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木田きだ金次郎きんじろう

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木田きだ 金次郎きんじろう(きだ きんじろう、1893ねん7がつ16にち - 1962ねん12月15にち)は、北海道ほっかいどう岩内いわうちまち出身しゅっしん画家がか

有島ありしま武郎たけお小説しょうせつうまづるなや」のモデルとなった画家がか[1]自由じゆう奔放ほんぽう作風さくふうによって同町どうちょう自然しぜん数多かずおおえがいた。

人物じんぶつ経歴けいれき

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岩内いわうち尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう高等こうとう卒業そつぎょう上京じょうきょう開成かいせい中学ちゅうがく京北けいほく中学ちゅうがくかよう。京北けいほく中学ちゅうがく時代じだいからえがはじめ、また上野うえの展覧てんらんかいかようようになる。1910ねん学校がっこう中退ちゅうたい札幌さっぽろ郊外こうがいえがつづける日々ひびおくる。札幌さっぽろ開催かいさいされていた黒百合くろゆりかい東北とうほく帝国ていこく大学だいがくのう大学だいがく美術びじゅつ)の展覧てんらんかい有島ありしま武郎たけお出会であ感銘かんめいけ、スケッチをたずさえて訪問ほうもん以後いご有島ありしまとの交友こうゆうまれるが、その岩内いわうち帰郷ききょう漁業ぎょぎょう従事じゅうじする。

1923ねん有島ありしま武郎たけお死去しきょして以降いこう漁業ぎょぎょうはな画業がぎょう専念せんねんする決意けついかためる。1945ねん後志しりべ美術びじゅつ協会きょうかいぜんみち美術びじゅつ協会きょうかい創立そうりつ参加さんかするが、出品しゅっぴんはしなかった。戦後せんごになってようやく画家がかとしてみとめられるようになり、1953ねん札幌さっぽろにてはつ個展こてん開催かいさい1954ねん洞爺とうやまる台風たいふうによる「岩内いわうち大火たいか」により作品さくひんだい多数たすう焼失しょうしつする。墓所はかしょ岩内いわうちまち東山ひがしやま墓地ぼち

1994ねん同町どうちょう木田きだ金次郎きんじろう美術館びじゅつかん開館かいかんし、その設計せっけい長男ちょうなん木田きだしょうあきらがけた。

忌日きじつは「どんざ」とばれており、偉業いぎょうをたたえるため1995ねんから木田きだ金次郎きんじろう美術館びじゅつかんつづけられている[2]

2014ねん10月、日本にほんたばこ産業さんぎょう(JT)が所有しょゆうする油彩ゆさいはんのう漁村ぎょそん』(1956ねんころ制作せいさく)と油彩ゆさい茶津ちゃつ断崖だんがい』(1958ねんころ制作せいさく)のけい2てん木田きだ金次郎きんじろう美術館びじゅつかん寄贈きぞうされた[3]

受賞じゅしょうれき

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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