(Translated by https://www.hiragana.jp/)
宮沢賢治 - Wikipedia コンテンツにスキップ

宮沢みやざわ賢治けんじ

この記事は良質な記事に選ばれています
出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮沢みやざわ 賢治けんじ
(みやざわ けんじ)
1924ねん1がつ12にち[注釈ちゅうしゃく 1]撮影さつえい
誕生たんじょう 宮沢みやざわ 賢治けんじ
(1896-08-27) 1896ねん8がつ27にち
日本の旗 日本にっぽん岩手いわてけん稗貫ひえぬきぐん花巻はなまき川口かわぐちまち
げん花巻はなまき
死没しぼつ (1933-09-21) 1933ねん9月21にち(37さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん岩手いわてけん稗貫ひえぬきぐん花巻はなまきまち
げん花巻はなまき
墓地ぼち 照寺しょうじ花巻はなまき
職業しょくぎょう 詩人しじん
童話どうわ作家さっか
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこう
農学のうがく得業とくぎょう[2]
げん岩手大学いわてだいがく農学部のうがくぶ
活動かつどう期間きかん 1918ねん - 1933ねん
ジャンル
童話どうわ
SF
仏教ぶっきょう哲学てつがく
主題しゅだい 童話どうわ短編たんぺん小説しょうせつ
文学ぶんがく活動かつどう 理想りそう主義しゅぎ[3]
代表だいひょうさく注文ちゅうもんおお料理りょうりてん』(1924ねん
銀河ぎんが鉄道てつどうよる
ふうまた三郎さぶろう
ポラーノの広場ひろば
グスコーブドリの伝記でんき
よだかのほし
セロきのゴーシュ
あめニモマケズ
デビューさくはる修羅しゅら』(1924ねん
親族しんぞく 宮澤みやざわ政次郎まさじろうちち
宮澤みやざわきよしろくおとうと
トシ、シゲ、クニ(いもうと
テンプレートを表示ひょうじ

宮沢みやざわ 賢治けんじ(みやざわ けんじ、正字せいじ: 宮澤みやざわ 賢治けんじ1896ねん明治めいじ29ねん8がつ27にち - 1933ねん昭和しょうわ8ねん9月21にち)は、日本にっぽん詩人しじん童話どうわ作家さっか

仏教ぶっきょう法華経ほけきょう信仰しんこう農民のうみん生活せいかつざした創作そうさくおこなった。作品さくひんちゅう登場とうじょうする架空かくう理想郷りそうきょうに、郷里きょうり岩手いわてけんモチーフとしてイーハトーヴ(Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) とうとも)と名付なづけたことでられる。かれ作品さくひん生前せいぜんほとんど一般いっぱんにはられず無名むめいちかく、没後ぼつご草野くさのこころひらたらの尽力じんりょくにより作品さくひんぐんひろられ、世評せひょう急速きゅうそくたかまり国民こくみんてき作家さっかとなっていき、いまでも日本にっぽんにはひろ愛好あいこうしゃ存在そんざいする。おも作品さくひんこうふし参照さんしょう

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

幼少ようしょう少年しょうねん

[編集へんしゅう]
生家せいか
賢治けんじ在世ざいせい当時とうじ建物たてもの現存げんそんしない)
1902ねん小正月こしょうがつ、 5さい賢治けんじみぎ)と3さいのトシ(ひだり

1896ねん明治めいじ29ねん)8がつ27にちちち宮澤みやざわ政次郎まさじろうははイチの長男ちょうなんとして岩手いわてけん花巻はなまき川口かわぐちまちげん花巻はなまき)にまれる。戸籍こせきじょう誕生たんじょうは8がつ1にち生前せいぜん賢治けんじ履歴りれきしょに1にちいているが、27にち推定すいていされている[注釈ちゅうしゃく 2]ははイチの実家じっか鍛冶かじまち宮澤みやざわ善治よしはる出生しゅっしょうしたが、5にちの8がつ31にち秋田あきたけん東部とうぶ震源しんげんとするりく地震じしん発生はっせい。イチは賢治けんじ収容しゅうようしたエジコ (乳幼児にゅうようじまもかご) を両手りょうてかかえながら上体じょうたいおおって念仏ねんぶつとなえていたという[5]政次郎まさじろう仕事しごと旅行りょこうちゅうだったため、政次郎まさじろうおとうとさんろうが「賢治けんじ」と名付なづけた[4]

3さいころ婚家こんかからもどっていたちちあねであるヤギが「正信まさのぶ」「白骨はっこつ文章ぶんしょう」をとなえるのをおぼえ、一緒いっしょ仏前ぶつぜん暗唱あんしょうしていたという[6]1902ねん明治めいじ35ねん)、赤痢せきりで2週間しゅうかん入院にゅういん賢治けんじ看病かんびょうした政次郎まさじろう感染かんせんし、だいちょうカタルこして胃腸いちょう生涯しょうがいよわくなった[7][8]1903ねん明治めいじ36ねん)、花巻はなまき川口かわぐち尋常じんじょう小学校しょうがっこう(2ねん花城はなしろ尋常じんじょう小学校しょうがっこう改名かいめい)に入学にゅうがく成績せいせき優秀ゆうしゅうで6年間ねんかん全科ぜんかかぶとだった。3ねんと4ねん担任たんにんした八木やぎ英三えいぞう生徒せいとたちに『いまおや』(らい素川そせん翻案ほんあんによるマロさくいえなき』)や『うみしおのあるわけ』(民話みんわうみみずはなぜつら』)などの童話どうわはなしてかせ、賢治けんじおおいに影響えいきょうあたえた[9]のち賢治けんじ八木はちぼく再会さいかいしたおりに「わたし童話どうわ童謡どうよう思想しそう根幹こんかんは、尋常じんじょうさんねんよんねんごろにできたものです」とかたっている[10]鉱物こうぶつ採集さいしゅう昆虫こんちゅう標本ひょうほんづくりに熱中ねっちゅうするようになり、11さいころ家族かぞくから「いしけんさん」とあだをつけられる[11]ちち主催しゅさいする花巻はなまき仏教ぶっきょうかい夏季かき講習こうしゅうかいにも参加さんかまねいた講師こうし暁烏敏あけがらすはや世話せわがかりもした[12]

盛岡もりおか中学ちゅうがく在学ざいがく賢治けんじ

1909ねん明治めいじ42ねん)4がつ岩手いわて県立けんりつ盛岡もりおか中学校ちゅうがっこうげん盛岡第一高等学校もりおかだいいちこうとうがっこう)に入学にゅうがく寄宿舎きしゅくしゃ自彊じきょうじきょうりょう」に入寮にゅうりょう祖父そふ喜助きすけ商人しょうにん息子むすこ跡継あとつぎの賢治けんじ学問がくもん不要ふようというかんがえで、ちち政次郎まさじろう説得せっとくして進学しんがくさせた。家業かぎょう古着ふるぎきらっていた賢治けんじ将来しょうらい悲観ひかんし、成績せいせきんでゆく[13]鉱物こうぶつ採集さいしゅう星座せいざ熱中ねっちゅう岩手山いわてさん南昌山なんしょうざん鞍掛山くからかけやまなど盛岡もりおか近在きんざいやまあるき、大量たいりょう岩石がんせき標本ひょうほんあつめた[14]。3年生ねんせいころから石川いしかわ啄木たくぼく影響えいきょうけた短歌たんか制作せいさく[15]1913ねん大正たいしょう2ねん)、4年生ねんせいとき学期がっきから交代こうたいしたあたらしい舎監しゃかん生徒せいとたちが夜中よなかあしらすなどのいやがらせをおこなったため、4、5年生ねんせい全員ぜんいん退すさりょうさせられるという事件じけん発生はっせい賢治けんじ盛岡もりおか北山きたやませいよういん下宿げしゅくする[16]

1914ねん大正たいしょう3ねん)3がつ盛岡もりおか中学ちゅうがく卒業そつぎょう。4月、盛岡もりおか岩手いわて病院びょういん入院にゅういん肥厚ひこうせい鼻炎びえん手術しゅじゅつける。術後じゅつごねつがらず、発疹ほっしんチフスうたがいで5がつまつまで入院にゅういん。このとき看病かんびょうたった政次郎まさじろう感染かんせんして入院にゅういん自分じぶん看病かんびょうで2たおれたちち賢治けんじまでもかんじていたという。入院にゅういんちゅう出会であった岩手いわて病院びょういん看護かんごおもいをせ、退院たいいん両親りょうしん結婚けっこんしたいともうたが「わかすぎる」という理由りゆう反対はんたいされる[17][18]政次郎まさじろうは「あれはひどくなりなところがあって、こまったんじゃ……」と困惑こんわくした[17]実家じっか店番みせばん養蚕ようさん手伝てつだいで鬱々うつうつとした日々ひびごす賢治けんじかねた政次郎まさじろう盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこうへの進学しんがくみとめる。賢治けんじいままでとってわって、受験じゅけんのためもう勉強べんきょうはげんだ[19]どう時期じきに、島地しまじまさるとうわけ漢和かんわ対照たいしょう 妙法みょうほう蓮華れんげけい』をみ、そのなかの「如来にょらい寿ことぶきりょうひん」にからだふるえるほどの感銘かんめいける[20][21][注釈ちゅうしゃく 3]

盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこうくにばしらかい

[編集へんしゅう]
盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん在学ざいがく賢治けんじ
盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん在学ざいがく同人どうじん『アザリア』のメンバーと(後列こうれつみぎ)。賢治けんじひだり保阪ほさかよしみない前列ぜんれつひだり小菅こすが健吉けんきちみぎ河本かわもとみどりせき

1915ねん大正たいしょう4ねん)4がつ盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこうげん岩手大学いわてだいがく農学部のうがくぶ)に首席しゅせき入学にゅうがくし、寄宿舎きしゅくしゃけいりょう」に入寮にゅうりょう。16にち入学にゅうがく宣誓せんせいしきでは総代そうだいとして誓文せいもん朗読ろうどくした[23]翌年よくねん特待とくたいせいえらばれ授業じゅぎょうりょう免除めんじょされる[24][25]高等こうとう農林のうりんでは農学のうがくだい(のちに農芸のうげい学科がっか)に所属しょぞくし、土壌どじょうがく専門せんもんとする部長ぶちょうせき豊太郎ほうたろう指導しどうける[26]せき狷介けんかい人物じんぶつとしてられていたが、賢治けんじとは良好りょうこう関係かんけいきずいたとされる[26]。このころ毎朝まいあさ法華経ほけきょう読経どきょうをしていた。りょう同室どうしつになった1ねん後輩こうはい保阪ほさかよしみないしたしくなる。保阪ほさか農村のうそん改良かいりょう志向しこうして進学しんがくしており、賢治けんじ須地じん協会きょうかい構想こうそうにも影響えいきょうあたえたとわれる[27]1917ねん大正たいしょう6ねん)7がつ保阪ほさか小菅こすが健吉けんきち河本かわもと義行よしゆき河本かわもとみどりせき)らと同人どうじん『アザリア』を発行はっこうし、賢治けんじ短歌たんか短編たんぺん寄稿きこう1918ねん大正たいしょう7ねん)、卒業そつぎょうひかえた賢治けんじちち政次郎まさじろう研究けんきゅうせいとしてのう学校がっこうのこり、徴兵ちょうへい検査けんさ延期えんきすることをすすめるが、賢治けんじ得業とくぎょう論文ろんぶん腐植ふしょくしつちゅう無機むき成分せいぶん植物しょくぶつたいスル価値かち[2]提出ていしゅつし、検査けんさ延期えんき拒否きょひ化学かがく工業こうぎょう方面ほうめんすすみたかった賢治けんじ研究けんきゅうせいせい調査ちょうさ意欲いよくがなく、検査けんさ延期えんき自分じぶん倫理りんりかんゆるさなかった[28]。3月13にち保阪ほさかよしみないが『アザリア』に発表はっぴょうした作品さくひん原因げんいん除籍じょせき処分しょぶんとなる。賢治けんじ教授きょうじゅかい抗議こうぎしたがとおらなかった[27]。15にちのう学校がっこう卒業そつぎょう研究けんきゅうせいとしてのこり、稗貫ひえぬきぐんせい調査ちょうさにあたる[29]。これはせきからの推薦すいせんによるものであった[26]賢治けんじ誠心せいしん誠意せいいこの仕事しごとみ、やすませてもらったいえには法華経ほけきょう印刷物いんさつぶついていった[30]。またこのころから5年間ねんかん菜食さいしょく生活せいかつをする[31]。4月28にち徴兵ちょうへい検査けんさけてだい乙種おつしゅ合格ごうかくとなり、兵役へいえき免除めんじょ[27]。6月30にち岩手いわて病院びょういん肋膜炎ろくまくえん診断しんだんけて山歩やまあるきをめられた。このため退学たいがくもうたが、せい調査ちょうさは9がつまでつづ報告ほうこくしょ提出ていしゅつした[32]。7月4にち花巻はなまき帰省きせいするさい見送みおくりにきた河本かわもと義行よしゆきに「わたしいのちもあとじゅうねんはありません」とかたったという[33]。8月『蜘蛛くもとなめくじとたぬき』『双子ふたごほし』を執筆しっぴつ家族かぞく朗読ろうどくしている[34]

12月26にち東京とうきょう進学しんがくしたいもうとトシ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ附属ふぞく病院びょういん小石川こいしかわぶんいん入院にゅういんしたとのらせがはいり、ははのイチと上京じょうきょう病院びょういんちかくの旅館りょかんくもだいかん」にまり、よく1919ねん大正たいしょう8ねん)3がつ3にちまで(イチは1がつ15にちまで)看病かんびょうする[34]。トシは当初とうしょチフスのうたがいだったが発熱はつねつつづき、肺炎はいえん診断しんだんされる[35]翌年よくねん1がつになると病状びょうじょうき、賢治けんじ図書館としょかんかようなどして将来しょうらい仕事しごとについてかんがはじめる。またくにばしら会館かいかん田中たなか智学ちがく講演こうえんき、もりちゅう同級生どうきゅうせい阿部あべたかし当時とうじ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ在学ざいがくのち高知大学こうちだいがく学長がくちょう)から萩原はぎはら朔太郎さくたろうの『つきえる』をりる[36]ちち政次郎まさじろうに、東京とうきょう移住いじゅうし、宝石ほうせき研磨けんま人造じんぞう宝石ほうせき製造せいぞうなどの事業じぎょうはじめて家業かぎょう転換てんかんをはかる計画けいかく手紙てがみおくるが、政次郎まさじろう実現じつげんせいとぼしい仕事しごと反対はんたい[37]。3月3にち退院たいいんしたトシと花巻はなまきかえり、きらいな家業かぎょう手伝てつだ生活せいかつはじまる。賢治けんじ東京とうきょう仕入しいれた「便利べんりかわらぬのアスファルトのようなものをったトタンいただい用品ようひん)」がれ、賢治けんじはそのもうけでレコード浮世絵うきよえ購入こうにゅうした[38]1920ねん大正たいしょう9ねん)5がつ農林のうりん学校がっこう研究けんきゅうせい卒業そつぎょう助教授じょきょうじゅ推薦すいせんされたが、父子ふしともに実業じつぎょうすすかんがえであったため辞退じたいする[39]田中たなか智学ちがくちょほんみょうむね式目しきもく講義こうぎろくぜん5かん読破どくはくにばしらかい入信にゅうしん法華ほっけ信仰しんこうつよめ、かん修行しゅぎょうとして花巻はなまき町内ちょうない太鼓たいこはた題目だいもくとなえながらある[40][41]。また浄土真宗じょうどしんしゅう門徒もんとであるちち折伏しゃくぶくしようとはげしい口論こうろんかえした[42][43]

家出いえで上京じょうきょうのう学校がっこう教員きょういん

[編集へんしゅう]
花巻はなまきのう学校がっこう教諭きょうゆ時代じだい賢治けんじ
なか花巻はなまきのう学校がっこう教諭きょうゆ時代じだい賢治けんじ

1921ねん大正たいしょう10ねん)1がつ23にち夕方ゆうがた東京とうきょうきの汽車きしゃ家出いえで翌朝よくあさ上野うえのえき到着とうちゃくして鶯谷うぐいすだにくにばしら会館かいかんたずね「下足げそくばんでもビラりでもする」とたのみこむが、応対おうたいした高知こうちさとし耀になだめられ、ちち知人ちじん小林こばやしろく太郎たろうせる[44]本郷ほんごう菊坂きくざかまち下宿げしゅくし、東大とうだい赤門あかもんまえ謄写版とうしゃばん印刷所いんさつしょ文信ふみのぶしゃ」につとめる[注釈ちゅうしゃく 4]高知こうちすすめで「法華ほっけ文学ぶんがく」の創作そうさく[注釈ちゅうしゃく 5]。1かげつさんせんまいもの原稿げんこういたという。食事しょくじじゃがいも豆腐とうふ油揚あぶらあげで、よるくにばしら会館かいかん講話こうわき、昼間ひるま街頭がいとう布教ふきょうにも参加さんかした[46]保阪ほさかよしみないには入信にゅうしんすすめる手紙てがみ度々たびたびおくった。心配しんぱいしたちち政次郎まさじろう小切手こぎっておくったがおくかえした[45]。4月、政次郎まさじろう伊勢いせ比叡山ひえいざん奈良ならたびする。政次郎まさじろう法華経ほけきょうくにばしらかいへの固執こしつ見直みなおさせようとしたが、賢治けんじしんわらなかった[47]。7月、保阪ほさか決裂けつれつ以後いご疎遠そえんになる。8がつ中旬ちゅうじゅん、「トシビョウキスグカエレ」の電報でんぽうり、原稿げんこうトランクめて花巻はなまきもど[48]家族かぞくには原稿げんこうを「童子どうじわらしこさえるかわりにいたのだもや」とかたったという[49]

12月3にち稗貫ひえぬきぐんりつ稗貫ひえぬきのう学校がっこう翌年よくねん岩手いわて県立けんりつ花巻はなまきのう学校がっこう改称かいしょう現在げんざい岩手いわて県立けんりつ花巻はなまき農業のうぎょう高等こうとう学校がっこう)の教諭きょうゆとなる。地元じもとでは「くわっこ大学だいがく」とばれたちいさな学校がっこうだった[50]雑誌ざっし愛国あいこく婦人ふじん』12がつごう翌年よくねん1922ねん大正たいしょう11ねん)1がつごうに「ゆきわたり」掲載けいさい。このときった原稿げんこうりょう5えん生前せいぜん唯一ゆいいつ原稿げんこうりょうという[51]のう学校がっこう給料きゅうりょう80えんはレコード、書籍しょせき購入こうにゅう飲食いんしょくなどにあてた。下宿げしゅくだいとしていえに20えんれていたが、それもなにかと理屈りくつをつけてまきあげる。それでも3にちももてばいいほうで、本屋ほんやでツケでったうえ現金げんきんりることもあった。同僚どうりょう奥寺おくでら五郎ごろう(1924ねん死去しきょ)が結核けっかくになると毎月まいつき30えんおくっている[52]。また花巻はなまき高等こうとう女学校じょがっこう音楽おんがく教師きょうし藤原ふじわら嘉藤かとうおさむ親交しんこうむすび、レコード鑑賞かんしょう飲食いんしょくたのしんだ[53]

1922ねん大正たいしょう11ねん)11月27にち結核けっかく病臥びょうがちゅうのトシの容態ようだい急変きゅうへん午後ごご830ふん死去しきょ賢治けんじ押入おしいがおれて「とし、とし」とごうこく[54]亡骸なきがらみだれたかみ火箸ひばしいた[55]。『永訣えいけつあさ』『まつはり』『無声むせい慟哭どうこく』をく。29にち葬儀そうぎ真宗しんしゅう大谷おおやてらおこなわれたため賢治けんじ出席しゅっせきせず、出棺しゅっかんときあらわれてかんかつぎ、持参じさんしたまるかんにトシの遺骨いこつ半分はんぶんれた。この遺骨いこつのちくにばしらかい本部ほんぶおさめた[56]。それから半年はんとしあいださくをしなかった[57]1923ねん大正たいしょう12ねん)7がつのう学校がっこう生徒せいと就職しゅうしょく依頼いらい樺太からふと旅行りょこう。『青森あおもり挽歌ばんか』『樺太からふと挽歌ばんか』などトシをおも[58]

詩集ししゅう童話どうわ出版しゅっぱん

[編集へんしゅう]

1924ねん大正たいしょう13ねん)4がつ20日はつか心象しんしょうスケツチ はる修羅しゅら刊行かんこう花巻はなまき吉田よしだ印刷所いんさつしょみ1000自費じひ出版しゅっぱんした(定価ていか2えん40ぜに)。発行はっこうしょ名義めいぎ東京とうきょう関根せきね書店しょてんになっている。東京とうきょうでの配本はいほん関根せきね喜太郎きたろうという人物じんぶつたのみ500委託いたくしたが、関根せきねゾッキほんとしてながしてしまい、古本屋ふるほんやで50ぜにられたという[59][60]ほんれず、賢治けんじもほとんど寄贈きぞうしてしまったが、7がつダダイストつじじゅんが『読売新聞よみうりしんぶん』に連載れんさいしていたエッセイで紹介しょうかい詩人しじん佐藤さとう惣之助そうのすけ雑誌ざっし日本にっぽん詩人しじん』12ごうわか詩人しじんに「宮沢みやざわくんのようなオリジナリティーをつよう」とれいげた[61]中原なかはら中也ちゅうや夜店よみせで5ぜにっていた『はる修羅しゅら』のゾッキほんあつめ、知人ちじんくばっている[62]同年どうねん12がつ1にち『イーハトヴ童話どうわ 注文ちゅうもんおお料理りょうりてん刊行かんこう定価ていか1えん60ぜに)。盛岡もりおかだかのう後輩こうはい農薬のうやくのパンフレットをつくっていた近森ちかもり善一ぜんいち及川おいかわ四郎しろう賢治けんじ原稿げんこう刊行かんこう計画けいかく出版しゅっぱん費用ひよう工面くめん苦労くろうしながら東京とうきょう印刷いんさつ製本せいほんした。出版しゅっぱんしゃひかりばらしゃ」の名義めいぎで1000つくったがまったれず、賢治けんじ父親ちちおやから300えんりて200った[63][64]ほん挿絵さしえ担当たんとうした菊池きくち武雄たけおは『あかとり主宰しゅさい鈴木すずき三重吉みえきちに『タネリはたしかにいちにちんでいたようだった』をおくったが「あんな原稿げんこうロシアにでもっていくんだな」とかえされた[65]。しかし翌年よくねん1がつ、『あかとり』に『注文ちゅうもんおお料理りょうりてん』のいちぺーじ広告こうこく掲載けいさいされる。三重吉みえきち厚意こうい無料むりょうだった[62]。7月、詩人しじん草野くさのこころひらた同人どうじん銅鑼どら』に参加さんかする。11月23にち花巻はなまき北上川きたかみがわ小船渡こぶなと東北とうほく帝国ていこく大学だいがく地質ちしつ生物せいぶつ教室きょうしつ早坂はやさか一郎いちろう教授きょうじゅ案内あんない賢治けんじ採集さいしゅうしたバタグルミ(クルミたね化石かせき学術がくじゅつ調査ちょうさ協力きょうりょく。この場所ばしょ賢治けんじは「イギリス海岸かいがん」と名付なづけていた[66]

須地じん協会きょうかい

[編集へんしゅう]
須地じん協会きょうかい使つかわれた建物たてもの花巻はなまき農業のうぎょう高校こうこううち

1926ねん大正たいしょう15ねん)3がつ31にち花巻はなまきのう学校がっこう依願いがん退職たいしょくおとうとての手紙てがみでは校長こうちょう転任てんにんともなって義理ぎりでやめるといている[67]が、前年ぜんねん4がつ13にち杉山すぎやま芳松よしまつての手紙てがみでは「来春らいしゅんはやめてもうもとみつる百姓ひゃくしょうになります」と辞職じしょく決意けついをしている[66]。4月、実家じっかて、かつてトシが療養りょうよう生活せいかつをしていた下根子しもねこさくら別宅べったくうつり、改装かいそう周囲しゅうい開墾かいこんしてはたけ花壇かだんつくった。ここで白菜はくさい、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなど野菜やさい栽培さいばいするとともに、チューリップやヒヤシンスはなかせた。賢治けんじ野菜やさいリヤカーあるいたが、当時とうじ農民のうみんにはリヤカーは高級こうきゅうひんで、賢治けんじ農業のうぎょう金持かねもちの道楽どうらくとみられてしまう[68]野菜やさい勝手かってっていかれてもわらってゆるしていた。農村のうそん水路すいろ修理しゅうりなどの共同きょうどう作業さぎょう参加さんかせずかねつつんでませている[69]。またはたけ白菜はくさいすべぬすまれるといういやがらせにあったはなしのこしている[70]。「須地じん協会きょうかい」としてのう学校がっこう卒業生そつぎょうせい近在きんざい篤農とくのうあつめ、農業のうぎょう肥料ひりょう講習こうしゅう、レコードコンサートや音楽おんがく楽団がくだん練習れんしゅうはじめた。6月『農民のうみん芸術げいじゅつ概論がいろん綱要こうよう起稿きこう[71]。「世界せかいがぜんたい幸福こうふくにならないうちは個人こじん幸福こうふくはありない」として農民のうみん芸術げいじゅつ実践じっせんこころみた。 また肥料ひりょう設計せっけい事務所じむしょ開設かいせつ無料むりょう肥料ひりょう計算けいさん相談そうだんおうじた。この様子ようすは「それでは計算けいさんいたしませう」というかれている[72]

12月2にち上京じょうきょうタイプライターセロオルガンエスペラントならい、観劇かんげきをする。資金しきん父親ちちおやたのみだった。18にち高村たかむら光太郎こうたろうたずねている。年末ねんまつはな[73]1927ねん昭和しょうわ2ねん)2がつ1にち岩手いわて日報にっぽう夕刊ゆうかんめんで「農村のうそん文化ぶんか創造そうぞうつとむむ/花巻はなまき青年せいねん有志ゆうしが/じん協会きょうかい組織そしきし/自然しぜん生活せいかつかえる」の見出みだしで賢治けんじ活動かつどう紹介しょうかいされる。これが社会しゃかい主義しゅぎ教育きょういくうたがわれ、花巻はなまき警察けいさつ聴取ちょうしゅける。以後いご須地じん協会きょうかい集会しゅうかい不定期ふていきになり、オーケストラも一時いちじ解散かいさんした[74]

このころ小学校しょうがっこう教員きょういん高瀬たかせという女性じょせい協会きょうかいにしばしばかよってくるようになる。高瀬たかせ賢治けんじまわりの世話せわをしようとしたが、賢治けんじ居留守いるす使つかったり、かおはいっててきたりするなどして彼女かのじょ厚意こういけようとした。協会きょうかいひとあつまったとき高瀬たかせはカレーライスをつくってもてなしたが、賢治けんじは「わたしにはべる資格しかくがありません」と拒否きょひおこった高瀬たかせはオルガンをはげしくらした[75]。その彼女かのじょ賢治けんじ悪口わるぐちってまわるようになったが、ちち政次郎まさじろうは「はじめておんなのひとにあったとき、おまえはあま言葉ことばをかけしろしてわらったろう」と賢治けんじ態度たいどしかった[76]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)6がつ胆沢いさわぐん水沢すいざわまち現在げんざい水沢すいざわ)の豪家ごうか出身しゅっしんで、伊豆いず大島おおしま伊藤いとう七雄ななお訪問ほうもん伊藤いとう結核けっかく療養りょうようのため大島おおしまうつり、ここに園芸えんげい学校がっこう建設けんせつするにあたって賢治けんじ助言じょげんるため相談そうだんしていた(1931ねん伊藤いとう死去しきょともな学校がっこう消滅しょうめつした)[77]。この訪問ほうもん伊藤いとういもうとチヱとの見合みあ意味いみもあったが、チヱの回想かいそうによれば賢治けんじ結婚けっこんについてまった眼中がんちゅうにない様子ようすだったという[78]。しかし1931ねん森荘もりしょうやめたずねた賢治けんじは「伊藤いとうさんと結婚けっこんするかもしれません」とはなしている[79]

肥料ひりょう相談そうだん稲作いなさく指導しどう奔走ほんそうしていたが、8がつ10日とおか高熱こうねつたおれ、花巻はなまき病院びょういん両側りょうがわ肺浸潤はいしんじゅんとの診断しんだんける。以後いご実家じっか病臥びょうが生活せいかつとなる[80][81]

東北とうほく砕石さいせき工場こうじょう技師ぎし

[編集へんしゅう]

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、体調たいちょう回復かいふくかい、文語ぶんご制作せいさくをはじめる[82]。5月、東磐井ひがしいわいぐん陸中松川りくちゅうまつかわえきまえにあった東北とうほく砕石さいせき工場こうじょうぬし鈴木すずき東蔵とうぞう来訪らいほう鈴木すずき石灰岩せっかいがんカリ肥料かりひりょうくわえた安価あんか合成ごうせい肥料ひりょう販売はんばい計画けいかくしており、賢治けんじ賛同さんどうする[83]1931ねん昭和しょうわ6ねん)2がつ21にち東北とうほく砕石さいせき工場こうじょう花巻はなまき出張所しゅっちょうしょ開設かいせつちち政次郎まさじろう病弱びょうじゃく賢治けんじそとすのを心配しんぱいし、工場こうじょう融資ゆうしおこなって花巻はなまき出張所しゅっちょうしょつくり、仕事しごとをさせようとのかんがえだった[84]。しかし技師ぎしとなった賢治けんじ製品せいひん改造かいぞうこう告文こくぶん起草きそう製品せいひん注文ちゅうもんり、販売はんばいなどで東奔西走とうほんせいそうする[85]農閑期のうかんき石灰せっかいれなくなる。そこで賢治けんじ石灰せっかいかべ材料ざいりょう転用てんようすることをかんがえ、9月19にち、40キログラムもの製品せいひん見本みほんかばんめて上京じょうきょうする。よく20にち神田駿河台かんだするがだい旅館りょかん八幡やはたかん[注釈ちゅうしゃく 6]まるが高熱こうねつたおれ、覚悟かくごして、家族かぞく遺書いしょ[87]。27にち最期さいごわかれのつもりで父親ちちおや電話でんわをかける。政次郎まさじろう東京とうきょう小林こばやしろく太郎たろうたのみ、翌日よくじつ賢治けんじ花巻はなまきもどってすぐ病臥びょうが生活せいかつとなる。11月、手帳てちょうに『あめニモマケズ』を[88]

1932ねん昭和しょうわ7ねん)3がつ児童じどう文学ぶんがくだいさつに「グスコーブドリの伝記でんき発表はっぴょう挿絵さしえ棟方むなかた志功しこう[注釈ちゅうしゃく 7]病床びょうしょうでは文語ぶんご制作せいさく過去かこ作品さくひん推敲すいこう[90]前年ぜんねんふゆから医者いしゃにもかからず、くすりビール酵母こうぼたけかわせんじたものをむだけだった[91][92]

賢治けんじが1933ねん9がつ19にちんだ「絶筆ぜっぴつ」の短歌たんか2しゅ
かたじゅうさと稗貫ひえぬきのみかもいねれて みまつりさんにちそらはれわたる」
やまい(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり みのりにてばうれしからまし」

1933ねん昭和しょうわ8ねん)9がつ17にちから19にちまで鳥谷とりたにさき神社じんじゃのおまつりがおこなわれ、賢治けんじ門口かどぐち椅子いすしてすわり、神輿しんよ山車だし見物けんぶつした。翌日よくじつあさ昨夜さくや賢治けんじ門口かどぐちにいるのを農民のうみん相談そうだんた。はなしをしたのち賢治けんじ呼吸こきゅうくるしくなり、往診おうしんした医者いしゃから急性きゅうせい肺炎はいえんきざしと診断しんだんされる。そのよるべつ農民のうみん稲作いなさく肥料ひりょう相談そうだんにやってる。賢治けんじ着物きものえ1あいだほど丁寧ていねい相談そうだんったのち、すぐかい病室びょうしつはこばれた。心配しんぱいした清六せいろくって一緒いっしょたが、賢治けんじは「この原稿げんこうはみなおまえにやるから、もしちいさな本屋ほんやからでもしたいところがあったらしてもいい」とはなした[93]。 9月21にち午前ごぜん11時半じはん突然とつぜん南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」と唱題するこえこえたので家族かぞくいそいでかい病室びょうしつってみると、賢治けんじ喀血かっけつしてさおかおになっていた。政次郎まさじろうが「なにっておくことはないか」とたずねると、賢治けんじは「くにやく妙法みょうほう蓮華れんげけいいちせんつくってください」「わたし一生いっしょう仕事しごとはこのおけいをあなたの御手許おてもととどけ、そしてあなたがふつさまのしんれてあなたが一番いちばんよいただしいみちはいられますようにということをいておいてください」とかたった。政次郎まさじろうが「おまえもなかなかえらい」とこたえて階下かいかりると、賢治けんじ清六せいろくに「おれもとうとうおとうさんにほめられたものな」とった。病室びょうしつのこったイチが賢治けんじみずませ、からだくと「ああいい気持きもちだ」とかえし、午後ごご1時半じはん呼吸こきゅうわりしおくようにいきった。ぼつ年齢ねんれいまん37さい[93][94]葬儀そうぎ宮沢みやざわ菩提寺ぼだいじだったあんきよしてらいとなまれた[95]。18ねん1951ねん昭和しょうわ26ねん)、宮沢みやざわ日蓮宗にちれんしゅう改宗かいしゅうし、墓所はかしょ花巻はなまき照寺しょうじうつされた。またくにばしらかいから法名ほうみょう真金まがねいんさん不日ふじつけんぜん男子だんし」がおくられた。東京とうきょう江戸川えどがわくにばしらかいには賢治けんじ遺骨いこつ一部いちぶおさめられている[96]

作品さくひん評価ひょうか

[編集へんしゅう]
手帳てちょうしるされた『あめニモマケズ』

生前せいぜん刊行かんこうされた唯一ゆいいつ詩集ししゅうとして『はる修羅しゅら』、おなじく童話どうわしゅうとして『注文ちゅうもんおお料理りょうりてん』がある。また、生前せいぜん雑誌ざっし新聞しんぶん投稿とうこう寄稿きこうした作品さくひんすくないながら存在そんざいする(『やまなし』『グスコーブドリの伝記でんき』など)。ただし、賢治けんじった原稿げんこうりょうは、雑誌ざっし愛国あいこく婦人ふじん』に投稿とうこうした童話どうわゆきわた』でた5えんだけであったといわれる。

しかし生前せいぜんから注目ちゅうもくされていた経緯けいいもあり、直後ちょくごから、おも草野くさのこころひらた尽力じんりょくにより多数たすう作品さくひん刊行かんこうされた。最初さいしょ全集ぜんしゅうは(作品さくひん全体ぜんたいからは一部いちぶ収録しゅうろくではあるものの)はやくも死去しきょ翌年よくねん野々上ののうえ慶一けいいちいとなんでいたぶん圃堂より刊行かんこうされ、つづいてぶん圃堂から紙型しけいった十字屋じゅうじや書店しょてんが、それに増補ぞうほするかたちで1939ねんから1944ねんにかけて出版しゅっぱんした。戦時せんじしたあめニモマケズ』は滅私めっし奉公ほうこうてきられ、求道きゅうどうしゃとしての賢治けんじぞうができあがった[97]戦後せんご筑摩書房ちくましょぼうから文庫ぶんこばんふくすうにわたり刊行かんこうされている(#作品さくひん一覧いちらん参照さんしょう)。戦後せんご賢治けんじかた作品さくひんにみられるヒューマニズムひじりする一方いっぽう反動はんどうとしての批判ひはんあめニモマケズ』論争ろんそうおこなわれるなどさい評価ひょうかうごきもあらわれた[よう出典しゅってん]

賢治けんじ作品さくひんは、一旦いったん完成かんせいしたのちつぎからつぎえられてまったべつ作品さくひんになってしまうことがある。これは雑誌ざっし発表はっぴょうされた作品さくひんでも同様どうようで、変化へんかそのものがひとつの作品さくひんえる。『農民のうみん芸術げいじゅつ概論がいろん綱要こうよう』においても「永久えいきゅう完成かんせいこれ完成かんせいである」という記述きじゅつがある[98]おおくの作品さくひん死後しご未定稿みていこうのままのこされたこともあり、作品さくひんによってはなん修正しゅうせいしたあとのこされていて、全集ぜんしゅう編集へんしゅうしゃ判読はんどく苦労くろうするケースもすくなくなかった。そうした背景はいけいから原稿げんこう徹底てっていした調査ちょうさもとづき、逐次ちくじ形態けいたいすべあきらかにする『校本こうほん 宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう』(筑摩書房ちくましょぼう、1973~77ねん)が刊行かんこうされ、作品さくひん内容ないよう整理せいりはかられた。これ以後いご文学ぶんがく研究けんきゅう対象たいしょうとして、賢治けんじとその作品さくひん論評ろんぴょうするうごきがえ、精神せいしん医学いがく地学ちがく物理ぶつりがくなど領域りょういき時代じだい背景はいけいまえた論考ろんこうおおくなった[99]

死去しきょから49ねんの1982ねん花巻はなまき矢沢やさわ胡四王こしおうさん花巻はなまき市立しりつ宮沢みやざわ賢治けんじ記念きねんかん開館かいかんしている[100]

草稿そうこう調査ちょうさによって、賢治けんじ遺稿いこうはほぼ調しらくされたとられていたが、生家せいか土蔵どぞうから発表はっぴょう草稿そうこう1まい地形ちけいうらかれたもの)が発見はっけんされたことが2009ねん4がつ公表こうひょうされ『しん校本こうほん 宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう別巻べっかん筑摩書房ちくましょぼう)に収録しゅうろくされた[101]

ひろ作品さくひん世界せかいおおっているのは、作者さくしゃみずからの裕福ゆうふく出自しゅつじと、郷土きょうど農民のうみん悲惨ひさん境遇きょうぐうとの対比たいひんだ贖罪しょくざいかん自己じこ犠牲ぎせい精神せいしんである。またおさなころからしたしんだ仏教ぶっきょうつよ影響えいきょうあたえている。そのおも契機けいきとしては浄土真宗じょうどしんしゅう暁烏敏あけがらすはやらの講話こうわ説教せっきょうげられる。とくに18さいときどうむね学僧がくそうである島地しまじまさるとうへんやく法華経ほけきょうんでふか感銘かんめいけたとわれる。この法華経ほけきょう信仰しんこうたかまりにより、賢治けんじのち国粋こくすい主義しゅぎてき法華宗ほっけしゅう教団きょうだんくにばしらかい」に入信にゅうしんするが、法華宗ほっけしゅう当時とうじ宮沢みやざわとは宗派しゅうはちがいであったので、父親ちちおやとの対立たいりつふかめることとなった。弱者じゃくしゃたいする献身けんしんてき精神せいしん強者きょうしゃへの嫌悪けんおなどの要素ようそは、これらの経緯けいいふかかかわりがあるとおもわれる。また、理解りかいしゃとしてのいもうとトシのあたえた喪失そうしつかんは、以後いご作品さくひん特有とくゆう陰影いんえいくわえた。

また、童話どうわ作品さくひんにおいては擬声語ぎせいご多用たようし、作品さくひんによっては韻文いんぶんにもちかいリズムかんった文体ぶんたい使用しようしたこともおおきな特徴とくちょうである。賢治けんじ童話どうわどう時代じだい主流しゅりゅうとされた『あかとり』に掲載けいさいされるなどしていた児童じどう文学ぶんがく作品さくひんとはかなり異質いしつなものであった。

賢治けんじ作品さくひんには世界せかい主義しゅぎてき雰囲気ふんいきがあり、岩手いわてけんという郷土きょうどへの愛着あいちゃくこそあれ、軍国ぐんこく主義しゅぎ民族みんぞく主義しゅぎてき要素ようそ直接ちょくせつ反映はんえいした作品さくひんはほとんどられない。ただ、24さいときくにばしらかい入信にゅうしんしてから、時期じきによって活動かつどう傾倒けいとう度合どあいにはあるものの、生涯しょうがいその一員いちいんでありつづけたため、その社会しゃかいてき活動かつどう自己じこ犠牲ぎせいてき思想しそうについて当時とうじファシズムてき風潮ふうちょうとの関連かんれん議論ぎろんされている。晩年ばんねんには遺作いさく銀河ぎんが鉄道てつどうよる』にられるようにキリスト教きりすときょうてき救済きゅうさい信仰しんこうをもげ、ぜん人類じんるいへの宗教しゅうきょうてき寛容かんようたっしていたことが垣間見かいまみられる。宗教しゅうきょう学者がくしゃからは、賢治けんじのこうしたかんがかた根本こんぽんは、法華経ほけきょうもとづくものであると指摘してきされている[102][103]。この宗教しゅうきょうてき思想しそう自然しぜん科学かがく融合ゆうごうした独自どくじ世界せかいかんだい世界せかい大戦たいせんのち日本にっぽん国外こくがい研究けんきゅうしゃからも評価ひょうかされ、1996ねん9月、宮沢みやざわ賢治けんじ生誕せいたん100周年しゅうねん記念きねんして花巻はなまきにて開催かいさいされた宮沢みやざわ賢治けんじ国際こくさい学会がっかいでは20ヶ国かこくほど研究けんきゅうしゃ翻訳ほんやくしゃたかったことを歴史れきし色川いろかわ大吉だいきち著書ちょしょ言及げんきゅうしている[104]

賢治けんじみずかまなんだエスペラントでも詩作しさくこころみたが、公表こうひょうされたのは1953ねんである。これらの作品さくひんのほとんどはみずからの作品さくひんのエスペラントへの翻訳ほんやく改作かいさくである[105]

1998ねんころに、山折やまおり哲雄てつおがある小学校しょうがっこう授業じゅぎょうをしたさいに、賢治けんじの3つの作品さくひんふうまた三郎さぶろう』『注文ちゅうもんおお料理りょうりてん』『銀河ぎんが鉄道てつどうよる』をしめし、これらに共通きょうつうする問題もんだいがあり、それはなにだと子供こどもたちにい、みずからはふうがすごくおおきな役割やくわりたしている、この3つの童話どうわ中心ちゅうしんてきだい問題もんだいは「ふう」だと力説りきせつした。このとき子供こども一人ひとりが「ねこ」だとおうとしたが、山折やまおりが「ふう」とったのであれっとおもったが、山折やまおりはなしうちにやっぱり「ふう」だとおもった。ところがこのエピソードいた河合かわい隼雄はやおは、賢治けんじ作品さくひんにおけるねこ役割やくわり重要じゅうようせいをずっとかんがえていたため、「ねこふう」というヒントから、ふうのつかまえどころのさとやさしさと荒々あらあらしさの同居どうきょすこしの隙間すきまでもはいんでくるてんなどねことの共通きょうつうてんかんじ、賢治けんじ作品さくひん登場とうじょうするねこは、まさにそのような性格せいかくって登場とうじょうするとろんじている。賢治けんじの『ねこ』という短編たんぺんには「わたしねこ大嫌だいきらいです。ねこのからだのなかかんがえるときそうになります」という一節いっせつられる[106]。しかし、この「ねこ」は高瀬たかせ転嫁てんかされた表現ひょうげんであり、実際じっさい賢治けんじねこきらいだったわけではないという指摘してきもある(ますむらひろしちょ『イーハトーブ乱入らんにゅうぼく宮沢みやざわ賢治けんじ体験たいけん[ようページ番号ばんごう])。

愛知あいちけん出身しゅっしん児童じどう文学ぶんがく作家さっかである新美にいみ南吉なんきちは、賢治けんじ作品さくひんんで評価ひょうかし、没後ぼつご1934ねんひらかれた「宮沢みやざわ賢治けんじともかい」に出席しゅっせきした[107] 。

人物じんぶつぞう

[編集へんしゅう]

幼少ようしょう伝説でんせつ

[編集へんしゅう]

賢治けんじにはおおくの「伝説でんせつ」がかたがれているが、とく本人ほんにん資料しりょうのこしていない幼少ようしょう神格しんかくはなはだしいと指摘してきされている。こうした神格しんかく後押あとおししていたのが、ちち政次郎まさじろうおとうと清六せいろくであった。[よう出典しゅってん]伝説でんせつうそではないにしても誇張こちょう曲解きょっかいおこなわれたのは関係かんけいしゃおもれと宮沢みやざわへの気遣きづかいであろうと、山下やました聖美きよみ推測すいそくしている[108]現代げんだいでは吉田よしだつかさの『宮沢みやざわ賢治けんじ殺人さつじん事件じけん』のように聖人せいじんイメージを破壊はかいするという著作ちょさくあらわれている[109]

  • 生誕せいたんやく2ヶ月かげつまえである1896ねん6がつ15にち三陸さんりく地震じしん津波つなみが、誕生たんじょう直後ちょくごにもりく地震じしん発生はっせいした。清六せいろくは、賢治けんじまれたとし東北とうほく地方ちほう災害さいがいおおく、「それはあめふう天候てんこう心配しんぱいし、あらゆる生物せいぶつ幸福こうふくいのって、善意ぜんいやしつづけた賢治けんじ生涯しょうがいが、容易よういならぬ苦難くなんちたみちであるのをも暗示あんじしているようなとしであった(あに賢治けんじ生涯しょうがい)」と述懐じゅっかいしている[110]。また、1933ねん没年ぼつねん)の3がつ3にちに「三陸さんりくおき地震じしん」(理科りか年表ねんぴょうNo.325)が発生はっせいし、おおきな災害さいがいをもたらした。地震じしん直後ちょくご詩人しじん大木おおきみのる1913ねん-1996ねん)へてた見舞みまいの礼状れいじょう[111]には、「海岸かいがんじつ悲惨ひさんです」と津波つなみ被害ひがいについていている[112]
  • 尋常じんじょう小学校しょうがっこう時代じだいあかいシャツをてきた同級生どうきゅうせいみなかこまれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治けんじあいだはいり「おれもあかシャツてくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった[113]
  • メンコあそんでいたとき仲間なかま一人ひとりがメンコをってゆび馬車ばしゃにひかれ出血しゅっけつした。賢治けんじは「いたかべ、いたかべ」といながらそのゆびってやった[113]
  • いたずらをしたばちとしてみず満杯まんぱいにした茶碗ちゃわんって廊下ろうかたされていた生徒せいとがいた。先生せんせいよう廊下ろうか賢治けんじは「ひどいだろう、大変たいへんだろう」と茶碗ちゃわんみずしてやった[113]
  • 尋常じんじょう小学校しょうがっこう2ねんとき、4にん小学生しょうがくせい豊沢川とよさわがわながされ2人ふたりくなった。子供こども捜索そうさくするふねかりを大勢おおぜいひとあつまり豊沢とよさわきょううえから見守みまもっていた。賢治けんじ同級生どうきゅうせいながされたといてこれをており、のちに創作そうさくのモチーフとなった[10]

科学かがく

[編集へんしゅう]

幼少ようしょういしこのんで収集しゅうしゅうする鉱物こうぶつ愛好あいこうだったことから、11さいごろより家族かぞくに「いしけんさん」という愛称あいしょうばれた[11]盛岡もりおか中学校ちゅうがっこう時代じだいは、休日きゅうじつ盛岡もりおか周辺しゅうへん鉱物こうぶつ採集さいしゅうをしたり、道中どうちゅうで「根石ねいし」(石鏃せきぞく)を収集しゅうしゅうするためあえて徒歩とほ帰省きせいしたりした[114]盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこう研究けんきゅうせい時代じだいに、人工じんこう宝石ほうせき製造せいぞうぎょう東京とうきょう起業きぎょうするプランを手紙てがみちちおくったこともあった(実現じつげんせず)[115]

作中さくちゅうには動植物どうしょくぶつ鉱物こうぶつ地質ちしつがくなど科学かがく用語ようご鉱物こうぶつ名称めいしょうおお登場とうじょうする[116]

大学だいがくまなんだ土壌どじょうがく農民のうみん還元かんげんする農業のうぎょう技術ぎじゅつ指導しどういんとしての評価ひょうかもある[117]

音楽おんがく

[編集へんしゅう]

賢治けんじ音楽おんがくふか関心かんしんっており、ひまつけてはレコードっていた。賢治けんじ頻繁ひんぱんにレコードをっていくため、地方ちほうみせわり新譜しんぷレコードがおおれるとして、きつけの楽器がっきてんイギリス本社ほんしゃポリドール・レコードから感謝かんしゃじょうおくられたという[118][注釈ちゅうしゃく 8]

ベートーヴェンドヴォルザークきょくをよくいていた。のう学校がっこう教員きょういん時代じだい(1921-1923ねん)にはみずか楽曲がっきょくづくりも手掛てがけた。じゅうすうきょく作詞さくしし、うちやっつは作曲さっきょくもしている[119]

蓄音機ちくおんきでレコードはりとして使つかたけはりいため、音質おんしつたかめるはり発明はつめいしたこともある。米国べいこくビクターしゃにサンプルをおくり、製品せいひんにはいたらなかったものの、その発想はっそうたか評価ひょうかされた[120]

食生活しょくせいかつ菜食さいしょく主義しゅぎ

[編集へんしゅう]

日蓮にちれんけい教団きょうだんでは末法まっぽうくため菜食さいしょく必要ひつよういのだが[121]賢治けんじ法華経ほけきょう信仰しんこうはいったのち盛岡もりおかだかのう研究けんきゅうせいになった1918ねん大正たいしょう7ねん)から5年間ねんかん菜食さいしょく生活せいかつをした[31]。5月19にちづけ保阪ほさかよしみないてた手紙てがみでは、刺身さしみ茶碗蒸ちゃわんむ少量しょうりょうべたのちべられるもの同情どうじょうする気持きもちをつづっている[122]東京とうきょうでトシの看病かんびょうをするため宿泊しゅくはくしていた旅館りょかんくもだいかん」では、賢治けんじのため精進しょうじん料理りょうりしてくれたという[35]家出いえで上京じょうきょうちゅうは、いも豆腐とうふ油揚あぶらあばかり[123]脚気かっけになったときは、蕎麦そばがき麦飯むぎめし冬瓜とうがしるんだ[124]。1921ねん大正たいしょう10ねん)8がつ11にちづけせき徳弥とくやあて手紙てがみでは脚気かっけ原因げんいん肉食にくしょくのせいにしている[125]

のう学校がっこう教員きょういん時代じだい菜食さいしょくにこだわらず、同僚どうりょう知人ちじん外食がいしょくたのしんだ。花巻はなまき蕎麦そば「やぶ」を「ブッシュ」とび、よくかよっていた。てんぷら蕎麦そばサイダー一緒いっしょ注文ちゅうもんするのが定番ていばんだった[126]。またうなぎどんぶり天丼てんどん好物こうぶつだったという[127]自分じぶんからすすんでさけむことはなかったが、いでさけをすすめられるとみずでもむようにして返盃へんぱいした。ときたばこうこともあった[128]。また教員きょういん仲間なかまあつまったとき藤原ふじわら嘉藤かとうおさむから「人間にんげんものいのちってきている。おかさずにきうる世界せかいというものはないのだろうか。」といかけられたこたえとして『ビジテリアン大祭たいさい』をいている[129]

須地じん協会きょうかい時代じだい自炊じすい極端きょくたん粗食そしょくだった。はんはまとめていてザルにうつして井戸いどなかげてき、ふゆこおったままべた。おかず油揚あぶらあげや漬物つけものトマトなどだった[130][131]賢治けんじからだ心配しんぱいしたははのイチが小豆あずきれたひっつみとどけたことがあるが、らなかった[132]急性きゅうせい肺炎はいえんたお病臥びょうが生活せいかつになっても菜食さいしょくはやめず、鶏卵けいらん牛乳ぎゅうにゅう拒否きょひした[133]。イチがこいぎも肺炎はいえんくといて、オブラートつつやくいつわってませたことがあった。おとうと清六せいろくから中身なかみをききだした賢治けんじなみだながし、「ものいのちをとるくらいならおれはんだほうがいい」「これからはけっしてそんなことをしてくれるな」とさおかおい、最期さいごまで菜食さいしょく主義しゅぎをつらぬいた[134]

恋愛れんあい性愛せいあいかん

[編集へんしゅう]

賢治けんじ生涯しょうがい独身どくしんだった。友人ゆうじん藤原ふじわら嘉藤かとうおさむに「性欲せいよく乱費らんぴは、くん自殺じさつだよ、いい仕事しごとはできないよ。」とかたり、性欲せいよく発露はつろいましめた。せき登久也とくやはあるあさ賢治けんじうと、岩手いわてぐん外山とやま牧場ぼくじょうっていちばんちゅうあるき、よるてっして性欲せいよくたたかったことをかされた。のう学校がっこう教員きょういん時代じだい見合みあいのはなしがいくつもまれ、両親りょうしん結婚けっこんさせたがったが、賢治けんじがんとしてけなかった[135]藤原ふじわらにはこうかたっている。

新鮮しんせん食卓しょくたくにだな、のようにおりてきて、あいさつをとりかわし、いちわん給仕きゅうじをしてくれ、すっとり、またあくるあさやってくるといったような女性じょせいなら、ぼくは結婚けっこんしてもいいな。ときにはおれのセロの調子ちょうしはずれをなおしてくれたり、童話どうわをきいてくれたり、レコードのぜん楽章がくしょう辛抱強しんぼうづよくかけてくれたりするんならもうぶんがない。 — (『宮沢みやざわ賢治けんじ肖像しょうぞう』)[136]

童貞どうていだったともわれるが、「一関いちのせき花川戸はなかわどという遊郭ゆうかく登楼とうろうしてきたといってあかるくニコニコわらってはなしました」(『宮沢みやざわ賢治けんじ肖像しょうぞう』)という証言しょうげんもあり、真偽しんぎ不明ふめいである[137]晩年ばんねん森荘もりしょうやめたずねたとき禁欲きんよく主義しゅぎについては「なににもなりませんでしたよ」「まるっきりムダでした」とはなし、さらに「くさ自然しぜんくようにエロのことをきたい」とかたって、変節へんせつしたことをみとめた[138]

賢治けんじ浮世絵うきよえコレクターで、とくに「いん春画しゅんが)」をめばたかさ30センチメートルになるほどあつめていた[139]。それらのう学校がっこうってきて、同僚どうりょう批評ひひょうしてたのしんだ[140]ハバロック・エリスの『せい心理しんり』をっていて、翻訳ほんやくほん伏字ふせじになった部分ぶぶん仙台せんだい本屋ほんやまでって原書げんしょんでたしかめた[141]。このほんのことをかれると「いなかのども(のう学校がっこうおし)がせいでまちがいをおこさないようにおしえたいとおもって」とこた[139]実際じっさい生徒せいとに「猥談わいだん大人おとな童話どうわみたいなものであたまやすめるもの」「だれにくむというわけでも、ひときずつけるというものでもなく、わるいものではない。せい自然しぜんはなだ。」とはなしたという[142]

盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこう在籍ざいせき出会であったいちねん後輩こうはい保阪ほさかよしみないとのあいだで、たがいに「恋人こいびと」とうようなしたしい間柄あいだがらになり、よしみないてた書簡しょかんるいでは、親密しんみつ感情かんじょう表出ひょうしゅつ率直そっちょく心情しんじょう吐露とろみとめられ、手紙てがみしるされた文面ぶんめんは、ときにあたかも恋人こいびとてたような表現ひょうげんになった。よしみないからは情緒じょうちょてきにも思想しそうてきにもつよ影響えいきょうけ、とりわけ『銀河ぎんが鉄道てつどうよる』の成立せいりつには、20だいころよしみない二人ふたり登山とざんどもかたってよるかした体験たいけん濃厚のうこう反映はんえいされ、登場とうじょう人物じんぶつの「ジョバンニ」を賢治けんじ自身じしんとするなら、「カムパネルラ」は保阪ほさかよしみないあらわしているとかんがえる研究けんきゅうしゃもいる[143]

その

[編集へんしゅう]
  • 1916ねんはる盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこうりょう親睦しんぼくかい寸劇すんげき企画きかくされ、当時とうじ1年生ねんせいだった保阪ほさかよしみない脚本きゃくほんいた戯曲ぎきょく人間にんげんのもだえ』が上演じょうえんされた。2年生ねんせい室長しつちょうでもあった賢治けんじは「全知ぜんちかみダークネス」やくえんじ、よしみない自身じしんも「全能ぜんのうかみアグニ」をえんじた。このよしみない脚本きゃくほんあらわれる「修羅しゅら」というキーワードは、『はる修羅しゅら』に代表だいひょうされるのち賢治けんじ作品さくひんのキーワードでもある「修羅しゅら」という言葉ことば影響えいきょうあたえたとされる[144][145]

家族かぞく

[編集へんしゅう]

宮澤みやざわ始祖しそ京都きょうとから花巻はなまきうつんだ藤井ふじいすすむかんという人物じんぶつとされる。子孫しそん明治めいじはじめにせい宮澤みやざわあらためる。子孫しそんの一人初代宮澤右八長昌は花巻はなまき呉服ごふくみやみぎ」を繁盛はんじょうさせた。その代目だいめみぎはちだいではますますさかんになり、京都きょうと大阪おおさかからも仕入しいれをしていたという。みぎはち三男さんなん賢治けんじ祖父そふ喜助きすけである。喜助きすけ真面目まじめ仕事しごと熱心ねっしんだったが、分家ぶんけするときほとんど財産ざいさんけてもらえず、店頭てんとう古着ふるぎなら質屋しちやはじめた[146]喜助きすけ長男ちょうなん政次郎まさじろうは15さいころから家業かぎょう手伝てつだいはじめ、17さいときから鉄道てつどう関西かんさい四国しこく出向でむき、古着ふるぎ流行りゅうこうおくれになった新古しんこひん大量たいりょう仕入しいれ、みせるだけでなく卸売おろしうりもしていた。また株式かぶしき投資とうしでも成功せいこうし、近隣きんりんおおくの小作こさくゆうするようになる[147]花巻はなまき出身しゅっしんのジャーナリストで徳富とくとみ蘇峰そほう秘書ひしょつとめた八重樫やえがしいのり美子よしこ[148]は1935ねん文章ぶんしょうで、「宮沢みやざわ先生せんせい一族いちぞくは、精神せいしんてきにも物質ぶっしつてきにも花巻はなまき壟断ろうだんする一大いちだい勢力せいりょく」としるし、以後いご賢治けんじ研究けんきゅうしょ解説かいせつしょにもこれを踏襲とうしゅうした表現ひょうげんられる[149][注釈ちゅうしゃく 9]。これについて研究けんきゅうしゃ上田うえだあきら(うえだ あきら、政治せいじ上田うえだあきらとは別人べつじん)は、当時とうじ花巻はなまきには梅津うめづ瀬川せがわ瀬川せかわわたるみぎ衛門えもん当主とうしゅ)、伊藤いとう伊藤いとうただし兵衛ひょうえ当主とうしゅ)といったずっと規模きぼおおきな「マキ」(岩手いわて方言ほうげんで「一族いちぞく」の意味いみ)があったことを指摘してきし、「『宮沢みやざわマキ』は、この地方ちほうでの有力ゆうりょく一族いちぞくではあったが、このような情勢じょうせいなかでは花巻はなまき壟断ろうだんすることはできえないことがわかるとおもう」としるしている[149]

祖父そふ喜助きすけ
1840ねん9月5にちせい - 1917ねん9月16にちぼつ享年きょうねん77)
いし金具かなぐせたような堅物かたぶつ」で家業かぎょう熱心ねっしん手伝てつだっていたが、分家ぶんけしてからは古着ふるぎけん質屋しちや細々こまごまいとなんでいた。このみせは「みやみぎ」から分家ぶんけ(かまどわけ)したので「みやみぎかまど」とばれた。
祖母そぼ・キン
1851ねん4がつ9にちせい - 1913ねん3月12にちぼつ享年きょうねん61)
紫波しわぐん日詰ひづめまちげん紫波しわまち)の関家せきやからとつぐ。関家せきや富裕ふゆうで、囲碁いご将棋しょうぎきん三味線しゃみせんなど芸事げいごときだったが、キンは質実しつじつ剛健ごうけん性格せいかくだった。賢治けんじおとうと清六せいろくは、賢治けんじ童話どうわあらわれたいちめんはキンのっていた芸術げいじゅつてき素質そしつからたものがおおいようだとべている[151]
ちち政次郎まさじろう(まさじろう)
1874ねん2がつ23にちせい - 1957ねん12月1にちぼつ享年きょうねん83)
喜助きすけからいだ家業かぎょうて、「宮澤みやざわ商店しょうてん」をさかえさせる。仏教ぶっきょう関心かんしんふかく、自費じひで「花巻はなまき仏教ぶっきょうかい」をつくって地元じもとひとたちに毎年まいとし仏教ぶっきょう講習こうしゅうかいもよおした。また民生みんせい委員いいん調停ちょうてい委員いいんながつとめ、800けんもの紛争ふんそうをまとめた功績こうせき藍綬らんじゅ褒章ほうしょう受章じゅしょうしている[152]。「自分じぶん仏教ぶっきょうらなかったら三井みつい三菱みつびしくらいの財産ざいさんつくれただろう」とかたっていたという[153]
はは・イチ(旧姓きゅうせい宮澤みやざわ
1877ねん1がつ15にちせい - 1963ねん6月30にちぼつ享年きょうねん86)
イチの実家じっか宮澤みやざわ藤井ふじいすすむかん子孫しそんで、イチのちち賢治けんじ祖父そふ)・善治よしはるみせは「みやよし」とばれた。雑貨ざっかしょうなどできょまんとみきずき、花巻はなまき銀行ぎんこう花巻温泉はなまきおんせん岩手いわて軽便鉄道けいべんてつどうなどの設立せつりつ尽力じんりょくした[7][注釈ちゅうしゃく 10]慈愛じあいちた人柄ひとがらおさな賢治けんじしながら「ひとというものは、ひとのために、なにかしてあげるためにまれてきたのス」といいきかせていたという[155]
いもうとトシ
1898ねん11月5にちせい - 1922ねん11月27にちぼつ享年きょうねん24)
子供こどもころから成績せいせき優秀ゆうしゅうで、岩手いわて県立けんりつ花巻はなまき高等こうとう女学校じょがっこうでも4年間ねんかん首席しゅせき卒業そつぎょうしきでは総代そうだいとして答辞とうじつとめる。卒業そつぎょう東京とうきょう日本女子大にほんじょしだい学校がっこう家政学部かせいがくぶ入学にゅうがくする。女学校じょがっこう卒業そつぎょうまえ音楽おんがく教師きょうしとのこいうわさ記事きじ地元じもと新聞しんぶん掲載けいさいされたことにきずつき、実家じっかはなれる進学しんがく許可きょかされたのではないかとわれる[156]女子大じょしだい卒業そつぎょうまえ入院にゅういんするが、卒業そつぎょうみとめられる。体調たいちょう回復かいふくしてから母校ぼこう花巻はなまき女学校じょがっこう教諭きょうゆ心得こころえとして英語えいご家事かじ担当たんとうするが、翌年よくねん喀血かっけつ以後いご療養りょうよう生活せいかつおく[157]。1922ねん11月27にち午後ごご830ふん死去しきょ[56]。24さいだった。
いもうと・シゲ
1901ねん6月18にちせい - 1987ねん9月20にちぼつ享年きょうねん86)
おとうと清六せいろく
1904ねん4がつ1にちせい - 2001ねん6月12にちぼつ享年きょうねん97)
賢治けんじわって家業かぎょうぎ、建築けんちく材料ざいりょう卸売おろしうり小売こうりやモーターラジオあつかう「宮沢みやざわ商会しょうかい」を開業かいぎょう賢治けんじきらっていた古着ふるぎしょうからの転換てんかんたす[158]賢治けんじあとは、たくされた原稿げんこう出版しゅっぱん奔走ほんそう全集ぜんしゅう研究けんきゅうしょ編纂へんさんかかわった[159]
いもうと・クニ
1907ねん3月4にちせい - 1981ねん1がつ12にちぼつ享年きょうねん73)

りゃく年譜ねんぷ

[編集へんしゅう]
宮沢みやざわ賢治けんじ歌碑かひ比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ
  • 1896ねん明治めいじ29ねん
    • 8がつ27にち - 岩手いわてけん稗貫ひえぬきぐん里川口さとかわぐちむら川口かわぐちまち303番地ばんち花巻はなまきまち大字だいじさと川口かわぐちだいいち地割じわり川口かわぐちまち295番地ばんちげん花巻はなまき豊沢とよさわまち4丁目ちょうめ11番地ばんち)にて、ちち政次郎まさじろうははイチの長男ちょうなんとしてまれる。
  • 1898ねん (明治めいじ31ねん)
    • 11月5にち - いもうとトシがまれる。
  • 1901ねん (明治めいじ34ねん)
    • 6月18にち - いもうとシゲがまれる。
  • 1903ねん明治めいじ36ねん
    • 4がつ - 花巻はなまき川口かわぐち尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがく
  • 1904ねん (明治めいじ37ねん)
    • 4がつ1にち - おとうと清六せいろくまれる。
  • 1907ねん (明治めいじ40ねん)
    • 3月4にち - いもうとクニがまれる。
  • 1909ねん明治めいじ42ねん
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん
    • 3月 - 盛岡もりおか中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう
    • 4がつ - 肥厚ひこうせい鼻炎びえん岩手いわて病院びょういん入院にゅういん手術しゅじゅつ手術しゅじゅつ発熱はつねつつづき、5がつまつまで入院にゅういん
    • 退院たいいんいえ手伝てつだいをしていたが、進学しんがくゆるされ、受験じゅけん勉強べんきょうはげむ。
  • 1915ねん大正たいしょう4ねん
    • 4がつ - 盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこうげん岩手大学いわてだいがく農学部のうがくぶ)に首席しゅせき進学しんがく寄宿舎きしゅくしゃけいりょう」に入寮にゅうりょう
  • 1916ねん大正たいしょう5ねん
    • 3月 - 農学のうがくだい2農芸のうげい化学かがく専攻せんこう)でただ一人ひとり特待とくたいせいえらばれ、授業じゅぎょうりょう免除めんじょ
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん
    • 7がつ - おな学校がっこう保阪ほさかよしみないらと同人どうじん『アザリア』創刊そうかん短歌たんかなどを発表はっぴょう
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん
    • 3月13にち - 保阪ほさかよしみない除籍じょせき処分しょぶん
    • 3月15にち - 盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこう卒業そつぎょう研究生けんきゅうせいとしてつづ在籍ざいせき稗貫ひえぬきぐんせい調査ちょうさおこなう。
    • 4がつ28にち - 徴兵ちょうへい検査けんさだい乙種おつしゅ合格ごうかく兵役へいえき免除めんじょ
    • 6月30にち - 肋膜炎ろくまくえん診断しんだんされ、せい調査ちょうさ終了しゅうりょう次第しだい退学たいがく希望きぼう
    • 12月26にち - いもうとのトシが肺炎はいえん東京とうきょう病院びょういん入院にゅういんはは上京じょうきょうして看病かんびょうする。
  • 1919ねん大正たいしょう8ねん
    • 萩原はぎはら朔太郎さくたろう詩集ししゅうつきえる』に出会であう。
    • 東京とうきょう人造じんぞう宝石ほうせき製造せいぞう販売はんばい事業じぎょう計画けいかくするが、ちち反対はんたいにあう。
    • 3月3にち - トシ退院たいいん岩手いわてもどる。家業かぎょう手伝てつだう。
  • 1920ねん大正たいしょう9ねん
    • 5がつ20日はつか - 研究生けんきゅうせい卒業そつぎょう
    • 10月 - くにばしらかい入信にゅうしんちち改宗かいしゅうをせまる。
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん
    • 1がつ23にち - 上京じょうきょうくにばしらかい本部ほんぶ訪問ほうもん本郷ほんごう菊坂きくざかまち下宿げしゅくはたらきながらおおくの童話どうわ執筆しっぴつ
    • 8がつ - トシ病気びょうきのため帰郷ききょう
    • 12月3にち - 稗貫ひえぬきのう学校がっこう花巻はなまきのう学校がっこう教師きょうしとなる。
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん
    • 1がつ - 雑誌ざっし愛国あいこく婦人ふじん』12がつごう、1がつごうに『ゆきわたり』発表はっぴょう
    • 11月27にち - トシ、病死びょうし
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん
    • 4がつ20日はつか - 詩集ししゅうはる修羅しゅら』を自費じひ出版しゅっぱん
    • 12月1にち - 童話どうわしゅう注文ちゅうもんおお料理りょうりてん』を刊行かんこう
  • 1925ねん大正たいしょう14ねん
    • 7がつ - 詩人しじんくさ野心やしんたいら同人どうじん銅鑼どら』に参加さんか作品さくひん発表はっぴょう
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん
    • 3月31にち - 花巻はなまきのう学校がっこう依願いがん退職たいしょく
    • 4がつ - 花巻はなまきまち下根子しもねこさくら別宅べったくにて独居どっきょ自炊じすい私塾しじゅく須地じん協会きょうかい」を設立せつりつ
    • 12月2にち - 上京じょうきょう。セロ、タイプライター、オルガン、エスペラントならう。高村たかむら光太郎こうたろうたく訪問ほうもん年末ねんまつ帰郷ききょう
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん
    • 2がつ1にち - 『岩手いわて日報にっぽう夕刊ゆうかん賢治けんじ活動かつどう紹介しょうかいされるが、社会しゃかい主義しゅぎ教育きょういくうたがわれ警察けいさつ聴取ちょうしゅける。以後いご須地じん協会きょうかい集会しゅうかい不定期ふていきになった。
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん
    • 6がつ - 農業のうぎょう指導しどうのため伊豆いず大島おおしま伊藤いとう七雄ななお訪問ほうもん
    • 8がつ10日とおか - 過労かろうたおれ、両側りょうがわはい湿潤しつじゅん診断しんだんされる。実家じっかもど療養りょうよう
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん
    • 5月 - 東北とうほく砕石さいせき工場こうじょうぬし鈴木すずき東蔵とうぞう訪問ほうもんける。
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん
    • 2がつ21にち - 体調たいちょう回復かいふくし、東北とうほく砕石さいせき工場こうじょう技師ぎしとなる。石灰せっかい肥料ひりょう宣伝せんでん販売はんばい担当たんとう
    • 9がつ20日はつか - 商品しょうひんみのため上京じょうきょうちゅう発熱はつねつたおれ、旅館りょかん家族かぞく遺書いしょく。
    • 9月28にち - 花巻はなまきかえり、ふたた療養りょうよう生活せいかつおくる。
    • 11月 - 手帳てちょうに『あめニモマケズ』をく。
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん
    • 3月 - 「児童じどう文学ぶんがくだいさつに『グスコーブドリの伝記でんき発表はっぴょう
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん
    • 9月21にち - 急性きゅうせい肺炎はいえんのため死去しきょ享年きょうねん37)。戒名かいみょう真金まがねいんさん不日ふじつけんぜん男子だんし」。

作品さくひん一覧いちらん

[編集へんしゅう]

童話どうわ

[編集へんしゅう]

※は生前せいぜん発表はっぴょう作品さくひん

賢治けんじ自作じさく童話どうわ題名だいめい列記れっきしたメモが多数たすうのこっている(自選じせん作品さくひんしゅう構想こうそうしていたともわれている)が、そのうちのすうてんで、上記じょうきの4作品さくひんが「少年しょうねん小説しょうせつ」あるいは「長篇ちょうへん」としていちくくりにされている。

題名だいめいが〔〕でくくられているものは、原稿げんこう最終さいしゅうがた無題むだいのため、冒頭ぼうとうの1ぎょう題名だいめいわりにしているものである。また、題名だいめいまえかん数字すうじは、賢治けんじ原稿げんこう記載きさいしていた作品さくひん番号ばんごうである。

  • 心象しんしょうスケッチ はる修羅しゅら所収しょしゅう
    • ついで
    • 屈折くっせつりつ
    • はる修羅しゅら
    • 真空しんくう溶媒ようばい
    • 小岩井こいわい農場のうじょう
    • 岩手山いわてさん
    • 高原こうげん
    • はらからだ剣舞けんぶれん
    • 永訣えいけつあさ
    • 無声むせい慟哭どうこく
    • 青森あおもり挽歌ばんか
  • はる修羅しゅら だいしゅう所収しょしゅう
    • いちろく 五輪ごりんとうげ
    • いちきゅう 晴天せいてん恣意しい
    • いちろくろく らっきょうあお
    • さんいちさん 産業さんぎょう組合くみあい青年せいねんかい
    • さんいちよん よる湿気しっけかぜがさびしくいりまじり〕』(逐次ちくじ形態けいたいでのだいは『ぎょうはなびら』)
    • さんはちよん 告別こくべつ
  • はる修羅しゅら だいしゅう補遺ほい所収しょしゅう
    • ねぎみね(パミール)先生せんせい散歩さんぽ
  • はる修羅しゅら だいさんしゅう所収しょしゅう
    • ななきゅう はる
    • いち〇〇はち るだろう〕』
    • いちはち 〔あすこのはねえ〕』
    • いち師父しふ
    • いちいち 和風わふう河谷こうだにいっぱいにく』
    • いちはちはち 〔もうはたらくな〕』
  • 口語こうご稿こう所収しょしゅう
    • だいさん芸術げいじゅつ
    • 火祭ひまつり
    • 牧歌ぼっか
    • 地主じぬし
    • よる
  • やましなか所収しょしゅう
    • 病床びょうしょう
    • にてう』
    • 『〔ちょう ちょう ちょう ちょう ひのと 〕』
    • 『〔ふうがおもてでんでいる〕』
    • 『〔やましいまあらたまりて〕』
    • 『〔あつあしはなゆれど〕』
    • よる
  • 補遺ほい詩篇しへんI」所収しょしゅう
  • 文語ぶんご稿こう じゅうへん所収しょしゅう
    • 『〔いたつきてゆめみなやみし〕』
    • 『〔みずきなだれのふうや〕』
  • 文語ぶんご稿こう いちひゃくへん所収しょしゅう
  • 文語ぶんご未定稿みていこう所収しょしゅう
  • ほしめぐりのうた
  • 精神せいしん
  • 『ポラーノの広場ひろばのうた』
  • 双子ふたごほし

水彩すいさい

[編集へんしゅう]
日輪にちりんやま』(仮題かだい
『ケミカル・ガーデン』(仮題かだい

題名だいめいはいずれも仮題かだいである。

  • 日輪にちりんやま
  • 月夜つきよのでんしんばしら』
  • 幽霊ゆうれい』または『ケミカル・ガーデン』
  • 『ミミズク』
  • 『ネコ』
  • あかだま

その

[編集へんしゅう]

全集ぜんしゅう

[編集へんしゅう]
  • 宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅうぶん圃堂(1934ねん - 1935ねんぜん3かん
  • 宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう十字屋じゅうじや書店しょてん(1939ねん - 1944ねんぜん6かん別巻べっかん1
    • 1・2・3かんは、ぶん圃堂ばん全集ぜんしゅう紙型しけい作成さくせい
  • 宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう筑摩書房ちくましょぼう(1956ねん - 1958ねんぜん11かん別巻べっかん1
  • 宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう筑摩書房ちくましょぼう(1967ねん - 1969ねんぜん12かん別巻べっかん1
  • 校本こうほん 宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう筑摩書房ちくましょぼう(1973ねん - 1977ねんぜん14かんぜん15さつ
  • あたらしおさむ 宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう筑摩書房ちくましょぼう(1979ねん - 1980ねんぜん16かん別巻べっかん1
    • 校本こうほんばんもとに、あらたに編纂へんさんした普及ふきゅうばん全集ぜんしゅう
  • 宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう筑摩書房ちくましょぼうちくま文庫ぶんこ〉(1985ねん ‐ 1986ねん、1995ねんぜん10かん。9・10かんは1995年刊ねんかん
  • 『【しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう筑摩書房ちくましょぼう(1995ねん - 2009ねんぜん16かん別巻べっかん1(ぜん19さつ
  • 宮沢みやざわ賢治けんじコレクション』(2016ねん - 2018ねんぜん10かん生誕せいたん120ねん記念きねん出版しゅっぱん

宮沢みやざわ賢治けんじ題材だいざいにした作品さくひん

[編集へんしゅう]

作品さくひん映像えいぞうしたものについては、該当がいとう作品さくひん項目こうもく参照さんしょう

  • あめニモマケズ』
1958ねん映画えいが監督かんとく蛭川ひるかわ伊勢いせおっと脚本きゃくほん猪俣いのまた勝人まさとしば英三郎えいざぶろう出演しゅつえんじゅうもりたかし北山きたやま年夫としお納谷なやさとるろう音楽おんがく眞鍋まなべ理一郎りいちろう
1971ねん高田たかだ博厚ひろあつ制作せいさくした彫刻ちょうこく作品さくひん
井上いのうえひさし戯曲ぎきょく賢治けんじ生涯しょうがいえがく。1980ねん初演しょえん
1993ねんヘクトから、スーパーファミコンけで発売はつばいされたアドベンチャーゲーム[注釈ちゅうしゃく 13]。イーハトーヴォを舞台ぶたい賢治けんじ童話どうわ主人公しゅじんこう交流こうりゅうしながら賢治けんじ手帳てちょうさがす。
  • 夜叉やしゃからす
荻野おぎのしん漫画まんが作品さくひん1994ねんから1997ねんまで『週刊しゅうかんヤングジャンプ』(集英社しゅうえいしゃ)に連載れんさいおもに「銀河ぎんが鉄道てつどうよる」に由来ゆらいするキーワードが多数たすう引用いんようされ、また賢治けんじ自身じしん不死ふしつかさど物語ものがたりかぎになう。
  • 『「銀河ぎんが鉄道てつどうよる」のたび〜1923宮沢みやざわ賢治けんじサハリン紀行きこうなぞ
1995ねんドキュメンタリー制作せいさくテレコムスタッフTBS。1995年度ねんどギャラクシー奨励しょうれいしょうだい13かい(1996ねんATPしょうテレビグランプリ ベスト20番組ばんぐみをそれぞれ受賞じゅしょう
  • 『ACT 宮沢みやざわ賢治けんじ
1996ねん上演じょうえんされた舞台ぶたい演出えんしゅつ加藤かとうただし宮沢みやざわやく主演しゅえん沢田さわだ研二けんじ
1996ねんテレビドラマNHK総合そうごうテレビが『ドラマ新銀河しんぎんが』で7がつ8にちから7がつ11にちまで放送ほうそう
1996ねんドキュメンタリー。NHK総合そうごうテレビが8がつ6にち放送ほうそう
  • 宮沢みやざわ賢治けんじ 銀河ぎんがたびびと[165]
1996ねんのドキュメンタリードラマ。NHK総合そうごうテレビが8がつ24にち放送ほうそう
1996ねん映画えいが生誕せいたん100ねん記念きねんして制作せいさくされ、9月14にち公開こうかい監督かんとく神山かみやま征二郎せいじろう脚本きゃくほん新藤しんどう兼人かねと出演しゅつえん宮澤みやざわ賢治けんじ=三上みかみ博史ひろふみ
  • 賢治けんじわらった〜ぼくらのイーハトーブ冒険ぼうけん[166]
1996ねんのテレビドラマ。このとし開局かいきょくした岩手いわて朝日あさひテレビ記念きねん番組ばんぐみとして10がつ10日とおか放送ほうそう出演しゅつえん宮澤みやざわ賢治けんじ=布川ふかわ敏和としかず
1996ねん映画えいが生誕せいたん100ねん記念きねんして制作せいさくされ、10月19にち公開こうかい監督かんとく大森おおもり一樹かずき脚本きゃくほん那須なす真知子まちこ出演しゅつえん宮澤みやざわ賢治けんじ=緒形おがた直人なおと
1996ねんテレビアニメ開局かいきょく25周年しゅうねんむかえたテレビ岩手てれびいわて記念きねん番組ばんぐみとして12月14にち放送ほうそう監督かんとく脚本きゃくほんかわもり正治しょうじ
冨田とみたいさお作曲さっきょくした交響曲こうきょうきょく初演しょえん2012ねん宮沢みやざわ賢治けんじ複数ふくすう著作ちょさくぶつ題材だいざいとなっている。
おも食堂しょくどう』(2014ねん15ごう2017ねん32ごう少年画報社しょうねんがほうしゃ)に不定期ふていき連載れんさいされたグルメ漫画まんが宮沢みやざわ賢治けんじむかし当時とうじ食事しょくじ事情じじょうえがく。作者さくしゃ漫画まんがさかな乃目さんふとし漫画まんが原作げんさくのもとにWOWOWドラマW連続れんぞくドラマされた。主演しゅえん鈴木すずき亮平りょうへい
2017ねん講談社こうだんしゃから刊行かんこうされた小説しょうせつ門井かどい慶喜よしのぶちょ賢治けんじちち政次郎まさじろう視点してんから息子むすこえがく。だい158かい直木なおき三十五さんじゅうごしょう受賞じゅしょう映画えいがばんでの宮沢みやざわ賢治けんじやく俳優はいゆう菅田すげたすすむあきら
  • うれいのおう -宮澤みやざわ賢治けんじ-』
吉田よしだしげる滿まんによる日本にっぽん長編ちょうへん映画えいが

顕彰けんしょう施設しせつ

[編集へんしゅう]
  • 宮沢みやざわ賢治けんじ記念きねんかん[167]
  • もりおか啄木たくぼく賢治けんじ青春せいしゅんかん
  • さくらじんかん
  • いし賢治けんじのミュージアム
    太陽たいようふういえ
  • 斉藤さいとうただし記念きねん 宮沢みやざわ賢治けんじライブラリ「けんじゅうあん(けんじゅうあん)」
    斉藤さいとうただし宮沢みやざわ賢治けんじ世界せかいかん苫小牧とまこまい王子おうじまち)の閉館へいかんにその蔵書ぞうしょやく1700さつぎ、苫小牧とまこまい音羽おとわまち妙見寺みょうけんじが2023ねん5がつ21にち寺内てらうち開設かいせつ[168]原則げんそく毎月まいつきいちかいだいいち土曜日どようび開館かいかん[168]きゅう所蔵しょぞうかん斉藤さいとうただし宮沢みやざわ賢治けんじ世界せかいかんは、詩人しじん宮沢みやざわ賢治けんじ研究けんきゅうしゃ斉藤さいとうただしのこした資料しりょう整理せいり目的もくてきとして、賢治けんじ研究けんきゅう関連かんれんする資料しりょうなどをあつめて2020ねん4がつ1にち開設かいせつされた私設しせつ図書館としょかんだった(2022ねん12月25にち閉館へいかん[169][170]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

地理ちり関係かんけい

[編集へんしゅう]

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

その

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 献呈けんてい写真しゃしん自筆じひつ記入きにゅう日付ひづけによる[1]
  2. ^ 佐藤さとう隆房たかふさ旧暦きゅうれき7がつ19にち出生しゅっしょう旧暦きゅうれき8がつ1にち旧暦きゅうれきとどけをしたための間違まちがいと推測すいそくしている[4]
  3. ^ 千葉ちばいちみきは、賢治けんじが「如来にょらい寿ことぶきりょうひん」のなかの「りょうびょう」(どくんだ子供こどもちちつくった解毒げどくざいめず、「ちちんだ」とうそかされ、正気しょうきもどってくすりんだという寓話ぐうわ)に自身じしんかさね、不幸ふこう自分じぶん飛躍ひやくする契機けいきになるとったのではないかと推測すいそくしている[22]
  4. ^ 文信ふみのぶしゃには、太平洋戦争たいへいようせんそうのち釜石かまいしちょうとなった鈴木すずきひがしみんがおり、当時とうじ模様もようを「筆耕ひっこうのころの賢治けんじ」(筑摩書房ちくましょぼうばん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう別巻べっかん宮澤みやざわ賢治けんじ研究けんきゅう』、1958ねん)としてのこしている。
  5. ^ あめニモマケズ手帳てちょう」に高知こうちから「法華ほっけ文学ぶんがく」の制作せいさくすすめられたというメモがのこっているが、高知こうちによればそのような記憶きおくはなく、ただ法華経ほけきょう修行しゅぎょう出家しゅっけすることではなく、農家のうかすきくわ商人しょうにんソロバン文学ぶんがくしゃはペンをってそれぞれのみち法華経ほけきょうひろめるのがただしい修行しゅぎょういたという[45]
  6. ^ 跡地あとちカザルスホールとなり、その位置いちはホールの舞台ぶたい中央ちゅうおう付近ふきん推測すいそくされている[86]
  7. ^ のちに棟方むなかたはこの仕事しごと記憶きおくがほとんどないと回想かいそうしている[89]
  8. ^ 原子はらこあきらへんの『しん 宮澤みやざわ賢治けんじ語彙ごい辞典じてん』(東京書籍とうきょうしょせき、1999ねん)の「レコード」のこうでは「ポリドールの社長しゃちょうからレコードがよくれるので、花巻はなまき高喜たかよし商店しょうてんわせがあり、まち一番いちばんのコレクター賢治けんじげたところ、社長しゃちょうから賢治けんじあてに感謝かんしゃじょうがきた」とある。
  9. ^ いちれいとして山内やまうちおさむへん)『作家さっか読本とくほん 宮沢みやざわ賢治けんじ』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1989ねん)には「『宮澤みやざわまき(一族いちぞく)』とえば花巻はなまき壟断ろうだんする一大いちだい勢力せいりょくであった」という記載きさいがある[150]
  10. ^ 実際じっさいは「尽力じんりょく」というより「協力きょうりょく」とったほう正確せいかくである[149]花巻はなまき銀行ぎんこう善治よしはる役員やくいんまねかれただけ、岩手いわて軽便鉄道けいべんてつどう株主かぶぬしとして協力きょうりょくした程度ていどという[149][154]。ただし、経営けいえい状態じょうたい悪化あっかした花巻はなまき銀行ぎんこうが1915ねん再建さいけんされたさいには善治よしはる息子むすこ恒治つねじ(イチのおとうと)が中心ちゅうしんとなった[149]
  11. ^ のちに推敲すいこうほらぐま学校がっこう卒業そつぎょうしたさんにん』と改題かいだい[160]
  12. ^ 1923ねん大正たいしょう12ねん)6がつに、岩手いわてけん和賀わがぐん湯田村ゆだむらげん西にし和賀わがまち)で密造みつぞうしゅ摘発てきはつちゅう花巻はなまき税務署ぜいむしょ職員しょくいん村人むらびとから暴行ぼうこうけた事件じけんがあり、当該とうがい作品さくひんはこの事件じけんをモデルにしたとされる[161][162]密造みつぞうしゅ#日本にっぽんにおける密造みつぞうしゅ歴史れきし参照さんしょう
  13. ^ メーカーの公称こうしょうジャンルはRPGとなっている。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう だい16かんした補遺ほい資料しりょう 補遺ほい伝記でんき資料しりょうへん筑摩書房ちくましょぼう、2001ねん、p.303
  2. ^ a b 盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこう だい13かい得業とくぎょう証書しょうしょ授与じゅよしき」『官報かんぽう』1918ねん3がつ19にち2016ねん9がつ21にち閲覧えつらん ひだりページ左下ひだりしたすみ
  3. ^ 加藤かとう道理どうり常用じょうよう国語こくご便覧びんらん』(改訂かいてい浜島はまじま書店しょてん、2010ねん2がつ3にち、343、354ぺーじISBN 978-4-8343-1000-9 
  4. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, p. 12.
  5. ^ 堀尾ほりお 1991, pp. 25.
  6. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 14.
  7. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, p. 13.
  8. ^ 千葉ちば 2014, p. 38.
  9. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 17.
  10. ^ a b 堀尾ほりお 1991, p. 29.
  11. ^ a b 堀尾ほりお 1991, p. 31.
  12. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 19.
  13. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 25.
  14. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, pp. 26–27.
  15. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 54.
  16. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, pp. 34–35.
  17. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, p. 36.
  18. ^ 山下やました 2008, pp. 52–53.
  19. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, pp. 37–38.
  20. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 69.
  21. ^ 千葉ちば 2014, p. 86.
  22. ^ 千葉ちば 2014, p. 88-91.
  23. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, pp. 42–43.
  24. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 45.
  25. ^ 特待とくたいせい選定せんてい 盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこう」『官報かんぽう』1916ねん3がつ22にち2016ねん9がつ21にち閲覧えつらん ひだりページらん)。
  26. ^ a b c 堀尾ほりお 1991, p. 124-126.
  27. ^ a b c 作家さっか読本とくほん 1989, p. 54.
  28. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 52.
  29. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 95.
  30. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 130-135.
  31. ^ a b 堀尾ほりお 1991, p. 96.
  32. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 100-102.
  33. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 146.
  34. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, p. 56.
  35. ^ a b 堀尾ほりお 1991, p. 103.
  36. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 58.
  37. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 106-109.
  38. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 59.
  39. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 62.
  40. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 113-114.
  41. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 64.
  42. ^ 山下やました 2008, p. 81.
  43. ^ 千葉ちば 2014, p. 140.
  44. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, pp. 70–71.
  45. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, p. 74.
  46. ^ 山下やました 2008, pp. 84–87.
  47. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 117-118.
  48. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 77.
  49. ^ 山下やました 2008, p. 87.
  50. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 80.
  51. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 161.
  52. ^ 堀尾ほりお 1991, pp. 243–246.
  53. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 210.
  54. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 166.
  55. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 208.
  56. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, p. 88.
  57. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 89.
  58. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 93.
  59. ^ 堀尾ほりお 1991, pp. 219–222.
  60. ^ 山下やました 2008, p. 121.
  61. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 222.
  62. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, p. 108.
  63. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 105.
  64. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 235.
  65. ^ 堀尾ほりお 1991, pp. 240–241.
  66. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, p. 112.
  67. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 119.
  68. ^ 千葉ちば 2014, pp. 246–248.
  69. ^ 山下やました 2008, pp. 138–139.
  70. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ. “ななよんさんぬすまれた白菜はくさいへ〕はる修羅しゅら だいさんしゅう”. 青空あおぞら文庫ぶんこ. 2016ねん10がつ21にち閲覧えつらん
  71. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ. “農民のうみん芸術げいじゅつ概論がいろん綱要こうよう”. 青空あおぞら文庫ぶんこ. 2016ねん10がつ21にち閲覧えつらん
  72. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ. “〔それでは計算けいさんいたしませう〕はる修羅しゅら補遺ほい”. もり情報じょうほうサービス. 2016ねん10がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん10がつ21にち閲覧えつらん
  73. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, pp. 134–136.
  74. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 139.
  75. ^ 山下やました 2008, pp. 143–144.
  76. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 360.
  77. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 153.
  78. ^ 山下やました 2008, p. 111.
  79. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 154.
  80. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 278.
  81. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, pp. 158–159.
  82. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 287.
  83. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 371.
  84. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 379.
  85. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 182.
  86. ^ 御茶ノ水おちゃのみずスクエアAかん - NPO神田かんだ神田かんだ学会がっかい
  87. ^ 千葉ちば 2014, p. 256-257.
  88. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 191.
  89. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 195.
  90. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 199.
  91. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 198.
  92. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 462.
  93. ^ a b 作家さっか読本とくほん 1989, pp. 207–209.
  94. ^ 千葉ちば 2014, p. 259-261.
  95. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ年譜ねんぷ - 花巻はなまき
  96. ^ 山下やました 2008, p. 178.
  97. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 214.
  98. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 180.
  99. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 181.
  100. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ記念きねんかん - 花巻はなまき
  101. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ地図ちずうら発表はっぴょう さんじゅうすうねんぶりの新作しんさく”. asahi.com (2009ねん4がつ8にち). 2016ねん10がつ13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん10がつ13にち閲覧えつらん
  102. ^ 正木まさきあきら話者わしゃ) (26 August 2012). 宮澤みやざわ賢治けんじはなぜ浄土真宗じょうどしんしゅうから法華経ほけきょう信仰しんこう改宗かいしゅうしたのか. 日蓮宗にちれんしゅう.
  103. ^ 定方さだかたあきら銀河ぎんが鉄道てつどうよる』と法華経ほけきょう」『東海大学とうかいだいがく紀要きよう. 文学部ぶんがくぶだい64かん東海大学とうかいだいがく文学部ぶんがくぶ東京とうきょう、1995ねん、110-88ぺーじISSN 05636760NAID 1100010484022016ねん9がつ21にち閲覧えつらん 110ぺーじ
  104. ^ 色川いろかわ大吉だいきち歴史れきし宮沢みやざわ賢治けんじひかりやみ」『色川いろかわ大吉だいきち歴史れきし論集ろんしゅう:近代きんだいひかりやみ』、日本にっぽん経済けいざい評論ひょうろんしゃ、2ぺーじ、2013ねん1がつ18にちISBN 978-4-8188-2254-2NCID BB11426978 
  105. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじわけエスペラント詩集ししゅう”. 2016ねん9がつ3にち閲覧えつらん(このサイトには公表こうひょう状態じょうたいでなく、校訂こうていされた作品さくひん掲載けいさいされている)
  106. ^ 河合かわい隼雄はやおねこだましい』 新潮社しんちょうしゃ、2000ねん5がつ20日はつか[ようページ番号ばんごう]
  107. ^ 南吉なんきちQ & A - 新美にいみ南吉なんきち記念きねんかん(「南吉なんきち宮沢みやざわ賢治けんじってたの?」を参照さんしょう、20215がつ16にち閲覧えつらん
  108. ^ 山下やました 2008, p. 30-34.
  109. ^ 千葉ちば 2014, pp. 2–3.
  110. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 11.
  111. ^ 詩人しじん大木おおきみのるあて書簡しょかん 宮沢みやざわ賢治けんじ学会がっかい会報かいほう31ごう”. 宮沢みやざわ賢治けんじ学会がっかい. 2006ねん2がつ7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん
  112. ^ つとむまこと出版しゅっぱん株式会社かぶしきがいしゃ月光げっこう』 2かんつとむまこと出版しゅっぱん、2010ねん7がつISBN 978-4-585-05226-5 [ようページ番号ばんごう]
  113. ^ a b c 堀尾ほりお 1991, p. 36.
  114. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 63.
  115. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 136.
  116. ^ 桜井さくらいひろし宮沢みやざわ賢治けんじ元素げんそ図鑑ずかん作品さくひんいろど元素げんそ鉱物こうぶつ化学かがく同人どうじん、2018ねん、p.3、ISBN 978-4759819663
  117. ^ 宮澤みやざわ賢治けんじ関係かんけい資料しりょう - 岩手大学いわてだいがく農学部のうがくぶ農業のうぎょう教育きょういく資料しりょうかん
  118. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 95.
  119. ^ 中村なかむら節也せつや作曲さっきょく賢治けんじ宇宙うちゅう音感おんかん独特どくとくなリズムの8きょくのこ童話どうわんだ音楽おんがくセンス解明かいめい日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん、2018ねん7がつ17にち文化ぶんかめん)2018ねん7がつ27にち閲覧えつらん
  120. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじあいするかい宮沢みやざわ賢治けんじエピソード313』扶桑社ふそうしゃ、1996ねん10がつ、112ぺーじISBN 4594021085NCID BN15493836 
  121. ^ 鎌田かまたとしき「宮沢みやざわ賢治けんじ「ビヂテリアン大祭たいさいこう
  122. ^ 1918ねん5がつ19にち 保阪ほさかよしみないあて 封書ふうしょ封筒ふうとうナシ)”. 宮沢みやざわ賢治けんじ童話どうわもり情報じょうほうサービス. 2016ねん9がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん9がつ3にち閲覧えつらん
  123. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 68.
  124. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 456.
  125. ^ (1921ねん8がつ11にちせき徳彌とくやあて 封書ふうしょ”. 宮沢みやざわ賢治けんじ童話どうわもり情報じょうほうサービス. 2014ねん12月23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん9がつ3にち閲覧えつらん
  126. ^ 宮澤みやざわ賢治けんじとやぶ”. 岩手いわて花巻はなまき名物めいぶつわんこそば やぶ. 2017ねん1がつ2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん9がつ3にち閲覧えつらん
  127. ^ 山下やました 2008, pp. 156–157.
  128. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 97.
  129. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 214.
  130. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 142.
  131. ^ 山下やました 2008, pp. 152–153.
  132. ^ 千葉ちば 2014, pp. 36–30.
  133. ^ 1932ねん6がつ1にちもり佐一さいちあて) 下書したがき”. 宮沢みやざわ賢治けんじ童話どうわもり情報じょうほうサービス. 2016ねん10がつ14にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん10がつ13にち閲覧えつらん
  134. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 459-462.
  135. ^ 堀尾ほりお 1991, pp. 356–357.
  136. ^ 山下やました 2008, pp. 145–146.
  137. ^ 山下やました 2008, p. 105.
  138. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 186.
  139. ^ a b 堀尾ほりお 1991, p. 355.
  140. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 69.
  141. ^ 山下やました 2008, p. 106.
  142. ^ 山下やました 2008, p. 107.
  143. ^ 菅原すがわら千恵子ちえこ宮沢みやざわ賢治けんじ青春せいしゅん: “ただ一人ひとりとも保阪ほさかよしみないをめぐって』(はつ宝島社たからじましゃ、1994ねん8がつ5にち、265ぺーじISBN 4-7966-0839-7 
  144. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ『<しん>校本こうほん宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう筑摩書房ちくましょぼう、1997ねん4がつ、472ぺーじ 
  145. ^ 菅原すがわら千恵子ちえこ宮沢みやざわ賢治けんじ青春せいしゅん“ただ一人ひとりとも保阪ほさかよしみないをめぐって』角川書店かどかわしょてん、1997ねんだいいちしょう 2-3ぺーじぺーじ 
  146. ^ 堀尾ほりお 1991, pp. 13–15.
  147. ^ 千葉ちば 2014, pp. 23–30.
  148. ^ 郷土きょうど先人せんじんさが - 花巻はなまき(はなまきまなびガイド)2022ねん2がつ11にち閲覧えつらん
  149. ^ a b c d e 上田うえだあきら関山せきやまぼうへい大矢おおやくにせん池野いけの正樹まさき へん花巻はなまき宮沢みやざわマキ」『図説ずせつ 宮沢みやざわ賢治けんじ河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2009ねん8がつ12にち、99-103ぺーじISBN 978-4-309-76129-9  この箇所かしょ執筆しっぴつ上田うえだあきら
  150. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 10.
  151. ^ 山下やました 2008, pp. 16–17.
  152. ^ 堀尾ほりお 1991, p. 18.
  153. ^ 千葉ちば 2014, p. 25.
  154. ^ 山下やました 2008, p. 33-34.
  155. ^ 千葉ちば 2014, pp. 36–37.
  156. ^ 山下やました 2008, pp. 68–69.
  157. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 85.
  158. ^ 作家さっか読本とくほん 1989, p. 136.
  159. ^ 山下やました 2008, pp. 34–35.
  160. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ校本こうほん宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう だい7かん筑摩書房ちくましょぼう、1973ねん
  161. ^ べい文夫ふみお宮沢みやざわ賢治けんじの「税務署ぜいむしょちょう冒険ぼうけん」における創作そうさく地名ちめい : イメージのなかの景観けいかんかかわって」『岩手大学いわてだいがく教育きょういく学部がくぶ研究けんきゅう年報ねんぽうだい56かんだい2ごう、1997ねん2がつ、21-39ぺーじNCID AN00017940 
  162. ^ 久世くぜばん『よちよち文藝ぶんげい文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう、2012ねん10がつ、98ぺーじISBN 978-4-16-375750-6NCID BB10774414 
  163. ^ 銀河ぎんが鉄道てつどうへのたび 畑山はたやまひろししん賢治けんじ | NHK放送ほうそう動画どうが記事きじ 2022ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  164. ^ 銀河ぎんが鉄道てつどうへのたび | NHKクロニクル | NHKアーカイブス 2022ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  165. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ 銀河ぎんがたびびと - ドラマ詳細しょうさいデータ - ◇テレビドラマデータベース◇ 2022ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  166. ^ 賢治けんじわらった~ぼくらのイーハトーブ冒険ぼうけん~ - ドラマ詳細しょうさいデータ - ◇テレビドラマデータベース◇ 2022ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  167. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ記念きねんかん - 花巻はなまき
  168. ^ a b 宮沢みやざわ文学ぶんがく伝承でんしょう拠点きょてんふたたび 苫小牧とまこまい妙見寺みょうけんじ開設かいせつ 作品さくひん解説かいせつしょ1700さつ”. 北海道新聞ほっかいどうしんぶん. 2023ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  169. ^ 苫小牧とまこまい市立しりつ中央ちゅうおう図書館としょかんほう No.131”. 苫小牧とまこまい市立しりつ中央ちゅうおう図書館としょかん. 2022ねん12月28にち閲覧えつらん
  170. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ関連かんれん蔵書ぞうしょ多数たすう 苫小牧とまこまいの「世界せかいかん閉館へいかん”. 北海道新聞ほっかいどうしんぶん. 2022ねん12月28にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

伝記でんき概括がいかつてきあつかった書籍しょせきもしくは辞典じてん形式けいしき書籍しょせき

[編集へんしゅう]
  • 佐藤さとう泰正やすまさへん)『別冊べっさつ国文学こくぶんがくNo.6 宮沢みやざわ賢治けんじ必携ひっけいがくとうしゃ、1980ねん
  • 宮沢みやざわ賢治けんじ新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう日本にっぽん文学ぶんがくアルバム12〉、1984ねんISBN 9784106206122
  • 『【しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅうだい16かん(した)筑摩書房ちくましょぼう、2001ねん伝記でんき資料しりょう年譜ねんぷ収載しゅうさい
  • 渡部わたなべ芳紀よしのりへん)『宮沢みやざわ賢治けんじだい事典じてんつとむまこと出版しゅっぱん、2007ねんISBN 9784585060505
  • てんさわ退二郎たいじろう金子かねこつとむ鈴木すずき貞美さだみ(へん)『宮澤みやざわ賢治けんじイーハトヴがく事典じてん弘文こうぶんどう、2010ねんISBN 9784335950377
  • 原子はらこあきら定本ていほん 宮澤みやざわ賢治けんじ語彙ごい辞典じてん筑摩書房ちくましょぼう、2013ねんISBN 9784480823670
  • 中村なかむら節也せつや編曲へんきょく):「イーハトーヴ歌曲かきょくしゅう宮澤みやざわ賢治けんじうた」、マザーアース、2006ねん2がつ15にち
  • 中村なかむら節也せつや編曲へんきょく):「イーハトーヴ歌曲かきょくしゅう 宮沢みやざわ賢治けんじうた」、マザーアース、2006ねん11月
  • 中村なかむら節也せつや編曲へんきょく):「イーハトーヴ歌曲かきょくしゅう2:宮沢みやざわ賢治けんじうた」、マザーアース、2010ねん9がつ1にち
  • 中村なかむら節也せつや編曲へんきょく):「イーハトーヴ歌曲かきょくしゅう 宮澤みやざわ賢治けんじ歌曲かきょく全集ぜんしゅう 2 (宮澤みやざわ賢治けんじうた)」、マザーアース、2014ねん3がつ
  • 中村なかむら節也せつや編曲へんきょく):「宮澤みやざわ賢治けんじ歌曲かきょく全集ぜんしゅう イーハトーヴ歌曲かきょくしゅう 1」、マザーアース、2015ねん7がつ27にち

作品さくひんろん作家さっかろん

[編集へんしゅう]

享受きょうじゅろん受容じゅようろん

[編集へんしゅう]
  • 鈴木すずき健司けんじ宮沢みやざわ賢治けんじという現象げんしょうみと受容じゅようへの試論しろんあおいたかし書林しょりん、2002ねんISBN 4915442659
  • 米村よねむらみゆき宮沢みやざわ賢治けんじつくったおとこたち』あおゆみしゃ、2003ねんISBN 4787291696
  • 宮沢みやざわ賢治けんじぼつななじゅうねん修羅しゅらはよみがえった」刊行かんこう編集へんしゅう委員いいんかいへん)『修羅しゅらはよみがえった:宮沢みやざわ賢治けんじぼつななじゅうねん展開てんかい(あゆみ)』宮沢みやざわ賢治けんじ記念きねんかい、2007ねんISBN 9784835480671
  • 村山むらやまりゅう『〈宮澤みやざわ賢治けんじ〉という現象げんしょう戦時せんじかういちきゅうさん年代ねんだい文学ぶんがく運動うんどう花鳥かちょうしゃ、2019ねんISBN 9784909832047
  • 構大じゅ宮沢みやざわ賢治けんじはなぜ教科書きょうかしょ掲載けいさいされつづけるのか』大修館書店たいしゅうかんしょてん、2019ねんISBN 9784469222692

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]