虐待 ぎゃくたい を受 う けたと訴 うった えられ、州 しゅう 政府 せいふ はこれに対 たい して遺憾 いかん の意 い を表明 ひょうめい したが、連邦 れんぽう 政府 せいふ は責任 せきにん を認 みと めていない。
多 おお くの個人 こじん 所有 しょゆう 派 は とコミュニティ派 は の人々 ひとびと は、自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は は非 ひ 暴力 ぼうりょく の原則 げんそく を破 やぶ っておりドゥホボール派 は の名 な に値 あたい しないと考 かんが えた。この自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は と他派 たは との亀裂 きれつ は現在 げんざい にも尾 お を引 ひ いている。
熱心 ねっしん な人々 ひとびと がカナダへ去 さ ると、ロシア帝国 ていこく 領内 りょうない のドゥホボール派 は 社会 しゃかい は衰退 すいたい した。アゼルバイジャン のエリザベトポリ(ギャンジャ )郡 ぐん には1905年 ねん にはドゥホボール派 は はほとんどいなくなり、代 か わりにバプテスト派 は が住 す み着 つ いた。他 た の地域 ちいき でも多 おお くのドゥホボール派 は 信徒 しんと はモロカン派 は など他 た の教派 きょうは に改宗 かいしゅう した。ドゥホボール派 は に残 のこ っても兵役 へいえき を忌避 きひ する人 ひと はごく一部 いちぶ に過 す ぎなかった。1921-23年 ねん にP・P・ヴェリギンはグルジア南部 なんぶ ボグダノフカ(現 げん ニノツミンダ)の4千 せん 人 にん のドゥホボール派 は をロシア・ロストフ州 しゅう に、また500人 にん をウクライナ ・ザポリージャ州 しゅう に再 さい 移住 いじゅう させた。
ソビエト連邦 れんぽう が成立 せいりつ すると、反 はん 宗教 しゅうきょう 的 てき な政府 せいふ から他 た の教派 きょうは と同様 どうよう に圧迫 あっぱく が加 くわ えられた。しかし一方 いっぽう で政府 せいふ の農業 のうぎょう 集団 しゅうだん 化 か 政策 せいさく は彼 かれ らの生活 せいかつ 様式 ようしき に合 あ ったため、自 みずか らコルホーズ を形成 けいせい した。特 とく にグルジア南部 なんぶ のドゥホボール派 は 社会 しゃかい は外 そと からの影響 えいきょう が少 すく なく伝統 でんとう を保 たも つことができた。
現在 げんざい 、2万 まん から4万 まん といわれるドゥホボール派 は の子孫 しそん がカナダに住 す む。その中 なか で約 やく 4千 せん 人 にん が現在 げんざい もドゥホボール派 は 信仰 しんこう を称 しょう しているが、1960年代 ねんだい 以降 いこう この人口 じんこう は減 へ り続 つづ けている。コミュニティ派 は のCCUBは1938年 ねん 、P・P・ヴェリギンによりUnion of Spiritual Communities of Christに引 ひ き継 つ がれ、現在 げんざい に至 いた る。
グルジア・ロシアと近隣 きんりん 諸国 しょこく にはおそらく3万 まん 人 にん ほどが住 す んでいる。1980年代 ねんだい 後半 こうはん 以降 いこう 、グルジアのドゥホボール派 は の多 おお くがロシアに移住 いじゅう した。グルジアの独立 どくりつ 後 ご 、ロシア語 ご の村 むら 名 めい もグルジア語 ご に変更 へんこう された。例 たと えばニノツミンダ郡 ぐん のドゥホボール派 は 信徒 しんと は1979年 ねん には4千 せん 人 にん ほどいたが、2006年 ねん にはわずか700人 にん ほどとされる。現在 げんざい グルジアに残 のこ っているのはほとんど年配 ねんぱい の世代 せだい のみである。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく にも5千 せん 人 にん ほどが住 す んでいる。
ブリティッシュコロンビア州 しゅう キャスルガーのドゥホボール派 は 博物館 はくぶつかん のレフ・トルストイ銅像 どうぞう
サスカチュワン州 しゅう ヴェリギンのコミュニティ派 は ドゥホボール派 は 本部 ほんぶ 跡 あと は2006年 ねん 、カナダ国定 こくてい 史跡 しせき に指定 してい された。 ブリティッシュコロンビア州 しゅう キャスルガー(en:Castlegar, British Columbia )にはドゥホボール派 は 博物館 はくぶつかん (Doukhobor Discovery Center)がある。オタワ のカナダ文明 ぶんめい 博物館 はくぶつかん にもドゥホボール派 は 関係 かんけい の収蔵 しゅうぞう 品 ひん がある。
^ 黒川 くろかわ 知 とも 文 ぶん 『ロシア・キリスト教 きりすときょう 史 し 』教 きょう 文 ぶん 館 かん
^ 内田魯庵 うちだろあん 『バクダン』春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、1922年 ねん 、P.265頁 ぺーじ 。
^ 内田魯庵 うちだろあん 『バクダン』春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、1922年 ねん 、P.272頁 ぺーじ 。
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