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ドゥホボール

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ドゥホボール(またはドゥホボル、ドゥホボールィ、ドゥホボールツィ、聖霊せいれい否定ひていとも、ロシア: духоборы, ラテン文字もじ: Doukhobor)とはロシアウクライナ起源きげんキリスト教きりすときょう教派きょうは神秘しんぴ主義しゅぎ絶対ぜったいてき平和へいわ主義しゅぎ政府せいふ主義しゅぎ傾向けいこうつよく、共同きょうどう農業のうぎょう生活せいかつおくってきた。18世紀せいきまたはそれ以前いぜん農民のうみんあいだからあらわれたとされる。1785ねんもしくは1786ねんロシア正教会せいきょうかいのエカテリノスラフ主教しゅきょうアンブロシウスが「聖霊せいれいたたかもの」という意味いみめてかれらにドゥホボールツィと名付なづけたため「聖霊せいれい否定ひてい」とばれることがある。だが、ドゥホボール聖霊せいれい肯定こうていしているため、これは不当ふとう呼称こしょうである。のちかれらは「聖霊せいれいとともにたたかもの」という意味いみめてこの呼称こしょうれ、さらに短縮たんしゅくしてドゥホボールと名乗なのるようになった。

世俗せぞくてき権威けんい否定ひてい兵役へいえき忌避きひなどを実行じっこうしたのみならず、既成きせい宗教しゅうきょうてき権威けんいであるロシア正教せいきょう組織そしきたてまつかみあや、さらには聖書せいしょ神聖しんせいせいイエス神性しんせいまでも否定ひていする。人間にんげんうちかみ宿やどるという性善説せいぜんせつから原罪げんざい否定ひていする。 これらによりロシア帝国ていこくでは弾圧だんあつけ、おおくの信徒しんとが19世紀せいきまつカナダ亡命ぼうめいした。カナダでは同化どうか是非ぜひをめぐりいくつかの派閥はばつ分裂ぶんれつしたが、現在げんざいでも子孫しそんすうまんにんがおり、すうせんにん信仰しんこうまもっている。ドゥホボールは、モロカンならんで、代表だいひょうてき合理ごうり主義しゅぎてきセクトとされる[1]。 また、むちスコプツィ、モロカンとうしょ教派きょうはとともに、霊的れいてきキリスト教きりすときょう分類ぶんるいされる。

ドゥホボール正教せいきょう儀式ぎしき混同こんどうされることがあるが、かれらは正教せいきょう自称じしょうせず、正教せいきょうふる儀式ぎしきまもることもないため、儀式ぎしきにはふくまれない。主流しゅりゅうロシア正教会せいきょうかいから「分離ぶんり(ラスコーリニキ)」と蔑称べっしょうされることがあるてん儀式ぎしきおなじである。

歴史れきし

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初期しょき

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ドゥホボール信仰しんこうは、18世紀せいきはじめにウクライナ・みなみロシアではじまったとされている。すべてのひとうちかみ宿やどるという信仰しんこうから、聖職せいしょくたてまつかみあや不要ふようかんがえた。られている最初さいしょ指導しどうしゃはシルアン・コレスニコフ[2]で、西欧せいおう神秘しんぴ主義しゅぎ影響えいきょうけ、1755-75ねんごろウクライナで活動かつどうした。18世紀せいきまつごろに「聖霊せいれい手向てむかうもの」という非難ひなん意味いみでドゥホボールツィ(ru:духоборцы)とばれるようになったが、19世紀せいきになると「聖霊せいれいとともにたたかもの」という意味いみめてドゥホボールィ(ru:духоборы)と自称じしょうするようになった。

また平和へいわ主義しゅぎもとづき軍隊ぐんたい兵役へいえき拒否きょひし、このため政府せいふから圧迫あっぱくけた。1799ねんにはドゥホボール信徒しんと90にんフィンランド追放ついほうしたとの記録きろくがある。

1802ねん皇帝こうていアレクサンドル1せいはドゥホボールプロイセン由来ゆらいメノナイトなど宗教しゅうきょうてき少数しょうすうしゃたちにみなみウクライナのモロクナヤがわ(「ちちながれる」という意味いみ地域ちいきへの移住いじゅうすすめた。これには黒海こっかいきしステップを開発かいはつするとともにロシアを「異端いたん」からまも意図いとがあった。

ザカフカジエへの追放ついほう

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ゴレロフカ(ru:Гореловка)、グルジアのドゥホボール中心ちゅうしん。1893ねん
ゴレロフカのドゥホボール総合そうごう宗教しゅうきょう施設しせつ中心ちゅうしん建築けんちくである孤児こじいん。1847ねん建設けんせつ

つぎニコライ1せい時代じだいには、ドゥホボール兵役へいえき集会しゅうかいきん正教せいきょう改宗かいしゅうさせる命令めいれいされた(1826ねん)。1830ねんにはかれらに、兵役へいえき可能かのうおとこ軍務ぐんむかせてザカフカジエ派遣はけんし、それ以外いがい人々ひとびともザカフカジエへ移住いじゅうさせる命令めいれいされた[3]。これにより1841ねんから1845ねんにかけてやく5せんにんのドゥホボール信徒しんとグルジア移住いじゅうさせられたとされる。以後いごさらにおおくのドゥホボール信徒しんと強制きょうせいてきまたはみずからの意思いしでグルジアや現在げんざいアゼルバイジャン移住いじゅうした。ロシアが戦争せんそうトルコからカルス(げんトルコりょうカルスけん)をる(1878ねん)と、一部いちぶのドゥホボール信徒しんとはここに移住いじゅうした。

ドゥホボール指導しどうしゃイラリオン・カルムィコフは1841ねんにウクライナからザカフカジエへ移住いじゅうしてまもなくったが、息子むすこピョートルがこういだ。かれが1864ねんると、そのつまルケリヤ・ヴァシーリエヴナ・グバノヴァがこういだ。彼女かのじょらはドゥホボール社会しゃかい君臨くんりんし、しゅう当局とうきょく彼女かのじょとドゥホボール重視じゅうししたため「女王じょおう」ともいわれた。彼女かのじょ(1886ねん)のころにはザカフカスのドゥホボール人口じんこうは2まんにんたっした。またこのころにはかれらは菜食さいしょく主義しゅぎものとなり、かれらのおしえにちかいといわれたレフ・トルストイ思想しそうにも親近しんきんかんいだくようになった。

分裂ぶんれつ危機きき

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ルケリヤの死後しご後継こうけいしゃをめぐりドゥホボール社会しゃかい分裂ぶんれつした。多数たすう彼女かのじょ指名しめいしたピョートル・ヴァシーリエヴィチ(P・V)・ヴェリギンを支持しじしたが、少数しょうすうはルケリヤの兄弟きょうだいミハイル・グバノフと長老ちょうろうアレクセイ・ズプコフを支持しじした。ところが少数しょうすう長老ちょうろうしゅう当局とうきょく支持しじけていた。1887ねん1がつ多数たすうによる指導しどうしゃ選出せんしゅつ警察けいさつみ、ヴェリギンを逮捕たいほした。かれ支持しじしゃたちはその16年間ねんかんロシアにより流刑りゅうけいにされたが、多数たすうかれ指導しどうしゃとしてあおつづけた。政府せいふはドゥホボール法律ほうりつ遵守じゅんしゅ忠誠ちゅうせい強制きょうせいし、さらにザカフカジエにも兵役へいえき実施じっしした。少数しょうすう政府せいふ方針ほうしんしたがったが、多数たすうなかには伝統でんとう暴力ぼうりょく主義しゅぎてて抵抗ていこうするうごきもた。

このようななかで1895ねん、ドゥホボール信徒しんとたちは暴発ぼうはつふせぐために自分じぶんたち武器ぶきをすべて破壊はかいすることにしたが、武器ぶきあつめたところで政府せいふ指示しじけたコサックおそわれた。コサックはさらに多数たすうむら々をおそい、4せんにん以上いじょうじゅううしない、おおくの人々ひとびと餓死がしするにいたった。

カナダ移住いじゅう

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レフ・ラゴリオ (1827—1905)、『バトゥミみなと』(1881)。1898ねんおよび1899ねんにドゥホボールはここから大西洋たいせいよう経由けいゆでカナダへおくされた。

ロシア帝国ていこく政府せいふはドゥホボール懐柔かいじゅうがうまくいかず、国際こくさいてき批判ひはんたかまったことから、1897ねんかれらを自主じしゅてき移住いじゅうかたち国外こくがい追放ついほうすることにした。移住いじゅう費用ひよう自己じこ負担ふたんとし、受刑じゅけいちゅう指導しどうしゃたちも減刑げんけいして移住いじゅうさせることにした。

一部いちぶ人々ひとびとはまずキプロス移住いじゅうしたが、気候きこうわず断念だんねんした。その人々ひとびとは、カナダ政府せいふ歓迎かんげいしたこともあり、カナダへの移住いじゅうめた。1899ねんだいいちじんやく6せんにんがカナダに移住いじゅうし、政府せいふ提供ていきょうした現在げんざいマニトバしゅうサスカチュワンしゅう入植にゅうしょくした。さらに人々ひとびとつづき、7,400にん、ドゥホボール信徒しんとやくさんぶんいちがカナダへ移住いじゅうし、流刑りゅうけいにされていた人々ひとびと合流ごうりゅうした。 渡航とこう費用ひようは、かれらに共感きょうかんしたクエーカートルストイ主義しゅぎもの、またトルストイ自身じしん(『復活ふっかつ』などの印税いんぜい)により捻出ねんしゅつされた。トルストイは友人ゆうじんたちからも資金しきんあつ移住いじゅうのための基金ききん設立せつりつした。政府せいふ主義しゅぎしゃクロポトキンらもかれらを援助えんじょした。

カナダ移住いじゅう

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くわくドゥホボール女性じょせいたち。カナダ、マニトバしゅう、1899ねん
カナダ、サスカチュアンしゅうアランむらen:Arran, Saskatchewan北東ほくとうのヴォスネセニア(昇天しょうてん)むらきゅう世界せかいにそのモデルを典型てんけいてきなone-street village。おそらく1900-1912のあいだ撮影さつえい

カナダ政府せいふ制度せいど自作農じさくのう個人こじん農地のうち提供ていきょうすることを基本きほんとしていたが、ドゥホボールにはメノナイトなどと同様どうようむら単位たんい生活せいかつすることがみとめられた。さらに兵役へいえき免除めんじょみとめられた。ドゥホボール入植にゅうしょくとして現在げんざいのサスカチュワンしゅうに、人口じんこう1,000にんないし3,500にんからなる4箇所かしょつくられた。むらはロシアしきつくられ、ロシアもとおなめい、またはあらたに宗教しゅうきょうてきがつけられた。

しかし当地とうちふゆはザカフカジエとくらべものにならないほどさむかったため、農業のうぎょう断念だんねん鉄道てつどう建設けんせつなどの仕事しごとひとてきた。1902ねん移住いじゅうふたた指導しどうしゃとなったP・V・ヴェリギンは、土地とち私有しゆうふせぐため、土地とちをコミュニティの登録とうろくしようとしたが、カナダ政府せいふ個人こじんめい土地とち登録とうろくさせることにした。おおくのドゥホボール信徒しんとはこれを拒否きょひしたため、1907ねんにはさんぶんいち以上いじょう土地とち公有こうゆうもどることとなった。そのさらに問題もんだいとなったのは「ドゥホボールはカナダ国民こくみんすなわちだいえい帝国ていこく臣民しんみんとして忠誠ちゅうせいちかわねばならない」という内相ないしょう方針ほうしんである。これによりドゥホボールつぎの3分裂ぶんれつした。

  • 個人こじん所有しょゆう(Edinolichniki):1907ねん、10%ほどの信徒しんと参加さんかした。信仰しんこう維持いじしたが、土地とち共同きょうどう所有しょゆう廃止はいしし、指導しどうしゃ中心ちゅうしんとする伝統でんとうてき生活せいかつ不要ふようとした。
  • 多数たすう(コミュニティ:Community Doukhobors):P・V・ヴェリギンに忠実ちゅうじつで、en:Christian Community of Universal Brotherhood(CCUB)を結成けっせいした。
  • 自由じゆう主義しゅぎen:Svobodnikiまたは「自由じゆうen:Sons of Freedom)」:1903ねんおこり、ヴェリギンの著作ちょさく熱狂ねっきょうてき支持しじ過激かげき行動こうどうはしった。

個人こじん所有しょゆうはカナダ社会しゃかい容易ようい同化どうかし、土地とち登録とうろくしてだい部分ぶぶんがサスカチュワンにのこった。(1939ねん)にはP・V・ヴェリギンの曾孫そうそんジョン・J・ヴェリギンの権威けんい否定ひていした。

ブリティッシュコロンビアへの移住いじゅう

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1903ねん自由じゆう主義しゅぎによる裸体らたい抗議こうぎ写真しゃしん

P・V・ヴェリギンはドゥホボール個人こじん所有しょゆう影響えいきょうのぞくため、ブリティッシュコロンビアしゅううつることをめ、1908ねんから2地域ちいき農地のうち購入こうにゅう開始かいしした。1912ねんにかけてここにやく8せんにん移動いどう集団しゅうだん生活せいかつはじめた。ここは気候きこう条件じょうけんく、果樹かじゅ生産せいさんとして成功せいこうした。かれらのもと居住きょじゅうは1918ねんには廃止はいしされた。

自由じゆう主義しゅぎSons of Freedomは当局とうきょく抗議こうぎするため「物質ぶっしつ主義しゅぎ反対はんたい」をかかげて全裸ぜんら行進こうしん放火ほうかおこなった。これにたい当局とうきょく土地とちさえ、義務ぎむ教育きょういく実施じっしした。これ以後いご1970年代ねんだいまで、カナダ連邦れんぽう政府せいふ王立おうりつカナダ騎馬きば警察けいさつとの対立たいりつつづくことになる。

P・V・ヴェリギンは1924ねんカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう爆破ばくは事件じけんころされた。背後はいご関係かんけいいま不明ふめいである。

P・V・ヴェリギンの息子むすこピョートル・ペトロヴィチ(P・P)・ヴェリギンはソ連それんにいたが、1928ねんにカナダへうつり、コミュニティ指導しどうしゃとしてちちのちいだ。かれ多数たすうドゥホボールとカナダ社会しゃかいとの関係かんけい改善かいぜん努力どりょくした。かれ方針ほうしん自由じゆう主義しゅぎからは裏切うらぎりとられ支持しじうしなっていった。自由じゆう主義しゅぎはコミュニティ建物たてもの放火ほうかし、さらに裸体らたい行進こうしんおこなったため、政府せいふは1932ねん公然こうぜん裸体らたいざいもうけ、これにより300にん以上いじょう自由じゆう主義しゅぎ男女だんじょ逮捕たいほした。

1947-48ねん王立おうりつ調査ちょうさ委員いいんかいはブリティッシュコロンビアしゅう放火ほうか爆破ばくは事件じけん調査ちょうさし、とく子供こどもへのおおやけ教育きょういくつうじてドゥホボールをカナダ社会しゃかい同化どうかさせることが必要ひつようであるとした。またしゅう政府せいふ自由じゆう主義しゅぎ幹部かんぶとの対話たいわ中止ちゅうしした。さらに1952ねんにブリティッシュコロンビアしゅう首相しゅしょうとなったW.A.C.ベネットはドゥホボール問題もんだいたいしてきびしい姿勢しせいをとり、1953ねんには150にん自由じゆう主義しゅぎ子供こども強制きょうせいてき寄宿きしゅく学校がっこうれられた。のちにこの子供こどもたちが虐待ぎゃくたいけたとうったえられ、しゅう政府せいふはこれにたいして遺憾いかん表明ひょうめいしたが、連邦れんぽう政府せいふ責任せきにんみとめていない。

おおくの個人こじん所有しょゆうとコミュニティ人々ひとびとは、自由じゆう主義しゅぎ暴力ぼうりょく原則げんそくやぶっておりドゥホボールあたいしないとかんがえた。この自由じゆう主義しゅぎ他派たはとの亀裂きれつ現在げんざいにもいている。

ロシアにのこった人々ひとびと

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熱心ねっしん人々ひとびとがカナダへると、ロシア帝国ていこく領内りょうないのドゥホボール社会しゃかい衰退すいたいした。アゼルバイジャンのエリザベトポリ(ギャンジャぐんには1905ねんにはドゥホボールはほとんどいなくなり、わりにバプテストいた。地域ちいきでもおおくのドゥホボール信徒しんとモロカンなど教派きょうは改宗かいしゅうした。ドゥホボールのこっても兵役へいえき忌避きひするひとはごく一部いちぶぎなかった。1921-23ねんにP・P・ヴェリギンはグルジア南部なんぶボグダノフカ(げんニノツミンダ)の4せんにんのドゥホボールをロシア・ロストフしゅうに、また500にんウクライナザポリージャしゅうさい移住いじゅうさせた。

ソビエト連邦れんぽう成立せいりつすると、はん宗教しゅうきょうてき政府せいふから教派きょうは同様どうよう圧迫あっぱくくわえられた。しかし一方いっぽう政府せいふ農業のうぎょう集団しゅうだん政策せいさくかれらの生活せいかつ様式ようしきったため、みずかコルホーズ形成けいせいした。とくにグルジア南部なんぶのドゥホボール社会しゃかいそとからの影響えいきょうすくなく伝統でんとうたもつことができた。

現在げんざい

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現在げんざい、2まんから4まんといわれるドゥホボール子孫しそんがカナダにむ。そのなかやく4せんにん現在げんざいもドゥホボール信仰しんこうしょうしているが、1960年代ねんだい以降いこうこの人口じんこうつづけている。コミュニティのCCUBは1938ねん、P・P・ヴェリギンによりUnion of Spiritual Communities of Christにがれ、現在げんざいいたる。

グルジア・ロシアと近隣きんりん諸国しょこくにはおそらく3まんにんほどがんでいる。1980年代ねんだい後半こうはん以降いこう、グルジアのドゥホボールおおくがロシアに移住いじゅうした。グルジアの独立どくりつ、ロシアむらめいもグルジア変更へんこうされた。たとえばニノツミンダぐんのドゥホボール信徒しんとは1979ねんには4せんにんほどいたが、2006ねんにはわずか700にんほどとされる。現在げんざいグルジアにのこっているのはほとんど年配ねんぱい世代せだいのみである。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにも5せんにんほどがんでいる。

史跡しせき博物館はくぶつかん

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ブリティッシュコロンビアしゅうキャスルガーのドゥホボール博物館はくぶつかんのレフ・トルストイ銅像どうぞう

サスカチュワンしゅうヴェリギンのコミュニティドゥホボール本部ほんぶあとは2006ねんカナダ国定こくてい史跡しせき指定していされた。 ブリティッシュコロンビアしゅうキャスルガー(en:Castlegar, British Columbia)にはドゥホボール博物館はくぶつかん(Doukhobor Discovery Center)がある。オタワカナダ文明ぶんめい博物館はくぶつかんにもドゥホボール関係かんけい収蔵しゅうぞうひんがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 黒川くろかわともぶん『ロシア・キリスト教きりすときょうきょうぶんかん
  2. ^ 内田魯庵うちだろあん『バクダン』春秋しゅんじゅうしゃ、1922ねん、P.265ぺーじ 
  3. ^ 内田魯庵うちだろあん『バクダン』春秋しゅんじゅうしゃ、1922ねん、P.272ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 木村毅きむらき『ドゥホボール教徒きょうとはなし武器ぶき放棄ほうきした戦士せんしたち』、恒文社こうぶんしゃ、1979ねんISBN 4770403232
  • 左近さこんあつし反戦はんせんならびにはん国家こっか運動うんどうのケース・スタディ : ドゥホボール教徒きょうと現在げんざい」『ロシヤロシヤ文学ぶんがく研究けんきゅう』(17)、104-106ぺーじ日本にっぽんロシア文学ぶんがくかい、1985ねんNAID 110001256838
  • 中村なかむら喜和きわ武器ぶきけ―ロシアの平和へいわ主義しゅぎしゃたちの軌跡きせき』、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2002ねん ISBN 978-4634490307

関連かんれん項目こうもく

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