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復讐ふくしゅうするはにあり

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復讐ふくしゅうするはにあり』(ふくしゅうするはわれにあり、Vengeance Is Mine )は、隆三りゅうぞう小説しょうせつ

概要がいよう[編集へんしゅう]

5にん殺害さつがいした西口にしぐちあきら事件じけん題材だいざいにした長編ちょうへん小説しょうせつである。だい74かい直木賞なおきしょう(1975ねん下半期しもはんき)を受賞じゅしょう1979ねん映画えいが1984ねん2007ねんテレビドラマ放映ほうえいされた。

ろしで講談社こうだんしゃから出版しゅっぱん[1]トルーマン・カポーティの『冷血れいけつ』(1965ねん)を意識いしきして執筆しっぴつした。タイトルの「復讐ふくしゅうするはにあり」は、新約しんやく聖書せいしょローマじんへの手紙てがみだい12しょうだい19せつ)にてくる「あいするものよ、みずか復讐ふくしゅうすな、ただかみいかまかせまつれ。ろくして『おもいひきゅうふ、復讐ふくしゅうするはにあり、わがこれにむくいん』とあり」という言葉ことば一部いちぶ[2]悪人あくにん報復ほうふくあたえるのはかみである、を意味いみする[3]。こういうおとこがいたことを調査ちょうさしたとして、自身じしん主人公しゅじんこう肯定こうてい否定ひていもしない気持きもちをめてタイトルに引用いんようしたという[4]

2007ねん改訂かいてい新版しんぱんつる書房しょぼうから出版しゅっぱんされた。

ストーリー[編集へんしゅう]

昭和しょうわ38ねん当時とうじ日本にっぽん人々ひとびとはたった一人ひとりおとこ恐怖きょうふしていた。榎津えのきづいわお(えのきづ いわお)。キリスト教きりすときょうカトリック信者しんじゃで「おれせんいちだ。せんひとつしか本当ほんとうのことはわない」と豪語ごうごする詐欺さぎにして、女性じょせい老人ろうじんふくむ5にん人間にんげんころした連続れんぞく殺人さつじんはんべ12まんにんおよ警察けいさつ捜査そうさもうをかいくぐり、78日間にちかんものあいだ逃亡とうぼうしたが、昭和しょうわ39ねん熊本くまもと逮捕たいほされ、43さい処刑しょけいされた。映画えいがではこの稀代きたい犯罪はんざいしゃ犯行はんこう軌跡きせき人間像にんげんぞうせまる。

映画えいが[編集へんしゅう]

復讐ふくしゅうするはにあり
Vengeance Is Mine
監督かんとく 今村いまむら昌平しょうへい
脚本きゃくほん 馬場ばばとう
池端いけはた俊策しゅんさく
製作せいさく 井上いのうえ和男かずお
出演しゅつえんしゃ 緒形おがたけん
さん國連こくれん太郎たろう
ミヤコ蝶々ちょうちょう
ばいしょう美津子みつこ
小川おがわ真由美まゆみ
音楽おんがく 池辺いけべ晋一郎しんいちろう
撮影さつえい ひめ佐久さく
編集へんしゅう 浦岡うらおか敬一けいいち
配給はいきゅう 松竹しょうちく
公開こうかい 日本の旗 1979ねん4がつ21にち
上映じょうえい時間じかん 140ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
配給はいきゅう収入しゅうにゅう 6おくえん
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黒木くろき和雄かずお深作ふかさく欣二きんじ藤田ふじたさとしはちらときそったすえ今村いまむら昌平しょうへい映画えいがけん取得しゅとく[5]映画えいが松竹しょうちく今村いまむらプロダクションの共同きょうどう製作せいさく配給はいきゅう松竹しょうちく1979ねん4がつ21にち公開こうかいされた。

馬場ばばとう池端いけはた俊策しゅんさく脚本きゃくほん担当たんとう主演しゅえん緒形おがたけん1968ねんの『かみ々のふか欲望よくぼう』でかく映画えいがしょう受賞じゅしょうしてたか評価ひょうかけたものの、どうさく長期間ちょうきかん撮影さつえいわざわいして今村いまむらプロダクションはおよそ2000まんえん負債ふさいかかえ、以後いごはテレビのドキュメンタリー番組ばんぐみがけていた。当時とうじ苦境くきょうにあった今村いまむら昌平しょうへいにとっては、起死回生きしかいせいの10ねんぶりの新作しんさく劇映画げきえいがである[6]

キャッチコピーは、「しくない おれ一生いっしょうこげなもん…」[7]どう年度ねんどキネマ旬報きねまじゅんぽうベストテン1だい22かいブルーリボンしょうならびにだい3かい日本にっぽんアカデミーしょう作品さくひんしょう受賞じゅしょう作品さくひん配給はいきゅう収入しゅうにゅうは6おくえん記録きろくし、松竹しょうちく作品さくひんとしてはぼん正月しょうがつの『おとこはつらいよ』2ほんぐそのとしの3成績せいせきおさめた[8]ほんさくのヒットで今村いまむらプロダクションはそれまでの負債ふさい返済へんさいし、配給はいきゅうもと松竹しょうちく利益りえきをあげたことでつぎさくええじゃないか』の制作せいさくにゴーサインが[9]

3ぶんの2がロケ撮影さつえいされ、のこりが浜松はままついえのセット撮影さつえいである。浜松はままつえき榎津えのきづつシーンは撮影さつえい当時とうじすでに高架こうか工事こうじとともに駅前えきまえさい開発かいはつすすんでいたため、事件じけん当時とうじ浜松はままつえき雰囲気ふんいきのこっていた土浦つちうらえき撮影さつえいされた。その浜松はままつでのシーンは文京ぶんきょう目白台めじろだい撮影さつえいされている。 弁護士べんごし殺害さつがいシーンは実際じっさい殺害さつがい事件じけん現場げんばであるアパートで撮影さつえいされたが、事件じけん発生はっせいした部屋へやそのものではなくそのかい部屋へや使用しようされた[4]

逮捕たいほいた経緯けいい事実じじつとも原作げんさくともことなるかたち簡略かんりゃくされている。ここでカットされた部分ぶぶん焦点しょうてんてたのが2007ねんのテレビドラマばんである、 ソフトDVDほか松竹しょうちくから米国べいこくばんHDマスターをもとにしたBlu-ray Discがリリースされている。

1989ねんだいアンケートによる日本にっぽん映画えいがベスト150」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう発表はっぴょう)ではだい113にランキングされている。

ストーリー[編集へんしゅう]

専売せんばい公社こうしゃ集金しゅうきんがかり2めい殺害さつがいした榎津えのきづは、詐欺さぎかえしながら逃走とうそうつづけていた。自宅じたくには病身びょうしん母親ははおや敬虔けいけんクリスチャン父親ちちおや旅館りょかん経営けいえいし、榎津えのきづ妻子さいしとともにらしている。つま加津子かつこは、義父ぎふである鎮雄しずお心酔しんすいし、榎津えのきづ2人ふたり関係かんけいうたがっている。警察けいさつ専売せんばい公社こうしゃ雇人やといにんごろしの容疑ようぎ榎津えのきづ全国ぜんこく指名しめい手配てはいするなか、榎津えのきづ裁判所さいばんしょ被告人ひこくにん家族かぞく接近せっきん弁護士べんごしよそおって保釈ほしゃくきんあずかる手口てぐち詐欺さぎはたらき、仕事しごと依頼いらいしょうしてろう弁護士べんごしちかづき、殺害さつがいして金品きんぴんうばってつづける。やがて浜松はままつ旅館りょかん大学だいがく教授きょうじゅよそおって投宿とうしゅくし、宿やど女将おかみハルとねんごろになる。ハルの母親ははおやもと殺人さつじんはん収監しゅうかんされた経歴けいれきち、ハルの情夫じょうふ旅館りょかんのオーナーでもあるおとこ機嫌きげんりながら、競艇きょうていれる日々ひびおくっていた。ある榎津えのきづとハルが映画えいがかんはいったところ、ニュース映画えいが榎津えのきづ指名しめい手配てはい写真しゃしんながれ、ハルは榎津えのきづ正体しょうたいる。榎津えのきづれていたハルは榎津えのきづかくまい、逃走とうそう手助てだすけする。それをったハルの母親ははおや榎津えのきづ競艇きょうていさそい、自分じぶんたちのまえからえるよう要求ようきゅうした。結局けっきょく榎津えのきづはハルと母親ははおや殺害さつがいし、質屋しちや旅館りょかんんでにん所持しょじひんはらう。榎津えのきづ以前いぜんきゃくったことのある売春ばいしゅんがその様子ようす目撃もくげきしたことから、榎津えのきづ逮捕たいほされ、死刑しけい判決はんけつける。面会めんかいおとずれた父親ちちおや鎮雄しずおは、榎津えのきづ教会きょうかいから破門はもんされたこと、みずからも責任せきにんって脱会だっかいしたことをつたえる。死刑しけい執行しっこう榎津えのきづ遺骨いこついたつま加津子かつこ鎮雄しずおは、山頂さんちょうからそらかって散骨さんこつした。

映画えいがけんトラブル[編集へんしゅう]

映画えいがをめぐりトラブルが発生はっせいした。今村いまむら昌平しょうへいよりまえ黒木くろき和雄かずお藤田ふじたさとしはち深作ふかさく欣二きんじ順番じゅんばん映画えいがもうれて、口約束くちやくそくながら3にん全員ぜんいん映画えいが承諾しょうだくしたことからおおきな問題もんだいとなった[10]順番じゅんばんはまず1975ねん原作げんさく発刊はっかん同時どうじATG拠点きょてん映画えいが製作せいさくおこなっていた黒木くろきが1976ねん1がつ8にち正式せいしき映画えいがもうんだら「ぜひやっていただきたい」と承諾しょうだく[10]。その版元はんもと講談社こうだんしゃから大手おおて配給はいきゅうをおねがいしたいとわれたため、松竹しょうちくから内諾ないだくり、黒木くろきけい4かいはなった[10]つぎ藤田ふじたが1976ねん1がつ26にちい、から「おまかせする」とわれたため、OKをたものと認識にんしきしていた[10]つづいて深作ふかさくが1976ねん2がつ7にち京都きょうとい、「ぜひ、いい作品さくひんにしてください」とわれ、そのになった[10]。うかつにも3にんとも「文書ぶんしょ契約けいやく」はなかった[10]結局けっきょく、1976ねん2がつ19にち一番いちばんおそ正式せいしきもうんだ今村いまむら昌平しょうへい監督かんとく映画えいがされることになった[10]。コケにされた3監督かんとくは「映画えいがにさせない!」などと激怒げきどしたとつたえられる[10]いかりをったのちに「うれしくて、ついどうぞともうげたが、べつ正式せいしき契約けいやくはしてなかった」といいわけした[10]

黒木くろきとは2かい深作ふかさく藤田ふじたとはそれぞれ1かいずつい、そのさいにどの監督かんとくにも了承りょうしょう印象いんしょうあたえて、口約束くちやくそくではあるがから承諾しょうだくされたと主張しゅちょうしており、から正式せいしき契約けいやくわした今村いまむらプロが映画えいがけんたことに抗議こうぎ。ただ、いずれも手付てつきん契約けいやくのサインはなかったという。

黒木くろき監督かんとく脚本きゃくほん中島なかじまたけはく主演しゅえん原田はらだ芳雄よしお起用きようして松竹しょうちく配給はいきゅう想定そうていからは新宿しんじゅくでは約束やくそくでOKされたとし、黒木くろき監督かんとくによる映画えいがを『報知ほうち新聞しんぶん』がスクープとして報道ほうどう一方いっぽう深作ふかさく監督かんとく東映とうえいでアクション映画えいが調ちょうろうという構想こうそうで、同社どうしゃ日下部くさかべ五朗ごろう夫妻ふさい京都きょうとまねいて接待せったい藤田ふじた監督かんとくホリプロダクションうごき、東宝とうほう五明ごみょう忠人ただと藤井ふじい浩明ひろあきりょうプロデューサー、大映だいえい徳間とくまやすしかい社長しゃちょう映像えいぞうけん争奪そうだつ参加さんかしていたという。結局けっきょく、『かみ々のふか欲望よくぼう』の評価ひょうか作風さくふうとなり、窓口まどぐちである講談社こうだんしゃ今村いまむら井上いのうえ和男かずおプロデューサーと正式せいしき契約けいやくし、1977ねん正月しょうがつ映画えいがとして公開こうかい予定よてい発表はっぴょう野坂のさかあきら如が主役しゅやく立候補りっこうほした。

これにたいして、黒木くろき告訴こくそさないとコメントし、深作ふかさく藤田ふじたもこれに同調どうちょう。1976ねん3がつ黒木くろき藤田ふじたりょう深作ふかさく友人ゆうじんげき作家さっか内田うちだ栄一えいいち藤田ふじた作品さくひん常連じょうれん脚本きゃくほんであり、ぞくするしん日本にっぽん文学ぶんがくかいのメンバーでもあった)の3にんはない、今村いまむらプロとの契約けいやく白紙はくし撤回てっかいするむね念書ねんしょき、これを青年せいねん行動こうどうたいにやらせた[10]今村いまむらプロがわは、契約けいやくしょで1976ねんに2年間ねんかん期限きげんきで1977ねん1がつ公開こうかい予定よていとしており、契約けいやく白紙はくし撤回てっかいする念書ねんしょ法的ほうてき効力こうりょくはないとした。内田うちだ栄一えいいち自身じしん主宰しゅさいする劇団げきだん東京とうきょうザットマンで、「隆三りゅうぞう個人こじん攻撃こうげきするかい」という芝居しばいを1976ねん4がつ16、17にち天井てんじょう桟敷さじき地下ちか劇場げきじょう開催かいさいする徹底てっていぶりで[10]相当そうとうビビった[10]

また、深作ふかさく監督かんとく予定よていだった東映とうえい日下部くさかべ五朗ごろうは、「映画えいがけんたものの、東映とうえい社長しゃちょう岡田おかだしげるから、『もう実録じつろくもののようなくらはなしあたらない。そんな原作げんさくはどこかに売却ばいきゃくしろ』と怒鳴どなられた」とはなしている[11][12]日下部くさかべ榎津えのきづを『ジョーズ』に見立みたてて、観客かんきゃくが「榎津えのきづた!つぎはこいつがられる!」とハラハラドキドキさせるホラー映画えいが構想こうそうしていたとはなしている[11]

藤田ふじた監督かんとく映画えいが意欲いよくせたということで、そのまま今村いまむらプロによって映画えいがされた[13][14][15][16]

後年こうねん、1980ねん隆三りゅうぞう発表はっぴょうした『海燕うみつばめジョーの奇跡きせき』が深作ふかさく欣二きんじ映画えいがけん取得しゅとくして日本にっぽん国外こくがいでロケハンまでするもながれる経緯けいい[17][18]藤田ふじたさとしはちにより1984ねん映画えいがされた。クランクインした1983ねん藤田ふじたさとしはち内田うちだ栄一えいいち会食かいしょくし、『復讐ふくしゅうするはにあり』のトラブルを和解わかいしたという[19]

この映画えいがトラブルは、週刊しゅうかんなどでスキャンダルとしておおきく報道ほうどうされた[10][20][21][22][23][24]とはおたがいの無名むめい時代じだい知己ちきでもあった作家さっか筒井つつい康隆やすたかは、自作じさく『アフリカのばくだん』に複数ふくすう映画えいが関係かんけいしゃから映画えいがもうれがありながら、そのなん音沙汰おとさたもなかった自分じぶん経験けいけんかえり、「一方いっぽうてきめるわけにはいかんのではないか」と同情どうじょうする言葉ことばのこしている[25]はた正憲まさのり口約束くちやくそく契約けいやくをする当時とうじ映画えいがかい慣習かんしゅう批判ひはんし「ちゃんとした契約けいやくしょ取交とりかわし、映画えいが原作げんさくりょう半金はんきんでも支払しはらっているなら大騒おおさわぎしたってかまわないけれど、そうでなければ、近代きんだいてき商取引しょうとりひきとはがたい」と、擁護ようごするエッセイをいている[26]菅原すがわら文太ぶんたは「本当ほんとうにみなさんの危機ききかんあらわれとおもいますけど、はじめてじゃないですか、ひとつのものにそれも一応いちおうひとたちが4にんも5にんむらがってね、なに本当ほんとうヤクザ映画えいが喧嘩けんかみたいなことをやってましたね」などとひょうしている[27]

スタッフ[編集へんしゅう]

キャスト[編集へんしゅう]

受賞じゅしょう[編集へんしゅう]

  • だい22かいブルーリボンしょう
    • 作品さくひんしょう / 監督かんとくしょう / 助演じょえん男優だんゆうしょうさん國連こくれん太郎たろう) / 助演じょえん女優じょゆうしょうばいしょう美津子みつこ
  • だい53かいキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン
    • 監督かんとくしょう / 助演じょえん男優だんゆうしょうさん國連こくれん太郎たろう) / 助演じょえん女優じょゆうしょう小川おがわ真由美まゆみ
  • だい4かい報知ほうち映画えいがしょう
    • 最優秀さいゆうしゅう助演じょえん男優だんゆうしょうさん國連こくれん太郎たろう) / 最優秀さいゆうしゅう助演じょえん女優じょゆうしょう小川おがわ真由美まゆみ
  • だい3かい日本にっぽんアカデミーしょう
    • 最優秀さいゆうしゅう作品さくひんしょう / 最優秀さいゆうしゅう監督かんとくしょう / 最優秀さいゆうしゅう脚本きゃくほんしょう / 最優秀さいゆうしゅう助演じょえん女優じょゆうしょう小川おがわ真由美まゆみ) / 最優秀さいゆうしゅう撮影さつえいしょう

テレビドラマ[編集へんしゅう]

1984年版ねんばん[編集へんしゅう]

1984ねん4がつ7にちの「ザ・サスペンスわくで、『いちおくにんてきにしたおとこ 復讐ふくしゅうするはにあり』の題名だいめいTBSにより制作せいさく放送ほうそうされた。主演しゅえん根津ねづ甚八じんぱち

スタッフ[編集へんしゅう]

キャスト[編集へんしゅう]

ほか

2007年版ねんばん[編集へんしゅう]

復讐ふくしゅうするはにあり
ジャンル テレビドラマ
原作げんさく 隆三りゅうぞう
脚本きゃくほん 西岡にしおか琢也たくや
監督かんとく 猪崎いざき宣昭のりあき
出演しゅつえんしゃ 柳葉やなぎば敏郎としお
大地だいち康雄やすお
岸本きしもと加世子かよこ
山口やまぐちあい
前田まえだあい
オープニング 作曲さっきょく遠藤えんどう浩二こうじ
製作せいさく
プロデューサー 森田もりたのぼるテレビ東京てれびとうきょう
大藤おおふじ博司ひろし
元信もとのぶ克則かつのり
制作せいさく テレビ東京てれびとうきょう
放送ほうそう
音声おんせい形式けいしきステレオ
放送ほうそうこく地域ちいき日本の旗 日本にっぽん
放送ほうそう期間きかん2007ねん3月28にち
放送ほうそう時間じかん20:00 - 22:48
回数かいすう1
公式こうしきサイト
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ユニオン映画えいがにより3あいだわくのドラマスペシャルとして制作せいさく2007ねん3月28にちの2000ふん - 2248ふんテレビ東京てれびとうきょう系列けいれつ放送ほうそうされた。主演しゅえん柳葉やなぎば敏郎としおどう作品さくひん映像えいぞうは、TBSばんからかぞえてやく23ねんり。

映画えいがばんでは描写びょうしゃされなかった、榎津えのきづいわお逮捕たいほされるまでの3日間にちかん映像えいぞうひとしんじない殺人さつじんはん榎津えのきづと、ひとしんじること教誨きょうかい吉村よしむらしずかなたたかいをえがく。

監督かんとくには田中たなかのぼる予定よていされていたが、2006ねん10月4にち急死きゅうししたため、猪崎いざき宣昭のりあき担当たんとうした[28]

スタッフ[編集へんしゅう]

キャスト[編集へんしゅう]

ほか

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 隆三りゅうぞう『わたしが出会であった殺人さつじんしゃたち』新潮社しんちょうしゃ、2012ねん、p.2
  2. ^ 大正たいしょう改訳かいやく文語ぶんごばんRomans 12Study Bible
  3. ^ トルストイの『アンナ・カレーニナ』にも登場とうじょうする言葉ことば
  4. ^ a b 今村いまむら昌平しょうへい隆三りゅうぞう「『復讐ふくしゅうするはにあり』の犯人はんにんぞうとその周辺しゅうへん」、『キネマ旬報きねまじゅんぽう』1979ねん5がつ上旬じょうじゅんごう、pp.88-91
  5. ^ 『シネアルバム 日本にっぽん映画えいが1977 1976ねん公開こうかい日本にっぽん映画えいが全集ぜんしゅう佐藤さとう忠男ただお山根やまね貞男さだお責任せきにん編集へんしゅう芳賀はが書店しょてん、1977ねん、p.194
  6. ^ 今村いまむら昌平しょうへい映画えいが狂気きょうきたびである わたし履歴りれきしょ日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、2004ねん、p.153
  7. ^ キネマ旬報きねまじゅんぽう』1979ねん5がつ上旬じょうじゅんごう
  8. ^ キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃへん映画えいがプロデューサーが面白おもしろい』キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1998ねん、p.214
  9. ^ 香取かとり俊介しゅんすけ人間にんげんドキュメント 今村いまむら昌平しょうへい伝説でんせつ河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2004ねん、p.342
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m 「NEWSOFNEWS 『映画えいがにしたいこの"ドロ仕合どろじあい" へん原作げんさくしゃ監督かんとくかたやタイトルで ちとぎた直木賞なおきしょう隆三りゅうぞう』」『週刊しゅうかん読売よみうり』1976ねん3がつ20にちごう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、32ぺーじ 「NEWSOFNEWS 『復讐ふくしゅうされたカッコわる 直木賞なおきしょう受賞じゅしょうさく映画えいがめぐるゴタゴタも"かん"』」『週刊しゅうかん読売よみうり』1976ねん5がつ8にちごう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、32ぺーじ 
  11. ^ a b 日下部くさかべ五朗ごろう「『日本にっぽん映画えいが最後さいごのプロデューサー わが映画えいが稼業かぎょう繁盛はんじょう《『おんな路線ろせんへん》」『小説しょうせつ新潮しんちょう』2003ねん2がつごう新潮社しんちょうしゃ、387ぺーじ 
  12. ^ 白井しらい佳夫よしおとの対談たいだんでは深作ふかさくが「岡田おかだ社長しゃちょうから映画えいがOKもった」とはなしている(白井しらい佳夫よしお監督かんとく椅子いすはなし特集とくしゅう、1981ねん、p.224
  13. ^ 邦画ほうが新作しんさく情報じょうほう復讐ふくしゅう~』の映画えいがけん今村いまむら監督かんとく獲得かくとく」『キネマ旬報きねまじゅんぽう』1976ねん4がつ上旬じょうじゅんはる特別とくべつごう、pp.203-205
  14. ^ 「もめた復讐ふくしゅうするはにあり映画えいが 先約せんやくさん監督かんとくとシコリ」『中日新聞ちゅうにちしんぶん』1976ねん3がつ6にち夕刊ゆうかん
  15. ^ 隆三りゅうぞうが『念書ねんしょ』 『復讐ふくしゅうするはにあり』の映画えいがけん問題もんだい さん監督かんとくにわびをれたかたち」『中日新聞ちゅうにちしんぶん』1976ねん3がつ15にち夕刊ゆうかん
  16. ^ 伝説でんせつ映画えいがプロデューサー日下部くさかべ五朗ごろうかす 有名ゆうめい女優じょゆうたちのられざる素顔すがお」『週刊しゅうかん現代げんだい』2010ねん1がつ23にちごう、p.66
  17. ^ 立松たてまつ和平わへい映画えいが主義しゅぎしゃ 深作ふかさく欣二きんじ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2003ねん、p.155
  18. ^ キネマ旬報きねまじゅんぽう臨時りんじ増刊ぞうかん 映画えいが監督かんとく深作ふかさく欣二きんじ軌跡きせきキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、2003ねん、p.100
  19. ^ 隆三りゅうぞう隆三りゅうぞうのページ 勤労きんろうにいそしむ日々ひび」『うわさ真相しんそう』1983ねん10がつごう、p.120
  20. ^ 「まるでむすめひとりに婿むこさんにん隆三りゅうぞう作品さくひん映画えいが』での困惑こんわくぶり」『週刊しゅうかんポスト』1976ねん3がつ12にちごう
  21. ^ 深夜しんやの"団交だんこう"で念書ねんしょまででた隆三りゅうぞう、"作品さくひん映画えいが争奪そうだつ"の核心かくしんメモ公開こうかい」『週刊しゅうかんポスト』1976ねん3がつ26にちごう
  22. ^ 「クロスロード 映画えいがけんにあり」『週刊しゅうかん小説しょうせつ』1976ねん3がつ12にちごう
  23. ^ 「『映画えいが』にヨワかった直木賞なおきしょう作家さっかの"誤算ごさん"」『週刊しゅうかんサンケイ』1976ねん3がつ18にちごう
  24. ^ 「『復讐ふくしゅうするはにあり』の映画えいがけんをめぐる騒動そうどう」『流動りゅうどう』1976ねん5がつごう
  25. ^ 筒井つつい康隆やすたか腹立はらだ半分はんぶん日記にっき角川かどかわ文庫ぶんこ、1982ねん、p.106
  26. ^ はた正憲まさのり『ムツゴロウの本音ほんね文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1993ねん、p.92
  27. ^ そう特集とくしゅう菅原すがわら文太ぶんた-反骨はんこつ肖像しょうぞう- /【討議とうぎ】ヒーローの虚像きょぞう実像じつぞう(1976ねん菅原すがわら文太ぶんた川本かわもと三郎さぶろう」『現代げんだい思想しそう』2015ねん4がつ臨時りんじ増刊ぞうかんごう青土おうづちしゃ、39ぺーじISBN 978-4-7917-1298-4 
  28. ^ 小沼おぬままさる『わが人生じんせいわが日活にっかつロマンポルノ』国書刊行会こくしょかんこうかい、2012ねん、pp.257-259

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]