えき STATION

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えき STATION
よしまつすず烏丸からすませつこ)がはたら増毛ましけえきまえふうまち食堂しょくどう
監督かんとく 降旗ふるはた康男やすお
脚本きゃくほん 倉本くらもとさとし
製作せいさく 田中たなか寿一ひさいち
出演しゅつえんしゃ 高倉たかくらけん
ばいしょう千恵子ちえこ
音楽おんがく 宇崎竜童うざきりゅうどう
撮影さつえい 木村きむら大作だいさく
編集へんしゅう 小川おがわ信夫しのぶ
製作せいさく会社かいしゃ 東宝とうほう映画えいが
配給はいきゅう 東宝とうほう
公開こうかい 1981ねん11月7にち
上映じょうえい時間じかん 132ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
配給はいきゅう収入しゅうにゅう 12おく3400まんえん[1]
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えき STATION』(えき ステーション)は、1981ねん公開こうかいされた降旗ふるはた康男やすお監督かんとく日本にっぽん映画えいが主演しゅえん高倉たかくらけん

概要がいよう[編集へんしゅう]

北海道ほっかいどう増毛ましけまち雄冬岬おふゆみさき札幌さっぽろなどを舞台ぶたいに、様々さまざま人間にんげん模様もようえがした名作めいさくである。げきちゅう八代やしろ亜紀あき代表だいひょうきょく舟唄ふなうた」が印象いんしょうてき使用しようされていることでもられている[2]

あらすじ[編集へんしゅう]

【1968ねん1がつ 直子なおこ

その警察官けいさつかんえいゆきつづ銭函ぜにばこえきホームで、つま直子なおこと、4さいになる息子むすこだかわかれをげた。離婚りこん承諾しょうだくした直子なおこは、うごした汽車きしゃなかで、えいわらって敬礼けいれいするが、そのにはなみだあふれていた。苛酷かこく仕事しごとと、オリンピック射撃しゃげき選手せんしゅえらばれ合宿がっしゅく生活せいかつつづいていたことも原因げんいんであった。傷心しょうしんをひきずるなか、ある検問けんもんなかえい上司じょうし相馬そうまえい目前もくぜん連続れんぞく警察官けいさつかん射殺しゃさつはん指名しめい22ごう”・森岡もりおかしげる射殺しゃさつされた。中川なかがわ警視けいしの「おまえには日本人にっぽんじんすべての期待きたいがかかっている」との言葉ことばに、犯人はんにん追跡ついせきしたい英次えいじねがいはききいれられなかった。テレビが東京とうきょうオリンピックマラソン競技きょうぎさん円谷つぶらや幸吉こうきち自殺じさつほうじていた。「これ以上いじょうはしれない……」えいにその気持きもちいたいほどわかった。

【1976ねん6がつ すず

えいいもうと冬子どんこが、あいする義二よしじとではなく、伯父おじすすめた見合みあ相手あいてである北見きたみ枝幸えさしおとこ結婚けっこんした。えいは、いもうとしんにとまどいをおぼえ、義二よしじ結婚式けっこんしきよるれた。そのころ英次えいじはオリンピック強化きょうかコーチのかたわら、あかいミニスカートのおんなだけをねらとおっていた。増毛ましけ駅前えきまえふうさむらい食堂しょくどうはたら吉松よしまつすずあに五郎ごろう犯人はんにんとしてかんだ。すず尾行びこうするえいのもとへ、突然とつぜんコーチ解任かいにんらせがとどいた。スパルタ訓練くんれんえられなくなった選手せんしゅたちの造反ぞうはんによるものだった。すずはチンピラの雪夫ゆきおすが、かれ好意こういせていた。しかし、雪夫ゆきおにとって、すず欲望よくぼうのハケロでしかなく、えい警察官けいさつかんると協力きょうりょくもうた。雪夫ゆきお結婚けっこん口実こうじつにすず口説くどいた。すずは、刑事けいじたちのみにづいていながらも、あいする雪夫ゆきおあにわせたく、五郎ごろう潜伏せんぷくするまち案内あんないした。そして、えいまえよし松五郎まつごろうあらわれたときかくれていた警官けいかんたいり、あたりにはすず悲鳴ひめいがこだました。

【1979ねん12月 桐子きりこ

えいのもとに旭川あさひかわ刑務所けいむしょよし松五郎まつごろうから、けい執行しっこうしらせる手紙てがみとどいた。4ねんあいだれをつづけていたえいへの感謝かんしゃ手紙てがみでもあった。えい正月しょうがつ帰省きせいのため、ふゆへの連絡れんらくせん増毛ましけえきりた。えい警察官けいさつかんする決意けついかためていた。ふうまち食堂しょくどうでは相変あいかわらず、すずはたらいていた。雪夫ゆきお結婚けっこんしたらしく、つまれてすずまえとおぎてく。ひとろう墓参ぼさんをしたあと、連絡れんらくせん欠航けっこう所在無しょざいな英次えいじは、れもまったさんじゅうにちだというのにまだあか提灯ぢょうちんともちいさな居酒屋いざかや桐子きりこ」にはいった。女手おんなでひとつでりする桐子きりこみせだが、きゃくもいない。テレビでは八代やしろ亜紀あきの「舟唄ふなうた」がながれている。「このうたきなの、わたし」と桐子きりこしわぶいた。自分じぶんおなじく孤独こどくかげ背負せお桐子きりこに、いつしかかれる英次えいじ大晦日おおみそか二人ふたり留萌るもい映画えいがかんで、香港ほんこん映画えいがMr.Boo!ミスター・ブーた。かたってある二人ふたりむすばれるのに時間じかんはかからなかった。えいは、初詣はつもうでみちかげ桐子きりこつめる一人ひとりおとこづく。えいふゆかえりついたのは、元旦がんたんおわろうとしているころだった。そこで、13ねんぶりに電話でんわをかけて直子なおここえいた。池袋いけぶくろのバーでホステスをしているという。ふゆかえり、桐子きりこは、札幌さっぽろかええい見送みおくりにていた。そのとき、“指名しめい22ごう”のタレみがあり、英次えいじ増毛ましけもどった。手配てはい写真しゃしんと、桐子きりこつめていたおとこかおえいあたまなかでダブる。桐子きりこのアパートにむと、そこには22ごう森岡もりおかひそんでいた。あわててかくっていた拳銃けんじゅう銃口じゅうこうける森岡もりおかだったが、えい拳銃けんじゅう射殺しゃさつされた。警察けいさつ通報つうほうしながらも森岡もりおかをかくまっていた桐子きりこ札幌さっぽろもどまええい桐子きりこみせたずねた。えいない態度たいどで「舟唄ふなうた」にききい彼女かのじょかおなみだながれている。えいしのばせていた辞職じしょくねがいやぶり、えきのストーブにくべると、深川ふかがわきの列車れっしゃった。おな列車れっしゃには札幌さっぽろはたらことになったというすず姿すがたもあった[3]

スタッフ[編集へんしゅう]

出演しゅつえん[編集へんしゅう]

主人公しゅじんこう[編集へんしゅう]

えい親族しんぞく[編集へんしゅう]

ふゆ人々ひとびと[編集へんしゅう]

増毛ましけ人々ひとびと[編集へんしゅう]

警察けいさつ関係かんけいしゃ[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

製作せいさく[編集へんしゅう]

企画きかく[編集へんしゅう]

TBSテレビドラマあにき』や東映とうえいふゆはな』で高倉たかくらしたしくなった倉本くらもとさとしは、高倉たかくら誕生たんじょうプレゼントに『駅舎えきしゃ』というタイトルのシナリオをプレゼントした[2]高倉たかくらいそがしい倉本くらもと自分じぶんのためにホンをいてくれたことに感激かんげきし、高倉たかくらみずか東宝とうほう松岡まつおかいさお社長しゃちょうにシナリオをみ、松岡まつおかはシナリオをみ、映画えいが承諾しょうだくした[2]。なぜ東宝とうほうんだかといえば、このとき、高倉たかくら東宝とうほうから「森谷もりたに司郎しろう監督かんとくで『海峡かいきょう』をやらないか」と打診だしんけていたためで、倉本くらもとから誕生たんじょうプレゼントとしてもらった『駅舎えきしゃ』のほうさきにやりたいとかんがえた[2]

脚本きゃくほん[編集へんしゅう]

倉本くらもとはさらに脚本きゃくほんめ、1981ねん2がつまつ田中たなか寿一ひさいちプロデューサー完成かんせい稿こうわたした[2]映画えいが脚本きゃくほん通常つうじょう200ぺーじ程度ていどだが、倉本くらもと脚本きゃくほんは450ぺーじあった。テレビドラマなら26ほんつくれなくもないりょう[2]倉本くらもとはホンをいじらせないことで有名ゆうめいだったから、映画えいがなら4時間じかん以上いじょうとなるため、削除さくじょ作業さぎょう必要ひつようとなる。『ふゆはな』で降旗ふるはた康男やすお東大とうだい後輩こうはい倉本くらもとおさえたことから、田中たなかプロデューサーの降旗ふるはたとで倉本くらもと脚本きゃくほんを2あいだすこしの脚色きゃくしょく作業さぎょうおこなった(ノンクレジット)[2]

キャスティング[編集へんしゅう]

柳田やなぎだ桐子きりこやく田中たなかプロデューサーはばいしょう千恵子ちえこ最初さいしょからイメージしたが[2]降旗ふるはたは『ふゆはな』でかったばいしょう美津子みつこ脚本きゃくほんってき、出演しゅつえん交渉こうしょうしたら、しばらくして「おねえちゃんがホンをんで『わたし、これでしょうるから、どうしてもわって』とってるの。だからおねえちゃんにして」とわれた[2]。それでばいしょう千恵子ちえこったが、つやっぽいばいしょう美津子みつこくらべたら、白髪はくはつじりで「大丈夫だいじょうぶかな…」と不安ふあんかんじた。ばいしょう千恵子ちえこがあまりに熱心ねっしんなので、ばいしょう美津子みつこに「みっちゃん、本当ほんとうにおねえさんにゆずっていいの?」と確認かくにんった。しかし松竹しょうちく俳優はいゆう行政ぎょうせい実権じっけんにぎ梅津うめづ松竹しょうちく専務せんむが「ばいしょう千恵子ちえこ絶対ぜったい出演しゅつえんさせない」と東宝とうほうへのしを拒否きょひ[2]。こののちばいしょう千恵子ちえこ出演しゅつえんめてから5ヵ月かげつ経過けいかし、ばいしょう千恵子ちえこにこだわっていたら、クランクイン延期えんきかんがえられる事態じたいおちいったが、ばいしょう千恵子ちえこ大谷おおや隆三りゅうぞう松竹しょうちく社長しゃちょうに「『えき STATION』にさせてくれななら、わたし、松竹しょうちくめます」と直談判じかだんぱんってて、出演しゅつえんがようやくまった。撮影さつえいのテストで初対面しょたいめん以来いらいばいしょう千恵子ちえこった降旗ふるはたは、「こんなきれいなひとだったのか…」とおどろいたという[2]

また吉松よしまつすずやくは、倉本くらもとから田中たなかに「大竹おおたけしのぶにしてくれ」とリクエストされていた[2]。しかしデビュー当時とうじだいたけならともかく、当時とうじ大竹おおたけ吉松よしまつすずのような田舎いなか人間にんげんイメージはいし、もうちょっと土臭つちくさ女優じょゆうきたいとかんがえた[2]田中たなかは『四季しき奈津子なつこ』で奈津子なつこえんじた烏丸からすませつこがピッタリと直感ちょっかんし、倉本くらもと説得せっとくした。

出演しゅつえんしゃおおくが高倉たかくら共演きょうえん出来できるならとオファーを快諾かいだくして出演しゅつえんした[2]根津ねづ甚八じんぱちはセリフがないやくでも快諾かいだくした。宇崎竜童うざきりゅうどうほんさくバイクるシーンが必要ひつようとなり、免許めんきょって以降いこう、バイクいた。高倉たかくらははやく出演しゅつえんする北林きたばやしたにさかえは、地方ちほうロケがあるとかなら内緒ないしょ現場げんばちかくの老人ろうじんホーム慰問いもんすることで業界ぎょうかいでは有名ゆうめいだった[2]。これがスタッフあいだ話題わだいとなり、高倉たかくら号令ごうれいけ、老人ろうじんホームに慰問いもんった。高倉たかくら普段ふだんサインをしないが、このはお年寄としよりにサインをせがまれて気軽きがるにサインにおうじた[2]。ところが翌日よくじつ製作せいさく担当たんとうしゃ高倉たかくらのサインいちまいにつき、1,000えんかね徴収ちょうしゅうしていたことが高倉たかくらみみはいってしまった[2]よるになって高倉たかくら田中たなかに「タクシーをんでください」とたのみ、高倉たかくらは「札幌さっぽろグランドホテルまでってください」とげた。田中たなか事前じぜんしゅんふじひろししげるばれて「けんはね、時々ときどき仕事しごとあいだけちゃうんだ。けたほうがいい」とかされていたため、「これかあ」とすぐに直感ちょっかんし、高倉たかくら東京とうきょうかえるつもりだと判断はんだんした[2]留萌るもいから札幌さっぽろまで3あいだ、すぐにタクシーで高倉たかくらい、札幌さっぽろグランドホテルで高倉たかくらったがやはり高倉たかくら様子ようすがおかしい。高倉たかくら機嫌きげんはなかなかなおらず。結局けっきょく高倉たかくら説得せっとくに3にちかかり、ようやく高倉たかくらから「老人ろうじんホームのひとたちからあつめたおかねは、すぐにかえしてください」と言葉ことばし、田中たなかはすぐに留萌るもいのスタッフに電話でんわし、これを確認かくにんしたうえで、ようやく気持きもちもおさまり、留萌るもい撮影さつえい現場げんばもどった[2]高倉たかくら迷惑めいわくをかけたことをみなあやまった。高倉たかくらばいしょうにもあたまげたら、ばいしょうが「けんさんね、東映とうえいさんはどうからないけど、こういうこと、松竹しょうちくではしょっちゅうあるわよ」とった[2]。すると高倉たかくらは「東映とうえいではないですよ」とうと、ばいしょうが「松竹しょうちくではあるのよ」「いやそれはないでしょ」などと口論こうろんになった。数日すうじつよる今度こんどばいしょうがいなくなってまたまた大騒おおさわぎになった[2]高倉たかくらふくめ、スタッフ総出そうで真冬まふゆ留萌るもいまちさがまわり、ふゆ留萌るもいではめるのがはやく、こまてた。すると高倉たかくらえき廊下ろうかわきもったゆきなか出来できちいさな空間くうかんさむさをしのいでいたばいしょうつけた[2]ばいしょうはせっかく自分じぶんが「にすることない」とってあげたのに、高倉たかくら無下むげにしたことにハラをてたもので、可愛かわいげのある高倉たかくらへの愛情あいじょう表現ひょうげんだった[2]。このいちけんけに高倉たかくらばいしょうかれていったとされる[2]。このため、高倉たかくらばいしょうなかさかんに芸能げいのうワイドショーげられ、週刊しゅうかん記者きしゃ芸能げいのうレポーターがロケ現場げんばけ、撮影さつえい中断ちゅうだんすることもあった[2]高倉たかくら撮影さつえいちゅう会見かいけんで、これにこたえ「自分じぶん決意けついするまえにマスコミに先取さきどりされてしまったことが心外しんがいなんです。今後こんごにんなかがどういうふうすすんでいくのか、わたしにはまったくかりません。二人ふたりなかのよい友達ともだちなんです」とこたえた。こののち、マスメディアが高倉たかくらばいしょう自宅じたく連日れんじつ大勢おおぜいんだため、二人ふたりはほとんどえなくなり、3ねん熱愛ねつあい終焉しゅうえんしたとされる[2]以降いこう高倉たかくらはマスメディアに自分じぶんかんする恋愛れんあい記事きじ掲載けいさいされると相手あいて女性じょせいとの連絡れんらくをすぐにつようになった[2]

撮影さつえい[編集へんしゅう]

撮影さつえい降旗ふるはた仲沢なかざわ半次郎はんじろう推薦すいせんしたが、田中たなか高倉たかくらが『八甲田山はっこうださん』での木村きむら大作だいさくのカメラをたかい、木村きむら抜擢ばってきした[2]ほんさく以降いこう高倉たかくら降旗ふるはた木村きむらのコンビがながつづいた。1980ねん12月24にちクランクイン[4]倉本くらもと脚本きゃくほんにはいちいち「クローズアップ」とか「アップ」とか撮影さつえい指示しじまでんであり、木村きむら激怒げきどし、「これはどういう意味いみだ。こんなことをくなら、おれがいる必要ひつようないじゃないか」と倉本くらもと直接ちょくせつ抗議こうぎしたら、倉本くらもとは「これはテレビのカメラマンよういた。テレビはいまだに信用しんようできないから」とった[2]

1981ねん1がつから2がつまつまで北海道ほっかいどう留萌るもい拠点きょてんに、ロケたい当地とうち宿やどり、撮影さつえい留萌るもいからくるまやく20ぶん増毛ましけまちおもおこなわれた[5]居酒屋いざかや桐子きりこ」は通称つうしょうよん丁目ちょうめ」とばれる留萌るもいがい一角いっかく居酒屋いざかやつく撮影さつえいされた[2]高倉たかくらばいしょう出会であいで「舟唄ふなうた」をバックにしたちょうまわのシーンで、ばいしょうのセリフ「ススキノおんなたちは、れから正月しょうがつにかけて自殺じさつものおおる…」は、倉本くらもとがススキノであそんでいたころに、おんなから仕入しいれたネタ[2]翌日よくじつ大晦日おおみそかよるに「桐子きりこ」でにんむシーンは、実際じっさいに1980ねん大晦日おおみそかだい31かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせんをテレビでながしながら、テストなし、セリフはすべアドリブ撮影さつえいされた。こののちにんがにむすばれて、「おおきなこえ…」「樺太からふとまで…」のやりりは、高倉たかくら映画えいがではめずらしく爆笑ばくしょうシーンだが[2]高倉たかくらばいしょう失礼しつれいではないかとにして、降旗ふるはた説得せっとくに10ふんかかった。結局けっきょく、「樺太からふとまで…」のセリフは、どうろくおこなわず、アフレコおこなった[2]

1981ねん7がつにも北海道ほっかいどうロケがあった[2][6]

幸福こうふく黄色きいろいハンカチ』で共演きょうえん以来いらい高倉たかくら交友こうゆう関係かんけいにある武田たけだ鉄矢てつやが1シーン出演しゅつえんしており、よし松五郎まつごろう根津ねづ)の死刑しけい執行しっこう吉松よしまつ本人ほんにんからの手紙てがみったさんじょうが、故郷こきょうもど車中しゃちゅうで、「ねむりこんださんじょうによりかかられ、迷惑めいわくそうな表情ひょうじょうをするが、やがて一緒いっしょ寝込ねこんでしまう乗客じょうきゃく」をえんじている。その高倉たかくら武田たけだ原作げんさく主演しゅえん映画えいが刑事けいじ物語ものがたり』(1982ねんキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ)に友情ゆうじょう出演しゅつえん(ノンクレジット)。ラストちかくの1シーンのみ登場とうじょうし、転任てんにんまった片山かたやま刑事けいじ武田たけだ)とわりに配属はいぞくされる刑事けいじやくで、役名やくめいは「三上みかみ英次えいじ」。衣装いしょう小道具こどうぐふくめて、ほんさくオマージュである。また、だい2さく刑事けいじ物語ものがたり2 りんごの』に特別とくべつ出演しゅつえんしているばいしょう千恵子ちえこ登場とうじょうシーンもほんさくのオマージュである。

宣伝せんでん[編集へんしゅう]

田中たなかプロデューサーは倉本くらもとのタイトル『駅舎えきしゃ』に違和感いわかんがあった[2]舞台ぶたいとなるぜにはこ砂川すながわ増毛ましけに『駅舎えきしゃ』とタイトルにかかわったのもかるが、全国ぜんこくかんじがかず、「おとこだまってサッポロビール」のキャッチコピー有名ゆうめい秋山あきやまあきら映画えいがようのタイトルをたのんだ[2]秋山あきやまが『えき STATION』とタイトルを考案こうあんし、木村きむらは『駅舎えきしゃ』のほうがいいとおもったが、東宝とうほう宣伝せんでんが「『駅舎えきしゃ』というタイトルだと、きゃくない。『えき STATION』にしよう。これできゃくりが2おく、3おくえんちがう」とわれ、田中たなかたちは、もやもやしたものがのこったが、2おく、3おくえんちがうとわれたら、それをひっくりかえせるような決定的けっていてき反論はんろんかばず、『えき STATION』に改題かいだい決定けっていした[2]。1980ねん9がつ降旗ふるはたは、有楽町ゆうらくちょう東宝とうほう本社ほんしゃ松岡まつおか社長しゃちょう挨拶あいさつったら、松岡まつおかから「6おくえんれてくれたらいい。気楽きらくにやってください」とわれた[2]降旗ふるはた当時とうじはフリーだったが東映とうえいそだちのため、近所きんじょにある銀座ぎんざ東映とうえい本社ほんしゃ岡田おかだしげる社長しゃちょうにも挨拶あいさつったら、『仕掛しかけじん梅安ばいあん』の監督かんとくたのまれた[2]問答もんどうすえ、『えき STATION』の撮影さつえいがあるからムリとことわったが、そのままエレベーターでいちかいりていたらよかったが、階段かいだんを1かいりて7かい企画きかくかおしたら、酒盛さかもりをやっていて一緒いっしょに1あいだぐらいんだ。降旗ふるはた東映とうえい監督かんとくでは「ひがし降旗ふるはた西にし山下やました耕作こうさく」とばれた酒豪しゅごう[2]。するとまた岡田おかだ社長しゃちょう社長しゃちょうしつもどされ、岡田おかだから無理むりやりこのとし12がつクリスマスイブクランクインまっていたほんさく本来ほんらい準備じゅんびくわだてなければいけない期間きかんに『仕掛しかけじん梅安ばいあん』の撮影さつえいをさせられた[2]降旗ふるはたは『えき STATION』のスタッフとの顔合かおあわせも出来できず、ロケハンにもまった参加さんか出来できず、ロケハンは田中たなかプロデューサーと木村きむら高倉たかくらの3にんでやり、撮影さつえい準備じゅんび木村きむらがほとんどやった[2]

公開こうかいわせて、当時とうじ国鉄こくてつが10日間にちかん日本にっぽん一周いっしゅうするイベント列車れっしゃえき STATIONごう」を1981ねん8がつ21にち東京とうきょうはつから30にち上野うえの運行うんこうした[7]

えきSTATIONごう編成へんせい
大阪おおさか
東京とうきょう
号車ごうしゃ 電源でんげんしゃ 1 2 3 4 5 6 7 8 9
客車きゃくしゃ形式けいしき カヤ21
7
ナハネ20
343
ナハネ20
339
ナハネ20
337
ナハネ20
336
ナハネ20
335
ナハネフ23
14
ナハネ20
334
ナハネ20
333
ナハネフ22
21
機関きかんしゃ EF65-1093、EF58-100、ED76-68、EF81-114、EF80-18、その牽引けんいん区間くかん不明ふめい

エピソード[編集へんしゅう]

  • 1981ねんなつにも北海道ほっかいどうロケがあり[6]、ここで田中たなかプロデューサーと烏丸からすませつこがしたしいなかになり[6]のち結婚けっこんしている[6]
  • 高倉たかくら海外かいがい俳優はいゆうではすで一般いっぱんてきだった歩合ぶあい契約けいやく(プロフィット、基本給きほんきゅう映画えいがはいおさむなん%かをもらう)を日本にっぽん俳優はいゆう唯一ゆいいつ実行じっこうしており[2][8]倉本くらもとにもすすめ、倉本くらもともその契約けいやく変更へんこうしたため、当初とうしょ脚本きゃくほんりょう提示ていじは800まんえんだったが、映画えいがだいヒットで2,600まんえんふところはいったという[2]

作品さくひん評価ひょうか[編集へんしゅう]

興行こうぎょう成績せいせき[編集へんしゅう]

松岡まつおか東宝とうほう社長しゃちょうは6おくえんぐらいでいいとはなし、東宝とうほうもあまり期待きたいしていなかったが、予想よそうばいにあたる13おくえんだいヒット[2]

作品さくひんひょう[編集へんしゅう]

ほんさくだい5かい日本にっぽんアカデミーしょうでも主要しゅよう部門ぶもんおおくを受賞じゅしょうした[9][10]宇崎竜童うざきりゅうどう助演じょえん男優だんゆうしょうにノミネートされ(優秀ゆうしゅうしょう)、最優秀さいゆうしゅう音楽おんがくしょう受賞じゅしょうした[9]現役げんえきのロックミュージシャンが俳優はいゆう部門ぶもんしょうにノミネートされることはそれまでなかったため[10]当時とうじ映画えいがじんにとってはあまり面白おもしろいものでなく[10]丹波たんば哲郎てつろう宇崎うざきを"素人しろうと"ばわりして物議ぶつぎかもした[10]。また授賞じゅしょうしきでテレビ放映ほうえいまえ音楽おんがくしょう発表はっぴょうがあり、宇崎うざきが『遠雷えんらい』で音楽おんがくしょうにノミネートされた井上いのうえ堯之ならんですわっていたら、プレゼンターが井上いのうえ堯之の「タカユキ」をめず[10]音楽おんがくしょうのち最優秀さいゆうしゅう助演じょえん男優だんゆうしょう発表はっぴょうがあり、これにもノミネートされていた宇崎うざきが、グルッと一巡いちじゅんしてふたたせきこうとしたら、岡田おかだしげる日本にっぽんアカデミーしょう実行じっこう委員いいんちょうから、「おまえ、またてきたんかい!」とわれたという[10]宇崎うざきは「いままでの映画えいがかいささえてひとたちのえらさはみとめるが、しんまずしすぎる」などと批判ひはんしている[10]

週刊文春しゅうかんぶんしゅん「シネマチャート」邦画ほうが歴代れきだい(1977-2017ねん)ベストテンだい10[11]。(☆☆☆…満点まんてん批評ひひょう公開こうかいのもの)[11]

ソフト発売はつばい履歴りれき[編集へんしゅう]

発売はつばい レーベル 規格きかく 規格きかく品番ひんばん 備考びこう
TOHO VIDEO VHS TG-5276S
TOHO VIDEO LD TLL-2312
2005ねん1がつ21にち 東宝とうほう DVD TDV-15003D
2012ねん8がつ22にち 東宝とうほう Blu-ray TBR-22332D
2015ねん2がつ18にち 東宝とうほう DVD TDV-25099D 東宝とうほうDVD名作めいさくセレクション

サウンドトラック[編集へんしゅう]

  • えき STATION オリジナル・サウンドトラック(2023ねん4がつ19にち/CINEMA-KAN Label/規格きかく番号ばんごうCINK-105)

映画えいがのエンジニアがマスターテープからリマスタリングをおこなっている。使用しよう音源おんげん収録しゅうろく

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン85かいぜん 1924-2011』キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃキネマ旬報きねまじゅんぽうムック〉、2012ねん5がつ、400ぺーじISBN 978-4873767550 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as 大下おおした英治えいじ高倉たかくらけん背中せなか 監督かんとく降旗ふるはた康男やすおのこしたおとこ姿すがた朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2017ねん、30–89ぺーじISBN 978-4-02-251417-2 
  3. ^ えき/STATION”. Movie Walker. 2014ねん6がつ14にち閲覧えつらん
  4. ^ 映画えいが仕掛しかけじん梅安ばいあん監督かんとく 降旗ふるはた康男やすおインタビュー」『時代じだいげきマガジンvol.14』2006ねん2がつ20日はつか辰巳たつみ出版しゅっぱん、54-55ぺーじ 
  5. ^ 洋画ようがファンのための邦画ほうがコーナー TOPICS」『SCREEN』1981ねん5がつごう近代映画社きんだいえいがしゃ、251ぺーじ 
  6. ^ a b c d 週刊しゅうかん朝日あさひ (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ) (1982ねん1がつ29にちごう): 126. 
  7. ^ 20けいえきstationごう(EF65 1000、EF80)”. うさピョンのマルてつ回顧かいころく (2007ねん4がつ27にち). 2014ねん6がつ18にち閲覧えつらん[リンク]
  8. ^ 「This Week オフステージ 『チャッカリけんさん』」『週刊文春しゅうかんぶんしゅん』1977ねん12月15ごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、23ぺーじ 
  9. ^ a b 日本にっぽんアカデミーしょう公式こうしきサイ ト受賞じゅしょう結果けっか一覧いちらん だいかい
  10. ^ a b c d e f g こうたいら哲郎てつろうはなし映画えいがではじまった PART1 なんへん晶文社しょうぶんしゃ、1984ねん8がつ、103–104ぺーじぺーじ 
  11. ^ a b c d e 週刊文春しゅうかんぶんしゅん へん週刊文春しゅうかんぶんしゅん「シネマチャート」ぜん記録きろく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん新書しんしょ1169〉、2018ねん、3–4,22–26,222ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]