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エミール・クストリッツァ

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エミール・クストリッツァ
Emir Kusturica
Emir Kusturica
2005ねんブリュッセルにて
生年月日せいねんがっぴ (1954-11-24) 1954ねん11月24にち(69さい
出生しゅっしょう ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア サラエヴォ
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく俳優はいゆう音楽家おんがくか
配偶はいぐうしゃ マヤ・クストリッツァ
 
受賞じゅしょう
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい
パルム・ドール
1985ねんパパは、出張しゅっちょうちゅう!
1995ねんアンダーグラウンド
監督かんとくしょう
1989ねんジプシーのとき
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう
1985ねん『パパは、出張しゅっちょうちゅう!』
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい
ぎん獅子しししょう監督かんとくしょう
1998ねんくろねこしろねこ
ぎん獅子しししょう新人しんじんしょう
1981ねん『ドリー・ベルをおぼえている?』
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう
1981ねん『ドリー・ベルをおぼえている?』
ベルリン国際こくさい映画えいがさい
ぎんぐましょう審査しんさいん特別とくべつしょう
1993ねんアリゾナ・ドリーム
セザールしょう
EU(欧州おうしゅう連合れんごう作品さくひんしょう
2004ねんライフ・イズ・ミラクル
そのしょう
備考びこう
だい56かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい 審査しんさ委員いいんちょう(1999ねん)
だい58かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい 審査しんさ委員いいんちょう(2005ねん)
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エミール・クストリッツァEmir Kusturicaセルビア: Емир Кустурица1954ねん11月24にち - )は、きゅうユーゴスラビアサラエヴォげんボスニア・ヘルツェゴビナりょう出身しゅっしん映画えいが監督かんとく音楽家おんがくか俳優はいゆう

クストリッツァ自身じしんサラエボ出身しゅっしんだが、ちちセルビアじんははモスレムじんであり、自身じしんユーゴスラビアじんであるとしょうしている。

カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい最高さいこうしょうパルム・ドールの2受賞じゅしょうをはじめ、世界せかいさんだい映画えいがさいすべてで受賞じゅしょうしている。

来歴らいれき

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1954ねん11月24にち[1][2]世俗せぞくてきムスリム両親りょうしん[よう出典しゅってん]もとまれる。ちちボスニア・ヘルツェゴビナ情報じょうほうしょう職員しょくいん母親ははおや裁判所さいばんしょ事務じむかんという特権とっけん階級かいきゅうであり[3]裕福ゆうふく環境かんきょう幼少ようしょうごす[2]成長せいちょうするにつれロック夢中むちゅうになり、素行そこうわる友人ゆうじんうようになった息子むすこかねた両親りょうしんは、友人ゆうじんのつてでかれチェコ国立こくりつ映画えいが学校がっこうFAMU(プラハ映画えいが芸術げいじゅつ学校がっこう)へ留学りゅうがくさせることをめる[3]

18さいプラハ留学りゅうがくしたクストリッツァはほとんど映画えいが興味きょうみがなかったとわれているが[3]、FAMUで才能さいのう開花かいかさせ、3学年がくねん[1]制作せいさくしたはじめての短編たんぺん映画えいがGuernica(ゲルニカ)」(1978ねん)はカルロヴィ=ヴァリ学生がくせい映画えいがさいでグランプリを受賞じゅしょうした[2]。FAMUではイジー・メンツェル監督かんとく師事しじした[2]卒業そつぎょうサラエヴォもどり、サラエヴォTVでテレビ作品さくひん花嫁はなよめたちがやってる」(1978ねん)の監督かんとく、「タイタニックごうのビュッフェ」(1979ねん)の演出えんしゅつなどを経験けいけんしたのちに[1]はつ長編ちょうへん作品さくひんとなる1981ねんドリー・ベルをおぼえているかい?』でヴェネツィア映画えいがさい新人しんじん監督かんとくしょう受賞じゅしょうつづく85ねんパパは、出張しゅっちょうちゅう!』ではカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルム・ドール、89ねんジプシーのとき』ではおなじくカンヌの監督かんとくしょう受賞じゅしょうおもジプシー視点してんとしたユーモアとシリアスが混在こんざいした独特どくとく作風さくふうで、一躍いちやく国内こくないだけでなくヨーロッパ代表だいひょうする映画えいが監督かんとくへとげた。

また、『パパは、出張しゅっちょうちゅう!』制作せいさくには、当時とうじ新鋭しんえいのパンク・バンドとして国内こくない人気にんきはくしていたネレ・カライリチひきいるZabranjeno pušenjeと出会であい、意気投合いきとうごう。ギタリストとしてバンドのスタジオセッションやコンサートへと参加さんかするようになる。しばらくしてクストリッツァは『ジプシーのとき』の撮影さつえい開始かいしするにともないバンドからはなれるが、かれとネレの友情ゆうじょうはこののちつづいていくことになる。

1990ねんにアメリカに移住いじゅうし、コロンビア大学ころんびあだいがく映画えいが学科がっか講師こうし就任しゅうにんする。このとき生徒せいとからまれたシナリオを脚本きゃくほんとして採用さいようしたはつのアメリカ作品さくひんアリゾナ・ドリーム』を制作せいさくするが、撮影さつえいちゅうボスニア紛争ふんそう勃発ぼっぱつする。この紛争ふんそうにより自宅じたく略奪りゃくだつちち経験けいけんしたクストリッツァは、自分じぶんたちのくにきていることを海外かいがいうったえる必要ひつようがあるとかんじ、『アリゾナ・ドリーム』を完成かんせいさせたすぐのちに『アンダーグラウンド』の制作せいさくりかかる。ユーゴスラビアの50ねんわた紛争ふんそう歴史れきし寓話ぐうわてきえがいたこの作品さくひんは、2度目どめとなるカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルム・ドールをクストリッツァにもたらし、かれ映画えいが監督かんとくとしての地位ちいをより一層いっそう確固かっこたるものにした。

しかし政治せいじてき描写びょうしゃちたこの作品さくひんは、賞賛しょうさん同時どうじ批判ひはんこすことになる。論争ろんそう嫌気いやけしたクストリッツァは「もう映画えいがらない」と引退いんたい表明ひょうめい。この発言はつげんはまもなく撤回てっかいされるが、一連いちれん騒動そうどう以後いごのクストリッツァの作風さくふうおおきな影響えいきょうあたえ、とくつぎさくくろねこしろねこ』ではメッセージせい徹底的てっていてき排除はいじょしたスタイルへと変貌へんぼうした。しかし元々もともとクストリッツァ作品さくひんひとつの特徴とくちょうでもあった陽気ようきさとユーモアを追求ついきゅうしたこの作品さくひんは、『アンダーグラウンド』とはべつ賞賛しょうさんによってむかえられ、ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいでは監督かんとくしょう受賞じゅしょうする。また、この映画えいが撮影さつえいちゅう音楽おんがく提供ていきょうしてもらうためにネレ・カライリチに連絡れんらくしたのがきっかけとなり、クストリッツァはネレのバンドにふたた加入かにゅうする。エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラあらためたこのバンドは、以後いごかれ映画えいが音楽おんがくほとんどを担当たんとうすることになる。

2004ねんには、『アンダーグラウンド』とおなじくユーゴ内戦ないせん舞台ぶたいにしながらも、『くろねこしろねこ』のような楽観らっかんてき作風さくふうすすめた作品さくひんライフ・イズ・ミラクル』を発表はっぴょう。またクストリッツァは、この映画えいが撮影さつえい使用しようしたセルビアにあるちいさなむら景観けいかんり、むらごとりKustendorfという自分じぶんむらつくげる。クストリッツァはそのむら映画えいが学校がっこうやレストランなどを自費じひ建設けんせつし、2008ねんには建設けんせつした映画えいがかん映画えいがさい開催かいさい。2009ねんだい2かいにはジム・ジャームッシュオリバー・ストーンらが参加さんかし、2010ねんだい3かいにはジョニー・デップがオープニング・セレモニーに登場とうじょうするなど、がりをせている。

2005ねんにはカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい審査しんさ委員いいんちょうえらばれ、2007ねんには『ウェディング・ベルをらせ!』でどう映画えいがさいのコンペティション部門ぶもん自身じしん5度目どめ選出せんしゅつ。しかしキャリアはつ映画えいがさい無冠むかんわり、クストリッツァは「これからも映画えいがつづけるけど、コンペにすかはからない」とコメントした。また、同年どうねんには89ねん監督かんとくした『ジプシーのとき』をオペラとしてセルフ・リメイクし、パリ公演こうえん成功せいこうさせている。近年きんねんになってもノー・スモーキング・オーケストラのツアーのかたわら、複数ふくすう新作しんさく映画えいがのプロジェクトをつねつなど、おとろえをらず精力せいりょくてき活動かつどうつづけている。

私生活しせいかつ

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クステンドルフの設立せつりつ

2004ねん『ライフ・イズ・ミラクル』撮影さつえいをきっかけに、撮影さつえい場所ばしょとなったモクラ・ゴラのドゥルヴェングラード地域ちいきまるごとり"クステンドルフ"(ドイツで「クストリッツァのむら」)と名付なづけたむら設立せつりつしている。このむらでは、2008ねん以降いこう毎年まいとしセルビア政府せいふとクストリッツァによって「クステンドルフ国際こくさい映画えいが音楽おんがくさい」が開催かいさいされている[4]

セルビア正教せいきょうへの改宗かいしゅう

2005ねんジョルジェヴダンせいゲオルギウスの)に、モンテネグロヘルツェグ・ノヴィ近郊きんこうのサヴィナ修道院しゅうどういんで、ネマニャ・クストリッツァ(Немања Кустурица)としてセルビア正教会せいきょうかい洗礼せんれいけた。これをボスニアのムスリムとしてのルーツにたいする最終さいしゅうてき裏切うらぎりだとかんがえる批評ひひょうたちにたいして、かれは「わたしちちかみろんもので、自分じぶんのことをいつもセルビアじんだとっていた。わたしたちは250年間ねんかんムスリムだったかもしれないが、それ以前いぜんせい教徒きょうとだったし、しん奥底おくそこではずっとセルビアじんだった。宗教しゅうきょうがそれをえることはできない。わたしたちは、トルコじんからのこるためにムスリムになっただけだ」と反論はんろんしている[5]

プーチン政権せいけんとのかかわり

ロシアプーチン政権せいけんおおやけ支持しじしている[6]

2022ねんにロシア陸軍りくぐん学術がくじゅつ劇場げきじょう監督かんとく就任しゅうにんしたと一部いちぶメディアで報道ほうどうされた。ロシアによるウクライナ侵攻しんこうはじまる3にちまえには「偉大いだい歴史れきし伝統でんとうつこの劇場げきじょうひきいることを、大変たいへん光栄こうえいおもいます」とのコメントがセルビア『ブリック』にげられている[7]

2024ねん4がつクレムリンでプーチン大統領だいとうりょう会談かいだんし、映画えいが製作せいさく資金しきん援助えんじょ依頼いらいしたことが報道ほうどうされた。会談かいだんなかでクストリッツァは、「こんウクライナできていることは、我々われわれにとってのたたかいだ。23まんにんのセルビアじん追放ついほうされたとき、クロアチアでバンデラ主義しゅぎしゃなにこしたのかをてきたわたしたちにとって......。このたとえは、だれにとっても非常ひじょう重要じゅうようだとおもう」とかたった。その、プーチン大統領だいとうりょうは、クストリッツァ監督かんとくのウクライナにたいする評価ひょうか自身じしん状況じょうきょう認識にんしき一致いっちするとべ、クストリッツァを支援しえんすることをあきらかにした[8]

おも作品さくひん

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監督かんとく作品さくひん

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出演しゅつえん作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 「〔プロフィール〕Emir Kusturica エミール・クストリッツァ」『Music Film Zine』だい2かん、VALERIA、2023ねん10がつ、18ぺーじ 
  2. ^ a b c d エミール・クストリッツァ - 人物じんぶつ情報じょうほう関連かんれん映画えいが”. キネマ旬報きねまじゅんぽうWEB. 株式会社かぶしきがいしゃキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ. 2023ねん11月2にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c 関口せきぐち義人よしひと「エミール・クストリッツァとジプシー音楽おんがく(映画えいが)」『Music Film Zine』だい2かん、VALERIA、2023ねん10がつ、10ぺーじ 
  4. ^ エミール・クストリッツァが主催しゅさいするクステンドルフ国際こくさい映画えいが音楽おんがくさいと、かれかんがえる映画えいが未来みらいについて”. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  5. ^ 'I will not cut my film'”. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  6. ^ カンヌをるがす監督かんとくエミール・クストリッツァ:物議ぶつぎかも政治せいじてき立場たちば”. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  7. ^ カンヌをるがす監督かんとくエミール・クストリッツァ:物議ぶつぎかも政治せいじてき立場たちば”. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  8. ^ Serbian director Kusturica begged Putin for money to make his films He plans to make three films based on Russian literature”. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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