はる修羅しゅら

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はる修羅しゅら』(はるとしゅら)は、宮沢みやざわ賢治けんじ制作せいさくした口語こうご。また、どう作品さくひん収録しゅうろくした詩集ししゅうのタイトルでもある。賢治けんじ生前せいぜん唯一ゆいいつ刊行かんこうされた詩集ししゅうとしてられる。賢治けんじはそれにつづいて制作せいさくした作品さくひんにもおなじタイトルをけて詩集ししゅうとしてつづけかんすることを企図きとしていた。(それぞれ『はる修羅しゅら だいしゅう』『はる修羅しゅら だいさんしゅう』)ここではそれらもふくめて記載きさいする。

はる修羅しゅら[編集へんしゅう]

詩集ししゅうでは制作せいさくとして「1922.4.8」という注記ちゅうきがある(賢治けんじ場合ばあい発表はっぴょうまでのあいだなんなおしをおこな場合ばあいがほとんどであるため、だいいち稿こう着想ちゃくそうないしは執筆しっぴつした日付ひづけかんがえられている)。また、タイトルに"mental sketch modified"という副題ふくだいされている。なお、ほん詩集ししゅうちゅうの「あおやり」「はらからだ剣舞けんぶれん」にもおな副題ふくだいいている。

この作品さくひん一部いちぶすこしずつ各行かくこうだんぐみ上下じょうげにずれ、全体ぜんたいがうねっているようなかたちになっており、それによって詩人しじん内面ないめん動揺どうよう外界がいかい知覚ちかくをもいがませているさま表現ひょうげんされている。

詩集ししゅうはる修羅しゅら』(だいいちしゅう[編集へんしゅう]

心象しんしょうスケツチ はる修羅しゅら
著者ちょしゃ 宮沢みやざわ賢治けんじ
発行はっこう 1924ねん大正たいしょう13ねん4がつ20日はつか
発行はっこうもと 関根せきね書店しょてん
ジャンル 詩集ししゅう
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
ウィキポータル 文学ぶんがく
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上記じょうき作品さくひんふくめた69へん作品さくひんと「ついで」(これを作品さくひんなすと70へん)からなる詩集ししゅう[1]。1922 - 1923ねん制作せいさくされた作品さくひん収録しゅうろくされている。

1924ねん大正たいしょう13ねん4がつ20日はつか東京とうきょう関根せきね書店しょてんから刊行かんこう。ただし事実じじつじょう賢治けんじ自費じひ出版しゅっぱんである(実際じっさい印刷いんさつ賢治けんじんでいた花巻はなまき川口かわぐちまち印刷所いんさつしょおこなわれた)[2]正確せいかくなタイトルは『心象しんしょうスケツチ はる修羅しゅら』で、賢治けんじ自身じしんは「詩集ししゅう」とばれることをこのまなかった[3]。タイトルにはだいいちしゅうとはつかないが、そのだいしゅうだいさんしゅうからさかのぼって(区別くべつするために)だいいちしゅうともばれる[4]ほん文字もじいたのは歌人かじん尾山おやま篤二郎とくじろうで、これは賢治けんじ親戚しんせきであるせき徳弥とくやうたであるというえんからだった[5]

上記じょうき表題ひょうだいさくのほか「はらからだ剣舞けんぶれん」「小岩井こいわい農場のうじょう」やいもうとトシ(とし)の臨終りんじゅう題材だいざいとした「永訣えいけつあさ」、そのトシのたましいとの交流こうりゅうもとめる様子ようすんだ「青森あおもり挽歌ばんか」「オホーツク挽歌ばんかとう作品さくひんがよくられる。

詩集ししゅう刊行かんこうまえ賢治けんじ先駆せんくがた雑誌ざっし新聞しんぶん発表はっぴょうしていた作品さくひんが3へん存在そんざいし、いずれも詩集ししゅう一部いちぶ異同いどうがある[3]

かく作品さくひん下書したがき稿こう現存げんそんわずかであるものの、詩集ししゅう印刷いんさつのために活版かっぱんしょもちいられた「詩集ししゅう印刷いんさつよう原稿げんこう」の大半たいはん現存げんそんしており[注釈ちゅうしゃく 1]賢治けんじ刊行かんこうへの最終さいしゅう段階だんかいいたるまで作品さくひん推敲すいこう配置はいちなどにくだいたことが、原稿げんこうのこされたみなどからうかがえる[8][9]。また、刊行かんこうにもすうさつ詩集ししゅう本文ほんぶんなおしのみをおこなっており、そのうち宮沢みやざわ家所いえどころ蔵本ぞうほんをはじめ3さつ現存げんそんしている[3]。これらの内容ないよう異同いどうは、『【しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう だいかん』(筑摩書房ちくましょぼうかん)で確認かくにんすることができる。

おおくは「心象しんしょうスケッチ」と賢治けんじ自身じしん名付なづけた手法しゅほうによってかれ、時間じかん経過けいかともな内面ないめん変容へんよう、さらにその内面ないめんそとからべつ視点してんまれている。この「心象しんしょうスケッチ」の手法しゅほうについては、ウィリアム・ジェームズとなえた「意識いしきなが」との関連かんれん指摘してきされている(賢治けんじは『はる修羅しゅら だいしゅう』のはやし学生がくせい」にジェームズののこしており、著書ちょしょんだ可能かのうせい研究けんきゅうしゃから言及げんきゅうされている[10])。

刊行かんこう当時とうじつじじゅん読売新聞よみうりしんぶん連載れんさいしていたコラムで激賞げきしょう佐藤さとう惣之助そうのすけ評価ひょうかするコメントをした[11]文字もじいた尾山おやま篤二郎とくじろう主催しゅさいする短歌たんか雑誌ざっし自然しぜん』のなか賞賛しょうさんする紹介しょうかいをしている[12]。しかし当時とうじ世間せけん一般いっぱんにはれられず、大半たいはんのこってしまい、結局けっきょく賢治けんじみずか相当そうとう部数ぶすうることになった。った『はる修羅しゅら』を岩波書店いわなみしょてん学術がくじゅつしょ交換こうかんするよう依頼いらいする内容ないよう岩波いわなみ茂雄しげおあて書簡しょかん発見はっけんされている[13]

とはいえ、中原なかはら中也ちゅうや富永とみなが太郎たろうといった詩人しじんつよ影響えいきょうけたことが判明はんめいしている[注釈ちゅうしゃく 2][15][注釈ちゅうしゃく 3]。さらに、中国ちゅうごく留学りゅうがくしていた草野くさのこころひらたは『はる修羅しゅら』をんで「瞠目どうもく」し、日本にっぽん帰国きこく創刊そうかんした銅鑼どら』に賢治けんじ同人どうじんとしてさそった[17]草野くさの賢治けんじ存命ぞんめいちゅうから没後ぼつごにかけてその作品さくひん紹介しょうかいおおきな役割やくわりたすことになるため[18]、この出会であいは結果けっかてきにきわめておおきな意味いみつ。2021ねんには、三木みき露風ろふう遺品いひんのノートから、賢治けんじ刊行かんこう直後ちょくごふう献本けんぽんし、それにたいしてふう好意こういてき返書へんしょおくっていたことがあきらかになった[19][20]

また、地元じもと岩手いわてけん詩壇しだんにおいてはこの『はる修羅しゅら』によって賢治けんじ一定いってい評価ひょうかけることとなった。そのなか地元じもと詩人しじんとの交友こうゆう発生はっせいし、旧制きゅうせい盛岡もりおか中学校ちゅうがっこう後輩こうはい当時とうじ在学ざいがくちゅう)であった森荘もりしょうやめうこととなる。

2019ねん時点じてん現存げんそんするはつ版本はんぽんは30程度ていどとされている[21]

詩集ししゅうはる修羅しゅら だいしゅう[編集へんしゅう]

上記じょうきの『はる修羅しゅら』につづいて、花巻はなまきのう学校がっこう教員きょういん時代じだい後半こうはん(1924ねん - 1926ねん3がつ)に制作せいさくされたぐんである[4]賢治けんじのう学校がっこう退職たいしょくの1928ねんごろにこれをまとめて出版しゅっぱんする構想こうそうてた[22]当初とうしょ正規せいき出版しゅっぱんルートを使つかわずに、謄写版とうしゃばんもちいた完全かんぜん自費じひ出版しゅっぱんとする予定よていであった[22]。しかし、賢治けんじ所有しょゆうしていた謄写とうしゃ印刷いんさつ道具どうぐ一式いっしき労働ろうどう農民のうみんとうにカンパとして供出きょうしゅつしたため、いったん構想こうそう停滞ていたいする[22]。その友人ゆうじんである藤原ふじわら嘉藤かとうおさむ花巻はなまき高等こうとう女学校じょがっこう音楽おんがく教諭きょうゆ)や菊池きくち武雄たけお童話どうわしゅう注文ちゅうもんおお料理りょうりてん』の挿絵さしえ担当たんとう)らのすすめをけて、出版しゅっぱんしゃからの刊行かんこう企図きとし、「ついで」を執筆しっぴつしている[22]。この序文じょぶんには上記じょうきの2めい出版しゅっぱんすすめた経緯けいいしるされている[22]。また、作品さくひん執筆しっぴつしたのう学校がっこう教員きょういん時代じだい回想かいそうする記述きじゅつがあり、教員きょういんとしての賢治けんじろんじるさいにしばしば引用いんようされる「このよんヶ年かねんはわたくしにとってじつに愉快ゆかいあかるいものでありました」という一節いっせつもここにふくまれている。

なお、このだいしゅう相当そうとうする時期じきから賢治けんじ自作じさく一連いちれん作品さくひん番号ばんごうしている。このだいしゅう時期じきにおいては、「日付ひづけ」と照合しょうごうした場合ばあい番号ばんごう不規則ふきそくぶ(たとえば100番台ばんだいつぎは300番台ばんだいとなり、500番台ばんだいまでってふたたび300番台ばんだいがあるなど)現象げんしょうられる[23]一方いっぽうで、度重たびかさなる推敲すいこうなどをても日付ひづけ作品さくひん番号ばんごう自体じたいはほぼわらなかった[24]

結局けっきょく賢治けんじ生前せいぜんには詩集ししゅうとしての刊行かんこう実現じつげんせず、下書したがきにちか状態じょうたい草稿そうこうのこされた(どの作品さくひんのどの段階だんかい形態けいたい収録しゅうろくする予定よていであったかも明示めいじされていない)[25]使用しようした原稿げんこう用紙ようしから、改稿かいこう推敲すいこうさい晩年ばんねんまでおこなわれていたことが確認かくにんされている[26]。このため、複数ふくすう逐次ちくじ形態けいたい存在そんざいしており、『校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう』(筑摩書房ちくましょぼう、1973 - 1977ねん)よりもまえ全集ぜんしゅう文庫本ぶんこぼんには(りの困難こんなんゆえに)それらがじった本文ほんぶん採用さいようされている作品さくひんもある。また、『校本こうほん全集ぜんしゅう以降いこうだい存在そんざいしない逐次ちくじ形態けいたいでは冒頭ぼうとうぎょうのフレーズを〔〕でくくったものをかりだいとしている。

だいしゅう』について入沢いりさわ康夫やすおは、『だいいちしゅう』と『だいさんしゅう』のあいだの「過渡かとてきなものとなされる傾向けいこうがある」と指摘してきし、作品さくひん題材だいざいについてはその見解けんかい否定ひていしないまでも、晩年ばんねんまでのなが期間きかんをかけて制作せいさくされたことをわすれるべきではないとべ、「口語こうごなかで、もっとも時間じかん手間てまをかけたじゅくたか作品さくひんが、この『だいしゅう』にはつどっている」という評価ひょうかしるしている[27]

詩集ししゅうはる修羅しゅら だいさんしゅう[編集へんしゅう]

だいしゅうおなじく、生前せいぜん未刊みかんわった詩集ししゅうで、1925ねん4がつから1928ねん7がつにかけて制作せいさくされたぐんだいしゅうでは作品さくひん番号ばんごう日付ひづけかならずしも並行へいこうせず、作品さくひん番号ばんごうのプリンシプルが不明ふめいなのにたいして、だいさんしゅう番号ばんごうじゅん日付ひづけじゅん明快めいかい一致いっちしている。これは、だいさんしゅう一種いっしゅ安定あんてい獲得かくとくしていることをしめすといっていいいだろうとてんさわ退二郎たいじろうべている[28]

実生活じっせいかつとの対応たいおうでいえば、「ななきゅう はる」にみられるように賢治けんじ花巻はなまきのう学校がっこう教諭きょうゆしょくして、下根子しもねこさくら宮沢みやざわ別宅べったく独自どくじ自炊じすい生活せいかつはいってからの日々ひびから、これらの詩篇しへんされたことになる。作品さくひんそくしていえば、詩人しじんはぐっと地面じめんちかいところまでげられ、そのためにだいしゅうとくらべて、世界せかい異相いそうあきらかにされはじめたともいえる。詩人しじんみずからえらんだ視座しざとはいいながら、「けむり」や「白菜はくさいはたけ」「悪意あくい」などには、あたらしいいきどおりやうれいが詩人しじんたましいおかしていることをらせている。

「〔あすこのはねえ〕」「師父しふ」「和風わふう河谷こうだにいっぱいにく」のさんへんは、農民のうみんへの献身けんしんしゃとしてのきがいがうたいあげられているようにえる。しかし、「師父しふ」はさらなる改稿かいこうけるにつれて、茫然ぼうぜんとした空虚くうきょ表情ひょうじょうへとうつろいをみせ、「和風わふう河谷こうだにいっぱいにく」の下書したがき稿こうはまだなながつの、台風たいふうかさね以前いぜん段階だんかい発想はっそうされており、最終さいしゅうがた同日どうじつづけの「〔もうはたらくな〕」は、失意しついそこくらいかりのである。これら一見いっけんリアルな、生活せいかつ体験たいけん発想はっそうしたとみえる詩篇しへんもまた、単純たんじゅん実生活じっせいかつ還元かんげんをゆるさない屹立きつりつした“心象しんしょうスケッチ”であることがわかる[29]

その[編集へんしゅう]

校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう』が刊行かんこうされる以前いぜんは「はる修羅しゅら だいよんしゅう」とばれる詩編しへん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされていた。これについては、『校本こうほん全集ぜんしゅう』の編集へんしゅうともな草稿そうこう調査ちょうさによって、賢治けんじ自身じしんがそのようなかたちでまとめた形跡けいせきがなく、「だいさんしゅう以後いご作品さくひん一部いちぶ便宜べんぎてきにそのように呼称こしょうしていたことが判明はんめいしたため、『校本こうほん全集ぜんしゅう以降いこう存在そんざいしなくなっている。従来じゅうらいだいよんしゅう」とされてきた詩編しへんおおくは『校本こうほん全集ぜんしゅう』では「はる修羅しゅら 稿こう補遺ほい」、『【しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう』では「口語こうご稿こう」というかたち全集ぜんしゅう収録しゅうろくされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ この原稿げんこう賢治けんじ没後ぼつご行方ゆくえ不明ふめいとなっていたが、1945ねん8がつ花巻はなまき空襲くうしゅうのち、くすぶっていた実家じっか土蔵どぞうから発見はっけんされた[6]現存げんそんは「はる修羅しゅら以降いこう原稿げんこうで、「ついで」など冒頭ぼうとう推定すいてい11まい逸失いっしつ[7]
  2. ^ 富永とみながの1925ねん1がつ16にちづけ正岡まさおか忠三郎ちゅうざぶろうあて書簡しょかん言及げんきゅうがある[14]
  3. ^ 中原なかはら中也ちゅうや親交しんこうのあった大岡おおおか昇平しょうへいによると、中也ちゅうやは1928ねんごろ渋谷しぶや夜店よみせにあるゾッキで1さつ5ぜにられていた『はる修羅しゅら』を「さつぐらい」まとめいしてその1さつ大岡おおおかあたえ、のこりは「だれかにやるのだ」とってかえったという[16]大岡おおおかは、中也ちゅうやがこのようなすすかたをした詩集ししゅうは「あとにもさきにも『はる修羅しゅら』だけである」としるしている[16]大岡おおおかはこの文章ぶんしょうなかで、中也ちゅうや賢治けんじたいする見方みかた考察こうさつした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 入沢いりさわ康夫やすお解説かいせつ」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、p.719
  2. ^ 入沢いりさわ康夫やすお本文ほんぶんについて」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、p.699
  3. ^ a b c 入沢いりさわ康夫やすお本文ほんぶんについて」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、p.700
  4. ^ a b 入沢いりさわ康夫やすお本文ほんぶんについて」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、p.698
  5. ^ 堀尾ほりお、1991ねん、p.220
  6. ^ 宮沢みやざわきよしろく燻蒸くんじょうされた原稿げんこう」『あにのトランク』筑摩書房ちくましょぼう、1987ねん初出しょしゅつ雑誌ざっしよん次元じげん』1955ねん1がつごう宮沢みやざわ賢治けんじ研究けんきゅうかい
  7. ^ 『【しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう だいかん校異こういへん】』筑摩書房ちくましょぼう、1995ねん、pp.10 - 11。前記ぜんき燻蒸くんじょうされた原稿げんこう」では「7まい」と記載きさいしていた。
  8. ^ 入沢いりさわ康夫やすお本文ほんぶんについて」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、pp.701 - 702
  9. ^ 入沢いりさわ康夫やすお解説かいせつ」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、pp.724 - 727
  10. ^ 鈴木すずき健司けんじ宮沢みやざわ賢治けんじ 幻想げんそう空間くうかん構造こうぞうあおいたかし書林しょりん、1994ねん、pp.35 - 46
  11. ^ 堀尾ほりお、1991ねん、p.222
  12. ^ 尾山おやま篤二郎とくじろう最近さいきん書架しょかから」『自然しぜんだい3かん4ごう、1924ねん6がつ1にちかん(『【しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう だいじゅうろくかんうえ)【補遺ほい資料しりょうへん】』筑摩書房ちくましょぼう、1999ねん、pp.415 - 416に収録しゅうろく
  13. ^ 『【しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう だいじゅうかん 書簡しょかん本文ほんぶんへん】』筑摩書房ちくましょぼう、1995ねん、pp.233 - 234(1925ねん12月20にちづけ
  14. ^ 『【しん校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう だいじゅうろくかんうえ) 【補遺ほい資料しりょうへん】』筑摩書房ちくましょぼう、1999ねん、pp.513 - 514(初出しょしゅつ大岡おおおか昇平しょうへい富永とみなが太郎たろう : 書簡しょかんとおして生涯しょうがい作品さくひん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1974ねん)。
  15. ^ 中原なかはら中也ちゅうや宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう」(外部がいぶリンクは青空あおぞら文庫ぶんこ)。この文章ぶんしょうは、はつ賢治けんじ全集ぜんしゅうぶん圃堂ばん)の最初さいしょ配本はいほんがなされた1934ねん執筆しっぴつされた。
  16. ^ a b 大岡おおおか昇平しょうへい宮澤みやざわ賢治けんじ中原なかはら中也ちゅうや」『校本こうほん宮澤みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅうだいじゅうかん 月報げっぽう筑摩書房ちくましょぼう、1974ねん
  17. ^ 堀尾ほりお、1991ねん、pp.223 - 225
  18. ^ 堀尾ほりお、1991ねん、p.229
  19. ^ 宮沢みやざわ賢治けんじ詩集ししゅうはる修羅しゅら」、三木みき露風ろふう称賛しょうさん 詩人しじんにん生前せいぜん交流こうりゅう 手紙てがみひか発見はっけん. 神戸こうべ新聞しんぶん. (2021ねん8がつ22にち). https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202108/0014613848.shtml 2021ねん8がつ23にち閲覧えつらん 
  20. ^ 賢治けんじふう意外いがい接点せってん研究けんきゅうしゃ偶然ぐうぜん発見はっけん興奮こうふん」 ふう献本けんぽん詩集ししゅうんですぐ返信へんしん. 神戸こうべ新聞しんぶん. (2021ねん8がつ22にち). https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202108/0014613843.shtml?fbclid=IwAR1tFL4-XamNCieVBO03X5pC8PiYk3kVoC4z6pQ1bl1Ylx1feQPUhmGWlvg 2021ねん8がつ23にち閲覧えつらん 
  21. ^ 岩手いわて賢治けんじ自筆じひつ署名しょめいの「はる修羅しゅら初版しょはん寄贈きぞう. 朝日新聞あさひしんぶん. (2019ねん5がつ25にち). https://www.asahi.com/articles/ASM5S4446M5SUJUB00B.html?iref=com_footer 2019ねん5がつ25にち閲覧えつらん 
  22. ^ a b c d e 入沢いりさわ康夫やすお解説かいせつ」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』pp.735 - 739
  23. ^ 入沢いりさわ康夫やすお解説かいせつ」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、p.744
  24. ^ 入沢いりさわ康夫やすお解説かいせつ」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、p.741
  25. ^ てんさわ退二郎たいじろう解説かいせつ」『新編しんぺん 宮沢みやざわ賢治けんじ詩集ししゅう』 p.443
  26. ^ 入沢いりさわ康夫やすお解説かいせつ」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、p.740
  27. ^ 入沢いりさわ康夫やすお解説かいせつ」『宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう1』、p.743
  28. ^ てんさわ退二郎たいじろう解説かいせつ」『新編しんぺん 宮沢みやざわ賢治けんじ詩集ししゅう』 p.444
  29. ^ てんさわ退二郎たいじろう解説かいせつ」『新編しんぺん 宮沢みやざわ賢治けんじ詩集ししゅう』 p.445

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 宮沢みやざわ賢治けんじ全集ぜんしゅう 1』筑摩書房ちくましょぼう<ちくま文庫ぶんこ>、1986ねん
  • 新編しんぺん 宮沢みやざわ賢治けんじ詩集ししゅう新潮社しんちょうしゃ<新潮しんちょう文庫ぶんこ> 1991ねん ISBN 978-410109207-2
  • 堀尾ほりお青史せいし年譜ねんぷ 宮沢みやざわ賢治けんじでん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ<中公ちゅうこう文庫ぶんこ>、1991ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • くものむこう、約束やくそく場所ばしょ - ヒロインが教科書きょうかしょ掲載けいさいされた「永訣えいけつあさ」を授業じゅぎょう朗読ろうどくしたり、『はる修羅しゅら』の文庫本ぶんこぼんほんさく製作せいさくされた時点じてんでは実在じつざいしない)をっている描写びょうしゃ存在そんざいする。
  • ビブリア古書こしょどう事件じけん手帖てちょう - 架空かくうの「作者さくしゃ自筆じひつ推敲すいこうりの『はる修羅しゅらはつ版本はんぽん」が登場とうじょうする(だい3かん)。
  • シン・ゴジラ - はつ版本はんぽんが、登場とうじょう人物じんぶつ遺品いひんとしてうつされている。
  • はるねむり - 『はる修羅しゅら』を題材だいざいにした楽曲がっきょくはる修羅しゅら』が存在そんざいする。
  • 蜜蜂みつばち遠雷えんらい - げきちゅうのコンクールの課題かだいきょくとしてオリジナルの『はる修羅しゅら』をモチーフとしたきょくてくる。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]