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侯孝賢ほうしゃおしえん

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 ホウ・シャオシェン
侯孝賢ほうしゃおしえん
侯孝賢
生年月日せいねんがっぴ (1947-04-08) 1947ねん4がつ8にち(77さい
出生しゅっしょう 広東かんとんしょううめけん
国籍こくせき 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん
おも作品さくひん
ふうひつ(フンクイ)の少年しょうねん
ふゆふゆ(トントン)の夏休なつやす
わらわねん往事おうじ なが
恋恋れんれん風塵ふうじん
悲情城市ひじょうじょうし
戯夢ぎむ人生じんせい
好男よしおこうおんな
ミレニアム・マンボ
ひゃくねん恋歌こいうた
黒衣くろご刺客しかく
 
受賞じゅしょう
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい
監督かんとくしょう
2015ねん黒衣くろご刺客しかく
審査しんさいんしょう
1993ねん戯夢ぎむ人生じんせい
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい
きむ獅子しししょう
1989ねん悲情城市ひじょうじょうし
ベルリン国際こくさい映画えいがさい
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう
1986ねんわらわねん往事おうじ なが
東京国際映画祭とうきょうこくさいえいがさい
黒澤くろさわあきらしょう
2005ねん
ロサンゼルス映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう
生涯しょうがい功労賞こうろうしょう
2020ねん
そのしょう
アジア・フィルム・アワード
作品さくひんしょう
2015ねん黒衣くろご刺客しかく
監督かんとくしょう
2015ねん黒衣くろご刺客しかく
テンプレートを表示ひょうじ
侯孝賢ほうしゃおしえん
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ 侯孝賢ほうしゃおしえん
拼音 Hóu Xiàoxián
ラテン Hou Hsiao Hsien
和名わみょう表記ひょうき こう・こうけん
発音はつおん転記てんき ホウ・シャオシェン
テンプレートを表示ひょうじ

ほう たかしけんホウ・シャオシェン1947ねん4がつ8にち - )は台湾たいわんもと映画えいが監督かんとくきゃくけい台湾たいわんそとしょうじん

来歴らいれき

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広東かんとんしょううめけんきゃくけい家族かぞくまれる。公務員こうむいん広東かんとんしょう教育きょういく課長かちょう)だったちちさき台湾たいわんわたり、1さいとき家族かぞく台湾たいわん移住いじゅうはなはちすしんたけからおおとりさんうつり、ここで少年しょうねん時代じだいをすごす。1959ねん父親ちちおやを、1965ねん母親ははおやをなくしたため、高校こうこうころからおとうとたちの面倒めんどう[1]。こうした少年しょうねん時代じだい体験たいけん映画えいがわらわねん往事おうじ なが』でえがかれている。

1965ねん高校こうこう卒業そつぎょうするが、大学だいがく入学にゅうがく試験しけん失敗しっぱいし、高雄たかおらしているうちに兵役へいえきに。1969ねん兵役へいえきをおえ、国立こくりつ芸術げいじゅつせん科学かがくいん入学にゅうがくして、1972ねん卒業そつぎょう電算でんさんのセールスマンをしたのちに、1973ねんこう監督かんとく作品さくひんのスクリプターに。のち、脚本きゃくほん助監督じょかんとく1980ねんに『ステキな彼女かのじょ』で監督かんとくとしてデビュー[1]

監督かんとくとして注目ちゅうもくされたのは1982ねんの『かわながれにくさ青々あおあお』で、台湾たいわん批評ひひょうらに絶賛ぜっさんされた。1983ねんの『ふうひつ(フンクイ)の少年しょうねん』はだい6かいナントさん大陸たいりく映画えいがさいグランプリを受賞じゅしょうし、海外かいがいられるきっかけとなった。1984ねんの『ふゆふゆ(トントン)の夏休なつやす』でもだい7かいナントさん大陸たいりく映画えいがさいグランプリを受賞じゅしょうし、1985ねんの『わらわねん往事おうじ ながれ』ではだい36かいベルリン国際こくさい映画えいがさい国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう受賞じゅしょう。『ふうひつ(フンクイ)の少年しょうねん』『ふゆふゆ(トントン)の夏休なつやすみ』『わらわねん往事おうじ ながれ』に1987ねんの『恋恋れんれん風塵ふうじん』をくわえた4さくを「自伝じでんてき4さく」という。おも1980年代ねんだい中心ちゅうしん脚本きゃくほんねんしんしゅ天文てんもんらとともにおおくの作品さくひん発表はっぴょうし、楊徳あきら(エドワード・ヤン)などとならんで1980年代ねんだい台湾たいわん映画えいがかいしん潮流ちょうりゅうである台湾たいわんニューシネマしんでんかげ)をになった代表だいひょうてき監督かんとく一人ひとりとされ[2]作品さくひんおおくは日本にっぽんでも公開こうかいされている。

1989ねんに、終戦しゅうせん直後ちょくごもとたかしきゅう舞台ぶたいはち事件じけんあつかった『悲情城市ひじょうじょうし』でだい46かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいきむ獅子しししょう受賞じゅしょう内外ないがいから注目ちゅうもくけた。『悲情城市ひじょうじょうし発表はっぴょう当時とうじ台湾たいわんは、1987ねん戒厳かいげんれい解除かいじょからまだあいだもないころであり、はち事件じけんそのものをタブーする雰囲気ふんいきつよかった。このため作品さくひん発表はっぴょう自体じたいあやぶまれたものの、検閲けんえつ無事ぶじ通過つうかしてノーカットで公開こうかいされ、台湾たいわん社会しゃかいおおきな反響はんきょうび、1989ねんきむうますすむ最優秀さいゆうしゅう監督かんとくしょう最優秀さいゆうしゅう主演しゅえん男優だんゆうしょう受賞じゅしょうしている。興行こうぎょうてきにも従来じゅうらい外国がいこく映画えいがされて低迷ていめいしていた台湾たいわん映画えいがなかでは異例いれいだいヒットとなった。1993ねんの『戯夢ぎむ人生じんせい』ではだい46かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい審査しんさいんしょうを、1995ねんの『好男よしおこうおんな』ではきむうますすむ最優秀さいゆうしゅう監督かんとくしょう受賞じゅしょう。この3作品さくひんは「台湾たいわん現代げんだい3さく」とばれる。

2001ねんには香港ほんこんのスター女優じょゆう台湾たいわん出身しゅっしんスー・チー主演しゅえんとした『ミレニアム・マンボ』を監督かんとく。それ以降いこう女性じょせい主人公しゅじんこうえが方向ほうこうったのはスー・チーとの出会であいが決定的けっていてきだったとホウ自身じしんみとめている[3]以後いご2005ねんの『ひゃくねん恋歌こいうた』、2007ねんのオムニバス映画えいがそれぞれのシネマ』のいちへんでんひめおどけいん」、2011ねんのオムニバス映画えいが『10+10』のいちへん黃金おうごんつる」(日本にっぽん公開こうかい)、そして最後さいご作品さくひんとなった2015ねんの『黒衣くろご刺客しかく』と、長編ちょうへん3ほん短編たんぺん2ほんでスー・チーとのコンビさく監督かんとくしている。8ねんぶりの長編ちょうへん映画えいがにして自身じしんはつ時代じだいげきアクションとなった『黒衣くろご刺客しかく』はだい68かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいにて上映じょうえいされ、監督かんとくしょう受賞じゅしょうした。

また小津おつあん二郎じろうへの敬愛けいあいから、2003ねんには小津おつ生誕せいたん100ねん記念きねんした作品さくひんである日本にっぽん映画えいが珈琲こーひーひかり』を一青ひとと浅野あさの忠信ただのぶ主演しゅえん監督かんとくした[4]。ただし小津おつ映画えいがたのは映画えいが監督かんとくになってかなりのこととかたっている。またフランスのアルベール・ラモリス監督かんとくの『あか風船ふうせん』(1956ねん)へのオマージュとして、2007ねんに『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』を監督かんとくした。

2023ねん10月、アルツハイマーびょうわずらい、映画えいが撮影さつえいすることができなくなったと家族かぞく引退いんたい発表はっぴょうした[5]。アルツハイマーびょう診断しんだんされてからも映画えいがへの情熱じょうねつおとろえず、次回じかいさく準備じゅんびつづけていたが、新型しんがたコロナウイルス感染かんせんした後遺症こういしょう影響えいきょうなどで制作せいさくむずかしくなったという[6][7][8]

おも作品さくひん

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監督かんとく映画えいが

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悲情城市ひじょうじょうし』でヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいきん獅子しししょう受賞じゅしょうした侯孝賢ほうしゃおしえん

監督かんとく以外いがい映画えいが

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おも受賞じゅしょうれき

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1984ねん
1985ねん
  • だい7かいナントさん大陸たいりく映画えいがさいきん気球ききゅうしょう(グランプリ) (『ふゆふゆ(トントン)の夏休なつやすみ』)
  • だい31かいアジア太平洋たいへいよう映画えいがさい審査しんさいん特別とくべつしょう (『わらわねん往事おうじ なが』)
  • だい22かいきむうますすむ脚本きゃくほんしょう (『わらわねん往事おうじ ながれ』)
1986ねん
1989ねん
1993ねん
1995ねん
  • だい40かいアジア太平洋たいへいよう映画えいがさい監督かんとくしょう審査しんさいん特別とくべつしょう (『好男よしおこうおんな』)
  • だい33かいきんうますすむ監督かんとくしょう (『好男よしおこうおんな』)
1998ねん
1999ねん
2005ねん
2007ねん
2015ねん
2020ねん

著作ちょさく評伝ひょうでん

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関連かんれん文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b ホウ・シャオシェン”. KINENOTE. 2018ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  2. ^ 特集とくしゅう|ホウ・シャオシェンがかたる、『台北たいぺいストーリー』と台湾たいわんニューシネマ秘話ひわ 「エドワード・ヤンの作品さくひん時代じだいさきぎていた」”. Real Sound (2017ねん5がつ5にち). 2018ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  3. ^ 『ミレニアム・マンボ』音速おんそく徒花あだばなよる破片はへんいかける”. CINEMORE (2024ねん2がつ27にち). 2024ねん3がつ15にち閲覧えつらん
  4. ^ 特集とくしゅう小津おつあん二郎じろう生誕せいたん100ねん記念きねんして、侯孝賢ほうしゃおしえんがオマージュをささげる”. ぴあ映画えいが生活せいかつ (2004ねん9がつ5にち). 2018ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ 台湾たいわん侯孝賢ほうしゃおしえん監督かんとく引退いんたい アルツハイマーびょう診断しんだん”. 共同通信きょうどうつうしん (2023ねん10がつ25にち). 2023ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  6. ^ 台湾たいわん映画えいが監督かんとくホウ・シャオシェンさんが認知にんちしょう 家族かぞく公表こうひょうしずかに見守みまもって」”. 中央ちゅうおうしゃフォーカス台湾たいわん (2023ねん10がつ25にち). 2023ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  7. ^ 悲情城市ひじょうじょうし」「黒衣くろご刺客しかく」の台湾たいわん映画えいが監督かんとく侯孝賢ほうしゃおしえん アルツハイマーびょう引退いんたい”. TBS NEWS DIG Powered by JNN (2023ねん10がつ26にち). 2023ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  8. ^ 台湾たいわん映画えいが巨匠きょしょう侯孝賢ほうしゃおしえん引退いんたい 「非情ひじょう城市じょうし監督かんとく、アルツハイマーびょう公表こうひょう”. 時事通信じじつうしん (2023ねん10がつ26にち). 2023ねん10がつ26にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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