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ロマン・ポランスキー

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ロマン・ポランスキー
Roman Polanski
Roman Polanski
2013ねん
本名ほんみょう Rajmund Roman Liebling
生年月日せいねんがっぴ (1933-08-18) 1933ねん8がつ18にち(91さい
出生しゅっしょう フランスの旗 フランス パリ
国籍こくせき フランスの旗 フランス
ポーランドの旗 ポーランド
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん映画えいがプロデューサー俳優はいゆう
ジャンル 映画えいが
配偶はいぐうしゃ Barbara Lass(1959–1962)
シャロン・テート(1968–1969)
エマニュエル・セニエ(1989–)
おも作品さくひん
みずなかのナイフ
反撥はんぱつ
袋小路ふくろこうじ
ローズマリーのあかちゃん
マクベス
チャイナタウン
テス
フランティック
あか航路こうろ
ナインスゲート
戦場せんじょうのピアニスト
オリバー・ツイスト
ゴーストライター
おとなのけんか
毛皮けがわのヴィーナス
オフィサー・アンド・スパイ
受賞じゅしょう
アカデミーしょう
監督かんとくしょう
2002ねん戦場せんじょうのピアニスト
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい
パルム・ドール
2002ねん戦場せんじょうのピアニスト』
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい
ぎん獅子しししょう審査しんさいん大賞たいしょう
2019ねんオフィサー・アンド・スパイ
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう
1962ねんみずなかのナイフ
2019ねん『オフィサー・アンド・スパイ』
栄誉えいよきん獅子しししょう
1993ねん
ベルリン国際こくさい映画えいがさい
きむくましょう
1966ねん袋小路ふくろこうじ
ぎんぐましょう審査しんさいん特別とくべつしょう
1965ねん反撥はんぱつ
ぎんぐましょう監督かんとくしょう
2010ねんゴーストライター
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう
1965ねん反撥はんぱつ
ヨーロッパ映画えいがしょう
作品さくひんしょう
2010ねん『ゴーストライター』
監督かんとくしょう
2010ねん『ゴーストライター』
脚本きゃくほんしょう
2010ねん『ゴーストライター』
世界せかいてき貢献こうけんしょう
1999ねんナインスゲート
生涯しょうがい貢献こうけんしょう
2006ねん
全米ぜんべい映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう
監督かんとくしょう
2002ねん戦場せんじょうのピアニスト』
ロサンゼルス映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう
監督かんとくしょう
1980ねんテス
英国えいこくアカデミーしょう
作品さくひんしょう
2002ねん戦場せんじょうのピアニスト』
監督かんとくしょう
1974ねん『チャイナタウン』
2002ねん戦場せんじょうのピアニスト』
ゴールデングローブしょう
監督かんとくしょう
1974ねん『チャイナタウン』
外国がいこく映画えいがしょう
1980ねん『テス』
ゴヤしょう
ヨーロッパ映画えいがしょう
2002ねん戦場せんじょうのピアニスト』
セザールしょう
監督かんとくしょう
1979ねん『テス』
2002ねん戦場せんじょうのピアニスト』
2010ねん『ゴーストライター』
2014ねん毛皮けがわのヴィーナス
2019ねん『オフィサー・アンド・スパイ』
脚色きゃくしょくしょう
2010ねん『ゴーストライター』
2011ねんおとなのけんか
2019ねん『オフィサー・アンド・スパイ』
日本にっぽんアカデミーしょう
最優秀さいゆうしゅう外国がいこく作品さくひんしょう
2004ねん戦場せんじょうのピアニスト』
そのしょう
備考びこう
だい44かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい 審査しんさ委員いいんちょう(1991ねん
だい53かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい 審査しんさ委員いいんちょう(1996ねん
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ロマン・ポランスキーRoman Polanski1933ねん8がつ18にち - )は、フランス出身しゅっしん映画えいが監督かんとくである。

経歴けいれき 

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ユダヤ教徒きょうとポーランドじん父親ちちおやと、カトリック教徒きょうとロシアまれのポーランドじん母親ははおやあいだに、パリ11まれる[1][2][3][4]出生しゅっしょう名前なまえはライムント・ロマン・リープリンク(Rajmund Roman Liebling)。3さいのとき一家いっかポーランドクラクフし、そこで幼少ようしょうごした。

だい世界せかい大戦たいせんときは、ドイツがクラクフにつくったユダヤじんゲットーめられた。ゲットーのユダヤじん一斉いっせい強制きょうせい連行れんこうされる直前ちょくぜん父親ちちおやはゲットーの有刺鉄線ゆうしてっせんってあなつくり、ポランスキーはそのあなから脱出だっしゅつ成功せいこうしたが、両親りょうしんはそのまま強制きょうせい収容しゅうようしょへとおくられた。その母親ははおやアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制きょうせい収容しゅうようしょ虐殺ぎゃくさつされた。母親ははおやはこのとき妊娠にんしんしていたとポランスキーは証言しょうげんしている。父親ちちおやはナチスにより採石さいせきじょう強制きょうせい労働ろうどうをさせられていたが、終戦しゅうせんまでのこった。

またポランスキー自身じしんも、ドイツに占領せんりょうされたフランスのヴィシー政権せいけんしたにおける「ユダヤじんり」からのがれるため、各地かくち転々てんてん逃亡とうぼうした。この体験たいけんがポランスキーの作品さくひんふか影響えいきょうあたえることとなった。

俳優はいゆう

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だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつにポーランドへもどり、びた父親ちちおや再会さいかいした。その映画えいが興味きょうみち、ウッチ映画えいが大学だいがくまなんだのち冷戦れいせんした1950年代ねんだいにポーランドで俳優はいゆうとして活動かつどうはじめる。いくつかのポーランド映画えいが出演しゅつえん自由じゆう表現ひょうげん活動かつどうもとめてフランスにうつった。

映画えいが監督かんとく

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1962ねんに『みずなかのナイフ』で長編ちょうへん映画えいが監督かんとくデビューをたす。共産党きょうさんとういちとう独裁どくさい体制たいせいポーランドでは黙殺もくさつされたが、西にしヨーロッパ中心ちゅうしんとした民主みんしゅ国家こっかでは絶賛ぜっさんされ、ポーランド作品さくひんはつアカデミー外国がいこく映画えいがしょうへの出品しゅっぴんおよびノミネートもたした。その評判ひょうばんかれるように1963ねんイギリスわたると、その翌年よくねんに『反撥はんぱつ』でベルリン国際こくさい映画えいがさい審査しんさいん特別とくべつしょう受賞じゅしょうさら翌年よくねんには『袋小路ふくろこうじ』でもおなじくベルリン国際こくさい映画えいがさいでグランプリにあたるきむくましょう受賞じゅしょうし、2ねん連続れんぞくでの受賞じゅしょうとなった。そのさらなる活躍かつやくもとめてアメリカ移住いじゅうし、ハリウッド映画えいがローズマリーのあかちゃん』(1968ねん)を監督かんとく作品さくひんだいヒットし、ポランスキーはハリウッドの寵児ちょうじとなる。

シャロン・テートとの結婚けっこん悲劇ひげき

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イギリスにて製作せいさくしていた『吸血鬼きゅうけつき』に出演しゅつえんした女優じょゆうシャロン・テートと1968ねん結婚けっこんする。しかしよく1969ねん8がつ9にち、テートは友人ゆうじんらとロサンゼルス自宅じたくでパーティーの最中さいちゅうチャールズ・マンソンひきいるカルト教団きょうだんおそわれ惨殺ざんさつされた。当時とうじ、テートはポランスキーのごもっており、妊娠にんしん8ヶ月かげつだった。

ポランスキーはロンドンで映画えいが脚本きゃくほん執筆しっぴつちゅう悲報ひほうけ、急遽きゅうきょアメリカに帰国きこくした。ロバート・エヴァンズ自伝じでん『くたばれ!ハリウッド(原題げんだいThe Kid Stays in the Picture)』によると、当時とうじポランスキーは憔悴しょうすいしており医師いしによる鎮静ちんせいざい投与とうよ必要ひつようだったという。この事件じけんでポランスキーはマスコミからおおくの誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうけた。

しかもこの事件じけん人違ひとちが殺人さつじんであった。事件じけんきた邸宅ていたくは、ポランスキー夫妻ふさいりるまえはミュージシャンのテリー・メルチャー居住きょじゅうしていた。ミュージシャン志望しぼうだったマンソンがメルチャーをたずねたが、プロへのみちつながらず、その逆恨さかうらみが襲撃しゅうげき動機どうきであった。

事件じけん当夜とうやスティーブ・マックイーン、パラマウントの重役じゅうやくだったロバート・エヴァンズ、ポランスキーの格闘技かくとうぎ師匠ししょうであったブルース・リーなどもパーティーにまねかれていたが、かなかったことで惨劇さんげきまぬかれた。

事件じけん復活ふっかつせい犯罪はんざい有罪ゆうざい判決はんけつ 

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テート殺害さつがいつよいショックをけたポランスキーは、アメリカからヨーロッパへもどった。しかし1974ねん、『チャイナタウン』の監督かんとく依頼いらいされ、アメリカに帰国きこく脚本きゃくほんロバート・タウンはげしく対立たいりつしながらも、完成かんせいした映画えいがこう評価ひょうかアカデミー監督かんとくしょうにノミネート。ゴールデングローブしょう 監督かんとくしょう英国えいこくアカデミーしょう 監督かんとくしょう受賞じゅしょうした。

1977ねん撮影さつえい

人気にんき絶頂ぜっちょうだった1977ねんジャック・ニコルソンやしきで、当時とうじ13さい子役こやくモデルに性的せいてき行為こうい強姦ごうかんアナルセックス)をした容疑ようぎ逮捕たいほされる。当初とうしょ容疑ようぎ否認ひにんしていたが、司法しほう取引とりひきによる減刑げんけいえにつみみとめた。これについてはのち無実むじつ主張しゅちょうし「これは冤罪えんざいであり、少女しょうじょとその母親ははおやによる恐喝きょうかつ対象たいしょうになっていた」とべている[5]

有罪ゆうざいみとめたのち、42日間にちかん勾留こうりゅう一旦いったん仮釈放かりしゃくほうされた。その事件じけん担当たんとう裁判官さいばんかん司法しほう取引とりひき拒否きょひし、複数ふくすう児童じどうせい犯罪はんざい懲役ちょうえき50ねんけい可能かのうせいたかいとり、量刑りょうけい公聴こうちょうかい出席しゅっせきせず逃亡とうぼうすることを決意けついした。

ポランスキーは判決はんけつける前日ぜんじつ有効ゆうこうだったパスポートで自宅じたくのあるロンドンきの飛行機ひこうきんで逃亡とうぼうし、翌日よくじつにはフランスへと入国にゅうこくした。以降いこうかれはフランス国民こくみんとしてわたしから保護ほごされており、アメリカへはいち入国にゅうこくしていない。しかし、逃亡とうぼうによってアメリカから国際こくさい指名しめい手配てはいけ、のスイスでの身柄みがら拘束こうそくつながることとなる。

1978ねんにフランスにうつり、市民しみんけん取得しゅとくした。1989ねんには女優じょゆうエマニュエル・セニエ再婚さいこんしている(1993ねん誕生たんじょうした長女ちょうじょモルガン、1998ねん誕生たんじょうした長男ちょうなんエルヴィスはいずれも俳優はいゆうである)。1979ねん作品さくひんテス』で主演しゅえんをつとめたナスターシャ・キンスキーとも性的せいてき関係かんけいむすんでいた[6][7]2010ねん女優じょゆうシャーロット・ルイスが「わたしもロマン・ポランスキーの被害ひがいしゃのひとり。かれは16さいのわたしに最悪さいあく方法ほうほう性的せいてき虐待ぎゃくたいくわえた」と記者きしゃ会見かいけん公表こうひょう監督かんとくのアパートで性的せいてき虐待ぎゃくたいけたことを告発こくはつした。

2017ねん、アーティストのマリアンヌ・バーナードは、10さいときにカリフォルニアの海岸かいがんでポランスキーから全裸ぜんらになるよう強要きょうようされ、みだらなおこないをされたと告発こくはつした。ポランスキーは証言しょうげん内容ないよう全面ぜんめんてき否定ひていした[8]

現在げんざい

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アメリカからの逃亡とうぼうはヨーロッパを活動かつどう拠点きょてんとし、『フランティック』や『あか航路こうろ』『処女しょじょ』『ナインスゲート』など次々つぎつぎ作品さくひん発表はっぴょう2002ねん公開こうかいの『戦場せんじょうのピアニスト』でだい55かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルムドールおよアカデミー監督かんとくしょう受賞じゅしょうした(上記じょうき問題もんだいによる逮捕たいほ収監しゅうかんまぬかれるため、アメリカでおこなわれているアカデミーしょう授賞じゅしょうしきには出席しゅっせきせず)。このオスカー受賞じゅしょう当時とうじ、ポランスキーは69さい7ヶ月かげつであり、どうしょう最年長さいねんちょう受賞じゅしょうしゃとなった(この記録きろくクリント・イーストウッドが74さい受賞じゅしょうした2005ねんやぶられた)。また、自身じしん墓場はかばまでっていきたい作品さくひんに『戦場せんじょうのピアニスト』をげている。

2009ねん9がつ、チューリッヒ映画えいがさいの「生涯しょうがい功労賞こうろうしょう授与じゅよしき出席しゅっせきするためスイスに滞在たいざいちゅう前述ぜんじゅつ少女しょうじょへの淫行いんこうでスイス司法しほう当局とうきょく身柄みがら拘束こうそくされた[9]。アメリカは身柄みがらわたしを要求ようきゅうしたが、スイスはこれを拒否きょひ2010ねん7がつ12にち釈放しゃくほう決定けっていした[10]

2010ねんには『ゴーストライター』でだい60かいベルリン国際こくさい映画えいがさい監督かんとくしょう受賞じゅしょう。2019ねんの『オフィサー・アンド・スパイ』ではだい76かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい審査しんさいん大賞たいしょう受賞じゅしょうし、世界せかいさんだい映画えいがさい主要しゅよう部門ぶもん制覇せいはした。

2018ねん5がつ前述ぜんじゅつ性的せいてき行為こうい理由りゆうとしてビル・コズビーとともに映画えいが芸術げいじゅつ科学かがくアカデミーから除名じょめいされた[11]

その

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おも作品さくひん

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監督かんとく

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出演しゅつえん

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受賞じゅしょうれき

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しょう とし 部門ぶもん 作品さくひん 結果けっか
ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい 1962ねん 国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう みずなかのナイフ 受賞じゅしょう
1993ねん 栄誉えいよきん獅子しししょう - 受賞じゅしょう
2019ねん 審査しんさいん大賞たいしょう オフィサー・アンド・スパイ 受賞じゅしょう
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう 受賞じゅしょう
アカデミーしょう 1963ねん 外国がいこく映画えいがしょう みずなかのナイフ』 ノミネート
1968ねん 脚色きゃくしょくしょう ローズマリーのあかちゃん ノミネート
1974ねん 作品さくひんしょう チャイナタウン ノミネート
監督かんとくしょう ノミネート
1980ねん 作品さくひんしょう テス ノミネート
監督かんとくしょう ノミネート
2002ねん 作品さくひんしょう 戦場せんじょうのピアニスト ノミネート
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
英国えいこくアカデミーしょう 1962ねん 総合そうごう作品さくひんしょう みずなかのナイフ』 ノミネート
1974ねん 作品さくひんしょう 『チャイナタウン』 ノミネート
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
2002ねん 作品さくひんしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
ベルリン国際こくさい映画えいがさい 1965ねん 審査しんさいん特別とくべつしょう 反撥はんぱつ 受賞じゅしょう
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう 受賞じゅしょう
1966ねん きむくましょう 袋小路ふくろこうじ 受賞じゅしょう
2010ねん 監督かんとくしょう ゴーストライター 受賞じゅしょう
ゴールデングローブしょう 1968ねん 脚本きゃくほんしょう 『ローズマリーのあかちゃん』 ノミネート
1974ねん 作品さくひんしょう (ドラマ部門ぶもん) 『チャイナタウン』 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
1980ねん 監督かんとくしょう 『テス』 ノミネート
外国がいこく映画えいがしょう 受賞じゅしょう
2002ねん 作品さくひんしょう (ドラマ部門ぶもん) 戦場せんじょうのピアニスト』 ノミネート
全米ぜんべい監督かんとく協会きょうかいしょう 1968ねん 長編ちょうへん映画えいが監督かんとくしょう 『ローズマリーのあかちゃん』 ノミネート
1974ねん 長編ちょうへん映画えいが監督かんとくしょう 『チャイナタウン』 ノミネート
2002ねん 長編ちょうへん映画えいが監督かんとくしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 ノミネート
フランス映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1969ねん 外国がいこく映画えいがしょう 『ローズマリーのあかちゃん』 受賞じゅしょう
ダヴィッド・ディ・ドナテッロしょう 1969ねん 外国がいこく監督かんとくしょう 『ローズマリーのあかちゃん』 受賞じゅしょう
2003ねん 外国がいこく映画えいがしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
ナショナル・ボード・オブ・レビューしょう 1971ねん 作品さくひんしょう マクベス 受賞じゅしょう
ボディルしょう 1975ねん アメリカ映画えいがしょう 『チャイナタウン』 受賞じゅしょう
ニューヨーク映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1965ねん 監督かんとくしょう 反撥はんぱつ 次点じてん
1980ねん 外国がいこく映画えいがしょう 『テス』 次点じてん
ロサンゼルス映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1980ねん 監督かんとくしょう 『テス』 受賞じゅしょう
ボストン映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 1980ねん 監督かんとくしょう 『テス』 受賞じゅしょう
2002ねん 作品さくひんしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
セザールしょう 1980ねん 作品さくひんしょう 『テス』 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
2003ねん 作品さくひんしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
2011ねん 作品さくひんしょう 『ゴーストライター』 ノミネート
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
脚色きゃくしょくしょう 受賞じゅしょう
2012ねん 脚色きゃくしょくしょう おとなのけんか 受賞じゅしょう
2014ねん 作品さくひんしょう 毛皮けがわのヴィーナス ノミネート
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
脚色きゃくしょくしょう ノミネート
2020ねん 作品さくひんしょう J'accuse ノミネート
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
脚色きゃくしょくしょう 受賞じゅしょう
ヨーロッパ映画えいがしょう 1999ねん 世界せかいてき貢献こうけんしょう ナインスゲート 受賞じゅしょう
2002ねん 作品さくひんしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 ノミネート
監督かんとくしょう ノミネート
2006ねん 生涯しょうがい貢献こうけんしょう - 受賞じゅしょう
2010ねん 作品さくひんしょう 『ゴーストライター』 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
脚本きゃくほんしょう 受賞じゅしょう
2012ねん 脚本きゃくほんしょう 『おとなのけんか』 ノミネート
2019ねん 作品さくひんしょう オフィサー・アンド・スパイ ノミネート
監督かんとくしょう ノミネート
脚本きゃくほんしょう ノミネート
ストックホルム国際こくさい映画えいがさい 1999ねん 生涯しょうがい功労賞こうろうしょう - 受賞じゅしょう
ルネ・クレールしょう 1999ねん - - 受賞じゅしょう
全米ぜんべい映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 2002ねん 作品さくひんしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
2010ねん 監督かんとくしょう 『ゴーストライター』 3
脚本きゃくほんしょう 3
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい 2002ねん パルム・ドール 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
サンフランシスコ映画えいが批評ひひょう協会きょうかいしょう 2002ねん 作品さくひんしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
フォトグラマス・デ・プラータ 2002ねん 外国がいこく映画えいがしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
ゴヤしょう 2002ねん ヨーロッパ映画えいがしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
ナストロ・ダルジェントしょう 2003ねん 外国がいこく監督かんとくしょう 戦場せんじょうのピアニスト』 受賞じゅしょう
キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン 2003ねん 外国がいこく映画えいがベスト・テン 戦場せんじょうのピアニスト』 1
2011ねん 外国がいこく映画えいがベスト・テン 『ゴーストライター』 1
リュミエールしょう 2011ねん 作品さくひんしょう 『ゴーストライター』 ノミネート
監督かんとくしょう 受賞じゅしょう
脚本きゃくほんしょう 受賞じゅしょう
2014ねん 脚本きゃくほんしょう 毛皮けがわのヴィーナス』 受賞じゅしょう
2020ねん 作品さくひんしょう オフィサー・アンド・スパイ ノミネート
監督かんとくしょう ノミネート
脚色きゃくしょくしょう ノミネート

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ The Guardian profile: Roman Polanski | The Guardian | Guardian Unlimited
  2. ^ The religion of director Roman Polanski
  3. ^ Roman Polanski | UXL Newsmakers | Find Articles at BNET.com
  4. ^ Crisis Magazine
  5. ^ Polanski, Roman (1984). Roman by Polanski. William Morrow & Co.. ISBN 978-0688026219 
  6. ^ Leaming, Barbera Polanski, A Biography: The Filmmaker as Voyeur, New York: Simon and Schuster (1981), p. 155.
  7. ^ Roman Polanski: Wanted and Desired (directed by Marina Zenovich), HBO in 2008.
  8. ^ Roman Polanski accused of sexually assaulting 10-year-old girl in 1975”. ガーディアン (2017ねん10がつ23にち). 2020ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  9. ^ Polanski arrested in connection with sex charge”. 2009ねん9がつ27にち閲覧えつらん
  10. ^ “ポランスキー監督かんとく釈放しゃくほうべいへの移送いそうをスイス拒否きょひ (日本語にほんご). 読売新聞よみうりしんぶん. (2010ねん7がつ13にち). https://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100713-OYT1T00011.htm 2010ねん7がつ13にち閲覧えつらん 
  11. ^ べいアカデミー、コズビーとポランスキー除名じょめい 過去かこ性的せいてき暴行ぼうこうで” (英語えいご). BBCニュース. (2018ねん5がつ4にち). https://www.bbc.com/japanese/44000361 2018ねん6がつ10日とおか閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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