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芥川龍之介賞 - Wikipedia コンテンツにスキップ

芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけしょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
芥川賞あくたがわしょうから転送てんそう
芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけしょう
受賞じゅしょう対象たいしょうかく新聞しんぶん雑誌ざっし同人どうじん雑誌ざっしふくむ)に発表はっぴょうされた純文学じゅんぶんがく短編たんぺん無名むめいもしくは新進しんしん作家さっか
会場かいじょう東京とうきょうかいだて帝国ていこくホテル
くに日本の旗 日本にっぽん
主催しゅさい日本文学振興会にほんぶんがくしんこうかい事実じじつじょう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃとの共催きょうさい
初回しょかい1935ねん上半期かみはんき
最新さいしんかい2024ねん上半期かみはんき
最新さいしん受賞じゅしょうしゃ朝比奈あさひなあき松永まつながK三蔵さんぞう
公式こうしきサイト公式こうしきサイト

芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけしょう(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称つうしょう芥川賞あくたがわしょうあくたがわしょうは、芸術げいじゅつせいまえたいちへん短編たんぺんあるいは中編ちゅうへん作品さくひんあたえられる文学ぶんがくしょうである。文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう社内しゃない日本文学振興会にほんぶんがくしんこうかいによって選考せんこうおこなわれ、しょう授与じゅよされる。掌編しょうへん小説しょうせつには授与じゅよされたことがない。

概要がいよう

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大正たいしょう時代じだい代表だいひょうする小説しょうせつ一人ひとり芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ業績ぎょうせき記念きねんして、友人ゆうじんであった菊池きくちひろし1935ねん直木なおき三十五さんじゅうごしょう直木賞なおきしょう)とともに創設そうせつ以降いこうねん2かい発表はっぴょうされる。だい世界せかい大戦たいせんなか1945ねんから一時いちじ中断ちゅうだんしたが1949ねん復活ふっかつした。新人しんじん作家さっかによる発表はっぴょうみの短編たんぺん中編ちゅうへん作品さくひん対象たいしょうとなり、選考せんこう委員いいん合議ごうぎによって受賞じゅしょうさく決定けっていされる。受賞じゅしょうしゃには、正賞せいしょうとして懐中時計かいちゅうどけい副賞ふくしょうとして100まんえん授与じゅよされ、受賞じゅしょうさくは『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』に掲載けいさいされる[1]

現在げんざい選考せんこう委員いいんは、小川おがわ洋子ようこ奥泉おくいずみひかり川上かわかみ弘美ひろみ島田しまだ雅彦まさひこ平野ひらの啓一郎けいいちろう松浦まつうら寿ことぶきあきら山田やまだ詠美えいみ吉田よしだ修一しゅういち川上かわかみ映子えいこの9めい(2024ねん上半期かみはんきから)。選考せんこうかいは、料亭りょうてい新喜楽しんきらく』の1かいおこなわれる(直木賞なおきしょう選考せんこうかいは2かい)。受賞じゅしょうしゃ記者きしゃ会見かいけんと、その翌月よくげつ授賞じゅしょうしきは、なが東京とうきょうかいだておこなわれていたが、同館どうかんえにともない、現在げんざい帝国ていこくホテルおこなわれている。

成立せいりつ

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1934ねん菊池きくちひろしは『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』4がつごう直木なおき三十五さんじゅうご追悼ついとうごう)に掲載けいさいされた連載れんさいコラム「はなしくずかご」にてこのとしの2がつ死去しきょした直木なおき三十五さんじゅうご1927ねん死去しきょした芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけかんした新人しんじんしょう構想こうそうを「まださだまってはいない」としつつあきらかにした。1924ねん菊池きくちが『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』を創刊そうかんして以来いらい芥川あくたがわ毎号まいごう巻頭かんとうに「侏儒しゅじゅ言葉ことば」を掲載けいさい直木なおきもまた文壇ぶんだんゴシップをせるなどして『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』の発展はってんおおきく寄与きよしておりりょうしょう設立せつりつ菊池きくちのこれらの友人ゆうじんたいするおもいにはしはっしている。また『文学ぶんがくかい』の編集へんしゅうしゃであった川崎かわさき竹一たけいち回想かいそうによれば、1934ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ発行はっこうしていた『文藝ぶんげい通信つうしん』において川崎かわさきゴンクールしょうノーベルしょうなど海外かいがい文学ぶんがくしょう紹介しょうかいしたついでに日本にっぽんでも権威けんいのある文学ぶんがくしょう設立せつりつするべきだといた文章ぶんしょう菊池きくちんだことも動機どうきとなっている[2]。このとき菊池きくち川崎かわさき文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう社内しゃないですぐに準備じゅんび委員いいんかいおよび選考せんこう委員いいんかいつくるよう要請ようせいし、川崎かわさき永井ながい龍男たつおらによって準備じゅんびすすめられた。同年どうねんちゅう、『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1935ねん1がつごうにおいて「芥川あくたがわ直木賞なおきしょう宣言せんげん」が発表はっぴょうされ正式せいしきりょうしょう設立せつりつされた。 設立せつりつ当時とうじから正賞せいしょう賞牌しょうはい)として記念きねん時計とけいおくられるとされており、副賞ふくしょうは500えんであった[3]芥川賞あくたがわしょう選考せんこう委員いいん芥川あくたがわ親交しんこうがあり、また文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうともかかわりのふか作家さっかとして川端かわばた康成やすなり佐藤さとう春夫はるお山本やまもと有三ゆうぞう瀧井たきい孝作こうさくら11めいがあたることになった。

芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょういまでこそジャーナリズムにおおきくげられるしょうとなっているが設立せつりつ当初とうしょ菊池きくちかんがえたほどには耳目じもくあつめず、1935ねんの「はなしくずかご」で菊池きくちは「新聞しんぶんなどは、もっとおおきくあつかってくれてもいいとおもう」と不平ふへいをこぼしている[4]1954ねん受賞じゅしょうした吉行よしゆき淳之介じゅんのすけは、自身じしん受賞じゅしょう当時とうじ芥川賞あくたがわしょうについて「社会しゃかいてき話題わだいにはならず、受賞じゅしょうしゃがにわかにいそがしくなることはなかった」とべており[5]1955ねん受賞じゅしょうした遠藤えんどう周作しゅうさくも、当時とうじは「ショウではなくてほんとにしょうだった」と話題わだいせいひくさをいいあらわしている[6]遠藤えんどうによれば、授賞じゅしょうしき新聞しんぶん関係かんけい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう社内しゃない人間にんげんが10にんほどあつまるだけのごく小規模しょうきぼなものだったという。転機てんきとなったのは1956ねん石原いしはら慎太郎しんたろう太陽たいようぶし」の受賞じゅしょうである[注釈ちゅうしゃく 1]作品さくひんのセンセーショナルな内容ないよう学生がくせい作家さっかであったことなどからおおきな話題わだいび、受賞じゅしょうさくがベストセラーとなっただけでなく「太陽たいようぞく」という新語しんごまれ石原いしはら髪型かみがた真似まねた「慎太郎しんたろうカット」が流行りゅうこうするなど「慎太郎しんたろうブーム」とばれる社会しゃかい現象げんしょうこした[5]。これ以降いこう芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょうはジャーナリズムにおおきくげられるしょうとなり1957ねん下半期しもはんき開高かいこうけん1958ねん上半期かみはんき大江おおえ健三郎けんざぶろう受賞じゅしょうしたころには新聞しんぶんしゃだけでなくテレビ、ラジオきょくからも取材しゅざいせ、また新作しんさく掲載けいさいけんをめぐって雑誌ざっししゃあらそうほどになっていた[7]今日きょうにおいても話題わだいせいたかさはわらずとく受賞じゅしょうしゃ学生がくせい作家さっかであるような場合ばあいにはジャーナリズムにおおきくげられ、受賞じゅしょうさくはしばしばベストセラー[8]となっている。

選考せんこう過程かてい

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上半期かみはんきには前年ぜんねんの12月からそのとしの5がつ下半期しもはんきには6がつから11月のあいだ発表はっぴょうされた作品さくひん対象たいしょうとする。候補こうほさく絞込しぼりこみは日本文学振興会にほんぶんがくしんこうかいから委託いたくされるかたちで、文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう社員しゃいん20めい構成こうせいされる選考せんこうスタッフによっておこなわれる。選考せんこうスタッフは5にんずつ4つのはんわかかくはん10日とおかに1かいほどのペースで毎回まいかい3、4さくずつ作品さくひんてられる。スタッフは作品さくひんみ、はん会議かいぎでそのはん推薦すいせんする作品さくひんえらぶ。それからかくはん推薦すいせん作品さくひんられてほん会議かいぎおこないさらに作品さくひんしぼむ。このはん会議かいぎほん会議かいぎが6~7かいずつけい12~14かいかえされ、最終さいしゅうてき候補こうほさく5、6さく決定けっていする。はん会議かいぎほん会議かいぎともにメンバーはかく作品さくひんに○、△、×による採点さいてんをあらかじめおこな会議かいぎのぞむ。

最終さいしゅう候補こうほさく決定けっていした時点じてん候補者こうほしゃ受賞じゅしょう意志いしがあるか確認かくにんおこない、最終さいしゅう候補こうほさく発表はっぴょうする。選考せんこうかい上半期かみはんきは7がつ中旬ちゅうじゅん下半期しもはんきは1がつ中旬ちゅうじゅん築地つきじ料亭りょうてい新喜楽しんきらく1かい座敷ざしきおこなわれる。選考せんこうかい司会しかいは『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう編集へんしゅうちょうつとめる。選考せんこう委員いいんはやはりあらかじめ候補こうほさくを○、△、×[9]による採点さいてん評価ひょうかしておき、かく委員いいん評価ひょうか披露ひろうしたうえ審議しんぎおこなわれる[注釈ちゅうしゃく 2]

選考せんこう基準きじゅん

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新人しんじん」の基準きじゅん

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芥川賞あくたがわしょう対象たいしょうとなる作家さっかを「無名むめいあるいは新人しんじん作家さっか」としており、とく初期しょきには「その作家さっか新人しんじんえるかどうか」が選考せんこう委員いいんあいだでしばしば議論ぎろんとなった。戦中せんちゅうから戦後せんごにかけて芥川賞あくたがわしょうが4年間ねんかん中断ちゅうだんしていた時期じき野間のまひろし中村なかむら真一郎しんいちろう椎名しいな麟三りんぞう梅崎うめさき春生はるお武田たけだ泰淳たいじゅん三島みしま由紀夫ゆきおら「戦後せんご」とばれる作家さっかたちが登場とうじょうして注目ちゅうもくびたが1949ねん芥川賞あくたがわしょう復活ふっかつかれらは新人しんじんではないとなされて候補こうほがることさえなかった。また島木しまき健作けんさく田宮たみや虎彦とらひこきむいたる寿ことぶき後述こうじゅつする井上いのうえ光晴みつはるのように候補こうほがっても「無名むめいとはいえない」という理由りゆう選考せんこうからはずされることもしばしばあった。だい23かい(1950ねん上半期かみはんき)に田宮たみや候補こうほとなったとき、坂口さかぐち安吾あんごは「芥川賞あくたがわしょう復活ふっかつときに、三島みしまくんまではすでに既成きせい作家さっかみとめて授賞じゅしょうしない、というのが既定きてい方針ほうしんであったが、田宮たみやくん授賞じゅしょうするとなると、三島みしまくんはむろんのこと、梅崎うめさきくんでも武田たけだくんでも(中略ちゅうりゃく)かくわたしも、候補こうほれてもらわなければならない」とべて反対はんたいしている。他方たほうだい5かい1937ねん上半期かみはんき)に受賞じゅしょうした尾崎おざき一雄かずお受賞じゅしょうすでに新人しんじんとはえないキャリアをっていたが、「一般いっぱんてきにはうずもれている」(瀧井たきい孝作こうさく)となされて受賞じゅしょういたっている[10]だい38かい(1957ねん下半期しもはんき)に開高かいこうけんきそって僅差きんさ落選らくせんした大江おおえ健三郎けんざぶろうはその半年はんとしあいだにも次々つぎつぎ話題わだいさく発表はっぴょうし、つづだい39かい(1958ねん上半期かみはんき)でも候補こうほとなったが作品さくひんのレベルではぐんいていたにもかかわらず新人しんじんといえるかどうかが議論ぎろんまととなった[11]現在げんざいでは、芥川賞あくたがわしょう原稿げんこう用紙ようし300まい以内いない小説しょうせつというくく以外いがいでは、説明せつめいのできないしょうになってきている。

作品さくひんなが

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芥川賞あくたがわしょう短編たんぺん中編ちゅうへん作品さくひん対象たいしょうとしておりながさに明確めいかく規定きていがあるわけではないが、おおむ原稿げんこう用紙ようし100まいから200まい程度ていど作品さくひん候補こうほえらばれている。だい1かい受賞じゅしょうしゃでありその選考せんこう委員いいんつとめた石川いしかわ達三たつぞう対象たいしょうとなる作品さくひんながさについて「せいぜいひゃくじゅうまいまでの短編たんぺん」であるという見解けんかいしめしたことがあるが、だい51かい1964ねん上半期かみはんき受賞じゅしょう柴田しばたしょう「されどわれらが日々ひび―」は150まい大幅おおはばえる280まい作品さくひんであった[12]だい50かい1963ねん下半期しもはんき芥川賞あくたがわしょう井上いのうえ光晴みつはるが「れ」で候補こうほがったときは、すでに無名むめい作家さっかでないじょう作品さくひんながすぎるという理由りゆう選考せんこうからはずされたが、選考せんこう委員いいん石川いしかわあつしは「いずれの理由りゆう納得なっとくできない」といかりを表明ひょうめいしている[7]。また国際こくさいてきにも評価ひょうかたか村上むらかみ春樹はるき芥川賞あくたがわしょうはおろか直木賞なおきしょうすら受賞じゅしょうしていないが村上むらかみ場合ばあい中篇ちゅうへん作品さくひんで2候補こうほ[13]となったのち英語えいごほかに翻訳ほんやくされてまれることを想定そうていした世界せかい文学ぶんがく移行いこうしたことが理由りゆうひとつにげられる。現在げんざい芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょう作品さくひん国民こくみんのために翻訳ほんやくされてまれることは、けっしておおくはない。

なお「作品さくひんみじかさ」はほんになったときにみやすくまた値段ねだんやすくなることから、直木賞なおきしょうくらべて作品さくひんげがびやすい理由りゆうとなっている[14]。300まい未満みまん連作れんさくではないもの、なんらかの雑誌ざっし掲載けいさいみのものならノミネートの対象たいしょうになる[注釈ちゅうしゃく 3]

直木賞なおきしょうとの境界きょうかい

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純文学じゅんぶんがく新人しんじんしょうとしてもうけられている芥川賞あくたがわしょうであるが、大衆たいしゅう文学ぶんがくしょうとしてもうけられている直木なおき三十五さんじゅうごしょう直木賞なおきしょう)との境界きょうかいがあいまいになることがしばしばある。だい6かい1937ねん下半期しもはんき直木賞なおきしょうには純文学じゅんぶんがく作家さっかとしてをなしていた井伏いぶせ鱒二ますじ受賞じゅしょうしており、直木賞なおきしょう選考せんこう委員いいん久米くめ正雄まさおは「純文学じゅんぶんがくとしてかれたものだが、このくらいの名文めいぶん当然とうぜん大衆たいしゅう文学ぶんがく世界せかいまれなくてはならぬ」とべている[15]。のちに社会しゃかい推理すいり作家さっかとして一般いっぱん認知にんちされた松本まつもと清張せいちょうは、「あるる『小倉こくら日記にっきつて」で1952ねん下半期しもはんき芥川賞あくたがわしょうっており、これはもともと直木賞なおきしょう候補こうほとなっていたものだったが候補こうほさく下読したよみをしていた永井ながい龍男たつおのアドヴァイスによって芥川賞あくたがわしょうまわされたものであった[16]だい46かい1961ねん下半期しもはんき)のりょうしょうでは宇能おおとり一郎いちろう芥川賞あくたがわしょうを、伊藤いとう桂一けいいち直木賞なおきしょうをとり、このとき文芸ぶんげい評論ひょうろん平野ひらのけんは「芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょうぎゃくになったのではないかと錯覚さっかくする」とべている[17]同様どうよう事態じたいだい111かい1998ねん上半期かみはんき)にもこり、このときには私小説ししょうせつ作家さっかであった車谷くるまだに長吉ちょうきち直木賞なおきしょうを、大衆たいしゅう文学ぶんがく作家さっかとみなされていた花村はなむらまんがつ、ハードボイルド調ちょう作品さくひんいていた藤沢ふじさわあまね芥川賞あくたがわしょうったことで話題わだいとなった。

芥川賞あくたがわしょうくらべて直木賞なおきしょうのほうはある程度ていどキャリアのある作家さっか対象たいしょうとしていることもあり、だん一雄かずお柴田しばた錬三郎れんざぶろう山田やまだ詠美えいみ角田つのだ光代みつよ島本しまもとせいなどのように芥川賞あくたがわしょう候補こうほになりながらその直木賞なおきしょう受賞じゅしょうした作家さっかもいる。1950年代ねんだいまでは柴田しばた錬三郎れんざぶろう「デスマスク」(だい25かい・1951ねん上半期かみはんき)、北川きたがわそうひらたみずかべ」(だい39かい・1958ねん上半期かみはんき)など芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょう両方りょうほう候補こうほがった作品さくひんもあった。

批判ひはん

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しょうのジャーナリスティックな性格せいかくはしばしば批判ひはんまととなるが、設立せつりつしゃ菊池きくち自身じしんは「むろん芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょうなどは、半分はんぶん雑誌ざっし宣伝せんでんにやっているのだ。そのことは最初さいしょから明言めいげんしてある」(「はなしくずかご」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1935ねん10がつごう)とはっきりと商業しょうぎょうてき性格せいかくがあることをみとめている。菊池きくちしょう公的こうてき性格せいかくあたえるため1937ねん財団ざいだん法人ほうじん日本文学振興会にほんぶんがくしんこうかい創設そうせつりょうしょうをまかなわせるようになったがどうかい財源ざいげん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう寄付きふっており、役員やくいんおも文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう関係かんけいしゃ就任しゅうにんしている(事務所じむしょ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう社内しゃない[18]。また設立せつりつ当初とうしょには選考せんこう委員いいんえらばれている作家さっかかたよりが批判ひはんされたが、これにたい菊池きくちは「芥川賞あくたがわしょう委員いいんへんしているという非難ひなんをしたひとがあるが、あれはあれでいいとおもう。芥川賞あくたがわしょうはある意味いみでは、芥川あくたがわ遺風いふうをどことなくほのめかすような、すくなくともじゅん芸術げいじゅつふう作品さくひんあたえられるのが当然とうぜんである(中略ちゅうりゃくプロレタリア文学ぶんがく傑作けっさくのためには、小林こばやし多喜二たきじしょうといったものが創設そうせつされてよいのである」(「はなしくずかご」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』1935ねん2がつごう)という見方みかたしめしている。

文学ぶんがくしょうたいする批判ひはんほん文学ぶんがくしょうメッタり!』をあらわした大森おおもりのぞむ豊崎とよさき由美ゆみ現在げんざい芥川賞あくたがわしょう問題もんだいてんとして選考せんこう委員いいんが「終身しゅうしんせい」でかおぶれがほとんどわらないこと、選考せんこう委員いいんかならずしも現在げんざい文学ぶんがくつうじている人物じんぶつではないこと、選考せんこう委員いいんかずおおすぎて無難ぶなん作品さくひん受賞じゅしょうしがちなこと、受賞じゅしょうさく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう雑誌ざっしである『文学ぶんがくかい掲載けいさい作品さくひんかたよりがちであることなどをげている。また豊崎とよさき改善かいぜんさくとして選考せんこう委員いいん任期にんきを4ねん程度ていどさだめ、選考せんこう委員いいんの3ぶんの1は文芸ぶんげい評論ひょうろんにするなどのあんしめしている[19]

最年少さいねんしょう最年長さいねんちょう受賞じゅしょう記録きろく

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とく若年じゃくねんでの受賞じゅしょう学生がくせい作家さっか受賞じゅしょうおおきな話題わだいとなる[20]

最年少さいねんしょう受賞じゅしょう記録きろく
順位じゅんい 受賞じゅしょうしゃめい 受賞じゅしょう時期じき 受賞じゅしょう年齢ねんれい
1 綿めんりさ 2003ねん下半期しもはんきだい130かい
19さい11かげつ
2 金原かなはらひとみ 2003ねん下半期しもはんきだい130かい
20さい05かげつ
3 宇佐見うさみりん 2020ねん下半期しもはんきだい164かい
21さい08かげつ
4 丸山まるやま健二けんじ 1966ねん下半期しもはんきだい56かい
23さい00かげつ
5 石原いしはら慎太郎しんたろう 1955ねん下半期しもはんきだい34かい
23さい03かげつ
6 大江おおえ健三郎けんざぶろう 1958ねん上半期かみはんきだい39かい
23さい05かげつ
7 平野ひらの啓一郎けいいちろう 1998ねん下半期しもはんきだい120かい
23さい06かげつ
8 青山あおやま七恵ななえ 2006ねん下半期しもはんきだい136かい
23さい11かげつ
9 村上むらかみりゅう 1976ねん上半期かみはんきだい75かい
24さい04かげつ
最年長さいねんちょう受賞じゅしょう記録きろく
順位じゅんい 受賞じゅしょうしゃめい 受賞じゅしょうねん 受賞じゅしょう年齢ねんれい
1 黒田くろだ夏子なつこ 2012ねん下半期しもはんきだい148かい0
75さい09かげつ
2 若竹わかたけ千佐子ちさこ 2017ねん下半期しもはんきだい158かい0
63さい0
3 もりあつし 1973ねん下半期しもはんきだい70かい0
61さい11かげつ
4 三浦みうらきよしひろし 1987ねん下半期しもはんきだい98かい0
57さい04かげつ
5 米谷こめたにふみ 1985ねん下半期しもはんきだい94かい0
55さい02かげつ

21世紀せいき発表はっぴょうされたベストセラーから

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綿めんりさりたい背中せなか』(だい130かい2003ねん下半期しもはんき) 127まん単行本たんこうぼんのみ)
綿めんは17さいのときに『インストール』でデビュー、芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょうは19さいで20さい金原かなはらひとみと同時どうじ受賞じゅしょう最年少さいねんしょう記録きろく大幅おおはば更新こうしん単行本たんこうぼんは『かぎりなく透明とうめいちかいブルー[21]以来いらい28ねんぶりのミリオンセラーとなった。受賞じゅしょうさく周囲しゅういめない女子高じょしこうせいとアイドルおたくの男子だんし生徒せいととの交流こうりゅうえがいたもので、唯一ゆいいつ反対はんたいした三浦みうら哲郎てつろうのぞ選考せんこう委員いいんひょうをすべてあつ受賞じゅしょう決定けってい。「高校こうこうにおける異物いぶつ排除はいじょのメカニズムを正確せいかく技倆ぎりょう感心かんしんした」(池澤いけざわ夏樹なつき)、「作者さくしゃ作者さくしゃ周辺しゅうへん流行りゅうこうしているだろうコミックてき観念かんねんあそびにあしをとられず、小説しょうせつのカタチであたらしさを主張しゅちょうするにもおちいらず、あくまで人間にんげん人間にんげん関係かんけいえがこうとしている」(高樹たかぎのぶ)とかく選考せんこう委員いいんからこう評価ひょうかけた。綿めん受賞じゅしょう前後ぜんごしてこの時期じき10 - 20だい前半ぜんはん作家さっかのデビューが相次あいつぎ、若年じゃくねんそう活躍かつやく印象いんしょうけた[22]
又吉またよし直樹なおき火花ひばな』(だい153かい2015ねん上半期かみはんき) 229まん単行本たんこうぼんのみ)
羽田はた圭介けいすけ「スクラップ・アンド・ビルド」と同時どうじ受賞じゅしょうれない芸人げいにん主人公しゅじんこう天才てんさいはだ先輩せんぱい芸人げいにんとの交友こうゆうえがいた作品さくひん。おわら芸人げいにんでははつ受賞じゅしょう単行本たんこうぼん累計るいけい発行はっこう部数ぶすうは229まん突破とっぱし、芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょう作品さくひんとして歴代れきだい1単行たんこう本部ほんぶすうとなる[23][24]
村田むらた沙耶さやコンビニ人間にんげん』(だい155かい2016ねん上半期かみはんき) 102まん単行本たんこうぼんのみ)
2016ねん発売はつばいから年内ねんないに50まんえてからもじわじわとつづけ、2ねんて100まん到達とうたつした[25]

太宰だざいおさむ落選らくせんについて

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だい1かい芥川賞あくたがわしょうでは、デビューしたばかりの太宰だざいおさむ候補こうほとなった。太宰だざい当時とうじパビナール中毒ちゅうどくしょうなやんでおり薬品やくひんだい借金しゃっきんもあったため賞金しょうきん500えん熱望ねつぼうしていたが、結局けっきょく受賞じゅしょうはしなかった。このとき選考せんこう委員いいん一人ひとりだった川端かわばた康成やすなり太宰だざいについて、「たとへば、佐藤さとう春夫はるおは『逆行ぎゃっこう』よりも『道化どうけはな』によつて作者さくしゃ太宰だざい代表だいひょうしたき意見いけんであつた。(中略ちゅうりゃく)そこにざいはなられ、なるほど『道化どうけはな』のほう作者さくしゃ生活せいかつ文学ぶんがくかんいちはいもりつてゐるが、私見しけんによれば、作者さくしゃ目下もっか生活せいかついやくもありて、才能さいのう素直すなおはっせざるうらみがあつた」とったことにたい[26]太宰だざいは『文藝ぶんげい通信つうしん』において以下いかのように反論はんろんした[注釈ちゅうしゃく 4]

事実じじつわたし憤怒ふんぬえた。小鳥ことりい、舞踏ぶとうるのがそんなに立派りっぱ生活せいかつなのか。す。さうもおもえつた。だい悪党あくとうだとおもえつた。そのうちに、ふとあなたのわたしたいするネルリのやうな、ひねこびたあつ強烈きょうれつ愛情あいじょうをずつと奥底おくそこかんじた。ちがふ。ちがふとくびをふつたが、その、つめたよそおうてはゐるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱さくらんしたあなたの愛情あいじょうわたしのからだをかつかつとほてらせた。さうして、それはあなたにはなんにもづかぬことだ。(中略ちゅうりゃく)ただわたし残念ざんねんなのだ。川端かわばた康成やすなりのさりげなささうにそうつて、そうれなかつたうそが、残念ざんねんでならないのだ。 — 太宰だざいおさむ川端かわばた康成やすなりへ」[28]

この批判ひはんたい川端かわばた翌月よくげつに、「太宰だざい委員いいんかい様子ようすなどらぬというかもれない。らないならば尚更なおさらもない妄想もうそう邪推じゃすいはせぬがよい」と反駁はんばくして、石川いしかわ達三たつぞうの『蒼氓そうぼう』と太宰だざいさくひょう接近せっきんしていたわけではなく、太宰だざいつよものもなかったとし[29]、「さうわかれば、わたしが〈世間せけん〉や〈金銭きんせん関係かんけい〉のために、選評せんぴょう故意こい太宰だざい悪口わるぐちいたといふ、太宰だざい邪推じゃすいれざるをないだらう」とべている[29]が、プライベートにかんして人格じんかく攻撃こうげきをしたこと自体じたいのち謝罪しゃざいした。その太宰だざいだい3かい選考せんこうまえに、川端かわばたてに、「何卒なにとぞわたしあずかへてください」という書簡しょかんしたり[30]選考せんこう委員いいんのなかで太宰だざい理解りかいしゃであった佐藤さとう春夫はるおなん嘆願たんがん手紙てがみおくだい2かいだい3かい候補こうほになるべく『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』に新作しんさくおくつづけたが、前回ぜんかい候補こうほがった作家さっか投票とうひょう2ひょう以下いか作家さっか候補こうほとしないという当時とうじ条件じょうけんのために太宰だざい候補こうほとならなかった[27]川端かわばたはこの規定きてい決定けってい欠席けっせきしており、「このふたつの条件じょうけんには、多少たしょう問題もんだいがある」としている[31][27]佐藤さとうはこれらの経緯けいいを『小説しょうせつ 芥川賞あくたがわしょう』とだいしてくわしくえがいている。また、このとき太宰だざいは『新潮しんちょう』の誌面しめんで、あたかも佐藤さとうとのあいだ受賞じゅしょう密約みつやくわしていたかのようなアピールをしているが、佐藤さとうには即座そくざ否定ひていされている。

受賞じゅしょうしゃ一覧いちらん

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1930年代ねんだい

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1940年代ねんだい

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だい世界せかい大戦たいせんのため中断ちゅうだん

1950年代ねんだい

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1960年代ねんだい

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1970年代ねんだい

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1980年代ねんだい

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1990年代ねんだい

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2000年代ねんだい

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2010年代ねんだい

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2020年代ねんだい

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歴代れきだい選考せんこう委員いいん

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各回かくかいごとの出席しゅっせきじょうきょうなどは別項べっこう芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょうしゃ一覧いちらん参照さんしょう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、石原いしはら述懐じゅっかいによると受賞じゅしょう直後ちょくごは「いえ記者きしゃたちがしかけているなどということもなかった」といい(小説しょうせつおとうと』の記述きじゅつより)、授賞じゅしょうしき記念きねん写真しゃしんも15にん程度ていどのスタッフと撮影さつえいする(『人生じんせいとき人々ひとびと』に授賞じゅしょうしきやそのさい会食かいしょく写真しゃしん掲載けいさいされている)など前述ぜんじゅつ吉行よしゆき遠藤えんどう大差たいさない状況じょうきょうであった。
  2. ^ 『ダカーポ』2006ねん7がつ19にちごう掲載けいさいの「芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょうはこうして決定けっていする」による。日本文学振興会にほんぶんがくしんこうかいスタッフ菊池きくち夏樹なつきへの取材しゅざいもとづく。
  3. ^ 短編たんぺんいつつまとめたまいじょうおう太郎たろう作品さくひん過去かこにノミネートされたが、審査しんさ棄権きけんした人物じんぶつがいたことや、そのなかひとつがノミネートの対象たいしょうになるとった人物じんぶつがいたことから、連作れんさく短編たんぺんでの受賞じゅしょう規定きていがいかんがえられている。
  4. ^ この背景はいけいには、太宰だざいおさむ友人ゆうじんだん一雄かずおが『道化どうけはな』をしていて、川端かわばたならきっと理解りかいしてくれるとはなしていたため、審査しんさ過程かていなにらぬちから圧力あつりょく作用さようしたと太宰だざいかんがえ、「お互ひに下手へたうそはつかないことにしよう」とい、川端かわばたや、その背後はいごにいるひとたちを批判ひはんしているとされる[27]

出典しゅってん

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  1. ^ かくしょう紹介しょうかい. 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本文学振興会にほんぶんがくしんこうかい. https://bungakushinko.or.jp/award/ 2018ねん1がつ18にち閲覧えつらん 
  2. ^ 梅田うめだ康夫やすお芥川賞あくたがわしょう裏話うらばなし」『そう1977ねん3がつごう初出しょしゅつ、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』124-125ぺーじ
  3. ^ だいいちかい無名むめい作家さっか石川いしかわ達三たつぞうの「あおいねむり」『中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう』1935ねん昭和しょうわ10ねん)8がつ11にち
  4. ^ 永井ながい龍男たつお佐佐木ささき茂作しげさく芥川賞あくたがわしょうまれるまで(対談たいだん)」『文学ぶんがくかい1959ねん3がつごう初出しょしゅつ、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』10-11ぺーじ
  5. ^ a b 梅田うめだ康夫やすお芥川賞あくたがわしょう裏話うらばなし」、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』143ぺーじ
  6. ^ 遠藤えんどう周作しゅうさく開高かいこうけん対談たいだん 芥川賞あくたがわしょう」『文学ぶんがくかい1963ねん9がつごう初出しょしゅつ、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』158-159ぺーじ
  7. ^ a b 梅田うめだ康夫やすお芥川賞あくたがわしょう裏話うらばなし」、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』146ぺーじ
  8. ^ だいヒットをむのはどっち?”. style.nikkei.com. style.nikkei.com. 2021ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  9. ^ 芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょう」をどれだけっていますか”. toyokeizai.net. 東洋とうよう経済けいざい. 2021ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  10. ^ 梅田うめだ康夫やすお芥川賞あくたがわしょう裏話うらばなし」、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』133ぺーじ
  11. ^ 梅田うめだ康夫やすお芥川賞あくたがわしょう裏話うらばなし」、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』147ぺーじ
  12. ^ 梅田うめだ康夫やすお芥川賞あくたがわしょう裏話うらばなし」、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』149ぺーじ
  13. ^ 「なぜ村上むらかみ春樹はるき芥川賞あくたがわしょうをとれなかったのか?」『ダカーポ』2006ねん7がつ19にちごう、28-29ぺーじ
  14. ^ 「データでみる芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょう」『ダカーポ』2006ねん7がつ19にちごう、18-19ぺーじ
  15. ^ 橋爪はしづめけん芥川賞あくたがわしょう 文壇ぶんだん残酷ざんこく物語ものがたり」『小説しょうせつ新潮しんちょう1964ねん1・2がつごう初出しょしゅつ、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』117-118ぺーじ
  16. ^ 梅田うめだ康夫やすお芥川賞あくたがわしょう裏話うらばなし」、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』140ぺーじ
  17. ^ 梅田うめだ康夫やすお芥川賞あくたがわしょう裏話うらばなし」、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』148ぺーじ
  18. ^ 橋爪はしづめけん芥川賞あくたがわしょう 文壇ぶんだん残酷ざんこく物語ものがたり」、『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』70ぺーじ
  19. ^ 文学ぶんがくしょう大国たいこくニッポン―りょうしょう位置いちは?」『ダカーポ』2006ねん7がつ19にちごう、34-35ぺーじ
  20. ^ 芥川賞あくたがわしょう現役げんえき大学生だいがくせい受賞じゅしょう 芥川あくたがわ直木賞なおきしょう歴代れきだい受賞じゅしょうしゃ出身しゅっしん大学だいがくランキング”. dot.asahi.com. AERA.dot. 2021ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  21. ^ ピース又吉またよし火花ひばな」は出版しゅっぱんかい救世主きゅうせいしゅ”. mainichi.jp. 毎日新聞まいにちしんぶん. 2021ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  22. ^ りたい背中せなか :綿めん りさ|河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ
  23. ^ 又吉またよしさんの「火花ひばな発行はっこう部数ぶすう209まん.NHK NEWS(2015ねん8がつ5にち).2015ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  24. ^ 又吉またよしさん「火花ひばな」20まん増刷ぞうさつ累計るいけい229まん : ライフ : 読売新聞よみうりしんぶん(YOMIURI ONLINE)
  25. ^ 村田むらた沙耶さや『コンビニ人間にんげん』、100まん突破とっぱ
  26. ^ 川端かわばた康成やすなり芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけしょう選評せんぴょうだいいちかい昭和しょうわじゅうねん上半期かみはんき」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1935ねん9がつごう掲載けいさい
  27. ^ a b c 片山かたやま倫太郎りんたろう田村たむら嘉勝よしかつ文豪ぶんごうをめぐるはちにん作家さっかたち」(『別冊べっさつ太陽たいよう 川端かわばた康成やすなり』)(平凡社へいぼんしゃ、2009ねん
  28. ^ 太宰だざいおさむ川端かわばた康成やすなりへ」(文藝ぶんげい通信つうしん 1935ねん10がつごう掲載けいさい
  29. ^ a b 川端かわばた康成やすなり太宰だざいおさむ芥川賞あくたがわしょういて」(文藝ぶんげい通信つうしん 1935ねん11がつごう掲載けいさい
  30. ^ 太宰だざいおさむ川端かわばた康成やすなり書簡しょかん」(昭和しょうわ11ねん6がつ29にちづけ
  31. ^ 川端かわばた康成やすなり芥川賞あくたがわしょう予選よせん」(文學ぶんがくかい 1936ねん9がつごう掲載けいさい
  32. ^ 芥川賞あくたがわしょう松村まつむら栄子えいこ 直木賞なおきしょう 高橋たかはしよし高橋たかはしかつ”. 朝日新聞あさひしんぶん (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ): p. 朝刊ちょうかん 30. (1992ねん1がつ17にち) 
  33. ^ “3よろこかた芥川あくたがわ直木賞なおきしょう授賞じゅしょうしき”. 朝日新聞あさひしんぶん (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ): p. 夕刊ゆうかん 15. (1992ねん2がつ27にち) 
  34. ^ 村上むらかみりゅう芥川あくたがわ選考せんこう委員いいん退任たいにん 6がつ候補こうほさく選考せんこうとは「関係かんけいない」”. デイリースポーツ. (2018ねん7がつ6にち). https://www.daily.co.jp/gossip/2018/07/06/0011420314.shtml 2018ねん7がつ6にち閲覧えつらん 
  35. ^ 作家さっか堀江ほりえ敏幸としゆきさん、芥川賞あくたがわしょう選考せんこう委員いいん退任たいにん 12年間ねんかん担当たんとう. 産経さんけいニュース (産経新聞さんけいしんぶんしゃ). (2024ねん1がつ25にち). https://www.sankei.com/article/20240125-JRL2DOUZTNPFXGYH37NWEAJGQU/ 2024ねん3がつ1にち閲覧えつらん 
  36. ^ 直木賞なおきしょう委員いいん三浦みうらしをんさん 芥川賞あくたがわしょう平野ひらの啓一郎けいいちろうさん”. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). (2020ねん3がつ4にち). https://www.asahi.com/articles/ASN344RL0N34UCVL007.html?iref=comtop_list_nat_n04 2020ねん3がつ4にち閲覧えつらん 
  37. ^ 芥川賞あくたがわしょうしん選考せんこう委員いいん川上かわかみ映子えいこさん 7がつだい171かい選考せんこうかいから参加さんか. 産経さんけいニュース (産経新聞さんけいしんぶんしゃ). (2024ねん3がつ1にち). https://www.sankei.com/article/20240301-7AFFUBZQ4VISHIR6GSJAOHQDGA/ 2024ねん3がつ1にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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選評せんぴょうは『芥川賞あくたがわしょう全集ぜんしゅう』に収録しゅうろくされている。

  • 永井ながい龍男たつおほか『芥川賞あくたがわしょう研究けんきゅう』みき書房しょぼう、1979ねん
  • 永井ながい龍男たつお回想かいそう芥川あくたがわ直木賞なおきしょう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1979ねん
  • 川口かわぐちそくひろし芥川賞あくたがわしょう物語ものがたりバジリコ、2013ねん / 文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2017ねん
  • 芥川賞あくたがわしょう全集ぜんしゅう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1982ねん -
  • 『ダカーポ』2006ねん7がつ19にちごう特集とくしゅう芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょう徹底的てっていてきたのしむ」マガジンハウス
  • 大森おおもりのぞむ豊崎とよさき由美ゆみ文学ぶんがくしょうメッタり!』シリーズ、PARCO出版しゅっぱん、2004ねん-
  • 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう特別とくべつ編集へんしゅう芥川賞あくたがわしょう直木賞なおきしょう150かいぜん記録きろく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2014ねん

関連かんれん項目こうもく

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いずれも公募こうぼ純文学じゅんぶんがく新人しんじんしょう
芥川賞あくたがわしょうになぞらえられるほか業界ぎょうかい新人しんじんしょう
新人しんじん作家さっか登竜門とうりゅうもんとしての知名度ちめいどたかさから、小説しょうせつ以外いがい新人しんじんしょう性質せいしつつものが「○○かい芥川賞あくたがわしょう」と紹介しょうかいされることがある。有名ゆうめい作家さっか輩出はいしゅつしているという部分ぶぶんおもきをかれている呼称こしょうであり、公募こうぼ公募こうぼべつ重視じゅうしされていない。
1997ねんまでつづいた安井賞やすいしょう画壇がだん芥川賞あくたがわしょうばれた。なお芥川あくたがわ作曲さっきょくしょう芥川あくたがわ也寸志やすし記念きねん


日本にっぽん小説しょうせつ一覧いちらん

外部がいぶリンク

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