有島ありしま武郎たけお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
有島ありしま 武郎たけおありしま たけお
誕生たんじょう 1878ねん3月4にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう小石川こいしかわ
げん東京とうきょう文京ぶんきょう
死没しぼつ (1923-06-09) 1923ねん6月9にち(45さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん長野ながのけん北佐久きたさくぐん軽井沢かるいざわまち
墓地ぼち 多磨たま霊園れいえん
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
評論ひょうろん
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 札幌さっぽろのう学校がっこう
げん北海道大学ほっかいどうだいがく農学部のうがくぶ
ジャンル 小説しょうせつ
評論ひょうろん
主題しゅだい キリスト教きりすときょう人道じんどう主義しゅぎ
文学ぶんがく活動かつどう 白樺しらかんば
代表だいひょうさくすえ』(1914ねん
カインの末裔まつえい』(1917ねん
ちいさきしゃ』(1918ねん
うまづるなや』(1918ねん
あるおんな』(1919ねん
しみなくあいだつ』(1920ねん評論ひょうろん
いちぼう葡萄ぶどう』(1920ねん
デビューさく 『かんかんむし』(1910ねん
配偶はいぐうしゃ 神尾かみお安子やすこ
パートナー 波多野はたの秋子あきこ
子供こども もり雅之まさゆき長男ちょうなん
親族しんぞく 有島ありしま実父じっぷ
神尾かみお光臣みつおみ義父ぎふ
有島ありしま生馬いくま実弟じってい
里見さとみ実弟じってい
山本やまもと直良なおよし義弟ぎてい
中島なかじままもるまご
有島ありしまじゅうおい
山本やまもと直純なおずみめいまご
ウィキポータル 文学ぶんがく
テンプレートを表示ひょうじ
札幌さっぽろ在住ざいじゅう時代じだい有島ありしまんでいたいえ現在げんざい札幌さっぽろ厚別あしべつ北海道ほっかいどう開拓かいたくむら」に移築いちく
有島ありしま武郎たけおてい跡地あとち札幌さっぽろ白石しらいし
邸宅ていたくあといしぶみ札幌さっぽろきた
終焉しゅうえん軽井沢かるいざわまち
きよしがつそう
多磨たま霊園れいえんにあるはかには、有島ありしま武郎たけおみぎ)と安子やすこひだり)のかおのレリーフがある

有島ありしま 武郎たけお(ありしま たけお、1878ねん明治めいじ11ねん3月4にち - 1923ねん大正たいしょう12ねん6月9にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ

学習がくしゅういん中等ちゅうとう卒業そつぎょう農学のうがくしゃこころざして北海道ほっかいどう札幌さっぽろのう学校がっこう進学しんがく洗礼せんれいける。1903ねん渡米とべいハバフォード大学だいがく大学院だいがくいんて、ハーバード大学だいがくで1ねんほど歴史れきし経済けいざいがくまなぶ。帰国きこく志賀しが直哉なおや武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつらととも同人どうじん白樺しらかんば」に参加さんかする。1923ねん軽井沢かるいざわ別荘べっそうきよしがつそう)で波多野はたの秋子あきこ心中しんちゅうのした。

代表だいひょうさくに『カインの末裔まつえい』『あるおんな』や、評論ひょうろんしみなくあいだつ』がある。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

東京とうきょう小石川こいしかわげん文京ぶんきょう)にきゅう薩摩さつまはん郷士ごうし大蔵おおくら官僚かんりょう実業じつぎょう有島ありしま長男ちょうなんとしてまれる。はは幸子こうじ祖父そふ宇兵衛うへえおなじく郷士ごうしであった。武郎たけお4さいときちち横浜よこはま税関ぜいかんちょう就任しゅうにん一家いっか横浜よこはまうつる。ちち教育きょういく方針ほうしんにより米国べいこくじん家庭かてい生活せいかつ。その横浜よこはま英和えいわ女学校じょがっこうげん青山学院あおやまがくいん横浜よこはま英和えいわ小学校しょうがっこう)にかよう。このころ体験たいけんのち童話どうわいちぼう葡萄ぶどう』をむことになる。

10さい学習がくしゅういん予備よび入学にゅうがくし、寄宿きしゅくせいとしてごし、19さい学習がくしゅういん中等ちゅうとう全科ぜんか卒業そつぎょうする。その札幌さっぽろのう学校がっこう入学にゅうがく教授きょうじゅ新渡戸にとべ稲造いなぞうから「一番いちばんきな学科がっかなにか」とわれ「文学ぶんがく歴史れきし」とこたえたところ失笑しっしょうったという。内村うちむら鑑三かんぞう森本もりもと厚吉こうきち影響えいきょうなどもあり、1901ねん明治めいじ34ねん)にキリスト教きりすときょう入信にゅうしんする。農業のうぎょう学校がっこう卒業そつぎょう軍隊ぐんたい生活せいかつおくったのちに1903ねん8がつ25にち横浜よこはまから渡米とべい米国べいこくではハバフォード大学だいがく大学院だいがくいん、さらにハーバード大学だいがくまなび、社会しゃかい主義しゅぎ傾倒けいとうホイットマンイプセンらの西欧せいおう文学ぶんがくベルクソンニーチェなどの西洋せいよう哲学てつがく影響えいきょうける。ヨーロッパにもわたり、1907ねん明治めいじ40ねん)4がつ11にち帰国きこく。このころ信仰しんこうへの疑問ぎもんち、キリストきょうからはなれる。アナーキスト巨星きょせいであった大杉おおすぎさかえ海外かいがい遠征えんせいしたさいに、黒百合くろゆりかい主宰しゅさいしていた有島ありしま武郎たけお同志どうしとしてカンパをしたが、じつはそれまでに大杉おおすぎとはすうかいしかったことがなかった。

帰国きこくふたた軍務ぐんむ予備よび見習みならい士官しかん)や東北とうほく帝国ていこく大学だいがくのう大学だいがく英語えいご講師こうしとしてごしていたが、おとうと生馬いくまつうじて志賀しが直哉なおや武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつらと出会であい、同人どうじん白樺しらかんば』に参加さんかする。『かんかんむし』『すえ』などを発表はっぴょうし、白樺しらかんば中心ちゅうしん人物じんぶつ一人ひとりとして小説しょうせつ評論ひょうろん活躍かつやくした。

1909ねん明治めいじ42ねん)、東京とうきょうにて陸軍りくぐん少将しょうしょう神尾かみお光臣みつおみ次女じじょ神尾かみお安子やすこ結婚けっこん

1911ねん明治めいじ44ねん)、札幌さっぽろ教職きょうしょくつとめていたとき長男ちょうなん行光ゆきみつゆきみつ誕生たんじょう(成人せいじん俳優はいゆうもり雅之まさゆき)。

1916ねん大正たいしょう5ねん)につま安子やすこ肺結核はいけっかくにより平塚ひらつかあんずくもどうで、27さいぼつ)とちちくすと、本格ほんかくてき作家さっか生活せいかつはいる。『カインの末裔まつえい』『うまづるなや』『迷路めいろ』をき、1919ねん大正たいしょう8ねん)には『あるおんな』を発表はっぴょうした。『中央公論ちゅうおうこうろん』1918ねん7がつに、あたらしきむら批判ひはんする評論ひょうろん武者小路むしゃこうじけいへ」を発表はっぴょうした。

1916ねん大正たいしょう5ねん)、有島ありしま農場のうじょうにて。みぎから2人ふたり有島ありしま

しかし創作そうさくりょくおとろえがはじめ『星座せいざ』を途中とちゅうふでつ。1922ねん大正たいしょう11ねん)『宣言せんげんひとつ』を発表はっぴょうし、北海道ほっかいどうかりたいむらげんニセコまち)の有島ありしま農場のうじょう開放かいほうする。1923ねん大正たいしょう12ねん)、『婦人ふじん公論こうろん記者きしゃ人妻ひとづまであった波多野はたの秋子あきこい、恋愛れんあい感情かんじょういだく(有島ありしまつま死別しべつ再婚さいこんせず独身どくしんとおした)。ところが秋子あきこおっとはるぼうられるところとなり、脅迫きょうはくけてくるしむことになる。そして6月9にち2人ふたり長野ながのけん軽井沢かるいざわ別荘べっそうきよしがつそう)で縊死いしげた。7がつ7にち別荘べっそう管理人かんりにんにより発見はっけんされるが、梅雨つゆ時期じきに1ヶ月かげつ遺体いたい発見はっけんされなかったため、相当そうとう腐乱ふらんすすんでおり、遺書いしょ存在そんざい本人ほんにん確認かくにんされたという。複数ふくすうのこされていた遺書いしょひとつには「あいまえがかくまで無力むりょくなものだとは此瞬あいだまでおもはなかつた」とのこされていた。2009ねん平成へいせい21ねん)7がつに、やく半年はんとしまえから有島ありしま秋子あきこわした書簡しょかんかく3つう札幌さっぽろにある「北海道ほっかいどうりつ文学ぶんがくかん」で一般いっぱん公開こうかいされた。

辞世じせいうた

いくねんいのちひとげんとやおもりたるよろこびもで / おさむぜんするひとのごとくににそむきしずかにこいもんにのぞまん / せみひとつじゅをばはなれてちぬかぜなきあきしずかなるかな」

というものであるとされ、唐木からき順三じゅんぞうひょうでは「いずれも少女しょうじょ趣味しゅみ以上いじょうではない」とだんじられている(『自殺じさつについて』1950ねん昭和しょうわ25ねん))。

であった内村うちむら鑑三かんぞうは「このたび有島ありしま行為こういたたえるものが知人ちじんるならば、そのものとの交流こうりゅうつ」(大意たいい)と言明げんめいした。

北海道ほっかいどうえんふかいことから、北海道新聞社ほっかいどうしんぶんしゃにより「有島ありしま青少年せいしょうねん文芸ぶんげいしょう」という文学ぶんがくしょう実施じっしされている[1]

魯迅ろじん紹介しょうかいしたことから中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくでの知名度ちめいどたかく、教科書きょうかしょにも掲載けいさいされてひろまれている。

作品さくひん[編集へんしゅう]

校歌こうか作詞さくし[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

評論ひょうろん[編集へんしゅう]

『Deklaracio』1924

童話どうわ[編集へんしゅう]

戯曲ぎきょく[編集へんしゅう]

  • ドモまた

全集ぜんしゅう[編集へんしゅう]

  • 有島ありしま武郎たけお全集ぜんしゅうぜん15かん別巻べっかん 筑摩書房ちくましょぼう(なお大正たいしょうくさむらぶんかくぜん12かん昭和しょうわ初期しょき新潮社しんちょうしゃぜん10かん出版しゅっぱん

おも評伝ひょうでん[編集へんしゅう]

親族しんぞく[編集へんしゅう]

つま神尾かみお安子やすこ

つま安子やすこ(1916ねんぼつ)は陸軍りくぐん大将たいしょう男爵だんしゃく神尾かみお光臣みつおみ次女じじょ2人ふたりあいだとして、行光ゆきみつ俳優はいゆうもり雅之まさゆきもり愛人あいじんとのあいだあいのコリーダなどで活躍かつやくした女優じょゆう中島なかじままもる。またもりまごにミュージシャンの有島ありしまコレスケ)、敏行としゆき翻訳ほんやく石井いしい好子よしこ婚約こんやくしていたとわれるが[2]だい世界せかい大戦たいせんなかわかくして結核けっかくくなる)、くだりさん母方ははかた神尾かみお男爵だんしゃく次男じなんはシンガーソングライターの平岩ひらいわ英子えいこおっとシンセサイザー奏者そうしゃ有島ありしま明朗めいろう母方ははかた神尾かみおから改姓かいせい))[3]

おとうと画家がか有島ありしま生馬いくま作家さっか里見さとみ日本油脂にほんゆし取締役とりしまりやく有島ありしまゆきろう次男じなん創価学会そうかがっかい初代しょだい音楽おんがく隊長たいちょう公明党こうめいとう代議士だいぎし有島ありしまじゅう)。いもうとシマは東京慈恵会医科大学とうきょうじけいかいいかだいがく設立せつりつした高木たかぎけんひろし長男ちょうなんひろし結婚けっこんいもうとあい三笠みかさホテル経営けいえいしゃ山本やまもと直良なおよし結婚けっこんあいまご指揮しきしゃ作曲さっきょく山本やまもと直純なおずみ[3]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 東京とうきょう千代田ちよだ六番ろくばんまちにあるいえには落語らくご3代目だいめさんゆうていえんんでいたが、晩年ばんねん転居てんきょしている[4]
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん)、大杉おおすぎさかえベルリン国際こくさい政府せいふ主義しゅぎ大会たいかい参加さんかするために密航みっこう企図きとすると、ひそかに渡航とこう大杉おおすぎわたし、のち新聞しんぶん記者きしゃたいして「ぼく大杉おおすぎくんとは立場たちばちがうが、ああいううつわきょくおおきい人物じんぶつを、いたずらに日本にっぽんのようなせせっこましいどころいて、内輪うちわ喧嘩けんかをさせておくのはしいようながしたので、世界せかい大勢おおぜいてきたほうがよかろうとかんがえたからである」と談話だんわしている。(大杉おおすぎさかえ日本にっぽん脱出だっしゅつ』、大杉おおすぎゆたかにちろく大杉おおすぎさかえでん』より)
  • 有島ありしま極端きょくたんへびこわがった。その一方いっぽう波多野はたの秋子あきこへびきで、へびがかすかにあたまをもたげて蛇腹じゃばらがぐるりとゆびをとりまくデザインの指輪ゆびわをはめていた。ただし、波多野はたの遺体いたい発見はっけんされたさいにはその指輪ゆびわをはめていなかったことから、有島ありしま交際こうさいするようになってからその指輪ゆびわはずしたとみられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]